2016/11/13

国家神道とは何か

国家神道とは何か



国家神道とは何か

 国家神道という言葉が、内容もよくわからないままに使用され、さらにそれが常識として通用している、というように感じます。
 「明治維新から第二次大戦敗戦までの八十年間、日本の国家、政府は神道を宗教として国民に強制した」というのが現在の世間のおおよその認識であろうと思います。しかし、実はその定義は事実とはかけ離れています。実際に政府が神道において導入したのは「神社非宗教論」だったからです。
 神社が非宗教、と言われると不思議に思われることでしょう。神社って宗教施設だし、そこで行われていることは宗教行為ではないのか、と思うのが自然かもしれません。また、注意しなければならないのは、神道非宗教論ではなく、あくまでも神社ということです。さらに、そもそも宗教という言葉は何を意味するのかということも考えなければなりません。これらの疑問はその当時も問題になり、第二次大戦敗戦まで続きました。
 ともかく、神社非宗教化が行われた歴史を見ていきます。

 明治維新

 明治時代以前は神仏習合といいながら、圧倒的に力を持っていたのは仏教寺院でした。江戸時代は徳川幕府が民衆支配のために寺請制度(檀家制度)を導入したため、明らかな仏主神従状態になっていました。神職が特に不満を抱いたのが、葬儀も仏式で行わなければならなかったことです。江戸時代の間、神葬祭を行えるように神職たちは運動しますが、神職本人とその嗣子のみがなんとか許されるようにはなりました。しかし、神職の家族は仏式で行わなければなりませんでした。

 さて、明治維新が起こった原因について、学校の教科書を読むと「黒船がやってきて、開国したら物価が上がって、民衆の暮らしが悪くなり一揆が起きて、行き詰まって徳川幕府が政権を朝廷に渡した」みたいなことが書いてあります。典型的な戦後左翼史観による説明です。それも一因ではあるでしょうが、それだけなら幕府の改革で済んだでしょう。
 朝廷に政権を返すまでに至ったのは「尊皇思想」の高まりという要因が非常に大きかったのです。徳川幕府は初期に社会の秩序の為に儒教を導入しますが、結果的に将軍ではなく天皇が治めるのが正統であるという正統論が生まれ、世の中に広がります。そして、幕末のころには、日本全国でその尊皇思想が当たり前のようにまでなってきたのです。

 維新のスローガンは「神武創業の頃に戻る」。復古的な施策の一つとして、慶応四年に神祇官が設置され、明治二年には太政官の外に特立します。二官八省、まさに律令時代の復活です。また、明治元年のいわゆる神仏分離によって、神社と寺院とが完全に分けられます。明治二年宣教使を設置、大教宣布の詔を発して、国民教化運動が始まります。キリスト教対策と大衆を国民としていかにまとめていくか、ということを目的としました。なお、新政府は最初はキリスト教を禁止しようとしますが、欧米列強の抗議を受け、認めざるを得ませんでした。ですので、この頃は基本信教自由ですが、その上で神道国教化を目指していたと言えるでしょう。明治四年には神社は国家の宗祠であるとして、社格制度が定められ、神官の世襲が廃止になります。

 神道国教化に失敗

 しかし、復古的な政策はなかなかうまくいきませんでした。神祇官は力もなく、活躍もできず明治四年に神祇省に格下げとなり、太政官の下に属することになりました。大教宣布もうまくいきませんでした。そもそもその当時の日本には説教をするという伝統が話す方にも聞く方にもありませんでした。仕方なく話す職業である講談師や落語家がかり出されたそうです。神社だけではうまくいかないということになり、翌年には神祇省は廃止され、教部省が設けられ、神職も僧侶も教導職に就き、神仏合同で国民教化運動を行うということになりました。神武創業の頃に戻る、神道を国家国民の宗教にしていこうという、神職、神道家の理想はどんどん後退していきます。

 教部省の下での大教宣布運動は神仏合同で行われましたが、実態は神主仏従であり、これに大きな不満を持ったのが浄土真宗でした。ここで、特定の一派の名を出すのは不思議に思われたかもしれません。浄土真宗は現在も日本で最大の仏教宗派ですが、この時もかなりの力を持っていました。長州は真宗地帯であり、さらに明治維新の際に藩に協力したこともあって、長州藩出身の政治家に対しての強いコネクションを持っていました。もう一つ重要なのは、浄土真宗は阿弥陀如来だけをひたすら信仰するという一神教的な要素を持ち、「神祇不拝」といって他の神仏を拝むことを非常に嫌いました。

 大教宣布運動の中心として芝の増上寺に大教院が設置されますが、ここに造化三神と天照大御神がお祀りされ、僧侶も拝礼することになりました。また、教える内容も神道のものが多く、このような神道主体の運動に我慢がならなかった浄土真宗は、長州閥の政治家も巻き込んで脱退の活動を始め、明治八年に離脱に成功します。この結果、明治十年に教部省は廃止となり、大教宣布運動は失敗に終わりました。神道国教化の夢は実質的にここで終わったといえるでしょう。

 教部省廃止によって、神社については、内務省社寺局の管轄下となります。太政官と並立する神祇官から太政官下の一省の一部局へと相当の転落です。大教院も解散となり、その代わりに神道側は神道事務局を設けます。その祭神に造化三神と天照大御神だけでなく、大国主大神もお祀りするべきである、と出雲大社宮司の千家尊福が主張しましたが、当時伊勢神宮の宮司であった田中頼庸が拒否したことから、いわゆる祭神論争が勃発しました。伊勢派出雲派と呼ばれ神道界を二分する論争となり、最終的には政治家に頼んで勅裁を仰ぎます。もちろん皆自分の信仰に基づいての真剣な主張だったわけですが、外部から見ると神道界内部の揉め事とみなされたのは仕方ないことでした。

 神社非宗教化へ

  さて、その宗教家達の活動とは別に、実際に国家の首脳である政治家とその配下の官僚達の関心は、いかに欧米列強に追いつくか、ということでした。そのために急いで欧米の制度、文化、思想の導入を図ります。宗教制度についても欧米諸国に習います。のちに憲法を作った伊藤博文や開明派官僚は、欧州のようなキリスト教国教制よりアメリカ流の政教分離の方がよいと思い始めます。

 このような宗教界の流れと政治界の流れが合わさって、明治十五年に神社は非宗教ということになり、祭祀のみ行うということになりました。神職も教導職との兼任が禁止され、宗教活動ができなくなりました。宗教としての神道は宗派として各自が行うということになります。これを教派神道といい、神宮教、大社教、扶桑教、御嶽教など神道十三派が公認されました。

 国民統合のために全国民を神社に参拝させるためには、浄土真宗門徒やキリスト教徒の参拝できるように、あくまでも宗教ではない、という立場を取らなければならなかったのです。
 そもそも神道は宗教なのか、という議論は当時からありました。宗教という言葉が英語のレリジョンを訳した時に使われるようになったもの、というのも話をややこしくしています。浄土真宗が主張したのは、皇室の祭祀が神道であるのはよいが、神道にはろくに教えもないし、宗教とはいえないものではないか、ということです。これは神道を軽く見た意見といえますが、反対に神道家の中にも非宗教と考えた人もいました。こちらは日本が古代から続けてきた神道は、他の宗教と言われるものと同じように考えてはいけない、という意見で、神道は特別だという考え方です。
 この神社非宗教化に神職達は反発します。特に葬儀もできないとされたことには激しい抗議をしたため、民社の神職は当分の間葬儀もしてよいということになります。妥協の産物です。

 その後の神社行政

 神社は国家の宗祠といいながら、明治政府は財政難のため元々神社にあまりお金を出していませんでした。明治四年の社格制度で全国の神社のうち、百いくつかの有力な神社を官社(官幣社、国幣社)とし、その他を民社(府県社、郷社、村社、無格社)に分けますが、官社には多少のお金を出しますが、明治六年以降は民社にはお金は出しませんでした。 神社非宗教化になってからも、政府は神社への支出をなんとか減らそうと画策します。

 また神社の役所の管轄は内務省社寺局のままでした。非宗教であるはずの神社と宗教である仏教やその他宗派と一緒の部門が扱っていたのです。
 これらのことを見ると、明治中期以降、政府は神社、神道に対してほとんど熱心でなかった、ということがわかります。
 神職達は国家の宗祠というなら、それなりの待遇をするべきではないかと要求を始めます。ここで、神道の味方が現れました。議会です。衆議院では神社の待遇を改善する法案がいくつも可決されます。そういう声の高まりによって、明治三十三年に社寺局から分離して神社局が設置されます。お金についても官社への金額が増加し、府県社や村社にもお祭りの際に自治体が幣帛料を出してもよい(出すと義務づけたわけではない)ということになりました。

 しかし、明治政府は財政難です。ここで起こったのが神社整理(神社合祀)でした。府県社以下の神社でも幣帛料を納める神社はそれに相応する内容を持つ神社のみでした。そのような神社を作るべく、村社や無格社を廃して地区の大きな神社に統合しようとしました。神社局官僚によって行われた、この施策により、全国で二十万社あった神社が大正三年には十二万社まで減少しました。
 神社整理は各府県によって対応が違い、熱心に行った三重県や和歌山県では減少率が80%以上でしたが、不熱心な府県では10%程度しか減っていないという所もありました。国会議員や学者などからの強い反発もあり、神社整理はそのうち行われなくなりました。
 その後もずっと神道界は国家の宗祠というのならふさわしい待遇をということで運動を続けます。神祇官を復活させるべきだと運動しますが、それがやっと前進して内務省の外に神祇院が設置されたのはやっと昭和十五年のことでした。

 神社は非宗教ということは定まったわけですが、その後も宗教なのか宗教でなのか、という話がずっと問題となります。
 浄土真宗やキリスト教は非宗教といいながら神社が祈祷を行ったり、お守りを授付するのは宗教行為ではないかとことあるごとに政府を突き上げます。内務省神社局管轄の非宗教である神社は、ある種「役人神道」というようなものでした。官僚達は他からの批判ものらりくらりかわしますが、国民を指導したり積極的な活動をしようという意志もありませんでした。

 第一次大戦終了と昭和四年の世界大恐慌で世界的に国家主義が台頭します。日本でも不況と東北大飢饉などの影響で国民の間に不安感が強まり、また議会政治に対する不満が強くなります。そして満州事変が始まり、軍部が政治を握り、大東亜戦争へと繋がっていくわけですが、日本での国家主義の台頭については政府が煽ったと言うより、在野の右翼団体、思想家が大衆の間に支持を受けるようになってきたというのが大きいでしょう。この頃になると、仏教教団もキリスト教団も国家主義となってきていました。
 そして、昭和十年あたりから、国家政府による国民管理が強くなってきました。ただ、その時でもあくまでも非宗教という建前があり、神社が熱心に動いたと言うことはありませんでした。超国家主義的なことを言い出したのは政府が押しつけたわけではなく、民間からわき上がって支持が広がったものでした。

 昭和二十年敗戦となります。進駐軍は神道についてよくわかっていませんでした。日本人自身もわかっていなかったところもあるくらいなので、当然かもしれません。神道指令というものが出て、結局神社は国家管理を離れます。そして、神社は宗教法人として運営されることになりました。
 日本は敗戦しました。占領軍の主体であったアメリカは、日本の国情や神道のことがよくわかっておらず、キリスト教と同じようなかっちりした教義、組織があって活動し、しかも国民を動かすような影響力があったと勘違いしていたようです。そこで神道指令を出して、国家と神道の分離を図り、神社の国家管理が廃止されます。のちにどうも違うと気がついて、条件は緩和されました。また、この神道指令において、初めて国家神道という言葉が今の意味で使われるようになりました。実は戦前には国家神道という言葉はほとんど使われてなかったのです。
 神社の大半は戦後の宗教法人法によって宗教法人となりました。さらにその多くは新たに結成された宗教法人神社本庁の傘下となっています。

 国家神道の定義

  このような歴史を追っていくと、とても「国家が神道という宗教を国民に強制した」とはいえない、ということがわかると思います。
 ただ、ここで反論があるかもしれません。「神社がどうなのかという狭義の話ではなく、天皇崇拝、教育勅語、靖国神社や海外の神社、宗教弾圧なども含めた広い範囲のものが国家神道として問題視されているのである」と主張する人もいるでしょう。

 日本の近現代インテリに共通するものとして、宗教に対する関心のなさがあるように思います。自分がいわゆる無宗教なのは自由なのですが、他の宗教に対しての理解が薄いのではないでしょうか。教育勅語というのを読んではっきりと思うことは、これは神道ではないということです。天神地祇に誓う、とか神を敬えとか神社に参拝しろとか一切出てきません。もちろん仏教でもキリスト教でもありません。強いて言えば儒教でしょうか。教育勅語というのは道徳の話であって、日本は道徳において儒教の言葉を用いてきましたから当然かもしれません。明治天皇の信任が厚かった儒学者の元田永孚が元を作り、伊藤博文の懐刀であった井上毅が宗教色を徹底的に除いています。勅令ではなくて、勅語となっています。中身を見れば、これがなぜ神道と結びつけられているのか不思議です。天皇だからでしょうか。天皇→神道→国家神道という発想なのかと推測するしかありません。
 なお、明治~昭和初期の天皇崇敬については、ずっと神道非宗教化を主張し続けた浄土真宗やキリスト教でさえも変わりありませんでした。浄土真宗は大谷家という貴種を戴き、東西本願寺の門主(門首)は伯爵をもらい、また運動して、親鸞に対して見真大師の号を明治天皇から戴いているくらいです。欧州のキリスト教国を見れば王や皇帝がたくさんいました。この二宗派が嫌らったのはとにかく他の神を拝まされる、ということでした。よって、この頃天皇崇敬というのは全宗派当たり前のことでした。当時の日本を国家神道と呼ぶなら、国家仏教でもあり国家キリスト教でもあったと言わなければ片手落ちといえるでしょう。

 靖国神社については別で語るほどの内容であるので一つだけ申しますと、神社を管轄する組織は主に内務省でしたが、靖国神社は創建以来陸海軍省の管轄でした。また、海外の神社については、朝鮮の神社は朝鮮総督府が、台湾の神社は台湾総督府が管轄しました。また、教育については文部省が担当です。今もそうですが、役所の管轄が違えばなかなか統一して効果的な行動が出来ません。神社についてももちろん、各部署が自分たちのやり方、都合でやっていましたので、統一してイデオロギーを吹き込むなどということはできませんでした。

 宗教弾圧について、弾圧した理由を見ていくと、一つには天皇不敬ということがありますが、主因は急に大きくなりすぎて目をつけられた、ということにあります。さらにあまり触れられていない事実として、明治政府は基本啓蒙主義であり、非科学的なことやオカルトを嫌いました。この頃急に大きく大きくなる宗教団体のほとんどすべては、霊能者、霊媒、まじない、占いなどオカルト的要素がありました。これがないと人が集まりません。高僧が入った風呂の水に御利益があると取り合うように持ち帰った、というようなことが珍しくない時代でしたし、医療も不十分で、病気になれば拝み屋さんに頼むしかないという時代でしたから自然なことかもしれません。ただ、明治政府やその官僚には科学的合理主義の思想が強く、オカルト性が強い宗教は、神道的な団体も含めて激しく弾圧されたのです。

 戦時統制の時代

 しかしながら、後世言われてるような、非常にうるさい時代は存在しました。皇學館大學の新田均教授が『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP)の中で興味深いことを書かれています。明治末期から昭和初期の修身や歴史の教科書を見ると、「現御神(あきつみかみ)」(現人神よりもこちらがよく使用された)や「八紘一宇」という言葉が現れたのは昭和十四年以降のことである、ということです。天皇観も明治末は天照大御神の子孫であるという神孫論と君臣論だったのが、大正末にはそこに天皇は親で国民は子であるというような家族論が入り、昭和十四年以降になって、天皇は神であるという表現に変わってきた、ということです。
 神社参拝の強制についても、明治にはなく、大正末になって小学校の神社参拝についての問題が現れ(名目はあくまでも教育の一環)、昭和七年に上智大学生が靖国神社の参拝を拒否したという事件があり、昭和十年代には参拝拒否は事実上の不可能になっていった、ということです。

 天皇、神社に極度にうるさい時代を経験された人にはよろしくない印象が残ったと言うこともあるでしょう。戦争が始まる頃には、神国思想は行き過ぎて、神懸かり的なものにまでなってしまいました。合理的な思考を貫くべきである軍人の中にも「日本は神国だから負けることはあり得ない」と考えていた人が結構いたようです。
 戦時統制については、政教分離のアメリカでも、ハワイの神社を強引に接収したりしています。

 ここまで長々と見ていきました。重要なことは明治維新から昭和二十年まで約八十年間国家の宗教政策もいろいろ変化していて、その間を貫いた国家神道イデオロギーなどというものは存在しなかった、ということです。
 昭和十年代も国家神道イデオロギーがあってあの状態が生まれたわけではなく、戦時体制による国民統制の結果、ということではないでしょうか。さらにいうなら、議会が出来てから戦時体制で自由が無くなっていく間は、民主主義であり、国民の意識が反映していたということです。戦前右翼というのも神道とは限りません。

■国家神道についての本

 国家神道とは何かを学ぶべく、右から左までいろんな本を読んでみました。
 村上重良氏の『国家神道』(岩波新書)がこの問題の基本的な本になっています。「明治維新から敗戦までの八十年間を日本を国家神道が支配した」と書かれていますが、この本が現在の国家神道イメージを作り出したことがわかります。単純な戦後左翼イデオロギーで戦前日本を断罪する本ですから、内容はわかりやすいとは言えます。(危険なわかりやすさですが。)
 葦津珍彦著阪本是丸註『国家神道とは何だったのか』(神社新報社)は左翼の主張に対する神道側の反論の書です。一方的に悪者と断罪された、神社側の叫びを感じます。『「現人神」「国家神道」という幻想』と共に、非常に興味深い内容です。国家神道と合わせて読んでみるといいかもしれません。

 もう少し俯瞰した立場からの本としては島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書)というのがあります。学者の書く本なので少しわかりにくいところもあります。
 しかし多数の本を読んで思うのは「国家神道」という言葉の定義、先入観が強すぎるとだめだ、ということです。実態を理解するには、まずこの言葉は忘れて、宗教を中心に明治から昭和への国全体の流れを見ていく必要があるように思います。
(平成26年11月改稿しました)
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<このページの筆者>
 中島隆広 : 出雲大社紫野教会、教会長
昭和46年京都府生まれ。名古屋大学経済学部卒業、会社員の後、パソコン部品のインターネット通販の会社を起業して経営する。会社売却の後、國學院大學神道學専攻科に入学し、神主となる。
・ツイッター@nkjm_tkhr