2016/11/04

宗教の内面性・主体性から社会性へ:赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(2013)#1 - f**t note

宗教の内面性・主体性から社会性へ:赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(2013)#1 - f**t note



2014/01/06

宗教の内面性・主体性から社会性へ:赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(2013)#1



読書, k_キリスト教史, k_日本史





 無教会キリスト教に注目して近代宗教について捉え返そうとした、赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』を読みました。まずは「はじめに」、「序章 無教会キリスト教とは何か」、「終章 「紙上の教会」の日本近代」を中心に、全体を簡単に要約した読書メモを。なお、第一・二・三章については、別途まとめてあります。



赤江達也『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』岩波書店、2013年。





 しばしば「日本的キリスト教」と称される無教会キリスト教。内村鑑三にはじまり、矢内原忠雄、南原繁などが信仰したこの無教会思想・運動は、個人主義的・実存主義的な志向をもち、教会の制度的な権威を相対化することを目指していたと捉えられてきた。その思想は、内村などの先生が弟子たちに対して聖書講義をおこなう集会において養われ、同時に、先生が発刊した雑誌を通じて人々に広げられた。このとき、無教会に関する先行研究では、無教会運動の中心的な社会基盤は集会であり、雑誌はあくまで副次的なものであると評価されている。

 そのため、これまでは先生の思想と集会ばかりが注目され、雑誌メディアが検討されることはほとんどなかった。このことは、19世紀末に端を発する宗教観、すなわち、宗教を個人の主体性や普遍的超越性から捉える見方が支配的であったことに由来している。このプロテスタント中心主義的、信仰中心主義的な見方は、日本近代宗教史でもしばしば採用される宗教観でもある。そのため、このような視点にたった先行研究は、主体レベルに着目して宗教を捉えることに終始し、その社会的な次元への着目をおそろかにしてきてしまったのである。これまでの無教会研究が内村の主体性・内面性ばかりに注目してきたことも、このような宗教観に関連している。すなわち、先生の思想を分析することに価値を置く見方においては、必然的に先生と弟子との直接的な交流がおこなわれる集会へと注目することにつながり、間接的な接触に過ぎない雑誌は軽視されることになるのである。

 そこで本書は、雑誌メディアに着目して無教会運動を捉え返すことを試み、それによりこれまでとは違った無教会像を提示しようとする。宗教学では、無教会のように活字メディアを駆使して、宗教=知識として人々に広めようとするタイプの宗教は「知識(人)宗教」と呼ばれ、一定程度の関心を集めてきた。しかし著者は、その概念が知識人という上からの視点を強調し過ぎていることを問題視する。たとえば無教会研究では、内村鑑三や矢内原忠雄といった強い個性とそれに従う弟子という構図のもと、先生の研究ばかりが進められている。それに対し著者は、「読者宗教」という新たな概念を提起することで、その共同体を構成していた数多くの読者の存在へと注目を喚起する。そして、その読者の存在こそが無教会の本質的な部分であったと主張するのである。というのも、無教会運動では師弟関係の小さな集会が多く存在していたことから、先生中心主義的になりやすかった。そのため、それは権力の硬直化という、無教会が最も忌避するものにつながる恐れがあった。しかし、雑誌すなわち「紙上の教会」では、信徒=読者は一人が複数の先生をもつことができ、先生の権威をつねに相対化することができる。そして、こういった読者共同体こそが、当時の無教会運動に厚みをもたせていたものなのである。事実、かつて内村が自らの事業の後継者について語ったとき、その人物は身近で彼の薫陶を受けたような者からではなく、内村から時間的にも空間的にも隔たった見知らぬ者、すなわち雑誌・書物メディアの読者からあらわれるだろうと述べていた。

 さて、本書は無教会の歴史社会学的分析であるため、その主題は宗教であることに間違いないが、同時に政治、学問、思想といったトピックにも触れている。たとえば著者は、無教会運動に注目することで、啓蒙思想とキリスト教の関係をめぐる新たな主題への着目を喚起している。大正期の教養主義は内村というキリスト者によって先導され、その時代に学んだキリスト教知識人たちが戦後改革の際に世間から大きな期待を背負うことになった。とくに戦後に活躍したキリスト教者は第二世代の無教会主義者であったが、彼らは内村から継承したキリスト教ナショナリズムを前面に打ち出した主張をおこなっている。こういった人物は、戦時下でも信仰を守り、戦争に反対したと捉えられがちである。しかし、本書の議論で明らかになるのは、彼らの全体主義・民族主義への傾斜および天皇への思慕である。第二章では矢内原の思想のなかに全体主義への志向が確認され、第三章では矢内原や南原の目指した「精神革命」において天皇の役割に対する大きな期待が示されるのであった。

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教会・大学の外部としての雑誌と「紙上の教会」:赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(2013)#2Add Star



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赤江達也『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』岩波書店、2013年、35–119頁。

「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学

「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学

作者: 赤江達也

出版社/メーカー: 岩波書店

発売日: 2013/06/27

メディア: 単行本

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 「第一章 無教会の出現」では、1890年代から1900年代に焦点を合わせ、内村鑑三(1861–1930)が構想した「無教会」の初期の思想・運動が検討される。内村は渡米しているときからも、制度としての教会に懐疑的な考えをもっていたが、1891(明治24)年の不敬事件を機にその批判的な態度を顕在化させる。この事件は、第一高等中学校の入学式で、明治天皇の教育勅語に対する礼拝を内村が拒否したために、過激な愛国主義をもつ生徒たちから激しく非難され、のちに同じキリスト教徒からも批判されたというものである。先行研究では、内村の礼拝拒否は彼の強いキリスト教信仰に基づくものであるとされてきた。しかしながら、キリスト教者の中でも、天皇にまつわるものへの敬礼はキリスト教精神に反しないとする考えもあり、内村もそう考えていた。さらに言えば、内村は自らが愛国的キリスト教者であると認めていた。そういった側面に注目することで著者は、内村自身の言葉にもとづき、彼がとった行動は礼拝の拒否というよりためらいであったと指摘する。つまり、内村は教育勅語へのお辞儀が礼拝なのか敬礼なのかをすぐには判断できず、曖昧な態度をとったに過ぎないのである。しかしながら、愛国的な生徒だけでなく、キリスト教者からも批判を浴びた内村は、愛国的キリスト教者であることの難しさを悟るのであった。事件の二年後に井上哲治郎へ宛てた書簡において内村は、愛国主義とキリスト教が両立しうるという議論を展開するが、結局まわりからは理解されることがなかった。そういった状況のなかで、内村は同年に出版された著書『基督信徒の慰』において、はじめて「無教会」という言葉を用いたのであった。

 それでは、内村は「無教会」としてどのようなものを想定したのであろうか。その言葉を最初に用いたとき、内村は組織と建築からなる教会に代わるものとして、大自然からなる「宇宙の教会」という概念を提示した。その後、1901(明治34)年に『無教会』という雑誌を創刊したときには、無教会概念の再定義をおこなっている。まず「宇宙の教会」を無教会信者の教会として捉え直し、次に読者たちの投稿によって構成されるその雑誌を「紙上の教会」として定義したのである。内村はここにおいて、学校や教会の外部におけるキリスト教信仰を推し進めようとしたのである。その構想を打ち立てる前に、内村は新聞記者の論説委員や女学校の校長をつとめたり、日曜学校や生活改良運動といったキリスト教的運動へのコミットをおこなっていた。しかし、学校や教会などの組織が主導するキリスト教信仰ではなく、「紙上の教会」の読者共同体を主体とする新たなキリスト教信仰のあり方を提示したのであった。

 内村が提案したこの無教会思想・運動は、しばしば「日本的キリスト教」であると捉えられてきた。しかし、無教会は国内だけでなく中国・アメリカ・メキシコにも波及しているし、その雑誌が英語で出版されるなど、そのネットワークは国際的な広がりをもっていた。植民地の台湾・朝鮮でも「紙上の教会」建設が進められており、たとえば朝鮮では1927(昭和2年)年に『聖書朝鮮』が創刊されている。その創始者である金教臣(1901–1945)は、日本で内村の聖書講義に参加していたが、帰朝後は内村の思想を批判的に継承する。内村が紙上の教会の読者として「神が選び給ひし国民」である「見えざる公衆」を想定し、キリスト教ナショナリズムを唱えたことに多くを学びながら、金はそれの朝鮮バージョンすなわち「純粋な朝鮮産キリスト教」を生み出そうとしたのである。このように、無教会主義においてはナショナリズムはその中心にあった。そのため、1930年代以降は日本と朝鮮との間での対立が顕在化していくことになる。

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無教会第二世代とキリスト教ナショナリズム:赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(2013)#3Add Star



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赤江達也『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』岩波書店、2013年、121–209頁。

「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学

「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学

作者: 赤江達也

出版社/メーカー: 岩波書店

発売日: 2013/06/27

メディア: 単行本

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 「第二章 無教会の戦争」では、1910年前後から敗戦までの時期に着目し、内村の構想した無教会が人々にどのように受け止められ、発展させられていくかが検討される。その際、無教会第二世代の人々による取り組みが注目されるが、彼らが内村から継承したのは「紙上の教会」という思想よりも、キリスト教ナショナリズムであったことが指摘される。

 内村不敬事件が起きた頃の一高は、熱烈なナショナリズムをもって内村の態度を批判した。しかし明治末から大正期に入ると、当時の「エリート文化としての教養主義」が、一高を無教会運動へと急速に接近させることになる。つまり、一高や帝大が独自の神学校などをもっていなかった無教会運動への人材供給を担うようになり、逆に無教会運動がアカデミズムにも影響を与えるようになったのである。その後、そういった教養主義文化をさらに拡大させるのを手伝ったのが、1913(大正2)年に創立した岩波書店である。その創始者・岩波茂雄(1881–1946)は内村の門下生であったが、無教会主義が既成教団から宗教を解放しようとすることに共鳴し、自らの出版事業をいわば「紙上の大学」として位置づけ、学芸を特権階級の独占から奪い返そうとしたのであった。

 このようにして広がっていった無教会運動であったが、内村の晩節にさしかかると、第二世代の無教会主義者が生まれてくる。内村が60歳となった1921(大正10)年頃には、彼の聖書研究会や雑誌『聖書之研究』の後継問題が話題にあがっていた。その後継者としては、内村の右大臣・左大臣とされた畔上賢造(あぜがみけんぞう;1884–1938)や塚本虎二(1885–1973)が有力視されたが、結局、彼らは内村の集会・雑誌を継ぐことはせず、独立の道を選んだ。1930(昭和5)年に死亡した内村であったが、それまでに多くの無教会第二世代が誕生することになった。彼らもまた、内村と同じように各地で集会を開き、雑誌を創刊することで、無教会運動を展開したのである。

 内村がそうであったように、無教会第二世代もまたその職を辞して運動に没頭したが、矢内原忠雄(1893–1961)のような兼業伝道者もこのときにあらわれている。矢内原は学生時代に内村に学び、いったんは就職したが、1920(大正9)年に帝大に「植民政策学」講師として呼び戻され、1930年前後から無教会キリスト者として積極的に活動するようになった。矢内原と言えば、盧溝橋事件が発生した1937(昭和12)年に戦争を批判したことで大学を追われたことが知られており、しばしばキリスト教精神に基づいて非戦を訴えた人物として描かれてきた。しかし、矢内原の戦争に対する考えを無教会主義思想との関連に着目して捉え返したとき、彼の違った一面がみえてくる。すなわち、矢内原は確かに全体主義を批判していたが、それに対抗して彼が提示したアイディアは「真の全体主義」というまた別の全体主義であったのである。そして、真の全体主義の精神は、教会を脱却した無教会が純化したキリスト教として提供すると考えたのであった。戦時下に入ると、無教会の思想は全体主義とナショナリズムの精神へと交錯するようになる。このときに矢内原が示した日本的キリスト教の思想は、「天皇制国家対キリスト教」というしばしば用いられる単純な構図では捉えることができないだろう。このように、第二世代の無教会主義者たちは内村の「紙上の教会」というアイディアよりもむしろ、そのキリスト教ナショナリズムを継承したのであった。



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赤江達也『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』岩波書店、2013年、211–301頁。

「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学

「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学

作者: 赤江達也

出版社/メーカー: 岩波書店

発売日: 2013/06/27

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 「第三章 無教会の戦後」では、戦後はじまるキリスト教ブームから1970年代までの時期が検討される。戦後の知識人たちは、それぞれが新たな理想を提示していこうとするが、そのときに中心的な役割を果たしたのがキリスト教知識人、とりわけ無教会主義者であった。無教会派の人々は、戦時下で非転向を貫いたという「殉教者効果」(竹内洋)、あるいは大学や教団から相対的に自由であったことなどにより、戦後啓蒙思想の旗手として大きく期待された。しかしより重要であったのは、無教会運動が特定の団体からは自由であるようにみえ、戦後憲法における信仰の自由、および教育基本法における公教育の中立性を、説得的に主張することができたという点であった。

 戦後の無教会運動の代表者である南原繁(1889–1974)や矢内原忠雄は、キリスト教ナショナリズムによる「精神革命」を主張した。たとえば、戦後最初の東大総長となった南原は、新しい日本文化を創造するために、戦中に軍国主義者や国家至上主義者によって濫用されてきた日本民族の神話を、日本神学の枠内から解放し、ヨーロッパ政治思想史へと組み入れようと主張している。このとき、日本にはルネサンスと宗教改革が必要であるとされ、前者は既に天皇の人間宣言によって達成されているが、後者はこれからキリスト教によって精神を内的・宗教的に変化させることが目指されるべきであると主張した。矢内原もまた、戦争の原因を「日本精神」に認めながら、今こそそれを近代主義的・平和主義的に換骨奪胎すべきであえると論じた。その際、民主主義の精神であるキリスト教、なかでも無教会がまずもって受け入れるべきだと主張している。同時に矢内原は、天皇が教会に行かずとも、ただ聖書を読むだけで、天皇のキリスト教化ひいては日本精神のキリスト教化が進むと期待したのであった。ここからもわかるように、しばしば戦後の進歩的な思想家として捉えられる南原および矢内原は、実のところ、進歩派のなかの保守派、オールド・リベラルなのであった。だからこそ、戦後すぐに人々から支持を得ることにつながったのである。

 南原や矢内原は、大正啓蒙期に思想を育んだ無教会第二世代であったが、戦後には内村にも会ったことがないような第三世代があらわれてくる。それにより、無教会運動は新たな展開をなしとげる。一方では、欧米で聖書学を学んだ関根正雄(1912–2000)によって「無教会の神学」が目指された。もともと無教会主義は神学に対し否定的な態度をとることが多かったが、関根は無教会のセクト化に対する危機感から、無教会を神学的に捉えることで、開かれた論争空間を形成しようと試みたのであった。もう一方では、手島郁郎(1910–1973)の「キリストの幕屋」運動における霊性運動が進められた。手島は聖霊の直接的な働きを強調することで、これまでの無教会とは違った方向性を示した。しかし、その活動は1952(昭和27)年に女性信者が神癒の過程で死亡してしまうという「清瀬事件」にまで発展し、無教会主流派との間に大きな軋轢が生まれることになった。このときに問題となったのは、無教会における正統と異端の境界である。矢内原はその幕屋運動を異端であると断罪したが、ある者を異端であると言うときにその者の正統性の主張することは、反制度主義的な無教会の理念と反する恐れがある。そのため無教会の別の者は矢内原のような仕方ではなく、あくまでその判断が教会のものではなく個人的なものであるとして、幕屋運動を無教会から除外するしかなかったのである。

 1960年代前半になると第二世代の伝道者が相次いで引退し、1961(昭和36)年には矢内原が死亡してしまう。このとき、戦後長らく続いてきたキリスト教知識人の時代が幕を閉じることになる。かつて、普遍性を志向する知識人たちが、キリスト教の普遍性にかこつけて、戦後改革を先導してきた。しかしながら、この時代にはキリスト教の普遍主義はもはや世間には共有されなくなってしまっていた。たとえば、1960年代半ばに丸山眞男(1914–1996)と学問上の師である南原が対談したとき、南原が前提とするキリスト教普遍主義を丸山は理解することができなかった。こうして、1957(昭和32)年時点では3~5万人いた信徒数も、1966(昭和41)年には1万5千人と大幅に減少し、1970年代には無教会運動は第三世代によって担われていくことになる。

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