2016/11/13

やしの実通信 『日本型「教養」の運命』筒井清忠著

やしの実通信

『日本型「教養」の運命』筒井清忠著、岩波書店2009年 [2016年08月27日(Sat)]
九鬼周造も和辻哲郎も新渡戸信者であった。
新渡戸は台湾植民運営、国際連盟の創設と言った実務家以外にも教育者として日本社会を形成した面を持っている。
私が新渡戸を植民研究者、アダム・スミス研究者として認識したのも、新渡戸の生徒であった矢内原を通してであった。

筒井清忠著『日本型「教養」の運命』(岩波書店)は、日本が日清、日露戦争に勝利し、アノミー状態にあった日本社会、特に青年、一高のエリート達に個人主義的教養主義を教えたのが新渡戸であったことが議論されている。しかも新渡戸はこの教養主義と修養主義を大衆にも説いた事により、日本社会の一種独特なエリートと大衆の関係ができた。(筒井はフランス社会のエリート集団との比較を書いている)

筒井先生のこの本は大変面白いのだがとても複雑で私の頭ではまとめられない。しかし新渡戸の大衆とエリートを同時に対象とした修養主義は次の文章が一番わかるような気がする。

「彼(新渡戸)には同一の内容を対象に応じて説きわける力があったわけである。明治末期の新渡戸稲造の裡には「修養」の名の下に教養主義(一高生)と修養主義(「山深き寒村の少女」)とが同居していたのであった。」(37頁)

「山深き寒村の少女」は新渡戸稲造の生い立ちを見れば理解できる。
1862年生まれの稲造は盛岡藩の幕臣として敗者の立場となり、幼くして父を失い叔父の家で育てられる。養父の支援が得られず奨学金のある北海道の農学校へ行く。二十歳前に母も亡くし、カーライルの『衣装哲学』に出会い人生が変わったようだ。猛烈に勉強し、東大に行くがその内容に失望し、叔父が残した財産で食べるものも削って米、独と留学している。
新渡戸を育てたのは生まれながらに背負った逆境のような気もする。「山深き寒村の少女、少年」は「稲造」自身でもあったのだ。

同書は次の五章からなる。
第一章 近代日本における教養主義の成立
第二章 学歴エリート文化としての教養主義の展開
第三章 近代日本における「教養」の帰結
第四章 企業経営文化としての「修養」と教養」
第五章 現代日本の教養

新渡戸を取り上げているのは第一章であるが、第四章に九鬼周造、和辻哲郎と共に新渡戸の生徒であった三村起一が取り上げられる。三村は新渡戸に薦められて住友に入社したのだ。そして住友の「経営家族主義」を作りあげたのだそうである。筒井は三村が人生の岐路の要所要所に新渡戸のアドバイスを仰いでおり、新渡戸の修養主義が三村のエートスにあった(161頁)としている。
日本企業の独特な経営哲学にも新渡戸が影響していたのか、と知って驚くばかりである。


しかし、新渡戸校長の一高の生徒の中には軍閥を、共産主義を、翼賛体制を主導した、近衛文麿、後藤隆之助等々もいるのだ。次は新渡戸のこの人材育成を批判した鶴見俊輔の「日本の折衷主義 ー 新渡戸稲造論 ー」をまとめたい。