2016/11/04

インターネット教会-無教会ネットエクレシア信州聖書集会 | 005評伝・矢内原忠雄

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〔1-①〕
矢内原忠雄は、1893(明治26)年1月27日に愛媛県越智郡富田村大字松木(現在の今治市松木)に生まれた。

矢内原家は代々医者を業とし、父謙一は京都で西洋医学を学んだ医師で、近隣のみならず海を渡って他県からも患者が集まったという。
母マツヱは無口で控え目であったが愛情のこまやかな人で、矢内原はこの母を慕った。
熱心な仏教信者の祖母が矢内原〔少年〕を連れてお坊さんの説教を聞きにゆき、また部落で一番貧しい寡婦(かふ)を親友としていたことや、近所の未解放部落の人達に対して暖かい心で交際していたことなどが幼少年時代の矢内原の心に深い印象を残した。

〔1-②〕
父は非常に正義感の強い人であったとともに、教育熱心であったので、矢内原が11歳のとき神戸へ遊学させた。

〔旧制〕神戸一中(いっちゅう、現・神戸高校)生のころすでに、自分の現実の生活が父から教えられた誠実と遠いことを知り、自分の中に悪を喜ぶ性質のあることを発見して苦しむようになった。

〔1-③〕
中学四年のころ、先輩の川西実三(元日赤社長)が〔旧制〕一高(いちこう、現・東京大学教養学部の前身)に入っていて、いろいろ東京の模様を知らせてよこしたので、新渡戸(にとべ)稲造校長や内村鑑三のことを聞き知った。

キリスト教のことも同氏から聞いていたが、直接の知識は持たなかった。
たまたまこのころ夏休みで帰郷したとき、土蔵の書棚に聖書を発見し、第1ページから読み出した。面白いところもあったが、無味乾燥な人名の羅列(られつ)にへきえきして、歴代志略の年代記まで来て投げ出してしまった。

〔1-④〕
少年時代には自分も周囲も当然医師になるものと思っていたが、川西実三の影響で法科に進むことになった。

医師志望をやめたことについて、一つには性質が臆病(おくびょう)なため、解剖をしたり外科の手術をすることがこわかったためだという。
これは後年まで婦人のように優しい矢内原の一面をなした。



〔2-①〕
1910(明治43)年9月(17歳)に一高に無試験〔で〕入学し、南寮10番に入った。

当時の同窓の中には、一年に芥川龍之介、恒藤(つねとう)恭(京都大法学部教授)、倉田百三(ひゃくぞう、劇作家、「出家とその弟子」執筆)、二年に近衛文麿(ふみまろ、政治家、近衛内閣)、三年に江原万里(えばら ばんり、内村門下、東京帝国大学助教授、伝道者)、河合栄治郎(社会思想家、経済学者、自由主義知識人、東京大学教授)、河上丈太郎(関西学院大学教授)、高木八尺(やさか、内村門下、政治学者・アメリカ研究者、東京大学教授)、田中耕太郎(内村門下、のちにカトリック、法哲学者、東京帝国大学法学部長、最高裁判所長官、国際司法裁判所判事)などの名が見え、いかに当時の一高がエリートの集まりであったかをうかがわせる。

二年(18歳)になると英法科生のみで東寮16番に移り、同室者に舞出長(まいで)五郎(のちに東京大学経済学部教授、経済学部長)、石井満(日本出版協会会長、精華学園理事長)、三谷隆信(スイス、フランス大使)らがいた。この人々は、東十六会(ととろうかい)をつくり、晩年まで親交を続けた。

〔2-②〕
一高では、良い友人が得られるという先輩のすすめによって、キリスト教青年会と弁論部に属した。
このころ矢内原は「単純な心」で生きることをよしとしたが、その生活態度について、倉田百三から鋭い批評を受けた。

倉田の論旨は、矢内原の生活態度は伝道的観念に比して内省(ないせい)が足りないとして、常識と感傷を捨てて思索を深めるべきことを主張した。
これに対して矢内原は素直に反省し、倉田に宛てて、自分が倉田のいうほど気楽な人間ではなく、罪に悩む者であることを書き送った。

倉田もこの手紙を喜び、矢内原とそのキリスト教に好意を抱いた。(校友会雑誌に載った倉田の文章は「自然児として生きよ」という題で『愛と認識との出発』の中に収められている。これに対する矢内原の読後感については、〔岩波書店〕『矢内原忠雄全集』第27巻・感想集の「代々木にて」参照。)

〔2-③〕
しかし一高時代に起こった決定的な事件は、1911(明治44)年10月1日(18歳)に内村鑑三の聖書研究集会に入門したことであった。
さらにここで学んだキリスト教が矢内原自身のものとなったのは、翌年3月の母の死と翌々年10月の父の死を契機としてであった。

これよりさき、1912(明治45)年1月(矢内原19歳)に内村鑑三の愛娘ルツ子が〔19歳で〕亡くなり、その告別式にあたって内村が「これはルツ子の告別式ではない〔、天国へ嫁入る〕結婚式である」と言い、さらに埋葬にあたって〔一握の土を掴(つか)んで高く掲(かか)げ、〕腹わたをふりしぼった声で「ルツ子さん万歳(ばんざい)!」と叫ぶのを聞いて、〔矢内原は、雷に打たれたように全身を深く揺すぶられ、〕キリスト教とはいい加減な気持で接することのできない〔一生懸命のものだ、〕大変なものだということを強く感じた。

矢内原は、その年の3月に母を失った。
学期試験を中途にして〔急ぎ〕帰郷したが間に合わず、深い悲しみにとらわれたが、そのとき田舎の一本道を歩いていて、子羊を肩に抱いたイエス様を見、「泣くな我(われ)なり」と言うのを聞いたように思い、慰められた。

翌年(20歳)、父の死のときにはすでに多少の聖書知識を持っていたので、キリストを知らずに死んだ者の来世(らいせ)の運命について思い惑(まど)い、考えあぐねたすえ、内村を訪問したが、意外にも内村から「僕にも分からんよ……しかしこのために君自身の信仰をやめてはいけない。かかる問題は長い信仰生涯を続けていく間に〔、自らの実験により〕自然に分かっていくものだ」といわれ、失望したが同時に「先生にもわからない事がある!」という一大発見をし、「信仰のこと〔、魂の問い〕は、直接神様によって教えられなければならない。また〔信仰を抱きつつ問いを大切にして歩み、〕長くかかって学ばなければならない」ということを深く学んだ(注1)。

信仰に対するこの態度は、矢内原の一生をつらぬく姿勢となった。

〔2-④〕
また一高においては、新渡戸稲造校長の自由主義的な教育精神も強い影響を与えた。

内村鑑三と新渡戸稲造のみでなく、神戸一中の校長鶴崎久米一も、同じく札幌農学校の第2期生であったから、矢内原自からも言っているように、矢内原は札幌農学校の精神的な子供と言い得ないこともない。

とくに実証を重んじた矢内原の学風は、このことを示すものであろう。

〔2-⑤〕
1913(大正2)年9月(20歳)、矢内原は東京帝国大学法科大学に進んだ。大学の4年間についてはとくに記すべきことはないが、一高時代に校長であった新渡戸稲造からは植民政策を学んだ。また吉野作造教授の政治史の講義から思想的影響をうけた。


〔3-①〕
これらの自由主義的教授と内村鑑三との思想的影響によって、大学卒業後は民間で働くことを希望し、最初は朝鮮に行って働きたいと思ったが、両親のない家庭のことを考えて1917(大正6)年(24歳)に住友総本店に入社、別子鉱業所(愛媛県新居浜)に勤務することになった。

ここで3年間働いたが、その間に内村鑑三の聖書集会の先輩黒崎幸吉を中心とする職場キリスト教集会に参加し、同僚の疑問に答え、知人に信仰を証(あか)しするため、ガリ版刷りの「基督(キリスト)者の信仰」を書いた。

これは、矢内原の海外留学中に教友達の発起によって内村の序文を付して1921(大正10)(28歳)に「聖書之研究社」から出版され、矢内原の処女作となった。
                                   
〔3-②〕
1920(大正9)年〔3月、27歳〕に新渡戸が国際連盟事務局次長に内定したため、その後任に招かれ東京帝国大学助教授に任ぜられた。
続いて8月から英独仏米へ留学し、1923(大正12)年(30歳)に帰朝した。

これよりさき、1917(大正6)年5月(24歳)藤井武(たけし)夫人喬子(のぶこ)の妹愛子と結婚し、1918(大正7)年に長男伊作(いさく)、1920(大正9)年に次男光雄が生まれていたが、病床にあった愛子夫人は〔、1923(大正12)年(30歳)の矢内原〕帰朝後、間もなく天に召された。

〔矢内原の心は後悔の思いで深く痛み、愛子のことは生涯あまり語らなかったが、〕矢内原はいろいろな機会に、「この年は生涯における最もグルーミーな年であった」と語っている(注2)。

〔3-③〕
〔1923(大正12)年(30歳)、矢内原は植民政策講座の教授に就任し、学者としての公的生涯が開始された。〕
翌、1924(大正13)年6月(31歳)堀恵子と再婚し、以後研究に専念するとともに福音を証し続け、1925(大正14)年(32歳)には「帝大聖書研究会」を始めた〔。この研究会に集った学生たちは、矢内原の戦いをともにしつつ育てられ、卒業後、各地にその精神を伝えていった〕。
1926(大正15)年(33歳)には三男勝が生まれた。

このころ相ついで、朝鮮・満州、台湾、樺太(からふと)・北海道に調査旅行し、それらの研究結果は主著 『植民及(および)植民政策』(1926年)、論文集『植民政策の新基調』(1927年)、名著の評高い『帝国主義下の台湾』(1929年)等となってあらわれた。

一方、信仰的文章も黒崎幸吉の『永遠の生命』誌その他に寄稿された。
当時はマルクス主義が学界を風靡(ふうび)しはじめていた時代であったから、キリスト教徒の矢内原は同僚から不徹底等の批判をうけ、これにこたえるため真向からマルクス主義とキリスト教の関係をとりあげて『マルクス主義とキリスト教』(1932年)を書いた。

その立場を一言でいえば、科学と世界観を切りはなし、マルクス主義が科学であるかぎり、キリスト教と両立するし、キリスト教徒の科学者も科学の研究方法としてマルクス主義をとることができるが、世界観としてマルクス主義(唯物史観)とキリスト教とは相容れないことを主張した。これはこの方面における先駆的業績であった。

これと同時に矢内原は科学的研究の限界を強く意識し、その限界を超えて研究者に理想への確信を与えるものは信仰であるとした。

『植民及植民政策』の終章において、植民政策の理想実現の保証は、科学的にも歴史的にも与えられないことを説き、平和実現の保証を与えるものはキリストであることを述べた(注3)。

この間、1929(昭和4)年11月(36歳)に台湾留学生と家庭聖書集会を始め、これは1932(昭和7)年まで継続した。最初の家庭集会が植民地学生とともに始められたことは特徴的であった。

〔3-④〕
1930(昭和5)年3月(37歳)には内村鑑三が、続いて7月には藤井武が世を去った。
矢内原は11月に塚本虎二とともに藤井武全集刊行会を創設し、ほとんど独力で編集、校正、発送にあたり、1932(昭和7)年7月に完結した。

1931(昭和6)年9月(38歳)には(関東軍の大陸侵略である)満州事変が勃発し、矢内原の学問と信仰は一つになって〔、国家の不義〕満州事変と対立した。

1932(昭和7)年2月(39歳)に関東軍特務部から満州経営の助言を電報で依頼されたが、再度にわたって電報で断った。

同年夏には自発的に満州国視察を行なったが、〔同年9月、〕ハルビンに向かう途中匪賊(ゲリラ)の列車襲撃にあい、奇蹟的に難を逃(のが)れた。

この経験は神が矢内原を守ったものとして強い自覚を生み、帰国とともに、伝道のため11月から『通信』と題するリーフレットを発行し、知人に配布した。

〔3-⑤〕
1933(昭和8)年3月(40歳)の内村鑑三記念キリスト教講演会の聴衆中の2名の希望をいれて、5月から家庭聖書集会を再開した。この聖書集会はのちに今井館聖書講堂に移され、矢内原の死まで継続された。 

1932(昭和7)年(39歳)、33年と2回にわたって南洋群島に調査旅行を行ない、その結果は『南洋群島の研究』(1935年)としてまとめられた。

満州事変後の国内体制はしだいにファッショ化していき、言論に対する統制が加わり、『通信』および一般雑誌への寄稿を編集した『民族と平和』を1936(昭和11)年に出版したときには、二・二六事件(皇道派の陸軍青年将校たちによる軍事クーデター)の影響で発行が危ぶまれるといういきさつがあった。


〔4-①〕
1937(昭和12)年7月(44歳)には日中戦争が始まり、矢内原は『中央公論』9月号にこれを批判する『国家の理想』を書いた。
これはただちに全文削除の処分をうけ、大学内外において連携したファッショ勢力はこの論文を問題にし、矢内原を大学から追放しようとしたが、決め手を欠いた。

そのとき、10月1日に藤井武7周年記念講演会で行なった『神の国』の講演を掲載した『通信』が警察の手に入り、
「今日は、虚偽(いつわり)の世に於て、我々のかくも愛したる日本の国の理想、或(あるい)は理想を失ったる日本の葬(ほうむ)りの席であります。
私は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。
どうぞ皆さん、若(も)し私の申したことがおわかりになったならば、日本の理想を生かすために、一先(ひとま)ず此(こ)の国を葬って下さい。」
という一句が決め手となって、矢内原は大学を去った(「矢内原事件」)。

〔4-②〕
1937(昭和12)年12月(44歳)に大学を辞した矢内原は、ただちに1月から『通信』を『嘉信(かしん)』と改め、これまでのA4 8ページをA5 42ページとした。

4月には、お茶の水のYWCA小講堂で月1回の公開聖書講義を開始し、夏には山中湖畔で第1回の聖書講習会を開いた。敵は矢内原の踵(くびす)を咬んだが、これに幾層倍する進撃が開始されたのである。

1939(昭和14)年1月(46歳)には、土曜学校を開校し、アウグスチヌスの『告白』を講じた。
この姿勢は1945(昭和20)年8月(52歳)の終戦まで一貫してつづけられ、たじろぐことはなかった。

1942(昭和17)年(49歳)には、大学の演習出身者の支援によって大東研究室を創設し、大東亜(だいとうあ)共栄圏の批判的研究に着手したが、同研究室は1945(昭和20)年の空襲によって焼失した。

〔4-③〕
この間『嘉信』はしばしば発禁の厄(わざわい)にあい、1944(昭和19)年〔5月、51歳〕には警視庁から企業整備による廃刊届けの提出を求められた。矢内原は〔これを拒否し、〕薄田警視総監に面談を求め志(こころざし)を述べて言った、

 ―前略―
『嘉信』は形(かたち)小なれども国民の良心なり、国の柱なり。
『嘉信』を廃するは国民の良心を覆(くつがえ)し、国の柱を除くに等し。
『嘉信』は神によりて立てられたるものなれば、これを倒していかで国に善事を招かんや。
これを発行する手段、なお余(よ)にあるにかかわらず、余自らこれを廃するは神に対し国に対し忠なる所以(ゆえん)にあらず。
当局これが廃刊を強要せんか、当局は真に国事を解するものと言うを得ざるべし。
かく申すは広言を吐くに似たれども、弘安の役(えき)日蓮の故事もあることなれば、あえて所信を開陳して当局の清鑑を煩(わずら)す。
―後略―(『矢内原忠雄全集』第26巻、p113~114)

〔4-④〕
この意見書にもかかわらず、年末をもって廃刊を申し渡されると、1945(昭和20)年1月(52歳)からは第三種郵便によらざる『嘉信会報』を発行した。 

これは名前を異にし、用紙の割当てを受けないという点を除けば体裁内容ともに『嘉信』と全く同じであった。空襲によって印刷所が焼失すると、ガリ版刷りをもって発行された。

『嘉信』は文字通り不死鳥としていかなる弾圧にも屈せず、いかなる災害にも破壊されず、戦争の不義を批判して真理を宣(の)べることをやめなかった。


〔5-①〕
1945(昭和20)年8月〔15日、52歳〕、終戦の詔勅を矢内原は山中湖畔で聞いた。

この時新しい光がさしこんで、牧(か)う者なき羊のごとく心萎(な)えた日本国民を励まし、日本国を興(おこ)すためにキリストの福音を伝えなければならないと心に期した。

戦後の矢内原にとって福音の伝道が第一義の道となった。
11月には5度、〔経済学部より〕懇請(こんせい)されて東京大学に復帰したが、伝道と教授が両立しないときは何時(いつ)でも教授を辞職するという条件付きであった。

〔5-②〕
大学に戻った矢内原は1946(昭和21)年8月(53歳)社会科学研究所長になり、1948(昭和23)年6月(55歳)には経済学部長、1949(昭和24)年5月(56歳)には教養学部長になった。
教養学部長時代に起こった試験ボイコットに、体当りで突進して解決したことはよく知られている(注4)。

1951(昭和26)年(58歳)には東大総長に選ばれ、〔内村門下の〕南原〔繁〕総長につづく戦後2代目〔新制・東京大学の初代〕の総長として〔1957(昭和32)年(64歳)まで〕6年間その職にあった。

この間、毎日曜の今井館聖書講堂の〔聖書〕講義を一日も休んだことはなく、また東奔西走(とうほんせいそう)して福音を伝えた。

〔5-③〕
総長就任の翌年2月(59歳)には、いわゆるポポロ事件が起こり、学生が、〔学内に〕潜入した私服警官の警察手帳をとりあげ、このために警官が学内に入って学生を逮捕した。

この時、矢内原総長は大学の自治を主張するとともに、学生運動の暴力主義を戒めた。
〔学生のための人生の書として〕『キリスト教入門』が書かれたのはこの年であるが、同じころ論文集『大学について』を東大出版会から発行し、学生運動を論じた。

〔6-④〕
1957(昭和32)年(64歳)をもって東大を去ったが、自分が東京大学総長の職を去るのは、自由と平和の理想が日本を去ることの予言的象徴ではないかと憂(うれ)えた(注5)。

大学をやめた後は学生問題研究所を起こし、学生問題の研究と学生の相談相手たることを志した。

また1960(昭和35)年(67歳)には『東京独立新聞』の創刊を助け、日本民主化の逆行を批判した。
同年1月発病し、1961(昭和36)年8月には〔胃〕ガンが発見され、12月25日、日本民主化の将来を憂えながら信仰にあって世を去った〔。享年68、注6〕。

♢ ♢ ♢ ♢

(矢内原忠雄『キリスト教入門』角川書店、1968〔昭和43〕年9月の「解説」より抜粋。( )、〔 〕内は補足)


注1 愛する者を天に召された人々に送る、矢内原の慰めの言葉
メニュー「信仰と人生」のページ「信仰に生きる」006、「愛する者を天に召された人々に送る」を参照。

注2 召された妻愛子を歌った矢内原の詩「春3月」
メニュー「信仰と人生」のページ「詩歌」006、「春3月」および注を参照。

注3 矢内原忠雄著『植民及植民政策』(1926年、有斐閣)の結びの言葉
この学術書は、社会科学的な論述を終えたのち、以下の言葉で結ばれている。

「ただ一事は確かである。
すなわち人類はこれに対する希望を有することを。
虐(しいた)げらるるものの解放、
沈めるものの向上、
而(しか)して自主独立なるものの平和的結合。
人類は昔望み、今望み、将来もこれを望むであろう。
希望! 而して信仰! 私は信ずる、平和の保障は『強き神の子(キリスト)、不朽の愛』に存することを」
(『矢内原忠雄全集』第1巻、p483)

注4 東大教養学部の試験ボイコット運動
メニュー「信仰と人生」のページ「信仰に生きる」010、「罪の意識について」の注2を参照。

注5 「私が大学を去るのは、自由と平和の理想が日本を去ることの預言的象徴ではないであろうか-神知りたもう」(矢内原忠雄)

「私が〔東大〕総長に就任した当初はまだ学生運動が荒れ狂っていた。
それがこの数年間は静かになっていたが、私の総長任期の最後の年(1957〔昭和32〕年)になって再びやや活発な動きがあり、総長最後の日の20日ほど前になって、少数学生によるハンストまであった。

私が法学部緑会大会の席上でスト、殊にハンストの行動を批難したということを伝え聞いた10名ばかりの学生が、(ハンストを実行した当人たちをも交えて、)私に抗議するために赤ダスキで、総長室のある大講堂正面玄関に乗り込んで来た。

ちょうどその日は総長選挙の行われている最中であった。
私は面会せず、係員の説得によって学生たちはおとなしく引きあげた。しかし赤ダスキをかけた学生の姿を離れたところから見たとき、私の胸は短刀で突きさされたようなショックをおぼえた。

赤ダスキは〔アジア太平洋〕戦争中〔に〕応召(おうしょう)兵のかけた目じるしであって、思い出すだけで身ぶるいのする代物(しろもの)である。右翼と左翼の差異があるだけで、扇動(せんどう)によって赤ダスキで乗りこむこの学生だち。

学生総数1万名の中でのわずかに10名ばかりである。しかし私の学生の中からこの10名が出たことは、私にとってほとんど致命的な打撃であった。私はこの年月の教育上の努力が、無益であったのではないかと疑った。
それよりもさらに私〔の心〕を刺したものは、これら10名の学生の行動は日本の将来を象徴するのではないか、との思いであった。

そう思ってみれば、日本の水平線にはあちらこちらに黒い雲が起り始めている。
思想のない科学技術振興のかけ声、地球の上の平和と自由の必要を忘れて宇宙にバベルの塔を築くことへのあこがれと喝采(かっさい)、教育に対する政治の圧力、再軍備の靴音等々。
日本国民は民主主義のほんとうの精神も平和の心も体得しないままに、もと来た道へのあともどりを始めているのではないだろうか。

私が大学を去るのは、自由と平和の理想が日本を去ることの預言的象徴ではないであろうか。そう思うのは私のたかぶりであるだろうか。神知り給(たも)う。」
(矢内原忠雄「人生の転機」『嘉信』第21巻第1号、1958〔昭和33〕年1月より抜粋)

注6 矢内原忠雄特愛の讃美歌
讃美歌520番「静けき川の岸辺を」(クリックしてYouTubeへ)
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