2016/11/04

『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会 : 書籍 : クリスチャントゥデイ

『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会 : 書籍 : クリスチャントゥデイ







『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会

2015年11月10日16時17分 記者 : 土門稔 印刷 Facebookでシェアする  Twitterでシェアする 関連タグ:内村鑑三無教会

+『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会

『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』



内村鑑三(1861~1930)というと、明治の無教会の創始者、堅固な信仰者にして思想家というイメージが強いのではないだろうか。『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』は、歴史社会学の視点からメディアとナショナリズムという切り口で、内村と無教会の捉え直しを図っている。そこから見えてくるのは、内村も揺らぎを持った一人の人間であったこと、そして雑誌メディアを活用した伝道方法の新しさである。インターネットの登場とともにメディアやコミュニケーションの在り方が激変する現代におけるキリスト教伝道を考えるとき、内村がやったことの中にはさまざまなヒントがあるように思われる。内村は堅苦しいどころか“面白い”、古いどころか“新しい”。

戦前を振り返るとき、「内村や矢内原(忠雄)は信仰故に『日本』を批判し得た」と語られがちだ。しかし、著者の赤江達也氏(台湾国立高雄第一科技大学助理教授)は、彼らの国家批判ばかりが注目されることで、彼らが同時に強い「愛国心」の持ち主であったという事実が見落とされているのではないかと指摘する。「日本人であること」と「クリスチャンであること」を彼らがどう調整していたのかを考えることで、「宗教」と「日本近代」について語り直すことができるのではないか。それが本書を貫いている問い掛けだ。

不敬事件における内村の「ためらい」

無教会とは何か? 牧師なし、洗礼なし、按手(あんしゅ)礼なし、教会なしのキリスト教。さらに「統計の拒否」という思想から、人数も規模も正確に把握できてはいない。内村が「無教会」を唱えるようになった原点には不敬事件がある

1891年、第一高等学校の教師だった内村は、学内の始業式で「教育勅語」に最敬礼をしなかったことで世間から大きな批判を受け、教師を辞する。この事件はこれまで、「内村の揺るぎない信仰による拒否」と捉えられてきたが、実際はもっと複雑なものであるという。内村は自身を「極左の愛国的キリスト信徒」と書くほどの愛国者であり、皇室への尊敬も強かった。しかしこの日、直前に教頭が「礼拝的低頭」を命じたため、それは宗教的行為になるかもしれないと考え、「ためらった」後、「チョット頭を下げ」た。

「お辞儀は礼拝を意味せず、との見解は私自身自ら赦(ゆる)し来つたところであり、かたや日本ではしばしば、アメリカでいう、帽子をぬぐ、という程の意味で用いられており、あの瞬間私にお辞儀をいなませたのは拒否ではなく実はためらいと良心のとがめだったのです・・・」(『内村鑑三全集』36巻333ページ)

しかしその結果、内村は世間からもキリスト教徒たちからも批判されることになる。

「世間の人々は、私が結局お辞儀することに同意した事実は確かめもせずに、ただ私の当初のためらいを目して断固たる拒否と見なします。一方長老教会の人びとは、自分ではお辞儀をするも差支えなしとしながらも、私が政府の権威に屈服した――と憐(あわ)れむべき彼ら狭量の聖徒らは考えます。――事に向つて軽侮の言葉をあびせかけて来ます」(『内村鑑三全集』36巻334ページ)

赤江氏は、この「ためらい」주저; 망설임こそが、内村の中にある「信仰」と「愛国心」の間のジレンマなのではないか、「揺るぎない흔들림 없다;信仰による拒否」と捉えることは内村の真意を見えにくくしてしまうのではないか、と指摘する。

メディア論から見た内村 「紙上の教会」

板ばさみで苦しんだ内村は、教会からも距離を置くようになり、1893年の最初の著書『基督信徒のなぐさめ』の中で初めて「無教会」という言葉を使う。

「余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる賛美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし」(『内村鑑三全集』2巻36ページ)

その後、多くの著作を執筆し、1897年に新聞『萬朝報(よろずちょうほう)』の英文欄主筆となる。そして1900年から1930年までは雑誌『聖書之研究』を刊行し、2000部から4000部ほどの発行部数だった同誌の購読料で生活していくことになる。

『聖書之研究』の読者は、各地で雑誌や聖書を共に読む読書会を作り、それが聖書研究会や集会につながっていった。また、内村は読者の投書を重視し、『無教会』という投書雑誌を試みている。赤江氏によれば、内村は読者共同体の中から各地に集会が生み出されていくような仕組みを作り、それを「紙上の教会」と呼んだ

「本誌(『無教会』)は元々教友の交通機関を目的として発行した者でありまして、一名之(これ)を『紙上の教会』と称へても宜しい者であります。即ち私共行くべき教会を有たざる者が天下の同志と相互に親愛の情を交換せんために発行された雑誌であります、(中略)記者が筆を執ること割合ひに少く読者が報と感とを傳(つた)ふること割合に多かるべき性質の雑誌であります」(『内村鑑三全集』9巻316ページ)

赤江氏は、この「紙上の教会」は、さまざまな理由から教会に行くことができない「弱者」のための構想であったと指摘する。例えば、『無教会』では、題字の脇に「孤独者の友人」という標語が掲げられ、地方の人々や「少女と老人の友」となることがうたわれていた。

『聖書之研究』や『無教会』は、教会を持たない、地方の孤独な信徒を結び付けるメディアであった。1917年の『聖書之研究』の事例を見ると、読者の投稿は、農家17%、商家14%、工人4%、教師15%、婦人6・7%、軍人2・2%、官吏5・2%と、読者層は幅広い。内村にとって、各地に散らばる多様な読者の共同性は、教会ではないが「紙上の教会」と呼び得るものであった。

「『無教会』は教会の無い者の教会であります、即ち家の無い者の合宿所とも云ふべきものであります、すなわち心霊上の養育院か孤児院のやうなものであります、(中略)さうして世には教会の無い、無牧の羊が多いと思いますからここに小冊子を発刊するに至ったのであります」(『内村鑑三全集』9巻71ページ)

内村は自分の雑誌の読者を「独立信者」と呼び、彼らの「孤独」を肯定している。独立信者には、「制度を以(も)つて或(あ)る団結一致」はない。しかし、その「隠れたる、而(しこう)して散乱せる、多くの孤独の独立信者」たちをつなげる仕組みが「紙上の教会」だったのである(『内村鑑三全集』13巻147ページ)。

内村は、雑誌メディアで聖書研究の場を作り出すことで、「大学」にも「教会」にも属さない在野の研究者、伝道者になった、と赤江氏は言う。そうした内村のあり方は、その同時代にも“新しい”ものであったが、インターネットやSNSの普及によってコミュニケーションの形が急速に変わりつつある現代においてもなお“新しい”。

内村が雑誌メディアを通して作り出した読者の共同性は、内村以後も第二世代の伝道者たちによって受け継が

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『「紙上の教会」と日本近代』(2)矢内原忠雄の信仰とナショナリズム 現代に託された内村鑑三の遺言



2015年11月10日16時18分

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矢内原のキリスト教信仰とナショナリズム



東京帝国大学教授の矢内原忠雄(1893~1961)は、1937年、いわゆる「矢内原事件」で大学を辞し、専業の伝道者となる。矢内原は『中央公論』誌上で「国際正義」と「国際平和」を訴え、さらに日中戦争を遂行する国家を激しく批判したために、大学を追われる。だが、赤江氏は、矢内原の思想においては、キリスト教信仰とナショナリズムが密接に結びついていると指摘する。

「然(しか)らば『全体』の観念の把握について、基督教は何らかの寄与を為し得るであらうか。然り、聖書のエクレシヤ観(教会観)は典型的なる全体主義社会であり、基督教の全体主義の理想はその中にあるのである。このエクレシヤ観を純粋に把握し、且(か)つ積極的に展開することによって、基督教は全体主義に『たましひ』を吹き込むことが出来る」(『矢内原忠雄全集』15巻141ページ)

矢内原は、戦時下において「キリスト教の全体主義の理想」を語っている。そして、その理想の全体主義の中心に、天皇が位置付けられる。

併(しか)し、私は真に日本人の心によって基督教が把握せられて、本当の歪められないところの基督教が日本に成立つ、日本に普及する、其(そ)の時の光景を考へてみますと、上に一天万乗の皇室がありまして、下には万民協和の臣民があつて何の掠(かす)めとる者もなく何の脅かす者もなく、正義と公道が清き川の如(ごと)くに流れる。さういふ国を私はまぼろしに見るんです。(中略)さうしたいんです。私はさうしたい。さういふ国に私の国をしたい」(『矢内原忠雄全集』18巻701ページ)

こうした矢内原の姿勢は、戦争が終わり、天皇の人間宣言が出された後も変わっていない。

「併し陛下、今の状態の儘(まま)ではいけません。聖書をお学びになれば、陛下ご自身の御心が平和を得、希望を得、勇気を得、頼り所を得られます。陛下に洗礼をお受けなさいとか教会にお出でなさいとか、そんな事を私は申すのではありません。陛下を基督教徒にしようといふのではありません。けれども聖書を学んで頂きたい。それがやがて国の復興の模範となり、基礎となるのであります」(『矢内原忠雄全集』19巻)

矢内原は、戦中も戦後も、「天皇のキリスト教化」と「日本精神のキリスト教化」を構想していたのである。

これまで、矢内原は軍国主義的ナショナリズムに抵抗した人物として論じられてきた。それは間違いではない。ただ、それと同時に、矢内原の思想において「キリスト教」と「ナショナリズム」、そして「天皇」への尊敬が並存しているという指摘は、日本近代のキリスト教を考える上で避けて通れない問題を含んでいるといえるだろう。

なぜ無教会は戦後、学問・宗教界を超えた威信を持ち得たのか?

戦後、南原繁(1889~1974)と矢内原が続けて東京大学の総長となり、無教会は学問・宗教界を超えた威信を持った。その理由として、赤江氏は4つの点を挙げる。

体制翼賛に組み込まれた日本キリスト教界とは対照的に、戦争反対の「殉教者」とみなされたこと。

彼らはキリスト者であると同時に、天皇を尊敬する愛国者であったこと。

特定の宗教団体や教派に属していないため、大学知識人として学問的な立場を中立的に代表しているように見えたこと。

同じ理由から、特定の教派ではなく、キリスト教の「精神」を代表する存在に見えたこと。

無教会であるが故に、「キリスト教精神」を語っても特定の宗教団体に関わるものではなく、憲法の信教の自由や公教育の中立性の原則を守りながら発言することができた。この指摘は非常に説得力がある。さらにこの無教会派知識人の系譜は、内村から洗礼を受け、マックス・ウェーバー研究の大家だった大塚久雄(1907~96)に受け継がれ、その「禁欲主義的プロテステンティズム」が資本主義を形成したという歴史的議論が力を持ち、戦後民主主義に滑らかに接続されていったという。

無教会の雑誌は、戦後の25年間に94誌が発行されている。教会神学者との間でも論争が活発に行われ、日本聖書学研究所が設立されるなど、無教会が聖書学を牽引する時代が続いた(この時代について、田川健三(1935~)は「聖書の研究と言えば無教会」と語っている)。しかし、1960、70年代に、矢内原や塚本虎二(1885~1973)が亡くなるころから、無教会派知識人の存在感は次第に薄れ、無教会信徒の高齢化が生じ始める。

「紙上の教会」の一員に託された内村の遺言

赤江氏は本書の最後に、1916年に内村が弟子に遺した預言のような遺言を引用している。

「余の事業と称すべきものは全く消え去るであろう。(中略)然しながら、余の事業は是がために必ず滅びないと信ずる。(中略)余の知らざる人より、あるいはかつて一回も余に接触せしことなき人より、あるいは遠方にありて余の雑誌又は著述によりて余の福音を知りし者よりして、余の精神、主義および福音を了解し〔て〕くれるもの現われて、思わざる所にこれを唱え、余の志を継承しかつこれを発展し〔て〕くれることを確く信ずる」

ここで書かれている「余の精神、主義および福音を了解し」、「余の志を継承しかつこれを発展」する者とは誰のことなのか? 赤江氏は、それは書物や雑誌を通して内村が語った福音を読む「私たち」のことに他ならない、という。そして本書をこう締めくくっている。

「『紙上の教会』としての無教会は、内村鑑三や無教会主義者たちの書いたものが読まれるとき、そして彼らをめぐって書かれたものが読まれるとき、そこに存在している。本書は、そのような仕方で、無教会の存在に触れているのである

ならば、本書や、本書を通して内村や無教会の書物を読む「私たち」もまた、「紙上の教会」に連なる一員であるということができる。

無教会とは何か? それは、日本近代の思想、教育、キリスト教にどのような影響を与えたのか? 本書は、最も新しく貴重な、そして現代的な問い掛けを持った研究だといえるだろう。



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『「紙上の教会」と日本近代』(3)大学と教会から離れ、オルタナティブなメディアを作った内村鑑三



2015年11月10日

+『「紙上の教会」と日本近代』(3):大学と教会から離れ、独自のメディアを作った内村鑑三 
著者・赤江達也氏インタビュー

『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』著者の赤江達也氏(写真左)


内村鑑三の明石訪問100年を記念して、10月17日には兵庫県明石市で、赤江氏と岩野祐介氏(関西学院大学神学部准教授)による講演会(明石内村鑑三研究会主催)が行われた。この講演のために来日していた赤江氏に、『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』について話を伺った。
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出版されて反応はいかがですか?

社会学、宗教学、歴史学、思想史など、いろいろな分野の方々から反響を頂いています。キリスト教史だけではなく、近代仏教研究でも参照して頂くことがあり、うれしく思っています。

時々、無教会の中心は雑誌ではなく、あくまでも集会であるというコメントを頂くことがあります。たしかに現在の無教会には、「エクレシア」(教会)を「集会」と翻訳するような、集会こそが信仰継承の場であるという考え方があります。それに対して、本書では「集会」と「雑誌」双方の役割に注目しながら、集会中心の考え方が戦後に強まることを指摘しています。

なぜこのテーマで本を書こうと思われたのですか?

私は岡山県の出身で、福音派のキリスト教という家庭環境で育ちました。子どものころから、家庭や教会で語られることと学校や新聞などで語られることが違うなぁ、と感じていました。例えば、教会で学ぶ創造論と学校で学ぶ進化論の違いなどです。また、岡山は地方都市ですから、キリスト教会というのは地域社会の中でどこか異質なところがあると同時に、さまざまな社会活動を通じて地域に根ざしているところもあります。私は、キリスト教と日本近代社会について研究してきたわけですが、その根底には子どものころに感じた齟齬(そご)の感覚があるのかもしれないと思います。

その後、筑波大学の修士課程で矢内原忠雄の信仰と学問と政治について学ぶ中で、無教会運動に興味を持ちました。そして、それを生み出した内村鑑三とはどんな人物か、不敬事件とは何かを考えるようになりました。その中で、内村鑑三、矢内原忠雄、南原繁、大塚久雄という無教会派知識人の系譜と、彼らを支える読者の広がりが見えてきました

中心となっているのが、無教会派におけるキリスト教信仰とナショナリズムのつながりですね

これまでの研究では、内村の不敬事件や矢内原事件などについて、彼らの国家批判の側面が強調されてきました。でも、彼らの著作を読むと、天皇への尊敬、愛国心やナショナリズムがはっきりと感じられます。それを無視して彼らを過度に英雄化してしまうと、かえって彼らの国家批判の意義も理解しにくくなってしまいます

例えば、矢内原が1937年に矢内原事件で東京帝国大学を辞任するきっかけとなった日中戦争批判は、やはり当時としては際立ったものだと思います。でも、矢内原は、同じ年に「民族と伝統」という論文で「天皇主権」と「臣民翼賛」を支持しつつ、「日本民族は天皇の臣民であると共に、天皇の族員である。之が日本民族の伝統的なる民族感情であり、国体の精華である」と論じています。また、戦時中には、「無教会主義精神に基づく全体主義」を語ったりしています。

私は、矢内原のナショナリズムは、当時の軍国主義的ナショナリズムとは全く違うものだと考えています矢内原は、天皇主権や全体主義をキリスト教的に意味付け直すことで、それらを批判しようとしています。そうした「キリスト教ナショナリズム」は、同時代のナショナリズム言説に近づくところがあり、それ故に危うさもあります。しかしそれは同時に、検閲などの制約の中で、同時代の人々の耳に批判の声を届けるための戦略だったのだと思います。そのあたりはまだまだ検討する余地があると思っています。

もう一つがメディア論としての無教会という視点ですね

無教会とは何かということを考えたときに、それはまずは雑誌の名前だったわけです。1893年の著書『基督信徒のなぐさめ』では、無教会は「教会から捨てられた」という否定的な意味合いで使われていました。でも、1901年には、自分の雑誌の名前として、ポジティブな意味合いで使われます。その雑誌『無教会』の最初の社説で、無教会に「教会のない者の教会」という定義が与えられます。そして『無教会』が「教友の交通機関」と呼ばれ、さらに「紙上の教会」と言い換えられるのです。

この『無教会』は、読者からの感想などを掲載する投書雑誌でした。『無教会』は18号で終刊になりますが、30年続いた『聖書之研究』にも投書欄がありましたし、その後も内村は何度も投書雑誌を試みています。読者たちが投書をするための場を作り続けているのです。そして無教会第二世代の指導者たちは、読者から書き手に変わっていった人々でした。つまり、雑誌は読者を訓練し、書き手へと変えていく場でもあったわけです。

当時、投書というのは既にあったのですか?

文芸雑誌では、投書という形態は一般的に見られるものでした。内村には『萬朝報(よろずちょうほう)』という新聞で働いた経験があり、しかも郵便制度や印刷技術が整い始めていました。個人で出版社を作り、雑誌を編集・刊行することが比較的簡単にできるようになった時代だったわけです。キリスト教でいえば、植村正久(1858~1921)や海老名弾正(1856~1937)も雑誌を作っています。ただこれらは、教団の見解を示すような機関誌、広報誌的な性格を持っていました。それに対して、雑誌を中心に投書や読者会や講演会など、読者がさまざまな形でコミットしていくことができる仕組みを作ったところに内村の新しさがあると思います。

内村は、教会がない地方でも、雑誌を通して主日を守り、一人で礼拝ができるようにと考えていました。また、内村が地方を訪ねて講演会を開くと読者が集まり、そこに集会が生まれていきます。だから内村は、単に雑誌を発行しただけではなく、雑誌を通して読者のネットワークを作り出し、各地に集会を作ることを促していったわけです。こうして、雑誌、講演会、読者会(集会)が相互に作用しあう中で、無教会運動が成立するのです。

今、出版不況が言われる中で、書店で作家が読者会や朗読会を開き、読者とつながる場を作ろうと力を入れています。それに似ていますね。

そうですね。例えば、若松英輔さんの「読むと書く」講座や、東浩紀さんの「ゲンロンカフェ」でしょうか。内村も、雑誌や本を出すだけでなく、聖書講義や講演会という名のトークイベントに出続けたわけですから似ていますよね。

もし、内村が今の時代に生きていたら、インターネットを駆使しているのではないでしょうか? 個人の有料メールマガジンは絶対やっていますよね(笑)

メールマガジンかどうかは分からないですが、インターネットは間違いなく活用していると思いますね(笑)。100年以上前の内村にとっての雑誌やパンフレットは、現在でいえばインターネットのような意味を持っていたのだと思います。

それができたのは、内村に新聞記者だったという経歴があったからでしょうか。

内村は『萬朝報』で働いていたけれど、いわゆる新聞記者ではなく、英文欄を担当する論説委員でした。『萬朝報』は、政治家のスキャンダルなどを扱うことで人気があったのですが、さらに学生などの知識層にアピールするために、内村や幸徳秋水(1871~1911)といった人々が採用されました。

今で言えば、『週刊文春』に有名な大学教授や文化人がコラムを書くみたいな感覚でしょうか?(笑)

そうです、そうです(笑)。内村は『萬朝報』を通してマスメディアの威力を知り、読者の存在を意識するようになったのだと思います。

そういう視点で捉えていくと、内村のやっていたことの斬新さや、現代におけるメディアの在り方にもつながって、大変興味深いですね。

『萬朝報』を離れた後、30年間発行し続けた『聖書之研究』は、内村にとってオルタナティブなメディアだったのだと思います。大学の教師でも、教会の牧師でもないにもかかわらず、聖書の研究を続け、キリスト教を伝道するための場を自分で作ってしまったわけです。内村にとって、聖書講義を行う集会と並んで研究・教育・伝道のための場となったのが、『聖書之研究』という雑誌でした。そして、その読者たち一人一人が形作るネットワークが「教会の無い者の教会」、すなわち「紙上の教会」だったのだと思います。

今後の研究のテーマは?

内村が「紙上の教会」を構想した原点には、不敬事件で「国体」に抵触し、学校を追われ、教会から批判された経験があります。この事件はきわめて有名ですが、その意義については、まだ明らかになっていないところがあります。そこで現在は、内村鑑三不敬事件についての研究を進めています。

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