2016/11/04

インターネット教会-無教会ネットエクレシア信州聖書集会 | 004人物・高橋三郎

インターネット教会-無教会ネットエクレシア信州聖書集会 | 004人物・高橋三郎



高橋三郎
たかはし さぶろう
【高橋三郎】
1920~2010.6.24
無教会の独立伝道者。

日本統治時代の朝鮮の忠清南道生まれ。東京大学工学部(1945年)および同教養学部(1954年)卒業後、同大学院で西洋古典学を専攻した後、1955~1958年西ドイツ・マインツ大学大学院博士課程留学。神学博士。

職歴としては、恵泉女学園高等学校講師(1948年)、昭和女子大学助教授(1950年)、国際基督教大学講師(1959年)、東京大学講師(1963年兼任)を歴任した後、1973年以降はすべての教職から退き、独立伝道者として活動した。

三谷隆正、次いで矢内原忠雄に師事した無教会第三世代、無教会高橋集会責任者。月刊聖書雑誌『十字架の言(ことば)』主筆。

♢ ♢ ♢ ♢

高橋三郎略歴 (高橋聖書集会ホームページより)

1920年生まれ。一高(いちこう)生のとき人生問題に悩み、三谷隆正に教えを受ける。三谷1944年没。僅か1年半の学びであったが、人生においての決定的な学びとなった。

1945年、敗戦。東大工学部時代、学内で聖書研究会を開催する。そうしたとき、友人の勧めにより今井館で行われていた矢内原忠雄の集会に出席。以後矢内原の教えを受け、確たる信仰を与えられる。

日本の侵略戦争と敗戦に至る歩みは、神に審かれたのだと、深く認識するに至る。それゆえ日本の真の復興は悔い改めから始めなければならないとの思いに導かれ、すべてを投げ打って聖書を学ぶべく、苦学生活に入る。

1955年5月、大学間の交換留学生としてドイツ国マインツ大学に留学、アドルフ・ハーメル教授のもとでルター研究に取り組む。

1958年12月、帰国。帰国後、生涯を伝道に捧げる道を歩む。

1965年 1月、月刊誌『十字架の言』を創刊。

1985年 9月、教育の荒廃を黙視し得ず、真の教育を行うための高等学校設立を提唱。高橋が創立責任者となり、「キリスト教愛真高等学校」が島根県江津市に創設された。1988年 4月、第一期生入学。

1994年 4月26日、交通事故で頚髄損傷の大怪我をし、重度障害の身となり、体の自由を失った。

しかし、集会で発行している『週報』に、毎号口述筆記による信仰の真理の言葉を書き続けて、高橋聖書集会を守り導く指導をする。

2010年6月24日、天に召される。

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著 書
•『ロマ書講義 第1-5』(山本書店 1960年-1971年)
•『ルターの根本思想とその限界』(山本書店 1960年)
•『ドイツから見た日本』(山本書店 1961年)
•『無教会精神の探究 無教会と教会の対話を求めて』(新教出版社(今日のキリスト教双書) 1970年)
•『絶望と希望 若人に語る』(教文館(現代キリスト教双書) 1970年)
•『キリスト信仰の本質 イエスからパウロへ』(新教出版社 1971年)
•『福音信仰の政治性』(教文館 1971年)
•『生命の原点(』新教出版社(原点双書) 1971年)
•『抵抗と服従の原点』(教文館 1972年)
•『歴史を担うもの 内村精神の展開』(キリスト教夜間講座出版部 1972年)
•『夢と現実主義』(新教出版社(原点双書) 1972年)
•『ヨハネ伝講義』(待晨堂 1970年-1972年)
•『地を嗣ぐ者』(教文館 1973年)
•『共観福音書概説』(新教出版社 1973年)
•『教会の起源と本質』(新教出版社(今日のキリスト教双書) 1975年
•『挫折と新生』(教文館(現代キリスト教双書) 1975年
•『主体性の基盤』(新教出版社(原点双書) 1975年
•『地の塩となった人々 わが師・わが友』(教文館 1976年)
•『神の国と地の国』(創文社 1977年)
•『戦いの視点』 新教出版社 1977年)
•『王としてのイエス マルコ福音書の使信』 教文館 1978年)
•『ほんとうの生き方』(教文館 1979年)
•『なぜ無教会か』(教文館 1980年)
•『青年期の課題』 創文社 1981年)
•『結婚と家庭』(教文館 1981年)
•『世界の福音』(新地書房 1982年)
•『地の塩となった人々 続』(教文館 1983年)
•『荒野の福音』(新地書房 1983年)
•『新稿ロマ書講義』(山本書店 1983年-1984年)
•『担いたもう神』(小綬鶏社 1984年)
•『苦難の証し人』(聖山社 1985年)
•『人生の選択』 小綬鶏社 1985年)
•『戦後四十年』(教文館 1986年)
•『ダビデの歌 詩篇第1篇〜第41篇講義』(教文館 1986年)
•『使徒行伝講義』(教文館 1987年)
•『マタイ福音書講義』(教文館 1990年-1993年)
•『あなたはどこにいるか 福音を若人のもとへ 正続』(教文館 1990年-1992年)
•『無教会とは何か』(教文館 1994年)
•『新約聖書の世界』(教文館 1994年)
•『ガラテヤ書講義』(教文館 1995年
•『第一テサロニケ書講義・病床雑感』(教文館 1996年)
•『高橋三郎著作集 全11巻』(佐藤全弘、武田武長、熊川忠編 教文館 2000年)
•『高橋三郎著作集 最終巻』(佐藤全弘、月本昭男、熊川忠編 教文館2012年)
•『真理の受肉 週ごとの言葉』(教文館 2004年)
•『真理探究の旅 週ごとの言葉』(教文館 2005年)

翻 訳
•『ヒルティ著作集 第10巻 人間教育』(白水社 1959年)
•『日本の無教会運動』(エミール・ブルンナー 矢内原忠雄共訳、嘉信社 (山鳩叢書) 1959年)
•『ヨハネの黙示録』翻訳と註解(エドワルド・ローゼ 三浦永光共訳、NTD新約聖書註解刊行会 1974年)
•『テモテへの手紙・テトスへの手紙・ヘブライ人への手紙』翻訳と註解(ヨアキム・エレミアス、ヘルマン・シュトラートマン 泉治典、大友陽子、木幡藤子、関根正雄共訳、NTD新約聖書註解刊行会 1975年)
•『公同書簡』翻訳と註解(ヨハネス・シュナイダー 安達忠夫、大友陽子、斎藤顕、杉山好、松本武三共訳、NTD新約聖書註解刊行会 1975年)
•『マルコによる福音書』翻訳と註解 E.シュヴァイツァー、NTD新約聖書註解刊行会 1976年)
•『パウロ小書簡』翻訳と註解(P.アルトハウス、H.W.バイヤー、H.コンツェルマン、G.フリードリヒ、A.エプケ 泉治典、大島智夫、小林[テツ]郎、杉山好、松田伊作、森田外雄共訳、NTD新約聖書註解刊行会 1979年)
•『はじめの愛 すべてはキリストのため』(バジレア・シュリンク 教文館、1983年)
•『神の現実 20世紀に体験した神の奇跡』(バジレア・シュリンク 大友陽子共訳 第4版 カナン出版、1995年)

(参考文献:高橋三郎『青年期の課題』創文社、1981年、他)

インターネット教会-無教会ネットエクレシア信州聖書集会 | 005評伝・矢内原忠雄

インターネット教会-無教会ネットエクレシア信州聖書集会 | 005評伝・矢内原忠雄

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〔1-①〕
矢内原忠雄は、1893(明治26)年1月27日に愛媛県越智郡富田村大字松木(現在の今治市松木)に生まれた。

矢内原家は代々医者を業とし、父謙一は京都で西洋医学を学んだ医師で、近隣のみならず海を渡って他県からも患者が集まったという。
母マツヱは無口で控え目であったが愛情のこまやかな人で、矢内原はこの母を慕った。
熱心な仏教信者の祖母が矢内原〔少年〕を連れてお坊さんの説教を聞きにゆき、また部落で一番貧しい寡婦(かふ)を親友としていたことや、近所の未解放部落の人達に対して暖かい心で交際していたことなどが幼少年時代の矢内原の心に深い印象を残した。

〔1-②〕
父は非常に正義感の強い人であったとともに、教育熱心であったので、矢内原が11歳のとき神戸へ遊学させた。

〔旧制〕神戸一中(いっちゅう、現・神戸高校)生のころすでに、自分の現実の生活が父から教えられた誠実と遠いことを知り、自分の中に悪を喜ぶ性質のあることを発見して苦しむようになった。

〔1-③〕
中学四年のころ、先輩の川西実三(元日赤社長)が〔旧制〕一高(いちこう、現・東京大学教養学部の前身)に入っていて、いろいろ東京の模様を知らせてよこしたので、新渡戸(にとべ)稲造校長や内村鑑三のことを聞き知った。

キリスト教のことも同氏から聞いていたが、直接の知識は持たなかった。
たまたまこのころ夏休みで帰郷したとき、土蔵の書棚に聖書を発見し、第1ページから読み出した。面白いところもあったが、無味乾燥な人名の羅列(られつ)にへきえきして、歴代志略の年代記まで来て投げ出してしまった。

〔1-④〕
少年時代には自分も周囲も当然医師になるものと思っていたが、川西実三の影響で法科に進むことになった。

医師志望をやめたことについて、一つには性質が臆病(おくびょう)なため、解剖をしたり外科の手術をすることがこわかったためだという。
これは後年まで婦人のように優しい矢内原の一面をなした。



〔2-①〕
1910(明治43)年9月(17歳)に一高に無試験〔で〕入学し、南寮10番に入った。

当時の同窓の中には、一年に芥川龍之介、恒藤(つねとう)恭(京都大法学部教授)、倉田百三(ひゃくぞう、劇作家、「出家とその弟子」執筆)、二年に近衛文麿(ふみまろ、政治家、近衛内閣)、三年に江原万里(えばら ばんり、内村門下、東京帝国大学助教授、伝道者)、河合栄治郎(社会思想家、経済学者、自由主義知識人、東京大学教授)、河上丈太郎(関西学院大学教授)、高木八尺(やさか、内村門下、政治学者・アメリカ研究者、東京大学教授)、田中耕太郎(内村門下、のちにカトリック、法哲学者、東京帝国大学法学部長、最高裁判所長官、国際司法裁判所判事)などの名が見え、いかに当時の一高がエリートの集まりであったかをうかがわせる。

二年(18歳)になると英法科生のみで東寮16番に移り、同室者に舞出長(まいで)五郎(のちに東京大学経済学部教授、経済学部長)、石井満(日本出版協会会長、精華学園理事長)、三谷隆信(スイス、フランス大使)らがいた。この人々は、東十六会(ととろうかい)をつくり、晩年まで親交を続けた。

〔2-②〕
一高では、良い友人が得られるという先輩のすすめによって、キリスト教青年会と弁論部に属した。
このころ矢内原は「単純な心」で生きることをよしとしたが、その生活態度について、倉田百三から鋭い批評を受けた。

倉田の論旨は、矢内原の生活態度は伝道的観念に比して内省(ないせい)が足りないとして、常識と感傷を捨てて思索を深めるべきことを主張した。
これに対して矢内原は素直に反省し、倉田に宛てて、自分が倉田のいうほど気楽な人間ではなく、罪に悩む者であることを書き送った。

倉田もこの手紙を喜び、矢内原とそのキリスト教に好意を抱いた。(校友会雑誌に載った倉田の文章は「自然児として生きよ」という題で『愛と認識との出発』の中に収められている。これに対する矢内原の読後感については、〔岩波書店〕『矢内原忠雄全集』第27巻・感想集の「代々木にて」参照。)

〔2-③〕
しかし一高時代に起こった決定的な事件は、1911(明治44)年10月1日(18歳)に内村鑑三の聖書研究集会に入門したことであった。
さらにここで学んだキリスト教が矢内原自身のものとなったのは、翌年3月の母の死と翌々年10月の父の死を契機としてであった。

これよりさき、1912(明治45)年1月(矢内原19歳)に内村鑑三の愛娘ルツ子が〔19歳で〕亡くなり、その告別式にあたって内村が「これはルツ子の告別式ではない〔、天国へ嫁入る〕結婚式である」と言い、さらに埋葬にあたって〔一握の土を掴(つか)んで高く掲(かか)げ、〕腹わたをふりしぼった声で「ルツ子さん万歳(ばんざい)!」と叫ぶのを聞いて、〔矢内原は、雷に打たれたように全身を深く揺すぶられ、〕キリスト教とはいい加減な気持で接することのできない〔一生懸命のものだ、〕大変なものだということを強く感じた。

矢内原は、その年の3月に母を失った。
学期試験を中途にして〔急ぎ〕帰郷したが間に合わず、深い悲しみにとらわれたが、そのとき田舎の一本道を歩いていて、子羊を肩に抱いたイエス様を見、「泣くな我(われ)なり」と言うのを聞いたように思い、慰められた。

翌年(20歳)、父の死のときにはすでに多少の聖書知識を持っていたので、キリストを知らずに死んだ者の来世(らいせ)の運命について思い惑(まど)い、考えあぐねたすえ、内村を訪問したが、意外にも内村から「僕にも分からんよ……しかしこのために君自身の信仰をやめてはいけない。かかる問題は長い信仰生涯を続けていく間に〔、自らの実験により〕自然に分かっていくものだ」といわれ、失望したが同時に「先生にもわからない事がある!」という一大発見をし、「信仰のこと〔、魂の問い〕は、直接神様によって教えられなければならない。また〔信仰を抱きつつ問いを大切にして歩み、〕長くかかって学ばなければならない」ということを深く学んだ(注1)。

信仰に対するこの態度は、矢内原の一生をつらぬく姿勢となった。

〔2-④〕
また一高においては、新渡戸稲造校長の自由主義的な教育精神も強い影響を与えた。

内村鑑三と新渡戸稲造のみでなく、神戸一中の校長鶴崎久米一も、同じく札幌農学校の第2期生であったから、矢内原自からも言っているように、矢内原は札幌農学校の精神的な子供と言い得ないこともない。

とくに実証を重んじた矢内原の学風は、このことを示すものであろう。

〔2-⑤〕
1913(大正2)年9月(20歳)、矢内原は東京帝国大学法科大学に進んだ。大学の4年間についてはとくに記すべきことはないが、一高時代に校長であった新渡戸稲造からは植民政策を学んだ。また吉野作造教授の政治史の講義から思想的影響をうけた。


〔3-①〕
これらの自由主義的教授と内村鑑三との思想的影響によって、大学卒業後は民間で働くことを希望し、最初は朝鮮に行って働きたいと思ったが、両親のない家庭のことを考えて1917(大正6)年(24歳)に住友総本店に入社、別子鉱業所(愛媛県新居浜)に勤務することになった。

ここで3年間働いたが、その間に内村鑑三の聖書集会の先輩黒崎幸吉を中心とする職場キリスト教集会に参加し、同僚の疑問に答え、知人に信仰を証(あか)しするため、ガリ版刷りの「基督(キリスト)者の信仰」を書いた。

これは、矢内原の海外留学中に教友達の発起によって内村の序文を付して1921(大正10)(28歳)に「聖書之研究社」から出版され、矢内原の処女作となった。
                                   
〔3-②〕
1920(大正9)年〔3月、27歳〕に新渡戸が国際連盟事務局次長に内定したため、その後任に招かれ東京帝国大学助教授に任ぜられた。
続いて8月から英独仏米へ留学し、1923(大正12)年(30歳)に帰朝した。

これよりさき、1917(大正6)年5月(24歳)藤井武(たけし)夫人喬子(のぶこ)の妹愛子と結婚し、1918(大正7)年に長男伊作(いさく)、1920(大正9)年に次男光雄が生まれていたが、病床にあった愛子夫人は〔、1923(大正12)年(30歳)の矢内原〕帰朝後、間もなく天に召された。

〔矢内原の心は後悔の思いで深く痛み、愛子のことは生涯あまり語らなかったが、〕矢内原はいろいろな機会に、「この年は生涯における最もグルーミーな年であった」と語っている(注2)。

〔3-③〕
〔1923(大正12)年(30歳)、矢内原は植民政策講座の教授に就任し、学者としての公的生涯が開始された。〕
翌、1924(大正13)年6月(31歳)堀恵子と再婚し、以後研究に専念するとともに福音を証し続け、1925(大正14)年(32歳)には「帝大聖書研究会」を始めた〔。この研究会に集った学生たちは、矢内原の戦いをともにしつつ育てられ、卒業後、各地にその精神を伝えていった〕。
1926(大正15)年(33歳)には三男勝が生まれた。

このころ相ついで、朝鮮・満州、台湾、樺太(からふと)・北海道に調査旅行し、それらの研究結果は主著 『植民及(および)植民政策』(1926年)、論文集『植民政策の新基調』(1927年)、名著の評高い『帝国主義下の台湾』(1929年)等となってあらわれた。

一方、信仰的文章も黒崎幸吉の『永遠の生命』誌その他に寄稿された。
当時はマルクス主義が学界を風靡(ふうび)しはじめていた時代であったから、キリスト教徒の矢内原は同僚から不徹底等の批判をうけ、これにこたえるため真向からマルクス主義とキリスト教の関係をとりあげて『マルクス主義とキリスト教』(1932年)を書いた。

その立場を一言でいえば、科学と世界観を切りはなし、マルクス主義が科学であるかぎり、キリスト教と両立するし、キリスト教徒の科学者も科学の研究方法としてマルクス主義をとることができるが、世界観としてマルクス主義(唯物史観)とキリスト教とは相容れないことを主張した。これはこの方面における先駆的業績であった。

これと同時に矢内原は科学的研究の限界を強く意識し、その限界を超えて研究者に理想への確信を与えるものは信仰であるとした。

『植民及植民政策』の終章において、植民政策の理想実現の保証は、科学的にも歴史的にも与えられないことを説き、平和実現の保証を与えるものはキリストであることを述べた(注3)。

この間、1929(昭和4)年11月(36歳)に台湾留学生と家庭聖書集会を始め、これは1932(昭和7)年まで継続した。最初の家庭集会が植民地学生とともに始められたことは特徴的であった。

〔3-④〕
1930(昭和5)年3月(37歳)には内村鑑三が、続いて7月には藤井武が世を去った。
矢内原は11月に塚本虎二とともに藤井武全集刊行会を創設し、ほとんど独力で編集、校正、発送にあたり、1932(昭和7)年7月に完結した。

1931(昭和6)年9月(38歳)には(関東軍の大陸侵略である)満州事変が勃発し、矢内原の学問と信仰は一つになって〔、国家の不義〕満州事変と対立した。

1932(昭和7)年2月(39歳)に関東軍特務部から満州経営の助言を電報で依頼されたが、再度にわたって電報で断った。

同年夏には自発的に満州国視察を行なったが、〔同年9月、〕ハルビンに向かう途中匪賊(ゲリラ)の列車襲撃にあい、奇蹟的に難を逃(のが)れた。

この経験は神が矢内原を守ったものとして強い自覚を生み、帰国とともに、伝道のため11月から『通信』と題するリーフレットを発行し、知人に配布した。

〔3-⑤〕
1933(昭和8)年3月(40歳)の内村鑑三記念キリスト教講演会の聴衆中の2名の希望をいれて、5月から家庭聖書集会を再開した。この聖書集会はのちに今井館聖書講堂に移され、矢内原の死まで継続された。 

1932(昭和7)年(39歳)、33年と2回にわたって南洋群島に調査旅行を行ない、その結果は『南洋群島の研究』(1935年)としてまとめられた。

満州事変後の国内体制はしだいにファッショ化していき、言論に対する統制が加わり、『通信』および一般雑誌への寄稿を編集した『民族と平和』を1936(昭和11)年に出版したときには、二・二六事件(皇道派の陸軍青年将校たちによる軍事クーデター)の影響で発行が危ぶまれるといういきさつがあった。


〔4-①〕
1937(昭和12)年7月(44歳)には日中戦争が始まり、矢内原は『中央公論』9月号にこれを批判する『国家の理想』を書いた。
これはただちに全文削除の処分をうけ、大学内外において連携したファッショ勢力はこの論文を問題にし、矢内原を大学から追放しようとしたが、決め手を欠いた。

そのとき、10月1日に藤井武7周年記念講演会で行なった『神の国』の講演を掲載した『通信』が警察の手に入り、
「今日は、虚偽(いつわり)の世に於て、我々のかくも愛したる日本の国の理想、或(あるい)は理想を失ったる日本の葬(ほうむ)りの席であります。
私は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。
どうぞ皆さん、若(も)し私の申したことがおわかりになったならば、日本の理想を生かすために、一先(ひとま)ず此(こ)の国を葬って下さい。」
という一句が決め手となって、矢内原は大学を去った(「矢内原事件」)。

〔4-②〕
1937(昭和12)年12月(44歳)に大学を辞した矢内原は、ただちに1月から『通信』を『嘉信(かしん)』と改め、これまでのA4 8ページをA5 42ページとした。

4月には、お茶の水のYWCA小講堂で月1回の公開聖書講義を開始し、夏には山中湖畔で第1回の聖書講習会を開いた。敵は矢内原の踵(くびす)を咬んだが、これに幾層倍する進撃が開始されたのである。

1939(昭和14)年1月(46歳)には、土曜学校を開校し、アウグスチヌスの『告白』を講じた。
この姿勢は1945(昭和20)年8月(52歳)の終戦まで一貫してつづけられ、たじろぐことはなかった。

1942(昭和17)年(49歳)には、大学の演習出身者の支援によって大東研究室を創設し、大東亜(だいとうあ)共栄圏の批判的研究に着手したが、同研究室は1945(昭和20)年の空襲によって焼失した。

〔4-③〕
この間『嘉信』はしばしば発禁の厄(わざわい)にあい、1944(昭和19)年〔5月、51歳〕には警視庁から企業整備による廃刊届けの提出を求められた。矢内原は〔これを拒否し、〕薄田警視総監に面談を求め志(こころざし)を述べて言った、

 ―前略―
『嘉信』は形(かたち)小なれども国民の良心なり、国の柱なり。
『嘉信』を廃するは国民の良心を覆(くつがえ)し、国の柱を除くに等し。
『嘉信』は神によりて立てられたるものなれば、これを倒していかで国に善事を招かんや。
これを発行する手段、なお余(よ)にあるにかかわらず、余自らこれを廃するは神に対し国に対し忠なる所以(ゆえん)にあらず。
当局これが廃刊を強要せんか、当局は真に国事を解するものと言うを得ざるべし。
かく申すは広言を吐くに似たれども、弘安の役(えき)日蓮の故事もあることなれば、あえて所信を開陳して当局の清鑑を煩(わずら)す。
―後略―(『矢内原忠雄全集』第26巻、p113~114)

〔4-④〕
この意見書にもかかわらず、年末をもって廃刊を申し渡されると、1945(昭和20)年1月(52歳)からは第三種郵便によらざる『嘉信会報』を発行した。 

これは名前を異にし、用紙の割当てを受けないという点を除けば体裁内容ともに『嘉信』と全く同じであった。空襲によって印刷所が焼失すると、ガリ版刷りをもって発行された。

『嘉信』は文字通り不死鳥としていかなる弾圧にも屈せず、いかなる災害にも破壊されず、戦争の不義を批判して真理を宣(の)べることをやめなかった。


〔5-①〕
1945(昭和20)年8月〔15日、52歳〕、終戦の詔勅を矢内原は山中湖畔で聞いた。

この時新しい光がさしこんで、牧(か)う者なき羊のごとく心萎(な)えた日本国民を励まし、日本国を興(おこ)すためにキリストの福音を伝えなければならないと心に期した。

戦後の矢内原にとって福音の伝道が第一義の道となった。
11月には5度、〔経済学部より〕懇請(こんせい)されて東京大学に復帰したが、伝道と教授が両立しないときは何時(いつ)でも教授を辞職するという条件付きであった。

〔5-②〕
大学に戻った矢内原は1946(昭和21)年8月(53歳)社会科学研究所長になり、1948(昭和23)年6月(55歳)には経済学部長、1949(昭和24)年5月(56歳)には教養学部長になった。
教養学部長時代に起こった試験ボイコットに、体当りで突進して解決したことはよく知られている(注4)。

1951(昭和26)年(58歳)には東大総長に選ばれ、〔内村門下の〕南原〔繁〕総長につづく戦後2代目〔新制・東京大学の初代〕の総長として〔1957(昭和32)年(64歳)まで〕6年間その職にあった。

この間、毎日曜の今井館聖書講堂の〔聖書〕講義を一日も休んだことはなく、また東奔西走(とうほんせいそう)して福音を伝えた。

〔5-③〕
総長就任の翌年2月(59歳)には、いわゆるポポロ事件が起こり、学生が、〔学内に〕潜入した私服警官の警察手帳をとりあげ、このために警官が学内に入って学生を逮捕した。

この時、矢内原総長は大学の自治を主張するとともに、学生運動の暴力主義を戒めた。
〔学生のための人生の書として〕『キリスト教入門』が書かれたのはこの年であるが、同じころ論文集『大学について』を東大出版会から発行し、学生運動を論じた。

〔6-④〕
1957(昭和32)年(64歳)をもって東大を去ったが、自分が東京大学総長の職を去るのは、自由と平和の理想が日本を去ることの予言的象徴ではないかと憂(うれ)えた(注5)。

大学をやめた後は学生問題研究所を起こし、学生問題の研究と学生の相談相手たることを志した。

また1960(昭和35)年(67歳)には『東京独立新聞』の創刊を助け、日本民主化の逆行を批判した。
同年1月発病し、1961(昭和36)年8月には〔胃〕ガンが発見され、12月25日、日本民主化の将来を憂えながら信仰にあって世を去った〔。享年68、注6〕。

♢ ♢ ♢ ♢

(矢内原忠雄『キリスト教入門』角川書店、1968〔昭和43〕年9月の「解説」より抜粋。( )、〔 〕内は補足)


注1 愛する者を天に召された人々に送る、矢内原の慰めの言葉
メニュー「信仰と人生」のページ「信仰に生きる」006、「愛する者を天に召された人々に送る」を参照。

注2 召された妻愛子を歌った矢内原の詩「春3月」
メニュー「信仰と人生」のページ「詩歌」006、「春3月」および注を参照。

注3 矢内原忠雄著『植民及植民政策』(1926年、有斐閣)の結びの言葉
この学術書は、社会科学的な論述を終えたのち、以下の言葉で結ばれている。

「ただ一事は確かである。
すなわち人類はこれに対する希望を有することを。
虐(しいた)げらるるものの解放、
沈めるものの向上、
而(しか)して自主独立なるものの平和的結合。
人類は昔望み、今望み、将来もこれを望むであろう。
希望! 而して信仰! 私は信ずる、平和の保障は『強き神の子(キリスト)、不朽の愛』に存することを」
(『矢内原忠雄全集』第1巻、p483)

注4 東大教養学部の試験ボイコット運動
メニュー「信仰と人生」のページ「信仰に生きる」010、「罪の意識について」の注2を参照。

注5 「私が大学を去るのは、自由と平和の理想が日本を去ることの預言的象徴ではないであろうか-神知りたもう」(矢内原忠雄)

「私が〔東大〕総長に就任した当初はまだ学生運動が荒れ狂っていた。
それがこの数年間は静かになっていたが、私の総長任期の最後の年(1957〔昭和32〕年)になって再びやや活発な動きがあり、総長最後の日の20日ほど前になって、少数学生によるハンストまであった。

私が法学部緑会大会の席上でスト、殊にハンストの行動を批難したということを伝え聞いた10名ばかりの学生が、(ハンストを実行した当人たちをも交えて、)私に抗議するために赤ダスキで、総長室のある大講堂正面玄関に乗り込んで来た。

ちょうどその日は総長選挙の行われている最中であった。
私は面会せず、係員の説得によって学生たちはおとなしく引きあげた。しかし赤ダスキをかけた学生の姿を離れたところから見たとき、私の胸は短刀で突きさされたようなショックをおぼえた。

赤ダスキは〔アジア太平洋〕戦争中〔に〕応召(おうしょう)兵のかけた目じるしであって、思い出すだけで身ぶるいのする代物(しろもの)である。右翼と左翼の差異があるだけで、扇動(せんどう)によって赤ダスキで乗りこむこの学生だち。

学生総数1万名の中でのわずかに10名ばかりである。しかし私の学生の中からこの10名が出たことは、私にとってほとんど致命的な打撃であった。私はこの年月の教育上の努力が、無益であったのではないかと疑った。
それよりもさらに私〔の心〕を刺したものは、これら10名の学生の行動は日本の将来を象徴するのではないか、との思いであった。

そう思ってみれば、日本の水平線にはあちらこちらに黒い雲が起り始めている。
思想のない科学技術振興のかけ声、地球の上の平和と自由の必要を忘れて宇宙にバベルの塔を築くことへのあこがれと喝采(かっさい)、教育に対する政治の圧力、再軍備の靴音等々。
日本国民は民主主義のほんとうの精神も平和の心も体得しないままに、もと来た道へのあともどりを始めているのではないだろうか。

私が大学を去るのは、自由と平和の理想が日本を去ることの預言的象徴ではないであろうか。そう思うのは私のたかぶりであるだろうか。神知り給(たも)う。」
(矢内原忠雄「人生の転機」『嘉信』第21巻第1号、1958〔昭和33〕年1月より抜粋)

注6 矢内原忠雄特愛の讃美歌
讃美歌520番「静けき川の岸辺を」(クリックしてYouTubeへ)
【ご注意】
PC画面で、上記の青字題名をクリックしてもYou Tubeが開けない場合
①上記の青字題名を右クリックし、
②表示されたメニューの中の「新しいウィンドウで開く(N)」を選択してください。


『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会 : 書籍 : クリスチャントゥデイ

『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会 : 書籍 : クリスチャントゥデイ







『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会

2015年11月10日16時17分 記者 : 土門稔 印刷 Facebookでシェアする  Twitterでシェアする 関連タグ:内村鑑三無教会

+『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会

『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』



内村鑑三(1861~1930)というと、明治の無教会の創始者、堅固な信仰者にして思想家というイメージが強いのではないだろうか。『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』は、歴史社会学の視点からメディアとナショナリズムという切り口で、内村と無教会の捉え直しを図っている。そこから見えてくるのは、内村も揺らぎを持った一人の人間であったこと、そして雑誌メディアを活用した伝道方法の新しさである。インターネットの登場とともにメディアやコミュニケーションの在り方が激変する現代におけるキリスト教伝道を考えるとき、内村がやったことの中にはさまざまなヒントがあるように思われる。内村は堅苦しいどころか“面白い”、古いどころか“新しい”。

戦前を振り返るとき、「内村や矢内原(忠雄)は信仰故に『日本』を批判し得た」と語られがちだ。しかし、著者の赤江達也氏(台湾国立高雄第一科技大学助理教授)は、彼らの国家批判ばかりが注目されることで、彼らが同時に強い「愛国心」の持ち主であったという事実が見落とされているのではないかと指摘する。「日本人であること」と「クリスチャンであること」を彼らがどう調整していたのかを考えることで、「宗教」と「日本近代」について語り直すことができるのではないか。それが本書を貫いている問い掛けだ。

不敬事件における内村の「ためらい」

無教会とは何か? 牧師なし、洗礼なし、按手(あんしゅ)礼なし、教会なしのキリスト教。さらに「統計の拒否」という思想から、人数も規模も正確に把握できてはいない。内村が「無教会」を唱えるようになった原点には不敬事件がある

1891年、第一高等学校の教師だった内村は、学内の始業式で「教育勅語」に最敬礼をしなかったことで世間から大きな批判を受け、教師を辞する。この事件はこれまで、「内村の揺るぎない信仰による拒否」と捉えられてきたが、実際はもっと複雑なものであるという。内村は自身を「極左の愛国的キリスト信徒」と書くほどの愛国者であり、皇室への尊敬も強かった。しかしこの日、直前に教頭が「礼拝的低頭」を命じたため、それは宗教的行為になるかもしれないと考え、「ためらった」後、「チョット頭を下げ」た。

「お辞儀は礼拝を意味せず、との見解は私自身自ら赦(ゆる)し来つたところであり、かたや日本ではしばしば、アメリカでいう、帽子をぬぐ、という程の意味で用いられており、あの瞬間私にお辞儀をいなませたのは拒否ではなく実はためらいと良心のとがめだったのです・・・」(『内村鑑三全集』36巻333ページ)

しかしその結果、内村は世間からもキリスト教徒たちからも批判されることになる。

「世間の人々は、私が結局お辞儀することに同意した事実は確かめもせずに、ただ私の当初のためらいを目して断固たる拒否と見なします。一方長老教会の人びとは、自分ではお辞儀をするも差支えなしとしながらも、私が政府の権威に屈服した――と憐(あわ)れむべき彼ら狭量の聖徒らは考えます。――事に向つて軽侮の言葉をあびせかけて来ます」(『内村鑑三全集』36巻334ページ)

赤江氏は、この「ためらい」주저; 망설임こそが、内村の中にある「信仰」と「愛国心」の間のジレンマなのではないか、「揺るぎない흔들림 없다;信仰による拒否」と捉えることは内村の真意を見えにくくしてしまうのではないか、と指摘する。

メディア論から見た内村 「紙上の教会」

板ばさみで苦しんだ内村は、教会からも距離を置くようになり、1893年の最初の著書『基督信徒のなぐさめ』の中で初めて「無教会」という言葉を使う。

「余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる賛美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし」(『内村鑑三全集』2巻36ページ)

その後、多くの著作を執筆し、1897年に新聞『萬朝報(よろずちょうほう)』の英文欄主筆となる。そして1900年から1930年までは雑誌『聖書之研究』を刊行し、2000部から4000部ほどの発行部数だった同誌の購読料で生活していくことになる。

『聖書之研究』の読者は、各地で雑誌や聖書を共に読む読書会を作り、それが聖書研究会や集会につながっていった。また、内村は読者の投書を重視し、『無教会』という投書雑誌を試みている。赤江氏によれば、内村は読者共同体の中から各地に集会が生み出されていくような仕組みを作り、それを「紙上の教会」と呼んだ

「本誌(『無教会』)は元々教友の交通機関を目的として発行した者でありまして、一名之(これ)を『紙上の教会』と称へても宜しい者であります。即ち私共行くべき教会を有たざる者が天下の同志と相互に親愛の情を交換せんために発行された雑誌であります、(中略)記者が筆を執ること割合ひに少く読者が報と感とを傳(つた)ふること割合に多かるべき性質の雑誌であります」(『内村鑑三全集』9巻316ページ)

赤江氏は、この「紙上の教会」は、さまざまな理由から教会に行くことができない「弱者」のための構想であったと指摘する。例えば、『無教会』では、題字の脇に「孤独者の友人」という標語が掲げられ、地方の人々や「少女と老人の友」となることがうたわれていた。

『聖書之研究』や『無教会』は、教会を持たない、地方の孤独な信徒を結び付けるメディアであった。1917年の『聖書之研究』の事例を見ると、読者の投稿は、農家17%、商家14%、工人4%、教師15%、婦人6・7%、軍人2・2%、官吏5・2%と、読者層は幅広い。内村にとって、各地に散らばる多様な読者の共同性は、教会ではないが「紙上の教会」と呼び得るものであった。

「『無教会』は教会の無い者の教会であります、即ち家の無い者の合宿所とも云ふべきものであります、すなわち心霊上の養育院か孤児院のやうなものであります、(中略)さうして世には教会の無い、無牧の羊が多いと思いますからここに小冊子を発刊するに至ったのであります」(『内村鑑三全集』9巻71ページ)

内村は自分の雑誌の読者を「独立信者」と呼び、彼らの「孤独」を肯定している。独立信者には、「制度を以(も)つて或(あ)る団結一致」はない。しかし、その「隠れたる、而(しこう)して散乱せる、多くの孤独の独立信者」たちをつなげる仕組みが「紙上の教会」だったのである(『内村鑑三全集』13巻147ページ)。

内村は、雑誌メディアで聖書研究の場を作り出すことで、「大学」にも「教会」にも属さない在野の研究者、伝道者になった、と赤江氏は言う。そうした内村のあり方は、その同時代にも“新しい”ものであったが、インターネットやSNSの普及によってコミュニケーションの形が急速に変わりつつある現代においてもなお“新しい”。

内村が雑誌メディアを通して作り出した読者の共同性は、内村以後も第二世代の伝道者たちによって受け継が

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『「紙上の教会」と日本近代』(2)矢内原忠雄の信仰とナショナリズム 現代に託された内村鑑三の遺言



2015年11月10日16時18分

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矢内原のキリスト教信仰とナショナリズム



東京帝国大学教授の矢内原忠雄(1893~1961)は、1937年、いわゆる「矢内原事件」で大学を辞し、専業の伝道者となる。矢内原は『中央公論』誌上で「国際正義」と「国際平和」を訴え、さらに日中戦争を遂行する国家を激しく批判したために、大学を追われる。だが、赤江氏は、矢内原の思想においては、キリスト教信仰とナショナリズムが密接に結びついていると指摘する。

「然(しか)らば『全体』の観念の把握について、基督教は何らかの寄与を為し得るであらうか。然り、聖書のエクレシヤ観(教会観)は典型的なる全体主義社会であり、基督教の全体主義の理想はその中にあるのである。このエクレシヤ観を純粋に把握し、且(か)つ積極的に展開することによって、基督教は全体主義に『たましひ』を吹き込むことが出来る」(『矢内原忠雄全集』15巻141ページ)

矢内原は、戦時下において「キリスト教の全体主義の理想」を語っている。そして、その理想の全体主義の中心に、天皇が位置付けられる。

併(しか)し、私は真に日本人の心によって基督教が把握せられて、本当の歪められないところの基督教が日本に成立つ、日本に普及する、其(そ)の時の光景を考へてみますと、上に一天万乗の皇室がありまして、下には万民協和の臣民があつて何の掠(かす)めとる者もなく何の脅かす者もなく、正義と公道が清き川の如(ごと)くに流れる。さういふ国を私はまぼろしに見るんです。(中略)さうしたいんです。私はさうしたい。さういふ国に私の国をしたい」(『矢内原忠雄全集』18巻701ページ)

こうした矢内原の姿勢は、戦争が終わり、天皇の人間宣言が出された後も変わっていない。

「併し陛下、今の状態の儘(まま)ではいけません。聖書をお学びになれば、陛下ご自身の御心が平和を得、希望を得、勇気を得、頼り所を得られます。陛下に洗礼をお受けなさいとか教会にお出でなさいとか、そんな事を私は申すのではありません。陛下を基督教徒にしようといふのではありません。けれども聖書を学んで頂きたい。それがやがて国の復興の模範となり、基礎となるのであります」(『矢内原忠雄全集』19巻)

矢内原は、戦中も戦後も、「天皇のキリスト教化」と「日本精神のキリスト教化」を構想していたのである。

これまで、矢内原は軍国主義的ナショナリズムに抵抗した人物として論じられてきた。それは間違いではない。ただ、それと同時に、矢内原の思想において「キリスト教」と「ナショナリズム」、そして「天皇」への尊敬が並存しているという指摘は、日本近代のキリスト教を考える上で避けて通れない問題を含んでいるといえるだろう。

なぜ無教会は戦後、学問・宗教界を超えた威信を持ち得たのか?

戦後、南原繁(1889~1974)と矢内原が続けて東京大学の総長となり、無教会は学問・宗教界を超えた威信を持った。その理由として、赤江氏は4つの点を挙げる。

体制翼賛に組み込まれた日本キリスト教界とは対照的に、戦争反対の「殉教者」とみなされたこと。

彼らはキリスト者であると同時に、天皇を尊敬する愛国者であったこと。

特定の宗教団体や教派に属していないため、大学知識人として学問的な立場を中立的に代表しているように見えたこと。

同じ理由から、特定の教派ではなく、キリスト教の「精神」を代表する存在に見えたこと。

無教会であるが故に、「キリスト教精神」を語っても特定の宗教団体に関わるものではなく、憲法の信教の自由や公教育の中立性の原則を守りながら発言することができた。この指摘は非常に説得力がある。さらにこの無教会派知識人の系譜は、内村から洗礼を受け、マックス・ウェーバー研究の大家だった大塚久雄(1907~96)に受け継がれ、その「禁欲主義的プロテステンティズム」が資本主義を形成したという歴史的議論が力を持ち、戦後民主主義に滑らかに接続されていったという。

無教会の雑誌は、戦後の25年間に94誌が発行されている。教会神学者との間でも論争が活発に行われ、日本聖書学研究所が設立されるなど、無教会が聖書学を牽引する時代が続いた(この時代について、田川健三(1935~)は「聖書の研究と言えば無教会」と語っている)。しかし、1960、70年代に、矢内原や塚本虎二(1885~1973)が亡くなるころから、無教会派知識人の存在感は次第に薄れ、無教会信徒の高齢化が生じ始める。

「紙上の教会」の一員に託された内村の遺言

赤江氏は本書の最後に、1916年に内村が弟子に遺した預言のような遺言を引用している。

「余の事業と称すべきものは全く消え去るであろう。(中略)然しながら、余の事業は是がために必ず滅びないと信ずる。(中略)余の知らざる人より、あるいはかつて一回も余に接触せしことなき人より、あるいは遠方にありて余の雑誌又は著述によりて余の福音を知りし者よりして、余の精神、主義および福音を了解し〔て〕くれるもの現われて、思わざる所にこれを唱え、余の志を継承しかつこれを発展し〔て〕くれることを確く信ずる」

ここで書かれている「余の精神、主義および福音を了解し」、「余の志を継承しかつこれを発展」する者とは誰のことなのか? 赤江氏は、それは書物や雑誌を通して内村が語った福音を読む「私たち」のことに他ならない、という。そして本書をこう締めくくっている。

「『紙上の教会』としての無教会は、内村鑑三や無教会主義者たちの書いたものが読まれるとき、そして彼らをめぐって書かれたものが読まれるとき、そこに存在している。本書は、そのような仕方で、無教会の存在に触れているのである

ならば、本書や、本書を通して内村や無教会の書物を読む「私たち」もまた、「紙上の教会」に連なる一員であるということができる。

無教会とは何か? それは、日本近代の思想、教育、キリスト教にどのような影響を与えたのか? 本書は、最も新しく貴重な、そして現代的な問い掛けを持った研究だといえるだろう。



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『「紙上の教会」と日本近代』(3)大学と教会から離れ、オルタナティブなメディアを作った内村鑑三



2015年11月10日

+『「紙上の教会」と日本近代』(3):大学と教会から離れ、独自のメディアを作った内村鑑三 
著者・赤江達也氏インタビュー

『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』著者の赤江達也氏(写真左)


内村鑑三の明石訪問100年を記念して、10月17日には兵庫県明石市で、赤江氏と岩野祐介氏(関西学院大学神学部准教授)による講演会(明石内村鑑三研究会主催)が行われた。この講演のために来日していた赤江氏に、『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』について話を伺った。
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出版されて反応はいかがですか?

社会学、宗教学、歴史学、思想史など、いろいろな分野の方々から反響を頂いています。キリスト教史だけではなく、近代仏教研究でも参照して頂くことがあり、うれしく思っています。

時々、無教会の中心は雑誌ではなく、あくまでも集会であるというコメントを頂くことがあります。たしかに現在の無教会には、「エクレシア」(教会)を「集会」と翻訳するような、集会こそが信仰継承の場であるという考え方があります。それに対して、本書では「集会」と「雑誌」双方の役割に注目しながら、集会中心の考え方が戦後に強まることを指摘しています。

なぜこのテーマで本を書こうと思われたのですか?

私は岡山県の出身で、福音派のキリスト教という家庭環境で育ちました。子どものころから、家庭や教会で語られることと学校や新聞などで語られることが違うなぁ、と感じていました。例えば、教会で学ぶ創造論と学校で学ぶ進化論の違いなどです。また、岡山は地方都市ですから、キリスト教会というのは地域社会の中でどこか異質なところがあると同時に、さまざまな社会活動を通じて地域に根ざしているところもあります。私は、キリスト教と日本近代社会について研究してきたわけですが、その根底には子どものころに感じた齟齬(そご)の感覚があるのかもしれないと思います。

その後、筑波大学の修士課程で矢内原忠雄の信仰と学問と政治について学ぶ中で、無教会運動に興味を持ちました。そして、それを生み出した内村鑑三とはどんな人物か、不敬事件とは何かを考えるようになりました。その中で、内村鑑三、矢内原忠雄、南原繁、大塚久雄という無教会派知識人の系譜と、彼らを支える読者の広がりが見えてきました

中心となっているのが、無教会派におけるキリスト教信仰とナショナリズムのつながりですね

これまでの研究では、内村の不敬事件や矢内原事件などについて、彼らの国家批判の側面が強調されてきました。でも、彼らの著作を読むと、天皇への尊敬、愛国心やナショナリズムがはっきりと感じられます。それを無視して彼らを過度に英雄化してしまうと、かえって彼らの国家批判の意義も理解しにくくなってしまいます

例えば、矢内原が1937年に矢内原事件で東京帝国大学を辞任するきっかけとなった日中戦争批判は、やはり当時としては際立ったものだと思います。でも、矢内原は、同じ年に「民族と伝統」という論文で「天皇主権」と「臣民翼賛」を支持しつつ、「日本民族は天皇の臣民であると共に、天皇の族員である。之が日本民族の伝統的なる民族感情であり、国体の精華である」と論じています。また、戦時中には、「無教会主義精神に基づく全体主義」を語ったりしています。

私は、矢内原のナショナリズムは、当時の軍国主義的ナショナリズムとは全く違うものだと考えています矢内原は、天皇主権や全体主義をキリスト教的に意味付け直すことで、それらを批判しようとしています。そうした「キリスト教ナショナリズム」は、同時代のナショナリズム言説に近づくところがあり、それ故に危うさもあります。しかしそれは同時に、検閲などの制約の中で、同時代の人々の耳に批判の声を届けるための戦略だったのだと思います。そのあたりはまだまだ検討する余地があると思っています。

もう一つがメディア論としての無教会という視点ですね

無教会とは何かということを考えたときに、それはまずは雑誌の名前だったわけです。1893年の著書『基督信徒のなぐさめ』では、無教会は「教会から捨てられた」という否定的な意味合いで使われていました。でも、1901年には、自分の雑誌の名前として、ポジティブな意味合いで使われます。その雑誌『無教会』の最初の社説で、無教会に「教会のない者の教会」という定義が与えられます。そして『無教会』が「教友の交通機関」と呼ばれ、さらに「紙上の教会」と言い換えられるのです。

この『無教会』は、読者からの感想などを掲載する投書雑誌でした。『無教会』は18号で終刊になりますが、30年続いた『聖書之研究』にも投書欄がありましたし、その後も内村は何度も投書雑誌を試みています。読者たちが投書をするための場を作り続けているのです。そして無教会第二世代の指導者たちは、読者から書き手に変わっていった人々でした。つまり、雑誌は読者を訓練し、書き手へと変えていく場でもあったわけです。

当時、投書というのは既にあったのですか?

文芸雑誌では、投書という形態は一般的に見られるものでした。内村には『萬朝報(よろずちょうほう)』という新聞で働いた経験があり、しかも郵便制度や印刷技術が整い始めていました。個人で出版社を作り、雑誌を編集・刊行することが比較的簡単にできるようになった時代だったわけです。キリスト教でいえば、植村正久(1858~1921)や海老名弾正(1856~1937)も雑誌を作っています。ただこれらは、教団の見解を示すような機関誌、広報誌的な性格を持っていました。それに対して、雑誌を中心に投書や読者会や講演会など、読者がさまざまな形でコミットしていくことができる仕組みを作ったところに内村の新しさがあると思います。

内村は、教会がない地方でも、雑誌を通して主日を守り、一人で礼拝ができるようにと考えていました。また、内村が地方を訪ねて講演会を開くと読者が集まり、そこに集会が生まれていきます。だから内村は、単に雑誌を発行しただけではなく、雑誌を通して読者のネットワークを作り出し、各地に集会を作ることを促していったわけです。こうして、雑誌、講演会、読者会(集会)が相互に作用しあう中で、無教会運動が成立するのです。

今、出版不況が言われる中で、書店で作家が読者会や朗読会を開き、読者とつながる場を作ろうと力を入れています。それに似ていますね。

そうですね。例えば、若松英輔さんの「読むと書く」講座や、東浩紀さんの「ゲンロンカフェ」でしょうか。内村も、雑誌や本を出すだけでなく、聖書講義や講演会という名のトークイベントに出続けたわけですから似ていますよね。

もし、内村が今の時代に生きていたら、インターネットを駆使しているのではないでしょうか? 個人の有料メールマガジンは絶対やっていますよね(笑)

メールマガジンかどうかは分からないですが、インターネットは間違いなく活用していると思いますね(笑)。100年以上前の内村にとっての雑誌やパンフレットは、現在でいえばインターネットのような意味を持っていたのだと思います。

それができたのは、内村に新聞記者だったという経歴があったからでしょうか。

内村は『萬朝報』で働いていたけれど、いわゆる新聞記者ではなく、英文欄を担当する論説委員でした。『萬朝報』は、政治家のスキャンダルなどを扱うことで人気があったのですが、さらに学生などの知識層にアピールするために、内村や幸徳秋水(1871~1911)といった人々が採用されました。

今で言えば、『週刊文春』に有名な大学教授や文化人がコラムを書くみたいな感覚でしょうか?(笑)

そうです、そうです(笑)。内村は『萬朝報』を通してマスメディアの威力を知り、読者の存在を意識するようになったのだと思います。

そういう視点で捉えていくと、内村のやっていたことの斬新さや、現代におけるメディアの在り方にもつながって、大変興味深いですね。

『萬朝報』を離れた後、30年間発行し続けた『聖書之研究』は、内村にとってオルタナティブなメディアだったのだと思います。大学の教師でも、教会の牧師でもないにもかかわらず、聖書の研究を続け、キリスト教を伝道するための場を自分で作ってしまったわけです。内村にとって、聖書講義を行う集会と並んで研究・教育・伝道のための場となったのが、『聖書之研究』という雑誌でした。そして、その読者たち一人一人が形作るネットワークが「教会の無い者の教会」、すなわち「紙上の教会」だったのだと思います。

今後の研究のテーマは?

内村が「紙上の教会」を構想した原点には、不敬事件で「国体」に抵触し、学校を追われ、教会から批判された経験があります。この事件はきわめて有名ですが、その意義については、まだ明らかになっていないところがあります。そこで現在は、内村鑑三不敬事件についての研究を進めています。

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自警録 新渡戸 稲造


自警録 (講談社学術文庫) 文庫 – 1982/8/6
新渡戸 稲造  (著)
5つ星のうち 4.6    7件のカスタマーレビュー
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トップカスタマーレビュー

5つ星のうち 5.0新社会人のために
投稿者 格之助 投稿日 2005/8/3
形式: 文庫
 この本は、作者の新渡戸稲造が、当時の社会人のために書いた、明治・大正版「日経ア○シ○」見たいなものです。社旗で働いていくときの心得がとてもわかりやすく書かれています。文章は新渡戸稲造が書いたものそのままだそうです。なのに、びっくりするくらい読みやすい!今の人が書いたといても簡単に信じられてしまいます。そして、書いている内容の骨太なところは、やはり「武士道」の作者だけあるなーと思わせます。
 この本の読み方の例を僕自身であげて見ます。僕が働き出したとき、会社に会わず、世間の荒波にズタズタにされ、どうしようもなく落ち込んでいたときに、何気なく買った本がこの本でした。そして、この本を目を通していくうちに、どんどん元気づけられていくのがわかりました。簡単な言葉と骨太な論理と作者の失敗談も含んだ豊富な実例による文章が、僕の心に響いたんだなー。今も、落ち込んだときに拾い読み程度ですが読むと、あら不思議と元気がでます。みなさんも、落ち込んだとき詠んでみては。
コメント  20人のお客様がこれが役に立ったと考えています. このレビューは参考になりましたか?
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5つ星のうち 5.0「今日の教育家は福沢で、未来の教育家は新渡戸だ」
投稿者 LED LEPP トップ500レビュアーVINE メンバー 投稿日 2005/3/25
形式: 文庫 Amazonで購入
 この本の帯には、確か「新渡戸流の処世術」云々といった旨が書いてあったと思います。
 で、他の処世術の本にもあるように、
(自己に対しての他の人の)一般的な考え方や反応なども書いてあり、それに対する「心のもちかた」が、書かれています。

 「心のもちかた」の部分については、
昔の日本人の考え方や、孔子、中国の漢詩、欧米での考え方など、
新渡戸先生ならではの、膨大な「知」の引き出しから、実に様々な引用を用いて、説明がされていますが、
どれも読みやすい文章であるのが、読者にとって、とてもありがたいです。

 また、本書には、当時の日本人についても書かれています。
 読んでいると、
「当時の日本人も、今の日本人も、程度の差はあれ、やはり同じ日本人だな〜」と思える部分がたくさんあり、現代でも、通用するものだと思います。

 私自身が、最も感銘を受けたのは、「人間は、感情で判断する者と、理論で判断する者の2つに分かれる」という趣旨です。
 「主観で判断する者」と「客観(あるいは真実性)で判断する者」とも言えるでしょう。
 そして、「ある外国人が日本人を評してかくのごとく感情に高い国民は憲法政治を実行し得るだろうかと疑ったこともある。(P169)」とも書かれてます。

 現在の日本をみて、どう思われますか?
 本質的に同じ事実でも、それに関する者次第で、意見をコロコロ変えたりしてませんか?

 民主主義国家として、資本主義国家として、十分に生育した大人でしょうか?
 選挙の投票率の低さは、「大人」といえるでしょうか?
 経済の繁栄は、もちろんいいことですが、時には、「大人」というよりも、ただの「肥満体」なのでは?と思わされることもあります。

 タイトルの言葉は、本書の冒頭で引用されている言葉です。
 この本を読むと、タイトルの後半部分「未来の教育家は新渡戸だ」が、より一層、実感できます。
 誰が読んでも、所々で、「ああ、そうか!」とか、「そうそう」と思える本だと思います。
  
 私は、是非とも多くの人に読んでもらいたいと思います。 
コメント  16人のお客様がこれが役に立ったと考えています. このレビューは参考になりましたか?
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5つ星のうち 4.0欲を言うともう少し読みやすくしてほしかった
投稿者 飛躍 投稿日 2011/9/30
形式: 文庫
内容は本当にすばらしいです。
新渡戸先生本人が、万人が読めるようにと言っているだけあって当時にしてはかなり読みやすく書かれていると思います
現代の我々でも十分読めますが、さすがに100年前の人の言葉だけあって本に慣れてない人は少し読むのに集中力がいりますw
願わくばタチバナ教養文庫の「修養」くらい易しく現代的な言葉使いにして欲しいかった。
新しいの出ないかなあ。
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5つ星のうち 5.0無人島に持っていく本
投稿者 林伸好 投稿日 2011/4/28
形式: 文庫
自分の読書量は多分他のレビューされている人に比べてるとかなり少ないと思います。しかし、この本は、
日本最高の随筆と信じています。
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内村鑑三、矢内原忠雄の悩みに答える - 礫川全次のコラムと名言

内村鑑三、矢内原忠雄の悩みに答える - 礫川全次のコラムと名言

内村鑑三、矢内原忠雄の悩みに答える

2014-09-09 05:03:00 | コラムと名言
◎内村鑑三、矢内原忠雄の悩みに答える
 昨日の続きである。深刻な悩みを抱いた矢内原忠雄は、意を決して、内村鑑三の自宅を訪問する。矢内原の問いに対する内村の答えは意外なものだった。
 当時の先生は門戸閉鎖主義で、容易に人を近づけなかつた。先生の名を慕うて来る崇拝者の群に門前払ひをくわし、研究の妨げになるといふ理由で、訪問者や執筆・講演の依頼をことわる旨を再三『聖書之研究』誌上に記され、又門扉〈モンピ〉に貼られた。私は心から先生を敬慕し、先生の言に従順であることが先生を愛する者の道であることを信じ、個人的な問題で先生をわずらはすことを絶対に避た〈サケタ〉。聖書の教についても、直接に先生に質問することを敢てしなかつた。いはば私は先生と私との間に、三尺の距離を常に置いた。それ故、先生の聖書講義に入門を許されてから満二年たつたが、私はそれまで一度も先生の家を訪ねたこともなく、個人的に先生と話しあつたこともなかつたのである。この遠慮ぶかい弟子が、思ひ切つて先生を訪ねたのであるから、それが私にとつていかに重大な危機であつたかが、わかるであらう。
 先生は在宅してゐられて、すぐに会つて下さつた。私が来意を告げると、だまつて聞いてゐた先生は唯一語、「おれにも、わからんよ」と強く言ひ切られ、頬をふくらせ、鷲のやうな眼を窓の方に向けられた。そのまま沈黙の中〈ウチ〉に数秒が過ぎた。致し方なく私は立ち上り、うやうやしく先生の前にお辞儀をして、辞去しようとした。その時先生が呼び止めて、言葉をやわらげ、そのやうな問題は、私自身が長く信仰生活をつづげて居れば、いつのまにか、わかるともなく自然に解決のつくものであること。わからない問題が起つても、私自身の信仰の歩みをすててはいけないことを、さとされた。
 戸外に出た私の心に、大きな驚きと落胆があつた。「先生にでも、わからない事がある!」之は私にとりて、驚くべき発見であつた。かうして先生は私の眼を、直接神にひき向けて下さつたのである。この時先生が、いろいろの方面から言薬をつくして説明を試みて下さつたとしても、私の心を満足させるような明決な解答は得られなかつ走に違ひない。「おれにも。わからんよ」との一言は、数百言の説明にまさつて、私に、善き解決の道を示されたものであつた。
 内村鑑三という人物の人柄を髣髴とさせるエピソードである。それにしても、矢内原忠雄の巧みな語り口には感服させられる。
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 キリスト者・矢内原忠雄が悩んだこと
2014-09-08 03:27:48 | コラムと名言
◎キリスト者・矢内原忠雄が悩んだこと
 最近、渡辺京二氏の『日本近世の起源――戦国時代から徳川の平和へ』(洋泉社MC新書、二〇〇八)を読んでいる。刊行時に買った本だが、本格的に読み始めたのは、数日前からである。
その三一二ページに、次のような記述がある。
 ザビエルは「日本人は御受難の意義を聴くことを非常に喜ぶ。或る人々は、それを聴く毎に涙を流していることがある(21)」と言う。また彼が異教徒として死んだ者は救われず地獄に堕ちると説くと、日本人たちは親や祖先のことを思って泣いたというのは有名な話だが、なぜ親たちを救えないのか、なぜいつまでも地獄にいなければならぬのかと問うて泣き続ける彼らを見ると、ザビエル白身も「悲しくなって来る」のだった。
 (21)とあるのは注の番号で、三一二ページ左には、「(21)『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄』下巻(岩波文庫・一九四九年)一一九ページ」という注記がある。
 さて、この話を読んで、ひとつ思い当たることがあった。近代日本のキリスト者にも、異教徒のまま死んだ自分の親のことで、深刻に悩んだ人物がいたような記憶がある。はて、それは誰だったか。また、それをどこで読んだのか。
 気になって、書棚をあさっているうちに、社会思想研究会編『わが師を語る』(社会思想研究会出版部、一九五三)という古びた文庫本(現代教養文庫)を見つけた。何となくピンとくるものがあって開いてみると、一二編中の一編、矢内原忠雄「内村鑑三」の中に、次のような文章を見出した。

 その年〔一九一二〕三月、桜の花が一高の寮の庭に咲いてゐた時、私の母が死んだ。私は試験の途中で、急いで郷里に帰つた。私はほんとうに悲しかつた。しかしルツ子さんの死によつて先生〔内村鑑三〕が特に力を入れて説かれた復活の信仰が、私を支へて、深い悲しみの中にも何かあかるみを見る思ひであつた。
 その翌年(大正二年・一九一三年)夏、私は一高を卒業して東京帝大に入つた。九月に大学の新学年は始まつたが、私は郷里で父の看護のため、しばらく上京が出来なかつた。遂にかの記念すべき十月一日、父は世を逝つた。母も父も、キリストを知らずに死んだ。しかし前年母の場合は、ルツ子さんの昇天後間もない時であり、先生の力強い復活の信仰の教〈オシエ〉によつて、私は母の死後の運命についても、単純な気持で平安を感じてゐた。然るにそれから一年半経つて、私の聖書知識もいくらか進んだ結果、父の死の場合は、キリストを知らずして死んだ者の死後の救〈スクイ〉の問題が、大きな疑問となつて私を悩ました。私は書物を読み、祈り、考へたが、私の疑問を明快に解いてくれるものは何もなかつた。とうとう私はこの疑問が解かれぬ以上、私の信仰生活は一歩も前進出来ぬデツド・ロツクにつき当つたやうに思ひつめた。そこで私は数日間の躊躇の後、遂に意を決して、ある夜、おそるおそる内村先生の門をたたいた。それは信仰の事にあかるい先生は、この問題についても明快に示して下さるであらう。せつぱつまつた私の疑問を解いて下さるであらうといふ、深い信頼と期待から出た行動であつた。【以下は、次回】

 うっすら記憶にあったのは。まさに、この文章であった。つまり、異教徒のまま死んだ自分の親のことで、深刻に悩んだ人物というのは、矢内原忠雄のことであった。
 ザビエルが接した一六世紀の日本人キリシタンも、東京帝国大学に通う教養あるキリスト者も、まったく同じことで、同じように深刻に悩んだのである。これは、日本人のキリスト教受容という問題を考えるときに、注目しなければならない事実であろう。
 さて、この若きキリスト者・矢内原忠雄の悩みに対して、内村鑑三は、どのように答えたのだろうか。なお、上記引用文中、「ルツ子」とあるのは、内村鑑三の長女・内村ルツ子のことである。彼女は、一九一二年(明治四五)一月、一九歳で夭折した。

中村勝己 - Wikipedia

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中村勝己

中村 勝己(なかむら かつみ、1924年7月19日 - 2013年7月26日[1])は、日本経済史研究者。慶應義塾大学名誉教授アメリカ合衆国の経済史資本主義成立史)研究を端緒に、ピューリタニズムおよび近代資本主義の宗教社会学的研究、自らの信仰の基盤である無教会主義キリスト教の歴史的研究などを行った。

略歴[ソースを編集]

家族[ソースを編集]

  父は医師中村勝屋、母佐多子(旧姓山本、山本協一は実兄)、妻は植物学者矢部吉禎の四女花子、長男は古代オリエント学者・ヒッタイト学者で元山陽学園大学教授の中村光男。

著書[ソースを編集]

  • 『アメリカ資本主義の成立』日本評論社、1966年
  • 『アメリカ資本主義論』未來社、1971年
  • 『近代文化の構造ーーキリスト教と近代』筑摩書房、1972年 [講談社学術文庫、1995年]
  • 『一般経済史』慶應義塾大学通信教育教材、1976年
  • 『一般経済史』筑摩書房、1978年 『世界経済史』講談社学術文庫、1994年
  • 『内村鑑三と矢内原忠雄』リブロポート、1981年
  • 『現代社会の構造ーー経済史家の見た後進国問題』リブロポート、1984年
  • 『経済的合理性を超えて』みすず書房、1989年
  • 『イギリス歴史紀行』リブロポート、1991年
  • 『キリスト教と社会科学』ATD・NTD聖書註解刊行会、1994年
  • 『近代市民社会論 ペンは劍より強し』プリコ 2005
  • 『現代とはどういう時代か』江ノ電沿線新聞社 2005

編著[ソースを編集]

  • 『受容と変容ー近代日本の経済と思想』みすず書房、1989年
  • 『マックス・ウェーバーと日本』みすず書房、1990年
  • 『歴史の中の現代』編著 ミネルヴァ書房、1999年

編集[ソースを編集]

  • 矢内原忠雄『キリスト者の信仰』全8巻(解題)岩波書店、1981-82年。
  • 矢内原忠雄『矢内原忠雄未発表聖書講義 イザヤ書・ミカ書』(解題)新地書房、1984年。
  • 矢内原忠雄『戦時下松本新年講演集』(解題)新地書房、1990年。
  • 矢内原忠雄『山中湖聖書講習会 講話・講演・感想』(解題)新地書房、1991年。

[ソースを編集]

  1. ^ 中村勝己氏死去「東京新聞」

関連項目[ソースを編集]