2016/09/30

無教会&クエーカー|新時代のキリスト教

無教会&クエーカー|新時代のキリスト教




2012-03-01 12:51:24
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$新時代のキリスト教
17世紀のイングランドで、さまざまの会派が乱立する宗教的激動の時代に、ジョージ・フォックスとクエーカーも誕生した。

ジョージ・フォックス(George Fox、1624年7月 - 1691年1月13日)は、イギリスのレスターシャー州ドレイトンインザクレイ(現在のフェニードレイトン)でうまれた。父クリストファー・フォックスは機織り職人で、「正義のクリスター」と近隣の人々から呼ばれ、母メアリー・ラゴは「殉教者の家系の出」であると述べている。

正式の学校教育を受けていなかったが読み書きはでき、日記はクエーカー以外にも人気があり、現在も読まれている。http://www.strecorsoc.org/gfox/

幼い頃から聖書に魅了され聖書の勉強を続けた。「私が11歳になった時、純粋さと礼儀正しさを知った。なぜなら、子どもだった時、私は純粋なまま歩んでいく方法を教えられたからだ。神は私にあらゆる事柄について敬虔であれと教え、そして、敬虔深く2つの方法を実践するように教えた。すなわちそれは、内面的には神に対して、外面的には人に対しての実践である。」

大人になって、家族は「牧師になったらいいのではないかと考え」たが、そうせずに靴職人と牧畜業者の見習いになった。羊飼いとして過ごした短い時期は、人生観を形成するのに大変重要であった。アベル、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデが全て羊飼いあるいは牛飼いであったということ、そしてそれゆえ、学問的な教育は聖職者の素質とは関係がないということを指摘している。

牧師を訪ね、宗教的な事柄について長い討論を行っても、多くの問題について不一致が多く狂人呼ばわりされた。友人たちのふるまい、とりわけ飲酒について見下すようになった。ある晩の祈りの中で、彼は内なる声が「お前はいかに若者たちが空しさの中にいるのか、年老いた者たちが地に埋もれているのかを見たのだ。そして、お前は彼ら全てを見捨て、関わらないようにし、彼らに対してよそ者でいなければならないのだ」と言うのを聞いたと記録している。

【最初の旅】
19歳の1643年9月に苦悩の中、光を求めドレイトンインザクレイを離れた。宗教学者らが教えている教義に自ら沿っているとは感じられない中、聖職者仲間を精力的に捜し求めたが、「彼らから安らぎを得られなかった」。というのは、フォックスが悩んでいる数々の問題に対してあまりにも能力不足に思われたからである。

1644年6月、失望と落胆の中で故郷に戻っても、手助けしてくれる人は見つからなかった。フォックスの家族や友人たちは、困難を解決する方法として、結婚や軍隊への入隊という道を提案したのである。間もなくもう一度旅に出なければならない、しかも今度は、いずれ遭遇することになる宗教の姿に近づくための探求の旅にしなければならないのだと決心した。承服できない事柄に対し、妥協するのではなく、自分の心の声に従い挑戦するのだと心を決めた。

【「内なる光」との出会い】
それから数年にわたり、イギリス中をひたすら旅し続けた。1646年、22歳で「生けるキリストの内なる光」に触れ、信仰の一大飛躍を経験した。

キリスト者は外部に向けての実践の点でそれぞれ異なるが、全てに言えることは、信仰のゆえに「救われた」と考えていることである。ゆえに、真の魂の回心を経験しない限りは、儀式のようなものは大して重要と考えないでいられる。

聖職者に必要とされる資質は、聖なる魂によって与えられるのであり、教会での研究によって与えられるものではない。このことは、誰もが聖職者になる資格を持つことを暗に意味している。そこでは、神の精神が女性も含めた彼らを導くことが想定されている。

神は「従順な人々の心の奥深い中心に住む」のであって、宗教的経験は教会という建物によって定義されるものではない。実際、フォックスは建物としての「教会」という言葉を使うことを拒み、その代わりに「尖り屋根の家」という言葉を使った。この用語は、現在でも多くのクエーカーが使い続けている。フォックスは野原や果樹園などで礼拝をすることを好み、神の存在はそういう自然な世界の中でもまた感じられると信じていた。

分派の聖職者たちの中にも、その状態を説明できるような人物は誰一人としていないと知ったフォックスは典礼、聖職、教会出席を拒否し、真理は聖典や信条の中にではなく、魂に直接自らを示される神の声の中に見出されると教えた。

【迫害】
このような教えを認めれば教会組織が崩壊してしまうので、国教会からもピューリタンからもフォックスらは殴打などの激しい妨害を受けながら放浪を続けた。生涯法廷に引き出されること60回、投獄8回、獄中生活は計8年に及んだ。

1669年にフォックスは、共に投獄されていた上流階級の女性で早くからの改宗者、マーガレット・フェルと結婚した。マーガレットは夫が死去し、再婚だった。二人の宗教活動は、互いに人生の根幹を成すものとなり、大量の業務を共同で行った。

【アメリカへの旅】
1671年、アメリカ大陸に行き2年間滞在した。フォックスは先住民と会いたいと思い、先住民はクエーカーの方法に興味を持っていた。フォックスは先住民の普段の物腰に感動し、愛情と敬意を表明、「先住民には神の光と聖霊はない」という教会の意見に真っ向から反対した。
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【日記と手紙】
1691年1月13日に死去し、日記は1694年初版が出版された。日記と手紙は宗派を越えて、「真理の光」を求める人々に読まれ、17世紀の町や村の日常生活を詳しく知ることができると歴史家にも利用されてきた。http://www.strecorsoc.org/gfox/

「フォックスの神秘体験は宗教、宗派を越え、民族、性別、時代を越え、死をも恐れず「真理の光」を求める者が体験する、魂の内奥の普遍的ドラマである。

詩人ホイットマンは、「ジョージ・フォックスは人間の恐らく最も深くにある静かな時間に起き上がる思考(人間の精神の最も内にある考え)を表している。この思考は神の思考であり、人間に備わった道徳と不道徳を合わせたものである。偉大なり。この考えはいつも偉大で、他のあらゆるものより偉大なものである」と書いた。

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2012-02-24 15:25:34
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教義や教会や聖職者の介入を必要とせず、「内なる光」によるキリストとの直接の交りと体験を重視するクエーカーは既成教会からすさまじい迫害を受けてきた。

17世紀ジョージ・フォックスによりスタートしたクエーカーは、特別な宗派を作る意思はなく「主を待ち望む」人々の集まりとして起こった宗教運動で、お互いを「フレンズ(友)」呼び合い集会では感動のあまり震えることがあったことから、白眼視する人々から「クエーカー」とあだ名された。現在ではReligious Society of Friends(キリスト友会)が公式名称として使われている。
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16世紀のイギリスではヘンリー8世の離婚と再婚をローマ教皇が認めないことで、国王が英国教会の首長となり(1534)国教会が独立する改革が始まりカトリックと対立した。1558年から1603年まで統治したエリザベス1世は、教皇が結婚を認めないアン・ブリンとヘンリー8世の間に生まれた子であったため、即位すると万事を国教会の方へ変えていった。1570年教皇パウロ5世はエリザベスを破門すると、国教会の独立は決定的となった。

この100余年宗教的不安定が続き、多くの会派が誕生しては消えた。Family of Love(愛の家族)はヘンリー・ニコラス(1502頃~80)が神のお告げにより作ったといわれる会派で、20年間著作に専念したあと、弾圧されオランダからドイツへ逃げた。その教えは神秘的で汎神論的、博愛主義的で無律法傾向を帯び、17世紀終わりにはクエーカーに溶け込み消滅したが、初期クエーカーに影響を与えたともいわれる。

ピューリタン(清教徒)は、イングランド国教会の改革を唱えたキリスト教プロテスタント(カルヴァン派)の大きなグループで教会を聖書に基づく、清いものに変えようとする一派だった。ピューリタンの中には祖国での弾圧を逃れ、1620年、メイフラワー号に乗りアメリカに移住した者もいる(ピルグリム・ファーザーズ)。

その他さまざまの会派が乱立する宗教的激動の時代にジョージ・フォックスとクエーカーも誕生した。

ピューリタンは弾圧を逃れ、信仰の自由を求めて新天地アメリカに渡ったが、先住民と遅れてきた他宗派への対応は寛容ではなかった。クエーカーはイングランドで弾圧され、アメリカへ渡ればピューリタンに弾圧された。 「続く」
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2012-02-24 14:27:31
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戦争とテロの背後には戦意高揚のため宗教やカルトが利用されるのはよくある話だが、クエーカーは第二次世界大戦でのキリスト教会のナチス支持には加担せず平和主義を貫いた。

第一次、第二次世界大戦で英米クエーカーの平和活動は目覚ましく、ノーベル平和賞を2度与えられている。アメリカ在住の日本人がマンザナール強制収容所に収容されたとき、身の危険も顧みず日本人のために働いたハーバード・ニコルソンン、エスター・ローズ他多くのクエーカーがいた。
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戦後はクエーカーが主宰している海外援助団体アメリカ・フレンズ奉仕団から沢山の衣料や薬が日本へ送られてきた。ヨーロッパやアフリカなどでもアメリカ・フレンズ奉仕団記章が屋根に付いた車は決して空からの空爆を受けなかったという。
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第一次大戦直後から、クエーカーたちは、飢餓にあえぐドイツの大衆に救援物資の供給を活発に行ってきたので、第二次大戦中ナチスはクエーカーについては手を出さない政策を採っていた。かつてイギリスやアメリカからきたクエーカーたちの支援を覚えていたパイロットはフレンズ奉仕団の車は空爆しなかった。これにより、ある程度自由を得たクエーカーは大きな危険を犯しながらユダヤ人を援助救出した。
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17世紀に誕生したクエーカーは当初から男女差別に反対し、アメリカではネイティブアメリンとも真の友人として接し伝統には敬意を払い共存を願い、奴隷解放運動をも積極的に展開した。

少数派ではあったが「アメリカの良心」と呼ばれ世界に影響を与えてきたクエーカーは、イギリスでの誕生から激しい迫害に合ってきた。

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2012-01-12 17:04:40
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始めて「銀河鉄道の夜」を読んだ70年代は梅原猛氏をはじめ、賢治が熱心な法華経信者であったことから、法華経の世界を表現した作品という評価が定着していた。しかし「銀河鉄道の夜」では賛美歌や人の名前など、エキゾチックなキリスト教的な表現が多用され、この鉄道の旅は十字架から始まり、十字架で終わっていることから、賢治は聖書も深く読んでいると私は確信していた。

賢治とキリスト教のかかわりを知るのは、その後数十年経ってからでした。
NHKテレビの「人間大学 宮沢賢治」の講師をつとめた畑山博氏は『美しき死の日のために――宮沢賢治の死生観――』(学習研究社)で、賢治の一生を、既成宗教との戦いの末に自らの安らぎの死後世界を獲得していく魂の軌跡と見る・・・と言ってるように、賢治は仏教においてもキリスト教においても既成宗教を拒否し、無欲の自己犠牲的宗教に共感していました。

仏教で最もその色彩が強いのは日蓮であり「法華経」といえるでしょう。賢治が田中智学の「国柱会」へ突き進むのは当然の流れです。キリスト教においては小市民的な栄達を嫌い、どこまでも理想のみに殉じていこうとする非妥協的な内村鑑三の「無教会」がありました。

「法華経」と「福音」はそれを実行する者は迫害される運命にあり本質的に近く、内村の著作「代表的日本人」5人の中に、宗教家ではただ一人「日蓮」を書いています。

「日蓮聖人の生涯」


【斎藤宗二郎】
無教会主義のキリスト教徒、斎藤宗二郎は賢治より18才年上で「雨ニモマケズ」のモデルとも言われる人物で、宗派を超えた交流がありました。

1877年岩手県花巻市にお寺の子供として生まれ、小学校の教師になりますがふとしたきっかけで、聖書を読むようになりました。1900年冬洗礼を受け、花巻市ではじめてのクリスチャンになった日から親には勘当、人々にはいわれのない中傷を何度も受け、ついには小学校の教師を辞めるはめになります。

キリスト教がまだ「耶蘇教」と呼ばれ迫害を受けていた時代、町を歩いていると「ヤソ」とあざけられ、石を投げられガラスが割られ、家を壊されたこともあったそうです。迫害はエスカレートし9歳の長女は「ヤソの子供」とばかにされお腹を蹴られ、腹膜炎を起こし数日後9歳という短い生涯を閉じました。

教師の職を失った宗次郎は朝3時から新聞配達、牛乳配達をし重労働の中、肺結核を患い何度か血を吐きながらも夜遅くまで働き、聖書を読み、祈ってから寝るという生活を20年も続けました。

あのように自分の娘を失ったにもかかわらず、冬は雪が積もると小学校への通路を雪かきをして道を作り、雨の日も、風の日も、雪の日も「でくのぼう」と呼ばれても休む事なく、地域の人々のために働き続け、新聞配達の帰りには、病人を見舞い励まし慰めました。

やがて宗次郎が東京に引越しする事になり、汽車に乗るために駅に行くと、そこには大勢の人々であふれていました。なんと迫害していたはずの町長、学校の先生と生徒、町中の人々が集まっていました。

【賢治と宗次郎】
賢治の年譜の15歳の12月に、「キリスト者・斎藤宗次郎が質物を出しに来て驚く」と書かれており、一方宗次郎の日記にはお金がなくて、質屋だった賢治の家に金時計を預けてお金を借りたことがありました。そういう姿を見た賢治が、気の毒に思って「80円引替に渡してくれた」とのちに回想しています。賢治が最初の詩集『春と修羅』を出版する前のゲラを、宗次郎に見せていることからもゲラを見せる間柄だったようです。

その日記には宗次郎が新聞配達をしていて集金に行ったとき、農学校の先生をしている賢治の職員室へ立ち寄って、「宮沢先生はたくさんレコードを持っていて、ベートーベンとかモーツァルトとかドヴォルザークとか聴かせてもらった」と書かれ、さらに賢治と二人でストーブを囲んでいる様子をスケッチして日記に残しているそうです。

宗教のエッセンスに触れた人間には仏教もキリスト教もユダヤ教も対立はないのです。それゆえに独善的、排他的既成宗教には激しく拒否反応を示しました。





「雨にも負けず」
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
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2011-10-30 20:19:40
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無教会主義とクエーカーは類似点が多く、内村は米国留学以来クエーカーとの交際があった。札幌農学校同期の新渡戸稲造をはじめ、日本のクエーカーとも親交が深く、内村の弟子の中には後にクエーカーに入信した者も少なくなかった。

クエーカーは17世紀にイングランドでジョージ・フォックスにより設立された宗教団体で、世界各地に集会がある。無教会同様信者数が少ない割に社会へ与えた影響は大きく、昭和天皇の家庭教師エリザベス・ヴァイニングもまたクエーカーであった。作家でもあるヴァイニングの著書『皇太子の窓』は、世界の58か国で読まれベストセラーになり、世界における皇室のイメージ・チェンジに貢献したそうです。

クエーカーには経典や正式な教義箇条のようなものはなく、最も中心にある考えは、内なる光である。
神父、牧師、教会は必要とせず、洗礼、聖餐式等の儀式は行わないなど無教会と類似している。
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ジョージ・フォックス(クエーカーの創立者)    ウィリアム・ペン(ペンシルベニア州の創立者)

以下wikiより抜粋

初期のクエーカーは自らを背教の時代の後の真のキリスト教会を回復するものと考えていた。その為、この時期自らを単に聖者または光の子と呼んでいた。もう一つの公の名称は、真理の友であり、真の状態を示す「内なる光」として初期のクエーカーの教義の中心点を反映していた。

「クエーカー」という名称は、ジョージ・フォックス師がダービーのベネット判事に神名冒涜罪で裁かれた1650年に初めて使われた。フォックスの手記に依ると、ベネットは「私たちが神の言葉でわが身を震わせた故にクエーカーと呼んだ」。



活動が拡大すると、反対と迫害を受けはじめた。クエーカーはイギリスの島々だけでなく植民地でも投獄され、殴打された。マサチューセッツ湾では信仰を捨てなかったために処刑されたクエーカーもいる(最も有名なのは、メアリ・ダイアーである)。ペンシルベニア州はウィリアム・ペンがクエーカーが安全に暮らし信仰を守れる安住の地として作り上げた。迫害にもかかわらず、活動は急速に強く結びついた組織に成長した。

フォックスたち初期のクエーカー伝道師は、全ての人に神父・牧師や聖餐による取り次ぎがなくても神が現れると信じていた。

友会は良く「神は全ての人に現れる」、「内なる光」、「内なるキリスト」、「内なるキリストの聖霊」などの多くの言葉で言い表してきた。

聖餐(聖礼典)
初期の友会徒は、神聖が個人の生活の(生活全般が神聖である)全てに現れると考え、どんな特別な儀式や聖餐式を行うことも必要ないと信じた。そのため、入会の儀式として洗礼は行わなかったし、礼拝の方法は、正統派のキリスト教徒からは異端とみなされた。



質素な生活
クエーカーの生活で多く見られる通り、質素な生活を実践することは、時を越えて行われてきたが、クエーカーの思想を形作る基本となっている。こうした基本は現在質素・平等・誠実の証言となっている。友会徒は話をするときと同様に衣服と外見に質素を実践している。

クエーカーは3つの関心事(華美を求める虚栄と優越、最新の衣装を着ようとする迎合、流行を追い求め装飾品に金を使う浪費を避ける事)と呼んで無地の服を着ていた。ある時代にはこの質素を実践することで、容易に友会徒を区別することができた。多くの人は今もクエーカーというと男性はつばの広い帽子に鼠色か茶色の服、女性は無地の服とボンネットを連想する。こうした明確な実践は、今日では殆どのクエーカーが行っていないが、基本はまさしく今まで通りクエーカーには重要であり、殆どの友会徒は、新しい方法で日々暮らしている。
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2011-10-24 14:12:29
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5千円札の肖像で知られる新渡戸稲造は1862年、岩手県盛岡市に生まれ9歳で上京、13歳で東京英語学校に学びました。その後札幌農学校に入学、第2期生として内村鑑三などと共に学びます。

農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した、「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。

一期生はほぼ全員クラークの影響でキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々続々と入信、入学前からキリスト教に興味をもっていた稲造も入信し、キリスト教にのめり込んで行く。

1883年に東京大学へ進学するがその研究レベルの低さに失望し、1884年、「太平洋のかけ橋」になりたいと私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。内村鑑三同様、稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメリー・エルキントンと出会う。

教授として札幌農学校に赴任するが、夫婦とも体調を崩し、カリフォルニア州で転地療養。この間に英文で書きあげた『武士道』が1900年に出版されると、各国語に訳されベストセラーとなり、当時、未開の野蛮国と見られていた日本にも、武士道という優れた精神があることを、世界の人々に紹介した。

アメリカやドイツに留学し、ハレ大学より農業経済学の博士号、ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。1901年には、台湾総督府の技師に任命され、台湾糖業の基礎を築くことに貢献した。その後、1903年には京都帝国大学法学部教授、東京帝国大学法学部教授、第一高等学校校長を兼任、東京殖民貿易学校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。当時の日本人としては珍しいほど幅広い学問を修め、豊かな国際性を身につけていた。

1920年の国際連盟設立に際して、事務次長に選ばれ「国際連盟の輝く星」と賞賛され活躍。しかし時の流れは軍国主義が勢いをまし、日本は国際連盟を脱退。「太平洋のかけ橋」となり奔走するも、日米から理解されなかった。

「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」と語ったことが新聞に載り、軍部や右翼、左翼の激しい反発を買い、命の危険にさらされる。すると、それまでの新渡戸を賞賛した声は、糾弾の叫びに変わり多くの友人や弟子たちも去っていった。

昭和天皇は深く信頼していた新渡戸を幾度か宮中に呼び、戦争を回避したくアメリカ情勢を尋ねます。反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えますが「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、1933年カナダ・バンフの太平洋会議に出席の帰路、病に倒れ死亡、71歳でした。

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写真左 メアリー・エルキントンとの間には遠益(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折
写真右 谷崎潤一郎と新渡戸稲造
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2011-10-23 22:24:10
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内村鑑三の言葉

★1919年6月16日(月)陰雨
「教会の自己滅亡を憂う」
午前、主婦を伴うて、京橋、古宇田病院を訪(おとな)うた、ある科学的新治療を受けんがためである。薬品を用いざる治療法は、これを歓迎せざるを得ない。医術は悪魔の発見であるというは、まちがいである。明日に天然の法則に合(かな)うと信ぜらるる治療は、感謝しかつ祈りて受くべきである。

 ○おもしろいうわさを聞いた。青年会をして余を断わらしめ、田島進氏が余の講演を助けたりとて彼を詰責せし(以上は確かなる事実である)教会は、さらに進んで警醒社書店をして余の著述の発行を止めしめんと試みつつあるとのことである。教会はかかる事をなして、よし余の事業を壊(こぼ)ち得るとするも、ついに自ら滅びざるを得ない。何ゆえに正々堂々と議論をもって戦わないのであるか。何ゆえに、婦女子がなすがごとくに、蔭に廻りて卑劣手段を弄するのであるか。余は彼らのために悲しまざるを得ない。余は元来、教会の人ではない。ゆえに、教会に憎まれたればとて、少しも痛痒を感ずるものではない。講堂は青年会館以外にもたくさんある。余の援助者は田島君一人に止まらない。また警醒社のみが唯一の書店ではない。余は教会信者を目的(めあて)に筆を執らない。少なくとも日本全国民が余の読者である。ああ、あわれむべき教会よ、なんじらは総掛かりとなりて、余一人を倒すことができない。ただ注意せよ、なんじら自身の倒れざらんことを。なんじらの多数は、外国の伝道会社が日本より手を引くことあれば、直ちに倒れる者ではないか。外国人の御慈悲によって存立するなんじらが、一人の独立信者を倒し得ざるはもちろんである。ああ教会よ、余は恐る、なんじらは自己の滅亡の時期の近づきつつあることを。余はなんじらを憎まない。なんじらが余に反対すると同じ熱心をもって、なんじら自身の異端と俗化とを改めんことを欲す。

★(1904年7月 『聖書之研究』) (信8/223)
「アメリカ的キリスト教」
成功を統計に徴す、これアメリカ主義なり。
しかしてこの主義をキリスト教に応用せしもの、
これ余輩の称してもってアメリカ的キリスト教となすものなり。
アメリカ人は意を真理の探求に注がずして、ひとえにその応用を努む。
しかしてたまたまその、大建築物または多数の帰依者となりて現わるるあれば、
成功を歓呼して神に感謝す。

彼らは物に現われざる純真理の美を認めず、
また統計をもって表わすあたわざる霊的事実の成功を知らず。
彼らは現実を愛すると称して、万事(すべてのこと)の機械的なるを欲す。
余輩は多くの他の点において深くアメリカ人を尊敬す。
されども宗教の一事においては彼らと趣好を同(とも)にするあたわず
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2011-10-21 20:21:50
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内村鑑三の言葉
★<唯一の宗教>(1909年11月 『聖書之研究』)(信8/256)

もし世に宗教てふものありとせんか、そは教職てふ僧侶的階級の手を借りて神を拝することにあらず。
敬虔をもって日常の業を執ることなり。
神聖に地を耕すことなり。神聖に物を商うことなり。神聖に物を作ることなり。
人はすべて祭司にして、全地は神の神殿なり。

このほか別に宗教あることなし。
もしありとせんか、そは迷信なり。悪魔崇拝なり。
何の惜し気なくして廃棄して不可なきものなり。

★<普遍的真理>(1928年10月 『聖書之研究』) (信22/147)
私は普遍的真理を探る。
これを私の家において、私の書斎において、私の霊魂の内に探る
私はこれを得んがために広く世界を遍歴(めぐ)るの必要はない。
また大会と称して集合するにあらざれば知者たるあたわざる男女の集会に列するに及ばない。
私は何びとも適合する真理を探る。すべての人を照らす真の光を求む。
人種、民族、宗教、教派の差別なく、すべての人に当てはまる真理を探る。
普遍的真理は、それが広くあるだけ、それだけ、深くある。
実在の中心に達する人の霊魂だけ、それだけ深くある。
まことに人生の価値はここにある。
すなわち人の生命においてのみ宇宙の中心的真理が現わるるからである。
そして人は、おのが内にこれを発見し、自身、宇宙人物となりて、自己ならびに世界に超越することができる。


★<「無教会主義」の否定>(1931年3月 『内村鑑三追憶文集』)(信18/131-)
私は無教会主義を唱えた。今より三十年前、人がいまだこれを唱えざる時に唱えた。ことに教会が今のごとくに衰えず、教職と宣教師とが今よりはるかに強い時にこれを唱えた。当時無教会主義を唱うるは、あざけられ、そしられ、信者全体より仲間はずれにされることであった。私は当時この主義を唱えて、孤独は当然まぬかれ得なかった。まことに苦しい、幸いなる時であった。

 私の無教会主義は主義のための主義でなかった。信仰のための主義であった。人の救わるるはその行為によらず信仰によるとの信仰の帰結として唱えたものである。ゆえに罪の悔い改めの経験なき者はとうていこれを解し得なかった。されどもこの貴き経験を持たせられし者は喜んでこれを迎えた。教会攻撃のための主義でなかった。信仰唱道のための主義であった。まず第一に十字架主義の信仰、しかる後にその結論としての無教会主義。 十字架が第一主義であって、無教会主義は第二または第三主義であった。

 私が時に強く教会を撃ったのは、その信仰において福音の真理に合わざるものがあったゆえである。私は傲慢無礼の米欧宣教師を憎んだが、いまだかつて教会そのものを憎んだことはないつもりである。その事は、私が無教会主義を唱えながらも、幾回となく彼らの要求に応じて彼らの援助におもむいた事によってわかる。教会は私を助けてくれなかったが、私は幾回か彼らを助けたと信ずる。けだし私は教会の悪い半面と共に善き半面のあることを知ったゆえである。腐っても鯛の骨である。教会は腐っても、聖霊はいまだ全くその内より去りたまわない。そして私はその内にとどまりたもう聖霊のゆえに、教会を尊敬せざるを得ないのである。

 私はかく唱えて、教会と和解せんと欲するのでない。私は教会や宣教師に好まれざることを好む。教会にきらわるるは、私の信仰の純真を守るがために必要である。私がもし今日まで教会と親しんだならば、私もまた彼らと共に信仰堕落の淵に沈んでいたであろう。教会に受けられんがためにあらず、私の立場を明らかにせんがために、私はこの事を言う、すなわち私は「今日流行の無教会主義者」にあらずと。私に、弱い今日の教会を攻むるの勇気はない。私は残る僅少の生涯において、いっそう高らかに十字架の福音を唱えるであろう。そしてこの福音が、教会をこぼつべきはこぼち、立て直すべきは立て直すであろう。私は教会問題には無頓着なる程度の無教会主義者である。教会という教会、主義という主義はことごとくこれを排斥する無教会主義たらんと欲する。

そはわれ、イエス・キリストと彼の十字架につけられし事のほか、
何をも知るまじと心を定めたればなり (コリントⅠ 2/2)

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2011-10-17 13:31:53
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無教会は、内村鑑三によって提唱された日本独特のキリスト教と思っている方が多いようです。
しかし内村は次のように言ってます。


無教会主義は不肖私が初めてこの国において唱えた主義ではありません(教文館:内村鑑三信仰著作全集18,
105p)

預言者エリヤ、アモス、イザヤ、エレミヤも無教会主義者であり、宗教改革者として有名なルターも、最初は無教会主義でした」教文館:内村鑑三信仰著作全集18, 89p,
104-5pより)



熱心に聖書を読み神からの霊感により聖書解釈したクリスチャンにとっては牧師も神父も教会も必要なかったのです。



【無教会と一般的教会の関係】

内村鑑三日記から



1924年10月22日(水)小雨
近ごろ、ある親切なる教会の牧師が余に忠告してくれた、アナタはある時は単独で寂しく感ぜらるるだろうが、しかしアナタはそれを忍ばねばならぬ。アナタは神様に、単独であるように造られたのである。ゆえに成るべく教会の集会などへ出て来ない方がよろしい。私はアナタの後援者として、アナタが昔の預言者が立ったような地位に立って、神との直接の関係を維持して、ひとり学んで、ひとり教えんことを切望する」と。

実にありがたい忠告である。教会内にもかかる親切なる兄弟の有るを知って、感謝に堪えなかった。実に兄弟の言うとおりである。余のごときは単独で神に仕えまつるべき人間である。人はすべて他と共同して働くべきであるとは決まって居ない。エリヤのごとき、アモスのごとき、バプテスマのヨハネのごとき、みな単独で一生を送り、善く神の御用を務めた者である。余は単独である時に最も幸福であり、また最も善き事を最も多くなすことができる。余が単独であるのは、気まま勝手であって人ぎらいをするからではない。単独は余の天性であって、余は単独である間に最も親しく天の父様と交わることができるからである。教会の人で、この事を知ってくれる者に、今日までかつて一回も会うたことはない。しかるにこのたび、この兄弟に会うて、実に心の底までうれしかった。余がもし今日まで単独の寂しみを忍び得たならば、余は人生の多くの失錯(しくじり)を避け得たのである。しかるに、忍び得ずして交際を求めて、数多(あまた)たび、苦き、つらき目に会うたのである。


単独、しかり単独、これは余の宿るべき平安のホームである。





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★無教会主義の創始者「内村鑑三」はなぜ無教会でなければならなかったのか?
キリスト教の神髄は聖書の中にこそあるとして、個人による聖書研究を重視し、教会、儀式、教義、神学、典礼といった制度、形式を退けたのです。


内村は次のように言ってます。



「神の造られた宇宙自然が無教会信者の教会で、青空、星が天井で、青い野、色々の花は床、楽器は松の木、梢、楽人は森の小鳥、説教師は神様御自身である。僧侶・牧師・神父のごとき職業的宗教家を拒否洗礼も聖餐式も拒否し教会をつくりませんでした。となればおのおのの信者が聖書によって直接に神から真理を学ぶことができ平信徒が伝道者となり万人祭司が実現します。」



<わが宗教>(1908年9月 『聖書之研究』)(信8/248)

神を愛し人を愛する事なり。
わが礼拝はこれなり。わが信仰はこれなり。わが奉仕はこれなり。
これを除きて、われに宗教なるものあるなし。
教会何ものぞ儀式何ものぞ教義何ものぞ神学何ものぞ
もしわれに愛なくんば、われは無神の徒なり。異端の魁(かしら)なり。
われ、口と筆とをもってわが信仰を表白したればとて、われは信者にあらず。
われは愛するだけ、それだけ、信者たるのみ。
わが愛以上にわが信仰あるなく、またわが愛以下にわが宗教なるものあらざるな