2023/05/08
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2023/05/07
墨痕淋漓(ぼっこんりんり)の意味・使い方 - 四字熟語一覧 - goo辞書
日本 の 心 理 療 法 一内観法の誕生 と国際化 一 榛 木 美恵子
일내관법의 탄생과 국제화 일
하루키미에코
긴키 대학 임상심리 센터
요약
내관법의 창시자 요시모토 이신이 내관 체험의 훌륭함을 전 세계인들에게 소개하고자 사재를 던져치고 내관 보급에 힘써 반세기 이상이 되었다.올해는 나라현에서 개최된 일본내관학회에 중국인가 이들 27명이 참가해 5개 논문이 발표됐다. 또, 9월에는 중국 산둥성에서 제2회 중국내 관광법학회가 열려 개최된다. 이처럼 1993년 중국에 내관이 도입된 이래 이후 발전과 연구의 진보는 두드러진다.
불교는 538년 중국·한국을 거쳐 일본에 도래했다. 이 무렵 우리나라는 중국·층과의 교역이나
조선반도와의 교류가 시작되었다. 이러한 일본의 국제사회화 속에서 쇼토쿠 태자(574년 1622년)는 『삼보흥륭의 조'(佛法僧)를 발령하여 불교를 보호하고 신도와의 융합을 도모하였다. 드디어 도래했다
불교는 일본의 풍토·문화 속에서 독자적으로 발달하여 많은 사람들의 정신적 지주가 되어 갔다.요시모토이노부의 내관법은 가마쿠라 시대 일본 토양 속에서 탄생한 불교, 정토진종을 초석으로 1939년 스승 고마야 체신이와 함께 개발하였다.이후 내관법은 사업·교육·교정교육·의학·가족관계 각 방면에 보급되어 현현재는 정신치료로도 해외에서도 높은 평가를 받게 되어 인간성 회복, 사회생활 복귀, 마음의 양생으로서 널리 응용되고 있다.
Keywords : 고민으로부터의 개방, 자기검색, 경청, 자기발견, 내관
1) 처음으로
1981년 7월 외국에서 온 내관시찰단이 내관연수소를 찾았다. 이후 내관은 일본에서만
없이 해외에도 보급되어, 특히 최근 중국에서 급속히 발전해 왔다. 그 역사를 되돌아보면 해외
는 1964년 영국에서 미국의 Northwestern대학교 사회부 준교수 Johnr Kitsuse.에
에 의해 소개된 또 프랑스에서는 1972년 타키노 코우(리쓰메이칸 대학)가 유럽에서
처음으로 내관지도를 했다. 그리고 1976년 David.K..Ph.D(남캘폴니아대학교)
의과대학 교수)이 집중내관을 체험, 1981년에 미국에서 처음으로 집중내관회를 주최하였다. 소
그래서 Reynolds 박사는 1983년 "Naikan Psychotherapy"를 출간하면서 많은 내관을 소개하고
26 긴키 대학 임상심리센터기요 제2권 2009년
타. 또한 1980년 이시이 미츠시(아오야마학원대)와 Franz.Ritter(오스트리아)가 오스트리아
아에서 내관연수회를 개최. 그리고 1986년 Franz.에 의해 호주에 일본 이외의 첫 내
관연수소가 개설되었다. 독일에서는 1987년 Gerald Steinke.에 의해 내관연수소가 개설되었다.
되었다. 또한 "독일내관 20년" DVD가 발행되어 독일에서의 내관 의학, 복지, 학
교교육, 교정교육으로의 도입 양상이 널리 소개되었다.
1987년 독일 이탈리아 오스트리아에서 4명의 내관자가 일본을 방문하여 요시모토 이신의 집중내
면접을 보았다. 또 중국에서는 1993년 첫 집중내관자가 탄생, 이후 상하이정신위
생센터를 중심으로 내관워크숍이 개최되었고, 2004년 5명의 의사가 집중 내관체험
에 일본에 왔다. 그 후 오사카 내 관연수소에서는 계속해서 중국 의사단의 집중 내 관연수를 실시했다.
또한 2007년 중국에서의 제1회 집중내관연수회가 11명의 의사와 심리전문가 참여하여 상
해상신 위생센터에서 개최되었다.
내관의 국제적인 연구는 1991년 제1회 내관국제회의가 이시이 미쓰루 교수(아오야마학원대학)에게
따라서 도쿄에서 개최되고, 제2회는 오스트리아에서 개최되며, 이후 3년마다 유럽과 일
책에서 개최되고 있다.
또한 2003년 가와하라 류조(도리토리대학 의학부) 교수에 의해 국제내 관광법 학회가 일본에서
개최되었고, 제2회는 2005년 11월 중국 상하이 정신건강 중심에서 개최되었다. 이후 2년
이미 개최되고 있다. 한편, 국내에서의 내관 연구는 1978년에 일본내관학회가 발족,
1998년에 내과 학회가 발족하여 매년 개최되어 각 분야에서의 연구가 발표되고 있다. 이
이와 같이 내관의 보급과 연구는 국내외에서 국제적으로 진행되고 있다. 앞서 정신과 의사
이시시다(1965)는 '내관분석치료법의 제창'과 연구사례를 발표하였다. 탁목문학의 정신분석학
과적 연구에 있었던 석전은 탁목이 약 10일간의 유아기억의 집중사고에 의해 카타르시스에 의해
라고 생각되는 상쾌감을 느낀다는 것을 알고, 기억의 집중 사고에 의해 상당한 단기간에 정
신정화를 달성하는 것이 아닌가 생각하여 '내관'의 단기집중정신정화법을 정신분석의 기법과
병용하여 심인성 질환으로 생각되는 환자에게 도입하고 이후 많은 치료 효과를 얻고 있다(이시다,
1966)。
2) 내관법의 성립
이와 같이 심리치료로도 널리 활용되어 온 「내관법」은 나라현에 사는 요시모토 이노부
(1916년~1988년) 구도 체험에서 탄생하였다.
그 역사를 살펴보면 인도에서 중국으로 건너간 불교(대승불교)가 중국 각지에서 발달하여
간몬
있었다. 그 중에서도 지금으로부터 약 1500년 전 중국 남북시대 산시성 북부의 영봉 오대산 인근 안문에서
태어난 중담취대사는 유교 등의 학문과 당시 중국에서 성행했던 노자·장자 등의 길
도다이실키요
가사상을 수양하고 특히 인도에서 전해진 경전 중 『대집경』에 중국 학문의 전통을 깊게
미야코라쿠요우부콘보네요우부콘보네요우호오부콘보네요우호오부콘보네요
이해하고 주석을 달았다. 또한 도 낙양에서 불전번역 지도자였던 외국승 보리류지(仁田流支)
하루키 미에코 : 일본의 심리요법 27
바가지도 씌우고
도)와 만나 끝없는 생명을 설파하는 『관경』을 배우고 보리류지에 의해 번역되어 중국에 소개
종도종도종유
된 염불왕생의 가르침 「정토론」에 주석을 달아 『정토논주』를 저술하고 타력정토의 가르침을
세키헤이코겐츄우지
분명히 했다. 그리고 이 '정토의 가르침'을 담앵대사는 석벽골 겐츄지에 살고 있지 않다.
사람들 속에 들어가서 보급했다. 지금도 현중사 비석에는 황제의 칙명에 따라 정토의 교
에' 원래 불을 산서의 드넓은 시골에 지내기도 했다, 이름 없는 소년 흐림칙한 생애와 정토왕생의 말이다.
마가 기록되어 있다(오오우치, 2003). 역시 층의 멸망과 그에 따른 대란의 시대 10세로 출가
한 중국 승려 선도대사(613년 1681년)는 이 '정토의 가르침'을 당나라 도장안에서 일권
의 『니카와 백도의 예』도를 걸어 포교하였다. 이 가르침은 선도대사에 의해 칭명(염불)
이를 통해 민중의 마음에 직접 호소·울리고 받아들여졌다. 또 선도대사는
황제로부터 당나라 대사업 낙양 용문석굴의 대불조영을 맡아 완성하였다. 그리고 이
낙양 용문석굴의 대불은 참배객들에게 프랑스 땅의 감동을 주었다. 그리하여 아미타 정토의 교
그림은 도 장안에서 자라 중국 전역으로 퍼져나가 마침내 일본에 전해지게 되었다.
중국 낙양용문(2007년 촬영) 중국 낙양용문석굴과 남무아미타불
(2007년 촬영)
3. 불교와 일본 문화 속에서 탄생한 내관법
중국·한국을 거쳐 일본에 도래한 불교는 층과의 교역이나(견계사 점강성 닝보·견당사),
조선반도와의 교류가 이루어지는 국제사회를 살기 위해 594년 성덕태자(574~622년)
에 의해 『삼보흥륭의 조』(불·법·승)가 발령되어 일본 신도와 함께 보호되고 보급
하게 되었다(증근, 2007).
후에 헤이안 시대, 히에이산의 승원신(942~1017년)은 이 정토의 가르침을 「왕생요집」
(1175년경)에 편찬하였다.
BuIletinof⊂enterfor⊂lini⊂alPsychoIogyKinkiUniversityVo1.2:25〜33(2009)
25
日本 の 心 理 療 法
一内観法の誕生 と国際化 一
榛 木 美恵子
近畿大学臨床心理セ ンター
要 約
内観法の創始者 ・吉 本伊 信が、 内観体験 のすば らしさを世界中の人 々に紹 介 したい と、私財 を投 げ
打 って内観普及 に励 んで、半世紀以上 となる。本年 は、奈 良県で開催 された 日本内観学会 に、中国か
ら27名 が参加 し、5論 文が発表 され た。 また、9月 には、 中国山東省 で第二 回中国内観療 法学会が開
催 され る。 この ように、1993年 に中国 に内観が導入 されて以来、その後の発展 と研 究の進歩 は、著 しい。
さて、仏教 は538年 、 中国 ・韓 国 を経 て、 日本に渡来 した。 この頃、わが 国は中国 ・階 との交易 や
朝鮮半 島との交流が始 まった。 このような 日本 の国際社 会化 の中で、聖徳太子(574年 一622年)は 『三
宝興隆の詔』(仏 ・法 ・僧)を 発令 して、仏教 を保護 し、神道 との融合 をはか った。 やが て、渡 来 した
仏教 は 日本 の風土 ・文化 の中で独 自に発達 し、多 くの人 々の精神 的 な支 えとなっていった。吉本伊信
の内観法 は、鎌倉時代、 日本 の土壌 中のか ら誕生 した仏教 、浄土真 宗を礎 に1939年 、 師匠の駒谷諦信
とと もに開発 した。そ の後 内観 法 は、事業 ・教 育 ・矯正教育 ・医学 ・家族関係の各方 面に普及 し、現
在 で は、精神療 法 と して も海外 で も高 く評価 を うけ るようにな り、 人間性の 回復、社 会生活復帰、心
の養生 として広 く応用 されてい る。本論で は、 この内観法の誕生 と国際化 につ いて報告す る。
Keywords:悩 み か らの 開 放 、 自 己 検 索 、 傾 聴 、 自 己 発 見 、 内 観
1.は じめ に
1981年7月 、 外 国 か らの 内 観 視 察 団 が 、 内観 研 修 所 を訪 れ た。 以 来 内 観 は 、 日本 だ け で
な く海 外 へ も普 及 し、 殊 に 近年 、 中 国 で急 速 に 発展 して きた 。 そ の 歴 史 を振 り返 る と、 海 外
に は1964年 、 イギ リス で 、 米 国 のNorthwestern大 学 社 会 学 部 準 教 授JohnrKitsuse.に
よ っ て紹 介 され た 、 ま た フ ラ ンス で は 、1972年 滝 野 功(立 命 館 大 学)が ヨー ロ ッパ で 、
は じめ て の 内 観 指 導 を行 っ た。 そ して、1976年 、David.K..Ph.D(南 カ ル フ ォル ニ ア大 学
医 学 部 教 授)が 集 中 内 観 を体 験 、1981年 に、 米 国 で 初 め て の 、 集 中 内 観 会 を 主 催 した。 そ
して、Reynolds博 士 は、1983年"NaikanPsychotherapy"を 出版 して ひ ろ く内観 を紹 介 し
26 近 畿 大 学 臨 床 心 理 セ ン タ ー紀 要 第2巻2009年
た。 また1980年 、 石 井 光 氏(青 山学 院 大)とFranz.Ritter(オ ー ス トリア)が オ ー ス トリ
アで 内観 研 修 会 を 開催 。 そ して 、1986年Franz.に よっ て オ ー ス トリア に 日本 以 外 で初 の 内
観 研 修 所 が 開 設 さ れ た。 ドイ ツで は1987年 、Gerald.Steinke.に よっ て 内 観研 修 所 が 開設 さ
れ た。 また 、"ド イ ツ内 観20年"のDVDが 発 行 され て 、 ドイ ツで の 内 観 の 医学 、 福 祉 、 学
校 教 育 、 矯 正 教 育 へ の導 入 の様 子 が 広 く紹 介 され た。
1987年 、 ドイ ツ ・イ タ リア ・オ ー ス トリ ア か ら4名 の 内観 者 が 来 日、 吉 本 伊 信 の 集 中 内
観 面 接 を う け た。 また 中 国 で は1993年 は じめ て の 集 中 内 観 者 が 誕 生 、 そ の 後 、 上 海 精 神 衛
生 セ ン ター を 中 心 に 内観 ワー ク シ ョ ップ が 開 催 さ れ、2004年 、5名 の 医 師 が 集 中 内 観 体 験
に来 日 した。 そ の後 、大 阪 内 観研 修 所 で は継 続 して 、中 国 医 師 団 の集 中 内観 研 修 を 実 施 した 。
ま た2007年 中 国 で の 第一 回集 中 内観 研 修 会 が11名 の 医 師 や心 理 の専 門 家 が 参加 して 、 上
海 精 神 衛 生 セ ン ター で 開催 さ れ た。
内 観 の 国 際 的 な研 究 は 、1991年 、 第 一 回 内 観 国 際 会 議 が 石 井 光 教 授(青 山学 院 大 学)に
よ っ て、 東 京 で 開催 さ れ、 第二 回 は オ ー ス トリア で 開催 され て、 以 降3年 ご とに 、 欧 州 と 日
本 で 開催 され て い る。
ま た 、2003年 、 川 原 隆 造(鳥 取 大 学 医学 部)教 授 に よ っ て 、 国 際 内観 療 法 学 会 が 日本 で
開催 さ れ、 第 二 回 は、2005年11月 、 中 国 上 海 精 神 衛 生 中心 に お い て 開 催 され た。 以 後2年
ご とに 開催 さ れ て い る 。 一 方 、 国 内 に お け る 内観 研 究 は、1978年 に 日本 内 観 学 会 が 発 足 、
1998年 に内 観 医 学 会 が 発 足 して、 毎 年 開 催 され 各 分 野 で の研 究 が 、 発 表 さ れ て い る。 こ の
よ う に内 観 の 普 及 と研 究 は、 国 内外 にお い て 国際 的 に進 ん で い る。 こ れ に先 立 ち、 精 神 科 医
師 石 田(1965)は 、 「内 観 分 析 療 法 の提 唱 」 と研 究 症 例 を発 表 した。 啄 木 文 学 の 精神 分 析 学
的 研 究 に あ っ た 石 田 は、 啄 木 が 約10日 間 の幼 児 記 憶 の 集 中思 考 に よ っ て、 カ タル シス に よ
る と思 わ れ る爽 快 感 を 覚 え た こ と を知 り、 記 憶 の 集 中思 考 に よっ て 、 か な りの 短 期 間 に精
神 浄 化 を達 成 す るの で は な い か と考 え、 「内観 」 の 短 期 集 中精 神 浄化 法 を精 神 分 析 の技 法 と
併 用 し、 心 因性 疾 患 と思 わ れ る患 者 に導 入 し、 そ の 後 、 多 くの 治療 効 果 を得 て い る(石 田,
1966)。
2.内 観 法 の成 り立 ち
この よ うに心 理療 法 と して も広 く活 用 され て き た 「内 観 法 」 は、 奈 良 県 に住 む、 吉 本 伊 信
(1916年 〜1988年)の 求 道 の体 験 か ら誕 生 した。
そ の歴 史 をた ど る と、 イ ン ドか ら中 国 へ 渡 った 仏 教(大 乗 佛 教)が 、 中 国 各 地 で 発 達 して
がんもん
い た 。 中 で も今 か ら約1500年 前 、 中 国南 北 朝 時 代 、 山 西 省 北 部 の霊 峰 五 台 山近 くの 雁 門 で
生 ま れ た僧 ・曇 鷲大 師 は 、儒 教 な どの学 問 や 、 当 時 の 中 国 で 盛 ん だ っ た 老 子 ・荘 子 な どの 道
ドだ い じつ き ょ うヨ
家思想 を修 め、特 に イン ドか ら伝 わった経典 の中か ら 『大集経』 に中国の学問の伝 統 を深 く
み や こ ら く よ う ぶ っ て ん ほ んや く ぼ だ い る し
理解 して注釈 をつけた。 また、都 ・洛陽で仏典 翻訳 の指導者であ った外 国僧菩提 流支(イ ン
榛木美恵子:日 本の心理療法 27
ぼ だ い る し
ド)と 出逢 い 、 限 りな い命 を説 く 『観 経』 を学 び 、 菩提 流 支 に よっ て翻 訳 され、 中 国 に紹 介
じ ょう ど う ん ドじ ょう どう ん ち ゅ うユ
された念仏往生 の教 え 「浄土論」 に注釈 を付 けて 『浄土論註』 を著 し、他力浄土 の教 えをあ
せ きへ っ こ く げん ち ゅ う じ
き らか に した。 そ して こ の 「浄 土 の 教 え」 を曇 鶯 大 師 は、石 壁 谷 の玄 中寺 に住 み 、 い な か の
人 々 の 中 に入 っ て、 普 及 した 。 今 も、 玄 中寺 の石 碑 に は、 皇 帝 の 勅 命 に よっ て 、 「浄 土 の教
え」 の と も し火 を 山西 の ひ な びた 田舎 に と も した 、 名 も無 き少 年 曇 驚 の生 涯 と浄 土 往 生 の さ
まが記 され て い る(大 内,2003)。 や が て 、 階 の 滅 亡 とそ れ に伴 う大 乱 の 時代10歳 で 出家
した 中 国 の 僧 、 善 導 大 師(613年 一681年)は 、 この 「浄 土 の教 え 」 を唐 の都 長 安 で 一 巻
の 『二 河 白道 の 例 え』 図 を掛 け て布 教 した。 こ の教 え は、 善 導 大 師 に よ っ て、 称 名(念 仏)
と掛 け図 に よっ て民 衆 の 心 に 直接 訴 え ・響 き、 受 け入 れ られ普 及 され た。 ま た、 善 導大 師 は、
皇 帝 よ り唐 朝 あ げて の大 事 業 洛 陽 の 龍 門石 窟 の 大仏 造 営 を任 さ れ完 成 した。 そ して、 こ の
洛 陽 の龍 門石 窟 の大 仏 は参 拝 す る人 々 に仏 国 土 の 感動 を与 え た。 こ う して、 阿 弥 陀 浄 土 の教
え は、 都 長 安 で 育 ち、 中国全 土 に広 が り、 や が て 日本 に伝 え られ る こ とに な った 。
中国 洛陽 龍門(2007年 撮影) 中国 洛 陽 龍門石窟 と南無阿弥陀仏
(2007年 撮 影)
3.仏 教 と 日本 文 化 の 中か ら誕 生 した 内観 法
中 国 ・韓 国 を経 て 日本 に渡 来 した仏 教 は、 階 との交 易 や(遣 階 使 漸 江省 寧 波 ・遣唐 使)、
朝鮮 半 島 との 交 流 が うな が され る 国 際社 会 を生 きる た め、594年 、聖 徳 太 子(574〜622年)
に よ っ て 『三 宝 興 隆 の 詔 』(仏 ・法 ・僧)が 発 令 され 、 日本 の神 道 と と も に保 護 さ れ、 普 及
す る こ と とな った(曾 根,2007)。
後 に平 安 時 代 、 比 叡 山 の 僧 源 信(942〜1017年)は 、 この 浄 土 の 教 え を 「往 生 要 集 」
(1175年 頃)に 編 纂 した。 また 平 安 末 期 か ら鎌 倉 幕府 成 立 の動 乱 の 時代 、 僧 法 然(ll33年
〜1212年)は 、 比 叡 山西 塔 の 黒 谷 で 中 国 か ら 日本 に もた ら した 経 典 の 中 か ら、 善 導 大 師 の
28 近 畿 大学 臨床 心理 セ ン ター 紀 要 第2巻2009年
書 い た 『観 経 書』 に出 会 い 民 衆 に念 仏 を普 及 す る こ とに生 涯 をつ くす と と もに、 専 択 本 願 念
仏 集 を完 成 した 。 法 然 の弟 子 と な っ た僧 親 驚(1173〜1262年)は 『愚 か な る仏 弟子 』 を
悟 り"限 りあ る 命"と"愚 者 の 自己"に 目覚 め"先 師(良 き人)"に 導 か れ る 身 を悟 っ た。
この悟 りは後 に 吉本 伊 信 に よっ て 、 内観 法 とな っ た(榛 木,1972)。
4.悩 み 、 こ だわ りか らの 脱 出
幸 せ を求 め て 親驚 の道 を求 道 して い た奈 良 県 在住 の吉 本 は、 恩 師 ・駒 谷 諦 信(大 阪 布 施
諦 観 庵)に 導 か れ て、 「愚 か さの 自覚 ・いず れ の行 い も及 ば な い 身 の気 付 き、"罪 業 深 重"(日
暮 し ・生 業 ナ リワ イ)」 を悟 り、 そ の 喜 び 「幸 せ 」 を 世 界 中 に普 及 した い と一 念 発 起 し駒 谷
と と もに 「内観 法 』 を大 成 させ た。
「内 観 法 」 とは、 愛 す る人 か ら離 れ られ な い、 別 れ た 人 が 忘 れ られ な い 、 失 っ た もの に し
が み つ く、 次 々 に 湧 き上 が る欲 望 、 これ らの 執 着(固 着)一 む さ ぼ り(貧)、 い か り(瞑)、
愚 か(擬)さ 一 の気 づ き 「洞 察 」 を得 る 方 法 で あ る。 人 間 の あ くな き欲 望 を調 べ て(内 観 法
の前 身 「身調 べ 」)無 常 を知 り 「一 期 一会 」 の 生 きる エ ネ ル ギ ー を得 る方 法 と して 「内 観 法 」
は、 誕 生 した。 そ して そ の至 る 道標 に 「罪」 を掲 げ 、 そ の 罪 を調べ る 方 法 と して 、 内 観3項
目(① して頂 い た こ と② して返 した事 ③ 迷 惑 か け た こ と)や 、 嘘 と盗 み な ど をテ ー マ に掲 げ
1940年 、 内 観 法 は確 立 され た(吉 本,1965)。
〔内観療法〕
内観療法 では、一方 的な 自己理解 や他者理解 が、現在 の環境へ の適応 困難 をもた らしてい
る と考 え、過去 か ら現在 まで 自分が他者 と、 どの ような人間関係 を結んで きたか を、改 めて
調べ る事 によ り、新 しい 自己理解や、他者 理解 を得 る方法 と して 「内観 法」 を用 いている。
即 ち内観法 に よって、一方 的な理解 が修正 されて、環境へ の適応 ・和解 が促 進 され人間関係
の改善が はか られる。 その根源 に、 人間関係 の 「愛」 を第一 テーマに掲 げその作 用に、幼児
期か ら現在 までの、記憶 の集 中思考 をおこないその過程 に精 神の浄化 が もた らされた。 内観
法が別名 「泣 き観」 とも言 われ、 さわや かな爽快感 と素直 な こころを得 る所 以である。
1課 題 内 観 三 項 目
1、 お 世 話 に な っ た こ と
2、 して 返 した こ と
3、 迷 惑 をか け た事
☆ 嘘 と盗 み
☆ 養 育 費 の 計 算 ・ギ ャ ンブ ル等 にか か っ た費 用
た こ と
過去か ら現在 まで具
体 的な事実 を年齢順
に調べ る。
と
事
榛 木 美恵 子:日 本 の 心理 療 法
29
Hテ ーマの設定
母 、 父 、 先 生 、 配偶 者 同僚 、子 ど も、 身 近 な 人 々 と、 自分 との 関 係 を調 べ る。
皿 集中内観の構成
1)場 の安全
①居住性 と隔離性 の確保 …安住 ・食 ・入浴 な どの生活の保護
②集 中思索 で きるよ う人間相互 関係 の一時的中断 と物理 的刺激 遮断…屏風 の使用
⇒刺激遮 断 ・記憶 の集 中思考継続
2)内 観者側の条件 …内観 の基本 ルールや前提 条件 の受入 れ、これに従 う合 意 と約束が
あるこ と
3)内 観 の 姿 勢
①1日15〜16時 間(1週 間の 宿 泊 研 修)。
楽 な姿 勢 で 座 り、 内 観 の テー マ に集 中す る。
② テ レ ビ ・携 帯 ・書 籍 の 禁 止
④ 内 観 に関 す る テー プの 聴 取(自 由)
⑤ 指 導 者 以 外 の 人 との 交 談 厳 禁
⑥ 入 退 観 の 自由(意 思 の 尊 重)
4)自 力 性
① 面 接 は3〜5分(内 観深 化 は 、 実 習 者 の 独 力 に よ る内 観 時 にお こ なわ れ る)
② テ ー マ に そ っ て 過去 体 験 を幼 少 時 に さか の ぼ り、 系 統 的 ・具 体 的 に想 起 す る。
5)口 頭 での開陳
面接者 の巡 回面接 に よ り、実 習者 は内観内容 を口頭 で開陳(自 己開示)す る。
6)面 接頻度 と面接態 度
①2〜2.5時 間に一 回の面接
小学生 ・老 人 ・病的 な場合 は1時 間〜30分 お きに面接
②基本的態度 は受容的で あるが、実習者 の発想が外罰 的 ・自己中心 的 ・感情 的な場
合 は指示的 に内観への方向づ けを行 う。
③ 礼節 を重ん じる。
30
近 畿 大 学 臨 床 心 理 セ ン タ ー紀 要 第2巻2009年
7)秘 密保持
面接者 は秘密厳守 の信頼 ・契約 を守 る。
IV内 観 過 程 の 心 理 規 制
1.当 面 の悩 み と無 関係 な課 題(内 観 三項 目)受 入 れへ の抵 抗
↓
2.思 考 様 式 変 更へ の と ま どい
(例)し て も らわ な か っ た事 か ら して も らっ た 事へ の 思 考 様 式
↓ の変 更
3.記 憶 想 起 へ の 困難(思 索 の集 中 ⇔ 食事 ・入 浴 等 の 生活 の 世 話)
↓
4.刺 激 遮 断法 へ の抵 抗(情 報 遮 断 と拘 束 ⇔ 入 退 内観 の 意 思 の 尊重)
↓
5.防 衛 規 制(都 合 の悪 い誤 っ た対 人 感情 へ の 意 識化)
↓
6.陽 性 感 情 転 移 に基 づ く記 憶 の愛 情 再 体 験
↓
7.抵 抗 の排 除 と カ タル シス の発 露
↓
8.精 神 浄化 作 用
↓
9.洞 察(新 しい 自己発 見)
↓
10.欲 望 か ら感謝 へ の転 向(ポ ジテ ィブ な エ ネ ル ギ ー の 活 動)
「と らわ れ 」 か らの解 放
2〜3日
4〜6日
6〜7日
5.内 観 にお け る傾 聴 と 自己 治 癒
[傾聴 一現 実検 討 の抵 抗 の打 破 一]
内観 の面 接 者 は 、 内観 者(記 憶 の 集 中思 考 に取 り組 む 人)の 体験 を内観3項 目 に した が っ
て 聞 く事 『傾 聴 』 が最 も重 要 で あ り、 面接 者 は傾 聴 に徹 す る 。 そ れ は 内観 者 の 「語 り」 は面
接 者 に とっ て は 「法」 あ り、 同 時 に 内 観者 に とっ て は 、存 在 の 是 認 で あ る。 この 面 接 者 の 態
度 に よ り、 内観 者 は 「行 動 の罪 へ の責 任 転 嫁(罪 責 感)」 とい う抵抗 が解 除 され る。 そ して 、
現 実 検 討 はす す み 、記 憶 の 愛 情 体 験 が 想 起 され て、カ タル シス が お こ る。 この よ う な経 緯 で 、
精 神 の 浄化 作 用 が 勧 め られ、 これ まで の執 着(む さぼ り(貧)、 い か り(瞑)、 愚 か(瘍)さ)、
榛 木 美 恵 子.日 本 の 心 理 療 法 31
固 着 、 固 執 へ の 気 づ き、 す なわ ち 『洞 察 』 が お こ な わ れ、 葛 藤 か ら解 放 さ れ る。 こ の時 、 欲
望 は感 謝 へ 転 向 し、 そ の エ ネ ル ギー は 自 己治 癒 力(自 然 回復 力)へ 転 化 され る。 現 実 検 討 の
自動 操作 、 罪 悪 の 検 索 ス イ ッチ がONに な り、 内観 は進 め られ る。 こ こ に罪 責 感 に よ る ス ト
レス や 抵 抗 は解 除 され 、 現 実 否 認 に よ って 現 れ て い た 身体 症 状 は軽 減 され る。 内観 者 の 内観
3項 目の 報 告 の 傾 聴 は、 この 機 能 が 、 自力 で 開 始 され る こ とをす す め る。
傾 聴 とは 、 山 か ら流 れ 出 る水 が 水 車 を 回 し、 それ が 力(エ ネ ル ギ ー)と な って 稲(内 観 の
種)を 脱 穀 す る。 そ の 水 車 の 音 を、 面 接 者 が 聴 いて い る こ とを意 味 す る。 同時 に傾 聴 は、 面
接 者 の 内 部 の 水 車 を まわ し、 面 接 者 の稲(内 観 の種)の 脱 穀 を も行 な う。 これ を 、吉 本 は内
観場 所 「屏風 の 中 」 を 「法座 」 とい い 内 観 者 の 「自己 開 示 」 を 「法 を聴 く」 と言 っ て、 面 接
者 の 内観 を常 と した 。
内観 法 は 、 太 陽 の 光 が あ た ら ない と なげ い て い る者 に、 太 陽 が 雲 上 で 輝 い て い る事 を知 ら
せ 、 また 、 雲 の切 れ 目 に さす 光 の 効 力 と、 太 陽 の 光 に よ って 育 つ 、 動 植 物 の 恵 み を知 る方 法
と も言 え る。
6.終 りに
石 田(1966)は 、"内 観 者 が 、 この 自責 的 思 考 に な れ な い の は、 罪 責 観 す な わ ち責 任 を罪
に転 化 一 抵 抗 一 して い る か らで あ る"と 述 べ 、"う つ 病 者 の 罪 責 感 の多 くは、 防衛 的 な もの
で純 粋 な罪 悪 感 で は な い"と のべ て い る 。 つ ま り罪 責 は 内 観 で はな く他 者 へ の 攻 撃 で 外 観 で
あ る。 この と き面 接 者 は 、 「〜 して も らわ なか っ た事 」 を 「して も らっ た 事 」 に 「〜 して あ
げ られ な か っ た事 」 を 「〜 して あ げ た事 」へ の 訂 正 を う なが し、 対象 選択 を配 慮 し、 あ るい
は 「内観 目的 」 と 「動 機 」 を明 確 化 して 、 あ らた め て 内 観3項 目へ の取 り組 み を推 奨 して 、
内観 へ の導 入 を慎 重 に すす め る。 しか し集 中 内観 の3〜4日 間 は 、悩 み と無 関 係 な課 題 「内
観 三 項 目」 の受 入 れ や、 刺 激 遮 断法 へ の抵 抗 も大 きい 。 この 時 内観 者 の お 世話 や 、 傾聴 に徹
す る こ とは重 要 で あ る。
内 観 法 に よ る治 癒 像 に つ い て石 田(1972)は 、"病 気 が 治 って 自己 満 足 す る だ け で な く、
自己 を乗 り越 え て、 社 会 に 向 か っ て働 きか け る 一創 造 的 、 自発 的行 動 カ ー エ ネ ル ギ ー が伴 う
人 間像"と 掲 げ て い る。
ま た吉 本 は、 「集 中 内観 は 電 柱 を建 て た に す ぎず 、 日常 内観 と い う電 線 を 張 ら な け れ ば 電
気 が 通 らな い 」 と述 べ 、 「内 観 法 一 集 中 内観 一 に よ る罪 責 観 の抵 抗 の 打 破 」 は 自己 検 索 の は
じま りで 「内観 へ の 入 門 」 で あ り、 打 破 され た 無 明 の 闇(あ つ い雲 一迷 い)は 、 す ぐに貧 ・
愛 ・瞑 ・憎 の 雲 で お お われ る と述 べ 、 集 中 内観 後 の、 日常 内観 をす す め、 そ の重 要 性 を説 い
た 。 吉 本 は、 「日常 内 観 者 」 を〈 と らわ れ 〉 か ら解 放 さ れ た 人 間 像(治 癒 像)と して掲 げ あ
くな き悩 み に内 観 との 二 人 三 脚 を指 導 して い る。
32 近 畿 大 学 臨 床 心 理 セ ンタ ー 紀 要 第2巻20⑪9年
比叡山無動寺谷 大乗院 範宴(親 鴛)9歳 一29歳 修 行 の地
1987年 撮 影
複雑 な現代社会 で、生活 のい きづ ま りや、希薄 な人間 関係 によって、 ます ます 自殺者や う
つ病 は増大 している。 また神経症、非行、ギ ャ ンブル依存への対応 に も、人間性の再発見 と
育成 は急務 であ る。 内観法 は多 くの人が一度 に行 える新 しい 自己へ の気付 き 「自己発見 法」
で あ り、「愛 の再発見 」「社 会性 の育成法」であ る。
ITの 発展 と ともに、 文化 を越 えて情 報 化が 津波 の よ うに押 し寄せ ては 引 く現代社 会 の
精神 文化 の戸 惑い は、 さま ざまなひずみ の因 と もなる。 これ ら社会 の発展 と精 神文化 との
ギ ャップに、内観 法がはたす役割は非常 に大であ る。
参 考 文 献
玄海編集部(1973)t玄 海 内観特集号 福 岡刑 務所 教育部
榛木美恵子(1972);子 供の内観 佐藤幸 治(監 修)禅 的療法 ・内観法 文 光堂pp331 344
榛木美恵子(2009):共 育 内観法 邦 文社
石 田六郎(1965):内 観分析療法 の提唱 日本医事新報,2147,呂2 84、
石 田六郎(196の:啄 木 と内観,内 観教 育 吉本 伊信 ・京都刑務所pp27 29.
金子大栄(195ω:他 力本願 全 人社
長 島正博(200①;や す ら樹 内観 国際 会議 自己発見の会事務局
中 川皓三郎他(20⑪4):ブ ッダと親鷺 東本願寺
大 内文雄監修(20⑪3):七 高僧 ものが た り 東本願寺出版部
塩崎伊知朗 ・竹元隆 洋{200①:証 言集 ・吉本伊 信 と内観法 近代文芸社
曾根正人(2QO7):聖 徳太子 と飛鳥仏教 吉川弘文館
鈴 木大拙(1974):東 洋 の心 春秋社
竹 内硬(1966):内 観法 と入 間改造 内観教 育 発行者 吉本伊信pp59 105,
榛 木 美 恵 子:日 本 の心 理 療 法
33
竹内硬(1972):内 観 法の周辺 佐 藤幸 治(監 修)禅 的療 法 ・内観法 文光堂pp301 330.
梅原真隆(1936)十 七憲法 講讃 親驚聖 人研 究発行所
吉本伊信(1965)内 観 四十年 春秋社
吉本伊 信(1975)内 観法 内観研修所
吉本伊 信(1980)内 観25年 の歩み 内観研 修所
*** 정신의학과 내관법 精神医学と内観法 230509
====표1내관===장소적 조건조용한 방구석을 병풍으로 둘러싼 안에 앉다.용변, 목욕, 취침시 이외에는 밖에 나오지 않는다.'차단'과 '보호'신체적 조건편안한 자세로 좋다.환자 이외에는 누워서는 안 되는 식사는 하루 세 번.지도자(대신)가 운반해 오다.내관하면서 식사를 하다.심신의 피로를 풀기 위해 매일 20분 목욕.수면은 8시간시간적 조건내관은 5-p접시 9까지의 16시간을 7일간, 지도자와 내관자의 면접은 1~2시간마다 1회, 하루에 약 8회, 면접 시간은 3~5분이다.======
- 잠은 오후 9시에서 다음날 아침 5시까지 8시간이다.
- 오전 5시 5분 전 지도자의 목소리 - 눈을 뜨다.
- 기상 후 30분 안에 도장 안팎의 청소를 신속하게 마친다
- 5시 30분 병풍 속 법좌(내현자가 수교)행을 하는 자리를 말한다)에 앉으면 즉시 지도자
- 의 면접이 시작되다.
- 그리고 나서 오후 9시 취침까지 겨우 15시간 반, 병풍 속에 쭈그리고 앉아라.
- 「자신이 해 받은 일들]
- "자신이 해주고 싶었던 일",
- "폐를 끼진 것들'의 3가지 점을
- 받은 것 20%,
- 해서 돌려준 적 20%,
- 폐를 끼친 적 60%
===표2주제.
- 받은 것 20%
- 해서 갚은 것 20%
- 폐를 끼친 60%
===
- 나의 초등학교 시절에 돌아가신 어머니와 그 후 어머니
- 친대로 키워준 할머니에 대해 자신을 조우했다.
- 그동안 내관을 하면서 목욕을 하고,
- 빳빳한 몸으로 다시 병풍 속으로 돌아와 엄숙함
- 숙연한 마음으로 내관을 계속했다.먼 과거의 일과
- 근데 기억이 잘 안나.현재 의식의 세계와
===사진===
===
표3 콤플렉스(영유아기까지 사카노호루)프로이트예스의 무의식 세계에 침전의식적 조작에 의해 증발시키다내관법자기 중심적인 욕심에 지배되고 있는 자아정신적 자아(프랭클), 진아===
====표4 내관에 의한 마음의 변화=====플랭클두 개의 무의식 세계
- 자기중심적 욕망의 비뚤어진 세계
- 정신적 자아의 세계
정신적 자아
- 죄의 인식
- 사랑에 대한 깊은 감동
====
알라딘: 운기단법 : 가슴 답답한 현대인을 위한 호흡법 이승헌
운기단법 : 가슴 답답한 현대인을 위한 호흡법 - 개정판
전자책정가
8,400원
Sales Point : 37
10.0 100자평(2)리뷰(0)
종이책 페이지수 : 208쪽
책소개
운기단법은 가슴 답답한 현대인을 위한 호흡법이다. 저자가 단전호흡을 알리면서 접한 수많은 경험을 통해 얻은 결론을 바탕으로 현대인들이 쉽고 편하게 따라할 수 있는 호흡법 지침을 제공한다. 내쉬는 호흡부터 시작하여 깊이 있는 호흡법까지 5단계로 구성되어 있으며, 자신의 건강 상태에 맞게 단계를 조절하도록 하여 호흡 자체가 자연스럽고 무리가 없다.
또한 호흡을 하면서 나타나는 신체적 변화와 기적 현상을 상황별로 설명하고 있어 몸의 변화에 따른 자신의 건강 상태를 확인할 수 있다. 건강을 원하는 사람에게는 건강과 생활의 즐거움을, 깨달음을 원하는 사람에게는 명상의 세계로 안내해줄 것이다.
목차
머리말
제1장 기존 단전호흡 및 선도 수련의 문제점
선도 단학의 과장과 신비주의화 문제
전통 선도 수련|번역된 선도 서적|흥미 위주의 선도 소설류|운명학 서적|
선도 수련 체험기
자신의 건강 상태와 맞지 않은 수련법의 문제
기운이 역상하여 생기는 문제
기의 분류
기운 관리를 잘못해서 생기는 문제
기를 자신만을 위해 사용할 때 생기는 문제
제2장 단학이 제시하는 대안
단전호흡
주화입마
지감수련
기 점검
기운풀이 수련
개혈수련
운기단법
운기단법 이후 수련
공완
단학에서 마음공부의 중요성|최선의 마음공부, 공완
제3장 운기단법의 실제
기본자세
앉은 자세|누운 자세|선 자세|걷는 자세
수련을 도와주는 보조 자세
손|입|눈|기타 부위
호흡
마음가짐
수련 시에 일어나는 기적인 현상
운기단법 5진법
제1진법|제2진법|제 3진법|제4진법|제5진법
운기단법에 대한 정리
맺음말
부록 - 운기단법 수련에 대한 질문과 답
접기
저자 및 역자소개
이승헌 (지은이)
저자파일
신간알리미 신청
글로벌사이버대학교 총장 • 국제뇌교육종합대학원대학교 총장
한국뇌과학연구원 원장 • 국제뇌교육협회 회장
세계적인 명상가이자 뇌교육자, 평화운동가이다. 지난 40년간 사람의 몸과 마음을 두루 이롭게 하고, 나아가 지구를 건강하고 평화롭게 만드는 일에 헌신해왔다. 현대단학과 뇌호흡을 비롯한 다양한 심신수련법을 개발했고, 그 원리와 방법을 세계적으로 인정받아 전 세계인들이 더 건강하고 행복한 삶을 살 수 있도록 이끌었다. 또한 ‘뇌교육’을 창시하여 누구나 자신의 가치를 발견하고 그 가치를 실현하는 삶의 길을 제시하고 있다.
지은 책은 《힐링 소사이어티》《한국인에게 고함》《아이 안에 숨어 있는 두뇌의 힘을 키워라》《지구경영, 홍익에서 답을 찾다》《변화》《대한민국에 이런 학교가 있었어?》《나는 120살까지 살기로 했다》 등 40여 권에 이른다. 2011년 미국에서 출간한 《세도나 스토리》는 한국인 최초로 뉴욕타임스를 비롯한 미국 4대 일간지 베스트셀러에 올랐다.
www.ilchi.net | www.youtube.com/ilchibraintv 접기
최근작 : <공생의 기술>,<오늘을 위대하게>,<나는 100세 골퍼를 꿈꾼다> … 총 130종 (모두보기)
SNS : http://twitter.com/ilchi_lee
출판사 제공
책소개
<운기단법>은 가슴 답답한 현대인을 위한 호흡법이다.
저자가 단전호흡을 알리면서 접한 수많은 경험을 통해 얻은 결론을 바탕으로 쉽고 편하게 현대인들이 따라할 수 있도록 한 호흡법에 대한 지침서이다.
<운기단법>은 내쉬는 호흡부터 시작하여 깊이 있는 호흡법까지 5단계로 구성되어 있으며, 자신의 건강 상태에 맞게 스스로 단계를 조절하도록 소개하고 있어 호흡 자체가 자연스럽고 무리가 없다. 또한 호흡을 하면서 나타나는 신체적 변화와 기적 현상을 상황별로 설명하고 있어 몸의 변화에 따른 자신의 건강 상태를 확인할 수 있다.
이 책은 건강을 원하는 사람에게는 완전한 건강과 생활의 즐거움을, 깨달음을 원하는 사람에게는 명상의 세계로 안내해줄 것이다.
운기단법 5진법
제1진법: 내쉬는 호흡을 통해 손에서부터 시작하여 가슴부위에 마음을 모은다.
제2진법: 숨을 내쉴 때 기운을 가슴에서 단전을 따라 내려 보내고, 들이쉴 때 명문으로 숨을 들이마시면서 단전에 감아서 기운을 모은다.
제3진법: 정(精)이 자라서 기(氣)로 변한다.
제4진법: 서두르지 말고 차분히 중기로 독맥을 유통시킨다.
제5진법: 가슴에서 출발한 진기(眞氣)가 다시 돌아온다. 접기
정확한 실천인지는 모르겠지만 수시로 호흡을 노력해봅니다. 입안에 침(옥로)이 많이 생기고 기운의 허함을 날려버렸습니다. 감사합니다! 고맙습니다!
회명 2012-04-09 공감 (0) 댓글 (1)
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井筒俊彦と牟宗三における「思考と存在」 ─ 東アジアの「現代哲学」をめぐる試論 ── 伊 勢 康 平
早稲田大学大学院文学研究科紀要 第67輯(2022年3月)
Bulletin of the Graduate School of Letters, Arts and Sciences of Waseda University Vol.井筒俊彦と牟宗三における「思考と存在」 67 (Mar.2022) 優秀修士論文概要
井筒俊彦と牟宗三における「思考と存在」
── 東アジアの「現代哲学」をめぐる試論 ──
伊 勢 康 平
本論文では、井筒俊彦の「東洋哲学」と牟宗三の「中国哲学」のなかで意識と存在、ないし心と物がもつ関係に焦点をあて、両者を比較した。とくに、両者の仕事をアーレントのいう「現代哲学」の条件
──カントの批判哲学によって人間の思考が及ばない存在の領域(=到達不可能な物自体)が想定され、
「思考と存在の統一」という信念が機能しなくなったあとに、いかに両者の関係性を調停するか──に対する東アジア的な応答として読めないかという問いを立てて、おなじ理論的平面に配置しようと試みた。
大胆にまとめれば、井筒も牟も、東アジアの思想は思考と存在の統一性を特徴とすると主張していた。
たとえば晩年の井筒は、「東洋哲学の共時的構造化」を掲げてアジアの思想を再構築し、「東洋哲学」の根本的な性質を「意識即存在」という命題に集約させた。他方の牟は、独自のカント読解をつうじて、「中国哲学」では人間もまた知的直観をもち、物自体に到達しうると説いていた。
こうした類似性があるにもかかわらず、歴史上、両者につながりはなかった。じっさい井筒は、新儒家などのように東アジアのべつの地域で同様に伝統的なテクストを読みなおそうとした人々がいたことには無頓着だったようにみえる。それは井筒の「東洋哲学」を論じる人々もおおむね同様だ。近代に東アジアの思想を再構築した試みとして、京都学派と新儒家を比較する研究は散見されるが、井筒の「東洋哲学」はまだ、このような比較がなされていないのが現状である。こうした状況が、東アジアの「現代哲学」として井筒と牟を読解することの背景にある。
第1章では井筒を論じた。第1、2節では「現代哲学」の条件を念頭に、井筒の「東洋哲学」の輪郭を描いた。かれのいう「意識即存在」とは、意識が物を分節する過程と、諸存在が一なる「存在」から分かれていく過程を、相関するふたつのプロセスと捉えたうえで、あらゆる分節がとりのぞかれる一点、つまり「意識と存在のゼロ・ポイント」で両者が統合されるというものだ。また、ゼロ・ポイントは意識にとって不可能な虚無ではなく無限のエネルギー体=「無限宇宙に充溢する存在エネルギー」であり、あらゆる観念や物質がこの純粋な力動性からもたらされる。事実、意識と存在の分節プロセスは、ゼロ・ポイントという宇宙論的な頂点で統合されるだけでなく、根本的には「存在」から人間の言語までを包括する分節エネルギー一般を意味する「コトバ」という力動的な概念によって一元的に縫合される。本論文では、このような「東洋哲学」の性質を「唯動論」と名づけた。
このような性質から、井筒の哲学には否定性がないとしばしばいわれる。だが筆者は、それは厳密には正しくないと考える。第3節では『スーフィズムと老荘思想』を分析しながら、当時の井筒が人間と一なる「存在」の合一可能性に厳格な制限を設けており、明らかに否定神学的な言説を展開していることを論じた。第4節では、『スーフィズムと老荘思想』と「東洋哲学」を比較し、前者では不可能なものとされた事柄が、後者では可能なものとしてゼロ・ポイントに回収されていることを確認した。ここ
443
から考えられるのは、井筒は「東洋哲学」という枠組みを構築するにあたって否定性を消去したのではないかということだ。本論文では、その理論的なメカニズムを解析し、井筒が東洋と西洋を否定性の有無で対比している点などを確認したうえで、かれが「東洋」の名を冠する思想体系をあらたに構想するにあたって、否定的なものの存在を不要と判断したのではないかと仮に結論づけた。
第2章では、牟宗三なりの「現代哲学の条件」へのアプローチといえる「二層の存在論」(執着の存在論/執着のない存在論)を分析した。第1節で二層の存在論を提示するまでの牟の問題意識を確認したのち、第2節で「執着のない存在論」における心と物の関係性を検討した。牟の戦略は、人間の心が無限性と有限性のふたつの様態をもつことを肯定することである。このふたつの様態が二層の存在論に対応する。すなわち、執着の存在論には有限心・感性的直観・現象が属し、他方で無限心・知的直観・物自体が執着のない存在論に属する。牟によれば、中国哲学では道徳的実践をつうじて天と心が貫通し、両者が一体となることによって無限心が実現されると考えられていた。この無限心は主体と対象、心と物を区別せず、感応の運動がもたらす知的作用=知的直観をつうじて、心も物も一元的に捉えるという。
牟自身はこうした自身の議論を「唯心論」と呼び、多くの先行研究もそれに従っている。しかし牟は、自身の思想体系の頂点に天も道も心も物も包摂する絶対的な存在 - 力動の原理である「本体宇宙論的実体」をすえていたのである。これを根拠に、本論文ではかれの体系もまた唯動論的な構造をもつと指摘した。また本論文では、執着のない存在論は「道徳」という語のなかで想定されている人間と宇宙の関係性が中国と西洋とで異なることによってのみ成立しており、そのかぎりでこの理論をめぐるもっとも根本的な問題は、(カント読解の妥当性よりも)宇宙論的差異が根拠としてどれほど有効なのかだと主張した。また、補論的な位置づけとなった第3節では、二層の存在論の構図に依拠する「良知の自己否定」からの近代化論を論じた。
さいごの第3章では両者の比較を行なった。第1節では類似性に、第2節では差異に着目した。第1節では類似性として以下の点をあげた。1)両者は思考(意識/心)と存在の統一性を肯定する。2)統一性は所与の経験世界からは異質な次元(意識と存在の「深層」/執着のない存在論)で認められ、次元の変容には実践が関与する。3)統一性の究極的な根拠として、絶対的な力動性が前提される。この三点を受けて、唯動論の概念をあらためて定義した。唯動論とは、絶対的な力動性の原理を体系の頂点にすえおき、その展開をつうじてさまざまな様態や関係性をもつ諸存在や意識の生成を説明するような、一元論的な思考の形式である。唯動論には、力動性の前提および共有というふたつの傾向がある。絶対的なものとして前提された力動性は、諸存在を生成するだけでなく、人間の思考一般の内部に共有される。根本的に同種の力動性を共有することによって、思考と存在の関係は、究極的にはある統一性によって把握されることになる。この性質の典型的な表現として、牟や杜維明、井筒らが論じる「内在超越」の問題に言及した。
さらに同節では、両者の仕事が「現代哲学の条件」に十分に応えうるかを検討した。両者における思考と存在の統一性の根拠は、東洋/中国の異なる宇宙論にあるが、それによってカントが強いる(とアーレントが語る)条件から統一性を回復できるかには疑問の余地がある。その理由として、筆者は「万物の終わり」という論考におけるカントの中国思想および神秘主義一般の批判を参照し、カントが自身の批判哲学によって制限すべき対象として、中国思想や神秘主義を明確に意識していたことを指摘した。
ここからつぎの主張が導かれる。知的直観にかんする牟の主張や、一種の神秘主義的実践をつうじた意識と存在の統一を説く井筒の議論は、カント自身が抑えようとした思想の形態をカント以後にふたた
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井筒俊彦と牟宗三における「思考と存在」
びもちだし、それを根拠にカントの思想、ひいては西洋哲学一般を乗り越えようとした(あるいはそのオルタナティヴを提示しようとした)にすぎないのではないか。であれば、それはたんに哲学の歴史を単にひっくり返しただけではないのか。つまり、西洋と東洋の宇宙論の差異を根拠に東アジアの思想をオルタナティヴとして提示するには、おそらくより根本的な読みかえか、より巧妙な文脈設定が必要なのである。
いまの段階で根本的な読み替えを提示することは困難だが、第2節では、文脈設定の一例として「宇宙技芸」にかんする許煜の仕事を簡単に導入した。だがそのまえに、まずは井筒と牟の差異が精神性と地域性という対比で示されることを確認した。井筒の「東洋」の概念は、思想の構造に着目した精神的なものであって地理的な領域や民族とは関係がなく、ときにヨーロッパを「東洋」のなかへ取り込んでしまう。このように理論上無限に拡大しうる領域に「東洋」という名をつけたことの政治性を本論文では問題視した。他方の牟は、一貫して「中国」を問題にし、井筒に比べれば地域性を重視した思想家である。牟の二層の存在論は中国の伝統の素朴な肯定にとどまらず、むしろ中国思想自体を改良しようとするものではあったが、本論文では牟が「文化的」な面にかぎってきわめて民族主義的な発言をしていることは問題だと考えた。
こうした課題を受けて、伝統的な宇宙論の差異を強調するための文脈設定の問題にくわえ、精神性と地域性のあいだでいかに距離感を保てばよいかという問題を提起した。そのうえで、許煜の仕事がこれらふたつの問いに一定の解をあたえうることを示した。
まず、許が肯定するのは宇宙論的差異そのものではない。異なる宇宙論はあくまで技術との関連性のなかで提示され、多様な宇宙技芸を構成しうるかぎりで妥当性を得る。つまり許は、技術論を介在させることによって、宇宙論的差異を語ることがそのまま近代的なテクノロジーの問題に接続されるような文脈を設定した。つぎに、宇宙技芸への問いは、たえず地域性を要請する。そこでは「精神的」領域を拡大させるのではなく、むしろ地域差が強調される。それと同時に、たえず思弁性によって地域性を再発明し、あらゆる「故郷回帰」の誘惑に抗い続けることが要請される。この再発明は困難であり、許自身もなしえているとはいえない。だがそれは、許個人の議論にとどまらず、いわば現代東アジア哲学のひとつの共通の課題として、広く参与されるべきものである。
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