2016/11/13

ヨコタ村上孝之 - Wikipedia

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ヨコタ村上孝之

ヨコタ村上 孝之(ヨコタむらかみ たかゆき、1959年4月5日 - )は日本の比較文学者、ロシア語学者。大阪大学言語文化研究科言語文化国際関係論講座准教授。旧姓名は村上 孝之。自称Takman, Cool Dudeことカッチョマン孝之。

経歴[編集]

1978年六甲高等学校卒業。1982年東京大学教養学部教養学科ロシア分科卒業、同大学院人文科学研究科比較文学比較文化専攻修士課程入学1984年に修士課程修了。修士論文「ロマンティック・ラブの発見─二葉亭四迷の場合」で文学修士取得。博士課程に進学するが1988年博士課程単位取得退学、大阪大学言語文化部講師。
1990年9月から1992年9月まで日本学術研究会海外特別研究員として米国プリンストン大学比較文学科で研修。1994年、"Don Juan and Iro-otoko: On the Problematics of Comparative Literature"により プリンストン大学にてPh.D.(比較文学)を取得。同年から大阪大学言語文化部助教授、2007年同言語文化研究科准教授。
2007年、『色男の研究』によりサントリー学芸賞(風俗・社会部門)受賞。近代的な「恋愛」よりも、近世的な「色ごと」のほうが優れていると主張している。
ヨコタ村上という苗字は、日系アメリカ人女性ジェリー・ヨコタ(Gerry Yokota; 大阪大学言語文化研究科教授)と米国で結婚した際に創設した結合姓。日本に帰国してから家庭裁判所に申し立てを行い、正式の戸籍名をヨコタ村上と変更し、離婚後も使用している。
日本キリスト友会(クウェーカー教)の会員で、1999年から2009年には、モスクワの国際フレンド・センターの理事を務め、良心的兵役拒否者の支援をするなどの平和活動、孤児の支援などの福祉活動にも取り組んだ(モスクワ国際フレンド・センター「ニューズ」http://friendshousemoscow.org/?page_id=1259)。
2000年5月、当時大阪大学の院生だった女性が研究室でレイプされたとの申告を『週刊新潮』編集部に行い、『週刊新潮』は2008年11月17日号が"「研究室でレイプ」と告発された「阪大有名准教授」3度の結婚トラブル"と題して報道したため、ヨコタ村上は2009年4月19日、同誌に対し1200万円(うち訴訟費用200万円)の慰謝料と謝罪広告を求め、民事訴訟大阪地方裁判所に提起した。大阪大学の学内調査ではレイプの事実は確認されなかったが、「疑わしい状況をつくり出し、風紀を著しく害した」との理由により、2010年3月24日停職6ヶ月の懲戒処分を受けたことが公表された[1][2]。その後、ヨコタ村上は大阪大学に対しても民事訴訟を提起し、処分取り消しを求めていたが、2011年9月15日、大阪地裁はヨコタ村上に勝訴を言い渡した[3]。裁判の過程で、大阪大学言語文化研究科科長は尋問において、大学側は本件をレイプはおろかセクハラとも認定していないと明言している。にもかかわらず、その後、大学側が大阪高裁に控訴し、大阪大学の逆転勝訴となった。ヨコタ村上側は最高裁に上告したが、2013年1月31日付で却下され、これにより「停職6ヶ月」の処分が確定した。 新潮社(週刊新潮)との訴訟は、2012年1月、大阪地裁で「大学院生の意に反した性交渉があり、内容は真実」と認定されヨコタ村上が敗訴したが、大阪高裁に控訴。2012年7月27日には大阪高裁で、新潮社側がレイプの事実はないことを認め、下記の和解条項からも分かるように、ヨコタ村上側の事実上の勝訴となる和解が成立した[4]。和解条項の全文を挙げる。
1.被控訴人らは、控訴人に対し、本件記事の見出しに使われた「レイプ」が強姦の意味に理解されていることを認め、この点での事実はなかったことを認める。
2.被控訴人らは、控訴人に対し、連帯して本件和解金として30万円の支払義務があることを認める。
3.控訴人は、本件記事の相手方に対し、配慮を欠いた言動があったことを認め、心から謝罪の意を表明する
4.控訴人は、その余の請求を放棄する。
.控訴人及び被控訴人らは、前記一項を除いて、本和解内容をみだりに口外しない。
週刊新潮編集部は「記事の誤りを認めたわけではなく、言葉の使い方の問題だ」とコメントしている[4]。ヨコタ村上側は、本件は当該女性が何らかの個人的な動機・事情によって誹謗・中傷を行い、それを『週刊新潮』がまともな検証もせず記事にしたことによって起こった名誉棄損・人権(プライバシー)侵害であると抗議している(「日々雑感」)。また、ヨコタ村上を支援する市民団体や人権保護団体は、新潮社による報道被害であると激しく批判している(『市民・メディア』133号。ヨコタ村上非公式ホームページ「日々雑感」に転載)。

著書[編集]

  • 『性のプロトコル―欲望はどこから来るのか』新曜社1997年
  • Don Juan East/West: On the Problematics of Comparative Literature.Albany, NY: SUNY P, 1998.
  • 『マンガは欲望する』筑摩書房2006年
  • 『色男の研究』角川選書、2007年
  • 『ロシア語を学んで、ロシアを知ろう 初級』大阪大学出版会、2008  
  • 『金髪神話の研究 男はなぜ、ブロンド女に憧れるのか』平凡社新書、2011 
  • 二葉亭四迷 くたばってしまえ』ミネルヴァ書房・日本評伝選、2014 
  • 『世界のしゃがみ方: 和式/洋式トイレの謎を探る』平凡社新書、2015

翻訳[編集]

  • ギャリー・マーヴィン『闘牛 スペイン文化の華』村上孝之訳 平凡社, 1990
  • カマール アブドゥッラ『魔術師の谷』未知谷、2013 

脚注[編集]


^ 准教授を停職6カ月=「性的暴行」女性が訴え-大阪大 時事ドットコム(2010/03/24-19:11)
^ 阪大准教授に停職6カ月処分 深夜の研究室で女子院生と2人きり 産経ニュース 2010.3.24 20:59
^ ヨコタ村上孝之 日々雑感
^ a b 「強姦なかった」と新潮社認める 「大学院生レイプ告発」記事訴訟、阪大准教授と和解成立産経 2012年8月8日11:28
外部リンク[編集]
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やしの実通信 『日本型「教養」の運命』筒井清忠著

やしの実通信

『日本型「教養」の運命』筒井清忠著、岩波書店2009年 [2016年08月27日(Sat)]
九鬼周造も和辻哲郎も新渡戸信者であった。
新渡戸は台湾植民運営、国際連盟の創設と言った実務家以外にも教育者として日本社会を形成した面を持っている。
私が新渡戸を植民研究者、アダム・スミス研究者として認識したのも、新渡戸の生徒であった矢内原を通してであった。

筒井清忠著『日本型「教養」の運命』(岩波書店)は、日本が日清、日露戦争に勝利し、アノミー状態にあった日本社会、特に青年、一高のエリート達に個人主義的教養主義を教えたのが新渡戸であったことが議論されている。しかも新渡戸はこの教養主義と修養主義を大衆にも説いた事により、日本社会の一種独特なエリートと大衆の関係ができた。(筒井はフランス社会のエリート集団との比較を書いている)

筒井先生のこの本は大変面白いのだがとても複雑で私の頭ではまとめられない。しかし新渡戸の大衆とエリートを同時に対象とした修養主義は次の文章が一番わかるような気がする。

「彼(新渡戸)には同一の内容を対象に応じて説きわける力があったわけである。明治末期の新渡戸稲造の裡には「修養」の名の下に教養主義(一高生)と修養主義(「山深き寒村の少女」)とが同居していたのであった。」(37頁)

「山深き寒村の少女」は新渡戸稲造の生い立ちを見れば理解できる。
1862年生まれの稲造は盛岡藩の幕臣として敗者の立場となり、幼くして父を失い叔父の家で育てられる。養父の支援が得られず奨学金のある北海道の農学校へ行く。二十歳前に母も亡くし、カーライルの『衣装哲学』に出会い人生が変わったようだ。猛烈に勉強し、東大に行くがその内容に失望し、叔父が残した財産で食べるものも削って米、独と留学している。
新渡戸を育てたのは生まれながらに背負った逆境のような気もする。「山深き寒村の少女、少年」は「稲造」自身でもあったのだ。

同書は次の五章からなる。
第一章 近代日本における教養主義の成立
第二章 学歴エリート文化としての教養主義の展開
第三章 近代日本における「教養」の帰結
第四章 企業経営文化としての「修養」と教養」
第五章 現代日本の教養

新渡戸を取り上げているのは第一章であるが、第四章に九鬼周造、和辻哲郎と共に新渡戸の生徒であった三村起一が取り上げられる。三村は新渡戸に薦められて住友に入社したのだ。そして住友の「経営家族主義」を作りあげたのだそうである。筒井は三村が人生の岐路の要所要所に新渡戸のアドバイスを仰いでおり、新渡戸の修養主義が三村のエートスにあった(161頁)としている。
日本企業の独特な経営哲学にも新渡戸が影響していたのか、と知って驚くばかりである。


しかし、新渡戸校長の一高の生徒の中には軍閥を、共産主義を、翼賛体制を主導した、近衛文麿、後藤隆之助等々もいるのだ。次は新渡戸のこの人材育成を批判した鶴見俊輔の「日本の折衷主義 ー 新渡戸稲造論 ー」をまとめたい。

やしの実通信 「満州国建国」は正当である

やしの実通信



『日本-その問題と発展の諸局面』(21) [2016年07月15日(Fri)]
『日本-その問題と発展の諸局面』の第三章は前回で終了するつもりだったが、下記の新刊が紹介されていたので、同じ事を1931年のこの本で明確に述べている事だけメモしておきたい。

「満州国建国」は正当である 単行本 – 2016/7/23
ジョージ・ブロンソン・レー (著), 竹田 恒泰 (監修), 吉重 丈夫 (翻訳)
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本の紹介に「日露戦争時、実はロシアと清国は「露清密約」を結んでおり、“連合軍"として日本と戦ったのであるが、このことは日本人には教えられていない。」とあるが、新渡戸の本には明記していあるのだ。

『日本-その問題と発展の諸局面』の三章、16節「内外の難問」に 「しかしながら、一つの驚くようなことが明るみに出た」と新渡戸は始める。
日露戦争8年前の1896年に中露の秘密条約が締結されていた。
この条約には中露が「それぞれの活用できる陸海全軍の力を用いて、日本がアジアのロシア領土、中国、朝鮮に対して行ういかなる攻撃にも援助し合うこと」が保障されていた。
「軍事作戦中は、中国の全港湾はロシア艦船に開放される。満州を貫く鉄道の施設権は、”ロシア中国銀行”に許可される。この条約の効力は鉄道契約が締結されてのち15年間にわたる。」

新渡戸は「こんな条約の存在が知られさえしていたら、今日喧しく論じられている満州問題など、決して起りもしなかったろう。」(174頁)満州事変はこの本(英文)が出された2週間後に勃発。

そして新渡戸は中国を「日本はその隣国に、秘密においても宣伝においても、とうていかなわないことを、改めて教えられた。」と批判する。
今の状況と全く同じではないか!

The case for Manchoukuo | by George Bronson Rea.

Catalog Record: The case for Manchoukuo | Hathi Trust Digital Library



The case for Manchoukuo, by George Bronson Rea.

Main Author:Rea, George Bronson, 1869-1936.
Language(s):English
Published:New York, Appleton-Century, 1935.
Subjects:Eastern question (Far East) 
Japan > Foreign relations > United States 
United States > Foreign relations > Japan 
China > Foreign relations > United States. 
United States > Foreign relations > China. 
Manchuria (China) 
Physical Description:xi, 425 p. illus. 21 cm. 
Locate a Print Version:Find in a library

やしの実通信 「新渡戸稲造における修養論の位相 : 包摂と排除の視点から」伊藤敏子

やしの実通信

「新渡戸稲造における修養論の位相 : 包摂と排除の視点から」伊藤敏子2015 [2016年07月15日(Fri)]
新渡戸研究、結構あります。
昨年の論文。新渡戸の教養主義とはなんぞや?と気になっていた。
この教養主義が、近衛文麿始め、軍国主義、ファシズムを先導する人材を作っていったように見えるからだ。
下記の論文をサラッと拝読。

「新渡戸稲造における修養論の位相 : 包摂と排除の視点から」
Inazo Nitobe and character development : A Luhmannite analysis
伊藤, 敏子 ITO, Toshiko
三重大学教育学部研究紀要, 自然科学・人文科学・社会科学・教育科学. 2015, 66, p. 325-341.
http://hdl.handle.net/…/bitstream/10076/14460/1/20C17359.pdf
http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/14460/1/20C17359.pdf


戦後新渡戸が忘れられた存在であったが、5千円札をきっかけに注目されるようになった。
1981年に新渡戸が5千円札に現れる前は年間1、2件の論文が1982年以降増加し1990年以降は年間数十本の論文が出ているという。

伊藤氏の論文に下記の記述を見つけた時は心臓が止まった。ヤッパリ!

「新渡戸が教育者として生きた時代は、ひとつには開国の帰結としての近代化の過程で日本の教育が従来の価値体系の根本的な見直しを迫られた時代であり、いまひとつには世界規模で展開した新教育運動が一世を風靡した時代である。

20世紀への世紀転換期に生起した新教育運動は、今日的な見方からは、改革の観点が教育方法論にとどまり教育目的論や教育内容論に及ばなかったこと、ファシズムの揺籃として機能する側面をもっていたこと、さらに教育の対象として想定されていたのが新中間層(ブルジョア)であり一般的広がりをもたなかったこと(堀松 1987、8頁 参照)、といった時代的限界が指摘されるが、そこで掲げられた理念のなかには今日にいたるまで継承されているものも多い。」(上記論文328頁 下線は当方)

笹川良一氏のご両親が息子の良一氏を進学させなかった理由は、勉強させるとアカになる、と先生かお坊さんに言われたからだったと記憶している。当方の祖母はまさに大正の自由教育(日本初)を受けアカになった、と本人から聞きました。商家のお嬢さんだった栄さんは、自分の家で働く「奉公人」と自分の身分の違いに疑問を持ったらしい。

伊藤氏の論文は新渡戸の修養論と教養論を対比し、エリートとそうでない人々を結ぼうとした新渡戸を、また東西を結ぼうとした新渡戸の試みは裏目に出て、「「忘れられた偉人」という歴史的事実は、架橋の破綻と無関係ではないと思われる。」と結んでいる。


こういった新渡戸を批判しているのが鶴見俊輔らしい。
「国家批判・社会批判の欠如、その帰結としての階層の温存という支配者理論という観点から新渡戸の「修養」を考察した研究者としてはさらに鶴見俊輔があげられる。(中略)鶴見は新渡戸の高等教育論が同時に「支配階級の美化」すなわち「日本の支配階級の道徳観がそのまま被支配階級におこなわれることをよしとする前提」に貫かれるものであったことを糾弾する。」(336頁)

伊藤氏は鶴見をさらに引用し、
「鶴見俊輔は新渡戸の「修養」がキリスト教に基づくものであったことを認めながらも、新渡戸の「修養」がその先に国家主義を措定しており、したがって新渡戸の「修養」は階層に架橋することにつながらなかったと断じる(鶴見 1960、188頁 参照)。新渡戸の多くの弟子は官僚として時代の舵をとるが、これは―鶴見の解釈では―新渡戸の思想が「国家体制の奉仕者のみ」を生み出す「日本の官僚の思想のもっともすぐれた範型の一つ」(鶴見 1960、186頁)として機能したことの証左であり、「青年時代に新渡戸思想で訓練されたものは、年齢と地位の上昇に応じて普遍宗教から現存政府の立場へとアクセントをおきかえて、何の違和感もなしに壮年時代以降には日本国家の体制の中心の位置にすすむことができ」(鶴見 1960、188頁)たということであり、その先には「新渡戸ゆずりのおだやかな趣味をそのままひきつぎながら、穏健な超国家主義、軍国主義、全体主義」(同書、211頁)への道が開けていたとする。」(339頁、下線は当方)



確かに新渡戸には何か今に続くエリート主義が感じられる。同時に私費で夜間学校を開設するなど、社会の弱者への支援活動もある。伊藤氏の文献にある下記の本は読んで見たい。

鶴見俊輔(1960):日本の折衷主義.新渡戸稲造論.〔近代日本思想史講座 3 発想の諸様式 1960 筑摩書房所収 183-222頁〕

筒井清忠(1995):日本型「教養」の運命.歴史社会学的考察.岩波書店

やしの実通信

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『日本-その問題と発展の諸局面』(18) [2016年07月14日(Thu)]
新渡戸著『日本-その問題と発展の諸局面』の第三章「新日本の出現」を5回に分けてなぞってきた。天皇制を中心にまとめるはずが、日清、日露、第一次世界大戦の日本の正義について新渡戸がどう言ってるのか関心がある。
一般的に日本に正義は無い事になってるのだ。

今回は三章の中の 12.日露戦争とその結果、13.日本の世界大戦参加、についてまとめたい。

新渡戸は、日露間の緊張は何十年も続いており、「両国は心で武装してきた。」(152頁)と始める。
何故武装したのか?

「ロシア人は地中海に出口を見つけるのを阻まれて、その欲深い眼を極東に向けたのであった。」1860年ロシアは中国からアムール河東岸領土を獲得。1891年には大連と旅順まで繋がるシベリア横断鉄道の建設が開始。
日本は和平を望んだがロシアの傲慢な振る舞いに対し、残された唯一の道を取らざるを得なかった。ロシアはフランスとドイツの直接的支援を受けていた。「カイゼル・ヴィルヘルム二世こそ、道徳的には、その戦争の発起人だとさえいわれた。(中略)カイゼルはツアーに陰険な策略を用いて、むりやり戦争をさせたという。」(154頁)
新渡戸は、日本の勝利は軍事力だけでなく、赤十字の衛生処置、捕虜の人道的待遇、交通の輸送体系が最後の成功となった事を主張する。ロシアが日本を脅迫して得た中国の全権益を獲得し、ドイツが得た山東は日本軍が取り返し、中国に返還した。
そしてさらなる成功は1905年日英同盟の更新である。今度は10年という期間で下記目的を持っていた。
a) 東亜とインド地域における平和の維持
b) 中国のおける万国通称権益の保持
c) 調印国の東亜及びインドのおける郎度権の維持及び特殊権益の防護。
さらに改定条約には防禦同盟も盛り込まれた。これが第一次世界大戦に繋がる。


日露戦争の不幸な結果はヴィルヘルム二世が”横禍論”を「卑劣な資金」(どのように卑劣なのか気になる)を使ってアメリカに向けて宣伝した事である。新渡戸は「人類の半分以上は「白禍」の犠牲者となっていたことなど、白人のあたまには絶対浮かんでこなかった。」(157頁)と書いている。

さらに日露戦争の勝利は、日本国民の道義崩壊にある、と新渡戸は指摘する。「軍国思想が国民生活のあらゆる水路に流れ込む。」子供たちは兵隊ごっこ、青年大尉は恋愛対象に、老将軍は政府の政策を決定する。
新渡戸はここでバークを引用している。
「戦争は道徳的義務の規則を棚上げにする、そして久しく棚上げにされたものは、すっかり廃棄される危険がある。」


長くなったので 13.日本の世界大戦参加、は次回。

やしの実通信 新渡戸稲造の天皇論。

やしの実通信



『日本-その問題と発展の諸局面』(17) [2016年07月05日(Tue)]
新渡戸稲造の天皇論。
もしも現憲法の「象徴」の箇所を新渡戸に依拠しているのであれば、それは「武士道」の下記の部分と『日本-その問題と発展の諸局面』の下記の部分である。

「神道の自然崇拝は国土をば我々の奥深きたましひに親しきものをたらしめ、その祖先崇拝は系図から系図へと辿って皇室をば全国民共通の遠祖と為した。我々に取りて国土は、金鉱を採掘したり穀物を収穫したりする土地以外の意味を有する ー それは神々、即ち我々の祖先の霊の神聖なる棲所である。又我々にとりて天皇は、『法律国家』[Rechtsstaat]の警察の長ではなく、『文化国家』[Kulturstaat]の保護者でもなく、地上に於いて肉身を有ち給う天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備し給うのである。ブルートミー氏が英国の王室について「それは権威の像たるのみではなく、国民的統一の創造者であり象徴である、」と言ひしことが真であるとすれば、(而して私はその真なることを信ずるものであるが)、この事は日本の皇室に就いては二倍にも三倍にも強調せらるべき事柄である。」(「武士道」新渡戸稲造全集第一巻 2001年 36-37頁より。下線は当方)

「してみるとコクタイは、最も単純な言葉に戻してみると、この国を従え、我国の歴史の始めからそれを統合してきた”家系”の長による、最高の社会的権威と政治権力の保持を意味する。この家系は国民全体を包括すると考えられる ー というのは、初代の統治者はそお親類縁者を伴って来たし、現在人口の大部分を形成しているのは、それらの人々の子孫だからである。狭義においては、その”家系”は統治者のより直系の親族を含む。こうして天皇は国民の代表であり、国民統合の象徴である。こうして人々を統治と服従において統一している絆の真の性質は、第一には、神話的血縁関係であり、第二には道徳的紐帯であり、第三には法的義務である。」(『日本ーその問題と発展の諸局面』183-184頁,新渡戸稲造全集第18巻、2001年、教文館)

後者の『日本-その問題と発展の諸局面』はイギリスの文部大臣を勤めた、オックスフォード大学歴史学者フィッシャー教授の求めに応じて、国際連盟を退任した新渡戸が書いたものである。この本が出版された2週間後に満州事変が、半年後の1932年2月には新渡戸が「日本を滅ぼすのは軍閥か共産主義」と言って暗殺されそうになる。翌年1933年IPR-太平洋問題調査会のカナダ会議で客死するのだ。
『日本-その問題と発展の諸局面』は日本を紹介する内容だが、新渡戸の天皇論がまとめられているようにも見える。それは現憲法から感じられる表層的な天皇の存在ではなく、日本という国家が形成されてきた2千年の歴史を背負ったものである。

この事は余り知られていないようなので、非力ながらもまとめてきた。

前置きが長くなったが、今回は天皇論ではなく日本が行った3つの戦争の「正義」についてである。
恥ずかしながら「三国干渉」というのを小学校の歴史で習って以来その中身については一切関心がなかったが、日本の歴史を学ぶ愚夫が「日本はトリプルインターベンシにョンされていたのか!なんて事だ!」と驚愕していたのを見て、その意味を始めて知り驚愕した次第。

新渡戸は「三国干渉」という項目をもうけてそれがいかに日本人を怒らせたかを赤裸々に書いている。
そういえば、日清、日露、第一次世界大戦後の欧米諸国の日本への対応はそれは正義とは正反対のもので、当時いかに新聞が、民衆が怒り狂ったかを当方が知ったのはここ数年である。

日清戦争の結果をみたロシアは極東の海軍力を倍増した。ロシアに巨額の蓄積投資をしていたフランスはロシアを支持した。よって、干渉が仏露であれば日本は驚かなかったであろうが、「ドイツの裏切り行為は日本人から絶望の言葉(中略)を引き出しただけだった。」(141頁)とある。1894年はビスマルクが去って、「あの」ヴィルヘルム二世の時世だ。
国際社会に正義は無い事を日本人は学んだのである。以下長くなるがいか日本人が怒ったのか引用したい。

「その恨みは、言葉でも涙でも尽くせぬ程深かった。国民は外国に聞こえるようなわめき声を決してたてなかったし、どんな形でも、外国の援助を求めもしなかった。落胆は苦いものであったが、その「友誼ある勧告」には、それなりの教訓がないではなかった。それは、将来の敵はどこにひそんでいるかをはっきりと示した。これら「友誼ある」勧告者たちは、日本に、安全はただ武器のみにあることを教えた。」(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、141頁)

新渡戸は日本は勝利の果実を奪われただけだが、中国はこれら列強に切り刻まれていく様子を示し、「可哀想な中国」と書いている。

さらに新渡戸は日清戦争の道義的意味を伊東司令長官と大山軍司令官が、中国海軍丁提督にあてた手紙を引用して説明している。
少なくとも当時の日本の考えは中国を沈滞破滅から救い、近代の進歩の道に就かせることであった。
そして日清戦争の付随的成果として賠償金のおかげで国家財政は1897年に金本位体制を始める事ができた。さらに日清戦争は多くの中国の知識人たちが日本に西洋文明を学びに来る機会を与えた。さらに1902年には日英同盟が締結された。これは英国の「光輝ある孤立」の記録破り、ロシアドイツの台頭に日英が手を組むことになったのである。これにより日本は威信を得て、英国銀行家の財政支援を確保し、ロシアの味方を減らし、後の大戦に参加する日本にの決意を強くした事である。(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、149-152頁)


追記 伊東司令長官と中国海軍丁提督の事が下記のサイトに書かれています。
二人は友人であった。伊東司令長官は手紙と共に葡萄酒も送った。丁提督は服毒自殺をするが伊東司令長官がその遺体を清国まで輸送した。
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15444211

やしの実通信

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『日本-その問題と発展の諸局面』(16) [2016年06月17日(Fri)]
最近佐藤健志さんの言論を追っている。といっても出版物は手に取っておらず、現時点ではウェッブ上の情報だけである。『笹川良一研究』を書かれた佐藤誠三郎氏のあとがきに同書をご子息の協力を得て書いた、とあったからだ。
佐藤氏の言論の中で東京裁判の事が触れられており、日本に正義はない事が前提になっている事を指摘されていた。
あの大戦で日本に正義はなかったのか?そしてあの大戦に続く、第一次世界大戦、日露戦争、日清戦争、そして日本の開国。「義」のない行動、決断であったのか?
まさか!
セイギのセの字もなかったのは西洋諸国でしょ!
新渡戸はまさに、日本にあった「正義」を『日本-その問題と発展の諸局面』の中で強調しているのだ。

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アレクサンドル三世


日本は古代から朝鮮との関係を維持していた。それは日本の安全保障でもあった。
しかし、朝鮮は中国の勢力に屈し、19世紀の終わりにはロシアの餌食となった。ツァーの代表機関が金を自由に使用し、朝鮮はロシアの手に落ちる寸前だったのである。これは日本にとって積極的脅威でった。日本は中国朝鮮との交渉を重ね、1876年に通商条約を署名。条約は阿片を朝鮮に輸入することを禁じ、1882年イギリスもそれに従った。新渡戸はここまで書いていないが、阿片で成り立っていたイギリスに署名させた意味、即ち阿片で成り立っていたイギリスの貿易経済に日本が示した行動は正義ではなかったのか?と当方は思う。
しかし、朝鮮内の政情は悪化するのみで、中国か日本が指導しなければロシアが入ってくることは明らかだった。1885年天津条約が締結。
日本国民の生命と財産をロシアから守り、阿片の弊害から朝鮮を守った日本に正義はなかったのか?



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ジョージ・ナザニエル・カーゾン卿


日本国内に武力で朝鮮問題を解決させようという挑発はあったが、日本は忍耐し続けた。
朝鮮の腐敗を新渡戸はイギリスの政治家ジョージ・ナザニエル・カーゾン卿のコメントを引用して説明する。以下孫引きになるがそのまま引用する。
「日本が自由に半島を併合し、それを日本自身の政府機関で日本流に扱っていたとすれば、朝鮮は早晩現在の混沌から脱して新しい秩序を展開していたかもしれない。しかし日本は、自身の言質もあり、また他国に対する恐れもあって、これを行うことができないで来た。狂った小さな舟が、極東の錨地に危なっかしくも碇泊しているたった一本の錨綱を、日本は切ってしまったのだ。そしてその小舟を、舵取りもおらず、舵もないまま、荒れ狂う海上に漂うにまかせてしまったのだ。」(『日本-その問題と発展の諸局面』、新渡戸稲造全集第18巻、2001、138頁)
日本が錨綱を切った朝鮮で起った動乱を鎮めようと「朝鮮は中国の属国である」と宣言し李鴻章が派兵。日清戦争につながる。

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李鴻章


イギリス外相も憂う朝鮮問題。日本に正義はなかったのか?



第一次世界大戦前まで一気にまとめようと思いましたが、ここは日本の正義について確認する重要な点なので、やはり丁寧に2、3回に分けて書いて行きます。

やしの実通信 改竄する矢内原 改竄される新渡戸

やしの実通信

改竄する矢内原 改竄される新渡戸 [2016年06月12日(Sun)]
新渡戸の言論を読みながら少しずつこのブログに書いている。
結構な、というかかなりの反応がある。その多くが
「新渡戸がそんな事を言っていたんですか?」
という驚きの反応である。
実は当方も当初は全く同じ反応であった。

最初矢内原の「南洋群島の研究」で矢内原の植民政策学をなぞっていたら、新渡戸稲造にたどり着いた。矢内原の植民学は新渡戸のそれを継承している。
そして新渡戸の植民政策は後藤新平を継承しているのだと思う。(後藤新平はこれから読み込む予定)

新渡戸の言論が広く理解されていないのはなぜなのか?
新渡戸の弟子、矢内原のせいなのである。
矢内原は戦後、新渡戸を守るために新渡戸の言論を改竄したのだ。
新渡戸は、「朝鮮は朝鮮人のため」と譲らない伊藤博文を説き伏せて朝鮮への日本移民を進めた。
新渡戸は、帝国主義的拡張論者であった。
レーニンの民族自決、ウィルソンの民族自決の矛盾を一番知っていたのは新渡戸だったのではないか?国際連盟を実際に立ち上げる中でその矛盾を背負ったのは新渡戸だったのではないか。


戦後GHQの検閲のためか、矢内原は新渡戸に関する記述を改竄している。
詳細は、何度か取り上げた『日本・1945年の視点』(三輪公忠著、東京大学出版会、2014年、213-215頁)にある。

三輪氏は「新渡戸稲造の「復権」」(展望、ソフィア:西洋文化ならびに東西文化交流の研究、33(3) 1984年)という論考でも同様な内容を発表している。同論文に、新渡戸稲造研究者が、新渡戸を英雄化したがる姿勢のために、近代日本の汚点をではなく、ヒューマニスト、クリスチャン、反軍国主義の国際主義者のイメージだけを抽出したかったのであろう、と指摘している。そういう意味で他の新渡戸研究者も矢内原と同じく新渡戸の改竄を行っていたわけである。

「ヒューマニスト、クリスチャン、反軍国主義の国際主義者」
まさにこれが、当方の、新渡戸全集を読む前の漠然とした印象であった。
多分、このブログにコメント下さった多くの方の印象も同じであろう。

ところで矢内原は、1949年11月25日昭和天皇に「新渡戸稲造について」進講している。
昭和天皇はなぜ新渡戸の事を知りたかったのであろうか?
矢内原はいったい何を話したのであろうか?
改竄した新渡戸か?それとも真の新渡戸か?



追記:『昭和天皇実録』巻三十八、153頁に以下の文があるらしい。
11月25日午前、表拝謁の間で、天皇は、東京大学教授矢内原忠雄から「新渡戸稲造について」と題する進講を受け、「新渡戸の人間観、平和思想、教育精神などにつきお聴きにな」った。

神道を学ぶ(読みもの)

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凡て迦微とは
天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅
宝鏡奉殿(ほうきょうほうでん)の神勅
由庭稲穂(ゆにわのいなほ)の神勅
三種の神器
手を打ちて跪拝に当つ
惟神(かんながら)
左左右右元元本本
幽顕(ゆうけん)
現人神より現御神(あきつみかみ)
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靖国神社問題を分かりやすく整理してみる
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葬式は要らない、のか?
神道と脳死・臓器移植について
「豊かな暮らし」とは何か考える
人生幸せになるために必要なことは三つ

神道と現代社会

日本全国の神社数と神職数
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宗教団体からもっと税金を取ったらどうなるか

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国家神道とは何か

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国家神道とは何か

 国家神道という言葉が、内容もよくわからないままに使用され、さらにそれが常識として通用している、というように感じます。
 「明治維新から第二次大戦敗戦までの八十年間、日本の国家、政府は神道を宗教として国民に強制した」というのが現在の世間のおおよその認識であろうと思います。しかし、実はその定義は事実とはかけ離れています。実際に政府が神道において導入したのは「神社非宗教論」だったからです。
 神社が非宗教、と言われると不思議に思われることでしょう。神社って宗教施設だし、そこで行われていることは宗教行為ではないのか、と思うのが自然かもしれません。また、注意しなければならないのは、神道非宗教論ではなく、あくまでも神社ということです。さらに、そもそも宗教という言葉は何を意味するのかということも考えなければなりません。これらの疑問はその当時も問題になり、第二次大戦敗戦まで続きました。
 ともかく、神社非宗教化が行われた歴史を見ていきます。

 明治維新

 明治時代以前は神仏習合といいながら、圧倒的に力を持っていたのは仏教寺院でした。江戸時代は徳川幕府が民衆支配のために寺請制度(檀家制度)を導入したため、明らかな仏主神従状態になっていました。神職が特に不満を抱いたのが、葬儀も仏式で行わなければならなかったことです。江戸時代の間、神葬祭を行えるように神職たちは運動しますが、神職本人とその嗣子のみがなんとか許されるようにはなりました。しかし、神職の家族は仏式で行わなければなりませんでした。

 さて、明治維新が起こった原因について、学校の教科書を読むと「黒船がやってきて、開国したら物価が上がって、民衆の暮らしが悪くなり一揆が起きて、行き詰まって徳川幕府が政権を朝廷に渡した」みたいなことが書いてあります。典型的な戦後左翼史観による説明です。それも一因ではあるでしょうが、それだけなら幕府の改革で済んだでしょう。
 朝廷に政権を返すまでに至ったのは「尊皇思想」の高まりという要因が非常に大きかったのです。徳川幕府は初期に社会の秩序の為に儒教を導入しますが、結果的に将軍ではなく天皇が治めるのが正統であるという正統論が生まれ、世の中に広がります。そして、幕末のころには、日本全国でその尊皇思想が当たり前のようにまでなってきたのです。

 維新のスローガンは「神武創業の頃に戻る」。復古的な施策の一つとして、慶応四年に神祇官が設置され、明治二年には太政官の外に特立します。二官八省、まさに律令時代の復活です。また、明治元年のいわゆる神仏分離によって、神社と寺院とが完全に分けられます。明治二年宣教使を設置、大教宣布の詔を発して、国民教化運動が始まります。キリスト教対策と大衆を国民としていかにまとめていくか、ということを目的としました。なお、新政府は最初はキリスト教を禁止しようとしますが、欧米列強の抗議を受け、認めざるを得ませんでした。ですので、この頃は基本信教自由ですが、その上で神道国教化を目指していたと言えるでしょう。明治四年には神社は国家の宗祠であるとして、社格制度が定められ、神官の世襲が廃止になります。

 神道国教化に失敗

 しかし、復古的な政策はなかなかうまくいきませんでした。神祇官は力もなく、活躍もできず明治四年に神祇省に格下げとなり、太政官の下に属することになりました。大教宣布もうまくいきませんでした。そもそもその当時の日本には説教をするという伝統が話す方にも聞く方にもありませんでした。仕方なく話す職業である講談師や落語家がかり出されたそうです。神社だけではうまくいかないということになり、翌年には神祇省は廃止され、教部省が設けられ、神職も僧侶も教導職に就き、神仏合同で国民教化運動を行うということになりました。神武創業の頃に戻る、神道を国家国民の宗教にしていこうという、神職、神道家の理想はどんどん後退していきます。

 教部省の下での大教宣布運動は神仏合同で行われましたが、実態は神主仏従であり、これに大きな不満を持ったのが浄土真宗でした。ここで、特定の一派の名を出すのは不思議に思われたかもしれません。浄土真宗は現在も日本で最大の仏教宗派ですが、この時もかなりの力を持っていました。長州は真宗地帯であり、さらに明治維新の際に藩に協力したこともあって、長州藩出身の政治家に対しての強いコネクションを持っていました。もう一つ重要なのは、浄土真宗は阿弥陀如来だけをひたすら信仰するという一神教的な要素を持ち、「神祇不拝」といって他の神仏を拝むことを非常に嫌いました。

 大教宣布運動の中心として芝の増上寺に大教院が設置されますが、ここに造化三神と天照大御神がお祀りされ、僧侶も拝礼することになりました。また、教える内容も神道のものが多く、このような神道主体の運動に我慢がならなかった浄土真宗は、長州閥の政治家も巻き込んで脱退の活動を始め、明治八年に離脱に成功します。この結果、明治十年に教部省は廃止となり、大教宣布運動は失敗に終わりました。神道国教化の夢は実質的にここで終わったといえるでしょう。

 教部省廃止によって、神社については、内務省社寺局の管轄下となります。太政官と並立する神祇官から太政官下の一省の一部局へと相当の転落です。大教院も解散となり、その代わりに神道側は神道事務局を設けます。その祭神に造化三神と天照大御神だけでなく、大国主大神もお祀りするべきである、と出雲大社宮司の千家尊福が主張しましたが、当時伊勢神宮の宮司であった田中頼庸が拒否したことから、いわゆる祭神論争が勃発しました。伊勢派出雲派と呼ばれ神道界を二分する論争となり、最終的には政治家に頼んで勅裁を仰ぎます。もちろん皆自分の信仰に基づいての真剣な主張だったわけですが、外部から見ると神道界内部の揉め事とみなされたのは仕方ないことでした。

 神社非宗教化へ

  さて、その宗教家達の活動とは別に、実際に国家の首脳である政治家とその配下の官僚達の関心は、いかに欧米列強に追いつくか、ということでした。そのために急いで欧米の制度、文化、思想の導入を図ります。宗教制度についても欧米諸国に習います。のちに憲法を作った伊藤博文や開明派官僚は、欧州のようなキリスト教国教制よりアメリカ流の政教分離の方がよいと思い始めます。

 このような宗教界の流れと政治界の流れが合わさって、明治十五年に神社は非宗教ということになり、祭祀のみ行うということになりました。神職も教導職との兼任が禁止され、宗教活動ができなくなりました。宗教としての神道は宗派として各自が行うということになります。これを教派神道といい、神宮教、大社教、扶桑教、御嶽教など神道十三派が公認されました。

 国民統合のために全国民を神社に参拝させるためには、浄土真宗門徒やキリスト教徒の参拝できるように、あくまでも宗教ではない、という立場を取らなければならなかったのです。
 そもそも神道は宗教なのか、という議論は当時からありました。宗教という言葉が英語のレリジョンを訳した時に使われるようになったもの、というのも話をややこしくしています。浄土真宗が主張したのは、皇室の祭祀が神道であるのはよいが、神道にはろくに教えもないし、宗教とはいえないものではないか、ということです。これは神道を軽く見た意見といえますが、反対に神道家の中にも非宗教と考えた人もいました。こちらは日本が古代から続けてきた神道は、他の宗教と言われるものと同じように考えてはいけない、という意見で、神道は特別だという考え方です。
 この神社非宗教化に神職達は反発します。特に葬儀もできないとされたことには激しい抗議をしたため、民社の神職は当分の間葬儀もしてよいということになります。妥協の産物です。

 その後の神社行政

 神社は国家の宗祠といいながら、明治政府は財政難のため元々神社にあまりお金を出していませんでした。明治四年の社格制度で全国の神社のうち、百いくつかの有力な神社を官社(官幣社、国幣社)とし、その他を民社(府県社、郷社、村社、無格社)に分けますが、官社には多少のお金を出しますが、明治六年以降は民社にはお金は出しませんでした。 神社非宗教化になってからも、政府は神社への支出をなんとか減らそうと画策します。

 また神社の役所の管轄は内務省社寺局のままでした。非宗教であるはずの神社と宗教である仏教やその他宗派と一緒の部門が扱っていたのです。
 これらのことを見ると、明治中期以降、政府は神社、神道に対してほとんど熱心でなかった、ということがわかります。
 神職達は国家の宗祠というなら、それなりの待遇をするべきではないかと要求を始めます。ここで、神道の味方が現れました。議会です。衆議院では神社の待遇を改善する法案がいくつも可決されます。そういう声の高まりによって、明治三十三年に社寺局から分離して神社局が設置されます。お金についても官社への金額が増加し、府県社や村社にもお祭りの際に自治体が幣帛料を出してもよい(出すと義務づけたわけではない)ということになりました。

 しかし、明治政府は財政難です。ここで起こったのが神社整理(神社合祀)でした。府県社以下の神社でも幣帛料を納める神社はそれに相応する内容を持つ神社のみでした。そのような神社を作るべく、村社や無格社を廃して地区の大きな神社に統合しようとしました。神社局官僚によって行われた、この施策により、全国で二十万社あった神社が大正三年には十二万社まで減少しました。
 神社整理は各府県によって対応が違い、熱心に行った三重県や和歌山県では減少率が80%以上でしたが、不熱心な府県では10%程度しか減っていないという所もありました。国会議員や学者などからの強い反発もあり、神社整理はそのうち行われなくなりました。
 その後もずっと神道界は国家の宗祠というのならふさわしい待遇をということで運動を続けます。神祇官を復活させるべきだと運動しますが、それがやっと前進して内務省の外に神祇院が設置されたのはやっと昭和十五年のことでした。

 神社は非宗教ということは定まったわけですが、その後も宗教なのか宗教でなのか、という話がずっと問題となります。
 浄土真宗やキリスト教は非宗教といいながら神社が祈祷を行ったり、お守りを授付するのは宗教行為ではないかとことあるごとに政府を突き上げます。内務省神社局管轄の非宗教である神社は、ある種「役人神道」というようなものでした。官僚達は他からの批判ものらりくらりかわしますが、国民を指導したり積極的な活動をしようという意志もありませんでした。

 第一次大戦終了と昭和四年の世界大恐慌で世界的に国家主義が台頭します。日本でも不況と東北大飢饉などの影響で国民の間に不安感が強まり、また議会政治に対する不満が強くなります。そして満州事変が始まり、軍部が政治を握り、大東亜戦争へと繋がっていくわけですが、日本での国家主義の台頭については政府が煽ったと言うより、在野の右翼団体、思想家が大衆の間に支持を受けるようになってきたというのが大きいでしょう。この頃になると、仏教教団もキリスト教団も国家主義となってきていました。
 そして、昭和十年あたりから、国家政府による国民管理が強くなってきました。ただ、その時でもあくまでも非宗教という建前があり、神社が熱心に動いたと言うことはありませんでした。超国家主義的なことを言い出したのは政府が押しつけたわけではなく、民間からわき上がって支持が広がったものでした。

 昭和二十年敗戦となります。進駐軍は神道についてよくわかっていませんでした。日本人自身もわかっていなかったところもあるくらいなので、当然かもしれません。神道指令というものが出て、結局神社は国家管理を離れます。そして、神社は宗教法人として運営されることになりました。
 日本は敗戦しました。占領軍の主体であったアメリカは、日本の国情や神道のことがよくわかっておらず、キリスト教と同じようなかっちりした教義、組織があって活動し、しかも国民を動かすような影響力があったと勘違いしていたようです。そこで神道指令を出して、国家と神道の分離を図り、神社の国家管理が廃止されます。のちにどうも違うと気がついて、条件は緩和されました。また、この神道指令において、初めて国家神道という言葉が今の意味で使われるようになりました。実は戦前には国家神道という言葉はほとんど使われてなかったのです。
 神社の大半は戦後の宗教法人法によって宗教法人となりました。さらにその多くは新たに結成された宗教法人神社本庁の傘下となっています。

 国家神道の定義

  このような歴史を追っていくと、とても「国家が神道という宗教を国民に強制した」とはいえない、ということがわかると思います。
 ただ、ここで反論があるかもしれません。「神社がどうなのかという狭義の話ではなく、天皇崇拝、教育勅語、靖国神社や海外の神社、宗教弾圧なども含めた広い範囲のものが国家神道として問題視されているのである」と主張する人もいるでしょう。

 日本の近現代インテリに共通するものとして、宗教に対する関心のなさがあるように思います。自分がいわゆる無宗教なのは自由なのですが、他の宗教に対しての理解が薄いのではないでしょうか。教育勅語というのを読んではっきりと思うことは、これは神道ではないということです。天神地祇に誓う、とか神を敬えとか神社に参拝しろとか一切出てきません。もちろん仏教でもキリスト教でもありません。強いて言えば儒教でしょうか。教育勅語というのは道徳の話であって、日本は道徳において儒教の言葉を用いてきましたから当然かもしれません。明治天皇の信任が厚かった儒学者の元田永孚が元を作り、伊藤博文の懐刀であった井上毅が宗教色を徹底的に除いています。勅令ではなくて、勅語となっています。中身を見れば、これがなぜ神道と結びつけられているのか不思議です。天皇だからでしょうか。天皇→神道→国家神道という発想なのかと推測するしかありません。
 なお、明治~昭和初期の天皇崇敬については、ずっと神道非宗教化を主張し続けた浄土真宗やキリスト教でさえも変わりありませんでした。浄土真宗は大谷家という貴種を戴き、東西本願寺の門主(門首)は伯爵をもらい、また運動して、親鸞に対して見真大師の号を明治天皇から戴いているくらいです。欧州のキリスト教国を見れば王や皇帝がたくさんいました。この二宗派が嫌らったのはとにかく他の神を拝まされる、ということでした。よって、この頃天皇崇敬というのは全宗派当たり前のことでした。当時の日本を国家神道と呼ぶなら、国家仏教でもあり国家キリスト教でもあったと言わなければ片手落ちといえるでしょう。

 靖国神社については別で語るほどの内容であるので一つだけ申しますと、神社を管轄する組織は主に内務省でしたが、靖国神社は創建以来陸海軍省の管轄でした。また、海外の神社については、朝鮮の神社は朝鮮総督府が、台湾の神社は台湾総督府が管轄しました。また、教育については文部省が担当です。今もそうですが、役所の管轄が違えばなかなか統一して効果的な行動が出来ません。神社についてももちろん、各部署が自分たちのやり方、都合でやっていましたので、統一してイデオロギーを吹き込むなどということはできませんでした。

 宗教弾圧について、弾圧した理由を見ていくと、一つには天皇不敬ということがありますが、主因は急に大きくなりすぎて目をつけられた、ということにあります。さらにあまり触れられていない事実として、明治政府は基本啓蒙主義であり、非科学的なことやオカルトを嫌いました。この頃急に大きく大きくなる宗教団体のほとんどすべては、霊能者、霊媒、まじない、占いなどオカルト的要素がありました。これがないと人が集まりません。高僧が入った風呂の水に御利益があると取り合うように持ち帰った、というようなことが珍しくない時代でしたし、医療も不十分で、病気になれば拝み屋さんに頼むしかないという時代でしたから自然なことかもしれません。ただ、明治政府やその官僚には科学的合理主義の思想が強く、オカルト性が強い宗教は、神道的な団体も含めて激しく弾圧されたのです。

 戦時統制の時代

 しかしながら、後世言われてるような、非常にうるさい時代は存在しました。皇學館大學の新田均教授が『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP)の中で興味深いことを書かれています。明治末期から昭和初期の修身や歴史の教科書を見ると、「現御神(あきつみかみ)」(現人神よりもこちらがよく使用された)や「八紘一宇」という言葉が現れたのは昭和十四年以降のことである、ということです。天皇観も明治末は天照大御神の子孫であるという神孫論と君臣論だったのが、大正末にはそこに天皇は親で国民は子であるというような家族論が入り、昭和十四年以降になって、天皇は神であるという表現に変わってきた、ということです。
 神社参拝の強制についても、明治にはなく、大正末になって小学校の神社参拝についての問題が現れ(名目はあくまでも教育の一環)、昭和七年に上智大学生が靖国神社の参拝を拒否したという事件があり、昭和十年代には参拝拒否は事実上の不可能になっていった、ということです。

 天皇、神社に極度にうるさい時代を経験された人にはよろしくない印象が残ったと言うこともあるでしょう。戦争が始まる頃には、神国思想は行き過ぎて、神懸かり的なものにまでなってしまいました。合理的な思考を貫くべきである軍人の中にも「日本は神国だから負けることはあり得ない」と考えていた人が結構いたようです。
 戦時統制については、政教分離のアメリカでも、ハワイの神社を強引に接収したりしています。

 ここまで長々と見ていきました。重要なことは明治維新から昭和二十年まで約八十年間国家の宗教政策もいろいろ変化していて、その間を貫いた国家神道イデオロギーなどというものは存在しなかった、ということです。
 昭和十年代も国家神道イデオロギーがあってあの状態が生まれたわけではなく、戦時体制による国民統制の結果、ということではないでしょうか。さらにいうなら、議会が出来てから戦時体制で自由が無くなっていく間は、民主主義であり、国民の意識が反映していたということです。戦前右翼というのも神道とは限りません。

■国家神道についての本

 国家神道とは何かを学ぶべく、右から左までいろんな本を読んでみました。
 村上重良氏の『国家神道』(岩波新書)がこの問題の基本的な本になっています。「明治維新から敗戦までの八十年間を日本を国家神道が支配した」と書かれていますが、この本が現在の国家神道イメージを作り出したことがわかります。単純な戦後左翼イデオロギーで戦前日本を断罪する本ですから、内容はわかりやすいとは言えます。(危険なわかりやすさですが。)
 葦津珍彦著阪本是丸註『国家神道とは何だったのか』(神社新報社)は左翼の主張に対する神道側の反論の書です。一方的に悪者と断罪された、神社側の叫びを感じます。『「現人神」「国家神道」という幻想』と共に、非常に興味深い内容です。国家神道と合わせて読んでみるといいかもしれません。

 もう少し俯瞰した立場からの本としては島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書)というのがあります。学者の書く本なので少しわかりにくいところもあります。
 しかし多数の本を読んで思うのは「国家神道」という言葉の定義、先入観が強すぎるとだめだ、ということです。実態を理解するには、まずこの言葉は忘れて、宗教を中心に明治から昭和への国全体の流れを見ていく必要があるように思います。
(平成26年11月改稿しました)
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<このページの筆者>
 中島隆広 : 出雲大社紫野教会、教会長
昭和46年京都府生まれ。名古屋大学経済学部卒業、会社員の後、パソコン部品のインターネット通販の会社を起業して経営する。会社売却の後、國學院大學神道學専攻科に入学し、神主となる。
・ツイッター@nkjm_tkhr 

やしの実通信

やしの実通信

『日本-その問題と発展の諸局面』(11) [2016年06月08日(Wed)]
新渡戸は同書において、あくまでも天皇制を支持する。

それは、「八紘一宇」とか「現御神」という言葉で導いた皇国史観とは違う*、科学的、学術的説明なので、当方はすんなり飲み込める。当方は天皇制に関するこういう説明を始めて読んだ。これならば英国人も理解できるであろう。

以下『日本-その問題と発展の諸局面』の「第二章歴史的背景」にある「第九項封建制と将軍制」(新渡戸稲造全集第18巻、2001、88-92頁)を要約しました。

11世紀までに統治権力は3つの党で争われた。権力の唯一の正統な源である天皇、軍事力を備えた地方地主、そして退廃した僧侶。
天皇は僧侶の傲慢を打ち砕くため武士たちに援助を求めざるを得なかったが、その結果武士が権力を掌握し、二頭政治が明治維新まで続く事となった。

天皇の威信を回復しようという試みは何度か行われたが、失敗に終わる。その度に天皇の威信はさらに縮小された。北条氏は天皇の二千の地を奪った。天皇の手当が米5,200トンの時、将軍はその200倍の112万トンであった。

しかし、天皇がいかに貧乏で苦しんでいても国の唯一正統の元首であるとの確信は決して揺るがなかった。将軍は天皇の唯一の代理人であると理解された。戦国時代でさえも誰一人天皇の資格に疑いをもたなかった。ここで新渡戸はヨーロッパの思想家を出してくる。
ヴォルテールは2、3人いたが、フランス王室を転覆させたルソーは日本にいなかった。クロムウェルを頼朝に例え、東洋のカーライルの存在を暗示した。(カーライルはクロムウェルを評価した)
即ち、将軍制度は道徳改革を促した、という。
擡頭した武家は禅宗、日蓮宗から道徳的影響を受けた。鎌倉時代僧侶は哲学者となった。その頃中国からの宋学の形而上学と哲学が伝えられ事も軽視できない。

女性も夫の家庭に留まり(以前は父親の家にいた)家族への愛、自己否定、節倹、勇気、不撓不屈というような今に残る女性の徳が発達した。



*参照 「国家神道とは何か」
http://www.izumo-murasakino.jp/shinto-007.html
「明治末期から昭和初期の修身や歴史の教科書を見ると、「現御神(あきつみかみ)」(現人神よりもこちらがよく使用された)や「八紘一宇」という言葉が現れたのは昭和十四年以降のことである、ということです。天皇観も明治末は天照大御神の子孫であるという神孫論と君臣論だったのが、大正末にはそこに天皇は親で国民は子であるというような家族論が入り、昭和十四年以降になって、天皇は神であるという表現に変わってきた、ということです。」