2026/07/08

가잘리 - 위키백과, ガザーリー

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가잘리

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아부 하미드 무함마드 이븐 무함마드 알가잘리
ابو حامد محمد ابن محمد غزالی
로마자 표기Algazel
출생1058년
사망1111년
성별남성
직업신학자, 철학자, 수피
종교이슬람교

아부 하미드 무함마드 이븐 무함마드 알가잘리(페르시아어: ابو حامد محمد ابن محمد غزالی, 라틴어: Algazel 알가젤[*], 1058년~1111년)는 무함마드 이후의 가장 위대한 무슬림이라고 일컬어져 온 신학자로, 철학이나 수피즘에서도 중요한 인물이다.

생애

호라산투스(페르시아어: توس)에서 태어났다. 셀주크 조(朝)의 명재상인 니잠 알물크의 지우(知遇)를 얻어 바그다드니자미야 학원의 교수가 되었다. 재임 4년 동안 알 파라비이븐 시나의 철학서를 숙독하였으나 납득하지 못한 채 《철학자의 모순(矛盾)》을 저술하였다. 이 책에서 그는 일부 철학자들이 그리스 철학을 지나치게 이슬람에 이식하여 무슬림이면서도 쿠란과 모순을 일으키는 사상을 가졌다고 비판했다.[1] 결국 종교상의 번뇌와 기타 다른 원인으로 명성에도 불구하고 영직(榮職)을 버리고(1095) 하나의 수피행자로서 메카와 여러 지방을 편력하였다. 뒤에 투스에 돌아와 한때는 니샤푸르의 학원에서 교수로 있었으나, 또다시 고향으로 은퇴하여 세상을 떠났다.

사상

《종교 제학의 소생(蘇生)》 《미혹으로부터의 해방》과 기타의 명저를 많이 후세에 남겼다. 정통파 신학과 수피즘의 조화가 그의 가장 큰 공적이라고 하나, 이븐 시나에서 정점에 이른 아리스토텔레스 철학과 신플라톤파 철학을 가장 잘 이해했고, 이를 비판함으로써 반대로 정통파 이슬람을 고수한 공적도 또한 그에게 돌려야 한다.

이슬람 종교사상 가장 중요한 위치를 차지하고 있다. 그때까지 분리되어 있던 신학·법학수피즘을 종합하여 후자의 인격적·신비주의적 체험과 직관지(直觀知)를 기초로 정통 신학을 재구성했다. 이것은 공인된 아시아리 신학과 이슬람 교도 대중간의 거리를 메우려는 시도였으며, 이때까지 수피즘과 대립하고 있던 신학·법학자 들이 받아들일 수 있도록 수피즘을 섞어서 형해화(形骸化)되어 있던 종교 체계에 새로운 생명을 불어 넣었다. 그가 죽은 16년 뒤에 최초의 정규 수피 교단(敎團)이 형성되고 뒤이어 다수의 수피 교단이 전 이슬람 세계에 걸쳐 이슬람 교도를 교단으로 조직하였다.

그의 종교적 편력은 지식인의 정신적 동요를 나타낸 것으로 처음에 그는 법학자·신학자로 성공을 거두었으나 학문의 형식 논리에 반항하여 스스로 자기의 내적 세계를 강조하여 이슬람의 여러 종교학, 특히 주지적(主知的)인 철학파를 차례로 편력한 뒤 최종적으로 내면적인 고뇌를 거친 다음 수피즘의 종교 체험에 도달하게 되었다.

그의 역할은 이슬람 종교사상에 하나의 전환점을 가져오게 되어, 첫째 이슬람의 학문을 스콜라 신학으로부터 탈피시켜 《꾸란》과 하디스살아 있는 것으로 부활시켜서 마치 기독교가 유럽에서 스콜라주의의 얽매임을 깨뜨린 것과 같은 상태로 만들었다. 둘째로는 외경(畏敬) 요소를 다시 도입하였다. 셋째로는 앞서 말한 바와 같이 수피즘의 지위를 이슬람교 내에 확립하였다. 넷째로는 철학을 일반 이슬람 교도에 접근시켰다.

외부 링크

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  1. 김정명. (2011). 알 가잘리의 『철학자들의 부조리』(Tahāfut al-Falāsifa). 철학과 현실,, 211-218.

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ガザーリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ガザーリー

ガザーリーことアブー・ハーミド・ムハンマド・イブン・ムハンマド・アッ=トゥースィー・アッ=シャーフィイー・アル=ガザーリーアラビア語: أبو حامد محمد بن محمد الطوسي الشافعي الغزالي, Abū Ḥāmid Muḥammad ibn Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfiʿī al-Ghazālī1058年 - 1111年12月18日)はペルシアイスラーム神学者、神秘主義者(スーフィー)。通常名前の最後の部分を取ってガザーリーと呼ばれるが[1]、研究者の中にはガッザーリー( الغزّالي, al-Ghazzālī, アル=ガッザーリー)と発音するべきだとする意見もある[1][2]ヨーロッパではアルガゼルAlgazer)のラテン名で知られ、長らく哲学者と見なされていた。

ムハンマド以後に生まれた最大のイスラーム教徒」として敬意を集め[3]スンナ派がイスラーム世界の中で多数派としての地位を確立する過程の中で最も功績のあった人物の一人に数えられる[4][5]。ガザーリーはスンナ派と対立するシーア派への反論、イスラーム哲学への批判、スーフィズム神秘主義)への接近を通して、スンナ派のイスラーム諸学を形作った。ガザーリーは存命中に高い名声を得ていたが、没後のイスラーム世界でも思想的権威と見なされ、彼の理論はファトワー(法的回答)を発する多くのウラマー(イスラーム世界の知識人)によって、コーラン(クルアーン)やハディース(預言者ムハンマドの言行録)とともに参照されている[6]。弟のアフマド・ガザーリーもスーフィズムの思想家として知られており、彼の神秘主義思想の構築には弟の影響があったと考えられている[4]

生涯

1058年にガザーリーはイランホラーサーン地方のトゥース近郊で誕生する。ガザーリーの父親は自分で紡いだ羊毛を売る商人だと言われているが、父親の職業が事実であるかは疑問視されており、また史料の中に母親について記しているものはない[7]。ガザーリーは幼少期に父親を亡くし、兄弟とともに父親の友人のスーフィーに養育された。ガザーリーには弟のアフマドのほかに数人の姉妹がいたといわれているが、それらの姉妹について明らかになっている点はない[8]。父の遺産によってガザーリーは学業に専念することができ、父の友人の勧めに従ってマドラサ(神学校)に入学した。最初トゥースで教育を受け、カスピ海沿岸のジュルジャーンに移り、アブー・ナスル・イスマーイーリーに師事した。ジュルジャーンから帰郷する途上、ガザーリーは盗賊にイスマーイーリーの教えを記したノートを奪われ、盗賊にノートを返すよう哀願した。しかし、盗賊の頭領の「ノートを奪ったためにお前の知識が失われ、何の学問も残らなかったのならば、どうしてお前はその学問を知っていると言えるのか」という言葉に、「神の言葉」を授かったかのような衝撃を受ける[9]。トゥースに帰ったガザーリーはノートに書かれた師の考えの理解と記憶に3年の時間を費やし、ユースフ・ナッサージュの元でスーフィーの修行を行った。

1077年にガザーリーはニーシャープールに移り、ニザーミーヤ学院で当時の大学者イマームル・ハラマイン・ジュワイニーに師事し、シャーフィイー学派の法学とアシュアリー学派の神学を修めた[10]。ニザーミーヤ学院で才能を発揮したガザーリーはジュワイニーの代講を務め、学生の指導にあたるようになるが、過度の研究のために健康を害したこともあった。ニーシャープール時代のガザーリーはスーフィーのファールマディーからも指導を受けていたが、1084年にファールマディーが没すると一時的にスーフィズムから遠ざかる[11]1085年にジュワイニーが没した後、ガザーリーは学芸の保護者であったセルジューク朝の宰相ニザームル・ムルクの庇護を受け、エスファハーン(イスファハーン)の宮廷に出仕した[12]

やがてガザーリーの学才はニザームル・ムルクにも認められ、1091年バグダードのニザーミーヤ学院の教授に任命される[4]。300人の学生を指導する傍ら、法学・神学の講義や著述活動の合間に哲学シーア派の思想を研究し、これらの思想の批判を書き上げた[13]。ガザーリーは信仰の確信を得るために神学、哲学、シーア派を研究したが心は満たされず、さらにスーフィズムへのアプローチを行った[14]アブー・ターリブ・マッキー英語版ムハースィビー英語版ジュナイド英語版シブリー英語版バスターミー英語版ら前の時代に生まれたスーフィーの著書を読んで知識を得て、修行の実践を決意する[14]1095年、世俗への執着と来世への羨望に葛藤するガザーリーはニザーミーヤ学院での講義中に「一語も発することができない」状態に陥り、食物や飲み物を口にすることができなくなる[15]。スーフィズムによって信仰の確信を得られると考えたガザーリーは内からの声に促され、葛藤の末に職を辞して地位と名誉を捨て、1095年11月に一人の修行者としてメッカ(マッカ)巡礼に旅立った[16]

ガザーリーはおよそ2年の間シリアパレスチナ各地を巡り歩き、1096年11月から12月にかけてメッカ巡礼を行った[17]ダマスカスを訪れたガザーリーはウマイヤド・モスクミナレットに閉じこもり、禁欲と修行のために他人を近づけなかった。エルサレムでも一人瞑想に耽り、その合間に『エルサレム書簡』を著してイスラームの基本教義を解説した[18]。放浪中のガザーリーは俗世間と完全に接触を絶った状態に身を置いておらず、陳情、就職の斡旋のために政治指導者に宛てたペルシア語の書簡が残されている[19]。メッカ巡礼を終えたガザーリーは子供たちの要請を受けて1099年に生地のトゥースに戻る。トゥースに戻ったガザーリーはスーフィーの道場を設立し、若者たちとともにスーフィーとしての生活を送った。

トゥースで発見されたガザーリーのものと考えられる棺

ニザームル・ムルクの息子である宰相ファフルル・ムルクの要請を受けて、1106年にガザーリーは再びニーシャープールのニザーミーヤ学院の教壇に立つ。復職の経緯について、ガザーリーは隠遁生活への憧れと不信仰が蔓延る現状への憂いの間で葛藤し、親しい人々の勧めを受け、預言者ムハンマドの「神は世紀の始まりごとに共同体の中に改革者を派遣する」といった旨のハディースに突き動かされたことを述懐している[20]。復職した後のガザーリーは講義内容をまとめた法学書『法源学の精髄』、自伝『誤りから救うもの』を著している。1107年/08年に勉学のために東方を訪れたマグリブの思想家イブン・トゥーマルトがガザーリーと会い、ガザーリーとの出会いを契機としてムワッヒド運動を開始した伝承が残るが、史実性は否定されている[21]1110年にガザーリーは公職から退いてトゥースに帰郷し、翌1111年12月18日にこの地で没した[22]

トゥース旧市街の城壁付近では、ガザーリーの墓と推定される遺構が発掘されている[22]イラン・イスラム共和国はシーア派を国教とするため、近くに存在する詩人フェルドウスィーの墓と比べてガザーリーの墓は質素な作りになっている[4]

思想

ガザーリーの著作はイスラーム法学、神学、哲学、護教論、神秘主義の5つの分野に大別できる[4]

法学

ガザーリーはイマームル・ハラマイン・ジュワイニーからシャーフィイー学派の法学を学び、それを発展させた。ガザーリーが著した法学書には最晩年に執筆した『法源学の精髄』などがあるが、散逸したものも多い[23]

ガザーリーが世に出たとき、既にイスラーム法学の権威は社会の隅々にまで行き渡っていたが、ガザーリーは権威主義に陥った信仰の有り方を疑問視し、 信仰を個人の内面に戻そうと試みた[24]。ガザーリーは権力と癒着したウラマーの堕落を批判し、イスラーム法の遵守とスーフィズムの実践の両立を説いた[25]。批判の対象とされた人物の一人にハールーン・ラシードの時代の宰相アブー・ユースフがおり、来世のために奉仕することを忘れて現世の利益のみを追求する、ウラマー本来の理念から逸脱した人間たちを批判している[25]

懐疑論

スーフィズムに回心する前のガザーリーは、自分がイスラム教徒であるのはたまたまイスラム教徒の子として生まれたためであり、信仰によるものではないと考えていた[26][27]。ガザーリーは自分の思想を揺るぎないものとする「確実な知識」に行き着くため、様々な学問を追究していく[28]。「疑念・誤謬・妄念の可能性が全くなく、それらを提起する余地すらない知の対象を明らかにする知」である確実な知識を獲得する手段を検討するため、全てを疑うことから始めた[29]

エスファハーンの宮廷に出仕していた時代、ガザーリーは理性の優位性を疑う「第一の危機」に陥った[30]。ガザーリーは知識を感覚による知識と理性による必然的知識に分け、視覚では金貨ほどの大きさにしか見えない星が天文学的証明によれば地球よりも大きい例を述べ、理性が感覚の誤謬を指摘する点を明らかにした[31][32]。そして、高次の世界に理性の確実性を否定する判断者が存在する可能性に思い至り、懐疑に陥った[32]。理性によって認知できる世界をと同様のものと捉え、理性の上にある世界は忘我の境地に達したスーフィーが見る世界、あるいはと考えた[33]。やがて理性の権威が及ぶ範囲には限界があると結論付け、理性が及ぶ領域を「知('ilm)」と命名する[34]。疑いようのない自明な領域である「知」に対して、神に最も接近できる人間の精神に存在する領域を「信(qalb)」と定義した。ガザーリーは理性・知と感覚・信の間に優劣をつけず、コーランの章句を理性によって解釈しようと試みる哲学者、思惟と信仰の矛盾を解消しようと試みる神学者といった、二つの領域を混同する人間を批判した[35]

理性への疑いを抱いた精神的危機(第一の危機)を経たガザーリーはスーフィズムへの回心と世俗への執着に葛藤する第二の危機を乗り越え、スーフィーとして放浪の旅に発つ[36]

イスラーム哲学

11世紀初頭にイブン・スィーナーらによって完成されたイスラーム哲学は、イスラームの教義から外れる主張のために保守的なウラマーから攻撃を受けたが、彼らの批判の論拠は感情的で論理性を欠くものであり、哲学者たちの理論を崩すことはできなかった[37]。ガザーリーは哲学を研究した上で反論を書き上げ、ニザーミーヤ学院の講義の合間に書物から哲学者の理論を取り入れ、哲学が含む矛盾を導き出した[38]1094年に哲学の概説書である『哲学者の意図』を著し、翌1095年に哲学の批判書『哲学者の自己矛盾』を著してイスラーム哲学に大きな衝撃を与えた[39]。コーランと矛盾する形而上学を含む哲学はイスラームの思想家の批判の対象となっていたが、先達の神学者たちが出した反論はコーランやハディースの章句を引用する不完全なものだった[40]。ガザーリーは哲学を神の啓示に代わるものと位置付けることを拒み、全知全能の神、コーランの世界観の論理的な証明を試みた[41]

ガザーリーは哲学を数学、論理学、自然学、形而上学、政治学倫理学の6つに分類した。算術幾何学天文学を含む数学、論理学、自然学を宗教と共存しうるものと考え、それらの学問に求められる「理性」と宗教が抱える「真理」の混同を戒めた[42]。政治学はコーランやハディースを基礎とするもので[43]、倫理学については哲学者の誤った主張が混ざり合うこともあるが、魂の本質と性格、改善を追及する学問であるため、基本的に否定されるものではないと述べている[44]

哲学者の犯す誤りの大部分は形而上学にあると主張し、『哲学者の自己矛盾』の中で20の項目を列挙して彼らの思想を批判した[45]。ガザーリーは形而上学を否定したものの、哲学のすべてを否定しておらず、イスラームの教義と無関係な論理学を取り入れ、哲学の批判に際して論理学的手法を利用している[41]12世紀のアシュアリー学派の思想家ファフルッディーン・ラーズィー英語版はガザーリーの思想の影響を受け、より哲学に近い存在論を展開していった[46]

ガザーリーは哲学の論理学をアシュアリー学派の神学に取り入れ、その結晶である『中庸の神学』を著した[47]。『中庸の神学』では世界は原子で構成されるアシュアリー学派の原子論、神を非物質的なものとする哲学の論理により、神と世界の隔絶性が強調されている[47]。ガザーリーはジュワイニーら先人から受け継いだアシュアリー学派の理論を発展させ、アシュアリー学派は哲学の論理学・形而上学を批判的に受容してより哲学に近づいていく[48]。しかし、ガザーリーは晩年に著した自伝『誤りから救うもの』において、伝統的な信仰を守るための理論を展開する神学の限界を認め、霊的な救いを得るためにはスーフィズムへのアプローチが必要であると述べている[48]

ガザーリーの哲学の批判は一般のイスラム教徒が哲学に抱いていた反感を刺激し、哲学者の著書が焼き捨てられた[49]。イブン・スィーナーの学派の本拠地である東方イスラーム世界でもガザーリーの批判に挑む人間は現れなかったが、12世紀のマグリブの思想家イブン・ルシュドは「不完全」と見なしたイブン・スィーナーの思想とともにガザーリーの哲学批判をも再批判し、アリストテレス思想を擁護した[50]

神学

護教論を記したガザーリーの作品は、彼の存命中に勢力を拡大していたイスマーイール派に対抗するため書かれたものが多い[4]。イスマーイール派の教義を批判するために書かれた書のひとつに、アッバース朝のカリフムスタズヒル英語版の依頼を受けて書いた『ムスタズヒルの書』がある。

ガザーリーはイスマーイール派の特徴であるイマームへの個人崇拝と服従を批判し、未知の問題が発生した際にウラマーが下す自主的な判断とそれに対して共同体が合意を形成するスンナ派の姿勢を主張した[51]。無謬のイマームに対する盲目的な服従を説くイスマーイール派に対して、ガザーリーは時に間違いを犯すことを承知した上で、信仰のために自主的な判断を下すよう主張した[52]。真理を伝授する無謬の人物をイスマーイール派の主張するイマームではなく預言者ムハンマドに定め、ムハンマドの死後に無謬の伝授者は不在でも問題は無く、イスマーイール派は誰をイマームに特定するかという証明すら完成させていないと批判した[53]。そして、スンナ派世界の指導者であるカリフに対しては政治的・宗教的指導者としての素質を要求せず、社会の平和と安定のため、カリフから権力を委ねられた実力者がカリフの選出と統治を行う当時の世相を追認していた[54]。ガザーリーのイスマーイール派批判は指導者であるイマームの無謬性、絶対性が中心で哲学論にはほとんど触れられておらず、スィジスターニー、キルマーニーといった思想家による哲学書ではなく、宣教のために使われていたパンフレットを通してイスマーイール派の思想に触れていたと考えられている[55]

スーフィズム

ガザーリーが1106年から1109年の間に著した自伝『誤りから救うもの』の大部分はガザーリー自身の内面の記述に割かれ、スーフィズムの教えが信仰の確信を約束することが示されている[56]。多くの研究者は1095年から始まる遍歴の旅の動機を、『誤りから救うもの』の記述に従ってスーフィズムへの回心と受け止めている[57][58]。『誤りから救うもの』で述べられた動機に疑問を呈する立場の人間には、旅の動機を名声欲に、自伝の執筆の動機を離職の正当化とした『ガザーリーの告白』の著者アブドッダーイム・バカリー、多くのセルジューク朝の要人を暗殺したニザール派の刺客から逃れるためだと考えたファーリド・ジャブルらが挙げられる[59]ダンカン・ブラック・マクドナルド英語版は、ガザーリーの生涯を野心と出世欲に満ちた利己的な人間でありながらも内面では葛藤が起きていた前半生、スーフィーとしての修行を経て性格が清められ、イスラム共同体の信仰の復興のために尽力した後半生に大別している[60]

回心した後のガザーリーはイスラーム法学をスーフィズムの観点から再検討し、『宗教諸学の再興』『神名注釈における高貴な目的』『光の壁龕』などの作品で日常の生活、来世で神に会うための準備について議論を重ねている[61]。ガザーリーはスーフィズムの修行法を整理し、日々の生活の中で神への賞賛やコーランの特定の箇所を唱える日常の修行(ウィルド)、集中して短い章句を暗誦することで神との合一を目指すズィクルの二つの修行方法を紹介している[62]。恍惚状態に達するための歌、舞踏、音楽を伴う暗誦はサマーと呼ばれ、多くのスーフィズムの理論家によって是非が議論されていたが、ガザーリーは修行を積んだ人間に限定してサマーの有用性を認めていた[63]

ガザーリーは神を人間のの対象と考え、完全な存在である神を唯一の愛の対象と認めていた[64]。ガザーリー以前の神学者の大多数は、神は人間の愛の対象となりうる「人間が認識できる」存在ではなく、人間は神と直接・間接的に個人と関係を持たない全く異質な存在であるため愛が成立しないことから、「神への愛」を神への服従の比喩として見なすことが主流になっていた[65]。こうした通説に対して、ガザーリーは服従は愛の結果生じる行動であり、愛は「認識する」人間の側に主体があり、「認識される」愛を受ける側に主体は無いと説明した[66]。ガザーリーの唱える愛は自己・あるいは自己と関連のある人間の生命の維持による愛、完全であると認めたものに向ける愛、前2つのいずれにも該当しない人物に対する不可思議な愛、3種の本質が異なる愛に分類される[67]。そして、3種類の愛を同時に体験する至上の愛を人間が神に向ける愛と定義し、神への愛は造物主である神に属するもの全てに拡大した[68]12世紀から13世紀にかけて活躍したイブン・アラビーは神と人間の合一を男女間の恋愛関係に例えているが、ガザーリーは二つの存在を類似点が存在しないものと見なし、神を人間から隔絶された存在と位置付けた[69]

ガザーリー以前のスーフィーの中にはイスラーム法の遵守よりも神との合一体験を重視し、飲酒、同性愛といった反イスラーム法行為や反体制的姿勢をとる人間、神との合一体験によって直接得られる知識をコーランとハディースを通して間接的に得ているウラマーの知識よりも上位に置く考えを持った人間が存在していた[70]。こうしたスーフィーの行動と思想は体制派のウラマーや一般人から快く思われず、スーフィーとウラマーは険悪な関係にあった[71]。ガザーリーは信仰の確信は神との合一体験によって得られると考えながらも、同時にイスラーム法を遵守した生活の必要性を唱える中間的な姿勢を示した[72]。ガザーリー、クシャイリー英語版らが出したスーフィズムの理論はスーフィーとウラマーの和解に貢献し、スーフィーの集団は公に活動することができるようになった[73]。ガザーリーのスーフィズムの根幹にある愛の思想の理解、修行法の整理、スーフィーとウラマーの対立の融和によってスーフィズムの思想は多数の人間に受容されるところとなり、スーフィズムを取り入れたスンナ派の思想が確立された[74]

哲学者アルガゼル

ガザーリーが著した哲学の解説書である『哲学者の意図』はイブン・スィーナーの思想の入門書として最も優れたものであり、ラテン語に翻訳されて中世ヨーロッパのスコラ派哲学者たちの間で広く読まれた[4]。しかし、哲学の批判書である『哲学者の自己矛盾』はヨーロッパ世界には伝わらず[39]、ヨーロッパに伝わった『哲学者の意図』の写本には執筆の目的が述べられた序文と後書きが欠落していたため[75][76]、ヨーロッパ世界ではガザーリーは「哲学者」アルガゼルとして知られるようになる[4][39][77]。中世ヨーロッパで参照されたガザーリーの著作は哲学の分野に限られ、参照されたテキストの多くに不完全なラテン語訳本とヘブライ語訳本が使われていた[78]

19世紀に入るとアラビア語原典からの翻訳とそれらの研究が始まり、ガザーリーの思想の全体像を明らかにしようとする試みがなされ、『哲学者の意図』と『哲学者の自己矛盾』をはじめとする他の著作の記述に相違点・矛盾点が発見されたが、なおも『哲学者の意図』はガザーリー自身の思想の現れであると誤解され続け、研究者たちはより困惑する[79]1859年に『ユダヤとアラビア哲学論集』を発表したザロモン・ミュンクフランス語版によって写本の序文の欠落が初めて指摘され、ガザーリーは哲学に批判的な姿勢を取っていたことが明らかにされた[80]。しかし、ミュンクの説が発表された後も「哲学者アルガゼル」像は完全に払拭されなかった[81]

ダンカン・ブラック・マクドナルドは、1899年に公刊した論文「宗教体験と意見を中心としてみたガッザーリーの生涯」においてガザーリーの史的意義を以下の4点に集約し、特に一番目と三番目の功績の重要性を評価した[82]

  1. スコラ学的神学研究から、コーラン(神の啓示)・ハディース(預言者の伝承)への回帰の促進
  2. 説教、道徳的訓戒への畏怖、恐怖の再導入
  3. イスラーム社会内でのスーフィズムの地位の確立
  4. 哲学、哲学的神学の内容を一般の人間が理解できる程度に構築した

マクドナルドの研究は後続の研究者に正統的なガザーリーの解釈と見なされ、彼のガザーリー評は一般の認めるところとなっている[83]。1990年代に入り、従来のガザーリーのものとされる著作あるいは著作の一部の記述を抜き出してそこに見られる哲学思想を論じる手法から脱し、著作全体を俯瞰してその背後にあるイブン・スィーナーの影響を考察する研究が目立ち始めた[84]

主要な著作

  • 『哲学者の意図』(Maqāsid al-falāsifa
  • 『哲学者の矛盾』(Tahāhut al-falāsifa
  • 『宗教諸学の再興』(Ihyā' 'ulm al-dīn
  • 『迷いから救うもの』(al-Munqidh min al-dalāl
  • 『幸福の錬金術』(Kimiyā' al-Sa'ādah
  • 『エルサレム書簡』(al-Risāla al-Qudsīya
  • 『神学綱要』(al-Iqtisād fi'l-I'tiqād
  • 『法理論精要』(al-Mustasfā min 'Ilm al-Usūl

日本語訳

出典

  1.  青柳『ガザーリー』、1頁
  2.  『誤りから救うもの』(中村訳)、127頁
  3.  ヴァーダリー「ガザーリー」『世界伝記大事典 世界編』3巻、38-39頁
  4.  松本「ガザーリー, アブー・ハーミド」『岩波イスラーム辞典』、255-256頁
  5.  青柳『ガザーリー』、3頁
  6.  青柳『ガザーリー』、1-2頁
  7.  『誤りから救うもの』(中村訳)、127-128頁
  8.  『誤りから救うもの』(中村訳)、128頁
  9.  『誤りから救うもの』(中村訳)、129頁
  10.  青柳『ガザーリー』、4,26頁
  11.  青柳『ガザーリー』、4-5頁
  12.  青柳『ガザーリー』、5頁
  13.  青柳『ガザーリー』、27頁
  14.  青柳『ガザーリー』、48頁
  15.  『哲学者の意図』(黒田訳・解説)、347頁
  16.  青柳『ガザーリー』、48-51頁
  17.  青柳『ガザーリー』、51頁
  18.  『誤りから救うもの』(中村訳)、133頁
  19.  『誤りから救うもの』(中村訳)、135頁
  20.  『誤りから救うもの』(中村訳)、136-137頁
  21.  『誤りから救うもの』(中村訳)、180頁
  22.  青柳『ガザーリー』、52頁
  23.  青柳『ガザーリー』、28頁
  24.  井筒『イスラーム思想史』、123-124頁
  25.  青柳『ガザーリー』、29-30頁
  26.  『誤りから救うもの』(中村訳)、139-140頁
  27.  青柳『ガザーリー』、8頁
  28.  青柳『ガザーリー』、9頁
  29.  『誤りから救うもの』(中村訳)、140頁
  30.  青柳『ガザーリー』、6-7頁
  31.  井筒『イスラーム思想史』、117-118頁
  32.  『誤りから救うもの』(中村訳)、141頁
  33.  井筒『イスラーム思想史』、119頁
  34.  井筒『イスラーム思想史』、119-120頁
  35.  井筒『イスラーム思想史』、121頁
  36.  青柳『ガザーリー』、49-51頁
  37.  井筒『イスラーム思想史』、261頁
  38.  青柳『ガザーリー』、40-41頁
  39.  青柳『ガザーリー』、41頁
  40.  青柳『ガザーリー』、40,45頁
  41.  青柳『ガザーリー』、46頁
  42.  『哲学者の意図』(黒田訳・解説)、351頁
  43.  『哲学者の意図』(黒田訳・解説)、353頁
  44.  『誤りから救うもの』(中村訳)、144頁
  45.  『哲学者の意図』(黒田訳・解説)、351-352頁
  46.  青柳『ガザーリー』、38頁
  47.  青柳『ガザーリー』、37頁
  48.  青柳『ガザーリー』、39頁
  49.  井筒『イスラーム思想史』、275頁
  50.  井筒『イスラーム思想史』、275-276頁
  51.  青柳『ガザーリー』、33頁
  52.  青柳『ガザーリー』、31頁
  53.  青柳『ガザーリー』、31-32頁
  54.  青柳『ガザーリー』、23-24頁
  55.  青柳『ガザーリー』、32頁
  56.  『誤りから救うもの』(中村訳)、125-126頁
  57.  青柳『ガザーリー』、52-53頁
  58.  『誤りから救うもの』(中村訳)、151頁
  59.  『誤りから救うもの』(中村訳)、152-157頁
  60.  『誤りから救うもの』(中村訳)、183頁
  61.  青柳『ガザーリー』、54頁
  62.  青柳『ガザーリー』、65-66頁
  63.  青柳『ガザーリー』、68-69頁
  64.  青柳『ガザーリー』、59-60頁
  65.  井筒『イスラーム思想史』、128-129頁
  66.  井筒『イスラーム思想史』、129頁
  67.  井筒『イスラーム思想史』、130-132頁
  68.  井筒『イスラーム思想史』、132-134頁
  69.  青柳『ガザーリー』、58-60頁
  70.  青柳『ガザーリー』、60-61頁
  71.  青柳『ガザーリー』、61頁
  72.  青柳『ガザーリー』、62頁
  73.  青柳『ガザーリー』、63-64頁
  74.  青柳『ガザーリー』、71頁
  75.  『哲学者の意図』(黒田訳・解説)、340-341頁
  76.  『誤りから救うもの』(中村訳)、162頁
  77.  『誤りから救うもの』(中村訳)、161頁
  78.  『誤りから救うもの』(中村訳)、164頁
  79.  『誤りから救うもの』(中村訳)、164,166頁
  80.  『誤りから救うもの』(中村訳)、168-172頁
  81.  『誤りから救うもの』(中村訳)、172頁
  82.  『誤りから救うもの』(中村訳)、174,182頁
  83.  『誤りから救うもの』(中村訳)、182-183頁
  84.  『誤りから救うもの』(中村訳)、191頁

参考文献

  • 青柳かおる『ガザーリー』(世界史リブレット 人, 山川出版社, 2014年4月)
  • 井筒俊彦『イスラーム思想史』(岩波書店, 1975年)
  • 松本耿郎「ガザーリー, アブー・ハーミド」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
  • リチャード.N.ヴァーダリー「ガザーリー」『世界伝記大事典 世界編』3巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1980年12月)
  • ガザーリー『哲学者の意図』(黒田壽郎訳・解説, イスラーム古典叢書, 岩波書店, 1985年12月)
  • ガザーリー『誤りから救うもの』(中村廣治郎訳, ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 2003年8月)

外部リンク


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ガザーリー  가자리 

출처 : 무료 백과 사전 "Wikipedia (Wikipedia)"
가자리

가자 리와 아부 하미드 무하마드 이븐 무하마드 앳 투시 앳 샤피이 알 가자리 ( 아랍어 : أبو حامد محمد بن محمد الطوسي الشافعي الغزالي, Abū Ḥāmid Muḥammad ibn Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfiʿī al-Ghazālī , 1058-1111년 12 18일 )는 페르시아의 이슬람 신학자 , 신비 주의자 ( 수피 ) . 보통 이름의 마지막 부분을 취하여 가자리라고 불리지만 [ 1 ] , 연구자 중에는 가자리 ( الغزّالي, al-Ghazzālī, 알-가자리)라고 발음해야 한다는 의견도 있다 [ 1 ] [ 2 ] . 유럽 에서는 알가젤 ( Algazer )의 라틴 이름으로 알려져 있으며 오랫동안 철학자 로 여겨졌다.

[ 무함마드 이후 태어난 최대의 이슬람교도]로서 경의를 모으고 [ 3 ] , 순나파 가 이슬람세계 속에서 다수파로서의 지위를 확립하는 과정 중에서 가장 공적이 있던 인물 중 한 명으로 꼽힌다 [ 4 ] [ 5 ] . 가더리는 순나파와 대립하는 시아파 에 대한 반론, 이슬람 철학 에 대한 비판, 수피즘 ( 신비주의 )에 대한 접근을 통해 순나파의 이슬람 제학을 형성했다. 가더리는 생명 중에 높은 명성을 얻고 있었지만, 몰후의 이슬람 세계에서도 사상적 권위로 간주되어 그의 이론은 화투어 (법적 응답) 발하는 많은 우라마 (이슬람 세계의 지식인)에 의해, 꾸란 ( 쿠 르앙 )이나 하디스 (선지자 무함마드의 말록)와 함께 참조되고 있다 . 동생 아마드 가더리는 수피즘의 사상가로 알려져 있으며, 그의 신비주의 사상의 구축에는 동생의 영향이 있었다고 생각된다 [ 4 ] .

평생

1058년 가자리는 이란호러산 지방의 투스 근교에서 탄생한다. 가더리의 아버지는 스스로 뽑은 양모를 팔는 상인이라고 하지만, 아버지의 직업이 사실인지는 의문시되고 있으며, 또한 사료 속에 어머니에 대해 적고 있는 것은 없다 [ 7 ] . 가더리는 어린 시절에 아버지를 잃고 형제와 함께 아버지의 친구 수피에게 양육되었다. 가더리는 동생 아마드 외에 몇 명의 자매가 있었다고 알려져 있지만, 그 자매에 대해 밝혀진 점은 없다 [ 8 ] . 아버지의 유산에 의해 가자리는 학업에 전념할 수 있었고, 아버지의 친구의 권고에 따라 마드라사 (신학교)에 입학했다. 처음 투스에서 교육을 받고 카스피해 연안의 줄잔 으로 옮겨 아부나슬 이스마일리에 사사했다. 줄진에서 귀향하는 도상, 가자리는 도적에게 이스마일리의 가르침을 적은 노트를 빼앗겨 도적에 노트를 돌려달라고 애원했다. 그러나 도적의 두령의 “노트를 빼앗았기 때문에 너의 지식이 없어져서 아무런 학문도 남지 않았다면 어째서 너는 그 학문을 알고 있다고 말할 수 있을까”라는 말에 “하느님의 말씀”을 받은 것 같은 충격을 받는다 [ 9 ] . 투스로 돌아온 가더리는 노트에 쓰여진 사의 생각의 이해와 기억에 3년의 시간을 보냈고, 유스프 나사지의 근원에서 수피를 수행했다.

1077년 가더리는 니셔풀 로 옮겨 니더 미야 학원 에서 당시 대학자 이마물르 하라마인 주와이니 에게 사사하고 샤피이 학파 의 법학과 애슈어리 학파 의 신학을 고쳤다 [ 10 ] . 니더미야 학원에서 재능을 발휘한 가더리는 주와이니의 대강을 맡아 학생의 지도에 해당하게 되지만, 과도한 연구를 위해 건강을 해친 적도 있었다. 니셔풀 시대의 가더리는 수피의 팔마디로부터도 지도를 받고 있었지만, 1084년 에 팔마디가 몰리면 일시적으로 수피즘으로부터 멀어진다 [ 11 ] . 1085년 에 주와이니가 몰린 뒤, 가자리는 학예의 보호자였던 세르주크 아침재상 니자물 무르크 의 비호를 받고, 에스파한 (이스파한)의 궁정에 출사했다 [ 12 ] .

이윽고 가자리의 학재는 니더물 머크에게도 인정되어 1091년바그다드 의 니더미야 학원의 교수로 임명된다 [ 4 ] . 300명의 학생을 지도하는 가운데, 법학·신학의 강의나 저술 활동의 사이에 철학 , 시아파 의 사상을 연구해, 이러한 사상의 비판을 썼다 [ 13 ] . 가더리는 신앙, 철학, 시아파를 신앙의 확신을 얻기 위해 연구했지만 마음은 채워지지 않았고 수피즘에 대한 접근을했다 [ 14 ] . 아부 탈리브 맥키 ( 영어판 ) , 무하시비 ( 영어판 ) , 주나이드 ( 영어판 ) , 시브리 ( 영어판 ) , 버스터미 ( 영어판 ) 등 이전 시대에 태어난 수피의 저서를 읽고 지식을 얻어 수행의 실천을 결의한다 [ 14 ] . 1095년 세속에의 집착과 내세에의 부러움에 갈등하는 가더리는 니더미야 학원에서의 강의중에 「한마디도 발할 수 없는」상태에 빠져, 음식이나 음료를 입으로 할 수 없게 된다 [ 15 ] . 수피즘에 의해 믿음의 확신을 얻을 수 있다고 생각한 가자리는 안에서의 목소리에 촉구되어 갈등 끝에 직을 그만두고 지위와 명예를 버리고, 1095년 11월에 한 명의 수행자로서 메카(마카) 순례를 떠났다 [ 16 ] .

가더리는 약 2년 동안 시리아 , 팔레스타인 각지를 걸어 다니며, 1096년 11월부터 12월에 걸쳐 메카 순례를 했다 [ 17 ] . 다마스쿠스 를 방문한 가더리는 우마이야드 모스크미나렛 에 갇혀 금욕과 수행을 위해 타인을 접근하지 못했다. 예루살렘 에서도 혼자 명상 에 이르렀고, 그 사이에 '예루살렘 서한'을 저술하고 이슬람의 기본 교리를 해설했다 [ 18 ] . 방랑중인 가자리는 속세와 완전히 접촉을 끊은 상태에 몸을 두지 않고, 진정, 취직 알선을 위해 정치 지도자에게 향한 페르시아어의 서한이 남아 있다 [ 19 ] . 메카 순례를 마친 가자리는 아이들의 요청을 받아 1099년 에 반죽의 투스로 돌아온다. 투스로 돌아온 가더리는 수피의 도장을 설립하고 젊은이들과 함께 수피로서의 생활을 보냈다.

투스에서 발견된 가자리의 것으로 생각되는 관

니더물 무르크의 아들인 재상 파플루 무르크의 요청을 받아 1106년 에 가더리는 다시 니셔풀의 니더미야 학원의 교단에 선다. 복직의 경위에 대해, 가자리는 은둔생활에 대한 동경과 불신앙이 만연한 현상에 대한 우울함 사이에서 갈등하고, 친한 사람들의 권고를 받고, 선지자 무함마드의 「하나님은 세기의 시작마다 공동체 안에 개혁자를 파견한다」라는 하디스 에게 . 복직한 후의 가더리는 강의 내용을 정리한 법학서 '법원학의 정수', 자전 '오류로부터 구하는 것'을 저술하고 있다. 1107년 / 08년 에 공부를 위해 동방을 방문한 마그리브 의 사상가 이븐 투말트 가 가자리와 만나 가더리와의 만남을 계기로 무와히드 운동 을 시작한 전승이 남아 있지만, 사실은 부정되고 있다 [ 21 ] . 1110년 에 가자리는 공직에서 물러나 투스에 귀향해, 다음 1111년 12월 18일에 이 땅에서 몰렸다 [ 22 ] .

투스 구시가의 성벽 부근에서는, 가자리의 무덤으로 추정되는 유구가 발굴되고 있다 [ 22 ] . 이란 이슬람 공화국 은 시아파를 국교로 하기 때문에, 근처에 존재하는 시인 펠도우스 의 무덤과 비교해 가자리의 무덤은 질소한 제작이 되고 있다 [ 4 ] .

사상

가더리의 저작은 이슬람 법학, 신학, 철학, 호교론, 신비주의의 5개의 분야로 크게 나눌 수 있다 [ 4 ] .

법학

가더리는 이머물 하라마인 주와이니로부터 샤피이 학파 의 법학을 배우고 발전시켰다. 가더리가 저술한 법학서에는 최저년에 집필한 「법원학의 정수」등이 있지만, 소산한 것도 많다 [ 23 ] .

가더리가 세상에 나왔을 때, 이미 이슬람 법학의 권위는 사회의 구석구석까지 넘어갔지만, 가더리는 권위주의에 빠진 신앙의 존재 방식을 의문시하고, 신앙을 개인의 내면으로 되돌리려고 시도했다 [ 24 ] . 가더리는 권력과 유착한 우라마르의 타락을 비판하고, 이슬람법의 준수와 수피즘의 실천의 양립을 설명했다 [ 25 ] . 비판의 대상이 된 인물 중 한 명은 하룬 라시드 시대의 재상 아부 유스프 가 있고, 내세를 위해 봉사하는 것을 잊고 현세의 이익만을 추구하는 우라마 본래의 이념에서 벗어난 인간들을 비판하고 있다 [ 25 ] .

회의론

수피즘에 회심하기 전의 가더리는 자신이 이슬람교도인 것은 우연히 이슬람교도의 아들로서 태어났기 때문이며, 신앙에 의한 것이 아니라고 생각하고 있었다 [ 26 ] [ 27 ] . 가더리는 자신의 사상을 흔들리지 않는 것으로 하는 '확실한 지식'에 다가가기 위해 다양한 학문을 추구해 나간다 [ 28 ] . “의심·오모·망망의 가능성이 전혀 없고, 그들을 제기할 여지조차 없는 지의 대상을 밝히는 지”인 확실한 지식을 획득하는 수단을 검토하기 위해 모든 것을 의심하는 것으로 시작되었다 [ 29 ] .

에스파한의 궁정에 출사하고 있던 시대, 가자리는 이성 의 우위성을 의심하는 「제1의 위기」에 빠졌다 [ 30 ] . 가더리는 지식을 감각에 의한 지식과 이성에 의한 필연적 지식으로 나누고, 시각에서는 금화만큼의 크기밖에 보이지 않는 별이 천문학적 증명에 의하면 지구보다 큰 예를 말해 이성이 감각의 오모를 지적한다는 점을 밝혔다 [ 31 ] [ 32 ] . 그리고 고차세계에 이성의 확실성을 부정하는 판단자가 존재할 가능성을 생각하고 회의에 빠졌다 [ 32 ] . 이성에 의해 인지할 수 있는 세계를 과 같은 것으로 파악하고, 이성 위에 있는 세계는 망하의 경지에 도달한 수피가 보는 세계, 혹은 죽음 이라고 생각했다 [ 33 ] . 이윽고 이성의 권위가 미치는 범위에는 한계가 있다고 결론지어 이성이 미치는 영역을 「지('ilm)」라고 명명한다 [ 34 ] . 의심스러운 자명한 영역인 '지'에 대해 하나님에게 가장 접근할 수 있는 인간의 정신에 존재하는 영역을 '신(qalb)'으로 정의했다. 가더리는 이성·지식과 감각·신 사이에 우열을 두지 않고, 꾸란의 장구를 이성에 의해 해석하려고 시도하는 철학자, 사유와 신앙의 모순을 해소하려고 시도하는 신학자 등 두 영역을 혼동하는 인간을 비판했다 [ 35 ] .

이성에 대한 의심을 품은 정신적 위기(제1의 위기)를 거친 가더리는 수피즘에 대한 회심과 세속에의 집착에 갈등하는 제2의 위기를 극복하고, 수피로서 방랑의 여행을 떠난다 [ 36 ] .

이슬람 철학

11세기 초에 이븐 시너 등에 의해 완성된 이슬람 철학 은 이슬람의 교리에서 벗어나는 주장 때문에 보수적인 우라 머 로부터 공격을 받았지만, 그들의 비판의 논거 는 감정적이고 논리성이 부족한 것이고, 철학자들의 이론을 무너뜨릴 수 없었다 . 가더리는 철학을 연구 한 후 반론을 썼고, 니더 미야 학원의 강의 사이에 책에서 철학자의 이론을 도입하여 철학이 포함하는 모순을 도출했다 [ 38 ] . 1094년 에 철학의 개설서인 '철학자의 의도'를 저술하고, 다음 1095년 에 철학의 비판서 '철학자의 자기 모순'을 저술하고 이슬람 철학에 큰 충격을 주었다 [ 39 ] . 꾸란과 모순되는 형이상학을 포함한 철학은 이슬람 사상가의 비판의 대상이 되었지만, 앞의 신학자들이 내린 반론은 꾸란과 하디스의 장구를 인용하는 불완전한 것이었다 [ 40 ] . 가더리는 철학을 하나님의 계시를 대신하는 것으로 자리매김하는 것을 거부하고 전지전능의 신, 꾸란의 세계관의 논리적인 증거를 시도했다 [ 41 ] .

가더리는 철학을 수학 , 논리학, 자연학 , 형이상학, ​​정치학 , 윤리학 의 6개로 분류했다. 산술 , 기하학 , 천문학 을 포함한 수학, 논리학, 자연학을 종교와 공존할 수 있다고 생각하고, 그 학문에 요구되는 '이성'과 종교가 품고 있는 '진리'의 혼동을 계명했다 [ 42 ] . 정치학은 꾸란과 하디스를 기초로 하는 것으로 [ 43 ] , 윤리학에 대해서는 철학자의 잘못된 주장이 서로 섞이기도 하지만, 영혼의 본질과 성격, 개선을 추궁하는 학문이기 때문에 기본적으로 부정되는 것은 아니다고 말하고 있다 [ 44 ] .

철학자들이 저지르는 실수의 대부분은 형이상학에 있다고 주장하며 '철학자의 자기 모순' 속에서 20개 항목을 열거하여 그들의 사상을 비판했다 [ 45 ] . 가더리는 형이상학을 부인했지만 철학의 모든 것을 부정하지 않았으며 이슬람의 교리와 무관한 논리학을 도입하고 철학의 비판에 논리적 수법을 이용하고 있다 [ 41 ] . 12세기 의 애슈어리 학파의 사상가 파푸르딘 라즈이 ( 영어판 ) 는 가자리의 사상의 영향을 받아 보다 철학에 가까운 존재론을 전개해 갔다 [ 46 ] .

가더리는 철학의 논리학을 애슈어리 학파 의 신학에 도입하여 그 결정인 '중정의 신학'을 드러냈다 [ 47 ] . 『중정의 신학』에서는 세계는 원자로 구성된 아슈아리 학파의 원자론 , 신을 비물질적인 것으로 하는 철학의 논리에 의해, 신과 세계의 격절성이 강조되고 있다 [ 47 ] . 가더리는 주와이니 등 선인으로부터 계승한 애슈어리 학파의 이론을 발전시키고, 애슈어리 학파는 철학의 논리학·형이상학을 비판적으로 받아들여 보다 철학에 가까워진다 [ 48 ] . 그러나 가더리는 만년에 걸친 자전 '오류로부터 구하는 것'에서 전통적인 신앙을 지키기 위한 이론을 전개하는 신학의 한계를 인정하고 영적인 구원을 얻기 위해서는 수피즘에의 접근이 필요하다고 말하고 있다 [ 48 ] .

가더리의 철학의 비판은 일반 이슬람교도가 철학에 안고 있던 반감을 자극하고 철학자의 저서가 버려졌다 [ 49 ] . 이븐 시너의 학파의 본거지인 동방 이슬람 세계에서도 가더리의 비판에 도전하는 인간은 나타나지 않았지만, 12세기 마그리브의 사상가 이븐 루슈 드는 '불완전하다' 본 이븐 시너 의 사상 과 함께 가자 리의 철학 비판 을 다시 비판 ] .

신학

호교론을 기록한 가더리의 작품은 그의 생명 중에 세력을 확대하고 있던 이스마일파 에 대항하기 위해 쓰여진 것이 많다 [ 4 ] . 이스마일파의 교리를 비판하기 위해 쓰여진 책 중 하나에 어버스 아침 칼리프스타즈힐 ( 영어판 ) 의 의뢰를 받아 쓴 '무스타즈힐의 서'가 있다.

가더리는 이스마일파의 특징인 이맘 에 대한 개인 숭배와 복종을 비판하고, 미지의 문제가 발생했을 때 우라마르가 내리는 자주적인 판단과 그에 대해 공동체가 합의를 형성하는 수나파의 자세를 주장했다 [ 51 ] . 무모한 이맘에 대한 맹목적인 복종을 전하는 이스마일파에 대해, 가자리는 때로는 실수를 범한다는 것을 인지한 다음 신앙을 위해 자주적인 판단을 내리라고 주장했다 [ 52 ] . 진리를 전수하는 무모한 인물을 이스마일파가 주장하는 이맘이 아니라 선지자 무함마드로 정하고, 무함마드의 사후에 무모의 전수자는 부재하더라도 문제는 없고, 이스마일파는 누구를 이맘에게 특정할 것인가라는 증명조차 완성시키지 않았다고 비판 했다 . 그리고 선나파 세계의 지도자인 칼리프에 대해서는 정치적·종교적 지도자로서의 소질을 요구하지 않고 사회의 평화와 안정을 위해 칼리프로부터 권력을 맡겨진 실력자가 칼리프의 선출과 통치를 하는 당시의 세상을 추인하고 있었다 [ 54 ] . 가더리의 이스마일파 비판은 지도자인 이맘의 무모성, 절대성이 중심이며 철학론에는 거의 접하지 않고, 시지스타니, 킬마니 등 사상가에 의한 철학서 가 아니라 선교를 위해 사용된 팜플렛을 통해 이스마일 의 사상을 접하고 있다 .

수피즘

가더리가 1106년부터 1109년 사이에 걸친 자전 '오류로부터 구하는 것'의 대부분은 가더리 자신의 내면의 기술에 쪼개져 수피즘의 가르침이 신앙의 확신을 약속하는 것으로 나타났다 [ 56 ] . 많은 연구자들은 1095년부터 시작되는 편력의 여행 동기를 '오류로부터 구하는 것'의 기술에 따라 수피즘에 대한 회심으로 받아들이고 있다 [ 57 ] [ 58 ] . 『오류로부터 구하는 것』에서 언급된 동기에 의문을 제기하는 입장의 인간에게는, 여행의 동기를 명성욕으로, 자전의 집필의 동기를 이직의 정당화로 한 「가자리의 고백」의 저자 압도더 임 바카리, 많은 셀주크 아침의 요인을 암살한 니 자르파 자객 59 ] . 던컨 블랙 맥도날드 ( 영어판 ) 는 가자리의 생애를 야심과 출세욕이 가득한 이기적인 인간이면서도 내면에서는 갈등이 일어나고 있던 전반생, 수피로서의 수행을 거쳐 성격이 깨끗해져 이슬람 공동체의 신앙의 부흥을 위해서 0 후반생 .

회심한 후의 가자리는 이슬람 법학을 수피즘의 관점에서 재검토하고 『종교제학의 재흥』 『신명 주석에 있어서의 고귀한 목적』 『빛의 벽굴』 등의 작품으로 일상의 생활, 내세에서 하나님을 만나기 위한 준비에 대해 논의를 거듭하고 있다 [ 61 ] . 가더리는 수피즘의 수행법을 정리하고 일상 생활 속에서 하나님에 대한 칭찬이나 꾸란의 특정한 부분을 주장하는 일상 수행(윌드), 집중하고 짧은 장구를 암기함으로써 하나님과의 합일을 목표로 하는 주클의 두 가지 수행 방법을 소개하고 있다 [ 62 ] . 황홀한 상태에 도달하기 위한 노래, 무도, 음악을 동반한 암묵은 여름이라고 불리며, 많은 수피즘의 이론가에 의해 꼭 논의되고 있었지만, 가자리는 수행을 쌓은 인간에 한정하여 여름의 유용성을 인정하고 있었다 [ 63 ] .

가더리는 하나님을 인간의 사랑 의 대상으로 간주하고 완전한 존재 인 하나님을 유일한 사랑의 대상으로 인정했다 [ 64 ] . 가더리 이전의 신학자의 대다수는 하나님은 인간의 사랑의 대상이 될 수 있는 '인간이 인식할 수 있는' 존재가 아니라 인간은 하나님과 직접·간접적으로 개인과 관계를 갖지 않는 전혀 이질적인 존재이기 때문에 사랑이 성립하지 않기 때문에 '하나님에 대한 사랑'을 하나님에의 복종의 비유로 보는 것이 주류되었다 . 이러한 통설에 대해 가자리는 복종은 사랑의 결과로 생기는 행동이며, 사랑은 '인식하는' 인간 측에 주체가 있고, '인식되는' 사랑을 받는 측에는 주체가 없다고 설명했다 [ 66 ] . 가더리가 주창하는 사랑은 자기·혹은 자기와 관련이 있는 인간의 생명의 유지에 의한 사랑, 완전하다고 인정한 것을 향한 사랑, 전 2개 중 어느 것에도 해당하지 않는 인물에 대한 불가사의한 사랑, 3종의 본질이 다른 사랑으로 분류된다 [ 67 ] . 그리고 3종류의 사랑을 동시에 체험하는 지상의 사랑을 인간이 하나님을 향한 사랑으로 정의하였고, 하나님에 대한 사랑은 조물주인 하나님에 속하는 것 모두로 확대되었다 [ 68 ] . 12세기 부터 13세기 에 걸쳐 활약한 이븐 아라비 는 하나님과 인간의 합일을 남녀간의 연애관계에 비유하고 있지만, 가자리는 두 존재를 유사점이 존재하지 않는 것으로 보고 하나님을 인간으로부터 격절된 존재로 자리매김했다 [ 69 ] .

가더리 이전의 수피 중에는 이슬람법의 준수보다 하나님과의 합일체험을 중시하고, 음주, 동성애 등 반이슬람법행위나 반체제적 자세를 취하는 인간, 하나님과의 합일체험에 의해 직접 얻을 수 있는 지식 을 꾸란과 하디스 를 통해 간접적으로 얻고 있는 우라마의 지식보다 상위 에 둔다 . 이러한 수피의 행동과 사상은 체제파의 울라머나 일반인으로부터 쾌적하게 생각되지 않았고, 슈피와 울라머는 험악한 관계에 있었다 [ 71 ] . 가더리는 신앙의 확신은 하나님과의 합일 체험에 의해 얻을 수 있다고 생각하면서도 동시에 이슬람법을 준수한 생활의 필요성을 주장하는 중간적인 자세를 나타냈다 [ 72 ] . 가더리, 쿠샤일리 ( 영어판 ) 등이 내놓은 수피즘의 이론은 수피와 우라마르의 화해에 공헌하고, 수피의 집단은 공개적으로 활동할 수 있게 되었다 [ 73 ] . 가더리의 수피즘의 근간에 있는 사랑의 사상의 이해, 수행법의 정리, 수피와 울라머의 대립의 융화에 의해 수피즘의 사상은 다수의 인간에게 받아들여지는 곳이 되어, 수피즘을 도입한 순나파의 사상이 확립되었다 [ 74 ] .

철학자 아르가젤

가더리가 저술한 철학의 해설서인 '철학자의 의도'는 이븐 시너 의 사상의 입문서로서 가장 뛰어난 것이고, 라틴어 로 번역되어 중세 유럽의 스콜라파 철학자들 사이에서 널리 읽혀졌다 [ 4 ] . 그러나 철학의 비판서인 '철학자의 자기 모순'은 유럽 세계에는 전해지지 않고 [ 39 ] , 유럽에 전해진 '철학자의 의도'의 사본에는 집필의 목적이 서술된 서문과 뒷문이 없어졌기 때문에 [ 75 ] [ 76 ] , 유럽 세계에서는 가자리는 "철학자" 알가젤로 알려지게 된다 [ 4 ] [ 39 ] [ 77 ] . 중세 유럽에서 참조된 가더리의 저작은 철학 분야에 한정되어 있으며 참조된 텍스트의 대부분에 불완전한 라틴어 번역본과 히브리어 번역본이 사용되고 있었다 [ 78 ] .

19세기에 들어가면 아랍어 원전으로부터의 번역과 그 연구가 시작되어, 가자리의 사상의 전체상을 밝히려고 하는 시도가 이루어져, 「철학자의 의도」와 「철학자의 자기 모순」 '를 비롯한 다른 저작의 기술에 차이점과 모순점이 발견되었지만, 여전히 '철학자의 의도'는 가자리 자신의 사상의 나타난 것으로 계속 오해되고 연구자들은 더욱 곤혹 스럽다 79 ] . 1859년 '유대와 아라비아 철학 논집'을 발표한 자로 몬 뮌크 ( 프랑스어판 ) 에 의해 사본 서문의 누락이 처음 지적되었고, 가자리는 철학에 비판적인 자세를 취하고 있던 것으로 밝혀졌다 [ 80 ] . 그러나 뮌크의 설이 발표된 후에도 '철학자 아르가젤'상은 완전히 불식되지 않았다 [ 81 ] .

던컨 블랙 맥도날드는 1899년에 공간한 논문 '종교체험과 의견을 중심으로 본 가더리의 생애'에서 가더리의 사적 의의를 다음 4점으로 집약하여 특히 첫 번째와 세 번째 공적의 중요성을 평가했다 [ 82 ] .

  1. 스코라 학적 신학 연구에서 꾸란 (신의 계시) · 하디스 (예언자의 전승)로의 회귀 촉진
  2. 설교, 도덕적 훈계에 대한 두려움, 공포의 재도입
  3. 이슬람 사회 내에서 수피즘의 지위 확립
  4. 철학, 철학적 신학의 내용을 일반 인간이 이해할 수 있는 정도로 구축했다

맥도날드의 연구는 후속 연구자들에게 정통적인 가더리의 해석으로 여겨지며 그의 가더리 평은 일반적인 인정을 받고 있다 [ 83 ] . 1990년대에 들어서 기존의 가자리의 것으로 여겨지는 저작 혹은 저작의 일부의 기술을 빼내고 거기서 보이는 철학사상을 논하는 수법으로부터 벗어나, 저작 전체를 부감하고 그 배후에 있는 이븐 시너의 영향을 고찰하는 연구가 눈에 띄기 시작했다 [ 84 ] .

주요 저작

  • 철학자의 의도( Maqāsid al-falāsifa )
  • "철학자의 모순"( Tahāhut al-falāsifa )
  • 『종교제학의 재흥』( Ihyā' 'ulm al-dīn )
  • 『미혹에서 구하는 것』(al-Munqidh min al-dalāl
  • 『행복의 연금술』(Kimiyā' al-Sa'ādah
  • "예루살렘 서한"( al-Risāla al-Qudsīya )
  • 『신학강요』( al-Iqtisād fi'l-I'tiqād )
  • 『법이론 정요』(al-Mustasfā min 'Ilm al-Usūl

일본어 번역

출처

  1.  아오야나기『가자리』, 1페이지
  2.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 127페이지
  3.  버더리 「가자리」 「세계 전기 대사전 세계편」3 권, 38-39 페이지
  4.  마츠모토 「가자리, 아부 하미드」 「이와나미 이슬람 사전」, 255-256쪽
  5.  아오야나기『가자리』, 3페이지
  6.  아오야나기『가자리』, 1-2페이지
  7.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 127-128페이지
  8.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 128페이지
  9.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 129페이지
  10.  아오야나기『가자리』, 4,26페이지
  11.  아오야나기『가자리』, 4-5페이지
  12.  아오야나기『가자리』, 5페이지
  13.  아오야나기『가자리』, 27페이지
  14.  아오야나기『가자리』, 48페이지
  15.  『철학자의 의도』(쿠로다역, 해설), 347쪽
  16.  아오야나기『가자리』, 48-51쪽
  17.  아오야나기『가자리』, 51페이지
  18.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 133페이지
  19.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 135페이지
  20.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 136-137쪽
  21.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 180페이지
  22.  아오야나기『가자리』, 52쪽
  23.  아오야나기『가자리』, 28페이지
  24.  이통 「이슬람 사상사」, 123-124면
  25.  아오야나기『가자리』, 29-30페이지
  26.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 139-140페이지
  27.  아오야나기『가자리』, 8페이지
  28.  아오야나기『가자리』, 9페이지
  29.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 140페이지
  30.  아오야나기『가자리』, 6-7페이지
  31.  이통 「이슬람 사상사」, 117-118면
  32.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 141페이지
  33.  이통 「이슬람 사상사」, 119쪽
  34.  이통 「이슬람 사상사」, 119-120면
  35.  이통 「이슬람 사상사」, 121쪽
  36.  아오야나기『가자리』, 49-51쪽
  37.  이통 「이슬람 사상사」, 261쪽
  38.  아오야나기『가자리』, 40-41쪽
  39.  아오야나기『가자리』, 41쪽
  40.  아오야나기『가자리』, 40,45페이지
  41.  아오야나기『가자리』, 46페이지
  42.  『철학자의 의도』(쿠로다역, 해설), 351쪽
  43.  『철학자의 의도』(쿠로다역·해설), 353쪽
  44.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 144페이지
  45.  『철학자의 의도』(쿠로다역·해설), 351-352쪽
  46.  아오야나기『가자리』, 38페이지
  47.  아오야나기『가자리』, 37페이지
  48.  아오야나기『가자리』, 39페이지
  49.  이통 「이슬람 사상사」, 275페이지
  50.  이통 「이슬람 사상사」, 275-276면
  51.  아오야나기『가자리』, 33페이지
  52.  아오야나기『가자리』, 31쪽
  53.  아오야나기『가자리』, 31-32면
  54.  아오야나기『가자리』, 23-24페이지
  55.  아오야나기『가자리』, 32쪽
  56.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 125-126쪽
  57.  아오야나기『가자리』, 52-53쪽
  58.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 151페이지
  59.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 152-157쪽
  60.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 183페이지
  61.  아오야나기『가자리』, 54페이지
  62.  아오야나기『가자리』, 65-66쪽
  63.  아오야나기『가자리』, 68-69페이지
  64.  아오야나기『가자리』, 59-60페이지
  65.  이통 「이슬람 사상사」, 128-129면
  66.  이통 「이슬람 사상사」, 129쪽
  67.  이통 「이슬람 사상사」, 130-132면
  68.  이통 「이슬람 사상사」, 132-134면
  69.  아오야나기『가자리』, 58-60페이지
  70.  아오야나기『가자리』, 60-61쪽
  71.  아오야나기『가자리』, 61페이지
  72.  아오야나기『가자리』, 62페이지
  73.  아오야나기『가자리』, 63-64페이지
  74.  아오야나기『가자리』, 71쪽
  75.  『철학자의 의도』(쿠로다역·해설), 340-341쪽
  76.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 162페이지
  77.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 161페이지
  78.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 164페이지
  79.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 164,166페이지
  80.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 168-172쪽
  81.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 172페이지
  82.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 174,182페이지
  83.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 182-183쪽
  84.  「오류로부터 구하는 것」(나카무라역), 191페이지

참고문헌

  • 아오야나기 카오루 “가자리”(세계사 리브렛 사람, 야마가와 출판사, 2014년 4월)
  • 이츠키 슌히코 『이슬람 사상사』(이와나미 서점, 1975년)
  • 마츠모토 토모로 “가자리, 아부 하미드” “이와나미 이슬람 사전” 수록(이와나미 서점, 2002년 2월)
  • 리처드 .N. 버더리 「가자리」 「세계 전기 대사전 세계편」3권 수록(쿠와하라 타케오 편, 호루푸 출판, 1980년 12월)
  • 가자리 『철학자의 의도』
  • 가자리 『오류로부터 구하는 것』(나카무라 히로지로역, 치쿠마 학예 문고, 쓰쿠마 서방, 2003년 8월)

외부 링크

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