==
Search
Sort by
Top reviews
Filter by
All reviewers
All stars
Text, image, video
632 customer reviews
From Japan
- Reviewed in Japan on July 27, 2019もし、あなたが、この小説を読み始めようとするのであれば、その前に、少し幾つかのことに注意した方がよい
のかもしれない。もちろん、あくまでも、私の勝手な思いであり、余計なお世話なのかもしれない。当たり前の
話だが、無視していただいたところで、何ら問題のあることではない。どうぞ、この小説を読み始めて下さい。
もし、あなたが、この小説を読んで、何かしらのカタルシスを求めているのなら、読み始めるのを止めた方がよい、
と私は思う。この小説はそうしたものではない。何かしらのカタルシスを求めているのであれば、他の小説を選び
読んだ方がよいと思う。そうしたことに適した素晴らしい小説は、この世界には数え切れないほど沢山ある。
あるいは、もし、あなたが、この小説を読んで、歓喜なり、悲しみなり、哀感なりの感情を味わいたいと思うなら、
それも、読み始めることを止めた方がよいかもしれない。確実なことは、この小説は「普通の長編小説」ではない
ということだ。(そこには、「普通の近未来ディストピア小説」ではないという意味も含まれている。)
この小説を読み終えた人に、もたらされるものは、もっと、別のものだ。
それは、「痛み」だ。
それも、耐え難いほどの鋭く激しい「痛み」だ。
あなたのこころは、完膚無きまでに、粉々に砕け散り、破壊し尽される。
あなたのこころは、完膚無きまでに、燃えさかる炎を浴び、焼き尽くされる。
あなたは、粉々に砕け散り、焼け尽くされた、こころの荒地で立ち尽くすことになる。
あなたの周囲、三百六十度、見渡す限りの地平線の彼方まで続く、黒い荒地の中に、一人、取り残されることに
なる。
そして、あなたは、その後に、思いがけない驚くべき体験をし、想像もしなかったものを与えられることになる。
そこに至るまでは、少し、時間が必要だ。人によっては、場合によっては、「少しの時間」ではないのかもしれな
い。「多くの時間」が必要なのかもしれない。さらに言えば、人によっては、その「砕け散り、焼け尽くされた、
こころの荒地」の中で迷子となり、「それ」がやって来ることを見失い、「それ」と擦れ違い、「それ」に出会えな
い人もいる。残念ながら、この小説を読み終えた全ての人に、「それ」が与えられるという訳ではない。
しかし、この小説の力を信じ、注意深く、待ってほしいと、私は思う。
この小説を読み終えた人に、何が、どのような形で、与えられるのかは、もう少し、後に、話したいと思う。
そのことについて語るために、その前に、幾つかのことを、語らなければならない。
(1)完全無欠の絶対小説、あるいは、長編小説の形をした〈記憶〉
この「わたしを離さないで」を形容するとしたら、それは、「完全無欠の絶対小説」となる。
削除と追加の言葉が、何一つない(あるいは、それを拒否する)、完全無欠の絶対小説。
センテンスの変更も、その順序の変更も、全体の構成の変更も、何一つ、不可能な、完全無欠の絶対小説。
全ての言葉を一旦、解体し、再び、組み合わせたとしても、完全に元の姿に戻る、完全無欠の絶対小説。
「そんなものが存在するのか?」と思う人もいるのかもしれない。
しかも、長編小説において。純粋と夾雑のない交ぜによって成立する長編小説。その長編小説が完全無欠である
ことなど、「原理的に不可能だ」と。普通に考えるのであれば、そうなのであろう。
五・七・五の十七文字の俳句という形式のおいては、完全無欠ということが成り立つのかもしれない。十七文字
の中の一文字を変更することも不可能な俳句。ひとつの言語の極点のような俳句。一文字を動かすことも、削除
することも、追加することも不可能な俳句。俳句というものが、推敲を重ね、言語の極点を目指し、完成形とし
て着地する。完全無欠の絶対俳句。俳句という形式は、それを可能とし、そうした絶対的言語のシステムとして、
五・七・五の十七文字という仕組みが生み出されたのであろう。それは、言葉によって、ひとつの音色、ひとつ
の光景、ひとつの色合い、ひとつの情感を寸分違わず切り取る技法として生み出され洗練されていったものかも
しれない。完全無欠の絶対言語としての俳句。
しかし、小説は、そうした俳句のような定型詩の形式では描き切れない世界を、形作る言語として生み出された。
反(あるいは、非)・絶対言語としての小説。どれほど推敲を重ね完成度を上げ、どれほど厳密に言葉を連ねても、
余白と余剰を拭い去ることが不可能な反(あるいは、非)・絶対言語としての長編小説。その根源に不定形さと不
完全さと不安定さを持ち、その不定形さと不完全さと不安定さを、引き換えにもたらされる小説の言語の多面性と
多義性と面妖性。純粋と不純と聖なるものと俗なるものと高貴なるものと賤なるものを、同時に、共存させること
を可能とする長編小説という言語の形式。この世界の、この宇宙の混沌を混沌のままに刳り貫く技法としての
長編小説。
であるならば、「長編小説にして、完全無欠の絶対小説」など、存在しえるはずはない。原理的に。
しかし、このカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」(「Never Let Me Go」)においては、
その「長編小説の原理」が原理として保たれつつ、尚且つ、「完全無欠の絶対的言語」となる。
この小説は、そうとしか呼びようがないのである。
つまり、これは、「普通の長編小説」ではないのである。
読み始めて暫くは、そのゆったりした緩慢な展開に、もしかしたら、「少々、退屈な思い」をする人がいるのかも
しれない。そこに描かれているのは、思春期の少年少女たちの淡々とした日常である。幾つかの些細な諍いもある
のだが、決して特別な出来事ではない。ここには、劇的なものなど何もない、劇的なことなど何も起こらない。
そう、「ここには、何も無い」のである。しかし、この小説を読み進んで行くと、ある時点において、「ここには、
全てがある」ということ気が付くのである。彼ら彼女らの日常とその記憶こそが、この世界の全てであるという
ことに気が付くのである。
この「完全無欠の絶対小説」である「わたしを離さないで」は、その最初の一行目のセンテンスから、最後の
一行のセンテンスまで、何一つ、無駄なセンテンスは存在しない。何一つ、無駄なワードさえ存在しない。
彼ら彼女らの記憶に何一つ、無駄なものなどないように、この小説には何一つ、無駄な言葉は存在しない。
つまり、この小説「わたしを離さないで」は、「長編小説の形をした〈記憶〉」なのである。
それが、長編小説にして、同時に、完全無欠の絶対小説であることの意味であり、それが、存在しえることの
意味である。
(2)閉じることができない本、あるいは、その本を読み終えてから、その本が始まるという本
彼ら彼女らに救済はあるのだろうか?
小説の中の登場人物の運命など、行く末など、どうでもいいことなのかもしれない。小説など結局のところフィ
クションではないか、作り話の中の架空の人物がどうなったところで、「私に関わる現実」が変わるわけではない
ではないかと。そこにどれほどの過酷で悲惨な出来事を小説の中の登場人物が待ち受けているとしても、「この
小説を読んでいる間だけ辛抱すれば、その後、小説を読み終え、その本を閉じてしまえば、全部、終わりだ」と。
「さあ、次の新しい小説を読もう。何しろ、私は凄い読書家なのだから。私を待っている小説は山のように積み
上がっている。早く、その山を片づけなければいけない。」全く、その通りであろう、何ら反論するつもりはない。
少なくとも、「小説の中の言葉を読むこと」と「小説の中の文字を追い駆けること」の区別が出来ない、また、
その違いを理解できない人にとっては、そうなのであろう。小説の中の最初の文字から最後の文字まで追い駆けて
しまえば、その小説を読み終えたと思う人にとっては、そうなのであろう。読むという行為が、大量の小説の中
の文字を追い駆け、その大量の文字を追跡し、その細部を執拗に確認し、一文字、一文字をチェックする行為と
同じことになってしまっている人にとっては、そうなのであろう。
しかし、「読むこと」と「文字を追い駆ける」、その二つは似ているようでいて、全く、別のものだ。
文字を追い駆け終われば、小説を読み終えたと思うのは、大きな錯誤である。
小説を読むということは、決して、小説の中の文字を追い駆けることではない。断じて、絶対に。
小説を読むとは、そのフィクションで作られた容器の中に存在する人の思いと交わることだ。
小説というフィクションの中の人の思いを受け取ることだ。
小説を読み終えた後、「私の現実」は、読み始める前と異なったものになっている。
小説の中に宿っていた「人の思い」を「受け取った私」が、それを「受け取る前の私」と同じであろうはずが
ない。
「読むこと」は、「交わること」であり、「受け取ること」だ。それは、「文字を追い駆けること」ではない。
だから、小説を読むという行為は、場合によって、困難なことであり、ひとつの試練であり、極めて、危険を伴
うことでもある。それは、読む人を不可逆的に変更してしまう。しかも、抗いようもなく、逆らいようもなく、
「蹂躙するかのように」、それは読む人を変えてしまう。あるいは、それは、その本を「読み終えること」を
不可能にする。読み終えたはずなのに、読み終えることができない小説。それは、その本を読み終えたところから、
その本が始まることを意味している。
ここに、「読むこと」と「文字を追い駆けること」の根源的な相違がある。
そこに、小説を「次々と読むこと」が根源的に不可能である理由の秘密が隠されている。
この世界の中に存在する幾つかの小説は、「その本を閉じることができない本」がある。
別の言い方をすれば、「その本を閉じた時から、その本が始まる本」がある。
閉じることができない本。
その谺が消えることのない本。
その本を読み終えてから、その本が始まるという本
「わたしを離さないで」も、そうした本の一つだ。
この小説には、「難解な部分」は、何処にも無い。
しかし、この小説は「読み終えることが、非常に困難な、あるいは、不可能な」小説だ。
(3)救済は何処にあるのか? あるいは、カズオ・イシグロが行わなかったことと、村上春樹が行ったこと
そして、再び、問い掛ける、「彼ら彼女らに救済はあるのだろうか?」
あるいは、別の問い掛けをする、「彼ら彼女らに逃げ道はあるのだろうか? 脱出口は何処にあるのか?」
全て無い。
救済は無い。
逃げ道も無い。
脱出口も無い。
全く、完全に無い。
完璧に閉ざされた世界。正しくは「壁さえも無い、閉ざされた世界」だ。
壁も塀も柵も境界線も無い。外側と内側の境界はない。いや、そもそも、ここには、「外」など無いのだ。
「外」の無いこの世界に、脱出口など存在する訳もない。この世界には脱出口は、原理的に存在し得ないのだ。
ここは、「外側の無い内側だけの、完璧に閉ざされた世界」なのだ。
カズオ・イシグロはこの「わたしを離さないで」をそのような世界として作り出した。
ここに、カズオ・イシグロと村上春樹の決定的な違いを読み取る人がいるのかもしれない。
非情さと無慈悲さを背負いながらもこの現実の世界の実相から目を背けないことを選び、彼ら彼女らに脱出口を
最後まで与えなかったカズオ・イシグロと、多くの取り戻すことの出来ない犠牲を払い、試練と戦いを生き延び
た者たちを、脱出口へ導く村上春樹。
カズオ・イシグロのその高度な文学的小説的な技術を用いれば、その小説の世界に「脱出口」を設けることは可
能なことだと、私は思う。(「充たされざる者」を読めば、その小説の世界に「異次元の通路(原理的には不可能
であるはずの通路を通路として成り立たせる通路)」を形作ることなど、カズオ・イシグロにとって、造作も無い
ことではないかと推察される。)また、それとは、逆に、村上春樹がその意志を明確に持てば、その小説の世界を
「外側の無い内側だけの、完璧に閉ざされた世界」として作り出すことは「比較的容易な」ことではないかと、
私は思う。(「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の「世界の終わり」のパートを思い起して見れ
ば、村上春樹が既にそうした世界の構築をしていたことに気が付く。「世界の終わり」には壁が存在していたので
はあるが)
しかし、カズオ・イシグロも村上春樹も、そうはしなかった。
そこに、カズオ・イシグロのわたしたちが生きている現実に対する姿勢として「誠実さ、誤魔化しの無さ、ある
いは、反・御都合主義」を見る人、あるいは、それに反動する形で、村上春樹に対して、わたしたちが生きてい
る現実に対する姿勢として「不誠実さ、誤魔化し(欺瞞)、あるいは、御都合主義」を見る人。
そして、そうした構図に対極するように配置される救済の存在。カズオ・イシグロの救済の無さに対して「非情さと無慈悲さと残酷さ」を見る人、あるいは、村上春樹の救済に対して「優しさと癒しと希望」を見る人。
このカズオ・イシグロの救済の無さに対して「非情さと無慈悲さと残酷さ」を見る人の中には、この小説を読み
終えて、その「救済の無さ」に対して憎悪に似た感情を抱く人もいるのかもしれない。この小説を読み終えた後、
激しく怒り、この本を地面に叩き付け、破り捨て、投げ捨てた人もいるのではないだろうか。
その見え方は読む人によって、大きく分かれるところかもしれない。その見え方によって、カズオ・イシグロと
村上春樹の小説の様相は相当に変わってくる。結果として、残念なことに、読む人は互いにその作品を遠ざけて
しまうかもしれない。
私は思う。明らかなことは三つあると。
一つ目のこと。
それは、カズオ・イシグロと村上春樹は、それぞれの力の限りを尽くして彼ら彼女らを描き出したということ。
そこに「見かけ上の救済」が有ろうが無かろうが関係なく、作者として、彼ら彼女らの生と死から目を背けるこ
とをしなかったこと。二人とも、自ら作り出した人々に最後まで敬意を持って接したこと。
カズオ・イシグロはカズオ・イシグロの方法で。
村上春樹は村上春樹の方法で。
二つ目のこと。
それは、カズオ・イシグロと村上春樹、二人とも、「小説を信じている」ということ。「小説の力、物語の力を信
じている」ということ。古い物語が壊れ、物語が否定され、壊れた物語の残骸の断片を寄せ集め繋ぎ合わせ、継ぎ
接ぎだらけの物語の再生産で辛うじて生き延びているこの世界の中で、迷うことなく小説を信じ、小説を作り出し
ているということ。そこには、小説に対する揺るぎ無い信頼がある。
三つ目のこと。
改めて言うことでもないが、カズオ・イシグロと村上春樹の作品、そのスタイルも方向も異なっている。
しかし、どちらもが、現代最高の小説家であり、その作品は読まれるべき価値のあるものであるということ。
私は夢を見るように、想像してみる。少しの間、ほんの一瞬の間。
「わたしを離さないで」の作者が、仮に、村上春樹であったならばと、想像してみる。
あるいは、「1Q84」の作者が、仮に、カズオ・イシグロであったならばと、想像してみる。
村上春樹版「わたしを離さないで」の中のキャシー、ルース、トミー、彼ら彼女らは、どのようにして、脱出口
を見つけ出し、どのようにして、「外」へ、「もう一つのノーフォーク」へ、辿り着くのか。
カズオ・イシグロ版「1Q84」の中の青豆と天吾、彼ら彼女らは、どのようにして、出会い、擦れ違い、その
出入口は、どのようにして塞がれ、彼ら彼女らは行き場を見失うのか、彼ら彼女らはその危機にどのように立ち
向かうのか。
村上春樹版「わたしを離さないで」と、カズオ・イシグロ版「1Q84」
まるで、それは、「水の中を泳ぐ鳥」のようでもあり、
まるで、それは、「空を飛び交う魚」のようでもあり、
まるで、それは、存在し得ないものの象徴のようでもあり、
それは、「想像してはいけない美しい夢のようなもの」なのかもしれない。
(何だろう。この不穏な胸騒ぎは。夢の中にしか存在しない、この二つのありえない改変版の中に、「未来の小説」
の姿が垣間見えるような気が、私にはするのだ。)
(4)なぜ、彼ら彼女らは抗わないのか? あるいは、欺瞞と無知と無邪気さと傲慢にまみれた私
なぜ、彼ら彼女らは、自らの宿命を粛々と、そのまま受け入れるのか?
なぜ、彼ら彼女らは、家畜のように従順なのか?
なぜ、彼ら彼女らは、屠られるまま、屠られるのか?
なぜ、彼ら彼女らは、彼ら彼女らを閉じ込めているこの世界に対抗しようとはしないのか?
なぜ、彼ら彼女らは、彼ら彼女らを閉じ込めているこの世界から脱出しようとはしないのか?
なぜ、彼ら彼女らは、この世界を変えようとしないのか?
この小説「わたしを離さないで」を読み終えた多くの人が、そうした疑問を抱くだろう。
私も同じだった。(過去形である。そう、今ではそれは疑問ではない。)
そこには、不可解なほどの「彼ら彼女らの従順さ」が存在する。そのことに対してのやり場の無い苛立ちと戸惑い。
捌け口を求め渦巻く憤り。仮に、結果として、彼ら彼女らの存在している世界が「出口の無い世界」であったと
しても、彼ら彼女らなりの戦いがあってしかるべきではないかと、私はそう思ったのだ。(そう、無邪気にも)
まだ、その時、私は彼ら彼女らのことを「ほとんど、何一つ」、理解していなかった。
また、私は自分が「何者」であり、「どこにいる」のかさえ、理解していなかった。
信じられないことに、この本を読み終わっても、それでもまだ、私は、そのことを正確には理解していなかった
のだ。
彼ら彼女らが「何者」であり、「どこにいるのか」、そして、私が「何者」であり、「どこにいるのか」、
そのことを示唆する出来事が、この小説の中で、微かな不吉な兆候として幾つかほのめかされる。
「ヘールシャム」(彼ら彼女らが集団生活をして教育を受けている施設)に訪れる「マダム」の彼ら彼女らへ向け
る眼差しと、その振る舞い。あるいは、一定の年齢を過ぎた者たちが「ヘールシャム」を出た後、生活するコテ
ージの管理人に彼ら彼女らの一人が「挨拶」をした際の管理人の対応。
そこに、「屠る側」と「屠られる側」の間の目に見えないが、しかし克明な断絶が顕わになっている。しかし、私
はその出来事の本当の意味を、その時には、正確には理解してはいなかった。頭の中の理屈としては理解しても、
そのことを十分に受け入れることができなかった。(その真の意味を理解したのは、ずっと後になってからだ。)
「なぜ、彼ら彼女らは抗わないのか?」
その疑問が「屠る側」から、あるいは、「屠る側の安全地帯」から、生まれているものであることに、私が気が付
くためには、少し時間が必要だった。それが「屠る側」の欺瞞と無知と無邪気さと傲慢であることに、私が気が付
くためには、少し(いや、正直に告白するならば、多くの)時間が必要だった。
「私は彼ら彼女らに、何をしたのか?」(この小説を読みながら、あるいは、読み終わった後、私の想像の中で)
私は彼ら彼女らに、微笑み優しく抱きしめる。そして、彼ら彼女らに言う「大丈夫。何も不安がることはない」
彼ら彼女らを屠る準備を私がしていることを悟られることなく、後ろ手に彼ら彼女らを屠るための手斧を隠し持
ちながら。
私は彼ら彼女らに、「抗い、戦い、逃げろ」と叫ぶ。
この世界が「外側の無い内側だけの、完璧に閉ざされた世界」なのだということを知らないふりをして。
欺瞞と無知と無邪気さと傲慢
彼ら彼女らは、自分たちが「何者」であり、「どこにいる」のか、十分に知っていたのである。
この世界がどのようにして成り立ち、自分たちのその世界の中での意味も、十分に知っていたのである。
私が欺瞞と無知と無邪気さと傲慢にまみれて、自分が彼ら彼女らの味方であると信じ、それを演じている間も。
確かめてみてほしい。
そこに描かれている世界を。
そして、気が付くはずだ、「この世界は、わたしたちの世界そのものだ」ということに。
これは、「小説の中で作られた架空の近未来のディストピア」の姿などではないということに。
「臓器移植のための家畜としての人間」という仕掛けのおぞましさに攪乱され、そこで何がなされているのか
見失ってはいけない。そこで行われているのは、人が人を奪い取るということだ。これが、わたしたちの生きて
いる世界の現実の日常であることは、もはや言い逃れすることなどできはしない。(この世界のほんの上水の澄ん
だ部分だけを目をしているだけであれば、「家畜としての人間」などありえないのかもしれないが、その上水の遥
か下で泥と混濁し氾濫する闇の部分に、目を凝らせば、見えて来るものがある。そこにある、現実の姿が。)
人が人を奪い取り、非情で無慈悲で救済も逃げ道も脱出口も無い世界こそ、わたしたちの世界の真の姿だと。
カズオ・イシグロは、「わたしたちの世界の実相」を描いたのだ。
カズオ・イシグロは、「わたしたちの欺瞞と無知と無邪気さと傲慢」を描いたのだ。
私が彼ら彼女らにできる唯一のことは、この小説の最後の一行のセンテンスまで読み終え、その結末を見届ける
ことだけだ。私はその凄まじい結末に体の震えを抑えるこができなかった。耐え難いほどの痛みに私は貫かれて、
私のこころは完全に破壊された。
(5)あなた(この小説を読み終えた人)に、もたらされる、ありふれた名前で呼ばれるもの
あなたは、荒地に茫然として立ち尽くす。
あなたは、壊れたこころの破片を一つ一つ、拾い上げ、それが、かつて、自分のこころの一部であったことを、
不思議そうに眺める。
「これは、何だろう?」と。
私は、これまで、何を感じ、何を思い、何を考えていたのか。
私は、これまで、何を見て、何を聴いて、何に触れていたのか。
「わたしを離さないで」を読む前と、読んだ後。あなたに起きる「決定的な、不可逆的な」変更。
それは、不意に訪れる。
予期しなかった方角から、予期しなかった時に、それは訪れる。
その訪れ方は一人一人みな違ったものかもしれない。
あなたは、風が湧き起るのを感じるかもしれない。
あるいは、かすかな声がするのを耳にするかもしれない。
それは、何一ついきものの痕跡のない荒地の黒い地面に小さく芽吹くものとして現れるかもしれない。
あるいは、灰色の雲の敷き詰められた空から静かに舞い降りる小さな雪の結晶として現れるかもしれない。
それが何なのか最初は、あなたにはわからない。
あなたは、地面にひざまずきその小さな芽吹くものを手で掬い取ろうとする。
あるいは、手のひらを上に向け、舞い降りる小さなものを受け止めようと両手を広げる。
そして、あなたは、感じる。その小さきものがもたらす光を。
あなたは目を閉じる。
その小さきものがもたらす光が逃げないようにと。
それは、あなたのこころの中心にそっと来る。
粉々に砕け散った焼き尽くされた荒地のような、あなたのこころの中心に。
そして、ゆっくりと鼓動を始める。一回一回、その響きを確認するかのように。
光が満ち溢れる。混じり気のない怖ろしいほどの純度の高い透明な光が。荒地のようなあなたのこころに。
その眩しさとその明晰さとその強靭さとそのあたたかさに、あなたは、驚かされる。
それは、今までに、体験したことのないほど確固とした強さを持ったものだ。
そして、あなたのこころは、再び、組み立てられ始める。
ひかりかがやく鼓動するものを抱えて。
そして、そのひかりかがやく鼓動するものが、何かということを知る。
それを言葉にすれば、ありふれた名前しかないことに、困惑しながらも。
ありふれた名前として、それを呼ぶならば、それは、「優しさと強さと勇気」。
この「わたしを離さないで」は、あなたに、「優しさと強さと勇気」を、もたらしてくれる。それは、耐え難い
ほどの痛みの後に、ひかりかがやく鼓動するものとして、「優しさと強さと勇気」を人に与えてくれる。
それが、ありふれた名前で呼ばれるものであったとしても、決して、それは、ありふれたものではない。それは、
他のものでは得ることができない特別なものだ。「わたしを離さないで」が人に与えるそれは、朽ち果てる事の
無いかけがいの無いものとして、あなたに、もたらされる。それは、あなたを守り、あなたが行くべき場所を教え
てくれる。
そして、それが、キャシーとルースとトミーから、あなたへ贈り届けられたものであることを、あなたは知る。170 people found this helpfulReportHelpfulTranslate review to English - Reviewed in Japan on June 20, 2025すんごく複雑な気持ちになった。
- Reviewed in Japan on November 22, 2024架構のしかしリアリティのある世界線で、愛の形、相克の形を描いている。そして著者が生きた時代精神が描かれてもいる。本当に大事なことを純文学として描けない時代の解決方法かもしれません。ありかとうこさいました。
- Reviewed in Japan on March 14, 2025汚れがあったのでアルコールで拭いたら落ちました。アルコール消毒済みと書いてあるけどいったいどういう作業をしているんだろうと思いました。
- Reviewed in Japan on February 15, 2025異なるタイプの出生を持つ子供たちが集められ生活しており、その施設が舞台となる。そこには監督者がいて子供たちは教育を受けているが、普通の人間とは別の生き物として扱われている(最後の方で明らかになるが監督者も彼らを別の生き物として見ている)。しかし、彼らも普通の少年少女と同様に多感な十代を過ごすのだ。ルーツも家族も持たない彼らにとってこの施設が彼らの育った故郷なのだ。しかし、後にそれは残酷にも奪われてしまう。
彼らは自分たちが異なる生き物ということを理解し、その運命を受け入れている。かなり無理のある設定だが、まさにこの点がこの小説の肝で、その点に読者は心を揺さぶられてしまう。
21世紀に誰かが書かなくてはいけなかったテーマだったと思う。途中の挿話が少し重くペースが悪くなっているような印象を受けたので、星四つとしたが、傑作なことは間違いない。 - Reviewed in Japan on November 10, 2024何年も前に映画を見て、この作品についてわかっているつもりになっていました。しかし、小説を読むと、映画には小説と明らかに違う箇所があり、小説で描かれる世界の一面しか捉えていなかったことを知りました。語り手はまだ30代の初めという若さなのに、彼女の記憶の旅は、高齢者と言われる年齢の私の心に響くものでした。人の記憶は時に曖昧で自分勝手でありながら、ある一部分だけが鮮明に蘇ったりします。弱々しい記憶の糸を織りあげられたタペストリーが、主なき部屋に残されるような読後感を持ちました。
- Reviewed in Japan on August 3, 2024独創的な作品世界は、人の心を深く描くための触媒に過ぎない。描かれたものの美しさに感動した。
- Reviewed in Japan on June 19, 2024?どう言う事?え?そういう事か…
あり得る事になるかも知れないな…
人生を、人間の存在、命を考えさせられた本です。 - Reviewed in Japan on January 5, 2025あらすじはドラマを見て、なんとなく覚えていたので、あえて読むまでもないのかと、思っていましたが、色んな人が読んだと言っているのを聞いて読んでみました。救いのないようなストーリーに、いまにも降り出しそうな雨雲の下にいる様な気持ちですが、主人公達が置かれている状態は、決して最悪なものではないという、何ともいえない世界観で、圧巻ではあります。この様な話を書き切るカズオイシグロの力量は素晴らしいのですが、悲しい話は苦手という方は読まない方が無難なのかもというところです。
- Reviewed in Japan on October 4, 2024やりどころのない怒り、やるせなさ、悲しみに支配されます。フィクションですが、人間が間違った方向に行かないための予防線になればいいと思います。
ただ、村上春樹、あだち充の作品が基本的にどれも同じな程度に、著者の他の作品と同じです。
==
From Japan
- Reviewed in Japan on February 23, 2025翻訳の言い回しが多少古臭く、なかなか入っていけませんでした。残念。。。
- Reviewed in Japan on July 26, 2025市販の書店価格980円+税 より、高い価格と購入後知った為。
その点だけで、内容はとても読みたいと以前から思っていた。 - Reviewed in Japan on July 17, 2025何年も前に映画を観て(日本のドラマじゃない方)、原作を読んでみようと思い購入。
なんというか、全般に回りくどい説明が多く、「あの時、こういう事が起きて〜。まさか最悪な事なるとは思いませんでした。」「〜について説明をしなければなりません」といった文が何度も出てきて、
その度に話が前後しスムーズに進まずイラッときました。
登場人物の言動に対する主人公の分析もイライラww。結局主人公の目線だけで話が進むので、他の子達は本当は何を、どう考えていたのかわからずじまい。
日本人の同世代の子達と言動がかけ離れすぎとも感じ、全く理解出来なかったです。
結局何を作者は伝えたかったのか?モヤモヤするばかり。
子どもたちが自分の運命と抗うべきでは?というコメもチラホラありますが、幼少期から肉親の死を見るわけでもなく、同じ年頃の子供だけで閉鎖的に暮らし、全く違う価値観に触れる事なく過ごし、
小さい頃から「提供」の話を何となくずっと聞かされ続けていれば、こういうもんだと受け入れ、たいして抵抗しない人間に育つかもとは思いました。
あまりにイラッときたので読後に何かを感じた、とか無かったです。
受賞作品、高レビューというレッテルで本は選ぶべきではないと実感できました。
逆に映画版の方が、このまわりくどい文がないおかげか、作品世界の独特な雰囲気を良く表現できていたように思います。 - Reviewed in Japan on July 2, 2024「臓器提供者」としての役割を持って生まれてきた人達のお話で 「ひとであって人でない」という複雑な存在である事を感じながら読ませてもらいました。自分の身体が誰かのために
提供されていき順番待ち状態というのはある意味死刑宣告と同じなのではないか?とさえ思う。小説と言いながらも この世のどこかに その存在があるのではないか?と思うような小説でした - Reviewed in Japan on May 9, 202560%まで読み終わって、投げ出したくて仕方がありません.....
淡白すぎて、それでノーベル賞の意味がわからん!人間の傲慢さを表現したいでしょうか?それにしてもあまりにも淡白すぎますよ。 - Reviewed in Japan on May 24, 2024イスラエルのハイファという街に行ったことがある。学生寮に入るのに毎回、検問のチェックを受けなくてはいけない、列車の乗客の大半が兵士で、通路ですれ違う時、兵士の自動小銃の先が胸の先をかする、という日々だった。ある日、学生寮の自販機の前で困っている東洋人を見つけ、この自販機は商品がつまっている、私も昨日商品が出てこなくて困ったのだと説明した。二人して別の自販機で商品を買った後、その男は、「私は中国から来た、ここでクローンの研究をしている」、と言った。その時、私ははじめてその男の顔をちゃんと見た。その顔は奇妙に非対称で、彼はその顔に不気味な笑いを浮かべていた。「人間のクローンの研究をしているに違いない」、そう私は思った。
この小説はファンタジーな想像による小説ではない。現実の今起こりつつあることの小説なのだ。クローン人間の恐怖は、実は強権的宗教・思想国家ではすでに現実として進行しつつあるのだ。私はそう思う。カズオ・イシグロの小説的想像力は、この現実に肉薄し、その悲劇を描ききってあまりない。 - Reviewed in Japan on February 10, 2024子供の日記のような翻訳にとてもがっかりした。
この作品の原文を読んでみたいが、日本語のように理解はできないので残念だ。
他の作品も読みたいが、全て同じ翻訳者なので読む気がしない。
別の翻訳者で改めて発刊してほしいものだ。 - Reviewed in Japan on April 6, 2024昔テレビドラマでやっていた記憶から気になっており購読しました。
可哀想な主人公が徐々に幸せを獲得していくような物語なのかなと思い読んでみると、物語を通して社会や人間の残酷な心理の核心をつく物語でした。誰もが持っている人間の残酷な部分があらわに描かれた作品でした。 - Reviewed in Japan on January 27, 2023目新しさや驚きは無いものの、丁寧な文章や構成で十分楽しめる良作でした。
- Reviewed in Japan on September 17, 2022主人公達はヘールシャムという施設で理想的な(?)教育を受けながら、普通の子供たちのように育っています。時折ヘールシャムに来訪するマダムは子供達と話しをしないので皆は「お高くとまっている」と思っていましたが、8才の頃にルースが「私たちを怖がっているのよ」と断言します。そしてある事を実行し、マダムは「蜘蛛嫌いな人が蜘蛛を恐れるように子供達を恐れていた」という事が証明され、自分達が他の人間と違う何者かがわかるのです。印象的な場面です。子供達は成長し、クローン人間としての使命を果たしていきます。残酷な作品です
==
From Japan
- Reviewed in Japan on July 12, 2022自分の人生を、行く末を受け入れていることの怖さ、でも現実にあり得る、もしかしたらこういうことがすでに行われているのかと思う怖さがある。おすすめです。
- Reviewed in Japan on December 15, 2017この本、読むのは二回目です。
沿い所に読んだ時も、何かわかりにくい本だなぁ…と思いつつ読んだ記憶がある。
そして読んだ後に、そのもやもやした物が払拭したかどうかは覚えていない。
で、今回のノーベル文学賞受賞。一番の代表作がこの本だと知って、再度チャレンジ。
二度目なのだが、やはり読みながらずっと違和感がある。
どこかの国の学校と言うか寄宿舎? 何かの理由で隔離された環境での子供たちのやり取りなのだ。
途中で、何となく「移植のための子供」という言葉や「クーロン」という言葉が出てくる。
しかし何となくはっきりしない。
子供たちはちゃんと学校生活送っているし、それこそ恋愛とかセックスの話まで出てくる。
その移植とかクーロンと言う言葉が出て来なければ、なんてことはない普通の学園物…という感じなのだ。
途中から、提供する側とその提供者を介護する側に別れる。これもよくわからない。
最初思ったのが、望まれない妊娠の子供たちを堕胎せずに、そのまま出産させ、
親から引き離して移植用に育てている学校の話なのか…と言う事。
でもそれも違う感じ。結局クーロンと言うのは、親がセックスしてできた子供と言うのではなく、
細胞を何とかいじくって出来てきた人間なのではなかろうか…(人間と呼ぶのか?)と思っ読み進めたら、
何となくわかってきた気がする。
結局SFなのだが、ここまで普通の生活に溶け込んだ表現されると誤解されるのもむべなるかな…という感じ。
こんな不思議な本書くとノーベル賞もらえるのかなぁ…。 - Reviewed in Japan on October 8, 2017とても切ない物語。架空の設定ながらも、世の不条理、無常さ、イシグロ氏が受賞インタビューで語っていた〝もののあはれ〟が心に染みます。
現実の世界でも、ヘールシャムのような理想を掲げて活動する方々が、今も理想と現実の狭間で闘っていることでしょう。ある時はその活動の存在が光を放ち、またある時はその光を失って消え去って行く、まるで線香花火のような儚さ。大きな流れに逆らえず、潰えていくこともやむを得ない理想です。
けれども、その理想を実現しようとした人々がいて、一時期あの場所にヘールシャムがあった。主人公たちにとってそれは家であり、大きな家族であり、幼かった彼らを養い育んでくれた思い出の場所。無慈悲で残酷な世界から彼らを隔ててくれた唯一の場所が、そこにあった。ヘールシャムでの懐かしい思い出が、施設を出た彼らの、荒涼とした運命の道筋の果てを、それぞれの子供たちの心象風景として、灯火のように照らしている……。
物語の終盤で施設の運営者から、主人公たちに語られる真実は、胸に迫ります。「聞きたいのなら答えましょう。もう終わったことですから。」このニュアンスが寂寥感を加速させ、とても救いのない、泡のように儚い、影のような、家畜のような存在の子供たちにまとい付く。
まるで怖ろしい呪いのようであり、優しい嘘でヴェールのように包んでくれた善意とも受け取れる告白なのです。
この後襲うのは〝絶望〟でしょう。少なくとも私はそうです。しかし、キャシーは、この物語の主人公は、別の答えにたどり着く。だからこそ、主人公のキャシーが、最終章で独白するシーンに、私は心が打たれるのです。彼女がヘールシャムの思い出にこだわり続けたのは、そういうことだったのか……と、胸に迫ってきたからです。独白はいわば謎解きで、彼女が幼い頃から考え続けていた答えを得るシーンです。キャシーは何故、提供者の側へ行く決心を固めたのでしょうか?キャシーは、現時点では指名を受けいれる決断を先に伸ばすこともできたはずです。優秀な介護人で辞めることを惜しまれていました。だから何故なのかと冒頭のシーンからずっと不思議に思っていました。その答えがここにあるのです。
直接の原因はトミーの死かもしれません。しかし、キャシーはどうしても自分で問いの答えを見つけたかった。「将来に何が待ち受けているかを知って、どうして一所懸命になれます?」とエミリー先生は言いました。〝あなたはしがない臓器提供者です。他のこども達のように未来を思い描くなど、無意味なことです〟と教えられて、どうして真剣に生きられるでしょうか? 知らなかったからこそ、ヘールシャムでの日常が、色褪せない記憶として、ベッドの下の宝箱のように輝きを放つのではないか? そのことにキャシーは気付いたのだと思います。知らなかったからこそ、真剣な友情や愛を育むことができたのではないか? それがヘールシャムとそれ以外の施設の違いなのかもしれません。また、キャシーのように感覚の繊細な子供に特にあらわれるのかもしれません。
そして、ドライブに出かけたノーフォークの荒野で、(失くした物の見つかる場所と信じる所で)塀の有刺鉄線や木の枝に絡まるビニールシートやショッピングバッグをみて、彷徨うものの行き着く場所、行き場のない者が流れ着く場所、それらを受け止めている場所に、自分の求めていた答えを見つけるのです。消耗品として人格さえ否定された存在は、使命を終えた後は要らなくなったモノです。そのモノの為に、人間らしい時間を過ごさせようと奔走したエミリー先生やマダムは何か見返りを求めたでしょうか? 答えは既に知っています。だから次の段階へ進むことにしたのかもしれません。役に立つべく使命が定められているキャシーは、どうすべきなのか? 空想の中でトミーが手を振っています。しかしそれ以上の空想を打ち切り、車を発進させるところで終わります。
このシーンは胸を打ちます。キャシーの心情に寄り添うイメージで、以下の台詞を記します。
「さあ、カウントダウンは始まった。
これから自分も彼らの後にようやく続くのだという決意を込めて、
だから私は、ヘールシャムという思い出に、ありがとうと伝えたいのだ。
そして、わたしを離さないで。永遠にありがとう……」と。 - Reviewed in Japan on March 29, 2025芸術には必ずある種の神話が含まれていると思います。それは小説にも当てはまるのではないかと思います。では、本作における神話とは何でしょうか?それは正義の神話だと思います。あなたはテレビでニュースを日々観ているかもしれません。そのニュースの中で例えば難民のニュースを観ることも少なくないと思いますが、難民であるということはどのような苦しみをもたらすのでしょうか?それは例えば、住み慣れた家から遠く離れた国へ逃れなければならないことを意味するでしょう。それによって、近しい隣人や友人、最悪の場合、家族とも離れ離れになるだけでなく、自分の故郷にあった言語、文化といった社会基盤を失うことによるアイデンティティの喪失を意味するのです。それによって逃れた国での差別や偏見だけでなく、難民であるがゆえに法律による権利も剥奪されるのです。このような他者の苦しみへの責任をあなたは日々感じているでしょうか?恐らくあまり感じていないというのが実情ではないでしょうか。または、同情を感じていても、ユニセフへの募金や紛争地域に赴いてボランティアとして活動するといった行動に移さず、見て見ぬフリをしている方も多いのではないでしょうか。ではなぜ見て見ぬふりをしてしまうのでしょうか。社会にはそういった悲劇を看過できずに怒りを感じ、正義を為そうとする方も少なからずいます。しかし、行動に移すことで自らがジャンルダルクと化してしまうこともあるのです。そのような悲劇のヒロイン・ヒーローの多くはメディアに取り上げられることもなく、悲惨な末路を迎えてしまうのです。しかし、一方でこのような多数の犠牲を払う過程の中で正義が為されることもあるのです。そして、これこそが正義の真実であり、本作を貫く正義の神話なのです。
あなたの正義はいかなるものか知りません。しかし、本作が正義について再考する一つの契機となることは間違いないでしょう。 - Reviewed in Japan on October 29, 2014主人公のキャスは目前に迫った自分の運命を見据えながら、人生を振り返る。
初恋のトミーと親友ルース。
ヘールシャムという箱庭のような寄宿学校で出会い、ともに育つ。
自分たちが何者か知らず、小さな希望や、愚かな夢のたぐいを抱きしめ、
人生を怖れ、愛し合い、憎み合い、諍いと和解を繰り返し、
死の香りが色濃く漂う日々は過ぎていく。
「なぜ『彼ら』はこんな過酷な運命をやすやすと受け入れるのか」
読みながら、ずっとそう思っていました。
「SF、ミステリーなら、この設定アウトだよね」とも。
物語の終盤です。
ルースが亡くなった後、結ばれたキャスとトミーは
一縷の望みをかけて、自分たちの運命を握っている「マダム」のもとを訪ねます。
言うまでもなく「マダム」は神ではありませんでした。
「マダム」と同居するかつての「保護官」が醜悪な世界の仕組みを語ります。
威風堂々としていた彼女は衰え、車椅子で現れる。
理想は潰え、借金まみれで、口をつくのは自己弁護、後悔、呪詛ばかり。
「彼ら」の生命を弄び、都合のいい仕組みを作り上げた社会。
それに加担(しかも善意!で)しておきながら、
自らも病み、死すべき運命から逃れられない愚かな「我々」。
いったい彼らと我々のどこが違うのか……。
そこでやっと思い至りました。
「彼ら」などそもそもいない。
これは「設定」ではなく、「我々」が生きている、この世界そのもの。
まもなく最初の提供を控え、
荒涼とした約束の地で、
有刺鉄線にひっかかったビニールの切れ端を眺めているキャス。
それはこの世界に放り出され、
幼い頃には楽園のように思われた世界が、
地獄であることを知り、
人生に意味などないと、うすうす知りながら、
不公平で醜悪な社会を受け入れながら生きている、
我々自身の姿と寸分の違いもありません。
さらに秀逸なのは、この作品がキャスの一人称で語られることです。
ちょっとエキセントリックだけど聡明で優しいトミー。
わがままで自己中心的だけれど、いつも側にいてくれるルース。
自分は、やや距離を置いて冷静に二人を眺め、
ルースを受け入れながら、一途にトミーを大切に思っている。
トミーもそんな自分を心の底では思ってくれている。
……とキャス自身が考えているに過ぎない。
最初の違和感は、語ることの大半がルースについてであること。
ルースがどうした、こうした。
いかにルースがわがままか、いかにルースが見えっ張りか、
いかにルースが愚かで、世界のことをこれっぽっちも理解していないか。
そう言った後で「でもルースは気遣ってくれる」などと付け加える。
キャスはとても不誠実な語り手です。
キャスはトミーと結ばれるべき運命だと思っていますが、
実際にトミーと付き合っているのはルース。
二人が付き合うに至る過程は一切語られません。
ルースのトミーへの愛情がうわべだけのものであるかをしつこく語った後、
ルースに指摘された自分の性体験をしぶしぶ付け加えます。
語りが前後し、エピソードの挿入が多いのも効果的です。
キャスの言葉は、ほぼ言い訳に聞こえます。
事実関係だけ見ると、ルースとトミーは、
子供の頃から青年期までずっとステディな関係。
トミーとキャスはルースが亡くなるまで性的関係はない。
むしろキャスの方が行きずり含め、結構おさかん。
それについてはキャスはほとんど触れません。
ルースは自分の死を目前にして言います。
「私はあなたとトミーの仲をさいた」
キャスその謝罪を受け入れます。
でもそれは本当に謝罪だったのでしょうか。
うがった見方ですが、
私にはルースの方が他人を思いやり、
人生をまっとうに生きている、
いい娘であるようにしか思えません。
キャスはトミーのこともあまり触れません。
特に内面についてはほとんど語りません。
自分の目に映った美化されたトミー像と、
奇跡のような偶然をとうとうと語るだけです。
キャスは本当にトミーを愛していたんでしょうか。
ルースへの対抗心だけだったのではないでしょうか。
そんな疑問さえ芽生えます。
最後にキャスはトミーにも別れを告げられます。
キャスはそれをトミーの思いやりとして折り合いを付けますが、
トミーは重要なことを二つ言います。
「自分とルースは理解し合っていた。君にはわからないこともある」
「介護人って意味あるのか?」
トミーが見ている世界が垣間見える、数少ない場面です。
キャスの現在の支えは自分が優秀な介護人であることです。
それを自分の一番の理解者であるはずのトミーに否定されます。
私はキャスという歪んだ鏡を抗いもせずに受け入れ、
キャスの目を通して世界を見ていました。
荒れ地で風に吹かれて立っているキャスの姿。
世界には何もない。
もうどこへも行けない。
それはもはや「我々」でさえもありません。
歪んだ鏡に映し出された自分自身の姿に他ならない。
そう思い知らされました。
圧倒的な読書体験でした。 - Reviewed in Japan on June 1, 2020この作品は一言で言えば高度なバイオテクノロジーが発達した近未来の物語で、ハードSFとして描くことも可能と思えます。
しかしイシグロ氏は、そうしたテクノロジーも、異様な世界を支える政治もほとんど全く語りません。
十代の少女達の日常が延々と語られ、大きな事件もなく、やがて大人になった彼女達は、このディストピアに運命づけられたエンディングを淡々と迎えます。
なので、これを青春小説として楽しめる方は別ですが、そうでない方は読み通すのにかなり忍耐力を要するかも知れません。
それでも頑張って読み通せば、活き活きと描かれた彼女達の生き様に涙することは出来ますが、そうした表層だけで済ますことが不可能な、語られなかったことの不気味さやグロテスクさが際立ちます。
第一に、この世界を支配し異様なシステムを享受する人々が全く語られません。
第二に、登場人物たちは異様なシステムを当たり前に受け入れ、疑問も持たず、反抗もせず、悲嘆に暮れることもなく、淡々と運命を受け入れます。
ただ、かって彼女達を厳しく教育しながら見守り、この世界のシステムと闘って挫折した教師達だけが、彼女達の運命を悲しむのみです。
深く心に残る作品なのは間違いないですが、読後感を考えると覚悟を持って読まないといけない作品だと思います。 - Reviewed in Japan on February 12, 2018主人公キャシーによって、なんでもない学校の日常が淡々と語られていく。ただそれだけで「起伏が無いなあ」と思っていたら突然出てくる「提供者」「ポシブル」という耳慣れない言葉。気になりながらも、なかなか全体像が現れて来ず、ようやく最終章で、ヘールシャムの生徒たちは臓器を提供するためのクローン人間であることが(そうだと明示されてはいないけど)理解できる。
途中、じれったく思いながら読み進めたが、この物語は主人公がヘールシャムの出身者で語られ、最後の最後まで全体像を語らないことに意味があるのだ、と感想を抱いた。ヘールシャムの生徒達は結局は臓器を提供する提供者であり、結婚をして家庭を持ったり、提供者・介護者以外の仕事に就くといったことはない。生まれた時から可能性は閉ざされており、だからこそキャシーはその事実を嘆くこともない。そしてヘールシャムの教師たちは、時に生徒たちに向き合うことができず去っていく。こう書くと閉塞感しか見えないが、作中の登場人物は感情豊かに活動し、笑い、怒り、悲しむ。将来は提供者しかないが、その運命も彼らにとっては人生の一部で、いたずらに嘆かないといけないものではない。
もしクローンができて、作中の提供者というシステムができたらどうなるのか、という思考実験にも見える。しかし私は、この物語は現在進行形で起こっていると考えている。例えば、チョコレートを食べるためにはカカオが必要だけど、そのカカオは児童労働によって栽培・収穫されていること、携帯電話を作るために、アフリカで紛争が起きていること。
作中には提供を受ける人々がどんな様子なのか、どんな考えを持っているのかは書かれていないが、今、私達がチョコレートを食べて携帯電話を利用しながら、児童労働や紛争についてどれくらい意識的か考えると、だいたい想像はついてしまう。問題意識を持っている人は居るけど、大半は意識をしていない。意識しないで済むような仕組みが構築されてしまっている。
本書は2回読むことを勧める。全てがわかった後で見えるキャシーの語り口は、何かどうしても悲しいものを感じてしまい、1回目と同様に読めなかった。 - Reviewed in Japan on October 9, 2017村上春樹は読めない私でも、カズオ・イシグロは読める。
この人の作品は、文学でありながら「物語」として誰でも楽しめる。
深いところまで到達できるか否かは人によるだろうけれど、お話としては読む者を拒まない。
この『私を離さないで』も、作品のアウトライン的にはホラーのようでもあり、ミステリーのようでもあり、ファンタジーのようでもあり、社会風刺を込めた寓話のようでもある。
SFではよくある人間牧場モノだが、ケレン味あふれる設定そのものにはそれほどの意味はない(作者自身の「こーゆーの書いてみたかったんだよね感」は否めないものの)。ここまでの装置が必要だった理由はただひとつ、それだけ濃密に一人の人間の記憶の旅を描き出したかったからだろう。
臓器移植用のクローンとして誕生し、親はなく、外界の人々には疎まれ、未来を望むことも許されない。絶望と閉塞、無力感にまみれた状況のなか、ヒロインは内省的な旅を淡々と続ける。物心ついてから現在に至るまでの記憶を思い返すことだけが、あたかもヒロインにとってのただひとつの救いであるかのように。
「わたしを離さないで」というタイトルも、この作品が記憶を核にした話だと気づいた瞬間に、ストンと落ちてくる。
この物語は確かに極端な設定であるけれども、その極端な世界に生かされているヒロインの回想する過去の体験そのものは、至ってありきたりの出来事ばかりだ。スクールカーストめいたいじめとか、気になる男子とか、親友とのいざこざとか。そのために、極端な世界に生きているはずのヒロインには確固たる普遍性が与えられ、共感できる存在となっている。
(もっとも、ヒロインやその友人たちがフリーセックスに耽るくだりには、共感というより嫌悪感と哀れを禁じ得ないが…)
ごく普通の人生でもはた目に悲惨な人生であっても、どんな状況に生きようと、人を救うものは根本的に不変なのだ。
アブノーマルな設定には、そうしたテーマを検証するための、逆説的な意味での必然性があったのだろう。そう考えるとこの作品は、ある種の思考実験として書かれたのかもしれない。
運命を受け入れるその心情の底には、何があるのだろう。
人が何かをよすがとして生きていくことの意味とはなんだろう。
作者はその答えを、ヒロインの独白を通じて繰り返し提示している。
他の方が「後遺症」という言葉で本作を評していたが、言い得て妙だと思う。
読後に深い後遺症を残す、いい作品だった。 - Reviewed in Japan on January 4, 2013『私を離さないで(Never Let Me Go)』という題名の意味は、この物語世界の奥に、何層にもなって積み重なっている。
その言葉の最も直接的な意味は、第六章でキャシー自身が明らかにしている。
これは少女時代のキャシーが大好きだった曲の題名で、本来は恋人との別れを悲しむ歌のようだが、これを彼女は「死ぬほど赤ちゃんが欲しいのに産めないと言われていた女性が、あるとき奇蹟的に授かった赤ちゃんを抱き締め、なぜか別離の不安にさいなまれて、『ベイビー、私を離さないで』と歌っている」と解釈していた。そしてその想像上の情景に強く惹きつけられて、この曲を秘かに繰り返し聴いていたのである。
ここで、この題名の翻訳が少し問題になってくる。母親が自分の赤ん坊との別離を怖れるあまり、「私を離さないで」と、(本来は自分が保護すべき)赤ん坊に向かって哀願をするというのは、やや不自然である。この不自然さの由来は、"Never Let Me Go"とは本来は「私を行かせないで」という意味なのに、「離さないで」と訳したところにある。私が「行く」にしても相手が「離す」にしても、結果は同じ別離であるし、『私を行かせないで』では、本の題名としてはいかにもぎこちないから、この翻訳自体は無理もないと言える。しかし、この言葉の意味を考える際には、やはり「私を行かせないで」という原義に従っておく必要がある。
そうすると、母親が自分の赤ん坊を抱いて「私を行かせないで」とその懇願を向ける先は、このいたいけない赤ん坊ではなくて、なぜかそのような悲しい別離を強いようとしている何らかの「事情」に対して向けられているのだと、明らかになる。
それではなぜ、キャシーはこの歌を何度も聴かずにおれないのか。
それは表面的には、自分が「提供者」として生まれ、子供を産めない身体だということがわかっているので、知らず知らずのうちにこの母親に感情移入をするようになったからだろう。
しかしもう少し考えると、実はキャシーがより深く同一化しているのは、母親ではなくて赤ん坊の方であることがわかる。「提供者」であるキャシーは、物心ついた時から母親の顔も知らず、孤独な運命のもとに生まれてきた。なぜ自分の母親は、自分を置いて「行ってしまった」のか。その時母親はどんな表情で、何を思っていたのか。母親は、一度でも私を抱き締めてくれたのか。
そのような、自分の誕生にまつわる永遠の謎を、この歌は一つの「誕生の神話」として満たしてくれる。はるか昔に私にも優しい母親がいて、私との別れを悲しんで私を抱き締め、歌ってくれたのではないか、と。
このようにして、『私を離さないで』という題名の最も直接的な意味は、キャシーたちがその出生から運命的に抱えている孤独と、架空の母親を恋い慕う気持ちにある。
物語中で、ヘールシャムの子供たちが自分の「親」を話題にするところは皆無であり、それは自分たちに「親」など存在しないということを、いつしか知らされていたからだろう。しかしいくら情報として知っていても、どの子供も内奥には埋めようのない深い孤独感を抱えていたはずであるが、ヘールシャムにおいてそれが直接的に表現されることはない。コテージに移ってから、「ポシブル探し」という形に姿を変えて、一度実行に移されただけである。
このようなところからも、ヘールシャムの子供たちがいかに自分の感情を厳しく抑制するように育てられてきたかということが、うかがい知れる。
その後のキャシーには、言葉には出さずとも、その心の中にはおそらく「私を行かせないで(Never Let Me Go)」という思いを強く抱えながらそこから立ち去ったであろう場面が、少なくとも二つある。
一つの場面は、コテージでの生活の最後の頃に、トミー、ルースとの間での行き違いが続き、キャシーがついにコテージを出る決心をして、「介護人」となる道に踏み出すところだ。
モラトリアムは、遅かれ早かれ終わる定めにあった。しかし3人にとって不幸な形で終わらざるをえなかったのは、まだ若い3人はそれぞれの前に迫る運命の重圧を受けとめるのに精一杯で、お互い相手のことまで考える余裕がなかったからである。
もう一つの場面は最終章で、トミーの最後の提供を目前に、二人の間には感情の行き違いが増え、トミーから介護人の変更希望を告げられた後のことだ。「ルースならわかってくれたろう」とトミーに言われた時、キャシーは「聞いたとたん、わたしは背を向けて、立ち去りました」。
クローンとして生まれた者同士が、ある時期までは「介護人」として「提供者」のケアをし、その後に役割を代えて「提供者」となっていくという、この物語で採用されているシステムは、とてもよく考えられている。そこでは、他の「一般人」とは異なった運命を共有する者だからこそわかりあえる一体感が、一種の「自助グループ」のように、ピア・カウンセリングのように、作用するだろう。
もちろん背後には、「一般人」がわざわざそのような存在に対してケアを提供する必要などないという差別や、あるいは実際に「一般人」が関わってしまうとそこに感情移入が起こってしまい、このようなクローンによる臓器提供システムそのものへの懐疑が生まれかねないということで、引き離しの必要性もあるのだろうが。
しかし、物語の最終盤では、このような同じ運命を生きる者同士の当事者性にも、一方が死を前にした時に、亀裂が入ってくる。作者には、あくまでトミーの最期までキャシーを介護人でいさせるという選択肢もあっただろうが、結局キャシーはトミーから離れて「行かされて」しまった。「人間は、生まれるのも一人、死ぬのも一人」という、埋めようのない孤独感が、よりきわだつラストとも言える。
全篇を通じて印象深いのは、ヘールシャムの子供たちが自分の運命を黙って受け入れ、それに伴う様々な意見や感情を表出することは一種のタブーとして、厳しく抑制していることである。しかも、規律正しく道徳的なヘールシャムの雰囲気にもかかわらず、宗教的なモチーフは慎重に排除されている。「人間ではない」存在である彼らは、神の救済からも見放されているということだろうか。
物語が閉じた後、キャシーは「提供者」となり、間もなく「使命」を終えることになる。もしも最後に、「私を行かせないで」という言葉をそこに配置すれば、これは物語中では表明されなかった、クローンによる臓器提供システムそのものへの抗議ということになるが、作者の意図はどうだったのだろうか。 - Reviewed in Japan on August 3, 2023映画を見てから原作を読んだ、どちらも秀作。3 people found this helpful
==
From Japan
- Reviewed in Japan on November 10, 2023ノーベル賞受賞とのことでしたが、個人的にはイマイチハマらず読了しました。
- Reviewed in Japan on January 6, 2019決まってしまっている人生を、生きる物語でした。
決まっているけれど、途中をどう生きるかは、その人次第で、状況は臓器移植を使命にする内容だけれど、普遍的に感じました。
また、社会人になる前までの過ごし方が、幸福感に包まれた、暖かいものであるのは、理想的だとも思いました。
自分の子供に対する接し方に影響しました。保護者にできることは、そういうことなのかと腑に落ちる所もありました。
タイトルについては、直訳すると、それは無理なことなのだというような無常観も伴って、胸が締め付けられるような気持ちになりました。
生まれたら、死ぬのだし、行くしか、離れるしかないのがこの世の定めというような。 - Reviewed in Japan on April 21, 2021内容については、数年前に放送されたテレビドラマを見ていたので先に知っていました。ドラマを見ずにこの本を読んだとしたら、最後の最後まで、真実は何なのか?何が隠されているのか?わからずに混乱したのではないかと思います。自分が何の物語を読んでいるのか、わからなくなるようなところがあると思います。肝心の単語がはっきりと出てきたのは本当に数ページの部分。うーん、なかなかすごい小説です。個人的には「日の名残り」の方が好きです。
- Reviewed in Japan on April 23, 2021ほぼ先入観無しで取り組んだ初めてのカズオ・イシグロ
なぜ、彼らは身体の一部をヒトに提供するものとしての立場をそのまま受け入れることができるのだろう
なぜ、自分の寿命が他者に握られていることを受け入れているのだろう
なぜ、自分が臓器提供を目的に作られた存在であり、かつ自我があり考える人間であることに違和感を持たず、そのまま受け入れているのだろう
なぜ、世の中が自分たちを理解していないことを受け入れているのだろう
大切な人は大切
SEXすることは自然
大切な人ともいずれ別れることは必然
自分は若きまま死ぬことは必然
人間として育てることが人間的な行為だという信念で人間として育てるいわゆる人間たち
食べらるために生まれた動物をより平穏な時を過ごせるようにし、いのちを食べていることを認識し感謝して食べる。
その行為と変わらないのではないか。
社会的弱者の上で世界はできていることをふつうのひとは知らない、むしろそこから目を背けたいし、知らなくてすむなら知りたくない
自分が作者の意図することを理解できているとは思えない
が、
生を受けた理由をありのまま受け入れ、社会のために死んでいき、それをして使命を終えると表現する。
キャスの淡々とした告白と細かい描写、幼少時代のエピソード、タカラモノ、その宿命、
良かれと思い活動したそれでもあくまでも人間目線のエミリーとマダム、
最後においても
あなたの人生は、決められた通りに終わることになります。と伝える人間
先生にとってはそれだけのことかもしれません。でも、そこに生まれたわたしたちには人生の全部です。とキャス
どうしようもない気持ちを空き地でぶちまけぶつけて暴れるトミー
一方で人生をそろそろ振り返る時期にさしかかっている自分
日本人であること
女性であること
娘であること
妻であること
必ずしも当初目指した仕事ではなかったこと
夢中で30年働いたこと、あっという間だったこと
そんなこんなを納得し、満足しようとしていること
自分の価値観を揺さぶられる、わかっていたつもりでわかっていないことを突きつけられる。
この作品を知ってしまった今はしばらく揺らいでいようと思います。 - Reviewed in Japan on August 17, 2018クローン人間の悲劇、科学がもたらす悲劇として読めば、それだけで終わってしまうだろう。
しかし、この本から、宗教差別、外国人差別、人種差別、格差がもたらす差別などを連想しないではいられない。外見上は同じ人間だが、どこかで線引きされて、区別され、物として扱われる。クローン人間は、人間であって人間ではない。奴隷のように物だと考えれば、人権が入り込む余地がない。物であればいつでも殺傷可能だ。家畜のように。
生れた瞬間に他の人間から区別、差別されることは世界中に存在する。
クローン人間に対する臓器「提供」の通知は招集令状を連想させる。戦地でいずれは死ぬが、いつ死ぬかはわからない。4度目の提供の通知の「名誉」を周囲の者が祝福する場面は残酷である。
胎児性水俣病患者として生まれれば、いずれは死ぬ可能性があるが、死は5年後か、20年後かはわからない。その間、精いっぱい人間的な生活をしたいと考えるのは人間だからだ。それはクローン人間も同じ。この本では、クローン人間としての「使命」を終えるまでの間、精一杯人間的な生活をする人たちの情景が詳細に描かれている。牛は、肉牛としての「使命」を終えるまでの間、精一杯、動物としての生命をまっとうしようとする。それに似ているといえば、残酷だろうか。
戦争では、敵国の兵士や敵国の市民は人間扱いされない。それが原爆投下やジェノサイドをもたらした。クローン人間も物であって人間ではないのだろう。
自爆テロをすべき特攻隊員として生まれた人は、将来の死までの間、人間として育てられることが人間的な配慮といえるのか。
イギリスでも日本でも生まれた瞬間に格差が生じ、人間の運命が定まる点はクローン人間と同じである。格差がもたらす運命が現実化するまでの猶予期間が学校である。温室のような学校生活では格差社会の現実が隠蔽されやすい。格差によって社会的多数者が恩恵を受けるが、不遇な少数者が社会に敵意を持ち、「誰でもよいから殺したかった」という犯罪が起きる。その被害者も社会的少数者であり、そのような事件があっても多数派は平和を安全を享受できる。クローン人間の蜂起が起きないのが不思議だが、従順に育てられた結果なのだろう。殺処分場で従順に自分の死を待つ捨て犬を連想してしまった。「使命」を終えた犬(イギリスでは野犬を保護し、殺処分はしていないそうだが)とクローン人間は、むろん違うはずだが、そのように断言できるだろうか。使い捨てられる人たちは必ず存在する。
発展途上国の犠牲の上に先進国の繁栄がある。水俣病患者の犠牲のうえに日本の経済発展があった。福島原発の被害者の犠牲のうえに東京都民は好きなだけ電力を使用できる。
人間とクローン人間の差別は世界中に存在する差別のひとつであり、その象徴なのだろう。そこでは社会的多数者の利益のために少数者の人権や利益を侵害することが正当化される。クローン人間を見て見ぬふりをすれば、クローン人間から臓器提供を受ける社会的多数者は幸福な気持ちでいることができる。しかし、社会的多数者がひとたび現実を直視すれば、自らの残酷性に平穏な気持ちではいられない。この本はそのような不安感を掻き立てる。この本は人間の自己中心性を考えさせる。 - Reviewed in Japan on December 19, 2020三浦春馬さんが演じた事で、ドラマからみました。それで、とても感動して是非原作も読みたいと思い購入しました。個人的にはドラマの方が、とても解りやすく入りこめました。儚いからこそ美しいと。目的はなんであろうと、命は命なのです。
- Reviewed in Japan on March 7, 2023前半は情報が少な過ぎだと思う。後半から終局に至る流れは圧倒的な出来。情報を出すタイミング、その順序、アイデアの豊富さ、全てが優れた傑作。期待を上回る面白さだった。
- Reviewed in Japan on January 9, 2023丁寧な心理描写が見事。気まずさの描出がピカイチ。厳然と目の前に横たわる得体の知れない現実が明らかになる程、登場人物たちの実存感が際立つ。いやー本当に読んで良かった。
- Reviewed in Japan on June 23, 2015SF的設定を借り、ミステリ風の趣向を利用しながら、「苛酷な運命を決められてしまった人々」の心の襞を静謐に描き切った秀作。ヒロインはヘールシャムという施設で教育を受けたキャシーと言う介護人。物語はキャシーの回想の形式を採った一人称で語られる。
その回想の中心はヘールシャムという施設であり、特に、ルースという女友達、トミーという男友達との愛憎の描写が根幹となっている。次第に明かされる謎を除けば、良くある少女時代への回想と読者に想わせる構想が秀逸である。その「謎」については書けないのだが、衝撃的な設定でありながら、それを飽くまで透明感を持って語る手腕がこれまた秀逸。最終的に、キャシーは介護人としてルースとトミーを看取る事になるのだが、「Never Let Me Go」という原題の悲痛な叫びが胸に突き刺さる。本作は「愛と孤独」の物語でもあるのだ。
上でSF的設定と書いたが、ヘールシャムという施設は不治の難病患者を抱えた病院であっても良いし、ナチの強制収容所であっても良いという普遍性を持っている。回想中でノーフォークを「遺失物保管所」と喩えている辺りは、作者は認知症患者を意識しているとも考えられる。重いテーマでありながら、独特の透明感と静謐かつ緻密な筆致で読者を魅了する秀作だと思った。 - Reviewed in Japan on November 29, 2019読み進めるたびに、内容に少しずつ、また少しずつ引き込まれていくようでした。後半にわかる主人公たちの設定もとても意外でした。
==
From Japan
- Reviewed in Japan on May 4, 2019登場人物たちの背負っている運命について、前半からじわじわと悟らされてはいくものの、それが一気に現実となっていく後半はやはり辛い。
フィクショナルな設定の中で、クローンに限らず私たち人間の誰もが免れ得ない終末への道程を、現実以上の切実な別れの実感をもって登場人物たちと共にする。
大げさな悲劇として盛り上げず淡々と描かれているために、読み手それぞれの思いや感情の入り込む余地があり、どの年代で読んでもその時々の余韻を残す作品だと思う。 - Reviewed in Japan on October 28, 2019最初から最後まで、誰ひとりとして決められた運命から逃げようとしない。それがとてつもなく悲しい。
- Reviewed in Japan on January 13, 2018初めてイシグロ作品を読んだ。徐々に明かされる登場人物たちの運命や人間関係に引き込まれて読み終えた。最後の部分は抑制の効いた表現であるだけに余計悲しく、読み終えた時は語り手の心情に同化し、暫し放心した。余韻の残るエンディングだ。
少し冗長に感じた部分は、キャシーとルースの日常の諍いが繰り返し描かれた部分で、又かとややうんざりした。終末への伏線であることは理解できるのだが。
科学の進歩が今後我々に何をもたらすか、ディストピアかユートピアか、考えさせられた。
次は短編集を読んでイシグロをもっと知ろうと思っている。 - Reviewed in Japan on July 12, 2022取るに足りないような相手の言動によってもたらされる心のざわめきの描写が秀逸で共感しました。
全体的には感情的で大袈裟な表現がないのに、心が揺すぶられる内容でした。 - Reviewed in Japan on February 23, 2022最初から最後まで、主人公の穏やかな語り口調で語られる思い出話。喪失感に満たされた結末があるだけに、どこか色褪せて湿気を含んだ冷たさがある。
キャシーは優秀な‘介護人’としての使命を終え、‘提供者’となる。彼女はそれまでの自分の半生を振り返る。自分が育った施設、そこから社会に出るまでの待機所、介護人としての社会生活。そして同じ施設で時を共にした忘れられない2人の親友。
語られた内容やその時感じた気持ちは実に克明に語られ、物語全てが彼女の走馬灯が流れていくように思えてならない。
彼女から見た物語の登場人物は、誰もが心に不安を抱え、くすんだ言葉を投げかける。もちろん彼女自身も多分に漏れない。
ロードムービーの様に淡々と進む物語に澱のように重なってゆく哀しみ。彼女の気持ちは晴れる事なく、夕闇の空に霞んでいく。
そんな物語でした。 - Reviewed in Japan on September 9, 2022独自の世界観を持つ小説であり、考えさせられる部分も持ちあわせている。とても面白かった。
- Reviewed in Japan on July 1, 2018全体的にモヤモヤとして薄曇りの町をあてどなく歩いているような不安感を感じさせるストーリー。
最後にすべてが明らかになったとき、何とも言えない重い気持ちになる。
フィクションではあるけれど、でもこれは近い将来これに似た状況が世界のどこかで生まれるのではないか、
それを予め予測し、今から本当にそれでいいのか考えようという呼びかける本なのかなという気がした。 - Reviewed in Japan on July 5, 2021知人の推薦がきっかけで、事前知識ゼロで読み始めたが、読むほどに先を読みたくなる衝動に駆られた。
冒頭から「へールシャム(施設・寮)」「保護官」「提供者」「使命」「介護人」「回復センター」といった言葉が特段の説明なく登場するため、読者は薄々「こういうことではないだろうか」と推理しながら読み進めることになる。まず本作では、こうしたキーワードの配置が実に巧みだ。
そして語り手であるキャシーとその友人たち(ルース、トム)や、保護官たちを中心とした人間模様が淡々と語られていくわけだが、特に友人たちとのへールシャムやコテージでの日常は、あまりにも平凡であり、誰もが経験するような心模様が描かれる。唯一の違いは、彼らの生活が「施設」という柵の中だということ。後半では行動範囲が広がるものの、目に見えない柵からは決して出られない。(このことがラストに深い余韻をもたらしている)
彼らがどういう存在であり、主人公たちにやがてどんな運命が待ち受けているかは、意外に早い段階で示唆されるが、彼らの個性や感受性、創造性には「普通の人間となんら変わりない」ことが、本作の底流に流れる水脈であると思える。
誰もがもっている青春時代のほろ苦い記憶。もっとこうすれば良かったとか、誰かに対してもっと素直になるべきだったとか、誰にも打ち明けられない秘密だとか…
本作では、こうした悩める青少年期の心の動きの描写が冴えわたっており、これに、保護官たちの謎めいた行動や戸惑いがブレンドされながら、物語は淡々と進んでいく。
その一方で、施設外の人々や社会状況については、極端なほど削ぎ落されている。これはこの小説が「彼らから見た世界のすべて」を語った小説だからであろう。
そして、語り手が主人公・キャシー自身であるため、多くの読者は希望的な結末を予想(あるいは期待)しつつ読み進めるわけだが、作者は決して安易な結末を用意していない。
にもかかわらず、読後は決して暗鬱な気持ちのみになるわけでもない。
柵の中の限られた人生であったとしても、よく生き、傷つき、愛した彼らは、不幸で憐れむべき人生だったのか…
柵の外で寿命を全うできる読者である自分はどうなのか…
容易には答えられない問いを、最後に突きつけられたような気がした。
いずれにせよ、本作はカズオ・イシグロという非凡なる作家による、平凡な語り口のなかに深い余韻をたたえた非凡な物語だと評価したい。 - Reviewed in Japan on October 27, 2017文学賞受賞直後でこの本を見つけられませんでしたので、中古にて手に入れました。(とてもきれいな状態でした)
最初は原作の方を読み始めてみたのですが、すぐには内容を理解しづらく感じた為テレビドラマの方をhuluで先に全てを視聴した後こちらを読み進めていくととても理解が早かったです。(根本的に現実離れした設定がありますので)
初めて読む作家さんは映画やドラマにて映像化された作品を観た後に読み進めることが多く、映像よりも原作の方がとても楽しめることが大半でしたが、
こちらの原作はドラマでの日本を舞台としたものと原作の外国での舞台とではキャラクターの役名にギャップがありすぎて、原作とドラマとを繋ぎづらく感じました。でも、ストーリーの内容としてはドラマを先にご覧になられた方がとても理解しやすいと思います。 - Reviewed in Japan on July 14, 2019主人公キャシーの語りで物語は進んでいく。
キャシーはヘールシャムと呼ばれる施設で育ち、
今は提供者の介護人をしている、という。
提供者とは?
介護人とは?
徐々に謎は明らかにされていく。
やがて、ヘールシャムは人間のエゴによって
建てられた施設であることが分かる。
落ち着いた語り口で物語が進むので、
不気味さがどんどん増幅されていく。
運命を享受して終わるのか。
抗うのか。
共存共栄の道はあるのか。
全く別の道があるのか。
気になって、本書に夢中になった。
本書はクリエーターの多くに読まれる本だろう。
本書をベースに、いかようにも発展・展開させる
余地が残されている。
本書は平易な言葉で書かれており、分かりやすく、
そして何よりも深い。
本書は今後の多くの作品の原点となる、
古典と呼ばれるようになる作品だろう。
影響は小説のみならず、
演劇、アニメ、ドラマ、映画にとどまらず、
絵画、歌にまで及ぶだろう。
今後の作品を理解するために
必読の書だ。
==
From Japan
- Reviewed in Japan on June 18, 2021「私たち」と「私たち以外」を分ける不条理な線引きを、小さいころから無意識に受け入れている。
本当は無意識ではなく、知っているけど考えないことにしている、という方が合っているかもしれない。
スーパーに並んだ精肉を買って、ペットショップの犬猫をかわいがり、強制労働で生産された安い服を買う。
「私たち以外」のことを、いちいち考えていたら、穏やかには暮らせない。
この小説は、そういう不条理な線引きの残酷な事実を突き付けてくる。
最初から最後まで、抑揚のない、静かな日常の描写が続くが、
その中に不条理な線引きが紛れ込んでいて、徐々に世界の見方を規定してしまう。
「私たち以外」は「私たち」でもあるということを読者は最初から知っているのだが、
身勝手な線引きを疑う方法を知らない「わたしたち以外」が語る世界を、ただ眺めるしかない。
「私たち以外」のまわりには、不条理な線引きが張り巡らされていて、どこにも出口がない。
その中での友情や愛情、迷いや葛藤に思いを巡らせてみるが、最後の最後で、共感ができない。
あとがきに「細部まで抑制が利いていて、入念に構成されていて、かつ我々を仰天させてくれる、きわめて稀有な小説」(柴田元幸)とあるが、まさにそのとおりだ。
そして、混迷する科学技術倫理に、強烈な問題提起をしたという意味でも必読だと思う。 - Reviewed in Japan on September 17, 2020解説書には「妄想をふくらませて」書いた小説とあったが、
多分、イシグロカズオは知ってしまったのだと思う。
世の中には臓器提供のために産まされた子供たちがいることを。
臓器提供を受けたものたちの存在は子供たちからは見えない。
子供たちがどのような感情をもち、どのように日々を過ごしているかなど構わず
まるで虫かごの中の虫を見るように、子供たちの成長を見ているのだ。
つまり私たちの世界には、私たち人間を虫けら同然で上から見て
いかようにも料理している人間たちがいることをイシグロは
伝えたかったのではないだろうか
虫けらのような子供たちの愛は切なく哀しい - Reviewed in Japan on July 2, 2017カズオ・イシグロの作品を読んだのは本作が初めてです。
この作品についてですが、まず、このような臓器牧場を許容する外部社会についての説明がほとんどないこと。
次に提供者達が苦悩を持ちながらも抵抗せず反乱もおこさず従容として臓器摘出を受け死んでゆくこと。このふたつが納得できない。作者の言うように「静かにおのれの運命受け入れることの尊厳」は描写されているけれど、(描写力は素晴らしい)それならばなおさら、説得力を持たせるための設定が必要と思われます。「静かにおのれの運命受け入れる」態度は、本来西洋的美徳ではないでしょう。この作品が欧米で受け入れられたのは「クローン」や「臓器牧場」というガジェットを東洋哲学的に処理した新しさでしょうか。例えば「禅」にしても、きちんと理解してなくても西洋思想と異なると言うだけで礼賛する層がありますからね。
ところで、この作品自体は自分にとってそれほどインパクトは無かったのですが、作者のカズオ・イシグロ自体には俄然興味がわいてきました。この作品はやはり彼の生い立ち無くしては生まれなかったでしょう。日本をルーツに持ち、完全なイギリス的教養と文学スタイルを持ち、そして日本や東洋に憧憬を持つカズオ・イシグロ。2017年現在、ハンチントンが予言したように世界は文明の(価値観や宗教感の)衝突の様相を見せています。彼はこの世界に何を提示することができるのか。独自の世界を拓く救世主(?W)足りうるのか。それともただのめそめそしたインチキリベラル野郎なのか。とりあえず他の作品を読み、また今後も注視していきたいと思います。
再読しました。星1つ増やして4にします。再読でネタバレしてるのにより沁みた。多分この小説の舞台はイギリスそっくりの地名や人名が出て来るけど地球じゃなくてカズオ・イシグロワールドなんだろう。そこではこんなストーリーもなんか納得してしまう。
読後感が少しゴールズワージーの林檎の樹に似ていると感じた。 - Reviewed in Japan on November 9, 2017文体が柔らかいのでスムーズに読み進められるものの、細かな描写で描かれるキャシーの記憶ばかりで進んでいく。何だか本質に触れないまま伏線だけをインプットしていくようで空を掴むような妙なまどろっこしさがあったかな。
とはいえ、特殊な環境下で育つキャシー達生徒の世界がその独自の価値観、世界観も含めきっちりと構成されていて、現実には無い世界でありながら景色の色彩や匂いまで感じさせる。リアル。
不条理さを訴えずに不条理さを痛感させるというか、穏やかながら効果のあるアプローチ。
例えば提供者の死は死亡とは言わず使命を終えたとし、ルースやトミーが提供したのがどの臓器なのか、具体的にどのような状態なのかは触れていない。血生臭さが描かれていない分、読み手は染み込むような物悲しさだけを感じとっていく。声高に訴えるより強いテーマの表明と言える。沈黙は金なりですね。 - Reviewed in Japan on December 27, 2018昔にドラマでもやっていたようですね。知らずに読みました。風景や一人一人の個性を想像しながらじっくり読まれることをオススメします。
- Reviewed in Japan on April 2, 2018いつ書かれた作品かは、確かめなかったが、
作者の、この発想(clone・臓器移植)に、驚いた。良くこういう事を発想出来るものだ!!
時間を置いて、また読んで観たい。 - Reviewed in Japan on April 13, 2018綾瀬はるか主演のドラマを見て、原作を読みました。
原作も面白いですが、ドラマのほうが良かったですね。 - Reviewed in Japan on December 18, 2017原書でも読みました。
原書の読解に役立ちました。
宿命を考えるとき、苛立ちと突破できないか哀れを感じます。
面白い小説だと思う。 - Reviewed in Japan on July 11, 2022この物語において展開されるのは、個人のアイデンティティーをめぐる冒険の数々。とりわけ、社会規範が求める行動規範と、個人としての欲求の対立や葛藤が鮮明に描かれている。小説に登場するクローンたちは、どれも自らの使命に諦観しているが、心のどこかでそうした定めに抗いたい欲求を秘めている。事務職というごく平凡な仕事に就きたいと願うルースや、ささやかな幸福を願うキャシーとトミーも然り。しかし、現実として彼らに課せられている定めとは、介護士になるか、ドナーの提供者になるだけ。人間としての本質的な喜びを奪われた彼らは、人間らしさを保とうとする。「わたしを離さないで」というカセットテープは、そうした人間らしい愛情のシンボルであろう。人生は生きるに値するさまざまな喜びで満ち溢れているのである。
- Reviewed in Japan on March 4, 2018臓器移植のためのクローン人間として誕生した子供たちが、施設で集団生活をしながら成人し、やがて役目を担って死を迎える。
そこにミステリーや事件があるわけではなく、むしろ心情が淡々と描かれていてかえって怖い。人間が科学の進歩によって恐ろしいことを平気で行うのはいまに始まったことではないし、劇画の世界にあったことが現実になる日も近いのかもしれない。
==
==
==
==
==
==
==
==