2016/10/10

新渡戸稲造脚注

新渡戸稲造脚注



新渡戸稲造『武士道』について【脚注】
(1) 本論稿は、科学研究費「基礎研究」「価値語の様態とその構造」(研究代表者野崎守英)の第3回共同研究集会(2001・9・28。於自治医科大学)で行われた発表に基づき、これを改稿したものである。佐藤全弘訳『武士道BUSHIDO The Soul of Japan 日本のこころ 日本思想の解明』(2000年教文館)――以下、佐藤2000と略記する――に主として従い、英語原文としては佐藤氏の訳書がこれによった全集版第12巻(1969年教文館)を参照する。
(2) 佐藤2000、26頁注1。
(3) "That way
Over the mountain, which who stands upon
Is apt to doubt if it be indeed a road;
While if he views it from the waste itself,
Up goes the line there, plain from base to brow,
Not vague, mistakable! What's a break or two
Seen from the unbroken deserts either side ?
And then (to bring in fresh philosophy)
What if the breaks themselves should prove at last
The most consummate of contrivances
To train a man's eye, teach him what is faith ?"
Robert Browning,
Bishop Blougram's Apology.
(4) "There are, if I may so say, three powerful spirits, which have, from time to time, moved on the face of the waters, and given a predominant impulse to the moral sentiments and energies of mankind. These are the spirits of liberty, of religion, and of honor."
Hallam,
Europe during the Middle Ages.
(5) "Chivalry is itself the poetry of life."
Schlegel,
Philosophy ol History.
(6) ペンシルベニア州の古都、アメリカ独立宣言の街フィラデルフィアの中心にある市庁舎の塔の上にはこの町の設立者であるWilliam Pennの像が建っている。Williamの父はイギリス海軍の提督であった。その功績に報いるため当時の英国国王Charles IIはQuaker教徒となったWilliamにペンシルベニア州全土を毎年ビーバーの毛皮2枚と発見された金銀鉱の5分の1を王に捧げるという条件で与えた(1681年)といわれている。
(7) Friedrich Schlegelの最後期の著作(1828年、56才の時)であり、そのカトリックへの改宗(1808年)後、メッテルニヒ体制のもとにあったウィーンで行った最晩年の講義(翌1829年死去)にもとづくこの著作に新渡戸がどのような態度で関わっていたのかはわたしには謎である。しかも英訳で400頁を越える浩瀚なこの著作から新渡戸は上記の一行を見事に引き抜いているのである。
(8) おそらく、Hallamの中世史への関心も上述のイギリスの中世復興運動の一端だったのだろうと想像されるが、さしあたり、このHallamの書物を見ていないので、はっきりしたことが言えない。
(9) クラークが種をまいた札幌農学校に共に育ち、クラークの残した「イエスを信ずるものの誓約」に署名し、「福音主義教会の洗礼をうけ、一員となる」というその誓約に従ってメソディスト教会宣教師から共に函館で1878年に受洗した内村と新渡戸という二人の先覚者が、やがて踏む道を異にするとはいえ、渡米後ともにQuakerismの影響をうけ、教職制度を保つ正統の「福音主義教会」から離れていったのは興味深いことである。新渡戸のこの最初のキリスト教との出会いについては宮本信之介「若き新渡戸稲造の信仰」、小泉一郎「新渡戸博士とクェーカー主義」(ともに『新渡戸稲造研究』東京女子大学新渡戸稲造研究会著、春秋社、1969年に所収)、松隈俊子『新渡戸稲造』(みすず書房、1969年)に詳しい。
(10) これはまた戦前の旧制高校における「教養主義」を規定するものでもあっただろう。
(11) この詩は1855年(Browningは43才)にMen and Women という題で発刊された詩集の中に収められており、この詩集はBrowningの詩才を広く認めさせるものになったという。
(12) Cf. MEN AND WOMEN,BY ROBERT BROWNING, WITH INTRODUCTION AND NOTES BY KENJI ISHIDA AND RINSHIRO ISHIKAWA, KENKYUSHA, 1956, pp. 122-3.
(13) 「教育勅語」はこの儒教道徳の綱領を主調として構想されている。ほぼ同時代に成立し、その後の日本の教育システムの基本となったこの「教育勅語」の路線とはまったく無関係に新渡戸が日本の道徳性を構築して見せたのは新渡戸の非凡な点であり、そこに本書のすぐれた点がある。「五倫」「五常」という人倫を形成するなんらか実質的な綱領が「忠孝」という抽象的な国家主義的路線に溶解してしまうところに、儒教道徳の弱点があり、それが大日本帝国の悲劇を導くもととなったとも考えられるが、新渡戸は同時代の人でありながら、この路線からは自由であった。
(14) アリストテレスでは「正義(dikaisyne)論」は「公平(epieikeia)論」を含むものとして展開されている。そこから、「正義(dikaiosyne)」 と「親愛(philia )」が「市民の共同性(politike koinonia )」を作り出すものとなる。そこに「人間性(humanity)」の基盤が構成される。
(15) 神において、「正義」と「慈しみ」は一致するものとなる。
(16) Cf.Thomas Aquinas, Summa Theologiae, I,II. quaestio 55 art. 4 ad quartum.
(17) ここで引用されている『孟子』告子篇の後段(164)で、孟子の説く仁義はこのような身分関係によって説明されている。
(18) この時期の新渡戸の揺れ動く心中をあらわす言動と、新渡戸を取り巻いていた内外の緊迫した情勢については、ジョージ・オシロ『新渡戸稲造 国際主義の開拓者』(中央大学出版部刊、1992年)199―245頁、第8章 晩年 1927―33(昭和2―8)に詳しい。