2023/07/19

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法華経

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白い蓮の花。蓮は、泥の中に生まれても、泥に染まらず、清浄な花を咲かせる[注 1]

法華経(ほけきょう、ほっけきょう、Saddharma-puṇḍarīka-sūtra[1])は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれている[2]聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した[注 2]。複数ある漢訳の中では鳩摩羅什によるものが特に普及しており[3]、その訳名は妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)である。

名称[編集]

法華経の梵語サンスクリット)の原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma-Puṇḍarīka-Sūtra)である。逐語訳は「正しい・法・白蓮・経」で、意味は「白蓮華のように最も優れた正しい教え」(植木雅俊訳)である。

「サッ」(sad)は「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)は「」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)は「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)は「たて糸:経」の意である。

この梵語書名を、

  • 竺法護は286 年に「正法華経」と漢訳した。
  • 鳩摩羅什は406 年に「妙法蓮華経」と漢訳した。
  • 岩本裕は「正しい教えの白蓮」と訳した(岩波文庫『法華経』および中央公論社版『法華経』)。
  • 植木雅俊は「白蓮華のように最も優れた正しい教え」と訳した。

漢訳では梵語の「白」だけが省略されて『正法華経』や『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」「蓮」が省略された表記が『法華経』である。『法華経』が『妙法蓮華経』の略称として用いられる場合が多い[注 3]

岩本訳と植木訳は、語順が逆となっている。この点について植木雅俊は、「プンダリーカ」が複合語の後半にきて前半の語を譬喩的に修飾する(持業釈)というサンスクリット文法に照らしても、欧米語の訳し方からしても、日本語訳は「白蓮のように最も優れた正しい教え」とすべきであること、鳩摩羅什は白蓮華が象徴する「最も勝れた」と「正しい」という意味を「妙」にこめて「妙法蓮華」と漢訳したことを、詳細に論じている[4][5]

漢訳[編集]

漢訳は、部分訳・異本を含めて16種が現在まで伝わっているが、完訳で残存するのは

  • 正法華経』10巻26品(竺法護訳、286年、大正蔵263)
  • 妙法蓮華経』8巻28品(鳩摩羅什訳、406年、大正蔵262)[6]
  • 添品妙法蓮華経』7巻27品(闍那崛多・達磨笈多共訳、601年、大正蔵264)

の3種で、漢訳三本と称されている。

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』方便品第二(十如是まで)

漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が「最も優れた翻訳」[注 4]として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。

内容[編集]

法華経の原本は紀元1世紀以降にインドで編纂されたという説が有力である(#成立年代)。当時は、特別な修行を経た出家者のみが救済されるという考えが部派仏教の主流を成していた。これに対し、法華経は、小乗大乗の対立を乗り越えつつ、全ての人間が一乗菩薩乗)を通じて平等に救済されるという仏教思想を強調した内容と理解される。初期仏教経典(阿含経)記載の仏陀の教えやエピソードとの差異については、聞き手のレベルにあわせた方便であったとした上で、より本質的なレベルでは、法華経の内容こそが、本来の仏陀の教えに立ち返るものであると説くとともに、地涌の菩薩たる仏教信者にとって弘通(布教)を重要な役割と位置づけ、直面するであろう法難(反対勢力からの弾圧)への心構えも説くなど、一切の衆生を救うために法華経の教えを広めていく観点を重視している点にも特色がある[7]。『維摩経』と配役が被っているところがあり、維摩経への批判という面があったとの指摘もある[8]

構成[編集]

迹門と本門[編集]

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は28品の章節で構成されている[注 5]。現在、日本で広く用いられている智顗(天台大師)の教説によると、前半14品を迹門(しゃくもん)、後半14品を本門(ほんもん)と分科する。迹門とは、出世した仏が衆生を化導するために本地より迹(あと)を垂れたとする部分であり、本門とは釈尊が菩提樹下ではなく五百塵点劫という久遠の昔にすでに仏と成っていたという本地を明かした部分である。迹門を水中に映る月とし、本門を天に浮かぶ月に譬えている。後世の天台宗法華宗一致派は両門を対等に重んじ、法華宗勝劣派は法華経の本門を特別に重んじ、本門を勝、迹門を劣とするなど相違はあるが、この教説を依用する宗派は多い。

また、三分(さんぶん)の観点から法華経を分類すると、大きく分けて(一経三段)、序品を序分、方便品から分別品の前半までを正宗分、分別品から勧発品までを流通分と分科する。また細かく分けると(二経六段)、前半の迹・本の二門にもそれぞれ序・正宗・流通の三分があるとする。

経本としても流通しているが、『妙法蓮華経』全体では分量が大きいこともあり、いくつかの品を抜粋した『妙法蓮華経要品』(ようほん)も刊行されている。

迹門[編集]

前半部を迹門(しゃくもん)と呼び、般若経で説かれる大乗を主題に、二乗作仏二乗成仏が可能であるということ)を説くが、二乗は衆生から供養を受ける生活に余裕のある立場であり、また裕福な菩薩が諸々の眷属を連れて仏の前の参詣する様子も経典に説かれており、説法を受けるそれぞれの立場が、仏を中心とした法華経そのものを荘厳に飾り立てる役割を担っている。

さらに提婆達多の未来成仏(悪人成仏)等、“一切の衆生が、いつかは必ず「」に成り得る”という平等主義の教えを当時の価値観なりに示し、経の正しさを証明する多宝如来が出現する宝塔出現、虚空会、二仏並座などの演出によってこれを強調している。また、見宝塔品には仏滅後に法華経を弘める事が大難事(六難九易)であること、勧持品には滅後末法に法華経を弘める者が迫害をされる姿が克明に説かれる等、仏滅後の法華経修行者の難事が説かれる。

本門[編集]

後半部を本門(ほんもん)と呼び、久遠実成(くおんじつじょう。釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である、という主張)の宣言が中心テーマとなる。これは、後に本仏論問題を惹起する。

本門ではすなわちここに至って仏とはもはや歴史上の釈迦一個人のことではない。ひとたび法華経に縁を結んだひとつの命は流転苦難を経ながらも、やがて信の道に入り、自己の無限の可能性を開いてゆく。その生のありかたそのものを指して仏であると説く。したがってその寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解される。そしてこの世(娑婆世界)は久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続けている場所である。それにより“一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る”という教えも、単なる理屈や理想ではなく、確かな保証を伴った事実であると説く。そして仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、一念信解・初随喜するだけでも大功徳を得ると説かれる。

説法の対象は、菩薩をはじめとするあらゆる境涯に渡る。また、末法愚人を導くとして上行菩薩を初めとする地涌の菩薩たちに対する末法弘教の付嘱、観世音菩薩等のはたらきによる法華経信仰者への守護と莫大な現世利益などを説く。

方便品第二と如来寿量品第十六[編集]

『法華経』といえども異質の矛盾した思想があちこちに混入しているため、伝統仏教の一部流派では、迹門の方便品第二と本門の如来寿量品第十六(特に最後の自我偈の部分)を、『法華経』の真髄として重視した。例えば日蓮は、信者に対し、『法華経』の根幹は方便品と寿量品であり他の品はいわば枝葉なので、方便品と寿量品さえ読誦すれば他の品の教えは自然と身につく、と説いた[12]

妙法蓮華経二十八品一覧[編集]

  • 前半14品(迹門)
    • 第1:序品(じょほん)
    • 第2:方便品(ほうべんぽん)
    • 第3:譬喩品(ひゆほん)
    • 第4:信解品(しんげほん)
    • 第5:薬草喩品(やくそうゆほん)
    • 第6:授記品(じゅきほん)
    • 第7:化城喩品(けじょうゆほん)
    • 第8:五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)
    • 第9:授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)
    • 第10:法師品(ほっしほん)
    • 第11:見宝塔品(けんほうとうほん)
    • 第12:提婆達多品(だいばだったほん)
    • 第13:勧持品(かんじほん)
    • 第14:安楽行品(あんらくぎょうほん)
  • 後半14品(本門)
    • 第15:従地湧出品(じゅうじゆじゅつほん)
    • 第16:如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)
    • 第17:分別功徳品(ふんべつくどくほん)
    • 第18:随喜功徳品(ずいきくどくほん)
    • 第19:法師功徳品(ほっしくどくほん)
    • 第20:常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)
    • 第21:如来神力品(にょらいじんりきほん)
    • 第22:嘱累品(ぞくるいほん)
    • 第23:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)
    • 第24:妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)
    • 第25:観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)(観音経)
    • 第26:陀羅尼品(だらにほん)
    • 第27:妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)
    • 第28:普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)

その他の追加部分[編集]

  • 第29:廣量天地品(こうりょうてんちぼん)[13]
  • 第30:馬明菩薩品(めみょうぼさつぼん)[14]

28品のほか、以上の追加部分も成立しているが、偽経扱いとなり普及しなかった。「廣量天地品第二十九」は冒頭部分のみを除いて失われている。『妙法蓮華経』28品と同じくネット上でも大正新脩大蔵経データベースで閲覧できる。

8巻と28品の対応関係[編集]

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』8巻28品の、各巻ごとの内訳は以下のとおり。

  • 第1巻 第1:序品 第2:方便品
  • 第2巻 第3:譬喩品 第4:信解品
  • 第3巻 第5:薬草喩品 第6:授記品 第7:化城喩品
  • 第4巻 第8:五百弟子受記品 第9:授学無学人記品 第10:法師品 第11:見宝塔品
  • 第5巻 第12:提婆達多品 第13:勧持品 第14:安楽行品 第15:従地湧出品
  • 第6巻 第16:如来寿量品 第17:分別功徳品 第18:随喜功徳品 第19:法師功徳品
  • 第7巻 第20:常不軽菩薩品 第21:如来神力品 第22:嘱累品 第23:薬王菩薩本事品 第24:妙音菩薩品
  • 第8巻 第25:観世音菩薩普門品 第26:陀羅尼品 第27:妙荘厳王本事品 第28:普賢菩薩勧発品

更級日記』の作者・菅原孝標女が少女時代、夢の中で僧侶から「『法華経』の第5巻を早く習いなさい」と忠告されたのに無視した挿話[15]は有名である。第5巻には、女人成仏を説く提婆達多品や、天台系寺院の勤行で読誦される安楽行品、「本門」(後半14品)の最初の章である従地湧出品などが含まれている。

法華経要品[編集]

『法華経要品訓読』[16]の目次

『法華経』全体の文量は膨大であるため、主要部を抜粋した『法華経要品(ようほん)』も作られ、読誦や学習に利用されている。法華経のどの章の中から、どのくらいの長さの文章を選ぶかの取捨選択は、テキストによって若干の異同がある。
以下は明治時代の『法華経要品訓読』の目次である。収録されている章について、その章の全文を載せているとは限らない。例えば「方便品第二」は冒頭の「爾時世尊・・・」から十如是までで、その後は割愛されている。

 序品第一、方便品第二、欲令衆(※)、提婆達多品第十二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一、属累品第二十二、観世音菩薩普門品第二十五、陀羅尼品第二十六、妙荘厳王本事品第二十七、普賢菩薩勧発品第二十八、宝塔偈(見宝塔品第十一の偈文)
※「欲令衆」は方便品第二・譬喩品第三・法師品第十・見宝塔品第十一からの抜粋を再構成したもの。

勤行での読誦[編集]

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』如来寿量品第十六・自我偈。よみがなや字句は宗派により若干異なる。第83句「如意善方便」以下は法華七喩の1つ「良医病子」を指す。

日本仏教の勤行での読経では、通常、上述の『法華経要品』に選ばれた章節の一部だけを重点的に読誦する。

日蓮正宗系の勤行では「方便品第二」(冒頭の十如是まで)と「如来寿量品第十六」(特に自我偈)を読誦するが、天台宗系の勤行では「安楽行品第十四」を読誦することが多いなど、宗派ごとに違いがある。

法華七喩(ほっけしちゆ)[編集]

法華経では、7つのたとえ話として物語が説かれている。これは釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化した様子に則しており、法華経の各品でもこの様式を用いてわかりやすく教えを説いたものである。これを法華七喩、あるいは七譬(しちひ)ともいう。

  1. 三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)
  2. 長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)
  3. 三草二木(さんそうにもく、薬草喩品)
  4. 化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)
  5. 衣裏繋珠(えりけいしゅ、五百弟子受記品)
  6. 髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
  7. 良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

成立年代[編集]

代表的な説として布施浩岳が『法華経成立史』(1934年)で述べた説がある[17]。これは段階的成立説で、法華経全体としては3類、4記で段階的に成立した、とするものである。第一類(序品〜授学無学人記品および随喜功徳品の計10品)に含まれる韻文は紀元前1世紀ころに思想が形成され、紀元前後に文章化され、長行(じょうごう)と呼ばれる散文は紀元後1世紀に成立したとし、第二類(法師品〜如来神力品の計10品)は紀元100年ごろ、第三類(7品)は150年前後に成立した、とした[17]。その後の多くの研究者たちは、この説に大きな影響を受けつつ、修正を加えて改良してきた[17]

20世紀後半になって苅谷定彦によって「序品〜如来神力品が同時成立した」とする説[18]が、また勝呂信静によって27品同時成立説[19]が唱えられている。菅野博史は成立年代特定の問題は『振り出しにもどった』というのが現今の研究の状況だ」と1998年刊行の事典において解説している[17]

奇説として福音書由来説もある[20]

西北インドで西暦40年~220年ごろに成立したとする説[編集]

現行の『法華経』二十八品のうち、嘱累品第二十二までと、薬王菩薩本事品第二十三から以下の部分は、思想や内容から見て少々異質である。そのため嘱累品までが本来の『法華経』で、あとは後世の付加部分と考える研究者もいる[21]

中村元は「嘱累品第二十二までの部分は西暦40年から220年の間に成立した」と推定した。
上限の40年については、信解品の《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した[22]。この点については、渡辺照宏も、「50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない[23]」と述べている。
下限について220年であると中村元が推定する理由は、『法華経』に頻出するストゥーパ建造の盛衰である。考古学的な遺物から見て、ストゥーパ建造の最盛期はクシャーナ朝ヴァースデーヴァ1世英語版の時代で、これ以降は急激に衰退している。

『法華経』の成立地域について、中村元や植木雅俊は西北インド説を主張している。『法華経』の守護神である鬼子母神の像はガンダーラ周辺で多数出土していること、方便品に登場するヤクや法師品の井戸掘りの描写など自然環境も西北インド的であること、授記がなされる理想の仏国土はきまって平地であること(これはインド西北部の山岳地帯の生活の苦労の裏返しであると考えられる)、妙荘厳王品にアフガニスタンで出土する立像と類似した描写があること、など、数々の状況証拠から、『法華経』はインド東部のガンジス河流域の低地ではなく、インド西北部の高地で成立したと考えるのが自然であるとする説である[24]

流布[編集]

ユーラシア大陸での法華経の流布[編集]

この経は日本に伝わる前、ユーラシア大陸東部で広く流布した。先ず、インドに於いて広範に流布していたためか、サンスクリット本の編修が多い。羅什の訳では真言・印を省略する。添品法華経ではこれらを追加している。

またチベット語訳、ウイグル語訳、西夏語訳、モンゴル語訳、満洲語訳、朝鮮語諺文)訳などがある。これらの翻訳の存在によって、この経典が広い地域にわたって読誦されていたことが理解できる。チベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパは主著『菩提道次第大論』で、滅罪する方便として法華経を読誦することを勧めている[25]

ネパールでは九法宝典(Navagrantha)の一つとされている[26]

中国天台宗では、『法華経』を最重要経典として採用した。中国浙江省に有る天台山国清寺の智顗(天台大師)は、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』を所依の経典とした。

日本での法華経の流布[編集]

『法華義疏』
平家納経』観普賢経見返し 長寛2年(1164年
平家納経
読経用の折り本。江戸期の両点本(経文の右側にひらがなで音読みを、左側にカタカナと返り点で漢文訓読を示す)。

日本では正倉院に法華経の断簡が存在し、日本人にとっても古くからなじみのあった経典であったことが窺える。

天台宗日蓮宗系の宗派には、『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする見方があり、「法華三部経」と呼ばれている。日本ではまた護国の経典とされ、『金光明経』『仁王経』と併せ「護国三部経」の一つとされた。


606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。

「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条)

615年には聖徳太子が法華経の注釈書『法華義疏』を著したとされる (「三経義疏」参照)。聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。多くの天皇も法華経を称える歌を残しており[27]聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。

最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。

平安時代末期以降に成立した『今昔物語集』では法華経の利益が多く描かれている。

鎌倉時代~戦国時代[編集]

法華経信仰の復興を目指したのが日蓮だった。日蓮は、南無阿弥陀仏に対抗すべく「南無妙法蓮華経」の題目を唱え(唱題行)[28]、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る(妙は蘇生の儀也)、という教えを説き、法華宗各派の祖となった。それまでも祈祷や懺悔滅罪のために法華経の読誦や写経は盛んに行われていたが、日蓮教学の法華宗は、この経の題目(題名)の「妙法蓮華経」(鳩摩羅什漢訳本の正式名)の五字を重んじ、南無妙法蓮華経(五字七字の題目)と唱えることを正行(しょうぎょう)とした所に特色がある。

また他の鎌倉新仏教においても法華経は重要な役割を果たしていた。大念仏を唱え融通念仏宗の祖となる良忍は後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。

曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。

近世[編集]

江戸時代には一般大衆向けの法華経の解説書も多数、刊行された。『法華自我偈絵抄』1814年

近世における法華経は罪障消滅を説く観点から、戦国の戦乱による戦死者への贖罪と悔恨、その後の江戸期に至るまでの和平への祈りを込めて戦国武将とその後の大名家に広く信奉されるようになった。例として加藤清正は法華経を納経している。

江戸期における大名家菩提寺も江戸城下に寄進し法華・日蓮宗系の菩提寺が多く建築され、また紀伊徳川家や加藤清正らによって元よりあった池上本門寺への寄進改築も進んだ。これら大名による諸宗派寺社寄進には軍役奉仕である参勤交代や天下普請といった江戸幕府からの奉仕負担を少しでも大目に見てもらおうという目的と、このような菩提寺はいざ国外からの有事軍役の際に自藩の江戸藩邸屋敷以外の砦としてもの利用も想定するためである。現にこういった寺社は幕末の動乱の際に砦として活用された(上野戦争における加賀藩邸および寛永寺)。

上記の理由以外に特に武家の妻女・子女らには変成男子せずとも女人成仏ができると説いた日蓮の教えに感化され勧んで信奉するものがこぞって多くなった。

近代[編集]

近代においても法華経は、おもに日蓮を通じて多くの作家・思想家に影響を与えた教典である。島地大等編訳の『漢和対照妙法蓮華経』に衝撃を受け、のち田中智学国柱会に入会した宮沢賢治(詩人・童話小説家)や、高山樗牛(思想家)、妹尾義郎(宗教思想家)、北一輝(革命家)、石原莞爾(軍人)、創価教育学会創価学会の前身)を結成した牧口常三郎戸田城聖(両者とも元教員)らがよく知られている。

一方で西欧式の仏教研究が輸入され大乗非仏説も常識化していった[29]

1945年太平洋戦争での敗戦後、宗教の自由化によって、創価学会立正佼成会といった日蓮系の教団が大きく勢力を伸ばした。

法華経は女人成仏は可か否かなど一部の文言については進駐軍の意向もあり教学上、解釈の変更も一部の宗派では余儀なくされた[要出典]

法華経の写本の例 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)平安時代

経典としての位置づけ[編集]

文献学的研究者の立場[編集]

文献学的研究では、成立年代を釈迦存命時より数百年後する大乗非仏説論が強い。上座部仏教大乗仏教の対立の止揚として、両者を融合させてすべてを救うことを主張するため作成されたと推測する説[30]、西暦紀元前後、部派仏教と呼ばれる専従僧侶独占に反発する教団によって編纂されたと推測する説[要出典]などがある

文献学的研究に対する反応[編集]

日本では、江戸時代に発行された富永仲基出定後語』の影響に加え、西洋系の近代仏教学を導入した影響から大乗非仏説論が広く浸透した[31]

法華経の成立が、釈迦存命時より数世紀後だという文献学の成果に対し、日本の法華系教団では、釈迦の発言を継承していき後代に文章化したとする[32]、釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承される課程で発展していったものとする、師の教義を弟子が継承し発展させることは、生きた教団である以上あり得ることから、後世の成立とされる大乗経典は根無し草の如き存在ではないとするなど、後世の経典もまた「釈迦の教義」として認める、という類の折衷的解釈を打ち出す傾向がある。さらに一歩進んで、非仏説論が正しくても問題ないロジックを組むべきという立場もある[33]

近現代の研究者による評価[編集]

『法華経』への評価は、鳩摩羅什による漢訳本、サンスクリット本の両方とも高い。

書評家の松岡正剛は、法華経のエディターシップを激賞して「法華経を読むと、いつも興奮する。/その編集構成の妙には、しばしば唸らされる。」「法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。」[34]と述べている。

昭和の仏教学者だった渡辺照宏は、「サンスクリット本について見ると、文体はきわめて粗野で単純、一見してあまり教養のない人たちの手で書かれた」[35]と批判した。 これに対して、仏教思想研究家の植木雅俊は、サンスクリット原本から『法華経』を翻訳した経験をふまえ、複雑かつ精妙な掛詞を駆使した「『法華経』編纂に携わった人の教養レベルの高さに驚かされる」と激賞したうえで、「(渡辺照宏氏が)何をもってそのように結論されたのか、首を傾げてしまう」[36]と反論している。また、歴史に実在した釈迦が説いた「原始仏教」の平等思想や人間中心主義が釈迦の死後500年のあいだに〝小乗仏教〟教団によって改竄されており、思想的に見れば『法華経』こそ「仏説」であると植木は述べる[37]

植木雅俊は『創価教育』で、昭和の日本で出版された岩波文庫版『法華経』[38]には、サンスクリット本からの日本語訳も掲載されているが、誤訳が散見され、岩波文庫の誤訳の箇所を、鳩摩羅什による漢訳と比較すると、鳩摩羅什はサンスクリット文法をふまえて意味を正確にとらえ、適切な漢訳を作ったことがわかるとしている[39]

社会学者橋爪大三郎天台宗から鎌倉仏教が生まれたことを評価している[40]

漢訳一覧[編集]

  • 『妙法蓮華経』 八巻 鳩摩羅什訳 (大正蔵262)
  • 『正法華経』 十巻 竺法護訳 (大正蔵263)
  • 『添品妙法蓮華経』 七巻 闍那崛多・笈多訳 (大正蔵264)
  • 『薩曇分陀利経』 一巻 訳者不明 (大正蔵265)
  • 『仏説阿惟越致遮経』 三巻 竺法護訳 (大正蔵265)
  • 『不退転法輪経』 四巻 訳者不明 (大正蔵267)
  • 『仏説広博厳浄不退転輪経』 六巻 智厳訳 (大正蔵268)
  • 『仏説法華三昧経』 一巻 智厳訳 (大正蔵269)
  • 『大法鼓経』 二巻 求那跋陀羅訳 (大正蔵270)
  • 『仏説菩薩行方便境界神通変化経』 三巻 求那跋陀羅訳 (大正蔵271)
  • 『大薩遮尼乾子所説経』 十巻 菩提留支訳 (大正蔵272)
  • 『金剛三昧経』 一巻 訳者不明 (大正蔵273)
  • 『仏説済諸方等学経』 一巻 竺法護訳 (大正蔵274)
  • 『大乗方広総持経』 一巻 毘尼多流支訳 (大正蔵275)
  • 『無量義経』 一巻 曇摩伽陀耶舎訳 (大正蔵276)
  • 『仏説観普賢菩薩行法経』 1巻 曇無蜜多訳 (大正蔵277)

訳本[編集]

主な現代語訳[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 法華経の 現代の解説書にはしばしば、このような写真とこのような主旨の解説が添えられている。
  2. ^ 聖徳太子によって著されたとされる法華経の注釈書「法華経義疏」は、三経義疏の1つである。
  3. ^ 経の字をはずすと「法華」になるが、これは一般に「ほっけ」と発音する。
  4. ^ サンスクリット語版『法華経』を日本語に訳した仏教学者の植木雅俊も、鳩摩羅什訳の正確さを高く評価している。植木は、岩波文庫版『法華経』(1976)の岩本裕訳には誤訳が多いこと、岩本が誤訳した箇所についても鳩摩羅什は正確に訳していることを、具体例を挙げて詳述している。植木雅俊『法華経―梵漢和対照・現代語訳』(上・下、岩波書店、2008)、および植木雅俊「絶妙だった鳩摩羅什訳―サンスクリット語から『法華経』『維摩経』を翻訳して―」(創価研究第7号、2014)を参照。いっぽう「優れたといっても、サンスクリット語原本に忠実な訳というわけではなく、漢文として読みやすいという方がより正確であろう。方便品末尾の十如是など、鳩摩羅什の創意により原本にない文章が付け加えられた所もある。(岩本・坂本1976)」という見解もある。
  5. ^ この28品が法華経成立当初から全て揃っていたかどうかは後述の成立年代についての議論の通り、疑問だが、少なくとも智顗の説は28品全てがはじめから揃っていたことを前提として展開されている。岩本・坂本1976。これに対して吉蔵の『法華義疏』「論品有無」は提婆達多品が欠けていたのを最終的に真諦の訳で補われたと記しており、これは竺道生法雲の注釈書、更に聖徳太子の『法華義疏』も提婆達多品が欠けているからも、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は何らかの事情で提婆達多品が訳されなかったか欠落して27品になっていたと考えられる。井上亘は智顗の説でも南岳禅師こと慧思が諸本を対校してこれを正したとしていることから、慧思が真諦訳の提婆達多品を補って本来あるべき28品に正し、それが隋による天下平定後に中国全土に広まり、遣隋使に随行した僧侶が28品揃った経典を日本に持ち帰ったとしている[9]。また、闍那崛多訳によって提婆達多品が付け加えられ、現在の全28品構成となったとする説もある。闍那崛多訳が『添品妙法蓮華経』と呼ばれるのはこのためであるという。ただし、闍那崛多訳では「提婆達多品」という独立の章を立てずに「見宝塔品」の後半に編入される形をとっている。同様に「観世音菩薩普門品」の偈頌も当初は鳩摩羅什訳にはなかったが、闍那崛多によって訳出されたものが鳩摩羅什訳に移入されているとされる[10][11]

出典[編集]

  1. ^ 精選版 日本国語大辞典「法華経」、小学館。
  2. ^ NHK 100分de名著 法華経[新]第1回「全てのいのちは平等である」2018年4月2日放送。新版・NHK「100分de名著」ブックス、2021年6月
  3. ^ 三枝充悳日本大百科全書(ニッポニカ)「法華経」、小学館。
  4. ^ 植木雅俊『仏教、本当の教え』中公新書、2011年、82-97頁。
  5. ^ 植木雅俊、「Saddharmapundarika の意味」 『印度學佛教學研究』 2000 年 49 巻 1 号 p. 431-429, doi:10.4259/ibk.49.431, 日本印度学仏教学会
  6. ^ 中文维基文库『妙法蓮華経』
  7. ^ 植木雅俊『法華経とは何か:その思想と背景』中公新書、2020年
  8. ^ 平岡聡「法華経の成立に関する新たな視点:――その筋書・配役・情報源は? ――」『印度學佛教學研究』第59巻第1号、日本印度学仏教学会、2010年、390-382頁、doi:10.4259/ibk.59.1_390ISSN 0019-4344NAID 110008574399
  9. ^ 井上亘「御物本『法華義疏』の成立」古瀬奈津子 編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』同成社、2021年 ISBN 978-4-88621-862-9 P212-223.
  10. ^ 坂本 幸男、岩本 裕 『法華経〈上〉』 岩波文庫、1976年 P421-428.
  11. ^ 金岡 秀友 『仏典の読み方』 大法輪閣、2009年 P129-135.
  12. ^ 日蓮は「月水御書」(月経中でも仏典を読誦してもよいのか、という女性信者からの質問に対する回答の手紙)の中で「法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども、殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候なり」「寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり。薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども、提婆品は方便品の枝葉、薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候。されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候て、余の品をば時時御いとまのひまにあそばすべく候」と述べている。日蓮系の仏教が日々の勤行で方便品と寿量品を読誦する根拠となっている。
  13. ^ 妙法蓮華經廣量天地品第二十九 (No. 2872 ) in Vol. 85
  14. ^ 妙法蓮華經馬明菩薩品第三十 (No. 2899 ) in Vol. 85
  15. ^ 『更級日記』原文「夢にいと清げなる僧の、黄なる地の袈裟着たるが来て『法華経五の巻をとく習へ』といふと見れど、人にも語らず。習はむとも思ひかけず。」
  16. ^ 『(改正略解)法華経要品訓読』明治20年9月20日御届/同21年6月再版/同37年9月譲受、元版人・須原屋茂兵衛、譲受発行人・鈴木荘次郎、印刷人・三功舎 鈴木耕太郎
  17. a b c d 『哲学 思想事典』岩波書店、1998年、pp.1485-1486 【法華経】
  18. ^ 苅谷定彦『法華経一仏乗の研究』1983
  19. ^ 『法華経の成立と思想』1993
  20. ^ 松下博宣第6講:語られ得ぬ法華経の来歴 | 日経クロステック(xTECH)
  21. ^ サンスクリット版縮訳, p. 421-422.
  22. ^ 宮本正尊 編『大乗仏教の成立史的研究』(昭和29年) 附録第一「大乗経典の成立年代」
  23. ^ 渡辺照宏『日本の仏教』岩波新書 青版、2002年6月12日、188頁。ISBN 978-4004121510
  24. ^ 植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経 (上)』岩波書店、pp.593-595
  25. ^ チベット仏教書籍のご紹介
  26. ^ 藤谷厚生, 「金光明経の教学史的展開について (PDF) 」『四天王寺国際仏教大学紀要』 平成16年度 大学院 第4号 人文社会学部 第39号 短期大学部 第47号, p.1-28(p14), NAID 110006337539
  27. ^ 法華経は佛教の生命「仏種」である。第2章 第2話 法華宗真門流
  28. ^ ミステリーな日蓮 #005〈唱題で、法華経の再興を目指す〉 | 論創社
  29. ^ 大南龍昇, 「大乗経典のゴーストライター」『印度學佛教學研究』 1991年 39巻 2号 p.524-529, 日本印度学仏教学会, doi:10.4259/ibk.39.524NAID 110002661557
  30. ^ 『法華経』成立の背景 | NHKテキストビュー
  31. ^ 柴田章延 2013, p. 32.
  32. ^ 「『法華経』─仏教研究の要」 M・I・ヴォロビヨヴァ = デシャトフスカヤ/江口満 訳 東洋哲学研究所創価学会
  33. ^ 柴田章延 2013, p. 34.
  34. ^ 松原正剛の千夜千冊・梵漢和対照・現代語訳「法華経」岩波書店 2008[訳植木雅俊]」閲覧日2022年4月3日
  35. ^ 岩波新書『日本の仏教』岩波新書、p.178
  36. ^ 植木雅俊『今を生きるための仏教100話』平凡社新書、2019年、pp.237-238
  37. ^ 植木雅俊『今を生きるための仏教100話』平凡社新書、2019年、p.249
  38. ^ 坂本幸男・岩本裕訳注『法華経』岩波文庫(上中下)、1976年
  39. ^ 植木雅俊「絶妙だった鳩摩羅什訳―サンスクリット語から『法華経』『維摩経』を翻訳して―」(『創価教育』pp.27-61、2014年3月16日)
  40. ^ 橋爪大三郎・法華経はどこが、最高の経典なのか、橋爪大三郎・植木雅俊共著『ほんとうの法華経』紹介より(ちくま新書、2015年)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]




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호화경

출처 : 무료 백과 사전 "Wikipedia (Wikipedia)"
하얀 연꽃입니다. 연꽃은 진흙에 태어나도 진흙에 물들지 않고 깨끗한 꽃을 피운다 [주 1] .

法華経(호케쿄, 호케쿄,  : Saddharma-puṇḍarīka-sūtra [1] )는 대승 불교 의 대표적인 경전 . 대승불교의 초기에 성립한 경전이며, 모두가 평등하게 성불 할 수 있다는 불교 사상이 설설되어 있다 [2] . 성덕 태자의 시대에 불교와 함께 일본 에 전래했다 [주 2] . 복수 있는 한역 중에서는 하토마라 什에 의한 것이 특히 보급되어 있고 [3] , 그 번역명은 묘법 연화경 (明白蓮華)이다.

명칭 편집 ]

법화경의梵語산스크리트 )의 원제는 『사달마 푼다리카 수트라』(सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma-Puṇḍarīka-Sūtra )이다. 축어역은 '올바른·법·백련·경'으로, 의미는 '백련화처럼 가장 뛰어난 올바른 가르침'(우에키 마사토역)이다.

'삿'(sad)은 '올바른', '이상한', '우수', '달마'(dharma)는 '법', '푼다리카'(puṇḍarīka)는 '청정한 하얀 연꽃', '수트라'( sūtra ) 는 「갓 실:경」의 뜻이다.

이 범어 서명을,

  • 준법호는 286년에 「정법화경」이라고 한역했다.
  • 하토마라 센 은 406년에 「묘법 연화경」이라고 한역했다.
  • 이와모토 히로시 는 「올바른 가르침의 백련」이라고 번역했다(이와나미 문고 『호화경』 및 중앙공론사판 『호화경』).
  • 우에키 마사토시 는 "백련화처럼 가장 뛰어난 올바른 가르침"이라고 번역했다.

한역에서는 범어의 '흰'만이 생략되어 '정법화경'이나 '묘법 연화경'이 되었다. 또한 '묘' '연꽃'이 생략된 표기가 '법화경'이다. '법화경'이 '묘법 연화경'의 약칭으로 사용되는 경우가 많다 [주 3] .

이와모토역과 식목역은 어순이 반대로 되어 있다. 이 점에 대해 우에키 마사토시는, 「푼다리카」가 복합어의 후반에 와서 전반의 말을 은유적으로 수식한다(지업석)라고 하는 산스크리트 문법에 비추어도, 구미어의 번역 방법으로부터 해도, 일본어 번역은 '백련과 같이 가장 뛰어난 올바른 가르침'으로 해야 하는 것, 하토마라 什는 백련화가 상징하는 '가장 이겼다'와 '올바른'이라는 의미를 '묘'로 담아 "묘법 연화"라고 한역한 것을, 상세하게 논하고 있다 [4] [5] .

한역 편집 ]

한역은 부분역·이본을 포함해 16종이 현재까지 전해지고 있지만, 완역으로 잔존하는 것은

의 3종으로, 한역 3개로 칭해지고 있다.

쿠마라집 「Miaofa Lianhua経」편의 상품 제2탄(까지 등 10개)

한역불전권에서는 하토마라 센역의 『묘법련화경』이 ‘가장 뛰어난 번역’으로 유행하여 천대교학과 많은 종파 신앙상의 소의로 널리 사용되고 있다 .

내용 편집 ]

호화경의 원본은 기원 1세기 이후 인도에서 편찬되었다는 설이 유력하다( #성립연대 ). 당시에는 특별한 수행을 거친 출가자만 구제된다는 생각이 부파 불교 의 주류를 이루고 있었다. 이에 대해 호카케이는 소승 · 대승 의 대립을 극복하면서 모든 인간이 일승 ( 보살승 )을 통해 평등하게 구제된다는 불교사상을 강조한 내용으로 이해된다 초기 불교 경전( 아함경 ) 기재의 불사 의 가르침이나 에피소드와의 차이에 대해서는, 청취자의 레벨에 맞춘 방편이었다고 하는데, 보다 본질적인 레벨에서는, 법화경의 내용이야말로, 본래 의 불처 의 가르침에 되돌아가는 것이라고 설하는 것과 동시에, 지능의 보살하는 불교 신자에게 있어서 홍통(포교)을 중요한 역할로 자리매김해, 직면할 것이다 법난(반대 세력으로부터의 탄압)에의 마음가짐도 설하는  , 일체의 중생을 구하기 위해 법화경의 가르침을 전파하는 관점을 중시하고 있는 점에도 특색이 있다 유마경'라고 배역이 입고 있는 곳이 있어 유마경에 대한 비판이라는 면이 있었다는 지적도 있다 [8] .

구성 편집 ]

상문과 본문 편집 ]

하토마라 센역 『묘법 연화경』은 28품의 장절로 구성되어 있다 [주5] . 현재 일본에서 널리 사용되고 있는 토치기 (天台大師)의 교설에 의하면 전반 14품을 쇼몬 (샤문), 후반 14품을 본문 (혼문)으로 분과한다. 쇼몬이란, 출세 한 부처가 중생을 화도하기 위해 본지보다 우(後)를 늘어뜨린다고 하는 부분이며, 본문이란 석존이 보리수하가 아니라 500진점 劫이라는 구원의 옛날  이미 부처로 이루어졌다는 본지를 밝힌 부분이다. 우문을 수중에 비치는 달로 하고, 본문을 하늘에 떠 있는 달에 담고 있다. 후세의 천대 종 이나 호화종 일치파는 양문을 대등하게 중첩하고, 호화종승열파는 호화경의 본문 을 특별히 중첩하고, 본문을 이겨 , 문문을 열로 하는 등 차이는 있지만, 이 교설을 의뢰 사용하는 종파는 많다.

또, 삼분 (산분)의 관점에서 법화경을 분류하면, 크게 나누어(일경 3단), 서품을 서분, 방편품으로부터 분별품의 전반까지를 정종분, 분별품으로부터 권발품 까지를 유통분으로 분과한다. 또 세세하게 나누면(2경 6단), 전반의 우상·책의 2문에도 각각 서·정종·유통의 3분이 있다고 한다.

경본으로서도 유통하고 있지만, 「묘법 연화 경경」 전체에서는 분량이 큰 일도 있어, 몇개의 품을 발췌한 「묘법 연화 경요품」(요혼)도 간행되고 있다.

상문 편집 ]

전반부를 쇼몬(シャクモン) 이라고 부르고, 반청경에서 설 수 있는 대승 을 주제로, 제곱작불 ( 제곱 도 성불 이 가능하다는 것)을 설리지만, 제곱은 중생으로부터 공양을 받는 생활에 여유의 한 입장이며, 또 부유한 보살이 여러가지 속속을 데리고 부처 앞에 참배하는 모습도 경전에 설해져 있으며, 설법을 받는 각각의 입장이 불을 중심으로 한 호화경 그 자체를 장엄하게 장식한다 역할을 담당하고 있다.

게다가 제파달다 의 미래성불(악인성불) 등, “일체의 중생이, 언젠가는 반드시 “불”이 될 수 있다”라는 평등주의의 가르침을 당시의 가치관 나름대로 나타내고, 경의 정확함을 증명 한다 다보 여래가 출현하는 보탑 출현, 허공회, 2불 병좌 등의 연출에 의해 이것을 강조하고 있다.또, 보보탑품에는 불멸 후에 법화경을 홍보하는 것이 대난사(6난 9역) 인 것, 권지품에는 멸후 말법  법화경을 홍보하는 자가 박해를 받는 모습이 극명하게 전해지는 등, 불멸 후의 법화경 수행자의 난사가 설해진다.

본문 편집 ]

후반부 를 본문 이라고 부르고 쿠온 지성 . _ _ 존재라는 주장)의 선언이 중심 테마가 된다. 이것은 나중에 본 불론 문제를 야기한다.

본문에서는 즉 여기에 이르러 불과는 더 이상 역사상의 석가일 개인이 아니다. 일단 법화경에 인연을 맺은 하나의 생명은 유전 고난을 거치면서도 곧 신의 길에 들어가 자기의 무한한 가능성을 열어 간다. 그 삶의 향수 그 자체를 가리키고 부처라고 한다. 따라서 그 수명은 겉보기 생사를 넘은 무한한 미래로 이어지는 구원의 것으로 이해된다. 그리고 이 세상은 오랜 수명을 가진 부처가 상주하여 영원히 중생을 구제로 이끌고 있는 곳이다. 그에 의해 “일체의 중생이, 언젠가는 반드시 부처로 될 수 있다”는 가르침도, 단순한 이굴이나 이상이 아니라, 확실한 보증을 수반한 사실이라고 설명한다. 그리고 부처와는 구원의 수명을 가진 존재이다, 라는 이 비밀을 들은 사람은 일념 신해·초수희하는 것만으로도 대공덕을 얻는다고 전해진다.

설법의 대상은 보살을 비롯한 모든 경애에 걸친다. 또, 말법 어리석은 사람을 이끄는  으로서 상행 보살을 비롯한 지능 의 보살들 에 대한 말법 홍교의 부촉, 관세음 보살 등의 작용에 의한 호화경 신앙자에 대한 수호와 막대한 현세 이익 등을 설명한다.

편의품목 2호와 여래장수품 16호 편찬 ]

『호화경』이라고 해도 이질의 모순된 사상이 여기저기 혼입하고 있기 때문에, 전통불교의 일부 유파에서는, 상문의 방편품 제2와 본문의 여래 수량품 제16(특히 마지막의 자아偈의 부분)을 『法華経』의 진수로서 중시했다. 예를 들어 니치렌 은 신자에게 『호화경』의 근간은 방편품과 수량품이며 다른 물건은 말하자면 가지엽이므로 방편품과 수량품조차 독서하면 다른 물건의 가르침은 자연스럽게 몸에 붙는다, 라고 말했다 [12] .

묘법 연꽃 경경 이십팔품 일람 편집 ]

  • 전반 14품(상문)
    • 제1:서품(조혼)
    • 제2:방편 품(호벤폰)
    • 제3: 은유품(히유혼)
    • 제4:신해품(신게혼)
    • 제5:약초 유품(야쿠소 유혼)
    • 제6:수기품(주키혼)
    • 제7:화성 유품(케조유혼)
    • 제8:500 제자 수기품
    • 제9:수학 무학인 기품(주가 쿠무가쿠닌키혼)
    • 제10:법사품(호시혼)
    • 제11 : 견보탑품(켄호토우혼)
    • 제12:제파들 다품(다이바였던 혼)
    • 제13:권지품(칸지혼)
    • 제14:안락행품(안라쿠교혼)
  • 후반 14품(본문)
    • 제15:종지 용출품(주지 유주 츠혼)
    • 제16:여래 수량품(니요라이주류혼)
    • 제17:분별 공덕품(후베츠쿠도쿠혼)
    • 제18:수희공덕품(즈이키쿠도쿠혼)
    • 제19:법사 공덕품
    • 제20: 상불경 보살 품
    • 제21:여래 신력품(니요라이 진리키혼)
    • 제22:촉 누품(조쿠루이혼)
    • 제23:약왕 보살 본사품(야쿠오보 사츠 혼지혼)
    • 제24:묘음 보살품
    • 제25:관세음 보살 보문품(칸제 온보사츠후몬봉)(관음경)
    • 제26 : 다라 아마(다라니혼)
    • 제27:묘장 엄왕 본사품
    • 제28: 보현 보살 권발품(후겐보 사츠칸보츠혼)

기타 추가 부분 편집 ]

  • 제29:광량 천지품(코우류텐치본) [13]
  • 제30:마아키 보살품(메미보 사츠본) [14]

28품 외, 이상의 추가 부분도 성립하고 있지만, 위경 취급이 되어 보급되지 않았다. ‘광량 천지품 제29’은 처음 부분만 제외하고 잃어버렸다. 『묘법 연화경』 28품과 마찬가지로 인터넷상에서도 다이쇼 신겨 대장경 데이터베이스로 열람할 수 있다.

8권과 28품의 대응 관계 편집 ]

하토마라 센역 『묘법 연화경』 8권 28품의 각 권별 내역은 다음과 같다.

  • 1권 1호: 서문 2호: 편의용품
  • 제2권 제3: 은유품 제4: 신해품
  • 제3권 제5:약초 유품 제6:수기품 제7:화성 유
  • 제4권 제8:500 제자 수기품 제9:수학 무학인 기품 제10:법사품 제11:견보탑품
  • 제5권 제12:제파달 다품 제13:권지품 제14:안락행품 제15:종지 용출품
  • 제6권 제16:여래 수량품 제17:분별 공덕품 제18:수희공덕품 제19:법사 공덕품
  • 7권 20호: 장부가보살 21호: 여래신통 22호: 권면 23호: 약왕보살의 일 24호: 묘음보살
  • 제8권 제25:관세음 보살 보문품 제26:다라도품 제27:묘장 엄왕 본사품 제28:보현 보살 권발품

갱급 일기' 의 작자 스가와라 타카시 표녀 가 소녀시대, 꿈 속에서 스님으로부터 「『호화경』의 제5권을 빨리 배워라」라고 충고된데 무시한 삽화[15]는 유명 하다 . 제5권에는, 여인 성불을 설하는 제파들 다품이나, 천대계 사원의 근행 으로 독서되는 안락 행품, 「본문」(후반 14품)의 최초의 장인 종지 용출품 등이 포함되어 있습니다.

호화경요품 편집 ]

『호화경요품훈독』[16] 의 목차

『호화경』 전체의 문량은 방대하기 때문에, 주요부를 발췌한 『호화경요품(요혼)』도 만들어져, 독서나 학습에 이용되고 있다. 법화경의 어느 장 중에서, 얼마나 길이의 문장을 선택하는지의 폐기 선택은, 텍스트에 의해 약간의 이동이 있다.
다음은 메이지 시대의 「호화경요품훈독」의 목차이다. 수록되어 있는 장에 대해서, 그 장의 전문을 실고 있다고는 할 수 없다. 예를 들면 「방편품 제2」는 서두의 「작시 세존…

 서품 제1, 방편품 제2, 욕령중(※), 제파달 다품 제12, 여래 수량품 제16, 여래 신력품 제211, 속누품 제22, 관세음 보살 보문품 제25, 다라도제 26, 묘장 엄왕 본사품 제27, 보현 보살 권발품 제28, 보탑정
※「욕령중」은 방편품 제2・봉유품 제3・법사품 제10・미보탑품 제11로부터의 발췌를 재구성한 것.

근행에서의 독서 편집 ]

하토마라 센역 『묘법 연화경』 여래 수량품 제16・자아정. 요미가나야 자구는 종파에 따라 약간 다르다. 제83구 「여의선방편」 이하는 호화칠유의 하나 「양의병」을 가리킨다.

일본 불교의 근행 에서의 독경 에서는, 통상, 상기의 「법화경요품」에 선택된 장절의 일부만을 중점적으로 독서 한다 .

니치렌 마사무네계의 근행 에서는 「방편품 제2」(서두의 10여시까지)와 「여래 수량품 제16」(특히 자아정)을 독서하지만, 천대종계의 근행에서는 「안락행품  10 '4'를 독서하는 경우가 많다 등 종파마다 차이가 있다.

法華七喩 (호케 시치 유) 편집 ]

호화경에서는 7가지 비유로 이야기가 전해지고 있다. 이것은 석가불이 비유를 이용하여 알기 쉽게 중생을 교화한 모습에 준하고 있으며, 법화경의 각품에서도 이 양식을 이용하여 알기 쉽게 가르침을 설한 것이다. 이것을 호화 칠유, 혹은 시치히라고도 한다.

  1. 三車火宅 (산 샤, 굳셀 경)
  2. 長者窮子 (조자 규, 믿을 품)
  3. 三草二木 (산소리 정, 약초 유)
  4. 화성보처(케조호쇼)
  5. 衣裏珠 (에리 연, 옥백 제자 수)
  6. 髻中明珠 (게으를 명, 안락할 품)
  7. 良医病 (쑥 병, 여래 수)

성립 연대 편집 ]

대표적인 설으로서 후시 코다케 가 『호화경성립사』( 1934년 )에서 말한 설이 있다 [17] . 이것은 단계적 성립설로, 법화경 전체로서는 3류, 4기로 단계적으로 성립했다고 하는 것이다. 제1류(서품~수학 무학인 기품 및 수희공덕품의 총 10품)에 포함된 운문은 기원전 1세기 무렵 사상이 형성되어 기원전후에 문장화되어 장행(조 고우 ) 라고 하는 산문은 기원후 1세기에 성립했다고 해, 제2류(법사품~여래 신력품의 총 10품)은 기원 100년경, 제3류(7품)은 150년 전후에 성립했다, 했다 [17] . 그 후 많은 연구자들은 이 설에 큰 영향을 받으면서 수정을 더해 개량해 왔다 [17] .

20세기 후반이 되어 가야다니 히코 에 의해 “서품~여래 신력품이 동시 성립했다”고 하는 설 [18] 이, 또 카츠로 신시즈 에 의해 27품 동시 성립설 [19] 이 주장되고 있다. 스가노 히로시 는 성립 연대 특정  문제는 '진출로 돌아왔다'는 것이 현금 연구의 상황이다 .

기설로서 복음서 유래설도 있다 [20] .

서북 인도에서 기원 40년~220년경에 성립했다고 하는 설 편집 ]

현행의 '호화경' 28개 품 중 촉누품 22번까지와 약왕 보살 본사품 23번째부터 다음 부분은 사상과 내용에서 보고 조금 이질이다. 그 때문에 촉누품까지가 본래의 '호화경'으로 나머지는 후세의 부가 부분이라고 생각하는 연구자도 있다 [21] .

나카무라 전은 "촉누품 제22까지의 부분은 기원 40년부터 220년 사이에 성립했다"고 추정했다.
상한의 40년에 대해서는, 신해품의《장자 궁자의 은유》에서 볼 수 있는, 금융을 실시해 이자를 취하고 있던 장자의 임종의 모습으로부터, 「화폐 경제의 매우 발달한 시대가 아니면 , 이런 혼자 부자임에 머무르지 않고 국왕 등을 두려워 구사하게 하는 자본가는 나오지 않기 때문에, 법화경이 성립한 연대의 상한은 기원 40년이다”라고 추찰했다[22 ] . 이 점에 대해서는, 와타나베 테루히로도 “50년간 유랑한 뒤 20년간 청소부였던 남자가 실은 장자의 후계자라고 선언되는 모습으로부터, 옛 인도 사회는 바라몬을 중심으로 한 견고한 카스트 제도 하지만 은유라도 이런 경우는 현실미가 부족하고, 만약 생각할 수 있다면 바라몬 문화의 영향이 적은 사회환경이어야 한다[23]」라고 말하고 있다 .
하한에 대해 220년이라고 나카무라 모토가 추정하는 이유는 '호화경'에 빈출하는 스투파 건조의 성쇠다. 고고학적인 유물에서 보면, 스투파 건조의 최성기는 쿠샤나 아침의 바스 데바 1세 영어판 ) 의 시대로, 이 이후는 급격하게 쇠퇴하고 있다.

『호화경』의 성립지역에 대해 나카무라 모토와 우에키 마사토시는 서북 인도설을 주장하고 있다. 「호화경」의 수호신인 오니코 모신의 동상은 간다라 주변에서 다수 출토하고 있는 것, 방편품에 등장하는 야크나 법사품의 우물 파기의 묘사 등 자연 환경도 서북 인도적임, 수기가 하는 이상적인 불국토는 와서 평지인 것(이것은 인도 서북부의 산악지대의 생활의 고생의 뒤집음이라고 생각된다), 묘장엄왕품에 아프가니스탄에서 출토하는 입상과 유사한 묘사가 있다 일 등 여러 상황 증거에서 『法華経』은 인도 동부의 갠지스 강 유역의 저지가 아니라 인도 서북부의 고지에서 성립했다고 생각하는 것이 자연스럽다고 하는 설이다[24 ] .

유포 편집 ]

유라시아 대륙에서 법화경 유포 편집 ]

이 경은 일본에 전해지기 전에 유라시아 대륙 동부에서 널리 유포했다. 먼저 인도 에서 광범위하게 유포했기 때문인지 산스크리트 책의 편수가 많다. 羅什의 번역에서는 진언·표를 생략한다. 첨품법화경에서는 이들을 추가하고 있다.

또한 티베트어역 , 위구르어  , 서하계 어역 , 몽골어 역, 만주 어역, 조선어 (諺文)역 등이 있다. 이 번역의 존재는이 성전이 넓은 지역에 걸쳐 독서되었음을 이해할 수 있습니다. 티베트 불교 겔 크파 개조 톤카파 는 주저 '보리도에 따라 대론'에서 멸죄하는 방편으로 법화경을 독서하는 것을 권하고 있다 [25] .

네팔 에서는 9법 보전( Navagrantha )의 하나로 여겨지고 있다 [26] .

중국 천대종 에서는 '호화경'을 가장 중요한 경전으로 채용했다. 중국 절강 성에 있는 텐다이산 국청사 지치(天台大師)는 하토마라 什의 『묘법 연화경』을 소의의 경전으로 삼았다.

일본에서 호카케이 유포 편집 ]

「호화 요시」
히라가 납경』 관보현경 보답 장관 2년( 1164년 )
헤이케 납경
독경 용 접기 . 에도기의 양점본(경문의 오른쪽에 히라가나로 소리 읽기를, 왼쪽에 카타카나와 반환점에서 한문훈독을 나타낸다 ).

일본 에서는 정창원 에 호카케이의 단간이 존재하고, 일본인에게도 옛부터 친숙한 경전 이었던 것을 알 수 있다.

텐다이종 , 니치렌 종계의 종파에는 『법화경』에 대해 『무량의경』을 개경, 『관보현보살행법경』을 결경으로 하는 견해가 있어 『호화삼부경』이라고 불리며 있다. 일본에서는 또 호국의 경전으로 여겨져 ' 김광명경 ' ' 인왕경 '과 아울러 '호국삼부경'의 하나로 여겨졌다.


606년 (추고 14년)에 성덕태자 가 법화경을 강구했다는 기사가 일본서기에 있다.

「황태자, 亦法華経을 오카모토노미야에 강요한 마후. 천황, 크게 기뻐하고 하리마국의 논 모쿠마치를 황태자에게 베풀어진 마후. 22, 추고천황 14년조)

615년 에는 성덕태자 가 호화경의 주석서 '호화의  '을 저술했다고 한다 성덕태자 이래 호화경은 불교의 중요한 경전 의 하나인 동시에 진호국가 의 관점에서 특히 일본국에는 인연이 깊은 경전 으로 일반적으로 생각되어 왔다. 많은 천황도 호화경을 기리는 노래를 남기고 있으며, 27] 세이부 천황 의 황후인 광명황후 는 전국에 ‘ 호화 멸죄지 ’를 세우고 이를 ‘고쿠부 ’ 아마데라 라고 불러 법화경을 신봉했다.

최스미 에 의해 일본에 전해진 천대 종은 메이지 유신 까지는 황실 의 두꺼운 존경을 받았다. 또 최스미는 스스로의 종파를 ' 천대 법화종 '이라고 명명해 '호화경'을 지상의 가르침으로 삼았다.

헤이안 시대 말기 이후에 성립한 ' 지금 옛 이야기집 '에서는 호화경의 이익이 많이 그려져 있다.

가마쿠라 시대~전국 시대 편집 ]

호화경 신앙의 부흥을 목표로 한 것이 니치렌 이었다. 니치렌은 미나미 무아미타 불에 대항하기 위해 「미나미 무묘법 연꽃경」의 제목 을 주창(창창 ) [ 28 ] , 진정한 성불의 길을 걸을 수 있다(묘는 소생의 의야), 라고 하는 가르침을 설해, 호화종 각파의 조가 되었다 . 그때까지도 기도와 참회 멸죄 때문에 법화경의 독서와 사경은 활발히 행해지고 있었지만, 니치렌 교학의 호화종은 이 경의 제목(제명)의 「묘법 연화경」(하토 마라) 책의 정식명)의 5자를 겹쳐, 남무 묘법 연꽃경 (5자 7자의 제목)이라고 주장하는 것을 정행 (쇼쿄)으로 한 곳에 특색이 있다.

또 다른 가마쿠라 신불교 에서도 호화경은 중요한 역할을 하고 있었다. 대념불을 주창해 융 통념 불종의 조가 되는 양인 은 후의 정토계 불교의 선구자로서 칭명념불을 주장 했지만 , 화엄경 과 법화경을 정의로 하고, 정토 3부경을 방의로 했다.

조동종 의 조사인 도모토는 '타관타좌'의 좌선을 성불의 실천법으로 선양하면서도 그 이론적 뒷받침은 어디까지나 법화경의 가르침 속에 계속 찾아가려고 했다. 임종 당시 그가 읽은 경문은 호화경의 여래 신력품이었다.

최근 편집 ]

에도시대에는 일반 대중을 위한 법화경 해설서도 다수 간행되었다. 『호화 자아 偈絵抄』 1814년

근세의 법화경은 죄장 소멸을 전하는 관점에서, 전국의 전란에 의한 전사자에 대한 속죄와 회한, 그 후의 에도기에 이르기까지의 평화에의 기도를 담아 전국 무장과 그 후의 대명가에 널리 신봉된다 이렇게 되었다. 예로서 카토 기요마사 는 호카케이를 납경하고 있다.

에도기에 있어서의 다이묘가 보리사도 에도성하에 기진해 호카·닛렌종계의 보리사가 많이 건축되어, 또 기이토쿠가와와 카토 기요마사 등에 의해 원래보다 있던 이케가미 혼몬지에의 기진 개축도 진행되었다. 이들 다이묘에 의한 제종파사사 기진에는 군역봉사인 참근교대나 천하보청 등 에도막부로부터의 봉사부담을 조금이라도 눈에 띄게 하고자 하는 목적과 이러한 보리사는 막상 국외로부터의 유사군역 의 때에 자번의 에도번 저택 저택 이외의 요새로서의 이용도 상정하기 때문이다. 현재 이런 사찰은 막부 말기의 동란 때 요새로 활용되었다(우에노 전쟁에 있어서의 가가번저택  관 영사 ).

상기의 이유 이외에 특히 무가의 처녀·자녀들에게는 변성 남자 없이도 여인 성불이 할 수 있다고 설한 니치렌의 가르침에 감화되어 권해 신봉하는 것이 많아졌다.

현대 편집 ]

근대에서도 호화경은 주로 일련을 통해 많은 작가·사상가에 영향을 준 교전 이다 . 시마지 대등 편역의 「한화 대조 묘법 연꽃 경」에 충격을 받고, 노치다나카 토모카쿠의 국주회에 입회한 미야자와 켄지(시인·동화 소설가)나, 다카야마 가시 규 ( 사상가 ) , 여동생 요시 로 ( 종교 사상가), 키타이치 휘 (혁명가), 이시하라 마키 (군인), 창가 교육 학회 ( 창가 학회 의 전신)를 결성한 마키구치 토모 사부로 , 도다 성성 (양자 모두 전 교원)등이 잘 알려져 있다.

한편 서유럽식 불교연구가 수입되어 대승 비불설도 상식화해 갔다 [29] .

1945년 태평양전쟁 에서의 패전 후, 종교의 자유화에 의해, 창가학회 ,立正佼成会등 일련계의 교단이 크게 세력을 늘렸다.

법화경은 여인성불은 가능한지 등 일부 문언에 대해서는 진주군의 의향 도 있어 교학상, 해석의 변경도 일부 종파에서는 강요당했다 요출전 ] .

호카케이의 사본 예 도쿄 국립 박물관 창고( 호류지 헌납 보물 ) 헤이안 시대

경전으로 자리매김 편집 ]

문학 연구자의 입장 편집 ]

문헌학적 연구에서는 성립연대를 석가존명시보다 수백년 후하는 대승비불 설론이 강하다. 상좌부 불교 와 대승불교 의 대립의 지양 으로서, 양자를 융합시켜 모두를 구하는 것을 주장하기 위해 작성되었다고 추측하는 설[30], 기원전 후, 부파 불교라고 불리는 전종 승려 독점 에 반발 한다 교단에 의해 편찬되었다고 추측하는 설 요출전 ] 등이 있다

문헌학 연구에 대한 반응 편집 ]

일본에서는 에도시대에 발행된 토미나가 중기  출정 후어』의 영향에 더하여 서양계의 근대불교학을 도입한 영향으로부터 대승비불설론이 널리 침투했다[31 ] .

법화경의 성립이 석가 생명 때보다 수세기 후라는 문헌학의 성과에 대해 일본의 법화계 교단에서는 석가의 발언을 계승해 가고 후대에 문장화했다고 한다[32], 석가  직 설을 오랜 시간을 거쳐 제자로부터 제자로 계승되는 과정에서 발전해 간 것으로 하는, 사의 교리를 제자가 계승하고 발전시키는 것은, 살아있는 교단인 이상 있을 수 있기 때문에, 후세 의 성립으로 여겨지는 대승경전은 뿌리 없는 풀 같은 존재가 아니라고 하는 등, 후세의 경전도 또 「석가의 교리」로서 인정한다, 라고 하는 종류의 절충적 해석을 내세우는 경향이 있다. 한 걸음 더 나아가 비불설론이 정확하더라도 문제없는 로직을 짜야 한다는 입장도 있다 [33] .

근 현대 연구자의 평가 편집 ]

'호화경'에 대한 평가는 하토마라 什에 의한 한역책, 산스크리트 책 모두 높다.

서평가인 마츠오카 마사 타카 는 호카케이의 에디터십을 격상해 “호화경을 읽으면 언제나 흥분한다. 일품 2반」(일반적으로 밥)이라고 불려 온 특별한 경첩(쵸츠가이)이 작용하고 있다. 15 ‘종지용출품’의 후반부부터 16 ‘여래수량품’과 17 ‘분별공덕품’ 전반부까지를 한꺼번에 굳이 ‘일품 2반’으로 본다. 그 경첩에 의해, 전반의 「상문」과 후반의 「본문」이 병풍 맞추기와 같이 되어 간다. 34] 라고 말한다.

쇼와의 불교학자였던 와타나베 테루히로 는 “산스크리트 책에 대해서 보면 문체는 매우 조야로 단순, 보기에 별로 교양이 없는 사람들의 손으로 쓰여졌다”[35]라고 비판 했다 . 이에 대해 불교사상연구가의 우에키 마사토시 는 산스크리트 원본에서 '호화경'을 번역한 경험을 근거로 복잡하고 정묘한 가사를 구사한 ''호화경' 편찬에 종사한 사람의 교양 수준의 높이 에 놀라게 된다"고 격상한 뒤, "(와타나베 테루히로씨가) 무엇으로 그렇게 결론을 받았는지, 목을 기울여 버린다"[36]라고 반론하고 있다 . 또, 역사에 실재한 석가가 설설한 「원시불교」의 평등사상이나 인간중심주의가 석가의 사후 500년 사이에 「소승불교」교단에 의해 개찬되고 있어, 사상적으로 보면 「법화경  이야말로 "불설"이라고 식목은 말한다 [37] .

우에키 마사토시는 「창가 교육」으로, 쇼와의 일본에서 출판된 이와나미 문고판 「호화경」 [38]에는, 산스크리트 책으로부터의 일본어 번역도 게재되고 있지만, 오역이 산견되어, 이와나미 문고 의 오역의 개소를 하토마라 什에 의한 한역과 비교하면, 하토마라 什는 산스크리트 문법을 합쳐 의미를 정확하게 파악하고, 적절한 한역을 만든 것을 알 수 있다고 한다[39 ] .

사회학자의 다리 손톱 오사부로 는 천대종 으로부터 가마쿠라 불교가 태어난 것을 평가하고 있다 [40] .

한역 일람 편집 ]

  • 『묘법 연꽃경』하치마키 하토 마라 센역
  • 『정법화경』 1권 권법 호역 (다이마사쿠라 263)
  • 『첨품묘법 연꽃경』 7권 闍那崛多・笈多訳
  • 『사쓰구미 분타리케이』 일권 번역가 불명 (다이마사쿠라 265)
  • 『불설 아유월치 차경』 삼권 축법 호역 (다이마사쿠라 265)
  • 『불퇴전법 윤경』 4권 역자 불명
  • 『불설 히로히로 엄정 불퇴 전륜경』 6권 토모 엄역
  • 『불설법화 삼매경』 일권 토모 엄역 (다이마사쿠라 269)
  • 『대법 고경』 2권 구나 와타라 역
  • “불설 보살 행방편 경계 신통 변화경”
  • 『오오사쓰 차도 마른자 소설경』도마키 보리 제류 지역 (다이마사쿠라 272)
  • 『금강 삼매경』 한 권 번역가 불명 (대정장 273)
  • 『불설제 여러분 등 학경』 일권 준법호역 (다이마사쿠라 274)
  • 『대승방 히로소지케이』 1권 비타미 다류 지역
  • 『무량의경』 1권
  • 『불설관 보현보살 행법경』 1권 구름무밀 다역

번역본 편집 ]

주요 현대 어역 편집 ]

각주 편집 ]

주석 편집 ]

  1. ^ 호화경의 현대의 해설서에는 종종 이러한 사진과 이러한 주지의 해설이 붙어 있다.
  2. ↑ 성덕태자 에 의해 저술되었다고 여겨지는 호화경의 주석서 「호화경의성」은 삼경의성의 하나이다 .
  3. ^ 경의 글자를 떼면 「호화」가 되지만, 이것은 일반적으로 「호케」라고 발음한다.
  4.  산스크리트어판 『호화경』을 일본어로 번역한 불교학자의 우에키 마사토시도 하토마라 십일역의 정확성을 높이 평가하고 있다. 우에키는, 이와나미 문고판 「호화경」(1976)의 이와모토 유역에는 오역이 많은 것, 이와모토가 오역한 개소에 대해서도 하토마라 센은 정확하게 번역하고 있는 것을, 구체적 예를 들어 상세히 설명 하고있다. 우에키 마사토시 「호화경-梵漢和対照・現代語訳」(上・下, 岩波書店, 2008) 및 우에키 마사토시 「절묘했던 하토마라 센역-산스크리트어에서 「호화경」 「유마경」을 번역 ―」(창가연구 제7호, 2014)를 참조. 이와 같이 「우수하다고 해도, 산스크리트어 원본에 충실한 것은 아니고, 한문으로서 읽기 쉽다는 것이 보다 정확할 것이다. 방편품 말미의 십여시 등, 하토마라 센의 창의에 의해 원본에 없는 문장이 덧붙여진 곳도 있다.(이와모토·사카모토 1976)”라고 하는 견해도 있다.
  5. ^ 이 28품이 호카케이 성립 당초부터 모두 갖추어져 있었는지 여부는 후술의 성립 연대에 대한 논의대로, 의문이지만, 적어도 토치 묘의 설은 28품 모두가 처음부터 갖추어져 있었던 것을 전제로서 전개 되어 있다. 이와모토·사카모토 1976. 이에 대해 요시조의「호화 요시」「논품 유무」는 제파들 다품이 결여된 것을 최종적으로 진상의 번역으로 보충되었다고 기록하고 있으며, 이것은 준도생 이나 호운  주석 책, 게다가 세이토쿠 태자 의 『호화 요시히로』도 제파들 다품이 없어져도 하토마라 십역 『묘법 연화경』은 어떠한 사정으로 제파들 다품이 번역되지 않았는가 없어 27품 되어 있었다고 생각된다. 이노우에 료는 토치 묘의 설에서도 미나미 다케 선사 야스시가 제본을 대교하여 이것을 바로 잡았다고 해서, 에이가 진죄 번역의 제파들 다품을 보충해 본래 있어야 하는 28품으로 옳다 . , 그것이 능에 의한 천하평정 후에 중국 전토에 퍼져, 송수사에 수행한 스님 이 28종류의 경전을 일본에 가져왔다고 한다 [9] . 또한闍那崛多번역에 의해 제파달 다품이 덧붙여 현재의 28품 구성이 되었다고 하는 설도 있다. 闍那崛多訳이 『첨품묘법 연화경』이라고 불리는 것은 이 때문이라고 한다. 다만 闍那崛多訳에서는 '제파달 다품'이라는 독립 장을 세우지 않고 '견보탑품'의 후반에 편입되는 형태를 취하고 있다. 마찬가지로 '관세음 보살 보문품'의 偈頌도 당초는 하토마라 什訳에는 없었지만, 闍那崛多에 의해 번역된 것이 하토마라 什訳에 이입되어 있다고 한다[10 [11] .

출처 편집 ]

  1. ↑ 정선판 일본국어대사전 「호카케이」 , 쇼가쿠칸.
  2.  NHK 100분 de 명저 법 화경[신] 제1회 “모든 생명은 평등하다” 2018년 4월 2일 방송. 신판·NHK 「100분 de 명저」북스, 2021년 6월
  3. 산에다 미츠오 , 일본 대백과 전서(닛포니카) 「호화경」 , 쇼가쿠칸.
  4.  우에키 마사토시 「불교, 진짜 가르침」중공 신서, 2011년, 82-97쪽.
  5. ^ 우에키 마사토시, " Saddharmapundarika の 의미 " "인도 불교 연구", 49권 1호, 2000년, p. 431-429, doi : 10.4259/ibk.49.431 , 일본 인도 불교 협회
  6. 중국어 Wikisource "Miaofa Lianhua経"
  7.  우에키 마사토시 「호화경이란 무엇인가: 그 사상과 배경」중공신서, 2020년
  8. 히라오카 사토시 「호화경의 성립에 관한 새로운 시점:――그 근서・배역・정보원은? ――」 -382 페이지, doi : 10.4259/ibk.59.1_390 , ISSN 0019-4344 , NAID 110008574399  
  9. ^ 이노우에 료 “고물본 “호화 요시”의 성립” 코세 나츠코 편 “고대 일본의 정치와 제도-율령제·사료·의식-” 동성사, 2021년 ISBN 978-4-88621-862-9 P212- 223.
  10. ^ 사카모토 유키오, 이와모토 히로시 '호화경 <상>' 이와나미 분고, 1976 P421-428
  11. ^ 가나오카 히데토모 "불전을 읽는 방법"대법 윤각, 2009 년 P129-135.
  12. ^ 일련은 「월수어서」(월경중에서도 불전을 독서해도 좋을까, 라고 하는 여성신자로부터의 질문에 대한 회답의 편지) 중에서 「법화경은 어떤 물건도 먼저 말씀드리도록 어리석다면 네도, 특히 이십팔품 속에서 이기고 눈길을 끄는 편편품과 수량품으로 사무라이.여품은 모두 가지엽에서 후되어 」 자연스럽게 여품은 요후는 네도 비후후가. 약왕품·제파품은 여인의 성불왕생을 설해져 후품에서는 후후에도, 제파품은 방편품의 가지, 약왕품 하방편품과 수량품의 가지엽에서 후. 되면 항상은 이쪽의 분변품·수량품의 2품을 굳이 후, 여의 품을 바시시 오이토마의 해바라기에 굉장히 빈 후」 라고 말했다. 일련계 불교가 매일 근행으로 방편품과 수량품을 독서하는 근거가 되고 있다.
  13. Miaofa Lianhuajing Guangliang Tiandipin 29권(2872호) 85권
  14. 묘법화경 마명보살 30장(2899호) 85권
  15. ^ 『갱급 일기』 원문 「꿈에 가면 깨끗해지는 승려의, 황색 땅의 袈裟着 오는데 와서 『호화경5의 권을 치는 습관에』라고 말하자면, 사람에게도 말하지 않고. 생각없이."
  16.  『(개정 약해) 호카경요품훈독』메이지 20년 9월 20일 신고/동 21년 6월 재판 , 인쇄인 · 산공사 스즈키 코타로
  17. ↑ d 「철학 사상사전」이와나미 서점, 1998년, pp.1485-1486[호화경]
  18.  가미야 쇼히코 『호화경일불승의 연구』 1983
  19.  『호화경의 성립과 사상』1993
  20. ^ 마츠시타 히로시선 제6강:말할 수 없는 호카케이의 내력 | 닛케이 크로스텍(xTECH)
  21. ↑ 산스크리트 판 축역 , p. 421-422.
  22. ^ 미야모토 마사요네 편 「대승 불교의 성립 사적 연구」(쇼와 29년) 부록 제1 “대승 경전의 성립 연대”
  23. ↑ 와타나베 테루히로『일본의 불교』 이와나미 신서 청판, 2002년 6월 12일, 188쪽. ISBN 978-4004121510 . 
  24.  우에키 마사토역 『범한화대조·현대어역 호카케이(上)』 이와나미서점, pp.593-595
  25. ↑ 티베트 불교 서적 소개
  26. ^ 후지타니 후생, 「김광명경의 교학사적 전개에 대해 PDF )」 「시텐노지 국제불교대학 기요」 2004년 대학원 제4호 28(p14), NAID 110006337539 
  27. ↑ 호화경은 불교의 생명 「불종」이다. 제2장 제2화 법화종 진문류
  28. 신비한 니치렌 #005 <창제로 호카케이의 재흥을 목표로>
  29. ^ Longsheng Dainan, " 대승 정경 노고스트라이타 " "인도 불교 연구", 39권 2호, 1991, p.524-529, 일본 인도학 협회, doi : 10.4259/ibk.39.524 , NAID 110002661557 
  30. ↑ 『호화경』 성립 배경 | NHK 텍스트 뷰
  31. Akinobu Shibata 2013 , p.32.
  32. ↑ 「『호화경』─불교 연구의 요」 M・I・볼로비요바 = 데샤토프스카야 / 에구치 만역
  33. 시바타 아키노부 2013 , 34쪽.
  34.  마츠바라 마사츠키의 천야천권・범한화대조・현대어역 「호화경」이와나미서점 2008[역식기 마사토 ]」열람일 2022년 4월 3일
  35. ↑ 이와 나미 신서 「일본의 불교」 이와나미 신서, p.178
  36.  우에키 마사토시 “지금을 살기 위한 불교 100화” 헤이린샤 신서, 2019년, pp.237-238
  37.  우에키 마사토시 “지금을 살기 위한 불교 100화” 헤이린샤 신서, 2019년, p.249
  38. ^ 사카모토 유키오·이와모토 유역 주 “호화경” 이와나미 문고(상중하), 1976년
  39. ^ 우에키 마사토시 「절묘했던 하토마라 십일역―산스크리트어로부터 『호화경』『유마경』을 번역해―」(『창가 교육』pp.27-61, 2014년 3월 16일)
  40. ^ 다리 손톱 오사부로·호화경은 어디가, 최고의 경전인가, 다리 손톱 대사부로· 우에키 마사토시 공저 “정말의 호카케이” 소개보다(치쿠마 신서, 2015년)

참고 문헌 편집 ]

관련 항목 편집 ]

외부 링크 편집 ]


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