[알라딘]서양인들이 관찰한 후기조선
서양인들이 관찰한 후기조선 l 서강학술총서 17
김학준 (지은이) | 서강대학교출판부 | 2010-06-22
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저자의 말
서론
제1부 서양열강이 조선으로 진출하기 이전 시기에 신라ㆍ고려ㆍ조선을 언급한 서양인들의 기록들
제1장 신라와 고려를 언급한 서양인들(885~1311)
제2장 조선왕조 전기에 코리아를 언급한 서양인들(1516~1625)
제3장 조선왕조 후기 가운데 앞부분 시기에 조선을 설명한 서양인들(1668~1756)
제2부 서양열강이 조선으로 항해를 개시한 이후의 시기에 조선을 관찰한 서양인들의 기록들
제4장 아편전쟁에서 영국이 승리하기 이전의 시기(1787~1842)
제5장 아편전쟁에서 영국이 승리한 때로부터 서양열강의 조선침공이 시작되기 직전까지의 시기(1842~1856)
제6장 프랑스와 미국이 조선을 침공하고 독일이 조선왕릉을 도굴하던 시기(1856~1876)
제3부 조선이 개항한 때로부터 청일전쟁이 일어나기 직전까지의 시기에 조선을 관찰한 서양인들의 기록들
제7장 조선이 일본과 수교한 때로부터 미국과 수교하기 직전까지의 시기(1876~1882)
제8장 조선이 미국을 시발로 서양열강과 수교하던 시기(1882~1886)
제9장 서양열강 사이에 세력균형이 이뤄진 시기: 청일전쟁이 일어나기 직전까지의 시기(1886~1894)
제4부 청일전쟁이 일어난 때로부터 일본이 조선을 '피보호국'으로 만들기 직전까지의 시기에 조선을 관찰한 서양인들의 기록들
제10장 청일전쟁 발발을 전후한 시점으로부터 대한제국 성립을 전후한 시점까지의 시기(1894~1897)
제11장 대한제국 성립을 전후한 시점으로부터 러일전쟁 발발을 전후한 시점까지의 시기(1897~1905)
제5부 일제의 '피보호국' 시기에 조선을 관찰한 서양인들의 기록들
제12장 일제의 비판한 서양인들과 지지한 서양인들(1905~1910)
제13장 서양인들이 관찰한 조선인들의 생활모습(1905~1910)
제6부 서양인 관찰들의 요약 그리고 그것들에 대한 평가
제14장 서양인 관찰들의 요약
제15장 서양인 관찰들에 대한 평가: 조선과 조선인들을 위한 변호
참고문헌
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【FaceBookとしては非常な長文です。お勧めできません。】
“「植民地近代化論」は韓国国民が越えていかなければならない重要な通過点であるという認識を共有する必要がある”。
“ 「식민지 근대화론」은 한국 국민이 넘어 가지 않으면 안 되는 중요한 통과점이다고 하는 인식을 공유하는것이 필요하다.”
【書評】:金学俊著 金容権訳『西洋人の見た朝鮮-李朝末期の政治・社会・風俗』(山川出版社2014,12.20,本文530ページ註52ページ)(原題は『西洋人が観察した後期朝鮮』西江学術叢書一七巻目の1、2010)
約600ページにもわたるこの著作は、序論において亡国の原因を追求するという執筆の目的示す。すなわち現在の朝鮮の分断は日本帝国主義の朝鮮支配に根源があるのだが、ところが日帝時代に日本は、日本が朝鮮を支配したのは朝鮮内部に原因があったという「内因論」を主張してきた。すなわち朝鮮王朝末期の指導者層は、腐敗し無能で国家を独立を維持する能力に欠け、そのうえ民衆は分裂し、朝鮮は、内部から亡国に至ったというのである。これに対し1945年解放後、韓国においては「外因論」が主張された。つまり、金容燮・姜萬吉・宋賛植などに代表される諸先生は、朝鮮社会における「内在的発展」を抽出し、朝鮮後期社会は資本主義的発展(近代化)の道をたどっていたが、20世紀初めの帝国主義列強の確執の結果、最後に、日本帝国主義に武力で強制併合されたと主張して、多くの賛同を得てきた。
しかし20世紀末頃から、ソウル大学の李栄薫先生を中心とする研究者から異論が出てきた。彼らは、重厚な実証と考察の結果、朝鮮時代末期から大韓帝国時代にかけて、指導層の無能と腐敗、国民の怠惰と無気力が重なって、内部的には国は既に崩れていたと主張した。すなわち「内因論」の「復活」である。この学説は、日本帝国主義免罪論であるとして大きな反発を受けた。しかし申福龍先生は(「外因論」は)「亡国の責任を問わない歴史学である。」として批判した。そこで金学俊先生は、前近代の朝鮮が、来航した西洋人の目にはどのように映ったのかを検証しようと考えた。金学俊先生は、朝鮮併合以前の西洋人の文献(70種類以上にも及ぶ)に現れた、朝鮮の国家・社会また自然地理に至るまでの諸記録を調査分析して、その結果を、特に19世紀後半を中心としてまとめたのである。
さて先生のこの著書は、序論以下、六つの部で構成され、かつ各部が二~三章に分かれる。各章は第一部を除いて、西洋人の伝えたテキスト一種類を、原則として1節として内容を紹介し、その分析と、書かれた時期の時代状況の説明を附す。しかしここでは紙数の関係上、すべての文献名を示すわけにいかないので省略して各章までとし、必要な場合は文中で表示したい。また各時期の重要事件は目次内に菅野が{}で記した。
目次
序章
第一部 西洋列強の朝鮮進出以前の時期に新羅・高麗・朝鮮について言及した西洋人の 記録
第一章 新羅と高麗に言及した西洋人(885~1311)
第二章 朝鮮前期を記録した西洋人(1516~1625)
{壬辰倭乱を記録した西洋人宣教師}
第三章 朝鮮後期の前半に朝鮮を記した西洋人(1668~1756)
第二部 西洋列強が朝鮮への渡航を開始した後に朝鮮を見た西洋人の記録
第二章 アヘン戦争における英国の勝利から西洋列強の朝鮮侵攻の直前(1842) {天主教迫害}
第三章 フランスと米国の朝鮮侵攻およびドイツの王陵盗掘(1856~1876)
{1866年丙寅迫害・・・朝鮮人神父など処刑 }
{1866シャーマン号、大同江を遡上 焼き払われる }
{1871交戦、辛未洋憂 }
第三部 開港から日清戦争まで(1876~1894)
第一章 朝鮮の対日修好から対米修好直前まで(1876~1882)
{朝鮮を「半開化国」と見た日本の砲艦外交と江華島条約}
第二章 朝鮮が米国を始め欧米列国と修好する時期(1882~1886)
{李鴻章の手引きで列国が朝鮮と修好 }
第三章 西洋列強間の勢力均衡の時期-日清戦争勃発まで(1885~1894)
第四部 日清戦争勃発から日本の朝鮮「保護国」化直前まで(1894~1910)
第一章 西洋人の見た朝鮮人の暮らし(1905~1910)
第二章 大韓帝国成立前後から日露戦争勃発前後まで(1897~1905)
第六部 西洋人の観察の要約とその評価
第一章 西洋人の観察の要約:
第二章 西洋人の観察への評価―朝鮮と朝鮮人のための弁護
(以上で目次は終わり)
さて、大航海時代の末期から19世紀前期ごろまでは、朝鮮に到達した西洋諸国の航海者たちが朝鮮国内に長期滞在した人物はほとんどおらず、朝鮮に対する記述は、沿岸の海上を通過する際に陸地を展望する、あるいは海図を作成する作業の際して海岸を観察するなどの結果であった。上陸した場合もすぐ船に引き返した。海岸は侘しい、寂れている、村落は貧しいが、しかし一方、景色は美しい、などと記録された。
ところが例外的に、17世紀に難破して済州島に漂着し長期抑留されて、記録を残した人物がいた。オランダ人ヘンドリック・ハメルである。彼の記述した『難破記』(日本では『朝鮮幽囚記』、平凡社「東洋文庫」所収)はオランダ語から西洋各国語に翻訳され大きな影響を与えた。すなわち朝鮮国は、絶対君主の下で行政が効率的におこなわれており、刑罰が厳しく、科学技術と産業・商業が未熟で貧しく、対外閉鎖的で、漂流者に対しても残酷に臨む、というのである。ただこの情報には問題があった。それにもましてハメルの不幸は、17世紀後半の孝宗・顯宗時代に漂着したことである。すなわちこの時期は、朝鮮王朝において「北伐論」が行われていたのである。
朝鮮王国は16世紀末に秀吉の侵略を受けた後、17世紀前期に北方に勃興した女真(満洲族)の「後金」、改称して「清」の侵略を受け、屈服した。清の冊封を受けるつまり従属国となった。朝鮮政府は清への復讐のため「北伐」の意思を固めた。上国と仰ぐ「明」王朝の残党が台湾を拠点として反清活動を継続している間(17世紀中・後期)、「五営制」など常備軍の制度を整備し、対清戦争に備えて軍馬育成のための牧場を各地に設けた。清に対しては騎馬軍を持たなければ勝利はおぼつかない。そして「北伐」政策は当然、国家の極秘事項であった。
一方、日本の再侵略に備えて朝鮮王朝は、引き続き強い日本への警戒心を持続し、日本人の内陸への交通を禁止していた。この時代状況はハメル一行の不幸であった。朝鮮内部に長期滞在した以上、朝鮮王朝は、秘密漏洩を恐れてハメル一行を国外に出すことはできなかった。中国にも日本にも送還するわけにいかなかったのである。このような時代状況の説明を行わないならば、金学俊先生は、朝鮮王朝は“鎖国”の国=「隠者の国」=閉鎖的国家であったという、当時の西洋人に伝わった同じ誤りを犯すことになる。
本来、朝鮮王朝は閉鎖的であったわけではない。中国の明・清とも、日本の室町・江戸の両政権とも、通商のみならず正式な国交を結んでいる。またそもそも西洋諸国は19世紀前後まで朝鮮に国交を要求してこなかった。“鎖国”というのは表現は当たらない。ただ17世紀の軍国主義的「北伐」体制は、その後の朝鮮王朝の外交政策を縛ったと思う。儒教的官僚国家の“祖宗の法”厳守という意識が、朝鮮後期の外交政策を縛ったのである。
19世紀に入る頃から西洋人宣教師、海軍軍人の報告が増えた。また、1877年、日本を先頭として諸外国と国交を開いてからは、外交官、朝鮮政府の外人顧問、そして旅行家を含むジャーナリスト、商人などの、朝鮮人と朝鮮の政治社会に対して記述した文献が相次いで出版されるに至る。そこでは一様に朝鮮王国の対外閉鎖性と外部世界に対する無知、武の弱体、支配階層の搾取・虐待、国家全体の分裂、労働意欲の喪失、民衆の貧困、国家の窮乏、公共概念が存在しない、やがて将来滅亡するか、あるいは植民地となるかとの予想、またソウルの町並みの不潔・不衛生、衛生観念の不在から伝染病の蔓延、そして住居の不潔による害虫の跋扈、女性には名前すらないという誤解、女性差別、そして最終的には日本の支配は合理的であるという、西洋人の多数派の考えが記されていた。(少数の例外は存在したが。)
さてこの西洋人の観察は、実は李栄薫氏のグループの近年の朝鮮経済史研究の研究成果を裏書きするのである。
20世紀の終わり頃、韓国はNIES的発展を見せ、地方の両班家などが秘蔵していた各種の文書が大量に公的機関の保存に移行した。その際、それらの朝鮮時代後期数世紀に及ぶ事項を記した残存文書に対して、コンピュータ技術を駆使した統計処理・分析などの研究が盛行した。そしてそれらの研究は「内在的発展論」を否定する結果を導き出した。詳述する余裕はないが、地方両班地主経営においては、数十年あるいは一世紀を超えて継続的に記録された経営文書の分析により、時間軸的に経営規模の拡張と縮小を繰り返し、循環しているような経営の実態が示され、また一方では、朝鮮後期には、零細細分化といわれる小農経営の広範な成立が示されたのである(「小農社会論」)。つまり金容燮氏などの見解に反して、近代化(資本主義化)を担うトレーガーが検出されないのである。しかも19世紀は、同じく、これらの文書の分析の結果、人口の減少、地税収入減少、米穀価格の高騰、地方の定期市の開催回数が18世紀に比べて3割から4割程度減少するなどの、経済諸活動が萎縮していく傾向が実証されたのである。諸生産活動は朝鮮半島においては19世紀には明らかに縮小に転じていた。そして加えて、これらの諸研究は、1877年の強制開港以後、むしろ経済活動は上昇に転じていることを示した。さらにもう一つ重要なことは、王朝財政の19世紀末・20世紀初期の状況を分析した結果、破綻を宣言せざるを得なかったのである。
これらの研究結果は、19世紀に朝鮮に滞在した西洋人の観察結果と符合する。すなわち朝鮮王朝の社会の貧困・不潔等、前述した内容に符合するのである。
加えて、さらに西洋人の記述を見るならば、より具体的な記述見つけることができた。それは、ある西洋人の朝鮮人通訳が、官職を得るやいなや、民衆からの略奪者に変貌したのであるが、これを目の当たりにした通訳の雇用者であった西洋人の大きな驚きや、閔泳翊の主治医となったアーレンが、閔泳翊が治療費として当時の朝鮮の大商人が動かせる金額の数十倍もの金額を提供したとして、大いに当惑を感じたと書き残したことなどである。またある西洋人は、日露戦争時、国家の危急にかかわらず、政府は皇太子の葬儀費用として巨額の金額を支出をしたとして、これも驚きを伝えている。これら西洋人の証言は、李栄薫氏らの経済史研究の成果を裏付けるものであり、逆に、李栄薫氏らの研究成果は西洋人の証言の妥当性を証明するのである。
それでは現在の韓国の繁栄は如何に説明されなければならないのか。西洋人の証言のなかにはわずかであるが、イザベラバードなど朝鮮人を褒める言説が見える。すなわちバードは(ロシア領)沿海州に移住した朝鮮人の、労働意欲に満ち生き生きとた姿を見て、彼らは賢明な政府を持てば良い暮らしを持てるようになるとの感想を持った。儒教主義が諸悪の根源なのである。その他の西洋人も、ハングル文字の優秀性、オンドルの合理性などに注目した。
そこで金学俊氏は最終章で、当時の西洋人はその頃流行した人種主義に毒されて偏見を持っており、朝鮮社会の後進性を強調したが、しかしこれは本来の姿ではなく、朝鮮人(韓国人)は18世紀の朴斉家『北学議』が示す方向に舵を切りさえすれば、商業を活発にし、各種産業を起こして豊かな国を建設する民族なのであって、21世紀の現在の韓国では、それが実現されたのであると述べている。
それであるならば、筆者(菅野)は、儒教主義をとらない高麗時代や新羅時代の商業政策、対外貿易などにも言及すれば、朝鮮民族の旺盛な経済活動を示す場面がより見えてくると思う。
ただ、朝鮮時代・大韓帝国時代と大韓民国時代の間には日本の植民地時代が挟まれてある。金学俊氏はこれには触れない。植民地時代には銀行制度=近代的金融制度の創出、土地調査事業による近代的私的所有制度の確立、近代工業の移植、鉄道などインフラの整備など、近代化事業が実施された。しかし現在、韓国では「植民地近代化論」としてこれを忌避する傾向がある。
筆者は当時の日本帝国主義が近代化を促進したことは当然であると思う。勿論、恩恵としてではなく、より有利に収奪するためである。農業社会からどのように収奪したとしても、元々生産性が低いから多額には達しない。ところが工業の生産性は農業のそれを大きく上回る。ゆえに産業化した社会から収奪したならば、農業社会から収奪する場合に比較して数十倍の利益を上げることが普通となる。日本帝国主義が台湾で成功した近代化(産業化)を朝鮮で実施するのである。植民者からみれば当然の判断であろう。したがって、より冷静に「植民地近代化論」を議論すべきである。
最後に、金学俊氏は当時のドイツ・フランスの朝鮮政策をめぐるロシアびいきを、日本とイギリスなどの海洋国家に対する、大陸国家どうしの親近性を示すと述べておられるが、19世紀後期の1870年代から20世紀初期の日露戦争が終わるまでは、この三国は同盟関係にある(三帝同盟、再保障条約、露仏同盟)。ゆえに大陸国家云々は再検討すべきだ。
また、翻訳で気になったのは、「高宗を謁見した」という箇所が複数あったことである。もちろん「高宗に謁見した」が正しい。「高宗を謁見した」とすると主客が逆転してしまう。これは誤訳である。とんでもない誤解につながる恐れがある。訂正をお願いしたい。
まだまだ論じ尽くせないが、大変面白い著作であった。御一読をお勧めしたい。
서양인들이 관찰한 후기조선 l 서강학술총서 17
김학준 (지은이) | 서강대학교출판부 | 2010-06-22
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저자의 말
서론
제1부 서양열강이 조선으로 진출하기 이전 시기에 신라ㆍ고려ㆍ조선을 언급한 서양인들의 기록들
제1장 신라와 고려를 언급한 서양인들(885~1311)
제2장 조선왕조 전기에 코리아를 언급한 서양인들(1516~1625)
제3장 조선왕조 후기 가운데 앞부분 시기에 조선을 설명한 서양인들(1668~1756)
제2부 서양열강이 조선으로 항해를 개시한 이후의 시기에 조선을 관찰한 서양인들의 기록들
제4장 아편전쟁에서 영국이 승리하기 이전의 시기(1787~1842)
제5장 아편전쟁에서 영국이 승리한 때로부터 서양열강의 조선침공이 시작되기 직전까지의 시기(1842~1856)
제6장 프랑스와 미국이 조선을 침공하고 독일이 조선왕릉을 도굴하던 시기(1856~1876)
제3부 조선이 개항한 때로부터 청일전쟁이 일어나기 직전까지의 시기에 조선을 관찰한 서양인들의 기록들
제7장 조선이 일본과 수교한 때로부터 미국과 수교하기 직전까지의 시기(1876~1882)
제8장 조선이 미국을 시발로 서양열강과 수교하던 시기(1882~1886)
제9장 서양열강 사이에 세력균형이 이뤄진 시기: 청일전쟁이 일어나기 직전까지의 시기(1886~1894)
제4부 청일전쟁이 일어난 때로부터 일본이 조선을 '피보호국'으로 만들기 직전까지의 시기에 조선을 관찰한 서양인들의 기록들
제10장 청일전쟁 발발을 전후한 시점으로부터 대한제국 성립을 전후한 시점까지의 시기(1894~1897)
제11장 대한제국 성립을 전후한 시점으로부터 러일전쟁 발발을 전후한 시점까지의 시기(1897~1905)
제5부 일제의 '피보호국' 시기에 조선을 관찰한 서양인들의 기록들
제12장 일제의 비판한 서양인들과 지지한 서양인들(1905~1910)
제13장 서양인들이 관찰한 조선인들의 생활모습(1905~1910)
제6부 서양인 관찰들의 요약 그리고 그것들에 대한 평가
제14장 서양인 관찰들의 요약
제15장 서양인 관찰들에 대한 평가: 조선과 조선인들을 위한 변호
참고문헌
찾아보기
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【FaceBookとしては非常な長文です。お勧めできません。】
“「植民地近代化論」は韓国国民が越えていかなければならない重要な通過点であるという認識を共有する必要がある”。
“ 「식민지 근대화론」은 한국 국민이 넘어 가지 않으면 안 되는 중요한 통과점이다고 하는 인식을 공유하는것이 필요하다.”
【書評】:金学俊著 金容権訳『西洋人の見た朝鮮-李朝末期の政治・社会・風俗』(山川出版社2014,12.20,本文530ページ註52ページ)(原題は『西洋人が観察した後期朝鮮』西江学術叢書一七巻目の1、2010)
約600ページにもわたるこの著作は、序論において亡国の原因を追求するという執筆の目的示す。すなわち現在の朝鮮の分断は日本帝国主義の朝鮮支配に根源があるのだが、ところが日帝時代に日本は、日本が朝鮮を支配したのは朝鮮内部に原因があったという「内因論」を主張してきた。すなわち朝鮮王朝末期の指導者層は、腐敗し無能で国家を独立を維持する能力に欠け、そのうえ民衆は分裂し、朝鮮は、内部から亡国に至ったというのである。これに対し1945年解放後、韓国においては「外因論」が主張された。つまり、金容燮・姜萬吉・宋賛植などに代表される諸先生は、朝鮮社会における「内在的発展」を抽出し、朝鮮後期社会は資本主義的発展(近代化)の道をたどっていたが、20世紀初めの帝国主義列強の確執の結果、最後に、日本帝国主義に武力で強制併合されたと主張して、多くの賛同を得てきた。
しかし20世紀末頃から、ソウル大学の李栄薫先生を中心とする研究者から異論が出てきた。彼らは、重厚な実証と考察の結果、朝鮮時代末期から大韓帝国時代にかけて、指導層の無能と腐敗、国民の怠惰と無気力が重なって、内部的には国は既に崩れていたと主張した。すなわち「内因論」の「復活」である。この学説は、日本帝国主義免罪論であるとして大きな反発を受けた。しかし申福龍先生は(「外因論」は)「亡国の責任を問わない歴史学である。」として批判した。そこで金学俊先生は、前近代の朝鮮が、来航した西洋人の目にはどのように映ったのかを検証しようと考えた。金学俊先生は、朝鮮併合以前の西洋人の文献(70種類以上にも及ぶ)に現れた、朝鮮の国家・社会また自然地理に至るまでの諸記録を調査分析して、その結果を、特に19世紀後半を中心としてまとめたのである。
さて先生のこの著書は、序論以下、六つの部で構成され、かつ各部が二~三章に分かれる。各章は第一部を除いて、西洋人の伝えたテキスト一種類を、原則として1節として内容を紹介し、その分析と、書かれた時期の時代状況の説明を附す。しかしここでは紙数の関係上、すべての文献名を示すわけにいかないので省略して各章までとし、必要な場合は文中で表示したい。また各時期の重要事件は目次内に菅野が{}で記した。
目次
序章
第一部 西洋列強の朝鮮進出以前の時期に新羅・高麗・朝鮮について言及した西洋人の 記録
第一章 新羅と高麗に言及した西洋人(885~1311)
第二章 朝鮮前期を記録した西洋人(1516~1625)
{壬辰倭乱を記録した西洋人宣教師}
第三章 朝鮮後期の前半に朝鮮を記した西洋人(1668~1756)
第二部 西洋列強が朝鮮への渡航を開始した後に朝鮮を見た西洋人の記録
第二章 アヘン戦争における英国の勝利から西洋列強の朝鮮侵攻の直前(1842) {天主教迫害}
第三章 フランスと米国の朝鮮侵攻およびドイツの王陵盗掘(1856~1876)
{1866年丙寅迫害・・・朝鮮人神父など処刑 }
{1866シャーマン号、大同江を遡上 焼き払われる }
{1871交戦、辛未洋憂 }
第三部 開港から日清戦争まで(1876~1894)
第一章 朝鮮の対日修好から対米修好直前まで(1876~1882)
{朝鮮を「半開化国」と見た日本の砲艦外交と江華島条約}
第二章 朝鮮が米国を始め欧米列国と修好する時期(1882~1886)
{李鴻章の手引きで列国が朝鮮と修好 }
第三章 西洋列強間の勢力均衡の時期-日清戦争勃発まで(1885~1894)
第四部 日清戦争勃発から日本の朝鮮「保護国」化直前まで(1894~1910)
第一章 西洋人の見た朝鮮人の暮らし(1905~1910)
第二章 大韓帝国成立前後から日露戦争勃発前後まで(1897~1905)
第六部 西洋人の観察の要約とその評価
第一章 西洋人の観察の要約:
第二章 西洋人の観察への評価―朝鮮と朝鮮人のための弁護
(以上で目次は終わり)
さて、大航海時代の末期から19世紀前期ごろまでは、朝鮮に到達した西洋諸国の航海者たちが朝鮮国内に長期滞在した人物はほとんどおらず、朝鮮に対する記述は、沿岸の海上を通過する際に陸地を展望する、あるいは海図を作成する作業の際して海岸を観察するなどの結果であった。上陸した場合もすぐ船に引き返した。海岸は侘しい、寂れている、村落は貧しいが、しかし一方、景色は美しい、などと記録された。
ところが例外的に、17世紀に難破して済州島に漂着し長期抑留されて、記録を残した人物がいた。オランダ人ヘンドリック・ハメルである。彼の記述した『難破記』(日本では『朝鮮幽囚記』、平凡社「東洋文庫」所収)はオランダ語から西洋各国語に翻訳され大きな影響を与えた。すなわち朝鮮国は、絶対君主の下で行政が効率的におこなわれており、刑罰が厳しく、科学技術と産業・商業が未熟で貧しく、対外閉鎖的で、漂流者に対しても残酷に臨む、というのである。ただこの情報には問題があった。それにもましてハメルの不幸は、17世紀後半の孝宗・顯宗時代に漂着したことである。すなわちこの時期は、朝鮮王朝において「北伐論」が行われていたのである。
朝鮮王国は16世紀末に秀吉の侵略を受けた後、17世紀前期に北方に勃興した女真(満洲族)の「後金」、改称して「清」の侵略を受け、屈服した。清の冊封を受けるつまり従属国となった。朝鮮政府は清への復讐のため「北伐」の意思を固めた。上国と仰ぐ「明」王朝の残党が台湾を拠点として反清活動を継続している間(17世紀中・後期)、「五営制」など常備軍の制度を整備し、対清戦争に備えて軍馬育成のための牧場を各地に設けた。清に対しては騎馬軍を持たなければ勝利はおぼつかない。そして「北伐」政策は当然、国家の極秘事項であった。
一方、日本の再侵略に備えて朝鮮王朝は、引き続き強い日本への警戒心を持続し、日本人の内陸への交通を禁止していた。この時代状況はハメル一行の不幸であった。朝鮮内部に長期滞在した以上、朝鮮王朝は、秘密漏洩を恐れてハメル一行を国外に出すことはできなかった。中国にも日本にも送還するわけにいかなかったのである。このような時代状況の説明を行わないならば、金学俊先生は、朝鮮王朝は“鎖国”の国=「隠者の国」=閉鎖的国家であったという、当時の西洋人に伝わった同じ誤りを犯すことになる。
本来、朝鮮王朝は閉鎖的であったわけではない。中国の明・清とも、日本の室町・江戸の両政権とも、通商のみならず正式な国交を結んでいる。またそもそも西洋諸国は19世紀前後まで朝鮮に国交を要求してこなかった。“鎖国”というのは表現は当たらない。ただ17世紀の軍国主義的「北伐」体制は、その後の朝鮮王朝の外交政策を縛ったと思う。儒教的官僚国家の“祖宗の法”厳守という意識が、朝鮮後期の外交政策を縛ったのである。
19世紀に入る頃から西洋人宣教師、海軍軍人の報告が増えた。また、1877年、日本を先頭として諸外国と国交を開いてからは、外交官、朝鮮政府の外人顧問、そして旅行家を含むジャーナリスト、商人などの、朝鮮人と朝鮮の政治社会に対して記述した文献が相次いで出版されるに至る。そこでは一様に朝鮮王国の対外閉鎖性と外部世界に対する無知、武の弱体、支配階層の搾取・虐待、国家全体の分裂、労働意欲の喪失、民衆の貧困、国家の窮乏、公共概念が存在しない、やがて将来滅亡するか、あるいは植民地となるかとの予想、またソウルの町並みの不潔・不衛生、衛生観念の不在から伝染病の蔓延、そして住居の不潔による害虫の跋扈、女性には名前すらないという誤解、女性差別、そして最終的には日本の支配は合理的であるという、西洋人の多数派の考えが記されていた。(少数の例外は存在したが。)
さてこの西洋人の観察は、実は李栄薫氏のグループの近年の朝鮮経済史研究の研究成果を裏書きするのである。
20世紀の終わり頃、韓国はNIES的発展を見せ、地方の両班家などが秘蔵していた各種の文書が大量に公的機関の保存に移行した。その際、それらの朝鮮時代後期数世紀に及ぶ事項を記した残存文書に対して、コンピュータ技術を駆使した統計処理・分析などの研究が盛行した。そしてそれらの研究は「内在的発展論」を否定する結果を導き出した。詳述する余裕はないが、地方両班地主経営においては、数十年あるいは一世紀を超えて継続的に記録された経営文書の分析により、時間軸的に経営規模の拡張と縮小を繰り返し、循環しているような経営の実態が示され、また一方では、朝鮮後期には、零細細分化といわれる小農経営の広範な成立が示されたのである(「小農社会論」)。つまり金容燮氏などの見解に反して、近代化(資本主義化)を担うトレーガーが検出されないのである。しかも19世紀は、同じく、これらの文書の分析の結果、人口の減少、地税収入減少、米穀価格の高騰、地方の定期市の開催回数が18世紀に比べて3割から4割程度減少するなどの、経済諸活動が萎縮していく傾向が実証されたのである。諸生産活動は朝鮮半島においては19世紀には明らかに縮小に転じていた。そして加えて、これらの諸研究は、1877年の強制開港以後、むしろ経済活動は上昇に転じていることを示した。さらにもう一つ重要なことは、王朝財政の19世紀末・20世紀初期の状況を分析した結果、破綻を宣言せざるを得なかったのである。
これらの研究結果は、19世紀に朝鮮に滞在した西洋人の観察結果と符合する。すなわち朝鮮王朝の社会の貧困・不潔等、前述した内容に符合するのである。
加えて、さらに西洋人の記述を見るならば、より具体的な記述見つけることができた。それは、ある西洋人の朝鮮人通訳が、官職を得るやいなや、民衆からの略奪者に変貌したのであるが、これを目の当たりにした通訳の雇用者であった西洋人の大きな驚きや、閔泳翊の主治医となったアーレンが、閔泳翊が治療費として当時の朝鮮の大商人が動かせる金額の数十倍もの金額を提供したとして、大いに当惑を感じたと書き残したことなどである。またある西洋人は、日露戦争時、国家の危急にかかわらず、政府は皇太子の葬儀費用として巨額の金額を支出をしたとして、これも驚きを伝えている。これら西洋人の証言は、李栄薫氏らの経済史研究の成果を裏付けるものであり、逆に、李栄薫氏らの研究成果は西洋人の証言の妥当性を証明するのである。
それでは現在の韓国の繁栄は如何に説明されなければならないのか。西洋人の証言のなかにはわずかであるが、イザベラバードなど朝鮮人を褒める言説が見える。すなわちバードは(ロシア領)沿海州に移住した朝鮮人の、労働意欲に満ち生き生きとた姿を見て、彼らは賢明な政府を持てば良い暮らしを持てるようになるとの感想を持った。儒教主義が諸悪の根源なのである。その他の西洋人も、ハングル文字の優秀性、オンドルの合理性などに注目した。
そこで金学俊氏は最終章で、当時の西洋人はその頃流行した人種主義に毒されて偏見を持っており、朝鮮社会の後進性を強調したが、しかしこれは本来の姿ではなく、朝鮮人(韓国人)は18世紀の朴斉家『北学議』が示す方向に舵を切りさえすれば、商業を活発にし、各種産業を起こして豊かな国を建設する民族なのであって、21世紀の現在の韓国では、それが実現されたのであると述べている。
それであるならば、筆者(菅野)は、儒教主義をとらない高麗時代や新羅時代の商業政策、対外貿易などにも言及すれば、朝鮮民族の旺盛な経済活動を示す場面がより見えてくると思う。
ただ、朝鮮時代・大韓帝国時代と大韓民国時代の間には日本の植民地時代が挟まれてある。金学俊氏はこれには触れない。植民地時代には銀行制度=近代的金融制度の創出、土地調査事業による近代的私的所有制度の確立、近代工業の移植、鉄道などインフラの整備など、近代化事業が実施された。しかし現在、韓国では「植民地近代化論」としてこれを忌避する傾向がある。
筆者は当時の日本帝国主義が近代化を促進したことは当然であると思う。勿論、恩恵としてではなく、より有利に収奪するためである。農業社会からどのように収奪したとしても、元々生産性が低いから多額には達しない。ところが工業の生産性は農業のそれを大きく上回る。ゆえに産業化した社会から収奪したならば、農業社会から収奪する場合に比較して数十倍の利益を上げることが普通となる。日本帝国主義が台湾で成功した近代化(産業化)を朝鮮で実施するのである。植民者からみれば当然の判断であろう。したがって、より冷静に「植民地近代化論」を議論すべきである。
最後に、金学俊氏は当時のドイツ・フランスの朝鮮政策をめぐるロシアびいきを、日本とイギリスなどの海洋国家に対する、大陸国家どうしの親近性を示すと述べておられるが、19世紀後期の1870年代から20世紀初期の日露戦争が終わるまでは、この三国は同盟関係にある(三帝同盟、再保障条約、露仏同盟)。ゆえに大陸国家云々は再検討すべきだ。
また、翻訳で気になったのは、「高宗を謁見した」という箇所が複数あったことである。もちろん「高宗に謁見した」が正しい。「高宗を謁見した」とすると主客が逆転してしまう。これは誤訳である。とんでもない誤解につながる恐れがある。訂正をお願いしたい。
まだまだ論じ尽くせないが、大変面白い著作であった。御一読をお勧めしたい。