立松和平の「いのち」の思想
―「いのち」をめぐる教材研究のこころみ―
大関 健一,青柳 宏
宇都宮大学共同教育学部研究紀要 第71号 別刷
2021年3月
立松和平の「いのち」の思想
―「いのち」をめぐる教材研究のこころみ―
TheThoughtof‘theLife(inochi)’byTatematsuWahei
大関 健一†,青柳 宏‡
OZEKIKenichi,AOYAGIHiroshi
概要(Summary)
子どもたちをはじめ、誰もが生きていく中で、それぞれに、それぞれらしく自らの生き方を問う。
それは自らの生と死、そして「いのち」に対する問いといえるだろう。
本稿は、立松和平(1947 ~ 2010)の作品を「生と死の教育」の地平に立ち、「いのち」の思想という視点から読み取ることで、それらの内にある意味世界を探究する教材研究としてのこころみである。そして、そこに現成してきたのは、森羅万象に満ちた「いのち」に出合うという立松作品の教材としての価値と、「宗教性」の次元における「生と死の授業」の可能性だった。
立松のもつ「いのち」の思想にふれるということは、そのまま、自らの「いのち」について問い直すということでもあった。そして、立松の「いのち」の思想は、私たちの目の前に、新たな「世界の観え方」を現成してくれた。
キーワード:いのち、宗教性、仏性、真理、有時、徧界曾て蔵さず、只管打坐、心身脱落、森羅万象、持続可能な発展、戦争、世界観
1.はじめに
「百花春至為誰開」
(入矢・溝口・末木・伊藤,1992:p.100.)
中国の仏教書である『碧巌録』に記されている禅語である。百花春至って誰が為にか開く。春に美しく咲く花々は誰のために咲くのだろうか。それは、誰のためでもない。ただ咲くのである。花は自然の摂理、真理にしたがって無心に咲く。
私(大関)はこれまで、野に咲く花のように生きたいと希ってきた。光や水、大地、この世界から与えられる様々なものにまっすぐに応え生きる。何かのために生きるのではない。生きるために生きる花。私はこれまで、そのただただ生きる花の姿、その崇高さ、その「いのち」のゆたかな在り様に、美しさを感じていた。だからこそ、自分もそうありたいと願った。しかし、私は花のように生きるこ
† 真岡市立真岡西小学校
‡ 宇都宮大学大学院教育学研究科宇都宮大学共同教育学部(連絡先:aoaygi@cc.utsunomiya-u.ac.jp)
とができない。時に些細なことに執着したり、憤りを感じたり、誰かを傷つけ、悩み、迷う。もしかしたら、花のように生きたいと希うこと自体が、花のように生きることを妨げているのかもしれない。
私たち人間は、子どもも大人もそれぞれに、何かしらの形で、こう在りたい、こう生きていきたいという想いを抱いているのではないだろうか。それら人々の内で描かれる在り方や生き方は、自らを含めたこの世界をどう捉えているか、感受しているかによって、変わるものだと考える。どう生きたいかという「生」についての問いには、同時に「死」についての問いが含まれる。それは自らの「いのち」についての問いといえるだろう。それら「いのち」についての問いは、他者、自然、自己を含む森羅万象の「いのち」から切り離すことのできないものとして、私たちの前に現われる。その「いのち」の問いに向き合うことで、子どもたちは、(自己を含む)この世界に満ちた「いのち」を、よりゆたかに感じることができるのではないだろうか。
本稿は、そんな「いのち」を問う「生と死の授業」を見据えた教材研究としてのこころみである。私たち(大関・青柳)は、教材として立松和平(1947 ~ 2010)の作品に着目した。立松は生前、大変多くの作品を残したが、その作家活動は多くの試練とともにあったといえる。作家活動が軌道にのる以前から「どう生きていくか」という迷いの中にいたことは、エッセイをはじめとした多くの書籍の中に記されている。立松自身が作品を描く中で迷い、求め、形づくっていった思想。その立松和平の「いのち」の思想について、複数の作品を通して見つめ、「生と死の授業」の教材という視点から、作品の意味世界の探究をこころみたい。またあわせて、それらを教材として扱った際の授業の可能性についても想いを巡らせたい。
本稿は、まず「2.」において『立松和平の〈いのちを考える〉絵本シリーズ』を取り上げる。次に「3.」において『風聞・田中正造』と副題が付けられた『毒-風聞・田中正造』と『白い河-風聞・田中正造』の二つの作品についてみていく。そして「4.」では、それらをもとに、「生と死の教育」として、立松和平の「いのち」の思想にふれる意義について考える。
2.『立松和平の〈いのちを考える〉絵本シリーズ』による授業の可能性
2.1.『立松和平の〈いのちを考える〉絵本シリーズ』にみられる「いのち」の思想 ~「道元禅師」をはじめとした他作品とのつながりから~
現在、立松和平の作品としては、光村図書と東京書籍の小学校第6学年の教科書において『海のいのち』が教材として扱われている。本稿では、まず1992年に出版された『海のいのち』ともかかわりがあり、8年後以降に出版された『立松和平の〈いのちを考える〉絵本シリーズ』(以下、『いのちの絵本』)の教材としての価値について考える。『いのちの絵本』は、くもん出版から2000年~ 2007年にかけて出版された『街のいのち』、『田んぼのいのち』、『川のいのち』、『木のいのち』『牧場のいのち』、立松和平が描いたそれら五つの「いのち」の物語の総称である。それらの絵本を扱った授業の可能性ついて考えるにあたり、まず、各物語における立松の「いのち」の思想について、同時期以降、立松によって執筆された『道元禅師』、『日光(改訂前「二荒」)』、絶筆『良寛』等の作品との関連の中で考えてみたい。
2.1.1.街のいのち
『街のいのち』は2000年に出版された。『いのちの絵本』の中では、最初に描かれた物語である。
「あなたがせめて二十歳になるまで、生きていたいわね」物語は、病気で入院している母の言葉で始まる。小学校五年生で十歳の主人公「瞳」は、学校が終わると毎日、病室に急いだ。ある日、学校で先生から、今すぐ母に会いに行くようにと言われた瞳。今夜が山だと医者から言われた父と瞳は、その夜、病室で家族三人の時間を過ごした。「御臨終です……」医者の静かな言葉。母は瞳の手の届かないところに行ってしまった。
母を失った瞳は、一人、家で過ごすことが多くなる。学校から帰ると、近所のスーパーマーケットで買い物をして、料理をする。三分の一は自分で食べて、残りは父にとっておく。父の帰りは遅いため、一人で眠る。瞳はふとんの中で一生懸命に母に話しかけるが、返事はない。
「『おかあ母さん、助たすけて、助けて、助けて』/いつも同おなじ笑えがお顔の母の写しゃしん真に向む かって、瞳は泣な いて祈いのった。父がいる時ときにはせめて強つよがって、瞳は母には祈らないようにした。」(立松,2000:p.21)
細かなとげがたくさん入った寒い風。冬、校庭のすみのいちょうの大木は、はだかの枝を伸ばして、ただ立っている。街路樹も葉を落として眠っている。瞳は景色を見ずに、うつむいて歩く。
六年生になった瞳は、学校への道の途中、いいにおいの風を感じて顔を上げる。
「満まんかい開の桜さくらがすぐ前まえにあり、瞳は立た ちどまってしばらくながめていた。こんなにも季きせつ節が流ながれているのが驚おどろきであった。時じかん間は生い きている。瞳はふとそう思おもった。」(立松,2000:p.26.)冬を通りこし、街全体が命を回復させている。
「街まちは緑みどりだった。土つちの下したには命いのちがつまっているかのように、あっちでもこっちでも緑みどりいろ色の命がふきだしていた。元げん気き を出だ しなさいと、瞳ひとみは街にはげまされていると感かんじた。/『お母かあさん、ありがとう』
/この命の気けはい配こそが、生い きるようにと瞳をはげます母ははの声こえだ。」(立松,2000:p.31.)瞳の心は、少しずつ回復していき、少しずつ大人に近づいていく。
以上が、『街のいのち』のあらすじである。
瞳は、満開の桜のにおい、風を感じたとき、「時間は生きている」と思った。「時間は生きている」とは、どういうことなのだろうか。立松和平は、1998年から2006年の8年間におよび「傘松」(大本山永平寺発行)において『道元禅師』の連載を行っていた。立松の「いのち」の思想は、道元の思想に大きな影響を受けていたと思われ、「時間は生きている」という言葉にも、道元の思想が含まれていると考えられる。道元が、大宋国から日本に戻ってきた後に綴った坐禅の書『正法眼蔵』の中に、
1240年、興聖寺において筆録された『有時の巻』がある。道元は『有時の巻』において、日常生活で私たちが考えている物理的な時間とは異なる普遍的時間について記している。(以下、道元の『正法眼蔵』からの引用・解説は禅文化学院による現代語訳からおこなう。)
「いはゆる有う 時じ は、時すでにこれ有う なり、有はみな時なり。」(禅文化学院,1968:p.26.)
「有」とは、存在を意味し、「有時」とは存在と時との一体性について述べたものと考えられる。
「この『あるとき』(有時)という語は、『時間はそのまま存在であり、存在はみな時間である』という意味を含んでいる。…すなわち、時間を離れて空間はありえず、空間を離れて時間は無いのであるから、時間と空間を総合して『存在時間』あるいは『時間的存在』というものを考える。それを『有時』と呼ぶのである。」(禅文化学院,1968:p.26-27)
道元は、時間は人間の外側を過去から未来へと流れるようなものであるという概念を疑おうとしない人々についてふれ、自覚の有無にかかわらず、人は皆、時間的存在であるとする。
「一切世界のすべてが自己のうちにあり、一切の世界の事々物々が、みな時であることを学ぶべきである。事々物々が邪魔し合わないのは、時が時を邪魔しないようなものである。したがって、自己が発ほっしん心すれば、一切世界も同時に発心し、自己と同じ心を持つ時が始まるのである。このことは、修行、成じょうどう道についてもいえることである。一切世界のすべてが自己のうちにあり、それを自己が体験するのである。『自己が時である』とは、このようなことである。」(禅文化学院,1968:p.28.)
道元は、時と自己を含めた全存在が一体のものであるとする。自己が時で、時が自己であり、自己の体験とともに時と存在が始まる。瞳は、いいにおいの風、満開の桜に気付く。季節の流れに驚く。瞳が気付いたとき、感じたとき、ながめたとき、自己と同じ心を持つ時が始まる、とも言える。しかし敢えて言えば、「気付く」「感じる」「ながめる」という「自己」の心の働きによって「時」がはじまるのではないということ。
この『街のいのち』で授業をする際には、子どもたちに、「瞳はどうして元気になったと思う?」と問いかけてみたい。するときっと「季節が流れているのに気づいたから。」「『元気を出しなさい』と街にはげまされたから。」等の答えが返ってくるのではないだろうか。もちろん、どの答えも間違っていない。しかし、そこで、敢えてもう一押し「なぜ、季節が流れているのに気づいたんだろう?」「なぜ、街にはげまされている、と感じることができたんだろう?」と問いかけてみたい。しかし、この問いかけに子どもたちは困ってしまうだろう。「気づいたから気づいた、としか言えない」「感じたから感じた、としか言えない」としか答えられない。もちろん、それでいいと思う。
しかし、くどいようだが、「気付く」「感じる」等の主体としての自己の働きによって「時」がはじまるのではない。かといって、「時」が主体、と言ってしまってもいけない。まさに時と自己とは一体のものであるということ。癒やし、回復とは、他者による自己への働きかけによってではなく、また自己による自己への働きかけによってでもなく、主体としての自己を越えた「時」の中で新たな「自己」が生まれてくるということ。だからこれをふまえて、上に述べた問いかけをおこなうよりも、授業者自身が「時」と「自己」が一体のものであることを感じながら、子どもたちもそのことを感じられることを想って、静かに読み聞かせをした方がよいかもしれない。いずれにしても、授業実践の中で、子どもたちと共に、このことを少しでも感じることができたらと思う。
「時間は生きている」。それは時への気づきであると同時に新たな自己への気づきでもある。実は、『街のいのち』は、子どもたちよりも、大人である私たちに必要な物語なのかもしれない。例えば、身近な他者の死によって私たちは絶望の底に落ちるだろう。そして、子どもよりも大人は意識に縛られ、それゆえ、絶望から抜け出せないかも知れない。しかし、その時、『街のいのち』の「いのち」の思想(あるいは道元の「時」の思想)は、私たちに、「時」と「自己」を信頼することの大切さを教えてくれていると思う。むしろ、子どもの方が、その思想を感じることがあるかもしれない。だから、この教材研究をふまえ、大人だから、子どもだからということを越えて、『街のいのち』を読み、感じるということを(決して感じることを強制するのではなく)、授業実践の中で大切にしたい。
ところでまた、立松は『道元禅師』の中で、有名な逸話「典座教訓」の場面を描いている。道元が大宋国の慶元府の港で、船中に留め置かれた際、一人の老典座と出会った。後に、その老典座は典座の職を退き、故郷の蜀に帰るにあたり、道元のいる天童寺を訪ねた。そこでのやりとりを一部引用する。
「道元はなおも問う。/『修業とは一体どのようなものですか』/『徧へん界かい曽かつて蔵かくさず。この世界のすべてはなにも隠すことはなく現れていますよ』/またもや道元は一瞬で理解した。真実は一切隠すことなくありのままにこの世に現れている…」(立松,2007b:p.388-389.)
また、あわせて立松は『道元禅師』のあとがきにおいて、以下のように執筆を振り返り、自身の想いを綴っている。
「月光はすべての森羅万象を呑み尽くすと同時に、心の光がすべての森羅万象を心の中に含んでしまう。万象の中には、生もあり死もある。生きて死ぬことが私たちのさとりなのであるが、生も死も隠されているわけではなく露わだ。全宇宙で隠されているものは塵ひとつさえなく、すべてが私たちの目の前にある。過去も過ぎて消えてしまったのではなく、未来はいまだ現れず見えないのではなく、すべてがこの今に現成されている。人が認識しようとしまいと、ここにはすべてが厳然としてある。すべてが露わになっているのに認識できないのは、認識できない私たちの問題に過ぎない。/『徧界曾て蔵さず』とはこのように、道元禅師の思想の根幹なのである。私は認識をもどかしいほどにわずかずつ一歩一歩と進めて、道元禅師の御生涯を書き進めていったのである。私にとってはまことに尊い御縁であった。」(立松,2007c:p.603.)
森羅万象、この世界のあらゆるところに真理が満ちている。山にも、川にも、海にも、もちろん街にもそれは隠されることなくある。土の下につまっているかのようにふきだす緑色の命を、瞳は体験している。その命の気配こそが、瞳に対して「生きるように」と励ます母の声。過去は過ぎて消えてしまったのではない。未来もまた見えないものではない。すべてが今、瞳の前に現成される。瞳にとって母の声は過去のものではなく、街にあふれる命とともに、今まさに現成される声なのだろう。その声とともに瞳は少しずつ大人に近づいていく。
魚が水の中で生きるように、鳥が空で生きるように、同じように私たちはそれぞれの場所で生きている。魚が水の外で生きることができないように、鳥が空を飛ばず生きることができないように、私たちも私たちが生きる空間から離れては生きることはできない。そこには、隠されることなく真理が満ちている。街で生きる瞳は、隠されることなく満ちている『街のいのち』を体験しながら、励まされ、その中で生きていく。
以上のように、私は『街のいのち』に、道元(立松)の「有時」「徧界曾て蔵さず」という思想を読み取ることができると考えるのだが、どうだろうか。また、『街のいのち』は、私たちの生きる世界に満ちている「いのち」を、感じ、まさにその中で生きることの「美しさ」を描いているように、私には思える。
2.1.2.田んぼのいのち
『田んぼのいのち』は、『街のいのち』に次いで、2001年に出版された。
賢治さんは、七十回目の誕生日を迎えた。賢治さんの暮らす山の村では一人去り二人去り、近所で田んぼをつくるのが賢治さんと春子さんだけになってしまった。春まだ浅いころ米づくりは種もみ消毒からはじまる。小学校の校庭に見事な桜の花が咲くが、三年前に小学校は廃校になっていた。子供たちと親はみんな街に出て行った。
苗床にまいたもみは、いっせいに白い芽を立て、日一日と緑の色を濃くしていく。今年もよろしくたのむよと苗に声をかける賢治さん。山から湧いた水が、田んぼに命をふきこむ。水路の掃除をするのは今では、賢治さん一人になってしまった。命の水がはいった田んぼは光いっぱいに輝く。「今年も豊作でありますように」と賢治さんと春子さんは手をあわせて祈る。
ところが、春子さんの具合が悪くなり、街の病院に入院することになった。賢治さんは毎日病院に春子さんを看病に行き、田んぼも必ず見に行く。手術を終えた春子さんは、弱った身体で帰ってきた。寒さの夏に勝った稲の命。春子さんも必ず元気になると賢治さんは信じていた。街で一緒に住もうと言う息子。賢治さんは村を出るつもりはない。豊作の美しい田んぼで賢治さんは稲刈りをする。新米の御飯を食べた春子さんは日に日に元気になっていった。
「稲いねの切き り株かぶしかない田た んぼの土つちには、いつまでも米こめのにおいが残のこっていました。次つぎの年としもまたこの土で米をつくろうと、一年ねんの仕し 事ごとが終お わったばかりなのに賢けん治じ さんは思おもっていました。その次の年も、また次の年もここで米づくりをするのが自じ 分ぶんの人じん生せいなのだと、賢治さんは力りきむでもなく心こころに決き めていたのです。」(立松,2001:p.31.)
山の村、一人田んぼで米づくりをする賢治さん。「賢治さんは負ま けるつもりはありません。」(立松,2001:p.10.)「…そもそも村むらからでていく気き はありません。」(立松,2001:p.24.)賢治さんはなぜ、米づくりを続けるのだろうか。
賢治さんのように一つのことを力むでもなく心に決め、続ける人物が、立松の他作品においても登場している。『道元禅師』の中には、道元が修行をつんでいた天童寺の典座で「用ゆう」という名の老僧が登場する。『良寛』では、栄蔵(良寛)の伯父である「万秀」という老僧の姿が描かれている。また、『日光』の中には、中禅寺湖に流れ込む柳沢川の近くに住み、日光の自然と共に戦前、戦中、戦後という大正から昭和にかけた時代を生きた「神山浅次郎」という人物が登場する。各作品中の三人のエピソードにふれていきたい。
『道元禅師』には、仏殿の前で苔きのこを干す老僧「用」と道元との次のようなやりとりが描かれている。
「『あなたはおいくつになられるのですか』/道元は心の中に浮かんだことを正直に尋ねたのだった。典座はしたたる汗をぬぐおうともせず、手を休めずにいう。/『六十八歳になりました』/『どうしてそのお年で、そんな苦しいことを御自分でされますか。下役か雇い人にさせればよいではありませんか』/『それらの者は、私ではない。修行を他人がしては、私がしたことにはなりません』/『御老僧、あなたのおっしゃるとおりです。そうではあるのですが、太陽はこんなにも暑いのですよ。どうして苦しい時にこんなことをなさるのですか』/道元は強くいってしまった。老僧の答えはあくまで穏やかであった。/『いつやればいいとおっしゃるのかのう』」(立松,2007b:p.376-377.)
道元は、典座の職がいかに大切な修行であるかをこの時知ったという。修行道場は日々の暮らしの場のいたるところにあると。
立松の絶筆である『良寛』にも、栄蔵(良寛)と伯父「万秀」による似たようなやりとりがある。
「『こんな炎天下で草取りをすることはない。わしは若い。修行もできていない身じゃ。未熟者でもできることはこのわしがやるから、伯父貴はどうか日影ででも休んでいてくれ』/顔からだらだら汗を流しながら栄蔵は必死にいったのだった。/『栄蔵よ、お前はわしの修行を横取りしようというのか』
/万秀がぽつりと声をこぼす。その声が悲しそうにも聞こえたのだが、栄蔵はかまわずにいった。/
『作務修行といっても、こんな炎天下に笠もかぶらずにすることはない。わしが簡単にやってしまおう。いいから伯父貴、日陰で休んでわしの作務を見ていてくれ』/『わしの修行をとって、お前はどうしようというのじゃ』」(立松,2013a:p.49.)
万秀の真意がわかった良寛(栄蔵)は、その場に固まってしまったように手を動かせなくなったという。また、そんな万秀が寺から旅立つ別れのとき、良寛は「わしも万秀どののように死ぬまで大根でよい」と大声で叫んだ。「大愚」と自らを称した良寛の土台はここにあるように思う。
『日光』は、日光開山の祖 勝道上人の二荒山登頂を描いた第一章「補陀落」、日光アングリング倶楽部で魚を育てる神山朝次郎の日々を描いた第二章「二荒」、現代の若者である神山朝次郎の甥、勝の成長を描く第三章「日光」からなる栃木県日光の中禅寺湖周辺を舞台とした物語である。第二章から第三章にかけて登場する神山朝次郎は、二十代後半から一生涯、山の中で魚を育てながら暮らし続けた。現代である第三章では、その浮世離れした暮らしぶりと容姿から、一種の憧れと同時に少々軽んじられ「仙人」と呼ばれていた。用、万秀、朝次郎、そして賢治さんの姿には、道元(立松)の思想が強く現われているように思われる。『正法眼蔵』では、
「今の自分のいるところに気がつけば、おのずから修行ができて、真理が実現するのである。今の自分の行くべき道に気がつけば、おのずから修行ができて、真理が実現するのである。なぜなら真理を実現するための道や処は、大きなものでも小さなものでもなく、自分のものでも他人のものでもなく、前からあるものでも、いま現われようとしているのでもなく、いつどこにおいても実現されるものだからである。」(禅文化学院,1968:p.11-12.)
「…仏道の修行をして悟りを得るということは、一つのことにあえばそのことを究め、一つの行いをなせばその行いを貫くことである。」(禅文化学院,1968:p.12.)とされている。
賢治さんは、この広い天と地の間で、50 年間繰り返し米をつくってきた。今年も、次の年も、そしてその次の年も…。自らの行くべき道に気がついている。米づくりという行いを貫く。それは行いであると同時に真理の実現なのだろう。天と地の間に生きる真理。それは賢治さん自身が、その真理を理解しているということではないだろう。それは体験されるものであるが、論理的に理解されるとは限らない、表面的な理解を超えていることだと道元は説いている。
また、それは道元が説いた「只し 管かん打た 坐ざ 」ともつながる姿なのだと考える。「只管打坐」とは、坐禅し続ける修行であり、それはそのまま悟りである。それは修証とよばれる。
「坐禅は悟りのための手段ではなく、坐禅そのものが仏としての完成された行為なのである。なんのまじりけもなく、修行そのままが悟りなのである。」(禅文化学院,1968:p.150.)
賢治さんは真理のために米づくりを続けているのではなく、生きるために米をつくっているのでもない。賢治さんにとって米をつくること自体が真理であり、米をつくることが生きることなのではないだろうか。それは「心身脱落」、自己を脱落し自己を超えた命の流れに入っていくことでもあるのではないかと考える。
以上のように『田んぼのいのち』には、立松和平による道元の思想の捉えが現れているように思える。米をつくることは賢治さんにとって「いのち」であり、また、それは自己を超えた「いのち」である。『田んぼのいのち』は、そんな「いのち」の世界が現成された物語であるように思う1。
2.1.3.川のいのち
『川のいのち』は2002年に出版された。
小学六年生の一学期最後の日、通信簿を受け取る悟さとると雄ゆう二じ 。二人とも成績は振るわなかった。二人は川の岸辺に寝そべって夏休みの間になしとげることを考える。
「『川の淵ふちにいる大おおゴイを手て づかみする』/雄二はきっぱりといいました。いい考えがうまくまとまらない悟はこんなふうにしかいえませんでした。/『ぼくは何なにかわからないけど、何かをつかまえる』」(立松,2002:p.4.)
まっ裸になって川で遊ぶ二人。水面にあがるとトンボの王様、オニヤンマや三十羽以上のツバメが飛びながら小虫を食べるのが見える。自分もあんなふうに空を飛べるといいなあと思う悟。二人は時間ができると、できるだけ川で遊んだ。川で遊ぶとき、雄二は必ず淵にもぐる練習をした。悟もついていった。そんなある日、岸辺の草の中に、一人の男の子の姿があった。ふだんあまり口をきかない真まな人と だった。真人は釣りがしたいけれど、やりかたがわからないと言う。悟と雄二は釣りのしかたを真人に教えた。夏休みも半分以上が過ぎた。雄二は石を抱いて水に沈む練習をし、悟は木にすわってオニヤンマの観察を続けた。オニヤンマの雌が水面に卵を産む姿を見せてくれることがあったが、悟は、トンボの王様として、雄がとりたかった。三日間大雨が降り、雨がやんだ四日目に悟と雄二が川に行ってみると、茶色く濁った水がもりあがりごうごうと音を立てて流れ、木の橋が流されていた。
夏休みも残りわずかになったある日、真人がひさしぶりに川にやってきた。真人はまだへただが、一人で釣りができるようになっていた。
夏休みの最後の日、悟と雄二はそばにいるだけで真人の気持ちがわかるようになっていた。頭ほどある石を抱いて岩の崖をよじ登り、川に飛び込んだ雄二はコイを手づかみした。
「雄二の腕と肩かたには筋きんにく肉がつき、日ひ 焼や けした顔かおもなんだか子こ どもっぽくないように、悟には見えました。」(立松,2002:p.27)
黒い岩の上にあぐらをかき、心静かに気持ちを集中させる悟。オニヤンマが線になって空中をすばやく走ったと思った一瞬、悟は網をふった。網の中に入っていたのは、小柄な黒っぽいツバメ。ツバメは驚いたためか翼を網にからませて失神していた。
「目め をつぶっている小ちいさな命いのちを、悟さとるは両りょう手て でやわらかくつつみました。ツバメは温あたたかくて、全ぜんしん身をひくひくふるわせています。悟の指ゆびにツバメのわずかな鼓こどう動が伝つたわってきます。/『すごいなあ。ツバメをとる人ひとなんて、聞き いたことがない』/岸きし辺べ で雄ゆう二じ が尊そんけい敬した声こえでいいました。」(立松,2002:p.30.)目ざめたツバメは、いきなり羽ばたいて飛んでいった。ツバメがつけた爪の痛みがかすかに悟の手のひらに残る。こうして三人の十一歳の夏休みは終わった。三人は川にめったにくることができなくなったが、川は何も変わらず流れつづけている。
立松は、川で遊ぶ子どもたちを、親しみをこめて「川ガキ」と呼んでいた。立松自身も利根川支流の鬼怒川や、近所の川でいろんなことを学んだとしている。また、他作品においても、川とともに生きる人物や川の豊かな姿が描かれている。『毒-風聞・田中正造』の中には、足尾銅山の鉱毒によって川、自然が壊されていく、その様子を様々な生き物の視点から描いた場面がある。『日光』においても、川と湖、魚とともに生きる朝次郎の姿がある。
川は私たちにたくさんのことを教えてくれる。悟、雄二、真人の三人は、川に身を委ね夏休みを過ごした。川は何もかも隠すことなく、全てを三人に見せてくれる。それは、まさに「徧界曾て蔵さず」という世界の在り様である。
「地球の側からすれば、何かしら秘密を保持しておこうということではないであろう。法則に基づいた摂理とは、それぞれの都合をいい立てれば変化するようなものではなく、日々平凡といってよいほどゆるぎなくくり返される不変性のことなのだ。」(立松,2011:p.10.)
三人は川の「不変性」の中に身を委ねた。子どもたちのもつ純粋な感受性、その精神は、何ひとつ隠されずにそこにある真理を体験する。真理の中を生きる。生も、殺生も、目の前に隠されず現れる「いのち」のほとばしり。オニヤンマの姿、魚の気持ち、川の流れの複雑さ、恐ろしさ、卵を産むような命のつながり、小さな命のわずかな鼓動、痛み、それらの内で三人は成長していく。それは川に満ちる「いのち」と三人の命の共鳴であるように私には感じられる。自然に身を委ね生きる体験、認識の次元とは異なる感受性、精神的な次元における命の共鳴が、子どもたちの「生」にとってなくてはならないことなのではないだろうか。『川のいのち』は、自然と共鳴することの必要性と子どもたちの感受性のゆたかさを感じさせてくれる。
2.1.4.木のいのち
『木のいのち』は、2005年に出版された物語である。
戦争で街がすっかり焼けてしまった。戦場から帰ってきた男たち、空襲から逃げまどった女たち、疎開先から戻った子どもたち。街の真ん中で生き生きと緑の葉をしげらせるけやきの大木に人々は勇気づけられた。
そんな頃、何度でも春がくるようにという両親の願いのもと「千春」が生まれた。ようやく歩けるようになった千春はお母さんに手を引かれけやきの下にくるのが楽しみだった。見上げれば見上げるほど、大きなけやき。冬になると渡り鳥が枝いっぱいにとまったり、根元の穴にたぬきの親子が住んだりした。けやきはまるで森のようにいろいろな生き物のすみかになっていた。
街から焼け跡がなくなり、家が建てこんできた。小学生になった千春は、ランドセルを背負って元気にかけていく。けやきから千春の上に、黄金色の木の葉が降りかかり、夢のような光景だった。千春が小学校を卒業するころには、戦争の傷跡は見られなく、ビルがあちこちに建てられていった。けやきのすぐ近くのバス停から中学校に通う千春は、夕焼けに染まる空とけやきの冬の枝の影を見る。けやきの枝には数えきれないほどのすずめがとまり、千春には無言のうちにけやきが喜んでいるようにも感じられた。
千春が大学を出て就職した頃には、けやきより高い建物ができ、地下鉄が通り、古い店やバス停はなくなった。ビルが肩をならべるようにして建てられ、けやきの居場所がなくなっていくのが、千春にも分かった。
千春が結婚し、けやきのそばにある両親の家で幸福に暮らしている頃、道路をひろげる計画が立ち、けやきが切られることになった。けやきを守る運動が起き、その運動は新聞やテレビでも報道され、広がっていき、道路工事は中止になった。大都会でも自然は必要だと多くの人が考えていた。
千春は男の子と女の子のお母さんになった。自分のお母さんがしてくれたように、けやきの下を散歩した。お父さんが肺がんで亡くなり、お母さんは施設にはいった。お母さんの世話をしに行った帰り、けやきの変わらない姿にどれほどなぐさめられたかしれない。
「けやきは悩なやみ苦くるしんでいる人ひとをはげますために、四し 季きおり折おり々にそれぞれ気けだか高い姿をしているのだとさえ、千春には感かんじられるのでした。」(立松,2005:p.21.)
子どもは自分の道を歩き始めた。高層ビルがいくつか建ち、映画館ができ、若者が集まるようになった。けやきには誰も目を向けなくなった。
「もちろんけやきは生い きていました。秋あきになれば葉は を散ちららし、冬ふゆをたえて、春はるになればまた葉をひろげます。渡わたり鳥どりの姿すがたはめっきり少すくなくなり、枝えだにとまるのはからすばかりになりましたが、けやきが生きものたちに囲かこまれていることに変か わりはありません。」(立松,2005:p.24.)
娘が結婚して子どもが生まれた。千春はそれなりに忙しくなり、孫の元気な声に元気をもらったものだ。けやきは幹に空洞ができ、コンクリートがつめられた。
「けやきは見み るからに痛いたいた々しい姿すがたになったのですが、どっこい生い きています。」(立松,2005:p.27.)
定年になって会社をやめ、それからずいぶんたって、夫が脳こうそくで亡くなった。一人暮らしになった千春の家に息子が帰ってきた。子どもも二人いて、千春は急に五人家族になった。
「けやきだけを見ていると、千春は自じぶん分がまだ子どものままのような気き になるのでした。」(立松,2005:p.29.)
病気になった千春は病室からけやきを見下ろす。
「傷きずだらけになって懸けんめい命に生い きているけやきの姿すがたを見ると、千春は過す ぎたことなどいろんな思おもいにかられて、目を熱あつくするのでした。自分の命いのちはもうすぐ終お わるけれど、けやきはこれからもあの場ばしょ所に立って生きていくのです。そのけやきは千春に向む かって、ここまでよくがんばったねと声こえをかけてくれたような気き がしました。でももう胸むねのなかで思うだけです。」(立松,2005:p.31.)
千春の孫たちは、みんな大人になり、そのまた子どもも生まれた。けやきは一見して小さくなったようだが、少しずつ育って生きていることに変わりはない。
まず、「千春」という名前に立松の想いが感じられる。「何度でも春がくるように」という両親の願いが込められた名前。立松は著書であるエッセイ集『仏と自然』の中で、永平寺貫首であった宮崎奕えき保ほ 禅師へのインタビューについて綴っている。立松が「自然とはなんですか」と問うたときの宮崎禅師の答えについて、正確な言葉は復元できないとした上で、以下のように記した。
「『わしは何年にもわたって毎日日記をつけておる。何があった誰がきたということのほかに、何の花が咲いたとか、どんな鳥が啼いたとか、雪が降ったとか溶けたとか、自然の中の小さな出来事に気づくたびに書いている。何年か後にまとめて見ると、花が咲くのも、鳥が啼くのも、雪が降るのも溶けるのも、大体同じ時機じゃ。誰が仕組んだわけでもないのに、自ずからそうなる。それが自然じゃ』」
(立松,2011:p.171.)
禅師の言葉は、とても平易な表現で自然の摂理をはっきりと示している。春は、人間が願う願わないにかかわらず、誰が仕組んだわけでもなくやってくる。人間の力を超えた自然、何度もやってくる春。何度でも春をむかえてほしいという両親の想いを描くとともに、そこには立松の自然、人間への想いも込められているのではないだろうか。私は、千春という名前に「自然の摂理に抱かれ生きることの美しさ」を感じる。
けやきは千春が生まれるはるか昔から、あの場所に立っている。また、千春が命を終えた後も、あの場所に立って生きていく。千春は、生涯を通じて、けやきと出会った。歩けるようになった頃の幼い千春にも、小学生、中学生、大学、社会人、母として、祖母として、命を終えるその時も、千春や人々を励ますように、けやきはあの場所で生き続けた。生きものたちに囲まれたけやきは、時に楽しさを、時に夢のような光景を、時に喜びを与えてくれる大きく気高い存在だった。どうして千春はけやきと出会ったのだろうか。どうして千春はけやきとともに生きたのだろうか。それは千春自身に理解し得ることではないだろう。
けやきはあの場所で生き、千春に与えられた。千春がけやきと出会ったことも、けやきとともに生涯を過ごしたことも、それらは、世界から与えられるものであり、縁とでもいうような人間の力を超えた出来事のように思える2。
また、『道元禅師』ともつなげて考えてみたい。『道元禅師』において、若き道元が疑滞をもち、悩む姿が描かれている。それは「本来本法性 天然自性身」という思想だった。
「『生きとし生けるものの中でも人間は、生まれながらこの上ないさとりの境地に達して理想的な生き方ができる素質があるとされていますね。苦に満ちた輪りん廻ねてん転しょう生の中で、人間として生まれた時にしか、輪廻の苦の中から解脱する機会はないのです。もともと完成された人格体をもって、この世に生まれてきたのでしょう。もしそうであるのなら、なぜ人格完成をするため修行して血の滲にじむ努力をしなければならないのですか。すでに完成されているにもかかわらず、なぜ諸仏はさらに志を立て、この上ないさとりの智慧、阿あのくたらさんみゃくさんぼだい耨多羅三藐三菩提を求めて修行したのですか。法門の大たいこう綱、本ほんらい来ほん本ほっ法しょう性、天てんねん然自じしょう性 しん身に、私は大いに疑ぎたい滞を持ってしまったのです』」(立松,2007b:p.190.)と、道元は自らの迷いを語る。「本来本法性」すべての人に仏性があり、「天然自性身」人も自然もあらゆるものは仏の姿であるという思想。この本覚思想は、法華経の思想ともつながるものである。道元はその根底に疑滞を持った。すべての人がさとりの境地に達して理想的な生き方ができる素質があるというならば、なぜ修行をしなくてはいけないのか。
道元はその迷いをきっかけに園城寺の公胤僧正や建仁寺の栄西僧正と出会うことになる。そして、迷いを抱きながら大宋国にわたった。その後、重ねた修行と如浄和尚との出会いによって、その迷いは晴れ、自らの思想と信仰を形づくっていった。
道元は、自らの思想をまとめた『正法眼蔵』において、「仏性」について記している。賴住光子は著書『正法眼蔵入門』の中で
「『一切衆生悉有仏性』という言葉は、仏性の有無を説明する言葉ではなくて、真理それ自体が、真理の現成する構造を語る言葉として受け止めるべきである」(賴住,2014:p.162.)
としている。「有」という言葉を「持続」と捉えてしまうと、まさに若いときの道元と同じように「迷い
(問い)」が生じてしまうのではないだろうか。「有無」ではなく、「心身脱落」、修行によって、その「瞬間」に仏性(真理)を体験する。言葉にできない仏性(真理)をその都度、現成させるのが修行である。「悉
(ことごと)く仏性あり」ではなく「悉有は仏性」ということ。
また、立松は絶筆『良寛』の中で、良寛にこんなことをつぶやかせる。それは良寛が弟の由之に責められたとき。
「自分のことだけを考えているわけではないがのう。山さんせんそうもくしつかいじようぶつ川草木悉皆成仏をめざして生きているのだからな、生きとし生けるものすべてのことを考えておるんじゃが……」(立松,2013b:p.33.)
山も川も草も木も、すべてのものが仏性の現われである。生きとし生けるものすべてのことを考えていると良寛は言う。それは立松自身の言葉でもあるのだろう。
道元や良寛が語る「本来本法性 天然自性身」、「悉有仏性」、すべてのものが仏性であるという思想は、『木のいのち』の中にも生きているように思える。それは、けやきの姿として綴られる。けやきはただそこに立っているのではない。命に、生きようとする生命力に、真理に、満ちている。人も自然もあらゆるもの(悉有)が仏性(真理)である。千春は、生きていく中、その時々において、その「いのち」を、世界の真理を、体験しながら生きたように思える。
私は、『木のいのち』に、人間の力を超えたもの、けやきのもつ生命力、そこに抱かれるように生きる人間の姿をみる。
千春、立松もまた、そんな「けやき」の姿と自分の存在、その関係に「畏敬の念」を抱いているように思える。
また、『木のいのち』には、他の『いのちの絵本』とは異なる特徴がある。それは、一人の生涯を綴っているということ。『道元禅師』や『良寛』と同じように、生まれてから死までを描いている。立松は『良寛のことば こころと書』の中で「…御一代記を書くということは、その人生に寄り添って確実に死に向かっていくということ…」(立松,2010a:p.117.)としている。生と死とが切り離すことなく綴られ、千春の人生を追体験していく『木のいのち』を読み、子どもたちはどこかで千春の生死と「自己の生死」を重ね合わせるのではないだろうか。
2.1.5.牧場のいのち
『牧場のいのち』は2007年に出版された『いのちの絵本』最後の物語である。最初に開拓にはいったのはおじいさんの親。星野牧場ができて、お父さんが生まれ、お母さんと結婚し、「みるく」も「大地」も星野牧場で生まれた。おじいさんは牛の世話の最中に倒れ、家族に牧場を残し、遠い森に帰っていった。
星野牧場には百頭の牛がいて、お父さんとお母さんは五時半には牛舎で働きはじめる。みるくと大地も作業着に着替えて牛舎に向かう。
二人は、毎朝、マライヤをいれた十二頭の世話をする。今夜あたり、お産になりそうだった。七時三十分頃、二人は朝食をとり、小さな小学校に行く。学級は二つしかなく、みるくと大地は同じ教室で勉強する。授業が終わった後、マライヤの赤ちゃんが産まれるのをみんなで見に行くことにした。みんなといっても十人しかいない。この地域ではどの家も牧場をやっているので、大人も子どもも仲間だ。
大地たち男の子は、干し草を使って遊び、みるくたち女の子は牛舎の仕事を手伝った。マライヤの濡れた大きな瞳に、自分の姿が映っているのを、みるくは見ていた。
牧場を去る牛がいたときには、子どもたちみんな涙を流した。子どもたちは、これからその牛の身に何が起こるかわかっていたから。
お父さんとお母さんは、マライヤの出産の準備で忙しそうだった。みるくは、二人のかわりに乳しぼりをした。マライヤのお尻から羊水がどっと流れ出した。自然破水、お産がはじまった。
「『がんばれ、マライヤ』/みんなはいつの間ま にか、泣な きたいような気き 持も ちで声こえをそろえているのでした。」(立松,2007d:p.22.)
マライヤのお尻から二つのひづめが見えた。その足は十センチほど出たと思うと、また引っこんでしまう。いよいよマライヤは苦しそうに鳴く。いつの間にかおばあさんもそばにいた。外は暗くなっていた。
子牛の前足が一番長く出た時をとらえ、お父さんがすばやくロープでしばる。その場の子どもたち全員がロープのはしをつかんだ。お父さんの合図で十人はロープを力のかぎり引く。
「みるくも大だい地ち も手て の皮かわがむけるほど強つよくロープを握にぎり、両りょうあし足を踏ふんんばります。マライヤも負ま けずに四本ほんの足を踏んばりました。マライヤのおなかの中なかの、まだ姿すがたが見み えていないものと、力くらべをしているようでした。」(立松,2007d:p.27.)
全員であらんかぎりの力で引っぱり、子牛は産まれた。「雌だ」とお父さんがうれしそうにいって、子牛の鼻の穴に干し草を一本いれ、くしゃみをさせて息を通した。マライヤは子牛を包んでいた羊膜を、口ではがし食べる。子牛の目はまだかたくとざされていた。目を開いた子牛は、一生懸命に立ち上がろうとする。子牛にとっては、生まれて最初にする大仕事。とうとう立ち上がった子牛。取り囲んでいたみんなは思わず拍手した。
「数すうじゅうおくねんまえ十億年前、太たい古こ の海うみは原げん始し のスープといわれる栄養ゆたかなところで、そこで地ちきゅう球の小ちいさな小さな生せいめい命がはじめて生う まれました。この原始のスープと同おなじものが、人にんげん間ばかりでなくほとんどの哺ほにゅうるい乳類のお母かあさんのおなかの中なかで、赤あかちゃんが浮う かんでいる羊ようすい水です。やがて赤ちゃんはこの羊水を飲の みはじめ、生まれたら、お母さんの乳ちちを飲んで育そだちます。太古の海と、羊水と、乳と、どれもが同じ私わたしたちのいのちのもとです。牛ぎゅうにゅう乳を生せいさん産する酪らくのう農家か は、そのいのちのもとをつくっているといえます。だからみんな、牧ぼくじょう場での仕しごと事に誇ほこりを持も っているのです。」(立松,2007d:p.32.)
牧場では、まさに「いのち」が目の前にある。まず、強く描かれているのは、「いのちの誕生への感動」である。牧場には、死も、生も、直接的に暮らしの中にある。新たな「いのち」に出合うこと、その神秘とそれに対する感動、畏敬の念。『牧場のいのち』はそれらをまっすぐに私たちに伝えてくれる。
一方、現代の私たちの暮らしは、牛乳も、食肉も、日々店頭に並び、その先にある「いのち」が見えにくくなっているのではないだろうか。本当は生も死も目の前にあり、何一つ隠されていないのにもかかわらず、社会の形、暮らしの形により、それらは隠され見ないままに、人々は日々を生きる。
見えないものは、無いものにも等しく感じられる。
道元は、食と仏法の平等一如を唱えた食の思想を『典座教訓』にまとめた。典座とは、修行僧たちの食事を作りととのえるための職である。『典座教訓』には、食事の作り方から食べ方、作法、片付け、祈りや瞑想まで、大変細かく示されている。例えば、食事が全員にいきわたった合図を聞いたら、合掌し、五つの瞑想をすることとされている。その一番はじめに心に描き反省すべきとしたことが、次の瞑想である。
「一つには功こうの多少を計り、彼か の来らい処しょを量はかる。(一つに、目前に置かれた食事ができ上がってくるまでの手数のいかに多いかを考え、それぞれの材料がここまできた経路を考えてみよう。)」(中村・石川・中村,1991:p.194.)
いのちのもとが生まれる場所にまで想いを馳せるということは、「いのち」のつながりに目を向けることであるように思う。
加えて、牧場や牛という物語の設定にも、仏教的な思想が表れているように思われる。同じく『典座教訓』では、上等な料理を作る際に喜んだり、粗末な材料を扱う際にいやがったりしてはいけないとする。凡夫の見識でみることなく、品物のよしあしに引きずられ、自分の心を変えることがないようにという。
「縦たとい頭ずにゅうこう乳羹を作つくるの時ときも、喜き 躍やく歓かん悦えつの心こころを生おこすべからず。」(中村・石川・中村,1991:p.45-46.)上等な料理とされているのが「頭乳羹」である。
「頭ずにゅうこう乳羹-頭乳は牛乳で、これを精製すると、しだいに乳にゅう・酪らく・生しょう酥そ ・熟じゅく酥そ ・醍だい醐ご となり、これを五味という。とくに最高級品である醍醐(梵語マンダma・・nda)は諸病の妙薬とされ、仏教の真実、涅ね 槃はんに譬えられる。最も美味とされる、牛乳入りの上等の汁もの、すばらしい御馳走のこと。」(中村・石川・中村,1991:p.49.)
牧場はまさに「いのちのもと」である牛乳を生み出す場所であり、「いのち」にふれる場所である。作中の、みるくと大地、子どもたちにとって、それは「いのち」を学ぶ場であり、「いのち」とともに生きる場である。粗末な一本の草にも、上等な牛乳にも、森羅万象の真理が満ちている。そこには世界の在り様が現れている。新たな「いのち」の誕生という神秘と、それに対する感動と畏敬の念、この世界に満ちている「いのち」に目を向け、感受し、想いを巡らすことの大切さを『牧場のいのち』は伝えているように思うのだがどうだろうか。
2.2.『いのちの絵本』を教材とした「生と死の授業」の意義
以上のように、『いのちの絵本』の各物語について、他作品との関連の中で考えてきた。『街のいのち』では「有時」や「徧界曾て蔵さず」という道元の思想と森羅万象の内に抱かれ、それを体験し生きることの美しさを。『田んぼのいのち』では、賢治さんの米づくりの姿や想いに「只管打坐」や「心身脱落」、自己を超えた「いのち」の流れを感じた。『川のいのち』は、自然に身を委ね、そこにある真理に向き合い、自然と共鳴することの必要性やその中で生き生きと成長する子どもたちの感受性のゆたかさを感じさせてくれた。また、そこには立松自身の川や子どもたちに対する想いも感じられた。『木のいのち』には、世界から与えられる人間の力を超えた出会いや縁、またそれらに対する畏敬の念、「本来本法性 天然自性身」という法華経や大乗仏教の思想が含まれていると思われた。そして最後の『牧場のいのち』は、「いのちの誕生への感動」や、この世界に満ちている「いのち」に目を向け、感受し、想いを巡らすことの大切さを伝えているように思えた。
立松の作家人生における後半の作品は、根底にある仏教の思想が表面に強く表れている。『いのちの絵本』も同様に、道元や良寛をはじめとした仏教の思想が読み取れる。また、そこには『川のいのち』の「いのち」のほとばしりや、『牧場のいのち』の「いのちの誕生への感動」という立松独自のゆたかな思想も見て取れた。立松は自らの「宗教性」を通し、子どもたちに向けて、今あるありのままの世界、森羅万象、「いのち」を示そうとしたように思える。ときに、現実の私たちは自己に対する執着のために無明の闇を自らの心に抱える。立松の目から見るとき、私たちは、世界に満ちた本当の美しさを感受しにくい存在として映るのではないか。『いのちの絵本』は、立松が子どもたちをはじめ、私たちに向け、「いのち」に満ちた世界を、自らの「宗教性」をもって現成させようとしたものであるように思う。
2.2.1.「宗教性」という視点
では、それらの作品を教材として扱い、「生と死の授業」をすることにどんな意義があるだろうか。
まず、『いのちの絵本』を読み、見えてきた「宗教性」という視点から考えていきたい。
ここで用いている「宗教性」という言葉は、特定の宗教の思想を表す語ではない。立松は自らの宗教性をもって、仏教の教え、道元の思想にふれ、立松自身の思想を育みながら作品を書いていったように思える。『いのちの絵本』に出合うということは、仏教という特定の宗教の教えを学ぶのではなく、その奥にある立松の「宗教性」にふれることになるのではないだろうか。立松自身、五木寛之との対談の中で、五木の「…自分にとって、たとえば宗教的なものというものが、何か役に立つとか、必要だという実感はありますか。」という問いに対し、「宗教心」という言葉も用いて次のように答えている。
「僕は山に入っても、海を見ても、ものごとに対して宗教心というのは必要だと思っているんです。スローな感じの、柔らかな宗教心、それがなくなったら対人関係もギスギスするし、自然破壊も起きる。小さな、緩ゆるやかな宗教心というのはみんなを救ってくれるような感じがする。」(五木・立松,2018:p.247.)
また、自らの知床での活動にふれ
「自分でこういうのをやってみて、本当に大切なのは何宗だとか、そんなことではないということがわかった。とりあえず自然にあって、どちらかというと仏教の裏に自然の摂理とか真理がある、と。それに礼拝しているつもりですね。毘沙門さんを礼拝しながら、背景には知床のでかい山があったり、でかい海があるわけで、みんなそこから食材も得ているわけですよね。そういうものに対する畏い 敬けいの念みたいな感じですね。」(五木・立松,2018:p.251.)
立松は「宗教心」がみんなを救うのではないかと感じている。それは「本当に大切なのは何宗だとか」そういうことではないという。
現在、日本では、教育基本法において宗教教育に対する立場を以下のように示している。
「(宗教教育)第十五条 宗教に関する寛容の態度,宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は, 教育上尊重されなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は ,特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」
本稿で用いる「宗教性」という言葉は、特定の宗教の教えを信じたり、どこかの宗教団体に所属したりという、一般的に捉えられる宗教に対する信仰ではなく、人間誰しもが自らの内にもっているものとして用いたい。それは、フロイトが主に対象とした「個人的無意識」といった「何らかの方法で心の中に残った痕跡から成るもの」や、ユングが「普遍的無意識」といったような「まったく自分自身には認識し得ない、人類に普遍的な心の奥にあるもの」にも近いものかもしれない。ユングは、著書『現在と未来』の中で、宗教体験にふれ、
「そうした体験の、もっと奥にある原因は何かということになると、人間の認識能力を超えていて、答えることができない。」(ユング,1996:p.266-267.)
としている。「宗教性」という言葉を、そのような人間の認識能力を超えた、答えることのできないものとしたならば、立松のいう「宗教心」とは、その「宗教性」から生じる心の動きだといえるのではないだろうか。
立松のいう「宗教心」と似たような表現として、教育政策の中では「宗教的情操」という言葉が使われてきた。明治時代の「学制」において、教育と宗教は分離されたが、時を重ねるごとに「宗教的情操」が人格の完成に必要だという認識、見解は強くなっていった。特に、文部省は、戦後、教育刷新委員会の『学校教育と宗教との関係』(昭和23年)と中央教育審議会の『期待される人間像』(昭和41年)において「宗教的情操」の重要性についてふれている。
中央教育審議会の『期待される人間像』(昭和41年)「1 個人として」の「5畏(い)敬の念をもつこと」では以下のように示された。
「以上に述べてきたさまざまなことに対し,その根底に人間として重要な一つのことがある。それは生命の根源に対して畏敬の念をもつことである。人類愛とか人間愛とかいわれるものもそれに基づくのである。/すべての宗教的情操は,生命の根源に対する畏敬の念に由来する。われわれはみずから自己の生命をうんだのではない。われわれの生命の根源には父母の生命があり,民族の生命があり,人類の生命がある。ここにいう生命とは,もとより単に肉体的な生命だけをさすのではない。われわれには精神的な生命がある。このような生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念が真の宗教的情操であり,人間の尊厳と愛もそれに基づき,深い感謝の念もそこからわき,真の幸福もそれに基づく。/しかもそのことは,われわれに天地を通じて一貫する道があることを自覚させ,われわれに人間としての使命を悟らせる。その使命により,われわれは真に自主独立の気魄(はく)をもつことができるのである。」
「宗教的情操」と「畏敬の念」の重要性について述べているが、後半において「われわれに天地に通じて一貫する道があることに自覚させ…」と一種の一つの信仰を強要するかのような表現になる。「宗教的情操」については、強い批判にさらされた。その後、「宗教的情操」という言葉自体は使われず、「敬虔心」や「人間愛」というような言葉の根底にその考えを残し、平成元年の学習指導要領改訂において「畏敬の念」という言葉が明記された。そして現在も、「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」として示されている。
「宗教的情操」にしても、「宗教性」にしても、それ自体がユングの言葉をかりるなら「人間の認識能力を超えていて、答えることができない」ものであることが、実践を深めていくことを難しくしているように思われる。
しかし、「小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 第1章総説1改訂の経緯及び基本方針(1)改訂の経緯」に示されているように、
「こうした変化の一つとして,人工知能(AI)の飛躍的な進化を挙げることができる。人工知能が自ら知識を概念的に理解し,思考し始めているとも言われ,雇用の在り方や学校において獲得する知識の意味にも大きな変化をもたらすのではないかとの予測も示されている。このことは同時に,人工知能がどれだけ進化し思考できるようになったとしても,その思考の目的を与えたり,目的のよさ・正しさ・美しさを判断したりできるのは人間の最も大きな強みであるということの再認識につながっている。」
と、文部科学省は、思考の目的を与えたり、目的のよさ・正しさ・美しさを判断したりできるのは人間の最も大きな強みであるとしている。人間は何によって「目的のよさ・正しさ・美しさ」を判断するのだろうか。「宗教性」は、それらを判断する私たち人間の根底にあるものといえないだろうか。それは、知識や思考、認識を展開する人工知能と明らかに異なる人間の内にある重要かつ神秘的なものなのではないか。
天外伺朗と各分野の専門家が対談をした『心の時代を読み解く』の中に、天外と湯浅泰雄の対談が収録されている。対談後半、湯浅による以下のような言葉がある。
「そもそも、古代ギリシャでは、『真・善・美』の三つが合わさってこそ完全な真実だと考えられていましたが、近代科学が問題にしているのはその中の『真』だけなんですね。だから、科学は結局、人間の求めるべき理想と価値の三分の一しか見ていないことになるわけです。/現代の私たちに欠けているのは、『善』と『美』。すなわち倫理と芸術の問題であり、それはもともと科学では説明できない問題なんですね。(中略)科学技術が発達した現代においてこそ、私たちは『人間はどう生きるべきか』という倫理的な問題を、あらためて問わなくてはなりません。そしてむしろ、その前提を踏まえたとき、科学についての方法論的反省を基礎にした『宗教と科学の接点』が、自然に見えてくるのではないでしょうか。」(天外伺朗,2002:p.183-184.)
湯浅による「善・美」の主張は、まさに「目的のよさ・正しさ・美しさ」と重なるものといえるだろう。
最後に、河合隼雄の著書『ユング心理学入門』から、再度ユングのエピソードを紹介したい。
「…ユングは東アフリカのエルゴン山中の住民のところに滞在していたときの体験を述べている。この住民たちが、日の出の際に太陽を崇拝することを知ったユングは、『太陽は神様なのか』と尋ねてみる。住民たちは、まったく馬鹿げたことを聞くという顔つきで、それを打ち消した。そこで、ユングは、そのとき空高く昇っていた太陽を指さして、『太陽がここにいるときは神様じゃないというが、東の方にいるときは、君らは神様だという』と、さらに追及すると、皆はまったく困ってしまう。やがて、老酋長が『あの上にいる太陽が神様でないことは本当だ。しかし、太陽が昇るとき、それが神様だ』と説明する。つまり、彼らにとっては、朝になって太陽が昇る現象と、それによって彼らの心の内部にひき起こされる感動は不可分のものであり、彼らには、その感動と昇る太陽とは区別されることなく、神として体験される。実際このような体験を把握することは、合理的な思考法のみで固められたひとにとっては、なかなか困難である。」(河合,2009:p.82-83.)
ユングは、合理的知性にみられるような絶対的な区別があるわけではなく、主体と客体の一体化が生じているとし、住民たちの現象に対する関わりを、レヴィ・ブリュルの言葉を用いて「神秘的関与」と呼んだ。
住民たちによる「神秘的関与」は、合理的な認識ではなく、現象と心を区別せずに感受する、自身にも認識し得ない「宗教性」によって支えられているのだろう。
以上、いくつかの引用とともに「宗教性」について考えを巡らせ、その重要性について記した。それを踏まえ、改めて立松和平の『いのちの絵本』を教材として「生と死の授業」をする意義について提示したい。
2.2.2.他者の「宗教性」にふれる「生と死の授業」
これまでも「生と死の授業」は、親や先祖から自らの命が与えられていることや命が受け継がれていくこと、自らの命が他の生命の犠牲の上に成り立っていること、死を見つめることで命の有限性を考えること、自らの命は唯一のものであるということ、命が互いに支え合っているということなどにふれるものが多かったように思われる。そこには、合理的な認識をもって自らの命や他の生命を見つめることで、命の時間的、空間的なつながり、有限性と唯一性について理解するという特徴があるのではないだろうか。
立松和平は旅をし続け、自ら体験し、作品を書いた作家であった。『いのちの絵本』に描かれる物語では、立松の宗教性をもとに、立松自身が体験したまさに「神秘的関与」に基づいて世界の在り様を現成させているように思われる。街に満ちた命の気配。米をつくるという「心身脱落」にも通じる姿、川に生を委ね、真理の内で学び成長する子どもたち。人間の力を超えたけやきの生命にふれ生きた千春の生涯。命の源を育む牧場を舞台に、この世界に満ちている「いのち」に目を向け、感受し、想いを巡らすことの大切さを描いた物語。それらを認識の次元で読めば、認識の世界が立ち現れるだろう。ただ、子どもたちがそのゆたかな感受性や心の内に起きる感情とともに読み、率直に語り合ったとき、あわせて教師が「宗教性」という視点から『いのちの絵本』を読み、教材としての価値を捉えたとき、子どもたちは『いのちの絵本』を通して、立松の「宗教性」に出合うこと、ふれることになるのではないだろうか。
『いのちの絵本』では、立松の「宗教性」をもとにした「いのち」の思想が表されている。それは道元に通じる「有時」や「徧界曽て蔵さず」などを内に含む立松独自の思想。自己の命を含めた森羅万象の「いのち」は、隠されることなく、今、今と現成し続けるものとして描かれている。その「いのち」に満ちた世界と、その内に生じている自らの生の「美しさ」が感じられる。『いのちの絵本』を教材として扱い、
「いのち」について対話を重ねる「生と死の授業」は、その宗教性、「いのち」の思想によって、命に対する合理的な認識という見方や捉え方とは異なるものを私たちに体験させてくれるのではないだろうか。それは、子どもたちにとって、自分とは異なる「世界の観え方」との出合い、それを体験する機会。自分の生きるこの世界が「いのち」に満ちているということを感じる機会。意識、無意識にかかわらず、「宗教性」や立松のいう「宗教心」という人間の認識能力を超えたものにふれ、その上で世界を観たとき、自分自身の命や他者の命を含めた森羅万象、あらゆるものの内に満ちている「いのち」をよりゆたかに感じることができるのではないだろうか。そしてそれらの体験は、子どもたちの生をよりゆたかなものにしてくれると考えるのだが、どうだろうか。
また、もう一つ「死」という視点から『いのちの絵本』を見つめることで、新たな教材としての意味が見えてくると考える。
『いのちの絵本』では、それぞれの作品内で、死や、死につながる気配が綴られている。『街のいのち』における瞳の母の死。『田んぼのいのち』における春子さんの入院。『川のいのち』における川に流された悟や暴れる川、生き物の命。『木のいのち』における戦争、お父さんの死、夫の死、そして千春自身の死。『牧場のいのち』における牧場からトラックで運ばれていく牛。
正法眼蔵では次のように記されている。
「生しようより死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきありのちあり。かるがゆゑに仏ぶつ法ぽうのなかには、生すなわち不ふ 生しようといふ。滅めつもひとときのくらゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなわち不滅といふ。」(禅文化学院,1968:p.23.)
「生から死に移り変わると考えるのは誤りである。生といえば生になりきっていて、始めから終わりまで生である。したがって、仏道では、生のことを『生死を超えた生』というのである。死といえば死になりきっていて、始めから終わりまで死である。したがってそれを『生死を超えた死』というのである。」(禅文化学院,1968:p.23.)
生のときは生の全体験であり、死のときは死の全体験であるという。
「この生しよう死じ は、すなはち仏の御おんいのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて生死に著じやくすれば、これも仏の御いのちをうしなふなり、仏のありさまをとどむるなり。」(禅文化学院,1968:p.24.)賴住光子は、著書『正法眼蔵入門』の中で、
「ここでいう『仏の御いのち』とは、仏という姿を通じて発現している、全時空の全存在を結びつけ成り立たせている『はたらき』であり、『今、ここ、この私』は、この『はたらき』によって成り立っている。」
(賴住,2014:p.103.)と説明する。
道元(立松)は、自己の生死を自己だけのものではなく、森羅万象とかかわり合いながら、今、今と、体験される生、体験される死と捉えている。それは、生の先に死があるというような捉えではない。そのため、『いのちの絵本』をもとに死を見つめた場合、死を見つめることで命の有限性を考え、自らの命を大切にしようという、これまでの「生と死の授業」の文脈にはなりにくいと思われる。それとは異なり、『いのちの絵本』には「生はひとときのくらゐ」であり「滅(死)もひとときのくらゐ」であり、それぞれを「仏の御いのち」の現れとして、そのままに受け取るという心が表れているように思える。それは生と死に執着せず、森羅万象に満ちた「いのち」を体験し今、今と現れてくる生を大切に生きること。生の先にある死という捉えではなく、まっすぐに生、死、それぞれの現れに向き合う、そんな思想にふれることで、子どもたちは自己の「いのち」に対して、それまでとは異なる感覚を抱くのではないだろうか。
立松自身も『牧場のいのち』に寄せた別紙『作者のことば』の最後に
「くり返し書いているように、命とは喜びと、同時に死という悲しみが必ずある。この喜びと悲しみとにできるだけ多くの子供が触れて、自分の命の意味を感じてほしい。」(立松,2007a)と記している。
以上のように、『いのちの絵本』を教材として扱った授業には、これまでの合理的な認識による命の捉えとは異なる授業の可能性があると考える。立松が自らの宗教性をもとに描いた作品の世界に出合うことで、子どもたちは自らの内にある認識し得ない宗教性をもとに、よりゆたかに生と死、「いのち」と向き合い、改めて自分の「いのち」の意味を感じることができるのではないだろうか。
3.教材『風聞・田中正造』による「生と死の授業」の可能性
『いのちの絵本』に続き、もう一つの立松和平の代表的な作品を教材として扱うことを考えてみたい。立松和平には『風聞・田中正造』が副題となっている作品が二つある。一つは1995年から1997年にかけて書かれた『毒-風聞・田中正造』であり、もう一つは『良寛』とともに絶筆となった『白い河-風聞・田中正造』(2010)である。両作品とも、その作品名から分かるように、足尾鉱毒事件について描かれている。以下、『毒-風聞・田中正造』後記から引用する。
「足尾鉱毒事件は日本での大規模な公害の第一号である。渡良瀬川の源流域で足尾銅山の操業によりできた鉱毒が、利根川に合流するまでの流域一帯に流れ込み、農作物に甚大なる被害をだした。政府による解決策は、洪水被害をくい止めるための遊水地を下流につくるということで、谷中村一村が強制 破 壊 に よ っ て 地 上 か ら 消 滅 す る。 明 治 十 年 代 か ら 四 十 年 代 に 起 き た 出 来 事 で あ る。」( 立松,1997:p.314.)
立松和平の曾祖父は、兵庫県から足尾銅山に渡り坑夫として移住した。祖父が宇都宮に移り、そこで立松は生まれた。足尾には叔父が残っていたため、立松自身も子どもの頃には足尾に滞在し、渡良瀬川流域の親戚や知人から鉱毒事件のことについて、何度も話を聞いたとのことである。24歳のとき、妻子とともに東京から故郷に帰り、宇都宮市役所に勤務した立松は、「谷中村強制破壊を考える会」をつくり、映画を撮影した。そのころから立松は足尾や谷中村のことについて書くことが自分にとってのライフワークだと考えていたという。長い年月にわたり、ライフワークと位置づけ書き続けた『風聞・田中正造』には、立松の宗教性、思想が描き出されていると思われる。
ここでは、『いのちの絵本』同様に、『風聞・田中正造』の教材としての可能性ついて考察する。各作品における立松の「いのち」の思想について、立松の思想に影響があったと思われる他作品との関連の中で考えてみたい。
3.1.教材『毒-風聞・田中正造』にみられる「いのち」の思想
3.1.1.『毒-風聞・田中正造』のあらすじ
『毒-風聞・田中正造』(以下、『毒』)は、十章で構成され、足尾鉱毒事件を「なまず」、「庭田源八の『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』」、「のみとしらみ」、「石亀」、「善一」など、それぞれの登場人物の視点で丁寧に描いている。日本が日露戦争に向かっていく中、公害によって生きる土地と命を奪われていった人々、その人々と苦しみをともにし、国家の在り方を訴え、人々を守るために自らの命をかけた田中正造の半生を記した物語である。以下、若干長くなるが、あらすじをまとめる。
第一章 なまずのつぶやき
渡良瀬川に生きるなまずの視点から川の中を描いている。月が話してくれた話として、かえるがなまずに話をする。
「昔昔の話だよ。このあたりはね、かえるがしょんべんをしても大水がでるといわれるほど水が多いところだから、田んぼはすぐ水につかる。もちろんかえるがしょんべんをしたからではないよ。人間はみんな貧乏でね。ある時、都から中納言と呼ばれるやんごとなきお方が通りかかった。…」
(立松,1997:p.6.)修行に励む中納言は尊敬され、行人様と呼ばれた。行人様は、洪水の多い土地を鎮めるために、即身成仏をすることにした。桶に入り、土の中に埋めてもらい、その中で念仏を唱えつづけ成仏した。月は、そんなことも人間は忘れてしまうと嘆き、だからまた洪水が多くなったのだと言う。なまずはかえるを呑みこんでしまってから考える。渡良瀬川には徳の高いお坊さんがたびたびやってきた。弘法様や旅の老僧のことを回想する。大蛇の話など思い出しているうちに、川に濁った水が大量に流れてきて、なまずは身体が痺れてあまりに苦しく、自分がどうなっているのか分からなくなってしまった。
第二章 老農のつぶやき
第二章では、栃木県足利郡吾妻村大字下羽田の百姓、庭田源八の語りで描かれる。源八が書いた『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』の内容を中心に、鉱毒によって奪われていく生き物の命と暮らし、田中正造
の国会での訴え、川俣事件などの被害民による鉱毒反対運動に対する弾圧などが詳細に語られていく。
第三章 我らが主人
第三章は、田中正造についている、しらみとのみの視点から語られる。古河から宇都宮に向かって走る夜汽車に向かって反対方向から向かってくる機関車が、衝突寸前で闇の中に消えた話。次の日、見るとたぬきが血だらけで倒れていた。松林に汽車を走らせることをたぬきはおもしろく思わず、化けてでたのだろうとのこと。人間になりたいむじなが、人間にだまされ、一匹残らず殺されてしまう話。後半は田中正造による国会での演説、その後、田中正造が新聞記者の幸徳秋水と出会い、国会議員を辞め、自らの命をかけ明治天皇への直訴を試みたことが綴られている。失敗に終わった直訴を、政府は犯罪とはせず、ロシアとの戦争を理由に無視することにした。
第四章 若わけえしやど衆宿
第四章は、谷中村、若衆組の善一の視点で語られる。年長の善一や亀太、佐武が、若衆に対して洪水のことを話す。善一たちは、洪水をおさえるために人柱として埋められた娘のことや、魂呼(たまよ)び、井戸神様、徴兵逃れ、殺人事件、狐憑き、石亀様などの話をした。話を終えると若衆みんなで力比べをした。水が出る(洪水になる)と真っ先に流されてしまう位置に祀られたナガラ様、すべての人のために犠牲になるナガラ様の境内で力比べは行われた。ナガラ様は行人様が即身成仏をした後の姿である。力石という二十貫目(七十五キロ)の重さの石を持ち上げる。しかし、鉱毒と食糧不足で、若衆の体力は落ちていた。善一だけがなんとか持ち上げることができた。
章の後半になり、海老瀬村から若衆が、若い娘のいる家を回りにやってきた。海老瀬村の男たちを捕まえた善一たちは、男たちから「政府が谷中村を潰して、洪水を防ぐ水溜まりをつくる計画がある」ということを聞く。
第五章 石亀
第五章は石亀様として祀られている石亀の視点から毒水がくる洪水の様子が描かれている。毒水は、田んぼをおかし、稲を流し、大豆も小豆も踏み倒し、大根を腐らせる。畦道には草も生えず、雑木林は枯れる。食べるものはなくなる。毒水の流れの中で、流されながら石亀はまわりを見ないように泳ぎ続けた。ここで生きられるのは、呼吸もせず餌も食べない石亀くらいのもの。まわりは死に満ちた世界だった。
石亀は、桶に入り即身成仏した行人様のことを想う。自分は行人様の生まれ変わりなのだと濁流の流れに乗りながら思ってみる。石亀にはあるはずのない行人様の記憶が残っている。谷中村が心配になる。石亀は利根川と渡良瀬川の合流点にまで流れていく。流れは複雑で、水勢の強い利根川の水が壁のように立ちはだかり、渡良瀬川の水を押し返す。渡良瀬川の水は毒を含み、酸味が強い。水面に浮かんだ石亀は、毒の水ばかりの水の大地に驚く。
第六章 水村(すいそん)
第六章は、のみがしらみに「谷中村遊水地案」について話をする場面で始まる。県の役人は土地の買収のため、様々な方法で圧力をかけてくる。田中正造は、ナガラ様の社殿で村民と語り合う。ただ、場所もよくなく、生活自体が苦しく、集まったのは五人だった。田中正造は、自らの想いを語る。
第七章 誘惑
日露戦争が激烈をきわめ、村の各家々に兵隊別火(戦争にいかなくてすみますようにという祈願)の触れがまわった。若衆の善一、亀太、佐武の三人は徴兵適齢期のため、ことに熱心に経文を唱えた。村内にあるありとあらゆる神仏ゆかりの場所をまわる。熟した麦を刈らなければいけない時期に来ていることはわかっていたが、命の方が大切だった。善一と亀太、佐武は兵隊別火を続けた。はじめ五十人近くいた一団は十人あまりになっていた。
渡良瀬川が逆流してきたり、破れた堤防から流れ込んだりして谷中村はまさに水の村になっていた。善一たちは舟に乗り、神社仏閣をまわった。その頃、佐武の父親が博打場に出入りし、古河の女郎屋にいりびたる。佐武の家族は、洪水で流れてきた板切れを集めてつくった粗末な小屋で母親と四人の弟たち妹たちとで暮らしていた。佐武の母親が徴兵検査のはがきが来たことを善一に告げる。若衆組、五十人ほとんどが兵隊にとられた。徴兵検査において佐武と亀太は体格が貧弱だったため第二乙種となり、善一だけが甲種合格だった。谷中村の若者たちだけが鉱毒のために成績が悪かった。自分が戦地に行ってしまった後の残された家族を想い、佐武は善一とともに、古河の女郎屋にいる父親を連れ戻しに行く。村が水の下に沈んだこと、県の用意した那須に移り住むことができること、帰ってきてほしいということを伝え、父親を説得した。
第八章 侮辱
村人は移住していく。谷中村に残っているのは二百戸ほど。田中正造は、村の若衆一人とともに堤防仮復旧費を一円二円と集めてまわっていた。第八章では、その様子がのみとしらみの視点から語られる。田中正造の身体や着物はしらみだらけだった。一面水に覆われた谷中村、泥のぬかるみの中を二人は歩く。内職の下駄の鼻緒を古河に届ける女や切れた堤防を補修する村民など、人々は谷中村で生きている。
田中正造は歩きまわり、日の暮れたところが宿と決めていた。谷中村だけでなく、東京の支持者にも懇願し、東京中を歩きまわった。村民が仮堤防を完成させても、県の役人たちがやってきて堤防を滅茶苦茶に壊してしまったことを、のみがしらみに興奮しながら話す。谷中村は村長がいなくなった。
「そこで下都賀郡役所書記が村長職を代行していた。その村長は議長も兼ね、村議会を臨時召集する。あまりに急なことで、村議員が出席しても定数に満たない。そんな村議会に村長兼議長は谷中村を藤岡町に合併する案をだしたのである。議会は否決したのだが、村長の原案執行ということになる。その結果藤岡町に吸収合併され、谷中村は消えたのだ。」(立松,1997:p.220.)
その結果、村の借金である村債は残留民の負担となる。村税は例年の三十九倍になった。警官とともに、村税徴収のため財産差押さえをしてまわる鈴木村長。田中正造は村長を批判し、官吏侮辱罪で告訴され、未決監に収容されてしまう。監獄の中で新約聖書を読んでいた田中正造だが、栄養不良と過労のため眼病になっていた。検事に侮辱されながら保釈出獄した田中正造は、谷中村に戻る。そこで、那須に移住したが戻ってきた家族と出会った田中は、開拓地は県が示したような豊かな土地ではなかったことを知る。
第九章 帰郷
第九章は、こいとつばめのやりとりで始まる。つばめは高く飛び、駅のプラットホームを見る。そこには戦死した佐武の遺骨を胸に抱いて凱旋兵士として帰国した善一の姿あった。善一は、出迎えに来た佐武の父親に遺骨を手渡した。そして那須での移住者たちの苦労を知る。善一は谷中村に向かった。そこは水びたしの村だった。いくつかの水塚の上に数えるほどの家が残っているだけで、魚の楽園になっていた。善一は、水塚の隅にある川舟の中に住んでいた両親と再会する。そして、もうすぐ谷中村の家々が強制破壊になるかもしれないことを知る。
第十章 遥かな行人様
第十章は、のみとしらみによる行人様の話で始まる。とうとう谷中村に最後まで踏みとどまっていた十六戸百十六名に対し、強制執行命令がでた。田中正造は、栃木県知事に面会し、強制執行の断念を求める。その結果、強制執行が五日間延期になった。実際には取り壊しをする人手が集まらなかったことが真相ではなかったかと、のみとしらみは語り合った。破壊命令再戒告から再度二日間延期された明治四十年六月二十九日、強制執行が始まった。抵抗する村民や田中正造、善一だったが、強制破壊は続いていく。激しい雨の降る深夜、屋敷を破壊された家の人々が唐傘の下に固まって雨をしのいでいた。田中正造は、そんな人々を励ましてまわる。
物語の最後は、善一の視点から描かれる。強制破壊のすんだ一カ月半の後、暴風雨がやってきた。その頃、善一と田中正造は谷中村の回復を図るために古河の支援者を回っていた。田中正造は病気を患い、発熱していたが、村人が集まりそうな堤外に移転したナガラ様の神社に向かった。ナガラ様に抱かれるように、神殿の中には見慣れた顔がたくさん逃れてきていた。
「無事でがしたかと手を握っては、田中さんはその一人一人に頭を下げる。田中さんのいるところがほんのり明るくなっていることに、善一は気づいていた。」(立松,1997:p.313.)以上が、『毒』のあらすじである。
3.1.2.遥かな行人様としての「田中正造」
立松は、足尾鉱毒事件を水や大地の「内」からの視点で描いた。それは天と地の間に、その土地の恵みとともに生きた谷中村の人々、毒水に沈んでいく土地、雨の日には天と水の大地が一つになってしまうような空間に身体一つで生きようとした人々の視点。また、なまずをはじめ水の中や毒水の中に生きた生き物たちの視点。大地の中へと入り即身成仏をとげナガラ様となった行人様や、村のいろいろなことを見てきた石亀様の視点。その多様な視点からの表現は、鉱毒事件について記すことにとどまらず、あのとき、渡良瀬川、谷中村で何が起きていたのかということを、生きとし生けるもの、それをも超えた神仏の次元において現成させようとしたものに感じられる。それはどこか民間伝承的な雰囲気が感じられる。
立松は、『境界の誘惑 小説と民俗の想像力』の中で『遠野物語』や『海上の道』などを取り上げ、「他界」や「境界」という言葉を用い、自然や文明、民俗社会や人々の観念について述べている。かつて民俗社会に生きた人々がもっていた信仰や自然に対する畏怖の観念を、立松自身も感じていたことがわかる。それらは『毒』の中においても「ナガラ様」や「石亀様」という他界のものとそれを信仰する村人の姿として描かれる。あわせて、『毒』においてみられる立松の「いのち」の思想は、そのような多様で異なるものが混じり合う複雑なものであるように思う。その中でも、作品の中で何度も語られる行人様や田中正造の姿は一つの中心的な思想を表しているように思われる。
行人様は、農民たちにこう話す。
「草庵での読経ばかりでなく、鍬くわを振り上げ振り降ろすことも、汗と糞だらけの馬の尻を叩いて犁すきを追っていくことも、農民が農民の本分をつくすことはすべて仏道修行なのだと、行人様は村人に説法をした。/それでは魚捕りをする川魚漁師は、殺生をするから仕事を通して仏道修行はできないのかと、誰かが問う。すべての人がその本分をつくすことによって命を天に預け、天の命じるままの糧によって生きる。これこそ過分な執着を捨てることであり、漁師も分以上に欲しがらないことによって、日々水の上で修行をしているのだ。商人には商人の、武士には武士の本分をつくすことが大切なのである。」(立松,1997:p.146-147.)
「…命を天に預け、天の命じるままの糧によって生きる。」それはまさに谷中村に生きた村人たちの姿であり、田中正造が守ろうとした人々の「いのち」の在り様である。また、その生き方を最後まで貫き通したのは田中正造自身だった。『毒』の中でも、村民救済のためにすべてをなげうって、自らの身をも犠牲にし道を歩み続けた田中正造の姿が描かれている。立松が田中正造の姿を描くにあたり、島田宗三の『田中正造翁余録』を執筆のための資料にしたことは「後記」においても記されている。『田中正造翁余録』は、谷中村の遺民である島田宗三が少年時代から体験した谷中村における事件と田中正造本人や関係者から見聞きした事実を記録したものである。その記録は田中正造の晩年とその後の谷中村にまで及ぶ大変貴重なものである。以下、『田中正造翁余録』から引用する。破壊命令期限まで残り三日となった六月十九日、植松第四部長と藤堂栃木警察署長、巡査十数名が買収対策事務所に乗り込んできた。口論の末、植松部長からの、この後どうするのかという問いに対し、田中正造は次のように答える。
「『僕は人民のためばかりでなく、直ちに国家のためを思うてこれを言うのであるが、それが聴けないならば、煮て食うとも焼いて食うとも好きになさるより仕方がない。いまやわれわれは困窮して乞食の姿となっている。買収に応ずるとも乞食、応ぜざるもまた乞食となるのは同じこと、僕もまた乞食となって村民と共に食を天下に乞うのみである。』/と言い終わって、翁が眼から落ちる涙を手の甲で拭いた。/(中略)筆者はかつて『あれが本当の生き神様』というた亡父の言葉を思い出して顔を掩って泣いた。」(島田,1972a:p.107.)
田中正造は、まさに自らの命を天に預け、村民のために生きた。その姿は乞食のようであるが、それは修行の道をゆく僧の姿にも通じるようである。大正二年八月十三日、入院していた病室において田中正造は、島田宗三に対し、自分は「天地と共に生きるものである」と言う。「天地が滅ぶれば正造もまた滅びざるをえない。」とし、お見舞いをするよりも山川の回復をと頼む。島田宗三は、そんな田中正造に対し、釈迦やキリスト、法然や親鸞などの名を挙げ、みな周囲の後輩が形だけに囚われ、その精神を忘れていることを例に
「『今の世の中は、雨降り風荒び、暗雲天に漲っている有様ですから、この時一個のランプを出しても消されてしまうのは当然かも知れません。しかし、お言葉は真理ですから――光りですから――光りはたとえ消えても、一度光ったものは無かったのだということはできません。…」(島田,1972b:p.220.)と、田中正造の言葉のうちに真理を見出し、それを「光り」と表現した。
『毒』の作中においても、田中正造の姿は宗教的な要素を帯びている。
「自分から犠牲になろうとは、誰だって思わないはずである。そんなことを考えるのは、田中正造先生ぐらいだ。天子様に直訴をするとは、自分がナガラ様になろうとしたのである。それで失敗したのだから、神様にもなれず、人間に戻ることもできないのかもしれない。」(立松,1997:p.110.)
と善一は考える。立松は、なまずや善一、石亀様の視点から繰り返しナガラ様になった行人様について語る。そして、第十章「遥かな行人様」とし、谷中村強制破壊に際して、命をかけ村人に寄り添う田中正造の姿や、その後も谷中村に残留している村人とともに生きる姿を描いている。そのような物語の構成や表現から、田中正造の姿と行人様の姿が重なっていくようにも感じられる。強制破壊から一カ月半の後、暴風雨により堤防が次々決壊する。家が破壊された村人たちは移転したナガラ様の神社に避難していた。そこに駆け付けた田中正造の姿を綴り、物語は終わる。
「無事でがしたかと手を握っては、田中さんはその一人一人に頭を下げる。田中さんのいるところがほんのり明るくなっていることに、善一は気づいていた。」(立松,1997:p.313.)
田中正造のいるところに現れる「光り」。それは、立松自身が田中正造に対して感じていた宗教心の表れではないだろうか。
3.1.3.天地とともに生きるということ
『毒-風聞・田中正造』は、利の追求と富国強兵、戦争政策へと舵を切る国家権力、それによって生じた鉱毒事件、環境破壊を、まさにその内からの視点で描いた。毒に生命を奪われ、破壊されるものの目で。それは近代文明発展の中にある問題を「個」の視点から見つめ現成させたという点において価値あることだと考える。
立松は、エッセイ集『仏と自然』の冒頭、「叡智の旅へ」と題し、次のように綴る。
「欲などに汚されていない澄んだ叡智を持って、果てしのない冒険の旅に出かけていった人が、いつの世にもいたのである。彼はそこいら中にあるはずの真理を辛苦の果てにつかみ、私たちの目の前に示してくれる。/この美しい地球を心から知ったならば、大地や海を少しでも壊したり汚したりしようという気には、ならないはずである。」(立松,2011:p.11.)
まさに、戦争や利の追求という欲によって、大地を壊したり汚したりした人間の姿と、真理を体験し、この地球の美しさを心から知っている人間の姿が『毒』にはある。近代以降、日本においても、代表的な四大公害病をはじめ、多くの公害が起きてきた。原子力臨界事件やダイオキシン、アスベスト、原子力発電所の損壊による放射性物質の拡散など、それらは人間の命を奪い、地球を壊し、汚してきた。
天地とともに生きる田中正造と谷中村の人々、立松によって描かれた『毒』は、この地球において、私たちはどう生きていくのかという問いを提示しているようにも思える。
3.2.教材『白い河-風聞・田中正造』にみられる「いのち」の思想
3.2.1.『白い河-風聞・田中正造』について
『白い河-風聞・田中正造』(以下、『白い河』)は2010年に出版された。
『白い河』には『毒』と同時期の田中正造や渡良瀬川周辺の農民たちの姿が描かれている。1997年に出版された『毒』から13年を経て出版された絶筆『白い河』は、1決壊、2苦い砂、3田中正造演説、4 義十、5 川俣事件、6 決意、7 二つの村、8 決議、9 旅順と章立て、より歴史的事実を詳細に綴るとともに、田中正造と農民の内面により深く想いを巡らせながら物語が進んでいく。しかし、大六という若者の徴兵、戦闘へと向かう場面で終わってしまう。物語は途中で終わってしまうものの、その内容からは、同じく絶筆となった『良寛』や道元の思想が色濃く表れていることが読み取れる。
3.2.2.道元思想の現成としての「義十」
物語全体を通して正造に影響を与える人物に、栃木県足利郡吾妻村大字下羽田の植木義十がいる。義十は、鉱毒によって毒土となった土地に生きた百姓である。洪水で流された母屋の裏にある水塚の上の小屋に家族で住み、日々「天地返し(毒土の下の本来の土を掘り上げ、毒土と本来の土を入れ替える)」をしていた。
正造が義十のところを訪れ、次のように想いを巡らせる場面がある。
「正造は雲に向かってふっと笑った。雲を頼みに水を頼みに生きている人のことを思った。義十老は自分のやっていることが天地に向かってゆるぎもなくまっすぐで、他人に対して害をおよぼすことがまったくなく、これしかない道を歩いていることに自覚もない。正直なところ、そのことに頭が下がるのである。自覚を促したところで、それは意味もないことだ。正造はそう考え直し、自分のことを話すことにした。」(立松,2010b:p.138-139.)
また、直訴事件の後、出獄した正造は義十に古河町の停車場まで迎えを頼む。谷中村を二人で歩きながら、正造は義十に向かって言う。
「『たとえ家の外に出なくても、この世界で何が起こっているかを、人は知ることができるんでがす。窓から外を覗かなくても、真理はすぐ目の前にあるんでがす。いたるところにある。人間こそが小宇宙であるからなんでがす。中国の古代の賢人はそういった。家の外に出て表面的な知識を追えば追うほど、自分が一体何者であるかさっぱりわからなくなってくるんでがす。真(まこと)の聖人は奔走せず、いつも岩のようにどっしり坐していると、その賢人はいったんでがんす。坐しているだけで事の本質を完璧に知り、奔走せずに事を解決できる。わしはそういう人物になりたいんでがすが、道はあまりに遠い。天地返しを黙々とする義十さんこそ、その賢人でねえかと、この頃わしは思うんでがんす』」(立松,2010b:p.166.)
義十の姿には、「2.1.2」で取り上げた『田んぼのいのち』の賢治さん、『道元禅師』の用、『良寛』の万秀、『日光』の神山浅次郎と重なるものがある。道元の思想が強く表れていると考える。天地一枚の間で、天にまかせ大地と向き合い続ける義十。その行為自体が、森羅万象、世界に満ちた真理を体験するものであり、自己に対する執着をもたず、大いなる「いのち」の中に自らの命を委ねる「只管打坐」、「修証」、「心身脱落」なのだろう。それは、鉱毒という災いの中にあっても変わらない。すべては天と地から与えられるもの、自らはその内に抱かれ、自らのするべきことをする。義十は人間の本質的な「いのち」の在り様を示しているように感じられる。『毒』において記された「天に命を預け」という思想が、道元の思想を含み、より強く表されている。
道元の師である如浄和尚は名誉を愛するは一生の禍いであるとした。皇帝に近づかず、大臣や官吏とも親交をもたず、禅師号も辞退した。その教えは道元にも、良寛にも、受け継がれている。その思想は、立松を通して義十の姿としても現れているように思える。国家は戦争へと向かい、近代化の中で、鉱業を擁護した。土地を毒で覆い、若者たちは戦場へと徴兵され、名誉は多くの命を奪い去っていった。その渦中にありがなら、その対極に義十は位置する。義十の姿は、立松和平の求めた姿なのだろう。そう考えるとどこか、NPO法人「足尾に緑を育てる会」を立ち上げ、はげ山に木を植えていた立松と、「天地返し」で大地を少しずつ生き返らせる義十とが重なって見えるようにも思える。それは小さな灯火のようなものかもしれない。しかし「仏教の教えでは、貧者の一燈こそ尊ぶべき至高の行いなのですから。」(立松,1999:p.201.)と立松は言う。
3.2.3.立松和平が描く「田中正造」
『白い河』では、足尾銅山に関わる人間に対する表現にも変化が見られる。それは約13年間、道元や良寛とともに生きた立松の思想の変化でもあるのだろう。『毒』においては、足尾銅山経営者の古河市兵衛、その夫人のタメのことが以下のように、しらみとのみの視点から綴られている。「ある日主人が新聞記者との話題の中で、古河市兵衛夫人タメが、神田川に入水自殺したと話していた。いくら事業が大成功しようとも、家族を死に追いやってなんの幸福かと、おおかたの人が話していた。」
(立松,1997:p.82.)
『毒』では、夫人タメの死の事実を記すとともに、古河市兵衛を非難する人々がいることにふれている。しかし、『白い河』では、タメの死は、正造の言葉で自身の迷い、生き方とともに語られる。
「『義十さん、あなたこそ自立自治を生きている。わしはこの頃こう思っているんでがんす。真の聖人たるものは、いくら自分が正しくとも、人を苦しみの場所には追い込まない。いくら自分が鋭くとも、それによって人を傷つけない。率直さが過ぎて、知らずに人の領域を侵したりはしない。たとえ自分が悟った人間であるとの自覚があったとしても、それによって独りよがりになったりはしない。わしは真の聖人ではあるはずがないが、攻撃して何人を苦しみの場所に追い込み、傷つけ、他人の領域に踏み込み、独りよがりなことをしてきたか。わしのしておることとまったく反対のことをすれば、真の聖人になれることは間違いねえんでがんす』(中略)…鉱毒世論が盛り上がるにつれ、足尾銅山経営者古河市兵衛の夫人ため子が、神田橋下で入水自殺をした。夫人は広い世間の中にいたたまれなくな っ た の だ。 田 中 先 生 は そ の こ と を い っ て い る の だ と、 義 十 は 気 づ い た の で あ る。」( 立松,2010b:p.174-175.)
『毒』は、人々、魚、植物、奪われた様々な命を描く中で、鉱毒によって失われたものを多様な視点から描いた。それは、国家や鉱業人と、谷中村の村民と正造という、「毒」と「毒に襲われる立ち向かう者たち」という二項対立の構図だった。
一方、『白い河』では、国家や鉱業人と、渡良瀬川周辺の農民と正造という構図は変わらないものの、歴史的な事実に基づいた国家の在り様や社会、戦争に関する詳細な表現を見て取ることができるとともに、正造や義十の内面へと向かう思想的な深まりと、より多くの苦しむ人々に想いを巡らせる思想的な広がりが読み取れる。「…いくら自分が正しくとも、人を苦しみの場所には追い込まない。いくら自分が鋭くとも、それによって人を傷つけない。…たとえ自分が悟った人間であるとの自覚があったとしても、それによって独りよがりになったりはしない。」と正造は自らのしてきたことを反省的に振り返る。正造は真理を悟っていなかったわけではなく、また悟っていたわけでもない。迷いながら人々のためにあろうとする。より広く多くの「いのち」を想う。そんな正造の生きた位相には心打たれるものがある。
それらの正造の姿からは、まっすぐ強く信じることを貫き通す道元とは異なる印象を受ける。それはまるで、自らの信じることを大切にしながらも、迷いながら民とともに生きた良寛を思わせる。また、そこには立松自身の思想が反映されているようにも思える。
立松は、若い頃からブッタの思想に想いを馳せ、インドを旅している。道元だけでなく、木喰行道や円空、勝道上人、良寛など、多くの仏教またはその土地の信仰にふれ、作品の中でそれらを表現し、その登場人物とともに歩むことで、同時にその都度、自らの思想を練り直し、育んでいったように思える。たとえば、『良寛』には、道元の思想を引き継ぎながらも、より現代の人間の感じ方、立松の生き方に近いところがあるように思える。立松がそんな良寛にひかれていたことは、作品からも感じられる。
「道元の連載が終わると、私はただちに良寛の小説の連載にとりかかり、現在『大法輪』に執筆中である。私は毎月良寛に会っている。良寛を通して道元とも会っている。『よき人に近ヅ』いて『覚えざるに衣しめる』と感じているから淋しくないのだ。」(立松,2010a:p.117.)立松にとって良寛と道元を繋ぎ書くということは、良寛と出会うことであり、道元と出会うことであった。それはまた、新たに自らの思想を葛藤の中で育むことだったのではないだろうか。
同じように、立松は『白い河』においても、正造とともに、鉱毒事件を見つめ、そこに生きる人々とともにあろうとしたように思える。田中正造とともに、自らの「いのち」の思想を育んでいったのではないだろうか。
3.2.4.「白い河」
「正造はいつしか泣きながら演説しているのだった。声の調子は相変わらず激烈だったが、攻撃的に声を張り上げれば張り上げるほど、心の底を音もなく流れる白い河を意識するようになった。そして、深い深い悲しみを感じるのである。悲しければ悲しいほど、芯のところでは冷静になっていた。」
(立松,2010b:p.128.)正造の心の底を流れる「白い河」とは、なんであったのだろうか。立松はエッセイの中で正法眼蔵の現成公案の一文を引用しこう綴っている。
「『しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり』/自分の中にすべての真理が流れ、その中に生があり死があるということである。真理というのは自分の外にも内にもある。そこいら中真理でないものはない。そうであるなら、その真理の中に自分を投げ入れ、身をまかせるのがよい。それが坐禅をするということだ。道元の思想は深くて味わい深い。私にとっては、人生の道標である。」
(立松,2011:p.89-90.)
「自分の中にすべての真理が流れ」ている。それは「徧界曾て蔵さず」、「悉有仏性」、悉有は仏性であるという思想からくるものだろう。
「白い河」とは、正造の内を流れる真理といえるのではないだろうか。それはそれ自体が自己の内を流れる真理であるとともに、その流れは正造のゆく先を示す道標でもあるように思える。惜しくも作品『白い河』はその道の半ばで終わる。そのため、「白い河」についての思案は、あくまで想像の域をでないのだが、もう少し考え綴りたい。
立松の著書『芭蕉 「奥の細道」内なる旅』で「白」という言葉が思想的に登場する。
「私が座右の書としていつも事あるごとにページを操る『ブッダのことば――スッタニパータ』(中村元訳・岩波文庫)には、このように書かれている。「この世とかの世とをともに捨て去る」というのが、釈迦の立場なのである。そして、この世とあの世のちょうど真中の道を、私は白びやく道どうと呼ぼう。芭蕉はその白道をゆこうというのである。」(立松,2007a:p.109-110.)
立松は、文芸にとってのこの世とかの世の間にある白道は、作品の達成した質の中に存在するという。芭蕉にとっては芭蕉の俳句こそが白道であると。
「芭蕉の『奥の細道』への旅は、やむにやまれぬ発心というものだ。何のために、何をしていたから、などということではない。ただそうしなければならないから、旅にでる。どのような言葉も、そのやむにやまれない心情をいっているにすぎない。だからこそ、この世とかの世の間にあるという白道をゆくことができるのである。」(立松,2007:p.114.)
仏教では、善導大師の「二河白道(にがびゃくどう)」という有名な譬喩があるが、ここで記された「白道」は、それとは異なる立松自身の思想であろう。
「白い河」は田中正造の内を流れる「白道」とはいえないだろうか。戦争や利の追求へと向かう社会と、鉱毒によって失われていく「いのち」。まったくずれた空疎な議論をする議会と、今なお進行している鉱毒の現実。その間で、泣きながら演説をする正造。
「いつも冷静だとは決していえない正造であるが、その日は特に感情が激してきて、頭に血が上っているのが自分でもわかっていた。そのことをわかっているのだから、一方で冷静だといえばいえる。どんなに激高している時でも、胸の奥底のほうには澄んだ水の流れる川がある。その水は触ると冷んやりとしている。この川の存在は正造しか知らないのである。他人には見せたくても見せることはできない。」(立松,2010b:p.125.)
正造はその流れとともに行くのだろう。感情が高ぶり、怒りが生じても、それとは別に行くべき真理が正造の内には流れている。現実の田中正造は「いのち」を終えるその時まで、信じる道を歩み続けた。「白い河」は、正造の歩む道を示した流れとして表現されたものと捉えることはできないだろうか。
3.2.5.戦争
『毒』、『白い河』ともに戦争により苦しめられる人々の姿が、鉱毒とともに描かれている。当時、銅は日本の主要輸出品の一つであり、足尾銅山は全国の1 / 4の産出量を占めていたといわれる。政府は、日清戦争・日露戦争に向かう中で、足尾銅山を閉山するわけにはいかなかった。戦争もまた、作品『風聞・田中正造』を語る上で外すことのできない要素であると考える3。
明治維新に始まった日本における近代化は、「富国強兵」と「殖産興業」を掲げ、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦、太平洋戦争へと進んでいく。『毒』と『白い河』は、まさにそんな日本が歩んだ近代化と戦争の始まりを、渡良瀬川周辺に生きた人々の目から描いた。
『毒』においては、善一や佐武たちが行った兵隊別火と、凱旋兵士として戻った善一の回想の中で、戦争について描かれている。それに比べ『白い河』では、義十の伜である大六が徴兵され、戦地に入るその様子と気持ちがより詳細に綴られている。特に、作品終盤では、大六が戦地にて目にしたことが、戦争に対する批判的な視点に立って表現されていく。
「どの顔も等しく青黒くて、時とともに膨れてくるようである。戦闘では我が身を捨てて闘った勇者だ。岩陰にも、砂の上にも、異形の姿になった勇者の姿があった。みんなどのような思いで暝目(めいもく)したのだろうと考え、大六は戦慄を禁じ得なかった。親兄弟や夫がこのような異形の姿で倒れているの を 見 た な ら ば、 国 威 高 揚 な ど と い っ て 誰 が 家 族 を 戦 地 に 送 り 出 す こ と が で き る か。」( 立松,2010b:p.229-230.)
立松の初期の作品には、戦争に関わるものがある。また、戦争の中を生きた父の姿を小説の形で表現することを試みている。立松が描いた戦争に関する作品で、大六の姿とどこか重なる人物が登場するのが『軍曹かく戦わず』である。1937年に始まった日中戦争(抗日戦争)、その中国戦線を生きた小松啓二軍曹の姿を描いた。いかに戦わず、人の命を奪わず、いかに生きるために食料を確保するか、戦地において反戦を胸に生きた人物の姿が綴られている。
『白い河』の大六も同じように「生き残るための闘い」に向かう。義十、家族とともに、生まれ故郷において天地の間で生きてきた一人の人間が、残酷で理不尽な戦地へと強制的に送られるという事実。そんな人々が国威高揚と戦闘に向かって行ってしまう怖ろしさ。その中において反戦の想いを抱き、懸命に生き抜こうとする大六の姿。立松の描く戦争は、俯瞰した目線で捉えたものではなく、その中で生きる一人の目で観た世界として映し出される。立松は、大六の姿を通して、戦争の内から反戦を訴える。
3.3.『風聞・田中正造』を教材とした「生と死の授業」の意義
以上のように、『毒』と『白い河』について、他作品との関連の中で考えてきた。『毒』においては、行人様と田中正造の姿に立松自身の宗教心をみた。また、日本における初めての公害である足尾鉱毒事件を、毒の内を生きる生物の多様な視点から見つめることで、近代化していった日本と環境の問題が見て取れた。『白い河』では、道元の思想からの影響を感じる義十の姿や、より多くの「いのち」に想いを巡らす正造の姿、「白い河」という正造の内を流れる真理の道標など、『毒』とは異なる立松自身の宗教心が読み取れる。また、戦争に対する立松自身の反戦の思想が、『毒』よりも色濃く表れている。これらのことから『風聞・田中正造』である『毒』と『白い河』を教材として扱った際の「生と死の授業」の意義について考えていきたい。
3.3.1.他者の「宗教性」にふれる「生と死の授業」その二
「2.2.2.」において、『いのちの絵本』を教材として扱った際の「他者の宗教性にふれる生と死の授業」の意義について記した。『風聞・田中正造』を教材として扱った際にも、立松自身の「宗教性」にふれることには大きな価値があると考える。
田中正造や行人様、義十といった人物に、立松の「宗教性」が感じられる。そこには『いのちの絵本』同様に、道元の思想を含むものや、それだけでは語れない立松独自の思想が読み取れる。
「3.1.2.」でもふれたが、立松の思想には仏教の思想が色濃く表れている。しかし、その奥には民間信仰やアニミズムのような思想が垣間見られる。既存の「宗教」という枠組みとは異なる思想。そもそも「宗教」という言葉は、キリスト教や仏教をはじめとした制度宗教をさす言葉として、明治時代の頃から定着したと、宗教学者である阿満利麿はいう。
「いずれにせよ、『自然宗教』を排除した造語である『宗教』が一般化するなかで、『自然宗教』は、まともに研究対象としてとりあげられることは少なく、ましてや、『自然宗教』が日本人の宗教意識の主流をなしているといった認識は、生まれなかった。/ただ一つの例外が、柳田国男らによる民俗学であった。柳田国男や折口信夫は、日本の知識人が捨ててかえりみなかった日本の『自然宗教』について、詳細な研究を積み重ねてきた。誤解をおそれずにいえば、彼らこそ、日本の『自然宗教』の『神学者』であったともいえる。もっとも、彼らもまた、その研究対象を『自然宗教』とはよばなかった。彼らの用語法にしたがえば、『民間信仰』であったり、『民間伝承』なのであった。」(阿満,1996:p.75-76.)
阿満の言葉をかりれば、立松の思想には、日本の知識人が捨ててかえりみなかった「宗教」という枠におさまらない宗教心が含まれているといえるのではないか。
また、立松自身の宗教心について、五木寛之は対談の中で次のように述べている。
「立松さんの宗教観からすると、先ほど話に出てきた良りよう寛かんもそうだけれども、既成の宗教の秩序というか、そういうものに縛られない、何となく風が吹いてくるような感覚というか、そういうところに宗教心を感じているような気がしますけれど。」(立松,2018:p.259.)それに対し、立松は
「道元禅師の言葉で言えば、『流れる水とともに、ここまで来ました』っていうような、そんな感じですよ。」(立松,2018:p.259.)と答える。
「流れる水とともに」という言葉は、正造の内を流れた「白い河」を彷彿させる。「2.2.2.」でふれたように、私たちの内の認識し得ない「無意識」や「宗教性」というものが「流れている」とするならば、子どもたちが自らの「いのち」や他者の「いのち」をよりゆたかに感じ生きていこうとするとき、それらを無視することはできないように思える。
日常の何気ない瞬間に満ちている美しさや人間の力を超えた森羅万象に満ちている「いのち」。子どもたちをはじめ私たちも、その目の前に満ちているにもかかわらず、時に感じることができず、観ることのできなくなってしまうもの。それらに対し、繊細に向き合い、感受しながら生きるためには、私たちの内を流れる「宗教性」を大切にする必要があるのではないだろうか。
『風聞・田中正造』を教材として扱ったとき、正造や善一、義十の生きる姿は、それぞれの宗教性とそれぞれの世界を見つめる目を、子どもたちの前に示してくれると考える。
私自身、『白い河』を読み、義十の姿にふれていく中で、(用や万秀、朝次郎などの姿ともつながっていくのだが)亡くなった自分の祖母を思い出していた。祖母は、戦前、戦中、戦後の時代を生き、田畑を耕し、まさに天と地の間で生きた。決して体が丈夫ではなかった祖母。老後には、黙々と庭の草むしりをしていた。地下水を飲み水に使用していたため、除草剤を使うことは好まず、自然ゆたかな農村で次から次へと大地に芽を出す草を、小さな体を一層小さく屈め、一つ一つ抜いていた。義十にふれ、私の中で祖母の姿は、これまでとは異なる姿として現成してきた。祖母は、日々、天と地の間、森羅万象の「いのち」のうちで、天地に対してまっすぐに、自らの道を歩んでいた。その姿は、私に改めて「いのち」のゆたかさと、生き方を示してくれる。
子どもたちにとっても、『風聞・田中正造』に含まれる宗教性は、日常における何気ない瞬間を見つめ直し、問い直す機会を与えてくれるのではないだろうか。それはまた、より大きな人間の力を超えた森羅万象に対する畏敬の念にもつながっていくかもしれない。特に、多様な視点をもって描かれている『毒』が現成する世界は、子どもたちそれぞれの「宗教性」にはたらきかける魅力をもっているのではないだろうか。
例えば、教室から窓の外を見る。日々、青々としげる木々の葉、差し込む太陽の光、鳥のさえずり、虫の声。教室の中には、出会いの理由さえも説明することのできない「縁」によって集まった友達や教師。すべては昨日と同じではなく、この瞬間すべてが変じている。その日常の内にある奇跡性や、自分にはどうすることもできない次元のものによって、今が成り立っているということ。そんな世界の在り様にふれたとき、自分の「いのち」や他者の「いのち」、森羅万象の「いのち」に出合い直すことができるのではないだろうか。それは、子どもたちの内に、自分や他者、あらゆる「いのち」を慈しむ繊細な想いを生むと考えるのだが、どうだろうか。
3.3.2.「持続可能な発展」という視点からの「生と死の授業」
1972年、ローマクラブから発表された『成長の限界』は世界的に注目された。1960年~ 1970年代前半、日本は高度経済成長期にあり、多くの公害問題が起きていた時期でもある。『成長の限界』は、世界中で賛否両論の中、受け止められた。ただしかし、その後の地球の限界を意識した持続可能な社会に向けた取り組みはぎこちないものだった。現在においても、決して順調であるとはいえないだろう。
そんな中、2015年、「持続可能な開発目標(SDGs)」という17のゴールと、SDGsのための169のターゲット「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が国連サミットで採択される。その中に示された
59の宣言の中から以下の二つを引用する。
「4.(誰一人取り残さない)この偉大な共同の旅に乗り出すにあたり、我々は誰も取り残されないことを誓う。人々の尊厳は基本的なものであるとの認識の下に、目標とターゲットがすべての国、すべての人々及び社会のすべての部分で満たされることを望む。そして我々は、最も遅れているところに第一に手を伸ばすべく努力する。」(外務省,2015:p.2.)
「9.(目指すべき世界像)我々は、すべての国が持続的で、包摂的で、持続可能な経済成長と働きがいのある人間らしい仕事を享受できる世界を思い描く。消費と生産パターン、そして空気、土地、河川、湖、帯水層、海洋といったすべての天然資源の利用が持続可能である世界。民主主義、グッド・ガバナンス、法の支配、そしてまたそれらを可能にする国内・国際環境が、持続的で包摂的な経済成長、社会開発、環境保護及び貧困・飢餓撲滅を含めた、持続可能な開発にとってきわめて重要である世界。技術開発とその応用が気候変動に配慮しており、生物多様性を尊重し、強靱(レジリエント)なものである世界。人類が自然と調和し、野生動植物その他の種が保護される世界。」(外省,2015:p.3.)
「誰も取り残されない」「人類が自然と調和し、野生動植物その他の種が保護される世界」。それらはまさに田中正造が求めた世界ではないだろうか。田中正造は晩年、次のような言葉を日記に残している。
「真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞるべし。」(田中,1977:p.260.)
現在、世界で求められていることを、100年以上も前に、田中正造は関東平野に立ち、天と地の間で求め続けた。現在、世界規模で求められている思想を『成長の限界』の60年近く前に、すでに抱いていたことは驚くべきことだろう。『風聞・田中正造』は、まさに日本の「持続可能な発展」の原点を見つめる作品であるとは言えないだろうか。
子どもたちが『風聞・田中正造』を「持続可能な発展」という視点から読んだとき、そこには、明治期の公害とそれに立ち向かった人々というだけでなく、これからの自分たちの生き方と地球環境という視点をもちながら、自分たちを含めた自然という「いのち」に想いを馳せ、より具体的、発展的に学びを展開していく可能性が秘められていると考える。人間と自然という捉えではなく、人間が自然を破壊しているという捉えでもない。
「人間は自然そのものなのだから、自然を破ることはすなわち、自分自身を破壊することなのである。」
(立松,2011:p.93.)
天と地と共に生きた田中正造の姿を描いた『毒』と『白い河』は、まさに人間は自然そのものであるという「いのち」の地平から、私たちの生き方に大きな示唆を与えてくれるのではないだろうか。
また、立松は、エッセイ集の中で道元の「少欲知足」を取り上げ、以下のようにいう。
「現代に生きる私たちはたえず欲望を刺激され、あれもこれも欲しい、もっと欲しいと、欲望を飽くなく追求している。無限の欲望が経済発展の原動力だと、経済学でも説かれている。」(立松,2011:p.98.)経済競争にさらされ、利潤を追い求め、持続不可能であることが示されているにもかかわらず、目をつぶり、変わることができない。
『成長の限界』の執筆に携わったヨルゲン・ランダース(JorgenRanders)は、著書『2052 今後40 年のグローバル予測』の中で
「…2052年にはほとんど消滅しているであろう古いパラダイムの核となっているのは、物質、つまり実際に目で見ることのできるもののみが真の現実だという考え方である。/今のところ、思想や感情、精神的現象は、物理的プロセスに付随するものと見なされている。しかし、次のパラダイムシフトが進み、現実の認識が刷新されれば、『真の現実』には、非物理的なものも含まれるようになるだろう。」
(ランダース,2013:p.414.)「私は、新しい幸福の基準を定めることで問題は避けられると考えている。」(ランダース,2013:p.429.)「この先、成長は概して良いことではなくなるだろう。私たちには、成長の良し悪しを見極める目が求められるようになる。」(ランダース,2013:p.449.)
と、持続可能な発展のために、今までとは異なる思想の必要性を綴っている。まさに、田中正造の姿や立松和平の思想、『風聞・田中正造』は、物的な価値とは異なる価値を私たちの前に現成させてくれると考える。
3.3.3.「戦争」という視点からの「生と死の授業」
終戦をむかえ、75 年が経った。戦争は、その時を生きた人々の語りによって、今もなお私たちの前にその残酷さと悲惨さを伝えてくれる。ただどこか、私たちは、「戦争」を過去のことと捉え、それを現在に生かそうという文脈の中で見つめてはいないだろうか。そこには、どこか、自分たちと、あの時代を生きた人々という、物理的な時間と空間的な距離があるにも思える。
「2.2.1」においても言葉を引いた精神科医・心理学者のユングは、著書『現在と未来』の中で次のように記している。
「人はふつう、意識が自分自身について知っているところが、すなわち人間だと考えているから、自分が無垢な存在だと思い、そう思うことによって悪さに加えて愚かしさまで身につけることになる。もちろん恐ろしいことはいくらもあったし、今でも起りはするけれど、そういうことをするのはいつも〝ほかの人たち〟なのである。そしてそのような行為は、遠いにせよ近いにせよ過去のことである以上、すみやかにかたじけなくも忘却の海に沈んでゆき、人が〝正常〟と呼んでいる、あの夢のない状態が、ふたたびもどってくるのだ。だが事実は驚くほど正反対であって、何が消え去ったわけでもなければ、何が改善されたわけでもない。悪も罪も、深い良心の苛責も、暗い前非も、見る気さえあるならば、いつでも眼の前にある。すべては人間がやったことである。」(ユング,1996:p.272-273.)
自分の眼の前に戦争という悪も罪も消え去ることなくある。「〝ほかの人たち〟」と見なすことなく、自分も含めた人間の内にある暗い前非に目を向ける必要があると、ユングはいう。
立松の描く戦地へと向かう人々、戦争に自らの「いのち」を翻弄される人々は、現在の私たちがもつような「反戦」や「非戦」という思想を、より切実な想いで、個別的な体験をふまえて抱いている。そこには、戦中、戦後を生き抜いた父を見ながら生きた立松自身の想いが表れているように思える。また一方、それは立松自身の想いだけではなく、『軍曹かく戦わず』が元日本軍兵士の手記をきっかけに執筆されたように、現実に生きたその時代の人々の「反戦」、「非戦」への思想が、そのまま描かれているともいえるだろう。立松の作品に着目し、その文学的な価値を綴り続けてきた文芸評論家である黒古一夫は、立松和平全小説第24巻の解説において、こう記している。
「立松の『軍曹かく戦わず』が、数ある「戦争文学」の中で異彩を放っている…」(立松,2014:p.421.)
立松の描く戦争の姿は、自らの命をかけ戦うことが求められた戦時下において、生きていくことの大切さを強く感じ戦火を生き抜こうとした人々の姿を、まっすぐに表現しているという点において、他の「戦争文学」と異なるといえるだろう。
『毒』の中で綴られている、善一や佐武たちによる村をあげての「兵隊別火」もまた、実際に当時、あの土地で人々が行っていた「戦争に若者たちを奪われない」ための祈りであった。同じように、『白い河』の中で綴られた大六の戦地での姿も、「生きる」ことへの願い、祈りに満ちていた。立松が描く戦争の姿には「反戦」、「非戦」の願いが強く、はっきりと込められており、加えて一人の視点から綴られる一般化されない個別的な体験として表現されている。それぞれの作品が、客観的に戦争を見つめるものではなく、それぞれの「個人」の想いから戦争の姿を現成させているという特徴をもっている。
立松の作品の中で、善一、佐武、大六たちに出会うことは、子どもたちにとって、より戦争を自らの生と結び付けて考える機会となるのではないだろうか。そしてそのことで、ユングが指摘した「意識が自分自身について知っているところが、すなわち人間だと考えている」ことから抜け出す道が拓かれると思う。即ち、「いのち」を奪う戦争、人間の内にある暗い前非を、目の前に現成させる体験となるのではないだろうか。言い換えれば、立松の作品を通して、子どもたちは、戦争(あるいは公害)を体験することで抱かれた個別的な他者の「宗教性」にふれることが出来るのではないか。
4.「生と死の教育」として立松和平の「いのち」の思想に出合う意義
これまで示してきたように、『いのちの絵本』には、これまでの合理的な認識による命の捉えとは異なる「宗教性」の次元における「いのち」との向き合いへと、子どもたちを誘う教材としての魅力があると考える。また、『毒-風聞・田中正造』、『白い河-風聞・田中正造』にも、子どもたちそれぞれの「宗教性」にアプローチする教材としての可能性が秘められていると考える。
これらの作品は、子どもたちに、日常における何気ない瞬間を見つめ直し、そこに満ちる「いのち」を感じ、自らの「いのち」を問い直す機会を与えてくれると思われる。そして、それは、子どもたちが、自己や他者、あらゆる「いのち」を慈しむ繊細な想いを、自ら育んでいく学びの機会となるのではないだろうか。加えて、「持続可能な発展」や「戦争」という、より広い視野やつながりの中で、「いのち」を問い直す機会を与えてくれるだろう。
私(大関)自身は、現在、小学校に勤務し、子どもたちとともに日々を過ごしている。教育の現場には「未来のために今がある」という文脈が強くあるように思える。目標やゴールを設定し、そのために今なすべきことをなす。それはもちろん大切なことであるし、価値のあることである。それがなければ、教育は成り立たないだろうし、持続可能な発展も、戦争をしないということも実現しないだろう。ただしかし、それと同じように大切なことがあるように思える。それは、この世界の美しさや他者とともにあることで感じる心の温かさ、「いのち」のゆたかさ、森羅万象に対する怖れや敬い、それらを感受すること。それらは物理的な時間が示す未来に、私たちのもとに訪れるのではない。今、今と、まさに「今」私たちに訪れる。そんな瞬間的な感動や想い。子どもたちをはじめ、子どもたちと向き合う教師を含む大人は、それらをどれほど感受し、日々の学びを紡いでいるだろうか。
大森荘蔵の著書『時は流れず』から引用する。
「現在ただいまの経験とは現在の知覚と行動の経験であり、自分が生きている生のさなかの経験として単なる時間順序の棒である時間軸などとは全くかけ離れた生き生きとした経験なのである。この生命に溢れた経験を死んだような時間軸上に無理に乗せようとしたので、境界現在と私が呼んだようなグロテスクな現在概念が生まれるようになった。このいわば生命的現在の殺害というべき事態が、人の抱く不安の根源であり、現在とはそんなもんじゃないはずだと呟かせるものなのである。」
(大森,1996:p.87.)私は、教育の現場において、より「生きている生のさなかの経験」、「生命的現在」を大切にする必要性があるのではないかと考えている。
過去、現在、未来という時間軸の上に乗せ、「~のために」と、何かの目的のために、自らの「いのち」さえも対象化して捉えてしまうこと、「生命的現在の殺害というべき事態」は、子どもたちが自己や他者、森羅万象の「いのち」を生き生きと感じ、ゆたかに学び、生きることを妨げはしないだろうか。
「生と死の教育」として、立松和平の「いのち」の思想に出合うということは、まさに「生きている生のさなかの経験」を、世界に満ちた「いのち」を、感受する体験となるのではないだろうか4。そしてそれは、自らの「いのち」について、ゆっくりと見つめ直すことにつながると考える。自らを含む森羅万象の「いのち」を感じながら、自らの世界観を問い直しながら。
5.おわりにかえて:「いのち」を問い、迷うこと
本稿では、立松和平の「いのち」の思想について、立松の残した作品を関連付けながら考えてきた。立松は、ブッダを根底に、民間信仰や民間伝承にもふれ、道元禅師に惹かれ、良寛とともに歩んだ。「3. 2.3.」においてもふれたが、立松は、若い頃からブッタの思想に想いを馳せ、インドを旅している。道元だけでなく、木喰行道や円空、聖徳太子、勝道上人、良寛など、多くの仏教または民間信仰にふれ、作品の中でそれらを表現してきた。それらの人物とともに歩むことで、自らの思想を練り直し、育むように。
中でも、立松にとって道元禅師との出会いは、「いのち」の思想を育む上で大きな意味をもつものだったと考える。なぜ、立松は道元に惹かれたのだろうか。立松の「宗教性」は、どうして道元の思想に共鳴したのだろうか。それは、私たちが認識できる次元のことではないのかもしれない。ただしかし、敢えて立松の言葉から、そのことについて想像するならば、その理由の一つとして「世界の観え方が変わった」という点が挙げられるように思う。立松は、『道元禅師』を書き上げるまでに9年以上の歳月を要している。その間、毎月二十枚の原稿を書き続けた。『道元禅師』を書く中で、道元の思想にふれ、『正法眼蔵』を読み続け、惹かれていったように思える。『道元禅師』のあとがきに、以下のような言葉がある。
「私は海や山にいくことが多いのだが、自然という真理は知床や屋久島にいかなければないなどということではなく、私の机の上にも遍在しているのだし、禅寺の禅堂にもあり、家庭の台所にもあって、いたるところ真理の流れていないところはない。この認識は私にとってこれまでの世界観をまったく変えるほどに強く衝撃的なのであった。」(立松,2007c:p.598.)
『道元禅師』の執筆以降、執筆という行為は、立松にとっての「只管打坐」だったともいえるのではないだろうか。立松の執筆という道元との「旅路」は、自己の外に出ようと、森羅万象の「いのち」、真理に出合おうとし続けた側面があったように思える。宮沢賢治は死を前にして、自らの原稿を「迷いの跡」と表現した。思想自体は異なるが、立松の執筆という行為にも、似たものがあるように思える。
敢えて言葉にするならば、それは立松和平の「修行の跡」なのだろう。
「一字一行が私にとっては未知の世界で、苦しいことこの上なかった。」(立松,2007c:p.597.)
「やはり書いていくことが私の修行なのだと、いつしか私は身心で理解したのである。」
(立松,2007c:p.599.)ただしかし、もとより立松自身には、立松自身の思想があった。そこに道元の思想の影響を受ける形で、立松独自のゆたかな「いのち」の思想が生まれていったといえるだろう。
教材研究としてのこころみである本稿を書く中で、私(大関)自身もまた、道元に出会い、田中正造に出会い、良寛、木喰行道、勝道上人、善一、義十…、そして立松和平に出会った。その出会いの度に、自分自身の「いのち」に対する想いを、その都度、振り返ってきた。
良寛の漢詩の一部に次のような言葉がある。
「花無心招蝶 蝶無心尋花…」(大島・原田,1941:p.47.)
花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ねる。花や蝶、野にある一本の草、自然の内にあるものは、そのまま真理を生きている。何のためにということではなく、生きるために生きるということ。生きることがそのまま真理である。まさに、道元の「修証一等」ではないだろうか。坐禅とは悟りのためにするものではなく、坐禅すること自体が悟りを顕現すること、修行がそのまま悟りなのだと。花は、まさにその地平を生きている。
冒頭「1.」でも述べたように、私は道元や立松、その思想に出合う前から、花のように生きたいと願っていた。世界からの与えにまっすぐ応え生きること。そのような生き方は、世界からの与えをまっすぐに受け取るように、他者をより一層大切に感じ、他者の悲しみや喜びもまっすぐに感受し、ともに生きることにつながるのではないかと考えていた。また、それは自然や生き物を慈しむこと、森羅万象を感じゆたかに生きることでもあると。しかし、花のように生きることはできない。また、道元や良寛のように生きることもできない。立松和平のように生きることも難しい。知れば知るほど、迷いは膨らみ、いつも迷いの中にいる。ただ、それは私だけではないだろう。子どもたち、大人、教育現場において、私たちは日々、数限りない迷いの中にいる。それは生きることへの問い、切実な「いのち」の問いでもある。
そんな迷いの中にいる私たちに、道元は『正法眼蔵』においてこう語りかける。
「意いくはんとうやうじ句半到也有時、意いくはんふとうやうじ句半不到也有時。」(禅文化学院,1968:p.43.)
意(心)と句(言葉)が半ば到るときも有時であるし、心と言葉が半ば到らないときも有時であると。
「どのような中途半端に見える時も、迷っている時も、すべてが完結した時である。生きることそのものが、最高の体験なのである。」(禅文化学院,1968:p.43.)
迷いもまた、完結した時であり、生きるという全体験である。たとえ、迷いの中にあったとしても、生きることそのものは、ゆたかな「いのち」に満ちている。自己に執着せず、その目の前に満ちた「いのち」に身を委ねてみたらいい。道元からそう語りかけられているように感じる。
一瞬一瞬、森羅万象に満ちる「いのち」、一輪の花に満ちる「いのち」、野にある一本の草に満ちる「いのち」、目の前の大切な他者の内に満ちる「いのち」、迷いながらでいい、まっすぐ感じ生きていきたい。私は今そう考えている。
立松がそうであったように、私がそうであったように、子どもたちもまた、一人一人の「宗教性」とゆたかな「感受性」をもとに、それぞれその子らしく「いのち」について問い、迷い、自らの生を輝かせていってほしい。教材研究としてのこころみである本稿が、そんな「生と死の教育」の可能性を示すことができたかというと、大変心許ない。あるいは、宮沢賢治の言葉をかりれば、これもまた「迷いの跡」なのだろう。それでも、子どもたちの日々が「いのち」のゆたかさに満ちたものあることを願って、子どもたちとともに、これからも迷い続けていけたらと考えている。
注
1『 田んぼのいのち』は、立松が宮沢賢治記念館において講演を行った際に、記念館の会議室の机の上で生まれたとされている。『田んぼのいのち』に寄せた別紙『作者のことば』において、以下のように綴られている。
「…名前を、知らないうちに『賢治さん、賢治さん』って書いていたんですよ。この賢治さんは、宮沢賢治なんですけど、ぼくとしたらば、この物語を、宮沢賢治さんに書かせてもらったみたいな雰囲気がちょっとあるんですよ。」(立松,2001)
立松は、宮沢賢治の信仰にも関心を抱いていた。五木との対談においても、『法華経』の常不軽菩薩と「雨ニモマケズ」の関連を取り上げ、宮沢賢治と「大愚」と称した良寛、『正法眼蔵』の中の登場人物について類似点を見出している。
宮沢賢治は、『法華経』を信仰し、その上で自らの思想を形づくっていった。それは、『春と修羅』や『銀河鉄道の夜』をはじめとした多くの作品に見られるように、仏教の思想にとどまらない。立松の思想が、立松独自のものであるように、宮沢賢治の思想もまた、賢治自身によって育まれた唯一の思想と思われる。
私たち(大関・青柳)はこれまで、宮沢賢治の思想を教育との関わりにおいて論じてきた。(青柳 ,2018)では、宮沢賢治とフランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの視界から「生と死の教育」を問い直すことをこころみた。また、(大関・青柳,2019a)においては、宮沢賢治の作品との対話を通して、「命」について問う授業を実践し、(大関・青柳,2020a)では、宮沢賢治の「春と修羅」、「銀河鉄道の夜」を教材研究という視点から読み直し「生と死の教育」について問うことをこころみている。それぞれ、参照いただければ幸いである。
2「 世界から与えられる」という捉え、思想については、フランスの哲学者であるジャン=リュック・マリオン(1946 ~)の「与え(贈与)」の哲学に多くを学んだ。マリオンは、著書『与えられると』の中で、与え(贈与)という現象を「贈り物」、「贈る人」、「受け取る人」という三つの要素に分解してみせる。そして、その三つの要素を「還元する」ことによって「与え」の本質が見えてくるとしている。
私たちは、以前、マリオンの「与え」の哲学に学びながら、小学校6年生に対し、世界からの「与え(贈与)」について対話を重ねる授業実践をこころみた。(大関・青柳,2019b)を参照いただければ幸いである。
3『 風聞・田中正造』の中において、田中正造の「戦争」についての思想を直接的に読み取ることは難しい。しかし、田中正造は強い非戦論をもっていた。日清戦争の時期には抱いていなかったが、足尾鉱毒事件と戦争の関係への気付き、キリスト教の信仰等を経て、日露戦争の時期においては非戦の思想が生まれている。明治40年(67歳)には、世界の軍備の全廃を主張した記録が残っている。
「 〇四月二十二日 東京座に於て救世軍ブース大将と会見、世界陸海軍々備全廃の協定を要請す。」
(島田,1972:p.474.)
戦争という視点から『風聞・田中正造』を教材として扱った場合、立松の反戦の思想とともに、田中正造自身の非戦の思想にもふれ、複数の視点を基に、戦争、「いのち」について問うという展開の可能性も考えられる。
4 イギリスの詩人、ウィリアム・ブレイク(1757 ~ 1827)の詩の中に、有名な一節がある。
「 無心のまえぶれ/ひとつぶの砂にも世界を/いちりんの野の花にも天国を見/きみのたなごころに無限を/そしてひとときのうちに永遠をとらえる」(ブレイク,訳,2013:p.122.)
『正法眼蔵』には、「物に応じて形を現すこと、水中の月の如し」という言葉がある。水に映る月のようにいたるところに、その物に応じて、仏性(真理)は現れてくる。「ひとつぶの砂にも」世界は現れ、「いちりんの野の花にも」真理が満ちている。「たなごころに無限を」、道元の師である如浄和尚は、坐禅の際、心は左の掌(たなごころ)の上に置くとした。時とは自己の外を過去から未来へ向けて流れるものではない。「ひとときのうちに永遠をとらえる」。ブレイクの詩もまた、世界に満ちる真理と、「時間」、「いのち」の問いを投げかけているように思える。
大森荘蔵が「生命的現在」と呼んだ、子どもたちをはじめとする私たちのかけがえのない「今」についての問いは、「時間」という物理的な概念上、科学と宗教、哲学など、私たちそれぞれが信じる「世界を観る目」に関わる「生き方」についての問いであると考える。そういった視点からも、本稿において示した、それぞれの世界観の根底にある「宗教性」にふれようとするアプローチには価値があると考えるのだが、どうだろうか。
また、私たちは以前、詩人矢沢宰の詩と日記を教材として扱った授業実践を行っている。矢沢は詩を書くことを通して、苦しみや痛み多き日々の中においても、美しさに満ちた、永遠へとつながる「時間」を求めた。実践を通して、立ち現れてきたのは、そんな矢沢の詩や日記との対話を通し、「自らの生」を見つめ問う子どもたちの姿だった。私たちは実践と並行して、矢沢の求めた「時間」や「美しさ」についての教材研究をこころみている。そこでの矢沢宰の言葉との対話、子どもたちとの学びが、本稿における「宗教性」や子どもたちのかけがえのない「今」、「生きている生のさなかの経験」という視点につながっている。
矢沢宰の詩と日記を教材として扱い、青柳が授業を行った(青柳,2008a;2008b)、大関が授業を行った(大関・青柳,2020b)、それぞれ、是非、参照いただきたい。
参考文献
青柳宏(2008a).詩を読む実践について:「矢沢宰詩集」の授業(その一).(『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』第30号)青柳宏(2008b).詩を読む実践について:「矢沢宰詩集」の授業(その二).(『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』第30号)
青柳宏(2018).「生と死の教育」を問いなおす―宮沢賢治とエマニュエル・レヴィナスの視界から―(『宇都宮大学教育学部研究紀要 第68号』)阿満利麿(1996).日本人はなぜ無宗教なのか.ちくま新書
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大関健一・青柳宏(2019a).「命」をめぐる授業―宮沢賢治との対話を通して―(『宇都宮大学教育学部教育実践紀要 第6号』)
大関健一・青柳宏(2019b).「与え」をめぐる授業―贈与の哲学と間主観的アプローチを基に―(『宇都宮大学教育学部教育実践紀要 第6号』)大関健一・青柳宏(2020a).「他者の死」と共に生きる「生と死の教育」―宮沢賢治の「春と修羅」「銀河鉄道の夜」をめぐって―(『宇都宮大学教育学部研究紀要 第70号』)
大関健一・青柳宏(2020b).他者の生命にふれる「生と死の教育」―矢沢宰との対話を通して―(『宇都宮大学教育学部教育実践紀要 第7号』)島田宗三(1972a).田中正造翁余論 ㊤.三一書房島田宗三(1972b).田中正造翁余論 ㊦.三一書房立松和平(1987).境界の誘惑.岩波書店立松和平(1997).毒-風聞・田中正造.東京書籍立松和平(1999).ぼくの仏教入門.ネコス/文藝春秋立松和平(2000).街のいのち.株式会社くもん出版立松和平(2001).田んぼのいのち.株式会社くもん出版立松和平(2002).川のいのち.株式会社くもん出版立松和平(2005).木のいのち.株式会社くもん出版立松和平(2007a).芭蕉 「奥の細道」内なる旅.佼成出版社立松和平(2007b).道元禅師 上.東京書籍立松和平(2007c).道元禅師 下.東京書籍立松和平(2007d).牧場のいのち.株式会社くもん出版立松和平(2009).日光.勉誠出版立松和平(2010a).良寛のことば こころと書.考古堂書店立松和平(2010b).白い河-風聞・田中正造.東京書籍立松和平(2011).立松和平エッセイ集 仏と自然.野草社立松和平(2013a).良寛 上.学研M文庫立松和平(2013b).良寛 下.学研M文庫立松和平(2014).立松和平全小説 第24巻 おのれを信じて.勉誠出版田中正造全集編纂委員会(1977).田中正造全集第13巻日記.岩波書店
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Transformingourworld:the2030AgendaforSustainableDevelopment(2015).仮訳 我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ.外務省ウィリアム・ブレイク(2013).〔寿岳文章・訳〕ブレイク詩集.岩波書店賴住光子(2014).正法眼蔵入門.角川ソフィア文庫禅文化学院(1968).現代訳 正法眼蔵.誠信書房
令和2年10月1日受理
The Thought of ‘the Life (inochi)’ by Tatematsu Wahei
OZEKI Kenichi, AOYAGI Hiroshi