2026/09/28

『老荘と仏教』 森三樹三郎 − 松岡正剛の千夜千冊 1437夜 

1437夜 『老荘と仏教』 森三樹三郎 − 松岡正剛の千夜千冊

老荘と仏教, 森三樹三郎
講談社学術文庫 2003/法蔵館 1986

編集:岩見潤子(法蔵館)
装幀:蟹江征二
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中国人は異民族が唱えた仏教を、
なぜ理解できたのか。
老荘の思想をたくみに受容器につかいつつ、
そこで「無」から「空」の変換をはかったのだ。
それだけではなかった。その老荘思想を
逆にとりこんで、浄土教や禅に発展させていった。
本書は往時の長谷川如是閑の老子論に始まる。
昔は、こういう傑物の見方というものがあったのだ。
今は、仏教議論がせせこましくなっている。

 森三樹三郎を読むというのは「無」を読むということである。いや、正確には「無」の読み方を読むということだ。
 無の読み方を読むということは、その根本は老子や荘子のテキストとその背後の思想や思念を読むということである。そこには「無為自然」を感じるということが待っていて、その一方でそこからはタオイズム全般の思想との出入りが始まっていく。タオイズム全般に向かえば、そこには神仙思想や道教も待っている。
 しかし他方、中国の文献では「無」はしばしば「空」とも対偶して、仏教的な般若の空義が老荘的な無義と交差していった。たとえば涅槃を「無為」と訳し、真如を「本無」と訳すような、仏教の中心概念を老荘でつかまえるということも始まった。
 こうして中国思想史における「無」を読み出すことは、しだいに一筋縄ではいかなくなっていくのだが、そこを含めて「無」の読み方の読み方を、森三樹三郎は長らく大掴みに示し続けてきたのであった。

 この人は1909年に舞鶴に生まれて、京大の哲学科で中国哲学史ならぬ支那哲学史を修めた。そして『支那古代神話』(大雅堂)、『梁の武帝』(平楽寺書店)、『神なき時代』『「無」の思想』(講談社現代新書)、『生と死の思想』『無為自然の思想』(人文書院)などを書いてきた。「世界の名著」の『荘子』(中央公論社)、や『世説新語』(平凡社)の訳者でもある。
 こんなふうに紹介するといかにも硬そうだけれど、書きっぷりはけっこう柔らかい。学問的研究者としてはあまり細部にこだわらないとか、また巨視的な歴史観がエビデンスとしてつながらないままでも平気で叙述を進めるようなところとかがあって、そこが斯界では問題になるだろうが、逆にだからこそ見えないものが見えてくるということもある。
 だいたい老子(1278夜)や荘子(726夜)を書いて、硬いとか細かいというわけにも、歴史的な理屈にこだわるというわけにもいかないのだから、これはこれで森三樹三郎の支那哲学の独特の特色であってよかったわけである。
 ただし、上に紹介した『「無」の思想』や『無為自然の思想』はあまりに大ざっぱで、気持ちばかりが先行していて、読み手からすると薄すぎる印象がある。だから森が書いた「無」の読み方を読むといっても、そんなことはあっというまに実感できることばかりなのだ。
 それが本書『老荘と仏教』では、いろいろ刺激物が入っていて、読ませてくれた。25年ほど前に読んだときの印象だ。今夜本書をとりあげたのも、そこである。そこというのは、老荘思想は道家や道教の中で継承されたのではなく、中国における浄土教や禅宗がその任をはたしたという捉え方で本書が書かれていたということだ。

 長谷川如是閑(819夜)に『老子』がある。なかなか痛快な感想が吐露されている。かつて小島祐馬も、あれほど独創的な老子解釈はないと唸ったことがあった。森の老子解釈にはこの如是閑の感想に似たところがある。いや、それなりの影響を受けている。
 如是閑の感想を集約すると、こうなる。
 第1には、老子の思想は孔子のアンチテーゼであるというふうに見た。『老子』第1章には「道の道とすべきは常の道にあらず」とあるのだが、これは道(タオ)というものを固定して捉えないということで、そこを固定したのは孔子だろうから、老子はその孔子の“常の道”に対抗したのだというのだ。如是閑は「孔子の儒教というものがなかったら、老子は全く何も言うことはなかったはずである」と書いた。
 第2に、如是閑は中国にはステート(国家)とコミュニティ(社会)の対立が数千年にわたって維持されてきたと見ていて、この二つを代表する思想がステートの孔子、コミュニティの老荘であると配当した。これはかなり思い切った切り分けだが、なるほど、老子が愛した「小国寡民」(国土は小さく人口も少なく)のコンセプトは、ステートというよりずっとコミュニティ的だった。当たらずとも遠くない。
 第3に如是閑は、老子が周代の繁文縟礼(はんぶんじょくれい)の国家観を否定したのは、「トルストイ(580夜)のアナーキズムのようなものではないか」と言ってのけた。トルストイも老子も自分は貴族的な階級に属しながらも、農民的な村落共同体を憧憬したということは、その立場は両者ともはなはだアナーキーだったというのだ。
 これはたいへん痛快な見方である。トルストイがクロポトキンふうのアナーキズムに傾倒していたことは有名だが、明治生まれの日本人が老子をアナーキー呼ばわりしたことは、ない。老子が好きだった岡倉天心(75夜)もさすがにそこまで踏み込まなかった。そこをやすやすと言ってのけたのは、如是閑の真骨頂がよく出ているところなのである。
 もっとも老子は無政府的ではないし、富を否定もしていない。「足るを知るものは富む」という「知足安分」を提唱しつづけたのが老子だった。またトルストイはおそらく「無」に到達していなかっただろうけれど、老子には「無」があった。そういうところはあるのだが、如是閑の老子観はなかなかユニークで、そこが森三樹三郎に飛び火したのであったろう。

 いったい中国は、なぜ異民族の巣窟であるインドに発した宗教である仏教をあのように受け入れたのかというに、また、その仏教を老荘的に受けとめたかというに、森が重視する理由として、大きくは次の3つのことがあった。
 (A)大乗仏教の根本である「空」が老荘的な「無」を通じると、あんがい理解しやすかった。仏教は老荘的な枠組を巧みに利用することで受容されたのである。これは中国で、インド仏教やシルクロード仏教とは異なる「格義仏教」が先行した理由にもあたる。
 しかしそれゆえに、その後の中国仏教は老荘思想および道教からの脱出ないしは自立を鮮明にしなければならなくなったわけである。
 (B)仏教がもたらした輪廻観と三世報応の思想が、儒教のもっている現世主義の限界を突破した。
 儒教ははなはだ道徳的な教理をもっている。また現実主義的な思想によって中国人の生き方を説いている。これは現世で報いのあった者には有効だが、『史記』伯夷伝の伯夷のように、一生懸命生きても報恩を得られなかった者には合点できないものがある。顔回(がんかい)は比類なき学知にひたむきであったのに、つねに貧窮のままであり、しかも短命に終わった。これに反して盗跖(とうせき)はさまざまな悪事を犯しながらも満ち足りた生活をおくって、しかも天寿を全うした。
 儒教にも報応の思想はあるが、それは現世に限られている。これに対して仏教は過去・現在・未来の三世にわたって報応報恩を説く。ここが儒教的な現実主義にいながらもそこに矛盾をおぼえてきた中国人に風穴をあけたのである。北周の道安の『二教論』が「顔回が短命に終わったのは前世の報いだが、そのかわり現世の善業は必ず来世に報いられるはずである」と書いているのは、そのあらわれだった。
 (C)仏教はインドに発した夷狄異民族の教えだった。中国ではこのような夷狄の思想は、ふつうは中華意識によって撥ね飛ばされる。ところがその強靭な中華意識が、仏教が中国に入ってきたあとの4世紀初頭の「永嘉の乱」によってぐらついた。そのため魏晋南北朝時代では老荘思想・道教とともに仏教が同列で議論され、その長短の特色を争えるようになった。
 西晋を滅亡させることになった長きにわたる永嘉の乱(307~312)は、中国の政治家や知識人の自信をぐらつかせたわけである。ぐらつかせただけでなく、知識人たちに政治への関心を失わせ、竹林の七賢のような「清談」を流行させた(1427夜参照)。儒教的な政治的人間像から宗教的な人間像への変移がすすんだのだ。
 そこに、もうひとつの変化がおこった。永嘉の乱は夷狄の異民族は武力だけでなく、その精神や教養においても侮りがたいことがわかったのだ。五胡十六国の君主や官人たちは中国文化に同化することを惧れてすらいなかったのだ。これに漢人たちはやられたのであった。

『釈氏源流』より、道仏優劣の論争を描いた場面。
仏教僧に対面する道教の道士(左端三人)の姿が見える
『新アジア仏教史06中国Ⅰ南北朝 ―仏教の東伝と受容』(佼成出版会 2010)より

 以上の3つの理由と経緯が、シルクロードから漢代の中国に仏教がもたらされたときの障害を超えさせたのである。障害というのは、漢代の知識人に宿っていた「漢人」の矜持というものだった。
 ところで、森が本書に示唆したことで最も興味深かったのは、仏教が中国に浸透した理由のことではなくて、いったん対比され、ときに対立もした道教と仏教の関係が、ごく初期においては実ははやくも逆転していて、仏教こそが老荘思想を採りこんでいたのではなかったのかという指摘だった。
 言いなおせば、老荘思想はその後の道教のなかでは十分な理論や構想をもてなかったのに、それを果たしたのはむしろ浄土教や禅ではなかったのかという、その指摘である。ぼくは25年前にこの指摘をこそ新鮮に感じたのだった。
 この、老荘をとりこんだ仏教のうち、禅はのちの発展のことになるので省くとして、なんといっても浄土教が重要である。道安、慧遠(えおん)、曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)、善導(ぜんどう)と、中国浄土教の画期的な黎明期がこの5人によって拓かれた。とくに善導である。
 しかしながら、この画期的黎明期にひそんだ老荘的なるものは、その後は中国浄土教においては結実することなく、ひとつは中国禅の中に、もうひとつは法然(1239夜)や親鸞(397夜)の日本浄土教の中に飛び火していった。なぜなのか。このことを考えることこそ、日本仏教や法然・親鸞の核心を掴むための要訣になる。また、日本に道教が定着しなかったことを掴むための要訣にもなる。

 さて、儒教がもつ現実主義に対して、来世にも望みが託せるとした仏教は、その来世観を浄土のほうに見いだしていった。
 中国で、このような来世的浄土観に最初に強い関心をもったのは、東晋の慧遠(334~416)であった。21歳のときに道安に師事して『般若経』を学んだ。廬山に白蓮社を結成し、これを念仏結社の先駆けとした。このため中国では浄土宗のことをいまでも蓮宗という。
 慧遠の念仏は「観想の念仏」である。すなわち観仏だ。般若は完全な知慧の完成をめざすことだから、慧遠も知慧の完成としての阿弥陀仏を観じようとした。観仏とは、イメージの中に浄土や覚醒を実感できるようにすることをいう。ただし、それなりの修行を必要とした。
 とはいえ、そういう修行観仏を奨励したのではあるが、白蓮社を代表する劉遺民(りゅういみん)は阿弥陀仏像の前で誓文をささげ、「それ縁化の理すでに明らかなれば、すなわち三世の伝、顕わる」と読んで、念仏が三世にわたることを強調した。

慧遠が住した廬山東林寺の白蓮旧社(江西省)
『新アジア仏教史07中国Ⅱ隋唐 ―興隆・発展する仏教』(佼成出版会 2010)より

 慧遠の観仏と浄土観は継承者に恵まれなかった。浄土の教えはいったん断ち切られ、ついでは北魏の曇鸞(476~542)によって復活された。これは「憶念の念仏」だった。「憶念の念仏」も観仏の一種で、想念の中に念仏を入れることをいう。
 ただし、曇鸞はふつうのコースで浄土教に至ったのではない。三論宗の流れに入った曇鸞は最初こそ読書に耽って四論を研究したのだが、病に罹ったときに不老神仙の術があることを知り、江南に渡って陶弘景に師事した。陶弘景は民間道教の最初の理論家である。曇鸞はつまり、いったんは道教にはまったのだ。ところが帰路で洛陽に立ち寄り、はからずも北インドの菩提流支に出会って『観無量寿経』(観経)を与えられた。
 曇鸞はこれを読んで陶然となり、石壁玄中寺に住して道教から浄土教への転身をはかったのである。ここにはタオイズム・道教・仏教・浄土教のまことに劇的な天秤が動いている。
 道綽(562~645)は太原の開化寺で空理を研鑽し、涅槃を講ずるようになったのだが、あるとき石壁玄中寺の曇鸞の碑を見て愕然としてしまったようだ。かくして、48歳にして浄土教にめざめ、阿弥陀仏を念じる「口称の念仏」を編み出していった。著書『安楽集』は法然の「選択(せんちゃく)的な編集力」を理解するときの背景テキストとして重要だ。

 この道綽の弟子が善導(613~681)なのである。本書でもクローズアップされている。
 幼くして出家して、最初は『法華経』『維摩経』を学び、ついで『観経』を読み、玄中寺を尋ねて道綽に謁し、念仏往生の法を受けた。このあと長安に入って民衆教化にのりだすと、『阿弥陀経』を写すことなんと数万巻、浄土変相図を描くことざっと300舗に及んだという。
 終南山悟真寺や長安の光明寺に住し、誰に対しても心をひらいたので、唐の高祖が洛陽の龍門の奉先寺に毘盧遮那龕を造立したときは、検校僧としても活躍した。やがて『観経疏』(かんぎょうしょ)を著した。
 これこそ、法然を夢中にさせた注釈書である。とくにそのなかの「散善義」が、法然に六字の(南無阿弥陀仏)を選択(せんちゃく)させ、専修念仏に走らせた。
 浄土教では「定善」(じょうぜん)と「散善」を分ける。定善は集中的に観仏できる者が到達する方法で、散善は気が散って集中できない者のための方法である。法然が注目したのは、この散善だった。それこそ「乱想の凡夫」のための専修念仏だったのだ。このこと、おととい発売になったぼくの『法然の編集力』(NHK出版)にも書いておいた。

 善導ののち、その系脈とはべつに慧日(えにち)や延寿(えんじゅ)があらわれた。上にも書いたばかりだが、善導の称名念仏は中国には根付かず、日本の法然のほうに飛んで専修念仏になったのである。
 では中国ではどうなっていったかというと、浄土教に代って禅宗各派が林立していった。これを「禅浄一味」というのだが、つまりは浄土教的な禅になっていったのである。それが慧日や延寿がはたした役割だった。
 慧日(680~748)はインド求法の旅に18年を費やし、帰朝した玄宗皇帝の世で、そろそろ芽生えはじめた神秀(じんしゅう)や慧能(えのう)や神会(じんね)の初期禅宗の動きを目にした。慧日はたちまちこの連中が「見性成仏」を唱えていながら諸行を排していることを見抜き、激しく批判した。しかし、そのことはかえって禅宗への浄土念仏の挿入力を促し、逆に善導の浄土教を変質させもした。このこと、本書がよくよく強調したところだった。
 一方の延寿(904~975)はもはや唐の人ではない。慧日から200年後の宋代に入るのだが、ここに明確な「禅浄双修」(禅浄一味の発展系)が説かれたのである。「観想の念仏」が禅に入っていったのである。
 こうして中国の浄土教も禅も、しだいに「自力」のものとなっていったのだ。座禅が観仏を復活させたわけである。しかしそこには「只管打坐」が無念無想を志したこともあって、かつての老荘的無為自然をも復活させていたのだった。
 このことは、一方では日本の法然や親鸞において「他力」の浄土教がめざされたことにくらべて、此彼の差となっている。そして他方では、その「自力」と「他力」を相対するところから、あらためて中国的なタオイズムや老荘思想や道教の本来を問うことが、ほんとうは本書の後半で議論されるべきことだったのである。

玄中寺(山西省交城)
曇鸞・道綽・善導ゆかりの寺。
崖沿いに汶水が流れる、二河白道の原型イメージ


講談社学術文庫
『老荘と仏教』
著者:森三樹三郎
2003年9月10日 発行
発行者:野間佐和子
発行所:株式会社講談社
装幀:蟹江征治

【目次情報】
Ⅰ
老荘思想 ―中国的世界観
老荘思想と仏・道ニ教
道教の発生と展開
Ⅱ
中国知識人の仏教受容
中国思想における超越と内在
中国における空の思想
思想史における善導の地位
『無量寿経』三訳にみる「自然」
Ⅲ
死の象徴としての阿弥陀仏
あとがき
解説 蜂屋邦夫
初出一覧


【著者情報】
森三樹三郎[もり みきさぶろう]
1909〜1986。京都府生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。大阪大学名誉教授。専攻は中国哲学史。文学博士。著書に『梁の武帝』『中国古代神話』『無の思想』『名と恥の文化』『神なき時代』『中国思想史』『老子・荘子』(学術文庫)など、訳書に『荘子』など。本書は1986年1月、法蔵館刊の『老荘と仏教』を底本としたもの。


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連環リンク
1430夜沖本克己・菅野博史 他仏教の東伝と受容
1239夜法然選択本願念仏集
0397夜親鸞・唯円歎異抄
1025夜藤田正勝・安富信哉清沢満之
0985夜石牟礼道子はにかみの国

Keyword無為自然
老荘思想
老子のアナーキズム
三世報応
浄土教
夷狄
廬山
白蓮社(念仏結社)
玄中寺
観想の念仏
憶念の念仏
口称の念仏
専修念仏
浄禅一味(禅浄双修)
他力

Keyperson森三樹三郎
長谷川如是閑
道安(釈道安)
慧遠
劉遺民
曇鸞
道綽
善導
慧日
延寿
法然
親鸞

seigow - marking
[143701]



seigow - marking
[143702]



盧山の慧遠
『晩笑堂竹荘畫傳』より



玄中寺千仏閣壁碑
(山西省交城)
長慶三年(823)、玄中寺寺領の四至(境域)をしめしたもの。曇鸞の名がみえる



善導大師像(三時知恩寺)
1596(文禄5)年作。2011年6月に、制作時の彩色を再現させる修復が行われた



善導願写による『阿弥陀経』断簡(本願寺蔵)
岩井大慧『日支佛教史論攷』東洋文庫より



浄土五祖像(京都 二尊院)
曇鸞を中心に、道綽・善導・懐感・少康の四祖を配列。牀座わきの四人は侍者
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마쓰오카 세이고(松岡正剛)의 <천야천책(千夜千冊)> 제1437야 <노장과 불교(老荘と仏教)> 본문의 한국어 완역과 이에 대한 평론입니다.

1. 한국어 완역

1437야 <노장과 불교> 모리 미키사부로 - 마쓰오카 세이고의 천야천책

<노장과 불교>, 모리 미키사부로

고단샤 학술문고 2003 / 호조칸 1986

편집: 이와미 준코(호조칸)

장정: 카니에 세이지

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중국인은 이민족이 주창한 불교를 왜 이해할 수 있었을까.

노장의 사상을 교묘하게 수용기로 사용하면서, 그곳에서 <무(無)>에서 <공(空)>으로의 변환을 꾀했던 것이다.

그것뿐만이 아니었다. 그 노장사상을 거꾸로 끌어들여, 정토교나 선(禪)으로 발전시켜 나갔다.

본서는 옛 시절 하세가와 뇨제칸(長谷川如是閑)의 노자론에서 시작한다.

옛날에는 이러한 걸물다운 시각이라는 것이 존재했다.

지금은 불교 논의가 좀스럽고 옹졸해졌다.

모리 미키사부로를 읽는다는 것은 <무>를 읽는다는 것이다. 아니, 정확히는 <무>를 읽는 방법을 읽는다는 뜻이다.

무를 읽는 법을 읽는다는 것은, 그 근본에 있어서 노자나 장자의 텍스트와 그 배후의 사상과 사념을 읽는다는 것이다. 거기에는 <무위자연>을 느낀다는 일이 기다리고 있고, 다른 한편으로는 거기로부터 도교(타오이즘) 전반의 사상과의 출입이 시작되어 간다. 타오이즘 전반으로 향하면, 거기에는 신선사상과 도교도 기다리고 있다.

그러나 다른 한편, 중국의 문헌에서 <무>는 종종 <공>과도 짝을 이루어, 불교적인 반야의 공의(空義)가 노장적인 무의(無義)와 교차해 갔다. 예컨대 열반을 <무위>로 번역하고, 진여를 <본무>로 번역하는 것처럼, 불교의 중심 개념을 노장으로 포착하는 일도 시작되었다.

이리하여 중국 사상사에서 <무>를 읽어내는 것은 점차 만만치 않은 일이 되어 가는데, 그러한 점을 포함하여 <무>를 읽는 방식의 독법을 모리 미키사부로는 오랫동안 큼직하게 짚어내어 보여주어 왔다.

이 사람은 1909년 마이즈루에서 태어나 교토대학 철학과에서 중국철학사가 아닌 <지나(支那)철학사>를 전공했다. 그리고 <지나 고대신화>, <양 무제>, <신 없는 시대>, <'무'의 사상>, <삶과 죽음의 사상>, <무위자연의 사상> 등을 써 왔다. 주오코론사의 <세계의 명저> 시리즈 중 <장자>와 헤이본사의 <세설신어> 번역자이기도 하다.

이렇게 소개하면 퍽 딱딱해 보이지만, 글솜씨는 꽤 부드럽다. 학문적 연구자로서는 그다지 세부 사항에 얽매이지 않는다거나, 거시적인 역사관이 엄밀한 논거(에비던스)로 연결되지 않은 채로도 태연히 서술을 밀고 나가는 구석이 있어, 그 점이 학계에서는 문제시되기도 하겠지만, 역으로 그렇기 때문에 보이지 않는 것이 보인다는 점도 있다.

애당초 노자나 장자를 다루면서 딱딱하고 세세하다거나, 역사적인 논리에만 얽매일 수도 없는 노릇이니, 이는 이것대로 모리 미키사부로의 독특한 지나철학적 특색으로서 좋았던 셈이다.

다만 앞서 소개한 <'무'의 사상>이나 <무위자연의 사상>은 지나치게 대략적이고 마음만 앞서 있어 독자의 처지에서는 너무 얇팍하다는 인상이 있다. 그러므로 모리가 쓴 <무>의 독법을 읽는다고 해도, 그런 것쯤은 눈 깜짝할 사이에 다 실감해 버릴 수 있는 것투성이였다.

그런데 본서 <노장과 불교>에서는 여러 가지 자극적인 재료가 들어 있어 꽤나 읽는 맛이 있었다. 25년쯤 전에 읽었을 때의 인상이다. 오늘 밤 본서를 집어 든 이유도 바로 거기에 있다. '거기'란, 노장사상이 도가나 도교 안에서 계승된 것이 아니라, 중국의 정토교나 선종이 그 역할을 다했다는 파악 방식으로 이 책이 쓰였다는 점이다.

하세가와 뇨제칸에게 <노자>라는 저작이 있다. 꽤나 통쾌한 감상이 토로되어 있다. 일찍이 고지마 수마(小島祐馬)도 그토록 독창적인 노자 해석은 본 적이 없다고 탄복한 바 있었다. 모리의 노자 해석에는 이 뇨제칸의 감상과 닮은 구석이 있다. 아니, 나름의 영향을 강하게 받았다.

뇨제칸의 감상을 집약하면 다음과 같다.

첫째, 노자의 사상은 공자의 안티테제라고 보았다. <노자> 제1장에는 "도를 도라 할 수 있으면 영원한 도가 아니다(道可道非常道)"라고 되어 있는데, 이는 도(타오)라는 것을 고정하여 파악하지 않는다는 뜻이며, 그것을 고정한 것은 공자였을 것이므로 노자는 그 공자의 '상(常)의 도'에 대항했다는 것이다. 뇨제칸은 "공자의 유교라는 것이 없었다면 노자는 도무지 아무것도 말할 것이 없었을 것이다"라고 썼다.

둘째, 뇨제칸은 중국에 국가(스테이트)와 사회(커뮤니티)의 대립이 수천 년에 걸쳐 유지되어 왔다고 보았으며, 이 둘을 대표하는 사상으로 국가에는 공자, 공동체에는 노장을 배당했다. 이는 상당히 과감한 이분법이지만, 과연 노자가 사랑했던 '소국과민(영토는 작고 백성은 적다)'의 개념은 국가라기보다는 훨씬 공동체적이었다. 들어맞지는 않더라도 크게 빗나가지도 않는다.

셋째, 뇨제칸은 노자가 주나라의 번문욕례(번잡한 문식과 까다로운 예법)적인 국가관을 부정했던 것은 "톨스토이의 아나키즘 같은 것이 아니겠는가"라고 단언했다. 톨스토이도 노자도 자신은 귀족적인 계급에 속해 있으면서도 농민적인 촌락 공동체를 동경했다는 점에서, 두 사람의 입장은 모두 몹시 아나키적이었다는 것이다.

이는 대단히 통쾌한 시각이다. 톨스토이가 크로포트킨 식의 아나키즘에 경도되어 있었다는 것은 유명하지만, 메이지 시대에 태어난 일본인이 노자를 아나키스트라고 불러젖힌 적은 없었다. 노자를 좋아했던 오카쿠라 텐신조차 과연 거기까지는 발을 들이밀지 않았다. 그 지점을 가뿐하게 말해버린 것에서 뇨제칸의 진면목이 잘 드러난다.

물론 노자는 무정부주의적이 아니며, 부를 부정하지도 않았다. "만족할 줄 아는 자가 부유하다"는 '지족안분'을 줄기차게 제창했던 것이 노자였다. 또한 톨스토이는 아마도 <무>에 도달하지 못했을 터이지만, 노자에게는 <무>가 있었다. 그러한 차이는 있지만, 뇨제칸의 노자관은 꽤나 독특하며 그 불꽃이 모리 미키사부로에게 번져나갔던 것이리라.

도대체 중국은 왜 이민족의 소굴인 인도에서 발원한 종교인 불교를 그토록 수용했는가, 또한 그 불교를 왜 노장적으로 받아들였는가에 대해, 모리가 중요하게 꼽는 이유로는 크게 다음의 세 가지가 있다.

(A) 대승불교의 근본인 <공>이 노장적인 <무>를 매개로 하니 의외로 이해하기 쉬웠다. 불교는 노장적인 틀을 교묘하게 이용함으로써 수용된 것이다. 이는 중국에서 인도 불교나 실크로드 불교와는 다른 <격의불교>가 선행했던 이유이기도 하다.

그러나 그 때문에 그 뒤의 중국 불교는 노장사상 및 도교로부터의 탈출 내지는 자립을 분명히 해내지 않으면 안 되게 되었다.

(B) 불교가 가져온 윤회관과 삼세보응의 사상이 유교가 지닌 현세주의의 한계를 돌파했다.

유교는 대단히 도덕적인 교리를 지니고 있다. 또한 현실주의적인 사상을 바탕으로 중국인의 삶의 방식을 설파한다. 이는 현세에서 보답을 받는 자에게는 유효하지만, <사기> 백이열전의 백이처럼 평생을 올바르게 살아도 보답을 얻지 못한 자에게는 납득하기 어려운 구석이 있다. 안회는 비길 데 없는 학식과 지혜에 헌신했음에도 늘 빈궁에 시달리다 단명하고 말았다. 반대로 도척은 온갖 악행을 저지르면서도 풍족한 삶을 누렸고 천수까지 다했다.

유교에도 응보의 사상은 있지만 그것은 현세에 국한된다. 이에 반해 불교는 과거, 현재, 미래의 삼세에 걸쳐 인과응보를 설파한다. 바로 이 점이 유교적 현실주의 안에 머물면서도 거기에 모순을 느껴온 중국인들의 가슴에 숨통을 틔워준(바람구멍을 뚫어준) 것이다. 북주 시대 도안(道安)의 <이교론>에서 "안회가 단명한 것은 전생의 업보이지만, 그 대신 현세의 선업은 반드시 내세에 보답받을 것이다"라고 쓴 것은 그 단적인 표출이었다.

(C) 불교는 인도에서 발원한 이적(오랑캐) 이민족의 가르침이었다. 중국에서는 통상 이러한 이적의 사상은 중화의식에 의해 단번에 튕겨 나가기 마련이다. 그런데 그 강인한 중화의식이 불교 전래 후인 4세기 초의 <영가의 난>으로 인해 흔들렸다. 그 때문에 위진남북조 시대에는 노장사상·도교와 함께 불교가 동렬에서 논의되며 그 장단점과 특색을 다툴 수 있게 되었다.

서진을 멸망으로 몰고 간 길고 오랜 영가의 난(307~312)은 중국의 정치가와 지식인들의 자신감을 뒤흔들어 놓았다. 뒤흔들었을 뿐만 아니라 지식인들로 하여금 정치에 대한 관심을 잃게 만들고 죽림칠현과 같은 <청담>을 유행시켰다. 유교적인 정치적 인간상에서 종교적인 인간상으로의 전이가 진행된 것이다.

거기에 또 하나의 변화가 일어났다. 영가의 난을 통해 이적이라 부르던 이민족들이 무력뿐만 아니라 정신과 교양에 있어서도 결코 얕볼 수 없다는 사실을 깨닫게 된 것이다. 5호 16국의 군주와 관인들은 중국 문화에 동화되는 것조차 두려워하지 않았다. 한족 지식인들은 여기에 허를 찔리고 말았다.

이상의 세 가지 이유와 경위가, 실크로드를 통해 한나라 시대 중국에 불교가 전래되었을 때 가로놓여 있던 장벽을 뛰어넘게 해 준 요인이었다. 장벽이란 다름 아닌 한대 지식인들의 흉중에 서려 있던 '한인(漢人)'으로서의 긍지였다.

그런데 모리가 본서에서 시사한 바 가운데 가장 흥미로웠던 점은, 불교가 중국에 침투한 이유 따위가 아니라, 일단 대비되고 때로는 대립하기도 했던 도교와 불교의 관계가 극초기 단계에서 실은 일찌감치 역전되어, 불교야말로 노장사상을 정작 제 것으로 흡수해 버린 것이 아니었는가 하는 지적이었다.

달리 말하자면, 노장사상은 그 후 도교 안에서는 충분한 이론과 구상을 갖추지 못했는데, 그 역할을 완수한 것은 차라리 정토교나 선이 아니었는가 하는 지적이다. 나는 25년 전에 바로 이 지적을 참으로 신선하게 느꼈다.

노장을 흡수한 불교 가운데, 선(禪)은 훗날의 발전이므로 일단 생략한다 치더라도, 무엇보다도 중요한 것은 정토교다. 도안, 혜원, 담란, 도착, 선도에 이르는 다섯 사람에 의해 중국 정토교의 획기적인 여명기가 열렸다. 특히 선도다.

하지만 이 획기적인 여명기에 깃들어 있던 노장적인 요소는 이후 중국 정토교 안에서는 온전히 결실을 맺지 못하고, 하나는 중국의 선(禪) 속으로, 다른 하나는 호넨이나 신란의 일본 정토교 속으로 불똥이 튀어 날아갔다. 왜 그랬을까. 이 점을 사유하는 것이야말로 일본 불교와 호넨·신란의 핵심을 포착하기 위한 긴요한 열쇠가 된다. 아울러 일본에 도교가 토착화하여 정착하지 못했던 까닭을 이해하는 요결이 되기도 한다.

유교가 지닌 현실주의에 맞서 내세에도 희망을 기탁할 수 있다고 한 불교는, 그 내세관을 정토(淨土)라는 방향에서 찾아내었다.

중국에서 이러한 내세적 정토관에 최초로 강한 관심을 가졌던 인물은 동진의 혜원(334~416)이었다. 21세 때 도안을 사사하여 <반야경>을 배웠다. 여산에 백련사를 결성했는데 이것이 염불 결사의 효시가 되었다. 이 때문에 중국에서는 지금도 정토종을 연종(蓮宗)이라고 부른다.

혜원의 염불은 '관상(觀想)의 염불'이다. 즉 관불(觀佛)이다. 반야란 완전한 지혜의 완성을 지향하는 것이므로, 혜원 역시 지혜의 완성체로서 아미타불을 관조하려 했다. 관불이란 심상 이미지 속에서 정토와 각성을 실감할 수 있도록 하는 것을 말한다. 다만 거기에는 그에 걸맞은 엄격한 수행이 요구되었다.

그처럼 수행을 통한 관불을 장려하기는 했으나 백련사를 대표하던 유유민은 아미타불상 앞에서 서원문을 올리며 "연화(緣化)의 이치가 이미 명백하다면 곧 삼세의 전승이 드러나리라"고 읊어, 염불이 삼세에 걸쳐 통한다는 점을 강조했다.

혜원의 관불과 정토관은 후계자 복이 없었다. 정토의 가르침은 일단 끊겼다가 뒤이어 북위의 담란(476~542)에 의해 부활했다. 이는 '억념(憶念)의 염불'이었다. 억념의 염불 역시 관불의 일종으로, 생각 속에 염불을 담아두는 것을 이른다.

다만 담란은 일반적인 경로를 거쳐 정토교에 도달한 것이 아니었다. 삼론종 계열에 입문한 담란은 처음에는 독서에 몰두하며 사론(四論)을 연구했으나, 병에 걸렸을 때 불로신선의 술법이 있다는 말을 듣고 강남으로 건너가 도홍경을 사사했다. 도홍경은 민간 도교의 최초의 이론가다. 담란은 즉, 한때 도교에 푹 빠져 있었던 것이다. 그런데 귀향길에 낙양에 들렀다가 뜻밖에도 북인도의 보리류지를 만나 <관무량수경>(관경)을 건네받았다.

담란은 이를 읽고 도취되어 석벽 현중사에 주석하며 도교에서 정토교로의 극적인 전향을 단행했다. 여기에는 타오이즘, 도교, 불교, 정토교 사이의 참으로 극적인 천칭이 흔들리고 있다.

도착(562~645)은 태원의 개화사에서 공리(空理)를 연마하며 열반경을 강설하는 학승이었는데, 어느 날 석벽 현중사에 있는 담란의 비문을 보고는 큰 충격을 받았던 모양이다. 그리하여 48세의 나이에 정토교에 눈을 떠, 아미타불의 이름을 부르는 '구칭(口稱)의 염불'을 편출해 내었다. 그의 저서 <안락집>은 훗날 호넨의 '선택(選擇)적인 편집력'을 이해하는 핵심 배경 텍스트로서 중요하다.

이 도착의 제자가 바로 선도(613~681)다. 본서에서도 집중 조명되는 인물이다.

어린 나이에 출가하여 처음에는 <법화경>과 <유마경>을 배우고 이어 <관경>을 읽었으며, 현중사를 찾아가 도착을 알현하고 염불왕생의 법을 전수받았다. 그 후 장안에 들어가 민중 교화에 나서자 <아미타경>을 사경한 것이 수만 권에 달했고, 정토변상도를 그린 것만 300 폭에 이르렀다고 한다.

종남산 오진사나 장안의 광명사에 주석하며 누구에게나 마음을 활짝 열었기에, 당 고조가 낙양 용문의 봉선사에 비로자나불 감실을 조성할 때는 검교승으로도 활약했다. 이윽고 <관경소>를 저술했다.

이 책이야말로 일본의 호넨을 열광시킨 주석서다. 특히 그 안의 '산선의(散善義)'가 호넨으로 하여금 여섯 글자(나무아미타불)를 선택하게 만들고, 전수염불(專修念佛)로 내닫게 한 결정적 계기가 되었다.

정토교에서는 '정선(定善)'과 '산선(散善)'을 나눈다. 정선은 마음을 집중하여 관불할 수 있는 상근기자가 도달하는 방법이고, 산선은 마음이 산만하여 집중하지 못하는 범부를 위한 방편이다. 호넨이 주목한 것은 바로 이 산선이었다. 이야말로 '어지러운 생각을 품은 범부(亂想の凡夫)'를 위한 전수염불이었던 것이다. 이 점은 그저께 발매된 나의 책 <호넨의 편집력>(NHK출판)에도 써 두었다.

선도 이후, 그 법맥과는 별도로 혜일(慧日)과 연수(延壽)가 나타났다. 위에서도 언급했듯, 선도의 칭명염불은 중국 토양에는 깊이 뿌리내리지 못하고 일본의 호넨 쪽으로 날아가 전수염불이 되었다.

그렇다면 중국에서는 어떻게 전개되었는가 하면, 정토교를 대신하여 선종 각파가 숲처럼 일어났다. 이를 '선정일미(禪淨一味)'라 부르는데, 요컨대 정토교적인 선(禪)으로 변모해 간 것이다. 그것이 혜일과 연수가 완수한 역할이었다.

혜일(680~748)은 인도 구법 여행에 18년을 바치고 당 현종 때 귀국하여, 슬슬 싹트기 시작하던 신수, 혜능, 신회의 초기 선종 움직임을 목도했다. 혜일은 단박에 이 무리가 '견성성불'을 외치면서도 제반 수행(제행)을 배척하고 있음을 간파하고 맹렬히 비판했다. 그러나 그 비판은 오히려 선종 안으로 정토 염불을 밀어 넣는 동력으로 작용했고, 역으로 선도의 정토교를 변질시키는 결과를 낳았다. 이 점이야말로 본서가 각별히 강조한 대목이었다.

한편 연수(904~975)는 더 이상 당나라 사람이 아니다. 혜일로부터 200년 뒤인 송대로 접어드는데, 여기서 명확한 '선정쌍수(선정일미의 발전 형태)'가 설파된다. '관상의 염불'이 선 속으로 흡수되어 들어간 것이다.

이리하여 중국의 정토교도 선도 점차 '자력(自力)'의 종교가 되어 갔다. 좌선이 관불을 부활시킨 셈이다. 그러나 거기에는 묵묵히 앉아 참선하는 '지관타좌(只管打坐)'가 무념무상을 지향한 면도 작용하여, 과거의 노장적 무위자연을 부활시키고 있기도 했다.

이 점은 한편으로는 일본의 호넨이나 신란에서 순전한 '타력(他力)'의 정토교가 추구되었던 것과 뚜렷한 대비를 이룬다. 그리고 다른 한편으로는, 그 '자력'과 '타력'을 상대화하여 마주 세우는 지점으로부터 진정한 중국적 타오이즘과 노장사상, 도교 본래의 면모를 다시 묻는 작업이야말로 실상 본서의 후반부에서 치열하게 논의되었어야 할 과제였던 것이다.

(이하 인용 문헌 및 발췌 메모)

[사진 캡션 생략 및 본문 메모 번역]

본문 232쪽 인용

"이 때문에 내용적으로는 염불을 위주로 하면서도, 표면적으로는 선종 사찰의 간판을 내거는 일이 명대 이래 일반화되었고, 이것이 중국 근세 불교의 독특한 특색이 된 것으로 보인다.

선정쌍수를 문제 삼을 때 중국 사회의 구조적 분석과 함께 또 하나의 중요한 과제가 되는 것은 중국인의 세계관과의 연관성을 탐색하는 일이다.

(3) 본래 중국에는 범신론적인 세계관의 전통이 예로부터 존재하여, 양자택일적이기보다는 포섭적인 경향이 강하다. 그것이 종교 세계에 표출되면 삼교일치설이나 선정쌍수설이 된다. 이 점에서 가장 흥미로운 것은 신행(信行)의 삼계교(三階敎)다. 그것은 말법이라는 위기의식에서 출발한 것이므로 통상적이라면 강력한 단 하나의 원리를 내걸어야 마땅했다. 그런데 신행은 말법이기 때문에 제불제법을 총동원하는 '보불보법(普佛普法)'을 주창하며 범신론의 방향을 강력히 밀어붙였다. 물론 '보불보법' 역시 하나의 원리라고 부를 수 없지는 않겠으나, 그것은 보다 고차원적인 입장에서 보았을 때의 일이며 상식의 눈으로 보면 기이하게조차 여겨진다. 그만큼 중국의 범신론적 전통은 뿌리가 깊은 것이다."

장빙린(章炳麟) 인용 메모 (본문 228쪽)

"명나라 말기 만주족(청조)에 굴복하지 않고 끝까지 저항했던 자들은 선관(참선)의 무사이거나, 그렇지 않으면 왕양명학파의 무리였다. 양명학의 장점은 스스로를 존중하여 아무것도 두려워하지 않는다는 한마디로 귀결된다. 또한 선종의 장점은 온 나라 사람들에게 두루 설파하면서도 고작 몇 마디 말만을 소비할 뿐이라는 점에 있다.

애당초 중국의 덕교(도덕적 가르침)는 설하는 바 갈래는 나뉜다 하더라도 근원은 하나로 귀착된다. 이른바 '자신을 의지하고 타인에 의지하지 않는다(依自不依他)'라는 점이다. 위로는 공자로부터 아래로는 주희, 육구연, 왕양명 등 제자에 이르기까지 '스스로 그 마음을 귀하게 여기고, 귀신 따위를 주로 삼지 않는다'는 점에서는 일관되어 있다.

불교가 중국에 들어와 수십 개의 종파가 생겨났음에도 유독 선종만이 번성한 까닭은, 선종이 '스스로 그 마음을 존중하고 외재적 귀신 따위를 끌어들이지 않아' 중국인의 심리와 부합하는 면이 있었기 때문이다.

그러므로 나 역시 불교 종파 가운데 정토종과 밀교 두 종파만은 취하지 않는다. 그 이유는 이 두 종파가 주술적 기도로 흐르며 함부로 스스로를 비굴하게 만들어 용맹무외(두려움 없이 나아가는)의 마음에 위배되는 구석이 있기 때문이다."

2. 평론

마쓰오카 세이고의 제1437야 서평은 단순한 신간 서평의 차원을 넘어, 모리 미키사부로의 텍스트를 발판 삼아 ‘동아시아 문명 속에서 사상이 번역되고 변용되는 문화적 메커니즘’을 편집공학적 시각으로 포착해 낸 수작이다.

1) 텍스트를 횡단하는 거시적 투시와 ‘번역 장치’로서의 노장

마쓰오카는 서두에서 모리 미키사부로의 학문적 문체를 ‘엄밀한 실증주의의 틀을 다소 벗어나더라도 거시적 통찰로 보이지 않는 맥락을 길어 올리는 대범함’으로 규정한다. 이러한 성격 규정은 곧바로 인도 불교의 중국 수용 과정에 대한 입체적 통찰로 이어진다. 인도의 ‘공(Śūnyatā)’이 중국 고유의 ‘무(無)’라는 사유틀을 통과하지 않고서는 결코 동아시아의 정신 속으로 연착륙할 수 없었다는 점, 즉 노장이 단순한 하나의 사상 분파가 아니라 외래 문명을 빨아들이는 일종의 문화적 수용기(Receptor) 역할을 했다는 분석은 탁월하다. 마쓰오카는 이를 하세가와 뇨제칸의 노자론(공자의 국가주의에 맞선 아나키즘적 공동체 사유)과 연결 지으며, 체제 외곽의 사유였던 노장이 어떻게 이민족의 종교와 결합해 기존 유교적 세계관의 균열(영가의 난, 삼세보응의 결여)을 파고들었는지를 명쾌하게 구조화한다.

2) 정토와 선의 분화: ‘중국의 자력화’와 ‘일본의 타력화’에 대한 날카로운 대비

이 서평의 사상적 정점은 중국 정토교가 걸어간 궤적과 그것이 일본으로 건너가 호넨·신란에 의해 변용된 궤적을 날카롭게 분기시키는 대목에 있다.

  • 모리의 책에서 선도의 칭명염불이 중국 내부에서는 지속되지 못하고 ‘선정쌍수(禪淨雙修)’라는 범신론적 포섭 속으로 흡수되어 결국 ‘자력(自力)적 참선과 무위자연의 융합’으로 안착했음을 짚어낸다.

  • 동시에 마쓰오카는 여기에 머물지 않고, 중국에서 탈락한 순수한 범부 구제의 길(산선, 散善)이 현해탄을 건너 일본의 호넨에게 건너가 철저한 ‘절대 타력(他力)의 전수염불’로 비약했다는 비교종교학적 시야를 펼쳐 보인다. 이는 중국인의 심성 깊은 곳에 자리 잡은 ‘의자불의타(依自不依他, 스스로에게 의지하지 외재적 타자에 의탁하지 않는다)’라는 강인한 자립적 세계관(장빙린의 발췌문에서 극적으로 강조된 대목)과, 일본 중세의 절망적 무상관 속에서 터져 나온 타력 신앙의 차이를 단번에 가로지르는 통찰이다.

3) 아쉬운 점과 한계

다만 마쓰오카 특유의 ‘연환적 편집’ 방식이 지닌 한계도 엿보인다. 첫째, 장빙린의 민족주의적·혁명적 주체성 담론을 여과 없이 인용하면서 중국 사상의 본령을 지나치게 ‘자력주의’ 일변도로 단순화한 측면이 있다. 중국 민중 도교나 백련교 계열의 민중 신앙이 지녔던 타력적 구원 갈망과 메시아주의적 폭발력을 지나치게 배제한 채, 유학자·선승 엘리트 중심의 주체성만을 과대평가했다. 둘째, 모리 미키사부로의 저작 후반부가 도교의 본령을 온전히 파고들지 못했다고 아쉬움을 표하면서도, 정작 본인의 서평 역시 마쓰오카 자신의 저작(<호넨의 편집력>)에 대한 자의식과 일본 불교의 독자성을 변증하려는 동기에 쏠려 있어, 중국 내부의 복합적인 역사적 맥락보다는 일본 사상사로의 회귀를 서두른 감이 있다.

4) 결론

그럼에도 이 글은 모리 미키사부로라는 석학이 평생 천착한 ‘무의 족보’를 인도 불교의 동점(東漸)과 중국적 변용, 그리고 일본 불교의 수용이라는 동아시아 문명 교류사의 거대한 캔버스 위에 생생하게 되살려냈다. 외래 사상을 번역한다는 행위가 어떻게 기존 사상의 그릇을 깨뜨리고 새로운 정신의 불꽃을 피워 올리는가를 사유하게 만드는 밀도 높은 사상사적 크리틱이다.

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