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2022/07/28

井筒俊彦の イラン神秘主義哲学に対する関心

国際哲学別冊7.indd

井筒俊彦の イラン神秘主義哲学に対する関心
i ナスロッラー・プールジャヴァーディー
ii 翻訳:諫早 庸一
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井筒俊彦の
イラン神秘主義哲学に対する関心i


ナスロッラー・プールジャヴァーディーii
翻訳:諫早 庸一

1984 年 3 月にロンドンで行った井筒俊彦教授(1914–1993 年)との対談のなかで私が彼に投げかけた質問のうちの 1 つが「何があなたをイスラム研究へ向かわせたのか」であった。
井筒のイスラム研究はアラビア語の学習に始まった。当時、アラビア語は日本の大学では教えられていなかったため、彼は自分自身でそれを始めた。その後、タタール人ムスリムのムーサー・ジャーロッラーiiiと出会った後、2 年間は彼とともに勉強を続けた。その数年後、1961 年にモントリオールにてイスラム思想を教えるに先立ち、彼はエジプトやレバノンといったアラブ諸国を歴訪する。
井筒が私に返した答えはいささか曖昧なものだった。彼が言うには、彼は以前より言語や言語学を勉強してきており、日本においてアラビア語学習が一般的ではなかったとしても、彼にとってアラビア語を学習することはむしろ自然のなりゆきであった。井筒は言語学者としてそのキャリアをスタートさせたものの、次第に哲学に関心を深めていく。アラビア語を学んだ後、彼はイスラム思想の研究を始めた。対話のなかで彼は、自らをイスラム学の教授へと導いたイスラム思想・哲学・神秘主義にはどこか深遠なところがあったと述べている。
私が初めて井筒の名に触れたのは、サブザワーリー(Sabzawārī: 1797–1871 年)によるイスラムの超越哲学についての書のなかであった。井筒はこの書をムハッゲグ博士とともに校訂し、その書の序として英語で文章を寄せていた。私は、サブザワーリーの書と、私にとって素晴らしい導入となった井筒の文章を読み始めるまで、イスラム哲学について何一つ知らなかったことを認めなければならない。井筒のイスラム哲学への関心は、ムッラー・サドラ
ー(Mullā Ṣadrā: 1572–1640 年)の超越哲学への研究へと彼を誘いはしなかったが、しかしこのテーマに関して、特にイブン・スィーナー(Ibn Sīnā: 980– 1037 年)の諸著作のような、より基礎となる諸文献へと彼を導くこととなった。事実、彼はマギル大学 ivにおいてイブン・スィーナーの『示唆と助言
(al-Ishārāt wa al-Tanbīhāt)』を教授した。彼は私に、その授業ではテヘランの石版本を用いたことを告げている。井筒は数年にわたりアラブ諸国を旅し、アラビア語でのムスリム哲学や神秘主義思想を学んではいたが、イスラムの知的営為、特にスーフィズムの歴史のなかでイランおよびペルシア語の果たした役割について知ったのは、マギル大学滞在中のことであった。実際のところ、スーフィズムこそが 1960 年代の後半に私が井筒とより個人的に交際することになった要因であった。
私が初めて井筒と出会ったのはテヘランにあるニーマトッラー教団の道場 vであった。彼はこの教団の導師viであったヌールバフシュ博士を訪ねてきており、ヘルマン・ランドルト教授とその妻を伴っていた。メフディー・モハッゲグ博士のマギル大学とテヘラン大学との学術提携に向けての絶え間ない尽力のおかげで、井筒とランドルトはより頻繁にイランを訪れる機会を得ることになり、それによって私のようなイラン人学生たちは、井筒の滞在の恩恵により定期的に浴することとなった。
1978 年のイスラム革命に至るまで 70 年代を通して、井筒は毎年定期的にイランを訪れ、数カ月滞在した。そこで彼は限られた数の親しい学生に『叡
智の台座(Fuṣūṣ al-Ḥikam)』を教えただけでなく、比較東洋哲学の講義も行った。私は彼の授業にすべて出席し、毎週 1 度か 2 度彼のアパートでも彼と会っていた。アパートで彼は、ゴラーム・レザー・アアヴァーニーと私に古典ギリシア語を教えていた。さらに私は個人的に彼と会い、井筒と私が双方ともに関心を深めていた書、すなわちアフマド・ガザーリー( Aḥmad
al-Ghazālī: 1126 年没年)の『直観(Sawāniḥ)』viiの訳注について議論していた。
井筒と私は双方ともに『直観』と、イスラム神秘主義とペルシア語神秘主義文学の分野におけるその作品の重要性を知っていた。思うに、井筒はランドルト教授からその書について聞いていたのだろう。私は偶然にもテヘラン大学図書館でその書にめぐり会っていた。覚えていることは、最初にこの書のいくつかの章を読んで、それに深く感銘を受けたことである。この書は私が生まれた年にイスタンブルでヘルムート・リッターによって校訂・刊行されており、その最初の頁にリッターが付した詩は、この書が私に与えることになる影響を非常にうまく表現しているように思われる。

その薔薇がこんなに美しく彩られていることを私は知らなかった。
私をおびき寄せようと意図していたことも。
そう、それは花であった。私が離れて見ていた限り。
しかし、ひとたび近付いて見れば、私には火しか見えなかった。

火はペルシア語・アラビア語文学において愛を表すのに使われるメタファーである。スーフィーであった殉教者フサイン・ブン・マンスール・ハッラ
ージュ(Ḥusayn b. Manṣūr al-Ḥallāj: 922 年没)が自らの詩のうちの 1 つでこのメタファーを最初に用いた。愛とは、ハッラージュにとっては神の属性であり、本質と同一である。それは現世に聖なる魂とともに現われ、自らを愛し愛されるものとして顕現させる時、自らの性質を火として示す。これが基本的にはアフマド・ガザーリーが取り入れ、自らの『直観』で議論しようとしたハッラージュの神秘主義哲学である。
井筒はこの神秘主義哲学に対し、漠然とした思想を抱いていた。ガザーリーが愛について語る時、彼が意味しているものが単に恋人への感情ではなかったことを井筒は知っていた。ガザーリーは神秘主義者であり、スーフィーであった。そして彼の心象表象への関心は、ペリパトス派の哲学者の心象表象以上に哲学的であった。かつて、井筒は私に、ガザーリーの神秘主義は「愛の形而上学」と表現するのがよいとそれとなく述べたことがあった。
私が『直観』の諸章の 1 つについて彼と議論していたある日のこと、彼は言った。「これを英語に訳してはどうか」と。これが『直観』の翻訳というアイディアが私の脳裏をよぎった最初の機会であり、それを驚きをもって受け止めたことを述べなければならない。私はすでにアメリカ人の友人であるピーター・ウィルソンとともにニーマトッラー教団の師たちによるスーフィズム詩をいくつか翻訳していた。ピーターもまた当初から井筒の授業に出ていた。しかしその時点では『直観』の翻訳は私にはあまりにも難しすぎる、むしろほとんど不可能であるように思えた。その難しさはペルシア語にあったわけではない。そうではなくて、むしろその神秘主義哲学、つまり井筒の言葉を借りれば、愛の形而上学にあったのだ。
私の井筒に対する最初の反応は「できません」であった。その後、私たちは翻訳について話を続けることはなかった。しかし、それからしばらくして、
私が『直観』の別の観念について述べ、それをイブン・アラビー(Ibn al-‘Arabī: 1165–1240 年)の類似の観念と比較していると、彼は再び同じ質問を繰り返した。「それを翻訳してみてはどうか」と。それに対して私は再び「できません」と答えた。「いや、できる」彼は言った。「何をもってできないと思っているのだ」。「この書の逐語訳は何の役にも立ちません。これはペルシア語神秘主義詩に通底する基礎観念についての書であり、サナーイー(Sanā’ī: 1074–
1134 年)やアッタール(Aṭṭār: 1221 年没)、サアディー(Sa‘dī: 1292 年頃没)やハーフィズ(Ḥāfiẓ: 1390 年頃没)といった偉大なペルシア詩人によって用いられたメタファーのほとんどがこの書に含まれています。翻訳に併せて注釈が必要です。注釈がなければ、この作品は英語読者にとってほぼ理解不可能なものとなることでしょう。それはハーフィズの英訳を注釈なしで読むようなものです」。
「いいでしょう」。彼は言った。「注釈も付けなさい」。思い返すに、確かこの会話は少なくとももう 1 回は繰り返されたように思う。最終的に私は彼に言った。「私を手助けし、私が進むたびに翻訳を見ていただいてもよろしいですか。もしあなたが翻訳と注釈を見てくださるのでしたら、私は翻訳を行い、注釈を記しましょう」。彼はこれに同意し、こうして 2・3 週間の後、ガザーリーの序文の翻訳を第 1 章とともに彼のところに持っていった。我々の仕事が始まったのである。
『直観』はそれぞれに長さの異なる 77 章からなる小篇である。いくつかの章はわずかに 3・4 行のもので、またいくつかは 1 頁以上ある。それは基本的には 1 つの文学作品であった。著者は修辞表現やメタファー、逸話、詩、高名なスーフィーたちからの引用を用いて自らの思想を表現していた。著者は
「示唆/イシャーラ(ishārah)」として自らのメタファーや象徴性に言及する。この単語は古典期のスーフィーの師たちによって用いられ、彼らが自らに特有の話し方・書き方に言及したい時に使われた。示唆として、イシャーラは内側に隠れた思想を内包する表現である。話者なり著者なりは、形而上学的あるいは神秘主義的概念を表現している『クルアーン』の章句や詩あるいは物語から取られた 1 語をおそらくは使うことになる。例えば、著者が始原の愛と、創造主の愛の被造物のそれに対する先行性の概念について話したいとき、彼は以下のように書くことになる。

愛の根は無限の先在から生じる。「yuḥibbuhum(彼が彼らを愛する)」のバー(b)の文字に付される点はviii、「yuḥibbūnahu(彼らが彼を愛する)」の土壌に投じられた種子であったか。否、その点は「yuḥibbūnahu(彼らが彼を愛する)」を生み出すべく「hum(彼ら)」に投げかけられたものなのだ。

この文章は謎めいたものとして響くことは明白であるし、なにか訳の分からないものである。しかし、もし我々がそうしたアラビア語の語句が指していることを知るならば、そしてスーフィーたちが永遠かつ始原の愛について述べていることを思い出すならば、その意味を掴むことが難しくないことが分かるだろう。ガザーリーはここで、神と人間との間に存在する相互的な愛について述べる有名な『クルアーン』の章に言及している。そこでは 2 つの
語「yuḥibbuhum(彼が彼らを愛する)」と「yuḥibbūnahu(彼らが彼を愛する)」が用いられる(『クルアーン』第 5 章 54 節)。神は言う。神は「神が彼らを愛し、また彼らも神を愛すところの人々」をもたらすであろう。これは、スーフィーたちによれば、神の人間に対する愛が人間の神に対する愛に先行していることを意味する。なぜなら「yuḥibbuhum(彼が彼らを愛する)」の語は「yuḥibbūnahu(彼らが彼を愛する)」の前に述べられているのだから。木と果実のメタファーを用いて、ガザーリーは神の人間に対する愛が木であり、人間の神に対する愛が果実だと語る。当然ながら木が先に生じる。しかし、いかにして木は生まれ出で、いかにして果実は生じるのか。その答えは実に単純である。つまり、木を生み出すためには種をまかねばならない。種とは明白に愛であり、それは「yuḥibbūnahu(彼らが彼を愛する)」ところの愛ではなく、「yuḥibbuhum(彼が彼らを愛する)」ところの愛なのである。従って、ガザーリーは「愛(ḥubb)」の語にある[b を示す]点を、神のなかに存在する愛の本質の象徴と捉えているのであるix。
ここで『クルアーン』の語句を用いてガザーリーが示唆した意味は簡単に捉えうるものであるが、しかし時にガザーリーは全く簡単には捉えられない語句を用いることがある。例えば、彼は私が『クルアーン』のものだと考えていたあるアラビア語の語句を第 4 章で用いる。しかし、数年の研究の後、私はそれが『クルアーン』からではなく、ハッラージュの文から取られたものであったことを知るに至った。
井筒がまだイランにいる間に、『直観』の 3 分の 1 以上を翻訳し、それらの諸章に注釈を付すことができるとはとても思えなかった。当然ながら、その最初の諸章に対する私の注釈はより長いものとなり、それらについては、井筒と議論した後でいくつかを書き改めなければならなかった。革命がはじまると私はその仕事を一時的に中断した。井筒がテヘランに留められ、日本へのフライトを待っていた最後の 2 カ月、私は毎日彼に会いに行ったものだった。その当時テヘランは火のなかにあり、我々は辻々で起こっていることを無視することはできなかった。井筒は外に出ることを恐れ、私が訪ねてくるのを毎晩待つようになった。ペルシア神秘主義について語る代わりに、我々は街頭で起こっていた革命について語ったものだった「。全てが変わりつつある」。彼はよくそう言っていた。ある日、彼は日本における彼の戦争の記憶について話し、いかにしてすべてが変わったのかを語った。彼は、日本で道々に爆弾が投下された時のことを 2 度と忘れることができないと言った。私が今思い返していることを知って欲しい。彼は我々がイラクと戦った 8 年にわたる戦争をいくらか予見していたのだ。私は彼がある日言ったことを覚えている。彼らは君たちに爆弾を投下することになるだろう、と。彼の予見がそれから 2 年も経たずして現実となろうとは、その時知る由もなかった。サダム・フセインが最初の爆弾をテヘランに落とした時、私は井筒が言ったことを思い出していた。
その戦争が 1980 年に始まった時、私は翻訳の初稿をほぼ書き上げていた。私は井筒との議論の恩恵に与ることなく、残りの訳注を続けていた。私がその仕事を終えて 2 年したのち、当時日本にいた井筒に手紙を書き、序文を書いてもらえないかと頼んだ。彼は謝罪し、他の仕事にかかりきりになっていると言った。彼は当時日本語で本を書いていたのだ。
井筒のテヘラン滞在中に私が取り組んだ最も重要な仕事は、アフマド・ガザーリーが構想した形而上学的体系の再構築であった。ガザーリーは、自らの書を著すなかで、新たな挑戦に乗り出していることを自覚していた。彼は愛の思想に基づいた神秘主義についてある程度体系的に書こうとしていた。他の神秘主義者もそれ以前に愛について語っていたが、しかしそれを中心概念として、それに関連する一連の概念を発展させていくことは、誰も体系的には為し得ていなかった。この中心概念は、我々が通常そのように考えるようなものではない。共通認識として、我々は愛を最愛と考える他者に対する強烈な感情のように捉えている。この通念を否定することなしに、ガザーリーは、彼が愛という言葉で意味するものが、読者が愛の語(‘ishq もしくは ḥubb)によって理解するであろうところのものとは異なることを明らかにしている。したがって、『直観』の序文のなかでガザーリーは、愛を単に愛する人としてのある人が、愛される人としての他の人に向ける強い感情のようにのみ捉えるべきではないと警告している。読者はこの概念を無条件に、つまりある絶対的な方法で捉えるべきなのである。
ある絶対的な方法によって愛を理解するとはいかなることなのであろうか。
ガザーリーはこの質問に対して、簡潔に答える。曰く、それはただ創造主にのみ委ねられるものでもなければ、被造物のみに委ねられるものでもない( به
شرط آن که در او ھيچ حواله نبود نه به خالق و نه به مخلوق )。したがって、ガザーリーが愛するものと愛されるものについて語る時、彼は単に人間について語っているわけではない。ガザーリーにとって、神は彼の被造物たちに愛を注ぐこともできる。言いかえれば、神が愛するものとなり、人間が愛されるものとなることもできる。一方で、人間が神を愛する、つまり神を彼または彼女に愛されるものとすることもできるのだ。しかし、神が彼の被造物とこのような関係を結ぶ前に、神は神自身を愛する。これが意味するのは、神は本質的に神自身を愛するということである。あらゆる被造物が生まれ出る前に、神はその本質のなかで彼自身を愛している。
無限の過去より神が自らを愛しているとする思想は通常「本質的愛(‘ishq-i dhātī)」と呼ばれ、それはアフマド・ガザーリー以前の、ファーラービー(Fārābī: 950 年頃没)やイブン・スィーナーのような新プラトン主義哲学者たちによって表現されるものであった。事実、アフマド・ガザーリーはおそらくこれらの哲学者の著作、なかんずくイブン・スィーナーの愛についての論稿を読んでいた可能性が高い。しかしガザーリーにとっての原典はハッラージュの著作、特に彼の詩であったに違いない。いずれにせよ、ガザーリーは「本質的愛」の思想を哲学者たちのやり方のなかでではなく、詩人、ハッラージュのようなスーフィー詩人のやり方において表現するのである。『直観』は散文で書かれているが、しかしガザーリーの散文は極めて韻文に近い。このことは、彼が「本質的愛」の思想について説明しようとする諸章の 1 つにおいて特に強く見られる。

それは自らの鳥であり、自らの巣である。自らの本質であり、自らの属性である。自らの羽であり、自らの翼である。自らの空気であり、自らの飛行である。自らの狩人であり、自らの狩りである。自らの向かうところであり、自らの迎えるところである。自らの求めるものであり、自らの求められるものである。自らの始まりであり、自らの終わりである。自らの王であり、自らの臣民である。自らの剣であり、自らの鞘である。それは庭でも、木でもある。枝でも、果実でもある。そして巣でも、鳥でもあるのだ。
او مرغ خود است و آشيان خود است. ذات خود است و صفات خود است. پر خود است و بال خود
است، ھوای خود است و پرواز خود است، صيّاد خود است و شکار خود است، قبلۀ خود استمستقبل خود است، طالب خود است و مطلوب خود است. اول خود است و آخر خود است .سلطان
خود است و رعيت خود است، صمصام خود است و نيام خود است .او ھم باغ است و ھم درخت، ھم
شاخ است وھم ثمره ، ھم آشيان است و ھم مرغ.

この章は『直観』において最も深遠であると同時に、もっとも美しいものの 1 つでもある。それはまさに作曲のような芸術的創造である。それは愛を自らの巣にある鳥と呼ぶことに始まり、同じ語句を用いた同じメタファーに終わる。それらのメタファーの全てがあるものとそれと同じ概念「、本質的愛」の概念に言及している。哲学者たちが一者つまり神が、その本質において神自身を愛することを述べるのに対し、ガザーリーにとってそれは自らの鳥でありながら、自らの巣でもある。つまり神的な存在のなかでは、愛するものと愛されるものは同一なのである。
「本質的愛」の思想はあらゆるペルシア語スーフィー詩、なかでもアッタールやハーフィズといった新ハッラージュ主義詩人たちを貫いている。アフマド・ガザーリーが井筒の関心を捉えたものの 1 つは、彼の愛の神秘主義が後代のペルシア語スーフィー作家・詩人に対して与えたインパクトであった。
日本に来る前、私はたまたま始原の契約、神と人間との契約の思想について私がペルシア語で書いた刊行物に目を通した。それは『クルアーン』の章句の 1 つに主題として現れるものであった。その本は『始原の契約(‘Ahd-i Alast)』という表題を持ち、私が序文で述べたように、始原契約の思想は、私が井筒と議論したトピックの 1 つである。私は井筒に、この契約がハーフィズを含むペルシア神秘主義詩人たちの詩のなかで重要な役割を担っていることを述べた。井筒はもちろん以下の『クルアーン』の章句を知っていた。そこでは、神がアダムの子孫たちと契約し、彼らに尋ねる。「私は汝らの主ではないのか」。それに対し彼らはみな「そうです」と答えたx。彼はもちろんスーフィーたちによって為されたこの章句の神秘主義的解釈にも精通していた。しかし、彼はこの思想がペルシア語のスーフィー詩に与えた影響に気付いていなかった。私は彼にこの種の思想を他の東洋宗教あるいは哲学のなかに見ることができるか否かを尋ねた。彼の答えは「否」であった。
神と人間とのあいだの始原契約の思想は、イスラムの神話に基づいたものであり、私が井筒との会話の後、長い年月を経て発見したところによれば、この思想は古典期のスーフィーたち、特にバグダードの初期のスーフィーたちの議論の的となり、その後にペルシアのスーフィー詩人の目を引いた。ペルシアのスーフィーたちが自らの詩のなかでこの契約について語るはるか以前、彼らの幾人かが彼らの詩のなかで「始原」の神話を蘇らせようとする以前に、ガザーリーこそがそれを彼の書の章の 1 つで議論していた。この講演を締めくくるにあたり、ペルシアのスーフィーたち、特にアフマド・ガザーリーによるこの神話の神秘主義的解釈について少々述べ、その後に幾人かの詩人たち――特にハーフィズ――が彼らのガザル(抒情詩)のなかでこの神話をいかに蘇らせようとしたのかについて述べることになる。
ヴァージョンごとに細かな相違点はあるが、基本的な物語はむしろ単純である。より知られたヴァージョンでは、アダムとイヴの降下の後、ある日、神はアダムを立ち止まらせ、実際に自らの手を彼の背中へと押し込み、彼の腰部から未来に生まれる子供たちの種すべてを取り出す。これらの種はその後に神の御前に立たされ、神は以下のように彼らに尋ねることで、彼らのすべてと契約を交わす。「私は汝らの主ではないのか」。それに対し彼らはみな「そうです」と答える。後にスーフィーたちは、この始原的で神話的な出来事を、愛する者としての人間と<愛される者>としての神の間の契約として解釈した。正統派ムスリムxiたちの解釈では、人間は主の奴隷であると誓約を交わしたとされる。しかし、人間と神との関係を愛の名のもとに定義する神秘主義者たちは、人間を神を愛する者と見なす。
人間は本来神聖なる<愛される者>を愛するように向けられているにもかかわらず、実際にはこの<愛される者>に愛を向けない。誓約が交わされた精神的な領域をひとたび離れれば、そして子供たちがひとたびこの世界に出れば、彼らは自身の誓約を忘れ、幻想の罠に落ちる。愛を聖なる<愛される者>に向ける代わりに、人間たちは関係あるものたちと恋に落ちる。一握りの人々だけが、実際にこの罠から抜け出し、誓約を全うすることができる。これらの人たちが、神の友と呼ばれるスーフィー聖者である。換言すれば、すべての人は本来神聖なる<愛される者>を愛するように向けられているが、しかし彼らすべてがそれを実践するわけではなく、従って彼らすべてが<愛される者>との合一に達するわけではない。神秘主義者たち、すなわちスーフィーたちだけが、実際に<愛される者>のための愛を実践し、合一を得ることができる。ペルシア語神秘詩は実のところ、これらの友あるいは愛する者が彼ら自身の愛をいかにして実践し、<愛される者>の顕現と、最終的には<愛される者>との一体化――愛される存在に自らの身を委ねるなかで起こる一体化――をいかにして経験するかという物語である。これが、スーフィーがイスラムの名を解釈するやり方である。ムスリムであるためには、自らの持てるものだけではなく、まさにあなたの魂そのものを、あなたの存在を神に投げ出さなくてはならない。これが、井筒をイスラムに惹きつけた考えではなかっただろうか。

訳者註
i 翻訳文のカタカナ表記に関しては、近代以降の人物に関しては現代ペルシア語表記(短母音: a, e, o)を用いる。一方で、前近代の人物に関しては、古典ペルシア語表記(短母音: a, i, u)を用い、生没年も付す――場合によっては没年のみ。著作と術語一般に関しても、古典ペルシア語表記を用いている。なお、本報告で語られるエピソードのなかには、プールジャヴァーディーのエッセイ「井筒先生との最後の会見」で語られているものも多い(ナスロッラー・プールジャヴァーディー, 岩見隆・松本耿郎(共訳)「井筒先生との最後の会見」『井筒俊彦著作集』第 11 巻(付録 ), 中央公論
社, 1993 年, 2–8 頁)。
ii Nasrollah Pourjavady: 元テヘラン大学教授。
iii Mūsā Jār-Allāh (1867–1949 年)。
iv McGill University。カナダ、ケベック州はモントリオールにある総合大学。
v Khānaqāh。スーフィー教団の修行のための施設・建築物の名称。「僧院」あるいは「道場」のような機能をもつ施設・建築物として現在でも各地にみることができる(川本正知「ハーンカー」大塚和夫ら(編)『岩波イスラーム辞典』岩波書店, 2002 年, 797 頁)。
vi Shaykh。長老・年輩者の意。宗教的な文脈では、徳の高いウラマーやスーフィー・聖者への敬慕の表現として使われる。ペルシア語・トルコ語の影響の強い地域では、役職名のように使われることもあり、スーフィーの師、スーフィー教団全体の長、個々の修行場の長などがこの名で呼ばれる(赤堀雅幸「シャイフ」大塚和夫ら(編)『岩
波イスラーム辞典』岩波書店, 2002 年, 446 頁)。
vii プールジャヴァーディーの述べるところによれば、この書の表題である「サワーニフ」とは、神秘主義者が純粋精神の世界から受け取る直観や思想を意味する(ナスロッラー・プールジャワディ, 三浦伸夫(訳)「愛の形而上学――アフマド・ガッザーリーのスーフィズム」『イスラーム思想 2』(岩波講座東洋思想, 第 4 巻), 岩波書店, 1988
年, 130 頁)。
viii アラビア文字のバー(b)は横に線を引いた後、その下に点を付す。ここでは、その点について述べている。
ix 加えて同形の単語「種(ḥabb)」にもかかっている表現である。
x 『クルアーン』第 7 章 172 節。
xi イスラムを語るうえで「正統派(orthodox)」というタームは馴染まない、というのが一般的な認識であるが、ここではスーフィーとの対比で――つまり神秘主義に対置
される法学者やその解釈に基づく人々という意味において――この語が用いられている。



現代の「イラン的イスラム」哲学におけるコ ルバンと井筒の役割に関する導入的比較研 究:ハイデガーからマシニョンまで エフサン・シャリーアティー 翻訳:景山 洋平

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現代の「イラン的イスラム」哲学におけるコ
ルバンと井筒の役割に関する導入的比較研
究:ハイデガーからマシニョンまで
エフサン・シャリーアティー
翻訳:景山 洋平 
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現代の「イラン的イスラム」哲学におけるコルバンと井筒の役割に関する導入的比較研究:ハイデガーからマシニョンまで 
 
 
 エフサン・シャリーアティー翻訳:景山 洋平 
 
 アンリ・コルバンは、真剣な検討を改めて受けてしかるべき現代世界の精神的な哲学者たちのなかでも、特に、(大陸ヨーロッパにおける)現代西洋哲学と(イランとイスラム世界、特にシーア派における)東洋哲学との架橋に仕える現象学的=解釈学的な系譜との比較哲学1(と神秘主義)の領域に位置づけられる。一方では、このフランスの哲学者はドイツの哲学的言語のエキスパートであり、マルティン・ハイデガーの二つの作品をはじめてフランス語に翻訳した人物である。ただし、その一方で、同時に、中世の傑出した歴史家のエティエンヌ・ジルソンの弟子として、そして、プロテスタント神学者であるジャン・バルージの弟子として、そして、最終的に、(1928 年以後は)ルイ・マシニョンの指導のもとに、コルバンは、イスラム世界とシーア派における精神哲学、神秘主義、そしてスーフィズムへと転換した。初めてイブン・アラービーに熱中した後、コルバンはシャブン・アル=ディン=スフラワルディ(1191 年没)とそのヒクマート・アル=イシュラク(曙の神智学あるいは東洋の神智学)の再読にことさらに取り組んだ。その後、彼は、ミルダマードや、ムラ・サドラと彼のヒクマート・モターリアー(至高の神智学)といった、他のそれほど知られていないイランの神智学者を、体系的な仕方で世界に紹介する仕事を始めた。自らが被った「西洋における追放」から逃れつつ、コルバンは東洋(ソフラワルディが意図した意味で)を探究し、それを、パルシア(またはイラン)の中心にして標準を定める地の内に、ある種の「観念」(イメージ)として見いだした。コルバンのイラン来訪とその著作は、イスラム文化の内で育てられたイランの哲学的な知識人世代に影響を与えたが、それは特に、彼ら ― アフマド・ファルディッド、ダルユシュ・シャイェガン、レザ・ダーワリといった人びと ― に自らを認識させる事を通じてその自信を増大させたからなのだ。彼は、世界中で、共通したパースペクティブを持つ他の人びとにも影響を与えた。フランスで、彼はイランにおけるイスラム哲学と神秘主義の伝統を紹介し、そして、彼の作品はクリスチャン・ジャンベのような新世代の哲学者まで惹き付けた。日本とそして世界的に見ても傑出した哲学上の人物でありまたイスラム学者でもあった井筒俊彦は、明らかにコルバンの影響の下に、比較哲学研究に転向し、イブン・アラービーの知的遺産と道教の教説を比較する作業をおこなった。イランとイスラム世界に関する彼の研究の集成は、今日でも真剣な注意を向けられる(そして今なお批判と研究を受ける)主題である。 
 コルバンがハイデガーから学んだ重要(*** )な教訓は、現存在の実存が自ら自身に関する現存在の生き生きと歩み抜かれる了解(解釈)によって形成されることである。ハイデガーが『日本の友人との対話(言語についての対話)』2で自らの過去の知的成長について指摘するように、ハイデガーは長きに渡り、若い時分の初期の神学研究を通して、ディルタイによる「解釈学」概念の理解に親しんできた。ハイデガーの目的は、ロゴスにおける啓示が可能となる領域を打ち開くことである3。だが、ハイデガーと違い、コルバンは、この解釈学の鍵ないし解釈の方法を、実=存と地平的超越に則して有限性へと深く方向づけられたフライブルクの巨匠の世界観とは異なる他の目的に用いる。則ち、コルバンは、この解釈学の鍵を、「観念」の世界として知られるある他の世界(「観念」の世界、「どこにもない領野、マラクート、ホルクエリアあるいはスフラワルディの『第八の風土』」4)を開くのに使用したのだが、この世界は必ずしも死に方向づけられたものでなく、むしろ、死とは反対側ないし「その彼方に」あるものである。コルバンの見解では、ナスット(自然あるいは経験的与件の感覚知覚)とジャバルート(理性の世界ないし天界の純粋な理性の諸範疇)の領域の中間に位置づけられたマラクートの領域(天使の世界)は、人間の魂ないし「プシュケー」が持つ架橋的な圏域である。つまり、それは、二種の運動によって他の二つの圏域を結合する「能動的想像力」の領野である。ハイデガーの解き明かしえぬ問いに、その方法論的には解釈学的な道行きにおいて応答すると、コルバンの現象学は「霊的解釈」ないし公教的なものの秘教的なものへの差し向けに依拠するもの、つまり、(ハイデガーの被暴露性と同じく)隠されたものの露呈、そして、シーア派の神智学者による「覆いを取り去られたもの」5(カシュフ・アル=マージュブ、ア‒レーテイア)としての真理観に依拠している。 
 (アンリ・ベルクソンと彼の持続ないしデュレの理論の後では)ハイデガー思想の魅力は ― 彼の思想と「言語」に加えて ― 「時間」に関して彼が新しい概念を提示したことによるものである。ハイデガーは、時間を、将来から生成する統一された全体として描出すると同時に(、将来に仕えるところの)過去の伝統の取り戻しの方途としても描き出したのだが、これは極めて革新的なものであった。ハイデガーの言葉でいうと歴史的時代の進展はいかなる必然的な論理的で先行的に構造化された進歩の系列ももつものでないのだが、これは、ヘーゲルによる単線的な進歩の観念とは全く反対のものである。明らかに、こうした時間と歴史の概念は、ある側面ではイスラム的な時間概念の理解に類似している。マシニョンはクルアーンの「時間と空間」の概念を
「瞬間」と「点」の銀河系(milky way)として記述したものである6。 
 ヘーゲルの歴史哲学に対するハイデガーの批判に影響を受けつつ、コルバ
ンは、「歴史学的(historique)」の語とは異なる古いフランス語の単語「歴史的 (historial)」を蘇らせ、そうすることで、「経験的な意味で歴史的」(存在者的概念)と「運命としての歴史」ないしは《生起として歴史的(geschichtlich)》(存在論的概念)を区別しようとした。彼は、ハイデガー哲学における歴史性と地平的超越の領域を、垂直に上昇する霊的にして神聖な「形而上学」の一種へと転化させた(とはいえ、それはハイデガーが否定的な意味で考えた「形而上学」としてではない)。 
 近代的主観性に対するハイデガーの根本的批判は、芸術(詩作)への期待に尊厳を回復してその再生に道を開く。その際、詩作は、伝統を回復し、更には聖なるものの帰還を準備するという目的に、そして、将来せる神の到来のための基盤を準備することとしての瞑想的思索にも仕えるのである。この思索の隠れた源泉は、キリスト教神秘主義(エックハルトなど)に由来するよりむしろ、道教的伝統を戴く東洋の叡智のテキストとその翻訳を徹底して読み抜いたことにより深い根を持つものである7。とはいえ、神学者 ― 特にキルケゴール的な傾向を持った神学者 ― との真剣な対話への彼の信念にもかかわらず、そして、カール・バルト(1968 年没)のような人物の思想を熟知して、ルドルフ・ブルトマンのような人物の思想にハイデガー自身が影響を与えたにもかかわらず、彼は自らの作品が「神学的」に読まれることを許容しなかったし(例えば、ジルソンが企てた新トマス主義的なアプローチによってキリスト教哲学を構築する試み)、そうした企てを、彼が方法論的に無神論的と見なした哲学の徹底した問いの営為と両立しないものと考えた。彼のなかば神秘主義的な傾向、あるいは、特に芸術と詩作の領野における「聖なるもの(heilige)」への着目は、「宗教的」ないし「神学的」神秘主義と性格づけられるものではない(たとえ他方で、サルトルの著作がそうでありうるような意味では、彼の思想が非神学的ないし無神論的とは性格づけられえないにせよ)。この分野でいうとウィトゲンシュタインと似た仕方で、ハイデガーは、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と信じていたように思われる。しかるに、たとえ哲学の営為の方法論に限定されるとしても、こうしたタイプの不可知論的懐疑主義がコルバンの霊的な渇きを癒せない事は明白である。中世のイスラム教とキリスト教の哲学史に関するジルソンの知識から学ぶことによって、コルバンはマシニョンのような人物の情熱に影響を受けたのだ。そして、そのマシニョンは、生ける神性に向かうハラージュの叡智の変容する道のりに、実存的な仕方で、また生きられた経験において、随従したのであるが、その一方で、心根の底から感得する思索の方法を追ってサルマン・パルーシの足跡を辿りもしたのである(クルアーンの用語を使うなら「心情による思索」である)。 
 マシニョンの思想に拠り所を求めることにより、コルバンは、イラン的イスラムの秘教主義ないし霊性と神秘主義(スーフィズム)への包括的なアプローチを採用した(論考「サルマン・パルーシー:イラン的イスラムの最初の霊的開花 1934 年まで」の表題におけるこの概念を参照せよ)。サルマン・エ・パク(そして、マスダ教からキリスト教を経てイスラムとシーア派に至る彼の霊的発展)は、そうしたアプローチとイランおよびイスラムの霊性と神秘主義を典型的に代表している。 
 だが、師と弟子の間にはいくつかの点で相違点がある8。 
― 第一に、イスラム世界へのマシニョンのアプローチは常に宗教的・神秘的なものと社会的・歴史的なものの二つのアスペクトを合同させるものである。他方で、コルバンは、世界中の他の霊的伝統との対話を打ち立てるためにメタ歴史的な領域を探究していた。こうした違いは、神秘主義と社会的コミットメントの関係に関する二つの異なるタイプをこの両人が抱くことへと繋がった。 
― 両者の第二の違いは、イランのシーア派の長所と短所に関する評価と批判への両者の感受性にある。 
― 第三の違いは、イブン・アラービーの知的遺産、特に、存在の統一の教説に関する彼らの評価にある。 
マシニョンは、初期の直感的な神秘主義と比べて、後期の理論的(ないし存在に定位する)神秘主義が、新プラトン主義哲学9がキリスト教化されたもの(則ち、流出論)と混合されてきたと疑った。この場合、直感的に霊魂に根ざした「情熱」はギリシア的な本性(ロゴス)の範疇的・心理的な思想の一種に変身させられてしまう恐れがあり、そうして、宇宙論から倫理学的哲学・政治学にいたる多様な領野における自然的・知的・批判的な理論的営為に対する懐疑主義と延期のせいで、― ニーチェ的な言葉を使うと ― ギリシア人の自然な喜ばしき(gay)性格から受益することもなくなるのである。 
 一方で、マシニョンは、存在の統一の教説を、多様の統一という意味での一神教とは技術的に同一視できない、多神教的本性を持った実存的一元論のある形式として記述した。他方で、彼は、神秘主義の領域において知的=理論的アプローチが過剰に用いられることは、― 語のキルケゴール的な意味において ― 宗教的な諸概念から、その悲劇的=逆説的な深さを奪い取ってしまうと信じた。 
 最後に、マシニョンはスーフィズムの世界からの隠遁と社会からの隔離には馴染むことがなかったが、それだけでなく、彼は、民衆と被造物に対する社会的責任の感覚の内に、聖なるものへの信仰と愛の対応物を見た。だが、彼の哲学的な嗜好と修養過程の結果として、彼は、イブン・アラービーの神秘主義的遺産の理論的な(そしてプラトン的な)アスペクトを、特に、能動的想像力に関する彼の理論的営為を高く評価した。彼は、公教的一神論(アラー以外に神はなし)の反対物として、秘教的一神論(存在の内にはアラー以外に何も無い)を存在の統一と同一のものと考え10、そして、一元論との批判を拒絶した。コルバンは、聖なるものと伝説的歴史を社会学的歴史主義に還元することを避けたし、政治的事象に表だった関心を示すことはなかっ
た。 
 アブラハムの諸宗教において、「人格化された(道徳的な)神」の概念は、形象的に、人間との対話的関係を設立するための基盤となってきた。イクバル・ラフーリの言葉で言うと、「神の擬人的な概念は、生の理解にとって避けがたいものである… 理想的人格のこうした類型的表象は、クルアーンの神概念の最も根本的な要素の一つである。」11  だが、コルバンの見解では、一神論の公教的形式は、逆説的にも、二つの潜在的な奈落に陥る危険に曝されている。一方では、「同化」(キリスト教の受肉論のような受肉による擬人観)の危険がある。他方では、「棄権」(抽象的不可知論)の脅威にも直面している12。秘教的一神論は、これらの異端の二つの奈落をすり抜ける細い小道を歩んでゆく。 
 人格化された親密な神に関するイスラムの(理論的な)神秘主義的概念と、東洋の叡智の、つまり道教と仏教の伝統における存在論的な聖性のリアリティとの間に対話的関係を打ち立てることは、神学ないしは否定の道(否定神学)のある形式を採用することによって、(今日残念ながらアブラハムの諸国と息子たちの間で行き渡っている)神性の擬人的概念を純化することに貢献するかもしれない。他方で、人は、存在に関して人びとが抱いたさまざまな超越的領域を統合することにおけるイスラム世界とイランの霊的=神秘主義的な経験を、後期井筒が採用したアプローチからインスピレーションを受けることによって、極東の文化と精神性に紹介し、そうして、文明のこの圏域におけるありうべき無自覚の欠点に光を当てることができるだろう。 
 キリスト教の受肉の原理ないし教説に立ち臨んで、キリスト教の神秘家は、否定神学に依拠することにより、神の概念をコスモス的な聖なる存在者へと拡張する事を求めた。反対に、イスラム教の神秘家は、イスラムの神性の絶対的な抽象化と一性の原理に対して、クルアーンに記述されている神の人格化された形象と属性を強調する冒険を行った。 
 他方で、極東の存在論的で非・擬人観的な神秘主義(特に道教に結晶化されたものだが)は、明らかに、エックハルトの否定神学、ハイデガーの存在論、そして、イブン・アラービーにおける存在の(至高の)一性とある親和性を持っている。『スーフィズムと道教』において、井筒教授は、極東の存在論的神秘主義とイブン・アラービーの思想のありうべき親和性と比較について語っている。 
 とにかく、今日の我々の世界は、これまで以上に、ある平静さ(ゲラッセンハイト)を必要としており、そして、このグローバルな霊的対話において、東洋の叡智は、「末人」(凡庸な俗人)の使用の為に、思考を挑発する省察へと導くのである。だが、後期の井筒が指摘する通り、そうした対話の予備的条件は、共通の言語的基盤をもつことである13。この種の対話と秘教的・対話的なコミュニケーションの運命は、井筒の三肢に分節化された理論における共時的構造の東洋的記号学のうちに見いだされる、(哲学的な)東洋とその共通言語である。その井筒の理論は次のように構成される。1:同一性と無矛盾の原理に基づけられていて、判明に分離した、本質(意味と本性)の世界;2:宗教的・神秘的瞑想と修練、また、世界の脱構築や世界との意識の最初の邂逅によって獲得された知識の「否定」ないしはその構造的分節の完全な欠如;3:意識のこのゼロ点から出発することによる、「非=存在」、則ち神秘的で聖なるもの、あるいは一者の無媒介の自己分節を、新しく分節化して習得する新たな形式の再生。この段階では、万物は瞬くように現出して、柔軟かつ透明に相互浸透する。第二の段階では、経験をさらに深めることによって、言語の創造的で魔術的な形式が、誰の意味論的エネルギーが「絶対無分節者」の内にそれまで隠されていたかを語り出す。 
 コルバンと連帯しつつ、井筒は、意識と存在(本質)のこの深層領域を「オリエント」と呼び、道教、仏教における「現象の空無(vacuum of phenomena)」、ブラーフマー、スーフィズムにおける「神聖なる名」、ユダヤのカバラーにおける生命(セフィロト)等のさまざまな東洋的伝統の分析を引き受ける。そして、これらを、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ、デリダといった現代の人物の作品に照らして評価する。 
 デリダの原=エクリチュールや原=痕跡は、井筒による第二段階の脱構築的分節と等しいものであり、これは、第一段階の分節の脱構築の後に来るものである。この段階では、「絶対無分節者」を通じて14、言語は終末論的な「散種」を始める。これは、デリダが「差異(différence)」の綴りの「e」を「差延(différAnce)」の「a」に変え、そうして、言語の差異化と遅延の両機能を指し示すモチーフないし能動的な名辞と転じさせたのと同じ仕方である。 
 場合によっては間違いも起こすであろう意味の似た語のこうした比較探究は、コルバンと井筒の批判的方法の特徴的性格に属するものであり、そこでは、混合主義を避ける為に、それぞれの概念はただ適切性の方法を適用するなかで各々のシステムにおいてのみ理解される。たとえ、こうした仕方で、異なる思想システムの間の比較が可能になるとしても。 
 結びの言葉として、次のことを指摘したい。いかなる文明と宗教に由来するにせよ、世界のあらゆる東洋人の共通の秘教的・霊的な方向が同一であるならば ― コルバンと井筒の両者に捧げて ― コルバンの有名なモットーを引用することは不適切ではあるまい。 
「世界の東洋人よ、団結せよ!」 
 
原註 
1 マッソン―ウルセル以来の「比較的方法論」については:see H.CORBIN,  
«Philosophie iranienne et philosophie comparée», Téhéran: Académie de Philosophie, 1976 , trad.pers., S. J.Tabatabai, p. 20  
 
2 GA12, 91 
3 P.Arjakovsky, F.Fédier, H.France-Lanord, Le Dictionnaire M.Heidegger, art. «Herméneutique», Paris: Cerf, 2013, p.60 ٣; + GREISCH, J., « Ontologie et temporalité », Paris :PUF, 1994 
4 七つの地理的風土という古い概念を見よ。そこでは、世界が七つの等しい円環に分割される。 
5 See Fadai Mehrabani, M., "Istâdan dar ân Suye marg" (stand beyond death, responses of H. 
Corbin to Heidegger in perspective of the Shiite philosophy), Tehran: Ney, 2012 
6 「機会論者であって、顕在的な『作用』における以外には神聖な因果性を知らないイスラムにとっては、ただ瞬間のみが存在する。hîn (Q. 21, III ;...), ân (Q. 16, 22), 瞬
き(clin d’œil )」;「それ故、時間は連続する『持続』ではなく、瞬間の『銀河系』の布置である(同様に、空間も存在しない。ただ点のみが存在する。)」; L.MASSIGNON, « Le 
temps dans la pensée islamique » (Eranos, XX, 1952, pp.141-148), in Opera Minora de L.M., tome II, 1963, p. 606 Voir aussi: IQBAL, Muhammad, The reconstruction of religious thought in Islam, London: Oxford UP, 1934, rep. A.P.P., 1986, pp. 73 sq. (III.The Conception of God). 
7 Cf. Reinhard May, „Ex oriente lux: Heideggers Werk unter ostasiatischem Einfluss“, 
Stuttgart: Steiner Verlag Wiesbaden; Eng. Trans. Parkes, Graham, Heidegger's Hidden 
Sources: East Asian Influences on His Work, Routledge, 1996 ; voir aussi LÖWITH, Karl, «Remarques sur la différence entre Orient et Occident», in Rev. «Le philosophoire, Labo. de philo.», N°41 (printemps 2014), Paris: Vrin, pp. 181-127 
8 JAMBET, Ch., «Le soufisme entre L.Massignon et H.Corbin », in «Le Caché et l’Apparent», Paris l’Herne, 2003, p. 145 sq. ; + Opera Minora de L.M., tome II, 1963, Mystique musulmane et mystique chrétienne au Moyen Age, pp.480 sq. (Monisme testimonial/Monisme existentiel) 
9 Ibid., t. II, 1963, P.481 
10 Corbin, H., Le paradoe du monothéisme, Paris: l’Herne, 1981, pp. 14, 19 
11 IQBAL, M., ibid.,  pp.59, 63 
12 Corbin, 1981, ibid., p. 101, De la nécessité de l’angéloloie 
13 「… 私がこの研究を始めたのは、アンリ・コルバン教授が『メタ歴史学における対話』と呼んだものが現代世界の状況でなにか緊急に必要とされているものだという確信にうながされてのことである。人間性の歴史のいかなる段階においてであれ、世界の諸国民のあいだの相互理解への必要が、我々の時代より強く感じられたことはなかった。『相互理解』は実現可能であろう ― あるいは少なくとも、理解可能である ― 生の異なる諸次元において。哲学的水準がそのうちでもっとも重要なものの一つである… この省察は、メタ歴史学的対話の可能性に関する極めて重要な方法論的問題へと我々を導く。その問題は、共通の言語体系の必要である。これは、正に「対話」の概念こそが二人の対話者の共通の言語の存在を前提するがゆえに、ひとえに当然の事
である。」T. IZUTSU, Sufism and Taoism: A Comparative Study of Key 
Philosophical Concepts, Berkeley: Univ. of California Press, 1983, pp.469, 471 14 Cf. M.Dalissier, S.Nagai, Y.Sugimura, « Philosophie japonaise, Le néant, le monde et le corps», Paris : Vrin, 2013, p.362-364 

叡智の哲学者・井筒俊彦論・・総集編: 惑星間哲学者からの便り

21世紀の新しいパラダイムを構築するために

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2018年12月 4日 (火)
叡智の哲学者・井筒俊彦論・・総集編

14万8000ヒットの御礼に「叡知の哲学者」たる井筒俊彦論もプレゼントします。
このブログでも何回か紹介している若松英輔さんの『井筒俊彦 叡知の哲学』に触発されたものです。



  この本の紹介には
・・少年期の禅的修道を原点に、「東洋哲学」に新たな地平を拓いた井筒俊彦の境涯と思想潮流を、同時代人と交差させ、鮮烈な筆致で描き出す清新な一冊・・
 とあります。

 若松さんのこの作品は私にとっても、待望の「井筒俊彦論」であり、お勧めの一冊でもあります。

 「井筒俊彦」という惑星的巨人を「読む」とは、世界の深層を「読む」ことであり、東西の神秘家・哲人の「原体験」を「読む」ことであり、未だ出現していない21世紀の哲学を「読む」(予見)ことでもあるのです。

 「井筒俊彦」を「読む」ことは、このブログのテーマである「惑星間哲学」という「新しいパラダイム」を「読む」ことにもつながっていくでしょう。

★叡知の哲学者 井筒俊彦論・・アーカイブ編・・★


☆ 修行道について
「詩人哲学者」について

観照的体験
「修行道」の原点
精神世界の山を登る

☆ ギリシャ哲学の深い闇について
「向下道」の絶対的意義
ギリシアの哲人たちとの共鳴
ギリシアの哲学者の実相

☆ 永遠のロシアについて
ロシア的なるもの
永遠のロシア
ロシアのキリスト
永遠の今の体験
「新しい人間」の誕生
復活の天使としてのアリョーシャ
ムイシュキンの至高体験
「新世界」の発見
☆ 完全な神秘主義について
完全な神秘主義
聖ベルナールの愛の火
ベルクソンの「完全な神秘主義」
☆ 存在はコトバである
存在はコトバである
深層意識的な言語哲学
「言語哲学としての真言」
空海との邂逅

☆ 東洋哲学について
「東洋哲学の共時的構造化」
「東洋哲学の共時的構造化」2
「対話」による叡知の発掘
「意識と本質」について



☆ 「コーラン」を読む

「読む」ことの天才

天界の翻訳者

ダイナミックな統合哲学

コーランの世界

☆惑星的哲学の誕生について
人間を根底からつくりかえる「実践道」

「意識と存在の構造モデル」

弁栄聖者の「万有生起論」

2018年12月 4日 (火) 哲学 | 固定リンク

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井筒俊彦と小林秀雄の共通点・・対話による叡智の発掘(2019.02.19)
「スーパーセルフ」の開発が人類を救済する・・(2019.01.02)
叡智の哲学者・井筒俊彦論・・総集編(2018.12.04)
逆境で生まれる新文明・・新しい自己像の誕生(2018.09.18)





オンライン談話会「井筒俊彦とイスラーム研究─東洋哲学前夜の思想を探る」|日本西アジア考古学会

2021年6月25日開催:オンライン談話会「井筒俊彦とイスラーム研究─東洋哲学前夜の思想を探る」|日本西アジア考古学会

2021年6月25日開催:オンライン談話会「井筒俊彦とイスラーム研究─東洋哲学前夜の思想を探る」

オンライン談話会のご案内をいただきましたので、お知らせします。

***********************************
日本学術振興会カイロ研究連絡センター定例懇話会(Zoom)
(2021年度第4回のお知らせ)

前略、この度は、昨年『イスラームのアダム-人間をめぐるイスラーム神秘主義の源流』を上梓された澤井真先生から、イスラーム思想の泰斗、井筒俊彦先生のお話を伺います。ぜひご参加いただきたく、ご案内いたします。

◆ 日時:2021年6月25日(金曜) 開始時間:日本時間20時より (カイロ13時より) 60分
質疑応答:30分
◆ 配信方法:Zoom

◆ 講演:「井筒俊彦とイスラーム研究─東洋哲学前夜の思想を探る」
◆ 講師:澤井真(天理大学おやさと研究所講師)

◆ 要旨(講師記)
井筒俊彦(1914-1993)は、世界で最もよく知られた日本人のイスラーム研究者の一人である。イスラームに関する井筒の英語著作は、ムスリムらに読まれるとともに高く評価されてきた。すなわち、海外における井筒俊彦はイスラーム研究の碩学という評価が強い。しかし、1967年、井筒は鈴木大拙(1870-1966)の後継者としてエラノス会議に15年にわたって参加して以降、東洋思想に関する講演を12回行なった。20世紀後半の神秘主義研究やオカルト研究を牽引する役割をも果たしたエラノス会議を通して、井筒は「東洋」を構想したと考えられる。イラン革命より日本に帰国後、井筒は東洋哲学を日本語で論じるようになる。彼の東洋哲学の思想的支柱こそが、イブン・アラビー(1240年没)の存在一性論であった。
本発表では、井筒のイスラーム研究を交えながら東洋哲学へと到る思想的軌跡を考察することにしたい。


●参加方法:講演は無料となっております。参加者は、講演タイトル、氏名(フルネーム)と所属を明記の上、メール(jspslecmet@gmail.com)にて、前日までに必ずお申込みください。
ZoomのURL、ID、パスワードをこちらより後日連絡いたします。

※今回の講演は金曜に開催いたしますので、曜日をお間違えの無いようにご注意ください。

**********************************
日本学術振興会カイロ研究連絡センター
JSPS Cairo Research Station
Flat no.4, 9 al-Kamil Muhammad Street
Zamalek, Cairo, Egypt
Tel. Fax. 02-2736-3752

「存在はコトバである」・・井筒俊彦の神秘哲学: 惑星間哲学者からの便り

「存在はコトバである」・・井筒俊彦の神秘哲学: 惑星間哲学者からの便り

惑星間哲学者からの便り
21世紀の新しいパラダイムを構築するために



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2015年2月12日 (木)

「存在はコトバである」・・井筒俊彦の神秘哲学


 井筒俊彦の神秘哲学の中心にある「コトバ」の問題について見てみよう。

 若松英輔さんによると、「存在はコトバである」、この一節に井筒俊彦の哲学は収斂される・・という。




「存在」とは、事象が在ることではない。

ここでの「存在」は、イブン・アラビーが用いたように絶対的存在者の異名である。

「コトバ」とは言語学におけるラングやパロール、シニフィアンとシニフィエのテーゼにも収まらない。エクリチュールとも異なる。

「存在」が「存在者」を「創造」するとき、「存在」は「コトバ」として自己展開する。

コトバとは事象が存在することを喚起する力動的な実在、すなわち存在を喚起する「エネルギー体」に他ならない。

・・叡知も霊も「心真如」も、彼には「コトバ」の姿をもって現れた。

井筒俊彦の「コトバ」は、言語学の領域を包含しつつ超えていく。

バッハは音、ゴッホは「色」という「コトバ」を用いた。曼荼羅を描いたユングには、イマージュ、あるいは元型が「コトバ」だった。

「コトバ」をめぐる論究の歴程を看過し、井筒をイスラーム学者としてのみ論じることは、哲学者井筒俊彦のもっとも重要な思索を見逃すことになる。

井筒にとってイスラームとは、「コトバ」へと続く精神的沃野だったのである。

『井筒俊彦--叡知の哲学』221~222頁





  井筒の言う「意識と存在の構造モデル」であるところの三角形の山を登るためには、存在と意識を喚起するところの「エネルギー体」としての「コトバ」について極める必要があるのである。

 その点、井筒俊彦が真言密教の僧侶たちを前に行った講演「言語哲学としての真言」では、その起源が見事に語られている。

 この講演では「存在はコトバである」、という命題が取り上げられるとともに、西欧の言語学はもとより、イスラームの文字神秘主義などから真言密教を照射して、「真言」を新たな言語哲学としてを現代に甦らすことに成功している。

 空海の「五大に皆響あり、十界に言語を具す」という言葉に象徴されるように、真言密教では仏の世界から地獄のどん底まであらゆる存在世界はコトバを語っているとする。

 つまりすべてが大日如来の説法であり、これを「法身説法」という。

 特にこの大日如来のコトバの開始点が「阿字」であり、「人が口を開いて呼ぶ時に、必ずそこに阿の声がある」と言われている。

 井筒によると、異次元のコトバの極限状態においては、「シニフィエ、つまり意味が零度に近く希薄化し、それに反比例して、シニフィアン、つまり音の方が、異常な力、宇宙的に巨大な力となって現れてきます。これが、真言密教のコトバ構造におけるア音の原初的形態であります。すなわち、この極限的境位では、大日如来のコトバはアという一点、つまりただひとつの絶対シニフィアンなのであります」と云う。


 この絶対シニフィアンの発声とともに言葉が始まり、言葉が始まるまさにそのところに意識と存在の原点が置かれるのであります。

人がアと発声する、まだ特定の意味は全然考えていない。

しかし、自分の口から出たこのア音を聞くと同時に、そこに意識が起こり、それとともに存在性の広大無辺な可能的地平が拓けていくのであります。

ア声の発声を機として、自己分節の働きを起こした大日如来のコトバは、アからハに至る梵語アルファベットの発散するエクリチュール的なエネルギーの波に乗って、次第に自己分節を重ねていきます。

そして、それとともに、シニフィエに伴われたシニフィアンが数限りなく出現し、それらがあらゆる方向に拡散しつつ、至るところに響を喚び、名を喚び、物を生み、天地万物を生み出していきます。

「五大に響あり」と言われるように、それは地水火風空の五大悉くをあげての全宇宙的言語活動であり、「六塵悉く文字なり」というように、いわゆる外的世界、内的世界にわれわれが認識する一切の認識対象の悉くが、文字なのであります。

 こうして、全存在世界をコトバの世界とし、文字の世界、声と響の世界とする真言密教の世界観が成立します。

すなわち、イスラームの文字神秘主義や、ユダヤ教のカッバーラの場合と同じく、真言密教においても、存在世界は根源的にエクリチュール空間であり、そのエリクチュール空間は、声鳴り響く空間なのであります。

「読むと書くーー井筒俊彦エッセイ集」・・「言語哲学としての真言」



井筒にとってイスラームとは、「コトバ」へと
   続く精神的沃野だったのである・・若松さん
   (マレーシアのイスラム寺院にて)




2015年2月12日 (木) 哲学 | 固定リンク


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叡智の哲学者・井筒俊彦論・・総集編(2018.12.04)
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井筒俊彦英文著作翻訳コレクション 全7巻(全8冊)| 慶應義塾大学出版会

井筒俊彦英文著作翻訳コレクション 全7巻(全8冊)| 慶應義塾大学出版会


慶應義塾大学出版会
Keio University Press

井筒俊彦英文著作翻訳コレクション 全7巻(全8冊)MENU


井筒俊彦英文著作翻訳コレクション 全7巻(全8冊)

■井筒俊彦英文著作翻訳コレクションのパンフレットはこちら

 
刊行にあたって

井筒俊彦(1914年―93年)の生誕100年を記念した『井筒俊彦全集』(全12巻・別巻、2013年-16年)の刊行によって、その思想の全体像が明らかになりつつあります。
しかし、井筒俊彦の生涯をひもとくと、1950年代半ばから約20年にわたって中近東、欧米で研究滞在し、日本語ではなく英文で多数の著作を発表した時代があります。この時期、井筒は日本語著作とは異なるアプローチでその思索を深化させ、構築していったのです。
本翻訳コレクションは、『井筒俊彦全集』と併せて、今日にいたるまで世界で読み続けられている井筒俊彦の英文代表著作を、本邦初訳で提供し、井筒哲学の全体像をより克明に明らかにするものです。

2017年4月

●『井筒俊彦全集』についてはこちらをご覧ください。

   
本コレクションの特色

◎思索の「中期」にあたる1950年代から80年代にかけて井筒俊彦が英文で著し、世界で高く評価された代表著作全七作を、本邦初訳で提供。
◎井筒哲学の中心テーマでありながら日本語では発表することがなかった唯一の「言語論」であり、幻の連続講義「言語学概論」を基にした英文処女著作『言語と呪術』を収録。
◎世界のイスラーム研究を牽引し、今なお各国語への翻訳が進む“イスラーム三部作”を初めてまとめて提示する。
◎名訳『老子道徳経』とイスラーム三部作の完成を経て、中国とイスラームの神秘主義を架橋する“最大の大著”『スーフィズムと老荘思想』待望の邦訳。
◎主著『意識と本質』への礎となり、海外のオーディエンス向けに東洋思想を平明に語った講演集『エラノス会議』を収録。
◎最新の研究に基づいた精緻な校訂作業を行ない、原文に忠実かつ読みやすい日本語に翻訳。
◎読者の理解を助ける解説、索引付き。


  


もう一人の井筒俊彦――英文著作をめぐって

安藤礼二
(文芸評論、多摩美術大学美術学部教授)

 井筒俊彦(1914―93年)は、1962年のマギル大学への赴任から、1979年のイラン革命による日本への帰還に至るまで、20年近くにわたり、活動の場を海外に移した。年齢でいうと40代の半ば過ぎから60代の半ばまでである。この間の主要著作は、そのほとんどが英文で著された。英文著作の井筒俊彦は、日本語著作の井筒俊彦とは大きく異なっている。
 なぜ、『コーラン』を選んだのか。井筒は英文著作で、明快に、こう答えてくれている。『コーラン』には、預言者を介して、人間の言葉でなく、神の言葉が記されていたからだ。預言者は、言葉の意味を変革できる特別な人間だった。なぜ、「東洋哲学」だったのか。エラノス会議に招かれ、そこで東洋をあらためて発見したからだ。エラノス会議で発表された井筒による英文の講演原稿(1967―82年)は、日本語による代表作『意識と本質』(1983年)の源泉となるとともに、それとは異なった東洋哲学へのもう一つのアプローチを示してくれている。そのはじまりにして帰結である、東洋の神秘主義思想たるタオイズムとイスラームの神秘主義思想たるスーフィズムを比較対照した英文による大著『スーフィズムと老荘思想』(初版1966―67年、改訂版1983年)がまとめられることになった。
 井筒がはじめて英文で書き上げた著作、『言語と呪術』(1956年)は、井筒が海外へ旅立つ前に完成された。そこでは、人類学と心理学が同時に論じられ、『鏡の国のアリス』の登場人物ハンプティ・ダンプティとアラビアの預言者ムハンマドが同時に論じられていた。「未開社会」を統治する呪術的な言語と、幼児が獲得する始原的な言語は同様の構造をもっている。そうした原初の言葉にして魔術の言葉を用いて、ハンプティ・ダンプティは虚構の世界に、ムハンマドは現実の世界に、意味の革命をもたらしたのだ。
 英文著作には、いまだ誰も見たことのない井筒俊彦が存在している。


   


推薦のことば 「世界に輝くイスラーム三部作」

小杉 泰
(イスラーム学・中東地域研究、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授)

井筒俊彦が英文で著したイスラーム三部作は、西洋的なイスラーム学の限界を超えて、真にグローバルな学知の時代を先導した名作である。アラビア語聖典の言語宇宙を内側から照射した『クルアーンにおける神と人間』、イスラーム独自の論理を解明し、東洋学に意味論的な大転換をもたらした『イスラーム神学における信の構造』、認識論を偏重する近代哲学に対して、存在論哲学の深淵を知らしめた『存在の概念と実在』。これらの名著によって巨星イヅツは世界に輝いた。さらに『スーフィズムと老荘思想』では、東洋の叡智・神秘哲学の神髄を比較考察するという難業で世界を驚嘆させた。
欧米のみならずイスラーム世界でも井筒イスラーム学は深甚な影響を与え、その名声によって日本がどれだけ恩恵を受けたか計り知れない。
本コレクションは、英文ゆえに日本発の世界的名著が日本の読者に届きにくいという逆説を解消するものであり、その意義は限りなく大きい。多言語の典拠と深い思索による原文を精確に日本語にした秀逸な訳業も、功績大である。イスラームの理解が喫緊の課題となっている今、二一世紀の吉報と言うべきであり、是非一読をお薦めしたい。




  


推薦のことば 「井筒俊彦――彫琢としての翻訳」
中島隆博
(中国哲学・比較哲学、東京大学東洋文化研究所教授)

 井筒俊彦は慶應義塾大学言語文化研究所の紀要において、1966年にスーフィズムを、1967年に老荘思想を論じる巻を刊行し、その改訂版が後に『スーフィズムと老荘思想』として書籍化された。
 なぜこの二つの思想が同時に一冊にまとめ上げられなければならなかったのか。それは、井筒と深い親交のあった、イスラーム神秘思想研究者のアンリ・コルバンの「メタ歴史における対話」を、イスラームと中国思想の間で実践することによって、「永遠の哲学」に触れるためであった。
 そのためには、老荘思想をイスラーム神秘思想であるスーフィズムに匹敵する神秘思想として彫琢する必要があった。井筒が『老子道徳経』の翻訳に取り組んだのはそのためであった。『老子道徳経』の第一章の井筒の翻訳を見ると「玄」を「神秘 mystery」そして「妙」を「驚異 wonder」と訳している。
 井筒が尊敬していた鈴木大拙の神秘解釈が翻訳を通じて深められていったように、井筒の神秘哲学の深い機微を理解するためには、その彫琢としての翻訳の手つきこそが重要である。そのためにも、井筒俊彦英文著作翻訳コレクションの刊行は重要な貢献となる。


   
井筒俊彦英文著作翻訳コレクション 概要
装丁 中垣信夫+中垣 呉[中垣デザイン事務所]
仕様 A5判上製
頁数 各巻約272~500頁


  


第1回配本 『老子道徳経』

[底本] Lao-tzŭ:The Way and Its Virtue
古勝隆一(中国古典学)訳



テヘラン滞在中、中国古典『老子道徳経』に注釈を施し英訳した遺稿の邦訳。井筒は伝統的な解釈に向き合い原典に忠実に言葉を選びながら、語り手の老子を、永遠なる「道」と一体化した一個の人格「私」として捉え、そこに流れる一貫した強力な思想を読みとる。井筒独自の解釈をもとに、これまでにない『老子道徳経』を読むことができる一冊。老子論としても秀逸な序文つき。

●256頁 本体3,800円

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第2回配本 『クルアーンにおける神と人間――クルアーンの世界観の意味論』

[底本] God and Man in the Koran: Semantics of the Koranic Weltanschauung
鎌田 繁(イスラーム神秘思想・シーア研究)監訳
仁子寿晴(イスラーム哲学・中国イスラーム思想)訳



日本人として初めてクルアーンを原典アラビア語から翻訳した井筒のクルアーン論。その聖典の中に示される「世界観」や、「創造主たる神」と「被造物たる人間」の関係を中心に、意味論的方法を用いて分析する。井筒が愛した無道時代の詩も満載された、イスラーム文化やクルアーンを理解するための最良の手引きとなる世界的名著。



●400頁 本体5,800円

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第3回配本 『存在の概念と実在性』

[底本] The Concept and Reality of Existence
鎌田 繁(イスラーム神秘思想・シーア研究)監訳
仁子寿晴(イスラーム哲学・中国イスラーム思想)訳



1971年、マギル大学時代に発表したイスラーム哲学に関する講演論文集。イスラーム形而上学的思惟の構造、東西の実存主義、存在一性論、さらにイラン哲学最大の思想家サブザワーリーの思想構造を、文献学的精密さと比較哲学的な方法論によって明快に分析する名論文四本を収録。井筒イスラーム論の真骨頂とも称される一冊。



●272頁 本体3,800円

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第4回配本 『イスラーム神学における信の構造――イーマーンとイスラームの意味論的分析』

[底本] The Concept of Belief in Islamic Theology:A Semantic Analysis of Iman and Islam
鎌田 繁(イスラーム神秘思想・シーア研究)監訳
仁子寿晴(イスラーム哲学・中国イスラーム思想)訳
橋爪 烈(カリフ制度史・イスラーム政治思想史研究)訳



初期イスラームの数世紀という思想史を考える上で最も興味深い時代に照明を当て、イスラームにとって最重要の概念「信仰」がいかに生まれ、発展し、理論的に完成していくのか歴史学的、文献学的に分析する。イスラーム神学とイスラームの基礎を知るために最適な一冊。



●440頁 本体5,800円

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第5回配本 『言語と呪術』

[底本] Language and Magic: Studies in the Magical Function of Speech
安藤礼二(文芸評論)訳
小野純一(イスラーム思想・哲学)



1956年に出版された英文処女著作。1949年から数年にわたり行われた伝説的な講義「言語学概論」唯一の成果であり、海外でも高い評価を得た。古今東西の古典に現れる言語の「呪術的」な機能を描き出し、それが今なお我々の中に息づくことを明らかにする。井筒言語哲学の出発点であり、後年の東洋哲学の構想へ向けて方法論的基盤となった名著。



●272頁 本体3,200円

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第6回配本 『東洋哲学の構造――エラノス会議講演集』

[底本] The Structure of Oriental Philosophy:Collected Papers of the Eranos Conference
澤井義次(宗教学・インド哲学)監訳
金子奈央(宗教学・東アジア仏教)訳
古勝隆一(中国古典学)訳
西村 玲(日本思想史・東アジア仏教思想)訳



思索の「中期」にあたる1967年から82年、井筒は日本と中国を中心とする東アジアの思想―禅、仏教、儒教、老荘思想など―を主題にエラノス会議で講演した。入念に準備された12回分の講演論文には、「東洋哲学」への一貫した思索が深まり、主著『意識と本質』へ成熟していく姿が見出せる。井筒読者必読の書。



●552頁 本体6,800円

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第7回配本 『スーフィズムと老荘思想 上――比較哲学試論』

[底本] Sufism and Taoism: A Comparative Study of Key Philosophical Concepts
仁子寿晴(イスラーム哲学・中国イスラーム思想)訳



『老子道徳経』を英訳し、意味論的方法を援用して大きな成果をあげたイスラーム三部作の発表後、井筒は、中国哲学最高峰の老荘とイスラーム神秘主義者イブン・アラビーの思想の底流に、共通した基本構造を見出し比較する、という壮大な試みに取り組んだ。長年の思索を新たな次元へと押し上げた井筒思想の堂々たる集大成。



●416頁 本体5,400円

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第7回配本 『スーフィズムと老荘思想 下――比較哲学試論』

[底本] Sufism and Taoism: A Comparative Study of Key Philosophical Concepts
仁子寿晴(イスラーム哲学・中国イスラーム思想)訳



『老子道徳経』を英訳し、意味論的方法を援用して大きな成果をあげたイスラーム三部作の発表後、井筒は、中国哲学最高峰の老荘とイスラーム神秘主義者イブン・アラビーの思想の底流に、共通した基本構造を見出し比較する、という壮大な試みに取り組んだ。長年の思索を新たな次元へと押し上げた井筒思想の堂々たる集大成。



●368頁 本体5,400円

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井筒俊彦の生涯

 1914年5月4日、東京市四谷区に生まれる。
慶應義塾大学で西脇順三郎に師事し、言語学者として出発。ギリシア神秘思想史、ロシア文学などを講義するかたわら、1941年『アラビア思想史』、49年『神秘哲学』、50 年『アラビア語入門』、51年『露西亜文学』など初期代表著作を刊行。
 1949年から開始された連続講義「言語学概論」をもとに56年Language and Magic(『言語と呪術』)を発表。同書によりローマン・ヤコブソンの推薦を得てロックフェラー財団フェローとして59 年から中近東・欧米での研究生活に入る。59 年The Structure of the Ethical Terms in the Koran(『意味の構造』として『井筒俊彦全集』第11巻に収録)を刊行。
 1960年代からマギル大学やイラン王立哲学アカデミーを中心に研究や講演、執筆活動に従事、64年God and Man in the Koran(『クルアーンにおける神と人間』)、65年 The Concept of Belief in Islamic Theology(『イスラーム神学における信の構造』)、66年-67年 A Comparative Study of the Key Philosophical Concepts in Sufism and Taoism(『スーフィズムと老荘思想』上下巻。83年に改訂版)、71年 The Concept and Reality of Existence(『存在の概念と実在』)など英文著作を精力的に発表する。
 1967年から82年までほぼ毎年エラノス会議で、老荘思想や禅、儒教など東洋哲学についての講演を行ない、計12回の講演は歿後 The Structure of Oriental Philosophy: Collected Papers of the Eranos Conference (『エラノス講演―東洋哲学講演集』)としてまとめられた。
 また、テヘランでは『老子道徳経』を中国語から英語に翻訳し刊行する予定だったが、1979年2月イラン革命激化のため日本に帰国。歿後Lao-tzǔ: The Way and Its Virtue として刊行された。
 帰国後は、長年の海外での研究成果による独自の哲学を日本語で著述することを決意、83年『意識と本質』、85年『意味の深みへ』、89年『コスモスとアンチコスモス』、91年『超越のことば』、93年絶筆となった『意識の形而上学』などの代表著作を発表した。
 1982年日本学士院会員、毎日出版文化賞、83年朝日賞受賞。93年鎌倉の自宅で死去。



●「井筒俊彦」に関する情報や、「井筒俊彦入門」はこちら
 当コーナーは、哲学者、言語学者、イスラーム学者として知られる「井筒俊彦」の入門ページです。
 若松英輔氏による多角的な視点から井筒俊彦に関するエッセイをお届けします。


井筒俊彦『神秘哲学』を読む #4

井筒俊彦『神秘哲学』を読む #4

井筒俊彦『神秘哲学』を読む #4
mk_sekibang 土曜日, 1月 15, 2011 , 連載記事0 件のコメント


神秘哲学―ギリシアの部
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 年が明けてからというもの連日残業が続き、大好きな勉強時間もなかなか取れない日々を過ごしており、いまにも地獄のミサワ的に「つれーわー」などとぼやきたくなるのですが、本日は第二章『プラトンの神秘哲学』に入っていきましょう(ディスプレイの前で読者の皆様が『おつとめごくろうさまです』と念じながらこれを読まれることで、TCP/IP通信とは別な精神的通信網によって私のもとにねぎらいの言葉が届く仕組みになっていたら、少し救われる気持ちになるのになぁ……!)。

 「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」というホワイトヘッドの言葉から察せられるとおり、プラトンという思想家の存在が、西洋哲学史の巨大なマイルストーンとなっていることはいうまでもありません。プラトンに重きを置くのは井筒の神秘哲学史においても同様であり、井筒はプラトンを西欧神秘主義の第一回の頂点とみなします。しかし、井筒が描くプラトンはしばしば言われる、イデア論のプラトンではありません。井筒はイデア論を「神秘主義的絶対体験のロゴス面」(神秘を言語化したもの)と位置づけ、また「形而上学説の各段階は深い超越体験のパトス的基体に裏付けられている」と言います(P.39)。このロゴスとパトスの合一を捉えなければ真にプラトンは理解できない、というのが井筒の見立てです。

 ともあれ、プラトンのイデア論がどういったものなのか、について井筒はみていきます。ただ、すんなりと「イデア論とはこういうものである」などと叙述されるのではありません。ここで最初に井筒が持ち出してくるのは、唯名論的な認識の世界についてです。

我々は具体的個人として目前に存在するこの人、或いはかの人を見ることはできぬが、この人にもかの人にもあらざる人間それ自体というが如き普遍者を見ることはできぬ。この馬あるいはかの馬に触れることはできるが、馬そのものには触れることができぬ。すなわち人間自体、馬自体等の一般者は、我々が具体的なる個々の人あるいは個々の馬を見て其等全てに通ずる共通要素を抽象し、頭の中で組立てた理性の産物であって、人間理性を離れた超越界に存在するものではないのである。(P.40)

 常人の感覚からすれば、プラトンがイデアと呼ぶものも唯名論で存在を否定された一般者・普遍者のように思われるだろう。なぜなら一般者・普遍者を捉えようとすると、個別的世界を認識に慣れた常人の目には、それらがとても抽象的に思われるからだ。これは、個物的なものを概念で捉え、その概念を大きくしていけばよくわかるかもしれません。私は人間だ → 人間は哺乳類である → 哺乳類は生物である……みたいな感じで。概念に含まれる範囲が広くなればなるほど、抽象的になっていく。しかし、井筒はこうした認識を「対象が抽象的なのではなくして、それを見る目が抽象的なのである」(P.41)と言います。そして、こうした一般者・普遍者を鮮明に捉えようとするならば、「対象の普遍性の度合に応じたレンズを用いなければならぬ」と。その「レンズ」を井筒は「存在的見地」というのですが、この立場からすれば、普遍的なものは抽象的なものとしてではなく具体的なものとなっていく、のだそうです。

 しかし、あくまでこの存在的見地と一般的な認識力とは相反するものであります。というか、その存在的見地の具体性は、常人にはほとんど想像がつかない(私にもよくわかりません)。その想像のつかなさを井筒はこんな風に表現します。「一葉一石はおろか塵埃の末に至るまで悉(ことごと)く異常なる鮮明度を以て映し出す彼の両眼も、ひとたび遥かなる地平の彼方に向って注がるる時は、全ては濛々たる雲にかすんで徒らに虚空の無を見るのみであろう」(P.42)。うーん、なんともポエジー溢れる感じですが、第一章で何度も見てきた「一者」・「存在」・「神」というものが、常人にはこうした「虚空の無」になってしまうということですね。存在的には有であり、有の究極的根源が、虚空の無となるこの矛盾。これをギリシャの思想家たちは解決しようと頑張ってきたわけです。プラトンもまた同様。彼が「善のイデア」「イデアのイデア」と呼んだものは、有の究極的根源として理解できますし、プラトンの思想もまた神秘道、なのです。そしてプラトンが偉大だったのは、こうした有の究極的根源を認識するための手段を最初にして最大に組織化・体系化したことでした。

 プラトンによって組織化された神秘道は、もう一点、先達とは異なる特徴を持っている、と井筒は強調します。それまでの神秘道は、「一者(存在・神)」を認識するための「向上道(アナバシス)」を説いたものでした。しかし、プラトンはそこでは終わらなかったのです。アナバシスの果てに超越を得るのが、彼にとっては途の半分。そこで道人は反転して「向下道(カタバシス)」を辿り、万人のために奉仕することで完結する、というのがプラトン神秘道の全貌なのです。プラトンがカタバシスを重要視したことは有名な『国家』に現れている、と井筒は指摘していますが、この記述を読んでいて私が真っ先に思い出したのは、ルドルフ・シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』でした。


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 この著作においてシュタイナーは超感覚的世界の認識を得る方法をHowTo本的にまとめていますが、超感覚的世界の認識を得た者に対してシュタイナーは、超感覚的世界にとどまるのではなく感覚的世界に立ち戻り、感覚的世界のいまだ目覚めざる人びとを目覚めさせるための手伝いをしなければならない、と課題を出すのです*1。こうしたシュタイナーの神秘主義に、カタバシスとアナバシス的な姿を認めるのは用意でしょう。シュタイナーの神秘主義に触れたとき、私はカルトの原型を見たような気になったのですが、ここでその原型のさらなる原型を見た気分になりました。冒頭のホワイトヘッドの言葉に戻るわけではないのですが……と話がわき道にそれたところで今回はおしまいです。本日は第二章の第一節を見ることができました。次回は第二節に入っていきます。第二節ではまず『国家』に登場する有名な「洞窟の比喩」について触れられます。それでは。


「井筒俊彦―叡知の哲学」書評 思想界の巨人、「神」への対話|好書好日

「井筒俊彦―叡知の哲学」書評 思想界の巨人、「神」への対話|好書好日

「井筒俊彦―叡知の哲学」書評 思想界の巨人、「神」への対話
評者: 中島岳志 / 朝⽇新聞掲載:2011年06月19日

井筒俊彦 叡知の哲学著者:若松 英輔出版社:慶應義塾大学出版会ジャンル:哲学・思想・宗教・心理


ISBN: 9784766418118
発売⽇:
サイズ: 20cm/453,15p

少年期の禅的修道を原点に、「東洋哲学」に新たな地平を拓いた井筒俊彦。イスラームとの邂逅、カトリシズム、「意識と本質」など、哲学者・井筒俊彦の境涯と思想潮流を、同時代人と交…
井筒俊彦―叡知の哲学 [著]若松英輔

井筒俊彦は世界的イスラーム学者として知られる。しかし、彼の射程は驚くほど広い。ギリシャ哲学、言語学、ロシア文学、神秘哲学、ユング心理学、老荘思想、仏教、インド哲学……。彼は30を超える言語を理解し、気になる本はすべて原書で読んだという。司馬遼太郎は、彼のことを「20人ぐらいの天才らが1人になっている」と評した。
 そんな思想界の巨人のことを、我々は思いのほか知らない。その壮大な思考の軌跡に、我々がまだ追いついていないのだ。本書は井筒の思想に挑み、その可能性を開闢(かいびゃく)する。
 一般に、井筒は孤立した思想家というイメージをもたれている。しかし、著者が徹底して描く井筒は、対話の人としての姿である。
 井筒の対話は、時間と空間を超えていた。そして、その出会いは、常に「事件」だった。なぜなら、それは思想が生成する瞬間だったからだ。
 大川周明、西田幾多郎、柳宗悦、吉満義彦、ジャック・デリダ、イブラヒム……。井筒は多くの人と出会った。時に実際に、時に書籍を通じて。その出会いは「コトバ」を通じて超越者へと接続した。彼の問いは常に「神」へとつながり、「コトバ」へと帰着した。著者曰(いわ)く、「『存在はコトバである』、この一節に井筒俊彦の哲学は収斂(しゅうれん)される」。
 井筒にとっての哲学とは、打ち消すことのできない「神」の体験に依拠していた。そして、その体験を実証する道こそ、彼の哲学そのものだった。
 井筒は、独創的な思想家が生まれる背後に「創造的『誤読』」の存在を見た。思想家の「読み」は時に強引で、不正確だ。しかし、その偶然的誤読こそが、意味の深みへと我々を導く。井筒は確信的に誤読を繰り返し、そこからオリジナルの哲学をつくりあげた。
 我々も「誤読」を恐れず、井筒と対峙(たいじ)すべき時を迎えているのではないか。本書は井筒再評価を促す快著である。
     ◇
 慶応義塾大学出版会・3570円/わかまつ・えいすけ 68年生まれ。批評家。井筒のエッセー集『読むと書く』編集。


中島岳志(ナカジマタケシ)東工大リベラルアーツ研究教育院教授=南アジア地域研究・政治思想史

1975年生まれ。著書に「中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義」「ヒンドゥー・ナショナリズム―印パ緊張の背景」「パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義」など。

井筒俊彦 叡知の哲学著者:若松 英輔出版社:慶應義塾大学出版会

이즈쓰 토시히코와 신비주의 - 공空이라는 체험

신비주의와 이즈쓰토시히코 - 안쪽의 길을 찾아

안쪽의 길을 찾아
부처를 찾는 여행


신비주의와 이즈쓰 토시히코
2020/10/25 




내가 자유롭게 사용할 수 있는 말은 일본어밖에 없다. 하지만 세계에는 말의 천재라고 불리는 사람들이 많다. 그 한 사람이 '꾸란'을 일본어로 번역한 이즈쓰 토시히코라는 사람이다. 세계적으로 유명한 철학자이자 종교학자이기도 하다. 30개국어를 자유롭게 사용할 수 있었던 것 같다. 아주 믿을 수 없는 이야기다.

소문에서는 각국의 대사관원을 집에 불러 가르쳐 주었는데, 라고 하는 사람도 있지만, 본인은 사람에게 의지해 말을 배운 적은 없다고 말하고 있으므로, 아마 직접 가르쳐 주었을 것 타노는 학생 시절과 아랍어 선생님의 몇 명 정도이고 나머지는 독학일 것이다. 그 저서의 대부분을 영어로 썼기 때문에, 당초는 일본보다 서양에서의 평가가 높았다. 이 점은 스즈키 오오츠키와 비슷하다.

저는 물론 그런 천재가 아니고, 게다가 게으르니까, 모처럼 인도에 있다는데 언제까지나 영어 일상회화조차 만족스럽게 말할 수 없지만.

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그런데, 이즈쓰 토시히코가 쓴 많은 책은 전세계 종교의 신비주의를 주제로 하고 있다. 신비주의는 많은 종교에 있으며 이슬람교에서는 주류는 아니지만 수피즘이라는 종파가 그렇다. 인도의 바라몬교에는 그것과는 달리 주류의 하나인 가이일여를 주창한 베단타 학파가 있고, 중국에도 도교라는 이것도 주류의 노장 사상이 있다. 기독교에서는 이 사상은 하나님의 절대성을 침해하는 것으로서 이단 취급되는 것 같지만, 전통적 신학에서도 사람인 그리스도와 하나님은 일체라고 인정하기 때문에, 역시 그것을 안에 포함하고 있는 것은 아니다 있을까.

그럼 불교는 어떨까. 불교는 신비주의?

일반적으로는 밀교가 불교에 있어서의 신비주의라고 말해지겠지만, 이 문제를 논하기 전에 우선 신비주의라는 사상을 명확하게 정의해 두어야 한다. 
광사원에 의하면, “신·절대자·존재 그 자체 등 궁극의 실재에 어떠한 방식으로 귀일융합할 수 있다는 철학·종교상의 입장”이라고 정의되고 있다. 

불교는 일반적으로 그러한 "궁극의 실재"를 인정하지 않기 때문에, 이 정의로부터 하면 불교는 신비주의가 아니라고 말할 것이다. 하지만 과연 그럴까. 나는 그렇게 생각하지 않는다. 
대승불교의 기둥 중 하나인 <공>이라는 체험〈空〉という体験은 신비주의라고 나는 생각하고 있다. 
왜냐하면 은 일상의 현실을 변용시키는 체험이기 때문이다.

 Kojien 사전의 정의의 실수는, 신비주의의 본질을
  • 궁극의 실재에 귀일융합한다」라고 파악한 점에 있다. 
  • 그것은 "궁극의 체험에 귀일융합하는 것"이라고 정의해야 했다.

이즈쓰 토시히코는 이와나미 신서의 '이슬람 철학의 원상'이라는 책 속에서 
신비주의를 엄밀히 정의하는 것은 불가능하다고 말하고 있지만, 
통속적인 심령 현상이나 오컬티즘과 구별하기 위해 10 페이지 정도를 나누어 수피즘의 측에서 그것에 대해 면밀히 말하고 있다. 그것을 조금 난폭하게 나 나름대로 요약하면,

1. 소위 현실 또는 현실은 다층 구조를 가지고 있습니다. 존재세계가 다층적이라는 것은 우리 평소의 경험세계는 현실의 표층밖에 지나지 않기 때문에 그 안에 다른 현실이 숨어 있다는 것이다. 그리고 그것을 포착하는 의식도 다층적이며, 현실과 의식의 층은 일대일에 대응하고 있다. 하지만 현실과 의식은 별개의 것이 아니다.

2. 그리고 의식과 현실이 다른 것이 아니라 일대일 대응 관계를 가진 하나의 다층/복합적 구조체라면, 우선 의식이 깊은 층을 열지 않으면 현실의 깊은 층도 나타나지 않는다. 하지만 일상의 의식은 계속 변화하는 일상의 표층적 현실을 쫓는 만큼 바쁘다.

3. 그러므로 그를 위해서는 조직적 방법적인 특별한 수행에 의해 의식의 방식을 바꿔야 한다. 선종의 좌선, 힌두교의 요가, 송대 유자의 조용한 좌, '장자'의 좌망 등, 이들은 모두 세부 사항에서 다르나 그 본질은 모두 의식의 심층을 여는 방법이다. 이러한 방법론을 가지고 있는 종교/철학적 입장을 <신비주의>라고 부른다.


그리고 나는 해석한다. 그렇다면, 대승불교의 근본인 <공>도 大乗仏教の根本である〈空〉も보다 깊은 체험으로서의 의식의 변경이기 때문에, 불교의 본질도 이즈쓰토시히코가 말하는 의미에서의 신비주의의 하나인 것은 분명할 것이다.

하지만 대승불교에서는 일반적으로 공이라는 체험 空という体験을 체계화해 말하지는 않는다. 특히 선종에서는 “공은 언어화할 수 없기 때문에 그것을 직접 체험할 수 밖에 방법은 없다”고 한다. 원래 용수도 <공>이라는 개념을 일정한 범주를 가진 <진리>로 적극적으로 주장한 것은 아니고, 절대적 진리가 실재한다고 주장하는 타학파를 논박하기 위한 방법론으로 사용하고, 그 과정에서 임시 소메의 존재를 의미로서 고정화해 버리는 말도 부정했기 때문에, 그 해석도 말할 수 없는 것은 아니다. 하지만 선종이 주장하는 그 사고방식으로는, 하늘과 인기는 어디까지나 다른 것이 되어 버려 정말로 하나의 것이 될 수 없다, 라고 생각하고 있다. 용수가 『중론』을 말로 쓴 것처럼, 나도 하<공>을 언어화해 보고 싶다.私も空を言語化してみたい。

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では仏教はどうだろう。仏教は神秘主義か。

一般的には、密教が仏教における神秘主義だと言われるだろうけど、この問題を論じる前にまず神秘主義という思想を明確に定義しておかなくてはいけない。広辞苑によれば、「神・絶対者・存在そのものなど究極の実在になんらかの仕方で帰一融合できるという哲学・宗教上の立場」と定義されている。仏教は一般にそのような「究極の実在」を認めないので、この定義からすれば仏教は神秘主義ではないと言われるだろう。でもはたしてそうだろうか。私はそうは思わない。大乗仏教の柱の一つである〈空〉という体験は神秘主義だと私は考えている。なぜなら、空は日常の現実を変容させる体験であるからだ。広辞苑の定義の間違いは、神秘主義の本質を「究極の実在に帰一融合する」と捉えた点にある。それは「究極の体験に帰一融合すること」と定義しなければいけなかった。

井筒俊彦は岩波新書の『イスラーム哲学の原像』という本の中で、神秘主義を厳密に定義することは不可能だと言っているけど、通俗的な心霊現象やオカルティズムと区別するために10ページくらいを割いてスーフィズムの側からそれについて綿密に述べている。それを少し乱暴に私なりに要約すると、



1.いわゆる現実、あるいはリアリティは多層的構造を持っている。存在世界が多層的であるということは、私たちの普段の経験世界は現実の表層にしか過ぎないのであって、その奥に別の現実が潜んでいる、ということだ。そしてそれを捉える意識もまた多層的であり、現実と意識の層は1対1に対応している。とは言え、現実と意識は別なものではない。

2.そして意識と現実とが別のものではなく、1対1の対応関係を持つ1つの多層/複合的構造体であるなら、まず意識の深い層を開かなければ現実の深い層も現れない。でも日常の意識は変化し続ける日常の表層的現実を追いかけるだけに忙しい。

3.なのでそのためには、組織的方法的な特別な修行によって意識のあり方を変えなくてはいけない。禅宗の座禅、ヒンドゥー教のヨーガ、宋代儒者の静坐、『荘子』の坐忘など、これらは皆細部において違っているだけで、その本質はすべて意識の深層を開くための方法である。そしてこのような方法論を持っている宗教/哲学的立場を〈神秘主義〉と呼ぶ。



と私は解釈する。そうであるなら、大乗仏教の根本である〈空〉もまた、より深い体験としての意識の改変のことなのだから、仏教の本質も井筒俊彦の言う意味での神秘主義の一つであることは明らかだろう。

でも大乗仏教では一般的に、空という体験を体系化して述べることはしない。特に禅宗では「空は言語化できないのでそれを直接体験するしか方法はない」としている。もともと、龍樹も空という概念を一定のカテゴリーを持った〈真理〉として積極的に主張したわけではなく、絶対的真理が実在すると主張する他学派を論駁するための方法論として使い、その過程で仮そめの存在を意味として固定化してしまう言葉も否定したので、その解釈もいわれのないものではない。でも禅宗が主張するその考え方では私は、空と縁起はあくまでも違ったものになってしまいほんとうに一つのものにすることはできない、だろうと思っている。龍樹が『中論』を言葉で書いたように、私も空を言語化してみたい。

[[ '신비철학' 井筒俊彦 이즈쓰 토시히코

1773 밤 
'신비철학'이즈쓰 토시히코


이즈쓰 

인문학 아카데미 1978

편집 : 타니 세이이치 협력 : 사토 슈 · 마츠모토 마사오
장갑 : 마츠미 리로
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 기쁨과 슬픔은 되돌아온다. 때로는 갑자기 고통이 온다. 저것은 왜? 마음이나 영혼이 얕고 있다고 밖에 생각되지 않는다. 왜 얕은가? 희로애락이라고 하지만, 키도도 아이라크도 작은 가시를 전사의 창처럼 휘둘러 오기 때문에, 처치가 없다. 외인과 내인이 어디서 어떻게 연결되었는지, 아무래도 설명하기 어렵다.
 이것은 고금 동서의 철인이나 시인을 휘두르는 큰 문제였다. 키드 아이라크에 애증을 더해 육정, 원한을 더해 칠정, 다윈은 더욱 경멸·혐오·공포·경탄을 계상했다. 감정과 의식의 얽힌 아이는 이렇게도 귀찮은 큰 문제였음에도 불구하고, 이렇게 풀어내지 않는다. 만일 마음이나 영혼이 우리가 평소 '의식'이라고 생각하는 무언가로 구성되어 있다고 해도, 그 의식의 정체나 작용은 유감스럽지만 아직 알 수 없다.

 심리학이나 뇌과학과 인지과학은 이를 해명하기 위해 일어나고 있지만, 몇 가지 유력한 가설을 제공하면서도 결정타가 결여된 채로 있다.
 그렇다면 철학은 어떨까. 철학이야말로 의식의 본질의 해명을 목표로 만들어졌을 텐데, 도중에 여러 번 망설인 상처나 과오의 ”수리”에 논의의 힘을 많이 빼앗기고 있어 아직도 개선이 올라가고 있다 아니. 철학하는 행위 그 자체가 「의식의 언어화의 프로세스」에 확실히 기초하고 있기 때문에, 자가 약제의 문제인 것이 오히려 자기 착착을 굳게 하기도 되어 왔다. 그래서 철학에는 변명이 두드러진다.

그렇다면 종교는? 신앙이야말로 애처와 괴로움으로부터의 해방을 목표로 한 것이기 때문에, 유력한 해답을 가지고 있을 것 같다. 코퍼스도 많이 아카이브되어 왔다. 기도와 명상은 의식의 과정에 어떠한 궁극적인 양상을 가져온 것일까, 그 체험이나 수행 등 다양한 종교 행위의 성과를, 철학이나 인지 과학은 최대의 친구로 할 수 없는 것일까 . 확실히 할 수 있다. 물론, 그렇게 생각되어 왔다. 그래서 오리게네스(345 밤), 임제의현(550 밤), 스피노자(842 밤), 쇼벤하웰(1164 밤), 윌리엄 제임스, 니시다 기타로(1089 밤), 버크슨(1212 밤), 칼 발트 등 많은 종교자와 철학자들이 그 일에 대한 사색을 되돌아왔다. 하지만 뭔가가 없어졌습니다. 

이런 가운데 이상과 같은 큰 문제가 정리되지 않았던 이유를 이즈쓰 토시히코는 연구자나 지식인'신비'를 향해 오지 않았기 때문이 아닐까, 계속 생각해 왔다. 

바닥의 ​​모르는 늪처럼 인간의 의식은 소름 끼치는 것이다. 그것은 기괴한 것들의 서식하는 세계. 그 깊이에, 도대체, 어떤 것이 숨어 숨어 있는지, 사실은 아무도 모른다. 거기에서 어떤 것이 나타나는지 누구에게도 예상할 수 없다.         「의식과 본질」보다

 それなら宗教は? 信仰こそは哀しみや苦しさからの解放をめざしたのだろうから、有力な解答をもっていそうである。コーパスもたくさんアーカイブされてきた。祈りや瞑想は意識のプロセスに何らかの究極的な様相をもたらしてきたのではあるまいか、その体験や修行などのさまざまな宗教行為の成果を、哲学や認知科学は最大の友人にできないのだろうか。きっとできるにちがいない。むろん、そう思われてきた。
 だからオリゲネス(345夜)、臨済義玄(550夜)、スピノザ(842夜)、ショーベンハウエル(1164夜)、ウィリアム・ジェームズ、西田幾多郎(1089夜)、ベルクソン(1212夜)、カール・バルトなど、多くの宗教者や哲学者たちがそのことについての思索をくりかえしてきた。しかし、何かが欠けてきた。
 そうしたなか、以上のような大問題が片付いてこなかった理由を、井筒俊彦は研究者や知識人が「神秘」に向き合ってこなかったからではないかと、ずっと思ってきた。
 底の知れない沼のように、人間の意識は不気味なものだ。それは奇怪なものたちの棲息する世界。その深みに、一体、どんなものがひそみ隠れているのか、本当は誰も知らない。そこからどんなものが立ち現れてくるか、誰にも予想できない。          
『意識と本質』より



東西の叡智を操る異才

井筒俊彦が晩年を過ごした北鎌倉の自邸書斎。30以上の言語を使いこなせるため、あらゆる言語の文献が本棚に並んでいる。
「井筒俊彦全集」特設サイト(慶應義塾出版)より

 이즈쓰의 유저는 '의식의 형이상학: '대승기신론'의 철학'(중공문고)이다. 77세 때 '중앙공론'에 연재를 비롯해 세 번째로 절필해졌다. 그러므로 책이 된 것은 사후의 일이었다. 만년의 이즈쓰가 여래장을 설한 대승기신론에 도달한 것은 매우 상징적이고, 옳은 일이었다고 생각된다. "좋은 일"이란 무엇인가.

 여래장은 불교가 오랫동안 추적하고 있던 신앙의식의 궁극의 본질을, 동양사상이 어떻게 간주하고 있었는가 하는 근본적인 견해의 하나를 나타내고 있었다. 인도 유래에서 실크로드를 통해 중국에서의 교상 판석을 하고, 드디어 화엄처럼 오로지 아시아적으로 양성된 사고방식이다. 이즈쓰 카즈히코는 “중생의 마음이 그대로 대승이다” “거기에는 아라야식으로서의 본각이 움직이고 있다”고 썼다.

 여래장(tathagata-garbha)이라는 산스크리트의 원어는, 그대로 번역하면 「여래는 태아로서 묵고 있다」라는 의미가 된다. 모든 중생은 여래를 태아로 자고 있다는 것을 보여준 사상이다. 본각은 본래의 각성(카쿠쇼)의 것으로, 『대승기신론』에서는 우리에게 처음부터 연결되어 있다고 생각된다. 나중에 일본에 와서 천대본각사상이 되었다.
 아라야식(아요야식) 쪽은, 대승불교가 「행」을 통해서 도달한 최심의 의식 상태를 말한다. 이즈쓰는 아라야식이라고 썼다. 안식·이식·비식·혀식·신식·의식·마나식(말나식)의 한층 더 안쪽에 숨어있는 제8번째의 심층 의식이 아라야식이지만, 의식 상태를 벗은 것이라고도 되고 있다.

 태아에게 여래가 싹트고 있다는 것은 아니다. 대승기신을 살짝 가면 아라야식이 일어나 여래의 경애가 마치 태아 무렵부터 거기에 머물고 있던 것처럼 실감할 수 있다고 설고 있다. 그것은 「본각의 드러나기」라고 하는 것이라고 설고 있다.
 이즈쓰 카즈히코는 왜 대승기신이 아라야식이나 본각에 이르는지 그 생각을 하려고 했다. 거기에 여래장의 극치, 대승신비주의의 극치가 출입하고 있는 것처럼 보였을 것이다. 이것은 '정말의 일'이었을 것이다.

 그러나 이즈쓰는 만년이 되어 처음으로 대승기신론의 본각에 다가온 것이 아니다. 이것은 어린 시절부터 쭉 변함없이 「의식의 제로 포인트」혹은 「존재의 제로 포인트」로서 탐구하고 싶었던 것이었다.

 모든 현상의 제로 포인트로서의 "진여"는 문장 글자 그대로, 표면적으로는, 단 하나의 그림자조차 없는 존재의 "무"의 극처이지만, 그것은 또한 반면, 모든 것 비현실적, 불가시의 본체이며, 일체 만물을 포장하고, 그 자체에 내재하는 근원적·전일적 의미에 의해 모든 존재자를 드러낼 잠재력을 가지고 있습니다.
한다. 이 의미에서 그것은 존재와 의식의 제로 포인트 동시에, 존재 분절과 의식의 현상 자기현현의 원점, 즉 세계현출의 궁극의 원점이기도 하다
이다.                     
"의식의 형이상학"에서



『의식의 형이상학』(중공문고)


의식의 구조 모델

A는 표층 의식을, 그 아래는 모두 심층 의식을 나타낸다. 최하의 한점은 의식의 제로 포인트. 그 다음 C는 무의식의 영역. 전반적으로 무의식적이지만 B 영역에 접근함에 따라 의식화에 대한 태동이 점차 나타납니다. M은 「상상적」이마주의 장소. B영역에서 성립한 「원형」은, 이 M영역에서, 다양한 이마주로서 생기고, 거기서 독특한 기능을 발휘한다.


전일적 「진여」의 개략도

A공간은 절언 절상의 비현상에서의 「진여」, B공간은 현상적 존재계에 전개된 차원에서의 「진여」. A는, 원래 코토바가 되지 않는 것은 물론, 마음에 생각 그릴 수 없는 「진여」의 형이상적 극한을, 무리하게 공간적 표상으로 나타난 것이며, B는, 언어와 의식이, 「아라야 「식」을 토포스로서 연계함으로써 생기는 유전생멸의 사물이 구성하는 형이하적 세계를 표시한다.

 다시 이즈쓰 카즈히코의 사색의 계보를 되돌아 보면, 초기의 '신비 철학'에 모든 목적이 예고되고 있었을 것이라고 생각된다. 이 저작의 원형은 1949년의 「신비철학-그리스의 부」(철학수도원)이다. 

이 책에는 이통 철학의 거대한 발현 장치가 헤르메스 지나 그노시스 지와 같이 담겨 있었다.
 이즈쓰 카즈히코는 그리스 철학을 처음부터 아라야식이나 본각처럼 읽고 싶었던 것이 아닌가, 그것을 뭔가를 교란시키거나 숨기거나 하는 신비 사상의 특질의 드러난 것으로 간주하고 있었던 것이 아닌가 , 이렇게 생각하게 한다.
 일본의 논단에서는, 이즈쓰 카즈히코는 이슬람 철학의 연구자, 혹은 「의식과 본질: 정신적 동양을 요구해」(이와나미 문고 외) 등으로 대표되는, 뛰어난 동양 철학의 연구자로서 알려져 왔다 . 나도 처음으로 읽은 이통 책은 '이슬람 탄생'(인문서원→중공 문고)과 '이슬람 철학의 원상'(이와나미 신서)이며, '의식과 본질'과 '의미의 깊이에: 동양 철학의 수위」(이와나미 문고)였다.
 그러나 이통은 이슬람 연구에 착수하기 오래전의 전전에 도전한 그리스 철학의 해석에서 이미 그 후의 탐구의 원점을 명시하고 있었다.
 보통 그리스 철학은 플라톤( 799 밤 )의 아이디어에 기초한 이념철학과 아리스토텔레스( 291 밤 )의 자연학을 밑바닥으로 한 형이상학에서 정점에 이른 것으로 보인다. 하지만 이통은 그 전에 '이념을 해치는 것'이나 '원래 형이상적으로만 꺼낼 수 있는 영혼의 체험'이 그리스 철학의 곳곳에 있었을 것에 생각을 놓고, 이것을 디오니소스 신과 같은 야만적이고 (반리성적이고) 아시아적이며 (비 지중해적 인) 광분을 떠나지 않는 앰비 밸런스 신의 개입과의 관계에서 더 깊게 사색해야한다고 느꼈다.
 또 보통 그리스 철학이 신비주의적인 양상을 모색하는 것은 오르페우스교나 피타고라스주의 등의 특별한 예외를 제외하면 고대 로마기에 들어 프로티노스가 등장해 거기에 새로운 플라톤주의가 퍼진다 에 의해 새롭게 플라토니즘의 발전계에 신비 철학의 징후를 맡는 것인데, 이통은 그렇지 않고, 이미 밀레토스 ​​학파의 대두 속에 자연 신비주의가 흔들리고 움직여, 신비를 부정한 플라톤이나 아리스토텔레스에도 본인 하지만 어떻게 부정하려고 해도, 닦을 수 없는 신비철학의 종자(슈지)가 거래하고 있었다고 봤다.
 이즈쓰 카즈히코는 "철학은 말하자면 진리를 성체로 성립하는 곳의 고차의 밀의종교인 것이다"라고 썼다. 진리가 성체였고, 그 탐구는 밀의(오르기아)에 한이었다는 것이다.
 이것은 당시로서는 꽤 보기 드문 견해이지만, 젊은 『신비철학』은 그 일을 호소하고 싶었다. 그러나 당시 많은 논자들은 원래 그리스 철학을 '신비 철학'이라고 묶는 것 자체가 이상한 견해가 아닐까 생각하고 있었기 때문에, 이러한 우물통의 발상은 심하게 치우치거나 오컬틱한 것으로 달리고 있을 것이라고 보고, 이것을 전혀 평가하지 않았다. 하지만 그 논자들의 쪽이 훨씬 좁은 것이었다.
 그리스 정신이 서정시에서 자연 철학으로 전환하는 중간에 자연신비주의 체험을 두려고 하는 내 입장은 반드시 많은 독자를 만족시키지 않을 것입니다. 그리스아철학의 신비주의적 기원――이런 주제는 어떤 사람  그들을 쓴웃음조차 할 것이다. (중략) 다시 니이최, 로데의 옛날로 돌아가려고 할까. (중략)이지만 그럼에도 불구하고 깊은 확신으로 그리스 철학 성립에 대한 신비주의 체험의 결정적 의의를 다시 다시 고창하려고 하는 것이다.       
『신비철학』 쇼와 22년의 서문부터




은근한 이즈쓰 토시히코 붐

'의식과 본질'은 오랫동안 이와나미 문고의 롱셀러였지만, 최근 이즈쓰 토시히코의 대표작이 잇달아 이와나미 문고에서 복간했다. 「신비 철학」 「의미의 깊이에」 「코스모스와 안티 코스모스」.


소크라테스 이전의 철학에서 흘러나온 신비주의의 복류수

왼쪽: 만물의 근원을 무한한 아페론[apeiron]에게 요구해, 이 신적이고 불멸의 근원으로부터 모든 개념이 대발생해 왔다고 생각한 밀레토스 ​​학파의 아낙시만드로스 .

오른쪽 : 모든 대립을 통합하는 절대자로서 <한자 [to hen]>에서 <지지[nous]>가 유출한다고 생각한 신플라톤주의의 코조 프로티노스.

 당연히 그리스 철학의 흐름은 균일하지 않다. 시기에 따라도 유파에 의해서도 꽤 다채롭다. 개성적이기도 하다. 그러니까 간단하게는 안내할 수 없지만, 굳이 조잡하게 압축해 보면, 우선은 호메로스( 999밤 )가 말한 이야기, 제우스 일족이나 오룽보스의 신들의 혼잡한 질투심한 신화, 소아시아의 강한 여신들을 둘러싼 제압 전승 등 등이 선행적으로 지중해 연안을 교차하면서 나아갔다. 그리스 신화의 신들은 거의 모든 것이 의인화되어 있었다.

 그들이 섞인 인과는 이윽고 고대 그리스 독특한 신인교신적인 세계관과 자연관과 인생관이 되어 그것을 배경으로 이오니아에 탈레스, 아낙시만드로스, 아낙시메네스 등의 자연철학이 태어나 거기에 헤라클레이토스, 아낙사고라스, 알케라오스가 이어져, 그것이 피타고라스 학파와 팔메니데스와 제논 등의 엘레아 학파를 출현시켰다.

 이런 식으로 된 것은 일찍 그리스 알파벳이 확립한 것이 크다. 셈어계의 페니키아 문자에 모음을 더해(페니키아 문자는 22의 자음 문자만), 전 6세기에는 범용성을 발휘했다. 이것으로 생각하고 있는 것과 전해 들은 것을 「시」나 「문」에 옮길 수 있었다. 그리스 철학은 훨씬 표기 언어와 함께 있었던 것이다. 어린 시절부터 어학에 능통하고, 그리스어에도 통효하면서 아츠타 이통은 그리스 철학의 언어 사고의 맥락을 쫓아, 거기에 이중 다중의 「의미의 분절」이 비틀어지고 있는 것에 주목하도록(듯이) 되었다.

 분절 된 것 (예 : 꽃)은 그 자리에서 무분절
귀가하고 또 순간에 무분절의 에너지가 전체를
들고 꽃을 분절 낸다. 이 존재의 차원 전환은 순간적
사건이기 때문에 현실에는 무분절을 분절이 이중
사본에 겹쳐 보인다. 그것이 즉 "꽃의 과시"
라고 하는 것이다.           
"의식과 본질"에서




만신

손에 칸타로스(와인글라스)를 들고, 헤르메스와 대화하는 디오니소스. 트라키아, 마케도니아 지방에서 전래한 집단적 광란의 제의에 의해 숭배되고 있던 풍요신과, 소아시아의 플류기아, 류디아 지방에서 전래한 수목과 과수의 정령 등이 습합해 성립한 거친 신.

 그리스 신화는 고대 그리스인에게 코스모스(우주)라는 틀과 자연의 맹위(아라시와 바다의 힘)의 어느 정도인지를 알렸다. 그 코스모스나 자연력은 어떤 이유로 생긴 것일까.
 탈레스 등의 밀레토스 ​​학파의 자연 철학은 코스모스(질서)를 성립시키고 있는 원리의 의문(우주는 무엇에서 생기는 것인지)에 대답하려고 하는 것이며, 헤라클레이토스 등의 철학은 자연력의 본성을 숙려하려고 한 것이었다. 탈레스는 만물의 근원을 '물'로 간주하고, 헤라클레이토스는 '불'과 '흐름'으로 간주했다.
 거기에 '수'와 '비례'에 주목한 수학적 사고가 더해져 신비적인 조화가 존중되었다. 팔메니데스 등이 모든 추리를 '논리'로 설명할 것을 제안되면, 엠페도클레스가 이상의 가설의 이것을 종합해, 우주의 4원소설을 정리해, 그러한 구성 요소는 결합(비리아)과 분리 (네이코스)를 바꾸는 것이라고 말했지만, 레우키포스나 데모크리토스는 구성 요소는 더 작은 물질로, 더 이상 분할할 수 없는 원자(아톰)에 의해 만들어졌다고 주장했다.

 이러한 견해를 모두 모으면 아무런 일관성도 없다. 그것은 이상한 것이 아닐까 하고, 프로타고라스, 고르기아스, 프로디코스, 히피어스는 이것저것 이리굴을 뒤집어 백가 쟁명을 되풀이했다. 소피스트의 시대이다.

 대략은 이상이 서구 철학사에서 「소크라테스 이전의 철학」이라고 일괄되는 것으로, 시대적으로는 아테네가 페로포네소스 전쟁으로 피폐해, 소피스트 후의 논의만이 교제되는 시대까지의 것이 된다 . 거기서 소크라테스는 소피스트의 「어느쪽도 어느쪽」방식의 논란의 불모를 폭파하는 것이 「지의 사랑」(필로소피)이라고 호소했다. 젊은 플라톤이 이 견해에 영향을 받아 순화시키고, 아리스토텔레스가 체계화에 착수했다. 그러나 '어느쪽도 어느쪽'은 그리스어의 분절 사고에 얽혀 온 것이기도 했다.
 소크라테스 이후, 그리스 철학은 차분히 우주(코스모스), 이념(이데아), 영혼(푸슈케), 운동(듀미나스), 질료(휴레), 형상(에이드스) 등을 정의하면서, 일반적으로는 자연학(피직스) )과 형이상학 (메타 물리학)을 구축합니다. 그러나 이즈쓰는, 거기에 이중 다중의 분절을 잔향시키고 있었을 것이다 「신비 사고」가 너무 빠져 있는 것, 일찌기 그러한 "뜻의 신비"와의 만남에 의해 사색이 비약하거나 심화하고 있었다 무엇보다 더 주목해서는 안 될까 생각했다.

 고대 그리스에서는 플라톤이 코스모스의 로고
근거를 세우고 있었던 같은 아테나이의 도시에서 비극
시인들이 디오니소스적 안티코스모스의 엑스터
틱한 열정과 그 광란을 엄청난 형태로 연극
화했다. 게다가 그리스 비극은 이 안티 코스
모스로서의 혼돈을 외부에서 코스모스를 공격하는 무질서
서, 부조리성이 아니라 코스모스 그 자체,
구조에 내장 된 내발적 자기 파괴의 에너지
기로서 그린 것이었다.          
"코스모스와 안티 코스모스"에서




고대 그리스의 세계 모델

아리스토텔레스의 세계와 우주. 16세기에 그려진 것. 중앙에 '지구(yearth)' 그 표면에 '물(water)' 그 위에 '공기(aer)' '화(fier)' 그리고 달, 수성, 금성, 태양... 위에 '투명한 창포(cristalline firmament)'의 구가 있고, 최상부에 '제일동자(primum mobile)'가 존재하고 있다.

 이즈쓰 카즈히코가 전망한 것은 그리스 철학을 코스모스에 의한 용기성이나 질서성 속에서만 해석하고 싶지 않다는 것이다. 때로 코스모스(질서)를 위협하는 카오스(혼돈)의 동향에 접촉한 의식이 그리스 철학이 오늘에 가져온 원동력이 된 것은 아닐까 보이기 때문이었다.

 각지에서도 아테네에서도 행해진 디오니소스의 제전의 와중에 있어, 고대 그리스의 정신이나 의식은 「프로메테우스」 「안티고네」 「오이디프스 왕」 「미디어」 「바코스의 신녀」라고 하는 바로 영혼이 터질 수 있도록 그리스 비극 (트라고디아)로 결실했다. 거기에서는 나중에 플라톤이나 아리스토텔레스가 중시한 체계적이고 순조로운 코스모스관이 아니라, 거칠고 술 좋아하는 디오니소스(박카스=바코스)에 달려가는 것 같은 일탈이나 폭언이 격렬한 영혼의 慟哭으로 약해지고 있었다 .

 이즈쓰 토시히코는 그것을 「디오니소스적 안티 코스모스」라고 파악해, 그러한 일탈과 광란과 심화가, 실은 그리스 철학의 저변에 소용돌이치는 신비력을 역상시켜 온 것이며, 그것이 후의 프로티노스들의 신비 철학(신플라톤주의)을 마련한 것이 아닐까 생각한 것이었다.
 많은 연구자들은 이러한 관점이 그리스 철학의 중심을 관철하는 것으로 보지 않는다. 그런 대담한 견해를 한 것은 아폴론적 우주관에 대한 디오니소스적 광란을 대비시켜 ​​그리스 비극의 '심층의 굉장함'을 선보인 니체( 1023 밤 )나 엘빈 로데인지, 그렇지 않으면 그노시스, 그리스도 교신비주의, 중세 유대의 카바라 사상, 바로크적인 오컬티스트들뿐이었다. 그러니까 그런 견해를 그리스 철학사의 밑바닥으로 하는 것은 이상하다, 라고 이통의 책을 장사 떠났다.
 그만큼 일반 그리스 철학사로부터 하면 파천황한 견해였던 것이다. 다만 이즈쓰 카즈히코도 자신의 사상이 니체 등에 준하고 있다는 것은 더욱 강조하지 않았다. 그러나, 이즈쓰 카즈히코의 「의식의 제로 포인트」는 분명히 안티 코스모스로부터 조사되고 있었다.

 이즈쓰의 이러한 기획(신념)을 최초로 지적한 것은, 내가 아는 한에서는 나카자와 신이치( 979밤 )였다. 1991년에 「이즈쓰 토시히코 저작집」(중앙 공론사)이 간행되었지만, 그 제1회 배본 「신비 철학」의 끼워넣은 떡에 나카자와는 「창조의 출발점」을 써, 이즈쓰의 의도 를 간결하게 말했다. 나카자와는 이렇게 썼다.

 “그리스 신비 철학은 디오니소스 신의 충격 속에서 발생한 것이다. 을 근저로부터 흔들었다” “그리스에 있어서의 신비철학의 기원은, 동시에 서구형이상학의 기원의 장소이기도 하다.처음에 그것에 깨달은 것은 니체이지만, 이즈쓰 카즈히코는 이 책에서, 완전히 다른 방법으로, 그 조건을 들여다 보였던 것이다.”
 
바로 그럴 것이다. 단문이었지만 나카자와의 지적은 맞았다. 그렇다고는 해도, 이통의 「다른 방법」이나 「약간의 일」은 그 후에도 오랫동안 이해되지 않았던 것이다. 또 니체나 로데와의 차이나 그노시스와의 관계도 그 후에는 거의 논의되지 않았다.

 이즈쓰 카즈히코은 너무 돌비한 연구자였을까. 그렇지 않을거야. 종교나 철학의 편에 '원래 돌비'가 듬뿍 출입하고 있었다는 것을 깨달은 것이다.
 덧붙여서, 조금 후에는 되지만, 와카마츠 에이스케나 안도 레이지도 이즈쓰 카즈히코의 이 발견과 의도를 강조했다. 와카마츠에는 『이즈쓰 카즈히코: 지치의 철학』(게이오 요시카쿠대학 출판회・2011)이라는 뛰어난 이츠츠 평전이나 이즈쓰 카즈히코 팬을 모은 「이츠쓰 슌히코 잔마이」(게이오 요시카쿠 대학 출판회)가 있어(그 후에 『영성의 철학 'KADOKAWA에서도 이즈쓰를 잡았다), 와카마츠·안도의 두 사람에게는 탄생 100년도의 수첩 '이즈쓰 카즈히코'(가와데 서방 신사·2014)가 있다.

 내가 본론에서 분류하는 것은 시적 상상력 또는
신화 형성 상상력으로 심층 의식이있는 특수한 다음
원래 나타나는 원형 (아키 타입) 모양을,
물건의 실존하는 보편적 「본질」로서 인정하는 일종의 상징
주의적 '본질'론의 입장이다. 그노시스, 샤마
니즘, 탄트라, 신비주의, 등등, 동양 철학의 영역
에서 현저한 위치를 차지하고, 그 확산은 크다. 무엇
어쨌든 솟아오르고 의식의 어두운 깊은 층
미안해, 거기에 이상한 심상의 그림 패턴은 그려
형적 "변질". 그 세계를, 무 "본질"주의의 선은
전혀 모른다. 아니면 아무래도 전혀 문제가되지 않습니다.
네.                      
"의식과 본질"에서




와카마츠 에이스케에 의한 이츠츠모토

비평가로 시인인 와카마츠 에이스케씨는, 지금까지 많은 장소에서 이즈쓰론을 전개해 왔다. 와카마츠씨의 최초의 이즈쓰 체험은, 『신비철학』의 시작 부분의 일절 「유바쿠타루 과거 수천년 때의 그분보다, 4주의 잡음을 부드럽게 압도하면서 어떤 거대한 것의 목소리가 이 가슴에 다가오는 것에 충격을 받았을 때였다고 한다.

 이즈쓰 카즈히코는 다이쇼 3년(1914)에 도쿄에서 태어나 구제 아오야마 학원 중학에서 기독교에 접했다. 좀처럼 좋아하지 못하고 예배 중에 구토했다고 한다. 적당한 감수성이다. 니시와키 준사부로( 754야 )의 쉬르레아리즘의 생각에 끌려 더 문학을 목표로 하고 싶었지만, 아버지의 반대에 있어 게이오의 경제에 들어갔다. 동급에 카토 모리오·이케다 야사부로가 있었다.
 경제학부의 강의는 지루하지 않고, 도중부터 동경의 서쪽 옆이 있는 영문과로 돌아가서, 모두 서쪽 옆 정령을 받았다. 구약 성경에 흥미를 느끼자, 간다의 어학교에서 코츠지부조로부터 히브리어를 배워, 역사 속의 언어에 관심을 가졌다. 선배의 세키네 마사오의 감화를 받아 아랍어로도 잡았다. 이즈쓰 카즈히코의 어학재능은 유명했고, 요즈음 러시아어·고전 그리스어·라틴어의 단기 습숙도 시도했다.
 쇼와 2년에 졸업 후에는 문학부의 조수가 되었지만, 군부에 밀려 나와 중근동의 요인의 통역을 하거나, 쇼와 14년(1939)에는 오카와 슈메이에 부탁되어 만철계의 회교권 연구소에서 방대한 아랍어 문헌을 읽고(마에시마 신지가 동료에 있었다), 일본 내일의 이브라힘과 비키예프에게 어학과 이슬람 철학을 배우고, 일찍 이슬람 지식의 안쪽을 들여다봤다. 쇼와 16년에 주로 이븐 루슈드(아벨로에스)를 논의한 「아라비아 사상사」(흥화전서)를 간행했다.
 전후가 되자마자 『아라비아 철학』을 정리했다. 이를 맡은 것은 빛의 서방을 주재하고 있던 우에다 미츠오로, 이 우에다가 쇼와 24년(1949)에 『신비철학―그리스의 부』의 집필을 의뢰했다. 우에다는 「과학과 철학」이라고 하는 잡지를 창간하거나, 철학 수도원 로고스 자유대학을 열거나, 신비파의 하르트만이나 페히너에 경도하는 것 같은 인물로, 이나가키 아리호( 879밤 )를 기상시키기도 했다 .
 게이오의 교단에 서게 되어 ‘언어학 개론’을 강의하면서 ‘아랍어 입문’ ‘노서 아문학’ ‘마호멧’ 등을 썼다. 쇼와 28년(1953)의 『러시아적 인간』(홍문당)이 참신했다. 이통은 나중에 「자신은 철학자가 아니다. 어디까지나 언어학자인 것이다」라고 말하고 있다. 그것을 말한다면 언어 철학자일 것이다.
 이듬해 교수가 되어, 쇼와 34년에는 레바논에 반년 체재, 다음 해에는 이집트의 카이로, 시리아의 알레포를 방문해, 몬트리올에서는 마길 대학의 이슬람 연구소에서 이슬람 철학에 잡았다. 이 해외 경험은 곧 '꾸란'의 신역 작업에 투영됐다.

 쇼와 42년(1967)은 53세. 처음으로 엘라노스 회의에 초빙되어 그 후 거의 매년 참가했다. 엘라노스 회의는 루돌프 오토의 부름으로 시작된 체류형의 자유로운 컨퍼런스로 종교학·신화학·심리학·신비학 등을 8일에 걸쳐 둘러쌌다. 올가 프레이베 캡타인이 스위스 아스코나 근처 마조레 호반 별장을 제공했다. 윤( 830야 ), 유대신비주의 연구의 역기의 태두 겔쇼 쇼렘, '의식의 역사'를 자랑하는 에리히 노이만( 1120야 ), 아나키즘도 연구하고 있던 하버트 리드, 스즈키 오오츠키( 887 밤 ), 세계 신화에 밝은 조셉 캠벨( 704 밤 ), 하이데거의 프랑스어 번역자로 그노시스 같은 신비주의에 강한 앙리 코르반 등이 참가했다. 코르반은 융에 신경이 쓰여 24회나 발표자가 됐다.

 엘라노스 회의는 다방면에서 영적 리듬을 논한 헬메틱한 지적 회의이다. 오컬티즘에도 정면 왔다. 당초 융의 분할이 컸던 것이다. 이즈쓰 몰후, '동양철학의 구조: 엘라노스 회의 강연집'(게이오 기학 대학 출판회)이 간행되고 있다.

 종래의 언어학이, 어쩌면 평판인 「의미」의 견해
만족스러운 경향이있는이 학문은 코토바
"의미"기능을 논술의 대상으로 다룰 때,
바 자체를 주로 사회 관습적으로 코딩
시스템화되어 작동하는 차원으로 제한
하는 성향을 갖기 때문이다. "시니피에" "시니프
"이안"과 같은 더 엄격한 기호 학적 술어 도입
그럼에도 불구하고 상황은이 점에 관한 한 조금 변합니다.
모르겠다. (중략) 컨벤셔널한 「의미」
부상고찰의 중심이 된다. 컨벤셔널한 의미의
프레임을 돌출하는 것은 "뉘앙스"이다.   
(중략) 파롤의 차원에서 화자의 현장
장의 개인적 '의미'이다. (중략) 이렇게하려면 표
층적 '의미'만 생각하는 것이다. 이 표층주의가 나에게
는 불만이었다.                 
"의미의 깊이에"나중에



엘라노스 회의 참가자의 얼굴 흔들림

왼쪽 상단에서 시계 주위에 루돌프 오토, 게르쇼무 숄렘, 에리히 노이만, 하버드 리드, 스즈키 오오츠키, 조셉 캠벨, 앙리 코르반, 밀차 아리아데


엘라노스 회의

(왼쪽) 원탁을 둘러싼 엘라노스 회의 참가자. 「엘라노스」는 고전 그리스어로 「만찬」의 뜻. 8일간에 걸친 대회에서는 참가자들이 침식을 함께 하고, 각각이 가져온 테마에 대해 2시간의 강의를 실시했다. 1933년부터 1988년까지 열렸다.

(오른쪽) 제10 강연 「이마쥬와 이마쥬 부재의 사이」의 때의 이츠쓰 슌히코. 53세에 엘라노스 회의 회원이 되어, 노장 사상으로부터 선불교, 화엄, 유교, 수묵화, 하이쿠, 샤머니즘에 이르기까지 동양의 사상을 종횡무진으로 전 12회 강연해, 세계에 이통의 ​​이름을 알렸다.


엘라노스 회의의 어머니·캅스타인

1933년부터 죽는 1961년까지 엘라노스 회의를 주최한 오르가·프레베·캡스타인. 1920년에 아스코나의 사나트륨에 입원했을 때, 경치 좋은 당지를 마음에 들고, 나중에 「카사 엘라노스」라고 불리는 별장을 구입했다. 당지에서 인도 철학이나 명상에 개안한 뒤 독일의 저작가 루트비히 달레스나 신비주의자 알프레이트 슈러들과 교류해 신비주의에 경도했다. 리처드 윌헬름에 의해 번역된지 얼마 안된 '이케이'와 융의 '원형 사상'을 접해 동양과 서양을 연결하는 장소를 구상했다. 1930년경 미국 로드아일랜드를 물었을 때 신비주의 저자 앨리스 베일리의 지자를 얻어 1930-32년에 공동 개최한 신비주의자들의 교류회가 엘라노스 회의의 전신이 되었다.

카사 엘라노스의 벽에 걸려 있던 그림의 비밀

인생에서 가장 깊은 것은 이미지에 의해서만 말할 수 있다고 믿은 캡스타인이 1926-1934년 무렵, 신비한 직감과 환각, 계시를 중시하고 그렸다 
명상 회화 그룹의 일부. 당초 엘라노스 회의의 회의실에 꾸며져 참가자들로부터 찬반양론을 불러 신지학에 대한 맹목적인 기울기를 볼 수 있는 화법을 융에서 통렬하게 비판받아 제거됐다. 1934-38년경부터는 융으로부터 조언을 받으면서 화풍을 전환해, 융파의 분석 심리학의 영향을 강하게 받으면서 내적 진실과 외적 세계, 그리고 심리적 과정과 창조적인 차원의 융합을 목표로 했다.


윤 심취자의 성지가 된 별장

(왼쪽) 칼 융. 융 신화의 원형 개념은 엘라노스의 기초 이론이 되는 등 실질적인 엘라노스 회의의 개념이었다. 
(오른쪽) 융이 현지 석공의 협력을 얻어 취리히 호반의 볼링겐 마을에 스스로 건설한 은거관 <보링겐의 탑>. 

엘라노스 회의 참석자였던 미국의 실업가 폴 & 메리 멜론 부부가 인문학적인 연구를 지원하는 볼링겐 기금을 창설하는 계기가 된 융과의 회합도 당지에서 잡혔다. 기금을 바탕으로 출판된 叢書에는 『이케이』, 융 『심리학과 연금술』, 스즈키 대졸 『선과 일본 문화』와 조지 루카스가 『스타 워즈』를 구상하는 계기가 되었다 조셉 캠벨 '천의 얼굴을 가진 영웅'이 포함된다. 필란솔로피에 의한 대형 파트로네지의 대표 사례로 말해지는 위업이다.

 어린 시절부터 어학의 천재였던 이즈쓰에게는, 말은 표층적으로는 어떻게도 바꿀 수 있는 것이라고 느껴지고 있었기 때문에, 오히려 고대어나 종교 언어나 시가 문예의 말 걸음에 내재하는 다양한 분절력 이나 숨은 함의에 주목해야 한다는 생각이 있었다.
 쇼와 43년(1968)에 게이오를 퇴관해, 마길 대학의 이란 지부 개설에 따라 테헤란에 이주한 이통은, 10년 정도 그의 땅에 있어 쇼와 54년에 발발한 이란 혁명의 그대로를 받아 귀국 하지만, 그 무렵부터 이러한 "언어적으로 파고 든다"는 생각을 연마하면, 이것을 이슬람 철학 · 기독교 · 카바라 · 동양 철학 · 불교 · 노장 철학 · 유교 등의 사고 언어군에 맞추고, 차례차례 에 저작을 잡기 시작했다. 노자의 영역 등도 시도했다. 엘라노스 회의의 자극은 컸다.
 따라서 귀국 후의 「이슬람 탄생」(인문서원)을 시작으로, 「이슬람 철학의 원상」 「이슬람 문화」 「의식과 본질」 「의미의 깊이에」 「코스모스와 안티 코스모스」 「초월의 말」 (모두 이와나미 서점)이 차례차례로 되었다. 그리고 마지막으로 잡은 것이 대승기신론으로 넘어간 '의식의 형이상학'이었던 것이다.
 이들은 그 후, 논문·단행본·번역의 것을 포함해 “이통 슌히코 저작집” 전 11권 및 별권의 대담·고담집이 되어 있다.

 나는 이것들을 골고루 읽은 것도 아니고, 또 정독한 것도 아니지만(이즈쓰의 문장은 맛이 없고, 읽기 어렵다), 저작집 제9권 「토요 철학」에 이전부터 신경이 쓰여져 있던 「수피즘 라고 언어 철학」이라는 논문이 있기 때문에, 오늘 밤은 그것을 소개하고 이즈쓰 신비 철학의 진골정에의 오마쥬로 하고 싶다.
 1983년에 일본 학사원에서 연구 보고한 것으로, 이듬해 「사상」에 게재되었다. 특이한 수피 사상가 아이누 하마다니의 심층 의미론을 다루고 있다. 나는 이것을 읽었을 때, 이통의 말에 대한 잡는 방법은 편집 공학과 몇몇 부분에서 겹치고 있다고 느낀 것이었다.

 경전의 코토바의 흐름의 리듬에, 우리의 내생
의 리듬을 맞추면서, 수피는 '꾸란'
계속 읽으십시오. 종종 "코란"의 영혼이라고도합니다.
신적 게시물의 숨결이 그의 "영혼"의 이름에서 스며들어
간다. 원래 아랍어에서는 "영혼"(너스)이 "숨
불어 (나파스)와 밀접한 의미 론적 연결
하나. (중략) 즉, 관상자의 내부 상태는 하나님의
「기식」과 합치해, 변질해 가는 것이다. 그리고 그의
내적 상태가 변질됨에 따라 이번에는 반대로 '꾸란'
의 코토바 자체가 내적으로 변질해 간다. '꾸란'은
보통 신자의 읽는 '꾸란'과는 닮아도 비슷하지 않다
물건이 되어 버린다.              
「창조 불단」보다


 이슬람 종교 사회에서는 일정한 수행하여 얻을 수 있는 의식바실라라고 한다. 바실라는 일반 아랍어로는 「시각」을 의미하지만, 수피즘의 술어로서는 「정신적인 눈」이나 「내관」을 의미한다. 때로 수묵 산수의 화론에 말하는 「골법」등의 의미도 가진다.

 수피들은 이 바실라의 설명을 요구하면 곧바로 대답하지 않는다. 어긋나거나, 흔들리거나, 뒤틀린다. 그러나, 그렇게 어긋나거나 꼬이거나 하고 있는 말투는, 이즈쓰가 보는 곳, 「언어 이전」의 체험이 가져오는 중요한 말이 날아가고 있는 것이 많다. 이 비말의 존재는 이슬람 철학에서는 아리스토텔레스형의 지식을 팔사파라고 부르는 것에 대해 일판 또는 히쿠마트라고 한다. 히쿠매트지치(wisdom)이다. 대승불교로 말하면 플라주냐(반청=지혜)에 해당한다.

 바실라는 근원의 의식에 관계되는 비로고스적 혹은 초로고스적인 것이다. 그러나, 그러한 근원의 의식은 실제의 수행 체험이나 신비 체험이 선행하고 있었기 때문에 쏟아져 온 것으로, 거기 이외에서는 발출하지 않는다. 수피란 바로 거기에 뿜어져 있는 것이다.

 여기서 이즈쓰는 잭 데리다가 로고스 중심주의 세계상을 디컨스트럭션 하려고 하는 시도를 가로로 보면서 거기에 니체나 로데가 지적한 것처럼 고대 그리스에 비로고스적 초로고스적인 사고가 싹트고 있다 일, 또 처음부터 신의 로고스 등을 세우지 않았던 대승불교나 선 등의 예를 끌어오면서, 수피가 가진 신비주의의 독단장을, 할라지를 통해 소개하는 것이다.

 9세기 바그다드에 활약한 할라지는 페르시아에서 태어난 수피로 이단의 죄로 처형됐다. 그 할라지가 ‘나’의 본질에 대해 다음과 같은 것을 말해 남겼다. 신비주의의 체험 속에서는 나의 「아」는 확실히 「나」에 틀림없지만, 그것이 「여의」에 너무 가까이 끌려가고 있기 때문에, 「의의 아」인가 「우의 아」 의지는 모르게 되면.
 이 기묘한 상황은, 수피즘에서는 무나저트(시원한 남녀의 목언)라고도, 때로는 샤타하트(진취 망언)라고도 불리고 있는 것으로, 잘 일어나는 것 같다. 보통 이상한 심경을 나타내는 말이 될 수 있는데, 즉 오르기아 같은 것인데, 이통은 거기에 수피 독특한 다층적 다의성이 출입하고 있다고 간주했다.
 이는 불교에서 말하면 '반야심경'의 '색 즉시공·공 즉시색'과 같은 것으로, '하늘'과 '색'을 나누지 않고 동시에 보고 있다는 것에 해당한다. 한쪽은 「하늘」을 보는 것이 다른 쪽의 「색」을 보게 되어, 「색」을 보면서도 「하늘」을 본다. 그런 식으로 보면 무엇이 좋은가. 뭔가 중요한 것을 알 수 있을까.

 이의 의의를 12세기 수피인 아이누 르 코자트 하마다니가 해명하고 있다고 이즈쓰는 설명한다. 무언가를 아는 것이 아니라 무언가를 다의적인 채로 파악할 수 있는 것이다. 하마 다니는 이것을 수피즘 특유의 의미 다층의 구조로 꺼내 이성의 영역에 머무르는 코토바에 대해 이성 건너편의 영역으로 약동하는 코토바야말로 바실라가 암시하는 신비의 다의성을 풀어 라고 풀었던 것이었다.

 하마다니는 이것을 타샤브프라고 명명한 것 같다. 수직으로 흔들리는 부정성, 불안정성, 불결정성, 모호성, 동요성이라는 것 같다.
 나는 편집 공학을 에피크로스의 원자가 세로로 벗어나 낙하해 간다는 발상에 힌트를 얻어 조립 시작했지만, 그것은 슈피에 의해, 또 이즈쓰 토시히코에 의해, 매우 확고한 것으로서 종횡 자유롭게 감지되고 있다 그 때문이다. 그 후 이런 이슬람적인 신비의 다의성은 오히려 다신다불의 일본의 '견해'로야말로 해명하는 것이 재미 있다고 생각하게 되었다.

이즈쓰가 탄탄하는 이슬람 신비가

12세기 전반에 활약한 이란의 신비가 아이누 르 쿠자트 하마다니. 이성적인 지에 의한 학문에 의문을 안고, 아흐마드 가자리에 제자들이. 가자리로부터 신비의 초이성적 영역을 회득한 하마다니는 나중에 독자적인 의견을 주장했다. 그러나 보수적인 정통파 신학자나 법학자들에게 원한 결과, 이라크 셀주크 조재상의 손으로 약간 33세로 이단자로 처형되었다.

수피의 신비 건축 '샤 루크네 아람'

파키스탄 무르탄에 있는 수피의 성인 샤 루크누딘의 영묘(12세기 초). 명칭은 룩누딘의 칭호 '세계의 기둥'을 의미한다. 높이 33미터의 돔의 외벽은 청색 유리를 끼운 상감(조암)으로 장식되어 있다. 무르탄은 많은 수피의 사당이 있는 것으로 알려져 별칭 '성자의 거리'라고도 불린다.

신과의 합일을 목표로 하는 수피즘

수피즘은 순나파 세속에서 벗어나 금욕과 고행을 거듭하는 소수의 운동으로 시작되어 12~13세기 사회적 혼란기에 이슬람 세계의 전역에 퍼졌다. 하나님과 일체가 되는 무아의 황홀을 목표로 하는 수행으로서, 하나님의 이름을 반복적으로 주창 집중하는 '주클'이나 음악에 맞추어 회전을 반복하여 하나님과의 합일을 목표로 하는 '섬머'가 있다.

(도판 구성 : 테라다이라 켄지 · 니시무라 토시카츠 · 야타 히데코 · 이가사 준코 · 마키노 고에 히사 · 우메자와 미츠유 교정 : 야다 히데코 · 이다 마사히코, 키 편집 : 요시무라 아키키)


⊕ 『신비철학』⊕

∈∈서문

∈∈ 제일부 그리스 신비 철학

∈∈ 제1장 소크라테스 이전의 신비철학
∈(1) 디오니소스 신
∈(2) 크세노파네스 Xenophanēs
∈(3) 헤라클레이토스 Hērakleitos
∈(4)

∈∈ 제2장 플라톤의 신비철학
∈(1) 서
∈(2) 동굴의 은유
∈(3) 변증법의 길
∈(4) 아이디어 관조
∈(5) 사랑(에로스)의 길
∈(6) 죽음의 길

∈∈ 제3장 아리스토텔레스의 신비철학 
∈(1) 아리스토텔레스의 신비주의 ∈
(2) 아이디어적 신비주의의 부정

∈∈ 제4장 프로티노스의 신비철학 
∈(1) 프로티노스의 위치 
∈ ( 2) 프로티노스의 존재론체계

∈∈〔부록〕그리스의 자연신비주의――희장철학의 탄생
∈각서
∈제1장 자연신비주의의 주체
∈제2장 자연신비주의적 체험――절대 부정적 긍정
∈제3장
∈제4장 지성의 여명 
∈제5장 허망의 신들 
∈제6장 새 세기――개인적 나의 자각
∈제7장 장 핀다로스의 세계――국민 전통과 신사상 ∈ 제 10장 두 개의 영혼관 ∈제11장

∈∈해설……………나토미 신류

∈∈사람 이름 색인


⊕ 저자 약력 ⊕
이 통 슌히코(이즈츠 토시히코)
1914년, 도쿄 출생. 언어학자, 철학자, 이슬람학자, 동양사상연구자, 신비주의 철학자. 게이오 기학 대학 명예 교수. 문학 박사, 엘라노스 회의 멤버, 일본 학사원 회원. 어학의 천재라고 불리며 대부분의 저작이 영문으로 쓰여져 있다. 아랍어, 페르시아어, 산스크리트어 등의 30개 이상의 언어를 유창하게 조종하여 일본 최초의 '꾸란' 원전역 간행, 그리스 철학, 그리스 신비주의와 언어학 연구 등으로 실적 다수. 이슬람 수피즘, 힌두교의 후지일 원론, 대승불교 및 철학도교의 형이상학과 철학적 지혜, 후기에는 불교사상·노장사상·주자학 등을 시야에 담아 선, 밀교, 힌두교, 도교, , 그리스 철학, 유대교, 스콜라 철학 등을 횡단하는 독자적인 동양 철학의 구축을 시도했다.