2016/11/13

Primo by Ex Libris - Japan - Some Phases of her Problems and Development

Primo by Ex Libris - Japan - Some Phases of her Problems and Development

Japan : some phases of her problems and development.; 1931
Japan : some phases of her problems and development.; 1931
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Japan : some phases of her problems and development.; 1931

Inazo Nitobe 1862-1933. Ruth R Thompson

Available at Barr Smith Library Main collection (952 N73 )
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Japan: Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)
Japan: Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)
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Japan: Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)

Story, Russell M.

Pacific Affairs, 1 April 1932, Vol.5(4), pp.349-352 [Peer Reviewed Journal]
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Japan. Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)
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Japan. Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)

Latourette, K. S.

The Annals of the American Academy of Political and Social Science, 1 May 1932, Vol.161, pp.269-270 [Peer Reviewed Journal]
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Nitobe-Japan: Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)
Nitobe-Japan: Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)
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Nitobe-Japan: Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)

Pacific Affairs, Vol.5(4), p.346 [Peer Reviewed Journal]
JAPANSome Phases of Her Problems and Development By Inazo Nitobd Ernest Benn, London, 1931. 18s. Wholly apart from the intrinsic interest which many west...
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    2016/11/12

    やしの実通信



    やしの実通信
    『日本-その問題と発展の諸局面』(3) [2016年05月19日(Thu)]

    『日本-その問題と発展の諸局面』の ”第一章 地理的特徴 ー とくにその社会的・経済的影響に関連して” では、天皇、皇室の事は触れられていない。

    しかし最後の項目、「八、日本の地理の政治的国際的意義」に日本の防衛、海洋安全保障、特に太平洋に関する海洋安全保障の事が述べられている。

    まずは領土について述べられている。
     「統治する能力こそが一国の国境を決める。日本帝国は、日本南部で小さな”国”として始まり、次第に北東へ広がって行った。日本が九州で一小部族国家だったころ、ロシアはなんの脅威でもなかった。拡張の各段階ごとに、新しい仮想敵国が地平線上に現れた。」(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、47頁)

    そして拡張する日本国家を守ったのが日本と取り囲む「海洋」であった、というわけだ。
    新渡戸は英国海軍Admiral George Alexander Ballardの書いた"The Influence of the Sea on the Political History of Japan (John Murray, London, 1921)"から引用し、日本の政治史の及ぼした海洋の影響を紹介している。

    (1)強制的孤立時代、この時には海は保護防衛の手段であった。
    (2)人為的有為的孤立時代、この二つの時代は合わせて十五世紀続いた。
    (3)実習時代、これはたった四十年で、明治時代に始まった。
    (4)海軍拡張、これが現代である。
    (『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、49頁)

    これに対す新渡戸の分析が興味深い。

    「事実としていえることは、日本民族は、地理によって課せられた障壁をものともせず、外来の影響には心温かな態度を維持し、異常な第二時代においてだけ、外人居住拒否が政策として強制されたことである。(中略)無批判の屈従でなく、心を開き、はっきりした眼をもって、日本は世界の最も進んだ思想に従い、最も進歩した国々と協同する。この知恵は、民族の遺産であり、後年にあっては、海洋に囲まれているために促進されたものである。」(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、49-50頁)

    そして海洋安全保障の話になるのであるが、それは太平洋をはさむ米国と日本+アジアの枠で議論されている。

    「「海洋の自由」には、国際法の狭い専門的意味以上の広い意義がある。海洋支配(Thallassocracy)こそ、膨大妄想の最も邪悪不正な形である。」(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、50頁)

    理性ではなく感情で繰り返されるスローガン ー ”太平洋の支配” ”太平洋の覇権” ーを除去すること、太平洋はどの国も支配するこはできないとし、最後に下記の文章が記されている。

     「太平洋の分割ではなくて、その資源をともに分け合うことによって、海洋の価値を力で測るのではなく、奉仕によって評価することにより、敵対心によってではなく、友好心においてこそ、太平洋は、その世界大の目的の促進に寄与せしめられるのであろう。」(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、52-53頁)

    現在の話ではない。1931年、85年前の新渡戸稲造の太平洋海洋安全保障政策である。

    やしの実通信 『日本-その問題と発展の諸局面』(2)

    やしの実通信

    『日本-その問題と発展の諸局面』(2) [2016年05月18日(Wed)]

    『日本-その問題と発展の諸局面』は新渡戸稲造全集第18巻に佐藤全弘氏の和訳が納められている。
    原文は英文で、1931年にLondon, Ernest Benn Limitedから出版されている。
    この本は、新渡戸稲造が序文で述べているように、7年間の勤務を終えジュネーブの国際連盟事務局から出発する夕べに執筆を依頼された。
    依頼したのは、編集者のH. A. L.フィッシャー閣下。The Modern World - A survey of Historical Forces というシリーズ物m編集者である。1931年の時点で、アイルランド、ドイツ、インド、ロシア、フランス、エジプト、ノルウェイ、トルコ、ギリシャ、英国、イタリア、スペイン、オーストラリア、アラビア、南アフリカ、そして日本の16巻が出版され、カナダ、スコットランドが準備中であった。

    序文には、国際連盟の仕事を終え隠居の身分の時間を使って書く予定が、新渡戸を待っていた日本は問題が山積みで本を書く時間は病気療養の時だけだったとある。
    だから当初は「国防」「外交」「海外領土」「現代文学」についてもそれぞれ一章をあてる予定が結局下記の7章となった。

    第一章 地理的特徴 ー とくにその社会的・経済的影響に関連して
    第二章 歴史的背景
    第三章 新日本の出現
    第四章 政府と政治
    第五章 教育上の制度と諸問題
    第六章 労働、食糧、人口
    第七章 日本人の思想生活

    天皇に関しては何章かに渡って述べられている。

    国際連盟事務局を去って日本に戻った新渡戸稲造を待っていたのは、昭和天皇も同じであった。
    新渡戸を招いて報告を聞かれ、天皇と新渡戸の距離は非常に近くなったようである。

    やしの実通信  『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造1931

    やしの実通信



    『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造1931.9.1 [2016年05月17日(Tue)]

    矢内原忠雄の『南洋群島の研究』から始まった、新渡戸、後藤新平への関心。
    3人ともその業績を全て理解するのは当方には到底不可能なので、「植民」というテーマに絞って勉強しようと心に決めたばかりだが、憲法第一条の天皇象徴の箇所と新渡戸稲造の発言の関連が気になって、新渡戸が死ぬ2年前に書いた『日本-その問題と発展の諸局面』を手に取った。

    読み進めながら、すぐにこれこそ日本理解に最高の本だと気づき、数ヶ月前世話になったオックスフォード大学の教授に知らせた。この本は同大学の歴史学教授H. A. L.フィッシャー閣下の編集でもあり、英国人の読者を意識して書かれている。原文は英文である。

    この本の中に出て来る新渡戸稲造の皇室論、天皇論がめっちゃ面白いのである!
    神武天皇は実在した可能性があってしかもマレイ人!

    即ち太平洋島嶼国と同じオースとロネシア語族であろう、との説なのだ。
    その他にも興味深い点が多々あるので、何回かに分けてメモを作って行きたい。

    ところで、この本の序文の日付は1931年9月1日。その約2週間後に満州事変が起る。
    翌年1932年松山事件という、オフレコを無視した新聞記事が新渡戸を窮地に追い込む事になる。
    新渡戸は日本を滅ぼすのは共産党か軍閥、と言ったのだが、この本の中にも両者の事が書かれている。
    同年日米関係修復のために米国を訪れ、1933年に太平洋問題調査会会議に日本代表団団長としてカナダを訪ね、会議終了後バンクーバーで客死する。
    同地にある新渡戸記念公園を天皇皇后両陛下が2009年訪ねていらっしゃる。
    植民」というテーマからはちょっと離れるが天皇、皇室と新渡戸稲造について何回かに分けて少しメモを書いておきたい

    やしの実通信  新渡戸稲造の天皇象徴論(3)



    やしの実通信
    新渡戸稲造の天皇象徴論(3) [2016年05月07日(Sat)]

    やはりこうやって公開で書くと多くの反応をいただけるのでありがたい。

    新渡戸が天皇は象徴である云々について、当方は『武士道』を引用して現在の憲法第一条との違いを主張したが、新渡戸は1931年、亡くなる2年前にロンドンからの依頼で『日本ーその問題と発展の諸局面』という本を英語で出しており、そこにも天皇象徴論があって、そこからの引用ではないか、とのコメントをいただいた。
    原文は英文だがその和訳が新渡戸稲造全集第18巻にある。佐藤全弘氏の訳である。

    同書はかなりな大作で全7章、400頁近い。
    その第四章 政府と政治の第一項「国体ー日本の憲政上の固有性」の中で天皇象徴論が述べられているが、これも『武士道』と同様憲法第一条とはかなり色合いが違う。

    引用されたかも知れない箇所は

    「天皇は国民の代表であり、国民統合の象徴である。」

    であるが武士道と同様、皇室の歴史、日本の歴史と幾重にも説明はされておりあの憲法一条を読んだだけの印象とは全く違うのである。長くなるが、上記の文章の周辺を引用しておきたい、

    「してみるとコクタイは、最も単純な言葉に戻してみると、この国を従え、我国の歴史の始めからそれを統合してきた”家系”の長による、最高の社会的権威と政治権力の保持を意味する。この家系は国民全体を包括すると考えられる ー というのは、初代の統治者はそお親類縁者を伴って来たし、現在人口の大部分を形成しているのは、それらの人々の子孫だからである。狭義においては、その”家系”は統治者のより直系の親族を含む。こうして天皇は国民の代表であり、国民統合の象徴である。こうして人々を統治と服従において統一している絆の真の性質は、第一には、神話的血縁関係であり、第二には道徳的紐帯であり、第三には法的義務である。」(『日本ーその問題と発展の諸局面』183-184頁,新渡戸稲造全集第18巻、2001年、教文館)

    4章はかなり重い内容で一読したものの、理解できていない。
    しかし、最後の第十一項来るべき改革で新渡戸が提案している箇所を書いておきたい。

    「日本は、世界に対して、”尊王主義”は”民主主義”と矛盾しはしないこと、それはプロレタリア問題を処理する力がなくはないこと。国王は社会正義達成のための”天”の器となることができることを証明する公道に就いているのである。」(『日本ーその問題と発展の諸局面』243頁,新渡戸稲造全集第18巻、2001年、教文館)



    2009年7月、カナダ・ブリティッシュコロンビア州のバンクーバーにある新渡戸記念庭園を天皇皇后両陛下が訪ねている。私は、皇室の在り方を書いたこの本をお読みになっているのではないか、と思う。

    参考:両陛下、新渡戸稲造庭園を散策 カナダ・バンクーバー
    2009年07月14日 AFP
    http://www.afpbb.com/articles/-/2620878?pid=4357936

    やしの実通信

    やしの実通信

    大阪市立大学佐藤全弘名誉教授「矢内原忠雄は私たちに今何をのぞむか」 [2016年01月15日(Fri)]

    矢内原忠雄研究をされている立命館大学の金丸裕一教授から、矢内原の事を色々ご教示いただく機会を得た。

    金丸教授から送っていただいたのが「矢内原忠雄は私たちに今何をのぞむか」という大阪市立大学佐藤全弘名誉教授の講演記録である。(郷土の偉人 矢内原忠雄顕彰講演会記録)

    矢内原の生涯を、わかりやすく説明している。
    特に矢内原の再婚に関する箇所は、矢内原の精神的弱さと、長男伊作氏との「歪んだ」関係を理解できた。
    矢内原の死後恵子夫人が書き記したという次の箇所は後で確認してみたい。

    「矢内原は自分が上辺は信仰者らしくかざりつつ、内面は偽りに満ち多くの罪を犯して人を欺いてきたと痛切な告白をつづけ、涙を流して罪を悔いました。」(同講演記録26頁)

    は再婚以外にどんな罪を認識していたのであろうか?


    ここ2年ほどだが、新渡戸と矢内原を読み比べていると、やはり新渡戸の方が人間的に大きい、という感想を持つ。
    それは矢内原が「象牙の塔」に地位を得たのに比べ、新渡戸は台湾植民地運営から、国際連盟運営、そして死の間際は満州事変に対する海外、特に米国での日本擁護活動と国内へ向けた批判、という学問だけでなく、現場、実務の人、即ち「偽りに満ち多くの罪を犯して人を欺いてきた」とは全く反対の行動をとってきたからだと思う。


    金丸教授によると、矢内原は戦後その学術論文の数が激減している、という。
    加えて矢内原の植民政策研究は、戦後矢内原自身が言う様に、同氏の意向とは違ってキリスト教に結びつけて議論される事が多いようである。
    矢内原は植民を、アダム•スミス、新渡戸稲造に倣って支持していたのである。


    新渡戸稲造研究者であるという佐藤全弘氏の講演にはこの部分は全く出て来ず、逆に現在の政治批判に矢内原を利用して終えているのだ。
    日本の、新渡戸の、そして矢内原の植民政策はどこで道を間違ったのか、もしくは逸らされたのか?これを議論しないと日本は、何も学べないのではなかろうか?








    Posted by 早川理恵子 at 08:39 | 新渡戸稲造と矢内原忠雄 | この記事のUR

    やしの実通信 北岡伸一と三輪公忠の新渡戸稲造論

    やしの実通信

    北岡伸一と三輪公忠の新渡戸稲造論 [2015年12月18日(Fri)]

    もう一冊図書館に返却しなければならない本があるので、これも簡単なメモだけ残しておきたい。

    岩波講座 近代日本と植民地4 統合と支配の論理
    (大江 志乃夫,浅田 喬二,三谷 太一郎,後藤 乾一,小林 英夫,高崎 宗司,若林 正丈,川村 湊 編集委員)2005年

    この著書に北岡伸一氏の『新渡戸稲造における帝国主義と国際主義」(179-203頁)がある。
    とにかく愕然とする内容なのだ。新渡戸稲造が生きていたら、どう出るか。馬鹿に馬鹿と言ってしまう矢内原先生が生きていたらただでは済まないような内容である、と思う。

    この後偶然、三輪公忠の新渡戸稲造論を『日本•1945年の視点』(東京大学出版会、1986年)の中に見つけた。(14-19頁)たった5頁の短い文章であるが、北岡氏の新渡戸論を読んだ後だったので救われた思いであった。

    一カ所だけ両者を比較する箇所を引用したい。

    「このようにして新渡戸は満州事変以降、国際主義らしからぬ変貌を遂げていった。松山事件以来、国際主義者らしい発言は聞かれなくなり、積極的は事変擁護の発言だけが際立つ様になる。(中略)
    しかしながら、このような「転向」を可能にする内在的な条件が新渡戸の思想の中に存在したことを軽視してはならない。新渡戸の思想の特色は、道義が全面に出る事であった。。。」
    (上記北岡氏の新渡戸論 198-199)

    この満州事変以降の新渡戸の言動について三輪氏は

    「日本政府当局は、満州事変において、日本は国際法を破っていない、国際法を遵守していると弁明し続けた。(中略)このたてまえのもとで、現実には体制否定の軍事行動がとられていた。しかしたてまえのもとでは軍閥も国際法遵守を国是とする日本国家の一部であり、軍閥を否定することは、国家を否定することに通じていた。(松山事件で新渡戸は軍閥を否定する発言をし、暗殺の可能性もあった、とどこかで読んだ記憶がある)しかし、たてまえと現実の乖離に気付いていたものは(即ち新渡戸のこと)たてまえの方を尊重し、国際的には協調主義となり、国内的には軍閥批判に向わざるをえなかったわけである。新渡戸の立場は本質的にいってこれであった。」(上記の三輪氏の新渡戸論、18-19頁、()内のコメントは当方のもの)


    北岡氏が言う様に新渡戸が転向の可能性をもっていたのではなく、三輪氏が分析するように社会がひね曲がっていたために、新渡戸は日本国内にも、米国にも敵を作ったのである、と私は思う。

    この2つの短い論文も再読し後で書き直したい。
    新渡戸稲造の世界の玄関先に立ったばかりの自分が書くべき内容ではないが、現時点での認識と理解の範囲でメモだけ残しておきたい。
     



    Posted by 早川理恵子 at 19:12 | 新渡戸稲造と矢内原忠雄 | この記事のURL

    やしの実通信 矢内原忠雄を読む『朝鮮統治の方針』



    やしの実通信
    矢内原忠雄を読む『朝鮮統治の方針』 [2015年11月21日(Sat)]

    韓国の事は相変わらず関心湧かないが、関心がある矢内原忠雄が『朝鮮統治の方針』を著しており、「少なからず朝鮮の人々より感激と感謝とを以て報ひられた。」(矢内原1963: 538)と自ら書いている。
    以前ザッと読んだが、再読した。
    多分そこに日本の植民地運営の問題が、また現在韓国が執拗に繰り広げる反日の要因が書かれているのではないか、と思ったからだ。

    朝鮮は1919年独立万歳事件が発生し流血の惨事となった。
    これによって日本の朝鮮統治は武断主義から文治主義となった。
    しかしこの文治主義は民衆の文化的欲望を向上させた。

     「旅行の誘惑、文明品の誘惑、朝鮮人は如何にしてこの欲望を満足する事が出来るのか。自己の財産を売ることによりて。」(矢内原1963: 728)

    「朝鮮人の経済的欲望は向上した。しかし欲望満足の手段は之に伴わない。彼等の生活程度は或は進歩したであろう。しかし生活の不安はさらに増加した。而して交通の進歩、貿易の発展、法治制度の完備、教育衛生の施設、産業の開発、事業経営の資本主義化、すべて之らの文化的政治の実行が朝鮮人に与へたる経済的影響は決して無条件に良好なるものではない。否却って或意味に於いては朝鮮人今日の経済的不安は文化政治の結果であると言い得る。」(矢内原1963: 729)

    この経済的要因が1926年の民衆の暴動の動きに繋がった。しかし背景にあったのは共産主義である、と矢内原は述べる。

    「而して此度の事件は共産主義的色彩が中心となり、之が民族主義者と提携し、全鮮赤化の主義によって民族運動の目的を達せんことを期したるものの如くである。大正八年の独立万歳事件の際は米国大統領ウィルソンを精神的後援とせる民族自決主義の運動であったが、今回は労農ロシアを後援と頼む共産主義的民族運動であった。」(矢内原1963: 727)

    多分こういう史実は朝鮮や植民研究をしている人には常識なのであろうが、矢内原、新渡戸をここ2、3年しか勉強していない、しかも片手間にしか勉強していない当方にとっては驚く内容である。


    矢内原はこの朝鮮問題を分析するだけでなく、

    「朝鮮統治の責任を負担せる我国人の一人として、その統治方針は何処に目標を置くべきかの問題に関し、私も亦所見を陳ぶるの義務を感ずる。植民政策研究の一学徒としての義務が之を強める。」(矢内原1963: 730)

    として朝鮮は分離独立しないであろう、と述べつつ仮に分立独立しても日本国民の名誉ではないか、と下記のように述べている。

    「仮に自主朝鮮が全然日本より分離独立を欲するとしても、そのことは日本にとりて甚だしく悲しむべきことであるか。道を以て領有関係が平和的に終了せられたる場合には、其後の友誼的関係の維持が期せられ得る。仮に朝鮮が我国より分離したとて、当然に我国の敵国たるものではない。
    第三に、かの李朝以来疲労困憊せる朝鮮が、我国統治の下に於いて活力を得、独立国家として立つの実力を涵養することを得ば、之れわが植民政策の成功であり、日本国民の名誉ではないか。朝鮮統治の責任を完全に果たしたるものとして満足すべきではないか。」(矢内原1963: 742-743)


    当時朝鮮の人々に感謝された同論文は日本ではどのように受け止められたのであろうか?
    矢内原忠雄は1961年に亡くなっている。
    もし生きていれば現在の日韓関係をどのように分析し、何を提案するのであろうか?



    明日は以前読んだ下記の論文を再読したい。
    「矢内原忠雄の植民政策の理論と実証」
    矢内原勝
    三田学会雑誌 (Keio journal of economics). Vol.80, No.4 (1987. 10) ,p.285(1)- 309(25)
    http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19871001-0001.pdf?file_id=76598

    参考文献
    矢内原忠雄1963 「朝鮮統治の方針」、植民政策の新基調、植民政策研究I, 矢内原忠雄全集第一巻、岩波書店



    Posted by 早川理恵子 at 13:59 | 新渡戸稲造と矢内原忠雄 | この記事のURL |

    https://draft.blogger.com/blog/posts/7469187422941729677

    やしの実通信 「伊藤公」新渡戸稲造著『偉人群像』より



    やしの実通信
    「伊藤公」新渡戸稲造著『偉人群像』より [2015年09月28日(Mon)]

    朝鮮の問題は全くの門外漢だし、あまり関心が湧かない。が、
    ミクロネシアでの日本の統治、即ち日本の植民政策を学ぶ中で他の植民地である台湾、朝鮮の事も比較対象として気にはなる。なぜ、ミクロネシアであれだけ成功した植民が行われ今でも当時を知る島の人々は日本時代を懐かしがっているのに、朝鮮ー韓国は違うのであろうか?

    そんな時目にしたのが伊藤博文が「朝鮮は朝鮮人のため」という主義であったという内容だ。新渡戸稲造の「偉人群像」に書いてあるという。
    それで早速、新渡戸稲造全集第5巻を手に取った。

    エッセイ集「偉人群像」第27章に『伊藤公』がある。
    そこに確かに「朝鮮は朝鮮人のため」という記述があった。しかしそれより驚いたのが、伊藤博文自ら、松蔭の教えはそれほど受けていず、寺子屋の先生の影響の方が大きいと述べている事だ。。そして新渡戸稲造が伊藤博文に会った本当の理由が伊藤公に日本人の朝鮮植民を説得する事であった点だ。しかもビスマルクの植民政策論を引いて来て!

    同エッセイは下記の8項目からなる。
    同胞と偉人
    公の偉人観
    両親の感化
    腹切りの弁
    公の植民政策
    公の朝鮮人観
    ビスマークの植民政策
    立身出世の道は難し


    松蔭の件は「両親の感化」にある。

    「世の中では我輩が吉田松陰の塾に永くをって、松蔭の弟子のようにいつてをるものもあるが、それは事実上間違いであって、我輩は松蔭の世話にあまりならない。従って先生のお教えも受けず、実際当人に会うたことも度々ない、...我輩はむしろ幼少の時にをつた村で寺子屋を建てていた何某こそ偉い人物だと思った。さうしてこの人の教えてくれたことがこれとかあれとか、はっきり挙げることは出来んが、大体において自分の心に染み込んで、今なほあれは偉い先生だつたと、尊敬の念を禁ずることはできない...」(新渡戸稲造全集第五巻、545-546)

    寺子屋の先生の存在は宮本常一の「忘られた日本人」のカテゴリーかもしれない。伊藤博文を育てたのが、忘られた寺子屋の先生であった事は、日本社会の低層の厚み、深みを物語っているように思う。


    それから新渡戸が伊藤博文に日本人の移民を説得した件。
    2時間もプロシアの内国植民の講義を新渡戸が伊藤公にしているのだ。もしかしたらこの新渡戸の2時間の講義は「朝鮮は朝鮮人のため」という伊藤公の主義を変え、日韓合併、即ち伊藤公の暗殺に至ったのではないか?とこれは当方の想像だが。

    新渡戸が韓国を訪ねたのはの「東京の帝大で、植民政策の講座を担当しいる際であった」というから1906年から伊藤暗殺の1909年の数年の間である。
    新渡戸はどのように伊藤公を説得したか?この文章が書かれたのは新渡戸がジュネーブに行ってからだから1920年代の中頃から終わりだと思う。
    伊藤公と会ってから10年以上経っているがその内容を新渡戸はよく覚えている。

    「閣下がビスマークにお会ひの時に内地植民の計画についてお聞きではありませんですか。必ずお聞きになったことと私は存じます。...」
    「...社会政策上ドイツでは、一つの誇りとしてをる方針である。且つまた歴史に今までなかった試験をしたことで、これに類したことはすでにローマ時代にやってをりましたが、新しい方法を持つての計画に、しかも平和的に一民族を他の民族の中に移植する設計は、政治家の研究する価値の確にあるものと思ひます。...」

    新渡戸が亡くなったのが1933年。
    伊藤博文に植民講義をし、日本人の移民をかなえ、さらに日韓合併に進み、その後の展開はジュネーブからも良く見えていたであろう。
    新渡戸稲造全集のどこかに書かれているに違いない、と思う。
    現在の日韓関係を新渡戸稲造が知ったらどう思うか?どのような政策を提案するであろうか?










    Posted by 早川理恵子 at 06:33 | 新渡戸稲造と矢内原忠雄 | この記事のURL |

    やしの実通信 新渡戸稲造、矢内原忠雄の植民地論  

    やしの実通信

    新渡戸稲造、矢内原忠雄の植民地論 [2014年11月05日(Wed)]



    植民地、Colony
    この言葉からは過去500年の西洋人による、搾取、奴隷、暴力、独占、人種差別、等の言葉しか思い浮かばない。
    最初にこの偏見を改めさせてくれたのが、考古学者の愚夫が3千年、5万年前の人類の移動にcolonizationという言葉を使っていた時だ。
    人類の移動イコール植民なのである。

    アダム•スミスの『国富論』では、植民地論をギリシャ、ローマ当たりから初めている。新渡戸、矢内原もギリシャ、ローマの植民地論を論じている。


    この数週間で読んだのは下記の文献

    新渡戸稲造全集 第四巻 植民地政策講義及論文集
    Nitobe, Inazo, "Japan as a Colonizer" The Journal of Race Development. Vol 2, No. 4 (April., 1912), pp. 347-361

    矢内原忠雄、『アダム•スミスの植民地論』、矢内原忠雄全集


    矢内原の文章は難しいが新渡戸はわかりやすくて面白い。
    なんでもっと早くこの論文に出会わなかったのであろう。新渡戸稲造といえば『武士道』しかない、と思っていた。
    もしこれからこの論文を読もうとする方は、スミスの『国富論』にある植民地の章を読んでから、新渡戸稲造と矢内原忠雄の植民地論を読むとわかりやすいです。きっと先に新渡戸、矢内原を読んでも意味がわからない、と思います。
    スミスはああだ、こうだとゴネゴネ言い回していますが、でも丁寧な解説でわかりやすいです。


    新渡戸稲造全集第四巻は思い切って購入した。矢内原忠雄全集は図書館でかりた。1-5巻が植民政策研究である。
    この二人の植民地論がアダム•スミスを基盤にしている事は疑いようがない。矢内原はスミスが経済学の父であるだけでなく、植民地論の父でもあると明言している。
    この植民地論、矢内原が戦後国際経済という科目で教えたように、国際経済、即ち国際政治にもつながる。ということはスミスは国際経済、国際政治、そして開発学の父、とも言えるのではないだろうか?




    Posted by 早川理恵子 at 17:06 | 新渡戸稲造と矢内原忠雄 | この記事のURL | コメント(0
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    Japan as a Colonizer - Inazo Nitobe [2014年11月13日(Thu)]

    今日は朝からフィジーのイノケ外相(在日大使をされていた)に「日本は中国とインドに対して悪魔の行いをしてきた。二度と両国と友人関係にはなれない。」とTWされてショックを受けている。

    日本が旧植民地で何をしてきたか。
    新渡戸稲造が「植民者としての日本」という英文のペーパーを出している。1912年だ。
    当時、既に日本への批判、猜疑心が米国の中に生まれていたようだ。

    新渡戸によれば、当時台湾は李鴻章から、首狩り族と麻薬と、強盗だらけで、決して統治できる代物ではない。日本は気の毒である、とまで言われているような状況であった。
    日本はこの状況を数年で改善し、台湾の北から南まで、女性一人で旅をしても大丈夫な程安全な場所にした。
    新渡戸は、首狩り族対策、強盗対策、麻薬対策、衛生改善等々、李鴻章が統治不可能と言った問題を日本がどのように解決して行ったのか詳細に述べている。

    日本統治前の台湾では、強盗は体格がよく、店の前に立って商売の邪魔をしていた。これに困った商人はお金で解決していた、という。新渡戸は同様な光景を満州でも見た、と書いている。

    新渡戸稲造の植民地論でアダム•スミスを参考にしている事があまり、というかほとんど議論されていないようである。この"Japan as a Colonizer "もあまり引用されていなように思うが、当方の勘違いであって欲しい。

    日本が悪魔的行いをしたかどうか、という問題よりも、そのような情報が外相レベルに浸透している事を日本は憂慮すべきである。



    Japan as a Colonizer - Inazo Nitobe 
    ここに全文があります。

    http://archive.org/stream/jstor-29737924/29737924_djvu.txt


    Early Journal Content on JSTOR, Free to Anyone in the World 
    
    
    
    JAPAN AS A COLONIZER 
    
    By Inazo Nitobe, Ph.D. 
    
    President of the First National College, and Professor in 
    
    the Imperial University, Tokyo, formerly Director of the 
    
    Bureau of Industries in the Government of Formosa 
    
    With the acquisition of the small island of Formosa in 1895, 
    Japan joined the ranks of colonial powers. Since then she 
    has had the island of Saghalien by the treaty of Portsmouth 
    in 1905 and Korea by annexation last year. Besides these 
    territories she has also in her possession the small province 
    of Kwang-tung in the Liao Tung peninsula; and a long, 
    narrow strip of land along the Manchurian railroad, the 
    last two being leased from the Chinese. 
    
    In recounting what Japan has done as a colonizer I shall 
    for several reasons devote my time to a review of what Japan 
    has achieved in Formosa. First, because it was the first colony 
    and as such served the purpose of colonial education for us. 
    Second, because it may be called the only colony with which we 
    have had any experience worth speaking about. The other 
    colonies and possessions are so new to us that whatever 
    policy we may have formed for them has not yet borne any 
    fruit. And thirdly, because the administration of this island 
    of Formosa forms a precedent for the government of later 
    acquisitions; and also because you can infer from a descrip- 
    tion of our policy in Formosa what we shall do with other 
    possessions and colonies. To these three reasons there is 
    an appendix to be added — namely, because I can speak of 
    this colony from a long and personal connection with it, 
    and to me the last is the strongest and the best reason. 
    
    Now Formosa, or more properly, Tai-wan (since Formosa 
    is not a Chinese nor a Japanese name, being a Portuguese 
    appellation), was ceded to us at the termination of theChino- 
    
    347 
    
    
    
    348 INAZO NITOBE 
    
    Japanese war. When accession from China was proposed 
    by Japan, we were not at all sure that the suggestion would 
    be complied with by the authorities. But the Chinese 
    plenipotentiary, Li Hung Chang, took up the proposition 
    as though it were wise on the part of his country to be freed 
    from an incumbrance, and even commiserated Japan for 
    acquiring it. He pointed out that the island was not amen- 
    able to good government, that brigandage could never be 
    exterminated there, that the presence of head hunting tribes 
    was always a menace to social order, and that the climate was 
    not salubrious, and also that the opium habit among the 
    people was widely spread and extreme. The island, some- 
    what like Sicily, had, in the course of its history, been sub- 
    ject to the flags of various nations; Holland, Spain and 
    China ruled it at different times, and at one time Japanese 
    pirates had practically usurped supreme power over it. 
    At another time the French flag floated on its shores. Such 
    an instability in government is enough to demoralize any 
    people; but among the people themselves there were ele- 
    ments which put law and order to naught. 
    
    The indigenous population consists of head-hunters of 
    Malay descent, who live in small communities in a very low 
    grade of culture. The only art with which they are ac- 
    quainted is agriculture, and that in a very primitive style 
    — what the Germans name Spatencultur, not agriculture 
    proper but rather what Mr. Morgan, if I remember rightly, 
    in his Primitive Society calls a primitive form of horticulture. 
    They have no ploughs; they have no draft animals; this hor- 
    ticulture is all that they know. But these people are very 
    cleanly in their habits. This may be due to their Malay 
    instinct of frequent bathing; and they keep their cottages 
    perfectly clean, unlike other savages of a similar grade of 
    culture. The main part of the population, however, con- 
    sists of Chinese who have come from the continent and 
    settled in Formosa. They came chiefly from the opposite 
    shores, the province of Fukien and from the city and sur- 
    roundings of Canton. It seems that the Chinese emigrants 
    could not perpetuate their families in their new home for 
    any number of generations, succumbing as they did to the 
    
    
    
    JAPAN AS A COLONIZER 349 
    
    direct and indirect effects of malaria, and hence the Chinese 
    population proper was constantly replenished by new arri- 
    vals from the main land. The aborigines or savages liv- 
    ing a primitive life, constantly driven into the forest regions 
    and high altitudes, did not increase in numbers; so when 
    Japan assumed authority in this island she found few con- 
    ditions that bespoke a hopeful outlook. The Chinese, repre- 
    senting two branches of their race totally different in char- 
    acter and in their dialects — their dialect being unintelligible 
    one to the other — occupied the coast and the plains and were 
    chiefly engaged in agricultural pursuits. They had a few 
    fortified cities and towns among them; Tainan and Taihoku, 
    with a population of about 40,000 were the most important. 
    
    The peaceful Chinese inhabitants were constantly exposed to 
    depredations of the brigands. In fact, a great many villages, 
    besides paying taxes to the government, had to make regular 
    but secret tribute to the brigand for immunity from spolia- 
    tion. But this is nothing peculiar to Formosa. When I was in 
    Manchuria I found just the same thing there. Perhaps my 
    friend, Professor Iyenaga, described to you in his speech 
    this morning the brigandage in Manchuria. When I was 
    there a few years ago I found that the mounted bandits 
    often threatened the caravans which carried merchandise 
    and silver ingots. The government could do nothing with 
    them and so the caravans formed a kind of league, a kind 
    of guild; and then the brigands also formed a kind of guild, 
    and both the caravan guild and the brigand guild would 
    send their representatives to meet somewhere; and the cara- 
    van representative would offer to pay something and say, 
    "Now, we will pay you so many thousands of dollars a year, 
    if you promise to spare our caravans," and the brigands 
    would say, "All right. If you carry such and such a flag 
    we will not attack your caravans, but we will attack other 
    caravans that do not pay us." Thus without any action 
    on the part of the government there is peace procured 
    between the brigands and the caravans. 
    
    It is the same with the beggars; in Mukden I saw a num- 
    ber of wretched looking creatures begging from house to 
    house. These paupers form a very strong body; they have 
    
    
    
    350 INAZO NITOBE 
    
    a delegate of their own. A number of them will stand in 
    front of a store and of course no one will go into such a store 
    guarded by beggars, and that store loses trade. So a num- 
    ber of these stores get together, form a guild and send a dele- 
    gate to the guild of the beggars and say," Please don't stand 
    in front of our stores." Between them the two delegates 
    settle the matter for a certain sum of money. So it was with 
    these Formosans, in their dealings with the bandits. They 
    paid tribute, so many dollars or so many head of cattle a 
    year. Still the agriculturists who had their farms away 
    from the villages, even though they were free from brigand- 
    age, were exposed to the attacks of head-hunters who would 
    steal unawares from their haunts among the mountains to 
    shoot anybody. I must make a digression and state that 
    these head-hunters are very partial to Chinese heads; they 
    say that they are easier to cut, being shaved in the back. 
    Well, these head-hunters had a custom among them accord- 
    ing to which young men must secure some head as a trophy 
    without which they could not obtain recognition for bravery 
    or celebrate any feast among their tribes. Hence the For- 
    mosan people had never known the meaning of a quiet, 
    peaceful society or of a stable government. They had 
    never known the security of property or of life. Successive 
    administrations had, none of them, been able to assure them 
    of these elementary duties of government. With a people 
    brought up under these circumstances, patriotism was a 
    thing entirely unknown. 
    
    In accordance with the stipulation of the treaty of Shi- 
    monoseki, one of our generals, Count Kabayama, was dis- 
    patched as governor-general of Formosa. In that capacity 
    he was about to land at the island with a large army; when 
    he was met by the Chinese plenipotentiary at the port of 
    Kelung, and in an interview which took place on board of 
    the steamer Yokohama Maru, the 17th of April, 1895, it 
    was arranged that a landing should be effected without 
    opposition. This marked the first landing of our troops since 
    the acquisition of the island of Formosa by the Japanese. 
    There were at that time some Imperial Chinese soldiers still 
    remaining on the island, but on hearing of its cession to 
    
    
    
    JAPAN AS A COLONIZER 351 
    
    Japan they were required to disarm and leave the country. 
    Many did so, but a few remained to oppose our army; and 
    then also there were a few patriots who did not feel ready to 
    accept our terms, not ready to accept an alien rule — and 
    these either left the island or took up arms against us. 
    
    Since there was now no government, some of the so-called 
    patriots proclaimed a republic, one of the very few republics, 
    (I say one of the very few because this is not the only case 
    a — we had a similar instance in Japan), that were started in 
    Asia. Mr. Tang was elected president and the republic of 
    Formosa lasted three or four months, leaving behind nothing 
    but some post-stamps valuable for collectors. At this time 
    the professional brigands took this opportunity of general 
    disturbance to ply their trade. I dare say the peaceful 
    inhabitants of the island suffered more from the hands of 
    their own countrymen, that is, largely from Chinese troops 
    and brigands, than they did from us. Evidence of this lies 
    in the fact that several towns received our army with open 
    arms as a deliverer from robbery and slaughter. 
    
    Though the island was pacified no one knew what was to 
    happen next. We did not understand the character of the 
    people. Very few Japanese could speak Formosan and 
    fewer Formosans could speak Japanese. There was natur- 
    ally mutual distrust and suspicion. The bandits abounded 
    everywhere. Under these conditions military rule was the 
    only form of government that could be adopted until better 
    assurance could be obtained of the disposition of the people. 
    For this purpose it was calculated that some ten million yen, 
    I may say five million dollars, was yearly needed for the paci- 
    fication and government of Formosa. Out of this necessary 
    sum only three million yen could be obtained by taxation, 
    according to the old regime. The balance had to be defrayed 
    by the central, that is by the Japanese, government. Now 
    an annual expenditure of six or seven million yen in those 
    years, to be spent in an island away from home, with no 
    immediate prospect of return, was by no means an easy 
    task for the rather limited finance of Japan. You know how 
    land values are rising everywhere. Even in Africa, England 
    had to pay very much more than she had expected in getting 
    
    
    
    352 INAZO NITOBE 
    
    land in the south; and I think Italy has by this time found 
    Tripoli rather more expensive than she had calulated at 
    first. A colony that looks at a distance like the goose that 
    lays the golden egg, on nearer approach and especially 
    when you have to pay the bills, often proves to be a white 
    elephant. So with us impatient people who had expected 
    great things and great benefits to come from Formosa, 
    began to call for more frugality and some of the very best 
    publicists went even so far as to propose that the island of 
    Formosa should be sold back to China or even to some other 
    power. In the course of some thirty months, two years and 
    a half, no less than three times were governors changed. 
    
    The first governor general was Count Kabayama, known 
    as a hero of the Chino- Japanese war; the second was no less 
    a man than Prince Katsura, now of some international fame 
    as the prime minister of Japan for many years; and the third 
    was General Nogi. Finding that the country could ill afford 
    such a luxury as a colony, the parliament of Japan cut down 
    its subsidy of six or seven million yen from the national 
    treasury by about one-third, thus reducing the subsidy from 
    six or seven million to only four million. Now who would 
    accept a position held by a man as Nogi, but now reduced 
    financially to two-thirds of its former prestige and power? 
    Only a man of unbounded resources, of keen perception and 
    quick decision, not a second or a third-rate man, would 
    accept such a place; and Japan is forever to be congratulated 
    on finding the right man at the right time for the right place, 
    Viscount Kodama, who, as a member of the General Staff, had 
    made a study of the Formosan problem and was ready to accept 
    the governorship and to see if he could put to rights the bank- 
    rupt housekeeping of the colony. I am afraid that the name 
    so well known among us is perhaps very much less known in 
    this country. Kodama is a name which is cherished by 
    our people with love and respect. Perhaps you can best 
    remember his name if I tell you that he was the real brains 
    of the Russo-Japanese war. It was he who actually directed 
    the whole Japanese army in the war with Russia. 
    
    In accepting the governorship of Formosa he was particu- 
    larly fortunate in the selection of his lieutenant, his assist- 
    
    
    
    JAPAN AS A COLONIZER 353 
    
    ant, the civil governor; he made the discovery, as he called 
    it, of a man who proved himself his right hand, and who 
    actually came far above his most sanguine expectations. 
    I mean Baron Goto, one of the rising statesmen of modern 
    Japan. Baron Goto in the last cabinet held the position of 
    Minister of Communications and was President of the 
    Bailway Board. Until Baron Goto was made civil governor 
    of Formosa under Kodama he had been known as an expert 
    on hygiene, having been a medical doctor. The advent of 
    these two men in Formosa marked a new era in our colonial 
    administration. Upon entering their new post of duty early 
    in 1898, the first thing they did was the practical suspension 
    of military rule; at least it was made subservient to civil 
    administration. Military rule is apt to become harsh and 
    to the Chinese especially, who are not accustomed to respect 
    the army, it is doubly harsh. 
    
    Next, Kodama and Goto, to whom English colonial ser- 
    vice was an inspiring example, surprised the official world 
    by a summary discharge of over one thousand public ser- 
    vants of high and low degrees, and collected about them men 
    known and tried for their knowledge and integrity. They 
    used to say often and often, "It is the man who rules and 
    not red tape." In an old and well settled country "red tape" 
    may be convenient, but in a new colony great latitude of 
    power and initiative must be left to responsible men. I 
    emphasize this point because these men, I mean the gover- 
    nor general and the civil governor, attributed their success 
    largely to the selection and use of right men. 
    
    Brigandage was still rampant when Kodama went to 
    Formosa, and with military rule in abeyance there was some 
    likelihood of its growing worse. To offset this, the constabu- 
    lary department was organized and made efficient by proper 
    care in choosing men for the police and by educating them in 
    the language, and in the rudiments of law and industries, for 
    their arduous tasks. Exceedingly arduous were their call- 
    ings, since these policemen were required not only to repre- 
    sent law and order but they were expected to be teachers. 
    They kept account, for instance, of every man, and they 
    watched over every man and woman who smoked opium; 
    
    
    
    354 INAZO NITOBB 
    
    they had to be acquainted with children of school age and 
    know which children went to school and which did not. 
    Moreover, they were required to teach the parents the rudi- 
    ments of entomology. I do not know how policemen in 
    this country are educated; but I think they are better edu- 
    cated, though perhaps not in entomology and hygiene. But 
    our Formosan police were expected to teach the people how 
    to take care of themselves, and especially about pests, about 
    disinfection, and about lots of other things that would 
    scarcely be required of any policeman in any other part of 
    the world. Moreover these policemen were required to live 
    in a village where there were no Japanese, just a purely 
    Formosan village, alone or sometimes with their wives. Of 
    course the policemen were required to know the language 
    and to speak it. Now under civil administration armies 
    were not mobilized against brigands, and if there was any 
    trouble it was the policemen who had to go and settle bri- 
    gandage. But the brigands were invited to subject them- 
    selves to law and if they surrendered their arms they were 
    assured not only of protection but against hunger. Not 
    a few leaders took the hint and were given special privileges, 
    so that they were assured of a future living. Those who 
    resisted to the end were necessarily treated as disturbers and 
    as criminals. Twelve years ago brigandage was so rampant 
    that the capital of Formosa, Taihoku, was assaulted by them ; 
    but in the last ten years we scarcely hear of it. I went to 
    Taihoku ten years ago and whenever I went a few miles 
    out of the city half a dozen policemen armed with rifles used 
    to accompany me for my protection. But in the last five or 
    six years a young girl can travel from one end of the island 
    to the other, of course excluding savage or aboriginal dis- 
    tricts, of which I shall speak later. 
    
    Thus what Li-Hung-Chang in the conference of Shimono- 
    seki said, turned out to be of no consequence. According 
    to him brigandage was something inherent in the social 
    constitution of Formosa. He said it was something that 
    could not be uprooted in the island; yet here is Formosa 
    to-day with not a trace of brigandage. That is one of the 
    first things which was accomplished by Japan as a colonizer. 
    
    
    
    JAPAN AS A COLONIZER 355 
    
    Then another great evil in the island to which Li-Hung- 
    Chang alluded was the opium smoking. When the island 
    was taken, it was a favorite subject for discussion among 
    our people. Some said opium smoking must be abolished 
    at once by law. Others said, "No, no, let it alone; it is 
    something from which the Chinese cannot free themselves; 
    let them smoke and smoke to death." What took Baron 
    Goto for the first time to Formosa was the desire to study 
    the question of opium-smoking from a medical standpoint ; 
    and the plan he drew up was the gradual suppression of the 
    smoking habit, and the modus operandi was the control of 
    the production — this was to be done by the government, 
    because, if the government monopolizes the production and 
    manufacture of opium, it can restrict the quantity and also 
    it can improve the quality so as to make it less harmful. A 
    long list of all those who were addicted to this habit was 
    compiled, and only those who were confirmed smokers were 
    given permission to buy opium. People who never smoked 
    opium before, or children, were not allowed to buy, much 
    less to smoke opium, and strict surveillance was to be insti- 
    tuted by the policeman, who, as I mentioned before, knows 
    every man in the village. The annual returns made of 
    the confirmed smokers and of the quantity consumed in the 
    island show distinct and gradual decrease of opium. At 
    one time the number of smokers was, in round numbers, 
    170,000. In ten years the olders ones died off and 
    younger ones did not come to take their place; so there is 
    constant diminution. In ten years the number decreased 
    from 170,000 to 130,000; and now it is about 110,000. So 
    there is this constant annual decrease and that, we think, 
    is the only right way to do away with this habit. It may 
    interest you, perhaps, to know that American commissioners 
    from the Philippine Islands came to study our system. 
    When I met them they expressed much satisfaction and I 
    dare say they are going to have the same system introduced 
    in the Philippines, for the Chinese in these islands. Thus 
    the second evil which Li-Hung-Chang said was inherent to 
    Formosa also disappeared, or rather is fast disappearing. 
    
    There are two more obstacles which we consider are in the 
    
    
    
    356 INAZO NITOBE 
    
    way of the further development of the island of Formosa; 
    these are, first the mosquito and second, the savages. By 
    mosquitoes I mean especially the anopheles, the malaria- 
    bearing mosquito. Malaria is the greatest obstacle in the 
    way of developing the resources of the island. The Japanese 
    immigrants who have come suffer, I may say one-third of 
    them, from malaria. If I want labor and if I take with me 
    100 Japanese laborers to Formosa, I can count on the effi- 
    ciency of only 60 or 70, because one-third of the laborers 
    must be expected to be sick with malaria. Hygienic and 
    sanitary measures are vigorously enforced but this can be 
    done only in the larger cities. In the city or rather the 
    capital of Taihoku, they made a very perfect sewage system; 
    they tore down the old castle walls and used the stones in 
    making the sewage ditches, and ever since then the number 
    of people suffering from malaria has decreased greatly. 
    In fact, it is said that malaria has disappeared from the city. 
    Careful observations resulted in substantiating the fact that 
    among the mosquitoes in this city less than 1 per cent be- 
    longed to the dangerous species of anopheles. The rest of 
    the mosquitoes are harmless, that is to say, as far as malaria 
    is concerned. Then also, speaking of sanitation, I am 
    reminded of what we have done against the pest; the pest, 
    or the bubonic plague, was a very common disease there, but in 
    the last four years we hear nothing or it. By constant care 
    and by strict enforcement of sanitary laws is the pest now 
    eradicated or near eradication. 
    
    But as to the aborigines, or the savages of Formosa we cannot 
    say we have nearly eradicated them. They belong to the 
    Malay race and are fierce and brave. As I have said before, 
    they live in the mountains; they never live on the plains. 
    And when they want a head they steal down, hide them- 
    selves among the underbrush or among the branches of trees, 
    and shoot the first Chinese or Japanese that passes by. In 
    fact I knew of a savage who had his rifle so placed on a rock 
    that he could shoot any person who happened to walk past 
    in just a certain direction and at a certain height; and there 
    he waited for days and days for somebody to walk right 
    within his range; and he succeeded in getting a head! With 
    
    
    
    JAPAN AS A COLONIZER 357 
    
    such people it is practically impossible to do anything. 
    In number they must be over 100,000; we cannot count them, 
    but we are pretty sure there are 115,000. Repeated at- 
    tempts we have made but we never have succeeded thus 
    far in doing much damage to them, though they have suc- 
    ceeded in doing much damage to us. 
    
    All that we can do and all that we are doing, in order to 
    prevent their descending from among the heights, is to 
    place a wire fence on the ridge of the hills. Barbed wire 
    was used at first, but now we use a wire fence which is not 
    barbed but is of ordinary wire with a strong electric current 
    running through it. That may sound very savage to you, 
    but it is the only way that we can keep them off from us. 
    I have been in this place and seen the fences. The wire is 
    strung on posts about five feet high; there are four wires with 
    a foot between them, and a strong electric current running 
    through. At first they tried their best to get over the fence, 
    but they have learned not to approach it. This wire fence 
    stretches a distance of some three hundred miles. It costs 
    several thousand dollars ; yet every year we build this fence 
    some miles further in. The next year we go another stretch, 
    so that their dominion will be more and more confined to the 
    very tops of the mountains. Of course I do not wish to give 
    you an impression that we are dealing harshly with them, 
    because we offer them their choice. We say, "If you come 
    down and don't indulge in head-hunting we will welcome 
    you as a brother," — because they are brothers. These 
    savages look more like Japanese than Chinese and they 
    themselves say of the Japanese that we Japanese are their 
    kin and that the Chinese are their enemies. Because the Chi- 
    nese wear their qeues they think that their heads are espec- 
    ially made to be hunted. And now every year, as I say, we 
    are getting a better control over them by this constant mov- 
    ing of the wire fence and by the salt-famine for they have no 
    salt since they are cut off from the sea-shore; they raise their 
    rice, they raise millet, they have their own animals, and so 
    they do not want food, but what they want badly is salt. 
    So we say, "We will give you salt if you will come down and 
    give up your arms;" and tribe after tribe has recognized our 
    
    
    
    358 INAZO NITOBE 
    
    power and has submitted itself to Japanese rule. Then 
    we build them houses, we give them agricultural tools and 
    implements, give them land, and let them continue their 
    own peaceful ways of livelihood. 
    
    Thus I have dwelt in a very sketchy, very unsatisfactory 
    way, on the four points to which Li-Hung-Chang in the con- 
    ference at Shimonoseki alluded as great obstacles in the way 
    of developing Formosa. What now is the result? At first 
    we could not manage a colony with the money that we could 
    raise in the island; every year we had to get some subsidy 
    from the national treasury. It was expected that such a 
    subsidy was necessary until 1910. But by the development 
    of Formosan industries, especially of rice and of tea, (of 
    Oolong tea, for which you are the best customer, because 
    Oolong tea is made chiefly for American export), by develop- 
    ing the camphor industry (because all the camphor that you 
    use, if not artificial, is produced in Formosa) ; by developing 
    sugar, the production of which was increased five-fold in the 
    last ten years (a tremendous increase for any country in 
    any industry) — by developing these industries, we can get 
    money enough in the island to do all the work that is needed 
    to be done there. By this I mean that irrigation work, 
    for instance, is now being carried out on a large scale. Then 
    there is the improvement of the harbors; both in the north, 
    at Kelung, and in the south, at Takao, commodious and deep 
    harbors are now being constructed or improved. "We have 
    built a railroad from one end of the island to the other. 
    Schools and hospitals are now to be met with in every vil- 
    lage and town. Then the police attend to the health, to the 
    industries, and to the education of the people. In all these 
    things we think that we have succeeded quite well, especially 
    when we compare our colony of Formosa with the experi- 
    ments that other nations are making. We often speak of 
    English colonies as being models; we speak of French colo- 
    nies as examples not to be followed ; and we are looking to 
    your experiment in the Philippines to find what it will 
    amount to. Comparing our Formosa with the colonies of 
    these different powers, we have good reason to congratulate 
    ourselves. 
    
    
    
    JAPAN AS A COLONIZER 359 
    
    I have made a very rough, sketchy address this afternoon. 
    I have only tried to show what were the general lines of 
    policy pursued in the development of Formosa. We have 
    been successful. A colony was at first thought to be a 
    luxury, but now Formosa is to us a necessity. The example 
    that we set there in that island will be followed in other 
    colonies of ours. I may say that the general lines of the 
    colonial policy of Formosa were first of all, the defense of 
    the island. So much is said about our increased navy, 
    some people in this country think that we are increasing 
    our navy in order to attack San Francisco or Manila; but 
    with the acquisition of Formosa, of the island of Saghalien, 
    and of Korea, our coast line has increased immensely and yet 
    our increased navy is not sufficient for the proper defence 
    of all the coast lines that we have, for the first great object 
    in the colonial policy of Formosa, and I may say of Japan, is 
    the defence of the new territory. 
    
    The second is the protection of property and life, and the 
    dissemination of legal institutions. People unaccustomed 
    to the protection of law feel as though it were despotism. 
    But they will soon find out that, after all, good government 
    and good laws are the safeguard of life and property, and we 
    have to teach in Korea as well as in Formosa what govern- 
    ment and what laws are. 
    
    Then the third point is the protection of health. I have 
    spoken to you of what we have done in Formosa; similar 
    lines of policy will be pursued in Korea. When I saw Prince 
    Ito in Seoul and when I told him that the population in 
    Korea had not increased in the last hundred years and that 
    perhaps the Korean race was destined to disappear, he said, 
    "Well, I am not sure. I wish to see whether good laws will 
    increase the fecundity of the Korean people." In Formosa 
    it was a very well known fact that without new recruits 
    coming from the mainland of China the population would 
    diminish. There were more deaths than births. But since 
    we assumed sovereignty there annual returns show a gradual 
    increase of births over deaths; hence, as I said, the third 
    great point in the colonial policy of Japan is the protection of 
    health. 
    
    
    
    360 INAZO NITOBE 
    
    The fourth is the encouragement of industries. In For- 
    mosa the government has done much to improve the quality 
    as well as the quantity of rice, and to improve irrigation. 
    The improvements in the sugar industry which have been 
    made were suggested by the government. When the work 
    was started ten years ago we got sixty tons of cuttings from 
    Hawaii; and we have about twenty mills, the machinery 
    being imported from Germany, England and Hawaii. The 
    experiments in the manufacture of sugar were also made by 
    the government and when the experiments resulted in im- 
    provement, this was told to the people; experts were sent 
    out to the different villages, preaching the advantages of 
    better culture. So with other branches of industry. The 
    government is constantly encouraging the people to make 
    improvements. 
    
    And then the fifth policy is that of education. In For- 
    mosa we have just reached the stage when we are taking 
    up education seriously. We could not do it before this, 
    because our idea was first of all to give to those new people 
    something which will satisfy their hunger and thirst; their 
    bodies must be nourished before their minds. And now that 
    the economic condition has improved in the last year or two, 
    schools are being started in all the villages. 
    
    These broad lines of colonial policy which we have prac- 
    tised with good results in Formosa, will be transferred in 
    Korea. We do not trouble ourselves about the question of 
    assimilation. In the last number of the Journal of Race 
    Development published by this University, I read an article 
    by Mr. MacKay, British consul in Formosa. He concludes 
    his article by expressing two doubts, namely: one in regard 
    to the commingling of races, that is, Chinese and Formosans; 
    and second, in regard to the Japanization of the Formosans. 
    He doubts whether either will take place. Well, as far as the 
    Japanese are concerned, we do not trouble ourselves about 
    these questions. I think assimilation will be found easier 
    in Korea because the Korean race is very much allied to 
    our own. In Formosa, assimilation will be out of the ques- 
    tion for long years to come and we shall not try toforceit. The 
    idea is that we put no pressure upon them, with the object of 
    
    
    
    JAPAN AS A COLONIZER 361 
    
    assimilation or Japanization in view. Our idea is to pro- 
    vide a Japanese milieu, so to speak, and if people come and 
    if they assimilate themselves, well and good. We have a 
    proverb in Japan which says, "He who flees is not pursued, 
    but he who comes is not repulsed." If the Formosans or the 
    Koreans come to us, we will not repulse them. We will 
    take them with open arms and we will hold them as our 
    brothers, but we will not pursue them. We leave their 
    customs and manners just as they like to have them. Our 
    principle is firm government and free society. Firmness in 
    government is something which they did not have before, 
    and that is what we offer to them. 
    
    And therefore I beg of Americans who are interested in the 
    development of Japan as a colonial power, not to be misled 
    by reports which now and then appear in different peri- 
    odicals and newspapers by critics of all nationalities and 
    of all countries. I have often read articles written by 
    foreign critics who speak of our administration in Korea 
    as a failure. A well educated man, an American, wrote 
    that in Formosa the people are very much opposed to the 
    Japanese government, are very much dissatisfied with it. 
    If I were to go among the farmers in the west of this country 
    and ask, "Are you satisfied with Mr. Taft's administra- 
    tion?" they would say "Yes, we are." But if I were to 
    press the question. "Do you think there is something to 
    improve?" "Of course," the farmers will say, "I do not 
    think Mr. Taft's administration is perfect." Well, I may 
    note down in my book that the American people are dissat- 
    isfied with Mr. Taft and may rise against him at any mo- 
    ment. Such a rumor you may hear from time to time in 
    any newspaper about any country; but as our adage has 
    it — "Proof is stronger than argument;" and I have given 
    but a few proofs, though, if time allowed, I could give 
    more. 
    



    알라딘: 붓다, 일어서다 - 21세기 한국과 불교의 커뮤니케이션

    알라딘: 붓다, 일어서다 - 21세기 한국과 불교의 커뮤니케이션





    [eBook] 붓다, 일어서다 - 21세기 한국과 불교의 커뮤니케이션  epub

    손석춘 (지은이) | 들녘 | 2014-05-13

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    “붓다의 진정한 가르침은 무엇인가?”, “불교는 21세기 한국 사회에서 어떤 의미를 획득하는가?” 하는 물음을 안고 손석춘 저자가 오랫동안 천착해온 생각의 결과물을 글로 정리한 것이다. 따라서 독자들이 개인과 사회, 정치와 경제, 과거와 미래 등 목전의 고민거리들을 불교라는 매개체를 통해 조용히 성찰하는 데 도움을 준다. 또한, 개인의 성찰을 자극하고 독려하는 것 외에 진정한 “소통”의 열망을 노래한다.



    저자는 대한민국의 불자들에게 날카로운 질문을 던진다. “현대 사회에서 일어나는 일에 아무런 불교적 시각을 갖추지 못하면서 당신은 과연 자신을 불자라고 할 수 있을까?” 하고. 그러면서 이제는 불교가 ‘산중의 금불상’ 앞에 절하며 기복을 갈망하는 데서 벗어나 십우도의 마지막처럼 “시장”으로 내려갈 것을 강조한다. 부처 본연의 가르침을 따라서. 이 책은 세상을 초연하게 보는 데 익숙한 불교인들에게는 급속도로 변화해가는 세상을 불교의 시각에서 바라보게 해주고, 또 불교를 낯설게 여기거나 고루하게 생각하는 독자들에겐 붓다의 가르침이 “지금 여기서” 생생한 울림을 줄 수 있다는 깨달음을 경험하게 해준다.

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    지은이의 말_이건희는 행복할까?

    여는 글_21세기와 불교의 커뮤니케이션



    1부 깊은 산 50년 선승은 뭘 권할까? -살불살조殺佛殺祖

    1. 소유욕에 집착하는 이유를 짚어라

    2. 무한경쟁으로 살 게 아니라 무한향상을

    3. 얻는 것 못잖게 버리면 좋은 걸 왜 모르나

    4. 어찌 죽일 게 부처나 조사만인가.

    5. 욕망 채울수록 병은 깊어간다

    6. 모든 걸 놓아라. 그래야 보인다.

    7. 모든 사람을 부처로 대하라



    2부. 심리치료를 넘어 불교의 뜻은? -회두토면灰頭土面

    1. 붓다가 될 권리

    2. 아름다운 절로 가는 길

    3. 세속의 역사를 어떻게 볼 것인가

    4. 살인과 포화 앞의 슬기

    5. 재산을 모두 호수에 버린 경지

    6. 신문과 방송의 정견(正見)

    7. 모든 기득권 툴툴 턴 붓다

    8. 불교 개혁 어디까지 왔나?

    9. 인터넷 시대 불교의 길



    3부. 해탈 다음에 왜 시장이라 했을까? -입전수수入廛垂手

    1. 십우도의 끝이 시장인 까닭

    2. 탐욕의 경제와 불교적 대안

    3. 참 잘 사는 길

    4. 우리는 왜 ‘천년의 미소’를 잃었을까?

    5. 불교에게 민주주의란 무엇인가

    6. ‘선진국’의 뜻과 불교 싱크탱크

    7. 오늘 한국 불교의 화두는?

    8. 누가 이건희에게 ‘보시’를 가르칠까? 

    9. 붓다처럼



    닫는 글_붓다가 일어선 까닭

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    스님께 세속의 사람들이 올바르게 살아가는 길은 무엇인가를 물었다. 산문에 홀로 들어온 스님들과 달리 한국 자본주의 사회에서 아등바등 가족들의 생계를 꾸려가며 살 수밖에 없는 사람들과 스님이 얻은 깨달음을 조금이라도 나누고 싶어서였다.

    “부처님께 와서 기도하는 분들께 말씀드리고 싶습니다. 갑갑한 일이 있을 때 친구에게 하소연하는 것만으로 마음이 후련해지고 풀리지요. 하물며 부처님 앞에서 자신이 부닥친 문제를 털어놓고 이야기하는 것은 좋은 일입니다. 다만 그 때에도 자신을 도와줄 부처란 어디에도 없다는 사실은 알고 있을 필요가 있어요. 좀 더 분명하게 말하면, 기도 들어줄 어떤 부처도 없습니다. 그런 부처가 있다면 대자대비하신 데 이미 기도하기 전에 다 들어주지 않겠습니까?” 

    어떤가. ‘부처님’을 ‘하나님’으로 바꿔도 통하는 이야기 아닐까?

    적명 스님은 이어 기도하는 것도 좋지만 더 중요한 게 있다고 또박또박 힘주어 말했다. 스님의 뜻은 간명했다.

    기도보다는 스스로 부처가 되라고 권고한다. 바로 이 지점에서 불교는 기독교의 전통과 확연히 대비된다.

    “밖에서 찾는 것은 한계에 부닥칠 수밖에 없습니다. 안에서 찾아야지요. 제가 사회 속에서 살아가는 세상 사람들에게 가장 권하고 싶은 게 참선입니다. 한꺼번에 많은 시간동안 참선하는 것보다 더 좋은 것은 꾸준히 하는 참선입니다. 일상생활에 쫓기는 분들이 오랜 시간 참선할 수는 없지 않겠어요? 그러니 하루 10분 내지 20분이라도 날마다 하겠다는 결심이 중요합니다. 자신의 일상생활 가운데 근원적 해탈을 위한 시간을 정해놓고 지속적으로 참선을 하면 자신의 생각이 열려 간다는 사실을 곧 느낄 수 있습니다. 우리가 몸 건강을 위해 보건체조를 하지 않던가요? 날마다 참선을 해 나간다면 바로 그것이 정신적 보건체조이겠지요.”



    스님에게 산문으로 출가하지 않고도 깨달음을 얻을 수 있을까 묻자 싱긋이 웃었다.

    “머리를 깎고 안 깎고는 중요하지 않아요. 핵심은 스스로 부처를 이루는 데 있습니다. 일체 모든 게 미망임을 알고 놓아버리세요. 뭔가 밖에 들을 바가 있다고 생각하는 것은 아직 중심을 잡지 못했다는 고백에 지나지 않습니다.”



    스님은 현대 사회에서 사람들이 지녀야 할 미덕은 소유욕을 버리는 데 있다고 단언했다. 소유욕은 이 세상에 있는 것들이 실체나 가치가 있다고 생각하는 데서 비롯하고 그것이 숱한 갈등을 빚는다고 강조했다.

    “모든 게 실체가 없음(제법무아)을 꿰뚫으면 집착이 없어져 머물지 않게 됩니다. 그 어느 곳에도 머물지 않으면 그것이 곧 무념입니다”

    적명스님은 그 말을 끝으로 다시 선방으로 돌아갔다. 기기암 선방에서 맑은 입정소리가 오래오래 울렸다._“소유에 집착하는 이유를 짚어라” 중에서





    미국 월스트리트에 몰아친 ‘금융 허리케인’이 세계 경제를 뒤흔들고 있다. 세계적 금융기관들이 줄지어 파산하자, 미국은 7000억 달러를 ‘구제 금융’으로 쏟아 부었다. 그럼에도 여전히 유럽과 아시아의 금융시장이 요동치는 가운데 실물 경제에도 짙은 그림자를 드리우고 있다.

    그래서일까. 더러는 경제가 어려워가는 상황에 불교가 ‘종교 편향’ 문제로 지나치게 정부를 물고 늘어진다고 눈 흘긴다. 심지어 종단 내부에서도 그런 목소리들이 솔솔 흘러나온다.

    (…) 국민 통합은 결코 관념적 요구가 아니다. 부익부빈익빈을 심화시켜갈 이명박 정권의 경제정책을 바로 잡지 않는 한 국민 통합은커녕 경제 살리기도 불가능하다. 기실 이명박의 경제 살리기는 처음부터 잘못 짚었다. 지난 10년 동안 수출 대기업은 죽기는커녕 해마다 엄청난 순이익을 올렸기 때문이다. ‘경제 살리기’가 절실한 사람들은 비정규직을 비롯한 대다수 노동자, 농민, 영세자영업자, 중소기업이었다.

    그럼에도 보라. 경제를 살리겠다는 대통령은 취임 뒤 줄곧 부익부빈익빈 정책을 추진해왔다. 대통령과 장관의 종부세가 한 해에 수 천만 원 줄어드는 감세정책을 제 손으로 강행했다. 바로 그것이 사회 분열 아니던가. 바로 그것이 탐욕 아니던가.

    불교가 ‘경제 제대로 살리기’를 이참에 적극 주창하길 제안한다. 비단 다가올 범불교도대회만이 아니다. 국민 대다수와 소수 기득권층 사이에 점점 더 벌어지고 있는 분열을 치유하고 국민을 통합해가는 데 불교가 적극 나서야 옳다. 경제 살리기에 몰입해도 부족할 판국에 이명박 정권은 촛불시민 수사에 여전히 눈 빨갛다.

    진정한 화합과 통합, 경제 제대로 살리기를 불교가 선구할 때다. 세상을 바꾸는 불교의 힘을 벅벅이 보여줄 때다._“경제 제대로 살리기로 진정한 화합을” 중에서





    결국 이명박 대통령은 공안정국을 더 강화하기 위해 ‘검찰 서열’을 무시하고 천 씨를 검찰총장으로 발탁했다고 판단할 수밖에 없다. 문화방송 피디와 인터넷 논객 수사도 어처구니없는 일이지만, 가장 큰 문제는 용산 철거민 참사를 바라보는 자세다. 이명박 대통령이 서울 용산 참사에서 살아남은 철거민들까지 살천스레 사법처리한 서울중앙지검장을 높이 평가했다는 기사를 우리가 어떻게 이해해야 옳은가.

    찬찬히 짚어볼 일이다. 졸지에 가장을 잃은 철거민 유족까지 사법처리한 검찰 책임자, 천성관 서울중앙지검장은 그동안 떳떳하지 못한 돈으로 호화생활을 해온 사실이 드러났다. 바로 그런 생활을 누리던 검사가 철거민들의 피맺힌 죽음과 눈물을 과연 얼마나 이해할 수 있었을까. 굳이 물어볼 필요가 없을 터다.

    더 큰 문제는 이명박 대통령이다. 대통령이 국정을 어떤 가치로 펴가고 있는지 또렷하게 드러났기 때문이다. 물론, 그의 권위주의적 사고나 부자 중심의 정책은 새삼스런 일이 아니다. 하지만 이 대통령의 천 씨에 대한 높은 평가에서 우리는 그의 ‘생명 경시’를 간파할 수 있다. 실제로 대통령은 용산 참사 앞에서 지금 이 순간까지 어떤 사과도 하지 않았다. 그가 천 씨를 검찰총장으로 발탁한 이유가 역설이지만 왜 사과하지 않고 있는지를 입증해준다. 이명박 정권의 1년 6개월을 톺아보면 생명에 대한 경시 정책을 여러 곳에서 확인할 수 있다. 비정규직 노동자에 대한 정책도, 공공부문의 구조조정을 독려하는 모습도 그 보기다. 사회보장제도가 미약한 나라에서 노동자를 위협하는 법안과 정책을 무람없이 강행하는 밑절미엔 생명에 대한 경시가 깔려있다. 이른바 ‘4대강 정비 사업’도 마찬가지다. 토목사업으로 환경을 파괴함으로써 숱한 생명체의 생존을 위협할 수밖에 없다.

    바로 그렇기에 불교인들에게 주어진 시대적 과제는 더 크다. 불교는 생명의 소중함을 어떤 종교보다 더 중시한다. 이명박 정부가 펴나가는 정책들은 불교의 가치와 정면으로 위배된다. 생명을 존중하는 붓다의 가르침에 대통령이 눈 뜰 수 있도록 끊임없는 문제 제기가 절실하다. 대한민국의 최고 의사결정권을 지닌 정치인이 ‘무명’에서 헤어나지 못한다면 그만의 불행이 아니다. 국가적 어려움으로 이어질 수밖에 없다._“붓다의 가르침이 목마른 계절” 중에서



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    저자 : 손석춘

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     소개 :

    대학에서 철학을 공부하고 커뮤니케이션 사상으로 박사학위를 받았다. 현재 건국대학교 미디어커뮤니케이션학과 교수로 일하고 있다. 사단법인 ‘새로운 사회를 여는 연구원’ 원장과 이사장을 역임했다. 『민중언론학의 논리: 정보혁명시대 네티즌의 무기』, 『무엇을 할 것인가』, 『사람은 왜 그림을 그리고 노래를 부르고 시를 쓸까』, 『신문 읽기의 혁명』(1·2권)을 출간했다. <동아일보> 기자, <한겨레> 논설위원으로 일하며 민주언론상, 통일언론상, 한국언론상, 한국기자상, 안종필자유언론상을 수상했다. 소설 『아름다운 집』...

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    나이 든 사람들이 무사무탈을 비는 종교, 수능 날 <9시 뉴스> 첫 화면에 나오는 종교, 이따금 “00사 분쟁”의 주인공으로 등장하는 종교……변색된 불교의 몇 가지 이름 가운데 하나다. 오랜 세월 불교와 함께 호흡해온 이 땅이지만 정작 오늘을 살아가는 사람들은 불교와 그리 친하지 못하다. 소통하려는 노력도 보기 드물다. 어쩌면 오늘날의 불교는 21세기 한국 사회 곳곳에서 여론을 형성하고 있는 대다수 사람들과 젊은 세대에게 그저 고색창연한 유물인지도 모른다. 하지만 이 책에서 만나게 될 한국 최고의 선승들이 던지는 말에서 확인할 수 있듯, 불교는 본래 산중의 화두로 머무는 종교가 아니었다. 기복 신앙의 모체도 아니다. 불교를 “산중수행”에 “기복 신앙의 특성”을 가진 종교쯤으로 이해한다면 이는 절대적인 오해이다. 붓다의 가르침과 정면으로 어긋나는 탓이다.



    이 책은 “붓다의 진정한 가르침은 무엇인가?”, “불교는 21세기 한국 사회에서 어떤 의미를 획득하는가?” 하는 물음을 안고 저자가 오랫동안 천착해온 생각의 결과물을 글로 정리한 것이다. 따라서 독자들이 개인과 사회, 정치와 경제, 과거와 미래 등 목전의 고민거리들을 불교라는 매개체를 통해 조용히 성찰하는 데 도움을 준다. 비단 그것만이 아니다. 이 책은 개인의 성찰을 자극하고 독려하는 것 외에 진정한 “소통”의 열망을 노래한다. 불교를 오해하고 있는 불자들, 그리고 불교를 전혀 몰라서 생각의 물꼬를 트지 못하는 사람들과! 이 책의 울림이 오묘하며 깊고, 때로 서늘하다고 느끼는 근거이다. 저자는 또 대한민국의 불자들에게 날카로운 질문을 던진다. “현대 사회에서 일어나는 일에 아무런 불교적 시각을 갖추지 못하면서 당신은 과연 자신을 불자라고 할 수 있을까?” 하고. 그러면서 이제는 불교가 ‘산중의 금불상’ 앞에 절하며 기복을 갈망하는 데서 벗어나 십우도의 마지막처럼 “시장”으로 내려갈 것을 강조한다. 부처 본연의 가르침을 따라서. 이 책은 세상을 초연하게 보는 데 익숙한 불교인들에게는 급속도로 변화해가는 세상을 불교의 시각에서 바라보게 해주고, 또 불교를 낯설게 여기거나 고루하게 생각하는 독자들에겐 붓다의 가르침이 “지금 여기서” 생생한 울림을 줄 수 있다는 깨달음을 경험하게 해준다. 종교인은 물론, 새로운 사람과 새로운 사회를 꿈꾸는 모든 독자에게 이 책을 권한다.



    21세기의 새로운 지평을 여는 불교

    아놀드 토인비는 ‘불교와 기독교의 만남’으로 새로운 문명이 열릴 것으로 전망했다. 너무 많이 회자된 명제라 식상한 말이 되었지만, 그 의미를 온전히 성찰한 사람도 드물다. 세계 문명의 흥망성쇠를 평생 연구한 토인비는 왜 그런 결론에 이르렀을까? 사실 2012년 현재 대한민국에서 살아가는 대다수는 서양 문명의 세례를 받으면서 자랐다. 그 터전을 ‘근대 사회’라고 부르든 ‘자본주의 체제’라고 말하든 서양 중심의 문명이 지난 300여 년에 걸쳐 지구촌을 지배한 건 분명한 사실이다. 그리고 그 문명의 배경에는 기독교가 있다. 토인비조차 ‘불교와 기독교의 만남’이 중요하다고 말한 것은 이렇듯 지구촌의 문명의 기저가 된 기독교와 오랜 세월 동양의 정신 · 문화를 일궈온 불교가 소통해야만 새로운 역사의 지평이 열릴 수 있다는 사실을 암묵적으로 받아들이는 탓이다. 그만큼 지구촌에는 동서양의 만남이 중요하고, 그것을 상징하는 기독교와 불교의 커뮤니케이션이 중요하다는 뜻이다. 실제로 서양 문화의 중심축이던 기독교는 종래의 배타주의에서 다원주의로, 교리 중심주의에서 깨달음 중심주의로 변화하고 성숙해가는 모습을 보이고 있다(이 나라에서만 편협한 기독교 근본주의가 여전히 활개치고 있을 따름이다). 그래서 저자는 이제 불교도 낡은 종교라는 오명을 벗어던지고 이 땅의 전통문화를 살리는 일은 물론, 세계적 흐름에 어깨를 나란히 할 수 있는 불교의 세계관을 하루 빨리 정립해야 한다고 역설한다. 물론 “21세기와 불교의 커뮤니케이션”이라는 착상은 별로 새롭지 않다. 불교는 이미 서구에서도 명상과 심리치료에 적극 활용되고 있다. 그렇다면 불교의 본령은 과연 “심리치료”나 “수행” 혹은 “개인의 각성”에 있는 것일까?



    붓다에게 “당신의 역할”을 묻다

    불교는 이제까지 지구촌 사람들의 정서적 불안과 정신 장애를 해결하는 심리치료제로 활용되었다. 그래서 심신이 지친 사람들은 곧잘 산 중 사찰을 찾아가거나 미리 예약을 한 뒤 템플스테이를 떠난다. 사람들의 어지러운 마음을 어루만지는 것, 좋은 일임에 틀림없다. 실제로 붓다의 가르침 역시 고통을 넘어서는 데 있으므로 심리치료를 통해 마음의 평화를 얻는다면 그 또한 불교의 적절한 역할이라 하겠다. 하지만 불교가 21세기에 할 수 있는 일은 심리치료에 국한되지 않는다. 그리 되어서도 안 된다. 불교는 이제 21세기를 살아가는 “지금 여기의” 사람들에게 구체적인 물음을 던지고 구체적인 답을 주어야 한다. 새로운 각도에서 또? 전혀 고답적이지 않은 발상 아래서 정치와 경제, 사회, 인권 문제를 바라보아야 하고, 그것들을 조망하고 비판할 수 있는 건강하고 공정한 시각을 줄 수 있어야 한다. 하지만 애석하게도 한국의 불교는 여전히 대다수 국민에게 “산중 종교” 또는 “기복 종교”로 각인되어 있다. 미국과 유럽의 자본주의에 견주어볼 때 훨씬 더 치열하고 야만적인 경쟁 체제에 놓인 대한민국에서 말이다. 어쩌면 계층 간의 위화감, 서로에게 묻어나는 적대감이 너무 큰 탓에 종교(종교인)가 일찌감치 겁을 집어먹고 산사山寺로 혹은 대리석 성전으로 도망을 갔는지도 모를 일이다. 하지만-이 책에서 살펴보겠지만-불교의 고갱이인 제법무아(諸法無我)는 사실 현대인의 정신적 장애는 물론 사회적인 위기를 넘어서는 데에 매우 효과적인 가르침을 담고 있다. 불교는 원래 “산중 종교”가 아니라 “시장의 종교”였기 때문이다.



    사회적 담론을 만들어가는 불교

    이 책의 1부는 산중문답으로 구성되었다. ‘깊은 산 50년 선승은 뭘 권할까?’는 제목 그대로 저자가 한국의 깊은 산에서 50년 안팎 참선에 전념해온 일곱 명의 고승들을 찾아 세상을 어떻게 살아야 하는가를 물은 뒤 정리한 글들이다. 살불살조(殺佛殺祖)는 <임제록>에 나오는 말이다. 중국의 대표적 선승 임제는 “안으로나 밖으로나 만나는 것은 바로 죽여라. 부처를 만나면 부처를 죽이고 조사를 만나면 조사를 죽이며……부모를 만나면 부모를 죽여야만 비로소 해탈하여 어떤 물건에도 구애받지 않고 꿰뚫어 해탈하여 자유자재하게 된다”고 선언했다. 매우 통렬한 가르침이 아닐 수 없다. 2부는 ‘심리치료를 넘어 불교의 뜻’을 묻는 글들을 모은 것이다. 회두토면(灰頭土面)은 머리에 재를, 얼굴에 흙먼지를 뒤집어 쓴 모습을 이른다. 바로 누구든 깨달음을 얻은 뒤에는 혼자 수행할 게 아니라 세속의 중생과 더불어 깨달음의 길을 걸어가라는 뜻이다. 2부는 그런 가르침을 담았다. 따라서 1부의 산중문답에서 세속으로 내려와 흙먼지와 재를 덮어쓰며 살고 있는 세상 사람들의 일상에서 붓다의 가르침을 찾았다. 우리가 살고 있는 사회의 쟁점이 되었던 일들, 앞으로도 우리 삶의 질을 좌지우지할 수 있는 시사 문제들을 불교적 시각에서 조명한 글들이다. 3부는 ‘해탈 다음에 왜 시장이라 했을까?’는 물음에 그 뜻을 성찰하고 답한 글들이다. 기실 그 물음은 십우도의 마지막 단계인 입전수수(入廛垂手)를 이른다. 십우도(十牛圖)는 선의 입문부터 해탈에 이르는 과정을 동자(童子)나 스님이 소를 찾는 것에 비유해서 묘사한 선종화(禪宗畵)다. 심우(尋牛), 견적(見跡), 견우(見牛), 득우(得牛), 목우(牧牛), 기우귀가(騎牛歸家), 망우존인(忘牛存人), 인우구망(人牛俱忘), 반본환원(返本還源)에 이어 마지막이 입전수수다. 해탈에 이른 뒤 시장으로 들어가 손을 내밀라는 가르침은 21세기의 우리에게 큰 감동을 준다. 현대인이 살아가는 구체적 생활의 시대적 과제와 정면으로 마주치라는 가르침인 탓이다.

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    총 : 4편

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     붓다 일어서다  새창으로 보기

    푸하핫 ㅣ 2012-04-21 ㅣ 공감(0) ㅣ 댓글 (0)

    불교는 중생들에게 어떤 의미일까

    예전에 불교에 대해서 공부할때 불교의 사성제에 대해서 공부했던 적이 있었다

    그때 불교의 사성제를 공부하면서 불교란 인간에게 본질적으로 어떤의미일까 참 많이 궁금했었는데 불교는 알면 알수록 중생들을 이끄는 묘한 매력이 있는것 같다

    이책은 손석춘 저자가 불교에 대해서 지금 현대가 앓고 있는 질병과 사람들의 마음 그리고 지금 현 시점에서 불교란 어떤 의미인지 한권의 책으로 집대성하게 풀어 놓은 책이다

    그렇기 때문에 이 책은 읽는 이로 하여금 많은 깨달음과 성찰 반성을 하게 만들며 자신의 걸어온 삶의 발자취를 되돌아보게 만들고 삶을 바로볼수 있게 해주는것 같다

    우선 이책의 목차는 크게 3부로 되어있다

    1부는 깊은 산 50년 선승은 뭘 권할까 살불살조

    2부는 심리치료를 넘어 불교의 뜻은 회두토면

    3부는 해탈 다음에 왜 시장이라 했을까 입전수수

    여기서 살불살조란 부처를 만나면 부처를 죽이고 조사를 만나면 조사를 죽이라는 뜻이다

    그리고 회두토면은 더러운 얼굴. 겉으로만 꾸며 체면을 닦는 데 뜻이 없다 라는 뜻이며

    입전수수는 저자에 들어가 손을 드리우다로 동자가 지팡이에 큰 포대를 메고 사람들이 많은 곳을 향해 가는 모습을 묘사하고 있다

    또한 3부에서 말하는 시장이란 우리들이 물건을 사고파는 곳을 뜻하는게 아니라 시장 즉 배고픔을 말한다

    이책은 1부에서 부터 지금까지 살아온 삶에 대해서 뒷통수를 한대 후려갈긴다 그렇기 때문에 1부는 읽는데 조금 충격적이며 지금까지의 삶에 대한 생각에 변화를 이끄는것 같다

    2부는 부처님의 진리에 대해서 진정한 불교의 뜻에 대해서 알아갈수 있게 해주며 3부는 불교에서의 해탈이란 어떤의미인지를 짚어주는것 같다

    그렇기 때문에 이책은 여러모로 많은 도움을 주는 책 같다

    인간이 살아가는데 불교의 참뜻이 얼마나 많은 변화를 사람을 이끌수 있으며 삶을 바로볼수 있게해주며 타라하고 병든 인간의 마음에 얼마나 많은 깨달음을 주는지 그리고 삶에 대한 바른 생각과 가치관을 형성할수 있게 해주는지 이책을 보면서 많이 반성한것 같다

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     붓다, 일어서다 _ 인류 보편적인 가르침을 불교를 통해 얻다  새창으로 보기

    앨리스 ㅣ 2012-04-16 ㅣ 공감(1) ㅣ 댓글 (0)

    친가는 불교, 외가는 천주교이다 보니 양 쪽 종교를 골고루 접하며 자랐다. 다행히도 친가, 외가 모두 타 종교에 대한 배타심이 전혀 없었던지라 나에게 어떤 종교도 강요하지 않았고 스스로 선택하기를 권장하셨다. 나이가 먹어서 난 천주교 신자가 되었지만, 철학으로서 한 학문으로서의 불교에 대한 경외심은 늘 가지고 있다. 천주교 신자이면서도 불교 소설을 쓴 최인호 작가의 <길 없는 길>을 보며, 불교가 종교를 넘어서 인간 본연의 도리를 가르친다는 생각은 강해졌었다. 천주교 신자가 된 후에도 절에 가는 일은 멈출 수 없었다. 절에 간다는 것은 종교적인 예의를 갖추기 보다 마음의 평화를 찾는 일이었다. 조용한 산 속의 절에 가서 스님들의 목탁 소리를 듣고 처마에 걸린 종이 바람에 흔들릴 때면, 세상에서 얻은 근심들이 사라지는 듯 했다. 이렇게 불교란 내게 종교 이전에 하나의 가르침이었다. 그래서 불교를 둘러싼 비리나 잡음들이 들려올 때면 괜히 내 마음이 심난했다. 하지만 늘 그것들은 사람들에 의해 왜곡되고 몇몇 잘못 된 사람들에 의해 변색된 것일 뿐이었다. 진정한 철학으로서의 불교, 그것은 늘 우리에게 인류 보편적인 가치를 가르친다는 점은 의심할 수 없었다. 그리고 이 책에서 나의 의심이 틀리지 않았음은 드러난다.

    3개의 장을 통해 불교에서 중요시하게 여기는 3개의 화두를 던지는 이 책은 그 화두 속에서 오늘날의 우리를 바라보게끔 한다. 즉 이 책은 단지 불교를 종교로서 믿는 사람들 뿐만 아니라 모두가 읽어봄직 하다. 살불살조殺佛殺祖, 회두토면灰頭土面, 입전수수入廛垂手가 바로 그 화두 들이다. 임제록에 수록 된 '살불살조殺佛殺祖'라는 말은 부처를 만나면 부처를 죽이고 조사를 만나면 조사를 죽이라는 뜻이다. 자신이 믿는 신을 죽이라고 하는 이 종교가 어떻게 보면 이해되지 않겠지만, 이것은 무소유와 일통한다. 자신의 마음이 비어있으면 부처나 조사 그 어떤 관념에도 집착하지 않을 수 있고, 세상이 정해 놓은 관념에서 벗어날 때 진정한 깨달음을 얻게 된다는 가르침이다. 즉, 신을 죽이라는 것이 아니라 자신이 정해 놓은 관념을 버림으로써 나 스스로가 부처의 가르침을 진실로 받아들이고 부처가 될 수 있다고 하니, 여러 관념들 속에서 세상을 어지럽히는 사람들이나 세상을 어지럽게 바라보는 현대의 모두에게 꼭 필요한 화두임에 틀림없다. 회두토면灰頭土面은 겉으로만 꾸며 체면을 유지하는 데 급급한 태도를 버려야 한다는 것이다. 깨달음을 얻은 후에는 더러운 세상이라도 이 세상 속에서 사람들에게 그 깨달음을 전하며 살아가야 한다는 말인데, 이는 불교가 우리가 생각하는 것처럼 산 속에서 도를 닦는 그 이상의 가치가 있음을 말해준다. 우리 세상 곳곳에서 벌어지는 여러 사건들에 대한 답, 그 모든 것이 불교에서 답을 찾을 수 있다고 말하니 이것은 내가 그동안 생각해 온 불교가 가진 인류 보편적 가치에 대한 철학과도 일맥상통한 것이었다. 이 가르침은 마지막 장에서 나오는 입전수수入廛垂手와도 뜻을 함께 하는데, 입전수수란 선종의 최고 이상향을 나타내기도 한다. 그것은 선을 닦고 본성을 찾아 헤메다가 깨닫게 되는 최고의 경지가 중생의 제도라는 것을 나타낸다. 즉, 불교의 가르침을 잘 받았다면 결국 세상의 제도 속에 들어가 그것들의 문제를 마주하는 데에 큰 뜻이 있다는 것이다.

    내가 천주교 신자가 된 후에, 아버지는 약간의 아쉬움을 표하시면서도 그런 말씀을 하셨더랬다. '너의 종교는 아무래도 좋다. 단, 무엇을 믿음에 신중하고 무엇을 믿더라도 보편적인 가치를 전해주는 가르침은 놓지 말아라.' 그 말의 뜻도 잘 모르고 귀찮은 마음에 대충 고개만 주억거린 나는 이 책을 통해 아버지의 말씀을 찾았다. 아버지는 내가 종교로서가 아닌 철학으로서 불교를 존중함을 알고 계셨고, 그러니 한가지 종교에 치우치지 말고 여러 가르침을 받아들일 수 있는 사람이 되길 강조하셨던 것이었다. 그것이 이 책의 세가지 화두에서 드러났고 그럼에 이 책이 더 고마웠다. 이 책은 21세기 대한민국이 어느 방향으로 나가고 있는지를 물었다. 하지만 난 그에 앞서 내가 어디로 가고 있는지에 대해 생각했다. 스스로의 문답에도 익숙치 않은 나는 아직 가엾은 중생일 뿐이었다. 부처처럼 큰 사람이 되지는 못하더라도 부처의 가르침은 받아들이고 싶다던 나는 30년 째 제자리 걸음이었다. 그런 내가 대한민국을 논하기엔 버거웠지만, 이 책을 통해 딱 두 가지는 얻을 수 있었다. 그것은 세상에 똑바로 눈을 뜨고 문제를 직시하고 나 하나부터 올곶게 살아갈 것을 다짐하는 일이었다. 그리고 아버지의 말씀에 대한 해석이었다. 그리고 그 대답은 말로 표현하는 대신 이 책을 전해드리는 일로 하면 될 것이라 생각한다.



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     붓다-일어서다를 읽고  새창으로 보기

    노박사 ㅣ 2012-04-09 ㅣ 공감(0) ㅣ 댓글 (0)

    『붓다-일어서다』를 읽고

    ***해당 서평은 출판사에서 제공받은 도서를 읽고 작성되었습니다.***

    현대 사회에 살고 있는 우리들에게 있어 종교의 역할은 아주 중요한 역할을 하고 있다고 본다. 많은 종교가 존재하고 있지만 각자 나름대로 선택의 자유가 있고, 선택한 종교에 대해서는 얼마만큼 열심히 믿고 따르냐도 순전히 자유이다. 그래서 더욱 더 자유롭게 생활할 수 있는 그런 좋은 나라에 살고 있다 하여도 과언이 아니다. 그런데 종교가 각각 다르다 보니 보이지 않는 갈등도 존재하는 것이 사실이다. 오직 자신만이 믿는 종교만이 최고이다 보니 다른 종교는 그저 인정하지 않으려는 편협된 생각도 주변에서 많이 볼 수 있다. 참으로 아쉬운 일이다. 종교인이라면 넓은 아량과 함께 활짝 열린 마음으로 오히려 개방이 되어서 더 많은 활동을 하여야 함에도 불구하고, 오직 자신만의 종교에 매몰되다 보니 더욱 더 폐쇄된 모습을 볼 때에는 종교에 대한 부정적인 생각이 들 때도 있는 것이다. 우리나라는 고유의 자연 신을 포함하여서 나름대로 전통적인 신앙도 있지만 삼국 시대에 들어온 불교가 결국 고려시대까지 전성시대를 이루다가 조선왕조에서 성리학인 유교가 국교로 되면서 조금은 침체되면서 산중으로 들어가게 되었고, 조선 말의 근대에는 서양으로부터 크리스트교(천주교, 개신교)가 들어오게 되었고, 일제 통치 시대를 거쳐서 지금의 종교의 주류를 이루고 있다 할 수 있다. 종교를 믿는 대부분의 국민들이 불교와 크리스트교를 신봉하고 있다. 역시 도심을 중심으로는 교회와 성당이, 산중을 중심으로 사찰이 있어 많은 신도들이 적극적으로 활용하는 모습을 볼 수가 있다. 모두가 개인만의 이익에 앞서 주변 사람들을 위한 본래의 종교적인 이념을 실천해 나가는 모습이었으면 하는 바람을 가져본다. 개인적으로 종교를 갖고 있지 않지만 부모님이 시골 마을  뒷산에 있었던 조그마한 사찰에 다니게 되어서 그런지 불교가 마음을 더 편하게 한다. 불교는 특히 다른 종교와 다르게 열심히 노력하면 부처가 될 수 있다는 믿음이 더욱 더 마음에 와 닿는다. 붓다의 자비로움을 실천할 수 있는 바탕이 되기 때문이다. 종교의 힘은 대단함을 가지고 있다. 따라서 종교 신도들이 우리가 생활하고 있는 세상 속으로 편하게 들어와서 활발하게 활동을 해야 한다는 점이다. 정말 불교의 원리를 제대로 파악하고 그 원리들을 주위 사람들을 위해서 헌신적으로 노력할 때 진정한 종교의 힘이라고 생각한다. 저자의 이야기대로 붓다가 대웅전에 그대로 모셔져 있다기보다는 활달하게 사람 속으로 나와서 서로 소통이 될 수 있도록 했으면 한다. 그래서 붓다의 가르침이 새로운 사회와 새로운 사람들에게 진정한 삶에 있어서 생생한 울림을 통한 새로운 경험을 줄 수 있도록 모두가 노력했으면 한다.

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     21세기 한국과 불교의 소통을 바라며...  새창으로 보기

    아이비 ㅣ 2012-04-05 ㅣ 공감(1) ㅣ 댓글 (0)

     "사회가 썩어갈 때, 그것을 건강하게 할 책임이 네 군데 있어요. 종교계, 교육계, 언론계, 법조계죠. 그런데 어떻습니까. 그 네 곳이 더 썩지 않았습니까? 가장 많이 썩은 게 종교계지요. 그러니 모든 사람이 돈만 좇을 수밖에요." (-30쪽)



    종교... 언제부턴가 우리는 종교이야기를 하면 머리가 아파지기 시작했다. 심한 경우 자신의 종교를 자신있게 앞세우지 못하는 경우도 있는 듯 하다. 마음의 안식을 찾기 위해서라는 궁극의 목적을 잃어버린 탓이라고 나는 감히 말한다. 수단이 되어버린 종교.. 그래서인지는 몰라도 작금의 상황으로 볼 때 종종 종교인의 각성을 촉구하는 모습도 어렵지 않게 볼 수 있다. 그러나 따지고보면 그 누구의 잘못이라고 꼬집어 말 할 수 없다는 것도 인정해야만 한다. 그래서 이 책은 나의 시선을 끌기에 충분했다. 쓰러져가는 혹은 무너져내리는 어떤 것을 제대로 세우기 위해 누군가는 다가가야 하고 또 누군가는 힘을 써야하는 까닭이다.



    얼마전 우연히 TV를 보다가 변해가는 유럽의 기독교인들에 대한 다큐를 보게 된 적이 있었다. 불교적인 명상수행이 그들의 기도처에서 행해지고 있었는데 한 사람도 그것에 대한 거부반응을 보이지 않았다는 게 신선한 충격으로 다가왔다. 그들이  하나같이 입을 모아 했던 말이 생각난다. 종교를 통해 진정한 마음쉼을 얻을 수 있다면 그것이 바로 진정한 종교가 아니겠는가,라는.... 형식은 중요하지 않다. 사실 모든 종교의 궁극적인 목적은 같을테니 말이다. 나는 개인적으로 절집이 세상으로 내려와야 한다는 말에 찬성하지 않는다. 그런데도 이 책은 산중의 붓다가 이제는 '시장'으로 내려와야 한다고 말한다. 물론 단순하게 형식적인 의미만을 두고 하는 말은 아닐 것이다. 하지만 우리의 종교가 기독교가 되었든, 불교가 되었든 세상속으로 걸어들어올 만큼의 정체성을 가지고 있는가를 먼저 따져보고 싶은 것이다. 우뚝 선 모습으로 우리 삶의 지렛대 역할을 해 줄 수 있다면 그것처럼 멋진 일도 없을테니... 변화를 위한 그들만의 노력도 책을 통해 알려주긴 하지만 세상이 소수보다는 다수에 의해 움직이는 것이니 쉽진 않아 보인다. 나와 다른 소수를 안아주지 못하는 세상이 바로 지금 우리가 살아가고 있는 모습인 것을... 책을 읽으면서 내내 안타까움에 마음을 졸였다.



    책을 읽던 중에 문득 생각나 표지의 그림을 한참동안 바라보았다. 머리위의 초에서 흘러내린 촛농이 마치 부처의 굵은 눈물처럼 보여 보는 마음을 싸하게 만들었다. 저 부처는 떨어지는 촛농이 뜨거워 우는 것은 아닐까? 차마 눈을 뜨지 못한 채 굳게 다문 입술로 말하고 싶은 건 무엇일까?  많은 의미를 담은 듯한 그림을 보면서 이 책이 종교서적인가를 묻고 싶었다. -21세기 한국과 불교의 커뮤니케이션- 이란 부제를 달아놓긴 했어도 종교를 빌미로 너무나도 많은 것을 말하고 있는 까닭에 읽으면서 조금은 껄끄러웠던 것도 사실이다. 저자가 어떤 마음으로 종교와 사회적인 현상을 빗대어 말했는지 그 깊은 속내를 알 수는 없다. 돌아가신 김수환 추기경이나 성철스님처럼 우리에게 이정표가 되어줄 인물이 없는 것도 틀린 말은 아니다. 큰 목소리로 시끄럽게 떠들지않아도 울림을 줄 수 있는 사람이 있다면 그것처럼 좋은 일도 없을테지만, '불교적 시각'이라는 어려운 말속에서 '소통'이라는 열망을 찾아내야 한다는 것이 조금은 무리수가 아닐까 싶은 생각도 드는 것이다. 불자가 아니어서일까? 내가 받아들이기에는 그랬다는 말이다.



    사실 나는 아직까지 종교가 없다.  친구따라 주변따라 어린시절 교회에 나가본 적은 있지만 나이들어 종교의 필요성을 느끼게 되면 천주교인이나 불자가 되리라 생각하고 있던 참이다. 때때로 성당이든 법당이든 들어가 기도하고 잠시 앉아 있기도 한다. 붓다의 가르침이 '지금 여기서'라는 울림을 줄 수 있다는 말에 대해 다시한번 생각해보게 된다. 책을 읽고 얄팍하게나마 전해받은 느낌이 있기는 있다. 하지만 책장을 덮으면서도 흔히 말하는 '진보성향'이라는 말을 지울 수가 없었다. 방심하고 있다 돌려차기에 당한 그런 느낌이랄까?  내가 순수한 종교서적을 생각하고 있었던 탓인지도 모르겠지만 솔직하게 말해 종교보다는 우리곁에 만연한 사회적 현상을 더 많이 이야기하고 있다. 그것도 직설적으로. 뒤에 남는 여운이 그다지 명쾌하지는 않았다. 그럼에도 불구하고 지금 우리의 가려운 곳을 긁어줄 누군가의 손을 기다리고 있는 절박함에 공감하게 되는 건 어쩔 수 없었다. 어쩌면 이미 학습되어져버린 가치로 모든 것에 대한 판단을 내리고 있을지도 모를 일이지만 교육의 현실은 또다시 나를 아프게 한다.



    '1+9=ㅁ' 와 같은 문제 유형을 보자. 우리가 흔히 비교하는 핀란드나 스웨덴 학교에서는 '1+9=ㅁ'와 같은 문제를 내지 않는다고 한다. 'ㅁ+ㅁ=10'의 유형이다. 1+9=ㅁ에서 ㅁ안에 들어갈 정답은 하나지만 ㅁ+ㅁ=10의 정답은 하나가 아니다. 무궁무진이다. 1과 9나 2와 8만이 아니다. -48과 +58을 적은 친구도 나오고, 2.13과 7.87 따위로 적은 학생도 있다.(-181쪽 참조)

    창의적인 사고를 외치는 우리 교육의 현주소를 보는 것 같아 씁쓸했다. 몰라서 못하는 것은 아닐테니 더욱이나 그렇다. 다 알면서도 모른 척 외면해버리거나 나아닌 누군가가 나서주기를 바라는... 그 스님의 말씀처럼 나를 포함한 많은 사람이 불교의 존재원리를 제대로 이해할 수만 있다면 정말 좋은 세상을 만들 수 있는 것일까? /아이비생각



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    ACTのスタッフ

    谷口真紀が当会唯一のスタッフであり、代表を務めます。

    谷口真紀は、1975年、山口県萩市に生まれました。自称、「松下村塾」学区の出身です。 同志社大学卒業後、近江兄弟社中学校の英語教員を経て、アメリカの大学院SIT Graduate Instituteで紛争解決・平和構築を学びました。 大学院在学中にアメリカの平和構築NGO(非政府組織)のKaruna Center for Peacebuildingでインターンをしていた時には、アフリカのルワンダに滞在し、地元の女性たちの平和構築プログラムのお手伝いをしました。 また、その後、六十カ国以上の国々からの参加者がアメリカに集う平和構築セミナーCONTACT(Conflict Transformation Across Cultures)の運営にもたずさわりました。

    その後、日本に戻り、関西学院大学大学院でピースビルダーの一人である新渡戸稲造の研究を始めました。 現在は、滋賀県立大学で英語の特任准教授を務めながら、ライフワークである新渡戸稲造研究とともに、PACTの活動に励んでいます。
    代表者のメッセージ

    わたしは、大学での学術研究の枠を出て、幅広い人々とともに学んでいくために、このNGO活動を始めました。 アメリカやルワンダの現場でわたしが直に学んだのは、草の根の活動には一人一人の心を動かす力があるということでした。 PACTの活動は、わたし自身の心の平和の種を育てる取り組みでもあるのです。

    わたしの目的は、新渡戸稲造を知ってもらうことではありません。新渡戸稲造は、あくまでテキストにすぎません。 PACTが目指すのは、新渡戸の活動や考えに触れた人々が自分自身の日々の生活や発想を見つめ直すきかっけを作り出すことです。 人と人、国と国の相互理解に力を尽くした新渡戸の経験は、おたがいの違いを受け入れる心がまえを教えてくれます。 PACTは、そうした新渡戸の経験を一方的に伝えるのではなく、話し合いや語り合いの中で共有することを、何より大切にします。 みなさんと出会える日が、今から楽しみです。
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    やしの実通信 早川理恵子 | 新渡戸稲造と矢内原忠雄

    やしの実通信

    早川理恵子 at 13:14 | 新渡戸稲造と矢内原忠雄


    私の昭和史・第一部

    私の昭和史・第一部



    私の昭和史

    ― 自分史の試み ―
    岡野幸郎

    生い立ち
    はじめに
    十干十二支

    幼年時代
    自然環境
    家庭環境
    祖母のこと
    吉名尋常高等小学校
    通知書
    学芸会
    寺西先生
    水泳事始
    姉のこと
    三好の先生

    少年時代
    高等科1年生
    広島県立忠海中学校
    藤村忠雄
    弁論部
    受験勉強(1)
    受験勉強(2)


    戦争の時代
    はじめに
    海軍兵学校(1)
    海軍兵学校(2)
    航空母艦葛城
    松村清行


    戦後処理
    はじめに
    復員輸送
    賠償艦艇の引渡し
    磁気機雷の掃海
    海上保安庁保安局掃海課

    東京大学法学部
    入学試験
    大学生活
    卒業
    成績

    平和の時代 その一
    はじめに
    ニューヨーク航路
    結婚

    平和の時代 その二
    飯野海運釣り部
    父の生涯とその死
    ボムベイの日々

    平和の時代 その三
    はじめに
    FLOPEC
    外国出張

    自分史作成の動機
    自分史の時代区分
    自分史の文体
    中村稔著『私の昭和史』
    言ふなかれ、君よ、わかれを、


    私の昭和史


    はじめに
    補遺作成の目的
    補遺の構成

    読書遍歴(戦前戦中篇)

    幼少年期の読書
    幼年倶楽部
    野口英世
    テルモピレーの戦い
    少年倶楽部
    新戦艦高千穂
    豪勇荒鷲艦長
    少年模範文

    中学時代の読書
    明治大正文学全集
    肉弾と此一戦
    デカメロン
    壇ノ浦夜合戦記
    受験英単語熟語の綜合的研究
    米英東亜侵略史

    戦争中の読書
    讀史余論
    魂の外交
    分隊士勤務参考書

    読書遍歴(戦前戦中篇)へのあとがき
    読書遍歴のあらまし
    外国推理小説の誤訳
    おとなしいアメリカ人


    わが日常
    引越騒動記
    わが日課
    パソコン生活
    わが健康法
    わが病歴
       
    一年後・二年後
    歩こう会
    わが病歴・CT検査
    最終的な決定
    『がん残日録』
    死生観
    関西旅行


    ひろ子の世界一周旅行
    横浜出発-いきさつ-シベリア鉄道-
    北欧3国-西ヨーロッパ-東ヨーロッパ-
    アフリカ-北米-中米-自由-南米-
    南太平洋・オセアニア-まとめ-
    編集者のあとがき-付録




    おわり