新渡戸稲造
新渡戸稲造 | |
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生誕 | 新渡戸稲之助 1862年9月1日 陸奥国岩手郡盛岡 |
死没 | 1933年10月15日(満71歳没) カナダ、ビクトリア |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 農学 |
出身校 | 札幌農学校 帝国大学退学 |
主な業績 | 『武士道』の執筆 |
配偶者 | メアリー・エルキントン(新渡戸万里子) |
子供 | 遠益、こと |
プロジェクト:人物伝 |
日本プロテスタントの三大源流 |
札幌バンド |
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関連記事 |
人物 |
広井勇 |
歴史 |
札幌農学校 札幌独立教会 無教会主義 |
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国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。
目次
[非表示]生涯[編集]
陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛の用人を務めた盛岡藩新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り新渡戸家の家計を大いに助けた。明治天皇の巡幸の際に、新渡戸家でご休息なさった陛下の御前に跪いた稲之助に、父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべしとの主旨の御言葉を賜り、以後農政を志すようになったという。
盛岡から上京[編集]
東京に着くと、稲造は叔父の洋服店を訪ね、養子となって太田稲造と名のるようになった。まず英語学校で英語を学び、翌年には元盛岡藩主南部利恭が経営する「共慣義塾」という学校に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。それは、ある日の冬に自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず、「店の金を持ち出した」と疑われるほどであったという。それからというもの、稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。
13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の東京大学)に入学する。ここで稲造は佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、やがて農学の勉強に勤しむことを決意する。
札幌農学校へ[編集]
札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。在学中、札幌丘珠事件が発生し、解剖担当者にあたったという。稲造は祖父[1]達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家)というあだ名を付けられた。
クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた。クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。
この頃から稲造は目を悪くし、眼鏡をかけるようになった。やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまう。数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、『サーター・リサータス』(Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となり生涯に幾度となく読み返した。
学の道へ[編集]
農学校卒業後、級友達とともに道庁に奉職し、畑の作物を食い散らすイナゴの大群を退治するためにあちらこちらの農村を駆け巡るが、学問を志して帝国大学(のち、東京帝国大学、東京大学)に進学。しかし当時の農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学する。1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会う。米国の某地で日本についての講演をした際に、聴衆の一人であったメアリー・エルキントンが稲造を見初めて告白をしたという。
その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。そのいきさつとして、米国留学にて農業を経済学と結び付けて考える必要を感じた稲造は、独学で社会科学を学び新たな学問を創設しようと試みたのであるが、ドイツ留学にて農政学が既にゴルツやブッヘンベルゲルにより創始されていたことを知った。この間、『女学雑誌』にドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている(巌本善治は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する明治女学校で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。帰途、アメリカでメアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職してカリフォルニア州で転地療養した。
この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている[2]。
台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした[3]。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した[4][5]。
その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年(明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位もうけた。同年、牧野伸顕文相の意向で、日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。それまでの東洋的文化色が強かった同校に、西洋色を取り入れようと努めた。愛読書でもあるカーライルの『衣服哲学』の読書を学生に薦めるなどした。その新たな学風づくりの試みは、河合栄治郎などに影響を与えた。1911~1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。その他、津田梅子の津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。
「郷土会」の発足[編集]
1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーには、柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤、牧口常三郎、中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。
国際連盟事務次長[編集]
1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長のひとりに選ばれた[6]。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。
エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しなかった。同年、バルト海のオーランド諸島帰属問題の解決に尽力した。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。
晩年[編集]
1928年(昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929年(昭和4年)、学監を務めた拓殖大学から名誉教授号を受ける。
1932年(昭和7年)、軍国主義思想が高まる中「わが国を滅ぼすものは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼、特に在郷軍人会や軍部に迎合していた新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが、満洲国建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だった。
翌1933年(昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加した。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、永眠する。
人物[編集]
キリスト教徒(クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから矢内原忠雄、高木八尺、南原繁、宇佐美毅、前田多門、藤井武、塚本虎二、河井道などの著名な教育者、政治家、聖書学者らを輩出した。
家族[編集]
1891年(明治24年)にアメリカ人女性メアリー・エルキントン(Mary P. Elkinton 日本名:万里子)とフィラデルフィアで結婚している。二人の間には遠益(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折している。養子に孝夫(よしお)がいる。
祖父の新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった南部盛岡藩の北部・三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路・稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し産業開発も行った。傳は江戸で材木業を営み成功するといった才能もあった。この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼりつめた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没している。
後世[編集]
年譜[編集]
- 1862年(文久2年) 盛岡藩(のち岩手県盛岡市)の、当時奥御勘定奉行であった新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名稲之助。
- 1871年(明治4年) 兄道郎とともに上京。叔父太田時敏の養子となる。
- 1873年(明治6年) 東京外国語学校英語科(のちの東京英語学校、大学予備門)に入学。
- 1877年(明治10年) 札幌農学校に第二期生として入学。卒業後、東京大学選科入学。同時に成立学舎にも通う。
- 1882年(明治15年) 農商務省御用掛となる。11月、札幌農学校予科教授。
- 1884年(明治17年) 渡米して米ジョンズ・ホプキンス大学に入学。
- 1886年(明治19年) クェーカー派、モリス茶会でメリーと出逢う。
- 1887年(明治20年) 独ボン大学で農政、農業経済学を研究。
- 1889年(明治22年) ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。長兄七郎没、新渡戸姓に復帰。
- 1891年(明治24年) 米国人メリー・エルキントン(1857-1938、日本名:萬里)と結婚。帰国し、札幌農学校教授となる。
- 1894年(明治27年) 札幌に遠友夜学校を設立。
- 1897年(明治30年) 札幌農学校を退官し、群馬県で静養中『農業本論』を出版。
- 1900年(明治33年) 英文『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)初版出版。ヨーロッパ視察。パリ万国博覧会の審査員を務める。
- 1901年(明治34年) 台湾総督府民政部殖産局長心得就任。
- 1903年(明治36年) 京都帝国大学法科大学教授を兼ねる。
- 1906年(明治39年) 第一高等学校長に就任。東京帝国大学農科大学教授兼任。
- 1909年(明治42年) 実業之日本編集顧問となる。
- 1916年(大正5年) 東京植民貿易語学校校長に就任。
- 1917年(大正6年) 拓殖大学学監に就任
- 1918年(大正7年) 東京女子大学初代学長に就任。
- 1920年(大正9年) 国際連盟事務次長に就任。
- 1921年(大正10年) チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加。
- 1925年(大正14年) 帝国学士院会員に任命される。
- 1926年(大正15年) 国際連盟事務次長を退任。貴族院議員に。
- 1928年(昭和3年) 東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。
- 1928年(昭和3年) 早稲田大学で連続講演を行う(「内観外望」(1933年)、「西洋の事情と思想」(1934年)に講演内容収録)。
- 1929年(昭和4年) 太平洋調査会理事長に就任。拓殖大学名誉教授に就任。
- 1931年(昭和6年) 第4回太平洋会議に出席(上海)。
- 1933年(昭和8年) カナダ・バンフにて開催の 第5回太平洋会議に出席。ビクトリア市にて客死。
栄典[編集]
- 1891年(明治24年)12月21日 - 従七位[9]
- 1898年(明治31年)9月30日 - 正六位[10]
- 1903年(明治36年)12月26日 - 勲六等瑞宝章[11]
- 1906年(明治39年)11月20日 - 正五位[12]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[13]
ゆかりの地[編集]
- 新渡戸稲造没後50年を記念して、盛岡市下ノ橋町の生誕の地に、「新渡戸稲造生誕の地」の銅像が建立された。作者は朝倉文夫。
- 鎌倉稲村ケ崎にあった別荘跡地は、聖路加看護大学鎌倉セミナーハウス「アリスの家」になっている[14]。
代表的な著書[編集]
- 『農業本論』 裳華房、1898年(明治31年)9月。
- Inazo Nitobe (1900). Bushido: the soul of Japan, an exposition of Japanese thought. Philadelphia: The Leeds and Biddle Company.
- 『武士道』 櫻井鴎村訳、丁未出版社、1908年(明治41年)3月。
- 『武士道』 矢内原忠雄訳、岩波書店〈岩波文庫 青118-1〉、2007年(平成19年)4月(原著1938年(昭和13年)10月)、第91刷改版。ISBN 4-00-331181-7。
- 『武士道』 矢内原忠雄訳、岩波書店〈ワイド版岩波文庫 35〉、1991年(平成3年)6月。ISBN 4-00-007035-5。
- 『武士道 現代語で読む最高の名著』 奈良本辰也訳・解説、三笠書房〈知的生きかた文庫〉、1993年(平成5年)2月。ISBN 4-8379-0563-3。
- 『随想録』 丁未出版社、1907年(明治40年)8月。
- 『随想録』 たちばな出版〈タチバナ教養文庫〉、2002年(平成14年)11月。ISBN 4-8133-1443-0。
- 『修養』 実業之日本社、1911年(明治44年)9月。
- 『修養』 たちばな出版〈タチバナ教養文庫〉、2002年(平成14年)7月。ISBN 4-8133-1444-9。
- 『人生雑感』 國井通太郎 編、警醒社書店、1915年(大正4年)2月。
- 『人生雑感』 国井通太郎 編、講談社〈講談社学術文庫 611〉、1983年(昭和58年)8月。ISBN 4-06-158611-4。
- 『ABCびき日本辞典』 井上哲次郎、服部宇之吉などとの共編、三省堂、1917年(大正6年)。
- 『東西相触れて』 実業之日本社、1928年(昭和3年)10月。
- 『東西相触れて』 たちばな出版〈タチバナ教養文庫〉、2002年(平成14年)4月。ISBN 4-8133-1442-2。
- 『世渡りの道』文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2015年。※その他、様々な出版社から新版再刊されている。
全集・選集[編集]
- 『新渡戸稲造全集』全23巻別巻2、教文館、1987年完結
- 『新渡戸稲造論集』鈴木範久編、岩波文庫、2007年
脚注[編集]
- ^ 新渡戸伝(つとう、1793-1871)は、陸奥国三本木(青森県十和田市)の開拓者として有名(岡田俊裕『日本地理学人物事典[近世編]』原書房 2011年 107ページ)
- ^ 「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは』 李登輝 小学館、2003年
- ^ 鈴木満 『異国でこころを病んだとき』 弘文堂、2012年1月30日、211頁。ISBN 978-4-335-65152-6。
- ^ 松隈俊子 『新渡戸稲造』 みすず書房、2010年12月20日(原著1969年)、204頁。ISBN 978-4-622-06226-4。
- ^ 越澤明 『後藤新平――大震災と帝都復興』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2011年11月7日、102-107頁。ISBN 978-4-480-06639-8。
- ^ 組織の上で事務総長に次ぐ地位にあったのは Deputy Secretaries-general(総長代理)とUnder-Secretaries-General(事務次官)で、それぞれ複数任命されていた
- ^ 長谷川 仁(1967)「明治以降物故昆虫学関係者経歴資料集 : 日本の昆虫学を育てた人々」昆蟲 35(3号補遺), 1-"98-4"
- ^ 盛岡市ホームページ「ウェッブもりおか」のうち「盛岡市ガイド: 太平洋の架け橋に: カナダ・ビクトリア市と姉妹都市」。
- ^ 『官報』第2545号、「叙任及辞令」1891年12月22日。
- ^ 『官報』第4578号、「叙任及辞令」1898年10月1日。
- ^ 『官報』第6148号、「叙任及辞令」1903年12月28日。
- ^ 『官報』第7020号、「叙任及辞令」1906年11月21日。
- ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
- ^ 聖路加看護大学施設ガイド
参考文献[編集]
- 草原克豪 『新渡戸稲造1862-1933 我、太平洋の橋とならん』 藤原書店、2012年7月。ISBN 978-4-89434-867-7。 - 生誕150年記念出版。
関連項目[編集]
- 岩手県出身の人物一覧
- 京都大学の人物一覧
- 第一高等学校 (旧制)の人物一覧
- 拓殖大学の人物一覧 - 学長に就任。後に名誉学長。拓殖大学においては重要な設立協力者とされている。
- 千葉氏
- 新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生
- 新渡戸記念庭園
- 札幌丘珠事件
- 野球害毒論 - 新渡戸は野球を「巾着切りの遊戯」と非難していた。
外部リンク[編集]
- 拓殖大学
- 盛岡市先人記念館
- 十和田市立新渡戸記念館
- 花巻新渡戸記念館
- 奥州市立後藤新平記念館 新渡戸稲造
- 新渡戸稲造の世界
- 新渡戸 稲造:作家別作品リスト - 青空文庫
- 新渡戸稲造|近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
- 新渡戸稲造の作品 - プロジェクト・グーテンベルク
- 「農学」(1877-1878)講義ノート
- 中野総合病院(東京医療生活協同組合の創立者で初代理事長)
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