無教会(キリスト教)と内村鑑三を紹介
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代表的日本人 (岩波文庫) 文庫 – 1995/7/17
内村 鑑三 (著), 鈴木 範久 (翻訳)
内村鑑三は,「代表的日本人」として西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の五人をあげ,その生涯を叙述する.
日清戦争の始まった一八九四年に書かれた本書は岡倉天心『茶の本』,新渡戸稲造『武士道』と共に,日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作である.
奔流のように押し寄せる西欧文化の中で、どのような日本人として生きるべきかを模索した書。新たな訳による読みやすい新版。
後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫) 文庫 – 2011/9/17
内村 鑑三 (著) 注・解説=鈴木範久
普通の人間にとって実践可能な人生の真の生き方とは何か。我々は後世に何を遺してゆけるのか。
明治27年夏期学校における講演「後世への最大遺物」は、人生最大のこの根本問題について熱っぽく語りかける、
「何人にも遺し得る最大遺物――それは高尚なる生涯である」と。
旧版より注・解説を大幅に拡充し、略年譜を新たに付した。「デンマルク国の話」を併収。改版
後世への最大遺物
内村 鑑三 (著)
明治の思想家・宗教家である内村鑑三が箱根・蘆の湖畔で1894(明治27)年にキリスト教徒夏期学校で行った講演の記録。
初出は「湖畔論集 第六回夏期学校編」[1894(明治27)年]。
人は後世に何を遺して逝けるのか。
清き金かそれとも事業か、著述をし思想を残すことか。
それとも教育者となって学問を伝えることか。しかし何人にも遺すことができる最大の遺物がある。
それはその人らしい生涯を送ることである、と説く。
ユーモアに満ちた語り口の中にも深い内容を湛えた近代の名著。
余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2) 文庫 – 1958/12/20
内村 鑑三 (著), 鈴木 俊郎 (翻訳)
本書はキリスト教文学としてひとり日本における古典的代表作たるにとどまらず、あまねく欧米にまでその名声を博した世界的名著。懐疑と感謝、絶望と希望、悲哀と歓喜、――主人公である「余」の「回心してゆく姿」は、著者独特の力強い文章をもって発展的に記述され、読者をしてその魂を揺さぶらしめる何ものかを蔵している。
一日一生 1997/12
内村 鑑三 (著)
内村鑑三の、聖句(聖書の言葉)に付された文章を366日分に編んだもの。
聖書中の重要な節句はほぼ網羅されている。
本書は、若い青年たちにはこの上ない人生の指針を与え、高齢者には安らかな慰めを提供する。
聖書中の重要な節句を熟読味解してもらうために編纂されたものである。
1日1頁ずつ読む日ごとの糧。1926年に警醒社書店から出たものの新版。
内村鑑三所感集 (岩波文庫 青 119-5) 文庫 – 1973/12
内村 鑑三 (著), 鈴木 俊郎 (編さん)
内村が所感と称んで『清書之研究』誌上に掲載した短文、祈りと思索の結晶、研究の熟した果実のうちから約千篇を精選して収録。
基督信徒のなぐさめ (岩波文庫) 文庫 – 1939/9/15
内村 鑑三 (著)
内村 鑑三の処女作。
明治24年、折からの国粋的反動主義の世情の中で、教育勅語の拝礼を拒否して教職を追われた内村鑑三は、困窮の中から本書を世におくった。(解説 鈴木俊郎)
逆境にあるキリスト者の見出す慰めは何かと問うた魂の自叙伝ともいうべきこの書は、著者の無教会の立場の出発点となった。
求安録 (岩波文庫 青 119-7) 文庫 – 1939/12/14
内村 鑑三 (著)
処女作『基督信徒のなぐさめ』の続編にあたる作品。
前作は、自らの体験談であるのに対し、本作でそこから導き出される救済の論理を記述。
無教会主義・内村鑑三思想を知る上で重要な作品。
内村 鑑三 (著)
「私は教師でも牧師でも神学者でも何んでもありません」。
内村の思想・行動の中核をなす信仰とは学問的真理ではなく、自身の生に根ざした「事実」であった。
なぜ信じるのか、なにを祈るのか――1900年、
「ただの普通の信者」として率直な言葉で語られた理想的人間・社会論は、今なお新鮮である。(注・解説=鈴木範久)
ヨブ記講演 (岩波文庫) 文庫 – 2014/5/17
内村 鑑三 (著)
罪のない人になぜ災いがふりかかるのか、
なぜ神は黙しているのか―深遠な問いを人間に投げかける旧約聖書「ヨブ記」を、
内村は「実に個人的なるが故にまた普遍的」な「魂の実験録」ととらえた。
神に向かって叫ぶ人ヨブの物語関する講演録。
キリスト教問答 (講談社学術文庫) 文庫 – 1981/3/6
内村 鑑三 (著)
「来世は有るや無きや」「聖書ははたして神の言なるか」「奇跡の信仰」など、キリスト教の八つの根本問題に対して、
はぎれよく、わかりやすく答えながら、人生を切り開いていく勇気と希望を与えてくれる書。
キリスト教伝道者としての信念を貫いた著者が、みずからの生涯をかけた研究によってかちとった信仰は、
あらゆる読者に、宗教を超えて生きる指針を示すことであろう。
キリスト教の信仰を通して、人生とはなにかを語りかける名著。
内村鑑三の伝道論――なぜ宗教が必要なのか(新・教養の大陸BOOKS 5) 単行本 – 2016/3/11
内村 鑑三 (著)
内村鑑三は、明治期に、教会のない人々の集まりとして、日本独特の無教会派キリスト教を始めた人物である。
その思想は、自ら創刊して主筆を執った雑誌「聖書之研究」などで数多く発表されており、
本書は、そのなかから「伝道」についての論考だけを抽出し、まとめた。
伝道師としての内村鑑三を知る貴重な文献であり、信仰心から来る伝道への熱い情熱があふれる隠れた名著である。
宗教はなぜ必要なのか。 何のために伝道するのか。
彼が確信した「最上唯一の伝道法」とは?
内村鑑三主筆の月刊「聖書之研究」等に収録された、
伝道と信仰に関する論考を一冊にまとめてあります。
第1章 宗教はなぜ必要なのか
第2章 私の伝道方法
第3章 伝道と政治
第4章 真の伝道師になれ
第5章 いざ、世界伝道へ
特別収録1 クラーク先生の思い出
特別収録2 政治家を志した友人への追悼メッセージ――故横井時雄君のために弁ずる
内村鑑三 現代語訳 キリスト信徒のなぐさめ: 逆境を生き抜き、絶望を突き抜けるための六章
宗教を超えた人生のヒント
内村鑑三 (著), 明治キリスト教研究会 (翻訳)
内村鑑三の原点であり、「これを読まずして内村鑑三を語るなかれ」とまで言われる作品を読みやすい現代語訳。
『基督信徒のなぐさめ』となっていますが、本書で取り上げられた苦悩と絶望の多くは
宗教のいかんにかかわらず普遍的なものであり、それを乗り越えるための考え方も、宗教のいかんにかかわらず
「信念」を持つということの人生における意味を深く考えさせるものです。
第一章 愛する人を失った時
第二章 国人に捨てられた時
第三章 キリスト教会に捨てられた時
第四章 事業に失敗した時
第五章 貧困に窮迫した時
第六章 不治の病にかかった時
このうち、「国人に捨てられた時」「キリスト教会に捨てられた時」は、
自分の所属する社会や組織から誤解され、孤立し、迫害される苦悩に対していかに立ち向かうかを述べたものです。
本書は「自伝ではない」と言いながら、自伝的な内容も含まれています。
内村鑑三について
再臨運動
内村鑑三が、再臨信仰を積極的に唱えた時期は、一九一八年一月から翌年夏までという短い期間である。
一九◯五年『キリスト教問答』「これ(神の国)はキリストの再臨を待ってのみ建設せらるる王国であります」
一九一一年、「世界の平和は如何にして来るか」「世界は果して進歩しつつあるか」という論文を書いて、
人間の力によってではなく、キリストの再臨によって永遠の平和が来ることを発言した
翌一九一二年一月、内村鑑三の愛娘ルツ子が死去した。(十七歳と九カ月)
愛する娘の死は内村にとって悲しみであった。
しかし、内村の信仰はさらに深化した。
キリストの再臨の信仰が、内村の心に徐々にはっきりとした形で現れてきた。
一九一四年七月三十一日、第一次世界大戦が勃発。
キリスト教国といわれている国々が有史以来最大の殺りくを始めたのである。
内村の失望は大きく苦しんだ。
アメリカも一七年に参戦。
「一縷の望みを繋いでいた米国」の参戦は「今や平和の出現を期待すべきは地上の何処にも見当らない」と述べた
世界に平和をもたらす方法として、戦争は言わずもがな、外交や平和運動のみならず、キリスト教会すらも無力であると彼は言う。
内村の学んだキリスト教は、人を教育して、道徳的な市民となし、社会に正義を遂行させる働きを為すものであった。
だが、そのようなキリスト教の理念をもつキリスト教国家自体が戦争をするという事態に、内村は「行き詰まった」と発言している。
そこで再臨の信仰が彼に活路を開いたのである。
『日曜学校時報』
「世界の平和は如何にして来る乎、人類の努力に由て来らず、キリストの再来に由て来る。」
「平和は神御自身之を降し給ふのである。」
人間の力によっては平和は来ない。
いかなる平和運動も人間の罪の前には無力である。
しかし聖書には、キリストが再び来て彼の手によって永遠の平和が実現される、と明らかに書いてある。
キリストの再臨は、神の約束であり、それは今、すでに来たりつつあるのだ。
時は、キリストの再臨に向かって着々とすすんでいるのだ。
内村鑑三は1917年に再臨信仰を確信した。
「(翌年の1月6日から)聖書の預言的研究演説会を神田の東京キリスト教青年会館で開催し、再臨運動の幕は切って落された」(岩波新書『内村鑑三』P.178)
「…今や私はバルジャー(再臨)こそ聖書の鍵であり、これを欠いては聖書は、始めから終りまで、一つの大きな謎であることが分りました…」(森有正『内村鑑三』P.56)。
「再臨は聖書の中心真理と云わんよりは寧(むし)ろ其(その)最終真理と称すべきである。
…再臨を否んで聖書は解らない。若し十字架が聖書の心臓であるならば再臨は其脳髄であろう。再臨なくして十字架は意味を為さない。」
中田重治の設立した日本ホーリネス教会も、再臨を主張していた。
中田と内村は同じ柏木に住んでいたがそれまで交流はなかった。
しかし、柏木であった火事をきっかけに知り合った。
内村と中田は互いに再臨信仰を持っていることを知ると、協力するようになった。
1918年1月6日(大正7年)内村鑑三、中田重治らは神田YMCA講堂で「聖書の予言的研究講演会」を開催。
内村は「聖書研究者の立場より見たる基督の再来」を語った。
2月10日、3月3日講演会継続。1200名余が参加。
3月10日には大阪と京都で講演会
3月末 再び神田YMCAで「復活と再臨」講演 1500名参加。
4月第一日曜日より、五月第二日曜まで六週間、毎週日曜日神田バプテスト中央会堂で再臨問題研究講演会 開催。
6月三崎町のバプテスト会堂で講演会 開催。
10月11日から三日間岡県会議事堂で再臨講演会 開催。
11月8日から3日間YMCAで基督蔡倫研究東京大会 開催。
1919年(大正8年)1月17日から三日間内村鑑三は大阪中之島公会堂の再臨研究関西大会に出席した。
1月19日「伝道と基督の再臨」再臨講演 開催。2300人参加。これが最後の再臨講演となった。
しかし、終生再臨信仰を保ち、聖書講演会では再臨問題を度々述べた。
シュバイツァアーも、バルトも、ニュートンも、パスカルも、再臨信者とされている。
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再臨信仰を強調している団体で思い浮かぶのは、「家庭連合 旧:統一教会」であろう。
文鮮明という人物が韓国で興した運動である。
ユダヤ教の土台の上にイエス・キリストが出てきた。
イエスは、ユダヤ教の改革運動を行ったが、その内容はユダヤ教の人々には受け入れられず、最後は殺されてしまった。
イエスの教えは、ユダヤ教の教えをさらに深め、次元の高い神の愛へつなげ、人類を神につなげるためのものであった。
それが、熱心なユダヤ教の信者や上層部の人々(律法学者やパリサイ人)にとってには目障りで、ユダヤ教の教えとは違う、異端者として迫害されたのであった。
イエスは、「キリスト教」という宗教団体を作るために活動していたのではなく、全人類を救うために活動していたのだ。
イエスが生きていた当時、や、イエスの死後しばらくの間は「キリスト教」などという名前はなく、
ユダヤ教から出てきた新興宗教であり、もちろんユダヤ教とすら認められていなかった。
ユダヤ教の人々は、現在もイエスをメシア(救世主)とは認めていない。
イエス・キリストは、再臨を約束してくれた。
キリスト教の土台の上に文鮮明師が生まれた。
文鮮明師は、キリスト教の改革運動を行ったがその内容はキリスト教の人々には受け入れてもらえず、最後は、キリスト教徒により、告発され、監獄へ送られることとなる。
文鮮明師の教えは、キリスト教の教えをさらに深め、次元の高い神の愛へつなげ、全人類を神につなげるためのものであった。
それが、熱心なキリスト教の信者や上層部の人々にとってには目障りで、キリスト教の教えとは違う、異端者として迫害されたのであった。
文鮮明師は、「統一教会・世界基督教統一神霊教会」という宗教団体を作るために活動していたのではなく、全人類を救うために活動していたのだ。
内村鑑三は1917年から日本で再臨運動を興した。その3年後の1920年旧暦1月6日韓国の地で文鮮明師が誕生した。