2021/03/29

宗教嫌いの帯津医師 30年以上観音さまを崇める深い理由 (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

宗教嫌いの帯津医師 30年以上観音さまを崇める深い理由 (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

宗教嫌いの帯津医師 30年以上観音さまを崇める深い理由

連載「ナイス・エイジングのすすめ」

帯津良一週刊朝日#帯津良一
帯津良一(おびつ・りょういち)/帯津三敬病院名誉院長

帯津良一(おびつ・りょういち)/帯津三敬病院名誉院長

講談師の田辺鶴瑛さん (c)朝日新聞社

講談師の田辺鶴瑛さん (c)朝日新聞社

 西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。老化に身を任せながら、よりよく老いる「ナイス・エイジング」を説く。今回のテーマは「観音さまとのつきあい」。

【講談師の田辺鶴瑛さんの写真はこちら】

*  *  *
【宗教】ポイント
(1)宗教にあまり関心がない、というより好きではない
(2)一方で、長らく観音さまとつきあっている
(3)私にとって、観音さまは虚空を体現するもの

 私は宗教には、あまり関心がありません。というよりも、好きではないのです。

 前回も登場した統合医学のオピニオンリーダー、アンドルー・ワイル博士はこう言っています。

「宗教は霊性を制度化しようとする。宗教の名においておこなわれていることの多くは、個人の安寧というよりは制度の永続化にかかわるものである。宗教的であろうとなかろうと、人は霊的な生活をいとなみ、霊性の健康におよぼす影響を探究することができるのだ」(『心身自在』上野圭一訳、角川文庫)Andrew Weil

 まさにその通りだと思います。ところが、その考え方と矛盾するようですが、私は長らく観音さまとつきあっています。
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 30年ほど前から病院の自室の棚には観音像が3体鎮座しているのです。いずれも座位で15~20センチぐらいの丈。中国の方のお土産です。その3体の後ろには亡き家内の写真を飾っています。生前、十分なことをしてやれなかった家内も観音さまとして崇(あが)めることにしているのです。

 自宅の机の上にも観音さまの絵が額に入って鎮座しています。やはり30年くらい前に、講談師の田辺鶴瑛さんにいただきました。左に微笑(ほほえ)んだ観音さまの顔が描かれ、右に「きっと、うまくいく」と書かれています。

 観音さまは正式には観音菩薩(ぼさつ)と言います。菩薩とは悟りをひらくために修行中の人を言うのですが、観音菩薩はすでに悟りをひらいていながら、我々のところに降りてきて、救いを求める人たちを救済してくださるありがたい存在です。三十三身に姿を変えて、私たちを救うのですが、その威力は絶大です。法華経の第二十五章「観世音菩薩普門品」には「大火の中に突き落とされても、観音菩薩のことを忘れなければ、焼かれることはない」「大洪水にのみ込まれても、観音菩薩の名を称(とな)えれば、たちまち浅いところにのがれることができる」とあります。



 私は朝5時ぐらいに病院に着くと、自室の観音さまの前で「延命十句観音経」を唱えます。短いお経なので、あっという間に終わります。このお経は私が尊敬する白隠禅師が広めたものです。そこで唱えることにしたのですが、私は観音さまに願い事をしているわけではありません。

 白隠禅師は弟子たちに「虚空と一体になれ」と言い続けました。虚空とは私たちの霊性の源です。私たちの霊性つまり「いのち(SPIRIT)」は虚空から来て虚空に帰るのだと思います。

 実は私にとって、観音さまは虚空を体現するものなのです。観音さまの前で「延命十句観音経」を唱えることで虚空とつながることができます。ワイル博士が言うように、宗教的であるかないかは問題ではありません。いずれ虚空と一体になれるのではと期待しています


帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など著書多数。本誌連載をまとめた「ボケないヒント」(祥伝社黄金文庫)が発売中

週刊朝日  2020年11月20日号




「宗教がかっている」と言われ…帯津医師が自分の「信仰心」を明かす (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

「宗教がかっている」と言われ…帯津医師が自分の「信仰心」を明かす (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

「宗教がかっている」と言われ…帯津医師が自分の「信仰心」を明かす

連載「ナイス・エイジングのすすめ」

帯津良一週刊朝日#帯津良一
帯津良一(おびつ・りょういち)/帯津三敬病院名誉院長

帯津良一(おびつ・りょういち)/帯津三敬病院名誉院長

折口信夫博士 (c)朝日新聞社

折口信夫博士 (c)朝日新聞社

 西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。老化に身を任せながら、よりよく老いる「ナイス・エイジング」を説く。今回のテーマは「私の信仰心」。

【折口信夫さんの写真はこちら】

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【古代人】ポイント
(1)「帯津先生は宗教がかっている」と言われることが
(2)私は宇宙の真理を翻訳者なしで読んでいる
(3)私の信仰心は古代人のレベルなのかもしれない

 以前にも書きましたが、私は宗教にあまり関心がありません。ところが一方で、「霊性」とか「あの世」とかについてよく語るので「帯津先生は宗教がかっているのではないか」と言われてしまうことがあります。

 駿台予備学校で医学部志望の学生を前に講演したときにも、そういうことがありました。真面目そうな学生さんが質問に立ち上がり、「先生の言っていることは、宗教ではありませんか」と問いただしたのです。私は一瞬たじろぎましたが、とっさにこう答えました。

「いえ、私は宇宙の真理を解き明かそうとしているだけで、それは宗教ではありません。宇宙の真理を上手に翻訳した天才の思考や行動に感動し、共鳴した人々が集まって教団をつくるのが宗教です。つまり宗教の教祖は名翻訳者です。私は翻訳者になろうとは思わないし、翻訳者に対する興味もありません。私は宇宙の真理を原書で読んで、それを私が求める医療につなげたいと思っているだけなのです」。学生さんたちの前で、ずいぶん偉そうなことを言ってしまったものです。

 こういう私も信仰心といったものがないわけではありません。毎朝、観音さまを拝んで、大きな声で「延命十句観音経」を唱えています。

 私の生家は浄土宗のお寺の門前にありました。ですからお寺の境内が遊び場だったのです。そして毎月8日の縁日には、身を正してご本尊さまを拝みました。4月8日の灌仏会(かんぶつえ)には庫裏に安置された釈尊像に甘茶を注ぎました。こうしたことを思い出すと当時の敬虔(けいけん)な気持ちが蘇(よみがえ)ってきます。しかし、その信仰心とは神仏に対する畏怖(いふ)の念ではなかったと思います。




広辞苑には「信仰」について「宗教活動の意識的側面をいい、神聖なもの(絶対者・神をも含む)に対する畏怖からよりは、親和の情から生ずると考えられ」とあります。まさに私の信仰心も親和の情なのです。それは実は、相手が仏陀(ぶっだ)であろうとイエス・キリストであろうと変わりません。

 民俗学者で国文学者の折口信夫博士は、日本に仏教やキリスト教が伝来する前の「古代人」の心を探ろうとした人です。その折口博士の考え方を解説した本で次のような記述を見つけました。

「人間の知覚も思想も想像も及ばない、徹底的に異質な領域が『ある』ことを、『古代人』は知っていた。(中略)すでに死者となった者やこれから生まれてくる生命の住処(すみか)である『あの世』または『他界』もまた、世界を構成する重要な半分であることを、『古代人』たちは信じて疑わなかったのである」(『古代から来た未来人 折口信夫』中沢新一著、ちくまプリマー新書)

 これは私の虚空に対する思いと同じです。私の信仰心は古代人のレベルなのかもしれません。

帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など著書多数。本誌連載をまとめた「ボケないヒント」(祥伝社黄金文庫)が発売中

※週刊朝日  2020年12月4日号

 
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帯津良一
帯津良一

帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など著書多数。本誌連載をまとめた「ボケないヒント」(祥伝社黄金文庫)が発売中

貝原益軒 養生訓 「健脳」養生法――死ぬまでボケない ナイス・エイジングのすすめ

コロナ禍のストレス軽減で注目の“瞑想” グーグルでは専用の部屋も (1/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

コロナ禍のストレス軽減で注目の“瞑想” グーグルでは専用の部屋も (1/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

コロナ禍のストレス軽減で注目の“瞑想” グーグルでは専用の部屋も

※写真はイメージです (GettyImages)

※写真はイメージです (GettyImages)

車座になってマインドフルネスを実践する様子。右から2人目が中村さん=SELECK(セレック)提供

車座になってマインドフルネスを実践する様子。右から2人目が中村さん=SELECK(セレック)提供

 コロナ禍の今、ついイライラして悪態をついたり、悩み悔やんだりすることはないだろうか。そうした心のストレスを減らす効果があるという「マインドフルネス」が注目を集めている。仏教に由来し、宗教色を取り除いた瞑想(めいそう)法だ。社員のために取り入れる企業も増えてきている。

【写真】車座になってマインドフルネスを実践する様子

「マインドフルネスを通じて、物事への反応や捉え方、ストレスの感じ方が変わります。心と体にゆとりを持った生活が期待されます」

 そう語るのは「にこフル」代表の中村悟さん。ヤフーやカルビーなどの企業を含め、これまで5千人以上に講師としてマインドフルネスを伝えてきた。

「日本では2016年くらいから広まり始め、ここ数年はメンタルヘルス対策として研修などで導入・検討する企業が増えてきています。特にこの1年間はコロナ禍もあって、世の中全体が『散らかっている』状態。マルチタスク(同時に複数の仕事をこなすこと)やリモートワーク(在宅勤務)が求められ、家と会社のオン・オフの切り替えがうまくできないという人が多い。それが注目される理由ではないでしょうか」

 中村さんの導きで、記者も実際に体験してみた。

「まずは1分間、ぼーっとしてみてください」

 雑念はよくないだろうと思い、無心になろうとする。だが、環境音や仕事の進捗(しんちょく)の不安など、いろんなことが頭をよぎった。

「無心になれなかったという『評価』はする必要がありません。無になることが目的ではなく、いろんなことを考えていたなと、俯瞰(ふかん)的に観察できていればいいんです。自分はこういう状態であるということに気づいていることが、マインドフルネスにおいては重要です」

 次に、ひたすら呼吸に注意を向ける3分間のマインドフルワークを試みる。椅子に座ってする場合は、両足を地面につけ、臀部(でんぶ)は座面にぴったりとつける。下半身をどっしりとさせて座るイメージだ。上半身は背筋を伸ばしてリラックスさせる。

「ほとんどの人が、始めて数秒後に気がそれます。大切なのは注意がそれたことに気づけるかどうか。気づいたら再び呼吸に注意を戻します。その繰り返しです。この反復練習がトレーニングになります」


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3分間を終えて感じたのは、1回目より集中し、気持ちの切り替えがうまくいったようだということだ。


 マインドフルネスによって、心理的ストレスの低減や作業効率の上昇、免疫機能の向上などが期待できるという。その理由はどこにあるのか。


『高齢者のマインドフルネス認知療法』の共編著があり、米ミシガン大の老年医学センターでソーシャルワーカーを務めるフォーク阿部まり子さんが解説する。


「元はお釈迦様が教えられていたもので、2500年前から伝わる原始仏教が由来です。その教えは漢語では『念』。文字からもわかるとおり、“今の心”に気づくことをマインドフルネスと言います」


 念の教えが西洋に渡った際に、宗教を離れてヘルスケアに役立つように応用されたのがマインドフルネスだ。1970年代に米国の研究者によって開発された。


「医学ではどうにもできないような疼痛(とうつう)などの慢性疾患を対象として始まったトレーニングが、今のマインドフルネスの広がりのきっかけです。一般の人たちに広く知られるようになってきたのは、ここ10年ほどのことです」


 契機になったのは、2007年に巨大IT企業の米グーグル社が企業研修に導入したことだ。社内には専用の瞑想室が設けられ、社員に人気だという。阿部さんによれば、米国では州によって、学校教育の中でマインドフルスクールとして教えるところもあるうえ、高齢者にも人気が高いという。


「自分の心の状態に気づくというのは、うつや不安症の予防にも役立ちます。私は主に高齢者を対象にカウンセリングをしていますが、この10年くらいで心理療法として使うようになりました。エビデンス(根拠)に基づいた科学的研究が多く発表されていて、高血圧、摂食障害にも効果があります。精神科医からの依頼も増えていて、需要の高まりを感じています」


“今の心に気づく”とは具体的にどういうことなのか。マインドフルネスに詳しい琉球大学の伊藤義徳教授が説明する。

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「まず今ここでの経験に心を向けて気づくこと。たとえば今、足の裏は何を感じているか、普段は意識が至っていないと思います。そこに思いを至らせることでそこにある感覚に『気づく』という経験がマインドフルネス。もしそこにかゆみがあれば、『嫌だ』『かきたい』などの『評価』が生じ、通常そうした無意識の評価に従って『かく』などの行動をします。そうした評価を手放して、自分の心があちこちに動いているなと経験していくうちに、自分を俯瞰的に達観して見られるようになります」

 こうしたトレーニングによって、心が動くことにとらわれるのではなく、心が動いていること自体を眺める目線ができるという。それがひいては、感情を衝動的に表したり、ストレスを重く感じたりすることへの対処法につながる。

 実際に効果も出ている。伊藤教授は続ける。

「マインドフルネス認知療法によって、うつや自殺願望の再燃が抑えられることがわかっています。私たちの研究室では昨年、自殺願望を持つ方々を対象にマインドフルネス認知療法を行いました。コロナによって世界人類の精神健康が悪化し、参加者の中には仕事を失った方もいましたが、追跡調査の結果、参加者の精神健康は悪化することなく維持されていました」

 他にも、08年のリーマン・ショック時に、マインドフルネス傾向の低い人は主観的幸福感が下がり、マインドフルネス傾向が高い人はその影響を受けなかったとする研究結果や、マインドフルネス傾向が高い人のほうが認知症になる比率が低いという数字も出ているという。

 そうしたこともあって、今年9月、福岡市が自治体として初めて、市民の健康のためにマインドフルネスを導入した。

「まずは医療や福祉関係の事業者向けにプログラムを提供しました。当初は200人程度の募集予定でしたが、申し込みが多く、実際には300人程度での実施となりました」(担当者)

 大きな広がりを見せるマインドフルネス。記者が取材した3人は「まず実践が大事」と口をそろえる。ただ、「ストレス軽減のため」などと手段としてマインドフルネスを始めると、「効果があった」「なかった」という「評価」が生まれてしまい、うまくいかないという。伊藤教授は、こう語る。

「自分自身とうまく付き合い、自分自身を整理するための、人生の大きな目標として始めるのがいいです。心の筋トレとして捉えてください。無理してやるものではありません。できる範囲で、たとえば寝る前の5分でもいいので、まず始めてみて、そして続けてみてはどうでしょうか」

(本誌・秦正理)

※週刊朝日  2020年12月11日号


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他国より来世を信じない日本人 「死への不安」も強い傾向と帯津医師が解説 (2/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

他国より来世を信じない日本人 「死への不安」も強い傾向と帯津医師が解説 (2/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

他国より来世を信じない日本人 「死への不安」も強い傾向と帯津医師が解説

連載「ナイス・エイジングのすすめ」

帯津良一週刊朝日#帯津良一
帯津良一(おびつ・りょういち)/帯津三敬病院名誉院長

帯津良一(おびつ・りょういち)/帯津三敬病院名誉院長

冗談を交えながら、教職員にアドバイスする京都大学のカール・ベッカー教授=2013年当時、京都市 (c)朝日新聞社

冗談を交えながら、教職員にアドバイスする京都大学のカール・ベッカー教授=2013年当時、京都市 (c)朝日新聞社

 西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。老化に身を任せながら、よりよく老いる「ナイス・エイジング」を説く。今回のテーマは「来世と死の不安の関係」。

【教職員にアドバイスする京都大学のカール・ベッカー教授の写真はこちら】

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【死後】ポイント
(1)他国より来世を信じない日本人は死への不安も強い
(2)来世を信じても死の不安のすべてはなくならない
(3)スピリチュアリティーに対して謙虚に心を開こう

 ターミナルケアや死生学を専門分野にしている宗教学者のカール・ベッカーさんとは古いつきあいです。そのカールさんの教え子がうちの病院で臨床心理士として働いていたことがあります。

 藤田みさおさんというとても優秀な方でした。その後、京都大学の博士課程に進学され、現在は同大iPS細胞研究所で特定教授をされています。

 その藤田さんが病院にいた時に書いた原稿が「来世を信じることは死の不安をやわらげるか──がん医療の現場から」というものでした。とても興味深いテーマです。カールさんが編者をした『生と死のケアを考える』(法藏館)という論考集に収録されています。

 藤田さんは国別の死の不安の強さについて、様々な文献によって考察しています。死の不安を心理テストで数量化すると、そういう比較が可能になるのです。その結果、東南アジア人が死を最も恐れない民族であり、欧米人は中くらい、一番死を恐れるのは日本人であることがわかりました。

 なぜそうなるのか。ギャラップ社が行った国際的な世論調査によると(藤田さんが原稿を書いたのが2000年ですから、かなり古い調査です)、死後の世界を信じる人が米国で67%、豪州で43%を占めるのに対し、日本では18%しかいないのです。つまり、来世を信じない日本人は死への不安も強いと考えられます。


藤田さんによると、来世を信じることで、死が怖くなくなるという調査結果はいくつもあるとのことですが、興味深いのは臨死体験者40人へのインタビューです。臨死体験の前後で、死後の世界があると信じる人は47%から100%に増加し、死への恐怖があるという人は78%から0%に減少したというのです。臨死体験は来世の存在の証明にはなりませんが、体験者にとっては実にリアルなものなのでしょう。


 藤田さんは死の不安の内容についても踏み込んでいます。死の不安とは、自己の存在が消滅することへの恐怖感のほかに、苦痛のなかで死んでいく不安、家族や友人と別れてしまう不安、自分が死体になったり埋葬されたりする不安など様々あります。藤田さんは病院での臨床体験を踏まえて、来世を信じることで死の不安がすべてなくなるわけではないと語り、そういう実例を紹介しています。その上でこう結論づけています。


「(来世といった)目にみえないもの、科学で明らかにされていないものによって、患者だけでなく、家族や知人、医療スタッフも癒(いや)されることがある。(中略)こうしたスピリチュアリティーに対して謙虚に心を開いていくところに、終末期医療の内容を豊かにしていく可能性が秘められているのではないか」(同書)


 私もまさに、その通りだと思っています。


帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など著書多数。本誌連載をまとめた「ボケないヒント」(祥伝社黄金文庫)が発売中


※週刊朝日  2021年1月22日号



日本の死生観に魅せられた米国人教授が危惧する“葬式不要論” 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

日本の死生観に魅せられた米国人教授が危惧する“葬式不要論” 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

일본의 생사 관에 매료 된 미국인 교수가 우려하는 "장례 불요 론"
오 사키 百紀2020.12.18 08:02주간 아사히
 
※ 사진은 이미지입니다 (GettyImages)
※ 사진은 이미지입니다 (GettyImages)

 


 마음의 버팀목이었던 부모가 죽으면 많은 사람들은 이렇게 생각할 것이다. "친정에 자주 돌아 가면 좋았다" "더 상냥한 말을 걸어두면 좋았다." 아무리 간병 및 간호를해도 후회가 남는 것이 부모와의 이별이다. 후회와 슬픔으로 고통 받고 무너져 않도록 잘 알고 있어야하는 것은 -.

 고인을 [사모 (시노)ぶため월 기일에 유족이 모이는 일본 고래의 지혜가 유족의 마음의 케어로 이어질 ──. 이렇게 설교는 미국의 종교 학자 교토 대학 특임 교수 칼 베커 씨이다.

"이제 영국과 미국의 일부 병원에서도 받아 들여지고 있습니다. 유족을 병원 회의실에 불러 식사를하거나 노래를 부르거나 울거나 웃거나하고 있습니다"

 유족의 고독과 불안한 마음을 완화, 불면증이나 우울증, 거식증, 폭식증 등을 막는 효과가 있다는 것이다.

 베커 씨는 일본인의 사생관에 매료되어 연구 해왔다. 과거 일본은 영혼은 영원 파악해 사람은 죽어도 옆에 있다는 느낌이 있었다고한다. 그래서, 월 기일에 유족들이 모여 그것이 그리프 케어로 이어졌다.

"일본의 관습인데, 지금 일본은 소홀히하고 있습니다. 구미에서는 continuing bonds (계속 인연)으로 번역되어 소개되고 있습니다"

 단순화가 진행되는 것은 월 기일뿐 아니다. 불단을 두지 집이 많아졌다 외에 장례도 화장 만의 '직 장 "밤샘을하지"1 일장 "장례, 장례식 참석자를 제한하는'가족 장 '을 선택하는 사람이 많아 했다. 그러나 베커 씨는 장례식을 제대로 할 수 그리프 케어된다고 지적한다.

"부모가"장례식은 불필요 "라고 남겼다해도 친하게 지내던 친척이나 친구에게 얘기해 수행해야합니다. 그것은 남겨진 측면의 마음의 상처를 냉각뿐만 아니라 거기서 주도 사람과의 교류가 유족의 후속 삶의 버팀목이되기 때문입니다. "

"부모가"하지 않아도 좋다 '는 것은 아이들에게 폐를 끼치 지 않으려는 생각부터 유족에게 장례가 얼마나 의미 깊은 여부는 알려져 있지 않다 생각합니다. 장례식은 고인의 소중한 사람 이어지는 마지막 기회입니다 "

 初七日법회과 장례식을 함께 일 할 수도 많지만, 베커 씨는 이것에 이의를 제기.

"初七日, 49 일,初盆, 월 기일 등으로 모이는 유족이 빨리立ち直れる. 이것은 여러 연구에서 입증되고있는만큼 분명하다"

(본지 · 오 사키百紀)

※ 주간 아사히  2020 년 12 월 25 일호

불교 총지종


http://www.chongji.or.kr/
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총지종과 밀교

불교총지종은 ‘불교의 생활화, 생활의 불교화’를 표방하고 자리이타의 대승불교 정신을 일상에서 실천하는 생활불교 종단입니다.

천 년의 잠을 깨고 우리 앞에 나타난 밀교(密敎)

불교는 현교(顯敎)와 밀교(密敎)로 나눠진다. 현로불교(現露佛敎)를 줄인 말인 현교는 ‘석가모니불을 교주(敎主)로 하는 응화불(應化佛)의 가르침이고, 비밀불교(秘密佛敎)를 줄인 말인 밀교는 ‘비로자나불을 교주로 하는 법신불(法身佛)의 가르침’이다.

현교의 교주이신 석가모니불은 이천 오백여 년 전 근기에 따라 팔만 사천 가지의 다양한 방법으로 설해져 있으므로 현로불교, 즉 현교라한다. 밀교의 교주이신 비로자나불은 법신불이므로 우리 중생의 눈으로 볼 수 없고[비불 秘佛], 그 법 또한 비오(祕奧)에 가려져 신통묘유(神通妙有)함을 헤아릴 수 없기 때문에 ‘비밀불교’라고 한다. 하나는 법이 드러나 있기 때문에 ‘드러난 불교’ 즉 ‘현교’라 하고, 또 하나는 법이 비밀이기 때문에 ‘비밀의 불교’ 즉 ‘밀교’라 한다.

이러한 밀교는 신비성, 상징성, 의례성 등을 그 특징으로 하고 있으며, 신밀(身密) 구밀(口密) 의밀(意密)의 삼밀관행을 통해 법신불인 비로자나부처님의 비밀의 세계를 직접 체득해 즉신성불(卽身成佛)에 이르는 길을 제시하고 있다.

밀교의 역사와 총지종의 탄생

밀교는 기원 후 5~6세기 인도 대승불교 이후에 등장한 실천불교로써 신구의(身口意)의 삼밀 수행법으로 즉신성불(卽身成佛)을 이루고자 하는 비밀불교이다.

신라시대 때 시작된 한국밀교는 통일신라와 고려에 걸쳐 흥왕했고, 현대에 들어 불교총지종이 탄생함으로써 현대 불교는 새로운 중흥을 맞이하게 되었다.

총지종의 창조주이신 원정 대성사는 ‘진리는 현실과 동떨어진 것이 아니며 바로 우리의 삶 가운데에 있다’라고 갈파하시며 때와 장소, 형식에 구애됨이 없이 생활 가운데 실천 할 수 있는 비밀불교의 문을 밀교의 조직과 체계, 수행법으로 여시었으니 그것이 곧 1972년 12월 24일, 탄생한 총지종이다.* 즉신성불(卽身成佛) : 도를 깨달으면 육체가 있는 그대로 곧 부처가 됨

대승불교의 정신을 일상에서 실천하는 생활불교 총지종

불교총지종은 ‘불교의 생활화, 생활의 불교화’를 표방하고 자리이타의 대승불교 정신을 일상에서 실천하는 생활불교 종단이다. 실천불교인 총지종의 특징은 편의보발과 함께 도심에 현대화된 사원을 건설해 누구나 쉽게 불문에 들어올 수 있게 하며 모든 의례와 의식을 간소화하고 밀교의 수행법에 의해 오직 마음의 실상을 찾는데 수행의 초점을 두고 있다.* 자리이타(自利利他) : 자신을 위할 뿐 아니라 남을 위하여 불도를 닦는 일



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[마음의 향기] 정사유(正思惟)---바른 생각이란 무었인가? > 자유게시판 | 불교총지종

[마음의 향기] 정사유(正思惟)---바른 생각이란 무었인가? > 자유게시판 | 불교총지종
마음의 향기] 정사유(正思惟)---바른 생각이란 무었인가?
작성자 관리자 15-06-23 11:47 조회5,353회
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정사유는 정지(正志) 혹은 정사(正思)라고도 합니다. 정사유는 한 마디로 올바른 생각이며 올바른 마음가짐이라 할 수 있습니다. 팔정도 가운데의 정견이 전체에 대한 종합적이고 기본적인 바른 견해라고 한다면, 정사유는 하나 하나의 사안에 대해 바르게 생각하는 것이라고 할 수 있습니다. 즉 정견에 준한 바른 사유, 바른 의사(意思)로서 이것은 우리의 언어와 행동을 일으키는 바른 의지작용이라고도 할 수 있습니다. 이것에 대해서 《잡아함경》에서는 세속의 바른 사유와 세속을 떠난 지혜로운 자의 바른 사유로 나누어 설명하고 있습니다.



어떤 것이 바른 사유인가? 바른 사유에는 두 가지가 있다. 하나는 세속의 바른 사유로 번뇌와 집착이 있으나 선취로 향하게 한다. 다른 하나는 세속을 벗어난 지혜로운 자의 바른 사유로 번뇌와 집착이 없고 괴로움을 바르게 다하여 괴로움의 끝으로 향하게 한다.



정견에서 본 것처럼 정사유도 세속의 것과 세속을 떠난 지혜로운 자의 것으로 나누어집니다. 세속의 바른 사유는 번뇌와 집착을 다 버리지는 못했으나 선취(善趣)에 태어나게 한다는 것입니다. 세속을 벗어난 바른 사유는 지혜로운 자의 것으로서 번뇌와 집착을 벗어나고 괴로움을 벗어나는 것이라고 했습니다. 그러면 먼저 세속의 바른 사유란 어떤 것인지를 경전을 통해서 살펴봅시다.



번뇌와 집착이 있으나 선취로 향하게 하는 세속의 바른 사유란 어떤 것인가? 이른바 생사를 벗어나려는 생각, 성냄이 없는 생각, 해치지 않으려는 생각을 일러 세속의 바른 사유라 한다.



세속의 바른 사유로서 생사를 벗어나려는 생각을 출리각(出離覺)이라고 합니다. 그리고 성냄이 없는 생각은 무에각(無?覺)이라고 합니다. 또 해치지 않으려는 생각은 불해각(不害覺)이라고 하는데, 이 세 가지 생각을 선취(善趣)에 태어나게 하는 좋은 생각이라고 하여 삼선각(三善覺)이라고 합니다.

우리가 팔정도를 배우고 실천하기 위해서는 이것을 두 가지 관점에서 보아야 합니다. 즉, 팔정도는 깨달음에 가까이 간 지혜 있는 자의 실천 덕목으로서 생각할 수도 있고, 세속인으로서의 바른 실천 덕목을 나타낸다고도 할 수 있습니다. 우리가 세속인으로서 번뇌와 집착을 완전히 벗어버리지는 못했지만 팔정도를 실천함에 의하여 우리의 지혜도 열리게 되어 있습니다.



이러한 관점에서 삼선각을 살펴봅시다. 세속인으로서의 바른 사유라는 것은 모든 일에 있어서 바르게 생각해야 한다는 것입니다. 정견에 의하여 전체의 실상을 바르게 보는 견해를 가지는 것이 필요하다면, 정사유에 의해서는 개개의 사실, 개개의 행동에 대해 바르게 해야 된다는 것을 생각하는 것입니다.



삼선각에서 첫 번째에 해당하는 출리각은 생사를 벗어나려는 생각을 말한다고 했는데, 생사를 벗어난다는 것은 곧 생사를 초월한다는 의미입니다. 물리적으로 보면 우리는 분명히 태어나서 죽습니다. 그러나 존재의 실상을 알고 보면 우리는 그저 변화의 한 과정 가운데에 있을 뿐입니다. 생과 사라는 것을 구분지어 보는 우리의 인식이 생사라는 것을 만들뿐입니다.
우리는 세속 생활을 하면서도 기본적으로는 항상 생사를 초월하겠다는 생각을 가져야 합니다. 그래야 오히려 사는 것이 즐겁고 보람되게 생애를 보낼 수 있습니다. 생이라는 것에 집착하면 오히려 인생을 망치게 됩니다.



예를 들어, 생에 집착하는 사람 가운데에는 자기의 삶이 영원히 지속되는 줄로 착각하고 죽을 때까지 돈을 벌기만 할 뿐 쓰지 못하는 사람이 있습니다. 그래서 친구고 친척이고 다 멀리 하게 되고 돈벌레처럼 돈만 지키다가 돈의 노예가 되어 추한 몸뚱이를 껴안고 죽음을 맞이합니다. 혹은 자기의 삶이라는 데에 너무 집착하다가 보니까 자기 스스로를 들볶아 마음의 평화를 잠시도 맛보지 못하고 과로로 쓰러지는 사람도 있습니다. 꼭 그렇게 까지는 아니더라도 삶이라는 데에 너무 집착함으로써 인생의 참된 의의를 잊어버리고 인간다운 삶을 살지 못하는 경우가 많습니다.



등산을 다니다가 보면 어떤 사람은 산에 올라가는 데만 정신이 팔려 주위 경관을 하나도 즐기지 못하고 지나칩니다. 산을 올라가는 것에만 목적을 둔 사람은 굳이 산에 가지 않아도 될 것입니다. 다른 운동을 해도 산에 올라가는 효과를 볼 수 있을 테니까요. 인생에서도 마찬가지입니다. 집착과 탐욕을 버리지 못하고 저 고개만 넘으면 뭔가 새로운 세계가 나타나겠지 하면서 한없이 앞으로만 달려갑니다. 멈추어 서서 주위풍경도 둘러보고 자신이 어디쯤 와 있는 가도 한번쯤 살펴보고 가면 더 좋을 텐데 앞으로만 냅다 달려갑니다. 그래봐야 마지막에는 결국 죽음만이 기다리고 있습니다. 스스로를 괴롭히는 괴로운 나날을 보내다가 빈손으로 가게 되는 거지요.



그렇기 때문에 우리는 세속 생활을 하면서도 바른 사유를 통하여 이러한 것에 대한 인식을 가져야 합니다. 그것이 생사를 초월하려는 출리각이라는 것입니다. 오히려 생사를 초월하겠다고 마음먹으면 인생살이에서 그렇게 안달복달하면서 자신을 괴롭힐 필요가 없다는 말입니다. 친구도 사귀고 좋은 경치도 보고 푸른 하늘도 보고 느긋하게 즐기면서 들판에 소풍 나온 것처럼 살아가면 됩니다.



우리는 태어난 순간에 이미 죽음을 향해 달려가고 있습니다. 그리고 그 죽음이 언제 어떤 형태로 찾아올지는 아무도 모릅니다. 그런데도 천년만년 살 것처럼 욕심을 부리고 자신을 스스로 괴롭힙니다. 우리가 생사를 벗어나겠다는 것에 대해 바른 사유를 한다면 삶에 대해 그처럼 집착할 것이 없습니다. 항상 지금 이 순간이 중요한 것이고, 또 지금 우리가 어떻게 사는가가 미래를 결정할 것이기 때문에 오지 않는 미래에 대해 불안해 할 필요도 없습니다. 출리각이라는 것은 곧 생사에 대한 집착을 놓아버리라는 것과 같은 의미입니다. 생사를 초월할 때에 오히려 삶다운 삶을 살 수가 있습니다. 생사의 틀을 크게 보고 탐욕을 떠나며 관능의 향락을 멀리하는 것이 세속의 바른 사유인 출리각입니다.



삼선각에서 두 번째로 성냄이 없는 무에각이라는 것이 있습니다. 우리가 바른 사유를 한다는 것은 바른 마음가짐을 가지는 것과 같은 말입니다. 마음이 바르지 못한 상태에서는 바른 생각이 나올 수가 없습니다. 그래서 성냄이 없는 생각을 세속의 바른 사유라고 하는 것입니다.



화가 나서 자기의 마음을 바로 보지 못하는 사람에게서 바른 사유라는 것은 근본적으로 불가능합니다. 마음이 평정하고 고요한 상태에서 사물이 바르게 보이는 것이지 내 마음이 성냄으로 가득 차 있을 때는 바른 생각이 자리를 잡을 공간이 없습니다. 우리는 ‘홧김에 어쩌고.....’ 하는 말을 자주 쓰는데, 화가 난 상태에서는 이성적으로 생각할 수가 없습니다. 바른 사유를 할 수 없다는 의미입니다. 세상의 얼마나 많은 사람들이 화나는 것 때문에 큰일을 저지릅니까? 화가 나서 하지 말아야 할 말을 해서 다른 사람의 원한을 사기도 하고 때로는 화가 나서 다른 사람의 비밀을 말해버리기도 합니다. 그런 것이 빌미가 되어서 더 끔찍한 일로 발전하기도 합니다. 화를 낸다는 것은 자기 뜻대로 되지 않기 때문에 그렇습니다. 자기 뜻대로 되지 않는 다는 것은 자기의 욕심을 채울 수가 없어서 그런 것입니다. 자기가 욕심나는 것을 가지지 못하니까 그것이 화가 납니다. 그리고 자기의 욕심을 방해하는 모든 것에 대해서 화를 냅니다. 화의 근원도 따지고 보면 결국은 자기의 탐욕 때문에 발생하는 것입니다.



생사를 초월하겠다는 초연한 마음을 가지면 탐욕을 부릴 것이 없습니다. 모든 것이 변하고 허물어지는 세상 이치 가운데에서 자기 것이라고 고집할 게 뭐가 있겠습니까? 세상 이치에 대한 바른 견해를 가지지 못하기 때문에 어리석은 탐욕이 일어나는 것입니다. 그리고 그것 때문에 화를 냄으로써 모든 일을 바르게 생각하지 못하는 것입니다. 세상이 내 욕심대로 되기를 바란다는 것은 어리석은 일입니다. 다른 사람들도 마찬가지의 욕심을 가지기 때문에 나의 욕심과 만나면 충돌하게 되어 있습니다. 그래서 화가 나는 것입니다.



세상이 내 뜻대로 되기를 바란다는 것은 참으로 어리석은 일입니다. 성불한다고 세상이 변하는 것이 아닙니다. 세상이 변해서 극락정토가 되는 것이 아닙니다. 내 마음, 나의 내면의 세계가 변함으로써 세상이 달리 보이는 것이지 부처가 되었다고 해서 세상에 착한 사람만 남고 나쁜 사람은 다 없어지는 그런 것이 아닙니다. 부처는 마음에 욕심이 없기 때문에 가지지 못한다고 해서 화를 내지 않습니다. 자신에 대한 집착과 탐욕을 떠나있으므로 화낼 일도 없는 것입니다.



그렇기 때문에, 화를 내지 않고 고요한 마음으로 사유하면 무엇이든지 바르게 보입니다. 바둑이나 장기를 둘 때 뒷전에서 구경하는 사람에게 판이 더 잘 보이는 이치와 같다고 할 수 있습니다. 평정한 마음으로 사유하면 더 현명하고 바른 사유가 됩니다. 어떤 대상에든 화를 내지 않는 것이 바른 사유를 하는 데에 있어 필수 조건이라 할 수 있습니다. 무에각이라는 것은 바로 이러한 사유를 말하는 것입니다.



다음으로 불해각이라는 것이 있습니다. 해치지 않으려는 생각입니다. 이것은 한 마디로 자비에 바탕을 둔 사유라고 할 수 있습니다. 바른 사유를 하는 데에 있어서는 남을 해치려는 마음이 있어서는 안 됩니다. 꼭 때리고 욕하고 살생하는 것뿐만 아니라 어떠한 형태로든 남에게 손해를 끼치는 것은 해치는 것과 같습니다. 남을 해치려는 것은 어리석은 생각에서 나온 것입니다. 바른 사유라는 것은 해치는 마음이 있어서는 안 된다는 것입니다.



자기의 이익만 추구하려고 해서도 바른 생각을 낼 수가 없습니다. 어떤 일이든지 자기의 이익만 앞서서는 올바른 생각을 할 수가 없습니다. 그것은 어리석은 생각입니다. 남을 해치지 않고 무엇이든지 도우려는 마음을 가지고 시작하면 잘못될 것이 없습니다. 이기적인 생각을 버리고 다른 사람의 행복을 위한다는 마음가짐으로 사유해야 합니다. 그것은 물론 한없는 자비심이 바탕이 되어야 할 것입니다. 남을 해치지 않는다는 소극적인 면을 넘어서 남의 행복을 위하여 모든 일을 한다는 생각을 가진다면 자신의 행복은 저절로 찾아질 것입니다.



어떤 조사에 의하면 다른 사람을 위한 삶을 사는 사람의 행복도가 그렇지 못한 사람보다 더 높다고 했습니다. 세계 최대의 갑부가 되고도 행복하지 못했던 록펠러가 다른 사람의 행복을 위하여 살겠다고 생각한 순간부터 자신도 행복해졌다는 이야기가 이런 것을 입증하는 사례라고 할 수 있습니다.



생사를 초월하겠다는 생각인 출리각, 화를 내지 않겠다는 생각인 무에각, 남을 해치지 않겠다는 생각인 불해각은 비록 세속의 번뇌와 집착을 완전히 버리지는 못했더라도 우리를 선취로 이끄는 지혜로운 생각이라는 것이 바로 세속적인 정사유라고 하는 것입니다. 정견과 마찬가지로 정사유는 팔정도 가운데에서 우리의 지혜의 면을 말한 것입니다.



- 이 글은 중앙교육원 교육원장 화령 정사 (정심사 주교)의 글입니다 -

2021/03/28

불교언론-알기쉬운 불교교리-정사유(正思惟): 바른 생각 - 법보신문

불교언론-알기쉬운 불교교리-정사유(正思惟): 바른 생각 - 법보신문


알기쉬운 불교교리-

정사유(正思惟): 바른 생각
 이병욱 승인 2004.08.10


‘내가 옳다’는 어리석음이 성냄의 씨앗
요즘 나라사정이 지붕이 뻥 뚫린 집에 비가 세차게 들이치고 있는 형국입니다. 이럴 때, 서로 잘 하자고 손잡고 만세 삼창을 불러도, 그거 가지고 과연 잘 될까 하는 의구심조차 일어나는 시점인데, 우리나라를 대표하는 두 정치인이 서로에게 실망했다고 난리법석을 떨고 있습니다. 마치 가난에 쪼들리는 집안형편에다 믿음직한 자식마저 슬그머니 가출한 것과 비슷한 경우라고 할 수 있습니다. 참으로 ‘양보’와 ‘타협’을 먹고사는 ‘정치’라고 부르는 잡식성동물이 필요한 때입니다. 그런데, 우리나라에 군집하고 있는 ‘정치’라는 동물의 두 우두머리는 더 이상 ‘양보’와 ‘타협’을 주된 메뉴로 삼지 않겠다고 으르렁거리고 있습니다. 이제 이 짐승들이 자신의 ‘주식’을 먹지 않겠다고 하면, 아마도 이들은 한국에서는 멀지 않은 시기에 멸종될지도 모릅니다. 미래에는 외국 국회의사당에 살고 있는 이 ‘축생’을 수입하거나, 아니면 이 ‘네 발 달린 놈들’을 천연기념물로 보호하자고 캠페인을 벌리는 날이 올지도 모릅니다.

이 모든 불상사는 서로가 서로에게 섭섭하다고 하는데 기인합니다. 섭섭하다는 것은 불쾌하다는 것을 부드럽게 표현한 말이고, 이는 결국 화가 난다는 얘기입니다. 내가 원하는 것을 네가 안 해주니까, 나도 너에게 성을 낸다는 거죠. 이 때, 팔정도의 ‘정사유’의 ‘화를 내지 않음’이 불현듯 생각납니다.

그런데 화를 내지 말라는 가르침은 어찌 보면 너무도 당연한 말 같습니다. 누구도 떠들 수 있는 내용일 겁니다. 이 한 세상 살면서 늘 웃으면서, 자애롭게 남에게 베풀면서 살 수만 있다면 얼마나 좋겠습니까?

그렇지만 그게 말같이 잘 안 된다는 데, 문제의 심각성이 있습니다. 사실 간단한 것이 더 어려운 법입니다. 멀리서 바라볼 때는 단순의 극치인 것처럼 느껴지는데, 가까이 가면 갈수록 조절하기 힘든 감정의 험준한 바위가 나타나고, 때로는 분노의 계곡 물이 범람하기도 하고, 경우에 따라서는 ‘미움’이라는 낭떠러지 앞에서 로프에 매달려 올라가는 수고로움이 감추어져 있습니다.

게다가 저 자신도 사실 남보다 화를 잘 내는 편에 속합니다. 궁색한 변명을 늘어놓자면, 내가 옳고 남이 나에게 부당한 대우를 했다고 저 스스로 느낀다면, 그 땐 속으로 삭이지 못하고, 겉으로·얼굴로·목소리로·몸짓으로 자기 감정을 드러내는 ‘맹추’입니다. 그 때문에 늘 인심 잃고, 연신 허리 굽혀 싹싹 빌어야, 겨우 본전치기하는 일들이 저에게 가끔 있는 편입니다.

그래서 어느 날 내가 어쩌다 이런 지경에 빠져있나 하고, 곰곰이 곱씹어 보았더니, 그 원흉은 내가 옳다고 믿고 있는 데 있더군요. ‘성냄’이라는 더러운 잡초는 내가 옳다고 하는 어리석음의 씨앗에 기대고 있었던 겁니다. 내가 누군데 하는 생각이 깊이 잠복하고 있는 한, 아마도 화를 내는 것을 근본적으론 고칠 순 없을 것 같습니다. 그냥 이것 저것 따지고, 이리 저리 머리 굴려보고, 더 큰 이익을 위해서, 아니면 덜 손해보는 길을 찾아서, 속에서는 분노의 화산이 폭발하고 평정심의 건물이 와르르 무너지고 있지만, 겉으로는 온유하고 화평한 듯이 처신하는 약삭빠름은 있을지 모르겠지만요.

그리고 화를 내게 만드는 어리석음은 욕심의 비가 내려야 자라납니다. 욕심을 부리고, 그 뜻대로 되지 않을 때, 감정은 자기 조절능력을 잃고, 흘러 넘치고 맙니다. 어리석음과 전면 승부하는 것도 중요하지만, 우선 어리석음에게 응원사격을 해 주는 욕심부터 다잡을 필요가 있습니다.

저는 바둑용어에 ‘맞보기’라는 말에서 어느 정도 단서를 잡았습니다. ‘맞보기’라는 건 동일하게 큰 자리가 두 개가 있다는 겁니다. 바둑을 두면, 실전심리는 이 자리도 두고 싶고 저 자리도 두고 싶은 게 사실입니다. 그래 가지고 남이 저 자리를 못 두게 하고, 나 혼자 다 둘 수는 없을까 생각하게 됩니다. 이런 자세로 세상사에 임하면, 결국 화를 낼 수밖에 없습니다. 문제의 해결방법은 인생의 ‘맞보기’를 알 수 있을 만큼, 길게 보고 크게 보는 안목이 필요한 겁니다. 그러할 때 비로소 여유롭게 될 수 있고, 그런 사람이라야 양보와 타협이라는 아름다운 동산에서 편안한 마음으로 산보할 수 있을 겁니다.


이병욱/고려대 강사
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팔정도(八正道) - sillokwiki

팔정도(八正道) - sillokwiki

팔정도(八正道)



불교에서 말하는 실천 수행의 중요한 여덟 가지 종목.

개설

팔정도(八正道)는 불교 수행의 올바른 여덟 가지 길로 정견(政見), 정사유(正思惟), 정어(正語), 정업(正業), 정명(正命), 정정진(正精進), 정념(正念), 정정(正定)을 말한다. 팔정도에 반대되는 것을 팔사(八邪) 또는 팔사행(八邪行)이라고 한다.

내용 및 특징

팔정도는 바르게 보기[正見], 바르게 생각하기[正思惟], 바르게 말하기[正語], 바르게 행동하기[正業], 바르게 생활하기[正命], 바르게 정진하기[正精進], 바르게 깨어 있기[正念], 바르게 정신 집중하기[正定]를 말한다. 팔정도는 욕락(欲樂)과 고행의 극단을 떠난 중도(中道)이며 올바른 깨침에 들기 위한 가장 합리적이고 올바른 방법이다. 팔정도는 중정(中正), 중도(中道)의 완전한 수행법이므로 정도(正道)라고 하며, 이는 성인의 도이므로 성도(聖道)라고도 한다. 또 8종으로 나누었다고 하여 팔지(八支) 혹은 팔분(八分)이라고 한다. 각각의 주요 내용은 다음과 같다.

  1. 정견(政見)은 바른 견해이며 불교의 바른 세계관, 인생관으로서 인연(因緣)과 사제(四諦)에 관한 지혜이다. 나와 사물을 있는 그대로 바라보고 이해하는 것을 말한다. 일상생활에서는 전체적인 계획이나 전망이 정견에 해당한다.
  2. 정사유(正思惟)는 말이나 행동을 하기 전의 바른 의사 또는 결의를 가리킨다. 출가자는 유화와 자비, 충정의 마음으로 사유하고, 일반인이라면 자기의 입장을 바르게 생각하고 의사(意思)하는 것이 정사유이다. 올바른 사유는 지혜로운 생각과 본질적으로 같다.
정견正見과 정사유正思惟
  • 정견正見이란, ‘이것이 정견이다’라고 하며 ‘사견邪見에 대응하는 정견’을 세우는 것이 아니라, 현상을 있는 그대로 보는 것을 말한다.
  • 정사유正思惟는, 현상을 있는 그대로 본 후에 탐진치가 없이 판단(생각)하는 것으로서, 마음으로 짓는 불선업인 의업意業(탐심, 진심, 치심)을 짓지 않는 것을 말한다.


  1. 정어(正語)는 정사유 뒤에 생기는 바른 언어적 행위이다. 진실하지 못한 허망한 말인 망어(妄語), 남에게 욕을 하고 험담을 하여 성내게 하고 번뇌롭게 하는 일인 악구(惡口), 이간질을 하는 행위인 양설(兩說), 교묘하게 꾸며대는 말인 기어(綺語)를 하지 않고 진실하고 남을 사랑하며 융화하는 유익한 말을 하는 것이다.
  2. 정업(正業)은 정사유 뒤에 오는 올바른 신체적 행위이다. 살아있는 것을 해치는 살생(殺生), 남의 것을 훔치는 투도(偸盜), 간음 등의 음탕한 짓을 하는 사음(邪淫)을 떠나 생명에 대한 애호(愛護), 자선(慈善) 등의 선행을 하는 일이다.
  3. 정명(正命)은 바른 생활이다. 생활 수단을 바르게 하여 규칙적인 습관을 기르고 양심적이고 윤리, 도덕적인 삶을 영위하는 것이다.
  4. 정정진(正精進)은 용기를 가지고 바르게 노력하는 일이다. 정진이란 이상을 향해 노력하는 것이고, 그것은 종교적, 윤리적, 정치적, 경제적, 육체 건강상의 모든 면에서 이상으로서의 선을 낳고 증대시키는 것이다. 올바른 정진에는 네 가지 노력, 사정근(四精勤)이 있다. 제어에 의한 노력[律儀勤], 극복하려는 노력[斷勤], 수행에 의한 노력[修勤], 지킴에 의한 노력[守護勤]이다.
  5. 정념(正念)은 바른 의식을 가지고 이상과 목적을 언제나 잊지 않는 일이다. 불교적인 정념이란 무상(無常), 고(苦), 무아(無我) 등을 언제나 염두에 두고 잊지 않는 일이다.
  6. 정정(正定)은 정신통일을 말하며 사정선(四禪定)을 가리킨다. 정(定)이란 완전한 침묵, 적정의 뜻으로 삼매(三昧, samadhi)를 말한다. 일상생활에서는 마음을 안정시키고 정신을 바르게 집중하는 일이다.

팔정도는 여덟 가지 항목이지만, 이것은 하나의 성도(聖道)를 이루는 각 부분이며 여덟 가지는 일체로서 유기적으로 결합되어 있기 때문에 별개의 것이 아니다. 또한 팔정도를 계(戒)·정(定)·혜(慧) 삼학과 관계를 지으면 정어(正語), 정업(正業), 정명(正命), 정정진(正精進)은 계에 해당하고, 정념(正念), 정정(正定)은 정에 해당하고, 정견(正見), 정사유(正思惟)는 혜에 해당한다. 고통과 향락에 떨어지지 않는 중도가 계·정·혜로 실천이 되고, 팔정도는 바로 이 계·정·혜를 세분화한 것이다. 이것이 불교의 실천 방법이다.

팔정도는 중생을 미혹의 세계인 차안(此岸)에서 깨달음의 세계인 피안(彼岸)으로 인도하는 힘을 갖고 있다고 하여 이동의 도구인 선(船)이나 벌(筏)에 비유해 선팔벌(船八筏), 혹은 차륜(車輪)에 비유해 팔륜(八輪)이라고 한다. 팔정도에 반하는 올바르지 못한 생각과 행동을 일컫는 사견(邪見), 사사(邪思), 사업(邪業), 사명(邪命), 사정진(邪精進), 사념(邪念), 사정(邪定) 여덟 가지를 팔사(八邪) 또는 팔사행(八邪行)이라고 한다.

참고문헌

  • 홍법원 편집부, 『불교학대사전』, 홍법원, 1998.