西村 恵信
Person China Zen Zen as a History – Nostalgia The US Tankobon Hardcover – December 1, 1985
by 西村 恵信 (著)
4.5 out of 5 stars 3 ratings
249 pages
禅文化研究所
Publication dateduct Details
Publisher : 禅文化研究所 (December 1, 1985)
Publication date : December 1, 1985
Language : Japanese
Tankobon Hardcover : 249 pages
ISBN-10 : 4881820451
ISBN-13 : 978-4881820452
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4.5 out of 5 stars
イエスちゃん!
5.0 out of 5 stars 禅は、いかに死ぬかという永遠にかかわる思想ではなく、「いかに生きるか」という、今ここの実践課題である。(他方、宋代に思想化を始めた。)Reviewed in Japan on June 6, 2015
要は、唐代末期の禅宗形成期は、一人の禅者を見ていても理解は不可能である。
当時、大勢の修行僧が<広い中国全土を>良き師を求めて行脚し、人物と教えの情報を交流していた。
更に、弟子を送って、禅問答を吹っかけたりもしていた。
(一人の師匠に付くのではなく、多くの師を渡り歩くのが常態であった。一人の師だけでは病気だ、とまで言われた。)
<その思想的ネットワーク全体>において、
・何を問題にしているか?、
・それに、各自がどの様な解答を出しているか?、
・更に、それに対して、どの様に批判しているのか?
<個々においては理解できない>禅問答も、
<この共通の意味空間>に置いてみれば、
その真の意味が理解できるようになる。
つまり、唐代末の禅問答には、明確な意味があった。
● ● ●
しかし、その後<宋代の看話禅に>なると、<禅思想に>変質する。
ここでは、意味は完全に無視、否定するようになる。
例えば、こんな調子である。
趙州和尚、因みに僧問う、
「狗子(くし)に 還(かえ)って 仏性有りや 也(ま)た無しや」。
州云(いわ)く、「無」
唐代末期の禅僧趙州に、ある僧が聞いた。「犬にも仏性がありますか」。趙州は答えた「無」。
修行僧が仏性の「ある、なし」や虚無の「無」にこだわれば、どう工夫してもこの公案は透過できない。
師家は「無」の一字が禅の基本である“真空無相(自我を捨てる。本来無一物)”そのものであることを示唆する。
「ある、なし」ではなく、絶対的な「無」である。
修行僧は四六時中「無」と格闘するうち、やがて三昧の境地に入ってくる。
● ● ●
本書は、季刊誌『禅文化』に連載したものを纏めたもの。
宋代で禅が変質される前の・・・
つまり、『碧巌録』や『無門関』などの「公案集」ではなく、
唐代禅者の『史伝』、特に『祖堂集』や『伝灯録』などをもとに、
それぞれの人がどのように生きたかを紹介しようと努めている。
(何に苦労して修行したのかも…)
禅は抽象的な思想ではない。(宋代に思想化を始めた。)
禅は生活の手段である。
いかに死ぬかという永遠にかかわる思想ではなく、
「いかに生きるか」という、今ここの実践課題である。
なお、唐代末期が中心だが、五家の雲門、法眼まで含める。
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