soc.sys_19_101.pdf[論説] 咸錫憲(ハム・ソッコン)思想における民族と民衆
--植民地期から1980年代までの変化を中心に--
金, 京燕
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はじめに
咸錫憲(함석헌、ハム・ソッコン;1901-1989)は 20 世紀の韓国において著名な宗教思想家、民主化運動の指導者、歴史哲学者と評価されている 1)。東西文化が融合する韓国近現代史の中で形成された咸錫憲思想の幅は計り知れないほど広くて深い。その中で、最も核心的な思想の一つだといわれる「シアル(씨알)思想」は、彼の歴史的経験と実践の中で形成したものである。ハングルで書かれた「シアル」の「シ(씨)」は種子を、「アル(알)」は卵・粒を意味する。咸錫憲が本格的に「シアル」という言葉で民衆を表したのは 1970 年代からである。彼はシアルの元の意味を転じて社会生活における最底辺にある人々を「シアル」といい、民衆、民、百姓、民族、神(ハナ二ム )、個人、全体などを表した。彼のシアル思想の萌芽から成熟に至るまでを眺めてみると、常に民族と民衆を中心に扱っていた。
20 世紀の韓国の歴史は、社会・政治的変動と緊張が連続したといえる。例えば、日本帝国の植民地支配、南北分断、李承晩独裁政権の統治とそれに続く、朴正煕軍事クーデター政権などである。このような歴史の変動の中で、咸錫憲は民族と民衆を巡って大胆に言論活動を行った。また、彼の論点は時期によって変化している。例えば、民族の自覚に中心を置いた時期もあれば、民衆の主体性を強調する時期もあった。
民族や民衆という概念は時代や論者によって異なる意味で使われる。言い換えると、民族と民衆はある国家のイデオロギーの範疇で、あるいは歴史的、社会・政治的な文脈の中で使われた言葉であり、更にその意味について再解釈されるからだ。そのため、民族と民衆の概念を一義的に定義することや、固定化することができない。例えば、韓国のナショナリズムの形成について捉える際、植民地期朝鮮における民族とは、日本帝国という他者の存在を意識した排他的な「朝鮮民族」を示すとすれば、南北分断以降の民族統一論を提起する際、視座に置かれる民族とは、北朝鮮を意識した包括的な観念を指す。一方、韓国において民衆という言葉は、植民地期でも使われているが、主には百姓という意味として使用された。その民衆という言葉は、解放後の韓国社会において、民主化運動の担い手として規定され、様々な階層を統合させるために、知識人の間で新しい意味合いをもって生まれた。咸錫憲も民族と民衆を、植民地期から韓国の民衆化運動に至るまでの歴史背景下で提起したのである。
民族という概念を巡り、咸錫憲は 1930 年代から月刊誌『聖書朝鮮』において言及しはじめる。 1934 年 7 月、咸錫憲は『聖書的立場から見た朝鮮の歴史』において満州、および朝鮮半島における朝鮮族が朝鮮民族だと定義している 2)。
一方、咸錫憲が民衆について正式に定義したのは、1970 年代以降である。1970 年、咸錫憲は雑誌『シアレソリ(シアルの声)』 3) を創刊する際、「シアル」について次のように記している。
「シアルとは民・民衆・百姓の意味であり、歴史社会の最も底辺にいる主体的な人間を表している」4 )。しかし、咸錫憲は「シアルとは民衆だ」と定義しているが、そこにはそもそも民衆とは何かという前提が欠けている。
1980 年、彼は『シアレソリ』誌上における安炳茂との対談で、「『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』を書いた 1934 年から既に民衆に関する思索を始めていた」 5) と述べている。しかし、植民地期から民衆に関する思索を始めていたとしても、彼が植民地時代、民衆の概念をどのように定義したかという記載がない。そのため、植民地期の民衆の意味が 1970 年代に彼が考えた「シアル(民衆)」と同じ意味とは確定できない。
要するに、咸錫憲は時期によって、その言論の中心が民族に偏る時期もあれば、場合によっては民衆こそが歴史の担い手だと主張する。そこで、先行研究における咸錫憲のシアル思想に対する解釈には、それが民族思想だという見解もあれば、シアル思想は萌芽の時期から民衆を中心におく民衆思想だという見解もある。更には、咸錫憲の「シアル(民衆)思想」における民族と民衆は同一なものであるという見解もある。
例えば朴賢淑は、論文「咸錫憲におけるシアル思想の成立と展開 ― 連載論文『聖書的立場から見た朝鮮の歴史』を中心に ―」のなかで、咸錫憲の歴史観を「歴史の主体を民衆に置く民衆史観」6 ) だと述べ、咸錫憲の思想が 1930 年代から「シアル思想」を形成するまで、一貫して「民衆思想」であったと主張している。一方、ノ・ミョンシクは、論文「韓国の歴史家:咸錫憲」の中で、「『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』という連載論文を通じて、咸錫憲の思想の核心は民族であり、咸錫憲の史観を民族史観として解釈することができる」7 ) と主張している。しかし、彼の思想がいつの時点まで民族史観を中心として捉えていたかについては説明していない。
また、「シアル」思想研究における第一人者である朴在淳は、「咸錫憲がシアル思想の全体主義という理論に基づき、民衆と民族を同一視」 8) したものであり、「『シアル思想』は民衆思想でもあり、民族思想でもある」9 ) と解釈している。しかし、民族と民衆は明らかに異なる概念であるし、「民衆思想」と「民族思想」も異なる概念である。
本稿では上述した先行研究を踏まえた上で、植民地期から 1980 年代までの間に、咸錫憲の思想が民族と民衆を中心にどのように変化したかについて考察する。そして、彼の思想が 1945 年を境として民族思想から民衆思想へ展開していった点について明らかにしていく。
まず、第一章では植民地時代における咸錫憲の思想背景から、彼がキリスト教と民族主義思想の影響を受けたきっかけを明らかにする。具体的には、3.1 独立運動からの影響(1910-1921)、五山学校と東京留学から受けた民族主義思想とキリスト教の影響(1921-1927)、咸錫憲における思想の模索と展開期(1927-1945)と三段階に分けて考察する。第二章では植民地期、咸錫憲は思惟の中心を民族におき、歴史の担い手が民族にあると考えたことと民族の主体性を喚起しようとしたことを明らかにする。第三章では解放後、咸錫憲における民衆思想の形成と展開について論じる。まず、植民地期の民衆と 1970 年に打ち出した「シアル(民衆)思想」における民衆が意を異にしたことを明らかにする。次に、解放後咸錫憲の論説の中心が、民族から民衆へ転回したこと、そして、社会・歴史の背景の中での「シアル(民衆)思想」の形成と発展過程について検討する。
第一章 植民地期の思想背景(1910‒1945)
第一節 3.1 独立運動の影響(1910‒1921)
第一節では植民地化から 3.1 独立運動までの時期における咸錫憲の思想形成過程について考察する。まず、キリスト教の影響を取り上げ、次に、独立運動への参加によって、民族主義思想に接したことについて解明する。
咸錫憲は 1901 年 3 月 13 日、朝鮮の平安北道龍川郡(府羅面元城洞)にて父・咸享沢、母・金享道の長男として生まれる。1906 年、徳一小学校というキリスト教系私立学校でキリスト教に接した。その後、従兄の咸錫奎が元城洞に立てた長老派教会(Presbyterian Church)の信者として毎週の日曜日礼拝に通う。1910 年、9 歳の時、朝鮮が日本に併合され祖国を失う。1916 年、官立平壌高等学校(中学課程)に入学する。
3.1 独立運動の時、咸錫憲に最も大きな影響を与えた人物は、従兄の咸錫殷であった10 )。咸錫憲は、咸錫殷の指導の下で平壌地域の 3.1 運動と直接に関与することになった。咸錫憲は、「はじめて独立運動に参加した自分は、自ら木版に太極旗と独立宣言書を彫り、それを刷って平壌の朝鮮人たちに配った。そして当日、他のキリスト教青年達と共に『大韓独立万歳』を叫んだ」11 ) と語っている。また、彼は「喉が燃え尽き、乾燥するまで「独立万歳」を叫び、腕首を捩る日本人巡査を振り払い、銃に刀を差して行進してくる日本軍人と向かい合って行進した。日本軍人の足に蹴られても平気で、踏まれ続けても立ち上がった」 12) と振り返る。
すなわち、咸錫憲が 3.1 独立運動前まで、徳一キリスト教系私立学校に通ったこと、そして毎週、長老派教会へ礼拝に行ったことから、熱心なキリスト教徒であったことが分かる。また、 3.1 独立運動は咸錫憲が初めて参加した政治運動であったが、3.1 運動の中での彼の行動は、民族主義思想の影響下にあった可能性を確認しておきたい。
第二節 五山学校と東京留学から受けた民族主義思想とキリスト教の影響(1921‒1927)
本節ではまず、咸錫憲が長老派教会に疑問を抱き、教会から離れようと考えた理由を明らかにする。次に、五山学校で受けたキリスト教と民族主義思想の影響について検討する。最後に咸錫憲が内村鑑三(1861-1930)から受けた影響について究明する。
3.1 独立運動後、官立平壌高等学校に復学するためには、日本人教師に謝罪をしなければならないという規則であったが、咸錫憲はそれを拒否し、故郷の獅子島に戻る。
故郷に戻ってきた咸錫憲は、1919-1921 年の足かけ 3 年間長老派教会に通った。しかし、1919 年以後、キリスト教徒たちと宣教師たちは独立運動に対し、不干渉路線を選択した。さらに彼らは総督府に協力しようとしたため、咸錫憲はキリスト教と民族主義について内的葛藤を持つようになり、3.1 独立運動以後のキリスト教を後に次のように批判している。
「キリスト教と民族主義が一緒になって初めは良い関係にあったが、その後は段々と矛盾が生じた。独立という希望が見えた時期は、驚くほど皆が団結していた。しかし、日本の統治がどうしようもない方向に展開し、日本総督府がある程度柔軟な文化政策を使い始めるや否や、知識人たちの多くが妥協し始めた。その反面、宗教はますます信仰から離れ、体制側に付くようになった。私を含む多くの若者が教会に行かなくなり、教会に対して批判的になっていった」 13)。
このように、3.1 運動の際、民族主義という旗を持ち闘ったキリスト教徒と宣教師たちが 3.1 運動以降、朝鮮総督府に協力しようとしたことに対し強い不満を抱き始めたのである。
1921 年、咸錫憲は平安北道定州にある五山学校(中学課程)の 3 年生として編入学を許される 14)。五山学校は、3.1 独立運動に関わった 33 人の民族代表の一人である李昇薰(1864-1930)が、1907 年に設立したキリスト教系中学校である。その設立目的は、民族主義者を養成することであった。咸錫憲の回顧によれば、「3.1 運動の時、五山学校は民族主義の巣窟だと言われ、日本の憲兵が火をつけ、解散させようとしたのを再建し、学生を受け入れた」15 ) という。咸錫憲が五山に入学した際、当時有名な民族指導者であった曺晩植(1882-1950)が校長であった。その後、秋学期から一年間、咸錫憲が生涯の師匠と仰ぐ柳永模(1890-1981) が校長としてソウルより赴任する16 )。五山学校で咸錫憲は初めて「ハングル」、「ペダル(朝鮮民族の歴史的あるいは、古風な呼称)」、「ハンペ(同胞)」なる言葉を学ぶ17 )。咸錫憲は「五山学校は当時民族運動、文化運動、信仰運動の器でした。当時五山学校の教育は民族主義、人道主義、基督信仰が合一した精神教育でした。」18 ) と、回顧している。
咸錫憲は 1923 年の春に東京に留学し、1924 年 4 月、東京高等師範学校に入学する。そして、 9 月に関東大震災を経験した。その後彼は学友金教臣の案内により、内村鑑三に出会う 19)。そして、内村鑑三の聖書研究会に参加し、内村が提唱した無教会主義を信じるようになった。咸錫憲は内村鑑三の聖書研究会への参加を通じて、真の信仰こそが愛国であると考えるようになる。そして、無教会主義思想が咸錫憲思想における「個人と信仰」の問題や「民族と宗教」の関係、そして「民衆と信仰」の関係などを論ずる根拠となった20 )。
第二節から次のことが明らかになった。咸錫憲は 3.1 独立運動以降朝鮮総督府に妥協した一部のキリスト教者と宣教者たちに失望し、教会に通わなくなった。その後、キリスト教精神と民族主義精神を教育する五山学校で、咸錫憲はキリスト教と民族主義思想との共存に目覚める。咸錫憲は東京に留学中、内村鑑三の聖書研究会に参加した結果、信仰と民族についての思考が深化したのである。
第三節 咸錫憲における思想の模索と展開(1927‒1945)
本節では、咸錫憲が東京から帰国した後の執筆活動について考察する。
咸錫憲は東京高等師範学校で教員資格を取得して帰国し、五山学校の教師として教育に携わる。
彼は 1928-1938 年の 10 年間、この学校で歴史を教えることになる。1930 年代朝鮮総督府により朝鮮では朝鮮民族の歴史を教えることが禁じられ21 )、当局から日本の歴史を教えるように指導された。それにも拘らず、咸錫憲は五山学校で朝鮮の歴史を教えていた。
また、日本から帰国した咸錫憲は同僚たちと無教会主義の立場から『聖書朝鮮』を発行し、「眠っている」朝鮮民族を自覚させるために言論活動を行った 22)。その時期、咸錫憲は無教会主義的な信仰こそが「永遠の真理、普遍的な真理へ達する」 23) と考えた。それが、咸錫憲思想における「個人と信仰」の問題や「民族と宗教」の関係、そして「民衆と信仰」の関係などを論ずる根拠となった。咸錫憲の代表作である『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』(1934-1935)は、民族の歴史観と宗教の問題を論じている。
朴慶植によれば、1930 年代、韓国史における不滅の民族魂を強調した歴史叙述や歴史解釈に対し、朝鮮総督府は「妄説」であるとして発行禁止処分をしたという 24)。それにも拘らず、咸錫憲は『聖書朝鮮』誌に連載論文を掲載し、大胆に言論活動を行い、主体的な民族を自覚させるために思想の模索と展開を行ったのである。
第一章で明らかになったことは次のことである。咸錫憲は 3.1 独立運動に参加して以来、キリスト教信仰と民族精神の影響を受けた。咸錫憲がキリスト教信仰と民族に強い関心を持つようになったのは、五山学校での勉強と内村鑑三の影響によるものであった。そして、日本から帰国してからは、朝鮮民族を自覚させるために、歴史を教える一方、文筆活動や言論活動を行いながら思想の模索を行ったのである。
第二章 植民地期における民族思想の考察
第一節 民族の概念形成からの影響
第一節では朝鮮半島における民族の概念形成から咸錫憲が受けた影響について解明する。
「民族」とはもともと西洋の概念であり、小熊英二によれば、日本でこの概念は明治 20 年代
(1887-1896)に現れた民族主義者たちの論議によって日本全域に広がったが、Nation の翻訳としての「民族」という概念は「国民」より低く位置付けられていたという25 )。一方、朝鮮半島における「Nation」という概念は日本を経由して受容されたが、植民地期の朝鮮半島においては日本帝国を意識した「国民」と、朝鮮民族を意識した「民族」の二つの概念に分かれていた。
朝鮮半島において民族という概念は 1900 年 1 月 12 日『皇城新聞』の記事で初めて使用された。
この記事では民族は「白人民族」と「東方民族」という形で現れたが、いうまでもなくそれは白色人種と黄色人種を意味していた。つまり、朝鮮半島で初めて現れた民族の概念は「人種」の意味として使用された。それが、1908 年 7 月 30 日『大韓毎日申報』の「民族と国民の区別」という文章のなかで「民族は血統・歴史・居住・宗教・言語の同一」に基礎を置く自然的な共同体として理解された 26)。ユン・ヨンシルの研究によれば、「李光洙は民族と『国家』の観念上の区別のために民族には朝鮮とつけ『朝鮮民族』とすることにした」 27)。そして、1920 年代から崔南善は「朝鮮学」を提唱し、「朝鮮」と民族を結びつける必然性を模索し始めた28 )。
咸錫憲の「朝鮮」と民族の概念が崔南善の「朝鮮学」を継承したものだという証拠はない。だが、1930 年代、咸錫憲は「檀君神話によれば、桓因が朝鮮民族固有の精神秩序の核心だ」 29) と言っている。この咸錫憲の考えは、朝鮮文化の根幹を「檀君神話」だと考えた崔南善の「檀君ナショナリズム」と類似している。したがって、咸錫憲における民族という語の意味は、朝鮮半島における民族の概念形成史から影響を受けたと推測できる。
また、Andre Schmidt の研究によれば、韓国で民族の概念が歴史用語として本格的に使用されはじめたのは申采浩(1880-1936)の「讀史新論」(1908.8.27-12.13)が「大韓每日申報」に掲載された以降であるという30 )。申采浩の民族史の叙述の特徴は満州という地理的空間が民族性
(nationality)を構成する本質的な要素であるとした領土史(territorial history)である 31)。申采浩にとって満州は、朝鮮民族が誕生し成長した空間であるだけではなく民族の繁栄を象徴する源でもあった。満州という空間を民族に包含させる為に、申采浩は歴史的主体を構想する必要があった32 )。既述のように、咸錫憲は 1934 年に、満州と朝鮮半島における朝鮮族は朝鮮民族だ、と定義している。ここで分かるように申采浩における「歴史的主体」である朝鮮民族という概念は咸錫憲の定義と一致している。以上のことから、植民地期、咸錫憲における思想の中心が朝鮮と民族にあったことが判明する。
第二節 民族史観から捉えた歴史主体としての民族
第二節では、1934 年 2 月から 1935 年 12 月の間、連載論文『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』における民族と民衆に関する考察を通じて、植民地期に咸錫憲が、歴史の担い手は民族にあると考えたことについて究明する。
韓国のキリスト教における歴史観についての叙述は様々である。そして、韓国キリスト教において民族と民衆という概念は切り離すことができない。金承哲の研究によれば、李萬烈は、これまで韓国基督教史の史観を大きく三つのタイプに分け、それぞれを「宣教師的史観」、「民族主義的史観」、「民衆的史観」という順に変遷しているという 33)。韓国キリスト教研究者である閔庚培も李萬烈の観点に賛同している。閔庚培によれば、植民地期の朝鮮教会は、その理論的活動を
「民族史観」によって遂行することが不可避であり、民衆の問題は 1950 年代以降に扱われたとい
言(う34 )い()。)換えれば、植民地支配下の韓国のキリスト教は「民族のキリスト教」として形成され、民衆の問題は 1950 年代以降から扱われた。つまり、1930 年代、韓国キリスト教史観は民族史観だったのであり、民衆史観だったという可能性は極めて低い。
ノ・ミョンシクは咸錫憲の『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』について、「民族の苦難を受入れ、歴史家として、またキリスト教徒として、自問自答するなかで、ついに到達した結論が苦難史観であった。その歴史観には民族が位置づけられているので、民族主義史観である」35 ) という。
この観点については、筆者の考えと一致しているが、ノ・ミョンシクは咸錫憲の全体の思想において、いつからいつまでが民族史観だったか明らかにしていない。
咸錫憲は歴史を叙述する際、事実に基づくことを強調しながらも、主観的に語ることも重要であるとする。それが即ち、「聖書的立場からみる苦難の民族の歴史」であるという。彼は、次のように述べている。
「歴史は所謂事実というよりむしろ事実に対する解釈が命である」 36)。なぜなら「事実とは我という主観から独立して客観的に厳然として存在する物であると答えるべきだが、主観のレンズを通さない事実はないからである」 37)。
そして、彼は主観的な歴史を書くにあたっては聖書的史観を持って書くべきだと考える。咸錫憲にとって、苦難という朝鮮史の基調を決定するのも、その歴史観は神のほかに、民族であった。
「昔から歴史の担い手は民族である。個人でも階級でもない。個人も階級も皆民族的勢力の代行者である。朝鮮の歴史は朝鮮人の歴史である。(中略)個人は一人ではない。(中略)氏族社会
から封建国家へ、封建国家から民族に移行してきた。個人を後ろで支えてくれるのは民族である。
全ての個人はみな民族を表しているのだ」 38)。
つまり、咸錫憲にとって朝鮮思想史の根底にある基本的な考えは聖書的歴史観のほか、朝鮮の民族的特質も重要な条件であったといえる。咸錫憲にとって民族とは歴史の責任者である。即ち歴史の主体でありながら、個人を支える主体的な全体でもある。また、彼はこのような意味から、朝鮮民族に強烈な歴史意識を喚起させ、民族の主体性を自覚させようとした。これは、観念的なものでもあるが、その時代の歴史条件に合わせた史観とも言える。
第二章の内容をまとめると次のようになる。朝鮮半島における民族の概念の由来の議論を通じて、咸錫憲の思想が崔南善の「檀君ナショナリズム」と類似する点から、植民地期、咸錫憲の思想の中心は朝鮮と民族に置かれていた可能性が高かったと推測できた。また、申采浩における「歴史的主体」としての朝鮮民族という概念は咸錫憲が定義している概念と一致していることから、植民地期、咸錫憲の思想の中心は朝鮮と民族であったこともさらに明確になった。
要するに、民衆史観の立場から、『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』における民族と民衆についての分析を通じて、植民地期、咸錫憲思想の核心は朝鮮民族の主体性を自覚させることが重大な課題だったことが明らかになった。
第三章 「シアル(民衆)思想」の形成と発展
第一節 植民地期と 1970 年代以降の民衆の差異
第一節では 2013 年の筆者の研究成果と併せて39 )、1930 年代、咸錫憲が用いた民衆と、1970 年代「シアル思想」における民衆の異同を明らかにする。
1930 年代の連載論文『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』で、民衆という語は何回か出ているが、明確に定義されなかった。1930 年代、咸錫憲は民衆に「歴史社会の最も底辺にある主体的存在」という条件を加えていなかった。この条件は「シアル(民衆)」が社会に存立するためのものである。
その理由は次の通りである。まず、『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』で使っていた民衆という語の意味は、歴史社会の最も底辺に置かれている百姓だけではなかった。咸錫憲によると植民地期の民衆とは苦難の中にある満州地域と朝鮮半島の朝鮮民族であり、通時的にみれば朝鮮の歴史の中で朝鮮民族の枠に入る朝鮮人全体だった。次に、1930 年代、咸錫憲は朝鮮民族という民族精神によって、苦難の歴史期から抜け出す為に「眠っている」民衆たちを喚起しようと努力した。当時咸錫憲が考えた植民地支配における朝鮮民衆はまだ、主体的に日帝に抵抗する存在ではなかった。そのため、咸錫憲は『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』を書き、苦難に見舞われている朝鮮民族に主体性を持たせて日本の植民地支配に抵抗させようとした。咸錫憲は歴史の中心を民族におき、朝鮮民族の枠の中で民衆を捉えており、その時期の民衆とは百姓という意味とほぼ同じであった。つまり、彼の史観の核心は民族であり、少なくとも 1930 年代『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』を執筆している時は、朝鮮の歴史の主体を朝鮮民族だと考え、朝鮮民族という枠の中での苦難の民衆を考えたといえよう。
それに対して、1970 年代に民衆の意味を形成する契機を以下に示す。咸錫憲における「シアル」という単語の使用は、1945 年終戦後、ソウルの YMCA で行われた柳永模の東洋思想に関する講義を受講したことが契機となっている。以前の論文で述べたように、シアルという言葉は 1958 年、柳永模が講義の中で「民」という意味で初めて用いたものであった 40)。本来、柳永模が語っているシアルとは「人間の最も底辺に置かれてある民・民衆」という意味だったが、1970 年代に雑誌『シアレソリ』を創刊する際、咸錫憲は民衆(シアル)に「自ら考える」という主体性を付与した。そのため、咸錫憲における「歴史社会の最底辺に置かれている主体的」な民衆という概念は 1970 年代以降に生まれたのである。
このような経緯から分かるように、1930 年代、咸錫憲が『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』で述べた民衆の意味は、1970 年代に定義した民衆の意味とは異なっている。
ここまで、植民地期と 1970 年代以降の民衆の比較を通じて、植民地期の民衆は「眠っている」、主体性を持たない朝鮮人で、1970 年代以降の民衆は主体性を持つ、歴史社会の担い手としての韓国人のことを指していることを明らかにした。
第二節 「シアル(民衆)思想」の形成と発展
第二節では、解放後における咸錫憲の論説の中心が、民族から民衆へ転回したこと、そして、民衆思想の形成と展開について検討する。
解放後、外勢により南北分断された朝鮮半島では「統一した独立国家建設」が長く熱望されていた。朝鮮戦争後、李承晩が「北進統一」が唯一の統一方法だと公論化した時期、咸錫憲は「平和統一」を主張した。そして、「血縁関係によって繋げられた排他的な運命の共同体」としての民族に対して、1970 年代以降からは否定的に考え始めた。1970-1980 年代、咸錫憲は民主化過程の中で南北統一を提唱する「民族主義者」、「統一主義者」と評価されたこともある。ここでいう「民族主義者」における民族は植民地期に日本人を意識した朝鮮民族の意ではなく、北朝鮮という他者を意識した民族のことを指す。
しかし、咸錫憲は民主化運動の路線の中で民族主義と民主主義を区別する必要性を訴え、民主化社会の建設のために民衆を歴史の担い手とみた。したがって、彼の論説においても民衆を歴史の担い手とし、民衆思想の萌芽が始まった。つまり、解放後、咸錫憲の論説の中心は、民族から民衆へと転回したのである。したがって、彼の史観も植民地期の民族史観から解放後に民衆史観へ変化した。
咸錫憲は知識人の間での言論活動と、政治面では当時の政権に対する実践的な抵抗運動を活発に行いながら、自らの「シアル(民衆)思想」を構築していく。
「シアル(民衆)思想」を形成する以前の、彼の代表作をいくつか挙げる。1956 年 7 月より、雑誌『思想界』に「韓国キリスト教は何をしているか」、「いうべきことあり」などを載せ、社会的発言を開始する。1958 年 10 月、「考える百姓(民)であってこそ生きられる」を『思想界』8月号に発表する41 )。以上のような言論活動は全て、民衆を歴史社会における主体として捉え、後に「シアル(民衆)思想」を打ち出す土台になった。
同時に、彼は言論活動だけではなく、当時の軍事独裁政権に抵抗する実践的な活動にも活発に参加し、「シアル(民衆)思想」の構築に向けて経験を積んだ。政治に対する具体的思想は 50 年代半ば以後、李承晩独裁政府と朴正煕軍事政権に抵抗する過程の中で形成された。朴賢淑は「特に咸錫憲は、1961 年の 5.16 軍事政権に抵抗し、民主化運動の先頭に立ち、民衆を中心として考えるようになった」と指摘する 42)。
さらに、植民地期に書かれた『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』を改稿した際、意図的なテーマの変更、民衆とシアルの入れ替えなどから、咸錫憲のシアル(民衆)思想形成の過程が読み取れる。1965 年、『聖書的立場からみた朝鮮の歴史』は『意味からみた朝鮮の歴史』とタイトルが変えられ、歴史の担い手が「シアル(民衆)」だと記される。1965 年以降に行われた講演及び著述では「シアル」も民衆も同じ意味合いをもつようになる。そして、彼は「主体性を持つ民衆」 =「シアル」という考えをさらに深めていく。その後、咸錫憲は 1970 年に雑誌『シアレソリ』を創刊し、「シアル思想」が民衆思想であると公に発表する。
1970 年代以降、咸錫憲は歴史社会の最も底辺の地位に置かれている主体的な民・百姓・民衆を「シアル」というようになる。さらに、考える「シアル」、苦難の中で考える民衆が民主主義の主体であり、この主体が世界史と宇宙史、究極的に神の歴史を完成する共同体の位置にまで至ると考える。このような咸錫憲に特有な民衆思想が集約されたのが「シアル(民衆)思想」である。
咸錫憲は、民族主義と民主主義の関係について、「民族主義」が歴史発展過程の段階の前段階だとすれば「民主主義」はその後の段階だと考えたのである。
「今日に至るまで、民族路線について明確にされていない部分があった。民族主義なのか民主主義なのか。この二つは、必ずしも対立するものではない。歴史においては段階的な成長関係にあった。(中略)民主主義は社会過程を通じて成長したものであるから、民衆が目覚めなければならない。しかし、植民地期、我々は民族的な雰囲気の中で生きていたので、民主的な体験ができなかった。このような社会的事実関係にあって、関係の対象が日本人であったため、我々のイデオロギーは、民族的に感じ取られ、民主主義としては把握されなかった。解放された時も、日本が単に退いたわけだから、これから我々の手でやればよいと考えた。しかし、我々というのは、朝鮮人あるいは韓国人という意味であり、自主的な民衆という意味ではなかった。(中略)6.25 以降の韓国社会は必然的に民主主義の方向に邁進している。」 43)。
そして彼は、1970-1980 年代に民衆を民主主義の主体として把握し、韓国の新しい共同体の担い手として考えた。
第三章を通して、次のことが言える。咸錫憲の植民地期における民衆の意味は、1970 年代の民衆の意味と異なる。具体的な根拠としては、植民地期における民衆は主体性を持つ民衆ではないが、1970 年以降の民衆は主体性を持つ民衆であった。そして、解放後、咸錫憲の論説の中心が民族から民衆へと転回し、言論活動と実践的な活動を通じて、「シアル(民衆)思想」を形成し、発展させたのである。
おわりに
咸錫憲は 3.1 運動に参与して以来、キリスト教信仰と民族に根強い関心を持っていた。植民地期に五山学校で『聖書朝鮮』に論文を連載することによって朝鮮民族こそが歴史社会における担い手であると考え、朝鮮民族の主体性を喚起しようとした。彼は歴史社会の中で朝鮮半島の民族を自覚させようと考えたのである。よって、咸錫憲の民族を中心とする思惟は植民地期に形成されたと断言できる。その後、歴史状況の変化により、彼の思考の中心が民族から民衆へ転回したのである。つまり、解放後、咸錫憲は民衆の主体性を考えるようになった。彼は 1950 年代に『思想界』を通じて独裁政権と闘いながら、民衆思想を構想し始めた。政治に対する具体的な民衆思想は 50 年代半ば以後、李承晩独裁政府と朴正煕軍事政権に抵抗する過程の中で形成された。
1965 年以降に行われた講演及び著述では「シアル」も民衆も同じ意味合いをもつ用語として使われるようになったことから、民衆思想がシアル思想として生まれる必然性が明らかになった。 また、本論文では植民地期咸錫憲の思想は民族を中心として捉え、解放後には民衆を中心として捉えたことを明らかにした。また、1930 年代の咸錫憲思想における民族と民衆の概念を区別し、30 年代の民衆の概念と 70 年代の民衆の概念を区別した。これにより、咸錫憲が 1970 年代に打ち出した「シアル(民衆)思想」の民衆という概念をより細分化して理解することができた。
そして、彼は 1970 年代から 80 年代まで「シアル(民衆)思想」を打ち出し、主体的な民衆という考えを成熟させたことについて解明した。つまり、咸錫憲思想は 1945 年を境界として民族思想から民衆思想へと転回を成し遂げたといえる。
同時に、本論文の目的は先行研究の欠如を補うことでもあった。先行研究について述べた部分で取り上げたように、咸錫憲における民族史観と民衆史観に対する捉え方は、論考によって大きく異なっていた。この状況に対して、筆者は植民地期から 1980 年代までの、咸錫憲における思考の移り変わりを具体的に辿ることによって、1945 年が民族史観から民衆史観への転換点であることを明瞭に提示した。これは、これまでの研究に一石を投じるものであり、今後の咸錫憲研究全体に資するものと考える。
ただ、筆者は咸錫憲が解放後「民族統一論」を唱えたことに本論の中で触れたものの、植民地期と解放後の民族の異同については深く踏み込むことはできなかった。この点については、今後の課題としたい。また、咸錫憲の「シアル(民衆)思想」は、東西思想を融合した深みのある思想であるにもかかわらず、本稿ではその思想の内部構造について論じることができなかった。咸錫憲思想における宗教的な側面、例えば、キリスト教的要素、儒教の要素、韓国固有思想の要素などについては、今後の論文で集中的に論じることとしたい。
注
1) 金聖洙『咸錫憲評伝 ― 神の都市と世俗の間』サムイン(2001)pp. 5-17(参照)
2) 『聖書朝鮮』は 1927 年、韓国の無教会主義の創始者と呼ばれる金教臣が創刊した月刊雑誌である。無教会月刊誌『聖書朝鮮』66 号 咸錫憲著『聖書的立場から見た朝鮮の歴史』(六.地理的に決定された朝鮮史の成立)1934.7;「古代史からみれば、満州が朝鮮民族の発祥地である。そこで檀君、扶餘、高句麗が生じた。古代に南下し朝鮮族を代表することになった。」http://ssialsori.net
3) 1970 年雑誌『シアレソリ(シアルの声)』を創刊し、「シアル」思想を本格的に展開していくが
1980 年の光州民主革命で廃刊となり、1988 年 12 月に復刊。
4) 咸錫憲著『シアレソリ』シアレソリ社(1970.4)p. 20
5) 「シアレソリを創刊する理由」『シアレソリ』シアレソリ社 第 15 巻 1980.4 함석헌,『함석헌전 집 4 ― 죽을때까지 이 걸음으로』,한길사,(1983)p. 357(咸錫憲『咸錫憲全集 4 ― 死ぬまでこの歩みで』ハンギルサ(1983)p. 357)
6) 朴賢淑「咸錫憲におけるシアル思想の成立と展開 ― 連載論文『聖書的立場から見た朝鮮の歴史』を中心に ―」関西学院大学神学研究科博士学位論文(2012.9)http://hdl.handle.net/10236/9537
7) 노명식「한국의 역사가 : 함석헌」『씨알의 소리』통권 제162호 2001년 9, 10월호 pp. 61-pp.99 (ノ・ミョンシク「韓国の歴史家咸錫憲」『シアレソリ』シアレソリ社 第 162 号 2001 年 9、10 月号
pp. 61-99)
8) 朴在淳「安炳茂 神学思想の系譜:柳永模・咸錫憲・安炳茂」http://ssialsori.net/
9) 前掲 朴在淳「安炳茂 神学思想の系譜:柳永模・咸錫憲・安炳茂」http://ssialsori.net/
10) 함석헌,『함석헌전집 4 ― 죽을때까지 이 걸음으로』,한길사,(1983)p. 128(咸錫憲『咸錫憲全集 4 ― 死ぬまでこの歩みで』ハンギルサ(1983)p. 128)
11) 咸錫憲の映像資料 http://ssialsori.net
12) 함석헌,『함석헌전집 4 ― 죽을때까지 이 걸음으로』,한길사,(1983)pp. 128-129(咸錫憲『咸錫憲全集 4 ― 死ぬまでこの歩みで』ハンギルサ(1983)pp. 128-129)
13) 同上 p. 214
14) キリスト教と民族主義が一緒になれるかという疑問を抱きながら、1921 年 4 月咸錫憲は咸錫奎牧師と会うためにソウルにいく。咸錫奎牧師は義理の弟咸錫憲に五山学校を勧める。私立五山学校は平壌高等学校に比べ物質面では遥かに劣っているが、当時朝鮮の民族主義運動の至聖所と知られていた。
咸錫憲は咸錫奎の勧誘をうけいれ、五山学校にいくことに決定する。
15) 咸錫憲著 小杉尅次訳『死ぬまでこの歩みで』新教出版社(1991)p. 146(参照)
16) 咸錫憲は五山で初めて将来の思想に影響を受けた三人の師匠となる李昇薰と曺晩植、柳永模に出会う。李昇薰と曺晩植、咸錫憲に朝鮮独立の重要性を教えられ、柳永模からは聖書と老荘孔孟などの多様な東洋古典を教わった。
17) 咸錫憲著 小杉尅次訳『死ぬまでこの歩みで』新教出版社(1991)p. 147
18) 함석헌,『함석헌전집 4 ― 죽을때까지 이 걸음으로』,한길사,(1985)p. 212(咸錫憲『咸錫憲全集 4 ― 死ぬまでこの歩みで』ハンギルサ(1985)p. 212)
19) 内村鑑三は関東大震災で被害し、改築された柏木聖書講堂で聖書研究会を続けていた。
20) 咸錫憲思想と無教会主義との関係について、筆者は「咸錫憲の『シアル思想』における個人の信仰問題に関する考察 ― 内村鑑三の無教会主義と比較を中心に」と題する学会報告を行った。(比較文明学会 第 33 回大会 2015 年 11 月 8 日)
21) 「1930 年代から総督府は武力政治を改め『文化の発達、民力の充実』という文化政治的スローガンをあげた。同化政策を推進し、民族の上部階層の一部を買収し、若干の出版物、結社を許すという分断的な支配政策を行使するようになった。」朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配(上)』青木書店
(1973)pp. 200-201
22) 『聖書朝鮮』は 1927 年、金教臣が創刊した月刊雑誌である。『聖書朝鮮』は民族的キリスト教雑誌という特徴があった。1942 年 3 月、『聖書朝鮮』は 158 号を最終刊として閉刊される。その 2ヶ月後咸錫憲と金教臣を含めた『聖書朝鮮』の発行に関わりがあった 11 名の同僚たちは「恐ろしい思想を
伝播した」との容疑で捕まり、1 年間牢獄に入る。(宋建鎬著『今日の思想新書 韓国現代人物史論 民族運動の思想と指導路線』ハンギルサ(1984)pp. 261-262)
23) 咸錫憲「先知者」『聖書朝鮮』(1928.1)http://ssialsori.net/
24) 朴慶植 『日本帝国主義の朝鮮支配(上)』青木書店(1973)p. 162
25) 小熊英二『単一民族神話の起源 ―〈日本人〉の自画像の系譜』新曜社(1995)pp. 11-33
26) 백동현「大韓帝國期 民族認識과 國家構想」고려대 박사논문(2004.8)(白東鉉「大韓敵国期民族認識と国家構想」高麗大学博士論文(2004.8))http://m.riss.kr/search/detail/
27) 孤舟 ( 李光洙 )、「朝鮮人である青年達に」『少年』、1910.8 윤영실 「국민과 민족의 분화:『소년』
지에 나타난 신대한과 대조선의 표상을 중심으로」상허학회 상허학보 25(2009.2)pp. 79-114
(ユン・ヨンシル 「国民と民族の分化:『少年』誌から現れた新大韓と大朝鮮の表象を中心に」サ
ンホ学会 サンホ学報 25 号(2009.2)pp. 79-114 p. 79)
28) 1927 年に刊行された朝鮮民族中心の文明史論と言われる『不咸文化論』が崔南善の代表作である。
29) 함석헌,『함석헌저작집 3 ― 새나라 꿈틀거림』,한길사,(2009),pp. 31-41(참조).(咸錫憲
『咸錫憲著作集 3 ― 新しい国が勢いよく出現している』ハンギルサ(2009)pp. 31-41(参照)),崔南善『不咸文化論 ― 朝鮮を通して見たる東方文化の淵源と檀君を契機とする人類文化の一部面』朝鮮思想通信社(1927)pp. 56-57(参照)
30) Andre Schmidt. “Rediscovering Manchuria: Sin Chʼaeho and the Politics of Territorial History in
Korea,” The Journal of Asian Studies, 56-1 (Feb. 1997).
31) 同上
32) 同上
33) 金承哲「キリスト教史における『民族』と『宗教』について」南山宗教文化研究所 研究所報 第
13 号(2003)pp. 15-30、p.15
34) 閔庚培「韓国教会史における『民族』の問題」『基督教思想』1981 年 4 月号 p. 145
35) 노명식「한국의 역사가 : 함석헌」『씨알의 소리』통권 제 162 호 2001 년 9, 10 월호 pp. 61-99 (ノ・ミョンシク「韓国の歴史家咸錫憲」『シアレソリ』シアレソリ社 第 162 号 2001 年 9、10 月号 pp. 61-99)
36) 咸錫憲「二 . 史観」『聖書朝鮮』62 号(1934.3)http://ssialsori.net/
37) 咸錫憲「二 . 史観」『聖書朝鮮』62 号(1934.3)http://ssialsori.net/
38) 咸錫憲「五 . 朝鮮史の基調」『聖書朝鮮』65 号(1934.6)http://ssialsori.net/
39) 本論文と金京燕「歴史的観点からみた咸錫憲のシアル思想」韓国文化研究 韓国文化学会 第三号
(2013.8)pp. 71-100 を指す。
40) 金京燕「歴史的観点からみた咸錫憲のシアル思想」韓国文化研究 韓国文化学会 第三号
(2013.8)pp. 71-100。
41) その後筆禍で 20 日間入獄する。
42) 朴賢淑「咸錫憲におけるシアル思想の成立と展開 ― 連載論文『聖書的立場から見た朝鮮の歴史』を中心に ―」関西学院大学神学研究科 博士学位論文(2012.9)http://hdl.handle.net/10236/9537
43) 함석헌편,『씨알의소리』,씨알의소리사,(1972.8)(咸錫憲編『シアレソリ』シアレソリ社
(1972.8))함석헌,『함석헌 저작집 5 ― 생각하는 백성이라야산다』,한길사,(2009)p. 91(咸錫憲
『咸錫憲著作集 5 ― 考える百姓であってこそ生きられる』ハンギルサ(2009)p. 91)
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함석헌 사상에서의 민족과 민중
- 식민지기부터 1980년대까지의 변화를 중심으로 - 김경연
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처음으로
함석헌(咸錫憲, 1901-1989)은 20세기 한국의 저명한 종교사상가, 민주화운동 지도자, 역사철학자로 평가받고 있다1).동서문화가 융합되는 한국 근현대사에서 형성된 함석헌 사상의 폭은 헤아릴 수 없을 정도로 넓고 깊다.그 중에서 가장 핵심적인 사상의 하나로 일컬어지는 '씨알(sil)사상'은 그의 역사적 경험과 실천 속에서 형성한 것이다.한글로 된 씨알의 씨는 종자를, 알은 알과 알을 뜻한다.함석헌이 본격적으로 '씨알'이라는 말로 민중을 나타낸 것은 1970년대부터이다.그는 씨알의 원래 의미를 바꾸어 사회생활의 최하층에 있는 사람들을 씨알이라고 하며 민중, 민, 백성, 민족, 신(하나님), 개인, 전체 등을 나타냈다.그의 시알 사상의 맹아에서 성숙에 이르기까지 바라보면 항상 민족과 민중을 중심으로 다루었다.
20세기 우리 역사는 사회정치적 변동과 긴장이 연속됐다고 할 수 있다.예를 들면 일제의 식민지배, 남북분단, 이승만 독재정권의 통치와 그에 이은 박정희 군사쿠데타 정권 등이다.이러한 역사의 변동 속에서 함석헌은 민족과 민중을 둘러싸고 대담하게 언론활동을 벌였다.또한 그의 논점은 시기에 따라 변화하고 있다.예를 들어 민족 자각에 중심을 둔 시기도 있었고 민중의 주체성을 강조한 시기도 있었다.
민족과 민중의 개념은 시대와 논자에 따라 다르게 사용된다.다시 말해 민족과 민중은 한 국가의 이데올로기 범주에서 혹은 역사적 사회정치적 맥락 속에서 사용된 말이고, 나아가 그 의미에 대해 재해석되기 때문이다.그래서 민족과 민중의 개념을 일의적으로 정의하거나 고착화할 수 없다.예를 들어 한국의 내셔널리즘 형성에 대해 파악할 때 식민지 조선에서의 민족이란 일본제국이라는 타자의 존재를 의식한 배타적인 '조선민족'을 나타낸다면 남북분단 이후 민족통일론을 제기할 때 좌시되는 민족이란 북한을 의식한 포괄적 관념을 말한다.한편 우리나라에서 민중이란 말은 식민지기에도 쓰이지만 주로 백성이라는 뜻으로 사용되었다.그 민중이란 말은 해방 이후 우리 사회에서 민주화운동의 주역으로 규정되었고, 다양한 계층을 통합시키기 위해 지식인들 사이에 새로운 의미를 지니게 되었다.함석헌도 민족과 민중을 식민지기부터 한국의 민중화운동에 이르기까지의 역사적 배경에서 제기한 것이다.
민족이라는 개념에 대해 함석헌은 1930년대부터 월간지 성경조선에서 언급하기 시작한다. 1934년 7월 함석헌은 『성경적 입장에서 본 조선의 역사』에서 만주 및 한반도 조선족이 조선민족이라고 정의하고 있다 2).
한편 함석헌이 민중에 대해 정식으로 정의한 것은 1970년대 이후이다.1970년 함석헌은 잡지 시알의 목소리 3)를 창간하면서 씨알에 대해 다음과 같이 적고 있다.
'씨알이란 민·민중·백성의 의미이며 역사사회의 가장 밑바닥에 있는 주체적인 인간을 나타낸다'4). 그러나 함석헌은 '씨알이란 민중이다'라고 정의하고 있지만 거기에는 애초에 민중이 무엇인가 하는 전제가 결여되어 있다.
1980년 그는 『시알레소리』지상 안병무와의 대담에서 ""성경적 입장에서 본 조선의 역사"를 쓴 1934년부터 이미 민중에 관한 사색을 시작하고 있었다"5)고 말한 바 있다.그러나 식민지기부터 민중에 관한 사색을 시작했더라도 그가 식민지 시대 민중의 개념을 어떻게 정의했는가 하는 기재가 없다.따라서 식민지기 민중의 의미가 1970년대 그가 생각했던 씨알(민중)과 같은 의미로 확정되기 어렵다.
요컨대 함석헌은 시기에 따라 그 언론의 중심이 민족에 치우치는 시기도 있고 경우에 따라서는 민중이야말로 역사의 담당자라고 주장한다.그래서 선행연구에서 함석헌의 씨알 사상에 대한 해석에는 그것이 민족사상이라는 견해도 있고 씨알 사상은 맹아 시기부터 민중을 중심으로 하는 민중사상이라는 견해도 있다.함석헌의 '씨알(민중) 사상'에서 민족과 민중은 동일하다는 견해도 있다.
예를 들어 박현숙은 논문 <함석헌에서의 씨알사상의 성립과 전개-연재논문 <성경적 입장에서 본 조선의 역사>를 중심으로->에서 함석헌의 역사관을 <역사의 주체를 민중에 두는 민중사관>6)이라고 하여 함석헌의 사상이 1930년대부터 <씨알사상>을 형성하기까지 일관되게 <민중사상>이었다고 주장하고 있다.한편 노명식은 논문 한국 역사가:함석헌에서 성경적 입장에서 본 조선의 역사라는 연재논문을 통해 함석헌 사상의 핵심은 민족이며 함석헌 사관을 민족사관으로 해석할 수 있다고 주장하고 있다.그러나 그의 사상이 어느 시점까지 민족사관을 중심으로 파악되고 있었는지에 대해서는 설명하지 않고 있다.
또 씨알 사상 연구의 일인자인 박재순은 함석헌이 씨알 사상의 전체주의라는 이론에 근거해 민중과 민족을 동일시 8)한 것이며 씨알 사상은 민중사상이기도 하고 민족사상이기도 하다 9)고 해석하고 있다.그러나 민족과 민중은 분명히 다른 개념이며 민중사상과 민족사상도 다른 개념이다.
본고에서는 위에서 설명한 선행연구를 바탕으로 식민지기부터 1980년대까지의 기간 동안 함석헌의 사상이 민족과 민중을 중심으로 어떻게 변화하였는지 고찰한다.그리고 그의 사상이 1945년을 기점으로 민족사상에서 민중사상으로 전개되어 나간 점에 대해 밝혀 나간다.
먼저 제1장에서는 식민지 시대 함석헌의 사상 배경에서 그가 기독교와 민족주의 사상의 영향을 받게 된 계기를 밝힌다.구체적으로는 3.1독립운동의 영향(1910-1921), 오산학교와 도쿄유학에서 받은 민족주의 사상과 기독교의 영향(1921-1927), 함석헌에서의 사상 모색과 전개기(1927-1945)와 세 단계로 나누어 살펴본다.제2장에서는 식민지기 함석헌은 사유의 중심을 민족에 두고 역사의 담당자가 민족에 있다고 생각한 것과 민족의 주체성을 환기하고자 했음을 밝힌다.제3장에서는 해방 후 함석헌 민중사상의 형성과 전개에 대해 논한다.먼저 식민지 민중과 1970년에 내세운 '시알(민중) 사상'의 민중이 뜻을 달리했음을 밝힌다.다음으로 해방 후 함석헌 논설의 중심이 민족에서 민중으로 전회되었다는 점, 그리고 사회역사의 배경 속에서의 '시알(민중) 사상'의 형성과 발전과정에 대해 살펴본다.
제1장 식민지기의 사상 배경(1910‒1945)
제1절 3.1독립운동의 영향(1910‒1921)
제1절에서는 식민지화부터 3.1독립운동까지의 시기 함석헌의 사상형성 과정을 살펴본다.먼저 기독교의 영향을 다룬 다음 독립운동 참여를 통해 민족주의 사상을 접한 것에 대해 해명한다.
함석헌은 1901년 3월 13일 조선 평안북도 용천군(부라면 원성동)에서 아버지 함향택, 어머니 김향도의 장남으로 태어난다.1906년 덕일초등학교라는 기독교계 사립학교에서 기독교를 접하였다.이후 사촌형 함석규가 원성동에 세운 장로교회(Presbyterian Church) 신자로 매주 일요일 예배에 다닌다.1910년 9세 때 조선이 일본에 병합되면서 조국을 잃는다.1916년 관립평양고등학교(중학과정)에 입학한다.
3.1운동 때 함석헌에게 가장 큰 영향을 준 인물은 사촌형 함석은이었다10). 함석헌은 함석은의 지도 아래 평양지역 3.1운동과 직접 관여하게 되었다.함석헌은 처음 독립운동에 참여한 나는 스스로 목판에 태극기와 독립선언서를 새겨 평양 조선인들에게 나눠줬다.그리고 당일 다른 기독교 청년들과 함께 대한독립만세를 불렀다"11)고 말했다.또 그는 목이 타들어 건조해질 때까지 독립만세를 외치며 팔목을 비틀고 있는 일본인 순경을 뿌리치고 총에 칼을 차고 행진해 오는 일본군과 마주보고 행진했다.일본군의 발에 차도 아무렇지 않고, 계속 밟혀도 일어섰다」12)라고 되돌아 본다.
즉 함석헌이 3.1운동 전까지 덕일기독교계 사립학교를 다녔다는 점, 그리고 매주 장로교 교회로 예배를 간 것으로 보아 열성적인 기독교인이었음을 알 수 있다.또한 3.1운동은 함석헌이 처음 참여한 정치운동이었지만, 3.1운동 속에서의 그의 행동은 민족주의 사상의 영향 아래에 있었을 가능성을 확인하고 싶다.
제2절 오산학교와 도쿄유학에서 받은 민족주의 사상과 기독교의 영향(1921‒1927)
본 절에서는 먼저 함석헌이 장로교회에 의문을 품고 교회를 떠나고자 했던 이유를 밝힌다.다음으로 오산학교에서 받은 기독교와 민족주의 사상의 영향에 대해 검토한다.마지막으로 함석헌이 우치무라 간조(1861-1930)로부터 받은 영향을 규명한다.
3.1운동 후 관립평양고등학교에 복학하려면 일본인 교사에게 사죄를 해야 한다는 규칙이었으나 함석헌은 이를 거부하고 고향 사자도로 돌아간다.
고향으로 돌아온 함석헌은 1919~1921년 발판 3년간 장로교를 다녔다.그러나 1919년 이후 기독교인들과 선교사들은 독립운동에 대해 불간섭 노선을 선택했다.더욱이 이들은 총독부에 협력하려 했기 때문에 함석헌은 기독교와 민족주의에 대해 내적 갈등을 갖게 되었고, 3.1운동 이후의 기독교를 뒤로하고 다음과 같이 비판하고 있다.
기독교와 민족주의가 합쳐지면서 처음에는 좋은 관계를 맺었지만 그 이후로는 점점 모순이 생겼다.독립이라는 희망이 보였던 시기는 놀라울 정도로 모두가 단결해 있었다.그러나 일제의 통치가 어쩔 수 없는 방향으로 전개되면서 일본 총독부가 어느 정도 유연한 문화정책을 쓰기 시작하자마자 지식인들 대부분이 타협하기 시작했다.반면 종교는 점점 신앙에서 벗어나 체제 편에 서게 됐다.나를 포함한 많은 젊은이들이 교회에 가지 않게 되면서 교회에 대해 비판적으로 변했다."13)
이처럼 3.1운동 때 민족주의라는 깃발을 들고 싸운 기독교인과 선교사들이 3.1운동 이후 조선총독부에 협력하려 한 데 대해 강한 불만을 품기 시작한 것이다.
1921년 함석헌은 평안북도 정주에 있는 오산학교(중학과정) 3학년으로 편입학을 허용한다.오산학교는 3.1운동에 참여한 33인의 민족대표 중 한 명인 이승훈(1864-1930)이 1907년 설립한 기독교계 중학교이다.그 설립 목적은 민족주의자를 양성하는 것이었다.함석헌의 회고에 따르면 "3.1운동 때 오산학교는 민족주의의 소굴이라 하여 일본 헌병들이 불을 질러 해산시키려 한 것을 재건하고 학생들을 받아들였다"15)고 한다.함석헌이 오산에 입학했을 때 당시 유명한 민족지도자였던 조만식(1882~1950)이 교장이었다.이후 가을학기부터 한 해 동안 함석헌이 평생 스승으로 추앙받는 유영모(1890~1981)가 교장으로 서울에서 부임한다.오산학교에서 함석헌은 처음으로 한글 페달(조선민족의 역사적 혹은 고풍스러운 호칭) 한패라는 말을 배운다 17). 함석헌은 오산학교는 당시 민족운동, 문화운동, 신앙운동의 그릇이었습니다.당시 오산학교의 교육은 민족주의, 인도주의, 기독신앙이 합일한 정신교육이었습니다."18)라고 회고하고 있다.
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함석헌은 1923년 봄 도쿄로 유학하여 1924년 4월 도쿄고등사범학교에 입학한다.그리고 9월에 간토 대지진을 경험했다.이후 그는 학우 김교신의 안내로 우치무라 간조를 만나다 19). 그리고 내촌 간조 성경연구회에 참여하면서 내촌이 제창한 무교회주의를 믿게 되었다.함석헌은 우치무라 간조의 성경연구회 참여를 통해 진정한 신앙이야말로 애국이라고 생각하게 된다.그리고 무교회주의 사상이 함석헌 사상에서 개인과 신앙의 문제와 민족과 종교의 관계, 그리고 민중과 신앙의 관계 등을 논하는 근거가 되었다 20).
제2절부터 다음과 같은 사실이 밝혀졌다.함석헌은 3.1운동 이후 조선총독부에 타협한 일부 기독교인과 선교자들에게 실망하여 교회에 다니지 않게 되었다.이후 기독교 정신과 민족주의 정신을 교육하는 오산학교에서 함석헌은 기독교와 민족주의 사상과의 공존에 눈을 뜬다.함석헌은 도쿄 유학 중 우치무라 간조 성경연구회에 참여한 결과 신앙과 민족에 대한 사고가 심화된 것이다.
제3절 함석헌 사상의 모색과 전개(1927‒1945)
이 절에서는 함석헌이 도쿄에서 귀국한 후 집필 활동에 대해 고찰한다.
함석헌은 도쿄고등사범학교에서 교원자격을 취득하고 귀국하여 오산학교 교사로 교육에 종사한다.
그는 1928-1938년 10년간 이 학교에서 역사를 가르치게 된다.1930년대 조선총독부에 의해 조선에서는 조선민족의 역사를 가르치는 것이 금지되어 21) 당국으로부터 일본의 역사를 가르치도록 지도받았다.그럼에도 함석헌은 오산학교에서 조선의 역사를 가르치고 있었다.
또 일본에서 귀국한 함석헌은 동료들과 무교회주의 입장에서 성경조선을 펴내고 잠든 조선민족을 자각시키기 위해 언론활동을 벌였다 22).그 시기 함석헌은 무교회주의적 신앙이야말로 영원한 진리, 보편적 진리에 도달한다 23)고 생각했다.그것이 함석헌 사상에서 개인과 신앙의 문제와 민족과 종교의 관계, 그리고 민중과 신앙의 관계 등을 논하는 근거가 되었다.함석헌의 대표작인 『성경적 입장에서 본 조선의 역사』(1934-1935)는 민족의 역사관과 종교 문제를 논하고 있다.
박경식에 따르면 1930년대 한국사에서 불멸의 민족혼을 강조한 역사서술과 역사해석에 대해 조선총독부는 망설이라며 발행금지 처분을 내렸다고 한다24). 그럼에도 함석헌은 성서조선지에 연재논문을 게재하여 대담하게 언론활동을 하고 주체적 민족을 자각시키기 위해 사상의 모색과 전개를 하였다.
제1장에서 밝혀진 것은 다음과 같다.함석헌은 3.1운동에 참여한 이래 기독교 신앙과 민족정신의 영향을 받았다.함석헌이 기독교 신앙과 민족에 강한 관심을 갖게 된 것은 오산학교에서의 공부와 내촌감삼의 영향 때문이었다.그리고 일본에서 귀국한 후 조선민족을 자각시키기 위해 역사를 가르치는 한편 문필활동과 언론활동을 하면서 사상을 모색하였다.
제2장 식민지기 민족사상 고찰
제1절 민족 개념 형성의 영향
제1절에서는 한반도 민족의 개념 형성으로부터 함석헌이 받은 영향에 대해 해명한다.
민족이란 원래 서양의 개념이며, 오쿠마 에이지에 따르면 일본에서 이 개념은 메이지 20년대
(1887-1896)에 나타난 민족주의자들의 논란에 의해 일본 전역으로 퍼졌지만 Nation 번역으로서의 민족이라는 개념은 국민보다 낮게 자리잡았다는 25).한편 한반도에서의 'Nation'이라는 개념은 일본을 경유하여 수용되었으나, 식민지기 한반도에서는 일본제국을 의식한 '국민'과 조선민족을 의식한 '민족'의 두 개념으로 나뉘어져 있었다.
한반도에서 민족이라는 개념은 1900년 1월 12일 『황성신문』 기사에서 처음 사용되었다.
이 기사에서 민족은 백인민족과 동방민족이라는 형태로 나타났는데, 두말할 필요도 없이 그것은 백색인종과 황색인종을 의미했다.즉 한반도에서 처음 나타난 민족의 개념은 인종의 의미로 사용되었다.그러던 것이 1908년 7월 30일 대한매일신보의 민족과 국민의 구별이라는 글에서 민족은 혈통 역사 거주 종교 언어의 동일에 기초를 둔 자연적 공동체로 이해됐다 26).윤영실의 연구에 따르면 "이광수는 민족과 '국가'의 관념상 구별을 위해 민족에게는 조선이라고 붙여 '조선민족'으로 하기로 했다" 27). 그리고 1920년대부터 최남선은 '조선학'을 제창하고 '조선'과 민족을 연결시킬 필연성을 모색하기 시작했다. 28)
함석헌의 조선과 민족 개념이 최남선의 조선학을 계승한 것이라는 증거는 없다.그러나 1930년대 함석헌은 "단군신화에 따르면 환인이 조선민족 고유 정신질서의 핵심이다" 29)고 말하고 있다.이 함석헌의 생각은 조선문화의 근간을 단군신화라고 생각한 최남선의 단군민족주의와 유사하다.따라서 함석헌에서 민족이란 단어의 의미는 한반도 민족 개념 형성사로부터 영향을 받았다고 추측할 수 있다.
또한 Andre Schmidt의 연구에 따르면 한국에서 민족의 개념이 역사용어로 본격적으로 사용되기 시작한 것은 신채호(1880-1936)의 '독사신론'(1908.8.27-12.13)이 '대한매일신보'에 실린 이후라고 한다.신채호 민족사 서술의 특징은 만주라는 지리적 공간이 민족성
(nationality)를 구성하는 본질적인 요소라고 한 영토사(territorial history)인 31).신채호에게 만주는 조선민족이 탄생하고 성장한 공간일 뿐만 아니라 민족의 번영을 상징하는 원천이기도 했다.만주라는 공간을 민족에 포함시키기 위해 신채호는 역사적 주체를 구상할 필요가 있었다32). 앞서 서술한 바와 같이 함석헌은 1934년에 만주와 한반도의 조선족은 조선민족이라고 정의하고 있다.여기서 알 수 있듯이 신채호의 '역사적 주체'인 조선민족이라는 개념은 함석헌의 정의와 일치한다.이상을 통해 식민지기 함석헌 사상의 중심이 조선과 민족에 있었음을 알 수 있다.
제2절 민족사관에서 포착한 역사주체로서의 민족
제2절에서는 1934년 2월부터 1935년 12월까지 연재논문 『성경적 입장에서 본 조선의 역사』에서의 민족과 민중에 관한 고찰을 통해 식민지기 함석헌이 역사의 담당자는 민족에 있다고 생각했는지를 규명한다.
한국 기독교 역사관에 대한 서술은 다양하다.그리고 한국 기독교에서 민족과 민중이라는 개념은 분리할 수 없다.김승철의 연구에 따르면 이만열은 그동안 한국기독교사의 사관을 크게 세 가지 유형으로 나누어 각각 선교사적 사관 민족주의적 사관 민중적 사관 순으로 변천하고 있다고 33).한국 기독교 연구자인 민경배도 이만열의 관점에 동참하고 있다.민경배에 따르면 식민지 조선교회는 그 이론적 활동을
민족사관에 의해 수행되는 것이 불가피하며 민중의 문제는 1950년대 이후에 다뤄졌다고 한다.
말하자면 식민지 지배하의 한국 기독교는 민족의 기독교로 형성되었고 민중의 문제는 1950년대 이후부터 다루어졌다.즉 1930년대 한국 기독교사관은 민족사관이었고 민중사관이었을 가능성은 극히 낮다.
노명식은 함석헌의 『성경적 입장에서 본 조선의 역사』에 대해 "민족의 고난을 받아들이고 역사가로서, 또 기독교인으로서 자문자답하는 가운데 마침내 도달한 결론이 고난사관이었다.그 역사관에는 민족이 자리 잡고 있으므로 민족주의사관이다."35)라고 한다.
이 관점에 대해서는 필자의 생각과 일치하나 노명식은 함석헌 전체 사상에서 언제부터 언제까지가 민족사관이었는지 밝히지 않고 있다.
함석헌은 역사를 서술할 때 사실에 근거함을 강조하면서도 주관적으로 말하는 것도 중요하다고 본다.그것이 곧 성경적 입장에서 보는 고난의 민족 역사라고 한다.그는 다음과 같이 말하고 있다.
"역사는 소위 사실이라기보다는 오히려 사실에 대한 해석이 생명이다." 36) 왜냐하면 "사실이란 우리라는 주관으로부터 독립하여 객관적으로 엄연히 존재하는 물건이라고 대답해야 하지만 주관의 렌즈를 통하지 않는 사실은 없기 때문이다." 37)
그리고 그는 주관적인 역사를 쓸 때 성경적 사관을 가지고 써야 한다고 생각한다.함석헌에게 고난이라는 조선사의 기조를 결정하는 것도 그 역사관은 신 외에 민족이었다.
예로부터 역사의 담당자는 민족이다.개인도 계급도 아니다.개인도 계급도 모두 민족적 세력의 대행자다.조선의 역사는 조선인의 역사이다. (중략) 개인은 혼자가 아니다. (중략)씨족 사회
에서 봉건국가로, 봉건국가에서 민족으로 이행되어 왔다.개인을 뒤에서 받쳐주는 것은 민족이다.
모든 개인은 모두 민족을 나타내는 것이다.38)
즉 함석헌에게 조선사상사의 근저에 있는 기본적인 생각은 성서적 역사관 외에도 조선의 민족적 특질도 중요한 조건이었다고 할 수 있다.함석헌에게 민족이란 역사의 책임자이다.즉 역사의 주체이면서 개인을 지탱하는 주체적인 전체이기도 하다.또한 그는 이러한 의미에서 조선민족에게 강렬한 역사의식을 환기시키고 민족의 주체성을 자각시키고자 하였다.이는 관념적인 것이기도 하지만 그 시대의 역사 조건에 맞춘 사관이라고 할 수 있다.
제2장의 내용을 정리하면 다음과 같다.한반도 민족 개념의 유래 논의를 통해 함석헌 사상이 최남선의 '단군민족주의'와 유사하다는 점에서 식민지기 함석헌 사상의 중심은 조선과 민족에 놓여 있었을 가능성이 높았다고 추측할 수 있었다.또한 신채호의 '역사적 주체'로서의 조선민족이라는 개념은 함석헌이 정의하고 있는 개념과 일치함으로써 식민지기 함석헌 사상의 중심은 조선과 민족이었음도 더욱 분명해졌다.
요컨대 민중사관의 입장에서 <성경적 입장에서 본 조선역사>에서의 민족과 민중에 대한 분석을 통해 식민지기 함석헌 사상의 핵심은 조선민족의 주체성을 자각시키는 것이 중대한 과제였음을 알 수 있었다.
제3장 시알(민중)사상의 형성과 발전
제1절 식민지기와 1970년대 이후 민중의 차이
제1절에서는 2013년 필자의 연구성과와 함께 39), 1930년대 함석헌이 사용한 민중과 1970년대 '시알사상'에 있어서 민중의 이동을 밝힌다.
1930년대 연재논문 『성경적 입장에서 본 조선의 역사』에서 민중이란 단어는 여러 차례 나왔으나 명확하게 정의되지 않았다.1930년대 함석헌은 민중에게 역사사회의 가장 밑바닥에 있는 주체적 존재라는 조건을 가하지 않았다.이 조건은 「씨알(민중)」이 사회에 존립하기 위한 것이다.
그 이유는 다음과 같다.우선 『성경적 입장에서 본 조선의 역사』에서 사용하던 민중이라는 말의 의미는 역사사회의 가장 밑바닥에 놓여 있는 백성들만이 아니었다.함석헌에 따르면 식민지기 민중이란 고난 속에 있는 만주지역과 한반도의 조선민족이었으며, 통시적으로 보면 조선역사에서 조선민족의 틀에 드는 조선인 전체였다.다음으로 1930년대 함석헌은 조선민족이라는 민족정신에 따라 고난의 역사기에서 벗어나기 위해 잠든 민중들을 환기시키려고 노력했다.당시 함석헌이 생각한 식민지배에서의 조선민중은 아직 주체적으로 일제에 저항하는 존재가 아니었다.그래서 함석헌은 『성경적 입장에서 본 조선의 역사』를 써서 고난을 겪고 있는 조선민족으로 하여금 주체성을 갖게 하고 일제 강점에 저항하게 하려고 하였다.
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저항시키려고 했다.함석헌은 역사의 중심을 민족에 두고 조선민족의 틀 안에서 민중을 파악하고 있었으며, 그 시기 민중과는 백성이라는 의미와 거의 같았다.즉 그의 사관의 핵심은 민족이며, 적어도 1930년대 『성경적 입장에서 본 조선역사』를 집필할 때는 조선역사의 주체를 조선민족이라고 생각하고 조선민족이라는 틀 안에서의 고난의 민중을 생각했다고 할 수 있다.
이에 1970년대 민중의 의미를 형성하는 계기는 다음과 같다.함석헌에서 '씨알'이라는 단어의 사용은 1945년 종전 후 서울 YMCA에서 진행된 유영모의 동양사상 강의를 수강한 것이 계기가 되었다.이전 논문에서 언급한 바와 같이 씨알이란 단어는 1958년 유영모가 강의 중 '민(民)'이라는 뜻으로 처음 사용한 것이었다 40). 본래 유영모가 말하고 있는 씨알이란 '인간의 가장 밑바닥에 놓인 민·민중'이라는 뜻이었으나 1970년대 잡지 시알레소리를 창간할 때 함석헌은 민중에게 '스스로 생각한다'는 주체성을 부여했다.따라서 함석헌에서 역사사회의 최하층에 놓여 있는 주체적 민중이라는 개념은 1970년대 이후에 생겨난 것이다.
이러한 경위에서 알 수 있듯이 1930년대 함석헌이 『성경적 입장에서 본 조선역사』에서 말한 민중의 의미는 1970년대 정의한 민중의 의미와는 다르다.
이때까지 식민지기와 1970년대 이후 민중의 비교를 통해 식민지기 민중은 잠자고 있다, 주체성이 없는 조선인이며 1970년대 이후 민중은 주체성을 갖는 역사사회의 담당자로서의 한국인을 지칭하고 있음을 밝혀냈다.
제2절 '시알(민중)사상'의 형성과 발전
제2절에서는 해방 후 함석헌 논설의 중심이 민족에서 민중으로 전회되었다는 점과 민중사상의 형성과 전개에 대해 검토한다.
해방 이후 외세에 의해 남북 분단된 한반도에서는 통일된 독립국가 건설이 오랫동안 열망되어 왔다.한국전쟁 이후 이승만이 북진통일이 유일한 통일방법이라고 공론화하던 시기 함석헌은 평화통일을 주장했다.그리고 혈연관계에 의해 연결된 배타적 운명의 공동체로서의 민족에 대해 1970년대 이후부터는 부정적으로 생각하기 시작했다.1970~1980년대 함석헌은 민주화 과정에서 남북통일을 제창하는 민족주의자 통일주의자로 평가받기도 했다.여기서 '민족주의자'에서 민족은 식민지기에 일본인을 의식한 조선민족의 뜻이 아니라 북한이라는 타자를 의식한 민족을 가리킨다.
그러나 함석헌은 민주화운동 노선 안에서 민족주의와 민주주의를 구별할 필요성을 호소하고 민주화사회 건설을 위해 민중을 역사의 주역으로 보았다.따라서 그의 논설에 있어서도 민중을 역사의 담당자로 삼고 민중사상의 맹아가 시작되었다.즉 해방 이후 함석헌 논설의 중심은 민족에서 민중으로 전회된 것이다.따라서 그의 사관도 식민지기 민족사관에서 해방 후 민중사관으로 변화하였다.
함석헌은 지식인들 사이의 언론활동과 정치적 측면에서는 당시 정권에 대한 실천적 저항운동을 활발히 벌이면서 자신만의 시알(민중) 사상을 구축해 나간다.
「씨알(민중) 사상」을 형성하기 이전의, 그의 대표작을 몇 편 든다.1956년 7월부터 잡지 『사상계』에 「한국 기독교는 무엇을 하고 있는가」, 「할 말이 있다」 등을 실어 사회적 발언을 개시한다.1958년 10월 생각하는 백성이어야 산다를 사상계8월호에 발표하는 41). 이상과 같은 언론활동은 모두 민중을 역사사회의 주체로 파악하고 나중에 시알(민중)사상을 내세우는 토대가 되었다.
동시에 그는 언론활동뿐만 아니라 당시 군사독재정권에 저항하는 실천적 활동에도 활발히 참여하며 씨알(민중)사상 구축을 위한 경험을 쌓았다.정치에 대한 구체적 사상은 50년대 중반 이후 이승만 독재정부와 박정희 군사정권에 저항하는 과정에서 형성되었다.박현숙은 특히 함석헌은 1961년 5.16 군사정권에 저항하고 민주화운동에 앞장섰으며 민중을 중심으로 생각하게 됐다고 지적한다 42).
또한 식민지기에 쓰여진 성경적 입장에서 본 조선의 역사를 개고할 때 의도적 주제 변경, 민중과 씨알 교체 등에서 함석헌의 씨알(민중) 사상 형성 과정을 읽을 수 있다.1965년 성경적 입장에서 본 조선의 역사는 의미에서 본 조선의 역사로 제목이 바뀌면서 역사의 담당자가 씨알(민중)이라고 기록된다.1965년 이후에 이루어진 강연 및 저술에서는 「씨알」이나 민중 모두 같은 의미를 갖게 된다.그러면서 그는 주체성을 가진 민중=씨알이라는 생각을 더욱 깊게 한다.이후 함석헌은 1970년 잡지 시알레소리를 창간해 씨알사상이 민중사상이라고 공개적으로 발표한다.
1970년대 이후 함석헌은 역사사회의 가장 밑바닥 지위에 놓여 있는 주체적인 민·백성·민중을 '씨알'이라고 부르게 된다.나아가 생각하는 '씨알', 고난 속에서 생각하는 민중이 민주주의의 주체이며 이 주체가 세계사와 우주사, 궁극적으로 하나님의 역사를 완성하는 공동체의 위치에까지 이른다고 본다.이러한 함석헌 특유의 민중사상이 집약된 것이 시알(민중)사상이다.
함석헌은 민족주의와 민주주의의 관계에 대해 민족주의가 역사발전과정 단계의 전단계라면 민주주의는 그 후단계라고 생각한 것이다.
오늘에 이르기까지 민족노선에 대해 명확하게 밝혀지지 않은 부분이 있었다.민족주의인가 민주주의인가.이 둘이 반드시 대립하는 것은 아니다.역사상 단계적 성장관계에 있었다. (중략) 민주주의는 사회과정을 통해 성장한 것이므로 민중이 깨어나야 한다.그러나 식민지기 우리는 민족적 분위기 속에서 살았기 때문에 민주적 체험을 할 수 없었다.이러한 사회적 사실관계에서 관계의 대상이 일본인이었기 때문에 우리의 이데올로기는 민족적으로 느껴졌고 민주주의로는 파악되지 않았다.해방됐을 때도 일본이 단순히 물러났으니 이제 우리 손으로 하면 된다고 생각했다.그러나 우리라는 것은 조선인 혹은 한국인이라는 뜻이지 자주적 민중이라는 뜻은 아니었다. (중략) 6.25 이후의 우리 사회는 필연적으로 민주주의 방향으로 매진하고 있다."43)
그리고 그는 1970~1980년대 민중을 민주주의 주체로 파악하고 한국의 새로운 공동체를 담당하는 사람으로 여겼다.
제3장을 통해 다음을 말할 수 있다.함석헌 식민지기 민중의 의미는 1970년대 민중의 의미와 다르다.구체적인 근거로는 식민지 시대의 민중은 주체성을 가진 민중이 아니지만 1970년 이후의 민중은 주체성을 지닌 민중이었다.그리고 해방 이후 함석헌 논설의 중심이 민족에서 민중으로 전회되면서 언론활동과 실천적 활동을 통해 씨알(민중)사상을 형성하고 발전시킨 것이다.
마지막으로
함석헌은 3.1운동에 참여한 이래 기독교 신앙과 민족에 꾸준한 관심을 갖고 있었다.일제강점기 오산학교에서 『성경조선』에 논문을 연재함으로써 조선민족이야말로 역사사회의 주역이라고 생각하여 조선민족의 주체성을 환기하고자 하였다.그는 역사사회 속에서 한반도 민족을 자각시키고자 했던 것이다.따라서 함석헌의 민족을 중심으로 한 사유는 식민지기에 형성되었다고 단언할 수 있다.이후 역사 상황의 변화로 그의 사고 중심이 민족에서 민중으로 옮겨진 것이다.즉 해방 이후 함석헌은 민중의 주체성을 생각하게 되었다.그는 1950년대 사상계를 통해 독재정권과 싸우면서 민중사상을 구상하기 시작했다.정치에 대한 구체적인 민중사상은 50년대 중반 이후 이승만 독재정부와 박정희 군사정권에 저항하는 과정에서 형성되었다.
1965년 이후 진행된 강연 및 저술에서는 '씨알'이나 민중 모두 같은 의미를 갖는 용어로 사용됨에 따라 민중사상이 씨알사상으로 생겨날 필연성이 밝혀졌다. 또한 본 논문에서는 식민지기 함석헌의 사상은 민족을 중심으로, 해방 후 민중을 중심으로 파악되었음을 밝혔다.또한 1930년대 함석헌 사상에서 민족과 민중의 개념을 구별하고, 30년대 민중의 개념과 70년대 민중의 개념을 구별하였다.이를 통해 함석헌이 1970년대에 내놓은 '시알(민중) 사상'의 민중 개념을 보다 세분화하고 이해할 수 있었다.
그러면서 그는 1970년대부터 80년대까지 씨알(민중) 사상을 내세워 주체적 민중이라는 생각을 성숙시킨 데 대해 해명했다.즉 함석헌 사상은 1945년을 경계로 민족사상에서 민중사상으로 전회를 이루었다고 할 수 있다.
동시에 본 논문의 목적은 선행연구의 결여를 보완하는 것이기도 했다.선행연구에서 살펴본 바와 같이 함석헌의 민족사관과 민중사관에 대한 인식은 논고에 따라 크게 달랐다.이러한 상황에 대해 필자는 식민지기부터 1980년대까지의 함석헌의 사고변화를 구체적으로 짚어봄으로써 1945년이 민족사관에서 민중사관으로의 전환점임을 명료하게 제시하였다.이는 그동안의 연구에 일석을 던지는 것으로 향후 함석헌 연구 전체에 기여할 것으로 본다.
다만 필자는 함석헌이 해방 후 민족통일론을 주창한 것을 본론에서 언급했지만 식민지기와 해방 후 민족의 이동에 대해서는 깊이 파고들지 못했다.이 점에 대해서는, 향후의 과제로 하고 싶다.또한 함석헌의 시알(민중)사상은 동서사상을 융합한 깊이 있는 사상임에도 불구하고 이 글에서는 그 사상의 내부구조에 대해 논할 수 없었다.함석헌사상의 종교적 측면, 예를 들어 기독교적 요소, 유교적 요소, 한국 고유사상 요소 등에 대해서는 향후 논문에서 집중적으로 논의하고자 한다.
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주
1) 김성수 『함석헌 평전 - 하나님의 도시와 세속 사이』 삼인(2001) pp. 5-17 (참조)
2) 『성경조선』은 1927년 한국 무교회주의의 창시자로 불리는 김 교신이 창간한 월간 잡지이다.무교회 월간지 성경조선 66호 함석헌 지음 성경적 입장에서 본 조선의 역사(6.지리적으로 결정된 조선사의 성립) 1934.7; 고대사로 보면 만주가 조선민족의 발상지다.그곳에서 단군, 부여, 고구려가 생겨났다.고대에 남하하여 조선족을 대표하게 되었다. http://ssialsori.net
3) 1970년 잡지 시알레소리(씨알의 목소리)를 창간하여 씨알 사상을 본격적으로 전개해 나가는데
1980년 광주민주혁명으로 폐간되었다가 1988년 12월 복간되었다.
4) 함석헌 지음 시알레소리사 (1970.4) p.20
5) 시래소리를 창간하는 이유, 시래소리사 제15권 1980.4 시래소리사 제15권, 『함석전 집 4-절 때까지 이 걸음으로』, 한길사, (1983) p.357 (함석헌 『함석헌 전집 4-죽을 때까지 이 걸음으로』한길사(1983)p.357)
6) 박현숙 함석헌에서의 씨알사상 성립과 전개 - 연재논문 성경적 입장에서 본 조선의 역사를 중심으로 - 간사이가쿠인대학교 신학연구과 박사학위논문(2012.9) http://hdl.handle.net/10236/9537
7) 노명식 '한국의 역사가 : 석석헌' '씨알의 소리' 통념제 162호 2001년 9, 10호 pp. 61-pp. 99 (노명식 '한국의 역사가 함석헌' '씨알의 소리' 시알레소리사 제162호 2001년 9, 10월호
pp. 61-99)
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7) 노명식 '한국의 역사가 : 석석헌' '씨알의 소리' 통념제 162호 2001년 9, 10호 pp. 61-pp. 99 (노명식 '한국의 역사가 함석헌' '씨알의 소리' 시알레소리사 제162호 2001년 9, 10월호
pp. 61-99)
8) 박재순 안병무 신학사상 계보: 유영모 함석헌 안병무 http://ssialsori.net/
9) 박재순 안병무 신학사상 계보: 유영모 함석헌 안병무 http://ssialsori.net/
10) 함석헌, 『함석헌전집 4-죽을 때까지 이 걸로』, 한길사, (1983) p. 128 (함석헌 『함석헌전집 4 - 죽을 때까지 이 걸음으로』한길사(1983)p. 128)
11) 함석헌 영상자료 http://ssialsori.net
12) 함석헌, 『함석헌전집 4-죽을 때까지 이 걸로』, 한길사, (1983) pp. 128-129 (함석헌 『함석헌전집 4-죽을 때까지 이 걸음으로』한길사(1983)pp. 128-129)
13) 동상 p.214
14) 기독교와 민족주의가 함께 할 수 있을까 하는 의문을 품으면서 1921년 4월 함석헌은 함석규 목사와 만나기 위해 서울로 간다.함석규 목사는 처남 함석헌에게 오산학교를 권한다.사립오산학교는 평양고등학교에 비해 물질면에서는 월등히 뒤지지만 당시 조선 민족주의 운동의 지성소로 알려져 있었다.
함석헌은 함석규의 권유에 따라 오산학교에 가기로 결정한다.
15) 함석헌 지음 코스기 겐지 옮김 "죽을 때까지 이 걸음으로"신교출판사 (1991) p. 146 (참조)
16) 함석헌은 오산에서 처음으로 장래 사상에 영향을 받은 세 스승 이승훈과 조만식, 유영모를 만난다.이승훈과 조만식, 함석헌에게 조선 독립의 중요성을 배웠으며 유영모에게서 성경과 노장공맹 등 다양한 동양 고전을 배웠다.
17) 함석헌 지음 코스기 겐지 옮김 "죽을 때까지 이 걸음으로"신교출판사(1991) p. 147
18) 함석헌, 『함석헌전집 4-죽을 때까지 이 걸로』, 한길사, (1985) p.212(함석헌 『함석헌전집 4-죽을 때까지 이 걸음으로』한길사(1985)p.212)
19) 우치무라 간조는 관동 대지진으로 피해를 입어, 개축된 카시와기 성서 강당에서 성경 연구회를 계속하고 있었다.
20) 함석헌사상과 무교회주의와의 관계에 대해 필자는 "함석헌의 『씨알사상』에서 개인의 신앙문제에 관한 고찰 - 우치무라 감조의 무교회주의와 비교를 중심으로"라는 제목의 학회보고를 하였다.(비교문명학회 제33회 대회 2015년 11월 8일)
21) 1930년대부터 총독부는 무력정치를 고쳐 문화발달, 민력충실이라는 문화정치적 슬로건을 내걸었다.동화정책을 추진하고 민족의 상부계층 일부를 인수하여 약간의 출판물, 결사를 허용하는 분단적 지배정책을 행사하게 되었다." 박경식 『일본제국주의 조선지배(위)』아오키 서점
(1973)pp. 200-201
22) 『성경조선』은 1927년 김 교신이 창간한 월간 잡지이다.『성경조선』은 민족적 기독교 잡지라는 특징이 있었다.1942년 3월 성경조선은 158호를 최종간으로 폐간된다.두 달 뒤 함석헌과 김교신을 포함한 성경조선 발행에 관여했던 11명의 동료들은 무서운 사상을
전파됐다는 혐의로 붙잡혀 1년간 옥살이를 한다.(송건호 지음 『오늘의 사상신서 한국현대인물사론 민족운동의 사상과 지도노선』한길사(1984) pp. 261-262)
23) 함석헌 선지자 성경조선(1928.1) http://ssialsori.net/
24) 박경식 『일본 제국주의의 조선 지배 (상)』아오키 서점 (1973) p. 162
25) 오구마 에이지 『단일민족 신화의 기원-<일본인> 자화상 계보』신요샤(1995) pp.11-33
26) 백현 '대한제국기 민족인식과 국가구상' 고려대학교 박사논문(2004.8)) (백동현 '대한적국기 민족인식과 국가구상' 고려대 박사논문(2004.8)) http://m.riss.kr/search/detail/
27) 고배(이광수), 조선인 청년들에게, 소년, 1910.8 윤영실 국민과 시민의 분화: 소년
지에 나타난 신대한과 대조선의 표상을 중심으로」상허학회 상허학보 25(2009.2)pp. 79-114
(윤영실 "국민과 민족의 분화: '소년'지에서 나타난 신한과 대조선의 표상을 중심으로"사
동호학회 상호학보 25호(2009.2) pp. 79-114 p. 79)
28) 1927년 간행된 조선민족 중심의 문명사론으로 일컬어지는 불함문화론이 최남선의 대표작이다.
29) 함석헌,『함석헌저작집 3 ― 새나라 꿈틀거림』,한길사,(2009),pp. 31-41(참조).(咸錫憲
함석헌 저작집 3 - 새로운 나라가 힘차게 출현하고 있다.한길사(2009) pp.31-41(참조)), 최남선 『불함문화론 - 조선을 통해 보는 동방문화의 연원과 단군을 계기로 하는 인류문화의 일부면』조선사상통신사(1927) pp.56-57(참조)
30) Andre Schmidt. “Rediscovering Manchuria: Sin Chʼaeho and the Politics of Territorial History in
Korea,” The Journal of Asian Studies, 56-1 (Feb. 1997).
31) 동상
32) 동상
33) 김승철 "기독교사의 '민족'과 '종교'에 대하여" 남산종교문화연구소 연구소보 제
13호(2003)pp.15-30,p.15
34) 민경배 "한국교회사에서 '민족'의 문제" "기독교사상" 1981년 4월호 p. 145
35) 노명식 '한국의 역사가: 석석헌' '씨알의 소리' 통념제 162호 2001년 9, 10호 pp. 61-99 (노명식 "한국의 역사가 함석헌" "시알레소리" 시알레소리사 162호 2001년 9, 10월호 pp. 61-99)
36) 함석헌 이. 사관 성경조선 62호 (1934.3) http://ssialsori.net/
37) 함석헌 이. 사관 성경조선 62호 (1934.3) http://ssialsori.net/
38) 함석헌 오 조선사의 기조 성경조선 65호 (1934.6) http://ssialsori.net/
39) 본 논문과 김경연 『역사적 관점에서 본 함석헌의 씨알사상』한국문화연구 한국문화학회 제3호
(2013.8) pp.71-100을 가리킨다.
40) 김경연 "역사적 관점에서 본 함석헌의 시알사상" 한국문화연구 한국문화학회 제3호
(2013.8)pp. 71-100。
41) 그 후 필화로 20일간 입옥하다.
42) 박현숙 함석헌에서의 씨알사상 성립과 전개 - 연재논문 성경적 입장에서 본 조선의 역사를 중심으로 - 간사이가쿠인대학교 신학연구과 박사학위논문(2012.9) http://hdl.handle.net/10236/9537
43) 씨알의소리 씨알의소리 (1972.8) (함석헌편 시알의소리 시알의소리사)
(1972.8))함석헌,『함석헌 저작집 5 ― 생각하는 백성이라야산다』,한길사,(2009)p. 91(咸錫憲
함석헌 저작집 5 - 생각하는 백성이어야 산다한길사(2009)p.91)