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日本「武士道」の謎を暴く
台湾日本綜合研究所長
許介鱗
1.序
日本の武士道精神とはいったい何か。一言でいえば、武士道の要訣とは、死を看破し、「死を恐れず」、主君のために何のためらいもなく命を捨てて身を捧げることである。このような思想は伝統儒家の「士道」に対する一種の反動でもある。儒家の「士道」は君臣の義を重んじ、「君臣義合」、「父子天合」の人倫観念をもつが、日本の「武士道」は主君のために死を恐れず、命はいらないという覚悟を根本とする。
武士道が重視したのは君臣の戒律であり、「君は君たらざるも」(君が暴虐無道でも)「臣は臣たらざる」(臣が臣道を尽くさない)べからず、であり、忠を尽くすことは絶対的価値だった。中国の原始儒学は孝を本とし、孝を尽くすことこそ絶対的価値だった。もし「父に過ちがあり」、子は「三度諫めても聞き入れられなければ、号泣してこれに随う」が、もし「君に過ちがあり」、臣が「三度諫めても聞き入れられなければ、これより逃れる」のである。武士道論者は、儒家の「士道論」は命を惜しみ、死を恐れる私心を覆い隠すことにあり、それは人倫を見極め主君の道徳がどうであるかに重きを置いてはじめて生死を選択するので、死に直面して潔くない、と考える。ただ純粋で徹底的な覚悟の死だけが武士道の人より強いところである。武士道の徹底的な覚悟の死では、その容貌、言葉遣い、立ち居振舞いも人と違う。武士社会は礼儀を重んじたが、封建社会階層秩序を尊び従うだけでなく、さらに進めて「礼儀正しい」ことこそ、武士が人より一段強い表現だった。武士は「潔く死な」なければならず、君が切腹といえば切腹しなければならなかった。これは日本の鎌倉武家時代以来の伝統である。
2.『葉隠』は武士道精神の源流
日本の武士道の古典は『葉隠』と呼ばれ、江戸時代の佐賀藩(肥前鍋島藩)に伝わる武士道の伝習書である。「葉隠」とは樹木の葉陰のような、人から見えないところで主君のために「身を捨てて奉公する」意味である。この書は佐賀藩士・山本常朝(1659-1710)
が伝述し、同藩藩士・田代陳基が聞き書きして整理したもので、18世紀初めの1716年『葉隠聞書』写本が完成、計11巻1200節余、『葉隠』あるいは『葉隠集』と略称される。巻一、巻二は武士の心得修養を講じ、巻三は鍋島藩祖・直茂、巻四は初代藩主・勝茂、巻五は二代目藩主・光茂(山本常朝の主君)およびその嫡子すなわち三代目・綱茂、巻六は鍋島藩古来の事蹟を講じ、巻七、巻八、巻九は鍋島藩武士の「武勇奉公」の言行を講じ、巻十は他藩の武士の言行、巻十一は補遺である。
『葉隠』が表現する武士道精神は果断に、いささかの未練もためらいもなく死ぬことである。一般の人びとは生命に執着するが、武士道はそれに否定的態度をとり、死だけが誠で、その他の功名利禄は幻だと考える。一人の人間が名利を捨てて、「死身」を以て義勇奉公する際に、この世の真実が見える。武士が標榜したのは精神上の優越である。つまり、心理的にまず己に勝ってはじめて他人に勝つことができるのである。まず「自分の命をいらなくする」ことができてはじめて「他人の命をもらう」ことができる。これは日本の武士に人一倍強い道徳律だった。「命がいらない」ことと「人の命をもらう」ことは密接に関わっており、「葉隠」の教訓は非常に残酷な武士の論語だった。
たとえば佐賀鍋島藩祖直茂はその子勝茂に、「斬首に慣れるには、罪人を斬首することから始めるように」と言って、西の門内に十人並ばせ、斬首を試させた。勝茂は続けて九人の首を切って、十人目が健康そうな若者であるのを見ると、「もう十分斬った。こいつは生かしてやれ」、と言ったので、この男は斬られずに済んだ[1]。日本の軍人が中国を侵略した際の「百人斬り」の残酷な典型をここに見ることができる。
『葉隠』の著述者・山本常朝一家の典故も髪の毛を逆立てさせるものである。
山本常朝の異母兄山本吉左衛門は父親山本神右衛門の指示通りに、5歳で犬を殺し、15歳で罪人を斬殺した。[昔の]武士たちは14、15歳から斬首の実習を始めた[2]。このように武士は子供の頃から刀を身につけて成長し、人を斬殺しても気にしないような精神を養った。
武士道の本義は日本の戦前の教育勅語の教えのように、「義勇公に奉じ」を最高原則とし、これは武士が「人に奉公する」ための心の準備で、非常に残酷で非人道的だった。例を挙げると、佐賀鍋島藩四代目吉茂は若いとき非常に粗暴で、家臣の中で気に入らぬ者の妻の悪口を扇に書いて付きの者に渡し、「この扇を見せてどんな反応をするか報告せよ」と言った。家臣は扇を見た後で誰が書いたかも知らず、すぐに扇を破った。付きの者はありのままを報告した。吉茂公曰く、「主人が書いたものを引き裂くとは無礼者。切腹を命ず[3]。」武士道の世界では、「切腹は武士道の最も忠義の証」である。山本常朝も、武士が尽くすべき忠義は殉死を以て最高とする、と言っている。
身の毛がよだつような話がある。江戸屋敷の倉庫見張り番・堀江三右衛門は倉庫にあった金銀を盗み、逮捕され供述を迫られた後で、「大罪人につき拷問死」の命が下された。まず体中の体毛を焼き尽くし、爪を剥ぎ、足の筋を切断し、きりなどの道具で責め苛んだ。しかし、彼は泣き叫ぶようなことはせず、顔色一つ変えなかった。最後に背骨を立ち割り、煮えたぎった醤油をその上にかけると、彼は体を反らせて死んだ[4]。
武士道は義、忍、勇、礼、誠、名誉、忠義などの徳目を重んじると伝えられているが、実際には残酷無情で、見るに忍びないものだった。中世の鎌倉時代、源氏一族の親兄弟(源義朝、源為義、源為朝)は、骨肉の殺戮の末、正式な跡継ぎが途絶えていた。北条氏の策謀により功臣たちの命脈も途絶えた。日本の戦国時代の無情は血なまぐさい殺戮史がその証拠である。主君殺しには、将軍義輝に反逆して殺した松永弾正、父親殺しには、父齋藤道三を殺した齋藤義龍、兄弟殺しには、家主の地位を継ぐために長兄の死後次兄およびそれを支持するすべての家臣を殺した今川義元、実の子殺しには、織田信長の言うことを聞いて実の長男徳川信康を自害に追い込んだ江戸幕府初代将軍徳川家康がいる[5]。日本の武士の残酷さ、非人道性はそこここに見られ、武士道精神のもう一つの真実を見ることができる。
3.迷走する武士道「旅順大虐殺」
甲午戦争[日清戦争]は第一次中日戦争(1894-95年)とも呼ばれるが、当時の日本の陸軍大将・大山巌が第二軍を指揮し、1894年11月21日に中国[清]北洋海軍基地旅順港への攻撃開始後、旅順大虐殺事件が起こった。『日本外交文書』では「旅順口虐殺事件」と称し、英米はPort Arthur AtrocitiesあるいはPort Arthur Massacreと称している。これは日本の武士道精神の中国での最初の発威だったかもしれない。
旅順大虐殺の犠牲者数はいったいどれぐらいだったのか。
1895年、遼東半島をめぐる「三国干渉」により旅順が中国[清]に返還され、中国[清]の遼東接収委員・顧元勲は、旅順の遺骨、遺灰埋葬地に「万忠墓」をつくった。記録された受難者は約一万八千人だった。1948年「万忠墓」再建の際、記載された犠牲者数は二万人余だった。中国の歴史学者・孫克復、関捷編著『甲午中日陸戦史』(黒龍江人民出版社、1984年)は、これにもとづき犠牲者数は二万人余であると主張した。1994年3月、「旅順万忠墓紀念館」建設時、万忠墓を再発掘、整理し、「日本軍は旅順市区に侵入後、手に寸鉄を持たぬ平民庶民に対して四日三夜の野蛮な大虐殺を行い、二万近い無辜の同胞が惨殺された」と記載した[6]。
当時の旅順市の居住人口は約二万人余だった。1895年3月号の『北米評論月刊』(North American Review)の報道によれば、「旅順市街に残った中国人は36人だけだった」という。彼らは死体の搬送、埋葬に使われたのである。
日本軍第二軍の法律顧問として従軍した日本の国際法学者・有賀長雄は、彼の著作『日清戦役国際法論』(陸軍大学校、1896年)において、当時市街にあった死体の総数は約二千であり、非戦闘員約五百体を含んでいた、と述べている。もちろん日本側は加害者であり、日本軍に非戦闘員(平民)の虐殺があったことを隠蔽しようとした。明治天皇が宣戦の詔勅で「苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽クスニ於テ必ス遺漏ナカラシムコトヲ期セヨ」と、日本の軍人に戦時国際法を厳守し、日本は「文明国」であるとして欧米に重視させるよう求めていたからである。しかし、旅順には日本軍と行動をともにしていた4人の外国特派員記者がおり、旅順大虐殺事件を目撃した。
欧米の従軍記者の中で、アメリカとフランスのヘラルド(Herald)のガーヴァー(Garver)が買収されて日本を擁護する立場に立った以外、その他のイギリスのタイムス(Times)のコーエン記者(Thomas Cohen)、スタンダード(Standard)のウィリヤース記者(Villiers)、アメリカのワールド(The World)のクリールマン記者(James Creelman)の3人は語気に若干の違いはあるが、日本軍が犯した虐殺の罪行を強烈に非難している。
たとえば、1894年11月20日にニューヨークで発行されたWorldの編集標題は「旅順港の惨殺で少なくとも二千人の手に寸鉄を持たぬ人びとが日本軍に虐殺された」というもので、日本軍の暴行を激しく批判、日本人は文明の皮膚をまとい、野蛮な筋骨をもった怪獣であり、「日本は今や文明の仮面を脱ぎ捨て、野蛮な本性をあらわにした」と攻撃する内容だった。さらにイギリスのタイムス(Times)の記者も、日本軍は捕虜を縛ったまま虐殺し、平民とくに女性も虐殺した事実があることを明らかにした。
日本人自身の証言によれば、日本郵船の貨物船遠江丸の一等運転手林治寛の体験は、「旅順口陥落ノ時上陸セシニ、死屍相積、三畳々散ヲナシ実ニ酸鼻ノ残(惨)状ヲ見シ。内ニ老アリ、幼アリ、婦人アリ、稚児アリ。未ダ死ニ至ラサルモノ伸(呻)吟ノ声、今ニ猶ホ耳ニ存スト」[7]というものだった。
当時の日本の外相・陸奥宗光は、日本軍の虐殺のスキャンダルが国際社会に伝わらないように、手を尽くして外国通信社を買収した。たとえば、機密電報で駐英代理公使・内田康哉にイギリスのCentral Newsを金銭で買収し、タイムスの旅順大虐殺報道と異なる論調を提起させ、旅順市民に対するある種の残虐さは中国人逃亡兵の仕業と言わせるよう指示した。内田が返電で買収資金の不足を伝えると、外務省は予備金から日本円2000円を為替で送ると回答した。イギリスのCentral Newsは日本の情報工作にサービスする十分な報酬を得た。[8]
他方、ロイター通信社(Reuters)の買収は当時の駐独公使・青木周蔵によって行われた。陸奥外相は「ロイター電信会社」(Reuters Telegram Company)が日本のために有利な情報を流すことで606ポンドの報酬を与えることを承諾した。当時横浜にあったジャパン・メール社も『Japan Mail』と『Japan Weekly Mail』を発行していた。社長のブリンクリーはロイター社の通信員でもあった。陸奥外相は内閣書記官長・伊東巳代治に、ジャパン・メール社に対して日本政府が毎日流す戦争情報をロンドンに電送するよう求めさせた。ブリンクリーへの陸奥の働きかけが成功すると、日本政府は補助金の名目で毎月ジャパン・メール社に一定の補助金を与えた。甲午戦争[日清戦争]後の論功行賞で日本政府はブリンクリーに「勲三等旭日章」ならびに恩賞金5000円を授与した。[9]
しかし、ロイター社にはReuters Telegram CompanyとReuters International Agencyとがあり、日本政府は前者と契約を結んで金を与えて買収していたが、後者は相変わらず日本に不利な虐殺の情報を伝えていた。当時『時事新報』を掌握していた世論の泰斗・福沢諭吉は「旅順の殺戮 無稽の流言」を書いて弁解した[10]。お雇い外国人ハウス(Edward House)を通して欧米の通信社、ワールド等に弁解が提示され、虐殺事件の沈静化を図り、日本国内でも虐殺事件の存在が忘れられた[11]。日本政府は、虐殺事件の徹底調査を行わないうちに、「旅順口占領に関する誤聞」として、ドイツ駐在青木公使、イギリス駐在内田公使、アメリカ駐在栗野公使、ロシア駐在西公使、フランス駐在曽祢公使、イタリア駐在高平公使等、欧米の各駐外公使に対して、各国への弁解のための弁明書を伝達した。[12]
しかし、英米の新聞の、旅順大虐殺を目撃した記者の報道により、日本の大本営も、参謀総長から大山巌軍司令官に宛てた公文を持たせた人員を旅順に派遣し、きちんとした説明を求めざるをえなかった。大山の返信は11月21日の旅順市内の兵士と人民に対する殺戮を認めたが、旅順の住民の多くは中国軍と関係があって抵抗を試みのだとか、黄昏時ではっきり見えずに殺戮が生じたなどと弁明していた。この他、捕虜の殺害については、反抗、逃亡に対する懲戒だと強弁し、日本軍と関係のある略奪行為は一概に否認した。要するに、参謀本部に対する大山巌の弁明書からわかることは、虐殺の規模の大小、虐殺の原因には弁解がなされているが、日本軍第二軍司令部は「旅順虐殺」の事実の存在をやはり認めているということである。
当時の首相・伊藤博文は「旅順大虐殺」事件のことで大本営と協議した結果、日本が戦勝した以上、日本軍の士気を保ち、この事件の真相を調査して首謀者を懲戒してはならず、一貫して弁明する方針で国際世論に対応することを決定した。
日本政府が日本軍による中国の庶民の虐殺を追究せず、ひたすら列強に対して日本が「文明国」だと弁明し、中日甲午戦争[日清戦争]は「文明国」の日本が「野蛮国」の中国を打ち負かしたのだと一貫して宣伝して以後、日本軍はさらに憚ることなく中国人を虐殺できるようになったのである。
日本の武士道はここに至って、欧米列強に尻尾を振って金を送り嘘でごまかし、弱国中国に対しては反対に虐殺凌辱しても恬として恥じないというところまで堕落してしまった。
4.武士道が台湾で威を振るう
『台湾総督府警察沿革誌』等の資料によれば、日本は台湾占領後の数年間に、少なくとも以下の数件の大虐殺を行っている。これは日本の武士道の台湾での発威というべきである。
一.大??の大放火、殺人 1895年、馬関条約[下関条約]後、日本軍は台湾に上陸した。台北と新竹の間の大??渓沿岸の地区には猛者汪国輝、三角湧樟脳製造業者蘇力、樹林地主王振輝らがいて、それぞれ「住民自警団」を率いて自衛していた。7月12日、日本軍がこの地区に進軍すると、汪らは抵抗した。7月16日以後、日本軍の援軍が到着して、虐殺を繰り広げた。日本軍は大??以東、三角湧までの間のすべての村を抗日義軍とみなし、大??街を放火するよう命令を下した。かくして、4万人前後の繁華街は、7月22日から連続して3日間、遥か三角湧街にまで延焼し、20数里絶え間なく、あたり一面、寒々とした焦土へと変わり、焼失した住宅は合計1500戸余、死傷者は260人だった。抗日のリーダー汪国輝は日本軍に武士道のやり方で斬殺された[13]。
二.大?林の婦女暴行 1895年8月30日、日本軍は雲林地方に入り、9月2日大?林、すなわち今の嘉義県大林鎮に到達した。この地のリーダー簡精華は装備戦力が日本軍の相手にならないことをよく知っており、人びとが塗炭の苦しみをなめるのが忍びなかったので抵抗を放棄し、住民に道路を清掃し、食物を提供して日本軍を歓迎するよう命令した。ところが、予期に反して日本軍は簡に200人の女性を差し出すよう要求した。簡が応じなかったところ、日本軍は簡氏一族の女性60人余を強姦、殺害した。簡氏は激怒し、雲林の民衆を招集し、9月3日から弓矢、棍棒、落とし穴、自作の銃で日本軍を襲撃した。その後、簡精華は辜顕栄の誘いを受け、苦痛を忍んで帰順を受け入れたが、1ヶ月経たないうちに、自ら左手の血管を切り、自宅で失血死した。地元の人びとはその忠義に感動し、「簡忠義」として偲んだ[14]。
三.蕭壟街の惨殺 1895年10月10日、日本軍混成第四旅団が布袋嘴(嘉義地方)に上陸すると、当地の義軍のリーダー林崑岡は決死隊の勢いで郷里を守った。しかし、武器が粗悪で相手にならず、蕭壟街(今の台南県佳里鎮)まで退いた。そこで、日本軍は大がかりな捜索を行い、千人近い村民が渓谷のそばの雑木林の天然の溝や谷に隠れたが、嬰児の泣き声で発見されてしまった。日本軍は兵を派遣して長い坑の頭尾両端を遮断し、坑内に向けて一斉に20分近く激しく銃撃した。凄まじい叫び声と泣き声はこの世の地獄のようで、坑に避難した台湾人は一人として災いを逃れられず、嬰児、女性も一人として生き残らなかった。真に残酷さの極みであった[15]。
四.雲林大虐殺 台湾中部の雲林地方に「大坪頂」と呼ばれる山地があり、三面は渓谷に囲まれ、東南は険しい山地につながり、地勢は険しく、柯鉄率いる柯氏家族が住んでいた。日本軍が北から南下した際に、簡義ら抗日分子が続々と風雨を避けてこの地に来た。1896年4月1日、雲林県地方は台中県に併合され、雲林支庁が斗六に設けられた。6月10日、日本軍混成第二旅団の守備隊が雲林地方に進駐を開始した。当時大坪頂には抗日分子千余名が集結しており、決死の覚悟で抗日を誓い、大坪頂を「鉄国山」と改名し、全島に檄文を発し、日本人を台湾から駆逐するよう呼びかけた。6月16日、日本軍の一連隊が斗六に進入すると、「鉄国山」の抗日軍はその鋭鋒を避け、深山に退いた。それから6月22日に至るまで、日本軍は雲林地方で血なまぐさい虐殺を行い、全部で4295戸の民家が焼かれ、六千人の民衆が惨殺された[16]。日本軍を歓迎した約50人の順民までもが殺された。
当時の台湾高等法院院長高野孟矩は雲林大虐殺事件について次のように証言している。「漫然兵隊ヲ出シテ六日間ヲ費シ七十余庄ノ民屋ヲ焼キ良匪判然タラサル民人三百余人ヲ殺害シ附近ノ民人ヲ激セシメタルハ全ク今般暴動蜂起ノ基因ト認メラル故ニ土匪何百人又何千人ト唱フルモノ其実際ヲ精査スレバ多クハ良民ノ父ヲ殺サレ母ヲ奪レ兄ヲ害セラレ又子ヲ殺サレ妻ヲ殺サレ弟ヲ害セラレタル其恨ニ激シ又家屋及所蔵ノ財産悉皆ヲ焼尽サレ身ヲ寄スル処ナク彼等ノ群中ニ投シタルモノ実ニ十中七ハニ位シ真ニ強盗トシテ兇悪ヲ極ムル輩ハ十中二三ニ過キサル。」[17]
1896年7月4日香港の英字紙『Daily Press』が日本軍の6月16日から6月22日までの雲林大虐殺事件を明らかにしたことにより[18]、日本軍が台湾民衆を虐殺した事実が国際的な関心を引き起こした[19]。日本政府はしばしば関係部局に、香港の新聞の土匪に関する報道を取り消すよう訓令し、また拓殖務次官に外事新聞[20]に(作り上げた)事実を掲載するようにし、外国の新聞ではこのことを隠蔽するようにした。しかし、雲林大虐殺を契機として、台湾各地では連鎖的に日本の統治に対する不満が爆発し、各地で抗日運動が起こった。国際世論の圧力の下で、第二代の台湾総督桂太郎が退任を余儀なくされた。皮肉なことに、就任した第三代の総督乃木希典は甲午戦争[日清戦争]の旅順大虐殺で責任を負うべき旅団長だったのである。
五.阿公店大虐殺 第四代台湾総督・児玉源太郎と民政長官・後藤新平は「台湾近代化」の生みの親で、彼らは台湾に「懐柔政策」を実行した「能吏」だ、と讃えるものがいるが、彼らにはもつれた麻を切るごとく人を切る日本の武士道の本性があり、大虐殺によって抗日台湾人を鎮圧して台湾統治の基礎を確立したことを見落としている。児玉は1898年に台湾総督に就任、11月12日からの、台湾中南部の抗日軍に対する、日本人が「大討伐」と呼んだ大規模攻撃の展開を決定した。この「大討伐」は台南県知事が台湾総督に提出した報告によれば、殺害した人数は2053人に達し、負傷者は数え切れない。焼かれた民家数は、全焼が2783戸、半焼が3030戸だった。家屋の全焼、半焼、家財の焼失などの損害は、当時の貨幣価値で3万8千円余に達した。[21]中でも被害がもっとも残酷だった阿公店地方には、安平、打狗(高雄)に住む外国人がおり、日本軍の残虐暴力に議論が沸きおこり、イギリス長老教会牧師ファーガソン(Duncan Ferguson)等は『香港日報』(Daily News)に投書し、日本軍の人間性を喪失した大虐殺の人道問題を提起して、国際世論の非難を巻き起こした[22]。
六.帰順式場に誘き出しての惨殺事件 児玉と後藤の台湾中南部の抗日勢力への対応は、軍警の大規模な「討伐」以外に、投降を呼びかけ、誘き寄せて殺す策略を使った。これがいわゆる「土匪招降帰順政策」であり、画策者は児玉長官、立案参与者は後藤民政長官、総督府事務官阿川光祐、策士は白井新太郎で[23]、中でも雲林の騙し討ちが抗日軍でもっとも人を驚かせる事件だった。1902年、斗六庁長・荒賀直順は警務課長・岩元知と投降を呼びかけて殺戮する計画を密かに画策した[24]。
5月14日、斗六庁長・荒賀と当地の守備隊長、憲兵分隊長は5月25日に帰順式を開いて騙し討ちすることを画策した。5月18日、岩元警務課長は林?埔、?頭?、土庫、他里霧、下湖口の5人の支庁長を招集し、帰順式典を行う真意と段取りを指示し、斗六、林?埔、?頭?、西螺、他里霧、内林の6ヶ所を式場とすることを決定、各市庁長に十分な準備をするよう命じた[25]。
帰順の意思を示した抗日の各リーダーに対しても、表面的には甘言を弄し、彼らの帰順を許したが、内心では徹底的な殲滅を企てていたので、張大猷以下265人の抗日分子をこの年の5月25日に誘い出すことを決め、6ヶ所でそれぞれ帰順式を行うと公言した。すなわち、一.斗六式場60余人、二.林?埔式場63人、三.?頭?式場38人、四.西螺式場30人、五.他里霧式場24人、六.林内式場39人である。その後、機関銃で6ヶ所同時にすべて殺戮した[26]。このような投降を誘い、騙して殺戮した事件に関して、日本人は口実を設け、5月25日、帰順式場での妄動により、一斉に殺戮したと説明しただけであり、騙して殺した事実を隠蔽した。
七.??<口+年>大虐殺 1915年余清芳が台南の西来庵「食菜堂」を中心として抗日運動を推進、展開していた頃、日本軍警は誘き出して殺す計略を使って、台南??<口+年>(玉井)付近の後?、竹圍、番仔?、新化、内庄、左鎮、茶寮等二十余村落住民3200余人を、老幼を分けず、次々に殺戮した[27]。日本人はこのような世にも悲惨な大殺人に対して隠蔽の限りを尽くした。たとえば、秋澤次郎が著した『台湾匪誌』は「匪賊の暴動」と「聖恩が洪大で果てしない」ことを饒舌に叙述している以外に、前述の騙し討ちの事実を示していない。しかし、その文中には騙し討ちのかすかな手がかりを覗き見ることができる。たとえば、文中で「斯くて残匪の誘出終るや総督府に於ては、彼等の中で罪状最も重く大正四年十一月の大赦の恩典に浴する能はざる者は假令投降したとはいえ、国法を抂げて刑を全免するが如きは国家の威信を傷くるものであるから、夫等の者に対しては厳粛なる処刑の必要を認めたのである。」[28]と書いており、抗日リーダー江定らはこのように投降を呼びかけられて処刑されたのである。
後藤新平は『日本植民政策一斑』で彼が台湾を統治していた五年間に法にもとづいて「殺戮した匪徒の数」は11950人に達した[29]と公然と述べている。日本のいわゆる「匪徒」とは、いうまでもなく、すべて「抗日」の台湾人のことだった。
台北市文献委員会副主任委員・王国?編著『台湾抗日史』によると、「台湾が日本人の手に落ちて五十と一年になろうとしているが……わが同胞で虐殺に遭った総数は約40万人近く、焼かれた家屋は乙未年(1895年)内だけでも三千余に達し、婦女の淫虐、壮丁の奴役にいたっては、その精神上の損失はさらにはかりがたい[30]。」
現在、日本の右翼分子はしばしば日本の五十年の台湾植民地統治の成功を「近代化」と称賛し、多くの台湾の学者も追随して台湾の「植民地化」は「近代化」であるといっている。もし台湾の日本への割譲後、日本の武士道が台湾で威を振るい、台湾ではじめて「近代化」の成果があったのであれば、台湾人は腰抜けで、台湾人自身には「近代化」の能力がない、というに等しいのではなかろうか。
5.新渡戸はなぜ英文版『Bushido』を出版したのか
新渡戸はなぜ1899年に『Bushido』を著して武士道に新たな解釈をしたのか。『武士道』の出版はどのように新渡戸の登竜門となり、富貴栄華を獲得する足がかりとなったのか。もっとも主要な秘訣はアメリカ人女性メリー(自称「万里」Marry Patterson Elkinton 1857-1938)を妻としたことである。当時日本は甲午戦争[日清戦争]で中国に勝利し、二億三千万両、ほぼ三億六千万円に相当する賠償金と台湾植民地を獲得したが、日本軍には「旅順大虐殺」、「領台大虐殺」の残虐行為があり、列強は依然として日本を野蛮国と見なしていた。日本は日本軍の行為は「武士道」の行為であり、一種の崇高な品徳であると国際的に説明しなければならなかった。
新渡戸は1884年アメリカに留学し、アメリカのボルティモアに新設されたジョンズ・ホプキンス大学に入学した。同学には後の大統領ウイルソン(Woodrow Wilson)がいた。彼は在学期間中の1886年アメリカ人女性メリーと知り合った。メリーはフレンド派の信徒(通称クエーカー教徒)で愛国者であり、新渡戸も愛国者で、メリーを追うために彼もフレンド派の信徒になった。メリーの父親は日本人を野蛮な民族と考え、メリーと新渡戸との結婚に反対したが、二人は5年間交際した後、1891年に結婚した。当時メリーは33歳、新渡戸は28歳で、年齢差は5歳だった。結婚後二人は東京に居を構えたが、日本という海の中に漂う孤島のようなもので、居住環境は完全にアメリカ式だった。メリーは初めて日本人と結婚したアメリカ人女性で、日本語を話さず、日本人の考え方や行動様式にもかまわず、文化的にも心理的にも、元通りアメリカ人の行動様式(American way of life)のままに日本で生活した。しかし、彼女は夫の英文書『Bushido(武士道)』に協力し、日本の伝統と欧米を比較し、日本の武士道と欧米の騎士道の相似性を詳述して、日本の切腹、敵討等は決して野蛮ではないと弁解した。美しく上品な英文の助けを借りて、この書は欧米読書界を風靡し、新渡戸稲造の名前は瞬く間に世界に伝わった。かくして、「武士道」を語ることは「新渡戸」を語ることであり、「新渡戸」を語ることは「武士道」を語ることになり、その名は天下に知れ渡った[31]。これ以後、新渡戸は京都帝国大学教授(1904年)、第一高等学校校長(1906年)、アメリカのカーネギー財団(Carnegie Foundation)交換教授(1911年)、東京帝国大学教授(1915年)、東京女子大学校長(1918年)、国際連盟事務次長(1919年)等、一段一段階段を登りつめた[32]。
新渡戸は『Bushido』初版序説で、「この小著の直接の端緒は、私の妻が、かくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行なわれているのはいかなる理由であるかと、しばしば質問したことによるのである」[33]と述べている。武士道の掟は西洋人から見ると野蛮で、円滑に説明する方法を考えなければならなかったので、彼女に理解させ、彼女を納得させることができるまで、再三討論した。新渡戸のこの著作は他にアメリカの女性の友人アンナ(Anna C. Hartshorne)の協力を得ている。彼女と彼女の父親ヘンリー(Henley Hartshorne)は1893年に日本を訪れ、新渡戸の家で何年も暮らした。アンナが残した手紙は彼女が『Bushido』の著述に深くかかわっていたことを証明している。残されている記録によると、新渡戸の手が震えて書き続けられなくなったとき、アンナは新渡戸の口述を聞き取り、彼に替わって筆記したという。新渡戸はこの書の序の末尾でアンナに対する感謝の気持も明らかにしている[34]。
このように英文で新たな解釈を示した『武士道』が、義和団事件が発生した1900年、アメリカのフィラデルフィアで出版された。フィラデルフィアはペンシルバニア州にあり、ギリシア語で「友愛」の意味をもつ。植民地時代からフレンド派の信徒ペン(William Penn)
が建設を指導し、1776年にアメリカ独立宣言、翌年、憲法が発布された歴史的記念都市となった。この書の出版は折りしも欧米人が「日本精神」と中国の「義和団」(西洋人はBoxerと称した)を比較評価する機会となった。この書は日露戦争勃発後の1904年、アメリカ人の協力により、比較的大きな出版社から再版された。日露戦争で日本はロシアの白色人種に勝利したおかげで、国際的に日本への関心と興味が深まり、英文版の『武士道』はベストセラーになった。新渡戸はこのときから日本精神、日本倫理学の権威となり、世界にその名をあげた。1905年日露戦争戦勝の年、明治天皇はとくに『武士道』の作者新渡戸を宮中に召見したが、当然メリー夫人も随行して皇居で拝謁した。
日本が日露戦争でロシアを打ち負かすことができたのは、実際にはアメリカ金融資本の援助に依拠していた。当時ドイツ系ユダヤ人が創設した投資銀行クーン・レーブ商会(Kuhn, Loeb & Co.)の社長は、ドイツ生まれでアメリカに移住、帰化したシフ(Jacob H. Schiff)であり、彼は彼のヨーロッパのユダヤ系金融資本家の友人ロスチャイルド(Lord Rothschild)とともに、ロンドンとパリでロシアが戦債を工面しようとしているのを封鎖し、シフのクーン・レーブ商会が責任をもって日本の日露戦争時の四回の外債募金を行い、合計三億五千万米ドルを募金で獲得した。これは日露戦争時の日本の戦費のほぼ半分である[35]。シフは戦後の1906年日本に赴いた。明治天皇が召見し、日露戦争の挙債の功労に感謝して「勲一等瑞宝章」を贈った。シフは対露戦争の協力者だったからこそ明治天皇が召見し、新渡戸夫婦は日本が対外戦争に従事する際、「武士道」精神で包装した功労により召見を得たのである。
新渡戸稲造が明治天皇に呈上した『上英文武士道論書』からも、彼が武士道を著した真意を完全に理解できる。
「伏て惟るに、
皇祖基を肇め、
列聖緒を継ぎ、洪業四表に光り、皇沢蒼生に遍く、声教の施す所、徳化の及ぶ所、武士道?に興り、鴻謨を輔けて、国風を宣揚し、衆庶をして、忠君愛国の徳に帰せしむ。斯道
卓然として、宇内の儀表たり。然るに外邦の人猶ほ未だ之を詳にせず、是れ真に憾むべ
きことなりとす、稲造是に於て武士道論を作る。」
「稻造短才薄識加ふるに病羸、宿志未だ成す所あらず、上は
聖恩に背き、下は父祖に愧づ。唯僅に卑見を述べて此書を作る。庶幾くは、
皇祖皇宗の遺訓と、武士道の精紳とを外邦に伝へ、以て国恩の萬ーに報い奉らんことを。
謹で此書を上り、乙夜の覧を仰ぎ奉る 誠惶頓首。」
明治三十八年(1905年)四月京都帝国大學法科大學教授從五位勳六等農學博士新渡戸稻造 再拜白[36]
この書は1899年に出版後、数回の増訂、再版を経て盧溝橋事変翌年の1938年、矢内原忠雄によって翻訳された日本語版が岩波書店で出版され、日本の『武士道』論の決定版となった。この書の第十六章「武士道は尚生くる乎」は「武士道は我国の活動精神、運動力であったし、又現にさうである」と断定している[37]。
「王政復古の暴風と国民的維新の旋風との中を我国船の舵取りし大政治家たちは、武士道以外何の道徳的教訓を知らざりし人々であった」。「現代日本の建設者たる佐久間、西郷、大久保、木戸の伝記、又伊藤、大隈、板垣等現存せる人物の回顧談を繙いて見よ――然らば彼等の思索及び行動は武士道の刺戟の下に行なはれし事を知るであらう」[38]。
たしかに、佐久間、西郷、大久保、木戸、伊藤、大隈、板垣らは、日本の「王政復古」の維新事業を推進し、日本が「上下一体の皇国」となることを促した志士であり、しかも、日本も甲午戦争[日清戦争]、日露戦争を経て「皇国を世界第一等の強国」にした。しかし、日本の「内政」の成果はアジア隣邦への「外征」の犠牲の上に成り立っていたのである。
佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸術」論を提唱した思想家で、彼はイギリスが発動したアヘン戦争をひたすら自己の利益を図り、礼儀廉恥を知らないと評した。彼の理想は日本という「皇国が世界第一等の強国となる」ことであり、日本の志士が「開国進取」の方向へ向かうよう啓蒙することだった。佐久間は最後に幕府の上層一橋慶喜および将軍徳川家茂に拝謁し、「開国」の時流を語り合ったが、「倒幕」、「攘夷」の志士に暗殺された。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允は「王政復古」明治維新の三大功臣である。西郷は「征韓論」が有名で、不平士族に擁立されて謀反を起こし、戦いに敗れて自刃した。大久保は明治初年欧米視察の機会を得、欧米列強が虎視眈々としている様子を見て、「内治」を先行させることを主張し、「征韓」に反対したが、1874年「征台」、「台湾処分」の主張に転じ、中国への「強硬外交」の推進へと至った。1878年、不満士族に暗殺された。木戸孝允は「尊皇攘夷」の志士で、初めは「征韓論」を唱え、下級武士の不満の捌け口を作ったが、1872年に岩倉外交使節団に随って欧米を巡歴して帰国後、態度を改めて「征韓」に反対し、「征台」にも反対した。西南戦争中に死亡した。伊藤は日本の内閣制の創設と明治憲法制定の功臣であり、第二次組閣時に海軍を拡張し、中日甲午戦争[日清戦争]を挑発、強行し、日露戦争後、韓国併合のために日韓協約を締結し、初代韓国総監に任命されたが、韓国の愛国志士安重根に暗殺された。
大隈は1874年日本が「征台」に出兵したときの事務局長官で、第一次世界大戦時に組閣して対独宣戦、中国に対して二十一ヶ条の要求を突きつけ、山東におけるドイツの特殊権益を日本に移すことにつとめたが、日本の右翼玄洋社社員来島恒喜に爆弾を投げられて片足を失った。板垣は「征韓論」の首脳で、征韓論の失敗により下野し、後に愛国公党、自由党等各種政党を組織し、政治活動に参加、対内的に「自由民権」を主張したが、対外的に「征韓」、「対中国開戦」を主張した。
以上の歴史から見て、日本の武士道思想の影響下の大政治家は日本にとってたしかに明治維新の功臣だったが、隣邦の民衆にとっては明らかに対外武力侵略の元凶だったことがわかる。もし隣邦の被侵略者の立場から見るなら、日本の武士道思想は否定されるべきものである。
新渡戸の「武士道」論の中で中日甲午戦争[日清戦争]をいかに論じているかを見てみよう。
「矮小ジャップ」の身体に溢るる忍耐、不撓並に勇気は日清戦争に於て十分に証明せられた。「之れ以上に忠君愛国の国民が有らうか」とは、多くの人によりて発せられる質問である。之れに対して「世界無比!」と吾人の誇りやかに答え得るは、之れ武士道の賜である[39]。
日本人にとっては武士道の賜だとしても、旅順で大虐殺に遭った中国人、日本が台湾を占領したときに大虐殺に遭った台湾同胞も日本人と同じように武士道の残酷さを讃えるだろうか。
新渡戸は再度強調している。
「鴨緑江に於て、朝鮮及び満洲に於て戦勝したるものは、我々の手を導き我々の心臓に搏ちつつある我等が父祖の威霊である。之等の霊、我が武勇なる祖先の魂は死せず、見る目有る者には明らかに見える。最も進んだ思想の 日本人にてもその皮に掻痕を付けて見れば、一人の武士が下から現はれる」[40]。
日本の武士道の武力や権勢の魂魄刀の下の中国人、朝鮮人、琉球人、原住民族は、もし独立した自由意志をもつ人間であれば、日本帝国主義の蹄鉄の下に屈服を願うはずはないのである。
新渡戸は1920年から国際連盟事務局次長を7年間つとめ、日本の国際的宣伝工作の責任を負った。帰国後、貴族院議員に就任、太平洋問題調査会理事として瀋陽事変[満洲事変]後、日本軍の中国東北出兵に弁解し、1933年死去した。彼のアメリカ人の夫人メリーは盧溝橋事変の翌年の1938年に亡くなった。彼ら夫婦は1904年から05年の日本の対露戦争を支持しただけではなく、1931年の瀋陽事変[満洲事変]以来、1930年代に、一貫して日本軍の中国での軍事行動は正しいと弁護した。換言すれば、「武士道」新解釈の意図は、欧米列強に対して、日本の東アジア侵略の理論を弁解し正当化することだった。
6.結論
新渡戸は台湾製糖業の改革において重要な役割を演じた。彼は台湾総督府の招請を受け、1901年2月、台湾総督府技師に就任、5月、民政部殖産課長に昇格、11月、新設の殖産局局長に任命され、1902年6月、臨時台湾糖務局新設時、局長も担当、1903年10月、京都大学法科教授に転任、台湾で三年四ヶ月を過ごした。
彼の台湾での具体的功績は1901年9月に「糖業改革意見書」を提出し、最大の課題が保守的な農民に新品種、新技術を採用させることであるとの考えを示したことで、児玉源太郎、後藤新平に対し、プロイセンに馬鈴薯を普及させるために強制力による実行を厭わなかったプロイセンのフレデリックⅡ世(1712-1786)のように、台湾の専制啓蒙君主となることを進言した。かくして、新渡戸の提案の下で、「台湾糖業奨励規則」が作成され、総督府が奨励金を支出し、外国から甘蔗の新品種を取り入れ、蔗苗と肥料を購入する費用、開墾費用、灌漑および排水費用、製糖機械器具費用等各種の手厚い補助を与える一方、臨時糖務局を設立、台湾伝統の糖<广+部>を淘汰し、糖業の「近代化」を進めた。しかし、その結果は、台湾人自営の糖業を駆逐して日本本土の糖業資本を台湾に侵入させ、台湾の製糖業を独占することだった。
新渡戸は植民地主義を肯定し、植民地は新領土であると認識していた。彼はイギリスの保守党の指導者ソールズベリー(Robert Salisbury 1830-1903)の「膨張的国民は生きる国、非膨張的国民は死ぬる国である。国家はこの二者中その一に居る」との論点を肯定し、活力をもつ国民は必ず膨張して領土獲得を求めると考えた。したがって、新渡戸の植民政策は、客観的には日本の統治の理論を正当化することにあった[41]。新渡戸は九一八事変[満洲事変]後さらに帝国主義の方向に向かい、1932年の「満洲国建国」時、「満洲国」は「民族自決」だといい、故ウイルソン大統領さえ満足するはずだと述べた。彼が勤めた国際連盟に対して、日本が1933年3月に脱退したとき、彼は、国際連盟は政治機関たるべきなのに、どうして司法機関のように日本を糾弾する誤謬に陥っているのかと批判し、一貫して日本の行動を弁護した。このときの新渡戸は明らかに国際主義の擁護から帝国主義の擁護へと転じていた。
戦後、日本銀行が1984年に紙幣の図案設計を変更した際に、福沢諭吉像を一万円、新渡戸稲造像を五千円、夏目漱石像を千円の図案に採用した。この三人は武士道への積極的称賛を示しており、三人の見方は一致していたとはいえ、微妙な差が存在していた。しかし、明治期の日本人がかなり武士道の影響を受けていたことも示している。
福沢は1884年10月の中国分割図において、日本が台湾を割取することを予言し、新渡戸稲造は日本の台湾割取後の1899年、「武士道―日本人の魂」を著し、甲午戦争[日清戦争]で鴨緑江、朝鮮、満洲戦役に打ち勝ったのは日本人の祖先の霊魂であると褒め称えた。以上二人の侵略精神は侵略、植民された人民からいえば、日本人に追随して称賛する道理はない。
夏目漱石の武士道に対する積極的評価は1910年日本海軍の潜水艇で事故が起こり、14人の船員全員が脱出できず、艇内で死亡したことと関連する。夏目は艇長佐久間勉の遺書に「小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ」と書かれていたことと、以前イギリスの潜航艇が同様に不幸な事故に遭遇したときに船員が死を免れるために争って窓のほうへ逃げようとして遺体が折り重なっていた状況とを比べて、間違いなく日本の武士道のすばらしさに感動したのである。日本海軍の一指揮官は武士であり、「陛下ノ艇ヲ沈メ」、「部下ヲ殺」したことに、かくも責任を痛感したことこそ、文学者夏目漱石を感嘆させたのであり、これこそ武士道が敬慕を受けるところなのかもしれない[42]。
[1] 和辻哲郎、古川哲史校訂『葉隠』(東京、岩波書店、1973年)上冊、191頁。
[2] 同上、中冊、161頁。
[3] 同上、中冊、184頁。
[4] 同上、下冊、52頁。
[5] 『日本残酷物語』、『歴史と旅』臨時増刊(東京、秋田書店、1992年3月)164-187頁。
[6] 秦郁彦、佐瀬昌盛、常石敬一編著『世界戦争犯罪事典』(東京、文藝春秋社、2002年)27-31頁。[引用部分は同書29頁の「紀念館」のプレートの写真によるものである]
[7] 檜山幸夫『日清戦争―秘蔵写真が明かす真実―』(東京、講談社、1997年)117頁。
[8] 井上晴樹『旅順虐殺事件』(東京、筑摩書房、1995年)28-30頁。
[9] 『旅順虐殺事件』31-32頁。
[10] 石河幹明『福澤諭吉傳』第三巻、(東京、岩波書店、1932年)756頁。
[11] 『世界戦争犯罪事典』31頁。
[12] 『旅順虐殺事件』90頁。
[13] 杉浦和作『明治二十八年台湾平定記』(台北、1896年)71頁;日本参謀本部編『明治二十七八年日清戦史』、許佩賢訳『攻台戦紀―日清戦史、台湾篇』(台北、遠流、1995年)184-193頁;許佩賢訳『攻台見聞―風俗画報、台湾征討図絵篇』(台北、遠流、1995年)150-152頁;許世楷『日本統治下の台湾―抵抗・弾圧』(東京、東京大学出版会、1984年)50-51頁。
[14] 『攻台戦紀』248-253頁;『攻台見聞』294頁;『譲台記』60頁、63頁、64-65頁;『瀛海偕亡記』11頁、15頁;姚錫光「東方兵事紀略、台湾篇上」、『台海思慟録』所収61頁;洪棄生『瀛海偕亡記』(台北、台湾銀行経済研究室、1959年)24-25頁。
[15] 『攻台見聞』422頁;『譲台記』69-70頁。
[16] 台湾総督府『陸軍幕僚歴史草案』巻一、6月21日の項;台湾総督府警務局編『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻(東京、緑陰書房、1986年、復刻版)432頁、436頁。
[17] 苫地治三郎『高野孟矩』1897年、252-253頁。
[18] 『台湾史料稿本』巻六、58頁。
[19] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、436頁;『公爵桂太郎傳』乾巻、735頁。
[20] 『台湾総督府公文類纂』23巻永久乙種第十門軍事、明治29年7月11日。
[21] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、512頁。
[22] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、512頁。
[23] 台湾総督府法務部編纂『台湾匪乱小史』(台北、台南新報支局、1920年)22頁。
[24] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、454頁。
[25] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、457頁。
[26] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、460-461頁。
[27] 『南投県革命志稿』176-181頁。
[28] 秋澤次郎『台湾匪誌』(台北、杉田書店、1923年)295頁。
[29] 後藤新平『日本植民政策一斑』(東京、拓殖新報社、1921年)27-28頁。
[30] 王国?編著『台湾抗日史』(甲篇)(台北文献委員会、1981年)327頁。
[31] 石井満『新渡戸稲造傳』(東京、関谷書店、1934年)172-173頁。
[32] ジョージ・M・大城「メリー・P・E・新渡戸―戦前の国際人新渡戸稲造の妻」、『新渡戸稲造研究』第八号(1999年)143-166頁。
[33] 新渡戸稲造著、矢内原忠雄訳『武士道』(東京、岩波書店、1969年)11頁。
[34] 同上、13頁。
[35] Walter LaFeber,The Clash―A History of U.S.-Japan Relations,Newyork,W.W.Norton&Company,1997,p.81.
[36] 矢内原忠雄編『新渡戸稲造文集』(東京、故新渡戸博士記念事業実行委員、1936年)492-494頁。
[37] 『武士道』126頁。
[38] 『武士道』127-128頁。
[39] 同上、129頁。
[40] 同上、137-138頁。
[41] 北岡伸一「新渡戸稲造における帝国主義と国際主義」、岩波講座『近代日本と植民地4―統合・支配・論理』(東京、岩波書店、1993年)179-203頁。
[42] 俵木浩太郎『新・士道論』(東京、筑摩書房、1992年)6-7頁。前のページに戻る
2016/10/20
随想 国際人と日本人 : 武田邦彦 (中部大学)
随想 国際人と日本人 : 武田邦彦 (中部大学)
随想 国際人と日本人
- 岡倉天心、新渡戸稲造、そして鈴木大拙 -
1868年、日本刀の時代が終わり、新しい明治の時代が開けた。その5年前に岡倉天心、6年前に新渡戸稲造、そして2年後に鈴木大拙が相次いで誕生した。この3人は似ている。
まず頭も良く才能があったことで、岡倉天心が現在の東京芸大、新渡戸稲造と鈴木大拙が東大で学んでいる。
次に、3人ともアメリカで生活をしていて英語がぺらぺらなこと。岡倉天心はボストン美術館、新渡戸稲造はジョンズ・ホプキンス大学、そして鈴木大拙はオープン・コート社にそれぞれ勤務、あるいは留学している。
そして奥さんは新渡戸稲造がメリー・エルキントンさん、鈴木大拙がベアトリス・レインさんで、お二人ともアメリカ人である。岡倉天心の奥さんは基子さんで彼女が13歳の時に結婚している。
3人とも西洋の文化を深く学び、その生活を経験し、そしてほぼ同じ結論に達している。
岡倉天心
「日本の文化とその歴史は、西アジアから東アジアへかけての「アジア」全域の文化遺産をその奥深くに受けとめ、それを醸成するように成立している、その意味で、日本文化のありかたのうちにアジアは混然として大きな「一つ」を形成している。」(解説から。”The Book of Tea”を出版。)
「日本の文化とその歴史は、西アジアから東アジアへかけての「アジア」全域の文化遺産をその奥深くに受けとめ、それを醸成するように成立している、その意味で、日本文化のありかたのうちにアジアは混然として大きな「一つ」を形成している。」(解説から。”The Book of Tea”を出版。)
新渡戸稲造
「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」(『 BUSHIDO,THE SOUL OF JAPAN』から)
「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」(『 BUSHIDO,THE SOUL OF JAPAN』から)
鈴木大拙
「日本は日本として、或は東洋は東洋として、西洋に知らせなけりゃならんものがいくらでもある」(大拙の言葉、また彼は書籍”Zen”、雑誌” EASTERN BUDDHIST ”を発行している。)
「日本は日本として、或は東洋は東洋として、西洋に知らせなけりゃならんものがいくらでもある」(大拙の言葉、また彼は書籍”Zen”、雑誌” EASTERN BUDDHIST ”を発行している。)
西洋人の文化を学ぶにつれ、彼らはその文化の持つ素晴らしさと同時に大きな欠点も判ってくる。キリスト教信者だった新渡戸稲造、哲学者だった鈴木大拙に比較すると岡倉天心は芸術家であったこともあり、過激だった。
岡倉天心
「アジアの兄弟姉妹たちよ!
おびただしい苦痛が、われわれの父祖の地を蔽っている。東洋は柔弱の同義語となった。土着の民とは奴隷の仇名である。われわれの温順にたいする讚辞は反語であって、西洋人からすればその東洋人の礼儀正しさは臆病のせいなのだ。商業の名においてわれわれは好戦の徒を歓迎している。文明の名において帝国主義者を抱擁している。キリスト教の名において無慈悲のまえにひれ伏している。国際法の光は白い羊皮紙のうえに輝いている。だが、あますところは不正の翳(かげ)が有色の皮膚に暗く落ちている。」
「アジアの兄弟姉妹たちよ!
おびただしい苦痛が、われわれの父祖の地を蔽っている。東洋は柔弱の同義語となった。土着の民とは奴隷の仇名である。われわれの温順にたいする讚辞は反語であって、西洋人からすればその東洋人の礼儀正しさは臆病のせいなのだ。商業の名においてわれわれは好戦の徒を歓迎している。文明の名において帝国主義者を抱擁している。キリスト教の名において無慈悲のまえにひれ伏している。国際法の光は白い羊皮紙のうえに輝いている。だが、あますところは不正の翳(かげ)が有色の皮膚に暗く落ちている。」
文明の名の下に植民地を作り、キリスト教の名の下に残虐行為を行う、それがヨーロッパなのだ。そしてその論理立てとして白い羊皮紙に国際法を書く。太平洋戦争の後の東京裁判というのは、本当はリンチだが、そのままやると批判される。そこで白い羊皮紙の上に国際法に基づくとして判決を書くと日本人すら騙される・・・と過激に訴えるのである。
訴え方は様々でも、彼ら3人が残した遺産は大きい。それは「日本の文化を世界に発信しなければならない」という強い使命感であり、それは西洋を深く知っているからこそ自信を持って言えることである。
天心の美術、稲造の教育、そして大拙の哲学・・・いずれも「物」を中心とした西洋文明に対する、「心」を中心とする東洋文明の対比であり、結論は「心」であった。
そしてそれには実行が伴わなければならない。新渡戸稲造は次のように語る。
「私は太平洋の橋になりたいのです。」
日本が国際連盟を脱退した時には、
「近ごろ、毎朝、新聞を見て暗い気持ちになる。わが国を滅ぼすものは、共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」
と発言し、日米が険悪になった時にはアメリカに渡り、
「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」
と非難を受ける。そして
「橋は決して一人では架けられない。何世代にも受け継がれてはじめて架けられる」
と私たちを鼓舞したのである。
「私は太平洋の橋になりたいのです。」
日本が国際連盟を脱退した時には、
「近ごろ、毎朝、新聞を見て暗い気持ちになる。わが国を滅ぼすものは、共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」
と発言し、日米が険悪になった時にはアメリカに渡り、
「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」
と非難を受ける。そして
「橋は決して一人では架けられない。何世代にも受け継がれてはじめて架けられる」
と私たちを鼓舞したのである。
私たちはひ弱になった。生活が豊かになるにつれ、ますますその豊かさを手放さなければならない恐怖に心が挫けるのである。そして補助金と言えばついていき、アメリカとの貿易を失わないようにとシッポを振る。
もう一度、3人の大先輩の心を学びたいと思う。
昭和8年、新渡戸稲造、死の直前に行ったカナダでの演説、そして短歌。
「異なった国民相互の個人的接触こそ、悩み多き世界に測り知れぬ効果をもたらすものではないだろうか。世界中より参じた国民の親密な接触によって、やがて感情ではなく理性が、利己ではなく正義が、人類並びに国家の裁定たる日が来るであろうことを、私がここに期待するのは、余りに大きな望みであろうか。」
「異なった国民相互の個人的接触こそ、悩み多き世界に測り知れぬ効果をもたらすものではないだろうか。世界中より参じた国民の親密な接触によって、やがて感情ではなく理性が、利己ではなく正義が、人類並びに国家の裁定たる日が来るであろうことを、私がここに期待するのは、余りに大きな望みであろうか。」
・・・折れば折れ 折れし梅の枝 折れてこそ
花に色香を いとど添ふらん・・・
花に色香を いとど添ふらん・・・
武士道 (岩波文庫 青118-1)
武士道 (岩波文庫 青118-1)
5つ星のうち4.0クリスチャンによる武士道
投稿者asatobon2003年12月15日
形式: 文庫
この本を読むときに、よろしければ気にとめて頂きたい点があります。
それは、著者、翻訳者ともにキリスト教徒であると言うことです。
(本の内容については、他の方々が既に充分な書評をかかれております。)
新渡戸稲造はクエーカー派と呼ばれるキリスト教徒です。
クエーカーは「内なる光」という直感的な「良心」を重視し、
「沈黙の礼拝」を行います。日本の座禅ににている礼拝で、
儀式もなく、聖書に元ずく平和主義で知られているグループです。
アメリカ・イギリス両クエーカーの団体は1947年に
ノーベル平和賞を受賞した経験があります。
一方、翻訳者の矢内原忠雄は内村鑑三の流れを汲む「無教会」という
キリスト教の伝道者で、戦後2代目の東京大学総長に選ばれており、
激務にありながら、毎週日曜日は集会で「聖書講義」を行った方です。
第二次大戦中は、非戦論者として知られました。
そのために、東大教授職を追われた方です。
私たちは、この「武士道」を読むに当たり、
なぜこの純日本的とも言われる武士道精神が、
俗に言う「西洋の宗教」であるキリスト教の信者によって書かれたのか、
静かに考えてみることは、意味があることではないでしょうか。
なぜこの本が、非キリスト教徒によって
書かれることがなかったのか、考えることは大事であると思います。
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5つ星のうち5.0武士道はいまだ死せず
投稿者grd22001年9月17日
形式: 文庫
武士道は、日本を表徴する桜の花と同じように、わが国土に固有の花である。
『武士道』第1章はこうした象徴的な一文から始まる。
桜の花が日本の武士道を象徴するとすれば、西欧の騎士道ないし哲学を象徴するものは薔薇である。
薔薇は強い芳香を持ち、優雅に咲く花である。しかし、その美しさの裏側には棘があり、枯れてもなお散らずに残りつづけようとする生への執着がある。
一方、我々は潔く散りゆく桜の花びらに美を見い出し、その淡い芳香に飽きることがない。
このように、西洋のものが「生の哲学」であるなら、
日本のそれは「死の哲学」であると言っていいであろう。ただしこの「死の哲学」は、「死」を奨励するという種類のものではなくて、むしろ人生をいかに生きるべきかという求道的倫!理的な問題を、万人にとって絶対的な存在である死を出発点として扱おうとする問題意識のことなのである。死というものを身近に感じ、これを受け入れ、日々これに対面することによって死から解放され、むしろ「生きる覚悟」というものが確固としたものとなり得るのである。
これに対して、我々が多く学んできた西洋の「生の哲学」がもたらしたものは利殖と保身と享楽の追及でしかなかった。
このような認識のもとに立つことが出来れば、我々は今一度、「武士道」という精神に学ぶことが大きいであろう。
『武士道』はつまり、
いかに死ぬべきかを問うたものではなく、
いかに生きるべきかという問いに対して
闊達自在な日々の心構えを説いたものだからである。
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5つ星のうち4.0確かに名著でした。
投稿者itgakiVINEメンバー2006年10月29日
形式: 文庫|Amazonで購入
「武士道」は封建社会の遺物であり、現代の生活には馴染まない、そんな先入観を持って読みました。が、書かれている事は、武士道が古から日本人の道徳観念を支えていたという事実であり、その書かれている事は本質的で、現代の生活そして生きていく上での姿勢にも十分参考になるものでした。
筆者も認めているように、かつてでも武士道を誤って認識している輩も多かったらしい。例えば、切腹についても軽軽しく腹を切って済ます(それでも凄いけど)ことで潔さを表しているが、本来はそれは犬死であり、軽軽しく死を扱わないことが本来であること。切腹をするからには、その武士道の精神に則った大儀があるべきことが書かれています。武士道にはそのような側面があることや、解釈に誤解があったこととあわせて論じているので、一層武士道の本質が判りやすくなっている印象でした。
前書きにもありますが、日本人の道徳教育は何によってなされてきたかを、異国の人に説明するために書かれた本です。ですので、外国(主にヨーロッパ)の宗教(=キリスト教)や哲学との比較、引用が多く、改めて納得できる事例も多いです。改めて筆者である新渡戸稲造氏の博学には驚かされました。しかも文章も非常に綺麗!本当に凄い人ですね。
私のように何も知らない人間は、「武士道」と聞くだけで右翼的なイメージを持ってしまいます。そのため、この名著と接する機会を逸してきたことを考えると、その本の本質である「日本人の道徳観念」の方を題名とする方が、現代では読まれる機会が増えるのだろうに、とも感じました。
本当は、そんな世の中への迎合より、「武士道」という観念が広がっていくことを願っていますが…。
とにかく、一度読んでみることをお薦めします。
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5つ星のうち5.0「武士道」をもって「日本人」を世界に説明する書
投稿者青ち2005年1月11日
形式: 文庫
菅野覚明『武士道の逆襲』(講談社現代新書)に触発されて読んでみた。
本書には、津田左右吉から上に挙げた菅野に至るまで、「実際の武士のあり方を表現していない」という批判がついて回る。「実際の武士」の「武士道」とはどのようなものか、という問題については菅野に譲るとしよう。ここでは、この本はもともと英語で書かれているということ、言い換えれば西洋人に読まれることを前提として書かれたのだ、という点に注意を喚起しておきたい。
新渡戸は必ずしもこの本で武士道そのものを詳述することを目指したのではない。西洋世界に「日本」をいかに説明するか。しかも非西洋でありながら西洋に通じる普遍性があるということをいかに主張するか。彼の関心はそこにこそあったのである。
したがって、この本から読み取れるのは、武士そのもののあり方ではない。アメリカの地で、1899年の時点で、新渡戸が「西洋に相対する日本」をいかにイメージしていたか、ということである。つまり、この本は「武士の時代」の本ではなく、あくまで「明治=近代」の本なのである。
そうした点を踏まえて読めば、得るところはすこぶる多い。近代日本の自己主張の原型が、そこにはある。
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5つ星のうち3.0翻訳本
投稿者カスタマー2004年2月9日
形式: 文庫
「武士道」は自分の精神的なルーツを知る上で、現代の日本人は必ず読んでおくべき書物であると思います。百年前に、これを残してくれた新渡戸稲造に現代日本人は感謝すべきです。二十年近く前に初めて読んだときに、私の根底にあるものを気付かせてもらった一冊で、偉く感動を覚えたものです。
ただ、これは、あくまで翻訳本なので、訳者を選ぶ必要もあります。この岩波文庫版は翻訳が古すぎて(笑ってしまう程ーごめんなさい)、今の時代の人にはとても読みにくく、理解しにくいと思います。原書で読んだほうがわかりやすいとさえ思いました。
ぜひ、現代語訳版で読んでください
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5つ星のうち5.0サムライと美
投稿者ひできVINEメンバー2004年1月10日
形式: 文庫
「ザ・ラスト・サムライ」を見た。ひさびさに「武士道」を読みたくなった。ハリウッド映画に日本の美がなんであったか、日本の武士道がなにであったかを、こんなにヴィジュアルにみせつけられるとは思っていなかった。この主演俳優であるトム・クルーズが撮影中にぼろぼろになるまで読んだというのが本書の英語でかかれた原著であるという。
国際連盟で活躍した新渡戸稲造は、本書によって広く世界に知られたという。ブリティッシュコロンビア大学の新渡戸記念公園とライブラリーを訪問したときのことが思い出される。現在にいたるまで新渡戸稲造の記念碑的な施設が十分に維持管理されていることに新渡戸稲造の遺徳の大きさを見た。
そして、今「武士道」がトム・クルーズや渡辺謙の姿を通じて世界の新たな世代にプレゼンテーションされたことに感動を覚える。世界の人々も「ザ・ラスト・サムライ」を見て本書を読みたくなってくれることを祈りたい。
しかし、新渡戸稲造が描いた独特のストイシズムに基づく日本人の美しさはどこへいってしまったのだろう。節制と恥じを基調とし、なにごとも完璧を求めた人の生き方としての美しさ、世代を超えた稲作による山河の美しさ、伝統的な着物や建物の美しさ。もし「ザ・ラスト・サムライ」と本書だけで日本を知った人が現在の日本を見たら、どのような感想をいだくのだろうか。
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5つ星のうち4.0何度も読まないとその本質の理解には至らないかもしれません
投稿者ひつじ日和2015年9月29日
形式: 文庫
武士道における重要な考え方を体系的に述べています。
義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義・克己・切腹 など。
もともとは英語の本で、海外に向けて書いてあります。
そのためか、海外の思想との比較がありますが、その比較が日本人(特に現代の日本人)には難しいと思いました。
そこがかなり難解に思われるかもしれません。
ただ、日本人の基本的な考え方になっている事は理解できます。
知っておいて損はない知識ではないでしょうか。
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5つ星のうち5.0読むまでこれほど大きな視野で書かれているとは知らなかった
投稿者草雲雀VINEメンバー2006年10月22日
形式: 文庫
武士道の本というと、もっと右寄りの偏った論理で進まれていると思いきや完膚なきまでにその誤った予測を否定された。グローバル的な大きな視野、知識、見聞のもと書かれており、通常の(というと語弊があるかも知れないが)人のレベルでは到底及ばない量、質、範囲の事例を使用して武士道を説明している。その事例は日本よりむしろ海外の例に枚挙を厭わない。
かつ、内容は本質をついておりまず一読するに越したことはないと思われる。
批判はそれからで良い。だが、批判するのも著者の知識に及んでからと考えると気が遠くなるが・・・
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5つ星のうち5.0不朽の日本人理解の手引き
投稿者陽気妃2003年11月17日
形式: 文庫
新渡戸稲造がベルギーの高名な法学者を訪問した折に、話が宗教に及び、その博士が容易に忘れられない口調で「宗教なしとは!道徳教育はどうやってほどこすのですか?」と聞いた。それが「武士道」著作の発端である。
欧米人が理解できるようにと、解説のための事例をかなり広範な欧米の書物から引用しており、新渡戸の博学さに驚かされる。1900年に出版されて以来、多くの言語に翻訳され世界中で読まれ、いまだ日本にはこの「武士道」を超える日本人の気質の解説書が出ていないといわれている。グローバライゼーションの世紀を迎えた今、「日本人とは?」「世界に映る日本とは?」などの命題に参考となる一書。
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5つ星のうち4.0クリスチャンによる武士道
投稿者asatobon2003年12月15日
形式: 文庫
この本を読むときに、よろしければ気にとめて頂きたい点があります。
それは、著者、翻訳者ともにキリスト教徒であると言うことです。
(本の内容については、他の方々が既に充分な書評をかかれております。)
新渡戸稲造はクエーカー派と呼ばれるキリスト教徒です。
クエーカーは「内なる光」という直感的な「良心」を重視し、
「沈黙の礼拝」を行います。日本の座禅ににている礼拝で、
儀式もなく、聖書に元ずく平和主義で知られているグループです。
アメリカ・イギリス両クエーカーの団体は1947年に
ノーベル平和賞を受賞した経験があります。
一方、翻訳者の矢内原忠雄は内村鑑三の流れを汲む「無教会」という
キリスト教の伝道者で、戦後2代目の東京大学総長に選ばれており、
激務にありながら、毎週日曜日は集会で「聖書講義」を行った方です。
第二次大戦中は、非戦論者として知られました。
そのために、東大教授職を追われた方です。
私たちは、この「武士道」を読むに当たり、
なぜこの純日本的とも言われる武士道精神が、
俗に言う「西洋の宗教」であるキリスト教の信者によって書かれたのか、
静かに考えてみることは、意味があることではないでしょうか。
なぜこの本が、非キリスト教徒によって
書かれることがなかったのか、考えることは大事であると思います。
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5つ星のうち5.0武士道はいまだ死せず
投稿者grd22001年9月17日
形式: 文庫
武士道は、日本を表徴する桜の花と同じように、わが国土に固有の花である。
『武士道』第1章はこうした象徴的な一文から始まる。
桜の花が日本の武士道を象徴するとすれば、西欧の騎士道ないし哲学を象徴するものは薔薇である。
薔薇は強い芳香を持ち、優雅に咲く花である。しかし、その美しさの裏側には棘があり、枯れてもなお散らずに残りつづけようとする生への執着がある。
一方、我々は潔く散りゆく桜の花びらに美を見い出し、その淡い芳香に飽きることがない。
このように、西洋のものが「生の哲学」であるなら、
日本のそれは「死の哲学」であると言っていいであろう。ただしこの「死の哲学」は、「死」を奨励するという種類のものではなくて、むしろ人生をいかに生きるべきかという求道的倫!理的な問題を、万人にとって絶対的な存在である死を出発点として扱おうとする問題意識のことなのである。死というものを身近に感じ、これを受け入れ、日々これに対面することによって死から解放され、むしろ「生きる覚悟」というものが確固としたものとなり得るのである。
これに対して、我々が多く学んできた西洋の「生の哲学」がもたらしたものは利殖と保身と享楽の追及でしかなかった。
このような認識のもとに立つことが出来れば、我々は今一度、「武士道」という精神に学ぶことが大きいであろう。
『武士道』はつまり、
いかに死ぬべきかを問うたものではなく、
いかに生きるべきかという問いに対して
闊達自在な日々の心構えを説いたものだからである。
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5つ星のうち4.0確かに名著でした。
投稿者itgakiVINEメンバー2006年10月29日
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「武士道」は封建社会の遺物であり、現代の生活には馴染まない、そんな先入観を持って読みました。が、書かれている事は、武士道が古から日本人の道徳観念を支えていたという事実であり、その書かれている事は本質的で、現代の生活そして生きていく上での姿勢にも十分参考になるものでした。
筆者も認めているように、かつてでも武士道を誤って認識している輩も多かったらしい。例えば、切腹についても軽軽しく腹を切って済ます(それでも凄いけど)ことで潔さを表しているが、本来はそれは犬死であり、軽軽しく死を扱わないことが本来であること。切腹をするからには、その武士道の精神に則った大儀があるべきことが書かれています。武士道にはそのような側面があることや、解釈に誤解があったこととあわせて論じているので、一層武士道の本質が判りやすくなっている印象でした。
前書きにもありますが、日本人の道徳教育は何によってなされてきたかを、異国の人に説明するために書かれた本です。ですので、外国(主にヨーロッパ)の宗教(=キリスト教)や哲学との比較、引用が多く、改めて納得できる事例も多いです。改めて筆者である新渡戸稲造氏の博学には驚かされました。しかも文章も非常に綺麗!本当に凄い人ですね。
私のように何も知らない人間は、「武士道」と聞くだけで右翼的なイメージを持ってしまいます。そのため、この名著と接する機会を逸してきたことを考えると、その本の本質である「日本人の道徳観念」の方を題名とする方が、現代では読まれる機会が増えるのだろうに、とも感じました。
本当は、そんな世の中への迎合より、「武士道」という観念が広がっていくことを願っていますが…。
とにかく、一度読んでみることをお薦めします。
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5つ星のうち5.0「武士道」をもって「日本人」を世界に説明する書
投稿者青ち2005年1月11日
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菅野覚明『武士道の逆襲』(講談社現代新書)に触発されて読んでみた。
本書には、津田左右吉から上に挙げた菅野に至るまで、「実際の武士のあり方を表現していない」という批判がついて回る。「実際の武士」の「武士道」とはどのようなものか、という問題については菅野に譲るとしよう。ここでは、この本はもともと英語で書かれているということ、言い換えれば西洋人に読まれることを前提として書かれたのだ、という点に注意を喚起しておきたい。
新渡戸は必ずしもこの本で武士道そのものを詳述することを目指したのではない。西洋世界に「日本」をいかに説明するか。しかも非西洋でありながら西洋に通じる普遍性があるということをいかに主張するか。彼の関心はそこにこそあったのである。
したがって、この本から読み取れるのは、武士そのもののあり方ではない。アメリカの地で、1899年の時点で、新渡戸が「西洋に相対する日本」をいかにイメージしていたか、ということである。つまり、この本は「武士の時代」の本ではなく、あくまで「明治=近代」の本なのである。
そうした点を踏まえて読めば、得るところはすこぶる多い。近代日本の自己主張の原型が、そこにはある。
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5つ星のうち3.0翻訳本
投稿者カスタマー2004年2月9日
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「武士道」は自分の精神的なルーツを知る上で、現代の日本人は必ず読んでおくべき書物であると思います。百年前に、これを残してくれた新渡戸稲造に現代日本人は感謝すべきです。二十年近く前に初めて読んだときに、私の根底にあるものを気付かせてもらった一冊で、偉く感動を覚えたものです。
ただ、これは、あくまで翻訳本なので、訳者を選ぶ必要もあります。この岩波文庫版は翻訳が古すぎて(笑ってしまう程ーごめんなさい)、今の時代の人にはとても読みにくく、理解しにくいと思います。原書で読んだほうがわかりやすいとさえ思いました。
ぜひ、現代語訳版で読んでください
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5つ星のうち5.0サムライと美
投稿者ひできVINEメンバー2004年1月10日
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「ザ・ラスト・サムライ」を見た。ひさびさに「武士道」を読みたくなった。ハリウッド映画に日本の美がなんであったか、日本の武士道がなにであったかを、こんなにヴィジュアルにみせつけられるとは思っていなかった。この主演俳優であるトム・クルーズが撮影中にぼろぼろになるまで読んだというのが本書の英語でかかれた原著であるという。
国際連盟で活躍した新渡戸稲造は、本書によって広く世界に知られたという。ブリティッシュコロンビア大学の新渡戸記念公園とライブラリーを訪問したときのことが思い出される。現在にいたるまで新渡戸稲造の記念碑的な施設が十分に維持管理されていることに新渡戸稲造の遺徳の大きさを見た。
そして、今「武士道」がトム・クルーズや渡辺謙の姿を通じて世界の新たな世代にプレゼンテーションされたことに感動を覚える。世界の人々も「ザ・ラスト・サムライ」を見て本書を読みたくなってくれることを祈りたい。
しかし、新渡戸稲造が描いた独特のストイシズムに基づく日本人の美しさはどこへいってしまったのだろう。節制と恥じを基調とし、なにごとも完璧を求めた人の生き方としての美しさ、世代を超えた稲作による山河の美しさ、伝統的な着物や建物の美しさ。もし「ザ・ラスト・サムライ」と本書だけで日本を知った人が現在の日本を見たら、どのような感想をいだくのだろうか。
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5つ星のうち4.0何度も読まないとその本質の理解には至らないかもしれません
投稿者ひつじ日和2015年9月29日
形式: 文庫
武士道における重要な考え方を体系的に述べています。
義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義・克己・切腹 など。
もともとは英語の本で、海外に向けて書いてあります。
そのためか、海外の思想との比較がありますが、その比較が日本人(特に現代の日本人)には難しいと思いました。
そこがかなり難解に思われるかもしれません。
ただ、日本人の基本的な考え方になっている事は理解できます。
知っておいて損はない知識ではないでしょうか。
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5つ星のうち5.0読むまでこれほど大きな視野で書かれているとは知らなかった
投稿者草雲雀VINEメンバー2006年10月22日
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武士道の本というと、もっと右寄りの偏った論理で進まれていると思いきや完膚なきまでにその誤った予測を否定された。グローバル的な大きな視野、知識、見聞のもと書かれており、通常の(というと語弊があるかも知れないが)人のレベルでは到底及ばない量、質、範囲の事例を使用して武士道を説明している。その事例は日本よりむしろ海外の例に枚挙を厭わない。
かつ、内容は本質をついておりまず一読するに越したことはないと思われる。
批判はそれからで良い。だが、批判するのも著者の知識に及んでからと考えると気が遠くなるが・・・
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5つ星のうち5.0不朽の日本人理解の手引き
投稿者陽気妃2003年11月17日
形式: 文庫
新渡戸稲造がベルギーの高名な法学者を訪問した折に、話が宗教に及び、その博士が容易に忘れられない口調で「宗教なしとは!道徳教育はどうやってほどこすのですか?」と聞いた。それが「武士道」著作の発端である。
欧米人が理解できるようにと、解説のための事例をかなり広範な欧米の書物から引用しており、新渡戸の博学さに驚かされる。1900年に出版されて以来、多くの言語に翻訳され世界中で読まれ、いまだ日本にはこの「武士道」を超える日本人の気質の解説書が出ていないといわれている。グローバライゼーションの世紀を迎えた今、「日本人とは?」「世界に映る日本とは?」などの命題に参考となる一書。
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武士道 (講談社バイリンガル・ブックス) (英語) ペーパーバック – 1998
武士道 (講談社バイリンガル・ブックス) (英語) ペーパーバック – 1998/6/10
新渡戸 稲造 (著), 須知 徳平 (翻訳)
5つ星のうち 4.5 21件のカスタマーレビュー
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著者からのコメント
FOREWORD [opening pages]
A little over one hundred years ago, Nitobe Inazo (1862-1933), then a thirty-six-year-old scholar visiting the United States, wrote the following in a letter to William Griffis, author of many books on Japan:
"... I have begun a paper on Bushido -- Precepts of Knighthood -- as an essential of Japanese character, in fact, as a key to understand the moral sentiment of her people."
This is the first reference we have of Nitobe's plan to write this book, which appeared in American bookstores early in 1900. A few years later, riding upon the wave of interest generated by the Russo-Japanese War, an enlarged edition of the book became a best-seller and launched Nitobe into the role of publicist for Japan. While serving as a cultural mediator for over three decades, Nitobe also distinguished himself in other diverse fields as an educator, author, and public servant.
Born into a high-ranking samurai family of the Nambu domain in Morioka prefecture, Nitobe entered the Sapporo Agricultural School in 1877, where he came under the influence of Christianity. He formally joined the Society of Friends (Quakers) while studying at Johns Hopkins University in the United States (1884-87), and remained throughout his life a devout member. Nitobe pursued his advanced studies at several universities in Germany (1887-90), where he received his doctorate in agricultural economics; and, before returning to Japan, he married an American Quaker, Mary Elkinton, which strengthened his personal ties to the U.S.
After a teaching stint at his old alma mater, the Sapporo Agricultural School, Nitobe moved to a position as a colonial administrator in Taiwan (1901-03) under General Kodama Gentaro and Goto Shimpei. Through the latter's connection, he was appointed to a professorial post at Kyoto Imperial University; later, he served as headmaster at the prestigious First Higher School (1906-13); and finally as professor of colonial policy at Tokyo Imperial University (1913-19). Nitobe also had many affiliations with other schools, including Tsuda College, Takushoku University, and Tokyo Women's Christian University, where he served as its first president.
In the latter part of his illustrious career, Nitobe worked as an under-secretary general at the League of Nations (1920-26); served as a member of the House of Peers (1926-33); and was the Japanese Chairman of the Institute of Pacific Relations (IPR; 1929-33), an organization created to improve relations among Pacific-rim nations.
Nitobe's experiences as a young man abroad in the 1880s provided him with the inspiration to write Bushido. He writes in his Introduction that the idea first germinated after a visit with the Belgian scholar, M. de Laveleye. The latter had asked how Japanese taught moral education to young people. Unable to answer as he was, the question had lingered in his mind. His wife Mary, too, had frequently asked him thought-provoking questions about Japan. Thus, after many years, it dawned on him that "it was Bushido that breathed the answers into my nostrils."
Bushido, we see in retrospect, owes its existence to an unexpected crisis in Nitobe's life. While at the Sapporo Agricultural School, Nitobe suffered a severe nervous breakdown that left him unable to work. Taking a leave of absence to regain his health -- Nitobe seems to have been a workaholic -- he was finally afforded the leisure to contemplate his subject without distraction, and to put his Bushido ideas into writing. After spending time first in Kamakura, then in Shonan, Nitobe next took his family to the United States, to Monterey in northern California, where he wrote most of the book.
A family friend, Anna Hartshorne, who was travelling with the Nitobes, played an important role in the production of Bushido. When Inazo was no longer able to write, Anna transcribed at his dictation; later, she helped design the jacket for the first edition. Inazo expresses his thanks to her in his Introduction. Mention must be made, too, of another friend, Uchimura Kanzo (1861-1930), who indirectly influenced Nitobe at this time. A few years before Bushido's appearance, Uchimura -- himself a well-known Christian evangelist and author -- had published two English-language books in a similar genre: How I Became a Christian and Japan and the Japanese. These books rank among the earliest attempts by a Japanese to write for a Western audience. Okakura Tenshin (1862-1913) was another contemporary whose books, The Book of Tea and Ideals of the East, enjoyed similar success in the same period.
While the first edition of Bushido enjoyed modest sales in the United States, Nitobe arranged with a Japanese publisher, Shokabo, to print and distribute the book in Japan. This version sold well and went through nine reprints between 1903 and 1909. A few years later, Nitobe switched publishers and had the book contracted to Teibi Publishing Company in Tokyo. He also arranged for selected extracts from Bushido to be reprinted in the Eigaku Shimpo, a magazine for young people studying English. This venture was initiated by Tsuda Umeko and her staff, who had close ties to Nitobe. Sakurai Oson, the editor, appended notes in Japanese to help the novice overcome difficult passages. Sakurai also made the first translation of Bushido into Japanese in 1908.
Nitobe's Japanese translation of Bushido apparently caught the attention of prominent people, including Inoue Tetsujiro, Professor of Ethics at Tokyo Imperial University, who was perturbed that an amateur such as Nitobe would write on the subject. Uemura Masahisa, too, the well-known Christian leader, criticized the book and its attempt to "Christianize" the moral values of the samurai. Some foreigners who wrote about Japan, most notably the Englishman Basil Hall Chamberlain, in his Things Japanese, expressed distaste for Bushido. Chamberlain refers to Nitobe disparagingly as a "nationalistic professor." But despite the criticism, the book sold well....
出版社からのコメント
The Sword, The Soul of the Samurai
[the entire chapter, minus one footnote and the original italics]
Bushido made the sword its emblem of power and prowess. When Mahomet proclaimed that "the sword is the key of Heaven and of Hell," he only echoed a Japanese sentiment. Very early the samurai boy learned to wield it. It was a momentous occasion for him when at the age of five he was apparelled in the paraphernalia of samurai costumes placed upon a go-board[1] and initiated into the rights of the military professions by having thrust into his girdle a real sword instead of the toy dirk with which he had been playing. After this first ceremony of adoptio per arma, he was no more to be seen outside his father's gates without this badge of his status, even though it was usually substituted for everyday wear by a gilded wooden dirk. Not many years pass before he wears constantly the genuine steel, though blunt, and then the sham arms are thrown aside and with enjoyment keener than his newly acquired blades, he marches out to try their edge on wood and stone. When he reaches man's estate, at the age of fifteen, being given independence of action, he can now pride himself upon the possession of arms sharp enough for any work. The very possession of the dangerous instrument imparts to him a feeling and an air of self-respect and responsibility. "He beareth not the sword in vain. What he carries in his belt is a symbol of what he carries in his mind and heart, -- loyalty and honour. The two swords, the longer and the shorter, -- called respectively daito and shoto or katana and wakizashi, -- never leave his side. When at home, they grace the most conspicuous place in the study or parlour; by night they guard his pillow within easy reach of his hand. Constant companions, they are beloved, and proper names of endearment given them. Being venerated, they are well-nigh worshipped. The Father of History has recorded as a curious piece of information that the Scythians sacrificed to an iron scimitar. Many a temple and many a family in Japan hoards a sword as an object of adoration. Even the commonest dirk has due respect paid to it. Any insult to it is tantamount to personal affront. Woe to him who carelessly steps over a weapon lying on the floor!
So precious an object cannot long escape the notice and the skill of artists nor the vanity of its owner, especially in times of peace, when it is worn with no more use than a crosier by a bishop or a sceptre by a King. Sharkskin and finest silk for hilt, silver and gold for guard, lacquer of varied hues for scabbard, robbed the deadliest weapon of half its terror; but these appurtenances are playthings compared with the blade itself
The swordsmith was not a mere artisan but an inspired artist and his workshop a sanctuary. Daily he commenced his craft with prayer and purification, or, as the phrase was, "he committed his soul and spirit into the forging and tempering of the steel." Every swing of the sledge, every plunge into water, every fiction on the grindstone, was a religious act of no slight import. Was it the spirit of the master or of his tutelary god that cast a formidable spell over our sword? Perfect as a work of art, setting at defiance its Toledo and Damascus rivals, there was more than art could impart. Its cold blade, collecting on its surface the moment it is drawn the vapour of the atmosphere; its immaculate texture, flashing light of bluish hue; its matchless edge, upon which histories and possibilities hang; the curve of its back, uniting exquisite grace with utmost strength; -- all these thrill us with mixed feelings of power and beauty, of awe and terror. Harmless were its mission, if it only remained a thing of beauty and joy! But, ever within reach of the hand, it presented no small temptation for abuse. Too often did the blade flash forth from its peaceful sheath. The abuse sometimes went so far as to try the acquired steel on some harmless creature's neck.
The question that concerns us most is, however -- Did Bushido justify the promiscuous use of the weapon? The answer is unequivocally, no! As it laid great stress on its proper use, so did it denounce and abhor its misuse. A dastard or a braggart was he who brandished his weapon on undeserved occasions. A self-possessed man knows the right time to use it, and such times come but rarely. Let us listen to the late Count Katsu, who passed through one of the most turbulent times of our history, when assassinations, suicides, and other sanguinary practices were the order of the day. Endowed as he once was with almost dictatorial powers, chosen repeatedly as an object of assassination, he never tarnished his sword with blood. In relating some of his reminiscences to a friend he says, in a quaint, plebeian way peculiar to him: "I have a great dislike for killing people and so I haven't killed one single man. I have released those whose heads should have been chopped off. A friend said to me one day, 'You don't kill enough. Don't you eat pepper and egg-plants?' Well, some people are no better! But you see that fellow was slain himself My escape may be due to my dislike of killing. I had the hilt of my sword so tightly fastened to the scabbard that it was hard to draw the blade. I made up my mind that though they cut me, I would not cut. Yes, yes! some people are truly like fleas and mosquitoes and they bite -- but what does their biting amount to? It itches a little, that's all; it won't endanger life." These are the words of one whose Bushido training was tried in the fiery furnace of adversity and triumph. The popular apothegm -- "To be beaten is to conquer," meaning true conquest consists in not opposing a riotous foe; and "The best won victory is that obtained without shedding of blood," and others of similar import -- will show that after all the ultimate ideal of knighthood was peace.
It was a great pity that this high ideal was left exclusively to priests and moralists to preach, while the samurai went on practising and extolling martial traits. In this they went so far as to tinge the ideals of womanhood with Amazonian character. Here we may profitably devote a few paragraphs to the subject of the training and position of woman.
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5つ星のうち5.0未来に向けて
投稿者カスタマー2005年2月20日
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この本は原文と訳文の両方が書かれているのが、素晴らしいと思います。
もともと新渡戸先生はこの本を英文で書かれたので、やはり英文も載っている方が彼の真意により近づけるような気がします。
訳文も平易で読みやすいです。
「武士道」という概念は日本人なら誰でも耳にした事があるのに、誰もはっきりとこうだと説明できない部分があると思います。
それを新渡戸先生は英文で世界に向けて、様々な海外の古典や哲学、宗教・・などと武士道を比較対象しながら、武士道とは如何なるものなのかを本当に事細かく説明しています。
その博学さはとても膨大なもので、びっくりします。
彼は武士道を全て礼賛している訳ではないですし、その長所、短所を述べ、未来の日本に向けて語っているようにも感じます。
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5つ星のうち5.0“生が死より恐ろしい場合に、あえて生きることこそ、真の勇気である”
投稿者荒野の狼ベスト500レビュアー2008年8月6日
形式: ペーパーバック
新渡戸稲造の武士道は英文で書かれたものですが、この本では、左側に須知徳平の日本語訳、右側に原文が見開きになっており、比較が容易です。英語は文語が使われているため辞書なしでは読めません。日本語訳は著者が出典を触れていないものも訳注を加えた上で、和歌なら日本語の原文をそのまま載せるなどしており、丁寧な訳です。著者は、武士道は深遠な哲学に欠ける(よりどころとなる経典がない)と繰り返し述べられていますが、孟子・孔子・大学・中庸からの引用がもっとも多く、義・礼の思想をはじめとして、儒教の高い基盤があっての武士道であることがわかります。シェイクスピア、ギリシャ神話、聖書、エマーソン、ニーチェらと対照して、武士道がこれらのいずれにも劣らないレベルにあることが随所に書かれています(キリスト教徒の武士道と一部で言われているのはあたらないと思われます)。しかし、単なる儒教思想の拝借ではなく、それを超えた人の誇りが書かれており、特に、以下の金言は現代人に生きる勇気を与えてくれるものである。“真の武士にとっては、死に急ぎをしたり、死におもねたりすることは、卑怯なことだとされていた”“生が死より恐ろしい場合に、あえて生きることこそ、真の勇気である”“ひとたび心の中で死んだ者には、真田の槍も、為朝の矢も通らないものである。” 贅沢を言えば、文章によっては、さらに詳細な注解があれば理解の助けになると思われます。たとえば、この本では新渡戸は”孟子”の一章の中の一文だけを引用して読者に理解を求めている箇所が随所にあります。せめて、それが”孟子”のどの部分からの引用であるかが注に書かれていれば、さらに深い理解を求める読者には有用な情報であると思われます。
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5つ星のうち4.0読者しだい
投稿者sukurabu2007年3月10日
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国外に生活基盤があるので、非日本人に大和魂や武士道について説明を求められることがよくある。中にはすでに英語で書かれた原著を読んでいて、突っ込んだ質問をする人々もいる。最近特に印象に残った質問は、「日本の侍がどんな倫理感をもってきたか、それが相当高潔なもので、どんなに強く彼等を支えてきたか、ということは分かるが、現在、自分の周りにいる日本人も同じような倫理感を引き継いでいるのか、とてもそうは思えない」というものであった。この著作は1世紀以上前に著わされたもので、その当時と現在では社会情勢にも、読む側の状況にも格段の開きがある。日本語訳されているとは言え、現代の人々にはなじみの薄い記述や、冗長にすぎると思われかねない説明部分もある。しかし、日本がその歴史の中で民族の中に脈々と受け継がれて行くべきものとして確かに培い慈しんで来た、目に見えない価値観、心のよりどころとも言うべき精神は、しっかりと述べられている。日本人でありながら、今さらのように気付かされることも多い。難しいとして表面的に読み、いつしか忘れ去ってしまうか、あるいはその奥に流れる、熱く深いメッセージを感じ取って自分の魂を共鳴させるか、それは読者しだいである。
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5つ星のうち5.0「日本の星」
投稿者アマゾン万次郎2004年3月11日
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最近巷で異文化間コミュニケーション学がもてはやされているが、この著書にその原点あり、と感じた。当時の西洋人にとって、謎だらけの日本を西洋文学や宗教に喩えながら説明した本書は、衝撃的であったに違いない。少々強引に正当化し過ぎている、という感想が聞かれるが、かつて日本にこれほどまで西洋文化と日本文化に精通した人が存在したでしょうか。「ジュネーブの星」と謳われた新渡戸博士は、永遠に「日本の星」として輝き続けることでしょう。雑談だが、5千円札の肖像画が樋口一葉のそれに変わってしまうのも少々寂しい気がする。今こそ、日本外交の手腕が問われている時期ではないだろうか。桜が開花する季節に再度、冒頭部分に目を通し、日本人論に没頭してはいかが?
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5つ星のうち5.0表微たる桜花
投稿者Daiki2014年7月27日
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この本は「日本に宗教はないのは本当か?どうやって、道徳教育をするのか?」と聞かれた新渡戸稲造が、その精神性を説明するために、武士の時代に立ち返って説明を試みたもの。西洋の騎士道の歴史を比較して論じたのは脱帽した。しかも原著は英語。
武士道と言うと、単にストイックなものを意味するようだけれども、少し違う。言葉にするのは難しい。
簡単に言えば、武士は
・仏教の影響を受けていたから、死を前にしても最後は静かに開き直れた。
・神道の影響を受けていたから、主君や祖先に対する忠節が基本にあった。
・儒教の影響をうけていたから、礼節・品性(仁・義・礼・信・智)を重んじた。
・そして命の価値が低い時代だったからこそ、少々濫用&エスカレートした。
圧巻だったのは、切腹を描写した別の書籍からの引用。 ※2つあるが、ここでは1つ。
3兄弟が切腹する事になった(家康を殺そうとしたが、その勇気に情けが向けられ一族切腹)
一番下の弟は8歳だった。弟は作法が分からないから、兄2人が手本を見せる。脇差を腹に刺しながら、
「弟これを見よ。会得せしか?あまりに深く掻くな、仰向けに倒れるぞ。うつ伏して膝を崩すな」
※ 仰向けに倒れる事、また膝を崩す事は美学に反するのです。
もう1人の兄も
「目を剋と開けや(中略)力たわむとも、さらに勇気を出して引き回せや」と説明しながら果てる。
兄二人を見届け、8歳の弟も兄二人にならって果てる。
※言葉になりません。事例から感じるものですね。
この本、「武士道はその表微たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」から始まり
最後は、武士道は100年後には消えるかもしれない。でも雰囲気というか片鱗は日本に残るだろうという締めくくり方をしています。
そう、言語化しにくくても、片鱗は私たちの中にあるのでしょう。
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5つ星のうち1.0和訳のレベルが低い
投稿者カスタマー2004年7月27日
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和訳と原文、両方楽しめると思い購入したが、和訳のレベルが低く、誤訳が多すぎて日本語の意味が通っていない。ちゃんとした訳文の本と原書と2冊買った方がよいと思う。
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5つ星のうち5.0波多野氏のはしがきのレベルの低さに驚愕
投稿者研究者2008年4月15日
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いわずと知れた新渡戸稲造の歴史的名著。原文である英文も格調高く日本語訳も悪くない。ただ、元国連大使の波多野敬雄氏によるはしがきには驚愕を禁じ得ない。この人は果たして本当に武士道を読んだのかと思えるほどの読解力の低さ。また文章の根底には教養の低さも随所に垣間見える。こんな人が日本の国連大使をしていたのかとがっかりした。
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5つ星のうち4.0"Bushido"との出遭い
投稿者学徒の声2013年4月28日
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"Bushido"を始めて手に取ったのは神戸の図書館であった。流麗かつ格調高い文体に目が留まったのである。暫しの間、受験勉強そっちのけで読み耽った。著者は、Inazo Nitobeとある。しかし翻訳者の名が何処を捜しても見当たらない。余程Inazo Nitobeに心酔している人が卑下して自分の名を秘して翻訳したのだろうと想った。それから数年して原文は新渡戸稲造自身が英文で執筆している事がわかった。クラーク博士の札幌農学校の凄さに驚嘆した。また後に奥様が米国人である事を知り、内助の功を悟った。当時の日本男児としては、ジョン・スチュワート・ミルの『自由論』のように自分の奥方の内助の功を序文で語る事は憚られたのであろう。新渡戸の英文は19世紀Victoria朝時代の格調高き文体である。日本語翻訳者にも相当の教養が要求され得る。今風の平べったい文体では駄目である。この対訳本は、それなりに成功している様にも思われる。
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5つ星のうち4.0もともとは英語の本
投稿者後生畏るべし2010年2月13日
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武士道は、文庫本で全編音読で読みました。武士の心得を得た感じですが、感動的にはあまり感じませんでした。「菊と刀」の方がより、深い感動はありました。武士については、当然古武術ブームでの出会いであり、作法については、この本が原点なのかもしれません。
新渡戸稲造とは何者か?ということで、5,000円札になった人にも関わらず、謎の人でした。北海道大学に入学したかったのですが、北大の代表人物として内村鑑三等とともに名前があがってくる人ででしたが、武士道の作者であることが後でわかり、当時としてはちょっとした感動がありました。
1980年代にははっきり言えば埋もれていた本であり、何かのきっかけで価値が再認識されたように思います。日本の文化とは何かを探るということでその一助にはなると思いますが、宮本武蔵の「五輪書」のような精神論、具体策を論じているのではなく、日本人の文化は武士道からきているというための説明であり、欧米人にとってのキリスト教のようなものだということですが、すべての日本人が武士ではないので、武士出身である、新渡戸氏の一見解として解釈すべきかもしれません。
この本では英語と日本語訳がページで別れているため、非常に分かりにくい英語(単語が現代となじんでいない、または、ネイティブイングリッシュであるのか)なかなか難儀したものでした。(全部網羅しているのかは少し疑問ですが…)
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5つ星のうち5.0見栄を張って「対訳」を買ってしまいました
投稿者アンクルおさむ2003年9月18日
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タイトルのごとく見栄を張って「対訳」を買ってしまいましたが、私の読解力では格調高い英文など理解できようはずもありません。
したがって訳文しか読んでいませんが読み終えて久しぶりに感動しました。
久しぶりに本物の本を読んだという充実感がありました。
日本人でありながら日本人を知らない私自身を、あらためて見つめ直す素晴らしい機会を与えてくれました。
元来、私も含め日本人は「舶来」に弱いところがあるようですが、こんな大人物も居たのですね。
日本人を見直してしまいました。
まだ一度しか読んでいません。
これから何度も読み返して私が日本人であることを再認識したいと思っています。
最後に見栄を張って一言。
いつかは英文を読みこなしてやるぞ!
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新渡戸 稲造 (著), 須知 徳平 (翻訳)
5つ星のうち 4.5 21件のカスタマーレビュー
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著者からのコメント
FOREWORD [opening pages]
A little over one hundred years ago, Nitobe Inazo (1862-1933), then a thirty-six-year-old scholar visiting the United States, wrote the following in a letter to William Griffis, author of many books on Japan:
"... I have begun a paper on Bushido -- Precepts of Knighthood -- as an essential of Japanese character, in fact, as a key to understand the moral sentiment of her people."
This is the first reference we have of Nitobe's plan to write this book, which appeared in American bookstores early in 1900. A few years later, riding upon the wave of interest generated by the Russo-Japanese War, an enlarged edition of the book became a best-seller and launched Nitobe into the role of publicist for Japan. While serving as a cultural mediator for over three decades, Nitobe also distinguished himself in other diverse fields as an educator, author, and public servant.
Born into a high-ranking samurai family of the Nambu domain in Morioka prefecture, Nitobe entered the Sapporo Agricultural School in 1877, where he came under the influence of Christianity. He formally joined the Society of Friends (Quakers) while studying at Johns Hopkins University in the United States (1884-87), and remained throughout his life a devout member. Nitobe pursued his advanced studies at several universities in Germany (1887-90), where he received his doctorate in agricultural economics; and, before returning to Japan, he married an American Quaker, Mary Elkinton, which strengthened his personal ties to the U.S.
After a teaching stint at his old alma mater, the Sapporo Agricultural School, Nitobe moved to a position as a colonial administrator in Taiwan (1901-03) under General Kodama Gentaro and Goto Shimpei. Through the latter's connection, he was appointed to a professorial post at Kyoto Imperial University; later, he served as headmaster at the prestigious First Higher School (1906-13); and finally as professor of colonial policy at Tokyo Imperial University (1913-19). Nitobe also had many affiliations with other schools, including Tsuda College, Takushoku University, and Tokyo Women's Christian University, where he served as its first president.
In the latter part of his illustrious career, Nitobe worked as an under-secretary general at the League of Nations (1920-26); served as a member of the House of Peers (1926-33); and was the Japanese Chairman of the Institute of Pacific Relations (IPR; 1929-33), an organization created to improve relations among Pacific-rim nations.
Nitobe's experiences as a young man abroad in the 1880s provided him with the inspiration to write Bushido. He writes in his Introduction that the idea first germinated after a visit with the Belgian scholar, M. de Laveleye. The latter had asked how Japanese taught moral education to young people. Unable to answer as he was, the question had lingered in his mind. His wife Mary, too, had frequently asked him thought-provoking questions about Japan. Thus, after many years, it dawned on him that "it was Bushido that breathed the answers into my nostrils."
Bushido, we see in retrospect, owes its existence to an unexpected crisis in Nitobe's life. While at the Sapporo Agricultural School, Nitobe suffered a severe nervous breakdown that left him unable to work. Taking a leave of absence to regain his health -- Nitobe seems to have been a workaholic -- he was finally afforded the leisure to contemplate his subject without distraction, and to put his Bushido ideas into writing. After spending time first in Kamakura, then in Shonan, Nitobe next took his family to the United States, to Monterey in northern California, where he wrote most of the book.
A family friend, Anna Hartshorne, who was travelling with the Nitobes, played an important role in the production of Bushido. When Inazo was no longer able to write, Anna transcribed at his dictation; later, she helped design the jacket for the first edition. Inazo expresses his thanks to her in his Introduction. Mention must be made, too, of another friend, Uchimura Kanzo (1861-1930), who indirectly influenced Nitobe at this time. A few years before Bushido's appearance, Uchimura -- himself a well-known Christian evangelist and author -- had published two English-language books in a similar genre: How I Became a Christian and Japan and the Japanese. These books rank among the earliest attempts by a Japanese to write for a Western audience. Okakura Tenshin (1862-1913) was another contemporary whose books, The Book of Tea and Ideals of the East, enjoyed similar success in the same period.
While the first edition of Bushido enjoyed modest sales in the United States, Nitobe arranged with a Japanese publisher, Shokabo, to print and distribute the book in Japan. This version sold well and went through nine reprints between 1903 and 1909. A few years later, Nitobe switched publishers and had the book contracted to Teibi Publishing Company in Tokyo. He also arranged for selected extracts from Bushido to be reprinted in the Eigaku Shimpo, a magazine for young people studying English. This venture was initiated by Tsuda Umeko and her staff, who had close ties to Nitobe. Sakurai Oson, the editor, appended notes in Japanese to help the novice overcome difficult passages. Sakurai also made the first translation of Bushido into Japanese in 1908.
Nitobe's Japanese translation of Bushido apparently caught the attention of prominent people, including Inoue Tetsujiro, Professor of Ethics at Tokyo Imperial University, who was perturbed that an amateur such as Nitobe would write on the subject. Uemura Masahisa, too, the well-known Christian leader, criticized the book and its attempt to "Christianize" the moral values of the samurai. Some foreigners who wrote about Japan, most notably the Englishman Basil Hall Chamberlain, in his Things Japanese, expressed distaste for Bushido. Chamberlain refers to Nitobe disparagingly as a "nationalistic professor." But despite the criticism, the book sold well....
出版社からのコメント
The Sword, The Soul of the Samurai
[the entire chapter, minus one footnote and the original italics]
Bushido made the sword its emblem of power and prowess. When Mahomet proclaimed that "the sword is the key of Heaven and of Hell," he only echoed a Japanese sentiment. Very early the samurai boy learned to wield it. It was a momentous occasion for him when at the age of five he was apparelled in the paraphernalia of samurai costumes placed upon a go-board[1] and initiated into the rights of the military professions by having thrust into his girdle a real sword instead of the toy dirk with which he had been playing. After this first ceremony of adoptio per arma, he was no more to be seen outside his father's gates without this badge of his status, even though it was usually substituted for everyday wear by a gilded wooden dirk. Not many years pass before he wears constantly the genuine steel, though blunt, and then the sham arms are thrown aside and with enjoyment keener than his newly acquired blades, he marches out to try their edge on wood and stone. When he reaches man's estate, at the age of fifteen, being given independence of action, he can now pride himself upon the possession of arms sharp enough for any work. The very possession of the dangerous instrument imparts to him a feeling and an air of self-respect and responsibility. "He beareth not the sword in vain. What he carries in his belt is a symbol of what he carries in his mind and heart, -- loyalty and honour. The two swords, the longer and the shorter, -- called respectively daito and shoto or katana and wakizashi, -- never leave his side. When at home, they grace the most conspicuous place in the study or parlour; by night they guard his pillow within easy reach of his hand. Constant companions, they are beloved, and proper names of endearment given them. Being venerated, they are well-nigh worshipped. The Father of History has recorded as a curious piece of information that the Scythians sacrificed to an iron scimitar. Many a temple and many a family in Japan hoards a sword as an object of adoration. Even the commonest dirk has due respect paid to it. Any insult to it is tantamount to personal affront. Woe to him who carelessly steps over a weapon lying on the floor!
So precious an object cannot long escape the notice and the skill of artists nor the vanity of its owner, especially in times of peace, when it is worn with no more use than a crosier by a bishop or a sceptre by a King. Sharkskin and finest silk for hilt, silver and gold for guard, lacquer of varied hues for scabbard, robbed the deadliest weapon of half its terror; but these appurtenances are playthings compared with the blade itself
The swordsmith was not a mere artisan but an inspired artist and his workshop a sanctuary. Daily he commenced his craft with prayer and purification, or, as the phrase was, "he committed his soul and spirit into the forging and tempering of the steel." Every swing of the sledge, every plunge into water, every fiction on the grindstone, was a religious act of no slight import. Was it the spirit of the master or of his tutelary god that cast a formidable spell over our sword? Perfect as a work of art, setting at defiance its Toledo and Damascus rivals, there was more than art could impart. Its cold blade, collecting on its surface the moment it is drawn the vapour of the atmosphere; its immaculate texture, flashing light of bluish hue; its matchless edge, upon which histories and possibilities hang; the curve of its back, uniting exquisite grace with utmost strength; -- all these thrill us with mixed feelings of power and beauty, of awe and terror. Harmless were its mission, if it only remained a thing of beauty and joy! But, ever within reach of the hand, it presented no small temptation for abuse. Too often did the blade flash forth from its peaceful sheath. The abuse sometimes went so far as to try the acquired steel on some harmless creature's neck.
The question that concerns us most is, however -- Did Bushido justify the promiscuous use of the weapon? The answer is unequivocally, no! As it laid great stress on its proper use, so did it denounce and abhor its misuse. A dastard or a braggart was he who brandished his weapon on undeserved occasions. A self-possessed man knows the right time to use it, and such times come but rarely. Let us listen to the late Count Katsu, who passed through one of the most turbulent times of our history, when assassinations, suicides, and other sanguinary practices were the order of the day. Endowed as he once was with almost dictatorial powers, chosen repeatedly as an object of assassination, he never tarnished his sword with blood. In relating some of his reminiscences to a friend he says, in a quaint, plebeian way peculiar to him: "I have a great dislike for killing people and so I haven't killed one single man. I have released those whose heads should have been chopped off. A friend said to me one day, 'You don't kill enough. Don't you eat pepper and egg-plants?' Well, some people are no better! But you see that fellow was slain himself My escape may be due to my dislike of killing. I had the hilt of my sword so tightly fastened to the scabbard that it was hard to draw the blade. I made up my mind that though they cut me, I would not cut. Yes, yes! some people are truly like fleas and mosquitoes and they bite -- but what does their biting amount to? It itches a little, that's all; it won't endanger life." These are the words of one whose Bushido training was tried in the fiery furnace of adversity and triumph. The popular apothegm -- "To be beaten is to conquer," meaning true conquest consists in not opposing a riotous foe; and "The best won victory is that obtained without shedding of blood," and others of similar import -- will show that after all the ultimate ideal of knighthood was peace.
It was a great pity that this high ideal was left exclusively to priests and moralists to preach, while the samurai went on practising and extolling martial traits. In this they went so far as to tinge the ideals of womanhood with Amazonian character. Here we may profitably devote a few paragraphs to the subject of the training and position of woman.
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5つ星のうち5.0未来に向けて
投稿者カスタマー2005年2月20日
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この本は原文と訳文の両方が書かれているのが、素晴らしいと思います。
もともと新渡戸先生はこの本を英文で書かれたので、やはり英文も載っている方が彼の真意により近づけるような気がします。
訳文も平易で読みやすいです。
「武士道」という概念は日本人なら誰でも耳にした事があるのに、誰もはっきりとこうだと説明できない部分があると思います。
それを新渡戸先生は英文で世界に向けて、様々な海外の古典や哲学、宗教・・などと武士道を比較対象しながら、武士道とは如何なるものなのかを本当に事細かく説明しています。
その博学さはとても膨大なもので、びっくりします。
彼は武士道を全て礼賛している訳ではないですし、その長所、短所を述べ、未来の日本に向けて語っているようにも感じます。
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5つ星のうち5.0“生が死より恐ろしい場合に、あえて生きることこそ、真の勇気である”
投稿者荒野の狼ベスト500レビュアー2008年8月6日
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新渡戸稲造の武士道は英文で書かれたものですが、この本では、左側に須知徳平の日本語訳、右側に原文が見開きになっており、比較が容易です。英語は文語が使われているため辞書なしでは読めません。日本語訳は著者が出典を触れていないものも訳注を加えた上で、和歌なら日本語の原文をそのまま載せるなどしており、丁寧な訳です。著者は、武士道は深遠な哲学に欠ける(よりどころとなる経典がない)と繰り返し述べられていますが、孟子・孔子・大学・中庸からの引用がもっとも多く、義・礼の思想をはじめとして、儒教の高い基盤があっての武士道であることがわかります。シェイクスピア、ギリシャ神話、聖書、エマーソン、ニーチェらと対照して、武士道がこれらのいずれにも劣らないレベルにあることが随所に書かれています(キリスト教徒の武士道と一部で言われているのはあたらないと思われます)。しかし、単なる儒教思想の拝借ではなく、それを超えた人の誇りが書かれており、特に、以下の金言は現代人に生きる勇気を与えてくれるものである。“真の武士にとっては、死に急ぎをしたり、死におもねたりすることは、卑怯なことだとされていた”“生が死より恐ろしい場合に、あえて生きることこそ、真の勇気である”“ひとたび心の中で死んだ者には、真田の槍も、為朝の矢も通らないものである。” 贅沢を言えば、文章によっては、さらに詳細な注解があれば理解の助けになると思われます。たとえば、この本では新渡戸は”孟子”の一章の中の一文だけを引用して読者に理解を求めている箇所が随所にあります。せめて、それが”孟子”のどの部分からの引用であるかが注に書かれていれば、さらに深い理解を求める読者には有用な情報であると思われます。
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5つ星のうち4.0読者しだい
投稿者sukurabu2007年3月10日
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国外に生活基盤があるので、非日本人に大和魂や武士道について説明を求められることがよくある。中にはすでに英語で書かれた原著を読んでいて、突っ込んだ質問をする人々もいる。最近特に印象に残った質問は、「日本の侍がどんな倫理感をもってきたか、それが相当高潔なもので、どんなに強く彼等を支えてきたか、ということは分かるが、現在、自分の周りにいる日本人も同じような倫理感を引き継いでいるのか、とてもそうは思えない」というものであった。この著作は1世紀以上前に著わされたもので、その当時と現在では社会情勢にも、読む側の状況にも格段の開きがある。日本語訳されているとは言え、現代の人々にはなじみの薄い記述や、冗長にすぎると思われかねない説明部分もある。しかし、日本がその歴史の中で民族の中に脈々と受け継がれて行くべきものとして確かに培い慈しんで来た、目に見えない価値観、心のよりどころとも言うべき精神は、しっかりと述べられている。日本人でありながら、今さらのように気付かされることも多い。難しいとして表面的に読み、いつしか忘れ去ってしまうか、あるいはその奥に流れる、熱く深いメッセージを感じ取って自分の魂を共鳴させるか、それは読者しだいである。
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5つ星のうち5.0「日本の星」
投稿者アマゾン万次郎2004年3月11日
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最近巷で異文化間コミュニケーション学がもてはやされているが、この著書にその原点あり、と感じた。当時の西洋人にとって、謎だらけの日本を西洋文学や宗教に喩えながら説明した本書は、衝撃的であったに違いない。少々強引に正当化し過ぎている、という感想が聞かれるが、かつて日本にこれほどまで西洋文化と日本文化に精通した人が存在したでしょうか。「ジュネーブの星」と謳われた新渡戸博士は、永遠に「日本の星」として輝き続けることでしょう。雑談だが、5千円札の肖像画が樋口一葉のそれに変わってしまうのも少々寂しい気がする。今こそ、日本外交の手腕が問われている時期ではないだろうか。桜が開花する季節に再度、冒頭部分に目を通し、日本人論に没頭してはいかが?
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武士道と言うと、単にストイックなものを意味するようだけれども、少し違う。言葉にするのは難しい。
簡単に言えば、武士は
・仏教の影響を受けていたから、死を前にしても最後は静かに開き直れた。
・神道の影響を受けていたから、主君や祖先に対する忠節が基本にあった。
・儒教の影響をうけていたから、礼節・品性(仁・義・礼・信・智)を重んじた。
・そして命の価値が低い時代だったからこそ、少々濫用&エスカレートした。
圧巻だったのは、切腹を描写した別の書籍からの引用。 ※2つあるが、ここでは1つ。
3兄弟が切腹する事になった(家康を殺そうとしたが、その勇気に情けが向けられ一族切腹)
一番下の弟は8歳だった。弟は作法が分からないから、兄2人が手本を見せる。脇差を腹に刺しながら、
「弟これを見よ。会得せしか?あまりに深く掻くな、仰向けに倒れるぞ。うつ伏して膝を崩すな」
※ 仰向けに倒れる事、また膝を崩す事は美学に反するのです。
もう1人の兄も
「目を剋と開けや(中略)力たわむとも、さらに勇気を出して引き回せや」と説明しながら果てる。
兄二人を見届け、8歳の弟も兄二人にならって果てる。
※言葉になりません。事例から感じるものですね。
この本、「武士道はその表微たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」から始まり
最後は、武士道は100年後には消えるかもしれない。でも雰囲気というか片鱗は日本に残るだろうという締めくくり方をしています。
そう、言語化しにくくても、片鱗は私たちの中にあるのでしょう。
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5つ星のうち1.0和訳のレベルが低い
投稿者カスタマー2004年7月27日
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和訳と原文、両方楽しめると思い購入したが、和訳のレベルが低く、誤訳が多すぎて日本語の意味が通っていない。ちゃんとした訳文の本と原書と2冊買った方がよいと思う。
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5つ星のうち5.0波多野氏のはしがきのレベルの低さに驚愕
投稿者研究者2008年4月15日
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いわずと知れた新渡戸稲造の歴史的名著。原文である英文も格調高く日本語訳も悪くない。ただ、元国連大使の波多野敬雄氏によるはしがきには驚愕を禁じ得ない。この人は果たして本当に武士道を読んだのかと思えるほどの読解力の低さ。また文章の根底には教養の低さも随所に垣間見える。こんな人が日本の国連大使をしていたのかとがっかりした。
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5つ星のうち4.0"Bushido"との出遭い
投稿者学徒の声2013年4月28日
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"Bushido"を始めて手に取ったのは神戸の図書館であった。流麗かつ格調高い文体に目が留まったのである。暫しの間、受験勉強そっちのけで読み耽った。著者は、Inazo Nitobeとある。しかし翻訳者の名が何処を捜しても見当たらない。余程Inazo Nitobeに心酔している人が卑下して自分の名を秘して翻訳したのだろうと想った。それから数年して原文は新渡戸稲造自身が英文で執筆している事がわかった。クラーク博士の札幌農学校の凄さに驚嘆した。また後に奥様が米国人である事を知り、内助の功を悟った。当時の日本男児としては、ジョン・スチュワート・ミルの『自由論』のように自分の奥方の内助の功を序文で語る事は憚られたのであろう。新渡戸の英文は19世紀Victoria朝時代の格調高き文体である。日本語翻訳者にも相当の教養が要求され得る。今風の平べったい文体では駄目である。この対訳本は、それなりに成功している様にも思われる。
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5つ星のうち4.0もともとは英語の本
投稿者後生畏るべし2010年2月13日
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武士道は、文庫本で全編音読で読みました。武士の心得を得た感じですが、感動的にはあまり感じませんでした。「菊と刀」の方がより、深い感動はありました。武士については、当然古武術ブームでの出会いであり、作法については、この本が原点なのかもしれません。
新渡戸稲造とは何者か?ということで、5,000円札になった人にも関わらず、謎の人でした。北海道大学に入学したかったのですが、北大の代表人物として内村鑑三等とともに名前があがってくる人ででしたが、武士道の作者であることが後でわかり、当時としてはちょっとした感動がありました。
1980年代にははっきり言えば埋もれていた本であり、何かのきっかけで価値が再認識されたように思います。日本の文化とは何かを探るということでその一助にはなると思いますが、宮本武蔵の「五輪書」のような精神論、具体策を論じているのではなく、日本人の文化は武士道からきているというための説明であり、欧米人にとってのキリスト教のようなものだということですが、すべての日本人が武士ではないので、武士出身である、新渡戸氏の一見解として解釈すべきかもしれません。
この本では英語と日本語訳がページで別れているため、非常に分かりにくい英語(単語が現代となじんでいない、または、ネイティブイングリッシュであるのか)なかなか難儀したものでした。(全部網羅しているのかは少し疑問ですが…)
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5つ星のうち5.0見栄を張って「対訳」を買ってしまいました
投稿者アンクルおさむ2003年9月18日
形式: ペーパーバック
タイトルのごとく見栄を張って「対訳」を買ってしまいましたが、私の読解力では格調高い英文など理解できようはずもありません。
したがって訳文しか読んでいませんが読み終えて久しぶりに感動しました。
久しぶりに本物の本を読んだという充実感がありました。
日本人でありながら日本人を知らない私自身を、あらためて見つめ直す素晴らしい機会を与えてくれました。
元来、私も含め日本人は「舶来」に弱いところがあるようですが、こんな大人物も居たのですね。
日本人を見直してしまいました。
まだ一度しか読んでいません。
これから何度も読み返して私が日本人であることを再認識したいと思っています。
最後に見栄を張って一言。
いつかは英文を読みこなしてやるぞ!
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Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 新渡戸稲造論集 (岩波文庫)
Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 新渡戸稲造論集 (岩波文庫)
投稿者Bibliothekar2007年6月2日
札幌農学校、東大、ジョンズ・ホプキンス、ドイツ留学で学位取得。フィラデルフィア出身のメリー・エルキントンと結婚。東大・京大の教授を務め、国際連盟事務局次長などを歴任した新渡戸は和魂(漢文の素養も含む)洋才の学識に裏付けられたグローバルな見識の持主だった。ジョンズ・ホプキンス時代に後に大統領になるウッドロー・ウィルソンと親友関係であり、初代学長ギルマンからも知遇を得ている。
新渡戸の教育観を読んでいると、19世紀のアメリカがドイツの高等教育から摂取した大学院教育の中でもアメリカ流の<自由>な様式を好んでいたことが判る。日本はドイツの初等中等教育制度を入れて関係で、詰め込み主義で生徒が考える自由やゆとりがないことを批判的に見るなど、人間本来に与えられた自由を活かし、民主主義を醸成するに重きをおいた見方は、最初の留学地ボルティモアのジョンズ・ホプキンスで身につけたものであろう。
また当時の国際的な欧米諸国の歴史や文学思想にも深く通暁し、ゲーテのファウストは20回以上読んだという碩学である。現代に生きていても世界に通じる見識の持主で、単に「武士道」の著者だけではない。その全体像を把握するには絶好の著作である。新渡戸の全貌を知るには全集を読まざるをえないと考えていた人には格好の論文集。
中曽根政権時にジョンズ・ホプキンス大学は日本政府から基金の提供を受ける、受取に来た学長以下関係者が岩手の墓前に詣でて謝意を伝えた。同窓生が何時母校に報いてくるか全く予知できない。教育の偉大さである。ジョンズ・ホプキンス大学史には新渡戸の5千円札写真とこの逸話が記されている。生涯の大半を教育者として生きた著者に相応しいエピソードで、その精神を自ら生前に書き残したのが本書である。彼の思想は未だに活きている、教育改革関係者には必読と言いたい。
昨日の日経夕刊のコラムによると本年2012年は新渡戸さん生誕150年の由、これは幸いなる哉。
新渡戸の教育観を読んでいると、19世紀のアメリカがドイツの高等教育から摂取した大学院教育の中でもアメリカ流の<自由>な様式を好んでいたことが判る。日本はドイツの初等中等教育制度を入れて関係で、詰め込み主義で生徒が考える自由やゆとりがないことを批判的に見るなど、人間本来に与えられた自由を活かし、民主主義を醸成するに重きをおいた見方は、最初の留学地ボルティモアのジョンズ・ホプキンスで身につけたものであろう。
また当時の国際的な欧米諸国の歴史や文学思想にも深く通暁し、ゲーテのファウストは20回以上読んだという碩学である。現代に生きていても世界に通じる見識の持主で、単に「武士道」の著者だけではない。その全体像を把握するには絶好の著作である。新渡戸の全貌を知るには全集を読まざるをえないと考えていた人には格好の論文集。
中曽根政権時にジョンズ・ホプキンス大学は日本政府から基金の提供を受ける、受取に来た学長以下関係者が岩手の墓前に詣でて謝意を伝えた。同窓生が何時母校に報いてくるか全く予知できない。教育の偉大さである。ジョンズ・ホプキンス大学史には新渡戸の5千円札写真とこの逸話が記されている。生涯の大半を教育者として生きた著者に相応しいエピソードで、その精神を自ら生前に書き残したのが本書である。彼の思想は未だに活きている、教育改革関係者には必読と言いたい。
昨日の日経夕刊のコラムによると本年2012年は新渡戸さん生誕150年の由、これは幸いなる哉。
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この本は、新渡戸稲造の思想を知ることのできるような小論を、それまで全集に未収録だったものも含めまとめたものである。教育論、人生論、デモクラシー論、国際関係論と分かれていて、それぞれ小論が収録されている。
新渡戸稲造は教育者として有名だが、彼の述べる教育論は今日においても傾注すべきことがらが多い。日本人は外国の学問を学ぶ際、文字を頭に入れるだけで、その精神を理解しようとしない、そのくせ大業な書物を読みたがると彼は言う。
リードとスタディは別である。日本人は本を読んでばかりいるが、ただのリーディングは眠っているのと同じである。スタディとは人の本を読むに当たっても、いちいち正しいか、間違っているのか、自分で判断を下していくことである。
誰がこういったとか、ああいったとか言っているうちはまだまだで、自分自身の確信を持てるようになるのが、真の教育の成果だ。
学校とは技術・芸能ではなく理想を養うところであり、社会に出たら、事に当たって、その理想を思い出し考えることが必要だと説く。
教育の目的のひとつとして人格を養うというのがある。何事についても何かを知っている、"something of everthing"、というのが大切だ。つまるところ、教育とは人間の製造である。日本においては、人の判断が金や地位で定まってしまう。そうではなく、人格そのものが判断のもととなるべきである。
新渡戸稲造は国連の事務次長まで勤めた国際派である。そのためもあって、日本人ばなれしたコモンセンスと、バランス感覚を持っている。しかし日本では「武士道」を書いた人、5千円札の肖像になった人ぐらいの評価しかうけてない。
だが、「太平洋の架け橋になる」と豪語したまでの本当の国際派が今ほど待たれる時代はないと思う。新渡戸稲造を見直し、彼に続く国際派がどしどし輩出していって欲しいものである。
新渡戸稲造は教育者として有名だが、彼の述べる教育論は今日においても傾注すべきことがらが多い。日本人は外国の学問を学ぶ際、文字を頭に入れるだけで、その精神を理解しようとしない、そのくせ大業な書物を読みたがると彼は言う。
リードとスタディは別である。日本人は本を読んでばかりいるが、ただのリーディングは眠っているのと同じである。スタディとは人の本を読むに当たっても、いちいち正しいか、間違っているのか、自分で判断を下していくことである。
誰がこういったとか、ああいったとか言っているうちはまだまだで、自分自身の確信を持てるようになるのが、真の教育の成果だ。
学校とは技術・芸能ではなく理想を養うところであり、社会に出たら、事に当たって、その理想を思い出し考えることが必要だと説く。
教育の目的のひとつとして人格を養うというのがある。何事についても何かを知っている、"something of everthing"、というのが大切だ。つまるところ、教育とは人間の製造である。日本においては、人の判断が金や地位で定まってしまう。そうではなく、人格そのものが判断のもととなるべきである。
新渡戸稲造は国連の事務次長まで勤めた国際派である。そのためもあって、日本人ばなれしたコモンセンスと、バランス感覚を持っている。しかし日本では「武士道」を書いた人、5千円札の肖像になった人ぐらいの評価しかうけてない。
だが、「太平洋の架け橋になる」と豪語したまでの本当の国際派が今ほど待たれる時代はないと思う。新渡戸稲造を見直し、彼に続く国際派がどしどし輩出していって欲しいものである。
多くの人は、新渡戸稲造というと、名著「武士道」の著者というよりも「5千円札の人物」というイメージが強いのではないだろうか。何故、この人物が、数ある日本近代の偉人の中で、1万円の福沢諭吉(1834-1901)と並んで5千円札の顔として選ばれたのか、この本をしっかりと読んだ瞬間に理解できるはずだ。
この著は、現代の日本人に、狭い視野を捨て、世界史的な視野から日本を見つめ直すことを教えてくれるすばらしい啓蒙の書だ。
私は、この本を読みながら、もしも新渡戸氏のような真の国際人が、あと何人か、政府内部に存在したならば、もしかすると、あの日米開戦は回避できたかもしれない。と、本気で思ってしまった。少しも古さを感じさせない名著だ。
この著は、現代の日本人に、狭い視野を捨て、世界史的な視野から日本を見つめ直すことを教えてくれるすばらしい啓蒙の書だ。
私は、この本を読みながら、もしも新渡戸氏のような真の国際人が、あと何人か、政府内部に存在したならば、もしかすると、あの日米開戦は回避できたかもしれない。と、本気で思ってしまった。少しも古さを感じさせない名著だ。
投稿者早太郎2009年3月3日
とにかく、感動した。何遍も読み返したい本である。洞察の深さは言うまでもなく、ユーモアがあり、歯に衣着せぬ表現であり、ガツンと頭を叩かれる感じがした。読んでいて、学生の前で講演する新渡戸氏が何度も映像として現れるようであった。現代の政治家に是非読んでもらいたいが、少なくとも人を指導する立場にある人は必読である。比較しては失礼だとは思うが、昨今、”...の品格”本が数百万部売れるぐらいなら、こちらは、倍、いや、10倍くらい売れてもおかしくない内容である。(悲しいかな、多分難しいと思うが) 時代背景もあるが、国を愛し、憂い、その国のもととなる人への教育に対する新渡戸氏の情熱と息吹を感じる素晴らしい本である。
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