特設サイト「井筒俊彦入門」 | 慶應義塾大学出版会
井筒俊彦入門 とは
当コーナーは、哲学者、言語学者、イスラーム学者として知られる「井筒俊彦」の入門ページです。
若松英輔氏による多角的な視点から井筒俊彦に関するエッセイをお届けします。
若松英輔氏について
現在、井筒俊彦を中心に「鍵概念」「学問的関心」「交友・人物」「著作関連」「伝記的記述」という項目別にエッセイをご用意しております。ぜひご覧ください。
■ 鍵概念
井筒俊彦とは誰か? 1914(大正3)年-1993(平成5)年東京都生まれ。1931(昭和6)年、慶應義塾大学経済学部予科に入学。のち、西脇順三郎が教鞭をとる英文科へ転進。1937(昭和12)年、同大学文学部英文科助手、1950(昭和25)年、同大学文学部助教授を経て・・・
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言葉とコトバ 井筒俊彦が「コトバ」という術語を用いるのは、『意識と本質――精神的東洋を索めて』(1983年)以後である。この1語こそ、井筒俊彦の哲学を読み解く、最も重要な鍵概念となる・・・
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■ 学問的関心
ギリシア哲学 かつて、井筒俊彦は、「アラビア哲学とは回教諸民族が自己の思想活動より創り出せる一の新しい思想体系、新しい哲学思潮で・・・
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詩について 池田彌三郎は、銀座4丁目、和光の近くにあった天麩羅屋の老舗、「天金」の息子だった。彼は慶應義塾大学文学部に在籍中・・・
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新古今和歌集 「新古今が好きで古今集、新古今集の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえある」。司馬遼太郎との対談「二十世紀末の闇と光」での井筒俊彦の発言である・・・
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神秘主義と神秘道 井筒俊彦の文章は決して難解ではない。論旨は明快である。私たちが踏み留まることを強いられるのは、文脈ではなく、彼独自の術語の前なのである。術語の表記が難しいのではない・・・
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■ 交友・人物
ルイ・マシニョン 1883(明治25)年~1962(昭和37)年。フランス、ヴァル=ド=マルヌに生まれる。イスラーム神秘主義、ことに神秘家アル・ハッラージュ研究の先駆的泰斗。若き日に父親の知人だった作家J・K・ユイスマンス、沙漠の修道士シャルル・ド・フーコーに出会い・・・
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越知保夫 1911(明治44年)~1961(昭和36)年。詩人、批評家。関西から越境して、暁星小学校に学んだとき、カトリックの洗礼をうけ、高校時代には吉満義彦の薫陶を受けた・・・
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吉満義彦 1904(明治37)年、鹿児島県徳之島生まれ。戦前を代表する哲学者の一人であり、日本における最初のキリスト教哲学者。今も彼を凌駕することは容易ではない・・・
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司馬遼太郎 1923(大正12)年-1997(平成8)年大阪府大阪市生まれ。大阪外語大学蒙古語科を卒業。第二次世界大戦(太平洋戦争)には予備士官として満州に従軍。復員後は産経新聞の記者となる・・・
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諸井慶徳 1914(大正3)~1961(昭和36)年。宗教学者、宗教哲学者。天理教神学の歴史は諸井慶徳の『天理教神学序章』『天理教教義学試論』に始まるといっていい・・・
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上田光雄 書肆光の書房の経営者。雑誌「科学と哲学」を刊行。光の書房とは別に、「哲学道教団・神秘道附属哲学修道院 ロゴス自由大学」という事業体の代表でもあった・・・
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西脇順三郎 1894(明治27)年-1982(昭和57)年。新潟県小千谷市生まれ。1912(明治44)年、慶應義塾大学理財科予科に入学。井筒俊彦と同じく語学に秀で・・・
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二人のタタール人 井筒俊彦に、アラビア語の師は二人いる。一人はアブデュルレシト・イブラヒム、もう一人は、ムーサ・ビギエフ、ともにトルコ語を母国語とする韃靼(タタール)人だった・・・
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■ 著作関連
『イスラーム哲学の原像』 1980(昭和55)年、岩波新書として刊行された。イスラーム神秘主義、なかでもイブン・アラビーの存在一性論の解明を主題とした講演録。およそ20年の海外生活を終え、井筒俊彦がイランから帰国したのは・・・
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『ロシア的人間』 1953年弘文堂から刊行。『アラビア思想史』『神秘哲学』につづく井筒俊彦第三の単著。「永遠のロシア」からはじまるロシア精神論4章と、プーシキンからチェホフまで10人の作家論からなる・・・
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愛のロゴスとパトス 1957(昭和32)年に刊行された井筒俊彦訳(三辺文子との共訳)の思想書。原題はThe Mind and Heart of Love、1946(昭和21)年に出版された。原著者はマルティン・ダーシー。二十世紀イギリスを代表する思想家・・・
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意識と本質 1983(昭和55)年に刊行された井筒俊彦の代表的著作である。それは英文著作を含めても変わらないと思われる。井筒俊彦の半生を貫く命題群の数々は、この一冊に凝縮されている・・・
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神秘哲学 1949(昭和24)年、光の書房から刊行された井筒俊彦2冊目の著作。慶應義塾大学にて戦前から行われていた講義「ギリシア神秘思想史」をもとに書き下ろされた。後年、著者自ら「思想的原点」と述懐した・・・
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読むと書く 2009(平成21)年、慶應義塾大学出版会から刊行。『井筒俊彦著作集』未収の詩、エッセイ、論文、推薦文、追悼文など70編を収録・・・
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■ 伝記的記述
3つの人生 在イラン時代の教え子でもあったナスロッラー・プールジャヴァーディーを相手に、晩年の井筒俊彦が、自身の公生涯を語った記録が残っている。ナスロッラーがイスラーム研究発展の経緯をたずねたときだった・・・
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エラノス エラノス、あるいはエラノス会議、エラノス学会ともいう。資産家の娘オルガ=フレーベ・カプテインの着想にルドルフ・オットー、カール・グスタフ・ユングが共鳴してはじめられた・・・
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経済学部と文学部 父親の勧めがあって、1931(昭和6)年、井筒俊彦は慶應義塾大学経済学部予科に入学する。経済学部での学校初日、隣接した座席にいたのが、池田彌三郎と加藤守雄だった・・・
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青山学院 中学時代、井筒俊彦は青山学院中等部に通った。入口には大きなジョン・ウェスレーの銅像がある。この学校はキリスト教プロテスタント・メソジスト派教育理念に基づく・・・
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井筒俊彦とは・・・
1914(大正3)年、東京都生まれ。1931(昭和6)年、慶應義塾大学経済学部予科に入学。のち、西脇順三郎が教鞭をとる英文科へ転進。1937(昭和12)年、慶應義塾大学文学部を卒業し、同大学文学部英文科の助手となる。1950(昭和25)年、同大学文学部助教授を経て、1954(昭和29)年、同文学部大学教授に就任。ギリシャ語、ギリシャ哲学、ロシア文学、比較言語学などの授業を担当した。1969(昭和44)年、カナダのマッギル大学の教授、1975(昭和50)年、イラン王立哲学研究所教授を歴任した。1979(昭和54)年、イラン革命のためテヘランを去り、その後は研究の場を日本に移し、著作や論文の執筆、講演などに勤しんだ。
1967(昭和42)年からは、鈴木大拙に次ぐ2人目の日本人として、スイスで開催される国際会議、エラノス会議へ参加し、以後12回にわたって東洋哲学に関する講演を行った。
主な著作に、『コーラン』(翻訳、上中下、岩波文庫、1957-58[昭和32-33]年)、『イスラーム文化』(岩波書店、1981[昭和56]年)、『意識と本質』(岩波書店、1983[昭和58]年)など多数。『井筒俊彦著作集』(全11巻別巻1、中央公論社、1991-93[平成3-5]年)がある。また、1956(昭和31)年に刊行されたLanguage and Magicを始めとして英文による著作を多数執筆。Sufism and Taoism: A Comparative Study of Key Philosophical Concepts、Ethico-Religious Concepts in the Qur'an、Toward a Philosophy of Zen Buddhismなど一連の英文著作で世界的な評価を受けた。1982(昭和57)年、日本学士院会員。同年、毎日出版文化賞受賞、朝日賞受賞。
1993(平成5)年没。没後、The Izutsu Library Series on Oriental Philosophy(井筒ライブラリー・東洋哲学)として東洋の思想を欧米の言語によって紹介するシリーズ(欧文)が、慶應義塾大学出版会から 2001(平成13)年より刊行されている。
若松英輔
1968年新潟生まれ。慶應義塾大学文学部仏文学科卒。評論家。「越知保夫とその時代」で第14回三田文学新人賞評論部門当選。その他の作品に「小林秀雄と井筒俊彦」「須賀敦子の足跡」などがある。2010年より『三田文学』に「吉満義彦」を連載中。『読むと書く――井筒俊彦エッセイ集』(慶應義塾大学出版会、2009年)『小林秀雄――越知保夫全作品』(慶應義塾大学出版会、2010年)を編集。2011年処女著作となる『井筒俊彦――叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会)を刊行。