2020/06/14

イムジン河 - Wikipedia



イムジン河 - Wikipedia



イムジン河
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ナビゲーションに移動検索に移動

この項目では、楽曲について説明しています。河川については「臨津江」をご覧ください。



この曲の朝鮮語による歌詞は,朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を本国とする著作物であり,日本国著作権法上の保護対象ではありませんが(最判平成23年12月8日・民集65巻9号3275頁),米国著作権法上の保護対象です(権利回復日)。
ウィキペディア日本語版は発信地(サーバの所在地)である米国著作権法及び主な受信地である日本国著作権法の双方に準拠すべきとされており(ガイドブック),従ってこの曲の歌詞をウィキペディア日本語版に掲載することはできません。


「イムジン河」(いむじんがわ、原題: 臨津江〈: 림진강 / : 임진강〉)は、朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」)の楽曲。


目次
1概要
2「幻の3番」
3ザ・フォーク・クルセダーズ版「イムジン河」
3.1解説
3.2発売自粛の理由
3.3その後
3.4「悲しくてやりきれない」との関係
3.5収録曲
3.5.11968年盤
3.5.22002年盤

4ザ・フォーシュリーク版「リムジン江」
4.1解説
4.2「イムジン」と「リムジン」
4.3収録曲
5川西杏版「イムジン河」
5.1解説
5.2収録曲
6ミューテーション・ファクトリー版「イムジン河」
6.1解説
6.2収録曲
6.2.11968年盤
6.3クレジット
7その他の「イムジン河」
7.1レコード・CD
7.2テレビ放送
8アンサーソング
8.1解説
8.2収録曲
9評価
10脚注
11参考文献
12関連項目
13外部リンク
概要[編集]

作詞は朴世永 (박세영)、作曲は高宗漢 (고종한、1930年9月9日 - 2002年3月[1])。1957年8月、北朝鮮の朝鮮音楽家同盟機関誌『朝鮮音楽』8月号付録の楽譜集『8月の歌』(8월의 노래)にて発表された[2]

1958年9月の「朝鮮民主主義人民共和国創建10周年記念放送夜会」にて、ソプラノ歌手の柳銀京により初演された[3][4]。なお1979年音楽プロデューサー李喆雨が作曲者の高宗漢とコンタクトを取り初演の音源を探すよう依頼したが、発見できなかった[5]

その後は長らく北朝鮮ではステージで披露されることもなかった[6]1978年金洪才管弦楽用に編曲したものが東京で開催された「朝鮮管弦楽集」で初演され[7]1987年には京都市交響楽団の訪朝公演で披露された[6]

1981年には李喆雨の「初演の演奏を再現したい」という要望に応え高宗漢の協力で朝鮮放送管弦楽団の歌手リ・ソンヒがこの曲を吹き込んだ[8]

1996年には韓国ソウル芸術の殿堂で開催したリサイタルで田月仙が歌唱。北朝鮮の歌を韓国で歌うということで、長い審議の末に許可が出たという[9]。現在では韓国でも普通に歌われており、中でもフォーク歌手・楊姫銀(ヤン・ヒウン)が原曲にほぼ近い詞・曲で歌ったものが有名である[10]

2001年4月11日キム・ヨンジャが訪朝公演で金正日の前で南北朝鮮の曲や日本統治時代の朝鮮の流行歌など31曲を歌った中の一曲であり、「釜山港へ帰れ」「離別 (イビョル)」と共に朝鮮語と日本語訳詞を交えて歌われた[11]

北朝鮮の人民俳優でソプラノ歌手の趙清美CDに収録している[12]

平壌放送管弦楽団合唱団による合唱バージョンや北朝鮮の作曲家・李旱雨によるピアノ独奏編曲「リムジン江をテーマにしたピアノ幻想曲」、尹伊桑四重奏団による「ピアノ四重奏曲・リムジン江」なども存在する[13]

日本への紹介は1960年朝鮮総連傘下の出版社・朝鮮青年社発行のポケット歌集『新しい歌集 第3集』(새노래집 제3집)にこの曲が収録されたことに始まる[14]1968年11月には芥川也寸志監修の歌集『はたらくものの歌集』(日本音楽協議会)に、1969年には『日本青年歌集』に収録され、1970年代には朝鮮学校の音楽教科書に掲載された[15]

日本語の歌詞がついたものとしては、次のものがよく知られている。
ザ・フォーク・クルセダーズによって歌われた松山猛による日本語詞 (1968年
ザ・フォーシュリークによって歌われた李錦玉による日本語詞(1968年)
新井英一によって歌われた自身による日本語詞 (1997年
都はるみによってコンサートで歌われた日本語詞 (2000年。DVD『ロングロングコンサート 第一章 20世紀公演』収録)
キム・ヨンジャによって歌われた吉岡治による日本語詞 (2000年)
「幻の3番」[編集]

1957年に発表されたオリジナルの楽譜に掲載された歌詞は2番までであるが[16]、実は3番の歌詞(朴世永の作詞による)が存在するという説がある。李喆雨は生前の高宗漢から3番の歌詞があるらしいと聞かされていたという。2002年、李が再訪朝し北朝鮮の当局者に3番の歌詞を探すよう依頼したが、見つからなかったという返答と共に代わりの歌詞を渡されたという[17]
ザ・フォーク・クルセダーズ版「イムジン河」[編集]
「イムジン河」
ザ・フォーク・クルセダーズシングル
初出アルバム『イムジン河』
B面 蛇に食われて死んでいく男の悲しい悲しい物語(1968年盤)
悲しくてやりきれない(2002年盤)
リリース 1968年2月21日(発売中止)
2002年3月21日
規格 7インチシングル盤(1968年盤)
12cmCDシングル(2002年盤)
録音 1968年2月1日[18]
ジャンル フォークソング
レーベル CAPITOL(1968年盤)
アゲント・コンシピオ(2002年盤)
作詞・作曲 作詞:朴世永松山猛(訳詞)
作曲:高宗漢
チャート最高順位

14位(オリコン、2002年盤)
ザ・フォーク・クルセダーズ シングル 年表

帰って来たヨッパライ
1967年) イムジン河
1968年
(発売中止) 悲しくてやりきれない
1968年



ザ・フォーク・クルセダーズ 年表

大蛇の唄
1970年) イムジン河
2002年フォークル「DAIKU」を歌う
2002年



テンプレートを表示

解説[編集]

日本語詞のついた「イムジン河」のうち、最もよく知られているのが1968年前後にザ・フォーク・クルセダーズが歌ったものである。臨津江 (リムジン江) で分断された朝鮮半島についての曲であり、主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、なぜ南の故郷へ帰れないのか、誰が祖国を分断したのかを鳥に問いかけ、故郷への想いを募らせる内容である。

もともとは、のちにフォーク・クルセダーズやサディスティック・ミカ・バンドの作詞を担当することになる松山猛が、京都での中学時代に、松山の中学との喧嘩に明け暮れていた京都朝鮮中高級学校の学生たちにサッカーの試合を申し込もうと朝鮮学校を訪れたとき、この曲を耳にしたことがきっかけだった。松山はトランペットの練習を九条大橋でよく行っており、同じ場所にサックスの練習に来ていた朝鮮学校の文光珠と親しくなり、メロディ歌詞を教わり、松山は彼から、歌の1番の歌詞と日本語訳が書かれたもの(彼の姉が書いてくれた)と、朝日辞典を渡された[19]

後年、松山はフォーク・クルセダーズ(当時はまだアマチュアで、厳密には「フォーク・クルセイダーズ」と名乗っていた)のメンバーと知り合いになり、加藤和彦に口頭でメロディを伝えた。それを加藤が採譜したものがこの曲であり、原曲の「臨津江」とは全く成り立ちが異なる。教わった1番だけでは歌うのに短すぎるため、松山は2番と3番の歌詞を付け加えた[20]。それまでコミカルな曲を持ち味としてきたフォーク・クルセダーズだが、初演では聴衆から大きな拍手が沸いたという。1966年のことだった。

デビュー曲で大ヒットとなった「帰って来たヨッパライ」に続く第二弾として1968年2月21日[21]に東芝音楽工業(後の東芝EMI→EMIミュージック・ジャパンユニバーサルミュージック/EMIレコーズ・ジャパンレーベル)から発売される予定だったのが、このアマチュア時代から歌い継いできた「イムジン河」だった。東芝の高嶋弘之ディレクターによれば、「帰って来たヨッパライ」でデビューするようフォークルを説得していた頃には既に「第二弾は『イムジン河』で行ける。『ヨッパライ』がこけても『イムジン河』がある」と考えていたという[22]。つまり、「ヨッパライ」は「イムジン河」の前座だったということになる。少なくとも、当初の東芝関係者の間には、そういう計算があった。ところが発売前に数回ラジオにかけた後、「帰って来たヨッパライ」200万枚発売記念パーティーの翌日であり発売予定日の前日の1968年2月20日[23]、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定(すでに13万枚が出荷され、うち3万枚が未回収に終わる[24])。結果的に放送自粛的な雰囲気が広がる。こうした風潮の中、京都放送のディレクター川村輝夫は自粛後もラジオでかけ続けた[25]

なお、ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」のB面曲として発売される予定であった「蛇に食われて死んでゆく男の悲しい悲しい物語」は、1970年に「大蛇の唄」としてシングル発売された。

1967年に発表した自主制作盤『ハレンチ』には、このシングル版とは別バージョンの「イムジン河」(松山の3番の歌詞がなく、代わりに朝鮮語の歌詞を含む)が収録されている。

原曲と1968年のザ・フォーク・クルセダーズ版ではメロディリズムが3か所違う[4]。その後もキム・ヨンジャやザ・フォーシュリークは原曲のメロディで歌い、都はるみや再結成後のザ・フォーク・クルセダーズは1968年のザ・フォーク・クルセダーズ版のメロディで歌っている[4]

1968年のザ・フォーク・クルセダーズ版で編曲を担当している「ありた・あきら」は、当時のクラウンレコード専属の編曲家小杉仁三)のペンネームである[26]

発売自粛の理由[編集]

この曲はもともと北朝鮮の曲で、松山やメンバーらの考えていたような「作詞・作曲者不明の朝鮮民謡[27]」ではなく、朴世永の作詞、高宗漢の作曲による楽曲であった。オリジナルの曲は『主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、1番では臨津江の流れに対し、なぜ南の故郷へ帰れないのかを嘆き、2番では臨津江の流れに対し、荒れ果てた ”” の地へ花の咲く ”” の様子を伝えてほしい』と、北が優れていることを誇示する内容である。松山が制作した2番の歌詞は、南北の分断に対する疑問を訴える歌詞に変わっており、まったく異なる物となっている。さらに松山の歌詞には、オリジナルにはない3番がある。(その後、4番の歌詞をきたやまおさむが作詞している)

発売中止になったのはレコード倫理審査会の国際親善事項に触れたとされることや[28]、通説としては朝鮮総連が内容が南側に偏っていると抗議したとされるが[29]、1968年2月19日、東芝音楽工業に対し朝鮮総連は、これが「『朝鮮民主主義人民共和国』の歌であること」と「作詞作曲者名を明記すること」を求めた。レコード会社は国交のない北朝鮮の正式名を出すことを躊躇し、結果として発売自粛となったようである[30]。当時の新聞記事には「朝鮮総連が謝罪広告を出すことと原詞に忠実に訳すことを求めた」という内容が散見されるが、朝鮮総連側や高嶋弘之ディレクターの記憶には該当する証言はない[31]

また、東芝音楽工業の親会社の東芝が韓国内での家電製品のシェア拡大に悪影響を及ぼすことを恐れたため圧力をかけたという説[32]、国内での反政府運動を助長すると韓国政府からの抗議があった説、内閣情報調査室から上下黒の背広の人間が捜索に来たと証言する東芝関係者もいるが、森達也は内調関与説はいくら国際問題が関係していてもそんなことはありえないし上下黒の背広の出達だったとする証言も漫画チックであると否定している[29]

2002年の再発の際にも、原盤を制作したフジパシフィックミュージック(制作当時パシフィック音楽出版)社長の朝妻一郎(現会長)が原盤権を譲渡していた東芝EMIに発売を持ちかけたが了承せず、結局フジパシフィック音楽出版が原盤権を取り戻し、アゲント・コンシピオから発売にこぎ着けたという[33]


その後[編集]

1992年に、ソリッド・レコードから発売されたコンピレーション・アルバム『BEST OF SOLID VOL.1』に「イムジン河」が収録。1995年に同じくソリッド・レコードから、1967年に発表した自主制作盤『ハレンチ』に、発売中止となった「イムジン河」(スタジオ・ヴァージョン)を追加したアルバム『ハレンチ+1』が発売された。ただし、インディーズとしての発売だったこともあってか後述のシングル発売ほどは話題にはならなかった。

2001年には「日本語詞:松山猛、編曲:加藤和彦」として日本音楽著作権協会に登録された(北朝鮮は当時ベルヌ条約に加盟していなかったため、原曲の作詞者・朴世永と作曲者・高宗漢の著作権は2018年時点でも「PD」となっている)[34]

2002年3月21日、アゲント・コンシピオ(販売委託・ユニバーサルミュージック)より34年の歳月を経てシングル版が初めてシングルCDとして発売された。この日は加藤和彦の55回目の誕生日だった。2002年4月15日付のオリコンシングルチャートで最高14位を記録した。2002年版のシングルは累計10万枚以上を売り上げた[35]

日本国内における1970年前後の過敏な状態も、1990年代 - 2000年代前半頃には表面的には収まっており、ザ・フォーク・クルセダーズを扱った番組や、ラジオ局の開局記念番組などで「音楽史の一部」として放送されている[36]。かつて要注意歌謡曲指定制度が存在したが、森達也が取材した1990年代にイムジン河を番組内で使用したNHKのディレクターはそれが気になって調査するも放送禁止に指定された事実はなかったと判断して使用したが、音楽評論家は放送禁止歌として有名であり指定されていなかったことはありえないと否定して日本民間放送連盟の制度だがNHKが入っていないのは歩調がとれないため適用されるはずと話し[37]、制度が最後に改訂された1983年では指定されおらず、それ以前の指定状況は民放連側の記録がなく不明[38]。、

ただし、2000年代以降でも放送の自粛が完全に終わったとは言えない状況である。たとえば、「イムジン河」が劇中曲として使われた2005年公開の映画パッチギ!』のプロモーションで各放送局を廻った担当者は、どの局でも「イムジン河」と聞いただけで難色を示されたという[39]。また、この歌が昼間にラジオあるいはテレビから流れることは滅多にない。

2012年8月2日、 21:10〜 NHK-FM の全国ネット『ミュージックライン』にて森山愛子の「イムジン河」[40]が放送され、松山猛の日本語詞が一般音楽番組で一楽曲として扱われた。

2017年現在、JASRACデータベース上では渡辺音楽出版株式会社出版者として登録されている[41]
内国作品/出典:PO(出版者作品届)。作品コード:008-1325-7[34]。ザ・フォーク・クルセダーズによる1968年スタジオ録音音源のISRCは、JPK606850006[42][43]
「悲しくてやりきれない」との関係[編集]

なお、発売自粛となったこの曲の代わりにザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルとして発売された曲が「悲しくてやりきれない」であり、2002年に発売されたシングルCD「イムジン河」のカップリングにも収録されている。同曲は「イムジン河」のコードを反対からつなげて作ったという話も残っているが、音楽理論上から見ると機械的なコード操作では無理なので、逆回転から発想を得てイメージを膨らませた結果と言える。1998年10月26日放送のNHKスタジオパークからこんにちは』にて加藤は「某出版社(パシフィック音楽出版[44])の会長室に3時間限定で缶詰にされた。最初はいろいろとウイスキーだとかを物色していたが、残りわずかという時間になって、そろそろつくらにゃ、という気持ちで譜面に向かった。イムジン河のメロディを逆に辿っているうちに、新たなメロディがひらめいた、実質的には15分ほどでできた」と証言している。

収録曲[編集]
1968年盤[編集]
イムジン河
作詞:朴世永、訳詞:松山猛、作曲:高宗漢、編曲:ありた・あきら
蛇に食われて死んでゆく男の悲しい悲しい物語
作詞:北山修、作曲:加藤和彦
2002年盤[編集]
イムジン河
作詞:朴世永、訳詞:松山猛、作曲:高宗漢、編曲:ありた・あきら
悲しくてやりきれない
作詞:サトウハチロー、作曲:加藤和彦、編曲:ありた・あきら
ザ・フォーシュリーク版「リムジン江」[編集]
「リムジン江」
ザ・フォーシュリーク の シングル
B面 フンタリヨン(興打令)
リリース 1968年11月25日
規格 7インチシングル盤
ジャンル フォークソング
レーベル young pops
作詞・作曲 作詞:朴世永李錦玉(訳詞)
作曲:高宗漢
チャート最高順位

19位(オリコン
ザ・フォーシュリーク シングル 年表

リムジン江
1968年) 君よ!人生は/社会学入門
1969年
シュリークス



テンプレートを表示

解説[編集]

1968年11月25日には原曲に忠実なメロディリズムと朝鮮総連が指定した李錦玉による訳詞(実際には朝鮮総連の傘下団体である在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)の他のメンバーとの合議による[45])でザ・フォーシュリークが「リムジン江」というタイトルでレコードを発売。当時「手売りだけで10万枚」以上(李喆雨による)または「20〜30万枚」(神部和夫による)を売り上げた[46]。なお、これは日本民間放送連盟要注意歌謡曲指定を受けた[24][47](1977年11月30日当時はAランク指定(放送禁止)だったが、1978年9月5日時点[48]ではBランク指定(旋律のみ使用可能)に変更されている[49])。

シングルの発売元は企画:大阪労音、制作:ユニゾン音楽出版社、レーベル:ヤングポップス。7インチシングル盤規格品番はA面がOYP-1001、B面がOYP-1002。B面曲は朝鮮民謡「フンタリヨン(興打令)」。
「イムジン」と「リムジン」[編集]

語頭の違いは朝鮮語の南北間差異が関係する。現在の韓国においては、単語の冒頭のR音は、無音化(つまり母音のみ発音)するか、N音として発音される。一方、北朝鮮においては、ハングルの綴り通りにR音で発音される。要するに「イムジン(: 임진)」と「リムジン(: 림진)」とは「南」と「北」との方言の差異であって、同じ河川の呼称である。
収録曲[編集]
リムジン江(イムジン河)
作詞:朴世永、訳詞:李錦玉、作曲:高宗漢、編曲:由良一夫
フンタリヨン
朝鮮民謡、編曲:由良一夫
川西杏版「イムジン河」[編集]
「イムジン河」
川西杏 の シングル
B面 みれん
リリース 1983年6月
規格 7インチシングル盤
ジャンル フォークソング
レーベル ANレコード・川西音楽出版
作詞・作曲 作詞:西村良夫
採譜:川西杏


テンプレートを表示

解説[編集]

1969年4月には川西杏が千曲正一名義で、西村良夫による訳詞でシングル「みれん/イムジン河」として発売した。発売元はインディーズレーベルの千曲音楽出版。規格品番はTPR-1002。

千曲正一版は日本民間放送連盟の1969年8月21日の調査によって、加藤和彦版と共に「メロディー自体が韓国人にとって屈辱的なもの」であり、「(韓国人の)国民感情を考慮して」放送禁止とされた。但し要注意歌謡曲には指定されなかった[50]

1983年6月に、A面/B面を逆にして再発売された。発売元は川西の自費製作によるインディーズレーベルのANレコード・川西音楽出版。企画・制作・出版・著作権/烏山ハウジング。規格品番はAN-1001〜02。
収録曲[編集]
イムジン河
作詞:西村良夫、採譜:川西杏、編曲:今泉俊昭
TPR-1002では「作詞:朴世永、作曲:高宗漢、訳詞:李良夫、編曲:今泉俊昭」とクレジットされている。
みれん – あの日別れたあなたを想い –
作詞・作曲:川西杏、編曲:広瀬雅一
NHKあなたのメロディー』入選曲
TPR-1002では「作詞・作曲:千曲正一、編曲:広瀬雅一」とクレジットされている。
ミューテーション・ファクトリー版「イムジン河」[編集]
「イムジン河」
ミューテーション・ファクトリー の シングル
B面 リムジンガン
リリース 1969年7月
規格 7インチシングル盤
録音 1968年10月20日
日本毎日放送千里丘第1スタジオ
ジャンル フォークソング
レーベル URC
作詞・作曲 作詞:朴世永松山猛(訳詞)
作曲:高宗漢
プロデュース 秦政明


テンプレートを表示

解説[編集]

1969年2月には松山猛・平沼義男・芦田雅喜の3人によって結成されたフォークグループ、ミューテーション・ファクトリー(平沼・芦田はアマチュア時代のザ・フォーク・クルセダーズのメンバーであり、このグループはザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」発売中止を受け、松山の訳詞による「イムジン河」を残そうと急遽結成されたグループである)によって、北山修をディレクターに迎えて松山猛の訳詞・加藤和彦の編曲による「イムジン河」を吹き込み、アングラ・レコード・クラブから会員配布(通信販売)された[51]。1971年7月に市販用シングルが発売された(7インチシングル盤規格品番は配布版・市販1stプレスがURS-0001、市販再発版がURT-0057)。シングルB面は同曲の朝鮮語版(ジャケットでは「リムジンガン」と表記)。

1974年にはLP『関西フォークの歴史/第1集』に収録された。ミューテーション・ファクトリーの「イムジン河」は、オムニバスCD『URC シングルズ(1)』『関西フォークの歴史/第1集』(LPの復刻)で聴くことができる。
収録曲[編集]
1968年盤[編集]
イムジン河
原詞:朴世永、作詞:松山猛、作曲:高宗漢、編曲:加藤和彦
リムジンガン
作詞:朴世永、訳詞:李錦玉、作曲:高宗漢、編曲:西岡たかし
クレジット[編集]

ミューテーション・ファクトリー
松山猛
平沼義男
芦田雅喜サイドメン
西岡たかし/ギター・フレーテ
中川イサト/ギター
長野隆/ベース


ディレクター/北山修
ミキサー/松田宏
録音日/1968.10.20
スタジオ/毎日放送千里丘第1スタジオ
表紙デザイン/広野勝
プロデューサー/秦政明



その他の「イムジン河」[編集]
レコード・CD[編集]

韓国語による「イムジン江」は、1999年田月仙がアルバム「夜明けのうた/イムジン江」で歌われた。2番の歌詞の一部を変更している[52]

松山猛の訳詞による「イムジン河」は、1997年高石友也のアルバム『高石友也フォーク・アルバム第3集(+4)』、1998年にはRIKKIのアルバム『miss you amami』、2000年には金昌寿がシングルで、2001年にはばんばひろふみのアルバム『Hello Again』、杉田二郎のアルバム『Ba.Ba.Lu de Jiro』、2003年には新垣勉のシングル「青い空は」のカップリングとして、それぞれカバーされている。

松山猛の訳詞でない日本語詞としては、1978年、寒暖計がたかたかしの訳詞により「哀愁のリムジン河」として発売し、1997年新井英一のアルバム『オールドファッション・ラブソング』に自身の訳詞による「イムジン江」が、2000年にはキム・ヨンジャのアルバム『虹の架け橋』に吉岡治の訳詞による「イムジン江」が、2002年、キム・ヨンジャのシングル「夢千里」のカップリングに同じく吉岡治の訳詞による「イムジン河」が収録されている(『虹の架け橋』収録版とはバージョン違い)。キム・ヨンジャ版では、日本語と原詩の朝鮮語の歌詞を交えて歌っている。同じく2002年、イルカのアルバム『こころね』に李錦玉の訳詞による「リムジン江」が収録された。

趙博のアルバム『彼処此処(おちこち)』では、朝鮮語・日本語英語を交えた歌詞の「イムジン河」が歌われている。

ジョン・チャヌ2000年発売のシングル「イムジン河〜響け我が想い〜」には、インストゥルメンタルの「イムジン河」が収録されている。

2010年には、青木まり子が「イムジン河2009」と題して歌っている。こちらは2番まではフォークルのシングル版、3番を「イムジン河〜春〜」(後述)の3番、そして4番にはきたやまおさむが新しく作詞したものが追加されている。このバージョンは翌2011年にはきたやまが福岡のバンド・D50ShadowZと共同でセルフカバーし、アルバム「あの素晴しい愛をもう一度」に収録している。

2013年発売のザ・フォーク・クルセダーズのアルバム『若い加藤和彦のように』にフランス語の歌詞を含む「イムジン河」が収録された。フランス語の部分の訳詞と歌唱はパトリック・ヌジェによる。

2014年には李喆雨の自主製作で「イムジン河」(臨津江)の様々な録音を収録したコンピレーション・アルバム『臨津江(リムジンガン)物語』が発売された[4]

その他、多数の歌手によるカバー版が発売されている。
テレビ放送[編集]

テレビ放送では、1990年代前半に、NHK BS-2で放送されたフォークソングの特集番組で、はしだのりひこアルフィー坂崎幸之助がセッション。1996年に同じくNHK BS-2で放送された『フォーク大集合』にて加藤和彦・坂崎幸之助・泉谷しげるの3人でセッション。2000年6月にTBS筑紫哲也 NEWS23』にて田月仙がライブで歌い、2001年には、吉岡治の訳詞をキム・ヨンジャが歌ったものが3月31日BS日本のうた』のワンマンショーで、12月31日に『第52回NHK紅白歌合戦』でそれぞれ放送電波に乗った。キムの『NHK紅白歌合戦』での歌唱時の瞬間視聴率は51.3%に達した[53]

2002年11月17日にはザ・フォーク・クルセダーズのコンサート『新結成記念解散音楽會』がNHK BS-2で放送され、そこに含まれるかたちで松山猛の詞による「イムジン河」が放送された。ここでは松山猛の1968年当時の歌詞と、きたやまおさむによる新たな歌詞をつけた『イムジン河 〜春〜』の2つが披露された。2005年5月29日愛・地球博の『青春のグラフィティコンサート2005』では松山猛の1〜3番の歌詞に加え,「イムジン河 〜春〜」の詞を4番に加えた「イムジン河」をばんばひろふみが披露した。また、2010年3月11日の「きたやまおさむ九州大学さよならコンサート」ではきたやまと坂崎のデュオで、フォークル時代の1番、2番に「〜春〜」の三番の歌詞を加えたバージョンを歌っている。

2006年9月10日埼玉県狭山市狭山稲荷山公園内にて開催された『HYDEPARK MUSIC FESTIVAL 2006』にて「ポーク・クルセダーズ」名義にて一夜限りの5度目となる再結成コンサートが行われた際、朴貫仁が翻訳に協力し金錦愛が松山猛版の歌詞の2番部分の朝鮮語訳詞を行ったものが歌唱された。この朝鮮語詞は松山猛による日本語詞を基に制作されたものである。
アンサーソング[編集]
「イムジン河のほとりで」
グリーン・フィールズ の シングル
B面 明日の夜明け
リリース 1969年9月
規格 7インチシングル盤
ジャンル フォークソング
レーベル 日本コロムビア
作詞・作曲 作詞:阿久悠
作曲:水野たかし


テンプレートを表示

解説[編集]

1969年9月、笹島斌・大阿久芳樹・吉田浩二・川手国靖の4人によって結成されたフォークグループ、グリーン・フィールズによる「イムジン河のほとりで」(作詞:阿久悠、作曲:水野たかし)が日本コロムビアのDENONレーベルから発売された。規格品番はCD-38。

1969年10月8日に日本民間放送連盟による要注意歌謡曲の調査対象となったが、「『イムジン河』で問題になったような政治的背景は考えられない」という理由で指定されなかった。しかし同年10月22日の報告によるとレコ倫の審査漏れがあったとし、11月の委員会に合格するまでレコード会社は製造・販売を中止することに決めたという[54]
収録曲[編集]
イムジン河のほとりで (STANDING BY THE RIMJIN RIVER)作詞:阿久悠、作曲:水野たかし、編曲:ありたあきら
明日の夜明け (TOMORROW'S SUN)
評価[編集]

原曲の歌詞について、北山修は北朝鮮によるプロパガンダに近い内容と評している[55]
脚注[編集]
[脚注の使い方]


^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』71頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』61頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』64頁。
^ a b c d 【ZOOM】「イムジン河」その源流をたどる産経ニュース2014年8月26日 14:00更新。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』175頁。
^ a b 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』164頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』166頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』175-176頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』177頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』195頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』116-139頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』181-182頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』182頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』77頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』78頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』61-63頁
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』70-71頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』26頁。
^ 松山猛 『少年Mのイムジン河』 木楽舎、2002年、32頁。
^ 松山猛 『少年Mのイムジン河』 木楽舎2002年、44-45頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』14頁・35頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』96-104頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』14頁・35頁。
^ a b ザ・フォーククルセダーズの「イムジン河」34年ぶり発売SANSPO.COM、2002年1月30日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)
^朝日新聞」2009年10月18日社会面、加藤和彦の自殺を報じる記事
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』110頁・150頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』22頁。
^ 森達也『放送禁止歌』光文社知恵の森文庫、2003年 104頁 ISBN 9784334782252
^ a b 森達也『放送禁止歌』64頁
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』18-36頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』30-31頁。
^ 「イムジン河の数奇な運命 日本で愛される『北朝鮮の名曲』」『AERA』2002年8月12日号
^ Web東奥・特集/断面2002
^ a b JASRAC作品データベース検索サービス J-WID 検索結果
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』149頁。
^ 森達也『放送禁止歌』32頁
^ 森達也『放送禁止歌』32-33頁
^ 森達也『放送禁止歌』68、71頁
^ 石橋春海 『蘇る封印歌謡(CD付) 』 三才ブックス2007年
^ 2012年6月20日発売「約束」c/w曲。
^ 2013年頃まではシネカノンフジパシフィックミュージックが、2014年時点ではジェイ・シネカノン出版者として登録されていた。2010年代だけで出版者が頻繁に変遷している。
^ 音楽の森 music Forest データベース検索より
^ アゲント・コンシピオ発売のCDシングル(2002年3月21日 / 規格品番:AGCA-001003)収録音源に於ける登録コードである。
^ Musicman-NET Musicman's RELAY 第71回 加藤和彦氏
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』48-49頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』50頁。
^ 吉野健三『歌謡曲 流行らせのメカニズム』晩聲社 (ヤゲンブラ選書) 、1978年、112頁。
^ 『歌謡曲 流行らせのメカニズム』113頁。
^ 『歌謡曲 流行らせのメカニズム』114頁、246頁。
^ 『歌謡曲 流行らせのメカニズム』125-126頁。
^ 『永遠のザ・フォーク・クルセダーズ 若い加藤和彦のように』ヤマハミュージックメディア2015年、40-43頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』178-179頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』143頁。
^ 『歌謡曲 流行らせのメカニズム』126-127頁。
^ 『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』93頁。
参考文献[編集]
「イムジン河の数奇な運命 日本で愛される『北朝鮮の名曲』」『AERA』、2002年8月12日号
田月仙 『禁じられた歌 朝鮮半島音楽百年史』 中央公論新社中公新書ラクレ
喜多由浩『『イムジン河』物語 “封印された歌”の真実』アルファベータブックス2016年ISBN 978-4-86598-018-9
関連項目[編集]
パッチギ! – 松山猛による訳詞の創出が作中にモチーフとして取り入れられている。
言論統制
プロパガンダ
外部リンク[編集]urcrecords.com
イムジン河その他
時代と音楽そして人生 「イムジン河」訳詞者の松山猛氏に聞く神戸新聞社
ふらっと-多民族共生-イムジン河