幸福会ヤマギシ会 - Wikipedia
幸福会ヤマギシ会
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幸福会ヤマギシ会(こうふくかいヤマギシかい)とは、とは農業・牧畜業を基盤とするユートピア[1]をめざす活動体(農事組合法人[2][† 1])。 通称は「ヤマギシ会」「ヤマギシ」。1953年(昭和28年)、山岸巳代蔵の提唱する理念の社会活動実践母体「山岸式養鶏会」として発足、約10日後に「山岸会」に改名[4]、1995年(平成7年)に名称を「幸福会ヤマギシ会」と変更[5]。 所有の概念を全否定し[6]、「無所有一体」の生活を信条としている。アーミッシュと並べて例えられる場合もある。
売り上げ規模では農事組合法人のトップに位置している[7]。 ヤマギシズム[† 2]社会を実践する場であるヤマギシズム社会実顕地が全国に26か所あり、約1500人が共同生活を営んでいる[9]。また、ブラジルやスイス・韓国・オーストラリア・アメリカ合衆国・タイなど[10]日本国外にも6箇所[9]の社会実顕地があり、社会実顕地に未参画の会員が5万人ほどいるとされる[11]。 ヤマギシズム社会実顕地では野菜や果物、家畜などが育てられており[12]、農産物加工品を全国販売している[9]。最近では、「エコビレッジ」の先駆者として評価されることもある[9]。
目次
[非表示]活動
特別講習研鑽会(ヤマギシズムの理念や思想を体験的に知るために参加者全員が車座になってひとつのテーマを深く議論する「研鑽会」が主)と呼ばれる一週間の合宿形式の講座を受講すると会員となることができる[13][† 3]。会員は「研鑽学校」と呼ばれる2週間の講習を受講することでヤマギシズム社会実顕地に参画(入村[15])する資格を得ることができる[16]。実顕地における生活は私財をひとつ財布に入れ[† 4]共に研鑽生活を営むことが柱となっている。
実顕地の経済は、各実顕地で生産された農産物の販売[† 5]による利益が中心である。1988年(昭和63年)に設立したブラジル実顕地では1991年(平成3年)から開拓が始まった1000haに及ぶオレンジ園があり、秋田県大潟村では水稲栽培、80万羽規模の採卵養鶏など大規模農業にシフトしている。経営形態は、野菜や各種畜産から販売を組み合わせた複合農業であり、農事組合法人の形をとっている[2]。
ジャーナリストの斎藤貴男によると、幸福会ヤマギシ会の年商は豊里実顕地だけで、全盛期には約140億円を数えていた[19]。その実態を見ると、全商品の自家生産を謳いつつ、原料や加工を外部に頼っているケースもある[20]。
フリーライターの近藤衛[† 6][22]やジャーナリストの米本和広[23]によると、生産物の販売は、会員が運営する講座や農業体験、体験合宿、さらにヤマギシズム特別講習研鑽会へと人々を勧誘するきっかけともなっている[† 7]。
「学生のころ「ユートピアの会」という研究会で、山岸会という団体の人を招いて話をきいたことがある。私が興味をもったのは、この団体では労働が強制されないということであった。社会的な必要労働をどのように配分するかということは、未来を構想するときの基礎的なネックの一つだ。近代市民社会=資本制社会のように、「飢えの鞭」=生活の必要性をとおしてこれを特定の階級に強制するのか、中国の社会主義のように『自民への奉仕』といった道義的規範意識をテコとするのか、あるいはソ連の社会主義のように、利潤動機と名誉心、権力による強制とイデオロギー的規範意識等々を組合わせて動員するのか。しかし労働が自発的になされる他は強制されないという世界は、マルクスの終局的なユートピアとしてイメージはもっていたものの、具体的なかたちとしては当時の私の想像をこえるものであった。山岸会は労働を強制しないという神話を打破するために、絶対に働かないという決心を固めて山岸会にいった男が、五十七日ほど釣りばかりしてすごしていたが、つまらなくなってニワトリの世話なぞしはじめという話もきいた。少し出来すぎた話のような気もするが、たとえ事実でなく寓話であるにせよ、そのようなことを、少なくとも原理としタテマエとする集団が実在することを、私は心強く思った。しかし一方その人の話の中には、その当時の私にとってうけいれがたい所説も多かった。たとえば山岸会は、ニワトリの独自の飼い方で有名なのだが、それは一般の鶏舎のように一羽一羽ケージにとじこめる飼い方ではなく、平飼い社会式といって自然に近い飼い方をする。一般の鶏舎でそのまねをすると、強いニワトリが弱い仲間をつついて傷つけたりエサを独占したりして決してうまくいかないのだが、山岸会のニワトリは仲がいいのは、飼っている人間どうしが仲がいいからだ、などといわれる。人間の共同性とニワトリの共同性とのこの因果づけの仕方は、ばかばかしいこじつけとしか思われなかった。結局すぐに行ってみる気にはならずに十年ほどもすぎて、ふとしたことから、一週間の「研鑽」に参加する機会をもった。「強制なき労働」のシステムが存在するのかどうか、はそのときもわからなかった。しつこく調査すれば答えをだすことはできただろうが、そういう関わり方をしたいとは思わなかった。むしろこのとき私が中で体感したことは、私がばかばかしい反面だと思っていた、人間と自然との連動性のようなものの方にこそ、事の本質があるだということだった。人間の共同性とニワトリの共同性とを、それぞれ抽象してとりだしてきて、二変数の関数関係のようにげんみつな因果連関があるわけではない。しかし人間の自然にたいする感触が、他の人間への対応の中に反映し、このような人と人との関係が逆に自然を取扱う仕方にあらわれ、それが植物の育ち方とか動物の相互の関係のうちに反映し、それがふたたび人と人との関係を形成している、そのような連動関係が幾重にも存在すること。「人間がなごやかだからニワトリもなごやかだ」という言い方は、げんみつな因果連関の表現ではなく、自然と人間のこのような連動の総体性の寓話的な表現として納得することができる。殺風景な社会はかならず自己の周囲に殺風景な自然を生み出す。草や木や動物たちとの交歓を享受する能力は、同時に人間の関係性への味覚をしなやかに発達させる。労働が強制されない社会が実在するか否か、私は今でもしらない。しかしもしそのような社会が存在しうるとすれば、すなわち労働がそれ自体よろこびとして、マルクスが書いているように、人間生命の発現としてありうるとすれば、そこでは必ず、人間と人間との関係のみでなく、人間と自然との関係が根本から変わらねばならないだろう。あるいは人間の存在感覚のようなものが、市民社会の人間とは異った次元を獲得しなければならないだろう」[25]
目的
幸福会ヤマギシ会は自らの活動目的を「すべての人が幸福である社会」[5]、「全人幸福社会の実顕」とし[26]、そのための行動原理として「無所有・共用・共活」を内容とする理念ヤマギシズムを掲げる[26]。
ジャーナリストの米本和広によると、幸福会ヤマギシ会は世界を「<無所有一体>の理想社会に塗り替え、世界中の人を幸福にしたい」という目的を有している[27]。近藤衛によると、幸福会ヤマギシ会は「あと200年後には世界中が地上の楽園〈ヤマギシズム社会〉に革命される」と主張している[28]。幸福会ヤマギシ会は、自分たちが起こす世界革命を「急進Z革命」(Zは、人類最後の革命であることを意味する)と称し、その内容を「ヤマギシズムによる……人間の観念に変革をもたらす頭脳革命であり、全人に真の幸福をもたらす」であるとしている[29]。
組織
幸福会ヤマギシ会は自らの組織の性質について、「会員それぞれの自発的自由意志により活動している団体」とし、全体を統率する特定の個人あるいは集団の存在を否定している[30]。会内部の組織も会員が自発的に作ったものであり、本部でさえも意志決定機関ではなく連絡機関、補助的な実務機関であるとしている[30]。
ジャーナリストの斎藤貴男は、平等の建前をとり「理念だけが前面に出るヤマギシの組織は、きわめて不透明」としつつ、同会が開催する「ヤマギシズム社会博覧会」において掲示されたポスターをもとに、「ヤマギシズム社会実顕地(ヤマギシズム社会文化生活)」、「ヤマギシズム世界実顕試験場」、「ヤマギシズム研鑽学校」が一体となって展開するヤマギシズム社会を世に広めるべく活動するのが「幸福会ヤマギシ会」であり、四者の間には上下関係がなく円のように結ばれていると説明している[31]。
米本和広は三重県豊里村の社会実顕地を訪れた際、ヤマギシズム社会に命令、服従の関係はなく、「研鑽」と呼ばれる話し合い[† 8]によって組織が運営されるという説明を受けた[33]。米本によると、実顕地内には研鑽を行うための様々な組織(研鑽会)が存在する[32]。しかしながら同時に研鑽会には研鑽会の進行について研鑽する「準備研鑽会」が存在し、さらに準備研鑽会の進行について研鑽する研鑽会も存在する。このように研鑽には階層構造があり、それに伴って会員間にも階層・序列が存在する[34]。また、テーマが予め「○○するにはどうすればいいでしょうか」と設定され、「○○できない」と発言すると「あなたの発言は○○するというテーマから外れている」と返されるといった具合に、「テーマそのものが結論」、「命令ではないが実質的には命令と同じ」研鑽が開かれることもある[35]。
米本和広によると、各実顕地には役場としての機能を持つ「調正機関」が存在し、それらを統括する「『ヤマギシズム国家』の中央官庁」として「ヤマギシズム生活実顕地調正機関本庁」が豊里村実顕地に置かれている[32]。そして、豊里村実顕地の決定に他の実顕地が従う「中央集権体制」が敷かれている[36]。近藤衛は、ヤマギシズム社会実顕地の元参画者の証言として、「イズム生活推進研」という意思決定機関が存在すると述べている[37]。米本は元実顕地参画者で医師の松本繁世から、「イズム推進研鑽会がすべてのテーマを出している」という内容の告白を、参画していた当時所属していた幸福会ヤマギシ会医療部の責任者から受けたことがあるという証言を得ている[38]。
近藤によると、幸福会ヤマギシ会やその構成員が組織の実情を外部に明かすことはない[39]。さらに会員歴の長いものであっても生活実顕地の組織についてほとんど把握していない[40]。近藤は、幸福会ヤマギシ会の問題は「会の組織自体を検討する機会を与えず、客観的な情報を公開せず、実顕地は常にバラ色の理想社会だと喧伝すること」にあると指摘している[41]。
研鑽会
ヤマギシ会では、何らかの意思決定が必要になったとき、みんなが意見を出し合いながら、話し合いを行うが、それを「研鑽会」と呼んでいる。ヤマギシ会では、ものごとのすべてを決めるのは「研鑽」によってである。研鑽とは簡単にいえば、話し合いのことだ。しかし、ヤマギシ会の研鑽には、ヤマギシ会独自の考え方が反映され、研鑽はものごとを決める基本となっている。
宗教学者の島田裕巳は著書『無欲のすすめ』のなかで次のように記述している。 「(ヤマギシ会の)研鑽がただの話し合いと違うのは、真理の存在が前提とされ、研鑽の場に集まった人間たちが個々人の利害を超えて真剣に話し合えば、必ずその真理に行き着くとされている点だった」[42]
「ヤマギシでは、意見が異なったときは、全員の意見が一致するまで徹底して話し合いが続けられる。だが、もしも、研鑽会が単なる話し合いの会であるなら、どこまで議論を続けたところで全員の意思の一致などそうたやすく得られるものではあるまい。会議とも打ち合わせとも呼ばずに研鑽会と呼ぶ――そこには、はなすに「放」の字を当てたと同じ、意思をまとめていく作業に対する検証が込められている。研鑽会では、自分の意見を主張しながら、同時にその意見をも相対化する機能が働いている。ヤマギシの人は、そうした機能を実現するための個人の態度を「零位に立つ」と表現する。自らの意見に無意識にさまざまな偏見や固定観念が入り込んでくる可能性を自覚し、あらゆる前提をいったん棚上げにして自らも調べなおす。そうした、主張しながらそれ自体をも相対化していく「零位に立つ」とう態度を取り込むことで、研鑽会は全員の意見の一致の実現をしようとする。行動の規範なり基準を固定化してしまうのではなく、絶えることのない研鑽によって、その時点時点での最良の道を探し求めていこうとする意思を、ヤマギシでは、「無固定・前進」という言葉で表す」[43]
ヤマギシズム特別講習研鑽会
ヤマギシズム特別講習研鑽会(特講)とは、幸福会ヤマギシ会管理下の施設で行われる、合宿形式の研鑽会をいう。幸福会ヤマギシ会の説明によると、ヤマギシズム特別講習研鑽会において参加者は、「自分の判断が正しいものと信じて疑わない」態度を科学的に見直し、研鑽態度と呼ばれる、「自分の考えも大いに言い、誰の言うこともよく聞いて、あくまでも『本当はどうだろうか』と主体的に検べていこうとする考え方を身につけることを目的とする[44][† 9]。1956年1月に京都府長岡京市の寺院で初めて開催され、後に国内だけでなく日本国外でも開催されるようになった。ちなみに、特講は生涯、ただ一度しか受講できない[46]。
幸福会ヤマギシ会は、「決めつける観念、固定する観念」が人と人が仲良く愉快に暮らしていく上での弊害であり、愚行を生み出す原因であると主張し、ヤマギシズム特別講習研鑽会に参加することで人間の観念が固定しない状態(真に自由なる観念)へと「急速に大転換」し、「頑固が謙虚な態度に、決めつけの考え方が決めつけのない考え方に、囲いある狭い生き方が、みんなと共に繁栄せんとする広い心での豊かな生き方に転換」するとしている[44]。幸福会ヤマギシ会によると、人々が日常生活の中で身につけた常識や信念は「びっくりするほど根拠のない思い込み」であり、ヤマギシズム特別講習研鑽会に参加することでそのことが見えてくるという[44]。近藤衛は、こうした観念を固定しない思考法はヤマギシズム社会実顕地において、参画者の観念を組織の都合に応じて操作するために活用されると指摘している[47]。
宗教学者の島田裕巳は、特講について次のように記している。「『特別講習研鑽会』は普通、「特講」と略称されるが、これは、与えられたテーマを考えぬく中から、山岸の考え方・思想、つまりは『ヤマギシズム』を体験的に理解していくイニシエーションの機会であった。『特講』の参加者たちは、一週間のプログラムの中で、山岸が青年の時期から考え続けてきた様々な問題に取り組み、その問題に対する解決の方法を見出していく過程を再体験していくのである。また、『特講』が集団的告白の場として、一種の『集団的沸騰』の状態を呈したため、参加者たちに理想社会実現の運動への熱意をかきたてることともなった」[48]
作家の小沢信男は、2001年の朝日新聞夕刊の文化欄に、「一語一会 だれのものでもない」というタイトルで、特講に参加したときの様子と自分の特講に対する印象をこのように書いている。「たしか東京オリンピックのあった年だから、三十七年も昔のこと、山岸会の特別講習会に私は参加した。農業を基盤とする山間の共同体に、一週間泊り込んだのだった。洗面所の歯磨きチューブを置いた棚に、こんな小さな張り紙があった。『だれのものでもない』。なんだいこれは。いかに無所有社会とはいえ朝からお説教かい、反発をおぼえたが、そのうちこれが可笑しみになった。だれのものでもない歯磨きチューブから、朝ごとに必要量を消費して、口のまわりを白くしながらニヤニヤ笑えた。現にいまでもこうして思い出せば、愉快をおぼえる。あの小さな張り紙だけでも私はなつかしい里だ。一週間のうち、初めの三日は腹を立てていた。徹夜で討議したはてに、最初の答えと同じ結論になったりする。あいにく私は町場育ちで気が短い。が、根は愚鈍につき、ようやく気づいた。目から鼻へ抜けるのが理解ではないのだな。だれのものでもないとは、私有の否定だけではなくて、共有でもないのだな。たとえばの話、地球の皮、太初このかたこの地べたが、ほんらいだれかのものであるはずがない。と思えば胸がせいせいしませんか。その私有を忽ち正当化する理論があるならば、眉に唾をつけておこう。私有を廃して国有にしてみても、しょせん五十歩百歩だったという実験にも八十年はかかるのだものね。人間の命もまた、国家や組織や会社なんかに所有されるものではない。とは、こんにちだいぶ自明の理になってきた」[49]
また、哲学者の鶴見俊輔は、「見いだされた共同性」と題して、次のように特講について述べている。「けんさんを私が受けたのは、20年前のことで、それは今も私の考え方の底にのこっている。西洋渡来の学術語を使わなくとも、私たちの生きてゆくための重大な問題をこのようにして語り合う方法があるのか。そういう発見だった。そのようにしてくりひろげられる対話の中から、コロムブスの卵のように自然に、私たちのよりどころとしている共同性が、見いだされた。その共同性をどのように日常生活に生かすかは、むずかしい問題だが、一度見いだされた共同性から、私たちははなれるわけには行かない」[50]
さらに、元東京医科歯科大教授の渡辺一衛は、「他に類を見ないユニークさ」と題して、特講について次のように述べている。「山岸会の方々とはユートピアの会というサークルをとおして、60年代から交流があったが、私が特講に参加したのは1970年の夏であった。そのときはすぐ又訪れようと思ったのだが、早いもので、もう10年過ぎてしまった。議論は充分盡くせなかったような感じがあるが、なつかしい思い出である。誰でも自由に参加できて、しかもすぐ本質的な議論に入れるという点で、特講は他に類のあまりないユニークで、かつ民主的な形式だと思う。特講の討論のスタイルは、山岸会の中だけでなく、外の世界にももっと広げられて行っていいものと思うが、なかなかそうはゆかないようだ。ともかく貴重な山岸会の財産だと思うのである[51]。
近藤は1995年(平成7年)7月に、実際に特別講習研鑽会を受講している。近藤によると特別講習研鑽会では進行役が参加者に対し「嫌いなもの」を問い、回答があると「それは嫌いなものですか?」と尋ねる。それに対しいかなる反応があっても進行役はひたすら「それは嫌いなものですか?」と繰り返し、参加者が沈黙すると次第に語気を荒げて反復する[52]。同様に個々の座布団について「これは同じものですか?」と繰り返し質問するパターン[53]や、「如何なる場合にも腹の立たない人になる」という目標を確認した後、腹が立った経験について語らせ、「で、なんで腹が立つんですか?」と次第に語気を強めつつ繰り返し質問し[54]、延々と、受講者が腹が立たなくなるまで続ける[55]パターン(怒り研鑽)もある。こうした反復は数時間[56]、一昼夜[57]に及ぶ。また斎藤貴男によると、参加者に対し研鑽会終了後も実顕地に留まるよう求め、「残れないのは我欲があるからだ」などと詰め寄る「解放研」と呼ばれるプログラムも存在する[58]。
近藤によると、「怒り研鑽」における数時間にわたる反復の中で、怒りを覚えた動機を全面的に否定し、むしろ自分のほうが謝罪したいと涙ながらに語る参加者が現れた。さらに会場内には連鎖反応的に恍惚の表情を浮かべ、「もう腹は立ちません」と語り出す者が現れた。そのような反応に対し、進行役は頷く素振りをみせたという[59]。近藤は「まるで集団催眠にかかったような光景だった」と述懐している[57]。近藤と同じく特別講習研鑽会を受講した経験のある米本和広も、同様に涙を流しながら「もう腹は立ちません。楽になりました」などと語る複数の受講者の姿を目撃したとしている[60]。米本はそうした様を、「神秘的体験、法悦感に通じるような快感に酔いしれているように見えた」と述べている[61]。米本が後に受講者を取材したところ、「怒り研鑽」の最中に観音の幻覚を見、他の受講生の心中が読めるような感覚に襲われたと証言する者、雷鳴が聞こえ、食器が躍る幻覚を見たという者もいた[62]。宗教学者の島田裕巳は「怒り研鑽」を「怒りをなくすための研鑽」であり、「特講の中で一番重要」と位置付けている。島田によると、ヤマギシ会では怒りをなくすことが重要視されており、研鑽を行う上で参加者が腹を立ててしまっては冷静な判断ができないという判断の下で行われている。研鑽の目的は『腹を立てない』ではなく『腹が立たない』心境を作り出すことにある[63]。
また、島田裕巳は「怒り研鑽―<私>の場合―」と題して、次のように述べている。「他の受講者についても同じだった。順番に世話係との問答が繰り返され、<私>と同じように問いつめられ、答えに窮していった。時間の経過とともに、受講者の発言も少なくなり、その分だけ、問いつめ方もきつくなってきた感じであった。問いと答えの繰りかえしは休憩を何回かはさんで数時間に及び、沈黙の続く時間が長くなるにつれて、会場の空気ははりつめた重苦しいものにかわっていった。<私>は途方に暮れていた。彼らは一体何を要求しているのか、皆皆目見当がつかなかった。時計はとっくに真夜中の十二時をまわり、長時間にわたる問答によって精神は消耗していた。 しかし、この状態は永遠に続いたわけではなかった。時刻がすでに午前二時をまわった頃であった。ある女性の受講者の発言が、脱出口を示してくれたのであった。彼女の発言はおおむね次のようだった。『今、自分が腹を立てたときのことを考えてみると、腹が立たないような気がする。今度、そういったことがあっても腹は立たない』。このひとことは<私>に強い印象を与えた。『ああなるほど、腹を立てることなどないのだ』と感じられた。何か暖かいものがこみあげてくるように思えた。それは一種の解放感であった。そして、そのときの<私>に起こった心理的な変化の中でももっとも明瞭なものは、世話係の繰り返してきた『何で腹が立つのか』といことばが、腹を立てた理由を聞いているのではなく、腹を立てることなどないではないかと訴えかけているように聞こえてきたことであった。世話係の言い方がかわったわけではなかった。<私>の側の受けとめ方がかわったのである」[64]
特別講習研鑽会を受講した近藤は自身について、問いに対する答えを考える中で「突然、後頭部で『パチン』と風船が割れたような音」がし、「自分の意識が消し飛ぶような」感覚に陥り、「身震いするような恐怖を覚え」、やがて心地よい浮遊感、昂揚感を覚えるようになったと懐している[65]。近藤はこの経験について、「頭の中が真っ白になる。別の世界に誘われて、とてつもない真理を知ったような気分になる」、進行役の「口にすることすべてが真実であるように聞こえてくる」、「脳裏が白くなってからは、どんな発言が出たのか、まわりの様子がどうったのか、まったく記憶に残っていない。すっぽりと記憶が抜け落ちていた」と分析し、「あの『浮遊感』を体感した受講生ならば、簡単に『ヤマギシズム=真実の世界』と刷り込まれてしまうだろう」と述べている[66]。近藤は、特別講習研鑽会への参加後しばらくは「これは同じものですか?」といった進行役の問いかけが頭から離れず、しばしば気が抜けた状態になったと告白し[14]、ナンセンスな質問の中に「奇妙な『浮遊感』を感じさせる魔法が仕掛けられているようだった」と述べている[67]。後に近藤が他の参加者の経験を調査すると、同様の感覚に襲われた者はごく一部であったが、かつてのヤマギシズム生活実顕地参画者でヤマギシ会に反対する立場をとる者の中にさえ「あの瞬間ほど身体全体が興奮したことは、今まで一度もなかった」と振り返る者がいた[68]。
精神科医の斎藤環は米本和広がとりまとめた特別講習研鑽会のレポートを分析し、米本を含む受講者が解離状態に陥って「ある時点から自分の感じ方、知覚、感情など体験のされ方が変わ」り、中には解離性同一性障害を発症したと考えられる者もいると指摘している[69]。斎藤は受講者を対象に行ったヒアリング調査に基づき、記憶の喪失、変性意識体験、多幸感、「景色が鮮明に見える」など、受講者が証言する神秘的体験と解離性症状との間に類似点が複数みられるという内容の報告を日本社会精神医学会において行っている[70]。斎藤の見解を聞き、さらにともに特別講習研鑽会に参加した者の中に解離状態が継続している者がいることを察知した米本が参加者に注意を促す手紙を送ったところ、手紙を会員に見せて「指示を仰ぐ」者が一人ならず現れたという[71]。米本は特別講習研鑽会の進行役を担当する会員を取材し、「特講によって人間が変わる素晴らしさを感じますよ。どんな人にも本来変わる力があり、それを種だとすれば、特講は水のようなもので、種に水をかけてやれば成長していく」というコメントを得た[72]。米本は特別講習研鑽会を「心の準備をする間もなく、『なんで腹が立つのか』を執拗に問われ続けるという困難な事態に対し、防御反応が働き、諸感覚の入力スイッチが切り替わって、感じ方が変わってしま」う[73]、「解離状態を招く危険な快感セミナー」と定義[74]した上で、「仕掛ける側にも仕掛けられる側にも特講が『洗脳』であるという意識がまるでな」い[† 10]と警告を発している[75]。さらに米本は、地域の会員は様々な形態の「研鑽会」を用意しており、特別講習研鑽会の受講者経験者がそれら研鑽会に参加することで解離状態が継続する可能性があると述べている[76]。幸福会ヤマギシ会は特別講習研鑽会の開催に際し、精神障害にかかったことのある者は受講できないという注意書きを受講者に対し提示する[77]。米本はこの事実と、自身が取材した古参会員の「昔は48時間睡眠なしのぶっ続けで<怒り研>をしていた。その頃はおかしくなる人が大勢いたわ」というコメントから、幸福会ヤマギシ会側は特別講習研鑽会に精神障害を引き起こす危険があることを認識していると指摘している[78]。
米本は、特別講習研鑽会の仕組みを以下のように解説している。
- 嫌いなものを問う研鑽で感情を揺さぶる[79]。
- 「怒り研鑽」で感情神経回路を断ち切る[79]。
- 上記のものをはじめ様々な研鑽を通し「解答なき問いを執拗に繰り返すことによって自我を揺さぶり」つつ、テキストの輪読を並行して行うことで「理想社会のイメージを注入する」[80][† 11]。
- 注入したイメージを絵やビデオの鑑賞によって強化する[83]。
- さらにヤマギシズム社会実顕地の訪問によって、注入したイメージと現実を脳内で統合させる[83]。
近藤は特別講習研鑽会について、「打ち上げ花火のようなもの」で、「たったの1週間で消えてしまった夢幻花火が忘れられず、一部の人々は社会活動や研鑽学校に参加していく」のだと分析している[84]。近藤によると、ヤマギシズム生活実顕地への参画のために受講しなければならないセミナー(研鑽学校)で行った研鑽会では、特別講習研鑽会におけるような「忘我恍惚体験」をすることはなかった[84]。近藤と同じく特別講習研鑽会および研鑽学校に参加した武田修一も、研鑽学校について「期待に反してさほど楽しいものではなかった。それは『怒り研』のような劇的な体験をともなうものではなく、淡々とした研鑽の連続だった」と述べている[85]。鶴見俊輔は特別講習研鑽会の手法について、ソクラテスや老子といった思想家になぞらえると同時に、「中共の洗脳にも似て」いるとも述べている[86]。本多勝一は「特講」の手法について「山岸会は民衆のレベルでのソクラテスのようなものだ」と絶賛している[87]。一方、小田実は「特講」の手法について疑問を持ち、「どうしても納得しない村人が出た場合はどうするのか?」という質問をしている[引用 1]。小田が抱いた疑問について米本和広は、社会実顕地参画者が「しつこく食い下がれば、まだ『我執』が取れていない人だという烙印を押され」、「最後まで従わなければ、『振り出し寮』の異名を持つ無期研鑽学校に入ることを<提案>される。ここに入れば一人でいつ果てるともない作業と研鑽を繰り返し、無条件で研鑽の結果を<公意>として受けとめる人間になるまで出ることはできない」という証言をヤマギシズム社会実顕地元参画者から得ている[88]。
特講がマインドコントロールであり、洗脳であり、危険であるとする主張に対し、特講を受講した杉本厚夫京都教育大学教授(当時、現・関西大学人間健康学部教授)は、既存の固定化された常識から開放され、その常識自体を再考してみるという点において、近代の社会科学に立脚しているとした上で、「ヤマギシズム特別講習研鑽会は、人の観念を外発的に誘導し、固定するマインドコントロールではありません。逆に、マインドコントロールされている自分に気づき、そこから自分を解放する機能を持っているといったほうがいい」と述べている[89]。
米本がヤマギシズム社会実顕地の参画者の一人から聞いたところによると、特別講習研鑽会受講者の6%弱がヤマギシズム社会実顕地に参画するという[90]。幸福会ヤマギシ会やその構成員が特別講習研鑽会の内容を外部に明かすことはない[39]。しかし1995年(平成7年)以降、マスコミが特別講習研鑽会の内容について盛んに報道するようになった[91]。
ジャーナリストの斎藤貴男は特別講習研鑽会の本質は「どうとでも言える話題を強引に一つの方向に導き、あたかもそれが普遍の真理であるかのように教え込む」ことにあるとし、「緊張と弛緩を巧みに組み合わせた」その手法について自己啓発セミナーやマルチ商法、感受性訓練との共通性を指摘している [92]。
東京シューレ理事長の奥地圭子さんは、特講に参加して、特講中に感じたことと、自分がどのように変わったのかについて、次のように述べている。「あの特講は、これまでに出会ったことのない合宿で、自分の生き方、考え方を根底からゆさぶってしまった大変な意味をもつ体験でしたが、しかし(もしかしたらそれ故に)本当に心底楽しかった(正確には楽しくなった)。あの雰囲気は忘れられません。 特講の楽しさは、どこからくるのかな。すぐ理屈で考える癖で、それについて考えてみたかったのだけど、第一に、全国ちがう所から、全く赤の他人が、それも年齢、性別、職業、関心その他すべてちがう様々な37人が集ったというのに、37人の全員に心から親しみを覚える間柄になったということがあります。特講がすすめばすすむほど親愛の情を感じ、その中で話したり、生活したりする心楽しさは、特講の土台になってるんじゃないでしょうか。人間誰とでも、仲良くできるし、それは実に楽しいものだという実感は私にとっては「みんな仲良くしなければ」というたて前をはるかにこえて、目のさめる思いでした。人間関係で面白くない思いをする職場の人だって、一人残らずみんな仲良しになれるんじゃないかという確信をもちました」[93]
さらに、奥地さんはこんなことも指摘している。「第二に考えることの楽しさの発見があります。私は、それまで一人前に、自分はものを考えられる人間だと思っていました。しかし特講の過程で、本当は、何も考えていなかったんだ、一体何を考えてきたんだろうとつくづく感じさせられました。はじめのうち考えるということが、その先何もなくて苦しく感じたこともありましたが、皆で考えていく中で、はっと思う発見がある、今まで思ったこともない考えに考え当る面白さ、というのは、実にそう快な目の前がひらける気分で、それが楽しくて仕方なかった。講師がいて何か教えてもらう会では、ちょっと味わえなかったと思います。特講から帰って、前より一層考えなくてはならない問題がふえたのですが、悩みというより、考えた結果が楽しみで「今度はあのことを考えてみよう」というかんじなのです」[94]
そればかりではない。奥地さんは特講の体験を次のように締めくくっている。「第三に、話し合いの楽しさです。はじめ自分の方でかきねをつくって、こだわったり、反発を感じたりもしていたのですが、いつのまにか、文字通り氷解してしまって、どんなこともすっと話せるようになった。人の話も、たとえ自分にとって否定的な意見もすっと聞ける、そしてどうかな、と素直に考えられる、そこにはきめつけもなければ、こうみられやしないかという見栄やおそれもない、自分の話も(誰の話も)どんなことも、ちゃんと受けとめてもらえる、そんな話し合い、そういう本当の話し合いというのを日常どれだけやっているでしょうか。ああいう話し合いなら、いやな職員会議も、毎日やってもいいくらいで、話し合いというのはこんなに楽しいものかと思いました。七日間も話し合いばかりやっていられるか、と参加前にもった先入観は、すっかりどこかへ消えました。 まだまだあるのですが、この三つを考えただけでも、これらは、ヤマギシズムでいう全人一体、零位に立って、無固定前進の研鑽でいく、という深い考え方だからできたのだろうと思います。自分がそのことを体で感じることができたというのは、かけがえのない経験だったと思うのです。そこで、私は、私の職場である学校でも、この三つだけでもできたら、どんなに楽しい学校になるかと思いました。そして、それは、できるように思えるものですから、時間をみつけては少しずつ話をしています。今まで、仕事以外の話をしたこともなかった事務の人にまで声をかけたくなって、こんな会があるのよ、こんなやり方があるのよ、こんな生き方をしている人がいるのよ、と話しています。誰とでも話ができる自分を感じて、誰かと話をするのが、とても楽しいのです。『二学期になってから、奥地さん、どういうわけか、声をかけやすくなった』と他学年の方から言われて、だいたいはおっかない印象の方が強かった私は、うれしい思いをしているこのごろです」[95]
野本三吉は、こう述べている。「ぼくが、はじめてヤマギシズムに触れたのは、三重県春日山の本部で行われている『特講』(特別講習研鑽会)という一週間の合宿討論会だったが、その時の直観では、東洋思想に潜在している『無』の思想といったものが、クッキリとその中核をなしているように思えた。そして、その『無』の思想が、ぼくに有効に響いてきたのは、話し合いを唯一絶対にして教え込まれた『戦後民主主義』に対する不信感がぼくにあったからなのだが、話し合いを中心にした民主主義の原理というのは、結局は非常に表面的なものなのではないかという思いがあって、言葉によってわかりあえるなどというのは、ほんの一部のことであって、もっと本質的な部分は、沈黙の中にあって、それは、論理以前の世界なのではないか――そしてそこに焦点をあてなければ、真の対話はないと考えていたからではないかと思う」[96]
ヤマギシズム社会実顕地
幸福会ヤマギシ会は、「心も物も充ち満ちた真の幸福社会」をヤマギシズム社会と呼び[26]、ヤマギシズム社会を実践する場としてヤマギシズム社会実顕地(通称「ヤマギシの村」)を33箇所(うち26箇所は日本)運営している[10]。幸福会ヤマギシ会によると、ヤマギシズム社会実顕地の中では「一体生活」、「『財布ひとつ』の生活」と称する生活が営まれ、農業・畜産・林業等が行われている[10]。ヤマギシズム社会実顕地内の生活は原始共産制と評されることもある[6][97]。村岡到によると、「ヤマギシ会に参画する人は、『ボロと水でタダ働きする士は来たれ』という呼びかけに心うたれ、共鳴した人」である[98]。
作家の富田倫生によると、ヤマギシズムの考える理想社会の実現方法には2つあり、ひとつは既存の組織、既存の社会のなかでのヤマギシズムを浸透させる方法であるが、もう一つの方法、すなわち既存の社会での生活から離れ、ヤマギシズム社会のモデルをつくり、即座に一体生活を始めようとする方法を実現するための実験を行う場が実顕地であるとしている(富田によると、実顕地には他にヤマギシズムを実際に表すという意味もある)[99]。
実顕地へ参画するには、2週間のセミナー(研鑽学校)を受講しなければならず[100]、参画決定後は半年間を「予備寮」と呼ばれる施設で過ごす[101]。実際にヤマギシズム社会実顕地に参画した近藤衛によると予備寮で排除され、社会実顕地を去る参画者もいたという[102]。
生活のあり方
ヤマギシズム生活実顕地では貨幣が流通しておらず[103]、実顕地の中で暮らす者は私有財産のすべてを幸福会ヤマギシ会に「無条件委任」する[17]。近藤衛は参画に際し、ヤマギシズム生活調正機関本庁に宛て「物件、有形、無形財、及び権益の一切を、権利書、証書、添付の上、ヤマギシズム生活調整機関に無条件委任致します」と書かれた誓約書に署名捺印を求められ[104]、さらに脱退(参画取り消し)時にはヤマギシズム生活調正機関本庁に宛て、委任した財産について「今後一切返還請求や、金銭請求をしないことは勿論、何等の異議も申し立てません」と誓約する内容の脱退届に署名捺印したことを明かしている[105]。近藤によると、参画時の誓約書には「本財」として「身」と「命」[† 12]も含まれている[107]。実顕地の中での労働に対し賃金が支払われることもない[17][108][† 13]。しかしながら帳簿の上では賃金が支払われていることになるため、実顕地を去った者には財産が残されていないにもかかわらず、帳簿上の収入に基づき税金が請求されることになる[109]。近藤は、一切の私有財産の放棄が過去の自分と決別し、人生を再生させる解放感をもたらすケースがあると指摘している[110]。米山和広は元参画者から、「財産を多く持ち込んだ人は特別待遇されていた」という証言を得ている[111]。幸福会ヤマギシ会は参画者に私有財産をすべて放棄させる一方、相続人の地位は放棄しないよう通達を出している[112][† 14]。
鶴見俊輔はこう指摘している。「山岸巳代蔵は所有権を主張していないんだね。かれはまた、一種の問答をつくったんです。『何が正しいのか』『これはだれのものか』。それが山岸会の研鑽になった。そういうことを通して、今は農産物、酪農の産物について良質ののをつくるようになって、外の社会との関係がいいんですね。この中に入ると、所有がないからお金なしで暮らせる」[114]
近藤衛は、自身が生活実顕地の中で生活を送った1999年(平成11年)2月から12月にかけての住人やその生活の実情について、以下のような分析・考察をしている。
- 非常に勤勉である[115]が、総じて個性がない[116]。
- 人間関係は表面的には淡白である[117][† 15]。「ヤマギシに友人はありません」という標語が存在し、「オトモダチ」という言葉が揶揄に用いられる[118]。
- 労働環境には厳しい面もある[† 16]が経済的な不安とは無縁でいられる[116]。
- 組織の意思決定のプロセスはもちろん、意思決定プロセスへの参加者も明かされない[120]。
- あらゆる任務から半年に一度自動的に解かれる(自動解任)建前がとられているが、実際には「重任」が存在し、権力が固定されることもある[37]。
- 「ごく日常的な些事」を除いて情報が不足しており[121]、住人の関心事もまた些事に限定される[122]。誤解や迷妄が生じやすい環境にあり、「そこに『理想社会』のバラ色のイメージが重なり、実顕地生活を特別視する」[123]。
- 私有財産制の否定と共有は徹底しており、1980年(昭和55年)以降は衣類にまで至っている[124]。実顕地にパンツを持ち込んだ近藤は、「世話係り」からどうして共用のパンツを履かないのか問い詰められたという[125]。
- 予定を自分で決めることができない場面が多い。「世話係り」との「研鑽」において世話係りが結論のみを伝え、それに「ハイ」と従うことが要求される(ハイでやります)[126]。実顕地内には「私意尊重公意行」というスローガンが存在し、これを遵守することが参画の条件となっている[127]。このスローガンは「みんなの考えでやろうとする私の意志」がまず存在し、みんなの考えにはかった結果(公意)を、私の意志として行動」することを意味する。具体的には「研鑽結果である係りからの公意を、積極的に自分の意志として、その通りやろうとする」ことを公意行と呼ぶ[128]。幸福会ヤマギシ会は公意行こそが真の自由だと説き[129]、住人の側は「どんな指示でもわだかまりなく実行できる」という意味で「何でもやるのが本当の自由だ」と言い、理由説明のない指示に従うことで「真の自由」を感じる[130]。「事実」と「思い」とを分離する思考がとられ、思いは軽視される[131]。「〈思い〉を断ち切る」という意味で「-を思い切りやる」という言葉が用いられる[132]。ただし近藤は、1995年以来の組織の衰退を受け、1998年(平成10年)3月以降、「自分がやりたいことをやる自由」が認められる傾向が生まれたとも述べている[133]。
- 懐疑的な部分がある反面、生活実顕地内のルールや「世話係り」にはきわめて従順である[134]。
- 実顕地内の事柄を善意に解釈する半面、一般社会に対し強い不信感[† 17][† 18]を抱いており、「善と悪の境界」、共同体を外部社会から隔てる心理的境界がうかがえる[137]。
- 住人同士の結婚を統括する機関(結婚調整機関)が存在する[138]。離婚においては、「世話係り」が間に立つ[117]。
- 勤勉な男性には「結婚する〈資格〉」が与えられ、勤勉でないものはいつまでも結婚できずにいる[139]。離婚した男性には再婚の機会が少なからずあるが、中年以上の女性は孤独なままである[140]。
- 夫婦関係については夫唱婦随が説かれ[141]、夫は妻をファーストネームで、妻は夫を姓に「さん」をつけて呼ぶ[142]。
- 夫婦が水入らずの生活を送ることはない[143]。その他、集団の中で誰と誰が夫婦なのか判別しにくい[143]、子供は性別・年齢別に集団生活を送る[142]など、血縁・婚姻関係が希薄となる環境が揃っている[142][† 19]。さらにヤマギシズムに従えば一夫一婦制には必ずしも拘束されないことになり、「三位一体の愛情」を実践した者もいる[138]。
村岡到は、実顕地の生活について以下のように述べている[98]。
- 食事は1日2食である。「愛和館」という食堂が午前10時30分から21時まであいており、村人は愛和館がオープンしている間の好きな時間にやってきて、食事をする。自室に料理をもち帰って食べてもかまわない。
- 豊里実顕地には診療補所がある。診療所には医師がいるが、彼らはヤマギシ会参画者である。病気になれば近隣の病院に通うが、医療費はヤマギシ会が負担する。
- 住居は、夫婦一組で6畳1室か2室。家賃はいらないし、世間の常識では考えられないが、ドアにカギ(錠前)がない。
- ヤマギシ会では高齢者のことを、「老いてますます蘇る」という意味を込め「'''老蘇'''」(おいそ)と呼んでいる。村岡到は、「ヤマギシ会は日本が迎えている高齢化社会時代における理想的な〈モデルケース〉とすらいえる」と述べている[144]。
米本和広は、一般公開された三重県豊里村の実顕地を訪れた際に受けた印象について、次のように述べている。
近藤衛は、住人に割り振られるID番号をもとに1999年(平成11年)までの離村者と離村率を計算している。近藤は発足以降延べ7800名が参画し、500名が参画中に実顕地で死亡したと概算し、1999年(平成11年)時点での参画者が約2150名であることから、離村者を5150名、離村率を約66%と推計した[146]。
老蘇の生活
「現在の日本では高齢者問題と少子化が深刻な問題になりつつある。65歳以上はいまや3000万人、24%となっている(2012年9月現在)。さらに、都会では核家族化が進み、一人暮らしの独居老人が増え、孤独死も社会問題化している。また、高齢者の医療費負担も馬鹿にならない。日本全国を見渡してみると、地方によっては過疎化が進み、限界集落といわれる過疎集落も増加の傾向にある。設備や条件の良い老人ホームは入居費や生活維持費が高額で、とてもふつうの暮らしを余儀なくされている庶民には手がでない」[147]
では、ヤマギシズム社会実顕地での高齢者たちの暮らしぶりはどうだろうか。「ちなみに、ヤマギシ会では高齢者のことを「老蘇」(おいそ)と呼んでいる。『老いてますます蘇る』という意味が込められているのだ」[148]。ヤマギシズム社会実顕地での老蘇の暮らしぶりや生き方を取材して、村岡到・著『ユートピアの模索』で、次のように述べている。「ヤマギシ会は日本が迎えている高齢化社会時代における理想的な〈モデルケース〉とすら言える。日本に存在する自主的な一定の社会集団のなかで、高齢者をこれだけ抱え込んでいる集団は他にはない」[149]
参画者の結婚および出産・中絶
近藤衛によると前述のように、実顕地内には住人同士の結婚を統括する機関(結婚調整機関)が存在する[138]。米本和広が元参画者に取材したところによると、参画者の側から結婚を「提案」したところで「研鑽」・「調正」の結果それが認められることはなく、実顕地内で成立する結婚はすべて担当者からの「提案」による「調正」結婚である[150]。元参画者によると強制ではないが拒絶すると執着があるというレッテルが貼られてしまうという[150]。米本によると担当者がカップルを決める根拠となるのは山岸巳代蔵の著書『世界革命実践の書』であり、同書において山岸は「人種改良」や「悪性遺伝は子孫に不幸を齎す」ことを訴えている。米本は、同書の思想を「優性思想に凝り固まったナチストの科学者が書いたような、障害者全面否定の思想」と批判している[151]。
米本の取材に対し担当者は、「提案」される夫婦の組み合わせに対し、「20代前半の女性と30、40歳代の男性というパターンが多い」、「若い女の子の方が優秀な子どもを産む」、「男は何歳でもいい」と回答した[152]。米本によると新規参画者には30、40代の主婦が多いため、結婚の「提案」の対象となる女性はヤマギシズム学園高等部を卒業して2、3年の女性である[153]。米本は、「彼女たちは『我』を主張することを長い間禁じられてきたため、『イヤ』と表現することができなくなっている。……脱走しない限り、女の子たちは中年男性の快楽と『優秀な子』を産む道具と化す」と批判している[153]。米本によると、娘が中年の参画者にあてがわれることを嫌い実顕地を去った参画者もいる[153]。結婚する男性について米本は担当者から、「やはりヤマギシできちんとやれている人がいい」というコメントを得ている[153]。近藤によると前述のように、勤勉な男性には「結婚する〈資格〉」が与えられ、勤勉でないものはいつまでも結婚できずにいる[139]。そして離婚した男性に再婚の機会が少なからずある反面、中年以上の女性は孤独なままである[140]。
米本によると担当者の「調正」は出産にも及び、出産の許可が下るとコンドームが支給されなくなる[154]。「研鑽」の結果、担当者が「今回は産まないことにしましょう」と中絶を促すこともあり[154]、高齢の女性については「まず間違いなく中絶ということになる」[154]。中絶手術は参画地外の病院で行われる[154]。
豊里ファーム
「農場から食卓へ――野菜や果物、自家農場産の肉や卵、自家工場で加工したパン、牛乳、ヨーグルト、プリンなどを販売する豊里ファーム(ヤマギシズム生活豊里実顕地農事組合法人)が、先ごろ、津市にオープンした。野菜・果物は津市・伊賀市・四日市市の畑、約20ヘクタールで生産。商品のすべてを安価で、生産から加工、販売まで一貫して取り仕切っている。以前は、各地域でトラックでの移動販売や農場・農地近くでの月2回程度の販売だったが、津市高野尾町に約550平方メートルの建物を購入したのが始まりだった。その後、みんなで話し合い、「自分たちが育てた食品を消費者に直接提供し、喜んでもらえたら」と考えた。現在は、週間カレンダーがあり、「お値打ち品」の曜日が決められているので、消費者は目当ての食材をさらに安く買える(略)[155]。
東日本大震災への対応
福島第一原子力発電所事故に対して、ヤマギシ会は国際NGOのJENを通じて、延べ約800人を送り出し、食材持ち込みで、石巻の中屋敷地区で4月から7月まで毎日300食、鹿妻地区で5月から6月初めに毎日400食の炊き出しをした。人件費をゼロとしても食材の費用は巨額と言える。前記のように8月に子ども楽園村に招いた5人はその縁でやってきた。8月と12月には合わせて309万2220円をJENにカンパした(ほかに豊里などいくつかの実顕地から新聞社などへ500万円カンパした分もあった)。また、三重県ホームページの「東日本大震災に伴う支援に関する情報」の中に、「三重県被災地住民住宅・一時的滞在場所情報提供窓口」として、公営住宅や社宅と並んで「団体集団住宅等」として「津市 共同住宅 6畳間×50部屋(100人程度)、家賃無償、当面3〜6カ月間」と、豊里実顕地と春日山実顕地が紹介された。実際に応募した人はゼロだった(メンバーの親族が一時的に20人ほど避難した)。津市全体でも市営住宅に避難した人は約10世帯だという。実際に応募する人が現れて実顕地で生活することになったら、さまざまな問題が新しく生じると予測されたから、三重県にこの提案をするかどうかについては、反対の意見もあり、かなり討議を要したという。地域に開かれた実顕地をめざす一つの決断だった[156]。
ヤマギシ会の農業
『農業が創る未来』の著者である村岡到は、ヤマギシ会の農業について次のように記している。「ヤマギシ会は、日本農業全体が衰退しているなかで逆に着実に実績を積み重ねている。(略)ヤマギシ会は、その年間の売上高が農事組合法人のトップに位置する実績を上げている。この事実はメディアでも取りあげられた。情報誌『FACTA』五月号では小さな記事ではあるが、『農事組合法人のトップに躍り出た「ヤマギシ会」」と見出しをつけられ、「年間売上高は約六六億円、約七五〇人(豊里プラス春日山)のメンバーが共同生活している』[157]。
また、村岡はヤマギシ会の農業は、農業関連の業界などで早くから注目されていた、として、「大阪農業ジャーナリストの会」や「現代農業」「米穀新聞」、小松作業の「鳥と人」「環境新聞」「FEEDING」「鶏卵肉情報」「養豚情報」「牧場ガイドブック」(家の光協会)、黒田宣代著『「ヤマギシ会」と家族』などでヤマギシ会の農業が紹介されていることを記している[158]。
さらに、村岡はこうも述べている。「ヤマギシ会の農業を研究テーマに設定して全面的に明らかにする労作も発表されている。すでに四半世紀前の一九八八年に、農林水産省の職員・足立恭一郎氏は『有機農業』という視角から、ヤマギシ会の営為に着目した。足立氏は、農林省農林水産政策研究所の雑誌『農業総合研究』で、『「産消提携」による農の自立——ヤマギシ会の営みを事例にして』といして、ヤマギシ会の農業の実態を克明に研究し、そこに日本農業の活路を見出していた」[159]。「足立氏は、ヤマギシ会の農業がこの急成長を可能にしたのは要件として、参加者が『修養の思想』(「研鑽の姿勢」)で事に当たっていることを上げ、彼らの労働観に着目し、その独特の『適期作業』の有効性を分析している。その労働観とは『結果を求めて過程を楽しまず、自分のためだけにする労働は貧しい』と語る心境である。『適期作業』とは、『場に収まって、機に動く』と表現されている、労働のやり方である」[160]。
また、村岡はヤマギシ会の農法の特徴について次のように書いている。「ヤマギシズム農法に触れたどの著作にもよく指摘されているのは、ヤマギシ会の農場で飼われている鶏は静かだということである」「実顕地の鶏はほとんど尻つきをしない。騒いで鳴くこともない。鶏にストレスを与えないように育てているからである。豚の場合も同じように、尻尾がついているのが特徴である。普通の養豚では、鶏と同じでストレスによって互いに尻尾をかじる(尻かじり病)ので、生まれるとすぐに尻尾をちょん切ってしまうので、尻尾はないのだという。だから、養豚家がヤマギシ会の豚を見ると尻尾がついているので驚くという」「鶏でも豚でも牛でも糞が発酵作用によって臭気がしない。あるいはきわめて臭わない。また、ヤマギシズムの動物たちは、見知らぬ人(見学者)たちが前に立っても、驚いたり騒いだりすることはない」[161]。
「ヤマギシ会では、農業において、家畜の糞も尿も貴重な生産物である、という考え方をもっている。そこで、稲作のワラと糞や尿でできる堆肥との交換が成立する。近隣の農家に堆肥を無料で配り、ワラと交換する。そのワラがエサの材料になる。循環農業である。別言すれば、「自然界の理」に適った農法を追究している。機械については、どう考えているのか。ヤマギシ会の農業では、機械の活用は否定されていない。どの実顕地でも最新の高価な農機具が導入されている。『手抜き作業はいけないが、省力栽培は大切である』としている。だから、農場には機械類が多い。ただ、『能率よりも仕事の質を第一義として』いる。農業をまともに営むためには、稲作などに特化するのではなく、同時に畜産もやることが必要で有効である。ワラと堆肥のような循環を実現できるからである。そのためには、両方展開できるだけの土地の面積が必要となる。各地に広い実顕地をもっているヤマギシ会の優位点がここでも活きる[162]。「この『循環農業』は、広大な一カ所での農地において有効であるばかりか、地域を異にする複数の農地の連携・協力としても威力を発揮する。例えば、現在では、大潟実顕地では米作、岡部実顕地では深谷ネギ、飯田実顕地ではリンゴ、六川実顕地ではミカン、穂別実顕地ではメロン、夕張実顕地ではジャガイモなどとそれぞれが土地に適した作物を育てている。それらがまさに有機的に連携・循環している。損得計算で、儲けが出るところに出荷するという、市場経済の論理を超えてつながっているからである。逆に台風などで実害がでれば、他の実顕地に修理に飛んでいく。(略)ヤマギシ会は、農業と子どもの教育と結合させた。(略)子どもたちは、鶏や豚や牛を育てる担い手になり、そのことを通じて、自然の摂理や人の心について学ぶ。農業と教育を結合できたところに、ヤマギシ会の類い希な独自性と優位性が秘められている」[163]。「ヤマギシ会の農業のもっとも深い特徴は、実は農業という次元を超えた領域に存在していると見たほうがよいようである。(略)大潟実顕地をスタートした直後の一九九二年に『米穀新聞』に掲載されたインタビューでの沖永和規さんの次の発言がうまく説明している。『農業は人を育ている。農の営みで人を育てるという要素が大きい。作物や動物の世話をすることは、思いやる心を育てる。農業における教育後からはずいぶんあると思う。そのために農業を取り入れており、農業そのものが目的ではない。人が育つことで農業も育つ』と語り、その一例として、『例えば、種をまくときには適期がある。自分の都合だけではダメだ。今日が種をまく一番いい時期だとすると、自分がいやでもやらなくてはならない』と話している。『ウチ(ヤマギシズム学園)の子どもたちは、雨が降ったらすぐ畑に飛び出す。(略)『母なる大地』という言葉があるが、そこにしっかりと根づいた人間の生き方を追究するところに、ヤマギシ会の最奥の真髄、あるいは強さが秘められているようである」[164]。
沿革
創成期
山岸巳代蔵が提唱する理念を実践するための団体(社会活動実践母体)として、1953年(昭和28年)に発足[5]。同年、山岸式養鶏普及会発足[165][166]。山岸巳代蔵は鶏糞による米の増産と、そのころまだ貴重であった鶏卵の増産を目指す篤農家であった。1956年(昭和31年)には「養鶏の秘匿公開」を謳い文句に第1回の特別講習研鑽会が開かれた[167]。巳代蔵は養鶏技術を伝授することに積極的ではなく、むしろ難解な言葉を使って精神論を説くことに熱心であった。そのため離脱者が多く現れる一方、熱心に耳を傾ける者も現れた[168]。巳代蔵から秘匿技術を明かされたという会員の一人によると、巳代蔵が出し惜しみした技術は驚嘆するような内容ではなかったが、密かに伝授された秘密を共有することで信奉者間の連帯感が強まったという[169]。後に秘匿技術を知る者は「理想社会の真髄を知る者」として会の指導者的立場に立つことになる[170]。1956年に第一回特別講習研鑽会が開催され、同年および翌年の特別講習研鑽会への参加者はあわせて4500名を超えたという。創成期のメンバーの生活は、「昼食は全員甘藷」「醤油なし、おかずなし」というほどどん底にあえいだこともあったという。その苦悩ぶりを知る証言が、『Z革命集団・山岸会』のなかに記述されている。
成長期
1959年(昭和34年)7月、特別講習研鑽会の受講者を監禁したり、ニセ電話で家族を呼び出して強制的に受講させていたとして幹部12名が監禁・脅迫の疑いで逮捕される(山岸会事件)[171][172](後述)。この事件はマスコミによって大きく取り上げられ、会のネガティブなイメージが全国に広まった[173]。しかし一方で事件後、左翼系文化人による「思想の科学」の支持を得る[174]。山岸巳代蔵はもともと、アナキズムやマルクス主義に影響されたことのある人物であった[175]。
1961年(昭和36年)5月、巳代蔵が他界。会の指導者の地位は杉本利治に引き継がれた[176]。同年「ヤマギシズム中央調整機関」、「ヤマギシズム研鑽学校」が発足。その後1968年(昭和43年)頃より始まった全共闘時代にコミューン運動としてヤマギシが捉えられ、従来の農家出身者に代わり、学生運動経験者などの先鋭的な左翼思想を持った若者が多数加入した。特講を受講した哲学者の鶴見俊輔は、ヤマギシ会にベトナム戦争の脱走アメリカ兵を長い間預かってもらったと語っている。
山岸会事件の影響から会は「冬の時代」を迎えたが、1970年代に「自然食品を生産するコミューン」として再び注目を集めるようになり[177]、自然食ブームに乗って生産物の流通体制を整えていった[178]。以降1990年代まで会の経済規模は拡大を続け[179]、その一方で生産に携わる会員は幹部からの指示を全面的に受け入れ、長時間労働することを余儀なくされていった[180]。同じく1970年代には学生運動に挫折した者[181]や「コミューン志向の学生」[182]が会に参画した。ジャーナリストの斎藤貴男によると、1970年前後には革命運動に挫折した全共闘の学生が「最後のユートピア」を求めて大量に流入したという[174]。
1980年代には「心あらば、愛児に楽園を」と謳い、子育てや教育への不安や関心を背景に一部の教育者や子供をもつ者からの支持を得、発展を遂げた[183]。1983年から1990年にかけて10の社会実顕地 が新たに建設され[124]、1984年に子供を除き740名であった社会実顕地への参画者は1995年には2270人にまで増加した[124]。その一方、社会実顕地内では1979年9月に食事や入浴の作法など生活の細部にわたる「生活法」が定められ[184]、さらに1980年代に入り「真実の生き方に酒・タバコは必要ない」として禁酒禁煙が言い渡されるなど、規律が強化されていった[124]。「ハイでやります」「よく聞いてその通りやります」というスローガンが掲げられ、規律に従わない参画者は「何故その通りやらないのだ」と昼夜を問わず「研鑽」の対象となった[185]。
退潮・内閉
1980年代以降、ヤマギシ会は社会から好意的にみられ[186]、1986年以降は百貨店における生産物の販売も始まっている。しかし1994年(平成6年)にヤマギシズム社会実顕地の元参画者が「ヤマギシを考える全国ネットワーク」[† 20]を結成し、幸福会ヤマギシ会が抱える負の側面を告発すると[187]、会に対する批判や疑惑を取り上げるメディアが続出した[188](なお、「ヤマギシを考える全国ネットワーク」結成前の1991年8月、4000人が参加した「子ども楽園村」の開催中に幼児が送迎バスのなかに放置されたまま死亡する事故が起こり、マスコミによって報道されている)。1995年以降、同会に対し10件を超える訴訟が提起され、原告側は「被告法人」が「理事・幹部による参画者に対する支配管理」、「監視の常態化」、「日々の研鑽という名目の参画者に対するマインドコントロール」によって「参画者の思考停止状態を維持し、物言わぬ労働ロボットを生産している」と訴えた[189]。
さらに、「ヤマギシを考える全国ネットワーク」結成と時を同じくしてオウム真理教が起こした事件の捜査が進展し、幸福会ヤマギシ会を同種の危険なカルト集団として批判する風潮が生まれた[190]。1994年(平成6年)に500名いた年末年始の特別講習研鑽会(正月特講)への参加者は、1995年(平成7年)に400名、1996年(平成8年)に130名、1998年(平成10年)に20名と減少を続けた[190]。幸福会ヤマギシ会が生産する農産物の売り上げについても、幹部が減少を認めるに至った[191]。
加えて1997年(平成9年)には国税局の税務調査を受け、書類上でのみ支給され実際には支払われず組織内の機関にプールされていた社会実顕地参画者に対する給与[† 21]について贈与にあたると指摘され、200億円の申告漏れを理由におよそ60億円の追徴課税が課された[192]。
幸福会ヤマギシ会は1998年(平成10年)10月、「村から街へ」をスローガンに、「中高年は20代30代の若者のために、実顕地を出て街で暮らそう」と呼びかけ、40歳以上の参画者を「出精平使」と称し外部社会に送り出す方針を打ち出した[193]。さらに実顕地の中では、「子供が〈学園〉でやれなくなった場合、親は子供と一緒に村を出る」という不文律が布かれ[194]、離村勧告の対象となりうる矯正機関への入所者を増やす[195]など、参画者を増やすよりも減少させる動きを見せるようになった[195]。近藤衛によると、1999年(平成11年)に約2150名だった参画者は、2001年(平成13年)1月には子供を除き1700名にまで減少した[196]。こうした動きについて近藤は、集団農場の経営効率化策だと分析[197]するとともに、会が内閉期[† 22]に入ったと指摘している[199]。
村岡到『ユートピアの模索――ヤマギシ会の到達点』によると、外部からの批判を受け幸福会ヤマギシ会は以下のような改善を行ったという[200]。
- 1998年4月から、学校に通う子どもが朝食を摂れるようになった(それまでは二食)。
- 1999年からメンバーに月1万円の小遣いを支給するようになった。
- 1999年春からは、「ヤマギシズム学園高等部」に進学した者が通信制高校に入学できるようになり、翌年春からは、全日制高校にも入学できるにようになった。
- 2000年2月からは「もっと親が子育てに関わった方が良いのではないか」ということになり、夕食は親と一緒にするとか、毎週末には親とともに過ごすようになった。
- 飲酒についてもほぼ全面禁酒からほどほどに飲酒する人も増えてきた。(6)脱退者への「返金」についても、出資金に応じて生活準備金を用意するようになった。
島田裕巳は、「ヤマギシ会は日本企業の究極形?」と題して、こう述べている。「ヤマギシ会は無所有の制度を確立し、それを効果的に運用することで、急激な拡大を実現した。無所有の共同体では、組織と個人が融合し、極めて効率的な形で大きな力を発揮する。一般の社会がそうした仕組みで動いていないなか、人材や経済力をもっとも効果的に活用できる仕組みをもつことは、最大の強みだった。しかし、あまりにその発展が急であったために、組織のなかにさまざまな問題が生まれることになった。さらには、外部からの批判も受けるようになる。そうなると、社会とは異なる独自のシステムを採用していること自体が裏目に出て、そのあり方そのものが批判の対象になっていった。 ちょうどそれは、日本社会が急速な経済発展をとげて、世界第二の経済力を身につけた時点で、アメリカと経済摩擦を起こしたのに似ている。日本は、組織と個人を一体化することで極めて効率的な企業組織を作り上げ、生産力を向上させたが、それはアメリカにとって大きな脅威となった。アメリカ企業の雇用に悪影響が及び、日本は批判にさらされることになった。ヤマギシ会は、そうした日本社会のミニ版であったとも言える」[201]
トラブル・事件
山岸会事件
ヤマギシ会が1958年(昭和33年)に三重県に設立した共同体「山岸式百万羽科学工業養鶏株式会社」が、同県阿山郡伊賀町で百万羽の鶏の飼育を目的に開拓を目指したものの難航する中、構成員の知人らを「ヨウアリ、スグコイ」など真意を隠した内容の電報で呼び寄せ、1959年(昭和34年)7月の特別講習研鑽会に参加させた事件。「家族が監禁されて講習を受けさせられている」といった訴えが数多く寄せられ、7月10日に山岸会幹部9名が三重県警に逮捕された[202][203]。山岸巳代蔵にも逮捕状が出たが行方をくらまし[177]、9か月の逃亡生活を送った末に逮捕された[174]。山岸会は「謎めいた思想集団」、「謎の革命集団」として報道された[204]。「春日山50年のあゆみ」によると山岸会事件が実顕地に与えた影響は甚大で、春日山実顕地の財政は逼迫し、食料や衣料にも事欠き、多くの構成員が出稼ぎに出たという[205]。1961年4月28日、逮捕された14人に禁固1年から10カ月、執行猶予2年の判決が下った[205]。
ヤマギシズム学園にまつわる問題
1985年(昭和60年)、ヤマギシ会は同会の広告塔であった元早稲田大学教授・新島淳良の提唱により[206]、子供が24時間の集団生活を送る私塾「ヤマギシズム学園」を設立した[207]。ヤマギシズム学園は幼年部(5歳児が対象)、初等部(小学生が対象)、中等部(中学生が対象)、高等部、大学部からなり、入学できるのは会員の子、または親の少なくとも一人がヤマギシズム特別講習研鑽会を受講した者の子のみである[208]。学園は「人間としての基礎的な一般知識・教養については、義務教育である中学校までにしっかりと学習できていれば十分」という考えに立ち、高等部では進学のために必要な授業を一切行わない[209][† 23]。また、大学部は高等部卒業後、実顕地参画を決めた者のために用意された部門である[211]。ヤマギシズム社会実顕地参画者の子については学費がかからない[211]。幼年部と高等部の生徒は、実顕地の外に出ることが一切できない[212]。初等部と中等部の生徒は義務教育を受けるために実顕地の外に出ることができる[212]が、非会員と遊ぶことや放課後のクラブ活動は禁じられている[213]。生徒は常に集団行動をとることが求められ[212]、米本和広によると6-10人が一つの部屋で過ごし、2人が一つの布団で一緒に寝なければならない[214]。親との面会が許可されるのは2か月に一度だけである[212]。こうした「子供を親元から離して群れに放つ」方式は、ヤマギシ会が一般家庭の子供を対象に行っている学育イベント「子ども楽園村」でも採用されている[215]。元実顕地参画者の松本繁世によると、幸福会ヤマギシ会は無所有の概念を子供にも適用し、「子供も誰のものでもない」と考えている[216]。
生徒には「作業」として畑仕事や動物の世話が課せられ、時間は中等部生で週25時間、年1300時間[217]、高等部生で1日16時間[218]に及ぶ。米本和広は、「作業が単なる労働だとすれば、児童労働を禁じた労働基準法にも抵触する」と指摘している[218]。さらに米本によると、生徒は実顕地で採用されている間食・夜食・朝食なしの1日2食という食生活を強いられる[219]。
1994年(平成6年)、ヤマギシズム社会実顕地の元参画者が「ヤマギシを考える全国ネットワーク」を結成し、学園での子供に対する暴力問題を告発した[187]。これを受けて日本テレビ系列のニュース番組『NNNきょうの出来事』が問題を追及し、「包丁を突きつけられて脅される」、「風呂に連れていかれ熱湯をかけられる」、「竹刀で20回も殴られる」、「部屋に呼ばれて裸にされて殴られる」という被害者の証言を報道した[187]。
ヤマギシズム学園は学園の目的を「<育ち合いの原理に立つ独自の学育方式>によって子どもたちを<完成人間>に成長させること」とし、「<完成人間>に育っていくための<真の子ども像>」として「実学的姿勢」、「タダ働き」、「異性(男らしさ、女らしさ)」、「明るいのが正常」、「楽しいのが本当」、「研鑽態度」、「我執がない」といった項目を掲げている[220]。学園出身の子どもや学園生徒と接した経験のある教師、さらにヤマギシズム学園事務局から聞き取り調査を行った米本和広は、得られた証言に基づき学園の目的を解釈すると「子どもたちから<我執>を取り除き、<研鑽>で決まったことを実行するロボット的な革命戦士[† 24]に育成する」ということになり、そのために拘禁、正座、暴行といった体罰が用いられている[† 25]と指摘[223]し、「学園で行われていることは、社会的に言えば『組織的な児童虐待』以外のなにものでもない」と批判している[224]。
前述のように米本によると、実顕地内では「若い女の子の方が優秀な子どもを産む」、「男は何歳でもいい」という考えのもと、「20代前半の女性と30、40歳代の男性」という組み合わせの結婚が担当者からの「提案」に基づいて多く行われる[152](調正結婚[150][154])が、新規参画者には30、40代の主婦が多いため、結婚の「提案」の対象となる女性はヤマギシズム学園高等部を卒業して2、3年の女性である[153]。このことについて米本は、「彼女たちは『我』を主張することを長い間禁じられてきたため、『イヤ』と表現することができなくなっている。……脱走しない限り、女の子たちは中年男性の快楽と『優秀な子』を産む道具と化す」と批判している[153]。
広島弁護士会は広島県三次市のヤマギシズム学園花見山初等部に対して、「憲法や子どもの権利条約で保障された人権が侵害されている」として警告書を提出した。これに対し学校サイドは「子供を預かっている学校が、担任が子供たちを見ているときに、おなかがすいて輪ゴムを食べたりとか、あるいは体が悪くないのに長期に休ませるとか、放課後部活もできない、そういうことを見て、これは子供が普通じゃないんじゃないか」と、広島弁護士会の方に相談し、広島弁護士会も、「平手打ちなどの体罰、あるいは反省させる名目で数時間から数日間も狭い一室に一人で閉じ込めた。また、通学日に朝食を与えず、十八時間も食事をさせなかった、子供の手紙を無断で開封し閲覧した、無断で私物を検査し、取り上げた、家族との交流は月一回に制限され、休日も学園のスケジュールどおりで、テレビ、新聞の視聴、閲覧を制限した」と警告書を出した。同様の事例が過去に岐阜県の武並小学校でもあったと広島弁護士会はしている。岐阜では食事を抜く、雨の中裸で外へ出す、登校させない、会の中での暴力行為がある等が子供たちの様子から感じられて警告書を提出するに至ったとしている。池坊保子はこれらの問題を衆議院予算委員会で取り上げ、両事例において警告書が出されると当事者児童は強制的に三重県へ転校させられた[† 26]と述べている[226]。池坊は、幸福会ヤマギシ会が学校法人設立の要望書を提出した際に行われた子供を対象に行った無記名のアンケートにおいて、8割が暴力を受け、したくない労働をさせられている旨回答したと指摘し、これに対し宮下創平厚生大臣は「大体御指摘のような事実が極めて高い確度で想像され」ると回答している[226]。米本和広によると、地域の学校や教育委員会の中には実顕地で歓待を受け、生徒の保護者を親権者ではなくヤマギシズム学園の担当者にすることを認め、親族が学校を経由して生徒に手紙を渡そうとしてもそれをヤマギシズム学園に手渡してしまうなど、幸福会ヤマギシ会と癒着関係にあるものがある[227]。
財産返還問題
前述のように、近藤衛によると、ヤマギシズム生活実顕地の中で暮らす者は私有財産のすべてを幸福会ヤマギシ会に「無条件委任」し、実顕地の中での労働に対し賃金[† 21]が支払われることもない[17][† 13]。しかしながら帳簿の上では賃金が支払われていることになるため、実顕地を去った者には財産が残されていないにもかかわらず、帳簿上の収入に基づき税金が請求されることになる[109]。さらに近藤は、生活実顕地を去る者について、以下のように述べている。
1995年(平成7年)以降、ヤマギシズム生活実顕地の元参画者が委任した財産の返還を求める裁判が起こされるようになった[228]。弁護士の松本篤周によると、幸福会ヤマギシ会は入会者に全財産を寄付させた上、退会しても一切返還に応じないという姿勢をとっており、社会問題化している[229]。松本は幸福会ヤマギシ会に入会するにあたっては全財産をヤマギシズムに渡し、退会しても返還されない旨の契約を結ぶ必要があると警告している[229]。米本和広によると、幸福会ヤマギシ会は財産を「無条件委任」させるにあたり、特定の金融機関に個人口座を作らせ、そこに現金や現金化した資産、さらに給与を振り込む手法をとっているが、名義人である元参画者が口座の状況を確認しようとした際に、金融機関が「実質的預金者はヤマギシ会の調正機関である」として要求を拒んだため、返還を求める金額の把握・証明すら困難になったケースが存在する[230]。
2004年(平成16年)11月5日、ヤマギシ会の集落を離れた女性が入村時に放棄したとされた財産の返還を求めた裁判において、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は二審東京高裁判決を支持し女性側の上告を棄却した。これで女性が請求した一部の1億円の返還を命じてヤマギシ会を敗訴とした東京高裁の判決が確定した。ちなみに、「この女性(原文ではX)が平成元年六月の参画に際し、自宅及びアパートを含む全財産を幸福会ヤマギシ会(原文ではY)に交付したその総額は、二億九一六四万七九九三円となる」[231]
Xは「平成六年一二月に脱退を申し出て、平成七年始めにはYの同意を得て脱退した。脱退時には、Xは3人の子の分として、少なくとも九三〇〇万円の返還を求めたが、Yは長女の分として四〇三〇万円を返還したにとどまった」[232]
そこでXはYに対し、(1)特講・研鑽学校でのマインドコントロールという不法行為により交付した財産相当額の損害賠償、(2)Xの全財産の交付はYへの信託契約・消費寄託契約によるもので、同契約の終了による財産の返還請求、(3)財産の交付の原因となった契約は公序良俗違反・詐欺取消・錯誤で無効として不当利益の返還を請求し」[233]東京地方裁判所に訴えをおこした。東京地裁の一審判決は、「Xのアパート生活の期間中に、Yがこの女性(原文ではX)に支払った生活費などを出資額から控除して、二億四一三四万七九九三円の返還をYに命じた」[234]というものだた。
さらに、Yが控訴した東京高裁の判決は、「脱退時に返還した四〇三〇万円に加えて一億円を返還すべきで、この一億円を返還しない場合は参画契約の不返還特約は公序良俗違反となると判示した」[235]ものだった。「Xは上告受理申立てをしたが、上告棄却された」[236]
東京高裁は、次のように判じている(抜粋)。「本件では被控訴人(Xのこと)の特講・研鑽学校への参加、参画へと続く一連の過程に関与した控訴人(Yのこと)の担当者について、被控訴人が主張する社会的相当性を欠く違法な行為があったと認めることはできず、参画への勧誘等がその目的・手段・結果に照らして違法であるとはいえず、したがって、被控訴人に本件出捐行為をさせたこと自体及びその原因となった本件参画契約自体が公序良俗に違反するということはできないし、本件出捐行為をさせたことにつき控訴人に社会的相当性に欠く行為があったことを前提とする被控訴人の信義則違反の主張も採用することはできない」[237]『本件参画契約のうち被控訴人が控訴人を脱退する場合にいかなる事情があっても被控訴人の出資した財産を「一切」返還しないとする部分(以下「不返還約定」という)は、「一切」返還しないとする点において公序良俗に反するものといわなければならない』[238]
最高裁は、「Xの出えん行為は、Xの脱退により、その法律上の原因を欠くに至ったものであり、Xは、Yに対し、出えんした財産につき、不当利得(〈法〉ある人が法律上の原因なしに他人の財産または労務によって利益を受け、その結果として他人に損失を与えること」[239])返還請求権を有する」[240]としたが、「XがYに対して出えんした全財産の返還を請求し得ると解するのは相当ではない。Xの不当利得返還請求権は、Xが出えんした財産の総額、XがYの下で生活していた期間、その間にXがYから受け取った生活費等の利得の総額、Xの年齢、稼働能力等の諸般の事情及び条理に照らし、Xの脱退時点で、Xへの返還を是認するのが合理的、かつ、相当と認められる範囲に限られると解するのが相当である」[241]と判じている。ただし、最高裁は「Xが出えんした財産の返還請求等を一切しない旨の約定があるが、このような約定は、その全財産をYに対して出円、Yの下を離れて生活するための視力を全く失っているXに対し、事実上、Yからの脱退を断念させ、Yの下での生活を強制するものであり、XのYからの脱退の自由を著しく制限するものであるから、上記の範囲の不当利得返還請求権を制限する部分は、公序良俗に反し、無効というべきである」[242]と判じている。
このような最高裁の判決について、北海道大学の藤原正則教授は、「『無所有共用一体社会』の実現を活動の目的としている団体に加入するに当たり全財産を出えんした者がその後同団体から脱退した場合に合理的かつ相当と認められる範囲で不当利得返還請求を有するとされた事例」[243]と題して、次のように評釈している。
「本件でまずXは、Yの担当者の勧誘行為は不法なマインドコントロールであり、不法行為を構成すると主張しているが、本件でのYの不法行為の肯定は困難であろう」[244]とし、さらに、「XのYへの出捐が信託契約・消費寄託によるという主張も、一審・原審で退けられているとおり、出資明細書の文言「権利主張・返還請求等一切申しません」からは、その認定は不可能であろう」[245]
さらに、「返還義務の範囲の決定の考慮の要素は、(略)Yの下での生活が長期化するほど、精算されるべきXの出捐は消尽していく。これは決して偶然ではなく、全財産を出捐して共有し、他の構成員のためにも出捐財産が使用されるという団体への加入は、婚姻関係に近いと考えることができる。その意味で、判示のYの返還義務の範囲の評価は、本件のY団体の特性を十分に考慮した基準だと考える」[246]とし、さらに、次のようにも述べている。「Xの出捐の返還請求権は不当利得というようり契約上の精算、請求だと考えることもできる」[247]
また、藤原正則教授は、出捐を一切返還しないという約定については、次のように述べている。
「やむを得ない事由による組合(ヨットクラブ)の脱退を禁じた規定や、ユニオンショップが公序良俗に違反するという判例を前提とするなら、本件での、Xの出捐を一切返還しない約定は、公序良俗違反と評価されよう。本件では全財産を出捐しており、かつ、返還が拒絶されれば生活基盤が脅かされるという状況にXが陥るとなれば、本件の不返還特約が事実上は脱退を不当に制限しており、公序良俗となるのはむしろ当然である」[248]
なお、この財産返還請求裁判の東京高裁の判決内容等ついては「判例時報」1792号の63頁から73頁に、また、最高裁の判決内容等については「判例時報」1881号の67頁から76頁に、それぞれ詳しい。
ドイツ
詳細は「政府の文書によってカルトと分類された団体一覧#ドイツ」を参照
1996年(平成8年)、ドイツ連邦政府はすべての州と協力し、パンフレット"ドイツ連邦共和国のいわゆる若いカルトと精神異常グループ"(Sogenannte Jugendsekten und Psychogruppen in der Bundesrepublik Deutschland)を作成し、当時増加傾向にある新宗教団体などをあげた。その中にヤマギシ会が掲載された[249]。 ヤマギシ会は、「ヤマギシ (スピリチュアルと環境の要素を持った日本の新宗教)」 Yamagishi (Japanische Neureligion mit spirituellen und ökologischen Elementen)と紹介された。
幸福会ヤマギシ会とユートピア
近藤衛は、アメリカの社会学者ロザベス・カンターが19世紀のアメリカで栄えたユートピア集団(シェイカーen:Shakers、ハーモニー、アマナ、ゾアル、ソウノウヒルなど)の特徴として挙げている「脱会しても拠出した財産を返還しない」、「親子が分離して生活する」、「プライバシーの余地がない」など100の項目のうち、およそ90%が幸福会ヤマギシ会についても当てはまると指摘し、ユートピア集団と多くの類似点がみられると述べている[250]。
近藤は、幸福会ヤマギシ会を「歴史的にも類をみない特異なユートピア集団」であり[251]、そのような集団を組織できた要因は創始者である山岸巳代蔵の思想にあったと分析している[252]。山岸は、食糧増産のためにと伝授を求められた独自の養鶏技術を「真の幸福社会建設のため」秘匿し、養鶏よりも精神論を説き、精神論に耳を傾ける者にのみ若干の技術を教えた。技術を会得しようとする者は研鑽会を開き、山岸自身の難解な言葉の中から「真理」を得ようと必死になった。近藤は、「秘密」の存在をほのめかすことで山岸が人心を掌握していったのだと分析し[253]、その後も「秘密の呪縛」が組織を維持する原動力になっていると推察している[254]。さらに近藤によると、山岸の言葉には矛盾が多く、後に幸福会ヤマギシ会は山岸の言葉のうち組織運営に都合のいいものを選んで会員の〈観念〉を操作しようとした[255]。
近藤は「ユートピア共同体が成立するには、外部社会とその集団を隔てる『境界』が高く設定されなければならない」とし[256]、1998年(平成10年)10月に「村から街へ」をスローガンに40歳以上の参画者を外部社会に送り出す方針を打ち出した[193]ことで幸福会ヤマギシ会と外部社会とを隔てる境界は弱められ、会のユートピア集団としての存立基盤に変動が生じる兆しが出てきたと指摘している[256]。
近藤は特別講習研鑽会の中で冒頭部に「宗教に非ず」と書かれたテキストが配布された経験を明かし、「『宗教に非ず』と断ること自体、ヤマギシ会がいかに既存の宗教団体と似ているかを示している」とも述べている[257]。ジャーナリストの斎藤貴男は「その宗教性は否みようもない」としつつ、ヤマギシ会側は宗教を固定観念だと非難し、宗教団体として扱われることに強い反発を示すと指摘している[258]。
米本和広は、変性意識状態に陥った山岸巳代蔵が脳内に思い浮かべ、他の人たちと共有したいと願った「現実世界とは異なる『真実の世界』」としてのユートピア社会こそが幸福会ヤマギシ会の本質であると推測し[259]、変性意識状態を他の者にも体験させるために考案されたのがヤマギシズム特別講習研鑽会であり[260]、「『特講』で解離状態になった」ときに脳に浮かんだイメージ上のユートピア社会を、実際にこの世に顕した『村』」がヤマギシズム社会実顕地であるとしている[261]。その上で米本は、幸福会ヤマギシ会を「『イメージ世界』に私たちを引きずり込み、自分たちと同じような脳内回路をもった人間を仕立て上げようとする」集団であると定義する[262]。米本によると、イメージ世界を共有できている者とできていない者とでは物の見え方すら異なる[263]。米本は、「イメージを現実化した村」、「『日本国』のなかにありながら日本とはまったく別の国家内国家」というべき集団が数十年の間発展したことを「驚異」、「正直なところ畏敬の念すら覚える」と述べている[264]。
島田裕巳は、「ヤマギシ会の実顕地を作りだしたのは日本人であり、そこには個人を集団と融合させることに価値をおく日本的な価値観が生きている。日本人は、企業経営を行うにしても、それを批判してユートピアを作ろうとしても、最終的には同じような組織、同じような集団を生み出してしまったのだ。ヤマギシ会の成長と繁栄は、実顕地が現在の経済システムにもっとも適合するようなかたちに変化してきた、つまりは企業化してきた結果なのである。ユートピアとは、『どこにもない場所』のことである。古来からユートピアを建設する試みが数多く生まれてきたが、ほとんどは中途で挫折し、場合によっては逆ユートピアを生んできた。これに対して、ヤマギシ会は確固たる経済基盤を確立することによって、繁栄し、その試みは成功したかに見える。しかし、実顕地に生きる人間は、自己を集団に委ねることによって、個人の自由を放棄してしまったのだ。私たち日本人は、やはり自由の放棄という代償を支払うことによってしかユートピアを実現できないのであろうか。私たちがヤマギシ会の実顕地生産物を通して感じるユートピアの味がほろにがいのは、ヤマギシ会が決して特異な集団ではなく、企業などに見られる日本的な集団主義の理想を極限まで推し進めたものだからである」[265]