2016/10/07

戦後70周年「真の愛国心 ~武士道と新渡戸裁定~」 新渡戸シリーズ 第4弾 - YouTube

戦後70周年「真の愛国心 ~武士道と新渡戸裁定~」 新渡戸シリーズ 第4弾 - YouTube

戦後70周年「真の愛国心 ~武士道と新渡戸裁定~」 新渡戸シリーズ 第4弾

  
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게시일: 2014. 2. 11.
世界的ベストセラーとなった『武士道・BUSHIDO』の著者・新渡戸稲造。

第一次世界大戦後に設立された国際連盟では、その知識・教養をかわれ、国際連盟の事務次官に就任します。

オーランド諸島を巡っての領土紛争問題では、その解決に大いに貢献し、「新渡戸裁定」として、今も世界から賞賛を受けています。

新渡戸裁定とはどのようなものだったのか。現代にも通じる領土問題に、新渡戸稲造が出した答えとは。

そして、そこから見えてくる「真の愛国心」とは。

新渡戸稲造研究の第一人者・佐藤全弘氏に、その内容を語っていただきます。

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新渡戸稲造 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞

新渡戸稲造 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞






新渡戸稲造 
(にとべいなぞう)
留学でアイデンティティ確認
国際結婚の先駆者  「太平洋の橋」を実践した生涯

  新渡戸稲造は、「日本最初の国際人」として多方面で活躍した。彼はアメリカに留学し、アメリカのキリスト教に対応する日本の精神文化は武士道であると主張する。アメリカ人女性メリーとの国際結婚。「太平洋の橋」を築く第一歩が始まった。 

日本最初の国際人
  新渡戸稲造は、5千円札の肖像として知られている。しかし彼の人物やその足跡に関しては意外に知られていない。彼の業績で特筆されるべきは、第一次世界大戦後、世界の紛争解決を目指して設立された国際連盟の事務局次長としての活躍であろう。日本が生んだ「最初の国際人」と言われるゆえんである。
  国際人としての新渡戸は、歴史教科書にも載るほどの有名人であるが、実は彼にはもう一つ教育者としての顔がある。京都大学の教授、一高(後の東大教養部)の校長、東京女子大学の学長として彼は長年教育者として学生を指導した。後世に与えた影響という点で言えば、むしろこちらの方が大きいのかもしれない。さらに台湾総督府に役人として奉職した時期もある。また著述家として膨大な著作を残してもいる。新渡戸の活躍は多方面にわたっているのである。

札幌農学校へ
  新渡戸の国際人としての第一歩はキリスト教の受容にある。彼が入学した札幌農学校はキリスト教の熱気が充満する他に類のない学校であった。アメリカのマサチューセッツ州立農学校長ウイリアム・クラークが創設と同時に招聘された。北海道の開拓はアメリカをモデルにするという政府の方針があったからである。
  クラークが日本で教えていた期間はわずか7ヵ月にすぎなかったが、学生に与えた影響は甚大なものであった。彼の教育方針は明確である。キリスト教を根底にする人格形成、これに尽きる。人格の涵養こそ、人間としての生きるべき基本であり、これなしにいかなる教育もあり得ない。教育者クラークにとってこの一点は妥協の余地のない信念であった。
  クラークの影響のもと、札幌農学校の1期生全員がキリスト教の信者になった。新渡戸が2期生として入学した当時の農学校の雰囲気は、すでにクラークが帰国していたとはいえ、キリスト教信仰の熱気に満ち溢れていた。入学1ヵ月後、新渡戸は早々とキリスト教信者になってしまった。最後まで頑固に抵抗した人物が同期の内村鑑三である。内村は後に日本を代表するキリスト教徒となり、新渡戸とは生涯の友として親密な交流を続けることになる。

太平洋の橋
  新渡戸と内村は、共に日本を代表する知識人であり、キリスト教徒であり、かつ教育者である。両者とも、アメリカでの留学体験を通して、日本のアイデンティティに目覚めていく。新渡戸は『武士道』という本をアメリカで出版した。アメリカの教育の原点にキリスト教的モラルがあるように、それに対応する日本の道徳が、実は武士道であるということを欧米人に伝えようとしたのである。内村も日本の武士道精神は、アメリカのキリスト教以上にキリスト教的であると主張した。
  この二人は共にすぐれた教育者であった。内村が日本人に神を伝えることを自らの使命と感じていたように、新渡戸は日本人に世界を伝えようとした。
  新渡戸といえば、「願わくは、われ太平洋の橋とならん」の言葉で有名である。この言葉が最初に発せられた時のエピソードを紹介しよう。農学校卒業後、彼はしばらく北海道開拓に従事していた。しかし、学問の深奥を究めたいという欲求が澎湃として興り、東京大学英文科への入学を希望した。その時面接した教授とのやりとりである。
 教授「英文学をやってどうします。」
 新渡戸「太平洋の橋になりたいと思います。」
 教授「何のことだか私はわからない。何のことです。」
 新渡戸「日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたいのです。」

東大退学、米留学へ
  学問に対する押さえがたき情熱をもって東大に入学した新渡戸ではあったが、東大での授業は向学心旺盛な彼を満足させるものではなかった。むしろ彼は東大に失望し、友人に「愛想が尽きました」と手紙を書いている。23才の時、新渡戸は東大を退学し、横浜港からアメリカに向かった。
新渡戸の生涯が「太平洋の橋」として象徴されるのは、彼の国際的見識、人脈、あるいは後の国際連盟の事務次長や『武士道』の著者としての活躍ばかりではない。もっと実生活での体験そのものによって、裏付けられている。アメリカ人女性メリー・エルキントンとの国際結婚である。
  新渡戸とメリーの出会いの機縁となったのは、彼が札幌で得たキリスト教の信仰である。渡米後、新渡戸は日曜日ごとに教会に足を運んだ。そこで彼が見たものは、札幌で彼が体験したキリスト教とは似ても似つかない姿であった。荘厳な建物、数万数千の聴衆、驕奢な服装、贅沢なアクセサリー。どれ一つとってみても、違和感が彼を襲った。
  札幌の教会は粗野で質素なあばら屋、礼拝も信者の学生が持ち回りで担当するような素朴で原始的なものであった。しかし、若者たちの精神の中には、確かな内的覚醒が芽生えていたのである。
アメリカの教会に失望しつつあった頃、彼が出会ったのがクエーカーであった。クエーカーは17世紀にイギリスに起こったキリスト教の一派で、儀式や形式よりも、神やキリストとの霊的交わりによる宗教的感動を重視する集団である。その感動の絶頂の時、体が震動するので、クエーカー(震える人)と呼ばれるようになった。
クエーカーはそれまで、彼が出会ったアメリカのどの教会とも趣を異にしていた。質素な建物、古風な服装、礼拝も信者が瞑想し心に宗教的感動が生じた者が、立って短い感想を述べるだけ。「なるほど、これが本当の教会の姿だ」。新渡戸は札幌での原初体験を思い出したに違いない。後に彼の妻になるメリー・エルキントンは、このクエーカーの熱心な信者であった。

国際結婚の障害を越えて
  当時にあっては、日本人が外国人女性と結婚するというのは、驚天動地の大事件である。彼の悩みは一通の手紙から始まった。彼女から届いたプロポーズのラブレター。「これはエライことになった」というのが彼の率直な気持ちだった。西洋人を妻にして、閉鎖的な日本社会で生きていけるのか?好奇の目にさらされて生きていかねばならないのでは?さまざまな障害が予想された。
  さんざん思い悩んだ末、彼は決断した。自分に向けられた彼女の愛と、自分自身の彼女への愛に委ねることにしたのである。彼は神に祈りを捧げた後、彼女に結婚承諾の返事を書いた。
 しかし障害は新渡戸側だけにあったわけではない。むしろメリーの側にこそあったのである。白人の上流階級の娘が、アジアの未開社会である日本人、つまり黄色人種に嫁ぐというのである。メリーの両親も、兄弟も大反対であった。宗教的感動と人間の兄弟愛を説くクエーカーの人々すら反対した。
  結婚の話が持ち上がって以来、新渡戸に対するアメリカ人の人種的偏見と敵意は想像を絶するものであった。「黄色人種は血が濁っている。白人の娘を妻にしようとするなんて、とんでもない思い上がりだ。あの男を許すな」。それまで彼を暖かく迎え入れてくれた人々が手のひらを返したように、差別と偏見と敵意を彼に向けた。
  しかし二人の愛は変わらなかった。新渡戸の信念は「太平洋の橋」となることである。結婚という現実に直面して、日米間の溝の深さに改めて気づかされた。だからこそ、彼は「橋」となる必要があると考えた。新渡戸にとって二人の結婚は、二人の愛の確認にとどまることなく、彼の信念の一つの実践でもあったのである。
  状況は徐々に緩和されてきた。強固な反対姿勢を貫いていたメリーの兄弟たちが、まず理解を示すようになってきた。親戚やクエーカーの有力者たちも、賛同に変わり始めた。メリーの両親は結婚式の出席を拒否したが、新渡戸夫妻が日本に向かう直前、二人の結婚に賛意を伝え、家に招いて別れを惜しんだという。
  外交官として、教育者として、新渡戸の「日本最初の国際人」としての活躍はめざましいものであった。しかし、時代の流れは新渡戸の信念とは全く逆の方向に向かっていた。太平洋に橋を懸けるどころか、両国の間に戦争の気配が押し寄せていた。
 1933年3月、日本は新渡戸がかつて奉職していた国際連盟を脱退し、戦争への道を突き進むことになる。青年時代に抱いた「太平洋の橋」になるという夢は、もはや砂上の楼閣となった。同年10月、新渡戸は失意の内に息を引き取った。しかし、戦後日本は新渡戸の夢を追うかのごとく、太平洋に強固な橋を構築した。戦後の平和と繁栄は、新渡戸が残した一つの遺産であるに違いない。 

安倍総理に国会で韓国を日本の自衛隊が守れと頼む小川敏夫!|凛として愛

安倍総理に国会で韓国を日本の自衛隊が守れと頼む小川敏夫!|凛として愛

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安倍総理に国会で韓国を日本の自衛隊が守れと頼む小川敏夫!日本人が激怒する反日 売国奴 民主党 小川敏夫の質疑に安倍首相も呆れながら論破!
なぜ、日本が、竹島を不法占領し、反日教育をしている韓国を助けなければいけないのでしょうか?
韓国は、日本にとって「敵国」であり「密接関係国」ではありません。
 大体韓国は、独立国ですし、日本の自衛隊が助けなくても、立派な軍隊お持ちじゃないですか~
自衛隊は、日本を守るために存在するのです。 それも未だ「国防軍」とは認められていないのです。 その方を問題にして、いかに国を守るべきかを考えなくてはいけないのに、なぜ「韓国を助けろ」なんでしょうか?
自衛隊を『暴力装置』なんて暴言を吐いた党です。
本当に呆れます。
こういう人が、日本の国会に『侵入』しているのです。 「侵入」を許したのは、私たち国民なのです。 こういうトンでも売国奴に議員バッジを付けさせないためにも、選挙に行ってこういう人を二度と政治家にしないことが重要かと思います。(凛)

新渡戸稲造 ~ 太平洋の架け橋|凛として愛

新渡戸稲造 ~ 太平洋の架け橋|凛として愛

凛として愛

50代の主婦です。
日本人の生き方を考えて行ければと思います。


私が、素晴らしい内容だと思うブログを中心にご紹介させていただいています。

普通の主婦目線で、祖国について考えて行きたいと思っています。

ご一緒に良い国をつくるために考えましょう!



2016年03月09日
テーマ:
今週は、共産主義について書いていますが、今日国連人権委員会であまりにも酷い話がありましたね。日本の男系天皇を変えろなどと言う発言をしようとしていたとか・・・
http://www.sankei.com/politics/news/160309/plt1603090006-n1.html
もう、日本人としては許せないことです。
国連についてもう一度考える機会になればと思い、新渡戸稲造のお話を取り上げてみました。
動画も併せて是非見て頂ければと思います。

新渡戸稲造 ~ 太平洋の架け橋
武士道と聖書とに立脚して、新渡戸は日米両国の架け橋たらんと志した。

■1.日本だって? そんな国はどこにあるんだ。■

1884(明治17)年9月、小型汽船でサンフランシスコに着いた稲造は、列車で大陸横断を目指した。ある駅でプラットフォームに降りて景色を眺めていると、「ジョン、ジョン」と無遠慮に呼びかけてくる男がいた。当時のアメリカ人は中国人を見ると誰でもジョンとかチャイナマンと呼んで、馬鹿にしているので、稲造は自分が中国人に間違えられているな、と知った。

「わたしはジョンという名ではない」と言うと、「ほう、そうかい。お前は豚のしっぽのような頭髪をどうしたのだ?」 当時の清国人は頭の周囲を剃り、真ん中の髪だけを長く編んでたらしていた。「僕は日本人だ」と稲造が言うと、「日本だって? そんな国はどこにあるんだ。中国の一部か?」

こいつ何も知らないな、と呆れたが、太平洋の架け橋になろうと決心していた稲造は、祖国の事を一人でも多くのアメリカ人為知らせたいという気持ちから、冷静に、懇切丁寧に教えてやった「これから洗濯屋でもするのか?」と聞かれて「大学で経済学を勉強するのだ」と答えると、その男はひどく驚いて、列車の中から3,4人のアメリカ人乗客を連れ出して言った。

この少年は日本という国から来た人で、決して洗濯屋などする人じゃない。大学で、経済学とかいうむつかしい学問をするそうだ。日本は中国の一部じゃなくて、中国の東にある独立国なんだとさ。

新渡戸稲造、23歳にして初めてアメリカに上陸した時のことであった。(この頃は、まだ養子入りした叔父の太田姓を名乗っていた。)

■2.武士道と聖書と■

新渡戸は明治維新の6年前、文久(1862)年に盛岡の武家に生まれた。5歳の時の「袴着の儀」を、後年、英文の著書「思い出」の中で次のように書いている。

私が5歳に達したときに士になる儀式が行われた。初めて袴をつけ、初めて刀を帯び盛装して、集まった親戚一同の居並ぶ真中にしつらえた碁盤の上に私はのせられ、刃のぴかぴか光る短刀を帯にさしてもらったとき、全身をしゅーんとしたものが貫くように感じ、自分がえらく重要な者になった感じがした、、、

後に世界的なベストセラーとなった「武士道」の中で「危険な武器をもつことは、一面、彼に自尊心や責任感をいだかせる」と書いているのは、この時の思い出もあったであろう。

新渡戸の家は盛岡藩で新田開拓や水路建設に貢献してきた。明治9(1876)年初夏、明治天皇が東北・北海道方面ご巡幸の途次、新渡戸家に立ち寄られ、開拓に貢献してきた祖父・伝(つとう)、父・十次郎の功績を賞され、今後家族の者、子孫も父祖の志をつぎ農事に励むように、とのお言葉と金一封を賜った。当時、稲造は東京外語学校で勉強中であったが、このお言葉に感激した。

こうして私は、開墾事業は我が家の伝統であり、我が国民のため、さらに重要なことは陛下のため、この方面に少しでも寄与することが、私の責任であると考えるようになった。

御下賜金は一家の全員に分配され、稲造は記念のためにかねてから欲していた英文の聖書を買った。金縁革表紙の立派な本であった。武士道と聖書と、東西文化の架け橋たらんとの志はこの頃から芽生えていた。

■3.武士の子として■

稲造はボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で、経済学、農政学、農業経済などを学び始めた。養父が苦しい家計をやりくりして送金してくれるが、それが一時途絶えた事があった。
稲造はたちまち窮迫して、一日に一回しか食事ができず、あとはパンと水でしのがねばならなかった。アメリカ人の学友が見かねて援助を申し入れたが、稲造はきっぱりと断った。武士の子として、施しを受けることを潔しとしなかったのである。

この頃、アメリカ人にとって未知の国である日本の話を聞きたいという講演依頼がぽつぽつと来るようになった。最初の講演の前、司会者が紹介の言葉を述べている間に、動悸は激しくなり、膝頭は震えた。このまま逃げ出したいとさえ思ったが、武士としてあるまじき事である。「えいっ」と内心で自分自に気合いを入れた。「こうなったら、上手にやろうなどと小賢しい事を考えず、思ったままをぶちまけてやろう!」と覚悟を決めた。

このような経験を何度かするうちに、数百人の聴衆を前にしても原稿なしですらすら話せるようになり、またニューヨークやフィラデルフィアなどからも講演を依頼されるようになった。同時に講演料で生計のゆとりも得られるようになった。

■4.メリーとの出会い■

ボルチモアで稲造はキリスト教の一派、クエーカーに出会った。集会でも静寂のうちに、自らの「内なる光」を見つめようとする姿勢に、身体が震えるような感動を覚えた。その誠実、簡素、純一さは、稲造が幼少時から叩き込まれていた武士道の精神と共鳴しあうものがあった。
クエーカーの集まりで、稲造はメリー・パターソン・エルキントンというフィラデルフィアの名門の令嬢と出会い、お互いに惹かれ合うようになった。稲造はジョン・ホプキンス大学で3年学んだ後、さらにドイツに3年留学して、博士号を得る。その間、メリーと文通を続け、アメリカ経由で帰国する際にフィラデルフィアに立ち寄ってメリーとの結婚式をあげた。双方の家は国際結婚に大反対であったが、二人の信仰で結ばれた決意は固く、家族も認めざるをえなかった。

日清戦争前の日本は、アメリカ人にとっていまだ極東の未開の一小国であり、そんな国の一青年とフィラデルフィアの名門エルキントン家の令嬢が結婚したというニュースは全米で一大センセーションを巻き起こした。こうして明治24(1891)年2月9日、稲造はメリーを伴って、帰国した。6年半ぶりの祖国であった。

■5.日本の学校には宗教教育がないとは!■

日本に戻った稲造は、札幌の農学校教授に就任、農業経済学を教える傍ら、北海道庁の技師を兼任して、開拓の指導にあたった。さらにはメリーが縁者の遺産を受け取ると、それを元手に貧困家庭の子供たちを教える夜学校を設立した。

しかし、こうした大車輪の活躍のうちに過労がこうじてノイローゼとなり、医者とメリーの勧めに従って、南カリフォルニアで療養生活を送ることとした。温暖で湿気の少ない気候に、稲造の病み衰えた心身は徐々に回復していった。

そうしたある日、稲造はふとドイツ留学中、ベルギーに出向してラヴェレー教授と言葉を交わした時のことを思い出した。
日本の学校には宗教教育がないとは! それでどのようにして子孫に道徳教育を授けることができるのですか」と教授は驚いた顔で聞いてきた。その時は答えることはできなかったが、以来、この問いは稲造の念頭を離れることはなかった。稲造はそれに答えようと、療養中の時間を使って書き上げたのが英文の「武士道」であった。

■6.世界中で読まれた「武士道」■

「武士道」は明治33(1900)年11月にフィラデルフィアで出版された。「武士道とは何か」「武士道の源を探る」「義-武士道の光り輝く最高の支柱」と始まり、「義」「仁」「礼」「誠」「名誉」などの徳目を西洋の事績も豊富に引用しながら、武士道こそ日本人の道徳の形成したものである事を述べた。たとえば、「仁」の章ではこんな一節がある。

フリードリッヒ大王が「朕は国家の第一の召使いである」と書いたとき、法律学者たちは、自由の発達が新しい時代に到達したのだ、と正しくも信じた。

あたかも時を同じくして日本の東北の山間部にある米沢では、上杉鷹山はまさに同一の宣言をしていたのだ。「国家人民の立てたる君にして、君のために立てたる国家人民にはこれ無く候。[2,a]

おりしも明治37、38(1904,5)年の日露戦争で大国ロシアを破った原動力として日本人の国家への忠節と勇武の精神に世界の関心が集まっており、それを外国人にも分かりやすく説いた本として「武士道」はドイツ語、フランス語、ポーランド語、ノルウェー語、ハンガリー語、ロシア語、中国語に訳され、世界中で広く読まれた。

米国大統領セオドア・ルーズベルトは「武士道」を読んで感銘を受け、60冊も買い求めて子供や友人に送り、さらにアナポリス海軍兵学校、ウェストポイント陸軍士官学校の生徒たちにも読むように勧めた。英文の名著「武士道」によって、稲造は「太平洋の架け橋たらん」とした若き日の志を果たしたのである。

■7.「ミカドの使わされた平和の大使」■

カリフォルニアにおける2年間の療養生活で心身の健康を回復した稲造は、台湾総督・児玉源太郎、民政長官・後藤新平の熱心な要請に従って、台湾の農業開発に打ち込む。稲造の進めた品種改良や機械化によって、台湾のサトウキビ生産は飛躍的発展を遂げ、砂糖の世界五大産地の一つにまでなった。[b]

台湾における農業開発が軌道に乗ると、後藤新平はこれほどの人物をいつまでも役所仕事につなぎとめておくべきではないと考え、京都大学教授に推した。さらにその後、文部大臣の要請により第一高等学校校長に就任、学生たちと親身に交わりながら人格陶冶に尽くした。

明治44(1911)年、第一回の日米交換教授として3度目の渡米。時あたかもカリフォルニアの日系移民排斥が日米摩擦を激化させていた。これはアメリカ側の日本に関する無知に原因があると見た稲造は、米国民を啓蒙することが自らの使命であると考えた。カリフォルニアのスタンフォード大学を皮切りに、東部のコロンビア大学、母校ジョンズ・ホプキンス大学、中西部のイリノイ大学など、全米の大学において166回もの講演を行った。

またタフト大統領と会談し、バートン上院議員と昵懇になって議会での排日法提出を未然に防いだ。ある新聞は稲造を「ミカドの使わされた平和の大使」と賞賛した。

■8.国際連盟の事務局次長となる■
大正8(1919)年、パリで第一次世界大戦の講和条約が調印され、国際連盟が誕生した。西園寺公望公爵を中心とする日本の全権団は、国際連盟の規約に人種平等条項を入れる事を提案し、過半数の支持を集めたが、議長を努めたウィルソン米国大統領の策略で否決された。[c]

しかし、戦勝国中の有力国日本から国際連盟の事務局次長を出すことになり、ちょうどパリに旅行で立ち寄った稲造に白羽の矢がたった。国際社会の尊敬を集め、日本文化についても造詣の深い新渡戸稲造こそ、連盟事務局次長という重職にふさわしい人間はいなかった。

事務総長はイギリスのドラモンド卿であったが、ヨーロッパ各国への国際連盟精神普及のための講演は、7、8割を稲造が担当した。この点についてドラモンド卿は「ただ演説が上手であるばかりでなく、聴講者に深い感動を与える点において、わが連盟事務局中、彼に及ぶ者はいない」と述べていた。また中国人やインド人からは「新渡戸先生は、ひとり日本の誇りを高めたのみならず、われわれ東洋人の地位を高めてくれた」と感謝されていた。

事務局次長として、稲造は国際間の学術文化交流を目的として国際知的協力委員会を創設し、さらに幹事長として活躍した。この委員会には、アインシュタインやキューリー夫人、フランスの哲学者ベルグソン、文学者ポール・バレリーなど世界的に著名な文化人が顔を揃えた。この委員会は今日のユネスコ(国際連合教育科学文化機構)の前身となった。稲造は特にベルグソンと親交を結び、議論を交わした。

■9.国を思ひ世を憂ふればこそ■
国際連盟事務次長としての7年間の重責を果たした後、稲造は険悪化する日米関係を好転させようと必死の努力を続ける。当時、アメリカでの排日移民法成立、日本側の満洲事変に対して、双方の非難は激しさを加える一方であった。

昭和7年4月から稲造は71歳の老躯を駆って1年間アメリカに滞在し、カリフォルニアでは排日派政治家と精力的に会談して、排日移民法の撤回を要求してやまなかった。フーバー大統領との会見では、両国の忍耐による協力と平和維持を説いた。さらにスチムソン国務長官と全米に向かってラジオ放送を行い、満洲事変に関して日本の立場を堂々と主張した。各地での講演も百回を超えた。

翌年3月に帰朝すると、日米関係を深く懸念されている昭和天皇は稲造をお召しになり、1時間あまりにわたって説明を聴かれ、その労を深くねぎらわれた。この時の感銘を後の講演で、稲造はこう語っている。

日本人は日本の国のために、自分の持てる才能を生かして、国のため、世界のために尽くすことがすなわち陛下に忠誠を尽くすことであり、国民としての義務をはたすことである。

5ヶ月後の8月、休む間もなく、稲造はバンクーバーでの太平洋会議に参加するために出発。しかし9月13日、バンクーバー近郊の美しい港町ビクトリアにて激しい腹痛に襲われて入院、そのまま10月15日に帰らぬ人となった。享年72歳。

国を思ひ世を憂ふればこそ何事も忍ぶ心は神ぞ知るらん
晩年に詠んだ歌である。太平洋の架け橋として一生を捧げた古武士の生涯であった。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(130) 上杉鷹山 ~ケネディ大統領が尊敬した政治家~
 自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも
美しく豊かな共同体を作り出した。
b. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平
 医学者・後藤新平は「生物学の法則」によって台湾の健全な
成長を図った。
c. JOG(053) 人種平等への戦い
 虐待をこうむっている有色人種のなかでただ一国だけが発言に
耳を傾けさせるに十分な実力を持っている。すなわち日本である。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 井口朝生、「新渡戸稲造」★★、成美堂出版、H8
2. 新渡戸稲造、「武士道」★★、三笠書房・知的生き方文庫、H5

新渡戸稲造の国連での国際紛争の見事な解決のお話です。



伊勢先生今日も素晴らしいお話をありがとうございました。
新渡戸稲造という人は、お札に登場するまで知りませんでした。
学校の歴史では登場しなかった人でしたが、こんなに素晴らしい方がいらしたことを、ぜひ子供たちに教えて欲しいと思います。
今の国連を見ていると、どう考えても国際社会へ貢献している組織ではなく、ますます世界を混乱に陥れているとしか思えません。
まあ、国連は日本では誤解されがちですが、平和を守る組織ではなく『連合軍』つまり第二次世界大戦の戦勝国という意味ですから、とても平和を構築するためのものではないのですが・・・
それにしても、これだけ社会を混乱に導く原因の一つは、今の国連事務総長の能力にもあると思います。何もしないどころか、あまりにも偏り過ぎの人事と自己保身しか考えない姿勢にあるように思います。次期の国連総長もかなり酷そうですけれど・・・
やはり、新たな世界平和への組織が必要なのではないでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございました。(凜)
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地域学習 新渡戸稲造

地域学習 新渡戸稲造



1 「われ太平洋の橋とならん」-東京大学-
2 アメリカへ
3 ドイツ留学時代
4 札幌農学校時代
5 療養生活と文筆活動
6 多くの国で読まれた「武士道」
7 さとう生産を高めた台湾時代
8 京都帝国大学教授から第一高等学校校長へ
9 日米交換教授第一号としてアメリカへ
10 国際連盟での活躍
11 「太平洋のかけ橋」への努力
12 信念を貫いた新渡戸稲造

新渡戸稲造と武士道

新渡戸稲造と武士道





エピソード 「われ太平洋の橋たらんー新渡戸稲造と『武士道』ー」
 柳宗悦の話の最初でも触れたが、五千円札になる前に新渡戸博士を知っていた日本人は、どれくらいいただろう。聞くところでは、博士の故郷では突然、「新渡戸稲造饅頭」やら煎餅やら出現したそうだが。
 評論家の大宅壮一(この大宅壮一まで出題した大学があるから嫌になる)は、「科学者、国際人、武士道的愛国者、実務家、教師、社会教育家、宗教的平和主義者」と評し、更に「明治以後の”理想的日本人”はだれかということになると、各界を通じて第一人者とすることに異論が出るだろうが、総合判定では、ベスト・スリ-か、少なくともべストテンのなかに入ることは確実と見てよい。」と述べている。
 新渡戸稲造が受験で出題されるとしたら、国際連盟の事務次長として、『国連事務局の良心』『ジュネーブの星』(国際連盟の本部はジュネーブ)と賞され、異例の7年に及ぶ任期を勤めたことと、著書『武士道』であろう。(パリ講話会議で国際連盟が設立されることが決まり、事務次長のポストが日本に割り当てられた。人選に悩んでいた全権西園寺公望らは、たまたまパリの日本大使館を訪れた新渡戸を見て、「あっ、ここにいた!」と即決したという話が残っている。)
 とすると、日本が国際連盟の常任理事国となった項で、取り上げた方が自然だったかもしれないが、その輝かしい国連時代とは対象的に、日米開戦反対を訴え、アメリカで一年間に100回をこえる講演を行いながら、失意の内に世を去った晩年の方が、我々に多くの示唆を与えてくれると考える。
 『武士道』 は1899年、新渡戸が36才の時、ペンシルバニアで英文で書かれ、翌年刊行されるや、瞬く間に世界中で翻訳された。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア 語をはじめとして、17カ国語に訳されていることも凄いが、アラビア語に訳されている日本の本なんて、他にあるんだろうか。(勉強不足ですみません→先 日、黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』も訳されていますよ、というお便りをいただきました。)
  駐米英国大使のブライス卿に「英文学の珠玉」と賞賛され、後にポーツマス会議を斡旋するセオドア・ローズベルト大統領が、60冊買って知人に配りまくったというこの本は、英語を学ぶ日本人のためのテキストにもなった。当然、一般の日本人は「日本語訳本」として読むことになるのだが、今までに8回訳されたその訳者には、矢内原忠雄(1938)や奈良本辰也(1983)といった、顔ぶれが見られる。
 一読して真っ先に感嘆するのが、新渡戸博士の西洋、東洋の歴史・哲学・宗教などに関する底知れぬ学識と、冷静で合理的な分析。そして日本の精神文化を高 く評するのみならず、世界中の文化に優劣はないという、本当の意味でのインターナショナリズムである。(あ~、こうやって書くと陳腐になる。とにかく読ん で欲しい。)
 彼が、東京大学の入試の時に、将来の希望を聞かれて、「太平洋の橋になりたい」と答えた話は有名だが、「西洋の思想を日本に伝え、東洋の思想を西洋に伝える」という入学試験の際の思いを越えて、新渡戸は太平洋戦争へ突き進もうとする日米間の架け橋となろうとした。
 しかし、そんな彼が世間から「国賊」呼ばわりされるようになる。きっかけは、昭和7年に四国松山で行われた講演の後、マスコミにオフレコと断った上で「日本を滅ぼすのは共産党より軍閥だ」と言ったことを、愛媛新聞が書き立て、これを受けて在郷軍人たちが騒いだことであった。新渡戸は頑迷な日本人よりも、直接アメリカを日米不戦へと説得しようと渡米したが、軍部の行動は彼の話の説得力を奪っていった。
 国内では、「他者の戦争責任や人権侵害には極めて厳しいあの大新聞」が、『国賊新渡戸博士の自決を促す』という論説を掲載した。(そう言えば、「ポーツマス条約の時、小村寿太郎外相を非難して戦争継続を主張し、国民を煽り立てた」のも、「満州事変に反対の政府に対し、兵士を見捨てるのかと軍部支持の世論をリードすることで発行部数を伸ばした」のも、「三国同盟に反対の米内内閣を、弱腰と激しく非難した」のも、この新聞社だったなあ。かつて上智大学で、「大新聞の戦争協力」というテーマで作成された入試問題が出たことがある。)
 新渡戸稲造は昭和8年、死の直前のカナダでの講演の最後を、こう締めくくっている。
異っ た国民相互の個人的接触こそ、悩み多き世界に測り知れぬ効果をもたらすものではないだろうか。世界中より参じた国民の親密な接触によって、やがて感情では なく理性が、利己ではなく正義が、人類並びに国家の裁定たる日が来るであろうことを、私がここに期待するのは、余りに大きな望みであろうか。
(2003.10.13一部加筆)


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新渡戸稲造 ~ 太平洋の架け橋

JOG(288) 新渡戸稲造 ~ 太平洋の架け橋



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■■ Japan On the Globe(288) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

        人物探訪: 新渡戸稲造 ~ 太平洋の架け橋

         武士道と聖書とに立脚して、新渡戸は日米両国の架け橋
        たらんと志した。
■■■■ H15.04.13 ■■ 39,294 Copies ■■ 781,397 Views ■■

■1.日本だって? そんな国はどこにあるんだ。■

     1884(明治17)年9月、小型汽船でサンフランシスコに着い
    た稲造は、列車で大陸横断を目指した。ある駅でプラットフォ
    ームに降りて景色を眺めていると、「ジョン、ジョン」と無遠
    慮に呼びかけてくる男がいた。当時のアメリカ人は中国人を見
    ると誰でもジョンとかチャイナマンと呼んで、馬鹿にしている
    ので、稲造は自分が中国人に間違えられているな、と知った。
    
     「わたしはジョンという名ではない」と言うと、「ほう、そ
    うかい。お前は豚のしっぽのような頭髪をどうしたのだ?」 
    当時の清国人は頭の周囲を剃り、真ん中の髪だけを長く編んで
    たらしていた。「僕は日本人だ」と稲造が言うと、「日本だっ
    て? そんな国はどこにあるんだ。中国の一部か?」
        
     こいつ何も知らないな、と呆れたが、太平洋の架け橋になろ
    うと決心していた稲造は、祖国の事を一人でも多くのアメリカ
    人為知らせたいという気持ちから、冷静に、懇切丁寧に教えて
    やった。「これから洗濯屋でもするのか?」と聞かれて「大学
    で経済学を勉強するのだ」と答えると、その男はひどく驚いて、
    列車の中から3,4人のアメリカ人乗客を連れ出して言った。
    
         この少年は日本という国から来た人で、決して洗濯屋な
        どする人じゃない。大学で、経済学とかいうむつかしい学
        問をするそうだ。日本は中国の一部じゃなくて、中国の東
        にある独立国なんだとさ。
        
     新渡戸稲造、23歳にして初めてアメリカに上陸した時のこ
    とであった。(この頃は、まだ養子入りした叔父の太田姓を名
    乗っていた。)

■2.武士道と聖書と■

     新渡戸は明治維新の6年前、文久(1862)年に盛岡の武家に生
    まれた。5歳の時の「袴着の儀」を、後年、英文の著書「思い
    出」の中で次のように書いている。
    
         私が5歳に達したときに士になる儀式が行われた。初め
        て袴をつけ、初めて刀を帯び盛装して、集まった親戚一同
        の居並ぶ真中にしつらえた碁盤の上に私はのせられ、刃の
        ぴかぴか光る短刀を帯にさしてもらったとき、全身をしゅ
        ーんとしたものが貫くように感じ、自分がえらく重要な者
        になった感じがした、、、
        
     後に世界的なベストセラーとなった「武士道」の中で「危険
    な武器をもつことは、一面、彼に自尊心や責任感をいだかせ
    る」と書いているのは、この時の思い出もあったであろう。
    
     新渡戸の家は盛岡藩で新田開拓や水路建設に貢献してきた。
    明治9(1876)年初夏、明治天皇が東北・北海道方面ご巡幸の途
    次、新渡戸家に立ち寄られ、開拓に貢献してきた祖父・伝(つ
    とう)、父・十次郎の功績を賞され、今後家族の者、子孫も父
    祖の志をつぎ農事に励むように、とのお言葉と金一封を賜った。
    当時、稲造は東京外語学校で勉強中であったが、このお言葉に
    感激した。
    
         こうして私は、開墾事業は我が家の伝統であり、我が国
        民のため、さらに重要なことは陛下のため、この方面に少
        しでも寄与することが、私の責任であると考えるようにな
        った。
    
     御下賜金は一家の全員に分配され、稲造は記念のためにかね
    てから欲していた英文の聖書を買った。金縁革表紙の立派な本
    であった。武士道と聖書と、東西文化の架け橋たらんとの志は
    この頃から芽生えていた。
    
■3.武士の子として■

     稲造はボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で、経済学、
    農政学、農業経済などを学び始めた。養父が苦しい家計をやり
    くりして送金してくれるが、それが一時途絶えた事があった。
    稲造はたちまち窮迫して、一日に一回しか食事ができず、あと
    はパンと水でしのがねばならなかった。アメリカ人の学友が見
    かねて援助を申し入れたが、稲造はきっぱりと断った。武士の
    子として、施しを受けることを潔しとしなかったのである。
    
     この頃、アメリカ人にとって未知の国である日本の話を聞き
    たいという講演依頼がぽつぽつと来るようになった。最初の講
    演の前、司会者が紹介の言葉を述べている間に、動悸は激しく
    なり、膝頭は震えた。このまま逃げ出したいとさえ思ったが、
    武士としてあるまじき事である。「えいっ」と内心で自分自身
    に気合いを入れた。「こうなったら、上手にやろうなどと小賢
    しい事を考えず、思ったままをぶちまけてやろう!」と覚悟を
    決めた。
    
     このような経験を何度かするうちに、数百人の聴衆を前にし
    ても原稿なしですらすら話せるようになり、またニューヨーク
    やフィラデルフィアなどからも講演を依頼されるようになった。
    同時に講演料で生計のゆとりも得られるようになった。

■4.メリーとの出会い■

     ボルチモアで稲造はキリスト教の一派、クエーカーに出会っ
    た。集会でも静寂のうちに、自らの「内なる光」を見つめよう
    とする姿勢に、身体が震えるような感動を覚えた。その誠実、
    簡素、純一さは、稲造が幼少時から叩き込まれていた武士道の
    精神と共鳴しあうものがあった。
    
     クエーカーの集まりで、稲造はメリー・パターソン・エルキ
    ントンというフィラデルフィアの名門の令嬢と出会い、お互い
    に惹かれ合うようになった。稲造はジョン・ホプキンス大学で
    3年学んだ後、さらにドイツに3年留学して、博士号を得る。
    その間、メリーと文通を続け、アメリカ経由で帰国する際にフ
    ィラデルフィアに立ち寄ってメリーとの結婚式をあげた。双方
    の家は国際結婚に大反対であったが、二人の信仰で結ばれた決
    意は固く、家族も認めざるをえなかった。
    
     日清戦争前の日本は、アメリカ人にとっていまだ極東の未開
    の一小国であり、そんな国の一青年とフィラデルフィアの名門
    エルキントン家の令嬢が結婚したというニュースは全米で一大
    センセーションを巻き起こした。こうして明治24(1891)年2
    月9日、稲造はメリーを伴って、帰国した。6年半ぶりの祖国
    であった。

■5.日本の学校には宗教教育がないとは!■

     日本に戻った稲造は、札幌の農学校教授に就任、農業経済学
    を教える傍ら、北海道庁の技師を兼任して、開拓の指導にあた
    った。さらにはメリーが縁者の遺産を受け取ると、それを元手
    に貧困家庭の子供たちを教える夜学校を設立した。
    
     しかし、こうした大車輪の活躍のうちに過労がこうじてノイ
    ローゼとなり、医者とメリーの勧めに従って、南カリフォルニ
    アで療養生活を送ることとした。温暖で湿気の少ない気候に、
    稲造の病み衰えた心身は徐々に回復していった。
    
     そうしたある日、稲造はふとドイツ留学中、ベルギーに出向
    してラヴェレー教授と言葉を交わした時のことを思い出した。
    「日本の学校には宗教教育がないとは! それでどのようにし
    て子孫に道徳教育を授けることができるのですか」と教授は驚
    いた顔で聞いてきた。その時は答えることはできなかったが、
    以来、この問いは稲造の念頭を離れることはなかった。稲造は
    それに答えようと、療養中の時間を使って書き上げたのが英文
    の「武士道」であった。

■6.世界中で読まれた「武士道」■

    「武士道」は明治33(1900)年11月にフィラデルフィアで出
    版された。「武士道とは何か」「武士道の源を探る」「義-武
    士道の光り輝く最高の支柱」と始まり、「義」「仁」「礼」
    「誠」「名誉」などの徳目を西洋の事績も豊富に引用しながら、
    武士道こそ日本人の道徳の形成したものである事を述べた。た
    とえば、「仁」の章ではこんな一節がある。
    
         フリードリッヒ大王が「朕は国家の第一の召使いであ
        る」と書いたとき、法律学者たちは、自由の発達が新しい
        時代に到達したのだ、と正しくも信じた。
        
         あたかも時を同じくして日本の東北の山間部にある米沢
        では、上杉鷹山はまさに同一の宣言をしていたのだ。「国
        家人民の立てたる君にして、君のために立てたる国家人民
        にはこれ無く候。」[2,a]

     おりしも明治37、38(1904,5)年の日露戦争で大国ロシア
    を破った原動力として日本人の国家への忠節と勇武の精神に世
    界の関心が集まっており、それを外国人にも分かりやすく説い
    た本として「武士道」はドイツ語、フランス語、ポーランド語、
    ノルウェー語、ハンガリー語、ロシア語、中国語に訳され、世
    界中で広く読まれた。
    
     米国大統領セオドア・ルーズベルトは「武士道」を読んで感
    銘を受け、60冊も買い求めて子供や友人に送り、さらにアナ
    ポリス海軍兵学校、ウェストポイント陸軍士官学校の生徒たち
    にも読むように勧めた。英文の名著「武士道」によって、稲造
    は「太平洋の架け橋たらん」とした若き日の志を果たしたので
    ある。

■7.「ミカドの使わされた平和の大使」■

     カリフォルニアにおける2年間の療養生活で心身の健康を回
    復した稲造は、台湾総督・児玉源太郎、民政長官・後藤新平の
    熱心な要請に従って、台湾の農業開発に打ち込む。稲造の進め
    た品種改良や機械化によって、台湾のサトウキビ生産は飛躍的
    発展を遂げ、砂糖の世界五大産地の一つにまでなった。[b]
    
     台湾における農業開発が軌道に乗ると、後藤新平はこれほど
    の人物をいつまでも役所仕事につなぎとめておくべきではない
    と考え、京都大学教授に推した。さらにその後、文部大臣の要
    請により第一高等学校校長に就任、学生たちと親身に交わりな
    がら人格陶冶に尽くした。
    
     明治44(1911)年、第一回の日米交換教授として3度目の渡
    米。時あたかもカリフォルニアの日系移民排斥が日米摩擦を激
    化させていた。これはアメリカ側の日本に関する無知に原因が
    あると見た稲造は、米国民を啓蒙することが自らの使命である
    と考えた。カリフォルニアのスタンフォード大学を皮切りに、
    東部のコロンビア大学、母校ジョンズ・ホプキンス大学、中西
    部のイリノイ大学など、全米の大学において166回もの講演
    を行った。
    
     またタフト大統領と会談し、バートン上院議員と昵懇になっ
    て議会での排日法提出を未然に防いだ。ある新聞は稲造を「ミ
    カドの使わされた平和の大使」と賞賛した。

■8.国際連盟の事務局次長となる■

     大正8(1919)年、パリで第一次世界大戦の講和条約が調印さ
    れ、国際連盟が誕生した。西園寺公望公爵を中心とする日本の
    全権団は、国際連盟の規約に人種平等条項を入れる事を提案し、
    過半数の支持を集めたが、議長を努めたウィルソン米国大統領
    の策略で否決された。[c]
    
     しかし、戦勝国中の有力国日本から国際連盟の事務局次長を
    出すことになり、ちょうどパリに旅行で立ち寄った稲造に白羽
    の矢がたった。国際社会の尊敬を集め、日本文化についても造
    詣の深い新渡戸稲造こそ、連盟事務局次長という重職にふさわ
    しい人間はいなかった。
    
     事務総長はイギリスのドラモンド卿であったが、ヨーロッパ
    各国への国際連盟精神普及のための講演は、7、8割を稲造が
    担当した。この点についてドラモンド卿は「ただ演説が上手で
    あるばかりでなく、聴講者に深い感動を与える点において、わ
    が連盟事務局中、彼に及ぶ者はいない」と述べていた。また中
    国人やインド人からは「新渡戸先生は、ひとり日本の誇りを高
    めたのみならず、われわれ東洋人の地位を高めてくれた」と感
    謝されていた。
    
     事務局次長として、稲造は国際間の学術文化交流を目的とし
    て国際知的協力委員会を創設し、さらに幹事長として活躍した。
    この委員会には、アインシュタインやキューリー夫人、フラン
    スの哲学者ベルグソン、文学者ポール・バレリーなど世界的に
    著名な文化人が顔を揃えた。この委員会は今日のユネスコ(国
    際連合教育科学文化機構)の前身となった。稲造は特にベルグ
    ソンと親交を結び、議論を交わした。

■9.国を思ひ世を憂ふればこそ■

     国際連盟事務次長としての7年間の重責を果たした後、稲造
    は険悪化する日米関係を好転させようと必死の努力を続ける。
    当時、アメリカでの排日移民法成立、日本側の満洲事変に対し
    て、双方の非難は激しさを加える一方であった。
    
     昭和7年4月から稲造は71歳の老躯を駆って1年間アメリ
    カに滞在し、カリフォルニアでは排日派政治家と精力的に会談
    して、排日移民法の撤回を要求してやまなかった。フーバー大
    統領との会見では、両国の忍耐による協力と平和維持を説いた。
    さらにスチムソン国務長官と全米に向かってラジオ放送を行い、
    満洲事変に関して日本の立場を堂々と主張した。各地での講演
    も百回を超えた。
    
     翌年3月に帰朝すると、日米関係を深く懸念されている昭和
    天皇は稲造をお召しになり、1時間あまりにわたって説明を聴
    かれ、その労を深くねぎらわれた。この時の感銘を後の講演で、
    稲造はこう語っている。
    
         日本人は日本の国のために、自分の持てる才能を生かし
        て、国のため、世界のために尽くすことがすなわち陛下に
        忠誠を尽くすことであり、国民としての義務をはたすこと
        である。
        
     5ヶ月後の8月、休む間もなく、稲造はバンクーバーでの太
    平洋会議に参加するために出発。しかし9月13日、バンクー
    バー近郊の美しい港町ビクトリアにて激しい腹痛に襲われて入
    院、そのまま10月15日に帰らぬ人となった。享年72歳。
    
        国を思ひ世を憂ふればこそ何事も忍ぶ心は神ぞ知るらん

     晩年に詠んだ歌である。太平洋の架け橋として一生を捧げた
    古武士の生涯であった。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(130) 上杉鷹山 ~ケネディ大統領が尊敬した政治家~
    自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも
   美しく豊かな共同体を作り出した。
b. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平
    医学者・後藤新平は「生物学の法則」によって台湾の健全な 
   成長を図った。
c. JOG(053) 人種平等への戦い
    虐待をこうむっている有色人種のなかでただ一国だけが発言に
   耳を傾けさせるに十分な実力を持っている。すなわち日本である。 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 井口朝生、「新渡戸稲造」★★、成美堂出版、H8
2. 新渡戸稲造、「武士道」★★、三笠書房・知的生き方文庫、H5
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「新渡戸稲造~太平洋の架け橋」について 突撃屋さんより

     私も今アメリカに留学中の身なのですが、今回の新渡戸稲造
    の話を読んで、大変感銘を受けました。留学してまだ1年も経
    っていませんが、未だこの国の人は日本を知らない人が多いよ
    うに感ぜられます。もちろん、明治の頃よりは全然知られてま
    すが、日本がアメリカを知っているほど、アメリカは日本を知
    らないような気がいたします。

     いや、それ以前に日本人ですら、日本を知らないのかもしれ
    ませんが。「明治期に留学した日本の偉人達の気持ちで留学し
    よう」未熟ながらそう思って留学しました。新渡戸稲造ほど大
    きくはなれなくとも、少しでも日本という国を世界に伝える事
    ができれば、本望です。

     お話の中にあったのと同じように、実は今日から独りで大陸
    をバスで横断します。出発の前にこの話が聞けたのは何かの縁
    のようにも思えました。この話をバスの中で思い出しながら旅
    したいと思います。ありがとうございました。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     海外にいる日本人は、一人一人が外交官です。その気概をも
    って、広大なアメリカ大陸を体験してください。
© 平成15年 [伊勢雅臣]. all rig

Cuban medics in Haiti put the world to shame | The Independent

Cuban medics in Haiti put the world to shame | The Independent





Cuban medics in Haiti put the world to shame

Castro's doctors and nurses are the backbone of the fight against cholera
They are the real heroes of the Haitian earthquake disaster, the human catastrophe on America's doorstep which Barack Obama pledged a monumental US humanitarian mission to alleviate. Except these heroes are from America's arch-enemy Cuba, whose doctors and nurses have put US efforts to shame.
A medical brigade of 1,200 Cubans is operating all over earthquake-torn and cholera-infected Haiti, as part of Fidel Castro's international medical mission which has won the socialist state many friends, but little international recognition.
Observers of the Haiti earthquake could be forgiven for thinking international aid agencies were alone in tackling the devastation that killed 250,000 people and left nearly 1.5 million homeless. In fact, Cuban healthcare workers have been in Haiti since 1998, so when the earthquake struck the 350-strong team jumped into action. And amid the fanfare and publicity surrounding the arrival of help from the US and the UK, hundreds more Cuban doctors, nurses and therapists arrived with barely a mention. Most countries were gone within two months, again leaving the Cubans and Médecins Sans Frontières as the principal healthcare providers for the impoverished Caribbean island.
Figures released last week show that Cuban medical personnel, working in 40 centres across Haiti, have treated more than 30,000 cholera patients since October. They are the largest foreign contingent, treating around 40 per cent of all cholera patients. Another batch of medics from the Cuban Henry Reeve Brigade, a disaster and emergency specialist team, arrived recently as it became clear that Haiti was struggling to cope with the epidemic that has already killed hundreds.
Since 1998, Cuba has trained 550 Haitian doctors for free at the Escuela Latinoamericana de Medicina en Cuba (Elam), one of the country's most radical medical ventures. Another 400 are currently being trained at the school, which offers free education – including free books and a little spending money – to anyone sufficiently qualified who cannot afford to study medicine in their own country.
John Kirk is a professor of Latin American studies at Dalhousie University in Canada who researches Cuba's international medical teams. He said: "Cuba's contribution in Haiti is like the world's greatest secret. They are barely mentioned, even though they are doing much of the heavy lifting."
This tradition can be traced back to 1960, when Cuba sent a handful of doctors to Chile, hit by a powerful earthquake, followed by a team of 50 to Algeria in 1963. This was four years after the revolution, which saw nearly half the country's 7,000 doctors voting with their feet and leaving for the US.
The travelling doctors have served as an extremely useful arm of the government's foreign and economic policy, winning them friends and favours across the globe. The best-known programme is Operation Miracle, which began with ophthalmologists treating cataract sufferers in impoverished Venezuelan villages in exchange for oil. This initiative has restored the eyesight of 1.8 million people in 35 countries, including that of Mario Teran, the Bolivian sergeant who killed Che Guevara in 1967.
The Henry Reeve Brigade, rebuffed by the Americans after Hurricane Katrina, was the first team to arrive in Pakistan after the 2005 earthquake, and the last to leave six months later.
Cuba's constitution lays out an obligation to help the worst-off countries when possible, but international solidarity isn't the only reason, according to Professor Kirk. "It allows Cuban doctors, who are frightfully underpaid, to earn extra money abroad and learn about diseases and conditions they have only read about. It is also an obsession of Fidel's and it wins him votes in the UN."
A third of Cuba's 75,000 doctors, along with 10,000 other health workers, are currently working in 77 poor countries, including El Salvador, Mali and East Timor. This still leaves one doctor for every 220 people at home, one of the highest ratios in the world, compared with one for every 370 in England.
Wherever they are invited, Cubans implement their prevention-focused holistic model, visiting families at home, proactively monitoring maternal and child health. This has produced "stunning results" in parts of El Salvador, Honduras and Guatemala, lowering infant and maternal mortality rates, reducing infectious diseases and leaving behind better trained local health workers, according to Professor Kirk's research.
Medical training in Cuba lasts six years – a year longer than in the UK – after which every graduate works as a family doctor for three years minimum. Working alongside a nurse, the family doctor looks after 150 to 200 families in the community in which they live.
This model has helped Cuba to achieve some of the world's most enviable health improvements, despite spending only $400 (£260) per person last year compared with $3,000 (£1,950) in the UK and $7,500 (£4,900) in the US, according to Organisation for Economic Co-operation and Development figures.
Infant mortality rates, one of the most reliable measures of a nation's healthcare, are 4.8 per 1,000 live births – comparable with Britain and lower than the US. Only 5 per cent of babies are born with a low birth weight, a crucial factor in long-term health, and maternal mortality is the lowest in Latin America, World Health Organisation figures show. Cuba's polyclinics, open 24 hours a day for emergencies and specialist care, are a step up from the family doctors. Each provides for 15,000 to 35,000 patients via a group of full-time consultants as well as visiting doctors, ensuring that most medical care is provided in the community.
Imti Choonara, a paediatrician from Derby, leads a delegation of international health professionals at annual workshops in Cuba's third city, Camaguey. "Healthcare in Cuba is phenomenal, and the key is the family doctor, who is much more proactive, and whose focus is on prevention ... The irony is that Cubans came to the UK after the revolution to see how the NHS worked. They took back what they saw, refined it and developed it further; meanwhile we are moving towards the US model," Professor Choonara said.
Politics, inevitably, penetrates many aspects of Cuban healthcare. Every year hospitals produce a list of drugs and equipment they have been unable to access because of the American embargo which prevents many US companies from trading with Cuba, and persuades other countries to follow suit. The 2009/10 report includes drugs for childhood cancers, HIV and arthritis, some anaesthetics, as well as chemicals needed to diagnose infections and store organs. Pharmacies in Cuba are characterised by long queues and sparsely stacked shelves, though in part this is because they stock only generic brands.
Antonio Fernandez, from the Ministry of Public Health, said: "We make 80 per cent of the drugs we use. The rest we import from China, former Soviet countries, Europe – anyone who will sell to us – but this makes it very expensive because of the distances."
On the whole, Cubans are immensely proud and supportive of their contribution in Haiti and other poor countries, delighted to be punching above their weight on the international scene. However, some people complain of longer waits to see their doctor because so many are working abroad. And, like all commodities in Cuba, medicines are available on the black market for those willing to risk large fines if caught buying or selling.
International travel is beyond the reach of most Cubans, but qualified nurses and doctors are among those forbidden from leaving the country for five years after graduation, unless as part of an official medical team.
Like everyone else, health professionals earn paltry salaries of around $20 (£13) a month. So, contrary to official accounts, bribery exists in the hospital system, which means some doctors, and even hospitals, are off-limits unless patients can offer a little something, maybe lunch or a few pesos, for preferential treatment.
Cuba's international ventures in healthcare are becoming increasingly strategic. Last month, officials held talks with Brazil about developing Haiti's public health system, which Brazil and Venezuela have both agreed to help finance.
Medical training is another example. There are currently 8,281 students from more than 30 countries enrolled at Elam, which last month celebrated its 11th anniversary. The government hopes to inculcate a sense of social responsibly into the students in the hope that they will work within their own poor communities for at least five years.
Damien Joel Suarez, 27, a second year from New Jersey, is one of 171 American students; 47 have already graduated. He dismisses allegations that Elam is part of the Cuban propaganda machine. "Of course, Che is a hero here but he isn't forced down your neck."
Another 49,000 students are enrolled in the El Nuevo Programa de Formacion de Medicos Latinoamericanos, the brainchild of Fidel Castro and Hugo Chavez, who pledged in 2005 to train 100,000 doctors for the continent. The course is much more hands-on, and critics question the quality of the training.
Professor Kirk disagrees: "The hi-tech approach to health needed in London and Toronto is irrelevant for millions of people in the Third World who are living in poverty. It is easy to stand on the sidelines and criticise the quality, but if you were living somewhere with no doctors, then you'd be happy to get anyone."
There are nine million Haitians who would probably agree.