2022/12/17

ダライ・ラマ 14 世における. 祈りとモダニティ - 辻 村 優 英

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ダライ・ラマ 14 世における. 祈りとモダニティ
辻 村 優 英
(京都大学大学院人間・環境学研究科)
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(和文要旨)
本稿は、ダライ・ラマ 14 世が公の場で多くの人々に語りかける祈りの分析を通して、彼
の宗教観を明らかにすることを目的としている。彼によると宗教は人間にとって必ずしも
必要なものではない。不可欠なのは、むしろ、他者の役に立とうとする心の質である。そ
の上で、宗教の役割はそのような心の質を育むことにある。われわれは、緊密な相互依存
関係によって成り立っているモダニティを生きている。そうであるからこそ、他者の幸福
に対して積極的に関心を抱き、責任感を持たねばならない。それはもはや宗教の問題では
なく、われわれの生き残りをかけた現実問題である。このような観点に立つ彼の祈りは「宗
教の心であり、中心点」をなすものではなく、「人間の心であり、中心点」をなすものであ
る。そして、この転回をもたらしたものは、モダニティの現実であった。


(SUMMARY)
The purpose of this paper is to bring out the view of the 14th Dalai Lama on religion. This topic is considered through the analysis of his prayers. We are not concerned
with his Buddhist ritual prayers, but the prayers that he stated publicly. According to the Dalai Lama, it is not necessary for everyone to be a religious believer. But, spirituality is essential. We need spirituality concerned with some qualities of human spirit such as love, compassion, a sense of responsibility and so on. It is what brings happiness to both self and others. The role of religion is to develop such spirituality. We live in modernity, the world that is becoming smaller and increasingly interdependent. Therefore, we should have concern and a sense of responsibility for happiness of others. This is not a question of religion, but rather a question of our own survival. Standing this ground, the prayers of  the Dalai Lama are not the heart and the central point of “religion”, but “humanity”. What brings this turn is the reality in modernity.
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はじめに

宗教に訴えることなく、いかにしてすべての人々の役に立つことができようか1。
第 14 世ダライ・ラマ2(sku phreng bcu bzhi pa’i ta’ la’i bla ma、1935 年生まれ。以
下、ダライ・ラマと略す)の主たる関心はここにある。「すべての人々の役に立ちた
い」という真率な願いには、誰しも畏敬の念を抱くであろう。しかしながら、「宗
教に訴えることなく」という条件に接するとき、われわれは立ち止まらざるをえな
い。この条件は、チベット仏教という宗教の最高指導者としての足場に抵触するも
のと思われるからである。まさかダライ・ラマは宗教が無縁だと考えているわけで
はあるまい。ならば、彼は宗教に対していかなる見解を持っているのであろうか。
この問いは、オウム事件や 9・11 テロ事件によってわれわれに突きつけられた、宗
教の役割に対する疑念とも結びつくであろう。このようなテロ事件を耳にすると、
あるいは宗教とは暴力に転化しうる危険で怪しげなものであるというネガティヴ
な観念を抱きかねないし、あるいは自らの宗教は善で他の宗教は悪であるという誤
った対立図式にも導かれかねない。

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1 Dalai Lama, Ethics for the New Millennium, The Berkley Publishing Group A Division of Penguin Putnam Inc, 1999, p. 20. 和訳:ダライ・ラマ著、塩原通緒訳『幸福論』角川春樹事務所、
2000 年。
2 本名は、ジャンペル・ンガワン・イェシェ・テンジン・ギャツォ( ’jam dpal ngag dbang blo
bzang ye shes bstan ’dzin rgya mtsho)。ダライ・ラマの「ダライ」はモンゴル語で「海」を意
味し、「ラマ」はチベット語で「上師」を意味する。観世音菩薩の「化身」であると信じられて
おり、その初代から数えると 74 代目である。一般的に「活仏」という言葉が当てられているが、
これは誤りであるとダライ・ラマ自身が指摘している。「活仏」という中国語は「生きている仏
陀」を意味するが、チベット仏教ではそのようなことを認めていない。「化身(sprul sku)」と
するのが正しい[Dalai Lama, Freedom in Exile, London: Abacus, UK, 2005 (1990), pp. 1-2. 和
訳:ダライ・ラマ著、山際素男訳『ダライ・ラマ自伝』文藝春秋、1992 年]。チベット人はダ
ライ・ラマのことを「ダライ・ラマ」とは呼ばず、「ギャルワ・リンポチェ(rgyal ba rin po che、
仏陀のような宝)」や「コンサ・キャプゴン・チェンポ・チョ(gong sa skyabs mgon chen po mchog、
最上の偉大なる守護者)」などの尊称で呼ぶ。1949 年に中国軍のチベット侵攻により情勢が悪
化したため、1950 年に本来ならば 18 歳のところを 15 歳で政権の座に就く。1959 年 3 月 10 日
にラサでチベット人の民族蜂起が起こったが中国軍によって武力鎮圧され、亡命を余儀なくさ
れる。北インドのダラムサラに亡命チベット政府(btsan byol bod gzhung)を樹立し、チベッ
ト問題の解決と壊滅的な打撃を受けたチベット文化の保全に尽力する。一貫した非暴力主義が
評価され 1989 年にノーベル平和賞が授与された。
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ダライ・ラマが信じている宗教の本質は何なのか。本稿の目的はこれに対する見解を明らかにすることにある。その際に重要なのは、彼の「祈り」である。言うま
でもなく祈りは「宗教の心であり、中心点」3をなす。そして祈りが宗教の核心にあ
るならば、「宗教に訴えることなく、すべての人々の役に立つ」ようにというダラ
イ・ラマの「祈り」を聞くと、宗教ではない「祈り」があるのだろうかという疑問
に突き当たらざるをえない。しかし、ダライ・ラマはまさに宗教という枠を超えん
とする「祈り」を捧げ、われわれと共に祈ることを望んでいるのである。では、い
かにして宗教を超えんとしているのだろうか。この点を明らかにするには考慮に入
れなければならない要素がある。それがモダニティ4である。ダライ・ラマにとって
モダニティは、宗教とは別次元にあるものではなく、むしろ積極的に関りあってい
かなければならないものであった。ダライ・ラマとモダニティの邂逅がもたらした
もの、それが、「人間の心であり、中心点」をなす「祈り」への転回である。

1、ダライ・ラマにおける祈りの事例

本稿はダライ・ラマがチベット仏教の法王として執り行う儀礼における祈りを扱
うものではない。というのも、指導者の祈りとして重要な意味を持つのは、その言
葉が人々に向かって語られる時だからである。よって、声明や演説、書籍などで人々
に対して語り、文書として確認することのできる祈りを対象にする。特にダライ・
ラマ自身が祈りであると明白にしている箇所に着目するため、「祈り」にあたる英
語の prayer および、チベット語の smon lam を道標として考察する。
ここでいう「祈り(prayer、および smon lam)」は瞑想5を含む広義の祈りではない。
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3 Heiler, Friedrich 1969 (1918), Das Gebet, München: Ernst Reinhardt Verlag, S. 2..
4 「およそ十七世紀以降のヨーロッパに出現し、その後ほぼ世界中に影響が及んでいった社会
生活や社会組織の様式[Giddens, Anthony, The Consequences of Modernity, Polity Press, UK,
1990, p. 1. 和訳:ギデンズ、アンソニー著、松尾精文・小幡正敏訳『近代とはいかなる時代か?』
而立書房、2006 (1993) 年、13 頁]」と概括的に定義されるが、後述するように本稿において
は、世俗化・個人化・グローバリゼーションによって特徴付けられるものである。
5 瞑想(meditation)にあたるチベット語の sgom は、特定の実践や対象に対する親しみが深ま
っていくことを意味しており、「親しむ(familiarization)」というプロセスが非常に重要なも
のとなる。なぜなら、選ばれた対象への親しみが発展すれば、それに従って心が高められ成熟
するからである[Dalai Lama, The Good Heart, foreword, introduction and Christian context by
Laurence Freeman, OSB, translated from the Tibetan and annotated by Geshe Thupten Jinpa,
edited and with a preface by Robert Kiely, London: Rider, 2002 (1996), p. 46. 和訳:ダライ・ラマ著、中沢新一訳『ダライ・ラマ、イエスを語る』角川書店、1998 年]。sgom は、「修習」と宗教と倫理 7 辻村:ダライ・ラマ 14 世における祈りとモダニティ
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「真なる言葉の祈り(bden tshig smon lam)」6と題されたダライ・ラマ 14世
による祈りの言葉に「三世の仏陀・菩薩・弟子達よ、私の真なる願いを聞き入れた
まえ」7とあるように、請願および誓願を中心とし、それに応答する対象として何ら
かの人格的要素を有すると考えられる存在(仏陀8・菩薩・法・僧伽など)9が措定さ
れている狭義の祈りである。
さて、人々に語られる祈りを扱うにしても、一括りにすることはできない。という
のも、「A:ダライ・ラマが個人的に捧げる祈り」を公の場で述べたものと、「B:
他の人々と分かち合いたいとダライ・ラマが望む祈り」という性格上の違いがある
からである。以下の事例において、前者はチベット人に対して発言したもので構成
されており、後者はすべての人々に対して発言しているものとなっている。また、
ダライ・ラマの祈りの中身は次の3つの要素から成り立っている。すなわち①祈る
対象、②祈られる対象、③祈る内容である。①祈る対象からは、ダライ・ラマの宗
も訳される。
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6 Dalai Lama, “bden tshig smon lam”, nyer mkho’i zhal ’don kun phan nyi ma zhes bya ba bzhugs so,
Delhi: bod gzhung shes rig dpar khang, 2005 (2004), pp. 425-427.
7 Ibid., p. 425.
8 仏陀に祈りを捧げるとき、仏陀とはいかなる存在として考えられているのかが問題となる。
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なぜなら歴史上に現れた仏陀の存在は涅槃によって終わったはずだからである。そうであるな
らば、存在しない仏陀に祈っても意味がない。しかしながらチベット仏教では三身説をとるの
で、それはあくまで応身(あるいは化身)としての仏陀の存在が終わったのであって、彼の意
識や心の流れは報身として続いているとする。そして有情を助けるのにもっとも適した形での
出現(emanation)を続けているので、仏陀の臨在は今もあることになる[Dalai Lama, op. cit.
2002 (1996), p. 119.]。よって、祈りの対象は報身としての仏陀に対して向けられたものである
といえる。ただし、ここでいう仏陀は、いわゆる先達や導き手であって、キリスト教における
神のような人間とは隔絶された到達し得ない絶対他者ではないと考えられる。というのも、大
乗仏教ではわれわれも仏陀になれると説いているからである。また、仏陀の加持の力が有情の
苦を滅することはできず、有情が自ら苦の原因をなくさねばならないとダライ・ラマは考えて
いる[ダライ・ラマ著、マリア・リンチェン訳『ダライ・ラマ 慈悲の力』春秋社、2004 年、
152 頁]。
9 ここでは三宝における法を人格的存在の範疇に敢えて入れてある。というのも、「真なる言葉
の祈り」の中には、「三宝の慈悲(mchog gsum thugs rje)[Dalai Lama, op. cit., 2005 (2004),
p.427]」という言葉が出てくるからである。この用例からすると、「法の慈悲」という言い方
も可能ということになる。三宝の法とは道諦と滅諦の2つから構成されているものであり、そ
の両者の究極的な側面が仏陀の法身であるとされる[ダライ・ラマ 14 世著、谷口富士夫訳『至
高なる道』春秋社、2001 年、21 頁]。とすると、法も仏陀の範疇に入ることとなり、何らかの
人格的要素を有する存在として描く事もできよう。このように考えれば、「法の慈悲」、あるい
は「三宝の慈悲」という言い方も可能であろうし、三宝に対して祈願するというのもありえる
であろう。
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教上の立場および宗教に対する見解が明らかになる。②祈られる対象からは、ダラ
イ・ラマが関心を向ける方向と範囲が明確になる。③祈る内容からは、ダライ・ラ
マが関心を抱いている内容が明確になる。
まず、チベット人に対して発言されたもので構成されている、「A:ダライ・ラマ
が個人的に捧げる祈り」を取り上げる。周知の通り 1959 年 3 月 10 日にラサにおい
て中国の侵略に対する民族蜂起が起き、ダライ・ラマは亡命することとなった。そ
の日を記念して毎年 3 月 10 日にダライ・ラマは声明を出しており、その最後の部分
で祈り(smon lam)が捧げられている。1960 年から 2005 年までの声明を収録した
『政治指針(chab srid lam ston)』10には、全部で 46 年分の声明が載せられているが、
そのうち最後の祈りの言葉が見られるのは 27 年分の声明11である。これらの声明を
3つの基準をもとにすると、①祈る対象によって2つに、②祈られる対象によって
2つに、③祈る内容によって1つに分類できる。
①祈る対象による類型は、ダライ・ラマが祈りを捧げる対象が明確になっている
ものと、なっていないものによって2つに分かれる。祈る対象が明確になっている
ものは次の3つの声明においてである。すなわち、1962 年の「すべて(の有情)に
(三)宝の加持があり、真実があらゆるところへ広まるように祈りを込めて」12、
1963 年の「すべての有情が仏陀の境地を得るように祈りを込めて」13、1968 年の「三
宝の慈悲が有情を捨て置くことなく、幸福をもたらすよう祈りを込めて」14である。
これら3つは仏法僧の三宝に対して祈りを捧げているのが明白になっているのに
対して、残りの 24 の声明は祈りを捧げる対象が述べられていない。また、声明に
おける三宝に対する祈りは、ダライ・ラマの亡命生活における初期の段階において
なされていることがわかる。
②祈られる対象による分類は、チベット人に対するものと、有情一般に対するも
のの2つに分けることができる。チベット人に対する祈りの典型としては、1996
年の「われわれの人々のいかなる苦しみも速く取り除かれるよう祈りを込めて」15とある。
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10 Dalai Lama, chab srid lam ston, Dharamsala: bod gzhung phyi dril las khungs, India, 2005a.
11 列挙すれば、1962、1963、1965、1966、1968、1970、1981、1984、1985、1986、1987、1988、
1989、1992、1993、1994、1995、1996、1997、1998、1999、2000、2001、2002、2003、2004、
2005 年の 27 年分である。
12 Ibid., p. 26.
13 Ibid., p. 30.
14 Ibid., p. 56.
15 Ibid., p.206.
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有情一般に対するものとしては、1989 年の「すべての有情が安寧であるよう
祈りを込めて」16とある。また、チベット人と有情一般を同時に対象としている事
例もある。それは 1998 年の「チベット人のいかなる苦しみも取り除かれることが
でき、すべての有情に幸福が訪れるよう祈りを込めて」17である。チベット人に対
象が絞られているものは、1992、1995、1996、1997、1999、2000、2001、2002、2003、
2005 年の 10 年分である。チベット人と有情が両方対象となっているものは 1998
年の1回のみで、残りの 16 年は有情一般のみに言及されているものである。3 月
10日声明以外で祈りが出てくるものとしては、1992年にダライ・ラマが発表した「将
来のチベットの政治指針と憲法の要点(ma ’ongs bod kyi chab srid lam ston dang/
rtsa khrims snyong don/)」18がある。そこには「すべての人およびチベット人に幸
福があるよう祈りを込めて」19とある。いずれにせよ、②祈られる対象においてチ
ベット人と有情という区別があるが、他者に向けられたものであるという点で共通
している。
③祈る内容は、他者の苦しみが除かれ幸福が訪れるようにという主旨で、すべて
の事例において一致している。
次に、チベット人に限らず、すべての人々に対しての発言で構成されている「B:
他の人々と分かち合いたいとダライ・ラマが望む祈り」について見てみよう。ここ
ではダライ・ラマの一般向けの著作に記されている2つの祈りの言葉を取り上げる
ことができる。それは、「いつでもこのようでありますように、今もそしてこれか
らもずっと。保護のないものたちの保護者に。道を失ったものたちの案内者に。海
を渡ろうとするものたちの船に。河を渡ろうとするものたちの橋に。危険に晒され
ているものたちの避難所に。明かりを持たないものたちの燈明に。逃げ場のないも
のたちの隠れ家に。そして、困っているすべてのものたちの奉仕者に」20というも
のと、「虚空があるかぎり、有情がいるかぎり、この世界に私もとどまって、有情
の苦しみを除くことができますように」21というものである。
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16 Ibid., p. 153.
17 Ibid., p. 224.
18 Dalai Lama, “ma ’ongs bod kyi chab srid lam ston dang/ rtsa khrims snyong don/”, bod du
lag bstar byas pa’i rgya dmar gyi srid byus dang bya thabs, bod gzhung phyi dril las khungs, 2002
(1992), pp. 274-291.
19 Ibid., p. 291.
20 Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 237.
21 Dalai Lama, op. cit., 2005 (1990), p. 314.
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ここでの祈りを、先ほどの 3 つの基準を当てはめて分析すると次のようになる。
①祈る対象は言及されておらず明確化・特定化されていない。②祈られる対象は、
自己となっている。③祈る内容は自己が他者の苦しみを除くものとなれるようにと
いうことで一致している。
ここで、これまで見てきたダライ・ラマの祈りについて簡単な要約を以下に示す。
まず、2つに大きく分けることができた。それは「A:ダライ・ラマが個人的に捧げ
る祈り」(以下「A」)と、「B:他の人々と分かち合いたいとダライ・ラマが望む祈
り」(以下「B」)である。これらはさらに、①祈る対象(以下①)、②祈られる対象
(以下②)、③祈る内容(以下③)に細分化できた。「A」の①は、三宝に特定された
ものと、言及がなく不特定なものの2つであった。「A」の②は、チベット人と、す
べての有情の2つであったが、他者であるという点で共通していた。「A」の③は、
他者の苦しみが除かれ幸福が訪れるようにという主旨で、その主体は他者であった。
「B」の①は、言及がなく不特定であった。「B」の②は、自己であった。「B」の③
は、自己が他者の苦しみを除くものとなれるようにという主旨で、その主体は自己
であった。


2、祈る対象に対する沈黙が意味するもの

「A」であれ「B」であれ、①が示すものは、ダライ・ラマの宗教的立場と宗教に
対する見解である。ダライ・ラマの宗教的立場は言うに及ばずチベット仏教の最高
指導者である。そうであるがゆえに、「A」の3つの事例において仏陀・法・僧伽の
三宝に対して祈りが捧げられていたのである。
しかし、着目すべきところはここではない。むしろ、「A」「B」の事例における
大半の祈りにおいて、祈る対象に言及せず不特定なままにしてあるということこそ
が、極めて重要なのである。この祈る対象に対する沈黙のなかに、ダライ・ラマの
宗教に対する見解が映されているといえる。とはいえ、このことは、祈りの対象が
「無い」ということではない。そうではなく、言葉によって表に出していないだけ
である。その祈りを聞き、共有する人々の多様な存在を、祈る対象に対する沈黙を
もって表しているのである。このことは次のことを意味する。すなわち、その祈り
を共有する者にとって、祈りの対象を選択する可能性に開かれているということで
ある。この対象の選択可能性は、特に「B」において重要な意味を持っている。な
ぜならば、「B」はすべての人々と共有できる祈りであるとダライ・ラマが認めているものだからである。
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すべての人々と祈りを共有するためには、特定の宗教によっ
て特徴付けられる祈りの対象が明言され、指定されていてはならない。仮に三宝が
明言されていれば、信仰のない人や仏教以外の信徒にとって、その祈りに対して抵
抗があるかもしれないからである。これではすべての人々と祈りを共有することは
できない。この問題を解決するにはどうすればよいか。それは、祈りの対象に言及
せず沈黙することによって、その祈りを共有する人々に委ねるのである。そうする
ことによって、その沈黙のなかにどんな対象を置くことも可能になる。祈りを共有
する者は自身の宗教的立場にしたがって、何か特定の対象を置くことができる。ま
た、仏陀やキリストといった具体的で明確に定義できるものに限らず、ダライ・ラ
マが実際にしているように、慈悲を持つ偉大な存在のような特定の宗教によらない
抽象的な対象を置くこともできる22。
このような祈る対象の選択可能性に、ダライ・ラマの宗教に対する2つの見解が
反映されている。第一は、宗教は人間にとってなくてはならないものではなく、本
当に必要なものはスピリチュアリティであるということであり、第二は、宗教を必
要とするにしても、人それぞれによって有効な宗教は異なるので、宗教の多様性が
必要であるということである。


3、宗教とスピリチュアリティの区別と世俗化

まず、第一の見解について考えてみたい。ダライ・ラマは宗教(religion)とスピ
リチュアリティ(spirituality)を明確に区別する。宗教とは、ある信念の伝統が持
っている救済の主張に対する信仰および、天国や涅槃といった考えを含む形而上学
的・超自然的現実に対する信仰に関係するものである。それに対してスピリチュア
リティとは、愛・思いやり・忍耐・寛容・赦し・満足・責任感・協調性といった自
己や他者に幸福をもたらすような人間の心の質であり、チベット語の gzhan phan
gyi sems(他者の役に立とうとする考え)が意味するような、他者の幸福に対する関
心を中心とするものである23。
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22 Dalai Lama, op. cit., 2002 (1996), p. 84.
23 Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 22.
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このように宗教とスピリチュアリティを区分した上で、ダライ・ラマは、人が宗教を信じるかどうかは重要ではなく24、宗教は人間になくてはならないものでもな
い25、と結論する。必要なのは、宗教ではなくスピリチュアリティなのである26。例
えるならば、スピリチュアリティは「水」のようなもので、宗教は「水を汲む道具」
のようなものであるといえるだろう。人間は水がないと生きていくことはできない。
だがそれを飲む方法は人によって異なる。ある人は取っ手のついたカップの方が使
いやすいと思うかもしれないし、ある人は柄杓で掬って飲むのがいいというかもし
れない。しかし、人間にとって必要なのは水であって、カップや柄杓ではない。水
を汲む道具がなくとも、あるいは手のひらで、あるいは顔を近づけて水を飲むこと
はできるのである。
このように宗教とスピリチュアリティを区別する背景には、宗教を取り巻く現状
認識がある。特に先進諸国に見受けられるように、人々の日常生活における宗教の
影響は総じてわずかなものになっているという事実をダライ・ラマは認めている27。
世俗化という言葉こそ使ってはいないが、ダライ・ラマのこの認識は世俗化という
モダニティの特徴を踏まえたものであることは明白であろう。宗教的な制度や行為
および宗教意識が社会的意義を喪失する過程が進行し、大多数の人々が宗教を実践
していない今、ダライ・ラマの目指すところは、宗教に訴えることなくすべての人々
を救う方法を見つけることにある28。その第一歩として、宗教とは区別されるスピ
リチュアリティの重要性をダライ・ラマは説いているのである。スピリチュアリテ
ィこそがすべての人々に必要なものであり、宗教はそうではないという見解に立つ
ならば、祈りの対象を限定するわけにはいかないであろう。祈る対象に対する沈黙
はこのような見解を表している。


4、宗教の多様性と個人化

次に第二の見解について考えてみよう。人間に宗教は必ずしも必要ないという見
解をダライ・ラマが抱いていることについては先に述べた。しかし、このことは宗
教が不要であるということを意味するものではない。
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24 Ibid., p. 19.
25 Ibid., p. 22.
26 Ibid.
27 Ibid., p. 20.
28 Ibid.
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ダライ・ラマによれば、宗教は心を望ましい方向へ鍛錬するのに非常に役立つ道
具であり、心をコントロールするのに役立つ何らかの実践をするためにある29。こ
の役割を果たすために、すべての主要な宗教(仏教、キリスト教、儒教、ヒンドゥー
教、イスラーム、ジャイナ教、ユダヤ教、シク教、道教、ゾロアスター教)が同様のメッ
セージを伝えていると、ダライ・ラマは確信している。そのメッセージというのは、
愛の観念、自己中心的で苦難を引き起こす可能性のある心を制御する必要性、平安
で規律があり倫理的で賢明な心の状態へといたる道などである30。とはいえ、ダラ
イ・ラマはこれまでずっと変わらずにこのような見解を持っていたわけではない。
若かりし頃のダライ・ラマは、仏教こそが最高の道であり、すべての人々が仏教に
改宗することが望ましいとすら考えていた31。しかし、彼の見解は変化し、仏教は
絶対的なものではなく相対的なものでしかないという認識に至る。この排他主義的
立場から多元主義的立場への変化をもたらしたものは、他の宗教を実践している
人々との出会いであった。異なる宗教実践に身を投じている人々は皆、それぞれの
方法は違えども深遠なものを得ていた32。この経験を通して主要な宗教にはそれぞ
れ大いなる価値があり、その基盤において共通性があるという見解に至ったのであ
る33。とはいえダライ・ラマは、その共通性を根拠として他宗教の犠牲の上に一つ
の特殊な宗教を主張しようというのでもなく、新しい「世界宗教」を模索している
わけでもない34。


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29 Dalai Lama, Universal Responsibility and the Good Heart, Dharamsala: Library of Tibetan
Works and Archives, 1995 (1977), p. 18.
30 Dalai Lama, Love, Kindness and Universal Responsibility, New Delhi: Paljor Publications, India,
1999 (1997), pp. 14-15.
31 Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 21.
32 Ibid., p. 21.
33 ダライ・ラマは「排他主義」的でもなく「包括主義」的でもなく、「多元主義」的な立場で
あるが、J・ヒックのいう多元主義の見解とは異なっている。ヒックの多元主義は、一つの「実
在者」なり「究極者」なりに様々な道(宗教)が続いているという収斂的なモデルである。そ
れに対しダライ・ラマは、宗教に関係のないスピリチュアリティがすべての人間に存在するこ
とを認め、それを発展させる手段として宗教を見ているのであって、一つの頂点へ向かうもの
という構図は取っていない。むしろ、教義の上では最終的に各宗教は別物であり、本質的に同
じではないという見解を取っている。例えば、「空」と「神」の概念や「三身」と「三位一体」
の概念が究極的に同じだとするのはいささか暴論であって、ヤクの頭をヒツジの身体に乗せる
ようなものだとしている[Ibid., p. 228.]。
34 Dalai Lama, op. cit., 1999 (1997), p. 16.
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ダライ・ラマが最も重視するのは、宗教を必要とする人々が自分に一番適した宗教を選択するということである35。なぜなら、人間の心というのは人それぞれに異
なった特質と傾向を持っているがゆえに、平安と幸福への異なったアプローチが必
要となるからである36。抗生物質を骨折した人に投与しても骨折が治るわけではな
いし、子供に大人と同量の抗生物質を投与すれば健康を損なってしまう。これと同
様、宗教は薬のようなもので各人各様に適合したものでなければならない37。その
ためには宗教は一つだけではなく、様々な種類があったほうがよいのである38。
このダライ・ラマの見解の中に、モダニティの一つの特徴が映し出されている。
それは宗教が選択可能なものとなっているということである。別の言い方をすれば、
制度的な宗教的影響力の衰退と個人化が、この見解に反映されているのである39。
モダニティにおいては、社会的に選択の余地のないものとして個人が特定の宗教を
受容しなければならないのではなく、自らの性向に合致する宗教の選択可能性が必
要とされている40。不特定多数の人々と共有するダライ・ラマの祈りのなかで祈る対
象を特定することは、宗教における選択の可能性を否定し、各人の心の特性を無視
することを意味しかねない。そのため、祈る対象に対する沈黙が必然的に要請され
るのである。
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35 Dalai Lama, op. cit., 1995 (1977), p. 18.
36 Dalai Lama, op. cit., 1999 (1997), p. 16.
37 Dalai Lama, Essence of Heart Sutra, translated and edited by Geshe Thupten Jinpa, Boston:
Wisdom Publications, 2005, p. 11. 和訳:ダライ・ラマ著、宮坂宥洪訳『般若心経入門』春秋
社、2004 年。
38 Dalai Lama, op. cit., 1995 (1977), p. 42.
39 ここで極めて重要な注意を喚起しておかねばならない。ダライ・ラマが各人各様に宗教を選
択すべきだと言っているのは、自律的な個人がブリコラージュのように宗教を消費するという
意味での私事化を推奨するものでは決してない。趣味のように消費する態度は回避されねばな
らない。自分の選択した一つの宗教に真摯に取り組むことこそが重要なのである。ゆえに、ダ
ライ・ラマは安易な改宗を厳しく戒めている。なぜなら、他の宗教に移ることによってそれま
でとは異なった生き方をせねばならず、改宗した本人が混乱に陥ことになるからである。とは
いえ、自分の宗教に対する信念が揺らがないように分別を持った上でなら、他の宗教を学び、
場合によっては一部を取り入れても構わない[Dalai Lama, op. cit. 1999, pp. 224-229.]。
40 チベット人社会の大多数の人々は仏教徒であるが、ボン教徒(bon po)、ムスリム、キリス
ト教徒も存在する。1991 年に公布された『亡命チベット人憲章』(btsan byol bod mi’i bca’
khrims)第 10 条において「信教の自由(chos dad rang dbang)」は保証されており、どの宗教
(chos lugs)も法の下では平等であるとされている[btsan byol bod mi’i bca’ khrims, bod mi
mang spyi ’thus lhan khang, Dharamsala, 2005 (1991), p. 4.]。とはいえ、同憲章の第 3 条「政
治の本質」において「ダルマと政治の和合(chos srid zung ’brel)」という言葉が出てくるの
は特筆すべきことである[Ibid., p. 1.]。紙面の都合上論ずる事は出来ないが、この言葉が「政教
一致」の意味するところと同じであるかどうかを議論する余地は大いに残されている。
宗教と倫理 7 辻村:ダライ・ラマ 14 世における祈りとモダニティ
65
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5、普遍的責任(universal responsibility)について

次に、「A」の②③と「B」の②③について考察しなければならないが、その前に
どうしても触れておかねばならないことがある。それが「普遍的責任 universal
responsibility」41と呼ばれるダライ・ラマ独自の概念である。この概念は以下でなさ
れる祈りの考察において決定的に重要な役割を果たす。そのため、普遍的責任につ
いての考察と並行してダライ・ラマの祈りについて見ていく。Universal に「A」の
②③を、responsibility に「B」の②③を対応させて考察する。
普遍的責任はダライ・ラマによって初めて採用された言葉であり42、彼が 1973 年
に最初に西洋を訪れた時43以来ずっと提唱し続けているものである44。ダライ・ラマ
自身の説明によると普遍的責任は、「チベット語で chi sem といい、逐語的には
universal (chi) consciousness (sem)を意味する」45。この chi sem というローマ字表記
の仕方は、チベット語の spyi sems の発音を写したものだと思われる46。このよう
に universal responsibility にあたるチベット語をダライ・ラマ自身が述べているに
もかかわらず、実際に彼が用いるチベット語は統一されていない47。英語では
universal responsibility で統一されているのであるが、チベット語では spyi sems
以外の複数の言葉が彼自身によって用いられている。
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41 日本語では通常「普遍的責任」と訳されているので、それに倣う。
42 Cabezón, José Ignacio, “On the Principle of Universal Responsibility”, Universal Responsibility, edited by Ramesh Chandra Tewari, Krishna Nath, New Delhi: Foundation for Universal
Responsibility, 1996a, p. 134.
43 1973 年にダライ・ラマはヨーロッパ 11 カ国を訪問している [rong bo blo bzang snyin grags,
byams brtse dang drang bden gyi bla srog, Dhalamsara: bod gzhung phyi dril las khungs, India,
2003, pp. 135.]。
44 Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 169.
45 Ibid., p. 162.
46 「だと思われる」としたのは、この書物においてチベット文字のローマ字転写が記されてお
らず、また chi と発音するチベット文字の組み合わせが複数存在するうえ、長い単語を短く略
されている可能性もあるために、この記述だけからは確定できないからである。しかし、以下
で universal responsibility のチベット語に関して見ていくなかで分かるように、chi semが spyi
sems であることは間違いないと思われる。
47 筆者の力の及びうる範囲で参照した先行研究において universal responsibility のチベット語
の事例を挙げているものはなく、またチベット語としての用語が統一していないことを指摘し
たものもない。
宗教と倫理 7 辻村:ダライ・ラマ 14 世における祈りとモダニティ
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英語の文章とチベット語の文章を対照してみるとその様子が明らかになる。例え
ば、2005 年の 3月 10 日声明における universal responsibility48 のチベット語は ‘jig
rten spyi yongs ‘gan khur49(公的な世間全体の責任)となっており、1997 年の同声
明においては a sense of universal responsibility50にあたる部分として ’dzam
gling ’dir gzhan phan gyi bsam blo51(この世界への利他の考え)、となっている。ま
た1988 年のストラスブール提案52におけるa sense of universal responsibility53にあ
たるチベット語は、spyi la sman pa’i ’gan ’khur gyi bsam blo54(公共に役立つ責任の
考え)となっている55。
これらの事例におけるチベット語の特徴をまとめれば次のようになろう。
Universal にあたるのは ’dzam gling(世界)、’jig rten(世間)、spyi(公)の3つで
あり、responsibility にあたるのは sems(心)、 ’gan ’khur(責任)、および gzhan
phan gyi bsam blo(利他の考え)の3つである。


6、Universal:相互依存によって成立する世界と有情への祈り

Universal に関して3つのチベット語の用例があるが、このうち ’dzam gling(世界)と ’jig rten(世間)は似通った意味をもっている。’dzam glingは ’dzam bu gling
とも綴ることがあり、サンスクリットの jambudvīpa、すなわちアビダルマで説か
れるわれわれの住む島の呼び名である。’jig rten は、サンスクリットの loka にあた
り、事象が生滅する空間的広がりを意味する。これらから分かるように ’dzam gling
は、「世界には様々な国がある」といったときのような、「地理的な意味合い」における世界を意味している。それに対し、’jig rten は「本質としての事象の生滅性」 を含意した世界(世間)を意味している。
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48 Dalai Lama, Tibet and the Tibetan People’s Struggle, Dharamsala: Department of Information
and International Relations, India, 2005b, p. 165.
49 Dalai Lama, op. cit., 2005a, p. 286.
50 Dalai Lama, op. cit., 2005b, p. 122.
51 Dalai Lama, op. cit., 2005a, p. 207.
52 Dalai Lama, “sitas si sbag gi gros ’char”, bod du lag bstar byas pa’i rgya dmar gyi srid byus dang
bya thabs, bod gzhung phyi dril las khungs, 2002 (1988), pp. 264-273.
53 Dalai Lama, “The Strasbourg Proposal”, Dharamsala and Beijing: Initiatives and Correspondence
1981-1993, Dharamsala: The Department of Information and International Relations, India,
1996 (1994), p. 45.
54 Dalai Lama, op. cit., 2002 (1988), p. 264.
55 これらの事例から分かるように、spyi という言葉が多く使われていることと、その意味合い
から chi sem が spyi sems であることはほぼ確実であろうと思われる。
宗教と倫理 7 辻村:ダライ・ラマ 14 世における祈りとモダニティ
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ダライ・ラマの用法についても同様で、「世界が相互に依存しあっている」というときの「世界」は ’dzam gling を用いているし(例えば、5 項目の和平プラン56や 1997 年声明57、ストラスブール提案58など)、相互依存している様相をすでに含意しているときは ’jig rten を用いている(例えば、1988
年声明59や 2005 年声明60など)。
ダライ・ラマが考える「世界」および「世間」とは、われわれの経験が教えると
ころの、緊密な相互依存関係によって成立している現実であって、仏教の教義に対
する信仰によるものでは決してない61。国境を越えて取り結ばれている近代経済や
環境破壊において顕著に見受けられるように、グローバリゼーションにともなう相
互依存関係の増大こそがモダニティにおいて最も重要視されるべき事柄である62。
株式の変動や越境汚染などを考えると、世界全体の緊密な相互依存関係はわれわれ
にとって実感できる切実な現実であろう。このような状況においては、地球的規模
で展開される相互依存関係の網の目から逃れることは誰にもできないのである。普
遍的責任は、このようなモダニティのありように対する理解から生まれている。

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56 Dalai Lama, “zhi bde’i sngon ’gro’i gros ’char don tshen lnga”, bod du lag bstar byas pa’i rgya
dmar gyi srid byus dang bya thabs, bod gzhung phyi dril las khungs, 2002 (1987), p. 249.
57 Dalai Lama, op. cit., 2005a, p. 207.
58 Dalai Lama, op. cit., 2002 (1988), p. 264.
59 Dalai Lama, op. cit., 2005a, p. 149.
60 Dalai Lama, op. cit., 2005a, p. 286.
61 すこし、文脈が異なるが、ダライ・ラマは仏教教義に対して以下のような姿勢をとっている。
アビダルマで説かれているような世界観は、現代のわれわれが科学的方法によって獲得した世
界観とは全く異なる。このような場合、仏教の主張が科学的分析によって誤りであると証明さ
れれば、その教理を捨てねばならないとダライ・ラマは考えている[Dalai Lama, The Universe
in a Single Atom, Morgan Road Books, New York, 2005c, p. 3. 和訳:ダライ・ラマ著、伊藤真
訳『ダライ・ラマ 科学への旅』サンガ、2007 年]。この柔軟な姿勢がモダニティに起因する
ものかというと、必ずしもそうではない。むしろ、仏陀が語ったとされる「比丘たち、あるい
は学者たちは、焼いて切って磨いだ金のように、正しく吟味して私の言葉を受け入れるべきで、
尊敬のゆえにであってはならない[tsong kha pa, drang ba dang nges pa’i don rnam par phye ba’i
bsten bcos legs bshad snying po zhes bya bzhugs so, ’bras spungs blo gsal gling dpe mdzod khang,
2001, p. 4.]」という言葉が示しているような、「健全な懐疑主義(healthy skepticism)[Dalai
Lama, op. cit., 2005c, p. 25.]」とダライ・ラマが呼ぶ精神に基づくものである。科学と仏教は対
立するどころか、その方法論において多くの共通性があることは Ibid.に詳しく書かれている。
62 Dalai Lama, Dialogues on Universal Responsibility and Education, New Delhi: Library of Tibetan Works and Archives, 1995, p. 82.
宗教と倫理 7 辻村:ダライ・ラマ 14 世における祈りとモダニティ
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spyi が意味するものは、ダライ・ラマが universal という訳語を当てているように、
以上のような相互依存関係によって成立している世界全体であり、われわれの誰一
人としてその関係性から逃れることはできないという普遍性である。
こういった世界観に立つ時、チベット人に対して特に責任を負わねばならない63
ダライ・ラマという立場にある人は、どのように祈りうるだろうか。その責務上、
チベット人の幸福と安寧を祈るのが当然であろうと想像できる。だが、「A」の②の
事例はその予想を裏切るものであった。3 月 10 日という記念すべき日の祈りにおい
て、祈られる対象がチベット人に絞られているのは全体のほぼ三分の一しかないの
である64。ダライ・ラマはチベット人に対する祈りを捧げている 1997 年の声明にお

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63 Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 20.
64 しかも、チベット人が対象となっている声明の時期は 1992 年以降に集中している。その理
由は、1988 年のチベットの完全独立放棄を謳った「ストラスブール提案」を中心としたダラ
イ・ラマの外交政策の行き詰まりと、それに対するチベット人の落胆に配慮してのことかもし
れない。というのも、ダライ・ラマは 1994 年の演説において自身の外交政策とチベット人の反
応に対して次のように述べているからである。
「私もまた、われわれの国の独立の完全な回復をすべてのチベット人が望み、祈っているこ
とを知っている。(中略)私のアプローチが持続的な対話もしくはチベットの状況の全体的
な改善に貢献することにおいていかなる進展ももたらさなかったことを私は今や認めねば
ならない。さらにいえば、ますます多くのチベット内外のチベット人が、チベットの完全独
立を求めない宥和的な私の見解に落胆させられているという事実に気づいている。」[A. A.
Shiromany, Editor, The Political Philosophy of His Holiness the XIV Dalai Lama Selected Speeches
and Writings, New Delhi: Tibetan Parliamentary and Policy Research Centre, 1998, p. 442.]

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このような発言にいたる、ダライ・ラマの中国との外交を極めて簡単に要約すれば以下のよう
になる。チベットの独立問題を除く他のすべての問題について対話することができると、1979
年に鄧小平が述べたことを受け、1980 年から対話を持つ意思をダライ・ラマは表明しつづけて
きた[Ibid., p. 441.]。そして、1987 年には具体的な交渉の内容(①チベット全体を平和地域にす
ること。②民族としての存在を脅かす中国人の大量移住政策の放棄。③チベット人の基本的人
権と民主的自由の尊重。④チベットの自然環境の回復と保全および、中国が核兵器製造と核廃
棄物処分のためにチベットの土地を使用することの禁止。⑤将来におけるチベットの地位およ
びチベット人と中国人の関係についての真摯な交渉の開始)をまとめた「5項目の和平プラン」
を提示した。さらに 1988 年には、外交政策および武力による安全保障を中国側が担うという
完全独立放棄の姿勢を打ち出した「ストラスブール提案」を提示することによって、中国側に
対して平和的な解決を求めてきた。しかし、それに対して中国側が応じることはなく、政治外
交的手段において満足な結果を得ることができなかった。そのため、1991 年にカシャ(bka’
shag、内閣にあたる)は「ストラスブール提案の撤回(“Withdrawal of the Strasbourg Proposal
by Kashag the Cabinet of the Tibetan Government-in-Exile”)[Dharamsala and Beijing: Initiatives and Correspondence 1981-1993, Dharamsala: The Department of Information and International Relations, India, 1996 (1994), pp. 50-51.]」という声明を出している。
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いて、「この世界(’dzam gling)の関係がいっそう緊密になり、お互いがますます
相互に依存しているので、一つの国民の困難はもはやその国自身のみによって解決
できない。普遍的責任感(’dzam gling ’dir gzhan phan gyi bsam blo)がなければ、
われわれの将来は危機的状況に陥らざるをえない」65と述べている。国際的な政治
的・経済的相互依存性が高まっている状況だからこそ、国や民族にかかわらず、他
者の幸福に資することがチベット問題の解決につながる。そうであるがゆえに、「A」
の③のように、すべての有情の幸福を祈らずにはおれないのである。
とはいえ、このことは有情一般の幸福をチベット問題の解決の手段としてのみ考
えているということでは決してない。そのような考え自体、普遍的責任の意に反す
るものである。相互依存的関係にあるということは、お互いの幸福をお互いに支え
あうということである。よって、以下の考察にあるような責任感が求められること
となる。
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7、Responsibility:他者の幸福への積極的な関心と自己に対する決意を込めた祈り

Responsibility に関して3つのチベット語の用例が認められるが、ダライ・ラマ
によれば、’gan ’khur(責任)の意味合いは sems(心)の中に内在しているという66。
また、 gzhan phan gyi bsam blo(利他の考え)は上述のダライ・ラマによるスピリ
チュアリティの定義において登場したものでもあるが、ダライ・ラマが sems に重点
を置いていることから、gzhan phan gyi bsam blo(利他の考え)も sems の意味合
いに集約されると言ってよいであろう。
ダライ・ラマの普遍的責任(spyi sems)にいう sems は、菩薩(byang chub sems
dpa’ )における sems dpa’ を意味している67。sems dpa’ を字義どおりに訳せば勇
ましい(dpa’ )心(sems)となり、ダライ・ラマの説明によると、他者に関心を抱
き、他者のために行動する勇ましい決意であり、責任感をともなうものである68。
この責任感は、「すべてのものはその生において苦しみを欲さず、幸福や快適さを
求める」という、ダライ・ラマが普遍的に妥当すると考えている原則から生じるものである69。
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65 Dalai Lama, op. cit., 2005a, p. 207.
66 Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 162.
67 Dalai Lama, op. cit., 1995, p. 5.
68 Ibid., p. 5.
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この原則と、相互依存的な現実の有り様にわれわれは常に直面してい
る。ゆえに、積極的に他者に対して関心を抱き、他者の役に立とうとする責任感を
持たねばならない。これが普遍的責任の主張するところである。
「B」はまさにこのような責任感に裏打ちされた実践の決意を表明したものとい
える。「A」において祈られた他者の幸福は、「B」において自らの実践の目的とな
り、その目的を達成する決意を込めた祈りとなっている。すなわち、spyi sems(普
遍的責任)の sems である。「B」における2つの祈りの事例は明白に菩薩の精神を
表すものであって、事実、「虚空が続く限り……」という言葉は、シャーンティデ
ーヴァ70(Śāntideva、zhi ba lha、寂天、7 世紀中頃~8 世紀中頃)の『入菩薩行論』
71廻向の章の第 55 偈である。これらの祈りは普遍的責任を表したものに違いないが、
一見すると、宗教的色彩の濃いものであるように思える。普遍的責任は仏教におけ
る縁起を基盤にしていると、これまで指摘されてきた72。ダライ・ラマ自身が認め
ているように73実際その通りである。だが、その着想が仏教にあるといえども、仏
教という宗教の枠を超えようとしているのも事実である。
その超脱は、「縁起」や「菩薩」といった仏教的概念が示す精神を、「普遍的責任」
という非仏教的な概念で表したことのなかに見出しうる。この概念の置き換えをもたらしたのは、グローバリゼーションの進展にともなう地球規模の相互依存関係の
拡大という社会構造の変化であった。
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69 Dalai Lama, op. cit., 1995 (1977), p. 24.
70 ナーランダー僧院で活躍した、ナーガールジュナ、ブッダパーリタ、チャンドラキールティ
に連なる中観帰謬論証派の学僧。中観帰謬論証派の哲学はチベット仏教において最高のものと
されている。
71 六波羅蜜を基礎に菩薩の実践について説かれた論書。ダライ・ラマが自身の説法や著作にお
いて何度も取り上げているもので、彼の思想形成において最も重要な影響を与えているものの
一つである。シャーンティデーヴァがナーランダー僧院の男性僧侶に対して説いたものとされ
ているため、肉欲に関する部分で女性の肉体の過失についての記述がある。しかし、それは聴
衆が男性であったことを反映したものにすぎないため、女性がこの部分を読むときは、男性の
肉体の過失として考えるようにダライ・ラマは述べている[ダライ・ラマ 14 世、前掲書、2001
年、170 頁]。言うまでもないが、ダライ・ラマは男女平等論者である。将来、女性がダライ・
ラマになりうることも認めている[ダライ・ラマ 14 世、ジャン=クロード・カリエール著、
新谷淳一訳『ダライ・ラマが語る』紀伊国屋書店、2000 年、234 頁]。
72 Chapela, Leonardo R., “Buddhist Guidelines on Economic Organizations and Development
for Future Tibet: Interviews with His Holiness the XIVth Dalai Lama and Prof. Samdhong
Rinpoche”, The Tibet Journal, Vol. XVII, No. 4 Winter, 1992, pp. 18-19. および、Cabezón, José
Ignacio, “Buddhist Principles in Tibetan Liberation Movement”, Engaged Buddhism, edited by
Chiristopher S. Queen and Sallie B. King, New York: State University of New York Press,
1996b, p. 301. がある。
73 Dalai Lama, op. cit., 1995, p. 97.
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というのも、この変化の影響力は宗教の如何
にかかわらず及んでいくからである。縁起という宗教的世界観を有しない者であっ
ても、地球的規模で展開している現実から眼をそむけるわけにはいかない。もはや、
縁起の示す相互依存的な現実は、仏教徒のみに通用するものとはいえないのである。
そうである以上、一人の人間として自らの為す影響力がともすれば地球的規模に及
ぶことを意識し、あるいは他者に、あるいはすべての生けるものに対し関心を抱か
ねばならない。菩薩という宗教的理想によらずとも、このような責任感を持つこと
は、世界経済や環境破壊といった単独の国家や民族では解決できない多くの現実に
よって要請されているのである。さればこそ、普遍的責任は、倫理道徳の問題でも、
ましてや宗教の問題でもなく、まさに生き残りをかけた現実問題であるとダライ・
ラマは主張するのである74。そのため、Engaged Buddhism という名のもとで普遍
的責任を概括する75には、余りあるものを感じずにはいられない76。モダニティの現
実が、仏教という枠に納まりきらない普遍的妥当性を与えているからである。そう
であるがゆえに、「B」の祈りを多くの人々と共有し、各人が自己自身に対して(「B」
の②)、他者の幸福を達成することができるように決意する(「B」の③)ことをダ
ライ・ラマは望んでいるのである。
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74 Ibid., p. 82.
75 Engaged Buddhism という文脈で普遍的責任を論じたものとしては、Bharati Puri, Engaged
Buddhism the Dalai Lama’s Worldview, New Delhi: Oxford University Press, 2006. および、
Cabezón, José Ignacio, op. cit., 1996b. がある。
76 このことは、Engaged Buddhism の文脈で論じたものの無益さや否定を意味するものでは決
してない。むしろ、極めて貴重で有益な先行研究である。筆者がこのようにいうのは次のよう
な理由による。ダライ・ラマ自身の思想の中核には仏教があるけれども、普遍的責任は、仏教
ひいては宗教自体の枠組みにとらわれてはいけないものとして提示されている。自分の信仰の
枠を超えて普遍的な道徳律があることを示したい [Dalai Lama, op. cit., 1999, p. 22.] と彼自身
が述べているように、普遍的責任を Buddhism という限定的な枠組みで理解されてしまうの
は、ダライ・ラマの本意ではないからである。とはいえ、普遍的責任感に基づいた実践が宗教
にかかわりなく行われねばならないというものではない。宗教の多様性についてのダライ・ラ
マの見解について上述したように、実践にあたって各人の最も適した宗教に従うのは有益な事
であるのは間違いない。よって、ダライ・ラマが言及しているわけではないが、仏教的動機に
よる普遍的責任の実践はもちろんのこと、キリスト教的動機に基づいた普遍的責任の実践やそ
の他様々なヴァリエーションが考えられるであろう。このように考えてくると、普遍的責任を
Engaged Buddhism という名のもとに置いておくには勿体無く感じられるのである。
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おわりに

ダライ・ラマの祈りを通して彼の宗教観について考察してきた。これまでの議論
を整理すれば次の 2 点にまとめることができよう。
第一に、世俗化が進み宗教の社会的影響力が衰退している現代において、人間に
とって宗教は必ずしも必要なものではなく、スピリチュアリティこそが必要である
とダライ・ラマは主張していた。宗教はスピリチュアリティを発展させるための手
段であり、薬と同じく各人各様に適した宗教を実践すべきであって、そのためにも
宗教の多様性が必要であるとする多元主義的な立場であった。これらの見解は、「祈
る対象に対する沈黙」として彼の祈りのなかにあらわれていた。
第二に、政治経済や自然環境など様々な領域において相互依存的関係が進んでお
り、誰もが苦しみを望まず幸福を望むからこそ、他者の幸福に対する「普遍的責任」
を抱かねばならない。この決意が祈りの中に表明されていた。この考えは、宗教的
枠組みを超えた、モダニティの現実が要請するものであった。
以上のように、ダライ・ラマはチベット仏教の最高指導者でありながら、仏教の
みならず宗教自体に対しても固執しない態度を表明している。ダライ・ラマの信じ
る宗教の本質とは、自らを律し他者に幸福をもたらさんとする心の資質を育むため
の「道具」である。ともすれば、われわれは「道具」に振り回されがちになる。そ
うならないためにも、「道具」を扱う人間にとって必要不可欠な心の質、すなわち
他者を思いやる心を確立することが必要である。このことは、単に仏教という枠の
中だけから導かれたものではなかった。ますます進展する相互依存関係によって成
り立っているモダニティの現実との邂逅によってもたらされたものであった。もは
や、宗教の枠組みを超えた問題にわれわれは直面している。そうであるからこそ、
他者の幸福に対して積極的に関心を抱き、責任感を持たねばならない。これがダラ
イ・ラマの云わんとする「人間の心であり、中心点」である。
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宗教と倫理 7 辻村:ダライ・ラマ 14 世における祈りとモダニティ
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キーワード:
ダライ・ラマ 14 世、祈り、モダニティ、スピリチュアリティ、
普遍的責任
KEYWORDS:
The 14th Dalai Lama, prayer, modernity, spirituality,
universal responsibility

달라이 라마 자연 환경에 대하여(Excerpt from Ancient Wisdom, Modern World: Ethics for the New Millennium)」

… | ダライ・ラマ法王14世日本公式サイト
「古代の智慧、現代の世界:新しい世紀の倫理(Excerpt from Ancient Wisdom, Modern World: Ethics for the New Millennium)」
自然環境について

달라이 라마 자연 환경에 대하여

교육과 보도에 특별한 책임이 있는 분야가 있다면, 그것은 우리의 자연 환경이라고 믿습니다. 이 책임은 옳은지 틀린지에 대한 문제가 아니라 생존할 수 있는지 여부와 관련이 있습니다. 자연계는 우리 집입니다. 반드시 두려워하는 것이나 신성한 것이 아닙니다. 단순히 우리가 사는 곳입니다.

샌드펠리 승원에서 레 계곡을 바라볼 수 있는 달라이 라마 교황. 2016년 8월 7일, 인도, 장무 카슈미르 주 라닥 지방 (촬영: 텐진 충절, 교황청)

그러므로 우리는 자연을 소중히 여겨야 합니다. 이것은 상식입니다. 그러나 최근에 이르기까지 인구 수와 과학 기술력이 자연스럽게 직접적인 영향을 미치는 상황은 없었습니다. 다른 말로 하면, 지금까지 어머니 지구는 우리의 어리석은 생활 습관을 견뎌 주었습니다만, 지금은 지구는 그것을 침묵으로 받아들일 수 없는 상태에까지 도달해 버리고 있습니다. 환경 파괴로 인한 문제는 우리의 무책임한 태도에 대한 지구의 대답이라고 생각됩니다. 지구의 인내력에도 한계가 있다는 것을 우리에게 경고하고 있는 것입니다.

현재 티베트 이상으로 우리의 자연 환경에 대한 관계의 실패를 분명히 보여주는 곳이 없습니다. 내가 자란 티베트는 야생 동물의 낙원이었다고해도 과장이 아닙니다. 20세기 중반까지 티베트를 방문한 모든 여행자도 이를 알고 있었습니다.

농작물이 자라지 않는 농지를 제외하고는 동물을 사냥하는 것은 거의 없었다. 실제로, 야생동물을 보호하는 성명을 내는 것이 정부 관리의 매년 관례이며, “수중이나 야생의 생물을 해치거나 통증하는 것은, 신분의 상하에 관계없이 아무도 해서는 안 된다”고 언급되었습니다. 예외는 쥐와 늑대뿐이었습니다.

어렸을 때, 라사 밖을 여행할 때 언제든지 많은 종류의 동물을 볼 수 있었다는 것을 상기시킵니다. 나는 4살 때 라사에서 달라이 라마로 공식적으로 즉위했지만, 티베트 동부에 있는 태어난 고향 탁첼에서 라사로 향하는 티베트 횡단의 3개월 여행의 주요 추억은 도중에 만난 야생 동물들 이었다.

엄청난 「캔」(야생의 당나귀)이나 「돈」(야생의 야크)의 무리가 대평원을 자유롭게 걷고 있었습니다. 겁쟁이 "고와"(티베트 가젤), 하얀 입술의 "와"(사슴), 위엄있는 "조"(앤텔로프)의 빛나는 무리도 가끔 볼 수 있었고, 초원 지대에 모이는 "치비"나 「피카」라고 불리는 작은 동물에게도 매료된 것도 기억하고 있습니다. 매우 사람 끈질긴 동물들이었습니다. 나는 새를 보는 것도 좋아했다. 늠름한 '고'(턱수염이 있는 독수리)가 사원 위를 활공하고 산 속에서 날개를 쉬고 있거나 '넘벌'(참새)의 무리를 보거나 때로는 '우쿠파'(긴 귀의 올빼미)의 울음소리를 밤에 듣기도 했습니다.

라사조차 자연계에서 분리되어있는 것 같은 느낌은 없었습니다. 달라이 라마의 겨울 궁전인 포타라 궁의 최상층에 있는 내 방에서 벽 찢어진 곳에 둥지를 만들었던 붉은 부리의 '쿤칼'의 습성을 관찰하면서 몇 시간이나 보냈습니다. 여름의 궁전인 노르블링카의 뒤에서는, 「툰툰 아파네스」(검은 목의 학)의 트윗이나, 습지대에 살고, 나에게 있어서는 품위나 우아함이나의 전형인 것 같은 새들을 잘 보아 네. 말할 필요도 없이 티베트 동물들에서 가장 장관인 것은, 보통의 농민들이 두려워하는 곰, 산 여우, '창키'(늑대), '사직'(아름다운 유키 표범), '태식'(오야마네코), 티베트와 중국 의 국경에 서식하는 상냥한 얼굴을 한 「톰타」(자이언트 팬더)입니다.

슬프게도,이 풍부한 야생 동물은 이미 볼 수 없습니다. 사냥도 원인 중 하나이지만, 주된 원인은 서식지의 생활 환경이 잃어 버렸기 때문에 티베트가 점령 된 후 반세기 동안 남아있는 동물의 서식지는 이전의 약간 사라졌습니다. 내가 말한 티베트인으로, 3, 40년 만에 티베트를 방문한 모든 사람이 예외없이, 야생 동물이 거의 없어져 버렸다고 보고하고 있습니다. 이전에는 야생동물이 집에 다가오는 경우가 있었지만 지금은 어디에도 모습을 볼 수 없게 되어 버렸습니다.

마찬가지로 문제는 티베트의 삼림 파괴입니다. 옛날에는 모든 언덕이 깊은 숲에 덮여 있었지만, 티베트로 돌아온 사람들의 보고에 의하면, 지금은 스님의 머리처럼 마루보주가 되고 있습니다. 중국 서부의 심한 홍수 피해의 원인의 일부가 티베트의 삼림 파괴에 있다는 것을 베이징 정부조차 인정하고 있습니다. 그럼에도 불구하고 티베트에서 동쪽으로 하루 종일 끊임없이 목재를 운반하는 트럭 열이 계속되고 있다고합니다. 티베트 산의 경향이 있는 지형과 가혹한 기후를 감안할 때 이것은 매우 비극적인 상황입니다. 이것은 식림을 하더라도 지속적인 관리와 관리가 필요하다는 것을 의미하지만, 불행히도 그러한 정책이 취해진 흔적은 거의 없습니다.

이것이 우리 티베트인이 의도적 인 자연 보호 활동가라고 말하는 것은 아닙니다. 우리는 그렇지 않았다. 공해라고 불리는 발상이 단순히 우리에게는 없었을 뿐입니다. 그 점에서 오히려 우리는 달콤했다는 것을 부정할 수 없습니다. 인구가 적은 사람들은 깨끗하고 건조한 공기와 대량의 맑은 산수가 있는 넓은 지역에 살았습니다. 우리 티베트인이 망명했을 때, 예를 들어 물을 마실 수 없는 듯한 개울이 있다는 것을 알아차리고 놀랐던 것 등은, 이 청결함에 대한 순진한 태도를 의미하고 있습니다. 마치 혼자처럼, 우리가 무엇을 해도 어머니 지구는 우리의 태도를 견디고 있었던 것입니다. 그 결과, 우리는 청결과 위생에 대한 정확한 이해가 없었습니다. 사람들은 잘 생각하지 않고 길에서 침을 뱉거나 코를 씹고있었습니다. 이것에 관해서는, 다람살라에 있는 나의 거주지의 주위에 있는 순례도를 매일 오른쪽으로 뻗어 오고 있던 한때의 경비원으로, 캠 지방 출신이 있는 노인을 기억합니다. 불행하게도 그는 기관지염으로 심하게 고통 받고있었습니다. 그가 가지고 있는 향의 탓으로 악화되었다. 그러므로 구부러진 모퉁이마다 심하게 기침을 하고 가래를 뱉기 위해 멈추기 때문에 그는 기도하러 왔는지, 침을 뱉기 위해서만 왔는지, 나에게는 알 수 없었다!

수년 동안 망명지에 처음 도착한 이래 환경 문제에 매우 관심이 있습니다. 티베트 망명 정부는 이 부서지기 쉬운 지구의 주민으로서의 책임감을 아이들에게 가르치는데 특히 주의를 기울이고 있다. 그리고 나도 기회가 있다면 언제든지이 문제에 대해 주저없이 의견을 말하려고합니다. 특히 환경에 영향을 미치는 것은 우리의 행동이 다른 사람들에게 어떤 영향을 미치는지 생각할 필요성을 항상 강조합니다. 이것이 올바른지 판단하기가 매우 어렵다는 것을 인정합니다. 예를 들어, 삼림 파괴가 흙과 지역의 강우량에 궁극적으로 어떻게 영향을 미치는지, 아니면 지구의 기후 시스템과 어떻게 연동하는지 확실히 말할 수 없습니다. 유일하게 분명한 것은 우리가 아는 것처럼 우리 인류만이 지구를 파괴하는 힘을 가진 종족이라는 것입니다. 새도, 곤충도, 다른 포유류도, 그런 힘은 가지고 있지 않습니다. 그러나 우리가 지구를 파괴하는 힘을 가지고 있다면 지키는 힘도 있어야합니다.

중요한 점은 자연을 파괴하지 않는 생산 방법을 찾는 것입니다. 목재와 제한된 천연 자원의 사용을 줄이는 방법을 찾아야합니다. 나는이 분야의 전문가가 아니며 실행하는 방법을 제안 할 수 없습니다. 내가 알고있는 것은 필요한 결정조차도 가능하다는 것입니다. 예를 들어, 몇 년 전에 스톡홀름을 방문했을 때, 아주 오랜 세월을 거쳐 오랜만에 시내를 흐르는 강으로 물고기가 돌아왔다고 들었습니다. 최근까지는 산업 오염으로 전혀 물고기가 없었습니다. 그러나 이 개선은 그 지역의 공장이 모두 폐쇄된 결과라는 결코 아닙니다. 마찬가지로 독일 방문도 공해를 일으키지 않도록 계획된 산업 발전을 보여주었습니다. 그러므로 분명히 산업을 그만두지 않고 자연계의 피해를 제한하는 해결책은 확실히 존재하는 것입니다.

이것은 과학 기술에 의존함으로써 우리의 모든 문제를 극복 할 수 있다고 믿는다는 의미는 아닙니다. 혹은, 기술적인 해결책이 개발될 것을 기대해, 파괴적인 행위를 계속할 여지가 있다고 믿고 있는 것도 아닙니다. 또한 환경이 해결책을 필요로 하는 것이 아니라 변화해야 하는 것은 환경에 대한 우리의 태도입니다. 온실효과에 의한 대규모 재해와 같은 경우, 이론상이라도, 해결책은 존재할까 하고 나는 의문을 가지고 있습니다. 가능한 경우에도 필요한 규모의 솔루션을 실행하는 것이 가능한지 물어야합니다. 천연 자원에 대해 얼마나 많은 비용이 듭니까? 아마도 매우 비쌉니다. 다른 많은 분야, 예를 들면 인도주의 기아 박멸 등에서도 이를 수행하기에는 불충분한 기금밖에 없다는 사실이 있습니다. 그러므로 충분한 기금을 모을 수 있는지 논의하더라도 그러한 자금 부족을 정당화하는 것은 도덕적으로 불가능합니다. 다른 한편으로는 다른 지역에서는 먹을 수 없지만 산업화 된 국가가 단순히 유해한 행위를 계속하기 위해 거액의 자금을 뿌리는 것은 옳지 않습니다.

이 모든 것은 우리의 행동의 보편적인 방향을 인식할 필요성과 이에 근거한 자제 연습의 필요성을 가리킨다. 이 필요성은 인구 증가를 고려할 때 명확하게 명시됩니다. 모든 주요 종교의 관점에서 보면 인구가 많을수록 좋으며, 최근 몇 년간의 연구가 1 세기 인구 붕괴를 시사하는 것이 옳다고해도이 문제를 무시할 수 없다고 지금 또한 생각합니다. 승려로서 이러한 문제를 논평하는 것은 적절하지 않을 수 있습니다. 나는 가족 계획이 중요하다고 믿는다. 물론 아이를 가져서는 안된다고 권고하는 것은 아닙니다. 사람의 생명은 귀중한 자원이며, 어쩔 수 없는 이유가 없으면 결혼한 부부는 자녀를 가져야 합니다. 책임감 없이 인생 모두를 즐기고 싶다는 이유로 아이를 가지지 않는다는 생각은 매우 잘못되었다고 생각합니다. 동시에 인구가 자연 환경에 미치는 영향을 고려할 의무가 부부에게 있습니다. 현대과학기술의 영향을 고려하면 이것은 사실입니다.

다행히 더 많은 사람들이 건강하게 생활하는 곳을 확보하는 방법으로 윤리적 자제의 중요성을 깨닫기 시작했습니다. 그러므로 최악의 상황은 피할 수 있다고 낙관하고 있습니다. 상대적으로 최근까지 지구에 대한 인류의 행동이 미치는 영향을 생각하는 사람은 거의 없었다. 그러나 오늘날 이것은 이것이 주요 관심사인 정당까지 존재합니다. 게다가 우리가 빨아들이는 공기, 마시는 물, 수백만의 다른 생명 형태를 유지하는 숲과 바다, 기상 시스템을 지배하는 기후 패턴 등 모든 것이 국경을 넘어 있다는 사실이 희망의 원천입니다. 이는 아무리 풍부하고 강한 나라든 가난하고 약한 나라이든 이 문제에 대해 행동해야 한다는 것을 의미합니다.

개인을 생각할 때 자연 환경을 무시하는 결과로 발생하는 문제는 우리 모두가 기여할 수 있다는 것을 강하게 깨닫습니다. 그리고 한 사람의 행동이 중요한 영향을 미치지 않더라도 수백만의 개인의 복합적인 행동은 확실히 영향을 미칩니다. 이것은 공업적으로 발전한 나라에 사는 모든 사람들이 그들의 생활양식을 바꾸는 것을 진지하게 생각할 때가 왔다는 것을 의미합니다. 다시, 이것은 윤리의 문제가 아닙니다. 세계의 다른 사람들이 생활수준을 개선할 수 있는 동일한 권리를 가지고 있다는 사실은 부유한 사람들이 그들의 생활양식을 유지하는 것보다 여러면에서 중요하다. 만약 자연계에 되돌릴 수 없는 폭력 - 이것이 가져오는 행복에 대한 부정적인 결과의 전부를 일으키지 않고 이를 충족시킬 수 있다면, 부유한 나라는 예를 보여야 합니다. 과거에는 없을 정도로 높은 생활 수준에 의한 지구와 인류에 대한 부담은 단순히 너무 큽니다.


"고대 지혜, 현대 세계 : 새로운 세기의 윤리 (Excerpt from Ancient Wisdom, Modern World: Ethics for the New Millennium)"(다라이 라마 14세 텐진 개조, Little, Brown and Company , pp 2 J 3-220)에서 발췌




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「古代の智慧、現代の世界:新しい世紀の倫理(Excerpt from Ancient Wisdom, Modern World: Ethics for the New Millennium)」
自然環境について

もし教育と報道に特別な責任がある分野があるなら、それは我々の自然環境だと私は信じています。この責任とは、正しいか間違っているかという問題ではなく、生き残れるかどうかということに関係しています。自然界は我々の家です。かならずしも畏怖すべきものや神聖なものではありません。単に我々が住む場所です。

サンドペルリ僧院からレー渓谷を眺められるダライ・ラマ法王。2016年8月7日、インド、ジャンムー・カシミール州ラダック地方(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)
サンドペルリ僧院からレー渓谷を眺められるダライ・ラマ法王。2016年8月7日、インド、ジャンムー・カシミール州ラダック地方(撮影:テンジン・チュンジョル、法王庁)

そのため、私たちは自然を大切にしなければなりません。これは常識です。しかし、ごく最近に至るまで、人口数や科学技術力が自然に直接影響を与えるような情況にはなりませんでした。別の言い方をすれば、今まで母なる地球は、我々のだらしない生活習慣に耐えてくれましたが、今では、地球はそれを黙って受け入れることができない状態にまで達してしまっています。環境破壊によって起きた諸問題は、私たちの無責任な態度に対する地球からの答えだと考えられます。地球の忍耐力にも限界があるということを私たちに警告しているのです。

現在のチベット以上に、私たちの自然環境に対する関わりかたの失敗を明らかに示している場所はありません。私が育ったチベットは、野生動物の楽園だったと言っても誇張ではありません。20世紀中頃までにチベットを訪れたすべての旅人もこのことに気づいていました。

農作物が育たない僻地を除いては、動物を狩猟することはほとんどありませんでした。実際、野生動物を保護する声明を出すことが政府役人の毎年の慣例であり、「水中や野生の生物を傷つけたり痛めつけたりすることは、身分の上下にかかわらず誰もすべきではない」と述べられていました。例外はネズミとオオカミだけでした。

若い頃、ラサの外を旅する時はいつでも、とても多くの種類の動物を見ることができたことを思い出します。私は4歳の時にラサでダライ・ラマとして正式に即位しましたが、チベット東部にある生まれ故郷タクツェルからラサに向かうチベット横断の3か月の旅の主な思い出は、道中に出会った野生動物たちでした。

おびただしい「キャン」(野生のロバ)や「ドン」(野生のヤク)の群れが大平原を自由に歩きまわっていました。臆病な「ゴワ」(チベットガゼル)、白い唇の「ワ」(シカ)、威厳のある「ツォ」(アンテロープ)の輝く群れも時々見ることができましたし、草原地帯に集まる「チビ」や「ピカ」と呼ばれる小動物にも魅了されたことも覚えています。とても人なつこい動物たちでした。私は鳥を見るのも好きでした。凛々しい「ゴ」(あご髭のあるワシ)が寺院の上を滑空し、山の中で羽を休めていたり、「ナンバル」(雁)の群れを見たり、時には「ウクパ」(長い耳のフクロウ)の鳴き声を夜に聞くこともありました。

ラサですら、自然界から切り離されているような感じはありませんでした。ダライ・ラマの冬の宮殿であるポタラ宮の最上階の私の部屋から、壁の裂け目に巣を作っていた赤いくちばしの「キュンカル」の習性を観察しながら何時間も過ごしました。夏の宮殿であるノルブリンカの裏では、「トゥン・トゥン・アパネス」(黒い首の鶴)のつがいや、湿地帯に住み、私にとっては上品さや優雅さやの典型であるような鳥たちをよく見ました。いうまでもなくチベットの動物たちで最も壮観なのは、普通の農民たちが恐れる熊、山ギツネ、「チャンキ」(オオカミ)、「サジク」(美しいユキヒョウ)、「テシク」(オオヤマネコ)、チベットと中国の国境に生息する優しい顔をした「トムタ」(ジャイアントパンダ)です。

悲しいことに、この豊かな野生動物たちはすでに見ることができません。狩猟も原因の一つですが、主な原因は生息地の生活環境が失われたためで、チベットが占領された後の半世紀の間に、残された動物の生息地は以前のほんの僅かしかなくなってしまいました。私が話したチベット人で、三、四十年ぶりにチベットを訪れたすべての人が例外なく、野生動物がほとんどいなくなってしまったと報告しています。以前は野生動物が家に近寄ってくることがありましたが、今ではどこにも姿を見ることができなくなってしまいました。

同様に問題なのは、チベットの森林破壊です。昔はすべての丘が深い森におおわれていましたが、チベットに戻った人々の報告によれば、今では僧侶の頭のように丸坊主になっています。中国西部のひどい洪水被害の原因の一部が、チベットの森林破壊にあるということを北京政府ですら認めているのです。それにもかかわらず、チベットから東に向かって一日中絶え間なく木材を運びだすトラックの列が続いているそうです。チベットの山がちの地形と厳しい気候を考えると、これは非常に悲劇的な状況です。これは、植林をしたとしても、持続的な手入れと管理が必要であることを意味していますが、残念ながら、そのような政策がとられている形跡はほとんどありません。

このことは、我々チベット人が意図的な自然保護活動家であったと言っているのではありません。我々はそうではありませんでした。公害と呼ばれるような発想が単に我々にはなかっただけです。その点ではむしろ我々は甘えていたということを否定できません。少ない人口の人々が、綺麗で乾燥した空気と大量の澄んだ山水がある広い地域に住んでいました。我々チベット人が亡命した際、例えば水を飲むことのできないような小川があるということに気づいて驚いたことなどは、この清潔さに対する無邪気な態度を意味しています。まるで一人っ子のように、我々が何をしても母なる地球は私たちの態度に耐えていたのです。その結果、我々は清潔さや衛生に関する正確な理解を持っていませんでした。人々はよく考えもせずに道で唾を吐いたり鼻をかんだりしていました。これに関しては、ダラムサラにある私の住まいのまわりにある巡礼道を毎日右遶しに来ていたかつての警備員で、カム地方出身のある老人を思い出します。不幸にも彼は気管支炎にひどく苦しんでいました。彼が持っている線香のせいで悪化していました。そのため、曲がり角ごとにひどく咳をして痰を吐くために立ち止るので、彼はお祈りに来たのか、唾を吐くためだけに来たのか、私にはわからないほどでした!

長年の間、亡命地に初めて到着して以来、環境問題に大変関心を持っています。チベット亡命政府は、この壊れやすい地球の住民としての責任感を子供たちに教えることに特に注意しています。そして私も、機会があればいつでも、この課題についてためらうことなく意見を述べるようにしています。特に、環境に影響を与えることで、我々の行動が他者にどのような影響を与えるかを考える必要性をいつも強調しています。これが正しいかどうか判断するのはとても難しいことを認めます。たとえば、森林破壊が、土や地域の降雨に対して最終的にはどのように影響するか、ましてや地球の気候システムにどう連動しているかを確実に言うことはできません。唯一明らかなことは、我々が知っているように、我々人類だけが地球を破壊する力を持っている種族だということです。鳥も、昆虫も、他の哺乳類も、そんな力は持っていません。しかし、我々が地球を破壊する力を持っているなら、守る力も持っているはずです。

重要な点は、自然を破壊しない生産方法を見つけることです。木材や限られた天然資源の使用を減らす方法を見つけなければなりません。私はこの分野の専門家ではありませんし、実行する方法を提案することはできません。私がわかっていることは、必要な決断さえすればそれは可能だということです。たとえば、数年前にストックホルムを訪れたとき、とても長い年月を経て、久しぶりに市内を流れる川に魚が戻ってきたと聞いたことを思いだします。最近までは産業汚染により全く魚がいなかったのです。しかし、この改善は、その地域の工場がすべて閉鎖された結果というわけでは決してありません。同様に、ドイツ訪問でも、公害を発生させないように計画された産業発展を見せてもらいました。ですから明らかに、産業をやめずに自然界の被害を制限するような解決策は確かに存在するのです。

これは、科学技術に頼ることで、我々のすべての問題を克服できると信じているという意味ではありません。もしくは、技術的な解決策が開発されることを期待して、破壊的な行為を続けられる余地があると信じているわけでもありません。また、環境が解決策を必要としているのではなく、変える必要があるのは、環境に対する我々の態度です。温室効果による大規模な災害のような場合、理論上ではあっても、解決策は存在するのかと私は疑問を持っています。もし可能であるとしても、必要とされる規模の解決策を実行することが実現可能なのかを尋ねなければなりません。天然資源に関してどのくらいの経費がかかるのでしょうか。おそらくとても高額であろうと予想しています。それ以外の多くの分野、例えば人道的な飢餓撲滅などでも、それを実行するためには不十分な基金しかないという事実があります。それゆえ、充分な基金を集めことができるかを議論したとしても、そのような資金不足を正当化するのは道徳的に不可能です。一方で、他の地域では食べることさえできないというのに、工業化した国が有害な行為を単に続けるために巨額の資金をばらまくのは正しいことではありません。

これらすべては、我々の行動の普遍的な方向性を認識する必要性と、これに基づく自制の実践の必要性を指し示しています。この必要性は、人口増加を考える際にはっきりと明示されます。すべての主要な宗教の観点からすると、人口が多いほどよく、いくつかの最近の研究がこれから一世紀の人口崩壊を示唆しているのが正しいとしても、この問題を無視することはできないと今も考えています。僧侶として、これらの問題を論評するのは適切ではないかもしれません。私は、家族計画が重要であると信じています。もちろん、子供を持つべきではないと勧めているのではありません。人の命は貴重な資源であり、やむをえない理由がなければ、結婚した夫婦は子供を持つべきです。責任感なく人生すべてを楽しみたいという理由で子供を持たないという考え方は、とても間違っていると考えています。それと同時に、人口が自然環境に与える影響を考える義務が夫婦にはあります。現代科学技術の影響を考慮すると、これは真実です。

幸いなことに、より多くの人々が、健康的に生活する場を確保する方法として、倫理的自制の重要性に気付き始めています。そのため、最悪の事態は避けられるだろうと私は楽観しています。比較的最近まで、地球に対する人類の行動が与える影響を考える人はほとんどいませんでした。しかし今日では、これが主な関心事である政党まで存在します。さらに、我々が吸う空気、飲む水、数百万の異なる生命形態を維持する森や海、気象システムを支配する気候パターンなどすべてが国境を越えているという事実が、希望の源です。そのことは、どんなに豊かで強い国であろうと、貧しく弱い国であろうと、この問題に関して行動をとるべきだということを意味しています。

個人を考えた場合、自然環境を無視する結果として発生する問題は、我々すべてが貢献できることがあることを強く気付かせてくれます。そして、一人の行動は重要な影響をもたらさなくても、数百万の個人の複合的な行動は確かに影響を与えます。このことは、工業的に発展した国に住むすべての人々が、彼らの生活様式を変えることを真剣に考える時が来ていることを意味しています。再度、これは倫理の問題ではないのです。世界の他の人々が、生活水準を改善するという同じ権利を持っているという事実は、裕福な人々が彼らの生活様式を維持することよりも、いろいろな点で重要です。もし、自然界に取り返しのつかないような暴力 -これがもたらす幸福への負の結果の全て- を引き起こさずにこれを満たすことができるなら、裕福な国は例を示すべきです。かつてないほどに、高い生活水準による地球や人類への負担は、単に大きすぎるのです。


「古代の智慧、現代の世界:新しい世紀の倫理(Excerpt from Ancient Wisdom, Modern World: Ethics for the New Millennium)」(ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著、Little, Brown and Company (イギリス J999)刊、pp 2 J 3-220)からの抜粋

** 幸福論 | ダライラマ. 本書の原題(英語)は "ETHICS FOR THE NEW MILLENNIUM" (10 chapters)

幸福論 | ダライラマ14世テンジン・ギャッツォ, His Holiness The Dalai Lama, HIS HOLINESS THE DALAI LAMA, 通緒, 塩原 
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한역은 밑에





幸福論 単行本 – 2000/5/1
ダライラマ14世テンジン・ギャッツォ (著), & 3 その他
5つ星のうち4.9 11個の評価

285ページ


内容(「BOOK」データベースより)
人を思いやることが、自分の幸せにつながっていることを忘れないでください。この本は宗教書ではありません。ここには、私たちと同じように、悩み、苦しみ、人と幸福を分かちあいたいと願っている、ひとりの人間、ダライ・ラマがいます。しみじみと胸に響く言葉。


目次(「BOOK」データベースより)
  1. 人はどうしたら幸せになれるのか/
  2. 魔法でもなく、神秘でもなく/
  3. まず現実を正しく理解する/
  4. ほんとうの幸せとは、なんだろう/
  5. 思いやりという大切な感情/
  6. 自らを律する強さをもつ/
  7. 誰もが心にもっている徳を育てる/
  8. 思いやりは、自分の幸せにつながっている/
  9. 苦しみが教えてくれるたくさんのこと/
  10. ものごとを識別する力の大切さ
  11. 〔ほか〕

登録情報
出版社 ‏ : ‎ 角川春樹事務所 (2000/5/1)
発売日 ‏ : ‎ 2000/5/1
言語 ‏ : ‎ 日本語
単行本 ‏ : ‎ 285ページ

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カスタマーレビュー
5つ星のうち4.9
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11 件のグローバル評価
 


辻村 曜子

5つ星のうち5.0 生きる上で本当に大切なことを教えくれるバイブルです。

2020年4月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
図書館でいつも借りていましたが、自分の本棚に加えたく購入、お安くそして、状態も良く満足です。

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2018年3月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は仏教徒ではないが、謙虚で優しく、お茶目で好奇心旺盛なダライ・ラマ(14世)の大ファンである。

本書の原題(英語)は "ETHICS FOR THE NEW MILLENNIUM"。
現代社会のよい側面と悪い側面に触れながら、これからの千年に向けて、普遍的な原則にもとづいた道徳を打ち立てようと訴えている。

目から鱗が落ちるような発見や人生を飛躍させるアイディアが書かれているわけではない。
当たり前のことを、より強く、深く認識するための本であると言えよう。

《魔法でもなく、神秘でもなく》という章に「わたしたち人間は宗教に頼らなくても十分生きていけるのかもしれません。」とある。
彼は異なる文化を持つ人が仏教に興味をもつこと自体は歓迎しているが、宗教は歴史・文化的背景と切り離せないものだから、改宗にはむしろ慎重であるべきとしている。
無宗教、異教徒の方も構えることなく、ぜひダライ・ラマの魅力的な人柄に触れていただきたい。

ダライ・ラマの本を読んだことのない方には、最初の一冊としてお勧めしたい。

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WXRUN-234

5つ星のうち5.0 ダライラマはじめて2018年6月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
電車の中で、吊革につかまって、必死に読んでいた方がいて、どんな本か興味があり、購入しました。宗教色が強いのかと思いましたが、それは感じませんでした。読んでいくと、背筋がすっとなる感じです。

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はち

5つ星のうち4.0 とても大事な教え2004年4月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
とても分かりやすく書かれています。
人はみんな幸せになりたいと望みながら生きているけれど、
でも、多くの人が幸せとは、お金や物であったり、物質的なもので幸せになろうとしている。
この本では、幸せとはその人々の心の中にある、と言っています。
小さい頃、教えらてきた、相手への思いやり、優しさ、誠実さ。
そういった心を自分の中に育てていくことで、人々は確実に幸せを築いていけると。
自分のことばかりに気を取られているのではなく、もっと自分と繋がっている多くの人に目を向けるべきだと、著者は言っています。
ずっと忘れていた基本的なことこそ、実はとても大事なんだと気づか
せてくれる一冊です。

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ぽんぽこりん

5つ星のうち5.0 謙虚さと自信のなさは違う2013年9月26日に日本でレビュー済み

本文の最初から最後まで、大切なことがぎっしり詰まっている本なのですが。

最近改めて読んで印象に残ったところ。

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p142

謙虚さも自分を変えるためには不可欠な要素です。こう言うと、前に自信をもたなければいけないと言ったことと矛盾するように思われるかもしれません。しかし、自分を正しく評価したうえでの自信と、自分を過大評価しているだけのうぬぼれとのあいだには大きな差があるように、ほんものの謙虚さと、ただの自信のなさとのあいだには重要な違いがあります。

まったく違うものなのに、多くの人がこれを混同しています。

今日、謙虚さがしばしば弱さのしるしとみなされているのも、ひとつにはこの混同のせいかもしれません。とくにビジネスや専門職にはその傾向がありますが、実のところ謙虚さは、弱さのしるしどころか、内面の強さの表れです。

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p281

これを頭に浮かべると、わたしはいっそう他人のためになりたい気持ちにかられるのです。

こういうものになれますように、今も、これからもずっと
保護をもたない人の保護役に
道に迷った人の案内役に
海を渡る人の船に
川を渡る人の橋に
危機に瀕している人の避難所に
明かりをもたない人の松明に
逃げ場をもたない人の隠れ家に
そして、困っているすべての人のしもべに

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2000年の発売すぐに買ってから、お守りのように本棚においてある本です。

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Amazon Customer

5つ星のうち5.0 私のバイブル2004年8月14日に日本でレビュー済み
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現在、海外より一時帰国中です。海外に出て様々な刺激を受け、いい意味で自分が変わりました(やってみてほしいです)。
生きている事や、地球、宇宙などに対してとても興味が出て、多くのことを考え感動するようになりました。
残りの人生を生きていく上で、自分の意志が深くなったことにより、とても良かったと深く感じています。
そんな中、ダライ・ラマ14世の「幸福論」に出会いました。
この本には全てが書かれていのです(なんと表現して良いのか..)。
とても大切な事。とても分かりやすい言葉で。
他の本に比べ安くはない本ですが、それ以上の価値があります。
この1ヶ月間、家族を始め周りの友人にも送りました。とても素晴らしい本だから。
2週間後に再留学予定ですが、その時には持っていきます。
(内容についてはレビューを参考にしてくださいね)

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やどかり

5つ星のうち5.0 非宗教的です2008年6月3日に日本でレビュー済み

読む前に「宗教色の強い本なのだろうか?」と少し警戒していましたが、フタを開けると、宗教というよりは倫理、哲学の本だと分かりました。

ダライ・ラマ自身、「非宗教的な観点で書いています。」と言っており、宗教的要素を出すと、人々が間違った捉え方をしてしまうと懸念し、ごくシンプルな普通の言葉を使って道徳を解いています。道徳概念の確立や、精神の律し方、現代の人々の不安を「思いやりの心」を持つことで安定させるなど、様々な幸福への道を解いてくれています。
ダライラマは世界中のあらゆる著名人や学者、医師などと接した上で、宗教の教えと共通する人間の真理を教えてくれています。なので、宗教本というよりは、本当哲学書に近いです。

人々がオカルト宗教などの不安をあおる言葉に惑わされている昨今、ダライラマもそれには気をつけるようにと言っていました。そういう意味では、この本はスピリチュアルも何もない本ですが、その分、心穏やかに安心して読めます。
オススメです。

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いちご

5つ星のうち5.0 失われる道徳や価値観を見直す素晴らしい本2010年12月8日に日本でレビュー済み

この本の大事な点は法王がいつも言われている、宗教があろうがなかろうが善き人間であることという視点で書かれていること。だから万人が読める。核問題、軍縮まで幅広く未来への提言が書かれていた。また宗教への警告まである。その視野の深さに驚く。なにより暖かく慈悲がいっばいだ。倫理道徳が薄れ、迷う時、読んでほしい。

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商品レビュー(3件)
総合評価  4.33
ブックスのレビュー(1件)レビューを見る(1件)/ 書く

一番シンプルな幸福論
やどかり26評価 5.00 5.00投稿日:2008年05月28日

読む前に
「宗教色の強い本なのだろうか?」
と少し警戒していましたが、フタを開けると、宗教というよりは倫理、哲学の本だと分かりました。
ダライ・ラマ自身、
「非宗教的な観点で書いています。」
と言っており、宗教的要素を出すと、人々が間違った捉え方をしてしまうと懸念し、ごくシンプルな普通の言葉を使って道徳を解いています。
道徳概念の確立や、精神の律し方、現代の人々の不安を「思いやりの心」を持つことで安定させるなど、様々な幸福への道を解いてくれています。
ダライラマは世界中のあらゆる著名人や学者、医師などと接した上で、宗教の教えと共通する人間の真理を教えてくれています。なので、宗教本というよりは、本当哲学書に近いです。
人々がオカルト宗教などの不安をあおる言葉に惑わされている昨今、ダライラマもそれには気をつけるようにと言っていました。そういう意味では、この本はスピリチュアルも何もない本ですが、その分、心穏やかに安心して読めます。オススメです。

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ブクログのレビュー(2件)
評価4.004.00投稿日:2020年08月21日
平和と、幸せを終始訴え続けている本です。
宗教、チベットの話も書いてあります。

チベットについては全く知らない国だったので勉強になった。
国を追われるということの悲惨さは日本人には到底理解できないような苦しみがあったんだろうなと思わされました。

この本の中で一貫して言っていることは、
幸せは心の平和によって得られるものである。
心の平和は他人のことを思って行動することで得ることができる。ということ。

つまり小学校で習うような「思いやり」というものが大切だということ。

評価4.004.00投稿日:2010年02月09日
チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマが、宗教の話抜きで幸せになる方法を語った本。
自分の宗教が何であっても、無宗教の人であっても参考になると思います。
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https://honto.jp/netstore/pd-review_0600023600.html

紙の本 幸福論(実践編) 2008/05/14 22:01
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 投稿者:濱本 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る

私は、世に有る「幸福論」ヒルティ、アラン、ラッセルを読んだ事が有る。それぞれに、納得出来る内容が叙述されていたが、本ダライ・ラマの「幸福論」を読み終えた今、これらは、「幸福論(理論編)」と呼べると感じている。これに対し、本書は、「幸福論(実践編)」と言えるのでは無いだろうか?前者は、幸福の定義の理論展開が中心であったが、本書は、幸福を感じる為に何を為すべきか?が論理の中心であった。著者は、この問いに対し、ごく単純なる答えを用意していた。それは、「人の為に生きよ」である。これを実践するだけで、幸福は自分のものになると訴える。私は、ここで引っ掛るものが有った。「人の為に生きる」とは、この事に気持ち良さを感じる事であり、すなわち、「人の為に生きる事は、自分を気持ち良くする」が、本当の姿なのでは無いか?と思う。これは、決して利己的な表現では無く、「人は自分の為に生きてこそ幸福である」という自論に基づく反論である。私の反論が、ダライ・ラマの主張に対して、どれだけ効果有る反論になっているかは不明だが、私の思っている「幸福論」とは、こういう事だ。更に言えば、「自分の深層心理を直接表現出来ること」。これが、幸福の条件だと思っている。
本書に戻ると、ダライ・ラマは、チベット仏教の教祖であるから、仏教的思想の展開の元に「幸福論」を展開していると思われるかも知れないが、仏教の僧侶を離れたというよりは、宗教家の立場を離れて論理展開をしていたと私は読んだ。ごく、普通の感情からの幸福、冥想や修行を離れた一般的生活の中の幸福論を展開していた。
本書の最後に、ダライ・ラマが、こういう人間になりたいという印象的な散文詩で結ばれているので、それを紹介して、感想としたい。

こういうものになれますように、今も、これからもずっと
保護をもたない人の保護役に
道を迷った人の案内役に
海を渡る人の船に
川を渡る人の橋に
危機に瀕している人の避難所に
明かりを持たない人の松明に
逃げ場を持たない人の隠れ家に
そして、困っているすべての人のしもべに

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행복론 | 달라이 라마. 
본서의 원제(영어)는 "ETHICS FOR THE NEW MILLENNIUM" 

행복론 | 달라이 라마 14 세 텐진 가조, His Holiness The Dalai Lama, HIS HOLINESS THE DALAI LAMA  Amazon





행복 이론 별 5개 만점 중 4.9 11개 평가

285페이지


내용(“BOOK”데이터베이스에서)
사람을 배려하는 것이 자신의 행복으로 이어진다는 것을 잊지 마십시오. 이 책은 종교서가 아닙니다. 여기에는 우리와 마찬가지로 고민, 고통, 사람과 행복을 나누고 싶어하는 한 사람, 달라이 라마가 있습니다. 시미지미와 가슴에 울리는 말.


목차(「BOOK」데이터베이스에서)
  1. 사람은 어떻게 하면 행복할 수 있을까 /
  2. 마법도 아니고, 신비도 아니고/
  3. 우선 현실을 올바르게 이해한다 /
  4. 정말 행복이란 무엇입니까 /
  5. 배려라는 소중한 감정/
  6. 스스로를 이끄는 힘을 가진 /
  7. 모두가 마음에 드는 덕을 키우고
  8. 배려는 자신의 행복으로 이어진다 /
  9. 고통이 가르쳐주는 많은 것 /
  10. 모든 것을 식별하는 힘의 중요성
  11. [외]

등록 정보
출판사 ‏ ‎ ‎ 카도카와 하루키 사무소 2000/5/1 )



고객 리뷰
5 성급 중 4.9 
별 5중 4.9 11
건의 글로벌 평가 2020년 4월 28일에 일본에서 리뷰가 끝난 아마존에서 구입 도서관에서 언제나 빌리고 있었습니다만, 자신의 책장에 더하고 싶은 구입, 싸고, 상태도 좋고 만족합니다. 두 고객이 도움이 되었다고 생각합니다. 유용한 위반 신고

2018년 3월 8일에 일본에서 리뷰가 끝난
아마존에서 구입
나는 불교도는 아니지만, 겸손하고 상냥하고, 차눈으로 호기심 왕성한 달라이 라마(14세)의 대팬이다.

본서의 원제(영어)는 "ETHICS FOR THE NEW MILLENNIUM".
현대사회의 좋은 측면과 나쁜 측면을 접하면서 앞으로의 천년을 향해 보편적인 원칙에 근거한 도덕을 세우려고 호소하고 있다.

눈으로부터 비늘이 떨어지는 듯한 발견이나 인생을 비약시키는 아이디어가 적혀 있는 것은 아니다.
당연한 일을 보다 강하고 깊게 인식하기 위한 책이라고 할 수 있다.


《마법도 아니고, 신비도 아니고》라는 장에 「우리 인간은 종교에 의지하지 않아도 충분히 살아갈 수 있을지도 모릅니다.」라고 있다.
그는 다른 문화를 가진 사람이 불교에 흥미를 가지는 것 자체는 환영하고 있지만, 종교는 역사·문화적 배경과 분리할 수 없기 때문에 개종에는 오히려 신중해야 한다.
무종교, 이교도도 갖추지 않고, 꼭 달라이 라마의 매력적인 인품을 접해 주셨으면 한다.

달라이 라마의 책을 읽은 적이 없는 분에게는, 최초의 1권으로서 추천하고 싶다.

4명의 고객이 도움이 되었다고 생각합니다
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WXRUN-234
 별 5
개 중 5.0 달라이 라마

기차 안에서, 매달려 가죽에 붙잡고, 필사적으로 읽고 있던 분이 있어, 어떤 책인가 흥미가 있어, 구입했습니다. 종교색이 강한 것 같았는데 느끼지 않았다. 읽어 가면, 등근이 푹 빠지는 느낌입니다.

한 고객이 도움이 되었다고 생각합니다
유용한 위반 신고하기 5

성급

중 4.0 매우 중요 함 

사람은 모두 행복하게 되고 싶으면서 살고 있지만, 하지만 많은 사람들이 행복이란 돈이나 물건이거나 물질적인 것으로 행복해지려 하고 있다. 이 책에서 행복은 그 사람들의 마음 속에 있다고 말합니다. 어렸을 때, 가르쳐 온, 상대에게의 배려, 상냥함, 정직함. 그런 마음을 자신 안에 키워 나가는 것으로, 사람들은 확실히 행복을 쌓아갈 수 있다고. 저자는 자신만을 돌보는 것이 아니라 더 많은 사람들과 더 많은 사람들을 돌보아야 한다고 말합니다. 계속 잊고 있던 기본적인 것이야말로, 실은 매우 소중하다는 것을 깨닫게 해주는 한 권입니다. 25 명의 고객이 도움이 되었다고 생각합니다. 




2013년 9월 26일에 일본에서 리뷰가 끝난

본문의 처음부터 끝까지, 중요한 것이 가득 채워져 있는 책입니다만.

최근 다시 읽고 인상에 남은 곳.

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p142

겸손도 자신을 바꾸는 데 필수적인 요소입니다. 이렇게 말하면, 전에 자신감을 가져야 한다고 말한 것과 모순되는 것처럼 보일지도 모릅니다. 그러나 자신을 정확하게 평가한 뒤의 자신감과 자신을 과대평가하고 있을 만큼의 우울함과의 사이에는 큰 차이가 있듯이, 진짜 겸손함과 단순한 자신감의 사이에는 중요한 차이가 있습니다.

전혀 다른 것인데, 많은 사람들이 이것을 혼동하고 있습니다.

오늘날 겸손이 종종 약점의 표지로 간주되는 것도 하나는이 혼동 때문일 수 있습니다. 특히 비즈니스나 전문직에는 그 경향이 있습니다만, 실로 겸손은, 약함의 징후는커녕, 내면의 힘의 나타납니다.

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p281

이것을 머리에 떠올리면, 저는 한층 더 타인을 위해 되고 싶은 마음에 얽매이게 되는 것입니다.

이런 일이 될 수 있듯이, 지금도 앞으로도 계속
보호를 갖지 않는 사람의 보호역으로
길을 잃은 사람의 안내역에
바다를 건너는 사람의 배에
강을 건너는 사람의 다리에
위기에 처한 하고 있는 사람의 피난소에
불빛을 가지지 않는 사람의 마츠아키에
도망가지 않는 사람의 은신처에
그리고, 곤란하고 있는 모든 사람의 종에게

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2000년의 발매 곧바로 사고 나서, 부적과 같이 책장에 있는 책입니다. 

3 명의 고객이 도움이 되었다고 생각 합니다 .
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해외에 나와 다양한 자극을 받고, 좋은 의미로 자신이 바뀌었습니다(해 봐 주었으면 합니다). 살아있는 일이나, 지구, 우주 등에 대해서 매우 흥미가 나오고, 많은 것을 생각 감동하게 되었습니다. 남은 인생을 살아가는 데 있어서, 자신의 의지가 깊어진 것에 의해, 매우 좋았다고 깊게 느끼고 있습니다. 그런 가운데, 달라이 라마 14세의 「행복론」을 만났습니다. 이 책에는 모든 것이 쓰여져 있습니다(어떻게 표현해도 좋은가..). 매우 중요한 것. 아주 알기 쉬운 말로. 다른 책에 비해 저렴하지 않은 책이지만, 그 이상의 가치가 있습니다. 지난 한 달 동안 가족을 처음으로 주변 친구들에게 보냈습니다. 아주 멋진 책이니까. 2주일 후에 재유학 예정입니다만, 그 때에는 가지고 갑니다. (내용에 대해서는 리뷰를 참조하십시오) 
19 명의 고객이 이것이 도움이되었다고 생각합니다 .



어려운

5성 중 5.0 비종교적 2008년 6월 3일에 일본에서 리뷰

종장을 열면 종교라기보다는 윤리, 철학의 책이라고 알았습니다.

달라이 라마 자신, "비 종교적인 관점에서 쓰고 있습니다."라고 말하고 있으며, 종교적 요소를 내면 사람들이 잘못된 포착 방법을 해 버릴 것이라고 우려하고 매우 간단한 보통의 말을 사용하여 도덕을 풀고 있습니다. 도덕 개념의 확립이나, 정신의 율법, 현대의 사람들의 불안을 「배려의 마음」을 가지는 것으로 안정시키는 등, 다양한 행복에의 길을 풀어 줍니다.
달라이 라마는 전 세계의 모든 저명인과 학자, 의사 등과 접한 후 종교의 가르침과 공통되는 인간의 진리를 가르쳐 줍니다. 그래서 종교책이라기보다는 진정한 철학서에 가깝습니다.


사람들이 오컬트 종교 등의 불안을 부추기는 말에 당황하고 있는 요즘, 달라이 라마도 그것에 조심하라고 말하고 있었습니다. 그런 의미에서, 이 책은 영적도 아무것도 없는 책이지만, 그만큼, 온화하게 안심하고 읽을 수 있습니다.
추천합니다. 

13명의 고객이 도움이 되었다고 생각합니다 유용한
위반 신고 하기


이 책의 중요한 점은 교황이 언제나 말하고 있는 종교가 있을지 몰라도 선한 인간이라는 관점에서 쓰여져 있는 것. 그래서 만명이 읽을 수 있다. 핵문제, 군축까지 폭넓게 미래에 대한 제언이 적혀 있었다. 또한 종교에 경고까지 있다. 그 시야의 깊이에 놀란다. 무엇보다 따뜻하고 자비가 가득하다. 윤리도덕이 희미해져 헤매을 때 읽어달라.

5명의 고객이 이것이 도움이 되었다고 생각합니다.
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상품 리뷰(3건)
종합평가 4.33
도서 리뷰 (1) 리뷰보기 (1) / 쓰기

가장 간단한 행복 이론
야도카리 26 평점 5.00 5.00 게시일: 2008년 05월 28일

읽기 전에
"종교색이 강한 책일까?"
라고 조금 경계하고 있었습니다만, 뚜껑을 열면, 종교라기보다는 윤리, 철학의 책이라고 알았습니다.
달라이 라마 자신,
"비종교적인 관점에서 쓰고 있습니다."
라고 말하고 있어 종교적 요소를 내면 사람들이 잘못 잡는 방법을 해 버릴 것이라고 우려하고 극히 단순한 보통의 말을 사용해 도덕을 풀고 있습니다.
도덕 개념의 확립이나, 정신의 율법, 현대의 사람들의 불안을 「배려의 마음」을 가지는 것으로 안정시키는 등, 다양한 행복에의 길을 풀어 줍니다.
달라이 라마는 전 세계의 모든 저명인과 학자, 의사 등과 접한 후 종교의 가르침과 공통되는 인간의 진리를 가르쳐 줍니다. 그래서 종교책이라기보다는 진정한 철학서에 가깝습니다.
사람들이 오컬트 종교 등의 불안을 부추기는 말에 당황하고 있는 요즘, 달라이 라마도 그것에 조심하라고 말하고 있었습니다. 그런 의미에서, 이 책은 영적도 아무것도 없는 책이지만, 그만큼, 온화하게 안심하고 읽을 수 있습니다. 추천합니다.

한 사람이 도움이되었다고 답변
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부쿠로그 리뷰 (2건)
평점 4.004.00 게시일: 2020년 08월 21일
평화와 행복을 종시 호소하고 있는 책입니다.
종교, 티베트의 이야기도 적혀 있습니다.

티베트에 대해서는 전혀 모르는 나라였기 때문에 공부가 되었다.
나라를 쫓는다는 것의 비참함은 일본인에게는 도저히 이해할 수 없는 고통이 있었을 것이라고 생각되었습니다.

이 책에서 일관되게 말하는 것은
행복은 마음의 평화에 의해 얻는 것이다.
마음의 평화는 타인을 생각하고 행동함으로써 얻을 수 있다. 라는 것.

즉 초등학교에서 배운 것 같은 “배려”라는 것이 중요하다는 것.

평점 4.004.00 게시일: 2010년 02월 09일
티베트 불교의 최고 지도자 달라이 라마가 종교의 말을 빼고 행복하게 되는 방법을 말한 책.
자신의 종교가 무엇이든, 무종교의 사람이라도 참고가 된다고 생각합니다.
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https://honto.jp/netstore/pd-review_0600023600.html

종이의 책  행복론(실천편)  2008/05/14 22:01
3명 중 3명이 이 리뷰가 도움이 되었다고 투표했습니다.

 투고자:濱本 昇 - 이 투고자의 리뷰 일람을 본다

나는 세상에 있는 '행복론' 힐티, 앨런, 러셀을 읽은 적이 있다. 각각에, 납득할 수 있는 내용이 서술되고 있었지만, 본다라이·라마의 「행복론」을 읽어 마친 지금, 이들은, 「행복론(이론편)」이라고 부를 수 있다고 느끼고 있다. 이에 대해, 본서는, 「행복론(실천편)」이라고 말할 수 있는 것은 아닐까? 전자는, 행복의 정의의 이론 전개가 중심이었지만, 본서는, 행복을 느끼기 위해서 무엇을 행해야 하는가? 는 논리의 중심이었다. 

저자는이 질문에 대해 매우 간단한 대답을 준비했습니다. 그것은 "사람을 위해 살아라"이다. 이것을 실천하는 것만으로 행복은 자신의 것이 된다고 호소한다. 나는 여기에서 밟는 것이 있었다. 「사람을 위해서 살다」란, 이 일에 기분 좋음을 느끼는 것입니다. 라고 생각한다. 이것은 결코 이기적인 표현이 아니라 "사람은 자신을 위해 살아야 행복이다"라는 자론에 근거한 반론이다. 내 반론이 달라이 라마의 주장에 대해 얼마나 효과 있는 반론이 되고 있는지는 불분명하지만, 내가 생각하고 있는 '행복론'이란 이런 일이다. 한층 더 말하면, 「자신의 심층 심리를 직접 표현할 수 있는 것」. 이것이 행복의 조건이라고 생각한다.
이 책으로 돌아가면 달라이 라마는 티베트 불교의 교조이기 때문에 불교적 사상의 전개를 바탕으로 '행복론'을 전개하고 있다고 생각될지도 모르지만 불교의 스님을 떠났다고 한다. 보다는, 종교가의 입장을 떠나 논리 전개를 하고 있었다고 나는 읽었다. 극히, 보통의 감정으로부터의 행복, 명상이나 수행을 떠난 일반 생활 속의 행복론을 전개하고 있었다.
이 책의 끝에 달라이 라마가 이런 인간이 되고 싶다는 인상적인 산문시로 묶여 있기 때문에 그것을 소개하고 감상하고 싶다.

이런 일이 될 수 있듯이 지금도 앞으로도 계속
보호가없는 사람의 보호 역할
길을 잃은 사람의 안내 역할
바다를 건너는 사람의 배에
강을 건너는 사람의 다리에
위기에 처한 사람의 대피소에
불빛이없는 사람의 소나무에
도망가지 않는 사람의 은신처에
그리고 곤란한 모든 사람의 종

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ダライ・ラマ 『幸福論』 原題『Ethics for the New Millennium』

 ダライ・ラマ法王. 著書『幸福論』 原題『Ethics for the New Millennium』


… | ダライ・ラマ法王14世日本公式サイト

ベトナム人信徒たちに薬師如来の許可灌頂授与

2016年10月29日
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インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州 ダラムサラ

今日、ダライ・ラマ法王は、前回同様、法王公邸でベトナムCEOクラブのメンバー約80人と面会された。ハノイ、ハイフォン、ホーチミン市(サイゴン)、ダナンというベトナムの4都市からも、300人から500人位のグループが新たに開発されたインタラクティブなテレビ会議システムを通じてこの法話と許可灌頂に参加した。

寺というよりも会議室に近い雰囲気の部屋に集まったこれらのグループには仏教徒たちや若い人々が混ざっており、人々は法王の著書『幸福論』(原題『Ethics for the New Millennium』)と『ダライ・ラマ 宗教を超えて』(原題『Beyond Religion』)で説かれている普遍的な価値という考え方に感銘を受けていた。法王は公邸の法座から、大画面のテレビモニターに映し出されるベトナム各地のさまざまなグループをご覧になっていた。

最初に法王は、30分ほどかけて薬師如来灌頂の準備の儀式を行われた。

そして法王は、次のようにお話を始められた。「精神的な兄弟、姉妹のみなさん、 私は今日、ここにいらっしゃるベトナム人のみなさんだけでなく、あなたがたの国で地元の都市に集まっているみなさんともお話をすることができます。物理的に遠いベトナムにおられる方々も、私たちは今このとき、ひとつのグループとして一緒にいます。現代のテクノロジーのおかげで、目の前にいる方たちだけでなく、遠方にいる方たちともお話ができるのは私にとっては初めての経験です」

「私は、いつも、数限りない母なる有情、すなわち、あらゆる生きとし生けるものは皆、幸せを望み、苦しみを求めていないことを強調してお話しています。この宇宙のどこか他の場所にも生物がいるかもしれませんが、私たちに直接関係があるのはこの地球上の生きものたちです。今日、私たちは皆、お互いに依存関係を持って生きています。気候変動、地球温暖化、地震など私たちを悩ませる自然災害に対する取り組みは、私たちすべてに影響を及ぼしています。ですから、私たちはひとつの共同体として行動しなければなりません」

「あなたがたベトナム人は不屈であり、断固たる意志を持っているのですから、今からはベトナムに関することだけなく、世界全体について考える必要があります」

法王は続けて次のように述べられた。「幸せについて話すとき、私たちは喜びの本当の源である心の平和について考えなければなりません。すべての主要な伝統宗教は愛や思いやりを説いているのですから、宗教の名の下に争いや衝突が起こることなど考えられません。21世紀を迎えた今、私たちは過去における過ちを繰り返してはならないのであり、人類には新たな成熟の兆しが感じられると思います。例えば、最近では核兵器を撲滅しようという願いが広まりつつあります」




『般若心経』として一般に知られている、25偈から成る般若経がベトナム語で唱えられた後、法王はこの経典の意味を要約して説明された。釈尊はこの経典の中で「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」(掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶)という真言を、ご自身の体験から説かれた。この真言は「資糧道に行け 加行道に行け 見道に行け 修道に行け 無学道に到って悟りを成就せよ」という意味であり、悟りに至る五つの修行の道を私たちがどのような順序で進んでいくべきかが説き示されている。続いて、「色即是空 空即是色」(物質的な存在は空であり、空であるがゆえに物質的な存在として成立する)という部分に言及され、法王は毎日「私は空であり、空は私である」とご自分に向かって言い聞かせている、と話された。

法王は次のように述べられた。「量子力学では、観測者がいるからこそ観測対象があり、観測者がいなければ観測対象もないと言われているが、これは唯識派の見解と共通している。従って、仏教徒たちと現代の科学者たちが「観測者とは何であるか?」「意識とは何であるか?」を議論することは双方にとって実りあるものとなるだろう。ナーガールジュナ(龍樹)の著作『根本中論頌』は中国語でも読むことができ、英語でも翻訳が出ている。もし関心があれば、26章、18章、そして24章をこの順に読むと役立つであろう。

法王はベトナム国内のグループからの質問に短く答えられた後、薬師如来の許可灌頂を始められた。儀軌次第の最初に菩提心生起の儀式を行われ、それから弟子たちに菩薩戒を授けられた。

灌頂の儀式の終わりに、ベトナムから4グループの代表が法王に感謝の言葉をお伝えするとともに、法王のご健康とご長寿をお祈りした。