2016/11/04

新渡戸稲造の愛国心を曲説する空想的平和主義の学者(『祖国と青年』平成18年7月号掲載) - 日本協議会理事長 多久善郎 ブログ

新渡戸稲造の愛国心を曲説する空想的平和主義の学者(『祖国と青年』平成18年7月号掲載) - 日本協議会理事長 多久善郎 ブログ



新渡戸稲造の愛国心を曲説する空想的平和主義の学者(『祖国と青年』平成18年7月号掲載)

2006-07-11 17:24:11 | 【連載】 日本の誇り復活 その戦ひと精神
 日本会議の国民運動セミナーの講師として宮城・福島を訪れた際、岩手県盛岡市まで足を伸ばして新渡戸稲造会総会に参加した。私は、新渡戸の人徳を慕ふが故に、地道に新渡戸に関する研究書・啓蒙書を出されてゐる同会に加入してゐる。

 総会では、新渡戸研究第一人者の佐藤全弘氏(大阪市立大学名誉教授)による「愛国心と国際心―新渡戸稲造の国家観」といふ興味深い講演があつた。だが、佐藤氏の講演には失望感を抱かざるを得なかつた。佐藤氏は、今回のテーマを選んだ理由に、現在の教育基本法改正に見る愛国心教育の押し付けがある事を述べ、冒頭に川柳「君ケ代へ立たねば非国民ですか」「国なんぞ当てにはせぬが腹が立ち」「国境を知らぬ草の実こぼれ合ひ」を紹介された。更に講演の最後にも川柳で「どの国の母にもつらい銃の音」「鉄砲をもつからいくさしたくなり」「新政権変えてはならぬものも変え」と内閣の教育基本法や憲法改正の動きを批判された自らの政治主張の為に新渡戸稲造を引用するといふ牽強付会の講演であつた。

 佐藤氏は、新渡戸稲造の『編集余禄』の中の「憂国(マトリオティズム)」(全集二十巻))の文章を引用して、父性的な「パトリオティズム」の「愛国心」には、他を攻撃する危険な要素が含まれる為に、新渡戸はそれを否定し、母性的な「マトリオティズム」即ち「憂国心」を唱へたのだと強調された。だが、引用された文章をじつくり読んでいくと、決して二者択一で論じられてはゐない。新渡戸は、憂国心は「わが国語でアイコクシン―国を愛する心―と訳されるパトリオティズムの一面を示していることは言うまでもない」と前提した上で、「明治以前の時代の愛国者は自らを国の為に嘆く者と称し、国を愛する者とは呼ばなかった。」「己が国を愛する人は、その罪や欠点すらも愛するであろうが、それにひきかえ、己が国を悲しむ(ウレイ)人は、その罪と欠点のゆえに憂うるのである。」と述べてゐる。これは決して愛国心否定の文章ではない。当時(昭和六年)の世相を憂へて、「愛国心」の排他的な側面に警鐘を鳴らし、別の側面であり本質的な「憂国」の情の大切さを訴えてゐるのである。

 更に佐藤氏は、新渡戸稲造の「愛国心と国際心」(全集二十巻)や「日本人の国民的特徴」(全集十九巻『日本文化の講義』)の文章も紹介されてゐたが、共に愛国心についての否定は見られない。新渡戸は言ふ。「国際心は愛国心を拡大したものである。」「真の愛国者にして国際心の持ち主とは、自国と自国民の偉大とその使命とを信じ、かつ自分の国は人類の平和と福祉に貢献しうると信じる人である。」「国際心を抱こうとする人は。まず自分の足で祖国の大地にしっかりと根を下さねばならない。」「愛国心の正反対のものは、国際心ではなくて、好戦的愛国主義(ショウビニズム)である。そして、国際主義の正反対のものは、愛国心ではなくて、空想的な世界主義である。」と。

 新渡戸稲造が国際連盟事務局次長としてジュネーブで活躍した時の事を回顧して記したものに『東西相触れて』といふ書物がある。この中で新渡戸は自国を背負つて国際会議の場に臨む愛国者達の事を感動を以て記してゐる。オーストリアの総理大臣ザイペル氏の祖国の命運を担ふ演説を聞いて新渡戸は、「口先の人ではない、その唇を通して出る言葉は一言一句、血を吐く如き趣があつた。之を聞いて我輩は覚えず胸がつまる心地して会場を逃げ出し、自分の室に走り帰つて暫く眼を休めてゐた。」と記し、その文章に「報国の丹心と斯くの如きものか」と題した。国家を背負ふ愛国の至情に鋭敏に共鳴する魂の持ち主が新渡戸稲造であつた。カナダ人宣教師のベイツ博士は、「新渡戸博士逝く」の文章の中で「博士は、およそ祖国に加えられた中傷や不正には、すぐさま憤りを発し、怒りを燃やす心をもっておられた。」と述べてゐる。(『現代に生きる新渡戸稲造』)

 佐藤氏は、新渡戸稲造が1929年に「英文大阪毎日」に記した「日本の国際協力」といふ社説を引用して、現代日本のイラク復興支援などの国際協力が自発的でない事を批判されたが、新渡戸はこの文章の中でも「日本が平和の側に立つだけでは十分でない。日本は平和を自国の寝床としてはならぬ。日本は平和のために働かねばならぬ。」と国際協力の必要性を訴えてゐる。六月初旬に私は、この二月にイラク復興支援から帰国された自衛隊の責任者方のお話を聞く機会があつた。その方は、自衛隊のイラク撤収問題について、「自衛隊は日本政府のイラク復興支援の命を受けて派遣され、地元の人々からも大きな評価を得た。イラクからの撤収を云々する前に、日本国が今後イラクに対して如何なる支援を行つていくのかといふ国家意思の表明が先ずあるべきだと思ふ。」と毅然として語られた。実際イラクで生命を賭して活動して来られた方の言葉には迫力があつた。それに比して「平和を自国の寝床」としてゐる佐藤氏の様な「九条」信奉者には、国際協力について語る資格さえないと思ふ。

 私は、新渡戸稲造の研究者になるつもりはない、だが新渡戸稲造の人格と生き方に感動を覚えるが故に新渡戸稲造の如く生きたいと願ふのである。その為に、新渡戸が記した文章を機会ある毎に読み、自らの生き方を省みてゐる。知的探求と人格的探求とは全く違ふ結果を生み出す。明治という国家勃興の気概溢れる時代に青春を生きた新渡戸稲造の心の中には、現代に生きる我々には想像も及ばない程の沸沸たる愛国心が燃え盛つてゐたのである。そこに自らの生き方を昇華せんとの努力なき文献研究は魂無き訓詁学にすぎない。新渡戸稲造は最晩年、昭和天皇の命を受けて満州事変後の日本の孤立を打開すべく渡米し、一年間に亘る講演旅行を行つてゐる。新渡戸の最後の言葉は「まだ死ぬ訳にはいかない。祖国への奉仕が終はつてしまふまでは死ぬ訳にはいかないのだ。」といふものであつたといふ。佐藤氏には、かくの如き祖国に捧げる人生の覚悟があるのかを問ひたい。

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1 コメント

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先生のご意見に同感 (波田野 毅)
2006-07-26 11:59:21
多久先生の貴重なご意見を拝見させていただきました。私も同様に感じます。

新渡戸稲造は私も好きで、日本のために働いた逸材と思っております。(五千円札も樋口一葉より新渡戸稲造のほうがよかった・・)

武士道を書きルーズベルトの心を動かし日露戦争に大きな役割をはたした。ウィットもあり、ある会合の帰り帰り、雨が降っていたのでキューリー婦人が「国際連盟の力で雨を止めさせられませんか」といわれ、「国際連盟は馬鹿者を相手に血の雨を止めるだけはしますが、空の雨は科学の力を待たねばなりません」と述べた。婦人は「本当にそうだ。戦争ほど愚かなことはない」といい平和論をのべだしたという。(東西相触れて)私はキューリー夫人とのそこはかとないやり取りのこの話が好きですが、そのような人を、自分の信条を述べるために公の前で利用するのはいただけないと思います。

「愛国心」の対極は「好戦的愛国心」との話、同感です。今更軍国主義に行こうとする人が実際問題として誰がいましょうか。平和が一番と皆思っています。「国を愛すること」を右翼主義的な狭義なまたは軍国主義的な考えである、という何となくの漠然とした見方で見るのではなく、正面から向き合ってもらいたいと思います。

学者は、人の役に立たない机上の研究ではなく、人の役に立つ実学こそすべきであると思います。でなければ、何のための学問なのかと私は思います。何の研究もして良いでしょうが、世のため人のためにこれがどう役立つかを考えること、この一点は絶対欠くべからざる教職者の要件と存じます。



今後とも先生が日本のためにご活躍されることをお祈りいたします。



日本論史研究家  波田野 毅

(日本の息吹に連載・妻も済々黌高校出身)

高木八尺 - Wikipedia

高木八尺 - Wikipedia

高木八尺

日本の旗 日本の政治家
高木 八尺
たかぎ やさか
生年月日1889年12月25日
出生地東京府
没年月日1984年4月28日(満94歳没)
出身校東京帝国大学卒業
前職東京帝国大学法学部教授
現職東京大学法学部名誉教授
称号従三位
勲一等瑞宝章
法学士(東京帝国大学・1915年
文化功労者
親族神田孝平(養祖父)
神田乃武(父)

日本の旗 貴族院議員
選挙区貴族院勅選議員
在任期間1946年9月18日 - 1947年5月3日
テンプレートを表示
高木 八尺(たかぎ やさか、1889年12月25日 - 1984年4月28日)は、日本政治学者、アメリカ研究者、政治家位階従三位勲等勲一等東京大学名誉教授日本学士院会員。
東京帝国大学教授太平洋問題調査会常任理事、貴族院議員、東京大学教授などを歴任した。

来歴[編集]

英学者・神田乃武の子として東京に生まれる。一高1915年、東京帝国大学卒業新渡戸稲造内村鑑三の影響を受ける。1918年、母校で米国憲法・歴史及び外交講座の初代担当者となり、1933年 東京大学法学博士 「米国政治史序説 」。1938年、教授に就任。定年となる1950年まで米国政治史などを教えた。
戦前は太平洋問題調査会常任理事。木戸幸一と学習院で同級であり、日米開戦前には、戦争回避の為近衛文麿フランクリン・ルーズベルトの会談の実現に努め、ジョセフ・グルー駐日大使に自制を求める手紙を出したりした。1946年には貴族院議員。戦後の駐日大使エドウィン・ライシャワーとも親しく、アメリカ学会を創設し、国際文化会館を設立した。1948年日本学士院会員。1965年アメリカ歴史学会名誉会員。1965年、賜銀杯一組(第三号)。1967年文化功労者。1984年、叙従三位、叙勲一等授瑞宝章。アメリカ研究者には教えを受けたものが多い。

人物[編集]

実父である神田乃武は英語学者として知られ、帝国大学文科大学教授を経て東京外国語学校校長を務めるとともに、貴族院議員などを歴任した。乃武の養父である神田孝平は、兵庫県令元老院議官などを歴任した政治家である。八尺の実弟である神田盾夫言語学者であり、八尺と同じく東京大学教授として教鞭を執った。アメリカ文学者の斎藤光女婿であり、やはり東京大学の教授を務めた。

著書[編集]

  • 米国政治史序説 有斐閣、1931
  • 米国東洋政策の史的考察 岩波書店、1942
  • 米国憲法略義 有斐閣、1947
  • 現代米国の研究 有斐閣、1948
  • アメリカ 明善書房、1948
  • 米国政治史の研究 岩波書店、1950
  • 近代アメリカ政治史 岩波書店、1957
  • 民主主義の精神 東京大学出版会、1962
  • 新渡戸稲造先生の平和思想と実践 基督友会日本年会、1963
  • 高木八尺著作集 全5巻 東京大学出版会、1970-1971

翻訳の一部[編集]

天野貞祐 - Wikipedia

天野貞祐 - Wikipedia

天野貞祐

あまのていゆう
天野貞祐
AMANO Teiyu.jpg
生誕1884年9月30日
神奈川県津久井郡鳥屋村
死没1980年3月6日(満95歳没)
東京都武蔵野市
死因老衰
墓地雑司ヶ谷霊園
国籍日本の旗 日本
出身校京都帝国大学文学部哲学科
職業哲学者
教育者
著名な実績第67代文部大臣
第14代旧制第一高等学校
初代獨協大学
影響を受けたもの内村鑑三
大村仁太郎
宗教キリスト教
宗派カトリック
配偶者天野タマ
天野藤三
親戚尾崎行雄
受賞大功労十字星章
文化功労者
勲一等旭日大綬章
野球殿堂
従二位
天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年9月30日 - 1980年3月6日)は、大正昭和期の日本の哲学者教育者文学博士京都帝国大学名誉教授。第二次世界大戦後は第一高等学校校長・文部大臣第3次吉田内閣)を務めた後に獨逸学協会学校を母体として創立された獨協大学の初代学長を務めた。文化功労者武蔵野市名誉市民[1]

来歴[編集]

神奈川県津久井郡鳥屋村(現在の相模原市)の豪農の出身、父・天野藤三自由民権運動に参加して後に村長・衆議院議員を務めた。ちなみに実兄は尾崎行雄の妹婿にあたる。父は教育熱心な人物であり、天野も将来医師になる事を嘱望されて13歳の時に獨逸学協会学校中学校(旧制中学、獨協学園の前身)に入学した。そこで野球と出会い、野球部の選手として活躍したが足を痛めて退部、更に追い討ちをかけるように母をチフスで失い、4年生の時に退学してしまう。
だが、21歳の時に内村鑑三の『後世への最大遺物』を読んで、自分の人生を見つめなおした天野は獨協の5年生として復学して翌年には首席で卒業した。当時の獨協の校長であった大村仁太郎に憧れて教育者へと志望を転向して第一高等学校に入学、内村から直接教えを受け、また九鬼周造岩下壮一とは親友になった。その後京都帝国大学文科大学・同大学院に進学して桑木厳翼らの下でカント哲学を専攻した。在学中にカントの『プロレゴーメナ』(『哲学序説』)の日本語訳に取り組み、東亜堂後に岩波書店から刊行された。
1913年、『カント学者としてのフィヒテ』を発表、同年には西田幾多郎の推挙で智山派勧学院大学林講師となり、翌年には第七高等学校ドイツ語教師として赴任した。更に西田幾多郎らの推挙を受けて学習院教授、続いて1926年からは桑木厳翼朝永三十郎の推挙によって母校・京都帝国大学助教授を務める。この間1922年から翌年にかけてドイツのハイデルベルク大学に留学して哲学研究に打ち込み、1930年にはイマヌエル・カントの代表作『純粋理性批判』を初めて日本語訳する事に成功した。 1931年 6月京都帝大より文学博士号をえた。論文は「純粋理性批判」ノ形而上学的研究。 1931年、京都帝国大学文学部教授となった天野であったが、1937年に出した『道徳の感覚』が台頭する軍部軍国主義に対する批判が含まれていたことから、軍部や右翼マスコミが天野を糾弾、自主絶版という事で不問に付されたものの、その後も『学生に与ふる書』(1939年)を著すなど、時流に流される世の中に警鐘を発し続けた。
1944年、京都帝国大学を定年退職した天野は甲南高校(現在の甲南大学)校長在任中に終戦を迎えた。翌年天野は母校・第一高等学校校長に就任、その後は安部磯雄の急死にともなって日本学生野球協会会長・日本育英会会長を歴任、1950年には吉田茂に乞われて2年間文部大臣を務めた。ただし、後述のように、当時は再軍備と逆コースを巡って揺れていた時期と重なり、戦前と同様に時流に流されない教育という自身の信念に基づく教育行政を推進しようとした事が、予想もしない政治問題を惹き起こし、結果的には天野にとっては不本意な時期となる。
大臣退任直後、天野は青春時代を過ごした母校・獨逸学協会学校の後身である獨協学園が戦後日本の国家スタイルがドイツ型からアメリカ型に移行するに伴って衰微している事を知ると、母校再建のために校長就任要請を受諾して、自らが信条とする「学問を通じての人間形成」の精神に則った「獨協再建」に尽くす事になる。やがて、遅ればせながら獨協にも大学を創設すべきだと言う声に支えられて1964年に獨協大学を創立して初代学長に就任、続いて国立教育会館の初代館長に就任するのである。
だが、戦後の日本は「オールド・リベラリスト」の天野にとっては意に沿うことばかりではなかった[2]。一高校長時代には大学制度改革に際して「東京帝国大学(東京大学)を一般の大学と同じにしてしまった場合には、東大を頂点とした大学の格付けが生まれて受験競争が発生してしまう」として学部を置かない大学院大学にする事を提案したものの退けられ[3]、文部大臣時代には戦後の人心の荒廃と受験競争の激化を憂慮して1953年に『国民実践要領』を作成[4]して道徳教育の必要性を唱えたところ、日本社会党などの野党日教組から「反動的な修身教育の復活だ」と糾弾された[5]。獨協大学創立にはこうした時流に対する天野の抵抗の意味もあったとされている。だが、やがて学生運動の嵐が獨協大学にも及ぶようになると、学生達から天野の方針を批判する声が高まってきた。これを受けて1969年、天野は学長退任に追い込まれた。
その後も獨協学園の学園長として学校運営に関わる一方で、1973年には教育面で勲一等旭日大綬章を、学生野球の面で野球殿堂(特別表彰)が贈られた。1980年に96歳で死去した時には従二位と銀杯一組が贈られている。
墓は尊敬する大村仁太郎の眠る雑司ヶ谷霊園と故郷の天野家の墓に分骨されて、後に妻のタマ(1990年に102歳で死去)も同じようにして葬られた。

著書[編集]

  • 『カント純粋理性批判 純粋理性批判の形而上学的性格』岩波書店「大思想文庫」 1935、復刊1985
    • 『「純粋理性批判』について』講談社学術文庫 1980
  • 『道理の感覚』岩波書店 1937 のち角川文庫
  • 『学生に与ふる書』岩波新書 1939
  • 『道理への意志』岩波書店 1940 のち角川文庫
  • 『私の人生観』岩波書店 1941
  • 『生きゆく道』細川書店「細川新書」 1948 のち角川文庫
  • 『若き女性のために』要書房 1948 のち現代教養文庫
  • 『如何に生くべきか』雲井書店 1949
  • 『人間の哀しみ』弘文堂アテネ文庫 1949
  • 天野貞祐著作集』全5巻 細川書店 1949-1951
  • 『教育試論』岩波書店 1949
  • 『今日に生きる倫理』要書房「要選書」 1950
  • 『真実を求めて』雲井書店「雲井新書」 1950
  • 『スポーツに学ぶ』細川書店 1951
  • 『学生論』河出書房 1952
  • 『教育論』河出書房 1952
  • 『人生論』河出書房 1952
  • 『日日の生活』中央公論社 1952
  • 『私のスポーツ観』神田順治編 河出市民文庫 1952
  • 『国民実践要領』酣燈社 1953
  • 『随想録』河出書房 1953
  • 『忘れえぬ人々 自伝的回想』河出書房 1953
  • 『わたしの生涯から』青林書院 1953/新版・日本図書センター〈人間の記録〉 2004
  • 『今日に生きる女性の道』要書房「要選書」 1954
  • 『日日の倫理 わたしの人生案内』酣燈社 1954
  • 『人生読本』要書房 1955
  • 『高校生のために』東西文明社 1957
  • 『新時代に思う』東京創元社 1958
  • 『現代知性全集3 天野貞祐集』日本書房 1958
    • 復刻 『日本人の知性11 天野貞祐』学術出版会 2010
  • 『私たちはどう生きるか 4 天野貞祐集』ポプラ社 1958
  • 天野貞祐著作集』全5巻 塙書房 1960
  • 『医家と教養』金原出版 1960
  • 『高校生のために』塙書房 1960
  • 『現代人生論全集 1 天野貞祐集』雪華社 1966
    • 復刻 『私の人生論 1 天野貞祐』日本ブックエース 2010
  • 『カント哲学の精神』学芸書房 1968
  • 天野貞祐全集』全9巻 栗田出版会 1970-1972、復刻版・日本図書センター 1999
  • 『教育五十年』南窓社 1974
  • 『わが人生』自由学園出版局 1980

共編著[編集]

  • 『大学生活』(編)光文社 1949
  • 『君の情熱と僕の真実 心の対話』武者小路実篤共著 日本ソノサービスセンター 1968

翻訳[編集]

  • カント『哲学序説 プロレゴメナ』 桑木厳翼共訳 東亜堂 1914、のち旧岩波文庫「プロレゴーメナ」
  • カント『純粋理性批判』岩波書店 1922-1936 のち旧岩波文庫、講談社学術文庫 全4巻

補注[編集]

  1. ^ 武蔵野市名誉市民
  2. ^ これは、獨協学園に対しても言えることで、戦後の1947年に民主化政策に則して「独立協和」を略したものとする「独協」に校名表記を改めたが、6年後に保守的なOBらの反発で元に戻される事になった。この時、再改称に反対した少数派の中に校長の天野がいた。天野は古い戦前の日本には戻りえないこと、国家との過度のつながりが学校そのものの経営危機を招いた原因であることから、その再出発の証として「独協」の名称に拘っていたのである。そのため、再改称後も天野は「獨協」という字は用いず、終生「独協」と表記した。
  3. ^ しかも、東京大学側は一高の統合を画策し、天野の抵抗にも関わらず、1950年に統合されることとなる。
  4. ^ ただし、実際に作成したのは高坂正顕西谷啓治鈴木成高であり、天野はこれをまとめたに過ぎない。3名はいずれも西田幾多郎の系統をひく京都学派の中心的存在であったが、作成当時は公職追放中であったために極秘に執筆された事情があり、それが公表された場合の反響を考慮して、天野の単独著作の体裁を取ったとされている。
  5. ^ 天野は戦前の国家のみを重んじて個人の尊厳を踏みにじった軍国主義的な愛国心は強く否定したが、同時に戦後の個人のみを重んじて国家を省みない愛国心否定論に対しても強く反発した。天野は国家を自己存在の母胎と自覚して、自己の使命・理想に邁進させるのが愛国心の本来の役目であるとして、その代表的愛国者として内村鑑三・夏目漱石・西田幾多郎・福澤諭吉などを挙げている。なお、1950年には公立学校での日の丸君が代国旗国歌として掲揚及び斉唱を最初に命じた天野通達を出している。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]