2016/10/01

新渡戸稲造 - Wikipedia

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新渡戸稲造

新渡戸稲造
Inazo Nitobe.jpg
生誕新渡戸稲之助
1862年9月1日
陸奥国岩手郡盛岡
死没1933年10月15日(満71歳没)
カナダの旗 カナダビクトリア
国籍日本の旗 日本
研究分野農学
出身校札幌農学校
帝国大学退学
主な業績武士道』の執筆
配偶者メアリー・エルキントン(新渡戸万里子)
子供遠益、こと
プロジェクト:人物伝
新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。
国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券D五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。

生涯[編集]

陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛用人を務めた盛岡藩新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り新渡戸家の家計を大いに助けた。明治天皇の巡幸の際に、新渡戸家でご休息なさった陛下の御前に跪いた稲之助に、父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべしとの主旨の御言葉を賜り、以後農政を志すようになったという。

盛岡から上京[編集]

作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいる叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、名を稲造と改めた。
東京に着くと、稲造は叔父の洋服店を訪ね、養子となって太田稲造と名のるようになった。まず英語学校で英語を学び、翌年には元盛岡藩主南部利恭が経営する「共慣義塾」という学校に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。それは、ある日の冬に自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず、「店の金を持ち出した」と疑われるほどであったという。それからというもの、稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。
13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の東京大学)に入学する。ここで稲造は佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、やがて農学の勉強に勤しむことを決意する。

札幌農学校へ[編集]

内村鑑三、宮部金吾と共に札幌農学校時代
札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。在学中、札幌丘珠事件が発生し、解剖担当者にあたったという。稲造は祖父[1]達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家)というあだ名を付けられた。
クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた。クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。
この頃から稲造は目を悪くし、眼鏡をかけるようになった。やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまう。数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、『サーター・リサータス』(Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となり生涯に幾度となく読み返した。

学の道へ[編集]

谷崎潤一郎と新渡戸稲造
農学校卒業後、級友達とともに道庁に奉職し、畑の作物を食い散らすイナゴの大群を退治するためにあちらこちらの農村を駆け巡るが、学問を志して帝国大学(のち、東京帝国大学、東京大学)に進学。しかし当時の農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学する。1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会う。米国の某地で日本についての講演をした際に、聴衆の一人であったメアリー・エルキントンが稲造を見初めて告白をしたという。
その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。そのいきさつとして、米国留学にて農業を経済学と結び付けて考える必要を感じた稲造は、独学で社会科学を学び新たな学問を創設しようと試みたのであるが、ドイツ留学にて農政学が既にゴルツブッヘンベルゲルにより創始されていたことを知った。この間、『女学雑誌』にドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている(巌本善治は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する明治女学校で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。帰途、アメリカでメアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職してカリフォルニア州で転地療養した。
この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている[2]
台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした[3]。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した[4][5]
その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年(明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位もうけた。同年、牧野伸顕文相の意向で、日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。それまでの東洋的文化色が強かった同校に、西洋色を取り入れようと努めた。愛読書でもあるカーライルの『衣服哲学』の読書を学生に薦めるなどした。その新たな学風づくりの試みは、河合栄治郎などに影響を与えた。1911~1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。その他、津田梅子津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。

「郷土会」の発足[編集]

1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーには、柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤牧口常三郎中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。

国際連盟事務次長[編集]

1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長のひとりに選ばれた[6]。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。
エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラント作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しなかった。同年、バルト海オーランド諸島帰属問題の解決に尽力した。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。

晩年[編集]

1928年(昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929年(昭和4年)、学監を務めた拓殖大学から名誉教授号を受ける。
札幌農学校時代の仲間と共にメリマン・ハリスの参り。1928年
1932年(昭和7年)、軍国主義思想が高まる中「わが国を滅ぼすものは共産党軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼、特に在郷軍人会や軍部に迎合していた新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが、満洲国建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だった。
1933年(昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加した。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、永眠する。

人物[編集]

新渡戸稲造と妻メアリー
キリスト教徒クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから矢内原忠雄高木八尺南原繁宇佐美毅前田多門藤井武塚本虎二河井道などの著名な教育者、政治家、聖書学者らを輩出した。
非常に交流の幅が広い人物であり、著作のひとつである『偉人群像』には、伊藤博文桂太郎乃木希典らなどとのエピソードも書かれている。

家族[編集]

妻メアリー・エルキントン
1891年(明治24年)にアメリカ人女性メアリー・エルキントン(Mary P. Elkinton 日本名:万里子)とフィラデルフィアで結婚している。二人の間には遠益(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折している。養子に孝夫(よしお)がいる。
祖父の新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった南部盛岡藩の北部・三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路・稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し産業開発も行った。傳は江戸で材木業を営み成功するといった才能もあった。この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼりつめた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没している。
また、従弟に昆虫学者の新渡戸稲雄がいるが、31歳で早世している[7]

後世[編集]

生誕の地である盛岡市と、客死したビクトリア市は、新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている[8]
1984年(昭和59年)11月1日に発行された五千円紙幣D号券の肖像に採用された。

年譜[編集]

Bushido: The Soul of Japan(1900)

栄典[編集]

ゆかりの地[編集]

  • 新渡戸稲造没後50年を記念して、盛岡市下ノ橋町の生誕の地に、「新渡戸稲造生誕の地」の銅像が建立された。作者は朝倉文夫
  • 鎌倉稲村ケ崎にあった別荘跡地は、聖路加看護大学鎌倉セミナーハウス「アリスの家」になっている[14]

代表的な著書[編集]

全集・選集[編集]

  • 『新渡戸稲造全集』全23巻別巻2、教文館、1987年完結
  • 『新渡戸稲造論集』鈴木範久編、岩波文庫、2007年

脚注[編集]

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  1. ^ 新渡戸伝(つとう、1793-1871)は、陸奥国三本木(青森県十和田市)の開拓者として有名(岡田俊裕『日本地理学人物事典[近世編]』原書房 2011年 107ページ)
  2. ^ 武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは』 李登輝 小学館、2003年
  3. ^ 鈴木満 『異国でこころを病んだとき』 弘文堂、2012年1月30日、211頁。ISBN 978-4-335-65152-6
  4. ^ 松隈俊子 『新渡戸稲造』 みすず書房、2010年12月20日(原著1969年)、204頁。ISBN 978-4-622-06226-4
  5. ^ 越澤明 『後藤新平――大震災と帝都復興』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2011年11月7日、102-107頁。ISBN 978-4-480-06639-8
  6. ^ 組織の上で事務総長に次ぐ地位にあったのは Deputy Secretaries-general(総長代理)とUnder-Secretaries-General(事務次官)で、それぞれ複数任命されていた
  7. ^ 長谷川 仁(1967)「明治以降物故昆虫学関係者経歴資料集 : 日本の昆虫学を育てた人々」昆蟲 35(3号補遺), 1-"98-4"
  8. ^ 盛岡市ホームページ「ウェッブもりおか」のうち「盛岡市ガイド: 太平洋の架け橋に: カナダ・ビクトリア市と姉妹都市」。
  9. ^ 『官報』第2545号、「叙任及辞令」1891年12月22日。
  10. ^ 『官報』第4578号、「叙任及辞令」1898年10月1日。
  11. ^ 『官報』第6148号、「叙任及辞令」1903年12月28日。
  12. ^ 『官報』第7020号、「叙任及辞令」1906年11月21日。
  13. ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
  14. ^ 聖路加看護大学施設ガイド

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


先代:
松崎蔵之助

拓殖大学学監
第2代: 1917年 - 1922年

次代:
松岡均平

無教会主義 - Wikipedia

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無教会主義

無教会主義(むきょうかいしゅぎ)は、内村鑑三によって提唱された日本に独特のキリスト教信仰のあり方で、プロテスタントに分類される場合が多い。英語では、Non-church Movementと表記する。無教会無教会キリスト教無教会主義キリスト教とも呼ばれる(信徒のあいだでは「無教会」と呼称されることが多い)。なお、「無教会派」という名称は通常用いない。

概要[ソースを編集]

内村鑑三は、彼の処女作『基督信徒のなぐさめ』において、初めて「無教会」という言葉を用いた(なお、当該の記述は、「余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる讃美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし」につづき、大自然の「無限」と「交通」し、また、「失せにし聖者」と「霊交」を「結ぶ」ことによって、いわば天然そのものを教会とする、というニュアンスを伴っていた[1])。その後、彼は「無教会」という名称の雑誌を創刊し、教会に行けない、所属する教会のない者同士の交流の場を設けようとした。
無教会主義のキリスト教徒は「イエス・キリストは無教会であった」「パウロは無教会であった」との理解を共有することが多い。また、無教会主義は「教会」よりも「キリストの十字架」を重んじると言われる。実際、内村鑑三はキリスト教は十字架教であると言っている。無教会主義は、教会主義・教会精神からの脱却を目指す主義であって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する主義ではない。無教会主義は、ある意味では教会に所属する・しないといったことに無頓着な主義であるとも言える。そのため、教会に所属しながら無教会主義であることも可能である。
キリスト教の歴史を通して教会にいろいろ付随してきた権威・権力を克服する、という理念に立った運動であり、理論的には、マルティン・ルター宗教改革の二大原理(聖書のみ万人祭司)を極端に現実化したものである。また、按手礼を受けた聖職者(牧師・正教師)を持たないため、無教会の集会または礼拝は、儀礼(サクラメント)や説教を中心としたキリスト教の伝統的礼典から離れ、その結果として、聖書の研究・講義が中心となった。
また、内村の直接の弟子たちのなかには大学に在学中の学生が多かったこともあり、その門下から多くの学者・著名人があらわれ、聖書学・キリスト教思想史関係の学者も多く輩出した。無教会は牧師養成学校を持たないこともあって、これら無教会系の学者は、国公立もしくは他のキリスト教系私立大学など、宗教・宗派の枠を超えたところで教鞭をとる傾向が強く、比較的早い時期から批判的に高いレベルの研究が行われるようになった。そのためもあって、無教会では知識に重きを置く一方で、霊的な側面を軽く見る傾向がある、と見られることがよくある。実際の無教会には、上記のような学者人脈(戦後の東大総長を務めた南原繁矢内原忠雄など)と並んで、在野での伝道を行っていった人々(斎藤宗次郎、政池仁など)がおり、いわば二つの系統があるのだが、新保祐司の指摘にもみられるように、「戦後、内村の弟子が東大総長になった、というような、非常に安易な内村鑑三の再評価」が行われた結果、「エキセントリックにしか見えない宗教性は排除されてしまい、内村鑑三の全集も、知織化された宗教として出されるようになってしまった」という事情がある[2]
なお、内村鑑三は、『万朝報』の英文欄主筆となった1897(明治30)年以降、社会問題に対する発言も積極的に行っていた。足尾鉱毒問題については田中正造らと協力し、実質的に鉱毒反対運動の第一線に立っていたといえる。また、1901(明治34)年7月には、朝報社の黒岩涙香幸徳秋水堺枯川らと社会改良団体理想団を結成している。当初、日清戦争については「義戦」[3]を主張していた内村ではあったが、その後、日本の戦後処理の実情に失望するなかで「猛省」[4]し、とくに日露戦争以降、彼の姿勢は「非戦論」という言葉によって知られるがごとく、「戦争絶対的廃止論者」としての姿勢を打ち出していった[5]。このような傾向を継承するという一面において、現在、一部の無教会系の団体及び関係者においては、若者に特定の政治思想にもとづく教育を行う、あるいは、政治活動そのものに熱心[6]な傾向があるとも指摘されており、無教会主義の現状について、賛否両論があることも事実である[7]

無教会主義の集会[ソースを編集]

無教会主義は、キリスト教徒の集会を否定するものではない。実際に、無教会主義のキリスト教徒は通常、各地で集会を形成し、毎週もしくは定期的に聖書研究会または礼拝を執り行う。集会は、基本的に牧師制度は取らず、教会堂は持たないが、独立伝道者と呼ばれる常任の指導者(先生)がいる場合もある。集会の場所は、ビルや公民館などの会議室を借りたり、または私宅などで礼拝を保つことが多いが、専用の集会所を持っている集会も存在する。なお、内村が生前聖書講義の拠点としていた東京の今井館聖書講堂が現在NPO法人として存続し、講堂と資料館を運営しており、さまざまな集会の開催、および、無教会関係の資料・書籍の蒐集と一般者への閲覧を行っている。
礼拝の中心を占めるものは聖書講義、聖書講話と呼ばれており、前後に讃美歌を歌い、祈りや黙祷をするなど、プロテスタントの礼拝形式を簡素化した形をとっていることが多い。洗礼浸礼バプテスマ)、聖餐式等の儀式は通常行わない。ただし、かならずしも洗礼反対、聖餐反対という意味ではない。その意味では、無教会主義は「反教会主義」ではない。
礼拝後、その日の聖書講義の内容について話し合ったり、感想などを語り合う時間を設けるところもある。お茶やお菓子などを食べながら歓談する場合もある。
無教会の集会は、聖書集会・聖書研究会との名称を持つことが多い。その集会はそれぞれ独自の運営方法を採っており、その集会を発足した者が講義を担当する場合もあれば、平信徒同士が交代で講義をする集会など、さまざまである。無教会の集会は、組織化、形骸化を避ける傾向があるため、宗教法人ではない集会が大多数を占めているが、一部に法人化している集会も存在する。また、同様の理由から、全国の集会を統率するような本部を持たず、全国に散らばる集会の数や教勢を統計にまとめることもない。これには、個々人が制度的な縛りから自由になれるという良い点がある。しかし同時に、外部からの接触が困難であるという欠点もある。後者については、現代の無教会主義集会の問題となっているようである。
主な集会は『キリスト教年鑑』に掲載されているが、あくまでも便宜的なもので網羅的ではない。最近では各集会同士の地域的な交わりを持つため、普段の礼拝の他に東北集会・四国集会のような地域単位の集会も定期的に保たれている。また、講演会が定期的に全国各地で開催されている。年に1回、「無教会全国集会」が各地域持ち回りで開催されており、近年は200名前後の参加者があるようである。

日本国外の無教会主義[ソースを編集]

内村鑑三の集会に参加していた者の中に金教臣(キムギョシン)などの朝鮮出身の者もいた。彼らは帰国後、無教会の集会を立ち上げ、また『聖書朝鮮』という伝道雑誌を発刊した。韓国の無教会は現在も続いているが、韓国国内では異端視される向きもある。なお、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)については、公式には無教会の後継者は残っていないとされる。
また台湾にも、断続的にではあるが、日本から無教会の信徒が伝道を行っている。
そして内村が発行していた雑誌『聖書之研究』の購読者はアメリカ合衆国にも存在していた。特に、内村の協力者であった井口喜源治が長野県穂高町(現安曇野市)に設立したキリスト教に基づく私塾「研成義塾」の出身者が多く渡米し、シアトル近郊に定住して集会を持っていたことはよく知られている[8]
無教会主義ではないが、イギリスで発生した平信徒運動でブレズレンとよばれるキリスト教のグループや、ヨーロッパで起こったメノナイトなどの再洗礼派(アナバプテスト)運動などが、その礼拝や理念、信条など無教会主義に近いとの指摘がある。また、同じくイギリスで起こったクエーカーと無教会主義のキリスト教徒との類似点を指摘する研究者は多い。内村自身、米国留学以来クエーカーとの交際があり、札幌農学校同期の新渡戸稲造をはじめ日本のクエーカーとも親交が深く、内村の弟子の中には後にクエーカーに入信した者も少なくない。内村と新渡戸がフィラデルフィアのクエーカー婦人海外伝道会に、女子教育機関として三田の普連土学園設立の提言をしたことは有名である。内村自身も著作の中で、キルケゴールが「無教会主義のキリスト教を世界に唱え」と述べている[9]ように、内村本人も無教会主義を提唱するにあたって日本国外の哲学や神学思想との類似点を認識していたことは確かである。

人物[ソースを編集]

注釈[ソースを編集]

  1. ^ 内村鑑三『キリスト信徒のなぐさめ』(岩波書店、1939年9月)55頁
  2. ^ 新保祐司(編)『別冊 環18 内村鑑三1861-1930』(藤原書店、2011年12月)
  3. ^ 内村鑑三「日清戦争の義(訳文)」、『国民之友』234号(民友社、明治27年9月3日付)
  4. ^ 署名なし「猛省(英文)」、『万朝報』(朝報社、明治30年12月14-16日付)
  5. ^ 内村鑑三「戦争廃止論」、『万朝報』(朝報社、明治36年6月30日付)
  6. ^ 無教会全国集会2015のサイトにおいても、「日本は革命的平和憲法(特に9条)を実質的骨抜きにして、集団的自衛権という名の下に、かっての天皇制軍国主義の復活をねらって」いるとして、イベント開催のお知らせ上に意見表明を行っている。http://blog.goo.ne.jp/mukyoukai2015/e/59be75a25fcb2ffaba82b31359601115
  7. ^ こうした傾向に対する無教会の若手からの意見としては、『季刊無教会』37号(2014年春号、無教会事務局)の特集において、賛同、もしくは慎重な意見が提出されている。また、ジェフリー・キングストン教授は、The Asia-Pacific Journal: Japan Focus英語版のレポートの中で、学生団体SEALDsの中心メンバーは同じ高校(無教会主義系列のキリスト教愛真高等学校)出身者であることを指摘して解説した(SEALDs: Students Slam Abe’s Assault on Japan’s Constitution The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue. 36, No. 1, September 7, 2015)。
    なお、内村鑑三自身は社会主義の思想を痛烈に批判しており、大正4年(1915年)には、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。
    内村の弟子の矢内原忠雄社会主義思想を批判しており、「矢内原にとって、キリスト教的観点に立てば唯物史観は偽キリストであり、矢内原がマルクス主義と対決してキリスト教弁護論を体系的に展開したのは、偽キリストからキリストを峻別するとともに、その挑戦に応じて現世同化したキリスト教を改革純化するためであった」(岡崎滋樹「矢内原忠雄研究の系譜-戦後日本における言説-」、『社会システム研究』第24号(2012年3月)所収、立命館大学)ことが指摘されている。

  8. ^ 宮原安春『誇りて在り―「研成義塾」アメリカへわたる』講談社。

  9. ^ 内村鑑三(著)『デンマルク国の話

外部リンク[ソースを編集]