2016/10/20

「日本社会とクエーカー」について学ぶ会 : 時のしるし会・・・Justice and Peace blog.net.

「日本社会とクエーカー」について学ぶ会 : 時のしるし会・・・Justice and Peace blog.net.



「日本社会とクエーカー」について学ぶ会

e0077133_216245.gif「キリスト者平和ネット」からのメール情報

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「日本社会とクエーカー」について学ぶ会
第1回会合のお知らせ

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日時:2005年10月28日(金) 17時30分~19時30分

場所:早稲田奉仕園セミナーハウス 1階 102号室         
  【営団地下鉄東西線 早稲田駅より徒歩5分】         
   東京都新宿区西早稲田2-3-1              

予約・問合せ先(準備の都合上、下記まで必ずご予約下さい):
03-3818-6041 茨木(いばらぎ)

参加費用: 500円

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 クエーカー(キリスト友会=Religious Society of Friends)は、17世紀半ばの英国でジョージ・フォックス(1621~1691)により創始されたプロテスタントの一教派ですが、日本には1886年にアメリカ・フイラデルフィア・フレンド婦人外国伝道協会により伝えられました。
 クエーカーの信仰にとって重要なのは、万人に「内なる光」「内なるキリスト」が宿り、神と人との間には何も介在する必要はないということです。このことから、形式的な制度を遠ざけた、クエーカー独自の無形式・無牧師の「沈黙の礼拝」が生まれました。こうした「内なる光は全ての人にある」という考え方に基づいて、クエーカーは一切の差別を排除し、非暴力・非戦の平和主義に徹し、良心的兵役拒否でも知られています。
 戦後60年を迎えた今の日本社会は、残念ながら、「平和を望み、平和に備える」社会ではなく、「平和を望むなら戦争に備えよ」とする社会になりつつあります。この「『日本社会とクエーカー』について考える会」は、クエーカー(の存在やその活動・考え方等)について知り学び、それらとの関わりから日本社会を見つめてみようという会です。

 クエーカーに関心がある方、新渡戸稲造に関心がある方、クエーカーの平和主義思想が戦後日本社会にどのように影響を与えたか等に関心がある方には、ぜひご参加頂きたいと思います。また、「平和」をつくる者として共に歩んできた、他のキリスト教派の方々のご参加もお待ちしております。 

美化されすぎている武士道精神(武士道の欠陥): キヴィタス日記

美化されすぎている武士道精神(武士道の欠陥): キヴィタス日記



2014年2月 9日 (日)

美化されすぎている武士道精神(武士道の欠陥)

新渡戸稲造の著書「武士道」によって世界的に有名になったのが日本の武士道精神である。原題は、“Bushido,The Soul of Japan”、副題が「日本の魂」となっている。新渡戸は、自身が家庭で受けた質素で座禅に通じる武士道的な教育がクエーカー教徒(プロテスタントの一宗派)の簡素素朴な生活、瞑想による「内なる光」との対話に通じるということを体感して、自分が受けてきた道徳教育の原点は祖父から受けた武士道であることに気づいたのがきっかけであった。序文に「私が少年時代に学んだ道徳の教えは、学校で教えられたものではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹き込んだものは武士道であることをようやく見出したのである(矢内原忠雄訳)」。
新渡戸は、次のようにいう。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史のさく【月に昔】葉(押し花)集中に保存せられているのではない。それは今なお我々の間における力と美との活ける対象である。・・・・道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なお力強き支配のもとにあると自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会状態は消えうせて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。(矢内原忠雄訳)。」
ユダヤの民が神から与えられた律法のように、武士道精神は日本人の精神に刷り込まれた歴史的遺産である。自分の生命を投げ打ってでも義と徳に生きようとする精神は、利己的な精神を乗り越える高貴な精神である。
しかし、武士道精神は大きな弱点を持っている。武士道の始まりは、江戸時代の儒教思想に始まるのではない。もともとは、主君に家来が恩賞と引き換えに主君に忠勤することが出発である。典型的な武士道の逸話は、「七生報国」として知られる楠木正成の最期の場面である。
太平記の楠木正成の最期を描いた有名な場面は次のようなものである。
「手の者60余人、六間の客殿に二行に並び居て、念仏十遍ばかり同音に唱へて、一度に腹をぞ切ったりける。正成座上に居つつ、舎弟の正季に向ひて、そもそも最後の一念に依って、善悪の生を引くといへり、九界の間、何か御辺の望みなると問ひければ、正季あらからと打ち笑ひて、七生まで只同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へと申しければ、正成世にうれしげなる気色にて、罪業深き悪念なれども、我も斯様に思ふなり。いざさらば同じく生を替えて、この本懐を達せんと契りて、兄弟とも刺し違へて、同じ枕に伏しにけり。」
湊川の合戦に敗れて追いつめられた正成の一党は、腹を切って自害した。その際、次生にはどの世界に生まれたいかという正成の問いに対して、弟の正季は「七世までただ同じ人間界に生まれて、朝敵を滅ぼしたいものだ」と答える。これに対して正成も、「罪深き悪念」ではあるが、自分もまったく同感だと述べている。
正成一党は、生まれ変わってまでも「罪深き悪念」と知りつつも、忠義に励むという姿勢をとっているのである。主君に忠誠を誓うという姿勢に突出しており、主君が対外的にとった行動については黙している。武士道精神は主君にはつながっているが、絶対善である天には直接はつながっていない。主君が善なる行為をなすときは天とつながり、主君が問題ある行為をなすときは天から離反するという性格を有しているのである。
武士の倫理・道徳として忠義を重んじる儒教思想が江戸時代受容されたのは、それ以前からあった武士道の思想(主君への死すとも恨まぬ献身奉公、身は「恩」のため、「義」のために命をも軽んじるという武士の道義)の影響が大きく、日本独特の儒教精神となった。岡山藩の池田光政候は、儒教を学ぶ中で、「民は天から預かっているものであるから丁重にしなければならない」と君主としての心得を書いているが、「君主」、現代でいえば「人の上に立つ人」はこのような姿勢が不可欠である。しかし、君主の姿勢を正した人は名君とされた一部の君主だけで、多くの場合臣下の従属だけが強要された。
日本儒教は、礼を守るという姿勢だけが極端に強調されて国や君主のために死ぬのは当然だという江戸時代の武士道の儒教(武士は君主のためなら自己犠牲をいとわない)とか国粋主義(国のためなら家族を犠牲にすべきだ)という倫理になった。日露戦争時、広瀬中佐は、「七生報国」を最後の言葉にして旅順の閉塞船に上り殉死した。この行為は美化され、第二次世界大戦時軍神として祀られるにいたる。広瀬中佐のように忠義だけが求められる風潮が作られるのである。
最後にもう一度いっておこう。武士道精神は主君にはつながっているが、絶対善である天には直接はつながっていない、と

上代タノー女子高等教育平和運動のパイオニア

mcm-www.jwu.ac.jp/~sogoken/kankojoseimokuji8.html



 上代タノー女子高等教育平和運動のパイオニア-』









まえがき 島田法子
 第一部 上代タノと女子教育者への道                    島田法子 
  
第一章 若き日の上代タノ-出雲の国から日本女子大学校へ
 
 はじめに  p.17
  1 われ故郷を愛す p.17
  2 松江市高等女学校時代-外国との出会い p.23
  3 日本女子大学校時代-英文学とキリスト教受洗 p.29
  4 日本女子大学校の教壇に立つ p.33
  おわりに p.35
  
二章 新渡戸稲造との出会い-新しい世界への歩み  はじめに p.42
  1 新渡戸稲造との出会いとアメリカ留学への道 p.43
  2 ウェルズ女子大学の四年間 p.47
  3 新渡戸稲造と東京女子大学創立 p.51
  4 新渡戸稲造の国際問題研究会と国際連盟事務次長就任 p.53
  5 ミシガン大学とケンブリッジ大学への留学 p.56
  6 世界平和への理解の深まり p.59
  7 新渡戸稲造との別れ p.62
  おわりに p.63
  第三章 アメリカ・イギリスへの留学-教育者としての基礎を築く  はじめに p.67
  1 ウェルズ女子大学への留学 p.68
  2 カリキュラムの変革 p.71
  3 新しい女性像 p.73
  4 日本女子大学校の国際化と姉妹校 p.74
  5 ミシガン大学への留学とバーバー奨学金 p.77
  6 ミシガン大学における研究 p.82
  7 学位より学生、研究より教育の選択 p.84
  8 ケンブリッジ大学留学 p.87
  9 帰国後の上代と日本女子大学校 p.88
  10 『リー・ハント』の出版 p.92
  11 戦火の中での教育者としての上代タノ p.94

  
おわりに p.97

 第二部 上代タノと戦後の日本女子大学時代              中嶌邦
  第一章 師成瀬仁蔵と上代タノ
  1 成瀬仁蔵と日本近代の教育 p.113
  2 上代タノと師成瀬仁蔵との出会い p.116

  第二章 戦後の教育改革と女子大学の成立
  
はじめに p.124
  1 戦後の女性解放と教育 p.125
      戦後の日本と女性
      女子教育政策の変化
  2 戦後の女子高等教育と女子大学の成立 p.127
      戦前の女子高等教育から戦後へ
      女子高等教育機関の活動
      新制女子大学の誕生
  3 学長就任まで p.132
      戦後の上代タノ
      新制日本女子大学の発足と上代

  第三章 日本女子大学学長としての活動
  
はじめに p.137
  
1 学長就任と学内制度の改革 p.137
  
    学長就任
      学園の制度改革
  2 教育改革の取り組み p.141
      女子高等教育をめぐる状況
      学生とともに
  3 創立六〇周年を契機に p.147
      記念式に 
      主な記念事業
  おわりに p.155

 第三部 上代タノと平和運動                        杉森長子

   p.169

  第一章 平和運動のパイオニア、上代タノ-第二次世界大戦前の時期
  はじめに p.173
  1 成瀬仁蔵の理想「世界平和」と女性への期待 p.174
  2 国際問題研究会の創設-新渡戸稲造の成瀬への協力 p.177
  3 「地球世界」の実感-上代タノと「世界平和」への道 p.182
  4 婦人平和協会の結成-上代タノ、女性平和運動への参画 p.186
  5 WILPF国際会長、ジェーン・アダムズと上代タノ p.190
      ジェーン・アダムズの来日
      上代タノとジェーン・アダムズ-初めての対面
      ジェーン・アダムズの訪日効果-WILPFへの加盟
  6 WILPF第五回国際総会と上代タノ p.200
  7 婦人平和協会の活動展開 p.209
      難民、避難民支援活動の展開
      軍縮書名運動の展開
  8 満州事変と上代タノの決断-初めての試練 p.216
  おわりに p.222

  第二章 国際理解を求めて、上代タノの活躍-第二次世界大戦中の時期

  はじめに p.231
  1 上代タノと中国の人々 p.232
  2 盧溝橋事件への対峙 p.234
  3 「時局下、吾等何をなすべきか」-上代タノの英知 p.238
  4 「コンピエーニュの森」-『婦人平和協会会報』最終号巻頭言 p.241
  5 上代タノの回顧「戦時中の婦人平和協会」-ガントレット恒会長と河井道会長の勇気 p.243
  6 戦中期における平和主義者、上代タノの勇気と決断 p245
  おわりに p.248

  第三章 平和運動の新たな地平を拓く上代タノー第二次世界大戦後の時期
  はじめに p.251
  1 上代タノと婦人平和協会の再建 p.252
      「日本婦人平和協会」への改名
     WILPF会員の友情
  2 日本婦人平和協会会長、上代タノの抱負 p.256
  3 戦後の新たな活動展開 p.260
      全面講和を求めて
      平和憲法護持と再軍備回避の努力 p.262
      WILPFへの復帰 p.267
  4 WILPF第一三回国際総会と上代タノ p.269
  5 原水爆禁止運動への参画 p.273
      原水爆実験禁止署名運動
      原水爆禁止世界大会への参画
  6 世界平和アピール七人委員会の結成と上代タノ p.283
  7 WILPF第二〇回国際総会と上代タノ p.286
  8 人権主義とクエーカー主義-上代タノの平和運動を支えた基本思想 p.292
  おわりに p.298

  結語 p.304

  上代タノ略年譜 p.316
  あとがき p.323

机の上の空 大沼安史の個人新聞: 〔いんさいど世界〕 「平和なお盆」をよみがえらせ、「平和な日本」をうみだしたアメリカのボートン博士は、戦前、松島の灯篭流しを観ていた!

机の上の空 大沼安史の個人新聞: 〔いんさいど世界〕 「平和なお盆」をよみがえらせ、「平和な日本」をうみだしたアメリカのボートン博士は、戦前、松島の灯篭流しを観ていた!



2010-08-13

〔いんさいど世界〕 「平和なお盆」をよみがえらせ、「平和な日本」をうみだしたアメリカのボートン博士は、戦前、松島の灯篭流しを観ていた! 

 1945年(昭和20年)8月の「お盆」は、灯火管制の下、迎え火も焚けない状況で、盆の入りを迎えたはずだ。
 戦死者は「軍神・英霊」として、帝都(東京)の「靖国」に収用され、遺族たちは愛する死者たちを親しき「霊」として迎え入れることを憚った。
 けれど、お盆の中日、「15日」の「終戦」が全てを変えた。
 日本の民衆はようやく戻った平和の中で、昔の平和なお盆を思い出し、慌しく迎えれた死者たちの霊と親しみながら、その死を(「喜ぶ」のではなく)悲しみ、平和な日常を噛みしめる中で、死者たちを送り返したはずだ。
 戦争が終結した「8月」は久しぶりに日本にお盆がよみがえった夏だった。
 * * *
  米国のジャパノロジスト(日本研究家)、ヒュー・ボートン(Hugh Borton)博士〔1902~1995年〕をご存知だろうか?
 あのライシャワー博士の友人で、同じ時期、日本研究を始めた、草分けの学者である。
 やがて米国務省の日本部長などの立場で、戦争終結に、戦後日本の設計に主導的な役割を果たすことになるボートンさんがエリザベス夫人と2人の子どもを連れ、東大大学院(文学部)留学のため、日本を訪れたのは、日本敗戦の10年前、1935年(昭和10年)2月のことだった。
 1928年(昭和3年)に初来日し、3年ほど東京で暮らして以来、2度目の来日。
 5月の東大への入学手続きを済ませたボートンさんが蒸し暑い東京を逃れ、家族とともにひと夏を過ごしたのは、宮城県の景勝の地、松島(湾)を一望の下に見下ろす「高山外国人避暑地」だった。
 そこでボートンさんは初めて、松島湾の灯篭流しを観る。
 送り盆の「満月の夜」、「……しばらく地上の家族と過ごしてから天国に戻っていく先祖の霊を表す、明るい蝋燭をのせた小さな舟の大群が松島湾に浮かぶ灯篭流しを、沈黙のうちに見物した」(自伝『戦後日本の設計者 ボートン回想録』より)のだ。
 平和な日本の――松島の盆の灯篭流し。
 * * *
 平和な日本のお盆の夏を松島で過ごしたボートンさん(当時、23歳)は、「すべての人の中に神はいる」と信じる、絶対平和主義のクエーカー教徒(フレンド)だった。奥さんのエリザベスさんもまたクエーカーの信者。
 ボートン夫妻の1928年の初来日も、実はアメリカ・フレンド奉仕団からの派遣。ボートンさんは奉仕団の活動の合間に、東京日本語学校で日本語を勉強、奥さんのエリザベスさんは三田の普連土学園で教壇に立っていた。
 2度目の来日で東大で2年間、勉強し、最初の来日を含め、通算5年の日本滞在を終えたボートンさんは、「徳川時代の農民一揆の研究」でオランダのライデン大学から博士号を取得、米コロンビア大学で研究者生活に入ることになるが、時代は暗転し、世界は一気に「戦争の時代」へと進んで行く。
 クエーカー教徒として「良心的兵役拒否者」の立場を貫くボートンさんに待っていたのは、米国務省で対日政策を立案・勧告する調査アナリストの任務だった。
 * * *
 ルーズベルト・トルーマン政権の国務省で、ボートンさんは実は、大変なことをした!
 日本で暮らし、日本を愛していたボートン博士は、平和を愛するクエーカー教徒としての良心に従い、国務省の日本部長、極東局局長特別補佐などの立場で、戦争を早期に終結させ、平和憲法など戦後日本をつくりあがる仕事に心血を注いだのだ。
 その詳細は、博士の自伝、『戦後日本の設計者 ボートン回想録』(五百旗頭真監修・五味俊樹訳、朝日新聞社)や、五百旗頭真著『米国の日本占領政策  戦後日本の設計図』(上下2巻、中央公論社)に詳しいので、ここでは簡単に紹介するに留めるが、
 戦争早期終結では、「戦争を早期に終結するためには大統領ないし他の政府高官から日本の将来の処遇に関する声明を発表し、無条件降伏は日本民族の絶滅や隷属化を意味するものではないと日本国民に保証すべきである」との「覚書」をまとめ、国務省、およびトルーマン政権内の説得につとめ、
 戦後日本の構想では、後にマッカーサーが、立憲君主制・平和主義を柱とした新憲法の草案づくりをする際、ガイドラインにすることになる、「日本統治制度の改革」なる報告書(SWVCC228)をまとめた。
 そう、日本が世界に誇る「平和憲法」の産みの親は、知日家で絶対平和主義のクエーカー教徒、ボートン博士だった!
 * * *
 早期戦争終結では、残念でたまらない、こんな出来事があった。1945年5月29日のこと、ワシントンの陸軍省のスティムソン長官の執務室で、重要な集まりがあった。
 ボートン博士の勧告に従い、2日後の戦没者追悼記念日(5月31日)に、トルーマン大統領が「対日声明」を発表することを承認する重要会議だった。
 「声明」の草案は「無条件降伏は日本の全ての軍隊の降伏と武装放棄を意味するが、必ずしも天皇と皇室の排除を意味するものではない」というもの。
 会議は、このきわめて重要な「声明」草案をいったんは了承したものの……最後の最後に、マーシャル陸軍参謀総長が「時期尚早」を言い出し、見送られることになった。
 なぜ、マーシャル参謀総長は「声明」つぶしに動いたか?
 たぶん、そこには、日本に早期降伏されてはならない事情があったからだ。
 その事情とは、もちろん、その時点ですでに最終段階にあった、あの「マンハッタン計画」の原爆開発である。
 この時、トルーマンがボートン博士の勧告に従い、「対日声明」を実際に発していたなら、ヒロシマ・ナガサキの悲劇は回避できたかも知れないのに……。
 * * *
 ボートン博士は1948年に国務省を辞し、コロンビア大学の教授を経て、1957年、母校のクエーカーの大学、フィラデルフィア郊外にある、バヴァフォード大学の学長に就任する
 ボートン博士はハヴァフォードでもベトナム反戦運動の学生を守り抜くなど、平和主義を貫き通すが、ここで注目しておかねばならないことは、ボートン博士らクエーカー(フレンド)の人々と日本との、「平和」で結ばれた絆である。
 ボートンさんが初来日した際、東京で食事に呼ばれ、励ましを受けた新渡戸稲造博士のメアリー夫人は、クエーカー教徒。
 ボートン博士がハヴァフォード大学の学長として名誉博士号を授与することになる、あの、現天皇が皇太子だった頃、英語教育に力を注いだヴァイニング夫人もクエーカー教徒。
 帰国したヴァイニング夫人のあとを受け、皇太子の英語教師となったのアスター・B・ローズさん(普連土学園園長)もクエーカー教徒。
 立憲君主制のデモクラシーとして再出発した戦後日本の平和の流れの中で、クエーカーの平和主義が実質的に大きな役割を果たして来たことは、忘れてはならない歴史的な事実である。
 * * *
 さて、この17日は、恒例の「松島灯籠流し花火大会」。
 75年前、若き日のボートン博士が七ヶ浜の高山避暑地で観た、送り盆の行事である。
 そしてことしは、くしくも博士が83歳でお亡くなりになって15年(命日は8月2日)……。日本式に言えば16回忌だ。
 もしかしたら博士の霊も、松島を懐かしがって、高山避暑地あたりに、そろそろもう、いらしているのかも知れない。
 博士のクエーカーの信仰に敬意を表しながら、わたしたちは日本人として作法で、博士のみ霊をお迎えし、お送りすることで、戦後の平和・日本を生み出してくれた博士の功績に感謝することにしよう。   
〔参考〕
 ヒュー・ボートン博士
  Wiki ⇒ http://en.wikipedia.org/wiki/Hugh_Borton
 (このニューヨーク・タイムズ記事を見てもわかる通り、ボートン博士の対日政策づくりにおける重要な役割は、米国でもあまり知られていない。ボートン博士の功績を発掘し、自伝の執筆を励ましたのは、東大の五百旗頭真教授である)
  英文原書 Spanning Japan's Modern Century: The Memoirs of Hugh Borton
  アマゾン(カバーの写真にボートンさんの写真があしらわれています) ⇒ http://www.amazon.co.jp/Spanning-Japans-Modern-Century-Memoirs/dp/073910392X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=english-books&qid=1281653082&sr=8-1
 「米国の日本占領政策 戦後日本の設計図」(上下2巻、五百旗頭真著、中央公論) 同 
 ⇒ http://www.library.pref.miyagi.jp/wo/opc/srh_detail
   http://www.library.pref.miyagi.jp/wo/opc/srh_detail
 松島灯籠流し花火大会  ⇒ http://www.jalan.net/jalan/doc/theme/hanabi/04_hanabi20.html
 エスター・B・ローズさん〔1893~1979年〕
  写真と言葉 ⇒ http://www.friends.ac.jp/our/our.html
 クエーカー(フレンド)について ⇒ http://www2.gol.com/users/quakers/who_areJ.htm
 フレンド・オブ・ジャパンの紹介 ⇒ http://www2.gol.com/users/quakers/borton.htm
 普連土学園について ⇒ http://www.friends.ac.jp/our/our.html
Posted by 大沼安史 at 08:11 午後 1.いんさいど世界 | 

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キリスト友会 東京月会 平和の願い

キリスト友会 東京月会



戦後70年にあたり

平和の願い


 かつて私たちの街は戦火に焼かれ、原爆が落とされ、多くの家族を失いました。戦地に行った父や兄は帰ってきませんでした。戦争が終わったとき、だれもが「もう二度と戦争は嫌だ」という強い思いをもって、平和国家として歩むことを決意して70年が過ぎました。その間、隣国の朝鮮半島をはじめ、ベトナムや中東、アフリカでは絶え間なく紛争や戦争があり、人々は住む場所を追われて難民となり、ミサイルなど高性能の兵器によって兵士だけでなく、子どもや女性を含む多くの人が犠牲になりました。
 一方、私たちは武器ではなく、自動車を作り、ダムを造り、新幹線を走らせ、産業を発展させて、世界の国々との貿易によって豊かな国になりました。
 日本で戦争を記憶している人(75歳以上)はわずか12.5%になりました。今私たちが映画やテレビで見る戦争は、勇ましく戦う戦闘機や、軍人を美化したドラマ、そして遠い国で起こっている紛争のニュースです。自ら銃を持って戦った人はごくわずかになりました。私たちの多くは本当の戦争を知りません。血の臭いも、ウジがわいた死体も、飢えも、弾の音も。しかし、明日からは私たちの子や孫が、あるいは自身が体験することになるかもしれません。


戦争体験のない政治家たちによって、国民の8割が反対しているにもかかわらず、日本は戦争をする国に変わろうとしています。国際貢献とは、ともに銃をとって戦うことでしょうか。国際ボランティア活動をする日本人は、戦わない民族として紛争地でも信頼されてきました。でも、これからはテロの標的になるかもしれません。
私たちキリスト友会は、かつて日本が朝鮮半島や中国、東南アジアで行ったことを忘れてはいません。植民地とした韓国では、名前や言葉を奪い、女性の尊厳を傷つけました。日本軍が侵略した中国や東南アジアでは、残虐な行為を行いました。
 私たちの国から再び戦争で死ぬ人を出してはいけません。私たちの家族を他国の人に残虐なことをする加害者にしてはいけません。


 わたしたちは安全保障関連法案に強く反対します。


2015年8月16日
キリスト友会東京月会

今なぜ新渡戸稲造の武士道なのか | 神田嘉延 研究室

今なぜ新渡戸稲造の武士道なのか | 神田嘉延 研究室

今なぜ新渡戸稲造の武士道なのか

 今なぜ新渡戸稲造の武士道なのか
神田 嘉延
        
 実践的な倫理体系の武士道
 新渡戸は、朱子学的な儒学思想からではなく、陽明学の知行合一の実践的な個人の人格の成長、倫理の形成を武士道の基本原理として重視した。この意味からの西郷隆盛を典型的な武士とみたのである。新渡戸が西郷隆盛を典型的な武士とみたのは興味あることである。西郷は明治維新で活躍し、新政厚生徳の旗を掲げた西南戦争で命を落とした。新渡戸の武士道の理解をしていくうえで、西郷の生き方をみていくことは大切なことである。
 西南戦争では大分からも多くの旧武士が参加している。その典型が、福沢諭吉のふるさとの中津からは、百余名が参戦した増田宋太郎のつくった「共憂社」の存在も大分から武士道を考えていくうえで、必要なことである。共憂社のメンバーを中心にした中津隊は、西郷へと進軍した。この決起に呼応して、県北一帯に約2万人参加の農民一揆が起きる。福沢諭吉は西南戦争の鎮定後に「丁丑公論」で政府の専制をほうっておけば、際限あることなしとして、これを防ぐ術は、抵抗する一法あるのみと、西南戦争に起ち上がった西郷を抵抗の精神と書いたが、厳しい言論統制のなかで、公表されたのは死後である。
 新渡戸の「武士道」は、日本人のもっている精神を国際的に紹介するためであった。このために、キリスト教との比較を含めて欧米人にも理解できるように書かれたものである。新渡戸はアメリカ滞在中に 武士道を英語で書いて出版した。

 新渡戸稲造とはどんな人であったのか。
 陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)に、盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれる。13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の東京大学)に入学する。そして、その後に、札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学する
 札幌農学校で教鞭をとっていたクラーク博士の影響のあった4人組と共に入学する。四人組みは、岩崎、内村、宮部であり、東京の英語学校以来の親友である。岩崎は鹿児島大学の前身のひとつになった第7高等学校造士館の初代の館長である。
 新渡戸は札幌農学校でキリスト教の洗礼をうける。農学校卒業後、級友達とともに道庁に就職した。そこで、畑の作物を食い散らすイナゴの大群を退治するために各地の農村を駆け巡る。学問を志して東京帝国大学に進学する。しかし当時の農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学する。新渡戸は、キリスト教のなかでもクエーカー教徒であった。クエーカーの証言は、平和、男女・民族の平等、質素な生活、個人が誠実であり続けることである。
 1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学する。この頃に新渡戸稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学する。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。
 クェーカーたちとの親交を通してメアリー・エルキントンと出会い、1891年(明治24)に、国際結婚をする。日本に帰国して、札幌農学校教授に任命される。
 新渡戸稲造は世界平和のために尽力した人であり、地域振興の発展のために実践的に農学を研究した学者でもあり、青年達に未来を託す教育者でもあった。
 新渡戸は、台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命される。台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した。
 1909年(明治42年)、新渡戸の音頭取りで、「郷土会」が発足した。自主的に自由な立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを狙いとしたものである。
 1911年、1932年と、アメリカと日本の関係悪化のときに、日本政府から正式に派遣される。1919年から日本政府代表として、国際連盟の仕事に7年間就く。1933年2月に日本は国際連盟を脱退する。新渡戸は、国際人として国際連盟事務次長を勤める。1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長に選ばれる。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職した。新渡戸の国際連盟の仕事で尽力したことに、国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めた。しかし、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。
 太平洋問題理事長として渡米して、アメリカの各地で講演し、両国の親善に尽くす。しかし、日本政府は国際連盟の脱退により、国際的孤立をする。新渡戸稲造は体調がすぐれないなかで、国際連盟脱退の年、8月にカナダで平和の望みを捨てず日本側代表として演説する。1ケ月後病に倒れてカナダのビクトリアで死亡(71歳)する。
 教育者・社会運動家としての新渡戸稲造の側面は大きい。札幌農学校、第1高等学校、東京大学、京都大学で教授、校長として教育にあたる。札幌農学校では、学校教育を受けられない青年を対象に勤労者の夜間学校を札幌の豊平の貧困地帯につくる。
 東京女子大学の初代の学長として、女子教育に尽力する。郷里岩手の産業組合の指導を引き受ける。また、加川豊彦とともに、医療協同組合運動を若い医師とともにつくる。日本を滅ぼすのは軍閥ということで、軍国主義に警戒する。

 新渡戸稲造の武士道の内容
 義とはなにかー武士道の光
り輝く最高の支柱

 義は勇と並ぶ武士道の双生児である。「義」は、武士道の光輝く最高の支柱である。正義の道理は絶対的な命令である。ここで、正義とはなにかということを深く考えることが必要である。武士が重んじることは節義なりというが、節義は人の体でいえば骨のようなもので、骨なければ首も正しく上にあることができず、手もとることもできず足を立つこともできない。学問ありても節義なければ世にたつことができない。
 義とは人が失われた楽園を再び手中にするためのものである。悪辣な陰謀が軍事的策略として、まっかな嘘が謀略としてまかりとっていた時代に、正義を考えた徳である。それは、素直で、正直な、男らしい徳はもっとも光り輝く宝であり、行動することによって、まさにその精神は認められたのである。
 正義とは人間としてのあたりまえの嘘をつかない、人を騙さない、弱い者をいじめないという人間としての温かい慈愛の精神をもって生きる道である。
 現代は、国際化という名のもとに世界的規模で弱肉強食の競争社会が蔓延しているなかで、人を騙したり、嘘をついたり、相手を蹴落とすために謀略を施したりする社会的風潮が強くなっている。現実は、残酷に人を平気でいためつけたりする世相がみえるなかで、人間としてのあたりまえの節義をもって生きることがどんなに大切な時代であるのか。この時代に生きるなかで日本人としての正義のあり方を考えるうえで武士道から学ぶことは大きい。子どものなかさえもいじめの問題が深刻になり、自殺者がでるほどである。節義を重んじる、正義で生きるという言葉は、教育の世界にとっても重要である。現代の青少年教育のなかで、正義ということは、「ださい」「あほらしい」「くそまじめ」と思われることで、なかなか真剣に考える機会が失われている。これは、現代の世相のなかで、教育者自身が、道徳退廃に犯されている側面をみたときに、若者が発する言葉である。

     礼儀作法は、ある一定の結果を達成するための、もっとも適切な方法を長い年月にわたって実験してきたことの結果である
 何かなすべきことがあるとすれば、それをなすための最善のやり方がきっと存在するはずである。そして最善の方法とは、一番無駄がなく、もっとも奥ゆかしいものである。礼儀を守るための道徳的な訓練が必要である。優雅な作法は、力を内に蓄えさせるというのが新渡戸の主張である。
 奥ゆかしさは、無駄を省いたやり方であるとすれば、優雅な作法を絶えず実践することは余分な力を内に蓄えるにちがいない。立派な作法は、休止状態にある力を意味する。礼法を通じてほんとうに高い精神的な境地に達することができるのであろうかと新渡戸は問い、精神的修養のひとつの大成として、茶の湯の作法をあげる。
 茶の湯の基本である心の静けさ、感情の穏やかさ、落ち着いた立ち振る舞いは、まっとうな思考と率直な感情の第一条件である。礼儀は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによってものごとを行うので、いつも優美な感受性として表れる。礼の必要条とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。このような教訓的必要条件はそれが日常生活の細々とした点に及ぶとき、人の注意をあまりひかない繊細な行為の中に表れる。新渡戸は、以上のように、礼儀は優美な感受性であり、慈愛と謙遜の他人にたいする優しい感情によって行うものであると。
 
  名誉とは、苦痛と試練に耐えうるために存在する
誉という感覚は個人の尊厳とあざやかな価値の意識を含んでいる。

 名誉は武士階級の義務と特権を重んじるように幼児のときから教え込まれたと新渡戸はみる。過ちを犯した少年の振る舞いに「人にわらわれるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」と言われる。羞恥心は人類の道徳意識の出発点であると新渡戸稲造は考える。名誉の繊細な掟がおちいりがちな馬鹿げた恥を知るという感情、病的な行き過ぎの感情が起きるが、その克服には、寛容と忍耐を説くことによってはっきりと相殺される。
徳川家康の言葉である「人の一生は重荷を負うて行くが如し。急ぐべからず。堪忍は無事長久の基。・・・・。己を責めて人を責むるばからず」と新渡戸は紹介し、この言葉の大切をのべている。さらに、西郷南州の敬天愛人の言葉を引用している。
 名誉はこの世で最高の善であるというのが新渡戸の主張である。名誉は境遇から生じるものではなく、自己の役割をまっとうに努めることにあるのだ。若者に追求しなければならない目標は冨や知識ではなく、名誉である。多くの若者が敷居を超えるとき、世に出て名を成すまでは二度とまたがないと自分自身に誓ったものである。多くの母親は息子達が錦を飾るということばどおりに故郷に帰るまで再会を拒んだ。
 恥となることを避け、名を勝ち取るためにサムライの息子はいかなる貧困も甘受し、肉体的、あるいは精神的苦痛のもとに厳しい試練に耐えたのである。彼らは、若いときに勝ち得た名誉は年がなつにつれて大きく成長することを知っていた。新渡戸は。以上のように名誉を勝ち取っていくことは、若者成長にとって大切なことであるとするのである。
 名誉という言葉は、広く若者が誇りをもつということにみてほしい。名誉の意味を権力志向と結び絶対的な権威による名誉心ではない。若者が成長していくうえで、自己の社会的役割、自己のもっている個性を社会にみつめていくことであり、それは、自我の形成においても大切な課題である。
 JUGEMテーマ:学問・学校

教員紹介(中野 泰治)|教育・研究|同志社大学 神学部/神学研究科

教員紹介(中野 泰治)|教育・研究|同志社大学 神学部/神学研究科

中野 泰治(Nakano Yasuharu)<准教授1973年、淡路島生まれ。同志社大学神学部卒業、同大学院神学研究科博士前期課程修了、バーミンガム大学にてPhDを取得。専門は近現代の英米のキリスト教史、およびクエーカー(フレンド派)の歴史・思想研究。17世紀半ばから現代までのクエーカー神学における「自己」概念の変遷を辿り、20世紀以来の自由主義クエーカーの思想的特性を分析。また現在は、英米を中心とする英語圏のキリスト教における自由主義の歴史的発展と現状、その可能性と限界について「自己」と「共同体」という視点から研究している。論文には、「クエーカーの普遍贖罪論における自由意志の問題―R. バークレーのApology(『弁明』)を中心に―」(『基督教研究』、2005年)、’Elizabeth Bathurst’s Soteriology and a List of Corrections in Several Editions of Her Works’, Quaker Studies, 2008、「クエーカー研究における新ヘーゲル主義的前提について―self概念を巡るBarclay神学の評価―」(『ピューリタニズム研究』、2012年)などがある。


CiNii 論文 -  現代クエーカーの平和思想とその課題

CiNii 論文 -  現代クエーカーの平和思想とその課題



現代クエーカーの平和思想とその課題

Modern Quaker Pacifism and its Problems

中野 泰治



ナカノ ヤスハル

Nakano Yasuharu

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抄録



講演(Lecture)本講演では、自由主義神学の影響下にある現代クエーカーの平和思想の特徴を明らかにし、ラインホールド・ニーバーが厳しく批判した平和を巡る神学的な問題点(それは依然としてクエーカーの平和主義者たちが陥っている問題点でもある)について分析する。自由主義クエーカーは、神の働きかけとしての「内なる光」を人間の理性・意識・良心の働きと同一視し、人間の本性を神的なもの、無垢なものと考えることで、神と人間の緊張関係を弱め、人間存在の限界に関する深い洞察を見失ってしまった。結果として、クエーカーの平和主義は、異質性、差異性を前提とする自己-他者関係を単なる計算可能性、操作可能性の領域へと還元してしまい、平和主義の名の下に非暴力を力として利用する(集団)心理学的ストラテジーになってしまっている状況がある。



The aim of this public lecture is to clarify the characteristics of modern Quaker pacifism under the influence of Liberalism and to analyze its theological positions that Reinhold Niebuhr harshly criticized, and which some present-day Quaker pacifists still hold. What I show in the lecture is that liberal Quakers have considered human nature to be divine and innocent, breaking the tension between God and man and ignoring the deep dimensions of human existential limitations. Furthermore, their pacifist stance ends in returning the unbridgeable gap between oneself and others to the mere realm of calculability or controllability. Consequently, Quaker pacifism becomes nothing more than a (group-) psychological strategy to violently use nonviolence.

[ 広井勇&八田與一 ] ボーイズ・ビー・アンビシャス

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2016年10月18日
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後書き(第一集二刷にあたって)
 二刷にあたって、○○所長と○○大学名誉教授に感謝します。第一集の二刷はお二人の励ましと支援により刊行できました。
本集の初版には「第一集」の表示はありません。当初「シリーズ」の構想はなく、札幌農学校第二期生、宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造・広井勇の四人の交流と成長を手紙や日記など史料で明らかにするため刊行しました。続編「米欧留学篇」を作成し、○○所長に差し上げたところ「続編を期待します」とコメントを頂き、始めてシリーズ化を意識しました。そこで新渡戸稲造の「留学談」「帰雁の蘆」を収録したものを「第三集」として刊行し、「広井勇と青山士」(第四集)、「内村鑑三神と共なる闘い」(第五集)と刊行しました。本シリーズには一般に入手困難または世に知られていない資料を収録しています。第一集に収録の「廣井勇君之小伝」は「札幌同窓会第五十回」(昭和三年十二月)に収録され、「報告別刷」が北海道立図書館に収蔵されています。道立図書館から資料を入手し載録しましたが、第一集作成当時その後半は省略しました。二〇一六年始め○○所長が○○先生に第四集「広井勇と青山士」を渡され、○○先生は廣井博士を尊敬され、広井博士と青山技師の功績を「紳士の工学」として讃えた「第四集」を評価していただき、先生の講義でテキストとして使って頂きました。感謝します。広井博士と青木技師の功績を世に広めたいという思いから第四集「広井勇と青山士」は生れました。そこで第一集二刷を刊行するにあたって「廣井勇君之小伝」について全文を収録した次第です。
二〇一六年四月一五日、○○センターにおいて、お二人の先生と懇談しました。その折、○○先生から「青山技師に注目されたのは、八田與一からですか」と質問を受けました。「内村鑑三からです。内村は『代表的日本人』で、二宮尊徳を取り上げ、農業聖人として世界に紹介し、『後世への最大遺物』においても「報徳記」はキリスト教の『バイブル』を読むような考えがすると評価しています。明治以降、二宮尊徳を正しく理解し、世界に広めたのは内村鑑三です。第一集の資料編冒頭に内村の『予が見たる二宮尊徳翁』を収録したのはこのためです。その後、台湾製糖株式会社初代社長鈴木藤三郎を調べるなかで、台湾の烏山頭ダムを建設した八田與一を知り、八田の恩師が札幌農学校出身の広井博士で、八田はパナマ運河建設に携わった青山士技師を尊敬していたことを知りました」と答えました。第四集は当初、広井勇を主題として作成しました。鈴木藤三郎の曽孫○○氏に序文をお願いしたところ「余談:パナマ運河建設時の、唯一の日本人技師、青山士も廣井勇門下です」と青山士についてコメントをいただきました。そこで「余談 青山士」として関連資料を整理し、登載したところ、全体の三分の一を青山士が占めたため、第四集の副題を「紳士の工学の系譜」としました。青山技師は荒川放水路の建設、信濃川大河津分水路の改修工事で功績があるだけでなく、土木学会の「土木技術者の信条および実践要綱」に「人類の福祉増進に貢献しなければならない」と規定しました。また大河津分水堰の記念碑には「人類ノ為メ國ノ為メ」と刻んであります。そのノーブル(高貴)な精神は広井博士、ひいては札幌農学校精神に由来します。
「ボーイズ・ビー・アンビシャス」を作成した目的は、第一集表紙に掲げた「いかにしてボーイズ・ビー・アンビシャスは現実化されたのか」と「日本の近代化合理化の一源流札幌農学校精神」を解明するためです。第一集の表紙には札幌農学校の生徒時代の宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造・広井勇の写真を載せました。また裏表紙には五〇年後のそれぞれ思想・教育・学問の世界で「代表的日本人」となった四人の写真を掲げました。彼らはどのようにしてボーイズ・ビー・アンビシャスを現実化できたのかという本シリーズのテーマを表したものです。
マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、近代資本主義の精神は禁欲的プロテスタンティズムの倫理から生れたものであると論証し、それは西欧特有の現象であるとしました。しかし、「プロテスタンティズムの倫理」はクラーク先生を通じて札幌農学校に直接に伝わり、内村鑑三や新渡戸稲造ら札幌農学校出身者によって、日本全国に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と「ビー・ジェントルマン」が広まりした。工学の世界でも「紳士の工学」は継承されました。「札幌農学校精神」は日本の近代化合理化の一源流であるとともに、「人類のため」というノーブル(高貴)な精神を日本にもたらしました。そして戦後日本における民主化の基盤ともなりました。
「ボーイズ・ビー・アンビシャス」とは、高いビジョンを懐き、その実現のため努力し続けることをいいます。内村鑑三は北海道大学における講演で、「エマソンの言葉に'Hitch your wheels to the star' (なんじの車を星につなげ)というのがあるが、これは「望みを高くいだけ」ということで、クラーク先生が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と平易に言ったことを詩的に言い表したのであって、全く同精神に出ている」と説明しました。「諸君よ、諸君もまた今の時代に諸君の車を星につなぐべきである」「私はクラーク先生に代わって、もう一度、諸君に向かって叫ぶ・・・ボーイズ・ビー・アンビシャス!」(一九二三年一月『聖書之研究』)
「ビー・ジェントルマン」は、自らを常にノーブル(高貴)たるように律し続けるところにあります。
 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」「ビー・ジェントルマン」という札幌農学校精神が、後の世代に継承されることを願って本集を刊行します。 
平成二八年十月○○日 





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最終更新日  2016年10月18日 01時09分54秒 



ボーイズ・ビー・アンビシャス第一集 目次
プロローグ                     2
第1編 コラム Ⅰ クラーク精神
1 クラークのBoys be ambitiousの現実化の秘密   4
2 いかにしてピューリタニズムは札幌に伝わりしか  6
3 クラーク先生 2つのB             8
4 佐藤昌介「クラーク先生を語る」         10
5 「イエスを信ずる者の契約」と二期生の信仰    12
6 札幌農学校の「イエスを信ずる者」の3つの特徴  14
7 クラークの手紙-札幌農学校生徒との往復書簡-1  16
8 札幌農学校の功労者佐藤昌介と新渡戸稲造     18
9 クラークの手紙-札幌農学校生徒との往復書簡-2 20
10 内村鑑三「クラーク先生を語る」         22
11 なぜ、第三期生に「信ずる者」は出なかったのか? 24
12 誓約書(pledge)と契約(Covenant)の由来    26
13 「予定の教義」と札幌農学校の精神        28
14 札幌農学校の教育は欧米社会の水準以上だった   30
Ⅱ札幌三人組(宮部・内村・新渡戸)と広井勇(米国留学まで)
1 新渡戸稲造の母の手紙 と 母の死        32
2 新渡戸稲造とカーライルのサーター・レザータス 34
3 宮部金吾による札幌農学校の同級生の思い出 36
4 クラーク先生のピューリタニズムとは何か 38
5 二期生それぞれの親・兄弟へのキリスト教伝道 40
6 新渡戸と内村のそれぞれに対する観察評価 42
7 「札幌独立教会」誕生 独立の叫びが挙った 44
8 「札幌独立教会」と内村の札幌での日々 46
9 自然科学者、偉大な文学者としての内村鑑三 48
10 内村鑑三の文章と新渡戸・宮部の往復書簡 50
11 内村鑑三の演説「空の鳥、野の百合」 52
12 禁酒の誓約と「聖霊に満たされた絶対的禁酒」 54
13 広井勇の手紙とジェントルマンの工学の創造 56
14 札幌三人組の偕楽園の誓いとそのambitious 58
15 広井に続き三人組も渡米し、彼らを世界的にした 60
終りに 街作りには3人以上の仲間が必要です 62
第2編 資料篇 目次 64
後書き   

Ⅱ 資料編
1 予が見たる二宮尊徳翁  65
2 キリスト教の伝道師として見たるクラーク先生 69
3 開校式の黒田・クラークの式辞 74
4 イエスを信ずる者たちの契約 76
5 先師シーリー先生を憶う 78
6 黒田清隆伯逝く 79
7 クラーク先生への手紙 80
8 内村鑑三日記より抜粋 82
9 内村鑑三の手紙(抜粋) 87
10 宮部金吾・新渡戸稲造往復書簡 92
11 広井勇の手紙 114
12 内村鑑三君之小伝(抜粋) 宮部金吾 116
13 新渡戸稲造小伝  宮部金吾 123
14 広井勇君之小伝  宮部金吾   139
15 広井勇君を葬るの辞 内村鑑三 155
16 広井勇の死と内村鑑三-日記と手紙より-      160
「札幌農学校の三人組と広井勇」発刊に寄せて      163

例 言・主な参考文献
1 内村鑑三の引用および参照の原典は次の略記号による。
  日・・・『内村鑑三日記書簡全集』   信・・・同『信仰著作全集』  
2 本書の主な参考文献(宮部金吾の「小伝」のほか)
(1) クラーク・・・「北大百年史」、「札幌農黌年報」、「札幌農学校」蝦名賢造、「クラーク先生詳伝」逢坂信忢、「クラーク先生とその弟子たち」大島正健、クラーク」J.M.マキ、「クラークの手紙」佐藤昌彦他編、「クラークの一年」太田雄三
(2)宮部金吾・・・「宮部金吾(自伝)」、「書簡集より見た宮部金吾」
(3)内村鑑三・・・「内村鑑三全集」、「内村鑑三信仰・生涯・友情」山本泰次郎、
「内村鑑三伝米国留学まで」鈴木俊郎
(4)新渡戸稲造・・・「新渡戸稲造全集」、「新渡戸稲造」松隈俊子
(5)広井勇・・・「工学博士廣井勇伝」、「山に向かいて目を挙ぐ」高崎哲郎
*本書中「札幌農学校三人組と広井勇」は未刊行で、本書はその抜粋である。

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この国の若い女性達に 新渡戸稲造と女子教育 : 神学・教育 : クリスチャントゥデイ

この国の若い女性達に 新渡戸稲造と女子教育 : 神学・教育 : クリスチャントゥデイ



この国の若い女性達に 新渡戸稲造と女子教育

2011年11月24日08時31分 印刷
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関連タグ:新渡戸稲造
東京女子大学の眞田雅子学長=18日、学士会館(東京都千代田区)で
18日、東京女子大学学長眞田雅子氏の講演会が学士会館(東京都千代田区)で開催された。同講演会は武士道講読会によって主催された。武士道講読会は、北海道大学同窓生有志が集い、新渡戸稲造の人格を学ぶために2001年2月にスタートし、現在まで118回の「武士道講読会」が開催されている。

眞田氏は「この国の若い女性達に―新渡戸先生より受け継いだものー」と題して講演を行った。講演の中で「東京女子大学に込められた新渡戸魂」に触れ、「新渡戸先生が私どもに示してくださったことは、時代を経て現代の社会にも、新しいものを示してくださっています」と述べ、新渡戸稲造が東京女子大学学長就任時に触れた教育に関する言及が今の教育にも当てはまることを指摘した。

眞田氏は東京女子大学初代学長としての新渡戸稲造と、同大学学監となった安井てつの交流について、新渡戸稲造のクエーカー教徒として教室を出る前に数分間黙とうする習慣を見て、安井てつが「教育とは実に祈りをもってなされるべきで、神聖なる仕事であると深く悟った。キリスト教は愛国の精神と相容れぬものであると固く信じていたが、教育を通して祖国に奉仕しようと一大決心したとき、有用なる教育をするには、宗教を基盤とせねばならぬと悟った。教育者は崇高なる人格の持ち主でなければならず、広い愛の持ち主でもなければならない。正義と愛を基調とするクリスチャンの生活は決して愛国の精神と矛盾するものではないことを明らかに悟った」と感じたことについて言及した。

東京女子大学初代学長として、新渡戸稲造は学生たちに「みなさん、勉強するだけでなく、卒業するまでに『キリストの心』になれ。キリストの心とは私を無くして人のためにサービス・アンド・サクリファイスすること、まず人の事を考えることである」と教えていた。眞田氏は東京女子大学に込められた「新渡戸魂」を受け継いで、現代の東京女子大学でも「キリストの心」を持つ学生を育てていきたい旨を伝え、「どこかの教会に行ってクリスチャンになって、ただクリスチャンになったというだけで『キリストの心』とは何であるかということに無頓着になってしまっては逆効果になるかもしれません。本当に『キリストの心』になるというそういう人を育てることがこの大学の目的です。新渡戸先生は東京女子大学創立当時、『この学校はご承知の通り、我が国におけるひとつの新しい試みであります』とおっしゃられました。随分前のことであるにもかかわらず、『これは今でも新しい試み、決して古いことではない』と思いました。新渡戸先生は当時、『従来我が国の教育は、とかく形式に流れやすく、知識の詰め込みに力を注ぎ、人間として、一個人の女性としての教育を軽んじ、個性の発達を重んぜず、婦人を社会しかも狭苦しき社会の一小器官と見なす傾向があるのに対して、本校においてはキリスト教の精神に基づいて個性を重んじ、世のいわゆるいと小さき者をも神の子と見なして、学問よりも人格を尊び、人材よりは人物の養成を主としたのであります』とおっしゃられました。『人材よりは人物』というのは、今どきはやらないかもしれません。人物というのは特別に優れた人を指す、人物の養成はそう簡単にできるはずもない、大げさなことを言い過ぎているのではないかという方もいらっゃいます。『人材よりは人物』に関しては物議を醸すこともあり、優れた人材を育てていくことは大事なことであり、これがだめだと言っているわけではありませんが、本当に人物としてその人に与えられている人格が育成されていくようにすることが大学の本当の目的だと思っています」と述べた。

新渡戸稲造の教育姿勢について「普通の人間のレベル、目線で話して下さったお方です。『上から目線』で何かをするのではなく、『同じ高さ』で人と人として交わってくださったお方でした」と述べ、「私心を無くし、物質的利益を超越し、名誉・地位を乗り越えることができれば、本当の勝利者となり、自分に勝つことができます。そのような精神的に深いものを獲得されていかれたのが新渡戸先生だと思います」と述べた。

眞田氏は、これからの高度教育を受けた女性が果たすべき役割として、「男性が作った世の中が世界中で音を立てて崩れようとしています。今こそ女性の出番であり、現代日本女性の役割とは、命を育む立場として、すべての人間に『人格』が備わっていることを認め、特に弱い立場にある方々に、私たちと同じ人格が備わっており、それを尊び共に活かされ、助け合う社会の作り手となることであり、このことが現代の女性のみならずすべての人間、高等教育を受ける機会に恵まれた人たちに求められていると思います。地球全体の中で見れば、女性で高等教育を受けられている人は、やはり今の時代にあっても少ないです。そういう少ない中にあって、世界全体を見たときに、コミュニティの中でリーダーとなるべき者としての高等教育を受けた人間であることを考えて、世界の中で弱い立場にある人たちの人格を尊敬する者として、ふさわしい社会を導いていける教育、真実を求めて弱い立場にある方々を尊重していける社会作りをして行くのが私たちの仕事だと思っています」と述べた。

また新渡戸稲造の時代にあって、「『世のいと小さき者』という言い方、『社会の中で人から虐げられる』ようなそういう立場に置かれている人たちこそが、イエスがほとんどの生涯を共に過ごされた方たちです。思い返してみますと、あの時代は、女性がまさにそういう存在であったということがあります。新渡戸先生は『いと小さき者』をも神の子と見なしていくということ、これがまさに人格を持つ相手として見なしていくという事に通じていくことを教えられました。女性がそのような存在であった時に、その女性に対して素晴らしい可能性を持った一人の人格として、教育をして行く場として東京女子大学を作って下さいました。今は世界全体が本当に傷ついています。食べる物もなくて亡くなっていく子供たちがたくさんいます。(そのような中にあって)苦しんでいる人たちと共に生き、尊敬し合う社会、そういう弱い人たちと私たちが同じ人格を持っている者として、相手の人格を大切にし、共に生き、皆で工夫をしながら共に助け合って生きる社会を作っていくことが必要なのではないでしょうか」と述べた。

今回の講演会は、北海道大学東京同窓会、東京女子大学同窓会および札幌農学振興会東京支部の後援(協賛:エルム27会東京)で開催された。 北海道大学と東京女子大学のつながりは深く、1967年、北海道大学理学部数学幾何学講座において、旧帝国大学で初の女性教授となった桂田芳枝氏は、東京女子大学を卒業している。また東京女子大学初代学長に就任した新渡戸稲造と、北海道大学初代総長に就任した佐藤昌介は共に盛岡出身で、昌介が札幌農学校(北海道大学の前身)一期生、続いて稲造が同二期生として入学、「イエスを信ずる者の誓約」に署名し受洗、キリスト者となっている。昌介と稲造は共に「キリスト教を基盤とした人格教育」において一致した価値観を共有していた。

新渡戸稲造は「人格論」の中で「人は三位一体の愛の神と交わりを回復してはじめて『人格』が形成されるという考えがキリスト教の考え方です」と述べており、「人格」について「神学論争」の中から引き出すのではなく、創造主との直接的な愛に満ちた関係の中に人格形成の源泉を見出しており、「教育の目的はあくまでも人格形成にあり」との結論を導き出している。佐藤昌介と新渡戸稲造という札幌農学校のクラーク博士の教えで薫陶を受けた二人の教育者は、この点に関する教育観で全く一致しており、共に日本の教育のために支え合いつつ生涯を全うしたといわれている。

東京女子大学開校式式辞において、新渡戸稲造は女子教育の目的について「婦人が偉くなると国が衰えるなどというのは意気地のない男の言うことで、男女を織物に例えれば男子は経糸、女子は緯糸である。経糸が弱くても緯糸が弱くても織物は完全とは言われませぬ」と述べている。また「キリスト教主義大学」の在り方については、「入学する者を悉く基督教信者にするとか、教会に入ることを強制するとかの考えはないけれども、心もちだけは基督の心もちにしたい。己を犠牲にしても国のため、社会のため、人道のために貢献する精神を奨励したい。この精神をもって知識を身につける。知識を得るにもただただ好奇心を養うとか単に学者になるということでなく、高等なる知識を利用して、世の為国の為尽くすごとき人を養成したいのである」と述べている。

武士道講読会世話役の斎藤昇三氏は、新渡戸稲造が日本の女子教育にとりわけ力を入れた理由について、「新渡戸先生は大きな慈愛とその実践をされました。女子教育に至っては、(博学で女子教育者・平和主義者として米国で社会運動に関わっていた)メリー夫人との出会いを通じて、カルチャーショックを受け、『日本の女性の教育を何とかせねば』と思われたのではないでしょうか。また新渡戸先生は10歳で親元を離れ上京して勉強され、ホームシックであったかもしれません。そのような中、母からの手紙を読みながら勉学に励み、札幌農学校を卒業し、札幌から盛岡へ帰郷する数時間前に母親が亡くなられました。母の死とメリー夫人との出会いを通じて、日本での聡明で自立した女性への思いが強くなっていったのではないかと個人的に感じます。この二人の女性が新渡戸先生の人格形成にとても大きな影響を与えたのではないでしょうか」と述べた。
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皇室攻略に踊らされた日本人

皇室攻略に踊らされた日本人



皇室攻略に踊らされた日本人(なぜ、皇室と英国(阿片貿易国家)とを仲良くなったか)



なぜ、東条大将を戦争責任を持っていこうとしたか。





◆知られざる皇室の守護神



 参考例は次のレポートだ。ノンフィクション作家野口雄一郎氏の労作で、月刊『文藝春秋』特別版(1988年8月20日発行)に紹介されていた。「戦後皇室民主化の影のクェーカー人脈」題し、「マッカーサーの高級副官フェラーズ准将、ヴァイニング夫人と秘書・高橋たねーー彼等の潤滑油として前田多門がいた」とした小見出しがつけてあった。

 レポートを総括して著者野口氏は、「彼らは、皇室を守り、民主化していくことが、平和を守ることだと信じ、それぞれが出来ることを黙ってやって、黙って去ったものと思われる」と締めくくり、「彼ら」の中心人物、前田多門を「知られざる皇室の守護神」と書いていた。

 野口レポートによれば、前田の背後に新渡戸稲造なる人物が登場する。この新渡戸に内村鑑三なる人物が横に並ぶ。彼らは戦前の米国留学生として、フィラデルフィアのキリスト教徒クェーカー派のミッションスクール「普連土学園」が創設されることから推し測ることが出来る。

 新渡戸らが、クェーカー派の本拠地フィラデルフィアの婦人外国伝道協会に進言して三田の学園が誕生したからだ。

 単なる留学生の進言で外国に出先機関の創立が決断されるものだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 新渡戸に私淑していた前田多門なる青年は、大阪生まれで実家は尊皇家(野口)。立教中学時代に聖公会で洗礼を受けている。一高では弁論部で活躍し、東大では新渡戸稲造を慕い、読書会の会員になり、内村鑑三の聖書研究会に通い、多くの仲間を得た。その仲間の一人が初代宮内庁長官をつとめた田島道治という人物。

 社会教育家を目指す前田は、東大卒業後の進路を新渡戸に相談、新渡戸のすすめで内務省に入省する。その後、前田は本省で内務大臣秘書官や都市計画課長を勤めながら、大正9年に官吏を辞して東京市長後藤新平のもとで助役をつとめる。安田善次郎の資金協力を得て市政調査会(市政会館)を日比谷に設ける。その会館(会務)が前田の生涯の活動の拠点になる。

 一方、新渡戸稲造は、クェーカー派の日本伝道拠点・三田の普連土学園の世話役をしながら、弟子や関係者を集めて「小日向会」なる組織を作る。この会がクェーカー派の意にそう目標を主唱する会であるのは当然だ。会員には、戦前の日本各界の名士や優れた学究が参加した。とはいえ、入会者が即クェーカー派信奉者とはかぎらない(野口)。入会参加の呼びかけ人は前田。当然のように東大学閥人脈が小日向会会員に連なる。戦前から戦後の今日まで、この小日向会で活躍した(する)人物の一部会員を野口氏は其の会員名簿から次の様に紹介している。

 初代宮内庁長官の田島道治、同庁次官と戦後枢密顧問官をつとめた関屋貞三郎、外交官と侍従長をつとめた三谷隆信、近衛内閣の頭脳役で昭和研究会主宰の後藤隆之助、戦後初の文部大臣前田多門、文部大臣と最高裁長官の田中耕太郎、東大総長の矢内原忠雄、南原繁、東大教授で英文学の斉藤勇、東大教授でアメリカ史の高木八尺、東大教授で皇太子のフランス語教師で多門の長男の前田陽一、一橋大学名誉教授の上田辰之助、津田塾大教授で多門の長女の神谷美恵子、恵泉学園創立者の河井道子、日本赤十字社長の川西実三・・・そして国際ジャーナリストで国際文化会館理事長の松本重治、元公明選挙連盟理事の田辺定義・・・



「国際的視野を持ち、頂点を極めた教養に滋れ、個人の自由闊達な精神を旨とし、皇室への真摯な姿勢を崩すことなく、社会大衆に愛情で接して人道を説く・・・・」、これらを一身に備えたとしか見えない立派な人々である。

 つまり、小日向会の信用力と社会各層に与えた影響力は、当時ははかり知れないものがあっただろう。加えて小日向会の構成会員らの最大の特徴は、人格の面で紛れもない善行の人々だったろうことだ。

 





◆クェーカー派の日本進出



 ところで前田は、大正12年、内務省の依頼でジュネーブの国際労働事務局に日本政府代表として赴任する。ジュネーブで待っていた人物がいた。国際連盟事務局次長として先任していた新渡戸稲造だ。

 前田のジュネーブ赴任は家族ぐるみだった。野口氏は、前田が一家をあげて国際人を志向した人物だと指摘している。父親多門の国際人意識は、長男陽一と嫁いだ長女、美恵子(神谷)らの小日向会での活躍を受け継がれている。

 野口氏が指摘する他の一点は、前田の天皇への傾倒ぶりだ。ジュネーブから帰国後の前田は天皇の前に立つことになる。それを計らった人物は、東大時代の同窓生(後輩)田島道治だろうと野口氏は推察する。

 前田が天皇陛下との拙著句に人並み以上の感慨を抱いていたとみた野口氏は、前田の学友田島の宮内庁長官就任問題の背後に前田が存在したと解釈している。西欧何するものぞ、と近代国家日本をつくろうとする激しい意欲が、明治人の前田と新渡戸らの絆だったのだろう、とばかりに野口氏は前田らの関係に理解を示しながら、他方では新渡戸と前田の皇室接近意欲を異様に感じている。



 三年前のジュネーブ滞在後、大正15年に帰国した前田は、のちに記した自伝(『道草の跡』羽田書店)の一節で「帰朝と共に改元、早春には、宮内省の計らひで、赤坂離宮に参内して、天皇陛下に、国際労働機関に就いて御進講申し上げる光栄を担った。」としているくだりを野口氏は取り上げている。

 帰国後の前田は、二年浪人したあと、昭和3年から東京朝日新聞論説委員を昭和13年まで勤める。その間に大正12年の1月以来、三田の普連土学園の後援会長をしていた。朝日新聞論説委員時代は、暇な時間をクェーカー関係者に当てていた。

 長男陽一によれば、多門を恩師と仰ぐ新渡戸稲造らとの関係もあって、来日米国人らとの間の懇親機会は多かったという。それらの米国人には、普連土学園開校時の宣教師ボールズ一家、ヴァイニング夫人のフィラデルフィア時代の友人ローズ女史、ライシャワー一家、それに戦時中米国務省で天皇制を温存させる対日占領政策に関わっていたとされるヒュー・ボートンなどがいた。



 このように、クェーカー派の日本進出は、新渡戸稲造の手引きで果たされた。新渡戸に私淑する前田多門は家族ぐるみでクェーカー派の日本人教育をはじめる。新渡戸は前田の人脈と地位を活用して、クェーカー派のいわば国家指導者層に近い別組織、小日向会を受け皿に、当時各界で活躍する著名人を集める。そして天皇との道をつけながら、英米両国人の本格的な国際交流世界を築く。

 以下は、山本五十六の謎を考える上で一つの重要点になるかもしれない。野口レポートの原文の一部をそのまま揚げておこう。



  昭和十三年、日本文化会館を設立するために、前田一家はニューヨークに赴く。もっとも、

 前田の外国人人脈は、クェーカーのみに限らない。

  IPR(太平洋問題調査会)の会議を通じてジョン・ロックフェラー三世や、知日派の国際

 政治学者でボートンと同じように米国務省で影響力のあったG・H・ブレークスリーなどとも

 知り合っていた。太平洋問題調査会というのは、日米の財界人・学者などがつくった民間の国

 際機関で、カナダ、朝鮮、中国の代表者まで参加して、国際会議を開き相互理解と緊張緩和を

 図ろうとした機関である。

  日本側でこの機関をきりもりしたのは、東大でヘボン講座を受け持っていた高木八尺[高木

 は小日向会会員]。ヘボン講座というのは、ローマ字のヘボンとも関係がある米国の銀行家が

 基金を出して東大に開設された米国講座である。高木は一高・東大での前田の後輩にあたるが、

 同じ新渡戸門下生で、前田とも極めて親しい。前田が館長のニューヨーク日本文化会館にいた

 こともある。

  是の日本文化会館は、中国大陸における日本の行動を起因する反日感情の高まりを、何とか  

 鎮めようとして設立されたものだった。前田に頼まれて、文化会館の設営準備をした田辺定義

 氏によると、なかなか運営が難しかったそうである。

 「金は外務省情報局から出た。だけど、そもそもは樺山愛輔さんの国際文化振興会が作ったと

 いう形で始めたし、会計なんかは出先の総領事館に報告しなきゃならん。要するに、三箇所に

 小姑みたいなのがいっぱいいて、前田さんに圧力をかけたり批判したりする」

  前田は政治的な動きはしない事を条件に引き受けていたが、せっぱ詰まってくると、日本の

 立場を説明しろの、情報を取れのと、あちこちからクレームがついたそうだ。

 「前田さんは、それをやると言い訳になるし、却って信用を失って逆効果だと政治に関係する

 事は一切やらなかった」という。

  それが功を奏したのか、「コロンビア大学やハーバード大学、はてはロックフェラー財団な

 どの幹部とも、打ち融けて協力し得るやうになった」(前掲『道草の跡』)のである。

   

 ところで、此の部分を原文のまま本書の読者に紹介したのは、IPR(太平洋問題調査会)、ロックフェラー財団なる組織に対して著者の野口氏が言及していない状況(あるいは野口氏がIPRの実態を知りながらワザと詳細を省いたのか)、つまりIPRが世間からどの程度関心をもたれていないか(関心を寄せ付けないように図られているか)を読者に知って貰うためにである。



註 

(ゾルゲに資金を提供したフィリィプ・ジェサッフの太平洋問題調査会(IPR)

 フィリップ・C・ジェサップは共産党の偽装団体と幾重にも繋がっていて、1951年10月の合衆国国連代表にジェサップの名前を取り下げる事を頑として拒んだものの、結局は代表[代理]として派遣した。ジェサップはハーグの国際司法裁判所でエリフ・ルートの補佐官を務めた。国連救済復興機関(UNPRA)では、ハーバード・リーマン事務局長の次官補だった。リーマンの次官はローレンス・ダガンで、後に窓から身を投げた人物である。ジェサップはかってブレトンウッズ会議で合衆国代表となり、国連創設サンフラシスコ会議ではヒスの司法機関担当補佐官を務めた。

 ジェサップは太平洋問題調査会(IPR)太平洋会議の議長を務めた。この調査会は共産主義者による謀略と諜報活動の温底となった。ソ連のスパイだったりリヒャルト・ゾルゲが日本で自分の諜報網を作ったとき、太平洋問題調査会がゾルゲに資金を出していたのである。IPRの会合では、ローレンス・ロックフェラーが事務局長を務めた。

 マッカラン委員会は太平洋問題調査会について次のように報告している。



  太平洋問題調査会はアメリカ共産党及びソ連政府高官によって共産主義の政策・煽動・

 軍事諜報活動の為の道具と見なされてきた



 1945年6月、FBIはIPRのアメラシア誌の事務局を襲撃し、1800点に及ぶ盗まれた政府機密書類を没収して、共産主義者スパイを数名逮捕した。その翌年、ロックフェラー財団は23万3千ドルをIPRに寄付した。ジェサップはJ・P・モルガン商会の共同経営者である裕福なストーツベリー家の一員だった。兄弟のジョン・ジェサップは大金持ちの銀行家で、エクイタブル・トラストの会長であり、コカコーラとダイヤモンド・ステート電話会社の役員だった!忍)

 





◆終戦直前の「興味深い会話」



 野口レポートは更に続く。

 昭和16年(1941年)、ニューヨークで日米開戦の日を迎えた前田多門はその二年後の抑留者交換船で帰国する。その船で、恵泉学園からフィラデルフィア近郊の学生寮に住みウエスタンメリーランド・カレッジに留学していた高橋たねも帰国した。

 前田の長男陽一もパリで日米開戦を迎えて帰国できず、パリの日本大使館にいわば避難勤務した。当時の大使は三谷隆信で内村鑑三の無教会派のクリスチャン。三谷の兄、隆正は前田らの聖書研究会に入っており、同じ仲間の田島の薦めで後年に三谷隆信は宮内庁侍従長になる。前田多門は帰国後の昭和18年に新潟県知事になる。当時の前田を軽井沢の別荘に訪ねた井深大(元ソニー名誉会長、前田の元女婿)は、前田の別荘に「近衛さんがよく顔を見せていました。どうやって、戦争をやめるかとか、まあアメリカの事を聞きにきていたんでしょう」と語っている。



 野口は更に終戦直前に交わされた前田と田島の間の「興味深い会話」を前田の自伝から披露している。



 前田は近衛の推薦で戦後初の文部大臣を拝命するのだが、終戦直前に田島が前田に文部大臣の話があったら引き受けろとけしかけていたという。結果的にはそうなるのだが、田島にいわれた時、前田は次のように田島に言い返している。「[田島は]突拍子もない事をいふものだが、文相といふなら適任者が別にある。安部能成君か、小泉信三かだといって、元来が、根もない話だから、そのまま他の雑談に移った」・・・

 前田と三辺金蔵(慶大教授・会計学)や松本丞治(幣原内閣・国務大臣)とは姻戚関係。田中耕太郎(前述)は松本の娘、小泉の姪と婚姻関係にあるから前田と小泉は遠縁になる。松本の孫(小泉の姉の孫)の千世は聖心時代からの美智子皇后の友人。

 戦後初の文部大臣に就任した前田は省内人事を改める。科学教育局長に山崎匡輔東大教授、学校教育局長に田中耕太郎、社会教育局長に朝日新聞社の関口秦を迎える。全てリベラリストの仲間だ。前田の娘、神谷美恵子は父と安倍の両文部大臣の秘書を務める。「占領軍に日本の教育を壊されたくない」美恵子は達者な英語でGHQと交渉した。昭和20年9月15日にヘンダーソン少佐なる人物が現れる。この男はGHQの民間情報教育局(CIE)の教育主任として来日した。俳句研究家でもあるヘンダーソンは前田がニューヨークの日本文化会館館長時代の知人で、日本に赴任してボナー・フェラーズ准将が上司。フェラーズはマッカーサーの副官で日本通のクェーカー教徒。フェラーズは新渡戸稲造の愛弟子、河井道子(前述)の協力者、一色由利子の娘で恵泉女学園理事の一色義子は、「厚木に降り立ったマッカーサー元帥と同行してきたフェラーズは河井と一色を捜して迎えの車を出すから会いたい、といった」という。



 一色義子の話から野口氏は、フェラーズがマッカーサーにあてた覚書を別資料から紹介する。その覚書でフェラーズが、天皇陛下に戦争責任はなくて東条にある、従って天皇制の存続はリベラルな政府の邪魔にはならないとする天皇擁護の覚書だった事を紹介している。

 一色達クェーカー仲間の天皇観を日本通のフェラーズが理解してマッカーサーに懇願したというわけだ。ここで野口氏は、フェラーズ覚書にある東条戦犯論の根拠を探っている。覚書がいう東条悪者論は信頼すべきソースによるとしていることから、野口氏はその「信頼すべきソース」とは誰の事か疑問を抱く。野口氏はその「ソース」を特定出来なかったが、としながら、前田の仲間(東大のヘボン講座、小日向会、太平洋問題調査会(IPR))の高木八尺のいわば回顧録から疑わしい輪郭を掴んでいる。つまり、彼等そのものが疑いの対象つまり(ソース)という読み方である。

 





◆クェーカー教団と阿片貿易



 元英国情報部将校のジョン・コールマン博士(現存)が「命と交換する覚悟で」調べ上げたという

『300人委員会』(徳間書店)の話がある。

 資料の一部分には、次の様な記述があった。

  ベアリング兄弟はフィラデルフィア・クェーカー教団を支配し同市の不動産の半分を所有す

 る、と私が見た報告書や記録には述べてあったが、ベアリング兄弟が中国アヘン貿易で蓄積し

 ていた財産の故に、全てはありうることだった。・・・

  ベアリング家は南部大農場への大投資家であったし、中国の港と合衆国東部沿岸の重要な港

 全てとの間を航行した合衆国のクリッパー船への大投資家でもあった。今日[1992年現在]

 ベアリング家は合衆国で非常に堅実な金融事業を数多く手がけている。・・・



 ここでいう合衆国のクリッパー船とは、中国のアヘン貿易に従事した船足の早い帆船の事。このベアリング家と同様に中国アヘン貿易で財をなしたのが米国東部エスタブリッシュメントのアスター家。



  ジョン・ジェイコブ・アスターの息子ウォルドーフ・アスター[ニューヨークにその名を冠

 したホテルがある]は王立国際問題研究所(RIIA)の会員に任命されて、更なる名誉を与

 えられた。此の機構を通して300人委員会は合衆国の私達の生活のありとあらゆる側面を支

 配している。アスター一族はオーウェン・ラティモアを選んでアヘン貿易との関連を維持させ

 たと信じられている。ラティモアはローラ・スペルマンが資金を提供した太平洋問題調査会[

 IPR、野口レポートにある]を通じてその仕事を果たした。

  中国が単なる供給業者としてではなく平等のパートナーとしてアヘン貿易に参入する事を予

 見したのは太平洋問題調査会であった。そして、日本を真珠湾攻撃(パールハーバー)に至る

 道へと誘導したのが太平洋問題調査会だった。だが、日本人をアヘン常用者にする試みは惨憺

 た失敗に終わった。



 更に、1905年に中国政府はアヘン常用者數の増加を阻止する世界会議を開催したが、英国は会議の議定書に印鑑(サイン)をしながらアヘン事業を阻止せず、逆に中国政府にもアヘン事業に参加させる案を持ち出した。1907年のハーグ万国平和会議の参加国は、英国に前回合意して印鑑した議定書を遵守するよう促したが、英国は拒否した。1909年、英国による日本へのアヘン密輸出を懸念した日本政府が、1905年時点以上に増加したアヘン輸出の統計資料を会議に提出した。英国政府代表部はその資料に反論して、アヘン取引を公然化することで「ブラック・マーケット」の一掃が可能だと主張した。その際英国代表は、アヘン取引は大英帝国に代わって日本がアヘン取引の独占と完全支配権を確立するだろうと註釈した(何を考えているのか。それで、今も麻薬が無くならないのである。麻薬は、精神作用が激しく作用して依存症を起こす。そして最後に廃人になる。脳機能が正常に作用しない!忍)。

 ベアリング家やアスター家の為に英国政府は「外交活動」をしてきた。英国王室と政府は今日も麻薬取引で揚がる莫大な資金を収受し運用している。

 カナダは英国国王直属の枢密院会員の一人ゴートンが支配した。ゴートンはカナダ国際問題研究所経由で太平洋問題調査会(IPR)に資金を提供した。元蔵相ゴートンは、会計士、弁護士を銀行に送り込み不正麻薬資金の洗浄(ロンダリング)をした。ノヴァスコシア銀行、カナダ帝国銀行、トロント自治領銀行が洗浄銀行。

 16、7世紀頃から始まって20世紀初めにはほぼ完全に世界経済支配を終えた国際資本家の大組織の中枢に英国王室が座っている。王室にからまる諸組織の一つにフリーメーソン組織があるーー。

 

 

 





◆天皇を救ったガーター結社



 そして、次のようなことも紹介されていた。

  デンマーク国王フレデリック九世、ノルウェーのハーコン国王、英国王ジョージ6世、オ

 ランダのウィルヘルミナ女王、ルクセンブルグのシャルロッテ大公妃が、昭和天皇(エンペ

 ラー・ヒロヒト(昭和天皇)を戦争犯罪人として逮捕し、又は裁判にかけないよう要請した

 という興味深い事実がある。しかし、昭和天皇を戦争犯罪人として処刑されるべき運命から

 救ったのは、ガーター結社の力であった。エリザベス二世女王は、故昭和天皇と親密な関係

 を保持していた。そして今日なお、彼(昭和天皇)の家族と親しくしている。この事を別と

 すれば、300人委員会は日本の事態に対し、さしたる影響は与えていないように見える。



 ところで昭和天皇を戦犯の立場から救ったとされるガーター結社(オーダー・オブ・ガーター)について、コールマン博士は次のように説明している。



  ガーター結社とは、英国王室が作ったカネで買われた少数独裁の団体で、エルサレムの崇

 高なる聖ヨハネ団が支持しているものを真似たものである。・・・・

  その例としては、英国国教会信徒を装う無神論者ピーター・キャリントン卿がいる。彼は

 オシリス教団、その他の国内の諸派の会員であった。その中には、黒い貴族のゲルフ家で英

 国国教会の長でもある女王エリザベス2世陛下によってウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂ガ

 ーター騎士として任命されたフリーメーソンも含まれている。彼女は国教会を完全に見下し

 ていた。



 祖国愛を自負する英国人で熱心なキリスト教徒のコールマン博士は、英国について手厳しい調査結果を敢えて突きつけながら、人々に英国王室に対して疑いの目をもっと開くよう警鐘を鳴らしている。



  我々は今までにすっかり洗脳されてしまった為に、英国王室が素敵な、害のない、多彩な

 制度であると信じ込んでいる。そして英国君主制というこの制度が如何に腐敗し、それ故い

 かに危険かと云う事に気がついていない。ガーター結社の騎士とは、その国家と国民が寄せ

 る信頼を完全に裏切ってきた最も腐敗した公の為に働く人々の最深部の集団である。ガータ

 ー結社は300人委員会の中枢であり、女王エリザベス2世の信頼が最も厚い「枢密院」で

 ある。



 博士は、オックスフォードの権威者に実際に会い、ガーター騎士について調べている。英国内部の聖所で女王の最も由緒あるエルサレムの聖ヨハネ騎士団のエリート中のエリートだ、面談相手の英国の伝統専門家にその場で聞かされる。が、実は聞かされたその説明が真っ赤な嘘である事を、その説明者自身が知らない(あるいは知っていても知らないフリをしている)事に博士は気付く。

 博士は、オークスフォードで説明を受けてから、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へと足をのばす。そこで中国のアヘン王朝の設立者の一人パーマストン卿の文書を入手する。パーマストン卿はフリーメーソンでグノーシス主義の崇拝者でもある事をそこで知る。

 つまり「現在の『王室』のように、パーマストンはキリスト教徒のようなフリをしているが、実は悪魔の僕」だったことを知る。「多くの悪魔主義者達は英国貴族階級の指導者になった。そして中国のアヘン貿易から莫大な利益を得た」とコールマンは結論付けている。

 更にその博物館で博士は、誰がどんな理由でプロテスタントの最も由緒あるエルサレムの結社を作り上げたかをも知る。ヴィクトリア女王が、本来の聖ヨハネ団の設立者、キリスト教戦士ピーター・ジェラルドとカトリック教会との関係を断つ為に、1885年にエルサレムの聖ヨハネ団の名前を変えた事実を知ったのだ。

 博士は、オックスフォードの英国伝統問題の権威者でさえ「間違った歴史」を元英国情報部将校だった自分に堂々と語ったことに衝撃を受け呆れている。



『超スパイベラスコーー今世紀最大の”生証人”が歴史の常識を覆す』 高橋五郎 徳間書店から