だが、21歳の時に
内村鑑三の『後世への最大遺物』を読んで、自分の人生を見つめなおした天野は獨協の5年生として復学して翌年には首席で卒業した。当時の獨協の校長であった
大村仁太郎に憧れて教育者へと志望を転向して第一高等学校に入学、内村から直接教えを受け、また
九鬼周造・
岩下壮一とは親友になった。その後
京都帝国大学文科大学・同大学院に進学して
桑木厳翼らの下で
カント哲学を専攻した。在学中にカントの『プロレゴーメナ』(『哲学序説』)の
日本語訳に取り組み、
東亜堂後に
岩波書店から刊行された。
1944年、京都帝国大学を定年退職した天野は
甲南高校(現在の
甲南大学)校長在任中に
終戦を迎えた。翌年天野は母校・第一高等学校校長に就任、その後は
安部磯雄の急死にともなって
日本学生野球協会会長・
日本育英会会長を歴任、
1950年には
吉田茂に乞われて2年間文部大臣を務めた。ただし、後述のように、当時は再軍備と
逆コースを巡って揺れていた時期と重なり、戦前と同様に時流に流されない教育という自身の信念に基づく教育行政を推進しようとした事が、予想もしない政治問題を惹き起こし、結果的には天野にとっては不本意な時期となる。
大臣退任直後、天野は青春時代を過ごした母校・獨逸学協会学校の後身である獨協学園が戦後日本の国家スタイルが
ドイツ型から
アメリカ型に移行するに伴って衰微している事を知ると、母校再建のために校長就任要請を受諾して、自らが信条とする「学問を通じての人間形成」の精神に則った「獨協再建」に尽くす事になる。やがて、遅ればせながら獨協にも
大学を創設すべきだと言う声に支えられて
1964年に獨協大学を創立して初代学長に就任、続いて
国立教育会館の初代館長に就任するのである。
だが、戦後の日本は「オールド・リベラリスト」の天野にとっては意に沿うことばかりではなかった
[2]。一高校長時代には
大学制度改革に際して「
東京帝国大学(東京大学)を一般の大学と同じにしてしまった場合には、東大を頂点とした大学の格付けが生まれて
受験競争が発生してしまう」として学部を置かない
大学院大学にする事を提案したものの退けられ
[3]、文部大臣時代には戦後の人心の荒廃と受験競争の激化を憂慮して
1953年に『
国民実践要領』を作成
[4]して
道徳教育の必要性を唱えたところ、
日本社会党などの
野党や
日教組から「反動的な
修身教育の復活だ」と糾弾された
[5]。獨協大学創立にはこうした時流に対する天野の抵抗の意味もあったとされている。だが、やがて
学生運動の嵐が獨協大学にも及ぶようになると、学生達から天野の方針を批判する声が高まってきた。これを受けて
1969年、天野は学長退任に追い込まれた。
その後も獨協学園の学園長として学校運営に関わる一方で、
1973年には教育面で
勲一等旭日大綬章を、学生野球の面で
野球殿堂(特別表彰)が贈られた。1980年に96歳で死去した時には従二位と銀杯一組が贈られている。
墓は尊敬する大村仁太郎の眠る
雑司ヶ谷霊園と故郷の天野家の墓に分骨されて、後に妻のタマ(
1990年に102歳で死去)も同じようにして葬られた。
- 『カント純粋理性批判 純粋理性批判の形而上学的性格』岩波書店「大思想文庫」 1935、復刊1985
- 『「純粋理性批判』について』講談社学術文庫 1980
- 『道理の感覚』岩波書店 1937 のち角川文庫
- 『学生に与ふる書』岩波新書 1939
- 『道理への意志』岩波書店 1940 のち角川文庫
- 『私の人生観』岩波書店 1941
- 『生きゆく道』細川書店「細川新書」 1948 のち角川文庫
- 『若き女性のために』要書房 1948 のち現代教養文庫
- 『如何に生くべきか』雲井書店 1949
- 『人間の哀しみ』弘文堂アテネ文庫 1949
- 『天野貞祐著作集』全5巻 細川書店 1949-1951
- 『教育試論』岩波書店 1949
- 『今日に生きる倫理』要書房「要選書」 1950
- 『真実を求めて』雲井書店「雲井新書」 1950
- 『スポーツに学ぶ』細川書店 1951
- 『学生論』河出書房 1952
- 『教育論』河出書房 1952
- 『人生論』河出書房 1952
- 『日日の生活』中央公論社 1952
- 『私のスポーツ観』神田順治編 河出市民文庫 1952
- 『国民実践要領』酣燈社 1953
- 『随想録』河出書房 1953
- 『忘れえぬ人々 自伝的回想』河出書房 1953
- 『わたしの生涯から』青林書院 1953/新版・日本図書センター〈人間の記録〉 2004
- 『今日に生きる女性の道』要書房「要選書」 1954
- 『日日の倫理 わたしの人生案内』酣燈社 1954
- 『人生読本』要書房 1955
- 『高校生のために』東西文明社 1957
- 『新時代に思う』東京創元社 1958
- 『現代知性全集3 天野貞祐集』日本書房 1958
- 復刻 『日本人の知性11 天野貞祐』学術出版会 2010
- 『私たちはどう生きるか 4 天野貞祐集』ポプラ社 1958
- 『天野貞祐著作集』全5巻 塙書房 1960
- 『医家と教養』金原出版 1960
- 『高校生のために』塙書房 1960
- 『現代人生論全集 1 天野貞祐集』雪華社 1966
- 復刻 『私の人生論 1 天野貞祐』日本ブックエース 2010
- 『カント哲学の精神』学芸書房 1968
- 『天野貞祐全集』全9巻 栗田出版会 1970-1972、復刻版・日本図書センター 1999
- 『教育五十年』南窓社 1974
- 『わが人生』自由学園出版局 1980
共編著[編集]
- 『大学生活』(編)光文社 1949
- 『君の情熱と僕の真実 心の対話』武者小路実篤共著 日本ソノサービスセンター 1968
- カント『哲学序説 プロレゴメナ』 桑木厳翼共訳 東亜堂 1914、のち旧岩波文庫「プロレゴーメナ」
- カント『純粋理性批判』岩波書店 1922-1936 のち旧岩波文庫、講談社学術文庫 全4巻
- ^ 武蔵野市名誉市民
- ^ これは、獨協学園に対しても言えることで、戦後の1947年に民主化政策に則して「独立協和」を略したものとする「独協」に校名表記を改めたが、6年後に保守的なOBらの反発で元に戻される事になった。この時、再改称に反対した少数派の中に校長の天野がいた。天野は古い戦前の日本には戻りえないこと、国家との過度のつながりが学校そのものの経営危機を招いた原因であることから、その再出発の証として「独協」の名称に拘っていたのである。そのため、再改称後も天野は「獨協」という字は用いず、終生「独協」と表記した。
- ^ しかも、東京大学側は一高の統合を画策し、天野の抵抗にも関わらず、1950年に統合されることとなる。
- ^ ただし、実際に作成したのは高坂正顕・西谷啓治・鈴木成高であり、天野はこれをまとめたに過ぎない。3名はいずれも西田幾多郎の系統をひく京都学派の中心的存在であったが、作成当時は公職追放中であったために極秘に執筆された事情があり、それが公表された場合の反響を考慮して、天野の単独著作の体裁を取ったとされている。
- ^ 天野は戦前の国家のみを重んじて個人の尊厳を踏みにじった軍国主義的な愛国心は強く否定したが、同時に戦後の個人のみを重んじて国家を省みない愛国心否定論に対しても強く反発した。天野は国家を自己存在の母胎と自覚して、自己の使命・理想に邁進させるのが愛国心の本来の役目であるとして、その代表的愛国者として内村鑑三・夏目漱石・西田幾多郎・福澤諭吉などを挙げている。なお、1950年には公立学校での日の丸・君が代を国旗・国歌として掲揚及び斉唱を最初に命じた天野通達を出している。
参考文献[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]