2022/05/22

意識と本質への道|おどりながらあるく|note

意識と本質への道|おどりながらあるく|note
見出し画像

意識と本質への道

おどりながらあるく

井筒俊彦「意識と本質」は、自分にとって青春の書である。また、生涯かけて挑み続け、読み続ける本なのだと思っている。
出会いは浪人時代だった。東大の過去問という形で、唐突にそのテキストは目の前に飛び込んできた。意識とは外部の対象に向かっていくものであり、その外部の対象をそれと意識するためには、あらかじめその本質が把握されていなければならない、ということを語っていた。
さっぱり意味がわからない。けれど、どこか面白い。よくわからない興味を掴まれて、ずっと印象に残っていた。後日、古本屋でふと手にとったのが岩波の原著で、その文章は序文にあたるものだったのだと知った。
その序文がこれまた衝撃的だった。著者の狙いは、老子や般若経典といったインド中国のおなじみの古典世界だけでなく、禅や日本的哲学はもちろんのこと、イスラム世界の哲学も含め、東洋全体の哲学体系と近代西洋哲学のすべてをスコープに入れて、全人類の哲学の総括し、「共時的構造化」をしようと試みているのだという。なんたる野心。そんなこと、普通考えるだろうか?ひとつなぎの大秘宝を手に入れようとする少年海賊の心意気さながらである。
当然ながら、参照すべき文献や資料は極めて多岐にわたり膨大であることから、この本は自分がやりたい仕事の序文のようなものになるだろう、とのことだった。しかるに、いま書いているこの序文は、自分がやりたい仕事の全体像からしたら、「序文の序文」にあたるのだと、こういうことであった。
自分が一番最初にショックを受けた文章は、その「序文の序文」の最序盤にあたる導入部分であったのだ。それすらもが難解であったわけだし、現に東大の入試問題として取り上げられるぐらいの文章なのだ。この人の知的営為の「序文の序文の導入」ですらも、自分にとっては取り付く島もない岸壁のようなものだったわけで、そういう文章が存在するということ自体に、ただひたすらに畏敬の念を抱いた。
その本は、最初に古本屋で手に入れて以来、何度も引っ越しをしたのだが、決して手放すことはなくて、5年に1回ぐらい、読み返してきた。そして昨夜また性懲りもなく「序文の序文の導入」を読み返してみて、最近得た色々な気づきのおかげか、以前よりも読めている自分に気づいたのだった。

問題意識は、「実存」→「本質」→「名」→「意識」という流れにある。本来、実際に存在している物理的世界には名前などついていない。勝手に人間が、あれは山、これは花と名前をつけたに過ぎない。富士山だろうが高尾山であろうが、「山」と意識できるからには、「山」と定義されるための本質があるはずだ。しかし、古典的な仏教哲学の世界では、そのような本質は、「虚妄」であるとして、徹底的にその虚構性を論じる。
確かにそれは一理ある。
例えば、人間が、何かを「恥」だと感じる。しかし、一体、何が「恥」なのか。それを支える客観的実存は存在しない。あくまで、心のなかに揺らめくなにかでしかないし、その名を与えなければ、知覚すらされないかもしれない。
感覚や感情のような形のないものだけではない。具体的な物、例えば、富士山でもいい。富士山とは、どこからどこまでが富士山なのか。山頂から中腹、裾野へと降って行った先には関東平野まで当然地続きであり、つながっているからには平野もまた富士山の一部であり、富士山もまた平野の一部であるという不思議なことが起きてしまう。生物学における「種」にも似たような話があり、交配可能なものどうしを同一の種だと定義するのが一般的なのだが、博物学的な分類とこれは一致しない。
こういう話をすると、近代的な感性を持つ人間は相当動揺する。足元がぐらぐらする感じを覚える。所与のものだと思っていた認識世界が、実はフィクションだったのかもしれない。しかし案ずることはない。禅者とは、世界を意識的認識論のなかで眺めているわけではなく、言語化され客観的な死物として概念化される前の段階、無意識的認識によって世界を見る。そういう訓練を積むことで、世界の崩壊は免れると、まあ、そういう話が導入部分で展開される。

久しぶりに読んで思ったのが、「定義」や「本質」がやけに万能である前提すぎやしないかということだった。人間の認識の基礎は本当に「本質」にあるのだろうか。人間の認識の基礎が、「本質」にあると考えるから、混乱しているのではないか。龍樹の言うところの、これは山ではない、山でないこともない、山か山でないかということでもない、というような、否定に否定を重ねて「空」を背理法的に証明するようなアプローチになってしまう。悪いのはきっと「本質」への信頼なのだ。
「プロトタイプとの距離」という最近の認知科学における「非・定義的」な認知システムを前提として論理体系を組み立てることで、まったく違う哲学世界が拓けるのではないか。「定義」や「本質」の万能性を疑うという発想が、この、わかったようなわからないような不思議な理屈に風穴をあけることに繋がるのではないか。

この記事が気に入った

井筒俊彦『意識と本質』(9) |三宅 流|note

井筒俊彦『意識と本質』(9) |三宅 流|note

見出し画像

井筒俊彦『意識と本質』(9)

三宅 流
2022年4月14日 14:20

井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】

→Ⅷ章のまとめはこちら

個々の事物を個々の事物としてではなく、その「元型」において把握するということは、事物をその存在根源的「本質」において見るということにほかならない。「元型」は「本質」である。だが、それが深層意識に、「想像的」イマージュとして自己を開示する「本質」であるところに特徴がある。

「本質」としての「元型」は、存在の原初的な型(タイプ)であり、あらかじめ方向だけが決まっているが、それが具体的にどんなイメージとして現われるかはわかっていない。様々なイマージュが現われる。それぞれの文化圏によって、また同じ文化圏でも個々人によって、多くの違ったイマージュとなって現われる。ひとつの「元型」的方向性でつながれたそれらのイマージュ群が、存在を特殊な形で分節し、その分節圏内に入ってくる一群の事物の「本質」を象徴的に呈示する。

このように「元型」イマージュのみによって構成された雄大な(象徴)システムの例として古代中国の「易」がある。
「易」の全体構造は、天地の間に広がる存在世界の「元型」的真相を、象徴的に形象化して呈示するひとつの巨大なイマージュ的記号体系となる。「聖人」の真相意識に映し出される存在世界は、必然的に、一切事物の「元型」的形象のマンダラとして現成する。

『周易』「繋辞伝」神話的太古の聖人たちが、いかにして「易」の記号的体系を作り上げるに至ったかを説明する有名な箇所がある。
…その昔、「易」の象徴体系を作った聖人は、陰陽二元気の相互作用による変易の原理に基づき、その見地から、天地間のあらゆる存在者の真相の幽深にして用意に把握し難い有様を看取して、それを比喩的に形象化する「象」なるものを設定し、それを無相無形の存在リアリティーの形状になぞらえ、それによって事物の「本質」にかたどった(すなわち、本来、形のない事物の「本質」を仮に形象を与えて表した)のである…。
太古、天を仰いでは日月星辰の現れた姿を観察し、俯しては地上の山川草木に存在の範型を看取し、鳥獣の美しい色とりどりと模様、寒暖湿燥それぞれの土地の性質に適合して生育する草木を観察し、近くは我が身体の諸部分を、遠くは様々な事物を観察してその基本的形象を取り、それに基づいて八卦を作り、逆に八卦によって、全存在世界を支配する霊妙深遠な宇宙的明智の働きに通達し、また万物の真の情態を類型化することができた、と。要するに一切の存在者を、それらの「元型」的「本質」によって類別し秩序付けた、ということだ。

「元型」イマージュの発生、展開メカニズムを、ここで深層意識の構造を表すことによって説明してみる。
まず意識の層をA→B→Cと分ける。
Aは表層意識。我々の日常的意識。
Bは深層意識。言語アラヤ識の領域。集団的、文化的無意識の領域で「元型」の成立する場所。
Cは無意識の領域。Bに近づくにつれて次第に意識化の胎動を見せる。

そしてAとBの間に中間地帯Mを設定する。
Mは「想像的」イマージュの場所。「元型」から様々なイマージュとして生起する場所。
意識の表面から深い方向に向かって「A→M→B→C→意識のゼロポイント」という構造になる。

「元型」イマージュは、言語アラヤ識の領域(構造モデルのB)に発生する。
我々の内部で言語アラヤ識は絶えずいろいろなイマージュを生み出している。その多くは経験界に実在する事物のイマージュ。例えば花とか木とか机、などのように、外界に対応物を持つイマージュである。大抵は経験界の現実の事態に刺激されて発生し、そのまま直接に表層意識の(構造モデルのA領域)に上昇していって、そこで事物の知覚的認知を誘発する。
これに反して「元型」イマージュは原則として、外界に対応物を持たない。例えば神話の主人公として活躍する超人的英雄のイマージュは、現実の人間に間接的、素材的には対応しているが、直接的にではない。仏教のイマージュ空間に咲く花は、現実の花に「似ている」だけであって、現実の花のじかのイマージュではない。だから、「元型」イマージュは、言語アラヤ識から生起しても、経験的現実の世界に直結する表層意識まで上がっていかない。いわば途中で止まってしまう。その途中の場所がM領域である。
意識のM領域こそ「元型」イマージュの本当の住処。天使、天女、餓鬼、悪霊、怪物、怪獣どもがこのイマージュ空間を満たす。それらの大部分は表層意識には現れてこない。たまたま現れれば、幻想になってしまうだけである。あるいはチベット密教の専門家・ラウフの言葉を借りれば、表層意識にまで浮かび上がってきて、そこで記号に結晶したのが「シンボル・象徴」となる。

それでは、「元型」イマージュが、その本来の場所である意識のM領域において果たす役割は一体どういうものか、またそれらはこの領域において、どういう性質を持ち、どういう構造を示すのか。これが次に論じられる問題である。

井筒俊彦『意識と本質』(8) |三宅 流|note

井筒俊彦『意識と本質』(8) |三宅 流|note

見出し画像

井筒俊彦『意識と本質』(8)

三宅 流
2022年4月10日 11:29

井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】

→Ⅶ章のまとめはこちら

前章では無分節的に、直接無媒介的に事物と対峙し、事物を無「本質」的に見るあり方を、禅を例に触れた。

しかし、この本の本筋は、普遍的「本質」・マーヒーヤを単なる抽象概念ではなく、濃密な存在感を持ったリアリティとして実在するものとしてとらえ、その実在をどの意識の層でとらえるか3つの類型について語るところである。1つ目については四章のマラルメ、宋儒を例に述べた。この章では2つ目の類型…「元型(アーキタイプ)」的本質論、すなわちある種の人間の意識深層に生起する「元型(アーキタイプ)」イマージュの形象性のうちに、事物の「本質」の象徴的顕現を見ようとする立場について語られる。

人間の意識はつねにイマージュを介在して事物を見ている。それは深層意識だけではなく表層意識でも同様だ。目の前に一本の木が立っていたとして、我々がそれを木として認識し、そこに木「の意識」が成立する。実在する木を見ている限り、木「の意識」の成立に参与するイマージュの働きは気づかれない。木から目を背けて、(思い返したり、残像だったりで)我々の意識に木が現れる時、初めて我々はそこに働く木のイマージュに気づく。我々があらゆるものを見るときには、このイマージュを介在して見ている。表層意識、日常的意識においては事物とイマージュが一体になっているのでそのことに気づくこともない。
しかし何らかの刺激で意識が興奮し、あるいは弛緩した時に、イマージュが現実的事物との結合が解かれ、遊離し、日常的意識の世界では見たことのないような異様な光景としてたち現れることがある。日常的意識、表層意識の立場からはそれを妄想とか幻想としてとらえられるが、深層意識からみればそれらは妄想や幻想ではなく、真の意味での現実であり、存在深層の自己顕現なのである。この種のイマージュに重要な役割を見出してきた東洋思想の代表にシャマニズムや、密教などがある。

イマージュ体験における表層意識から深層意識への推移を最も原初的に現しているものがシャマニズムである。ここでは古代中国のシャマニズム文学の最高峰をなす『楚辞』を例に考察する。

『楚辞』に現われるシャマン的実存は自我意識の3つの層、3つの段階からなる意識構造体として考えられる。第一は経験的自我を中心とする日常的意識。第二は「自己神化」の過程において次第に開かれていく脱現実的主体性の意識。第三は純然たるシャマン的イマージュに遊ぶ主体性の意識。

第一の層ではシャマンは一個の常人にすぎない。『楚辞』の主人公たち、特に屈原は並外れた人物。純粋潔白な彼は、不義不正が渦巻く俗社会から疎外され、自らを悲劇的実在として捉える。世俗に対して一点の妥協も許さない廉潔の士。しかしこの意識次元で彼が提起するのは道徳のそれであり、シャマン的主体ではない。

第二の層ではそれに反して、彼の意識は日常的人間の主体性からシャマン的主体性に変貌する。「聖なるもの」に近づくことによって聖化されていく意識の主体的変貌がそこに看て取れる。
人間的主体は人間的世界に住む。だから社会的、自然的現実の具象的事物も彼の視界に入ってくる。彼の見るものは神々や妖鬼や飛竜のような超現実的存在者だけではない。聳える山、流れる水、咲く花…日常生活において、意識の第一段階の働きを通じて慣れ親しんだあらゆるものが、第二段階に移った彼の意識の目にも映る。だがこの状態でのシャマンは、日常的人間主体ではなく、半ば「神化」された意識状態にあり、彼の意識に映る山や水や木は名状しがたい幽邃な様相を帯びる。彼の目は神を眺める人間の目であって、神の目ではない。だがそれでも彼の意識はシャマン的脱自状態にある。『九歌』の「湘婦人」では、湘水の女神が恋い焦がれるシャマンの設けた祭壇には降下せず、湖水を隔てた北の渚に降りる。遠い彼方に光る女神の姿。「神人合一」の期待は外れて、シャマンは人間的実存の次元に残り、彼の心は暗い悲しみに翳る。「嫋嫋と秋風吹き渡る洞庭湖は一面に波立って、岸辺の木の葉が風に散る」そんな彼の意識に映った自然は普通ではなく、半ば「神化」されたシャマン詩人の意識に映った心象風景なのだ。トランス状態にあるシャマンの意識には山や水などの普通の事物も、経験的事物とは無縁な神々や天人や妖鬼と全く同資格で登場し、全体が茫洋とした幻想風景として現われる。

そして第三の層においては、第二の層のように経験的事物から想像的イマージュに変貌するプロセスは必要とされない。ここでは山があっても百神の住む崑崙山、樹木も高さが数千丈にも及ぶ世界樹のように、最初からシャマンの意識そのものが純然たるイマージュ空間なのである。経験的世界の事物の重みを感じさせるものは一切ない。身の丈千丈の巨人、全てを溶かし尽くす十個の太陽、千里の流砂、象のような赤蟻、三つ目で頭は虎、体は牛の国王が血の滴る手でつかみかかってくる…無防備な魂には多くの危険が潜む。しかし本物のシャマンは人間の魂にかけては偉大な専門家、魂の旅するイマージュの国の地理を隅から隅まで知っている。一時的に肉体を脱したシャマンの意識主体は、天空を馳せ巡って、この世ならぬ「遠遊」を心ゆくまで楽しむのである。

こうしたシャマンの意識次元に現われるイマージュは、本質的に「神話創造的」である。しかしそこからさらに哲学的思惟を深め、そのイマージュ空間を雄大な哲学的世界観にまで展開させたのが、莊子であり、空海の密教的仏教であり、ユダヤ教神秘主義・カッバーラーであり、イスラム思想におけるスフラワルディー系の照明哲学などである。莊子の冒頭で描かれる、背の広さ幾千里を超えた鵬などは哲学的象徴性に満ち、空海の金胎両部マンダラは「想像的」イマージュ空間の構造的呈示である。

イスラム神秘主義のスフラワルディーはこうしたイマージュ空間を「形象的相似の世界」と呼び、想像的イマージュをアシューバーハ・ムジャッラダ…「物質性、経験的事実性を離脱した、似姿」と呼ぶ。経験界の事物に似ているけど、物質性を欠くのでフィジカルな手応えがある事物ではなく、それらとは似て非なる存在者、を意味する。
これと同じ観点からスフラワルディーは「似姿(アシューバーハ)」を「宙に浮く比喩」とも呼ぶ。存在次元の「移し」によって、物質的、質料的な経験界の存在次元から、非質料的存在次元に「運び移され」て、そこで異次元的に、「宙に浮いて」いる存在者である。日常的意識で見る人にとっては質料性を欠く「比喩」は物質的事物の「似姿」であり影のような存在なのかもしれないが、スフラワルディーにとっては、我々のいわゆる現実世界の事物こそ影のような存在に過ぎず、「比喩」や「似姿」のほうこそ存在性の真の重みがあるのだ。「似姿」や「比喩」はこれまで述べてきた「イマージュ」であるが、単に心に浮かぶ事物の映像ではなくて、脱質料的な存在次元に現成するれっきとした実在なのである。例えばスフラワルディーが「光の天使たち」について語る時、彼にとって天使は単なる心象ではなく、存在の異次元、彼の言う「黎明の光の国」に実在するのである。

想像的「イマージュ」は深層意識的イマージュであり、深層意識領域において「元型(アーキタイプ)」の形象化として、事物の「元型」的「本質」を深層意識的に露顕させるのだ。