2023/03/01

世界革命実践の書

世界革命実践の書

世界革命実践の書
HOW TO CONSTRUCT THE WORLD REVOLUTION

QUINTA-FEIRA, 5 DE NOVEMBRO DE 2009
1.零位よりの理解を
私は今これについて、全貌を述べる時機ではないように思います
これは現在の社会機構や、観念・思想と甚だしく掛け離れ、覊絆を脱し、或いは逆調を呈し、政治・経済・法律・道徳・慣習等を根底から剔抉・改訂するもの であり、多くの学説・理論・実績を一応棚上げして、判断しなければ、不可解、又は危険視される部分が相当にありますから、主観を捨て切れない人や、曲げら れた間接的資料によるものや、真髄を究めないで、皮層・断片的観察から生ずる誤解をする人々よりの非難・攻撃、時には迫害の及ぶことさえ予想されるからで す。
そうした理由から、誤解・混乱・障碍を避けるためにも、叙述が相前後したり、主要な部分が抽象的になる場合があり、セッカチ(急進)な人には物足りない 憚いがありますが、状勢の展開につれて、機を見て断続的に、具体的に、解説しましょう。理解ある協賛により、実践し乍ら完結出来れば幸いとします。
ÀS 16:05 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: まえことば, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
2.宗教に非ず
山岸会の行為を、宗教だと早合点する人があります。会員中には宗教家や、神仏或いは何かを信仰している人が居ることと、本会の趣旨(山岸会趣旨参照)と、 それ等の目標と相一致する部分が多く、似ている点もあり、理想社会には精神的な面も大きな要素として、それに言及する関係から、文章や言葉のうちに、宗教 や修養会等にも多く用いる字句が、相当はいるために、先入主観から、宗教臭味を感ずる訳でしょうが、宗教に使っているからと言って、その字そのものは必ず しも宗教のものでも、修養会の専用語でもない筈です。
行為そのものも、よく似た処がありますが、真理を究め、間違いを正し、真の幸福社会を招来するものは、宗教や信仰の力のみに限らないでしょう。
そうした印象が影響すると、正しい解釈が出来なくなり、誤りへの出発になります。
本会では神仏や、宗教・思想・信仰等については、各々の自由にまかせ、そうした問題に関しての批判は、研鑽会等で採り上げることもありますし、私として は割り切って居るつもりですが、会としては、凡ての事柄について、衆知を集めて、よく検討し、最高・最善・最終的なものを見極めて、それを実践し、理想社 会の実現を期するもので、修養会や、宗教的なものではありません。教えるよりも、哲学的に、現実的に、真理と方法を探究し合って行動する、真理実践の社会 活動体です。
ÀS 16:00 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: まえことば, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
3.自己弁明 −人物を切り離した批判を−
 信仰生活に入り、神仏等を信奉している人の言行は、概ね正純で社会の浄化に役立ち、自他の幸福感を培っています。
 併し又一面観察が、善意的に傾きやすく、ために時折私迄も特別人間扱いされて身の置場に困り、挨拶の言葉に窮することがあります。
 本当は次に来る社会では、人並位の自信はありますが、到底尊敬に値しませんものですし、今迄の社会通念から観ると、脱線・反逆・恩師らずの不徳漢で、誇大妄想狂の食言屋として、ひとまえへ出られる資格なく、まして人に教え導く柄でない事を自認しています。
 私の場合、実質以下に、悪しざまに見られる事は、却って先の楽しみがある位で、襃貶を気にしませんが、神がかり的に見損ったり、よく見過ぎられると、ただの人間以下の現実に、期待外れの危なさがあり、物事の判断を誤る原因ともなります。
 私の言動や諸説や、このヤマギシズム社会構想に対しても、私は私なりの考え方から、確信を持って行なって居る迄ですから、これを以て最上決定的なものと思い込まずに、又貴方の今持って居られるものと、一致しないから駄目ともしないで、相体者と、条理とを、切り離して考察される事が大切で、人物を通さずに、盲信しないで、厳正な批判の眼で検討し、容赦なく叱正され度いです。好意や悪感情等、自己が混じると、純な結論が出ないです。
 私に対してインチキだとか、売名だとか、政治的或いは思想的か、何か奥に野心がありそうだとか、金儲け会だ等と云いふらす閑人があり、その宣伝効果から、会に関心を持って寄って来る人も、日に多くなりつつあります。会に来て実態を知って、宣伝した人の人柄や、程度の低い事や意図が初めて判り、ミイラ取りがミイラになったと、即時入会してかえって深入りする人が多いです。
 そう云う噂を吹聴する人の頭の程度や、人格の低い事は間違いはないが、中には私の深奥にあるものに対し、何かを、それとなく感じて怖れをなしているらしいのもあります。金儲けの会だとは、よく云いあてています。会そのものは一銭たり共儲けませんが、又会の何かの係役をしている人も、会から今迄に一銭も給料を貰っていませんが、会員には物心共に、大いに儲けて貰うための会に相違ありません。
 私は政治に対しては、内外共に重大なる関心を持っています。又自ら地球上に生存する一人としての政治意欲も、大いにありますが、政談やラジオを聞く暇が殆どなく、自慢にはならないが、三ヶ月間新聞を見なかった事もあり、見たり見なかったりの世間知らずで、貧乏人は麦を食えで名を成した池田蔵相が、疾くに罷めているのも知らずに、講演会で喋って笑われた程で、今の大臣でバカヤローで有名な吉田さん以外は、本当に知りません。
 そんな風で頭は悪く、今日足下の事では、時代にずれている上に、私には私の柄相応の仕事があって、政界等に一歩も出る自信も時間も持ち合わせていないのは事実で、野心があったら、十年前の機会に出た筈で、今の政治構想に期待して居りませんから、この点に関しては、やぶにらみでしょう。
 又私の思想について憶測される人もありますが、私として、青少年時代より一貫して持ち続けているものがあります。ハッキリした思想であり、時代に相容れかねるものがあることも、知っていますから、私はそれを強引に暴力で押し付けよう等、考えた事は一度だってありません。又それは暴力では絶対に成就しない事も、自覚して居りますし、今全部を発表する時機でもなく、時間的にも不可能な事で、歿後に気付いた人達によって、二百年以内には完成される予想の下に、余命のある間に書き綴っているのですが、たまたま私の稲作から養鶏を見付け出した人に引き出され、伝えられた稲作なり養鶏法そのものが、ヤマギシズム社会の縮図で、自然私の思想を感じとった人々の思想と、相一致する多くのものを見付け合い、相共鳴して出来たのが、山岸会なり山岸式養鶏会で、自然と人為の調和を基調とした思想です。
 私の書いたもの、言ったもの、これから出すものによって、危険な思想かどうかは、零位哲学的に、真理の究明が出来る人には、およそ見当がつくと思います。インチキ云々については、説明するさえ時間が惜しいです。そうかどうかは、各自の瞞されないよう警戒し乍らの観察に、一任しておきましょう。時が答を出しますから。人徳が無いからこんな無駄書きするのです。
 主観を捨てての一言で済まされないものを感じて、繰り返して置きましょう。
 私は私としての理想を描き、理想は必ず実現し得る信念の下に、その理想実現に生きがいを感じて、明け暮れる日夜は楽しみの連続です。家が傾こうが、債鬼に迫られようが、病気に取り付かれても、将来誤った観方をする人達から、白州に引き出されようとも、先ずこのよろこびは消えないで、終生打ち続く事でしょう。欠点や間違いに対しては、正面から指摘される事を待っています。
ÀS 15:59 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: まえことば, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
4.技術出し惜しみの批難に対して
 私の構想している社会機構なり、真理と考えている事でも、前述の事情から、今全部を発表しかねていますが、技術や経営面についても、矢張り小出しにしなければならぬ事情があります。
 これについて随分批難がありますが、なぜそうするかについて、私の意図を述べましょう。
 技術や経営上の秘訣は、修得すればその人の心の善悪にかかわらず、一応は役立ちます。
 一挺の刃物に譬えますなれば、それの真当の使い方を知らない人にも使えます。子供や狂人や白痴の人が持つと、悪意はなくとも大切な樹を伐ってみたり、人を傷つける事や、自分で負傷することもあります。
 其の他、これも心の狂った人の部類にはいりますが、他人の迷惑は構わずに、自分の今日のみを考える人が持てば、他から刈り集めたり、脅迫したり、殺傷したり、又は怨念を晴らす道具にも用いましょうし、自殺にも使えます。
 又よく切れる刀は、よく人を殺し得ます。私共は争いのない、ひとと共に栄える幸福社会を目指していますのに、それをたたきこわし、自分のみの繁栄のために用い、社会に害毒を流し、当人も苦しむ結果になるような事をする人には、使って貰いたくないのです。
 他より先に抜け駈けで儲けようとしたり、他より多く技術を身に付けて、自分の地位を高め自慢の道具に使ったりする、われひとりの人に利用されたくないのです。自分が先取りしてからでなく、自分より遅れている人、弱い人の手を曵いて誘い合い、待ち合わして、同じ歩調で進み度いのです。
 技術・経営法を向上さすための研究は決行で、大いに進歩させねばなりませんが、それを実用に使う場合は、乏しき人を引き上げて、真の幸福目的(不幸な人の無い社会)のために利用したいのです。
 私としては出し惜しみと見られているよりも、又損を繰り返している人を見過ごす苦しさからも、早く一般に公開したいと思いますが、「理想郷実現のために」を思えば、口先でのみ、われ、ひとと共にを叫んでいる人や、(山岸会々旨参照)今はわれ、ひとと共にと思っていても豹変しそうな人には、先取りされ度くないのです。
 技術が向上し、物のみが如何に豊富になっても、真の幸福社会は到来しませんし、高い所の土持ちや、一部の人のみの物欲に加担する気になれないのです。
 この会は、自他及びその子孫が繁栄し、怒りや争いのない社会気風をつくる会ですから、この理が解り、自分も栄え、会に相寄って、拡充発展に協力する人々に活用され度いです。
 技術の一端を覚えて自分の利益のみ考え、幸福社会をつくる会に協力出来ない人や、会に反逆する人には、絶対に伝えない事にしているのです、初めは迎合して来て、会得しかけると理想社会も何もない、会が潰れようが、犠牲者が出ようが、かまわずに人を突き倒してでも、近欲に狂奔する人に対しては、口が堅くなるばかりです。
 これは一見狭量に見える行き方ですが、今の世相は、ここまでしなければならぬ有様で、汽車や電車の乗降・座席の争いや、商取引にも、共同事業にも、国際利害関係も、自分さえよかったらの、禽獣にも劣る浅ましい気風が瀰漫し、これを正すためにも、獣性の助長は絶対に出来ないです。
 私はそれ等の人や、甘い考え方の人達から、何と批難されよう共、社会人類を愛し、協力社会に尽す人達の繁栄に協力するつもりです。
 そうして親和・協力の人達が栄える事は、利己的な人が自滅・解消して、相共の人に更生することになり、親愛の情に充ちた幸福社会が訪れます。
ÀS 15:58 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: まえことば, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
5.同調の人々と共に

この社会形態は、現在迄に唱え書かれている、理想社会と頗るよく似ている点と、ある点迄の半永久並行線と、全く正反対の部分があり、観方・行き方・言動に対し、一時は批難する人が現われるやも計られませんが、批難する前に、直接真相をよく検べてから、批判を加えられますなれば、私は如何なる批判をも、よろこんで聴き、誤りは速やかに正し度いと思うもので、既にこうした目的のために、幸福研鑽会と称する機会を設けて、それに力め各々の主張を話し合って、真実のものを見付け出し乍ら、同じ考え方で目標を等しくする人達と共に、相協力して実行しつつあります。
力を多く結集する程早く、立派な理想社会が実現しますから、同調の人々の参加活動を切望します。
ÀS 15:57 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: まえことば, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
6.山岸会と山岸式養鶏会との関連
(1955.8.25.山岸式養鶏会は山岸会の一部門として山岸会養鶏部と改称)

 山岸会と、山岸式養鶏会とは、混同され易いが、既に会の趣旨に明示されています如く、山岸会はその趣旨に掲げている、理想社会を目指すもので、いろいろの立場から、いろいろの方法手段を以て、実現を図っているのです。
 商業からも、工業からも、学園・教育・宗教からも、官庁・政治面からも、社会事業等も勿論であり、農工生産面・消費面及び凡ゆる側からも、勤労職員も経営者も、子供も老人も、男女の別なく生ける者皆関連あり、何からでも、誰からでも方法手段を以て、理想社会を実現することが出来ます。
 山岸式養鶏会も、そうした目的達成のための一環として、それを具現化する役割をなすもので、養鶏そのものは、全体経済面の一小部分に過ぎず、社会構成の上からも、一般から見て関心は薄いのですが、こうした省みられない一隅からでも、社会全体を動かす始動力となることが出来るのです。
 本養鶏会は、ただ鶏を飼って、経営経済を良くするばかりが目的でなく、社会機構を革新し、社会気風を改善して、物心共に豊かな理想社会を創り、人類の幸福を最終目標としておりますから、技術の向上・普及、経営の協力と相互援助、共栄精神の具体化等、行動方向が皆その目標に集注し邪道へ外れないよう心掛け、機構・制度もそれに合致し、養鶏法そのものが、及び会そのものが、既に理想社会の縮図に組み立てられてあります。
 この養鶏法を間違いなく行ない、会の真目的に副って活動することが、即ち山岸会の趣旨を実践することになり、世界人類に幸福社会を齎すことになります。
 山岸式養鶏会は、山岸会の一つの組織体で、密接不離の関係にあり、単に養鶏のみ切り離して経済行為に終ることなく、自他の物的、精神的、繁栄に資するものです。
 云う人はあっても、行なう人は稀で、云う人が如何に多くても、行なえる人が多くならねば、画餅・口頭禅に終ります。
 私は会に対して特別の何物でもありません。ただの一会員です。至らない点について叱咤矯正して下さる事は、本当の親切だと有難く思います。
 そして真に実行出来る人々よ、同僚横の人として、堅く両手を繋ぎあって、邁進しようではありませんか。
 全世界人類の永遠に揺るぎなき
           真の幸福のために。
             1954. 11. 22.
ÀS 15:56 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: まえことば, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
第一章 概 要
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ÀS 15:55 NENHUM COMENTÁRIO: 
1.真実の世界
 ヤマギシズム社会を、最も正確に、簡明に、云い表わすものは「真実の世界」であります。
 幸福社会・理想郷・天国・極楽浄土等呼ばれるものも、言葉の上では、これと同じ意味を寓した場合が多いでしょうが、実態においては、他の云われる社会との相違は、極端なものがあると思います。
 併し又私も、真実の世界の謂として、便宜上それ等の言葉を用いますが、仮や、ごまかしや、空想的なものでなく、絶対変わらない一つ限りのものを目指しています。
 人間社会のあり方について、一つの理想を描き、それが実現した時、又その上に、次の理想が湧いて来るなれば、先のは真実の理想社会で無かったと云う事です。
 幸福についても、真の幸福と、幸福感とがあり、真の幸福は、何時になっても変らないものであるが、幸福感は、場合によりでありまして、或る人には、或る社会では如何にも幸福に思っていても、他が迷惑したり、中途から不幸に変るなれば、真実の幸福でなかった事になります。
 不幸な人が一人も居ない社会、何時迄も安定した幸福社会が本当のものです。
 誰の心のうちにも、社会組織にも、うそ、偽りや、瞞着の無い事が肝要で、判らない事を、架空的な、こじつけ理論で組み建てた社会等は、やがては崩壊する惧れがあり、真実の世界ではありません。
 物財を求めていたものが、財産を掴んだ時や、地位・名声を望んでいた人が、それを得た時、無上の幸福を感ずることがあったとしても、それが安定した真実の幸福と云い切る事は出来ないでしょう。
 又何一つ病気にもならない健康体で、働けてあることは、幸福条件の一つとは云えましょうが、これも場合によると、病身の人より不幸の事もありますから、真実の働きをしているかどうかを、知らないと意外の事もありましょう。
 農業者が真の農人でなかったり、商人が真の商人でなかったり、政治・教育・宗教家が真のそれでない事もよくある事です。工場等でも、組織そのものにも、間違ったものがありますが、各々の立場において、真実、それに自己を生かすことによって、闘争等絶対に起るものではなく、却って工場は繁栄し、自己を豊かにします。妻は妻、夫は夫、子に対しての親は親として、間違いない真の生き方があります。
 各々真実の自分を知り、それぞれが真実の生き方の出来る社会を、ヤマギシズム社会としているのです。
ÀS 15:55 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 第一章 概要, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
2.かつてない新しい社会
 過去より現在に至る、人類社会のあり方には、幾多の変遷があり、多くの先人達が、真理の探究に力め、之を唱導し、その普及を図り、自己を滅して途を拓き、世人の苦悩を救い、正浄の人生を得せしめようとし、又それの伝導に、一身を捧げた人々も限り無く、時には新旧思想・観念の対立から、暴力闘争等により、莫大なる犠牲を払った悲惨事も、度々繰り返されて来ました。
 併しその何れもが現在迄には、完成されて居らず、今日なお人類間の紛争が絶えず、希求する幸福社会が実現していません。
 こうした事実は、その何処かに必ずその原因があり、これを取り除く事が出来る筈です。
 私は少ない時間や、劣った知能の関係で、過去の主張や学問・理論については、深く究めて居りませんから、それ等を論じ、比較することが出来ませんが、未だ幸福社会が、この世に完成されていない事実を事実として、私は私の知っている範囲において、かつてない新しい社会のあり方を、組み立てたものです。
 私はこれなら、先ず真の人間には当て嵌まる真実社会であり、如何なる階層の人も、立場の人も、冷静な検討をされるなれば、正しい判断が下されて、闘争も犠牲も、他に迷惑も掛けずに、同じ考え方の人達と共に率先協力して、案外短期間に、実現する事を確信するものです。
 これは私として、未だ他に行なわれている事を知らない社会実態であり、現在私の周囲に行なわれている殆どの現実が、根本的に変ることで、人倫・道徳・経済・社会・政治機構等も形質共に大転換される事は当然で、今日の世界中の紛争等は、児戯に等しく、狂態そのもので、政治活動等も、注目に値しない無駄働きで、目に角たてて争ったこと等は、実に愚劣な行為であった事が判明します。
 国際会議の殆どは、我利我利の突っ張り合いで、大国の代表の言動でも、醜怪見るに耐えないものがあります。次に来るものは、かような見苦しい間違い事は根を絶ち、未だかつてない和気靄々の新しい社会です。
ÀS 15:54 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 第一章 概要, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
3.法で縛らぬ社会
 宇宙自然には、人間の力で如何とも成し難い一線があります。それさえも何とかして取り除き度いと願う、自由欲求があります。それにもかかわらず、尚その上に人を束縛する法律を人間が設けて、狭い枠内で身動きも出来かねる不自由な環境を造って、殊更に面倒にしています、事毎に権利だ、義務だ、越権だと、囲いを厳重にし、重荷を負わす窮屈さは、自縄自縛で、自らを苦しめる人間の馬鹿さを暴露したものでしょう。余りにも法律が多過ぎ、縛る人も、縛られる人も、ますます忙しくなりそうです。
 法律は松明のようなものでしょうか。今の社会は悪事のわくのに都合のよい、暗黒状態にしておいて、タイマツ持ちにタイマツを翳さして、悪人を縛る手のこむ仕組みだと云えます。
 タイマツは消耗し、火傷もします。火災も起しましょう。タイマツ持ちや、捕縛人足の手当や、一方住宅難で困り乍ら、立派な鉄格子の鉄筋建物に獄卒迄付けて、租税を浪費する仕掛けになっているようです。
 かような仕組みは、根本的に間違っているもので、悪を矯め直そうとしても、今の社会に戻せば二度三度、悪が重なり、大きくなり、又次々と新しく発生します。蛆虫が生くようにしておいて、蝿を追うようなもので、次の世界では悪の起る原因を無くし、権利・義務のみで、凡てを片付けるハエタタキ法律書は空文になります。
ÀS 15:53 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 第一章 概要, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
4.機構と人情社会に
 そうして、人を縛る法律万能主義は消えて無くなりますが、それかと云って、原始的無政府・無規範社会にしようと云うものではありません。
 水には水の、流れ、溢れぬ、水路を、人には人の、自由に安全に通れる大道を設け、自動的に円滑に、他に迷惑を与えないで、各自の自由意志と、能力に応じた行動が出来る仕掛けにします。無軌道では混乱し、事が運びませんから、真の人間向きの、間違いのない機構・制度を確立します。
 併しそうして立派な道路機構が出来ても、同じ道を行く人の間に、他の人を跳ねとばし、白眼で見交わす冷たい気分があれば、決して愉快な人生旅行は出来ません。又道を尋ねられても自分は自分、ひとはひとと、他に関せずの個人主義も、実は社会が自分一人限りのものでなく、必ず何かで他の人との関連があり、人間は相対的であって、吾一人行かんも程度の差こそあれ、帰結する処、他との保ち合いで人生が有意義になります。本当に人間は一人になり切れるものでなく、そこに人の情が自ずと湧いて来るものです。
 道連れ話相手があると、遠路も忘れて愉快に過ごし、汽車や船で長旅すると、未知の人とも何時か言葉を交わし親しくなり、路傍で見かけた丈の間柄でも、遠い他国で相会うと、近親感を覚え語り合うようになり、純な子供達が、特に早く馴染むのは自然の人の姿でしょう。世の鬼のように云われる冷血漢でも、家庭ではよき夫であったり、やさしい父として心中に涙することもあります。
 理想社会には、「親愛の情が絶対条件」であることは、会の趣旨として強調している如くです。
 即ち権利や、義務や、機構・制度や、身体の健康・物の豊満のみでは、解決出来ないものがあります。しかも幸福条件には、心の豊かさが主要部分を占め、幸福なる人生を理想とする社会構成は、人間愛の基調の上に組み建てねばならないです。
 こういう事は、今迄に云い尽されていましょうが、さて実現出来なかったのは、唱えるのみで、方法を持たなかったもの、又は消極微温的なものや、一般普遍性のなかった事等が原因だと思います。これに対し、この会が結成されて、愛と理知に立脚し、最も急速にそれを実現さすために、幸福条件の凡てに、積極具現方式を採用したのです。
 しかし余り人情が出過ぎて、盲愛になったり、譲り合いで事が運ばなくなっても不都合ですから、それを整頓するためにも、大綱的序列例を示す必要はあります。
 社会機構にも水路・道路に比すべきものを設け、何れを通るも各人の自由選択に委し、決してその人の意志を妨げないのです。そして先を争い妨害する人はなくなりますから罰する法律は要りませんが、譲り合いで交通が混雑しないよう、順位丈は定めて置きます。
 これも既成社会観念から見ると美し過ぎて、婦人会の乗車風景の外麗のみを見た、歯の浮くような幼稚な考え方に見えましょうが、案外近い足下に実践方法があり、やってみれば、事実は決してそんなに難しくもないでしょう。差し当り一つやって見せますかな、です。いや既にやりつつあります。
ÀS 15:52 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 第一章 概要, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
5.悪平等を押し付けぬ社会
 自由・平等は、人間社会を組織する原則として、間違いないとするものですが、似而非自由や、悪平等が往々にして行なわれ、真の平等が曲げられ、真の自由から逸脱して居るようです。
 如何に自由と云っても暴逸ではなく、人間としての可能範囲の奔放で、堰堤をきったり、住家に火を放ち、人を傷つけあやめたりすることは、既に狂いから起る間違い事であり、日常の小事のうちにも、気付かぬまま誤った自由の云われ、行なわんとされつつある事が多々あります。
 行ける所へ、行き度い時に行く自由、寝たい時に寝られる自由、ある人は食べ、ある人は食べられない不都合や、食べたくないのに、食べさされる悪平等に妨げられない自由が、真の自由と云えましょうし、そうした自由の社会を目指しているのです。
 平等にしても、誰もが同じ大きさの家に住み、同じ衣服をまとい、同じ物を同じ量たべて、同じ作業をし、又は同一の考え方を押し付けたりするのは、悪平等で、誰でもが、どんな家にでも棲み得て、身に合う衣服を着、胃の欲求に応じて食を摂り、心身が充分に休まる丈眠って、起き度い時に起きる等の自由が、平等に得られる事が、真の平等だとします。或る人々に得られ、他の人に同じ機会を得られない仕掛けは、不平等で、今の社会機構には、こんな不平等が、甚だしく横行している模様です。
 感情を抑圧されたり、職業や、居住地を制限されたりする不平等や、悪平等も一掃して、誰にも同じ条件と、均しい機会によって、各々の個性に適合した環境に生活し、その要求が充たされる社会こそ、正しい社会です。ところが今日未だ、これさえ解決して居ず、大きな根本的欠陥や、不合理面が甚だしく、私共はこれの訂正に着手したのが、本会の組織及び活動となって、表面化して来たのです。
 口に自由・平等・人類の幸福を唱え乍ら、現状を肯定又は看過し、これを行ないに現わさねば、云わざるに如かずです。
ÀS 15:51 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 第一章 概要, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
6.差別待遇のない社会
 同じ太陽の下、この地上に生れた人の間には、本質的に差別があろう筈がありません。が現在も尚人種的、系統的、或いは宗教的偏見等から、甚だしい待遇上の差別、精神的侮辱が行なわれています。同種同民族が同じ地域に棲み乍ら、賎しめられている人が随分あります。
 成る程そうした事になる原因は、双方に相当あるのですが、その原因は取り除く事が出来ますし、検討すれば全面的に解消する方法があり、又そう難事ではありません。
 次の社会では、現在の不合理な国境線はなくなりますが、今の一小国内の同種族の裡にさえも、因習的差別が根強く、法律でも平等を定められて久しきに亘るも、融和は容易に到りそうもなく、厳然と水に油の弊風が残り、積極方法に出ない限り、何時迄この醜習慣が続けられるか、凡ゆる努力も無効に見える状態にあります。
 併し私共では、この問題も必ず解決し得る成案を持って居りますし、理想社会には、左様な不愉快の人を一人もなくし、世界中から劣等感や優越感、差別待遇等を無くします。
ÀS 15:50 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 第一章 概要, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
7.貧困者のない社会
 貧乏とは、金銭物財のみを指すものではなく、心の乏しい事をも意味し、心の貧乏人を、一人も無くすることに努力しなければなりません。即ち学問や、知恵等の無形財は、他に伝え与えても減耗しませんから、多く持っている人は、少ない人に大いに与え、高い豊かな心の持主は、充たされない心の人に、心の満悦を得て貰う事です。
 有形の物財となると、多く与えれば多く減りますから、奇特な人か、次の世界や、無形の大きさを悟った人等の他は、与えたくないのが普通の考え方でしょう。
 次の世界では、物財を個々に貯え護る必要がなくなり、通貨は余り持てなくしますし、持たなく共、豊かに生活が出来ますが、それまでの間、今の経済機構や社会心理では、与えなさい、下さいと云っても、それでは皆差し上げましょうと云えないです。
 併しこれでは貧富の差が甚だしく、物質面からでも、反目・闘争社会が続きそうです。
 それを激化しないように、社会主義社会政策を採ったり、高いものの引き均しや、共有経済組織を強行したりされつつあります。
 私は高いものを奪い取ったり、崩して引き均したり、伸びる者を抑制したりしないで、又納得もささずに暴力を行使して犠牲者を出したりし度くないのです。
 私は低い者を、引き上げる手段を採り、持たない人が持つようにします。これなら持っている人に頼まなく共、奪い取らなく共、承諾も、犠牲も、反対も、抵抗もなくして解決し、一人残らず皆富み豊かになりましょう。持てる人を泣かさずに、貧乏人を喜ばします。
 物欲の人は物を与えられると非常に喜びます。貧乏人のうちには、物を貰う癖が付く人があり、困ったら貰えるものと思うこと、救うて貰うことを、当たまえのように甘えてしまいます。私はこんな人に与えることは、依頼心を助長するのみで、その人のためにもなりませんし、与える方も続かないでしょうから、甘い親切は禁物だと思います。
 そこで私は目に見える有形物を与えるよりも、無形で、その人の自立に役立つ方法を授ける方式を採り、適材を適所で生かす事が、その人を豊かにし、幸福にするものだと考えて居ります。
 肉体労働の出来ない不具・病弱・老人・幼児を抱えた寡婦等に対しての、物心の保護は当然ですが、それと同時に、自分を支えられる方法を与えて、幸福な生活に、真の生き方を見付け出せるように仕向け、物心共に貧乏人を一人もなくします
ÀS 15:49 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 第一章 概要, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
8.幸福一色 快適社会
 ここに云う幸福の意味は、不幸に対しての対句ではなく、人生は快適であり、幸福一色であるべきを、真の人生のあり方とする、私共の人生観から云っているもので、万一不幸と感ずる事があるなれば、それは何処かに間違いがあり、その間違いの原因を探究し、取り除くことにより、正しい真の姿に立ち還えることが出来るのです。
 幸福が真実であり、人生はそれで当りまえの事であって、不幸は間違いです。私は幸福と云う言葉を、人生の真の姿であると云う意味に用いています。不愉快な人生は間違いで、人皆快適に暮らせる社会が本当です。うき世等と云って憂鬱は人の世の常とし、それから脱却し得ないかの如く観念づける事も、正しくありません。
 真の人間は、生命を宿して親から生れ、身体に生命が宿っている間が人生であり、やがては生命を失ない生活が止まるもので、その生存期間中に、いろいろな行為をします。
 この行為は、人によって皆同じでなく、自発的の場合と、他からの条件によって意識的に、或いは無意識的に進行します。その間の行為の結果が、一時的に終る事や、永く残るものもあり、役立つ事や、案外間違っている事もあり、残ったものが完全に消滅し終る迄は、その人は死んでも、その行為は生きている理になります。
 人間に限らず他の動物も、何かの行為をして、何かを残しますし、殆どよく似た生活環を営むものもあり、人間の持たないものを、他の動物が持っているように、人間も亦、他の動物の真似られない特徴を具えています。
 又人間のうちにも、それぞれ異った能力、特技があり、他の及ばぬ優れた働きが出来ます、何事によらず良く出来る人や、他の事は人に劣っているうちにも、ただ一二の点で最も鋭敏な人や、善良な資質を具えている人もあり、皆それぞれの持ち味によって、社会的持ち場や生き方も異う訳で、自分に最も適した、他に真似の出来ない生き方をすることが、一生を意義あらしめた事になります。
 先天性のもので、一応如何ともなし得ない点は別として、環境的に伸ばし得るものは、大いに伸ばし、一番必要とされる役割に就く事が本当です。
 力のないものが重荷を負うことや、物覚えのよくない人が、記憶力の要る持ち場に就けば、苦労が多くて効率が上がらず、快適とは云えないでしょう。男は男として生き、女は女に適した生き方こそ、幸福な人生です。
 それに、他の生物や、物品や、機械や、仕掛けをしておけば自動的に、或いは自然的に出来ることや、薬品で簡単に済まされる事を、人間がその代替的に働く事は、人間を人間として生かしたことにならないから、真の人生ではなく、人間でなければ出来ない事を成すことこそ、最も高い真実の人生であり、それを成し得る社会を、幸福社会と云います。
 又老人・子供にはそれぞれの生き方があり、病人も亦病人としての、最適な生き方があります。
 私は人が人を殺す行為は、絶対に否定するものですが、そうした場合や、病気等で死期を知り、又は老後になって初めて本当の人生を悟り、それからが、有意義な幸福な真の生き方に転換する人もあり、そうした人をも幸福にする社会が、幸福一色の快適社会であります。
ÀS 15:48 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 第一章 概要, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
9.陽的社会 暗黒の夜から昼の世界へ
 暗い夜の世界では不自由で、方向を誤り易く、その生活行動は不便不都合です。いろいろの間違いの起る今の世界は、闇夜のようなもので、闇夜には灯火をたよりに道を歩み、作業を行ないます。それでも道は遠く、足は疲れます。視界が狭くて能率が上がりません。松明や、堤灯や電灯位の姑息な措置では、仲々正しい明るい、住みよい世界には変りません。
 私共では、根本的に行き方を変えて、明朗な、暖かい昼の社会に転換する設計の下に、活動をしているのです。消極的でなく積極的に、陰的でなく陽的に、静止沈滞でなくて自由活動的に、諦め的に物事を観ないで、夢を描き向上進歩を策します。狭い間道を細々と行かずに、大道を力強く活発に前進する社会設計です。枝葉・末節・表層のみに捉われないで、根源本質的なものに重点をおき、百鬼夜行の陰惨な、混濁世界に黎明の陽光が射し込み、全体総てを明るい真昼の状態にします。
 悪事の多くは夜に行なわれますが、それは悪事のしやすい状態になってあるからで、如何に取り締っても次々と発生し、猜疑・憎しみ・怒り・争奪・殺傷等が絶えないでしょう。
 この昼の世界にはそんな間違い事は起らないから、人を縛る法律等も自然消滅となり、厳めしい警備も牆壁もない、快適な人生があります。
 矛盾不透明な社会が幾世紀か続いて、人々は諦めに似た先入感から、間違いを間違いと思わず、途を行くには灯が要るもの、世の中は暗いこんなものと観念しているものか、一向に無関心に過ごし、或いはそれに気付いて改変を唱導し、又は強行したこともありましたが、最上の結論の出ないまま、揉み合う事久しく、今ではかような説明をしましても、目を注ごうとする人は少なく、余程進歩的な人か、飛躍的な若い感覚の人でなければ、直ぐには理解されないでしょう。
 金銭物質を、これ人生の凡てと思いこんでいる人達には、閑人の夢物語として邪魔・迷惑に過ぎないでしょうし、その道にある人でも、トテも叶わぬ空言に聞こえるでしょう。
 併し私共は、今迄出来なかったから出来ないとか、出来もしない事を出来るが如く見せかけるものでなく、実現し得る設計と、方法と、確信を持って居まして、この間違いの多い夜の世界に終止符を打ち、人類ある限り、永遠に揺ぎない真の幸福のみ溢ぎる、理想郷の門戸を開き、昼の世界を迎えようとするのです。
 そこには陽光燦やき、清澄・明朗の大気の裡に、花園が展開して馥郁と香り、美果が甘露を湛えて人を待ち、観るもの聞く声皆楽しく、美しく、飽くるを知らず、和楽協調のうちに、各々が持てる特技を練り、知性は知性を培い育て、高きが上に高きを、良きが上に尚良きを希う、崇高本能の伸びるが儘にまかせ、深奥を探ねて真理を究め、全人類一人残らず、真の人生を満喫謳歌することが出来るのです。
 浦島の行った竜宮城か、仏の国の来世極楽浄土が、この世に実現します。政治・経済・社会・家庭等人類のあり方凡てに亘り、現状その儘で陽的に、愉快に、案外容易に、恰も暁に陽光が及ぶが如く照らし出されて、明るい昼の世界が実現します。破壊や、撤去がありませんから、損失や犠牲者や、爆薬も要りません、夜の世界では、なくては働けない松明にも譬えた法律も、変更する迄もなく無用になりますから、そのまま放任しておけば、消えてなくなります。
 考えてみましょう。国境が無くなれば、国と国との紛糾がなくなり、戦争も起らず、国際公法や、国境を護る兵隊や、武器が不要で、兵器を造る工場や資材や、工員や、兵隊が、平和産業に当てられます。軍需が無いと不景気になるように錯覚する者があり、失業者の心配や、食糧過剰を云う人がありますが、労働時間を短縮したり、基本産業や治水・交通道路の完備工事もあり、なるべく働かないで衣食住が安定し、戦争の恐怖から免れます。
 こんな事今更聞かなく共、決り切った事だが、それがどうにもならないじゃないか。敵が侵して来るから、仕方なくそれ以上の軍備をしなければならぬよ、と頭の悪いことを公開されます。併し方法は手近にあるのですがね、と云い度くなります。
 現在の国境は夜の囲いであり、あまりにも厳めしく、やがては唯の地域名程度の昼の画線になり、今の経済機構も、政治及び社会組織も、人の心も皆、明るい昼の姿に変ります。政庁・官職にあるもの、手掛けている学問・芸術・職業も、法律・財産もそのままで、益々伸展合適する自由があり、自動的に少しも波乱なしに、理想社会に生長します。
 唯夜の世界で必要とした財産も、名誉も、地位も、昼の世界では身に付けているさえ荷厄介になり、身軽になり度くなります。そうでしょう、終生の衣食住が安定し、老後の心配なく、子孫の養育が確保され、病気が殆どなくなり、病気に罹っても、立派なベッドで最高の治療が無料で受けられ、天寿が近づく程待遇がよくなり、柔軟な寝具に身を浮かせ、甘い音楽に恍惚と夢を見ながら、自然に還る社会に、財産を個々に貯える要はないでしょう。
 死んでからの極楽よりも、死の瞬間を、一生を通じての最大の極楽境にします。
 人皆身軽い姿でいるのに、名誉と云う重い暑い窮屈な金欄の装束をつけて、地位と云う転びそうな高い木履を穿って、おまけに頭に長と云う冠を載せて、得意顔で勤まるのは、食故の道化役者か、島原の太夫か、大僧正のお練り位なもので、大抵の者は馬鹿げて、正気でやって居れなくなりましょう。
 農業にしても、利潤よりも興味本意となり、稲作りも、菊や盆栽作りのように楽しみ乍ら、一粒の種籾から百本の穂を出し、一穂に数百粒の籾を着け、雀の卵程大きな米を稔らす競技会をしたり、春秋のシーズンにトラクターを駆って、ドライブ気分で耕作しておけば、家族揃って夏は海へ山への行楽避暑に、冬は温泉・映画・音楽会や各自の好きな趣味三昧、花を眺め月下に踊る、人生これ快適なりです。
 健康のための運動として働き、職場も、芸術的なものだけ人間が造り、他はスイッチ一つで機械が働きますから、特技を高めるもの、学理の究明に没頭するもの、皆その途に専念して、他の煩わしさに捉われることなく、宗教家も、自分にさえも解らぬ伝導やお説教で、自責の苦悩にさいなまれずに、先ず自らの悟りのために瞑想に耽っていても、食は目前に積まれましょうし、住衣に事欠かず、真の導師として天国極楽への先達になれましょう。
 そう云う社会になった方がよくはないでしょうか。割合簡単になりますが、いかがでしょうか。実に華やかなお伽の国のような、しかも真実の世界があり、人はもともと罪など犯しているものではなく、懺悔も謝罪もする必要はありません。罪と云う言葉さえもなくなりますから、人を縛る何物も無用になります。
 昼の世界には、牆壁が無い方が広濶として見晴らしもよくなり、旅行券や通貨交換の面倒さもなくなり、航行も自由になり、自由をお題目に唱えている国の人々も、嘘から出たまこととなりましょうし、双方が便利になります。
ÀS 15:47 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 第一章 概要, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
10.物は飽く程豊満な世界
 物欲には際限なしと云われますが、併し限界ありとも云えます。
 欲するものが、欲しい時に、欲しいだけ、自由に、労せずして得られる仕組みを理想とし、生存に最も必要な空気や、水に近い程度にし度いものです。
 しかし、現在ではそうした環境の人は極く小数に限られ、大部分の人々は、
絶えず手足や頭脳を働かしていてさえも、殆ど充たされていないようです。
 これに就いては、いろいろの観方があり、標準を一にして論じ得ないものがあります。
 肉体の要求と、観念的な相違により、大差がありますから、特定の人に厚く、他の人に得られない機構には、相当不合理性があり、不満感の根源ともなっています。
 これ等は、誰でも得られる量と機構を整える事によって解決します。即ち豊富な物資と、自由なる使用の機会を、万人洩れなく行き渡る機構とします。かような世界が実現すれば、幸せに成れると思う人が、現在のところ随分あります。
 物が豊富になって幸福になれる人は、誠にめぐまれた人で、既に心が豊かな人であって、物のみ欠けていた人には、実に完全な幸福が訪れた事と云えましょう。
 唯私共では物のみで得た一時的満足感を、真の幸福と間違え度くありません。
 よく検べて見ますと、物が豊かになって幸せになれる時と、そうでなくて、全く関係の無い場合と、時には不幸の前兆となる事さえあることに気付きます。
 そこで考えられることは、物を豊富に生産し、公平な配分・所得共有の社会には、未だ足りない空虚な部分があることを知ります。しかもそれが物の分野とは比較にはならぬ程、幸福条件には大きな部分を占めている事が判るのです。
 如何に物資が豊富に自由に得られても、心の世界に真に充ち足りたものが無ければ、絶対に真の幸福はあり得ないのです。又そうした心理的条件を欠いて組織した社会は、真の理想社会ではありません。
 物が泉の如く無限に出来て、水のように低い欲しい所へ自然に流れて来る仕掛けにし、心の面でも、安定と満足に暮らせる社会を目指しているのです。
 屈辱・忍従・犠牲・奉仕・感謝・報恩等のない社会になりますし、健康・生命・感情の問題等も、昼の世界での考え方、あり方について判然としますが、後章にて詳しく述べるつもりです。
ÀS 15:46 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 第一章 概要, 解説 ヤマギシズム社会の実態(一)
第二章 構成
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ÀS 15:45 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 第二章 構成
一 幸福研鑽会 1.幸福研鑽会とは
 幸福一色の理想社会を実現さすために、幸福研鑽会を設けます。そして、幸福は何処にあるやを見付け出し、近隣・同業の反目をなくし、親愛・和合の社会気風を醸成し、何かしら、会の雰囲気そのものが楽しくて、寄り度くなるような機会ともします。
ÀS 15:45 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 幸福研鑽会, 第二章 構成
一 幸福研鑽会 2.出席者は
 この研鑽会には誰でも出席出来ます。
 年齢・性別・性格・知能・思想・人種・国籍・学歴・研究部門・職業・党派・所属団体・宗門・官公民・役務階層・地位・貧富・好悪感・理論及び実現に対しての賛否の如何にかかわらず、助産婦も僧侶も、大臣も乞食も、皆同格で出席します。
 ただ狂人・妨害者は寄れないことと、伝染のおそれある悪疾患者等は、別の機会を造って開きます。
ÀS 15:44 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 幸福研鑽会, 第二章 構成
一 幸福研鑽会 3.研鑽事項は
 ここでは人類幸福に関する凡ての事柄について研鑽します。人間性・生命・遺伝・繁殖・健康・人格・本能・感情・思想・欲望・学問・教育・技芸・宗教・家庭・社会・経済・物・人種・国境・法律・制度・政治・慣習・風俗・美醜・善悪・互助・協力・取与・闘争・暴力等、及び其の他百般の事項について検討し、真実のあり方と、その実現について研鑽するのです。
ÀS 15:43 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 幸福研鑽会, 第二章 構成
一 幸福研鑽会 4.感情を害しないこと
 如何なる場合にも絶対腹をたてないことと、暴力を用いないことになっていますから、何を言われても悪感情を残さない事、それから、誰もが思った事を、思うがままに、修飾のない本心のままを、遠慮なく発言し、又は誰の発言や行為をも忌憚なく批判します。
 政治批判も、人格非難(同席者の)も、差し支えなく、そんな事で弾圧したり、腹を立てたらおしまいです。
ÀS 15:42 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 幸福研鑽会, 第二章 構成
一 幸福研鑽会 5.命令者は居ない
 特別人間や、神や、仏は仲間入りして居ませんから、或る人を盲信し、屈従迎合しない事で、偉い人のお説教を聞くのではなくて、お互いの持っているものを出し合って、自分達で共によく検討し、一致点を見出し、実行に移すのです。提案はしますが、個人の意志により命令する者は居ないのです。人間の知能を持ち寄れば、神や、仏とやら云う仮名象徴態や、絶対者がなく共、人生を真の幸福にすることが出来ます。
 人間のうちにも、特に秀でた知能を持っている人もありましょうが、それもその人個人が築いたものでなく、幾代かの人間の因子の離合と、環境を与えた人達の集積の露面に過ぎず、その人のみが偉いのでなく、人類の知能の高さを示すものです。
 過去の人達が積み上げて出来たものを、自己の代で停滞・消滅ささずに、次代の繁栄・前進への素材として、よりよきものに練り固め、周囲及び後代へ引き継ぐ事こそ生きがいと云うべきです。自分一人で大きくなったように、威張ったり、自慢したり、人に命令したりせず、現在以後の人々のために、最大効果的に役立たすことを研鑽するのです。これが自分を大きく生かすことにもなります。
ÀS 15:41 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 幸福研鑽会, 第二章 構成
一 幸福研鑽会 6.たやすく寄り会える場所で
 人は皆それぞれに忙しく営んでいますから、しかも直に目に見えない、或いは直接腹の太らない事には寄り難いものです。利害が直接影響することは、小さい事でも、重大関心を以て目を光らせて臨みますが、間接的なことや、無形的なこととなると、何倍か大きな酬いのあることでも、案外他人事のように自分に不親切で、誰かがやって呉れる位に冷淡で、欲の無い事、浅い事、そしてつまらん、忙しいと、一日を惜しみます。
 しかし、これが今の社会普通人の考えであって見れば、今の処仕方ないから、せめて何時でも容易に寄り会えるよう、成るべく近い所で、小地区研鑽会を開きます。小地区で解決出来ない事や、他に広く関係のあることは、大地区研鑽会へ持ち出します。
ÀS 15:40 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 幸福研鑽会, 第二章 構成
一 幸福研鑽会 7.日と時間は
 日や時間を定めておくと、一々日取りの打ち合わせをしたり、通知を出す必要もなく、年中の日程が組み易く、会の日を忘れなくなり、又他の研鑽会にも出席したり、他地区からの参加にも都合がよく、後に度々変更しないよう、支障のない日を選定します。
 幸福研鑽会は立ち話や、中腰では、店を拡げたばかりで、結論が出難いようですから、心を落ち着け、寛いで、相当時間を長く取れる時刻が好都合です。もし時間中に結論が出ない場合は、次回迄持ち越すことで、軽率な解決は、却って紛糾の原因になることがあります。
 主婦や、学生や時間勤務者の出易い時刻となると、仲々一致し難くなりますから、予め月によって、午前・午後・夜等に時間を摩らして取り決め、出席する人も、その日程時間に合うように、日常プランを組みます。
 私は四五脳法と呼んでいますが、商店も、主婦も、早く1週に45時間勤労で、世界水準の生活が出来るよう、能率を高める研鑽をして、時間計画を樹て、月一回位は研鑽会にも出席することです。出不精の人でも、出かけると出易くなり、出るから進歩改善されて、時間的余裕が出来てなお出易くなるものです。
 四五勤労とは、世界標準労働時間を意味するもので、必ずしも45時間が理想ではなく、これは今日の標準であって、将来は益々短縮され、1週10時間か5時間位の労働で済まされるようになりましょうし、又そうするための研鑽にも力めます。「働くことは人の本分」とか「労働は神聖なり」と教えていますが、牛馬や機械で出来ることを、その何分の一か何百分の一の能力で、それ等に代用して、人間が働いたり、頭を一寸一回だけ働かせておけば、いつまでもどんな省力でも出来ますのに、研究もせず、そういう仕事で額に汗して働いたからとて、神聖でも、尊い事でもないでしょう。なるべく働かないための研鑽をしましょう。
ÀS 15:39 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 幸福研鑽会, 第二章 構成
二 専門研鑽会
 この研鑽会も、終局目標は幸福社会の実現であり、それへの直接・間接的実行方法として、最上のものを見出すために設けるものです。
 専門研鑽会は、各種職業別に、又は所管目的別・所属部門別に主要目的を中心に、それに関連した専門的な事項を深く探究し、それの向上進歩を図り、自己を含む全人類の福利の増進に寄与するための研鑽をします。
 営利的又は感情的派閥分離行動をすることなく、親和協力に心して、小区分及び総範囲的に、適宜研鑽会を開き、学問・理論・実験の報告や、共同研究及び技術の交換と向上、経営上の合理化促進、真目的の自覚と結び付き等について検討します。
 経験や学歴及びその他肩書抜きで、座席や待遇等も特別がありませんし、若い人には若いよう、低い人や、浅い人にはそれに応じて、幼稚な人をなるべく引き上げる気持で、適材適所に就けるように力め合います。
ÀS 15:38 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 専門研鑽会, 第二章 構成
三 構成員 1.幸福会員(物心幸福会員の略称)
[1956.1.5.以後は「革命協力部」メンバー(部員)と改称]

 ヤマギシズム社会構成の重大要素は、親愛の情によって、全人類間の紐帯となすことで、怒りや疑いが少しでも介在しては、不完全なものです。
 誰とも喧嘩しない、仲よし一家の寄り集まりです。
 けんかの原因はその一方に、又は双方に間違いがあり、それを突っ張り合うからで、腹を立てたり喧嘩する者は馬鹿です、腹が立ったら、アア自分は大馬鹿だと気付いて、如何なる場合にも怒らない人間になることが先決です。
 本会正会員の資格に、絶対腹が立たない者となってありますように、怒っていては親愛の情もわきませんし、幸福もあったものではありません。
 この理想社会では、衣食住及び所有物資を有り余って、飽きる程豊満にします。少ない物量を、諦めで辛抱するような吝なものではありません。そして誰かが所有して遍在させたり、独占しないで誰でも欲しいだけ自由に使用出来て、皆飽満な物資で生活は安定し、体質を改造して、勝れた健康体と知能を保持し、寛い豊かな、心の持ち主を幸福会員と言います。しかし理知的で愛情に乏しい人や、物に何不自由なく、別に風波も摩擦もなくても、何か冷た感じのする家庭もあり、又一方物は無く共。温かい和やかな一家もあります。理想社会にはこの温かみと親しさが籠っていて、人情の滲み出る気風を添えてこそ、完全なものです。
 制度・機構は最も大切です。しかし如何に理論的に立派に見える社会機構も、人情を欠くなればダシの抜けた鰹節と同じで、理詰めのみの、温かみのない社会は、生きた人間には役立ちません。目に見える部分よりも、形の無いものに本当の価値があるのです。
 現在の内外政治・経済・社会機構・法律等は、何れ改変されますが、たとえ間違ってあっても、現存する間はそれを無視したり、無規範的行為をすることは、あくまで避けねばなりません。
 いま会員第1号として、幸福会員に該当する人は、現機構の下では、それに外れぬ、それから良心的所得の増加を図り、余裕ある財産により、納税や社会事業等に大いに協力し、自他共に物心両面で栄え、幸福社会の実現に尽す一員であり、かような会員が充満することが理想であって、世界から貧乏人を一人も無くすることです。学問・技術・経営及び幸福についてよく検討するため、専門及び幸福研鑽会には、力めて出席出来る人が幸福会員です。
ÀS 15:37 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 三 構成員, 幸福会員, 第二章 構成
四 要約
 これを要約すると、ここで云う幸福会員とは、物心会員であって、健康で子孫も物も栄え、心も豊かな生活の出来る人を指すもので、これなら誰にも解り易い、そしてこれが世界中に行きわたった時が本当の幸福であり、真実な人間生活の姿で、こうした人の充満した社会を理想とします。
 しかし今の世界は、それに反した日常を暮らしている人が多いのは、それに向かう方法を知らない人や、方向を知っていても、突っ張り合って混雑して、思うように行けないからです。
 十人のメンバーは、これに対し安全な道路を造り、街路樹を植え、香る花を蒔いて道標を立て、各種の交通機関を提供する役目をするのです。かくしておけば、後は道標によって各自が自力で歩くなり乗るなりして、思い思いの目的に向かって、自由に快速な行動が出来ます。
 こうした事は、早く皆が出し合って造ればよいのですが、お互いに目的地へあせり、正面衝突して喧嘩したり、通せんぼうされたりして、気がイライラして、時間にも頭にも余裕がなくなり、腹が減るから旅費も乏しくなり、又各自に持っていないと安心が出来ず、先を急ぐ人には、道路造りはしていられませんし、混雑して苦しんでいる間は、そんな建設費はよう出さないでしょう。 そこでいつまでも、こんな愚行を続ける馬鹿さの解った人や、一役果して閑日月の生活に入り無役の人や、今人並以上苦労しても、孫子の代も沢山の人が楽になるようにと、先の大きな楽しみに生きられる人々が相寄って相談し、一時は裸になっても、借金してでも、何処かの一角から、後で度々改修しなくてよい立派な道路と、交通整理係も要らない道標を創り、乗り物も用意し、これならいけると、誰でも共鳴して協力されるキッカケを、十人のメンバーが造るのです。
 しかし十人のメンバーとて、霞を吸うのみでは動けなくなり、力にも限界がありますから、新しい道に乗った人は、その余得のうちからの一部を、次の道路の建設に協力し、汽車等の維持をすることです。
 次の社会には屈辱・忍従・犠牲・奉仕・感謝・報恩等は絶対にありませんし、そんな言葉も要らなくなりますから、他人のお蔭に甘えるわけには参りません。
 十人のメンバーも感謝されたり、恩返しを予想しての活動なれば、やらない方がよく、一時的犠牲者からする相当の不足に、ニタリと微笑める心の用意をしてかかる事です。
 十人のメンバーとは簡単に云うと、幸福会員のみの理想社会を造ることを喜びとして活動する人で、生命をそれに最も効果的に打ちこんで、代償は理想社会実現以外の何物もない自覚に立つものです。但しこれは個人の自由意志によるもので、家族や周囲の人でも共鳴しない者迄も、巻添的犠牲者にしては不可です。又誰に限らず、一時間でも十分でもその気持ちで、そうした行動をされる事が大きな力となり、実現を早めます。
 十人のメンバーの場合、立替えの形で、犠牲によく似た行為をすることがあります。
 物心何れにしても、誰か人の餌食になり終るものを、犠牲と云うのですが、この社会には犠牲はなく、この社会を造るにも犠牲者は一人も出しませんから、当人は報いを考えないが、真実は立替えであるから、必ず何かで終局的に返る仕組みになってあります。甘い考えで人の親切を取り切ることも出来ない仕掛けにしてあります。
 私は今後、身の許す限り幸福運動を展開して、最も確実に容易に行なえる具体案を示して、同志の人々とよく検討し、協力して積極的に実践します。
 例えば、部落を名実共に開放し、住職を束縛する法門から、嫁を家の道具視女から、寡婦を寂境から、刑務所の門を桎梏から、日本人を国境から、若夫婦を古い家から、貧乏人を生活苦から開放し、病人・老人に人間一生のうちの最上の待遇をします。商人を顧客と対等に、世界の人を紛争苦悩から開放し、総ての無理な束縛を断ち切り、真に自由な人生に開放する活動を続けます。
 全国各地から命迄もの人達が続々参集されていますから、必ず実現します。誇張か法螺か実態を検べられるなれば、あなたの人生に何かをもたらすでしょう。(未完)
           1954. 11. 25.
ÀS 15:36 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 第二章 構成
三 構成員 2.十人のメンバー
[1956.1.5.以後オールメンバーと改称]

 幸福会員は、自己も共に物心両面の豊満を得つつ、理想社会の実現に協力する(いわゆる金を儲け乍らの)人ですが、十人のメンバーとは一応、自己に対しては、物や、地位や、名誉等を考えずに、「命までも打ちこんで」、理想社会の実現に傾倒する人を指します。
 しかも誰からの、命令で動くものでなく、自発的に自分の信ずるままに、自己を最も有意義に生かすために、自覚・納得の上で報酬を省みない(タダ働きになる)事を無上の喜びと感ずる人でなければ、資格がありません。
 完全メンバーと、半メンバーと云うと変ですが、完全メンバーは自分に一番きびしい事で、四六時中それのみに没頭出来る人で、世界中の誰よりも貧乏になることを承知で、零迄覚悟して、誤解する人達(誤解の起らないよう極力避けますが、それに洩れた人)からどんな疑いを受けようが、悪罵讒謗にも怯まず、敲かれようが真実に生き通せて、自分の生命・生活さえも無関心になれて、有れば着る、無ければ着ないし、家も財産もある間は使うが、無くなっても惜しくない、無くなることを当然と心の用意が出来て、食もあれば食べる、無ければ食べない、他からの奉仕や、心にもないおつき合いの寄進とわかれば、箸もつけない厳しさが実践出来る人でなければ、資格はありません。
 死を惧れているようでは、完全メンバーにはなれません。財産と云うものは、これだけ無かったらの限度も無く、原爆一つで家内中飛んでしまうのですし、いずれ一度は死ぬのですが、それを気にしている人もあるらしいです。成り度く無い人は成らなくてよいのです。完全メンバーが十人寄れば、日本位は引っ繰り返せますし、日本が変れば、やがては世界中が一緒になりますが、押し付けて出来る訳のものでもなく、皆自覚から出発するもので、十人のメンバーに成ろうと、成るまいは各人の自由意志にあり、成って下さいとか、成ってはいけませんとか、他から支配する何物も居ない筈です。
 自分でやろうと思えば、女でも男でも青年や老人も、学のある無し、不具病弱者も、自分一人でやってもよいのですが、同じ思いの者が相寄って相談し、よりよい方法を見出して、共に調整協力して、大きな力で実行すると益々その効果を高め、真実世界実現が早められます。十人より百人の方が何十倍か早められますから、速やかに同志が相寄ることで、現状の如く今迄にない会合結束が、固められつつあるのです。そうしてたえずメンバー研鑽会をする事です。半メンバーと云うのは、全面的には成り切れない人で、家族の都合や、自分の意志で或る程度に生活や財産を固め乍ら、程々に十人のメンバーの活動をする人を指します。
 十人のメンバーと云っても、誰と誰とがそうであり、誰が半メンバーだとか、特定の人を云うのではなく、自己を零にしてその活動に没頭している間の人の呼称であって、一時間或いは二時間メンバーもあるわけです。
 十人のメンバーは何をするかですが、不幸な人を一人も無くし、物心共に豊満な理想社会を造ることを仕事とするもので、幸福会員を世界中に充満させて、それ等の人々が、幸福な人生を送れるように仕向ける役割をするのです。
 誰でもが、幸福人になり易い環境を造るのが一役で、完全幸福会員第1号か、それに近い人が出来れば、モデル会員としてそれを広く紹介して右へ習えで、続々物心豊かな人が出来るように奔走する役割をし、それ等の人が逆コースを取らなくて、円滑に幸福生活が続くよう、補佐の役目を果します。
 こうして一村の気風を根底から変えて幸福村にし、地上の各地に幸福のキッカケ(端緒)を造り、それが次々と伝播して広がり、世界中が幸福人で埋まれば、物は溢れ、親愛の情溢ぎり、侵すものなく、護る要もなくなり、十人のメンバーも無用解役になり、物心の幸福会員の列に共に並び、幸福一色となり、幸福の言葉さえなくなります。
 山岸会は実は幸福世界実現の為の会で、幸福会と呼ぶのが至当であるが、今はその過渡期にあり、私は何れ会名変更について提案するつもりです。
 山岸会の呼称はそのうちに「幸福会山岸会」となり、時期が来れば「幸福会」となり、会の使命が達成されたトタンに、その社会は別の名で呼ばれるようになりましょう。
 十人のメンバーは誰にもたのまれずに、自分勝手に、幸福人を造り護る活動行為をしている間の人を指します。したがって、そうすること自体が自分の喜びで、他から報酬やお礼や感謝の言葉もない筈で、万一他から不平等云われたら、自分の活動が間違ってあったか、到らなかったものと、反省する用意をしてかからねばなりません。
 今の世の中には、小利は見えるが大欲の解せない人や、真実を掴み得ない人がウヨウヨしていまして、自分流の観方で誤解したり、負け惜しみを云ったり、一寸都合が悪いと不足に思ったり、疑ったり、腹を立てたりして、直接よく突いて来ない小人共も沢山居ますから、そうした人を隣愍の情で迎える覚悟が無かったら、初めから十人のメンバーにならない事です。
ÀS 15:36 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 三 構成員
知的革命私案(一)山岸 巳
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ÀS 15:35 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 知的革命私案(一)
一 正しきに戻す
...
ÀS 15:33 NENHUM COMENTÁRIO: 
01.世はまさに逆手なり
売ろうとすすめると、手を引っ込める。
取ろうとするから、やらぬと来る。
平和のために戦争し、神に祈って爆弾を恵む。
ÀS 15:33 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
02.アメリカに日本の心が掴めたら
 余剰小麦に剣を包まずに、サンタ爺さんに托したろうに。そいたらアーメンきらいな痩 狼でも、罪の子も、一ペンに芯から靡いて、アメリカ様の番犬になったかも知れぬ。
 戦犯だとか、梟首にかけるかわりに、「日本は狭い、常夏のハワイを自由にお使いなさい」と来たら、自業自得か知らないけれど、肉親を喪ない裸にされて、殺され損い、骨を抜かれた半亡者の心でも、東向くか西向くか、紙に書いた権利・義務の手形と、心に焼き付けた親愛の情とは、どちらが確かなものか。枕が高く出来るか。
 物にはソッポのこの曲りやでも、事によったら、情の前には案外コロリかも知れなかったものを。
 主なる神は絶対者ではなかったら、つみびとの心を見通すことも、まして力では制えたが、愛で跪かせなかった。それとも再び原爆の洗礼を受けさす神の試練の、尊い下心からか。
ÀS 15:33 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
3.ああ、チャンスは彼方へ
 今や西方浄土から、なさけの手を拡げ迎えられんとす。祖先のふるさと大中国より、近隣諸国・釈迦の印度から。
ÀS 15:32 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
4.わがために乞うにあらず
 昔の勝利者(日本を含め)慣例から見るは古い。それは逆手世界(既成)の常識観だ。
 何も甘やかされて付け上がっているものではない。下されと乞うているのでもない。次の次代に住む世界人としての批判から、物の道理・人の情の不可思議さを云ったまで。
ÀS 15:31 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
5.正か逆か
 私の言動が不可解で、事毎に逆手だそうです。こちらから見て今の世の中は、矛盾と欠陥・間違いの固まりだとしていますが、向う側からでは、仲々話しても説いても目に見せてさえも、解り兼ねるそうです。
 そんな世の中になれば結構ですが、出来ないよ、と云い切ります。それでは今のままでよいのかと云えば、いやな世だが仕方がない、こんなものだよ、と諦めます。いやならさらばをしてはと問えば、千年でも生きて居たいらしい。
 先方には私が見えないが、私には先方の姿が手に取るように明かで、真実の人生を見届けたら、訳なく解明出来るのです。何れが正か逆か、実験してみましょう。
 私の言葉や主張には、非常にあなたと合わないものがあると思いますが、最後まで聞いてみよう、理論を、慌てず眺めよう、結果をと、解る迄は、就かず離れずでつき合って欲しいです。
 金儲けを焦せるから儲けが小さく、躓いて大損をし、叱る程子供の応えなくなり、目をつり上げて角を生やすから、男心は去り行くのです。
ÀS 15:29 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
6.ヤマギシズム社会に
 私は、人生は真の幸福であることを真理とし、真に幸福なる人生を営み得る社会をヤマギシズム社会と云います。
 いまの世界では国境を設けて、個々の国を組織し、思い思いの政治・経済・社会機構の下に国民が生活を営んでいますが、国民性・風俗・習慣・文化等甚だしい差異があり、中には相当進歩した社会組織や、諸種の条件によって高い人間生活、即ち世に謂う幸福人生を営みつつある国々もあるようです。
 併し未だ最上完全な真の幸福社会は実現されていないで、世界的に観て不安定・矛盾・紛争・不幸等の、幸福条件に相反するものが至る処にあります。
 幾千年来、そうしたものの絶滅に努力され改善され、何れは本当のあり方に成るものと信じていますが、私もあと余り永年かからないうちに完成したいと、それについて、そのあり方及びその実現方法等を考案し、書き綴り発表し乍ら、それを実践に移しつつあります。
ÀS 15:28 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
7.革命提案の弁
 体からいのちがさよならしたら止めるとして、悠々と綴っていたが、糊ゆえの百姓、百姓ゆえの鶏と、ペンだこが鍬だこと交替し、生れて初めての、あかぎれの手を見る詩人? になっているところへ、本会が産声を上げての、てんてこ舞いの今日です。こせがれ泣くし飯焦げるで、どっちつかずの昼夜なしには、頭がふらふらになりました。・・・・文章も。
 それに愈々東と西の中間の、頭の上があぶなくなって、逃げ出そうにも大きな壁で越えられず、水爆実験の檻に入れられた兎の運命にあり、かなわぬ恋ではなかろうと、チョッピリ出した手がこの知的革命案です。
 二百年後が待ち切れず、善は急げのお粗末ですが、お箸をどうぞ。
ÀS 15:27 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
8.知的革命の呼称と性格
 革命と云う字句についての詮索は後にしましょう。
 革命という言葉が、暴力とか血を連想さすものがあるなれば、今ここの私が知的革命私案と題して相図る、革命の意味とは、全く対照的なものであることを明示して置きます。
 私はいつ、いかなる場合にも、戦闘・暴力等、圧迫・強要・侵犯を否定するものであります。
 陰謀によらないで、こうして陽的に公表して、万人悉くが納得する、知的な行為により、闘争に換えるに平穏を、怒り、憎しみ、猜疑・羨望嫉視に更えるに、正しい理解による総親和を以てします。
 今迄、平和革命、無血革命と呼ばれたものもありましたが、この知的革命とは、闘いなる言葉は一切必要とせず、武器・暴力を用いずして、和と叡智に置換した、頭脳革命を意味し、そして確実に急速に変革するものを、知的革命と称するのであります。
 他の意志を強圧し、一方的に是なりと信ずるままを、暴力によって押し付ける革命には、犠牲を伴い、禍根を遺す惧れがありますが、知性的な革命には、そうした不合理面が生じない筈です。
 而して現在のあらゆる間違いを、急激に画期的に、大転換して、全人類が望む、過去にかつて無かった、新しい、人類あるかぎり永遠にゆるぎない、真の人間性に適応した社会、即ち本会の趣旨とする、快適な理想社会を招来するために、混乱なき世界革命を遂行せんとするものです。
 私は以下これについて説明し、諸氏の冷厳なる検討による批判と、建設的叱正を経て、志を等しくする諸氏と相共に提携し、その実現に邁進し度いと念ずるものです。
ÀS 15:26 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
9.何故幸福社会が実現しなかったか
 それではどんな方法を以てするか、又どういう風に是正しようか等については、後章で述べることとして、それの前提として、ここでは誰でもが希求している幸福社会が今日に至るも、何故実現して居ないで、多くの人々が苦悩の日夜を過ごしているやについて、云って見度いと思います。
 偉大な先人達はこの問題について、凡ゆる角度からの探究・検討に終生を傾け尽し、生命を賭けてそれを唱導し、万巻の著書に宿して述べ伝えられ、これ等に関与する者幾何なりや図り知れず、各々絶大なる努力により、或るものは相当真を衝いた幸福への道を説き示して、それに接近しつつあるものもありますが、急速に、普遍的に、完成し得ない現実には、幾多の原因を数えられます。
 その第一に挙ぐべきものは、仮定に結びつける非現実的説き方です。今迄の人知をしては解決し得ない部分や、立証出来ない事に対して、仮説をたてて仮説誘導方式を採るもので、こうした根底の確立しないものは、如何に巧妙に韜晦するも、仮説は仮説に過ぎず、一時的仮の幸福は与え得ても、必ずや脆く崩壊することは必然であります。
 その次には、幾多の引例を以て説得を試みる、類似誘導方式があります。こうした説明には相一致し首肯せしめる点も多々あり、各々が持つものに触れ、求めるものに一つの示唆を与える事により。他を律せしめても、盲従的錯覚幸福感は与え得るも、事に直面して齟齬を来たす危なさがあります。
 又中には、現世を救い難い罪の世として、諦観に立たせ、死後に希望を持たせる説き方や、因果応報の原理を解明して、善根を施して報いを待つもの、法律・制度で解決しようとするもの、道徳論を以て凡てを律せんとしたり、神・仏等の偶像迄持ち出し、或いは社殿伽藍や音楽・呪文で、施設雰囲気病的精神誘導詐術や、疾病・難境等の弱点に科学・数理を排して、神秘的精神集中転換誘導法による、心理収攬術を弄して、衆愚を盲信せしめ、こじ付けの偽りの幸福感に心酔せしむるものもあります。
 これ等は概ね社会秩序の上からは、一時的には相当効を奏しているものがありますが、間違いを孕んだものは不安定で、真相・実質の確立を求める現代知識人の首肯しないところです。又社会機構に大きな前進を見つつあるものもありますが、併し現在迄の処では、禽獣等他の動物向きや、器物並に組み立てようとしたものや、人間を神仏(有神信奉者の云う)と看做して説いていても、真の人間に当て嵌めて、完全無欠のものでない事は当然で、方法を持たないものや、他を傷つけ犯す一方的方法では、真の幸福は至らないでしょうし、吾が立身出世の道具に使われ、一将功成る方式で我一人極楽へでは、理想郷は遠ざかるばかりでしょう。
 以上のような方法程度では、人を罰する法律の要らぬ楽園は生れなかったのです。そこで一歩をすすめて、真の人間に合う社会の実現方式を検討しましょう。
ÀS 15:25 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
10.「具現方式」によって
 次に述べる方式は、私としましては、実現可能の確信を持っていますが、私はもとより全知全能の特別人間でもなく、学問・知能・体力・技能・経験の程度のいずれもが、低く浅い事は充分自覚しておりますし、且つ何等の地位・資格・特権を持っているものでもありませんから、次に述べる具現方式を、教え・押し付け・命ずるものでなく、これは私案であって、私と同じ考え方を持っている人で、同じ途を行かんとされる方と、横の人(中心とか、竪・上下の人でなくて)として堅く手を握り合って、共同の目的を達成し度いと思って発表する次第です。
 尚この方式に不備な点や、間違っている点を、相共に見付け出して、最上の方法に修正さるべきだとも思います。私を神仏化したり、絶対者扱いする変り者や、中心的指導者と思い違いをしている言葉をよく聞きますが、これは大変な誤りで、このような間違った観点に立って事を進めると、偏った方向へ進み、宗教的になったり、独裁者が出来たり、分裂したりして、いつかは潰滅します。
 この革命案も、私は幾千億かの世界人のうちの、細微な一人に過ぎない立場から提案しておるのですから、私案に屈従盲信されずに、虚を衝き、偽りがあれば暴露し、反駁を加え、大いに教えられることは、私の最も願わしきところとするものです。
 私は、他を圧迫し、暴力によって自己の所信を強行せんとする改革を、暴力革命と云い、他と共に検討同意して、人類の高い知性に基づく平穏革命を、急速に行なわんとするものを、知的革命と称することは曩に述べましたが、理論のみを唱えて、方法を持たないものを、抽象方式とし、理論を現実に具体化し得るものを、具現方式と呼んでいます。
 この知的革命には、具現方式を伴っていまして、理想社会を急速に成就さすために、具現方式を実践します。
ÀS 15:24 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
11.具現方式は何にでも
 その具現方式を実行に移すには、種々の方法・部門があり、政治面からでも、経済面からも、教育・宗教からでも、男から、或いは女から、学生・生徒や無職の老人からでも、不具病人も、そのキッカケを造ることが出来ます。
 今迄相反目、敵視していた間柄でさえも、利害相反する同業者の関係にも、物を需要し又は供給する何れの側からでも、技芸・学問の立場からも、軍人も、娼婦も、乞食も、具現方式により、理想社会実現のために、大いなる貢献を果すことが出来ます。又、先頭をきってその端緒を引き出すことが出来るのです。
 事実、楽しい明るい昼の世界が開ける確信が持てますなれば、誰しも協力・同調される筈だと思います。
 物から、心から。身体労働から、頭脳から、個人又は団体的行動や、施設等からする方法もあります。
 この方式では、稲田に水を仕掛けるようなもので、誰か水口を切ってキッカケを造れば、水量が多い程、下地が出来ている程、流れをよくする程、早く、稲はそのままで、低い所から低いところからと浸潤して、何時の間にか満水になるように、無理なく自動的に、連鎖・循環的に拡がるのです。
 何にでも、この方式はあて嵌められまして、その根本理念は、物にしても、心にしても、生命等迄も、それぞれその持ち味を、最大に役立たすことで、真にその価値を生かすことにあります。
 例えば、一般社会人の中には、軍人を牛殺しや犬捕りよりも軽蔑しますが、人を殺すのが真の軍人の役目ではなく、人を護る仕事が使命だと自覚するなれば、敵(この世に敵はないが)だから殺してもよいと云う道理は、なり立たなくなりましょう。親子・兄弟・血縁があるであろう、自分も死ななくてよい方法を考え付くでしょう。人が人を殺すなど、野蛮の骨頂だ位は解っているでしょうし、どうぢたら人を殺さずにすむか、その方法の軍人幸福研鑽会を始めることです。
 向う側の兵隊の命を愛し、つまらぬことはやめましょうと和解し、双方協力して、足下の荒廃や、進んで風水害を護り、溺れる人を援助したり、火災に応援し、悪伝染病を駆逐する仕事も、物と人を保護する軍人の真使命に合致し、銃や爆薬を持たないで、人助けする、貧困家庭や農繁期に、応援に行く兵隊ばかりになれば、愉快なものでしょうし、世界中の民衆から敬愛されるでしょう。
 ここまで云わなく共、軍人の賢明さで既にその具現方式を了解された事と思います。
 乞食・娼婦にもと云いましたが、それぞれ真の生き方があり、理想郷実現の貴重な一役、或いは主役を演ずることも出来ます。自殺アコガレクラブや、世界ルンペン団体幸福研鑽会を開いて下されば、私も一員として参加し、私なりの具現方式を提案し説明もしましょう。
 世界大国代表の我利外交の代りに、幸福研鑽会の方が余程近道で、赤ん坊の時から食べさせ着せて、学校でも教え愛して育てた吾が子を、戦場に送らなく共すみましょうし、飛行機や軍艦で、砂糖や毛布を贈る相談は出来ないものでしょうか。
 如何に巧妙に理屈付けても、戦争は野蛮です。暴力です。絶対避けねばなりません。親があり、子が、妻が一番頼りとすがる主人を牢獄に繋ぎ、白旗掲げて手を合わしているものを、何の役にも立てずムザムザと、ニワトリと間違えてか首を締める・・・(アッ!ペンが折れました・・・)赤鬼共が横行しているとは、余程妖怪不思議に出来た世の中です。神に祈って、原爆を飛行機に積む青鬼共の世界は、暗い方が仕事がし易いのでしょうか。
 一網数十万人に、一瞬眼球を飛び出させて、神の国へ昇天さして上げようとの慈悲心は、先ず御自身から遠慮なく浴して下さる方がよくはないでしょうか。自国へ落して、皆神になられた方が天国への近途でしょう。
 偉い代表者が出て、国政に、対外交渉に、平和と幸福のためにと云って、心血を注いで知恵を搾られているようですが、次の世界の明りが射したら、口が耳まで裂けているのや、シッポのやり場にこまるのがいないでしょうか。百鬼夜行・狐狸跳梁の暗黒界で、暗黒が人間社会の免れざる当然の姿と肯定し、活躍している手探り外交官のずるさ、浅知恵さは、私共の眼には賽の河原の童児の石積みにも劣る所作に見えます。
 私共は、こんな混濁・乱行の世の中で暮らすことは不得手で、陰惨なことは嫌いですから、見切りを付けまして、明るい正しい、暖かい昼の世界を引き出す計画を樹て、実行に着手したのです。
 目指す次の理想社会は、陽気な昼の世界です。松明や堤灯は荷厄介になりますから、それを造ったり保管しなくてよろしいし、獄門は開かれて楽園の門になりましょう。
 行き易い間違いのない方法は幾らでも、何処にでもありますが、一々列挙して綴っていては、紙面を塞ぎ主題が乗り遅れになりそうです。凡ては具現方式に則って行なえますが、それ等解説は後日に譲り、本題にはいりましょう。
ÀS 15:23 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
12.人間の知能
 猿に自転車の練習をさすと、乗れるようになり、インコは人語を真似ますが、物を考えだし、創作する能力が低いばかりに、人間のように文化生活が進みません。
 人間と猿との知能が反対であったなれば、人間の生活力は猿より劣り、食は作らず、寒さに弱くて、棲息地帯は狭くなり、子は自活する迄に年数がかかり、樹上にも泊られず、逃げ足遅く、爪牙も持たずに、獅子・狼に絶滅されていたでしょう。
 水に入れば、魚や蛙にも劣り、蝗程も跳べない人間が、潜水しつつ、洋上・空中さえも、食べ乍ら、読み乍ら、寝ながら移動が出来るのは、他の動物と、知能の働きのみが異う結果に外ならないもので、将来には、月や星の世界へも行きかねないでしょう。
 肉体労働なれば、何時迄も稼がねばならないでしょうが、頭脳は何を考え出すか、唯一人の、一回だけの考案が、永久に万人に役立ち、何れは、衣食住用物資は殆ど稼がなくても、自由に得られるでしょうし、疾病から身体を護り、長寿を全うするようになりましょう。
 私は感謝のない生き方で、感謝したり、感謝されたりしようと思いませんが、生きている事に感謝している人には、朝から晩まで寝ている間も、先人に感謝の連続でしょう。衣服・住家・踏むコンクリートにも感謝し、食物・容器に感謝し、水を汲み上げ、マッチから火を出すことを教えた人に、物に感謝し、本の紙・字を考案し郵便制度を考え、電灯・ラジオを、それからその元の元を考案した人に、見るもの触れるもの皆感謝であり、誰か見た事もない人に知能に感謝することです。
 世の真実を悟り教えた人に、豆腐・こんにゃくの考案者にも、私の永年の弱腸を快調にした陀羅尼助薬を創り出した人にも、一粒毎に多謝多謝でしょう。
 謝意の如何にかかわらず、力の百年は人知の一瞬に及ばず、一人の一回の頭脳の働きは、百万年幾百万億人に幸福を齎し、連鎖関連的に永遠に消えないでしょう。
 これ程輝かしい実績を遺し、立派な希望さえも期待される実現力を持つ知能を具え乍ら、心理的方面の解決が甚だしく遅れ、且つ社会構成の真髄を掴み得ないで、人間社会に紛争が断たれず、不幸から脱却出来ないとは、省みて辱しい限りです。
 私は人間の持つ知能は、必ずやこれ位の事は容易に解決し得るものであることを、堅く信ずるものであります。
 これには必ずその原因が介在し、これを除去することは、神仏等他に絶対者があるとしても、それ等に何事もなし得るものでなく、人間を幸せにするものは人間であり、その知能であることに間違いなしと断定しております。
 この事が判り乍ら、何時迄も苦悩を続けていないで、今こそ、直ちに持てる知能を働かせて、真実の社会にしなければならぬ秋でしょう。
ÀS 15:22 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
13.不幸の原因
 他の何物も真似られない優秀な知能を持っている人間が、人間自身の不幸を無くすることの出来なかった原因は、知能の用い方が間違っていたからです。
 物を探究し、造り出すことには、随分知恵を絞りよく働いたものでしたが、又これも大切で、今後も大いに強調しなければならない事ですが、物を造るにも、何かに知恵を働かすにしても、その目的をハッキリ知って、真に幸福になるように成すことで、現在の考え方や、成すことには、多分にその反対のものがあります。
ÀS 15:21 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
14.人情社会組織に改造
 今までに言い尽され、教えられて陳腐なことですが、ややもすると、自分のみの近道を行なおうとする間違いが、混雑の根本的原因です。
 これは、一見最も楽な、確かな方法のように思い違いをしやすいもので、殆どの紛争は、ここから発しています。
 なる程、今の世の中ではこんな考え方の人が多く、そんな人は、一人で何倍かの幅を取り、その限界を知らないために、幾らでも拡大しようとします。こうした行為は、少数の人でも、多数の人に影響しますのに、周囲からこんな人に寄って来られて、遠慮していたなれば、自分の立場が無くなりますから、止むなく自分で自分を護り主張するのは、誰もの考え方でしょう。周囲がやって来るからで、自分としては、突っ張りたくないが、突っ張ることは間違いと知りつつも遂い、生きて行けないから突っ張ることになるのだと云うのです。
 ここに三つの方法がある。
 その一つは、その限界を定めて、お互いにその線を越えないこと。
 今一つは、他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気付くこと。
 他の一つの方法は、有り余って保有していることの、無駄であり、荷厄介になる程、広く豊富にすることです。
 私はこの三案を併用すべしとしますが、そのうちで一番重点を置き、他の二案を欠いても、この一法だけは外すことは出来ないと思う案は第二案で、即ち幅る辱しさに気付いて、他に譲り度くなる、独占に耐えられない人間になり合うことだと決定しています。
 この案について話し合って見ると、大抵の人は難しいと云い、それは結構であるが、こちらはそのつもりでも、先方がその気にならないよ、と云う人は余程解りかけた人で、中には売僧の世迷言と嘲笑します。
 併しこの辺が逆の考え方で、真実を知らねば解けないのでしょうが、これこそ無理のない自然の真理であり、ヤマギシズム社会の基本となるものであり、他の二案が如何に完璧であっても、これがない社会は、無味乾燥・器物の世界に等しく、潤いのない造花の社会です。
 しかも、他の二案よりも容易に出来ることで、今直ぐでも、資金も設備も資材も製品も、新しく造らなく共、今あるままで、不平も不満も紛争も犠牲も、強奪も侵犯もなくして、にこやかな真実世界になります。
 以上の述べ方は、物の世界に偏しているやに解釈されやすいでしょうが、物質のみについての突っ張り合いを指しての事でなく、心の対人的持ち方、特に人と人との社会連繋の、切ることの出来ない真理性に立って、完全社会の要素として、人情の必要性を云ったのです。
 人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく、今の社会的欠陥の最大なる原因は、国と国・官と民・業者と業者・団体と団体・人と人とが離れ、相反目している事にあり、政治・経済機構も大改革されますが、その何れにも相互関連があり、この条件を必ず重大要素として組織し、総親和社会への精神革命を必要とする所以です。
ÀS 15:20 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
15.人種改良と体質改造を
 人間と云う生物は案外迂濶なもので、他の動植物に対しては、随分思い切った改良を加え、新しい優秀な品種を作出し、その特徴を高揚して来たにかかわらず、肝腎の人間自身の問題には頗る狭い考え方で、排他的や、純血至上思想や、人間冒涜感等、因習・道徳・宗教観に捉われ、罪悪の様に惧れ、たまたまそれを採り上げて研究し、発表された著述等も、歴史的民族変遷史や、学説・理論に止まり、人為的積極的に、実際に応用一般化されたのものは、未だ微温的な優勢法に止まり、基本的改良は殆どないようで、ただ生物退化現象を真理とする、意識的又は無意識的退化防止的婚姻法や、崇高本能の自然的欲求や、移住や民族混棲等、環境的な原因から、無理論的な改良にまかされて、そうやく現状を維持しつつあり、劣悪体質・低知能に、自他共に苦しみ、進化向上の跡見るべきものがありません。
 ここに於て、私は遺伝繁殖学的、及び人為的、自然環境変異理論を基礎とした、計画的積極的人種改良を、急速に且つ現状に即して、理論と実際を結び付けた方法にて、実施せんとするものです。
ÀS 15:19 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
16.百万人のエジソンを
−−− 千万人のシャカ、キリスト、
       カント、マルクスに優る人を

 私はキリストや釈迦が遺した足跡を、直接見ていないから、後世の人達よりの、間接的資料から観たものに過ぎませんが、彼等は先天的に相当優れたものを、持って生れていたやに想像しても、間違いないと思っています。
 又あの人達でなく共、あれ等の人に劣らぬ人も、世界の各所に実在したと思いますし、その秀でた因子は、直子は無く共傍系にあったものが、現代の誰かに組み合わされて、伝承されてあるかとも思われます。
 今彼等と同じ又は、彼等以上の優秀な遺伝子を持って、よき機会に恵まれた人が、百万人一千万人と実在したなれば、世界はどんなに変るでしょうか。そして、白痴・低能・狂暴性・悪疾病遺伝子の人達に置換されたなれば、物心両面の幸福条件・社会風潮等を、如何に好転さすかに思い至るなれば、何を置いても、この人間の本質改良に出発せざるを得ないでしょう。
 かのフランクリンやエヂソンの頭脳が、ああした環境・機会を得なかったなれば、今日の物質文化は、何処に止まっていることでしょう。一人の頭脳は、連鎖関連的に全世界を一変するでありましょう。
 世の女が皆、クレオパトラの鼻や、楊貴妃に成っても妙味は無いが、創造の神とやらは、余りにも不公平で、才色美麗、孔雀の誇りに鳳の高さを兼ね与え、一方梟眼にアヒルの無様さ、かける翼も、さえずりさえも与えられない醜女の一生を歎ぜしめる無慈悲さは、私には辛抱し切れないのです。せめて赤い牡丹にない紫を可憐な菫に、香を白梅に、与えられるように、色とりどりのよさ美しさ、持ち味が保てるようにはしたいもので、自他の好まぬ劣悪因子をなくして、親は至らぬ子に心を苦しめ、子は境面にため息する哀れから、解放しなければ可愛想でしょう。
 美醜の標準、賢愚・優劣の限界は定め難く、巷の碑女も、絶海の孤独ものには又なき美女となったり、二世の契りの仲でも、突然紛れ込んだ美しい白鳩に眩惑される不安定性もあり、田舎初段の天狗も、兄弟子には手も出ないように、上には上があったり、何れかに一線を設ける訳には行きませんが、少なく共、大差を無くすることで、そうする場合、低きを再び繰り返さない方法を採ります。
 遺伝因子には、その殆どが劣悪形質遺伝因子であっても、一個又は数個の優秀なものを含んでいることもあり、それを抽出して、他のそれに劣った因子に置き換える組み合わし法によって、悪質を除去して固定したり、場合によると、劣性優良形質二個を組み合わせて、一代特別子を造ることも可能です。
ÀS 15:18 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
17.女性は300人近くの直子を遺す
 人間の女性は、一生のうちに一人で200人−300人以上の直子を遺すことも、近い将来に於て可能で、男性は、それが難計数的尨大な子孫を遺し得るもので、突飛に見られる私の理論も、そのうちに繁殖医術によって、立派に実験されて裏付けられるでしょう。
 私は、その理論の根拠及び実際人間社会に応用する具体的方法等は、後章で説明し度いと思っていますが、ここでは、愛児に先天的に、生れ乍らにして不幸の原因を背負わしてはならないとすることと、頭脳及び体質等の悪性遺伝は、子孫に不幸を齎すものであって、健全な心身から、ヤマギシズム社会は出発するものであり、私はそれを実現さすために、人間そのものの革命を強調し、人間の知恵から割り出した方法によって、根本的に、人間は人間の能力で改良出来得ることを主張し、実行を期することは述べて置きます。
ÀS 15:17 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
18.体質改造
 犬が水に入ってオットセイになったのか、オットセイが陸へ上って四足で走るようになったのか、よく想像を巡らすことがあり、これ位のことはあり得ることだと思います。いかに突然変異でも、蛤が化して雀となったり、山の芋が鰻にはまさかなるまいが、併しこれとて何れもが生物で、物の起源を正確に知らない私には、それについて判らないことを知ったか振りが出来ないです。
 併し確実に実験して云えることは、動植物の環境適応性変化で、十字花植物の一種で、陸生では倭小で10センチ位で花を着け実を結ぶが、水中では無制限に蔓性に伸びて、太い茎は枝から枝を出し、3メートル平方にも及ぶ水面を独占し、恰も大財閥の逞しさにも似た繁盛振りを示し、花を咲かせても結実を忘れて、世に幅って行きます。寒冷を越さないと稔れないもの、暖地に育って冬を凌ぎかねる動物等もあり、風土病等も代を重ねるうちに、耐病性体質となっ耐過出来るようになります。
 人の場合も、親の台の、及び胎内にても、産れてからも、環境によって、知性・体力・質・機能は大いに変化するもので、学理と学説を、根底から覆すものがあります。要するに、優秀な先天的遺伝形質を持って産れた上に、環境適変化応性や、人為処作によって、幸福条件を完全ならしめますから、かような重要問題を自然にまかせ、等閑に過ごし、偶然変異の僥倖を期待せず、知性による積極的方策を断行します。(本項未完)
ÀS 15:16 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 正しきに戻す, 知的革命私案(一)
二 先ず日本から
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ÀS 15:14 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 二 先ず日本から, 知的革命私案(一)
1.日本なる呼称
 私は日本とか、日本人とか、国と云う言葉を用いますが、日本とは、私共の考えている社会では、世界の一地域名であり、国と云うのは、個々に離れて独立したものでなく、便宜上の地方区割段階の一つであり、日本人とは、現在呼び習わしの民族の名称であって、永久に日本地域に居住しなければならぬものではありません。日本人の将来についての私の考え方は、そのうちに発表したいと思いますが、ここでは、理想社会は、今の日本地区のみに止まるものでなく、全社会が、正しい真のあり方に変ることを予想して、それの第一歩として、先ず私共は所謂日本人であり、日本に住んでいる関係と、地域が狭くて手頃であり、諸種の条件が揃ってありますから、ここから着手して、日本で実現させ乍ら、他の国の人々にも呼びかける心算です。
 今の世界状勢、特に日本人の物質欲求、及び心理的傾向は、この知的革命を遂行するに絶好の状態にあり、理論・目標のみを並べるのみでなく、具現方式により、混乱なくして、明るく、正しく、新しい、世界から関心と協賛されるに足るような、モデル社会と致し度いものです。
ÀS 15:12 NENHUM COMENTÁRIO: 
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2.乏しき日本
 今地球上にある人の数は、あなたとを含めて、概算28億だとか云われています。多いと云えば云えますし、又そればかりかとも一口に云えます。
 実際人跡未踏の地があり、未開発の豊庫は地下に地上に眠っています。地表の三分の二には、酸水化合物を主として、幾多の元素が含まれ、その底にも豊富な資源が層をなし、地上何千米にも、衣食住生存必需元素が、混合・化合体で充満して居ります。
 今強いて果たし合いしたり、イケズ(意地悪)しなくても、物が無くなったり、こればかりの人間が住む土地が狭くて、困るような事もないでしょうに、又はるか彼方には、未だ当分燃え続けるであろう太陽が いていますし、太陽が消滅した時は一連托生、一寸位肥え蓄えていた処で、所詮は他よりも長命出来るのも時間の問題ですから、そうした啀み合いをしている暇に、星の世界へ移り住む協同計画や、太陽無しで生きられる方法の相談を、みんなでやればどうかと思います。
 唯今地球では、自由自由と云い乍ら、狭い囲いに沢山の人を押し込めて置いて、自分はその囲いの中へ自由に出入りし、思いのままの事をし乍ら、自分の方へは他を寄せつけない変な自由が横行しています。こんな囲いは、双方が相寄ってなくする相談をした方がよいでしょう。
 唯今、日本と名付けられた土地には、内外から造られた厳重な囲いがあります。そこには、何時から渡り棲んだものか、多数の
人間が生き残って居ります。こう云うものを国と呼んでいますが、この国の地下にも、どんな貴重な資源が無尽蔵的に埋まっているか判りませんが、現在その土地にいる人々が使用し得る資産を、土地を含めて見積って、一人当りに按分して見ると、世界中のどの国の人達よりも低いのではないでしょうか。最低位でないか解りませんが、高い人とは莫大な差異があります。ボルネオ辺りの住民等も、太陽光熱を含めた天然資源は、実に豊富に使用出来ると思います。
 日本なる囲いから出られぬ人は、物の使用の面で甚だ貧乏です。その年間消費する主要食糧さえも絶対不足し、衣料材・工業原資材も輸入に俟たねばなりません。賠償・負債は莫大なる額に上り、世界の海運・商権市場・投資関係も不利な立場にあり、天災亦恒例の如く襲来し、今のままで行くなれば益々貧乏国となり、他国との貧富の差は、愈々甚だしくなりましょう。
 併し誰を恨みようなく、誰が悪いのでもなく、よし悪い人があっても、今更云い合っても仕方なく、真相を知らずに、時の勢いの趣くままに如何ともなし得ず、反対し乍らも、戦争をどんなに
嫌っても、押し流されての結果でしょう。
 天皇さんでさえも、留めることが出来なかったとか。併しマア好戦大元師陛下であって、朕に続けと自爆されていたら、日本人は一人残らずになっていたかも知れなかったが、幸か不幸か、未だ溢れる程の人群で、人的資源だけは相当なものです。
 双方が流した血で、再び戦争してはいけないと書かれているのに、世界対立は頭上で火花を散らし、好ましからぬものを落されるや図られず、と云って国外へ逃げ出す権利さえ無い乏しさです。
 たまたま私が、こういう立場にいるからの僻みのみで云うのではありませんが、今のような形の国境は、無い方がほんとうだと思います。
 私はかように間違いであると信ずる国境制を、是正するためにも、この革命を提案する訳ですし、この革命が成就すれば、今の国境の必要はなくなり、一つの画線程度になることは、前にも述べて居ります。
 根本的原則は、個人の政治的・経済的及び居住地等、其の他凡てに機会を均等にするにあります。即ち居住地は個人の自由意志により、何地にも移動出来ることとし、世界政治を、世界人の総意によって行なうにあります。
 以上のような制度に改正するには、一方的希望のみでは成り立つものでなく、全世界の研究機会を設けて、慎重に討議することで、自他を離れて真理を究明し、双方理解の下に正当なる理論を見付け出して、実行に移すもので、私は遠からずこれが実現することを信じて疑わないものですが、それが実行される迄に、整理して置かねばならないものが有ります。囲いが取り払われた時の日本人の質の問題と、法制のみで築いた社会機構の欠陥を挙げねばなりません。
ÀS 15:10 NENHUM COMENTÁRIO: 
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3.日本人の反省
−−−国境をなくし理想社会へ
              通ずる近道−−−

 私はどう贔屓目に見ても、今の日本人はこのまま世界人の中へ出し度くないのです。
 まず外観の貧弱な事に気付きます。体躯が如何にも貧弱で、皮膚の光沢に乏しく、肉付きも姿態も立派だとは云えないでしょう。中には大兵肥満、見るからに好感の持てる人もありますが、全般から見て、世界的に優れ讚嘆するような人は少ないようです。
 他にも日本人と大差ない人は随分多いのですが、又総体的に優れて見える種族のうちにも、見るからに怪異な感じを受ける人もあり、時により同一人でも美しく、又は醜く見える場合もあり、見る人の感覚的なものもあり、赤い花にも白い花にも、それぞれの良さがあり、大輪必ずしも美麗なりと云い切ることが出来ないように、皮膚が黒いから、或いは白いから、黄色だからと優劣を決定するのは早計で、小さいものにも厳しいものを感じ、鶴には豚にないものを具え、一様に定める標準はありませんが、どことなく美を崇める人間性本能からは、見劣りがするようです。
 これの原因には、時流傾向性や、先天的遺伝形質や、栄養的要素から、又は性格感情的なものからも、職業・服飾・生活様式や、先入主観から来ているものがあると思います。
 これに就いてよく検討し、その原因となる欠点の除去に力め、向上を図るなれば、そうした面で、優秀な民族となることも難事でないと思います。
 それから、人間として最も大切な人格上の点で反省したいと思います。日本人も知能的組織の劣っていない事は、幾多先輩の事績を見ても立証されます。又人格的にも、決して卑屈な因子を蔵してはいませんし、行為は実に立派なものがあります。
 併し環境的主因から、多くの間違いを侵し、世界の人達から嫌悪されているのが現状です。これは内から出たものと、外部から然らしめた原因があり、戦前世界に於ての日本人は、或る地方では割合対等的に、又は優遇され、他の地方では恐れ嫌われ、或いは排斥されたもので、彼我の経済的生活程度・教養の高低・職業的貴賎意識・侵略感・初期の印象等、人間性の本質的なもの以外の、環境的因果関係からも大きく影響した、感情的な現われでしょう。
 諸種の関係から、世界各地であまり歓迎されなかった上に、或いは歓迎されなかったが故に、戦争となり、対外的に悪感情を募り、鬼畜・強盗の如く忌憚され、戦時・戦後の物資欠乏による物への屈服と、経済生活不安定と、目標・希望を失った虚無的索寞感から、人間的自尊心の忘却症状となり、物質偏重傾向になった事は、止むを得ない事と思いますが、このままの姿で国境が無くなることは、日本人が将来永久的に賎民化し、世界に不幸を永く遺すことになりましょう。
 幸い今日ではこうした混沌たる中にも、これを憂慮される識者は、日に多く現われ、人間意識の開発に活発な努力を捧げられつつあり、他を倒して獲物を奪い取ったり、物を乞い与えられるを、尾を振って待つ獣的醜態が習性にならないうちに目醒めて、且つ又戦前のような軍服による厳めしさでなく、真に世界の人々から尊敬され愛される知能と、人格を伴った、立派さを持ち度いと思います。
 外観・実質共に優れ、友好・親和の精神で臨めば、何処でも歓迎され、無駄な牆壁は自動的に解消されるでしょう。
 国境を無くする最上の絶対間違いない方法は、外交交渉でもなく、無論戦力でもありません。交渉や武器で無理に囲いを破って飛び出しても、招かれざる客の不愉快さは免れないでしょうから、各自の反省により、欠点を除去し、迎えられる立派さを身に備える事に専心する方が先決で、早まって不健全な荒んだ心で押し出して、悪い実績を植え付けると、拭い去ることが容易でなく、取り返しが付きません。
 国外へ出られるようになっても、人物試験合格者からでないと、雑草の種子播きになります。先決問題は、日本人自身の反省と努力によって、自身の頭脳・技術・社会人としての教養・人格・肉体等、実質・外観共に歓迎される優秀人となることで、これが国境を無くする近道です。
ÀS 15:08 NENHUM COMENTÁRIO: 
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4.日本を豊かに
 現在の日本は物量に乏しく、精神的にも、不満を感じている人が随分ありますが、これを他に求めなく共、自らで物心の豊かさを得ることが出来ます。
 精神的不満感の原因としては、自身及びその心の内にあるもの
と、社会的なもの、及び物質から来たもの等があり、又それ等が表裏に結び付いた、関連的な場合が多いのです。しかしこれも心の持ち方によって、不足感の整理は出来る訳ではありますが、通常殆どの人は、そうした心境に徹することは、不可能事でありましょうし、真の人間性に合った自然性を曲げた、不合理面が混在することもあります。そこでよく検べてみると、精神面で真実のあり方を知ると共に、物を豊富にすることと、社会機構を正しきものに組み建てることをも、相当重要視しなければなりません。
 物が足りなくなると、獣性が飛び出し、豊富になると徳性が戻り、有り余る程あると、真価を忘れ易くなるのが、普通の考え方で、中には、積めば積む程なお欲しくなる人や、又妙な事には、大局的の実質は少ない場合でも、目に付く近隣より多く持っていると一応気をよくし、他が失くすると、自分が増したように錯覚を起したりする、変な心理作用を持った人もあります。
 心は、物ではどうにもならぬ事も多く、愛憎の情等は物の問題を超越し、生命に迄も及びますが、物に心が結びつき、心持ちが物に現われ、又は物故に生命を賭けることもあり、物が心に与える影響も甚だ微妙なものがあります。
 心も、頭脳から放射する或る物質と云う説もありましょうし、意志の動きから物を造る事も出来たり、移動したりするから、表裏一体だと考える人もあるやも知れませんが、この問題は別に解明するとして、ここでは、物と心と生命を分けて考察してみましょう。
 尚社会機構の変革については、稿を改めて述べ度いと思いますが、私は常々高い所はそのままで、低い処から引き上げて、乏しい人を豊かに、足りない物を充たして行く方式を考えて居りまして、ここに日本を豊かにと採り上げていますのも、やはりその意図から発している訳で、日本が高ければ、他の低いところから手を付けるでしょう。理想社会は物心とも豊満でなければならない筈ですのに、日本の現状は、その何れもが他と比較して、甚だ低いことは何回か繰り返しました
 私は最も乏しい日本を豊かにする方法には、いろいろあると思います。富有大国と結び、国境を無くすること、世界の何処かから莫大な物資や優れた思想を入れる事、日本人が移住又は出稼ぎに出るか何かの方法で、人口を稀薄にする事等、外交的な措置が成されるなれば、急速に個人宛の物量資源は豊かになり、心も寛くなりましょう。
 このうちのある条項は、中国等には迎えられるかとも思いますが、今の状勢では、一寸出来ない相談でしょうし、再び爪牙を磨いて出掛けたり、憐みを乞い受けようと願っても、先方が歓迎しそうもありませんし、又当方としても、左様な事をし度くないでしょう。私としても、それは高い所を崩して、低きに持って行く事になりますから、避け度いです。
 移住出稼ぎ等の話が起っても、さきにも述べましたように、人格的に欠けた質のよくないのが先達で行くと、世界中の嫌われ者の実績が付きますし、人の嫌う職業が日本人の世襲的職業となり、
職業を通じて尚人々に嫌悪され、僻み等からも心が荒み、犯罪等社会悪の巣組む事にもなり、日本人全体の不評の因となり、かような人が地球上にあることは、世界の不幸で、自他共に不快な人生となります。そうしたこととは別に、交友・連繋・協調等外への働きかけを怠らないことは勿論ですが、一方内面的に考え直す事が今日の急務で、高い知性と能力と人格で、親交を深め、相協力して、努力を傾注するなれば、物も豊かに心も爽やかになり、住みよい社会が実現します。
 先ず物の面から見て、日本は甚だ貧乏国だと一般的には考えられていますが、一面からみると、必ずしもそうでもなく、優秀な知能を具えた人達が満員です。
 人口が多いと云うことは、限られた物に対しての比率からは、物が寡い事にはなりますが、その物を移動させたり、必要なものに造り変える仕事は、人間にも出来ますから、その人間が最も効率的に、物の価値を増すことをすれば、その比率は幾何でも変えられます。
 物は分解・化合・合成等により、様々な形に変り、人間に有効な物になったり、無用な物になったりしますが、これは一時的現象であって、その時、その場所、或いはそのままでは、無用又は有害な物でも、最も必要な物に変ったり、変えることが出来ます。そうした変化を最も上手に行なって、人間に最も必要な状態にして、要求を充たすなれば、決して乏しい等と託つ必要がなくなりましょう。
 こうした変化は、自然的にも生じますが、人の行為によって、自然現象を増補したり、全く人為的に変化有効化することによって、豊満になります。
 現在では必要物量が足りないようですが、足りないと欲求が生じ、欲求が起れば必ず工夫が加えられ、現に非常な熱意で必要物資の増産に専心され、それぞれ優れた実績が収められつつあります。米=(炭素+酸素+水素)×光熱=空気及び太陽等、肉=(炭素+酸素+水素+窒素)×光熱=空気及び太陽等ですから、空気を食物に造り変える研究をすること等で、空気は食べ切れない程日本にもありますから、戦争に注ぎ込む資材と努力と生命を切り替えて、研究室を設けましょう。
 日本を世界一に富ますものは頭脳であり、日本人は頭脳も亦、用い方によって素晴らしく働く筈ですから、湯川博士や有名無名の科学者達を、その道に没頭して頂けるよう、資料と費用と生活を、吾々で積極的に護り、心からなる声援を贈り度いものです。
 又心の世界を開拓し、心と物の結び付きを解明し、健康を増進し、人格を訓育し、真の幸福社会のあり方を検べ行なわんとする人々の活動を、易からしめるよう、大乗的見地から、協力致し度いものです。
 物を生産し、運搬し、販売する業者も為政者も、一日一時間の束の間も、そうした気持で一先ず低い日本を引き上げて、良い状態にすることで、世界に迷惑をかけないで、終局目標を世界幸福に置き、方向を違えないよう、持てる知能を傾け、力を集注してそれに協力することが、子孫永遠の真の幸福への近道だと思います。現に、今日沢山の間違いがあります。即座にこれを切りかえて、急転直下理想社会を実現するのが、この知的革命であり、私はそれに確信を以て発表した次第です。世界が二つ三つに分れていては、何時か何かが起り、今も毎日何事か起っています。愛し孫子を戦場へ送らないよう、頭の上から弾が降らないよう、先ず日本から実施して世界へ呼びかけましょう。
 以上は本号に「一卵革命を提唱す」の題名で呼びかける必要上、それに関連する一端を抽象的に述べたのみで、いずれ号を重ねるうちに、全貌及び各項目に亘り、具現方式等も書いてみたいと思います。御判読の程を。
           1954. 11. 27.
ÀS 15:06 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 二 先ず日本から, 知的革命私案(一)
知的革命の端緒 一卵革命を提唱す /山岸 巳
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ÀS 15:02 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 知的革命の端緒 一卵革命を提唱す
一 前説
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ÀS 15:01 NENHUM COMENTÁRIO: 
1.日本の鶏と農
 鶏鳴によって日本の夜が明けたとの伝説は、まん更根も歯も無い造り言だと云ってしまうには、何だか惜しい感愁が残るのは、私ばかりではないでしょう。
 作者の頭のよさか、在来種の鶏の頭がよいのか、在来種が何時から日本に居たのか、何れにしても洋種と云われるレグホーン等は、宵のうちから真夜中でもよく鳴いて、不吉の兆だと迷信家に忌み嫌われていますが、日本種は大体一番鶏、二番刻と性格に黎明を告げます。
 兎に角日本肇国を、これに結び付けると、当て嵌まることは事実です。
 私は今の世を、夜の世界だと云い度い程混濁し、間違い・怒り・紛争・苦悩が多過ぎると思います。
 特に日本は戦争で物を無くし、生命を無くし、世界からの尊敬・友好・自由をなくし、堅持して居た高い誇りを失ない、社会気風迄荒び果て、経済的に精神的に顛落し、乏しい小島に自信・希望・目標・生活に不安定の日夜を犇めいています。
 この不満・不安定の夜の地に、明るい希望に満ちた晨を呼び醒そうと、鶏が登場することは聊か伝説じみるのです。
 そのかみ農業立国等、これも誰が云ったのか私には判らないのですが、日本農業の現状はどうでしょう。自国の食糧・飼料迄他から仰ぎ、綿・羊毛も他に依存し、家を建てる用材も、薪炭にも事欠く有様です。
 これも戦前からの事ではありますが、何とした事でしょう。果ては人の口が多過ぎるからだと他所から忠告されて、アアそうだったかと、今更乍ら人減らしの相談・計画。それも悪くはなかろうが、人には口もあれば手もあり、頭もあり、蛙や虫けらでも食べているのに「一寸辱しいじゃあまへんか」です。泣言云ったり、意気地のないこと止めまして、ここらで一休みして頭の使い場、脳味噌の出し場所と、お互いの瓢箪頭、茄子頭やら 頭と、頭の品評会でもやりましょう。生命の糧の米麦を、瑞穂の国が輸入せねばならぬとは、百姓の面目何処にありやです。肥臭い頭を洗って、硬い頭を揉み軟らげて、出直しましょうよ。
ÀS 15:00 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 前説, 知的革命の端緒 一卵革命を提唱す
2.働き過ぎる
 −−−馬鹿働きを−−−

 百姓が真の百姓でない証拠に、牛馬よりもよく働き過ぎる。毎日朝から晩まで体ばかり使って、頭の方は米作り技術には使わずに、小金儲けに余念なく働かせるのが百姓の仕事でなく、頭も共に休み休み上手に使う事で、仕事するのが目的でなく、米を穫るのが目的で、米を穫ったら腹を太らすのが目的で、国中世界中の人に満腹満足さすのが、真当の百姓の仕事です。
 それから、食べる事が人生の目的か、何が目的で生きているかを見極める暇を造り、手元・足元より見えないチョイかしこ、チョイ真似で、悪自信のついた硬化頭の改造もしなければなりません。
 狭いと云われる日本の耕地を独占して、誰に一歩も踏むまさぬ理は、ノロマでトンマで小金に目のない、ひとかまわずの馬鹿百姓の特権ではない筈です。
 有能な農民は小費・小労・多収・豊産で、自分もひとも鼓腹撃壌、財も出来るが、作物と共に楽しみ、思慮ある真の百姓に成り切ることです。
ÀS 14:58 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 前説, 知的革命の端緒 一卵革命を提唱す
3.日本農民の仕事
 差し当り日本の農民は、米(農産物)を豊満にして輸入を止め、価格を引き下げる事が仕事です。
 日本経済の安定・国民生活の確保は、先ず生活物資を国内で生産するに如かずで、世界経済に繋がり、適地・適作と云っても、売る買うには相手方の要ることと、その間の諸経費の嵩む無駄があり、極力時給の道を研究し、生産費を切り下げ、価格が低下しても採算が続くよう努力し、且つ消費者側の生活費を軽減し、それぞれの部門の仕事に専心没頭出来るように協力し、一家の財産と思うと共に、国全体が富裕になるような方針で励む事です。
自分一人の力で収穫したものでない理が判れば、同じ土地に住み、それ丈土地を狭められている商工業者や他の人に、その徳を頒つことは当然で、農産物が豊富に安価に得られ、生活が安定するなれば、安い工業生産品も出来て、農家の必需品を安価に充たし、国外市場も拓け、それ等の人々の生活をも豊かにします。農業立国の古い言葉は今初めて役立ちそうです。
ÀS 14:56 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 前説, 知的革命の端緒 一卵革命を提唱す
4.卵を5円に引き下げましょう
 米の増収と価格の引き下げに、根本的に大きな役割を持つものは養鶏です。
 私はいろいろの農法の一端を聞き齧り、自分でも数年間百姓の真似事をやって見て、いよいよ、ますますその必要を感じ、今なお次々と気付きつつあることは、植物と家畜の密接不離の相関々連で、特に、米−鶏−土−米の因果循環です。鶏に米の合う事は数十年の実績から断言出来る事で、健康・産卵・肥育に適し、米で造った卵肉は、味と香気と滋養等品質が特に優れ、雛の発育・・色沢の目醒ましい事も、本会員諸氏の素晴らしい成績が立証している通りです。
 米がそのうちに生産過剰になりますが、その時は牛・豚・鶏に与えれば、美味良質な卵肉が最も経済的に増産されます。
 果樹・果菜・芋類・穀類・花卉・茶・桑園・牧草等に鶏糞の肥料効果の著しい事、土地を肥沃にすることは、今更喋々する迄もありませんが、米不足の問題は、既にこれによって解決していると云っても、過言ではありません。今更山野を開墾して稲を植えなく共、現在の稲作面積で充分で、寧ろ山間部の何畳敷かの三日月田は、近く整理転換すべきでしょう。果樹もあり、飼料作物や
植林も考えられ、如何に精神生活の得意な日本人でも、労働生産性の点も少しは考えて、米さえ穫れたら良いとしない事で、鶏や牛の餌を造って、乳や卵肉で栄養の均衡を図ることだと思います。
 稲作と鶏については、常々研鑽会や色々の機会に云って居ますし、会員諸氏も実験済で、釈迦に説法で叱られそうですから止めますが、唯鶏糞の用い方を知らないと、稲が食傷することがあり、病虫害や倒伏の損害賠償を持ち込まないよう、よく勉強され度いです。私の浅い経験では、土質にもよりますが、多施する程増収し、今の耕地で一億人位の米は確保出来る筈だと云えます。
 それだけ米を増収するためには、それに合う農法によること勿論で、又それに合う羽数の鶏を飼養し、又その鶏を飼う飼料を、その耕地等で栽培することです。
 農法を改め、養鶏法をそれに合わすと、鶏卵が一個5円以下になっても、快適な経営が続けられます。手の要る養鶏法や、忙しくなる農法は、二兎を追う愚人の処作事で、私は他人にすすめる勇気がありません。
 5円と云うのは、今日の物価指数をこのままにしての事で、この位の値頃になると、商人も工員も一般所得や給料の低い人達の
食卓を賑わし、弁当に、菓子の原料に、遠足に、無限に需要は拡大され、生産過剰の心配もなく、国外へ引き合いが付くと思いますし、農家も消費者も、美味で安価で栄養完全の蛋白食に、健康を増し、活動的となり、米の消費量は激減します。
 こればかりは、老人も子供も病人も、一般全大衆の食と健康と家計を好転し、たかが養鶏位と思わずに、僅か一個の鶏卵にも、自他を豊かにする大きさを知り、生産するにも販売するにも食べる時も、お互いの心を通わせ度いものです。
 生産者は自分の儲けのみ考えずに、卵価を下げて消費者に楽になるよう心して、安く売っても引き合うように、生産費を引き下げ、成績を上げ、興味本意の経営を楽しみとします。
 消費者は安い卵で生活を豊かにし、財産を積む事のみに専念せず、各々の仕事の方に専念し、工員は一番よい工員として、よい生産品を造る事に専念し、官吏公職員も、有能・公正に、教育者も、食うための職業とするよりも、教え子がそれぞれ自分より立派になり、老後に慕って訪ね寄るような、楽しい真の教育者になることです。宗教家も、自ら神仏になろうと無理をせず、生活も亦安定するから、金襴袈裟衣や伽藍の威殻を抜け出して、肉食妻帯の真の人間となって、社会浄化に打ち込む方が心の呵責に嘖なまれず、砂噛む思いでお経を読むよりも、自他を幸福にするものだと私は思っています。
 本会で農家には、農業養鶏を推奨し、宗教家や教育家は、人生養鶏を実践され、生きた教育・宗教を現社会に直結して、現世よりの幸福社会を実現しようと東奔西走、真の宗教・教育家としての道に精進されつつあります。
ÀS 14:54 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 一 前説, 知的革命の端緒 一卵革命を提唱す
5.私は秘密を堅持している
 私は今迄に私の社会構想や農法等について、一端に触れるのみで、具体的なものは殆ど発表して居りません。
 ヤマギシズム社会にある根源的要素の一つを、最も性格に決定的に打ち出す、頗る簡単な、数語で説明出来る言葉があります。
 この言葉で総てを誰でもが判定することが出来るのですが、私はそれを絶対に口外しません。いずれは云いますが、今それを洩らすと、ある国々が思い違いをして非常なショックを受け、多分敲いて来るでしょうから、私の身が危険になります。元より生命は一度はなくなる事はよく知って居りますから、その方は大した事とは思いませんが、目に見えない、いのちが失くなると、書き続けることさえ出来なくなり、理想社会が遅れるでしょうから発表しないのです。
 そこでその字は出さずに、その字句と同じ意味のことをここでも書いて居りますし、各種の公開の席でも発表して居りまして、現に実践に移しつつあることで、別に危険でもなく、誰に迷惑を与えるものでもなく、内容は至って穏健なもので、必ずこの社会が全世界に実現することは、自然の理法であり、最終のものであり、この社会になる迄は紛争は、絶えないでしょう。
 その字句さえ出せば平易に判り、こんな廻りくどい文章は相当削除されるのですが、迂遠な方法を採らなければならないのは、誤解しそうな国の人々には字句そのものが余りにも鋭く、激しい感じを与えますから、当分云わない迄で、云っても云わなく共事実は、ぐんぐん進行さしていますから、お互い痛い目をせず、混乱なしに、血を見ないで、幸福社会を実現さすために、ある段階迄は絶対に云わない事にしています。
 これが私の一つの秘密で、云わない方が理想社会が遅れないで、確実に実現するからです。これ程親しい仲でなぜ云わないかと怒る人もありますが、その理をよく解って下さいね。
 次の秘密は大したものでなく、私の農法で、例えば馬鈴薯や、キャベツ作りの一技術ですが、農業は匿すことは出来難いもので、公開の圃場で、何時、何をしているか、どんなに出来たか、一目で判り、隣地の農家は、不思議な出来映えを見て話しかけますが、何故か掴もうとしませんし、私も親切の押し売りをしない方で、本当に欲しく、本気でやり度い人ならば、どうしてでも探りもしようし、尋ねもする筈で、こちらが不親切なのではなく、先方に欲がなく、自身に親切が足りないから、私をして云わさないだけの事です。
 しかもこちらから押しかけて勧めると、よく失敗するもので、自分の不熱心さで失敗した場合、その不足の矢は必ずと云ってよい程、こちらへ向けて来るのが、今の社会に住む人間の通有性で、軽率な人には失敗の惧れがあるこの馬鈴薯栽培は、云わない方が双方のためでもあり、この栽培法が一般化しても、人類幸福には大した効用もありませんから、今の処強いて云わないのです。
 私の稲作法は、僅か5年足らずの新参百姓の、薄い頭で試みた、原理的技術であって、実験年数浅く、何処ででも、誰にでも、どんな年でも、必ず何石穫ると云い切ることの出来ない、いわば決定版でない故に、他の人、他の地方、或る場合により、失敗されては相済まぬし、その責任もよう取りませんから、他の稲作の神様連程厚カ間敷く押し出さない迄です。養鶏が一応見通しがつけば、近く発表するつもりで、これも日本はおろか米作地一体に拡がる自身はあります。
 大根栽培は私の生命線で、これさえ放さなかったら、私は一生食い逸れないと思って、温めて出さないです。
 人は私のような人間にでも、用のある間は寄って来て、使用しようとしますし、それぞれ自分のために、大いに使ったらよいものを、(私も使用され度いが)一寸手に余り、うまく使いこなせる人が少なく、役に立たぬとなると、鼻でもかんで捨てられることを自覚(不徳故に)していますし、私自身が、誰にも恩返しをしたことがありませんし、しようとも思いませんし、又出来ませんし、恩を売っても居ませんから、捨てられ、踏み躪られて成仏?するのが私の当然な運命で、人は大体そうしたものと決めて出発していますから、何と罵られよう共、ニコリッとしていられるのです。
 私に感謝だの恩返しだの、私のためにお助けする等云われると、片腹痛いです。生かして置いた方がお役に立つなら、飼って置くなさいよです。
 一人になって大根でも作って、書き続けるうちにさらばが出来たら元々です。
 この会も、私一人の会でもなく、私に名を成さすための会でもなく、目的は他にあり、私のためになら何もされない方が賢明で、自分の抱かれる理想社会を、自分及び自らの子孫を含めた皆の人の幸福を目指して、その実現のために、相共に協力されるのなれば歓迎するのです。大いに提携したいのです。
 この大根作りも、自分一人で儲けたい人が知ったなれば、日本中の市場を皆大根に埋めて、売れぬ大根の運賃で悶死し、皆が知ったら大根攻めに会いますし、それから、日本人から大根は切り離すことの出来ない程の必需品でも、大根のみでは胸が空いて水膨れになり、大根腹では余り幸福にもなれそうでありませんし、米や卵の代用にもなりかねますから、程ほどにして置きましょう。
ÀS 14:52 NENHUM COMENTÁRIO: 
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6.養鶏技術について
 私が云いかけて云わないのが、トテも気になるらしい。云いかけて云わぬのなれば、何も始めから云わない方がよいし、モー奥が無いのに人を引っ張って置くために、勿体づけて、まだ有るように見せかけているのだとか、養鶏の方が種切れになったから、精神面の話でゴマかしているとやら、何辺研鑽会に出ても、同じ話ばかりで嫌になり、何も聞いて役立つような珍しい話が無いから出席しないとか、そのうち躓いて泣きついて来ると、ソレは治ってケロリと忘れ、そのうち迷いが又始まって、又外の事でつまずいて来ると、その事に触れずに、お説教を押し付けられたり、雲を掴むような話で、煙に巻いて、腹を立てなと云っていながら腹を立てさすし、オコられる(オコっているのでしょうか)と云います。
 卵を産まぬ、大損さされたとカンカンになっているとか、(面と向って、直にドンと当って来られないクセに、蔭弁慶共が)アリャ駄目だから二回給餌がよいとか、三回にしたとか、自分の鶏のみで足らずに、粗飼料が、自家配合がと、閑な一部の例外や、自分の特別の場合を他人に迄勧めて廻り、後の責任はどうなさるか知らぬが、御自身の未熟な技術や、頭の悪さを自己宣伝に力め、乾燥一回給餌で、一番儲かる方法の勉強を共にせず、練り餌がよい、生魚屑はよく産むとか、中には白レグが、バタリーがと、憐れな欲無しが、だんだん型を崩しいよいよ複雑に、ますます忙しく、或る人達より出来ない面倒な型へと普遍化の逆車を推して鶏に奉仕し、自分の足下を自分で崩して気が付かない迂濶者が、追々と湧いて来ましょうし、現に方々に、他からの逆宣伝と呼応して、賑やかになりつつあります。
 これも予想に織り込まれた一時的現象で、こうしたウィルスも、やがては事実と云う太陽に照らされて消滅し、真実の人達の前にひれ伏すことは決定しています。
 生物は愛の心で飼わねばならぬのに、儲け道具と考えたり、腹立てて飼ってうまく行きますか。損するのは誰ですか。あなたでも毎日怒っている主人の下で、気持よく働けますか。能率が上りますか。牛を見なさい、飼い主の性質と見並べて。憎んで腹立てて育てた継子がどうなりますか。日々の新聞は、愛に飢えた継子が飯の種ですよ。
 力に余る大きな鶏舎を建てて手を焼いている人は、腹が立ったら胸に手を置き沈思黙考黙考。私は自分で仲々行なえてはありませんが、自分に一番厳しかれと念じ、身に近い者程厳しく、愛の鞭か、憎しみの鞭かを静かに味わってみましょう。
 この養鶏法は、何も知らない素人が初めてやれば皆育ち、よく産みます。話を聞く時、耳が立ち目が光っている。何回でも聞きに来ますし、素直に受け入れます。成績のよいのは当り前で、親の肩車で川渡りしている童子のようなもので、自分で渡ったと他愛なく空威張りし、二年目になるとそろそろ巧者が入り、気弛み
が出て三年目になると雑音やら、おれがの我がノサバリ出し、母が馬鹿に見え出し、常識やら悪友に誘われ、粕理屈や本や雑音のうちから、モットよい手がありそうと、取捨選択で自惚れ欲を満たさんと、欲に欲が出る、足が浮くで、鶏病にしても云われるままにして居れば殆ど出ないし、出た処で、会に依って居たら治して貰えるものを、敷居が高くて来られぬままに、片言覚えの素人療法で治らぬとて、インチキ呼ばわりしたり、知ったか振りして他人の鶏を殺して赤恥かいたり、身の程知らぬ憐れさで、自ら掘った落とし穴に踏みかぶって、親に不足を云って来るし、くさし廻ります。甘い養鶏法か、辛い養鶏法か、そんな近目で見通せるものですか。
 練り餌でやったり、生魚屑で回数給餌の臭い手の込む昔の拙い養鶏法に転落し、そのうち気が付くことは、三年前に聞いた事を思い出して舞い戻りますが、こんな多情者は又家を飛び出し、後は野となれ山となれで、法界坊の成れの果てを、並木の松に晒すこと必定です。初めは、云って貰った通り一貫してやりますと約した初さは何処へやら、何しろ心の置き場所が間違っていて、母の心も知らないで、人がやらないうちに一儲けしようと焦り出し、焦るから目が見えなくなり、だんだん下手になります。自業自得とは云い乍ら、大きな安全な道があるのに、近道しようとして怪我をします。この会は自分一人儲けをささない約束通り、今に地方から自給飼料の5円の卵が押しよせて来て、アップアップで溺れますよ。地方では何故安く出来るか聞きに来なさい。その訳を説明して上げますよ。娘売ろうか鶏飼おかの真剣な疲れた農村の実状を。
 不心得者の限って、自分の伸びる邪魔するなと、他の地方の乏しい人達に拡める事に反対し、会を崩し、自分の足もとの国をつぶしにかかります。本会もそろそろ、こんなのが湧いて来る季節に入りますよ。いやなら会から、さっさと離れる事で、養鶏も全国に広がったし、一卵革命やら、長居していると何が起るか、今の中ですよ。
ÀS 14:50 NENHUM COMENTÁRIO: 
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7.云いかけて云わないことと後編発行を遅らせている理由は
 私は山岸式養鶏法の中の、農業養鶏編の前編のみを出して、後編を未だ出して居らないから、各地から問い合わせや申込が沢山参りますが、これは何時発行出来るか未定です。
 私は出来る事なれば、出さずに済ませ度いと思っているのです。
 後編を出せば少々は儲かりますが、それは親切に見えて、実は真の親切でない事になります。育雛40日迄は実に易しく、誰の目にもその良さが解りますが、それ以後になると、追々と技術的に経済的に複雑さを加え、損益の岐路は実に微細な処にあり、世の多くの人達は、養う養鶏や、儲からん養鶏や、損するための養鶏をして忙殺されて、最後は空鶏舎と借財が残る養鶏法をしています。
 私共は生産者も、消費者にも都合のよい鶏卵を5円にして、皆が豊かに仲よくなる運動をしていますのに、5円になった途端に、鶏舎が物置になっては、仏創って魂入れずで、最終目的から外れることを知っています。
 今迄の例から行くと、鶏界が不況になって、一番先に鶏を売るのは農家です。
 専業家を圧迫したり競争するものではなく、提携して5円に卵価を引き下げるよう、相共に協力しなければなりませんが、養鶏は一つの産業で、仲々甘い事では専業家の技術には及ばないです。三年五年と年期を開けた人や、養鶏書片手に幾年も失敗や損を重ねて、高い月謝を注ぎ込んだ人に、直ぐ高慢やになる百姓頭では、従いて行けませんよ。
 毎日昼夜鶏に付き切りで専心打ち込んでいる専業者に、百姓や何かの片手間で肩を並べて行けるものですか。
 鶏の方に力を入れると、稲作が留守になる。試みに白レグを飼って、秋に穫り入れに力を入れて、給餌時間が遅れたり、早過ぎたりしただけで、どれほど応えるか、利益の裏側には損失があり、一辺に換羽にかかり、長期休産することがあります。忙し過ぎる農家の実態と、忙しい時の農家心理に合わさないと、思わぬ損をしますよ。
 餌についても、小麦が安く糠類が高くなったり、毎日変動し、専業家は目を光らして利巧に機敏に入手し、生産物の販売も百姓とは一寸上手にやります。
 共同購販の機械的な操作と違い、活きた商才で、動く相場を掴みますから、この点だけでも専業の人に後れを取ります。
 稲作に毎年風とか水とか、品種・日照・肥料と、一難去って又一難、昔から知らぬ病気や変な虫が渡って来たり、倒伏等があるのと同様に、養鶏もそれ以上で、変動の多い飼料や、生産物価格に対し、活字の本を読んだり、講習をたまたま聞いたり、他を見たりした悪自信で伸びた天狗の鼻は、いとも簡単にポキリです。
 今の様な好条件の時に、フラフラ迷い出している幽霊は、早く足を生やして大地にシッカリ立たなければ、不況の嵐に真っ先に消えて無くなりますよ。
 専業家は、農家の手の届かない特徴と手腕で、専業として経営し、農家は、専業家の真似られない独特の長所を生かし、忙しくとも技術が無くても、商才が乏しく共、規模は小さく共、立派にやって行ける組織を持つ事です。
 しかも権利だ義務だと、ゴツゴツ法律で固めた、動きの取れない器物的なものでは、絶対駄目で、心の堅い結束による総親和の大組織が物を云います。
 専業部の人々と提携して、種鶏を大組織で改良し、組織の中の
孵化場で孵化し、組織内の飼料商から委せる良心的な餌を買い、組織を通じて生産物を消費者に贈ります。全部一貫的に血の通った産業とし、一日も早く1個5円の鶏卵を有利に生産し、生産者も消費者も、生活を豊かにすることです。
 以上のように、諸種の条件を揃えねばなりませんから、本に書いた位でそれを取り入れて経営されることは、却って中途半端な線に止まり、5円の線が来た時、絶対決定的と安心出来ませんから、育雛及びそれに関連する必要な部分だけを出した訳で、其の後は、お互いの自力により力を付け乍ら、且つ心温まる会の組織を拡充し乍ら、その間研鑽会や、諸種の機会を通じて、私の云いかけて相済まぬと心中詫び乍ら、心ならずも云えない秘匿・温存する技術其の他全部を、発表することを、私はここに確約し、会員相互の血の繋がる立派な揺がぬ技術と経営と組織とにより、豊富に安価に鶏卵肉を生産し、農産物を豊穣にして、商工官民とも相協力して、世界の幸福につづく、日本の全国民の健全なる生活を護り、親愛快適なる社会を齎そうとする意図に外ならないのです。
ÀS 14:48 NENHUM COMENTÁRIO: 
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8.一卵革命具現方式の要約
 私は一卵よく世界を転覆し得ると大言しています。併しこれは決して誇張ではないと思います。科学的に、数理的に及び人間の心理的に、動かせない本質的基盤をバックボーンとして組み立て、歴史的に進化的に過去・現在及び将来の変遷・移行を調べ、自然と人為の調和によって益々強靭に、荘厳に肉付け、滲み出る人間社会愛の香りと、潤いと、美粧を添えて、永遠のものたらしめんとするもので、その礎石・原材となる総ての資材は、豊富に現実に用意されたとしても、設計・施工を過てば、あたらその良材も、風無くして倒壊し、又は醜悪の姿を晒すことでしょう。
 私共はその工匠・術者たらんとし、否そのそれ等工師の何処かの最も小さくして、最も重大な要素となる無形資料に、滋味と活力を供する実動行為として、一箇の卵に心をこめるのです。
 人間生存の源泉、衣食を、人為を尽して自然にもとめる大多数農家に、その方策に賛助し、効率の高揚と、生存の恒久生を取得されるように仕向けるものです。而して農民の得た結実は、他の凡ての人々の生存と活動を支持・擁護するものです。
 私共は鶏を全農家の経営体に組み入れ、農地の肥沃化、生産物の良質の累進・収入の倍増による、職業と、食と、経済と、健康生活を確保し、その豊穣なる生産物を、消費者に安価に贈るもので、養鶏収入は全農産物の純益に匹敵するに足る、高額を占めるものです。
 要するに鶏のいない農家を一戸もなくし、鶏卵肉を誰でもたやすく、農家は勿論、社長工員も、ルンペンも大臣も、街の隅々まで一人残らず日々食べられる運動、即ち広く浸透して、前部凡ての人の健康と生活を護り、一方狭く高く、特定の学究家等に無償で連続的に贈り、優秀知能の支持・伸長を図る、面と点に具現方式を実践するものです。
 私も鶏に直接飼料は与えられませんが、会員諸氏の一個一個の卵にもタダの卵でなく、われひとと共に繁栄せんの心のこもった、人のよろこぶ卵として、養鶏に携わる者はその立場から、諸兄姉と相共に親愛社会に孵える一卵、一卵以て日本を、そして全世界を、幸福一色に改革する端緒とし、月界への通路たらしめましょう。
           1954. 11. 29.

 私は食いつめた時には大根の技術で活きて行けそうですし、死に対しては憧れ、急いでもいませんが、死を嫌っても居ませんから、私の為にでしたら、祀り上げたり、何等施さないで下さい。私の事を構わずに、良い、安い、世を明るくする卵を、一個でも多く生産して下さい。平常の暴言・失礼は反省していますが、何故に出る言葉や態度であるかが、解って頂けると思うのは果して厚顔でしょうか。
ÀS 14:46 NENHUM COMENTÁRIO: 
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二 本旨 心あらば愛児に楽園を
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ÀS 14:44 NENHUM COMENTÁRIO: 
1.源泉の涵養
 いま日本は精神的に物質的にまことに乏しいです。
 この日本を最も豊かにするものは、人間の持つ知能であり、一人の知恵は世界一の日本にするかも知れませんし、決して奇蹟でも僥倖でもありません。その知恵は何処にあるのか、何処かにあっても引き出すことが出来ずじまいになるかもしれません。
 それを見出し伸ばすものは、政治力・経済力に負う所が頗る多いのです。
 しかもその何れもが乏しく、政治の貧困は格別です。
 成程戦時・戦後の国内外の事情は総てが不如意で、それ等が因となり果となり相関連し、錯綜し、且つ世界経済・政策・思想等の強圧に棹さす政治の困難さは、容易ならざるものがあり、一入苦艱を免れないものと雖も、多事多難であるからとて、失政も止むなしとせず、冷静緻密な判断による計画と、正確強力なる積極的実践力を有する、真の民衆政治に傾倒しなければなりませんし、国政担当者が、自己のみの主張を強行したり、自己の役務を履き違え、政権争奪や、名声や、汚財の獲得に狂奔する等は以ての外で、そんな野望が毛頭でもあれば、不適格者として葬らねばなりません。而して外国次第の手無し政治は止めて、自らなる内よりの力を発揚して、自主、自力政治に転換し、先ず自国を完成して、世界に和する基幹構想を確立することです。
 その構想計画のうちには、重要にして一日たりとも怱せに成し得ないもののみではあるが、私は国民全般の福利を普遍的に増進する、今日の重要施策と同時に、今一つ、今直ちに着手しなければならぬ、基本的重大方策があることを強調し度いのです。
 今日の問題に忙殺されている中にも、明日の破綻を防ぎ、光彩輝く将来を画策・施工して置く事で、今日は苦しく共、むしろそれに総てを賭ける方が、賢明だと信じています。私は、今日はどうにか生きて働けてさえあれば辛抱し、今日に於て明日のために勉学し、十年後のために果樹の種を下して肥培し、百年千年後のために植樹を行ない、道路・水路の整備を強行し、明日・次代の児孫の豊かさを念うものです。
 自己の延長である愛児に、楽園を贈ることは、間違いのない真理であり、自分に尽す結果になり、今日自己一代の栄華や、自己の子孫のみの為に囲いの中に営み貯える、何時侵され崩れるか図られぬ不安全さを思えば、ひとと共に力を合わせて行ない、皆血の繋がる人間同族の児孫の幸福のために、致す事が真実です。私はこの真理を確信しますが故に、同じ考え方の人々と共に、明日の楽しみに生きて居るつもりですが、中にはその方面の事は、奇篤な奉仕者のものずき位に思って、自分のみを願い、他に迷惑・妨害になる行為を平然として続けている人が、確かにあります。併し私達の社会には、犠牲も奉仕も一切ありませんから、残念乍ら、私はそれ等の人のための奉仕者には、成ろうとしても成り終ることは不可能でしょう。
 私は明日の計画のうちの、主要項目の一つとして、一番先に挙げ度いものは、そして一番効果的で、この乏しい日本を豊かにするものは、知恵の鉱脈を探り当て、それを開発することだと思います。
 幸福条件を解明し、それを探求して突き止める適任者を見出し、その人の活動を阻害する凡ての条件を排除し、又保護して、経済的に、精神的に援助・協力する・頭脳チャンピオンに期待する方法を、絶対的に強化したいと思います。
 現在でもこの点について、それぞれ制度を設け、実施されてはおりますが、微温にして徹底を欠き、充分なる機能が現れて居ないようです。
 真の学者や、思索家・研究家はそうした専攻的方面には、最も優れた素質を保有していても、頭脳と時間を一方へ集注し、それに偏すれば偏する程、偏するが故にも、その多くの人は、経済的や、肉体的健康等の生活能力が低下し、時間的にも、研究資料の蒐集にも不如意となり、環境条件に制約を受けて、自由に思いのままの追及に支障を生じ、その優秀な能力を発揮し得ず、減殺され、埋もれ、中絶の止むなきに至る事屡々です。
 こうした逸材の大業を保護育成し、活発積極化する施策は、根を培い肥し、やがて枝葉を繁茂し、良果を稔らす、根本的な問題で、不具・疾病・療養・養老・貧困等の枝葉の厚生福祉施設と、教育にも万全を期すると共に、根源の涵養策を強行すべきことだと思います。
 乏しい日本を豊かに幸福にするには、その条件である心理的なものと、それから物質その物の豊満によって、解決出来ることは再度云っています。そしてその解決の基本的解明に当る心理学者や、物理学者等が、生活や、設備や、資料に捉われないで、健康で専念して、究明に没頭出来るよう、学者(学者とは限らないが)の優先待遇計画の画期的強化に、協力致し度いと思うものです。
ÀS 14:42 NENHUM COMENTÁRIO: 
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2.鶏を飼う身で協力
 私共は鶏を飼い、農業を営むことを、各自の仕事としてそれに専念し、その立場から幸福社会実現に協力し、心をこめて、その目的に叶う卵や米を生産し、安価に、豊富に供給し、養老・孤児其他今日の積極福祉等にも、大いに協力する一方、今述べました積極的重点協力の方にも、何等かの一役を果したいと、会員諸氏に相図る次第です。
ÀS 14:40 NENHUM COMENTÁRIO: 
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3.学者に一卵を
 この案は今日迄、機に触れて会員に意中を洩らし、意見を伺って来ましたところ、今迄には例外なく、協賛を得て居りまして、これを語る事によって、一層この会の性格と意義に対しての理解を深め、握手を堅くするばかりでありますので、一つの確信を以て提案するものではありますが、もとより一会員の私個人案の事とて、不備な点も随分ありましょうし、決して押しつけるものではありません。
 私が実行し、又他の会員の方が共鳴されて実行されましても、必ずしも同調しなければばらばいものではありません。先ず私共の真意と方法等について、関心を持って、深く御検討されて、間違いや異存等指摘して頂き、幸いにして一致共鳴が得られますなれば、進んで協力下さることを切望します。
 飽く迄至情純粋を期し、売名や、理解のないおつき合いの協力の弊を避けるために、芳名も一切公表しない方針です。
 明日の世界、吾が児に楽園を贈る、各自の心からなる協力でなければ扱わない事にし、途中に於ける数量等の間違いを防止する意味から、凡て伝票制とし、会として現品を取り扱わない方針は如何でしょう。
ÀS 14:39 NENHUM COMENTÁRIO: 
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4.疎遠の会員の質問に応えて会の実情を
 本会は僅か一年余りで全国に拡がり、この通り大きなものになりました事は、当然のコースで、本会では会員諸氏も御承知の通り、本部はあっても、本部の建物は何一つありません。
 借事務所も、会員の心からの無料提供による住家の庇の一部を、
古箱を??して、当主自らの手で一坪余りを板囲いして、果物の空箱数個が椅子代りにあるのみで、電話一つ電灯一つありません。
 机もその家のものが一個置かれてあるのみで、誰に頼まれたものでもなく、誰もそれについて何も御礼も云わないし、気付いてもいないのかも知れません。会の有形資産は謄写版一台と書籍と(これも借越し)所判位でしょう。
 毎月の研鑽会の席も、その時の人数を予想したり、先方の都合で、区の事務所や学校を借用している始末です。会場の準備や後始末を、豊かでない(物財的に)地元の支部会員総出で毎月受持って居ります。遠地からの宿泊は、人数が特に多い時は、一灯園さん等にお願いしていますが、毎月殆ど会員の自宅へ、三々五々分宿さして頂いて、朝まで語り明かして、家族並に食を供されても、いつも無料です。
 会の収支は赤字赤字で、会計の会員や地元会員の立替えです。
 会の係に対して今迄の処、会から少しも報酬を出して居ません。
 本会としては不自由ですが、そこまで手が廻らないのです。
 何時迄もこんなでは続かないでしょうが、地元会員や心ある会員の協力で、現在迄は何とか足らぬ足らぬの中でやっと来ました。
 これは本部のみの事でなく、地方の各支部も殆どこれと大同小異で、又会員個人の宅へも、毎日毎日訪問者の絶え間なく、その応接に自家の仕事も鶏も鶏舎も散々です。支部結成や、本部との連絡や、協議や、新しく始める人への母役で東奔西走で、本会へ入ったなれば、金銭・物的に、時間的に、大きなマイナスになります。相当精神的にも労れます。併し四国・九州・東北等から来られる熱心さに、吾を忘れて迎え、又出掛けねばならなくなるのが人間の情です。
 物や金ではこんなことは出来ないです。
 人の情は恐ろしいもので、伝えた新しい人の成績が良くて、自分の方がズット落ちて、アア良かったと喜ぶ有様で、宗教・信仰生活等の人の行為とよく似ている位で、宗教や奉仕団体と間違えられて、初めて来る人の中には、相当厚カ間敷い、虫のよいのが沢山寄って来ます。こんなのは、大抵一二回迷惑(受ける当人は迷惑と思っていませんでしょうが、これでは続きませんから、何れ何とかすべきです)をかけて、離れて行く浅欲連中で、これも数のうちと、相手をしている会員の根気のよさは、呆れるばかりです。
 本会は宗教ではないのですから、お堂も伽藍も、社殿も要りませんし、大きな講堂も会館もわざわざ建てて、見掛け倒しで嚇かしたりしない方針だそうです。
 会員そのもの、会の方針そのものが、自らを出し過ぎないで、遅れて新しく入って来る人達に、よき母の愛で、乏しい人、至らぬ人の手を引き、共に携えて自分を忘れ、一見奉仕の形に見えます。先に始めた者が先に儲けないで、日本の隅々、アジアの隅々の最も乏しい人々を対象に、一日も早く浮び上るような方針を採っています。
 実に惨めな、各地山間部や東北地方の単作冷害地帯等は、最も早く普及されねば、富裕な恵まれた都市近郊の人々も、自責の苦しみは解消しないでしょう。
 先達の人や、建物の方は程々にしておいても、急ぐ方から手を尽して行かねばならないし、今日打つべき手は、明日とは云って居られませんから、乏しい農村、恵まれない人達に手を延べ誘う一方、先に始めて多少にても余裕の出来た人や、重点的の仕事を理解された人々は、一部を割いて、日本を根本的に豊かに幸福にする基本的方面にも、一手を加えられ度いと思います。
ÀS 14:38 NENHUM COMENTÁRIO: 
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5.学問・頭脳を優待しましょう
 これは無形から有形物を創る仕事であり、不幸を幸福に転換する根本的の仕事に協力する、実践幸福運動のうちの一案です。
 会の真意が解れば、今迄無かった空地に鶏舎が建ち、元々居なかった鶏が、元気に舎内に充ち、卵を産み出し、米麦を増収する仕事、今迄手元不都合であったものが、廻りがよくなり、雛や成鶏に教えられて心が和らぎ、子供の育て方から、家内中や社会の中での心のあり方、幸福の正体を見付けることが出来る筈ですが、会員諸氏は、始められて未だ日が浅く、資本を注ぎ込んだばかりで、回収は付いていない人が多いと思います。
 併し、そのうちに稔りましょうし、何かは掴まれると思いますから、若しも、そのうちの何れかに気付かれたなれば、その一部を割いて、御自身の明日の幸福のための運動に、協力されることです。
 要するに、今迄にあった田や畑や財産を減らして、寄進奉納するものでなく、今迄の物はそのままで、それから増した物のうちから、その一部を幸福運動に協力しようとするのです。鶏を飼ってから増したか減ったか、何か無形財をも総合的に見て、棚下しをすればよく判ります。
 実践幸福運動は、今後いろいろ発表しますが、この養鶏部門からは、一羽の鶏に一年間に一個位の卵を出し合って、物欲に恬淡で、ただ研究あるのみの心理学者や、科学者に贈り、それ等の人の健康と生活を、農業生産に携わる農業者の立場から、農業者で出来ることで護り、尚その研究に専念して貰えるように、研究設備や、資料や協同力を他の部門や、国費から金に糸目を付けないで、提供したり、又はその人々の身の廻り一切の御世話をしたり、心からなる慰労に尽すような運動をしようと云うのです。枝葉末端ばかりに忙殺されていたのでは、何時迄経っても、根本的幸福は来たりそうにもありませんから、根本問題として着手します。
 細目具体案は後日発表しますが、会は発足後、日も浅い事でもあり、協力段階にある人は、一部に限られると思いますし、この運動を理解される迄には月日を要し、纒まる数量は今の処僅少だと思いますから、科学者方面から始め、心理学者、教育者、優秀学生等の順序に、重点的に贈呈してはどうかと思います。これは一回限りのものでなく、何年でも引き続き同一人に、その家族の人をも含み、しかも年間鶏卵に不自由をさせないように続けられる限り贈り度いです。
 さて受けて頂く人の人選ですが、これについては、矢張り会員の意向に従うことが当然で、私の考えを云うのはどうかと思いますが、一会員としての意見です。
 私は学会や、政界や、官界の事情に疎く、その氏名さえも知らない有様で、人定めする資料も能力も持ち合わせていませんし、何かに偏って、会の、或いは誰かの、又は或る団体の、何かに利用されてはいけないと思いますし、売名的や、幸福運動を有利に展開さす為にする行為等と、誤解の因とならないよう、充分公正純粋な機関に一任すべきかと思います。
 学会団体、又は新聞雑誌協会(そうしたものがあるか知りませんが)等に依頼して見たらどうかと思います。
 私は物品の動き等、一切干渉しないつもりですし、提案はしましても、決定されるのは会員自身であり、協力出荷されましても、御礼は一切申しませんから、その心算で、支部係や提案者に義理立て等の気分や、不純なものが微塵でも含まれているなれば、絶対に提供してはいけないです。
 偽りの贈物は、受ける人に却って迷惑を掛け、心の通わない汚れた品物を押し付ける事になります。
 真実社会を打ち出そうとする活動は、飽く迄真情そのものが肝要です。
 提供しないからとて、誰に気兼ねしたり、肩身を縮めることはありませんし、出したくなるように、成績を上げる方に一層努力することで、それから誰が出したか、出さないかも、一般にも会員間にも吹聴しない事だと思います。
 本案等に対し、忌憚のない意見や、提案や申し出を支部を通じ、本部へ出して下さる事を希望します。
ÀS 14:36 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 二 本旨 心あらば愛児に楽園を, 知的革命の端緒 一卵革命を提唱す
6.主として種鶏家に提案
 次に毎年種鶏検査が施工されまして、その際の陽性鶏や、失格鶏等のうちから、少羽数宛出し合って、それぞれ重点的に贈呈してはどうかと思います。
 例えば、国会や、政府・府県当局者や学園・宗教家や、福祉施設の人達等、直接経済職業に携わらない人々に、軟かくて、他にない最上の若雌鶏等を、時には満腹して貰う計画は如何でしょう。
 代議士や政治担当者に出て貰って、不足ばかりはよく並べますが、吾々は忙しくて出られないから、その代りに頼んで出て貰っているのですから、年に一度位は、労をねぎらってもよさそうなものだと思います。又各国の出先機関の人々にも、日本の味を饗し度いです。
 これも党派や私情を一切交えず、純粋な慰労でなければなりません。
 会の何かの為にしては絶対にいけないから、左様な事にならないようよく検討し、慎重に実行されることを希望します。
 年一年と種鶏会員も増加し、将来広範囲に行き渡ると思いますから、重点的に順を追って贈呈し、それぞれの立場に専念し、その持場から幸福社会に協力される人々に、身寄りがなくて寂しい人達に、今迄にかつてないような美味と、親和の心をこめた鶏肉を賞味して頂きましょう。鶏を飼う身の立場から。
ÀS 14:34 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 二 本旨 心あらば愛児に楽園を, 知的革命の端緒 一卵革命を提唱す
7.一卵革命の弁
 今や卵は至る処の店頭で堆く山をなしている。
 買えない卵が積まれている。
 財産を我が倉に掻き集める手段に、金を儲けるために造った卵、金を儲けるために売る卵は、細民には買えない。一般大衆の懐は余りにも薄く、高い卵が目前に積まれても、サラリーマンの食膳に賑わわないし、ハチ切れる肉体美は生れない。
 朝の一卵が如何に工員の労働能力を高めるか、農民の体力、愛児の発育を素晴らしく護るか、老人に若さを取り戻し、喜びを与える発育を素晴らしく護るか、老人に若さを取り戻し、喜びを与えるものであるか。
 ビジネスマンや、精神生活・頭脳に生きる者の頭を冴えさす卵を。
 主婦の料理を助け、家庭を丸くする卵をモット安くモット、モット豊富に造りましょう。
 美味しい鶏肉で、人間に味を付けましょう。
人の心に丸味をつけましょう。
ÀS 14:32 NENHUM COMENTÁRIO: 
MARCADORES: 二 本旨 心あらば愛児に楽園を, 知的革命の端緒 一卵革命を提唱す
8.万金積んでも買えない卵を
 しかもこの卵は金儲け目あてに造ったものでなく、わたしも、あなたも幸福になるために産まれた、心のこもった、金銭で買えない愛の卵であり、万金積んでも心は購えない。
 混濁世界をヒックリ返す卵です。
 私共は金で心は売りません。金がなくても得られる世に、金の要らない心の要る、美しい心の要る世の中に替えるのです。
 取ろうとすればやり度くない。取り合い奪い合いのこの世の中を、あなたを喜ばして私もうれしい世の中に、一ペンにヒックリ返す大仕事だ。
 国中の農家に鶏が謳い、国中の家庭に卵を贈る、お互い技を練り心を磨き、一個の卵に心を托し、人の心を呼び醒し、人と人とが手を繋ぎ、譲り合い贈り合いの世の中に、ヒックリ返す秋が来た。
 一羽の鶏に心を寄せて、議場に身命を賭す我等の代表に、世界の平和に棹さし来たる各国使臣に、一夕催し、暗黒の夜を、明るい暖かい世界総親和の昼に呼び醒ます鶏鳴に、幸福一色の世界を高らかにうたい、一羽の鶏、一個の卵から世界革命も成就する。
 ラッパに代える鶏鳴で、爆弾に代わるこの玉が、心の玉が転げ出て、あなたもわたしも子も孫も、楽しい世界が産まれ出る、花咲く春が産まれ出る。
 一卵以て産まれ出る、知的革命成就する。
           1954. 11. 30.
ÀS 14:00 NENHUM COMENTÁRIO: 
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Joseph Epstein - Celebrity Culture

Joseph Epstein - Celebrity Culture | PDF

Celebrity Culture
 Joseph Epstein
THE HEDGEHOG REVIEW / SPRING 05

Perhaps the best way to begin is briefly to examine the words “celebrity” and“culture,” each on its own first, and then to see if the two slide together andclick, making a decent fit.In
The Nature of Culture 
, his book of 1952, the anthropologist Alfred Kroeber offeredmore than one hundred ways in which the word “culture” was then used. By now,more than fifty years later, the number of its uses has doubtless more than doubled.“The Culture of…,” like “The Death of…” and “The Politics of…,” has become afairly common prefix for book and article titles, usually ones of extravagant intellectualpretensions, from Christopher Lasch’s
The Culture of Narcissism
on down.
1
 The word “culture” no longer, I suspect, stands in most people’s minds for that wholecongeries of institutions, relations, kinship patterns, linguistic forms, and the rest for which the early anthropologists meant it to stand. Words, unlike good soldiers underthe Austro-Hapsburg empire, don’t remain in place and take commands. Instead theyinsist on being unruly, and slither and slide around, picking up all sorts of slippery andeven goofy meanings. An icon, as we shall see, doesn’t stay a small picture of a religiouspersonage but usually turns out nowadays to be someone with spectacular grosses.“The language,” as Flaubert once protested in his attempt to tell his mistress LouiseColet how much he loved her, “is inept.”

Today, when we glibly refer to “the corporate culture,” “the culture of poverty,” “the cul-ture of the intelligence community”—and “community” has, of course, become anoth-er of those hopelessly baggy-pants words so that one hears talk even of “the homelesscommunity”—what I think we mean by “culture” is the general emotional atmosphereand institutional ethos surrounding the word to which “culture” is attached. In thisnewer context, culture also implies that the general atmosphere pervading any discreteaspect of life determines a great deal else. Thus, corporate culture is thought to breedself-protectiveness practiced at the Machiavellian level; the culture of poverty, hopeless-ness and despair; the culture of the intelligence community, viperishness; the cultureof journalism, a short attention span; and so on. Or, to cite an everyday example Irecently heard, “the culture of NASA has to be changed.” The comedian Flip Wilson,after saying something outrageous, would use the refrain line, “the devil made me doit.” So today, when spotting dreary or otherwise wretched behavior, people often say,“the culture made them do it.” As for “celebrity,” the standard definition is no longer the dictionary one but rathercloser to the one that Daniel Boorstin gave in his book
The Image: Or, What Happenedto the American Dream
:
 
“The celebrity,” Boorstin wrote, “is a person who is well-knownfor his well-knownness,” which is improved in its frequently misquoted form as “acelebrity is someone famous for being famous.”
2
 (The other well-known quotation onthis subject is Andy Warhol’s “in the future everyone will be world-famous for fifteenminutes,” which is also frequently misquoted as “everyone will have his fifteen minutesof fame.”)To be sure, there are people well-known merely for being well-known: What the helldo a couple named Sid and Mercedes Bass do, except appear in bold-face in
The NewYork Times 
 “Sunday Styles” section and other such venues (as we now say) of equallyshimmering insignificance, often standing next to Ahmet and Mica Ertegun, also well-known for being well-known? Many moons ago, journalists used to refer to royalty as“face cards”; today celebrities are perhaps best thought of as bold-faces, for as such dotheir names often appear in the press.But to say that a celebrity is someone well-known for being well-known, though cleverenough, is not, I think, sufficient. The first semantic problem our fetching subjectpresents is the need for a distinction between celebrity and fame—a distinction moreeasily required than produced.I suspect everyone has, or would rather make, his own. The distinction I prefer derivesnot from Aristotle, who didn’t have to trouble with celebrities, but from the baseballplayer Ted Williams, of whom a sportswriter once said that he, Williams, wished to
2
Daniel Boorstin,
The Image: Or, What Happened to the American Dream
(New York: Atheneum, 1962).

 
be famous but not a celebrity. What Ted Williams wanted to be famous for was hishitting. He wanted everyone who cared about baseball to know that he was—as hebelieved and may well have been—the greatest hitter who ever lived; what he didn’t want to do was to take on any of the effort off the baseball field involved in makingthis known. As an active player, Williams gave no interviews, signed no baseballs orphotographs, chose not to be obliging in any way to journalists or fans. A rebarbativecharacter, not to mention a slightly menacing s.o.b., Williams, if you had asked him, would have said that it was enough that he was the last man to hit .400; he did it onthe field, and therefore didn’t have to sell himself off the field. As for his duty to hisfans, he would have said, in the spirit of the alleged deathbed words of W. C. Fields,“on second thought, screw ‘em,” though in Williams’s case, it would probably havebeen on first thought. Whether Ted Williams was right or wrong to feel as he did is of less interest than thedistinction his example provides, which suggests that fame is something one earns—through talent or achievement of one kind or another—while celebrity is somethingone cultivates or, possibly, has thrust upon one. The two are not, of course, entirelyexclusive. One can be immensely talented and full of achievement and yet wish tobroadcast one’s fame further through the careful cultivation of celebrity; and one canhave the thinnest of achievements and be less than immensely talented and yet be madeto seem so through the mechanics and dynamics of celebrity-creation, in our day a whole mini- (or maybe not so mini-) industry of its own.Or, yet again, one can become a celebrity with scarcely any pretense to talent orachievement whatsoever. Much modern celebrity seems the result of careful promo-tion or great good luck or something besides talent and achievement: Mr. DonaldTrump, Ms. Paris Hilton, Mr. Regis Philbin, take a bow. The ultimate celebrity ofour time may have been John F. Kennedy, Jr., notable only for being his parents’ veryhandsome son—both his birth and good looks in any case beyond his control—and,alas, known for nothing else whatsoever now, except for the sad, dying-young, Adonisend to his life.Fame, then, as I prefer to think of it, is based on true achievement; celebrity on broad-casting that achievement, or inventing something that, if not scrutinized too closely,might pass for achievement. Celebrity suggests ephemerality, while fame has a shot atreaching the happy shores of posterity.There are, of course, divisions of fame to consider. Oliver Goldsmith, in his poem “TheDeserted Villages,” refers to “good fame,” which implies that there is also a bad or falsefame. Bad fame is sometimes thought to be fame in the present, or fame on earth, whilegood fame is that bestowed by posterity—those happy shores again. (Which doesn’teliminate the desire of most of us, at least nowadays, to have our fame here and here-after, too.) Not false but wretched fame is covered by the word “infamy”—“Infamy,infamy, infamy,” remarked the English wit Frank Muir, who had an attractive lisp,

“they all have it in for me”—while the lower, or pejorative, order of celebrity is coveredby the word “notoriety,” also frequently misused to mean notable. We know from Leo Braudy’s magnificent book on the history of fame,
The Frenzy ofRenown
, that the means of broadcasting fame have changed over the centuries: fromhaving one’s head engraved on coins, to purchasing statuary of oneself, to (for the reallyhigh rollers—Alexander the Great, the Caesar boys) naming cities or even months afteroneself, to commissioning painted portraits, to writing books or having books writtenabout one, and so on into our day of the publicity or press agent, the media blitz, andthe public relations expert. One of the most successful of public-relations experts, BenSonnenberg, Sr., used to say that he saw it as his job toconstruct very high pedestals for very small men. Which leads one to a very proper suspicion of celebrity. As George Orwell said about saints, so it seems to mesensible to say about celebrities: they should all be judgedguilty until proven innocent. Guilty of what, precisely?I’d say of fraudulence (however minor); of inflating their brilliance, accomplishments, worth; of passing themselves off as something they aren’t, or at least are not quite. Iffraudulence is the crime, publicity is the means by which the caper has been broughtoff.Celebrity, then, does indeed exist, but is the current heightened interest in the celebrat-ed sufficient to form a culture—a culture of a kind worthy of study? Alfred Kroeberdefines culture, in part, as embodying “values which may be formulated (overtly asmores) or felt (implicitly as in folkways) by the society carrying the culture, and whichit is part of the business of the anthropologist to characterize and define.”
3
 What arethe values of celebrity culture? They are the values, largely, of publicity. Did they spellone’s name right? What was the size and composition of the audience? Did you checkthe receipts? Was the timing right? Publicity is concerned solely with effects and doesnot investigate causes or intrinsic value too closely. For example, a review of a bookof mine called
Snobbery: The American Version
 received what I thought was a muddledand too greatly mixed review in
The New York Times Book Review 
. I remarked on mydisappointment to the publicity man at my publisher’s, who promptly told me not to worry: it was a full-page review, on page 11, right-hand side. That, he said, “is verygood real estate,” which was quite as important, perhaps more important, than thereviewer’s actual words and final judgment. Better to be confusedly attacked on page11, in other words, than extravagantly praised on page 27, left-hand side. Real estate,man, it’s the name of the game.
3
 Alfred Kroeber, abstract of “Culture, Events, and Individuals,” manuscript “not for publication,” Supper-Conference for Anthropologists, Viking fund.
What are the values ofcelebrity culture? They are thevalues, largely, of publicity.


 We must have new names, Marcel Proust presciently noted—in fashion, in medicine,in art, there must always be new names. It’s a very smart remark, and the fields Proustchose seem smart, too, at least for his time. (Now there must also be new names amongmovie stars and athletes and politicians.) Implicit in Proust’s remark is the notion thatif the names don’t really exist, if the quality isn’t there to sustain them, it doesn’t mat-ter; new names we shall have in any case. And every society somehow, more or lessimplicitly, contrives to supply them. I happen to think that we haven’t had a majorpoet writing in English since perhaps the death of W. H. Auden, or, to lower the bara little, Philip Larkin. But new names are put forth nevertheless—high among themhas been that of Seamus Heaney—because, after all, what kind of a time could we beliving in if we didn’t have a major poet? And besides there are all those prizes that,year after year, must be given out, even if so many of the recipients don’t seem quite worthy of them.Considered as a culture, celebrity does have its institutions. We now have an elabo-rate celebrity-creating machinery well in place—all those short-attention-span televi-sion shows (Entertainment Weekly Hollywood Access 
 [Excess ?], Lifestyles of the Rich andFamous); all those magazines (beginning with People 
 and far from ending with
TheNational Enquirer 
). We have high-priced celebrity-mongers—Barbara Walters, DianeSawyer, Jay Leno, David Letterman, Oprah—who not only live off others’ celebritybut also through their publicity-making power, confer it and have in time become veryconsiderable celebrities each in his or her own right. Without the taste for celebrity, they would have to close down whole sections of
TheNew York Times 
 and
The Washington Post 
 and the “Style” sections of every other news-paper in the country. Then there is the celebrity—usually movie star—magazine profile(in
Vanity Fair 
,
 Esquire 
,
 Gentlemen’s Quarterly 
; these are nowadays usually orchestratedby a press agent, with all touchy questions declared out-of-bounds) and the televisiontalk show interview with a star, which is beyond parody. Well,
almost 
 beyond: MartinShort in his brilliant impersonation as talk-show host Jimmy Glick remarks to actorKiefer Sutherland: “You’re Canadian, aren’t you? What’s that all about?”Despite all this, we still seem never to have enough celebrities, so we drag in so-called“It Girls” (Paris Hilton, Cindy Crawford, other supermodels), tired television hacks(Regis Philbin, Ed McMahon), back-achingly boring yet somehow sacrosanct newsanchors (Walter Cronkite, Tom Brokaw). Toss in what I think of as the lower-classpunditi, who await calls from various television news and chat shows to demonstratetheir locked-in political views and meager expertise on network and cable stations alike:Pat Buchanan, Eleanor Clift, Mark Shields, Robert Novak, Michael Beschloss, and therest. Ah, if only Lenny Bruce were alive today, he could do a scorchingly cruel bit aboutDr. Joyce Brothers sitting by the phone wondering why Jerry Springer never calls.

Many of our current-day celebrities float upon “hype,” which is really a publicist’s gasused to pump up and set floating something that doesn’t quite exist. Hype has also givenus a new breakdown, or hierarchical categorization, of celebrities. Until twenty-fiveor so years ago great celebrities were called “stars,” a term first used in the movies andentertainment and then taken up by sports, politics, and other fields. Stars proving a bitdrab, “superstars” were called into play, this term beginning in sports but fairly quick-ly branching outward. Apparently too many superstars were about, so the trope wasswitched from astronomy to religion, and we now have “icons.” All this takes Proust’soriginal observation a step further: the need for new names to call the new names.This new ranking—stars, superstars, icons—helps us believe that we live in interestingtimes. One of the things celebrities do for us is suggest that in their lives they are ful-filling our fantasies. Modern celebrities, along with their fame, tend to be wealthy or,if not themselves beautiful, able to acquire beautiful lovers. “So long as man remainsfree,” Dostoyevsky writes in the Grand Inquisitor section of
The Brothers Karamazov 
,“he strives for nothing so incessantly and painfully as to find someone to worship.”
4
 Are contemporary celebrities the best thing on offer as living gods for us to worship? Ifso, this is not good news.But the worshipping of celebrities by the public tends to be thin, and not uncom-monly the worship is nicely admixed with loathing. We also, after all, at least partially,like to see celebrities as frail. Cary Grant once warned the then-young director PeterBogdanovich, who was at the time living with Cybil Sheppard: “Will you stop tellingpeople you’re happy? Will you stop telling them you’re in love?” When Bogdanovicasked why, Cary Grant answered, “Because they’re not happy and they’re not in love….Let me tell you something, Peter, people do not like beautiful people.”
5
 Grant’s assertion is borne out by our grocery press,
The National Enquirer 
,
 The Star 
,
 TheGlobe 
, and other variants of the English gutter press. All these tabloids could as easilytravel under the generic title of
The National Schadenfreude 
, for more than half the sto-ries they contain come under the category of “See How the Mighty Have Fallen”: Oh,my, I see where that bright young television sit-com star, on a drug binge again, had tobe taken to a hospital in an ambulance! To think that the handsome movie star has beencheating on his wife all these years—snakes loose in the Garden of Eden, evidently! Didyou note that the powerful senator’s drinking has caused him to embarrass himself onany number of public occasions? Dear me, the outwardly successful Hollywood coupleturn out to have had a child who died of anorexia! Who’d’ve thought?
4
Fyodor Dostoevsky,
The Brothers Karamazov,
trans. Constance Garnett (New York: Norton, 1976) 234.
5
See Gavin Esler, “Peter Bogdanovich—Hollywood Survivor,” interview, BBC News, <http://news.bbc.co.uk/1/hi/programmes/hardtalk/4149215.stm>.

How pleasing to learn that our own simpler, less moneyed and glamour-laden lives are,in the end, much to be preferred to those of these frightfully beautiful and powerfulpeople, whose vast publicity has diverted us for so long and whose fall proves evenmore diverting now. In a recent short story called “Ice” in
The New Yorker 
, ThomasMcGuane writes: “As would become a lifelong habit for most of us, we longed to wit-ness spectacular achievement and mortifying failure. Neither of these things, we werediscreetly certain, would ever come to us; we would instead be granted the frictionlesslives of the meek.”
6
  Along with trying to avoid falling victim to schadenfreude, celebrities have to be care-ful to regulate the amount of publicity they allow to cluster around them. And notcelebrities alone. Edith Wharton, having published too many stories and essays in agreat single rush in various magazines during a concentrated period, feared, as she putit, the danger of becoming “a magazine bore.” Celebrities, in the same way, are in dan-ger of becoming publicity bores, though few among them seem to sense it. Because ofimproperly rationed publicity, along with a substantial helping of self-importance, thecomedian Bill Cosby will never again be funny. The actress Elizabeth McGovern saidof Sean Penn that he “is brilliant,
brilliant 
 at being the kind of reluctant celebrity.”
7
 Atthe level of high culture, Saul Bellow used to work this bit quite well on the literaryfront, making every interview (and there have been hundreds of them) feel as if it weregiven only with the greatest reluctance, if not under actual duress. Others are brilliantat regulating their publicity. Johnny Carson was very clever about carefully husbandinghis celebrity, choosing not to come out of retirement, until exactly the right time or when the perfect occasion presented itself. It apparently never did. Given the univer-sally generous obituary tributes he received, dying now looks, for him, to have beenan excellent career move.Close readers will have noticed above that I referred to “the actress Elizabeth McGovern”and felt no need to write anything before or after the name Sean Penn. True celebri-ties need nothing said of them in apposition, fore or aft. The greatest celebrities arethose who don’t even require their full names mentioned: Marilyn, Winston, Johnny,Liz, Liza, Oprah, Michael (could be Jordan or Jackson—context usually clears this upfairly quickly), Kobe, Martha (Stewart, not Washington), Britney, Shaq, JLo, Frank(Sinatra, not Perdue), O. J., and, with the quickest recognition and shortest name ofall—trumpets here, please—W.One has the impression that being a celebrity was easier at any earlier time than itis now, when celebrity-creating institutions, from paparazzi to gutter-press exposé totelevision talk-shows, weren’t as intense, as full-court press, as they are today. In the
Times Literary Supplement,
a reviewer of a biography of Margot Fonteyn noted that she
6
Thomas McGuane, “Ice,”
The New Yorker
(24 January 2005): 78–83.

“was a star from a more respectful age of celebrity, when keeping one’s distance was stillpossible.”
8
 My own candidate for the perfect celebrity in the twentieth century wouldbe Noel Coward, a man in whom talent combined with elegance to give off the glowof glamour—and also a man who would have known how to fend off anyone wishingto investigate his private life. Today, instead of elegant celebrities, we have celebritycriminal trials: Michael Jackson, Kobe Bryant, Martha Stewart, Robert Blake, WinonaRyder, and O. J. Simpson. Schadenfreude rides again. A received opinion about America in the early twenty-first century is that our culturevalues only two things: money and celebrity. Whether or not this is true, vast quantities
7
 Manohla Dargis, “The Authorized Sean Penn,”
The New York Times Book Review 
 (23 January 2005): 7.
8
 Zoë Anderson, “She Was Groomed to Conquer,”
Times Literary Supplement
(21 January 2005): 18.

 
15 
of money, we know, will buy celebrity. The very rich—John D. Rockefeller, et alia—used to pay press agents to keep their names out of the papers. But today one of thethings money buys is a place at the table beside the celebrated, with the celebrities gen-erally delighted to accommodate, there to share some of the glaring light. An example isMort Zuckerman, who made an early fortune in real estate, has bought magazines andnewspapers, and is now himself among the punditi, offering his largely unexceptionalpolitical views on
 The McLaughlin Group
 and other television chat shows. Whetheror not celebrity in and of itself constitutes a culture, it has certainly penetrated andpermeated much of American (and I suspect English) culture generally.Such has been the reach of celebrity culture in our time that it has long ago enteredinto academic life. The celebrity professor has been on the scene for more than threedecades. As long ago as 1962, in fact, I recall hearing that Oscar Cargill, in thosedays a name of some note in the English Department of NYU, had tried to lure thethen-young Robert Brustein, a professor of theater and the drama critic for
The NewRepublic 
, away from Columbia. Cargill had said to Brustein, “I’m not going to bullshityou, Bob, we’re looking for a star, and you’re it.” Brustein apparently wasn’t looking tobe placed in a new constellation, and remained at Columbia, at least for a while longer,before moving on to Yale and thence to Harvard.The academic star, who is really the academic celebrity, is now a fairly common figure in what the world, that ignorant ninny, reckons the Great American Universities. RichardRorty is such a star; so is Henry Louis Gates, Jr. (who as “Skip” even has some nick-name celebrity recognition); and, at a slightly lower level, there are Marjorie Garber,Eve Sedgwick, Stanley Fish, and perhaps now Stephen Greenblatt. Stanley Fish doesn’teven seem to mind that much of his celebrity is owed to his being portrayed in novelsby David Lodge as an indefatigable, grubby little operator (though Lodge claims toadmire Fish’s happy vulgarity). Professors Garber and Sedgwick seem to have acquiredtheir celebrity through the
outreisme 
 of the topics they’ve chosen to write about.By measure of pure celebrity, Cornel West is, at the moment, the star of all academicstars, a man called by
Newsweek 
 “an eloquent prophet with attitude.” (A bit diffi-cult, I think, to imagine
Newsweek 
 or any other publication writing something simi-lar of Lionel Trilling, Walter Jackson Bate, Marjorie Hope Nicolson, or John HopeFranklin.) He records rap CDs and appears at benefits with movie stars and famousathletes. When the president of Harvard spoke critically to West about his work notconstituting serious scholarship (as if that had anything to do with anything), it madefront-page news in
The New York Times 
. West left, as we now know, and was instantly welcomed by Princeton. If West had been a few kilowatts more the celebrity than heis, he might have been able to arrange for the firing of the president of the university,the way certain superstars in the National Basketball Association—Magic Johnson,Isaiah Thomas, Larry Bird, Michael Jordan—were able, if it pleased them, to havetheir coaches fired.

Pure scholarship, sheer power of intelligence glowing brightly in the classroom, is dis-tinctly not what makes an academic celebrity or, if you prefer, superstar. What makesan academic celebrity, for the most part, is exposure, which is ultimately publicity.Exposure can mean appearing in the right extra-academic magazines or journals:
TheNew York Review of Books, The London Review of Books, The Atlantic Monthly 
;
 Harper’s
and
The New Republic 
 possibly qualify, as do occasional cameo performances on theop-ed pages of
The New York Times 
 or
The Washington Post.
Having one’s face pop upon the right television and radio programs—PBS and NPR certainly, and enough ofthe right kinds of appearances on C-Span—does not hurt. A commercially successful,much discussed book represents good exposure. So does strong public alignment withthe correct political causes.Harvey Mansfield, the neo-conservative political phi-losopher at Harvard, is a secondary academic celebrityof sorts, but not much in demand; Shelby Steele, a blackprofessor of English who has been critical of variousaspects of African-American politics, was always over-looked during the days when universities knocked them-selves out to get black professors. Both men have been judged politically incorrect. The “renowned feminist” (inthe words of princetoninfo.com) Elaine Showalter wrote television reviews for
People 
,but it didn’t help: a bit too vulgar, I suspect. Nor did the fact (also learned from princ-etoninfo.com) that she has been called “Camille Paglia with balls,” which is itself athought one doesn’t wish to contemplate overlong. The underlying and over-archingpoint is, to become an academic celebrity you have to promote yourself outside theacademy, but in careful and subtle ways.One might once have assumed that the culture of celebrity was chiefly about showbusiness and the outer edges of the arts, occasionally touching on the academy (therecannot be more than twenty or so academic superstars). But it has also much alteredintellectual life generally. The past ten years or so have seen the advent of the “publicintellectual.” I have always felt uncomfortable with that adjective “public,” which, whenfirst I saw it, I thought drained away much of the traditional meaning of intellectual.The root sense of an intellectual, I believe, is someone who is excited by and lives offand in ideas. An intellectual has traditionally been a person unaffiliated, which is to saysomeone unbeholden to anything but the power of his or her ideas. Intellectuals usedto free-lance, until fifty or so years ago, when jobs in the universities and in journalismbegan to open up to some among them. (Philip Rahv, the editor of
Partisan Review 
, andIrving Howe, the editor of
Dissent 
, broke the barrier when, without doctorates, they were accepted into the English Department at Brandeis University.)
Time 
 magazineused to be a safe if usually unhappy harbor for intellectuals with alimony problems ora taste for the expensive life.
What makes an academiccelebrity, for the most part,is exposure, which isultimately publicity.

 
17 
Far from being devoted to ideas for their own sake, the intellectual equivalent of art forart’s sake—and let us not pause to ask what art’s sake is—the so-called public intellectualis usually someone who comments on what is in the news, in the hope of affecting pol-icy, or events, or opinion in line with his own political position, or orientation. He isn’tnecessarily an intellectual at all, but merely someone who has read a few books, mastereda style, a jargon, and a maven’s tone, and has a clearly demarcated political line.But even when the public intellectual isn’t purely tied to the news, or isn’t thoroughlypolitical, what he or she really is, or ought to be called, is a “publicity intellectual.” InRichard A. Posner’s interesting book,
Public Intellectuals 
, intellectuals are ranked by thenumber of media mentions they or their work have garnered, which, if I am correctabout publicity being at the heart of the enterprise of the public intellectual, may becrude but is not foolish.
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 Not knowledge, it turns out, but publicity is power.The most celebrated intellectuals of our day have been those most skillful at gainingpublicity for their writing and their pronouncements. Take, as a case very much in point,Susan Sontag. When Susan Sontag died at the end of last year, her obituary was frontpage news in
The New York Times 
, and on the inside of the paper, it ran to a full page with five photographs, most of them carefully posed—a variety, it does not seem unfairto call it, of intellectual cheesecake. Will the current prime ministers of England orFrance receive equal space or pictorial coverage? Unlikely, I think. Why did Ms. Sontag, who was, let it be said, in many ways the pure type of the old intellectual—unattachedto any institution, earning her living (apart from MacArthur Foundation and othergrants) entirely from her ideas as she put them in writing—why, it seems worth askingin the context of the subject of celebrity, did she attract the attention she did?I don’t believe Susan Sontag’s celebrity finally had much to do with the power or cogen-cy of her ideas. Her most noteworthy idea was not so much an idea at all but a descrip-tion of a style, a kind of reverse or anti-style, that went by the name of Camp and that was gay in its impulse. Might it have been her politics? Yes, I think politics had a lot todo with it, even though when she expressed herself on political subjects, she frequentlygot things mightily askew: During the Vietnam War she said that “the white race isthe cancer of human history.”
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 As late as the 1980s, much too late for anyone in theknow, she called Communism “Fascism with a friendly face” (what do you suppose shefound so friendly about it?). To cheer up the besieged people of Sarajevo, she broughtthem a production of Samuel Beckett’s
Waiting for Godot 
. She announced in
The NewYorker 
 that the killing of 3,000 innocent people on 9/11 was an act that America hadbrought on itself.
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 As for the writing that originally brought her celebrity, she later
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 Richard Posner,
Public Intellectuals: A Study of Decline
(Cambridge, MA: Harvard University Press,2002).
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 Susan Sontag “What’s Happening in America,”
The Partisan Review 
 (Winter 1967): 57.


came to apologize for
 Against Interpretation
, her most influential single book. I do notknow any people who claim to have derived keen pleasure from her fiction. If all thisis roughly so, why, then, do you suppose that Susan Sontag was easily the single mostcelebrated—the greatest celebrity—intellectual of our time? With Cynthia Ozick’s face and body, with Camille Paglia’s face and body, yes, even withmy stunning face and body, I don’t think Ms. Sontag would quite have achieved thesame celebrity. I think, that is, that her attractiveness as a young woman had a greatdeal to do with the extent of her celebrity; and she and her publisher took that (early)physical attractiveness all the way out. From reading Carl Rollyson and Lisa Paddock’sbiography
Susan Sontag: The Making of an Icon
, one gets a sense of how carefully andrelentlessly she was promoted, especially by her publisher, Roger Straus.
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I do notmean to say that Sontag was unintelligent, or talentless, but Straus, by having her alwaysdramatically photographed, by sending angry letters to the editors of journals whereshe was ill-reviewed, by bringing out her books with the most careful accompanyingorchestration, promoted this often difficult and unrewarding writer into somethingclose to a household name with a face that was ready, so to say, to be Warholed. ThatSontag spent her last years with Annie Leibowitz, herself the most successful magazinephotographer of our day, seems somehow the most natural thing in the world. Even inthe realm of the intellect, celebrities are not born but made, usually very carefully—as was, I think, Susan Sontag.One of the richest themes in Leo Braudy’s
The Frenzy of Renown
 is that of the fameand celebrity of artists and, above all, writers. To sketch in a few bare strokes the richlycomplex story Braudy tells, writers went from serving power (in Rome) to servingGod (in early Christendom) to serving patrons (in the eighteenth century) to servingthemselves, with a careful eye cocked toward both the public and posterity (underRomanticism), to serving mammon, to a state of interesting confusion, which is where we are today, with celebrity affecting contemporary literature in what strikes me as amore and more significant way. Writers are supposed to be aristocrats of the spirit, not promoters, hustlers, salesmen fortheir own work. Securing a larger audience for their work was not thought to be theirproblem. “Fit audience, though few,” in John Milton’s phrase, was all right, so long asthe few were the most artistically alert, or aesthetically fit, few. Picture, I ask you, LordByron, Count Tolstoy, Charles Baudelaire at a lecturn at Barnes & Noble, C-Span cam-era turned on, flogging (wonderful word!) their own books. Impossible!
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 Susan Sontag, “The Talk of the Town: Comment: Tuesday, and After,”
The New Yorker
(24 September2001): 32.
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Carl Rollyson and Lisa Paddock,
 Susan Sontag: The Making of an Icon
 (New York: Norton, 2000).

 
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Some superior writers have been very careful caretakers of their careers. In a letter toone of his philosophy professors at Harvard, T. S. Eliot wrote that there were two waysto achieve literary celebrity in London: one was to appear often in a variety of publica-tions; the other to appear seldom but always to make certain to dazzle when one did.
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Eliot, of course, chose the latter, and it worked smashingly. But he was still counting ongaining his reputation through his actual writing. Now good work alone doesn’t quiteseem to make it; the publicity catapults need to be hauled into place, the walls of indif-ference stormed. Some writers have been able to steer shy from publicity altogether:Thomas Pynchon for one, J. D. Salinger for another (if he is actually still writing oryet considers himself a writer). But actively seeking publicity was thought for a writer,somehow, vulgar—at least it did when I began publishing.Edmund Wilson, the great American literary critic, used to answer requests with apostcard that read:Edmund Wilson regrets that it is impossible for him to: Read manuscripts, Write articles or books to order, Make statements for publicity purposes, Doany kind of editorial work, Judge literary contests, Give interviews, Conducteducational courses, Deliver lectures, Give talks or make speeches, Take part in writers’ congresses, Answer questionnaires, Contribute or take part in sympo-siums or “panels” of any kind, Contribute manuscripts for sale, Donate copies ofhis books to Libraries, Autograph books for strangers, Allow his name to be usedon letterheads, Supply personal information about himself, Supply photographsof himself, Supply opinions on literary or other subjects. A fairly impressive list, I’d say. I have long admired Edmund Wilson for his range ofintellectual interests and his work habits. When I was a young man, he supplied themodel for me of how a literary man ought to carry himself. One of the things I person-ally find most impressive about his list is that everything Edmund Wilson clearly stateshe will not do, Joseph Epstein has now done, and more than once, and, like the young woman in the Häagen-Dazs commercial sitting on her couch with an empty carton ofice cream, I will do them all again.I tell myself that I do these various things in the effort to acquire more readers. Afterall, one of the reasons I write, apart from pleasure in working out the aesthetic problemsand moral questions presented by my subjects and in my stories, is to find the best read-ers. I also want to sell books, to make a few shekels, to please my publisher, to continueto be published in the future in a proper way. Having a high threshold for praise, Ialso don’t in the least mind meeting strangers who tell me that they take some delightin my writing. But, more than all this, I have now come to think that writing away
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 T. S. Eliot,
Letters of T. S. Eliot, Vol. 1: 1898–1922,
 ed. Valerie Eliot (New York: Harcourt, 1989).

quietly, producing (the hope is) solid work, isn’t any longer quite sufficient in a culturedominated by the boisterous spirit of celebrity. In an increasingly noisy cultural scene, with many voices and media competing for attention, one feels—perhaps incorrectlybut nonetheless insistently—the need to make one’s own small stir, however pathetic.So, on occasion, I have gone about tooting my own little paper horn, doing book tours,submitting to the comically pompous self-importance of interviews, and doing so manyof the other things that Edmund Wilson didn’t think twice about refusing to do.“You’re slightly famous, aren’t you, Grandpa?” my then eight-year-old granddaughteronce said to me. “I am slightly famous, Annabelle,” I replied, “except no one knows who I am.” This hasn’t changed much over the years. But of course seeking celebrity inour culture is a mug’s game, one you cannot hope to win. The only large, lumpy kindof big-time celebrity available, outside movie celebrity, is to be had through appearingfairly regularly on television. I once had the merest inkling of this fame when, walkingalong one sunny morning in downtown Baltimore, a red Mazda convertible screechedto a halt, the driver lowered his window, pointed a long finger at me, hesitated, andfinally, the shock of recognition lighting up his face, yelled, “C-Span!”I was recently asked, through e-mail, to write a short piece for a high price for a volumeabout the city of Chicago. When I agreed to do it, the editor of the volume, who is (Itake it) young, told me how very pleased she was to have me among the volume’s con-tributors. But she did have just one request. Before making things final, she wondered ifshe might see a sample of my writing. More than forty years in the business, I thought,echoing the character played by Zero Mostel in
The Producers 
, and I’m still wearing thecelebrity equivalent of a cardboard belt.“Every time I think I am famous,” Virgil Thomson said, “I have only to go out intothe world.”
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 So it is, and so ought it probably to remain for writers, musicians, andvisual artists who prefer to consider themselves, to put it as pretentiously as possible,
sérieux 
. The comedian Richard Pryor once said that he would consider himself famous when people recognized him, as they recognized Bob Hope and Muhammed Ali, byhis captionless caricature. That is certainly one clear criterion for celebrity. But the bestcriterion I’ve yet come across holds that you are celebrated, indeed famous, only whena crazy person imagines he is you. I especially like the fact that the penetrating andprolific author of this remark happens to go by the name of Anonymous