2016/03/31

神 - Wikipedia

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(かみ、古代ギリシア語:Θεός テオスラテン語:deusDeus デウス、英:godGod

概説[編集]

まず、百科事典類の記述を紹介すると、ブリタニカ百科事典では「宗教信仰の対象。」と始めている[1]。そして、一般に絶対的、超越的な存在とされる、と指摘[1]。原始信仰では人間を超えた力と考えられていて、高度な宗教では超越的な力を有する人格的存在とされることが一般的、としている[1]
広辞苑の第六版では6項目に分けて説明しており、ひとつめは「人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以ってはかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。」を挙げている。つづいていくつか日本の伝統での神を中心に説明しており、天皇の呼称のひとつとしての「神」にも触れ、6項目目に「キリスト教で、宇宙を創造して歴史を司る、全知全能の絶対者。」を挙げている。
大辞泉では、様々な概念に用いられる語彙、とし、「人知を超えた絶対的存在」(ユダヤ教キリスト教イスラム教など)、「アニミズム的発想で自然界の万物を擬人化(神格化)した存在」、「神社に祭られている生前優れた業績で名を馳せた人物や祖先」、「天皇への尊称」、「優れた能力を発揮する人物、非常にありがたい人やもの」とした[2]
どのような神を崇拝・信仰するかということによって、多神教単一神教一神教 等々の形が生まれる[1]
神に対する人間の態度は、一般に「信仰」や「信心」と呼ばれている[1]。ブリタニカ百科事典によると、神学は信仰を理性的に理解しようとする試みである[1]。そして、近年では合理性をこえた原初の信仰を復興させる動きもあるという[1]
漢字としての「神」には、「不可知な自然の力」「不思議な力」「目に見えぬ心の働き」「ずばぬけてすぐれたさま」「かみ」といった意味が含まれる[3]
「神」は古代ギリシア語"Θεός" テオス や英語"God" の訳語としても使われている。このように「神」の字で、「神」と訳されることになった、もともと日本語以外の言語で呼ばれていたものごとまで含みうるわけなので、その指し示す内容は多岐にわたっている。(なお、キリスト教における"Θεός""God"を、中国語に翻訳したり日本語に翻訳する際に、「神」という字をあてることの是非について19世紀から議論がある(後述)。ただしキリスト教化される以前の古代ギリシャ時代の"Θεός"にも、訳語として「神」は用いられている。)

漢字の「神」[編集]


「神」の字の旧字体。一説の漢字の成り立ちは、会意兼形声であり「示(祭壇)+音符申」で、いなずまのように、不可知な自然の力のこと。のち、不思議な力や、目に見えぬ心の働きをもいう[3]。のちに「ずばぬけてすぐれたさま」や「かみ」といった意味が加わった。

初出[編集]

春秋左氏伝‐荘公三十二年の記載が、漢字の「神」の初出とされる。 「神」は、天文をコントロールし、耕地を与える技術を持っていた聡明で正直な呪術師であったことが記されている[4]。すなわち、ここでの神は、農業指導者として農事暦に天文や気象の周期と作物の関係を記録して種まきの時期を選び、また食物を計画的に収穫・備蓄して人を動員し、興亡を左右した人間のことを説明している。

神の性質についての様々な考え方[編集]

世界的に見ると、神を信じている人は多く(アブラハムの宗教だけでも30億人を超える[5])、神に基づいて自身の生活様式を整えている人、"神とともに生きている"と形容できるような人は多い。
神がどのような存在であるかについての様々な考え方は、宗教や哲学などに見ることができる。以下にその主なものを挙げる。これらの考え方がそれぞれに両立可能なのか不可能なのかは個人の解釈にもより、一概には言えない。
  • 創造主ギリシア語ではデミウルゴス)、第一原因としての神。全ての物事の原因を辿って行ったときに、全ての原因となる最初の創造(創世)行為を行った者として、想定される神。
  • アニミズム汎霊説)における神。洞窟や岩石、山、水(泉、滝)など自然界の様々な物事(あるいは全ての物事)に固有の神。それらの物事に「宿っている」とされる。
  • 守護神、恩恵を与える者としての神。神は信仰、犠牲、祈りなどに応じて現世来世における恩恵を与えてくれる存在であるとする考え方。
  • 人格神。神がと同じような人格(や姿)を持つとする考え方。
  • 現実世界そのものとしての神。この世界のありようがそのまま神のありようであるとする。例えばスピノザはこのような考え方を採った[要出典]ことで知られている。汎神論
神の性質に関して、その唯一性を強調する場合 一神教、多元性を強調する場合 多神教、遍在性を強調する場合 汎神論が生まれるとされる。ただし汎神論はしばしば一神教、多神教の双方に内包される[要出典]。また、古代から現在まで神話的世界観の中で、神は超越的であると同時に人間のような意思を持つものとして捉えられてきた。近代科学の発展と無神論者からの批判を受け、このような神理解を改めるべきという意見[要出典]も現れている。
人知を超えた存在であると考えられることや、人間や動物のように社会や自然の内に一個体として存在していることは観察できないことから、神の存在を疑う者も多い。神の不在を信じる者は無神論者と呼ばれ、マルクス主義は無神論の立場に立つ。また、実存主義者の一部も無神論を主張する。
また神が存在するかどうかは知りえないことであると考える者は不可知論者と呼ばれる。

一神教の神[編集]

一神教の例としてユダヤ教キリスト教イスラム教がある。
いずれも、旧約聖書を経典とし、同一の神を信じている。ユダヤ教においてはモーセの時代にそれ以前の宗教から新しい体系が作り上げられたとされる。ユダヤ教を元に、イエス・キリストの教えからキリスト教が誕生し、さらにムハンマドによってイスラム教が生じた。
これら3つの宗教は唯一神教ではあるが、神以外にも人間を超えた複数の知的存在があることを認めている。天使が代表例であり、人間以上だが神以下の存在である(ただしイスラム教では、後に創造されたものであるほど優れているという考えがあるため、天使は人間に仕える存在という側面もある)。天使はあるときは普通の人の形をして現われたり、人とは違う形をして現われたりする。しかし「神の働き」は神だけが行うことができ、その他の存在は「神にお願いすること、執り成しができる」だけである。聖母マリアも、厳密には崇拝対象ではなく「敬愛」の対象であり、少なくとも教義上では区別している。聖母マリアはお願いをイエス・キリストに伝えてくれる存在ではあるが、神と同等の存在ではない。
またキリスト教では、聖人が特定の地域、職種などを守護したり、特定のご利益をもたらすとするという信仰がある。ただし、キリスト教のなかでもカトリックなどは聖人崇敬を行っているが、プロテスタント諸教派のなかには聖人崇敬を行わない教派もある。また、聖人崇敬を行う教派であっても、崇拝する対象はあくまでも神であり、神ではない聖人は崇敬の対象であり崇拝の対象ではない。イスラム世界ではジンという人間と天使の間に位置する精霊が想定されている(『千夜一夜物語』(アラビアン・ナイト)に登場する魔法のランプのジンが有名)。
実際、一神教内部においても例えばインドのように多神教を信仰している人々と共存している地域だと、一神教の人々も場合に応じて多神教の聖地を崇拝したり神格のようなものを認知することがしばしば行なわれる。無論一神教と多神教が両立不可能かというのは個々人の解釈にもよる問題であり、成文化された教義と現実的な宗教行為に齟齬が生まれることも多く、宗教と社会の関係は動態的に捉えなければ単純な図式化に陥る可能性が有る。

ユダヤ教の神[編集]

トーラー」の第1巻「ベレシート(キリスト教翻訳では創世記)」第1章では、天地創造の6日目までに登場する神の名は男性名詞複数形のエロヒーム(אלהים)のみである。また、第2章に記された天地創造の7日目もエロヒームのみである。[6]
しかし、第2章における天地創造の詳述では、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」と、エロヒームが併記され、かれらは、草木とイーシュ(男)であるアダム(人)を創造して良し悪しの知識の木から取って食べてはならないと命じ、その後にアダム(人)からイシャー(女)を創造したことが記されている。[7]
また、第三章では、イシャー(女)が蛇に促されて禁断の実を食べアダム(人)にも与えたので彼も食べたために、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」とエロヒームは、がイシャー(女)の子孫のかかとを砕きイシャー(女)の子孫から頭を砕かれるように呪い、イシャー(女)には、苦悩と分娩を増やしに増やし苦痛の中で男児たちを産みイーシュ(男)に支配されると言い渡し、アダム(人)にも、顔に汗して食べ物を得ようと苦しむと言い渡し、土を呪ったことが記されている。そして、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」とエロヒームは、彼らの一人のようになったアダム(人)が命の木からも取って食べ永遠に生きないよう、アダム(人)をエデンの園から追い出し、また、命の木に至るを守るために、エデンの園の東に回されている燃える剣とケルビムを置いたことが記されている。[8]
申命記詩篇箴言知恵の書」などにおいて神を信じる人々のあるべき生き方が示され、サムエル記列王記マカバイ記エステル記などにおいて神を信じた人々の生き方が示される。
なお、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」をそのまま声に出して読まない訳は、「神の名」を唱えてはいけないと伝えられている。
ただし、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」は、次の通り、イスラエルの祭司族であり書紀族でもあるレビ族の嗣業を指す[9]
  • 口語訳聖書申命記10章9節‐そのためレビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。
  • 新共同訳聖書申命記10章9節‐それゆえレビ人には、兄弟たちと同じ嗣業の割り当てがない。あなたの神、主が言われたとおり、主御自身がその嗣業である。
  • 欽定訳聖書申命記10章9節‐Wherefore Levi hath no part nor inheritance with his brethren; the LORD is his inheritance, according as the LORD thy God promised him.
日本の高等学校公民科の教科書や一般の出版物では、ユダヤ教の神を、ヘブライ文字で「ヨッド・ヘー(無声声門摩擦音)・ヴァヴ(軟口蓋接近音)・へー(無声声門摩擦音)」という子音で綴られた「יהוה」(エ・ハヴァー)のみとし、その発音をYah·weh[10]のカタカナ読みとして「ヤハウェ」と明記している。しかし、ヘブライ語としての実際の発音は、子音で「ヘット(無声軟口蓋摩擦音)・ヴァヴ(軟口蓋接近音)・ヘー(無声声門摩擦音)」と綴るアダムの妻の名「חוה」(ハヴァー)に非常に近い[11]。カタカナでその発音を表記するのは非常に難しく、「ה」と「ו」と「ח」は、日本語で表記すると「ハ」のヴァリエーションにも聞こえる。なお、このアダムの妻の名は、キリスト教口語訳聖書新共同訳聖書エバと表記されているが、日本ではイヴと表記されることも多い。

キリスト教の神[編集]

三位一体[編集]


アンドレイ・ルブリョフによるイコン至聖三者』。旧約においてアブラハムを3人の天使が訪れたことを三位一体の神の象徴的顕現として捉える伝統が正教会にはあるが、そのもてなしの食卓の情景を描いたイコンを元に3人の天使のみが描かれたもの。
キリスト教のうち殆ど(正教会[12]東方諸教会[13]カトリック教会[14]聖公会[15]プロテスタント[16][17][18][19]など)が、「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体至聖三者)として信仰する。
伝統的なキリスト教の多数派では、ナザレのイエスキリストであり、三位一体(至聖三者)の第二位格たる子なる神であり、完全な神でありかつ完全な人であると理解されている[20][21][22][23][24][25][26]。。
三位一体論の定式の確認の多くは、古代の公会議正教会全地公会議と呼ばれる一連の公会議)においてなされた。

キリスト教における訳語としての「神」[編集]

カトリック教会においてはかつては「天主」の訳語が用いられていた。プロテスタントには「真神」という用語もあった[27]隠れキリシタンによるゴッドの訳には、「ゴクラク」「オタイセツ」などがあったという[28]
[29]漢字である「神」が、ヘブライ語"אלהים"‎、古代ギリシア語"Θεός"英語"God"の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していたにおけるキリスト教宣教の先駆者である、ロバート・モリソンRobert Morrison)による漢文聖書においてであった。しかしながら訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の1840年代から1850年代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。この論争は中国宣教史上、"Term question"(用語論争)と呼ばれる。この論争の発生には、アヘン戦争後、清国でのキリスト教宣教の機会が格段に増大し、多くの清国人のためにより良い漢文訳聖書が求められていた時代背景が存在していた。
用語論争において最大の問題であったのは、大きく分けて「上帝」を推す派と「」を推す派とが存在したことである。前者はウォルター・メドハーストなど多数派イギリス人宣教師が支持し、後者をE.C.ブリッジマンをはじめとするアメリカ人宣教師たちが支持した。
こんにちでも、その妥当性については様々な評価があるが、いずれにせよ、和訳聖書の最も重要な底本と推定される、モリソン訳の流れを汲むブリッジマン・カルバートソンによる漢文訳聖書は、「神」を採用していた。殆どの日本語訳聖書はこの流れを汲み[30]、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とせずに[31]、こんにちに至るまで「神」を翻訳語として採用するものが圧倒的多数となっている。

イスラームの神[編集]

旧約聖書創世記において、アブラハムの子であり異母兄弟であるイサクイシュマエルがおり、このうちイサクがユダヤ一族の祖である旨の記述がある。イスラームの聖典であるアル=クルアーン(コーラン)にはイシュマエルがアラブ人の祖であるとの記述がある。なお、イシュマエルとはヘブライ語での読み方であり、アラビア語ではイスマーイールとなる。 また、インジール(福音書)に描写されたイーサー(イエス)は神性を有する存在ではなく、ムハンマドモーセなどのように神の預言者の一人であるとみなされている。
ちなみに、イスラーム信徒に広く使われているアラビア語の中の、神を意味する単語で「アッラーフ」または「アラー」「アッラー」(アラビア語الله‎ ラテン文字化: Allâh)がある。これは、普通名詞である場合と、固有名詞である場合がある。

福音書における神[編集]

キリスト教ネストリウス派イスラム教が教典とするヨハネによる福音書において、「言は神」である。
  • 口語訳聖書ヨハネによる福音書1章1節‐初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
  • 新共同訳聖書ヨハネによる福音書1章1節‐初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
  • 欽定訳聖書ヨハネによる福音書1章1節‐In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
また、このことをトーラーに引くと、主は祭司族として書記を務めたレビ族の嗣業[32]であるゆえに、「主イエス・キリストは神であり、言であり、レビ族の嗣業」であることを意味する。

多神教の神[編集]

多神教の例として、インドヒンドゥー教日本神道がある。どちらも、別の宗教の神を排斥するより、神々の一柱として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできた。日本でも明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し混じりあっていた。
多神教においても、原初の神や中心的存在の神が体系内に存在することがある。そうした一柱の神だけが重要視されることで一神教の一種、単一神教とされることもあり、その区別は曖昧である。

ヒンドゥー教[編集]

ヒンドゥー教の人間神は、自然神の生まれ変わりであったり、生前に偉大な仕事をなした人であったりする。 現在のヒンドゥー教は、次に挙げる三つの神を重要な中心的な神として扱っている。
シヴァは世界の終わりにやって来て世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしている。
ヴィシュヌは、世界を三歩で歩くと言われる太陽神を起源としており、世界を維持する役目がある。多くのアヴァターラとして生まれ変わっており、数々の偉業をなした人々がヴィシュヌの生まれ変わりとしてヒンドゥー教の体系に組み込まれている。仏教の開祖ゴータマ・ブッダも、ヒンドゥー教の体系においてはヴィシュヌの生まれ変わりとされ、人々を惑わすために現われたとされる。
ブラフマー(梵天)は、世界の創造と、次の破壊の後の再創造を担当している。人間的な性格は弱く、宇宙の根本原理としての性格が強い。なお、自己の中心であるアートマンは、ブラフマーと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。

神道[編集]

本居宣長は「尋常(よのつね)ならず人の及ばぬ徳(こと)のありて、畏(かしこ)きもの」と定義したが、神道においては、神の定義は一義的には定めにくい。教義と言えるようなものを持たず、歴史的経緯により、様々な異質な要素が混在した信仰であるからである。「八百万の神」と言われ「八百万」は数が多いことの例えである。神道は古代律令国家によりその体系が整えられたが、陰陽道仏教の影響を強く受け、明確な信仰体系を持たない時代が長く続いた。明治期に仏教の影響を排除する神仏分離が行われ、一神教を意識した体系として「国家神道」が再構成されている。これにより、神道における神は天照大神から「現人神」とされる天皇に至る流れを中心として位置づけられた。しかし、この改変は徹底したものではなく、土着的な要素も依然多く残った。第二次世界大戦後、神社神道は国家と分離され、それまで非宗教とされていた神道は宗教として位置づけなおされたが、現在もなお神仏習合国家神道の名残はそれぞれ強く残り、依然として異質の要素が雑然と混在した信仰である。仏教の影響を受ける以前の神道を「古神道(原始神道)」と呼び区別する場合もある。しかし、明治以降の「国家神道」も、江戸時代に研究が進んだ「古神道」の考え方を多く取り入れて形成された側面がある。

仏教[編集]

仏教は、本来は神のような信仰対象を持たない宗教であった。原始仏教は煩悩から解放された涅槃の境地に至るための実践の道であり、超越的な存在を信仰するものではなかった。現在は神と同じ様に崇拝されている開祖のゴータマ・シッダルタも、神を崇拝することを自分の宗教に含めず、また自身を神として崇拝することも許さなかった。
時代が下るにつれ、ゴータマらの偉大な先人が、悟りを得たもの()として尊敬を集め、崇拝されるようになり、仏教は多神教的な色彩を帯びていく。仏教にはヒンドゥー教の神が含まれ、中国の神も含まれ、日本に来ては神道と混ざりあった。仏教が様々な地域に浸透していく中で、現地の神々をあるいは仏の本地垂迹として、あるいは護法善神として取り込んだのである。したがって、仏教も一部の宗派では神を仏より下位にあって仏法を守護するものと位置づけ、ある面では仏自体も有神教の神とほぼ同じ機能を果たしている。
日本の神社で弁財天として祭られている神も、そもそもは仏教の護法神(天部の仏)として取り込まれたヒンドゥー教の女神サラスヴァティーであり、仏教とともに日本に伝わったものである。これはやがて日本の市杵島姫神と習合した(神仏習合本地垂迹説)。

仏教における神[編集]

仏教を考える場合、釈迦の教えとそれを継承していった教団のレベルと、土着信仰を取り込んだ民衆レベルとを混同しないで、それぞれについて議論する必要がある。
釈迦は、人間を超えた存在としての神に関しては不可知論の立場に立ち、ヴェーダーンタの宗教を否定・捨てた人であるという主張もある。一方で、釈迦は人間を超えた存在(非人格的)を認めており、ただ単にその理解の仕方がキリスト教やヒンドゥー教などの人格神とは異なるだけという意見もある。
浄土真宗親鸞は、日本の神を拝むことを禁止し、和讃で、俗人が「鬼・神」を崇めるのを嘆いている。このため、浄土真宗では神棚を祭らない。[独自研究?]
同様に、現代日本では仏教はもっぱら霊魂の永遠不滅を前提とした葬式を扱う宗教と見られることが多いが、元々仏教では死後も残る(アートマン)のようなものを否定する立場であり、ここにおいても民衆の信仰の形とは大きな差異がある(釈迦は、自己の魂(アートマン)が死後も残るのかとの議論に対し、回答をしない(無記)という態度をとり、この態度は、アートマンが残り輪廻するというヴェーダーンタの宗教を拒否しているとも受け取れる)。
なお、「梵天の勧請」の神話には、釈迦が悟った後、「悟りは微妙であり、欲に縛られた俗人には理解できない。布教は無駄である。」として沈黙していたので、神(デーバ)の一人梵天ブラフマン)が心配してやって来て「俗人にもいろいろな人がいるので、悟った真理を布教するよう」に勧めて要請し、釈尊がそれを受け入れたという物語などが残っている。
一方、民衆レベルでは、仏もこの記事で扱うところの広い意味での「神」の一種であるといえる。日本では死亡を「成仏」と、死者を「」と呼称するに至る。この場合の仏とは、参拝し利益を祈願する対象であって、かつての原始仏教でそうであったような「教えを学び、悟る・覚醒する」という対象ではない。ただし、日本における仏は、キリスト教の訳語としての「神」が定着する以前からの存在であり、一般的な日本語において神と仏とは区別して用いられる(神像と仏像など)。

ブッダ(仏)と神[編集]

一般に、仏教では解脱には無用なので神の存在を扱わない。
なお大乗仏典華厳経には、人間がこの世で経験するどのようなことも全て神のみ業であるとの考え方は、良いことも悪いことも全て神によるのみとなって、人々に希望や努力がなくなり世の中の進歩や改良が無くなってしまうので正しくないと説かれているが、これは神の存否について議論したものというわけではない。

学問や自然科学との関係[編集]

一神教を母体として生まれた自然科学
ヨーロッパ中世においては「神は二つの書物をお書きになった」、「神は、聖書という書物と、自然という書物をお書きになった」と考えられていた[33]。よって自然を解明することはそのような被造物を創造した神の意図を知ることになり神の偉大さを讃えることにもなると考えられた。ヨハネス・ケプラーアイザック・ニュートンなど宗教的情熱、神の意図を知るために自然を知ろうとし、結果として自然科学の発達に大きく貢献した、ということは指摘されている。自然科学が発達した地域が、ほかでもなくイスラム世界やキリスト教世界であったのは、上述のような自然観と神への信仰が原動力となった、ということは指摘されている。それをリン・ホワイトは「近代的な西欧科学はキリスト教の母体のなかで鋳造された」と表現した(「宗教と科学#キリスト教と近代科学」も参照)。
実際ヨーロッパでは神の存在について研究する神学は長きにわたって学問上の基礎科目であり、オックスフォード大学ケンブリッジ大学も、ハーバード大学も元は神学校である。 現代でも、科学者のおよそ半数が神や超越的な力を信じている、ということがアンケート調査で明らかになっている(「科学者#科学者と信仰」も参照)。
「神の死」
ヨーロッパの中世では広く神の存在が信じられ、神を疑う人は稀であった。神が、人々に人生の意味、生きる意味を与えてくれていた。だが、ルネ・デカルトは(当時としては非常に大胆なのだが)神を疑うような考え方を提示、代わりにegoエゴやcogitoコギトを基礎に置くような思想を展開した(いわゆる「我思う、ゆえに我あり」と要約される思想。『方法序説』などで提示)、18世紀には哲学者・思想家によって唯物論など神を介しない哲学的な考え方も論じられるようになった。さらに19世紀に自然哲学が自然科学へと徐々に変化し大学で教えられる学問の体系が変化するにつれ、学問体系からは神や人生の意味とのつながりが次第に抜け落ちていった。そして、神を信ずる人の割合は中世などに比べじわじわと減ることになった。そうした一連の風潮を、19世紀にはニーチェが「神の死」という言葉で指摘した。「神の死」はニヒリズムをもたらしがちであるが、ニーチェは、神が思想から失われた時代になっても、神に代わって人々に生きる意味を与えてくれるような、ニヒリズムを乗り越えさせてくれるような思想を打ち立てようとした。20世紀前半、マックス・ウェーバーは、学問体系が「神」や「人生の意味」を失ってしまった状態でそれに取り組むことはどのようなことなのか、その厳しさ・残酷さを学生たちに理解させようとした(『職業としての学問』)。しかし神の定義は有神論、理神論、汎神論など様々あり曖昧である。

サムシング・グレート[編集]

村上和雄が述べた宇宙の大いなる存在。生命の存在は進化論だけでは十分に説明できないと考え、サムシング・グレートと呼ぶ存在を想定し自身の立場が「知的設計論者の意見に近い」と述べている。

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「神」の字を含む人名
漢字の「神」が付せられた最も古い人名は神農(しんのう)である。神農は中国神話や、江戸時代に官学として説かれた道学における三皇五帝の三皇の一人。百草を嘗めて効能を確かめ、諸人に医療と農耕の術を教えたという。神農炎帝(5500 - 6000年前)と一体視され、また、炎帝の妻は東海の外れに住み十日を産んだ羲和とされる。

参考文献[編集]

  • 『宗教と科学の接点』河合隼雄岩波書店
  • 『心理禅―東洋の知恵と西洋の科学』佐藤幸治創元社
  • 『科学者とキリスト教―ガリレイから現代まで』渡辺正雄講談社
  • 『アインシュタイン、神を語る―宇宙・科学・宗教・平和』ウィリアム ヘルマンス 著,雑賀紀彦 翻訳(工作舎
  • 『神の文化史事典』松村一男・平藤喜久子・山田仁史編(白水社)

出典・脚注[編集]

  1. a b c d e f g ブリタニカ百科事典【神】
  2. ^ 小学館『大辞泉』548頁 - 549頁、1998年11月20日発行 第一版増補新装版ISBN 4095012129
  3. a b 引用元・出典:『漢字源』961頁、学研、1996年4月1日改訂新版第3刷
  4. ^ 春秋左氏伝‐荘公三十二年 中国哲学書電子化計画
  5. ^ Preston Hunter, Major Religions of the World Ranked by Number of Adherents
  6. ^ ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 1
  7. ^ ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 2
  8. ^ ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 3
  9. ^ ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 10:9
  10. ^ ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 3
  11. ^ ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 3:20
  12. ^ 正教会からの出典:信仰-信経:日本正教会 The Orthodox Church in Japan
  13. ^ 東方諸教会からの出典:■信仰と教義(シリア正教会)
  14. ^ カトリック教会からの出典:教皇ベネディクト十六世の2006年6月11日の「お告げの祈り」のことば
  15. ^ 聖公会からの出典:英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)一1563年制定一
  16. ^ ルーテル教会からの出典:私たちルーテル教会の信仰
  17. ^ 改革派教会からの出典:ウェストミンスター信仰基準
  18. ^ バプテストからの出典:Of God and of the Holy Trinity.
  19. ^ メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353
  20. ^ 正教会からの参照:Jesus ChristSon of GodIncarnationアメリカ正教会
  21. ^ カトリック教会からの参照:Christologyカトリック百科事典
  22. ^ 聖公会からの参照(但しこの「39カ条」は現代の聖公会では絶対視はされていない):英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)一1563年制定一
  23. ^ ルーテル教会からの参照:Christ Jesus.(Edited by: Erwin L. Lueker, Luther Poellot, Paul Jackson)
  24. ^ 改革派教会からの参照:ウェストミンスター信仰基準
  25. ^ バプテストからの参照:Of God and of the Holy Trinity.Of Christ the Mediator. (いずれもThe 1677/89 London Baptist Confession of Faith)
  26. ^ メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p73 - p75, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353
  27. ^ 鈴木範久『聖書の日本語』岩波書店
  28. ^ 高島俊男『お言葉ですが…〈11〉』連合出版2006年
  29. ^ 本節の出典:柳父章『ゴッドと上帝』筑摩書房1986年(120頁から131頁)、ISBN 4480853014
  30. ^ 出典:柳父章『ゴッドと上帝』筑摩書房1986年(160頁 - 162頁)、ISBN 4480853014
  31. ^ 全く問題にされなかった訳では無い。1938年にはキリスト教神学者前島潔が、「神」という用語について論文を書いている。出典:柳父章『ゴッドと上帝』筑摩書房1986年(122頁)、ISBN 4480853014
  32. ^ ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 10:9
  33. ^ 村上陽一郎『奇跡を考える』岩波書店、pp.133-138
  34. ^ [誰?]が「人間はその生物学的本質として、神の存在を必要とする[要出典]」と指摘。すなわち、「時間の概念を認識し、かつ「」の概念を理解することができるのは人間の高度に発達した大脳においてのみであり、いずれ死を迎えるという未来に対して不安を抱く。死を始めとする自らの努力においてはどうしようもない未来に対する巨大な不安を和らげるために人知を超越した神の存在を設定しようとする[要出典]」、というものである。 [誰?]このような性質から、永続的な不安を感じることの少ない若い世代においては神への強い信仰は得られにくく、死という最も大きい不安を感じることの多い年配の世代になればなるほどに神への信仰を持つ率が高くなると言われている。また両親が信仰を持つことなどからの影響で信仰心を持つ場合も少なくないが、逆に家庭内での不和等が生みだす永続的な不安感を持つ者は絶対的な他者への救いを求めることへ繋がりやすい。[要出典]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

하느님 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전

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하느님

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하느님은 한국어에서 절대적인 존재(God)를 가리키는 말이다. 그리스도교에서 성서를 한국어로 번역하는 과정에서 그들의 신앙의 대상 또한 하느님으로 번역하기로 결정함에 따라, 그리스도교에서도 사용하게 되었다.
인류가 탄생되면서 인간의 능력으로 다스릴 수도 이해할 수도 없는 일에, 어떤 초월 존재가 개입되어 있다는 의식이 싹트기 시작하였고, 이를 두려워하고 숭상하게 되었다. 물리적 실체인 유한세계는 비물리적 실체인 무한세계의 종속된 차원으로 연결되어 있고, 그 무한한 세계를 다스리는 초월 존재를 지칭하는 단어가 자연스레 생기게 되었다. 초월존재에 대한 두려움과 숭배는 동-서양을 막론하고, 고대 유물과 각 민족의 전승 “신화”로서 그 실상이 명백하게 밝혀지고 있다.
초월 존재를 부르는 단어에는 크게 2가지로 분류할 수 있는데, 대표적인 호칭이 “하느님”과 “신(神)”이라 할 수 있다. 민족마다 초월 존재에 대한 2가지 의식을 가지고 있는데, 만물과 만유를 다스리는 절대적인 분이 유일하다고 생각하는 유일신 사상과 반면에 다양한 초월적 존재, 즉 환경이나 행위마다 길흉화복을 직접 다스리는 귀신들이 있다고 생각하는 범신 사상이다. 이처럼 초월 존재에 대한 서로 다른 관념은 세계의 대부분의 언어에서 나타나는데, 영어: God와 영어: Deity가 그 관념 차이를 바탕으로 하고 있다.
사람의 의식에 자리잡고 있는 것이 실제로 유일신인지 범신인지 뚜렷하게 구별하기는 쉽지 않다. 이는 민족 정신과 종교 및 문화에 따라서, 그리고 시대 변화에 따라서 이들 관념이 뒤섞여 있기 때문이다, 일반적으로 초월 존재만을 지칭하는 일반적인 경우에는 God 와 Deity를 동일한 뜻으로 차별 없이 사용하기도 한다.
최근에, 이렇게 동서양을 막론하고 종교적 초월존재를 인정하는 민족들마다 유일신과 범신 관념이 혼재되고 혼동되어온 까닭에 사람들이 진정한 진리를 깨닫는데 실패해 왔다[1]는 주장이 있으며, 유일신으로서의 초월적 존재를 "하느님(God)" 관념으로, 범신론에서의 초월적 대상을 "신(神 Deity)" 관념으로 구분해야 한다고 말하기도 한다.
이 분석에 따르면 종교의 탄생과 이후의 발전 과정에서 사람의 관념에 어떤 절대적이고 초월적 개인성을 지닌 존재자가 의식되는 경우에는 "하느님(God)" 개념으로 성장되어 왔고, 초월적 개인성을 포함하여 개인성이 없는 단순한 초월 상태나 현상이나 힘을 두루 포함하는 경우에는 "신(神 Deity)" 개념으로 형성되어 왔다고 말한다. 이 주장에서는, 초월존재를 명백하게 깨닫고 인식해 왔다는 점에서, 유일하고 초월적 개인성인 "하느님(God)" 관념을 지녔던 민족이나 그러한 종교 사상이 보다 높은 진리를 전승하고 있다고 말한다.[2]

단어의 기원[편집]

어원[편집]

하느님이란 단어의 어원은 '하늘'이다. 한민족중국인일본인 등은 오래전부터 '하늘(天)'을 절대적이고 지고한 존재로 인식하는 사상이 있었다. 이들 국가의 천손사상 또한 이러한 맥락과 관련이 깊으며, 중화사상에서의 '천자(天子)', 일본의 '덴노(天皇)' 모두 이러한 사상에 연원하고 있다. 이러한 '하늘'에 존칭접미사 '-님'을 붙여 '하느님'이라는 말이 생겨나게 된 것이다.
The Chinese recorder 제 13-14판에 따르면 조선어로 heaven은 '하늘'이고 lord 또는 prince는 '-님'이다. 또 '하느님'은' 한국인들에게 어디에서나 '천상의 통치자와 지상에서 가장 높은 자'로 의 뜻으로 인정되고 있는 단어로 정의하였다.[3]

불교에서의 하느님[편집]

하느님은 한자로 환인이며, 삼국유사를 쓴 일연과 제왕운기를 쓴 이승휴는 제석천은 바로단군신화에 처음 등장한다. 제석천은 원래 인도 신화의 인드라신의 한자어이다. 도리천의 천주인 제석천은 전체 우주의 행정을 총괄한다고 한다. 제석천은 석가모니가 성불한 뒤에 그의 수호신이 되었다. 새해에 보신각종은 33번 친다. 기미독립선언서는 민족대표 33인이 서명했다. 도리천의 33천을 의미한다.
인드라는 무기인 금강저를 가지고 벼락을 친다. 신들의 왕, 벼락이 무기라는 점, 날씨를 주관한다는 점에서 그리스 신화의 제우스와 동일하다. 리그베다에서는 인드라가 자신을 상징하는 무기인 금강저를 사용하여 브리트라를 쫓아버리는 내용이 묘사되고 있다. 브리트라는 인도 토속 신앙에서 '가뭄'이라는 자연현상 자체를 신격화 한 것이다. 일례로 리그베다에서 묘사하는 인드라는 뇌신(雷神), 그의 무기인 금강저는 뇌전을 뜻하므로 이것은 가뭄 끝에 천둥 벼락과 함께 비가 내려 해갈이 되는 과정을 묘사한 신화로 여겨지고 있다.

그리스도교에서의 하느님[편집]

천주교가 조선에 들어오면서 그리스도교의 신을 한국어로 옮기기 위해 하느님이라는 호칭을 처음으로 사용하기 시작했다.[4] 초기 성서에서는 천주교가 숭상하는 신의 이름인 야훼를 직접 사용하였으나 단어가 생경해서 중국 대륙에서 들어온 한문으로 된 그리스도교 변증서인 《천주실의》에 쓰인 세상을 창조한 유일신을 뜻하는 단어 천주(天主)의 당시 한글 표현인 하ᄂᆞ(天)님(主)으로 받아들이게 된 것이다.
하느님이라는 말이 가장 처음 나오는 것은 최초로 한국어 성경 번역판인 《예수성교 누가복음전서》이다.[4] 이는 1882년, 청나라 심양에서 선교사 존 로스 목사와 번역 팀이 번역하였다. 로스 목사는 선교 보고서에서 "하늘"(heaven)과 "님"(prince)의 합성어인 "하느님"이 가장 적합한 번역어일 것이라고 보고하였다.[4] 이렇게 예수성교 누가복음전서의 1882년판에는 "하느님"이라는 용어를 사용하였으나, 이 전서의 1883년판에 하나님이라는 용어가 성경에 처음 등장하였다.[5]

교단에서의 사용[편집]

현재 하느님이라는 용어를 사용하는 교단으로는 한국의 로마 가톨릭교회대한성공회한국 정교회 등이 있다. 한국 천주교에서는 전통적으로 '천주'(天主)를 사용하였고, 제2차 바티칸 공의회 이후에는 야훼를 '하느님'이라는 단어로 표기하고 있다. 현재 한국 천주교에서는 '하느님'과 '천주' 모두 교회의 공식 용어로 인정되고 있는데, 주로 '하느님'을 보편적으로 사용하면서 때에 따라 '천주'를 병용한다. 성공회의 경우 1965년판 공동기도문에서는 '천주'로, 2004년판 성공회 기도서에서는 '하느님'으로 표기되어 있다. 초기 개신교에서는 상제, 천주, 하느님, 하나님 등 다양한 용어를 사용하였으나, 현재 다수의 개신교 교파들은 하나님이라는 표기를 사용함에 따라 "하느님"이라는 용어는 거의 사용되지 않고 있다.
공동번역성서는 1977년 에큐메니컬 운동의 실천을 위해, 천주교의 선종완 신부와 개신교의 문익환 목사가 함께 번역한 한국어 성경으로, 여기서는 신의 호칭을 '하느님'으로 표기하고 있다.

하나님[편집]

하나님은 만물의 창조주를 가리키는 종교 용어이며, 일반적으로 개신교나 무슬림을 비롯한 한국의 일부 종교계에서 쓰인다.
현대 한국어의 국어사전에서는 두 단어를 모두 수록하고 있으며, 한글맞춤법 통일안을 따르는 국립국어원의 표준국어대사전[6]에서는 "하느님"과 "하나님" 둘 다 뜻에 따라 쓸 수 있는 표준어로 정하고 있으며[7] "하느님"의 경우 종교에 관계 없이 쓸 수 있는 용어로, "하나님"은 '개신교에서 하느님을 이르는 말'로 정의해 놓고 있다. 그러나 한국어 문법에서 '하나', '둘' 과 같이 숫자를 의미하는 단어에 '님'이라는 존칭을 붙이는 것은 잘못된 것이므로 그렇게 이해해서는 안된다.

개신교에서의 하나님[편집]

대부분의 개신교에서는 유일신인 여호와를 하느님보다는 하나님으로 호칭하기를 선호한다.
한국 그리스도계에서는 이 명칭이 통일되어 있지 않은데, 하ᄂᆞ님을 현대의 맞춤법에 알맞게 적으면 "하느님"이 되기 때문에 가톨릭과 성공회는 이를 사용하며, 개신교는 "하나님"으로 표기해야 더 맞는 소리가 난다고 본다.[출처 필요] 또한 개신교 일부 종파에서는 성경에 바탕을 둔 신의 고유 이름인 여호와(야훼)를 그대로 써야 한다고 주장하기도 한다.

성서의 번역[편집]

초기 개신교에서는 상제, 천주, 하느님, 하나님 등 다양한 용어를 사용했으나 개역성서를 번역하여 펴내는 과정에서 아래아(·)를 홀소리 ‘ㅏ’로 일괄적으로 변경하면서 하나님이란 호칭을 쓰기 시작했다. 천주교에서는 원뜻과 맞춤법을 참고해 하느님으로 표기하고 있다.1977년 천주교와 개신교가 함께 번역한 공동번역성서에는 신의 호칭으로 하느님이란 표현이 쓰였다. 그러나 대부분 개신교 교파가 하나님이라는 표기를 고수하고 있다. 정중호 계명대 기독교학과 교수는 이에 대해 “하나님이란 명칭이 유일신의 의미가 강한데다 하나님이라 부르던 기존 습관을 바꾸기 힘들었을 것”이라고 분석했다. 성공회에서는 하느님으로 표기한다. 한편, 한글맞춤법 통일안은 하느님을 표준어로 삼고있으며 하나님은 하느님을 개신교에서 이르는 말로 풀이하고 있다. 상제(上帝)는 '하느님'의 한자식 표기이다.[8]

같이 보기[편집]

각주[편집]

  1. 이동 하나님과 신(神), 하느님과 신(神)-용어의 혼란 : 《유란시아 책(The Urantia Book)》(2008년), 유란시아 연구회 발행
  2. 이동 종교의 진화와 하느님과 신(神)의 용어적 차이,《유란시아 책(The Urantia Book)》(2008년), 유란시아 연구회 발행 ISBN-13: 978-8996044413
  3. 이동 The Chinese Recorder Vol 13-14 pg. 494 인용: "The Corean for "heaven" is hanal, for "lord" or "prince" nim, originaly Chinese; and Hananim is the term by which Coreans everywhere acknowledge the Ruler above and the supreme on earth.
  4. ↑ 이동:   전무용, 〈이 땅에 처음 비추어진 복음의 빛〉《성서한국》2007년 여름호, 통권 제 53권 2호, 대한성서공회. 웹 버전. 2013년 6월 27일에 확인.
    "4 “하느님”이라는 이름을 번역어로 선택한 일
    「예수셩교누가복음젼셔」 번역의 가장 큰 공헌은 무엇보다도 신명을 “하느님”으로 정했다는 점일 것이다. 로스 목사는 당시의 선교 보고서에서, “하늘”(heaven)과 “님”(prince)의 합성어인 “하느님”이 가장 적합한 번역어일 것이라고 보고하고 있다. 그 후로 오랫동안 “참신, 상제, 천주” 등 여러 이름이 검토가 되었지만, 한국 사람이면 누구나 알고 있는 이 이름을 신명으로 정한 로스 번역 팀의 선택은 오늘날까지 한국의 기독교가 성장하는 데에 큰 영향을 미친 중요한 결정이었다. 이 이름은 그 후로 평안도 방언인“하ᄂᆞ님”과 이에서 발전한“하나님”으로, 공동번역 성서에서는 “하느님”으로 표기된다. "
  5. 이동 길을 찾는 사람들을 위해 - 기독교가 부르는 하나님이라는 호칭의 유래에 대해서.
  6. 이동 표준국어대사전,국립국어원
  7. 이동 http://krdic.naver.com/rescript_detail.nhn?seq=2278
  8. 이동 천주교 '야훼' 표현 금한 이유는? 매일신문(2008.10.25) 기사 참조