2016/11/03

キリスト教愛真高等学校 - Wikipedia

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キリスト教愛真高等学校

キリスト教愛真高等学校
キリスト教愛真高等学校.JPG
国公私立の別私立学校
設置者学校法人キリスト教愛真高等学校
校訓本校に学ぶ者は、聖書を真剣に学び、真理を探究しようとする態度をもつ。
本校に学ぶ者は、酒を飲まない、タバコを吸わない、うそをつかない。
本校に学ぶ者は、作業や当番を誠実に果たし、学校や寮の約束ごとを守る。 
設立年月日1988年
創立者高橋三郎
共学・別学男女共学
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科
学期2学期制
高校コード32513K
所在地695-0002
島根県江津市浅利町1826-1
外部リンク公式サイト
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キリスト教愛真高等学校(キリストきょうあいしんこうとうがっこう)は島根県江津市にある私立の全日制普通科・全寮制・男女共学の高等学校無教会主義系列で、キリスト教学校教育同盟の加盟校である。1988年開校。

概要[編集]

1985年、内村鑑三の弟子である、高橋三郎が「人は何のために生きるのか」という、人間の根本問題を教育の中心とした学校の設立を提唱したのが始まり。
少人数・全寮制により、平和を愛する国際的精神を備えた人間形成をめざして、聖書に基づく全人教育を行っている[1]

沿革[編集]

  • 1988年
  • 1989年
    • 3月 第1回愛真アートフェスティバル(文化祭)、第3回からは9月に実施している
  • 1991年
    • 4月 西田潔、第2代校長に就任
    • 6月 キリスト教学校教育同盟に加盟
  • 1993年4月 三宅登、第2代理事長に就任
  • 1995年4月 風間文子、第3代校長に就任
  • 1997年10月 創立10周年記念礼拝、プルム農業高等技術学校(韓国)と姉妹校締結
  • 1999年1月 創立10周年記念事業として特別教室棟(普通教室2室、視聴覚教室)、新グラウンド竣工
  • 2001年4月 渡邊信雄、第4代校長に就任
  • 2006年4月 佐藤全弘、第3代理事長に就任
  • 2009年4月 安昌美、第5代校長に就任
  • 2010年6月 創立責任者高橋三郎召天
  • 2012年
    • 8月 創立25周年記念事業として男子寮、女子寮、内装リフォーム
    • 10月 第1回ホームカミングデイ

教育[編集]

教育方針[編集]

少人数教育を行っており、詰め込み教育ではなく、自らが関心を持って取り組むことを求めている[3]。 校内への携帯電話および漫画・雑誌の持ち込みは禁止されている。[4]

作業[編集]

「自分たちの生活は自分たちの手で整える」という方針により、週2回作業の時間があり、養鶏班、製パン班、菜園班、園芸班、リサイクル班、修繕班、水田山林班、保存食品班に分かれて、それぞれの作業を行う。また、朝昼晩の食事すべてを、生徒が用意する[5]

礼拝[編集]

朝夕に礼拝が行われており、朝拝は教員が、夕拝は生徒が輪番制で礼拝を行う[6]

平和学習[編集]

韓国研修旅行と慰安婦問題への取り組み[編集]

上記の平和学習のほか、毎年春休みに希望者を募り、日本統治時代のことを学んだり、ナヌムの家を訪問して元慰安婦の話を聞いたり、板門店を見学したりする韓国への研修旅行も実施している[9][10]
挺対協初代代表で韓国梨花女子大学英文科名誉教授の尹貞玉が愛真高校を訪問し、交流を行っている[11]

芸術活動[編集]

隔週土曜には、必修クラブにあたる「全校活動」が行われており、陶芸や、美術、茶道などがある。また、音楽の授業にも力を入れており、特に合唱に力を入れている[12]

行事[編集]

AAF(Aishin Art Festival)[編集]

文化祭。二日間にかけて開催される。毎年、各学年でのクラス劇や、ミニライブが行われる。

大山登山[編集]

一年生全員で、鳥取県の大山の麓で一泊二日し、大山に登る。

クリスマス礼拝・祝会[編集]

クリスマス礼拝では、外部の方をお呼びして、礼拝を行う。 祝会では、歌や劇を、食事とともに楽しむ。 夜には、キャンドルサービスを行う。

卒業音楽会・感話会[編集]

卒業式前日には、卒業生を歌で送る会として、卒業音楽会が行われる。 感話会では、3年間で感じたことを、伝える。

姉妹校[編集]

出身著名人[編集]

関連書籍[編集]

参考文献[編集]

  • 関千枝子『長い坂―現代女人列伝』影書房 1989年
  • 無教会史研究会『無教会史 第四期 連帯の時代』教文館 2002年

出典[編集]

^建学の精神”. 同校HP. 2015年9月20日閲覧。
^ 関千枝子『長い坂―現代女人列伝』影書房 1989年
^学習指導”. 同校HP. 2015年9月20日閲覧。
^ [1]
^作業・調理”. 同校HP. 2015年9月20日閲覧。
^礼拝”. 同校HP. 2015年9月20日閲覧。
^ a b c平和学習”. 同校HP. 2015年9月20日閲覧。
^ “荒らされた辺野古テント 全国から支援続々”. 琉球新報. (2014年6月25日)
^ 茨木のり子/金裕鴻『言葉が通じてこそ、友だちになれる: 韓国語を学んで』筑摩書房 2004年
^ 現場を見る 話を聞 く - 全寮制高校・キリスト教愛真高等学校 (PDF)
^ 女性・戦争・人権学会学会誌編集委員会『女性・戦争・人権 (第6号)』 行路社 2004年
^芸術活動”. 同校HP. 2015年9月20日閲覧。
^ シールズ奥田さん大学院進学へ 「民主主義って何だ」追い求め 北海道新聞 2016年3月20日


関連項目[編集]
島根県高等学校一覧
寮がある日本の中学校・高等学校の一覧



外部リンク[編集]
キリスト教愛真高等学校

Uchimura Kanzō - Wikipedia

Uchimura Kanzō - Wikipedia

無教会主義

無教会主義(むきょうかいしゅぎ)は、内村鑑三によって提唱された日本に独特のキリスト教信仰のあり方で、プロテスタントに分類される場合が多い。英語では、Non-church Movementと表記する。無教会無教会キリスト教無教会主義キリスト教とも呼ばれる(信徒のあいだでは「無教会」と呼称されることが多い)。なお、「無教会派」という名称は通常用いない。

概要[編集]

内村鑑三は、彼の処女作『基督信徒のなぐさめ』において、初めて「無教会」という言葉を用いた(なお、当該の記述は、「余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる讃美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし」につづき、大自然の「無限」と「交通」し、また、「失せにし聖者」と「霊交」を「結ぶ」ことによって、いわば天然そのものを教会とする、というニュアンスを伴っていた[1])。その後、彼は「無教会」という名称の雑誌を創刊し、教会に行けない、所属する教会のない者同士の交流の場を設けようとした。
無教会主義のキリスト教徒は「イエス・キリストは無教会であった」パウロは無教会であった」との理解を共有することが多い。また、無教会主義は「教会」よりも「キリストの十字架」を重んじると言われる。実際、内村鑑三はキリスト教は十字架教であると言っている。無教会主義は、教会主義・教会精神からの脱却を目指す主義であって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する主義ではない。無教会主義は、ある意味では教会に所属する・しないといったことに無頓着な主義であるとも言える。そのため、教会に所属しながら無教会主義であることも可能である。
キリスト教の歴史を通して教会にいろいろ付随してきた権威・権力を克服する、という理念に立った運動であり、理論的には、マルティン・ルター宗教改革の二大原理(聖書のみ万人祭司)を極端に現実化したものである。また、按手礼を受けた聖職者(牧師・正教師)を持たないため、無教会の集会または礼拝は、儀礼(サクラメント)や説教を中心としたキリスト教の伝統的礼典から離れ、その結果として、聖書の研究・講義が中心となった。
また、内村の直接の弟子たちのなかには大学に在学中の学生が多かったこともあり、その門下から多くの学者・著名人があらわれ、聖書学・キリスト教思想史関係の学者も多く輩出した。無教会は牧師養成学校を持たないこともあって、これら無教会系の学者は、国公立もしくは他のキリスト教系私立大学など、宗教・宗派の枠を超えたところで教鞭をとる傾向が強く、比較的早い時期から批判的に高いレベルの研究が行われるようになった。そのためもあって、無教会では知識に重きを置く一方で、霊的な側面を軽く見る傾向がある、と見られることがよくある。実際の無教会には、上記のような学者人脈(戦後の東大総長を務めた南原繁矢内原忠雄など)と並んで、在野での伝道を行っていった人々(斎藤宗次郎、政池仁など)がおり、いわば二つの系統があるのだが、新保祐司の指摘にもみられるように、「戦後、内村の弟子が東大総長になった、というような、非常に安易な内村鑑三の再評価」が行われた結果、「エキセントリックにしか見えない宗教性は排除されてしまい、内村鑑三の全集も、知織化された宗教として出されるようになってしまった」という事情がある[2]
なお、内村鑑三は、『万朝報』の英文欄主筆となった1897(明治30)年以降、社会問題に対する発言も積極的に行っていた。足尾鉱毒問題については田中正造らと協力し、実質的に鉱毒反対運動の第一線に立っていたといえる。また、1901(明治34)年7月には、朝報社の黒岩涙香幸徳秋水堺枯川らと社会改良団体理想団を結成している。当初、日清戦争については「義戦」[3]を主張していた内村ではあったが、その後、日本の戦後処理の実情に失望するなかで「猛省」[4]し、とくに日露戦争以降、彼の姿勢は「非戦論」という言葉によって知られるがごとく、「戦争絶対的廃止論者」としての姿勢を打ち出していった[5]
このような傾向を継承するという一面において、現在、一部の無教会系の団体及び関係者においては、若者に特定の政治思想にもとづく教育を行う、あるいは、政治活動そのものに熱心[6]な傾向があるとも指摘されており、無教会主義の現状について、賛否両論があることも事実である[7]

無教会主義の集会[編集]

無教会主義は、キリスト教徒の集会を否定するものではない。実際に、無教会主義のキリスト教徒は通常、各地で集会を形成し、毎週もしくは定期的に聖書研究会または礼拝を執り行う。集会は、基本的に牧師制度は取らず、教会堂は持たないが、独立伝道者と呼ばれる常任の指導者(先生)がいる場合もある。集会の場所は、ビルや公民館などの会議室を借りたり、または私宅などで礼拝を保つことが多いが、専用の集会所を持っている集会も存在する。なお、内村が生前聖書講義の拠点としていた東京の今井館聖書講堂が現在NPO法人として存続し、講堂と資料館を運営しており、さまざまな集会の開催、および、無教会関係の資料・書籍の蒐集と一般者への閲覧を行っている。
礼拝の中心を占めるものは聖書講義、聖書講話と呼ばれており、前後に讃美歌を歌い、祈りや黙祷をするなど、プロテスタントの礼拝形式を簡素化した形をとっていることが多い。洗礼浸礼バプテスマ)、聖餐式等の儀式は通常行わない。ただし、かならずしも洗礼反対、聖餐反対という意味ではない。その意味では、無教会主義は「反教会主義」ではない。
礼拝後、その日の聖書講義の内容について話し合ったり、感想などを語り合う時間を設けるところもある。お茶やお菓子などを食べながら歓談する場合もある。
無教会の集会は、聖書集会・聖書研究会との名称を持つことが多い。その集会はそれぞれ独自の運営方法を採っており、その集会を発足した者が講義を担当する場合もあれば、平信徒同士が交代で講義をする集会など、さまざまである。無教会の集会は、組織化、形骸化を避ける傾向があるため、宗教法人ではない集会が大多数を占めているが、一部に法人化している集会も存在する。また、同様の理由から、全国の集会を統率するような本部を持たず、全国に散らばる集会の数や教勢を統計にまとめることもない。これには、個々人が制度的な縛りから自由になれるという良い点がある。しかし同時に、外部からの接触が困難であるという欠点もある。後者については、現代の無教会主義集会の問題となっているようである。
主な集会は『キリスト教年鑑』に掲載されているが、あくまでも便宜的なもので網羅的ではない。最近では各集会同士の地域的な交わりを持つため、普段の礼拝の他に東北集会・四国集会のような地域単位の集会も定期的に保たれている。また、講演会が定期的に全国各地で開催されている。年に1回、「無教会全国集会」が各地域持ち回りで開催されており、近年は200名前後の参加者があるようである。

日本国外の無教会主義[編集]

内村鑑三の集会に参加していた者の中に金教臣(キムギョシン)などの朝鮮出身の者もいた。彼らは帰国後、無教会の集会を立ち上げ、また『聖書朝鮮』という伝道雑誌を発刊した。韓国の無教会は現在も続いているが、韓国国内では異端視される向きもある。なお、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)については、公式には無教会の後継者は残っていないとされる。
また台湾にも、断続的にではあるが、日本から無教会の信徒が伝道を行っている。
そして内村が発行していた雑誌『聖書之研究』の購読者はアメリカ合衆国にも存在していた。特に、内村の協力者であった井口喜源治が長野県穂高町(現安曇野市)に設立したキリスト教に基づく私塾「研成義塾」の出身者が多く渡米し、シアトル近郊に定住して集会を持っていたことはよく知られている[8]
無教会主義ではないが、イギリスで発生した平信徒運動でブレズレンとよばれるキリスト教のグループや、ヨーロッパで起こったメノナイトなどの再洗礼派(アナバプテスト)運動などが、その礼拝や理念、信条など無教会主義に近いとの指摘がある。また、同じくイギリスで起こったクエーカーと無教会主義のキリスト教徒との類似点を指摘する研究者は多い。内村自身、米国留学以来クエーカーとの交際があり、札幌農学校同期の新渡戸稲造をはじめ日本のクエーカーとも親交が深く、内村の弟子の中には後にクエーカーに入信した者も少なくない。内村と新渡戸がフィラデルフィアのクエーカー婦人海外伝道会に、女子教育機関として三田の普連土学園設立の提言をしたことは有名である。内村自身も著作の中で、キルケゴールが「無教会主義のキリスト教を世界に唱え」と述べている[9]ように、内村本人も無教会主義を提唱するにあたって日本国外の哲学や神学思想との類似点を認識していたことは確かである。

人物[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 内村鑑三『キリスト信徒のなぐさめ』(岩波書店、1939年9月)55頁
  2. ^ 新保祐司(編)『別冊 環18 内村鑑三1861-1930』(藤原書店、2011年12月)
  3. ^ 内村鑑三「日清戦争の義(訳文)」、『国民之友』234号(民友社、明治27年9月3日付)
  4. ^ 署名なし「猛省(英文)」、『万朝報』(朝報社、明治30年12月14-16日付)
  5. ^ 内村鑑三「戦争廃止論」、『万朝報』(朝報社、明治36年6月30日付)
  6. ^ 無教会全国集会2015のサイトにおいても、「日本は革命的平和憲法(特に9条)を実質的骨抜きにして、集団的自衛権という名の下に、かっての天皇制軍国主義の復活をねらって」いるとして、イベント開催のお知らせ上に意見表明を行っている。http://blog.goo.ne.jp/mukyoukai2015/e/59be75a25fcb2ffaba82b31359601115
  7. ^ こうした傾向に対する無教会の若手からの意見としては、『季刊無教会』37号(2014年春号、無教会事務局)の特集において、賛同、もしくは慎重な意見が提出されている。また、ジェフリー・キングストン教授は、The Asia-Pacific Journal: Japan Focus英語版のレポートの中で、学生団体SEALDsの中心メンバーは同じ高校(無教会主義系列のキリスト教愛真高等学校)出身者であることを指摘して解説したSEALDs: Students Slam Abe’s Assault on Japan’s Constitution The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue. 36, No. 1, September 7, 2015)。
    なお、内村鑑三自身は社会主義の思想を痛烈に批判しており、大正4年(1915年)には、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。
    内村の弟子の矢内原忠雄社会主義思想を批判しており、「矢内原にとって、キリスト教的観点に立てば唯物史観は偽キリストであり、矢内原がマルクス主義と対決してキリスト教弁護論を体系的に展開したのは、偽キリストからキリストを峻別するとともに、その挑戦に応じて現世同化したキリスト教を改革純化するためであった」(岡崎滋樹「矢内原忠雄研究の系譜-戦後日本における言説-」、『社会システム研究』第24号(2012年3月)所収、立命館大学)ことが指摘されている。

  8. ^ 宮原安春『誇りて在り―「研成義塾」アメリカへわたる』講談社。

  9. ^ 内村鑑三(著)デンマルク国の話

外部リンク[編集]


無教会研修所
今井館教友会
無教会キリスト集会
基督教独立学園高等学校
キリスト教愛真高等学校
愛農学園農業高等学校
一粒のぶどう

無教会主義 - Wikipedia

無教会主義 - Wikipedia


無教会主義



日本独自の教会主義
無教会主義

関連記事
人物


内村鑑三
静子ルツ子
祐之美代子
南原繁矢内原忠雄
畔上賢造坂田祐
斎藤宗次郎塚本虎二
中村勝己高谷道男
藤井武鈴木弼美
関根正雄星野鉄男

歴史


札幌バンド(1877-1881)・不敬事件(1891)
東京独立雑誌(1898-1900)・夏期講談会(1900-1902)
聖書之研究(1900-1930)・モアブ婦人会(1913-)
角筈聖書研究会(1902-1930)・教友会(1905-1918)
今井館(1906-)・柏会(1909-1916)
白雨会(1911-1918)柏木兄弟団(1918-1921)
再臨運動(1918-1919)・洗足会(1923-)

著作


基督信徒の慰(1893)・求安録(1893)
余は如何にして基督信徒となりし乎(1895)

その他
基督教独立学園高等学校

キリスト教 ポータル








無教会主義(むきょうかいしゅぎ)は、内村鑑三によって提唱された日本に独特のキリスト教信仰のあり方で、プロテスタントに分類される場合が多い。英語では、Non-church Movementと表記する。無教会、無教会キリスト教、無教会主義キリスト教とも呼ばれる(信徒のあいだでは「無教会」と呼称されることが多い)。なお、「無教会派」という名称は通常用いない。



目次 [非表示]
1概要
2無教会主義の集会
3日本国外の無教会主義
3.1人物
4注釈
5外部リンク


概要[編集]

内村鑑三は、彼の処女作『基督信徒のなぐさめ』において、初めて「無教会」という言葉を用いた(なお、当該の記述は、「余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる讃美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし」につづき、大自然の「無限」と「交通」し、また、「失せにし聖者」と「霊交」を「結ぶ」ことによって、いわば天然そのものを教会とする、というニュアンスを伴っていた[1])。その後、彼は「無教会」という名称の雑誌を創刊し、教会に行けない、所属する教会のない者同士の交流の場を設けようとした。

無教会主義のキリスト教徒は「イエス・キリストは無教会であった」「パウロは無教会であった」との理解を共有することが多い。また、無教会主義は「教会」よりも「キリストの十字架」を重んじると言われる。実際、内村鑑三はキリスト教は十字架教であると言っている。無教会主義は、教会主義・教会精神からの脱却を目指す主義であって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する主義ではない。無教会主義は、ある意味では教会に所属する・しないといったことに無頓着な主義であるとも言える。そのため、教会に所属しながら無教会主義であることも可能である。

キリスト教の歴史を通して教会にいろいろ付随してきた権威・権力を克服する、という理念に立った運動であり、理論的には、マルティン・ルター宗教改革の二大原理(聖書のみ万人祭司)を極端に現実化したものである。また、按手礼を受けた聖職者(牧師・正教師)を持たないため、無教会の集会または礼拝は、儀礼(サクラメント)や説教を中心としたキリスト教の伝統的礼典から離れ、その結果として、聖書の研究・講義が中心となった。

また、内村の直接の弟子たちのなかには大学に在学中の学生が多かったこともあり、その門下から多くの学者・著名人があらわれ、聖書学・キリスト教思想史関係の学者も多く輩出した。無教会は牧師養成学校を持たないこともあって、これら無教会系の学者は、国公立もしくは他のキリスト教系私立大学など、宗教・宗派の枠を超えたところで教鞭をとる傾向が強く、比較的早い時期から批判的に高いレベルの研究が行われるようになった。そのためもあって、無教会では知識に重きを置く一方で、霊的な側面を軽く見る傾向がある、と見られることがよくある。実際の無教会には、上記のような学者人脈(戦後の東大総長を務めた南原繁矢内原忠雄など)と並んで、在野での伝道を行っていった人々(斎藤宗次郎、政池仁など)がおり、いわば二つの系統があるのだが、新保祐司の指摘にもみられるように、「戦後、内村の弟子が東大総長になった、というような、非常に安易な内村鑑三の再評価」が行われた結果、「エキセントリックにしか見えない宗教性は排除されてしまい、内村鑑三の全集も、知織化された宗教として出されるようになってしまった」という事情がある[2]

なお、内村鑑三は、『万朝報』の英文欄主筆となった1897(明治30)年以降、社会問題に対する発言も積極的に行っていた。足尾鉱毒問題については田中正造らと協力し、実質的に鉱毒反対運動の第一線に立っていたといえる。また、1901(明治34)年7月には、朝報社の黒岩涙香幸徳秋水堺枯川らと社会改良団体理想団を結成している。当初、日清戦争については「義戦」[3]を主張していた内村ではあったが、その後、日本の戦後処理の実情に失望するなかで「猛省」[4]し、とくに日露戦争以降、彼の姿勢は「非戦論」という言葉によって知られるがごとく、「戦争絶対的廃止論者」としての姿勢を打ち出していった[5]。このような傾向を継承するという一面において、現在、一部の無教会系の団体及び関係者においては、若者に特定の政治思想にもとづく教育を行う、あるいは、政治活動そのものに熱心[6]な傾向があるとも指摘されており、無教会主義の現状について、賛否両論があることも事実である[7]
無教会主義の集会[編集]

無教会主義は、キリスト教徒の集会を否定するものではない。実際に、無教会主義のキリスト教徒は通常、各地で集会を形成し、毎週もしくは定期的に聖書研究会または礼拝を執り行う。集会は、基本的に牧師制度は取らず、教会堂は持たないが、独立伝道者と呼ばれる常任の指導者(先生)がいる場合もある。集会の場所は、ビルや公民館などの会議室を借りたり、または私宅などで礼拝を保つことが多いが、専用の集会所を持っている集会も存在する。なお、内村が生前聖書講義の拠点としていた東京の今井館聖書講堂が現在NPO法人として存続し、講堂と資料館を運営しており、さまざまな集会の開催、および、無教会関係の資料・書籍の蒐集と一般者への閲覧を行っている。

礼拝の中心を占めるものは聖書講義、聖書講話と呼ばれており、前後に讃美歌を歌い、祈りや黙祷をするなど、プロテスタントの礼拝形式を簡素化した形をとっていることが多い。洗礼浸礼バプテスマ)、聖餐式等の儀式は通常行わない。ただし、かならずしも洗礼反対、聖餐反対という意味ではない。その意味では、無教会主義は「反教会主義」ではない。

礼拝後、その日の聖書講義の内容について話し合ったり、感想などを語り合う時間を設けるところもある。お茶やお菓子などを食べながら歓談する場合もある。

無教会の集会は、聖書集会・聖書研究会との名称を持つことが多い。その集会はそれぞれ独自の運営方法を採っており、その集会を発足した者が講義を担当する場合もあれば、平信徒同士が交代で講義をする集会など、さまざまである。無教会の集会は、組織化、形骸化を避ける傾向があるため、宗教法人ではない集会が大多数を占めているが、一部に法人化している集会も存在する。また、同様の理由から、全国の集会を統率するような本部を持たず、全国に散らばる集会の数や教勢を統計にまとめることもない。これには、個々人が制度的な縛りから自由になれるという良い点がある。しかし同時に、外部からの接触が困難であるという欠点もある。後者については、現代の無教会主義集会の問題となっているようである。

主な集会は『キリスト教年鑑』に掲載されているが、あくまでも便宜的なもので網羅的ではない。最近では各集会同士の地域的な交わりを持つため、普段の礼拝の他に東北集会・四国集会のような地域単位の集会も定期的に保たれている。また、講演会が定期的に全国各地で開催されている。年に1回、「無教会全国集会」が各地域持ち回りで開催されており、近年は200名前後の参加者があるようである。
日本国外の無教会主義[編集]

内村鑑三の集会に参加していた者の中に金教臣(キムギョシン)などの朝鮮出身の者もいた。彼らは帰国後、無教会の集会を立ち上げ、また『聖書朝鮮』という伝道雑誌を発刊した。韓国の無教会は現在も続いているが、韓国国内では異端視される向きもある。なお、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)については、公式には無教会の後継者は残っていないとされる。

また台湾にも、断続的にではあるが、日本から無教会の信徒が伝道を行っている。

そして内村が発行していた雑誌『聖書之研究』の購読者はアメリカ合衆国にも存在していた。特に、内村の協力者であった井口喜源治が長野県穂高町(現安曇野市)に設立したキリスト教に基づく私塾「研成義塾」の出身者が多く渡米し、シアトル近郊に定住して集会を持っていたことはよく知られている[8]

無教会主義ではないが、イギリスで発生した平信徒運動でブレズレンとよばれるキリスト教のグループや、ヨーロッパで起こったメノナイトなどの再洗礼派(アナバプテスト)運動などが、その礼拝や理念、信条など無教会主義に近いとの指摘がある。また、同じくイギリスで起こったクエーカーと無教会主義のキリスト教徒との類似点を指摘する研究者は多い。内村自身、米国留学以来クエーカーとの交際があり、札幌農学校同期の新渡戸稲造をはじめ日本のクエーカーとも親交が深く、内村の弟子の中には後にクエーカーに入信した者も少なくない。内村と新渡戸がフィラデルフィアのクエーカー婦人海外伝道会に、女子教育機関として三田の普連土学園設立の提言をしたことは有名である。内村自身も著作の中で、キルケゴールが「無教会主義のキリスト教を世界に唱え」と述べている[9]ように、内村本人も無教会主義を提唱するにあたって日本国外の哲学や神学思想との類似点を認識していたことは確かである。
人物[編集]

塚本虎二黒崎幸吉、里見安吉(フェリス女学院教授)、秀村欣二関根正雄小池辰雄、松尾春雄(大分工業高等専門学校校長)、手島郁郎(キリストの幕屋教祖)

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注釈[編集]
^ 内村鑑三『キリスト信徒のなぐさめ』(岩波書店、1939年9月)55頁
^ 新保祐司(編)『別冊 環18 内村鑑三1861-1930』(藤原書店、2011年12月)
^ 内村鑑三「日清戦争の義(訳文)」、『国民之友』234号(民友社、明治27年9月3日付)
^ 署名なし「猛省(英文)」、『万朝報』(朝報社、明治30年12月14-16日付)
^ 内村鑑三「戦争廃止論」、『万朝報』(朝報社、明治36年6月30日付)


^ 無教会全国集会2015のサイトにおいても、「日本は革命的平和憲法(特に9条)を実質的骨抜きにして、集団的自衛権という名の下に、かっての天皇制軍国主義の復活をねらって」いるとして、イベント開催のお知らせ上に意見表明を行っている。http://blog.goo.ne.jp/mukyoukai2015/e/59be75a25fcb2ffaba82b31359601115


^ こうした傾向に対する無教会の若手からの意見としては、『季刊無教会』37号(2014年春号、無教会事務局)の特集において、賛同、もしくは慎重な意見が提出されている。また、ジェフリー・キングストン教授は、The Asia-Pacific Journal: Japan Focus英語版)のレポートの中で、学生団体SEALDsの中心メンバーは同じ高校(無教会主義系列のキリスト教愛真高等学校)出身者であることを指摘して解説した(SEALDs: Students Slam Abe’s Assault on Japan’s Constitution The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue. 36, No. 1, September 7, 2015)。



なお、内村鑑三自身は社会主義の思想を痛烈に批判しており、大正4年(1915年)には、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。内村の弟子の矢内原忠雄社会主義思想を批判しており、「矢内原にとって、キリスト教的観点に立てば唯物史観は偽キリストであり、矢内原がマルクス主義と対決してキリスト教弁護論を体系的に展開したのは、偽キリストからキリストを峻別するとともに、その挑戦に応じて現世同化したキリスト教を改革純化するためであった」(岡崎滋樹「矢内原忠雄研究の系譜-戦後日本における言説-」、『社会システム研究』第24号(2012年3月)所収、立命館大学)ことが指摘されている。
^ 宮原安春『誇りて在り―「研成義塾」アメリカへわたる』講談社。
^ 内村鑑三(著)『デンマルク国の話

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外部リンク[編集]
無教会研修所
今井館教友会
無教会キリスト集会
基督教独立学園高等学校
キリスト教愛真高等学校
愛農学園農業高等学校
一粒のぶどう

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