2016/11/03

Uchimura Kanzō - Wikipedia

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無教会主義

無教会主義(むきょうかいしゅぎ)は、内村鑑三によって提唱された日本に独特のキリスト教信仰のあり方で、プロテスタントに分類される場合が多い。英語では、Non-church Movementと表記する。無教会無教会キリスト教無教会主義キリスト教とも呼ばれる(信徒のあいだでは「無教会」と呼称されることが多い)。なお、「無教会派」という名称は通常用いない。

概要[編集]

内村鑑三は、彼の処女作『基督信徒のなぐさめ』において、初めて「無教会」という言葉を用いた(なお、当該の記述は、「余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる讃美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし」につづき、大自然の「無限」と「交通」し、また、「失せにし聖者」と「霊交」を「結ぶ」ことによって、いわば天然そのものを教会とする、というニュアンスを伴っていた[1])。その後、彼は「無教会」という名称の雑誌を創刊し、教会に行けない、所属する教会のない者同士の交流の場を設けようとした。
無教会主義のキリスト教徒は「イエス・キリストは無教会であった」パウロは無教会であった」との理解を共有することが多い。また、無教会主義は「教会」よりも「キリストの十字架」を重んじると言われる。実際、内村鑑三はキリスト教は十字架教であると言っている。無教会主義は、教会主義・教会精神からの脱却を目指す主義であって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する主義ではない。無教会主義は、ある意味では教会に所属する・しないといったことに無頓着な主義であるとも言える。そのため、教会に所属しながら無教会主義であることも可能である。
キリスト教の歴史を通して教会にいろいろ付随してきた権威・権力を克服する、という理念に立った運動であり、理論的には、マルティン・ルター宗教改革の二大原理(聖書のみ万人祭司)を極端に現実化したものである。また、按手礼を受けた聖職者(牧師・正教師)を持たないため、無教会の集会または礼拝は、儀礼(サクラメント)や説教を中心としたキリスト教の伝統的礼典から離れ、その結果として、聖書の研究・講義が中心となった。
また、内村の直接の弟子たちのなかには大学に在学中の学生が多かったこともあり、その門下から多くの学者・著名人があらわれ、聖書学・キリスト教思想史関係の学者も多く輩出した。無教会は牧師養成学校を持たないこともあって、これら無教会系の学者は、国公立もしくは他のキリスト教系私立大学など、宗教・宗派の枠を超えたところで教鞭をとる傾向が強く、比較的早い時期から批判的に高いレベルの研究が行われるようになった。そのためもあって、無教会では知識に重きを置く一方で、霊的な側面を軽く見る傾向がある、と見られることがよくある。実際の無教会には、上記のような学者人脈(戦後の東大総長を務めた南原繁矢内原忠雄など)と並んで、在野での伝道を行っていった人々(斎藤宗次郎、政池仁など)がおり、いわば二つの系統があるのだが、新保祐司の指摘にもみられるように、「戦後、内村の弟子が東大総長になった、というような、非常に安易な内村鑑三の再評価」が行われた結果、「エキセントリックにしか見えない宗教性は排除されてしまい、内村鑑三の全集も、知織化された宗教として出されるようになってしまった」という事情がある[2]
なお、内村鑑三は、『万朝報』の英文欄主筆となった1897(明治30)年以降、社会問題に対する発言も積極的に行っていた。足尾鉱毒問題については田中正造らと協力し、実質的に鉱毒反対運動の第一線に立っていたといえる。また、1901(明治34)年7月には、朝報社の黒岩涙香幸徳秋水堺枯川らと社会改良団体理想団を結成している。当初、日清戦争については「義戦」[3]を主張していた内村ではあったが、その後、日本の戦後処理の実情に失望するなかで「猛省」[4]し、とくに日露戦争以降、彼の姿勢は「非戦論」という言葉によって知られるがごとく、「戦争絶対的廃止論者」としての姿勢を打ち出していった[5]
このような傾向を継承するという一面において、現在、一部の無教会系の団体及び関係者においては、若者に特定の政治思想にもとづく教育を行う、あるいは、政治活動そのものに熱心[6]な傾向があるとも指摘されており、無教会主義の現状について、賛否両論があることも事実である[7]

無教会主義の集会[編集]

無教会主義は、キリスト教徒の集会を否定するものではない。実際に、無教会主義のキリスト教徒は通常、各地で集会を形成し、毎週もしくは定期的に聖書研究会または礼拝を執り行う。集会は、基本的に牧師制度は取らず、教会堂は持たないが、独立伝道者と呼ばれる常任の指導者(先生)がいる場合もある。集会の場所は、ビルや公民館などの会議室を借りたり、または私宅などで礼拝を保つことが多いが、専用の集会所を持っている集会も存在する。なお、内村が生前聖書講義の拠点としていた東京の今井館聖書講堂が現在NPO法人として存続し、講堂と資料館を運営しており、さまざまな集会の開催、および、無教会関係の資料・書籍の蒐集と一般者への閲覧を行っている。
礼拝の中心を占めるものは聖書講義、聖書講話と呼ばれており、前後に讃美歌を歌い、祈りや黙祷をするなど、プロテスタントの礼拝形式を簡素化した形をとっていることが多い。洗礼浸礼バプテスマ)、聖餐式等の儀式は通常行わない。ただし、かならずしも洗礼反対、聖餐反対という意味ではない。その意味では、無教会主義は「反教会主義」ではない。
礼拝後、その日の聖書講義の内容について話し合ったり、感想などを語り合う時間を設けるところもある。お茶やお菓子などを食べながら歓談する場合もある。
無教会の集会は、聖書集会・聖書研究会との名称を持つことが多い。その集会はそれぞれ独自の運営方法を採っており、その集会を発足した者が講義を担当する場合もあれば、平信徒同士が交代で講義をする集会など、さまざまである。無教会の集会は、組織化、形骸化を避ける傾向があるため、宗教法人ではない集会が大多数を占めているが、一部に法人化している集会も存在する。また、同様の理由から、全国の集会を統率するような本部を持たず、全国に散らばる集会の数や教勢を統計にまとめることもない。これには、個々人が制度的な縛りから自由になれるという良い点がある。しかし同時に、外部からの接触が困難であるという欠点もある。後者については、現代の無教会主義集会の問題となっているようである。
主な集会は『キリスト教年鑑』に掲載されているが、あくまでも便宜的なもので網羅的ではない。最近では各集会同士の地域的な交わりを持つため、普段の礼拝の他に東北集会・四国集会のような地域単位の集会も定期的に保たれている。また、講演会が定期的に全国各地で開催されている。年に1回、「無教会全国集会」が各地域持ち回りで開催されており、近年は200名前後の参加者があるようである。

日本国外の無教会主義[編集]

内村鑑三の集会に参加していた者の中に金教臣(キムギョシン)などの朝鮮出身の者もいた。彼らは帰国後、無教会の集会を立ち上げ、また『聖書朝鮮』という伝道雑誌を発刊した。韓国の無教会は現在も続いているが、韓国国内では異端視される向きもある。なお、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)については、公式には無教会の後継者は残っていないとされる。
また台湾にも、断続的にではあるが、日本から無教会の信徒が伝道を行っている。
そして内村が発行していた雑誌『聖書之研究』の購読者はアメリカ合衆国にも存在していた。特に、内村の協力者であった井口喜源治が長野県穂高町(現安曇野市)に設立したキリスト教に基づく私塾「研成義塾」の出身者が多く渡米し、シアトル近郊に定住して集会を持っていたことはよく知られている[8]
無教会主義ではないが、イギリスで発生した平信徒運動でブレズレンとよばれるキリスト教のグループや、ヨーロッパで起こったメノナイトなどの再洗礼派(アナバプテスト)運動などが、その礼拝や理念、信条など無教会主義に近いとの指摘がある。また、同じくイギリスで起こったクエーカーと無教会主義のキリスト教徒との類似点を指摘する研究者は多い。内村自身、米国留学以来クエーカーとの交際があり、札幌農学校同期の新渡戸稲造をはじめ日本のクエーカーとも親交が深く、内村の弟子の中には後にクエーカーに入信した者も少なくない。内村と新渡戸がフィラデルフィアのクエーカー婦人海外伝道会に、女子教育機関として三田の普連土学園設立の提言をしたことは有名である。内村自身も著作の中で、キルケゴールが「無教会主義のキリスト教を世界に唱え」と述べている[9]ように、内村本人も無教会主義を提唱するにあたって日本国外の哲学や神学思想との類似点を認識していたことは確かである。

人物[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 内村鑑三『キリスト信徒のなぐさめ』(岩波書店、1939年9月)55頁
  2. ^ 新保祐司(編)『別冊 環18 内村鑑三1861-1930』(藤原書店、2011年12月)
  3. ^ 内村鑑三「日清戦争の義(訳文)」、『国民之友』234号(民友社、明治27年9月3日付)
  4. ^ 署名なし「猛省(英文)」、『万朝報』(朝報社、明治30年12月14-16日付)
  5. ^ 内村鑑三「戦争廃止論」、『万朝報』(朝報社、明治36年6月30日付)
  6. ^ 無教会全国集会2015のサイトにおいても、「日本は革命的平和憲法(特に9条)を実質的骨抜きにして、集団的自衛権という名の下に、かっての天皇制軍国主義の復活をねらって」いるとして、イベント開催のお知らせ上に意見表明を行っている。http://blog.goo.ne.jp/mukyoukai2015/e/59be75a25fcb2ffaba82b31359601115
  7. ^ こうした傾向に対する無教会の若手からの意見としては、『季刊無教会』37号(2014年春号、無教会事務局)の特集において、賛同、もしくは慎重な意見が提出されている。また、ジェフリー・キングストン教授は、The Asia-Pacific Journal: Japan Focus英語版のレポートの中で、学生団体SEALDsの中心メンバーは同じ高校(無教会主義系列のキリスト教愛真高等学校)出身者であることを指摘して解説したSEALDs: Students Slam Abe’s Assault on Japan’s Constitution The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue. 36, No. 1, September 7, 2015)。
    なお、内村鑑三自身は社会主義の思想を痛烈に批判しており、大正4年(1915年)には、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。
    内村の弟子の矢内原忠雄社会主義思想を批判しており、「矢内原にとって、キリスト教的観点に立てば唯物史観は偽キリストであり、矢内原がマルクス主義と対決してキリスト教弁護論を体系的に展開したのは、偽キリストからキリストを峻別するとともに、その挑戦に応じて現世同化したキリスト教を改革純化するためであった」(岡崎滋樹「矢内原忠雄研究の系譜-戦後日本における言説-」、『社会システム研究』第24号(2012年3月)所収、立命館大学)ことが指摘されている。

  8. ^ 宮原安春『誇りて在り―「研成義塾」アメリカへわたる』講談社。

  9. ^ 内村鑑三(著)デンマルク国の話

外部リンク[編集]


無教会研修所
今井館教友会
無教会キリスト集会
基督教独立学園高等学校
キリスト教愛真高等学校
愛農学園農業高等学校
一粒のぶどう

無教会主義 - Wikipedia

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日本独自の教会主義
無教会主義

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内村鑑三
静子ルツ子
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南原繁矢内原忠雄
畔上賢造坂田祐
斎藤宗次郎塚本虎二
中村勝己高谷道男
藤井武鈴木弼美
関根正雄星野鉄男

歴史


札幌バンド(1877-1881)・不敬事件(1891)
東京独立雑誌(1898-1900)・夏期講談会(1900-1902)
聖書之研究(1900-1930)・モアブ婦人会(1913-)
角筈聖書研究会(1902-1930)・教友会(1905-1918)
今井館(1906-)・柏会(1909-1916)
白雨会(1911-1918)柏木兄弟団(1918-1921)
再臨運動(1918-1919)・洗足会(1923-)

著作


基督信徒の慰(1893)・求安録(1893)
余は如何にして基督信徒となりし乎(1895)

その他
基督教独立学園高等学校

キリスト教 ポータル








無教会主義(むきょうかいしゅぎ)は、内村鑑三によって提唱された日本に独特のキリスト教信仰のあり方で、プロテスタントに分類される場合が多い。英語では、Non-church Movementと表記する。無教会、無教会キリスト教、無教会主義キリスト教とも呼ばれる(信徒のあいだでは「無教会」と呼称されることが多い)。なお、「無教会派」という名称は通常用いない。



目次 [非表示]
1概要
2無教会主義の集会
3日本国外の無教会主義
3.1人物
4注釈
5外部リンク


概要[編集]

内村鑑三は、彼の処女作『基督信徒のなぐさめ』において、初めて「無教会」という言葉を用いた(なお、当該の記述は、「余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる讃美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし」につづき、大自然の「無限」と「交通」し、また、「失せにし聖者」と「霊交」を「結ぶ」ことによって、いわば天然そのものを教会とする、というニュアンスを伴っていた[1])。その後、彼は「無教会」という名称の雑誌を創刊し、教会に行けない、所属する教会のない者同士の交流の場を設けようとした。

無教会主義のキリスト教徒は「イエス・キリストは無教会であった」「パウロは無教会であった」との理解を共有することが多い。また、無教会主義は「教会」よりも「キリストの十字架」を重んじると言われる。実際、内村鑑三はキリスト教は十字架教であると言っている。無教会主義は、教会主義・教会精神からの脱却を目指す主義であって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する主義ではない。無教会主義は、ある意味では教会に所属する・しないといったことに無頓着な主義であるとも言える。そのため、教会に所属しながら無教会主義であることも可能である。

キリスト教の歴史を通して教会にいろいろ付随してきた権威・権力を克服する、という理念に立った運動であり、理論的には、マルティン・ルター宗教改革の二大原理(聖書のみ万人祭司)を極端に現実化したものである。また、按手礼を受けた聖職者(牧師・正教師)を持たないため、無教会の集会または礼拝は、儀礼(サクラメント)や説教を中心としたキリスト教の伝統的礼典から離れ、その結果として、聖書の研究・講義が中心となった。

また、内村の直接の弟子たちのなかには大学に在学中の学生が多かったこともあり、その門下から多くの学者・著名人があらわれ、聖書学・キリスト教思想史関係の学者も多く輩出した。無教会は牧師養成学校を持たないこともあって、これら無教会系の学者は、国公立もしくは他のキリスト教系私立大学など、宗教・宗派の枠を超えたところで教鞭をとる傾向が強く、比較的早い時期から批判的に高いレベルの研究が行われるようになった。そのためもあって、無教会では知識に重きを置く一方で、霊的な側面を軽く見る傾向がある、と見られることがよくある。実際の無教会には、上記のような学者人脈(戦後の東大総長を務めた南原繁矢内原忠雄など)と並んで、在野での伝道を行っていった人々(斎藤宗次郎、政池仁など)がおり、いわば二つの系統があるのだが、新保祐司の指摘にもみられるように、「戦後、内村の弟子が東大総長になった、というような、非常に安易な内村鑑三の再評価」が行われた結果、「エキセントリックにしか見えない宗教性は排除されてしまい、内村鑑三の全集も、知織化された宗教として出されるようになってしまった」という事情がある[2]

なお、内村鑑三は、『万朝報』の英文欄主筆となった1897(明治30)年以降、社会問題に対する発言も積極的に行っていた。足尾鉱毒問題については田中正造らと協力し、実質的に鉱毒反対運動の第一線に立っていたといえる。また、1901(明治34)年7月には、朝報社の黒岩涙香幸徳秋水堺枯川らと社会改良団体理想団を結成している。当初、日清戦争については「義戦」[3]を主張していた内村ではあったが、その後、日本の戦後処理の実情に失望するなかで「猛省」[4]し、とくに日露戦争以降、彼の姿勢は「非戦論」という言葉によって知られるがごとく、「戦争絶対的廃止論者」としての姿勢を打ち出していった[5]。このような傾向を継承するという一面において、現在、一部の無教会系の団体及び関係者においては、若者に特定の政治思想にもとづく教育を行う、あるいは、政治活動そのものに熱心[6]な傾向があるとも指摘されており、無教会主義の現状について、賛否両論があることも事実である[7]
無教会主義の集会[編集]

無教会主義は、キリスト教徒の集会を否定するものではない。実際に、無教会主義のキリスト教徒は通常、各地で集会を形成し、毎週もしくは定期的に聖書研究会または礼拝を執り行う。集会は、基本的に牧師制度は取らず、教会堂は持たないが、独立伝道者と呼ばれる常任の指導者(先生)がいる場合もある。集会の場所は、ビルや公民館などの会議室を借りたり、または私宅などで礼拝を保つことが多いが、専用の集会所を持っている集会も存在する。なお、内村が生前聖書講義の拠点としていた東京の今井館聖書講堂が現在NPO法人として存続し、講堂と資料館を運営しており、さまざまな集会の開催、および、無教会関係の資料・書籍の蒐集と一般者への閲覧を行っている。

礼拝の中心を占めるものは聖書講義、聖書講話と呼ばれており、前後に讃美歌を歌い、祈りや黙祷をするなど、プロテスタントの礼拝形式を簡素化した形をとっていることが多い。洗礼浸礼バプテスマ)、聖餐式等の儀式は通常行わない。ただし、かならずしも洗礼反対、聖餐反対という意味ではない。その意味では、無教会主義は「反教会主義」ではない。

礼拝後、その日の聖書講義の内容について話し合ったり、感想などを語り合う時間を設けるところもある。お茶やお菓子などを食べながら歓談する場合もある。

無教会の集会は、聖書集会・聖書研究会との名称を持つことが多い。その集会はそれぞれ独自の運営方法を採っており、その集会を発足した者が講義を担当する場合もあれば、平信徒同士が交代で講義をする集会など、さまざまである。無教会の集会は、組織化、形骸化を避ける傾向があるため、宗教法人ではない集会が大多数を占めているが、一部に法人化している集会も存在する。また、同様の理由から、全国の集会を統率するような本部を持たず、全国に散らばる集会の数や教勢を統計にまとめることもない。これには、個々人が制度的な縛りから自由になれるという良い点がある。しかし同時に、外部からの接触が困難であるという欠点もある。後者については、現代の無教会主義集会の問題となっているようである。

主な集会は『キリスト教年鑑』に掲載されているが、あくまでも便宜的なもので網羅的ではない。最近では各集会同士の地域的な交わりを持つため、普段の礼拝の他に東北集会・四国集会のような地域単位の集会も定期的に保たれている。また、講演会が定期的に全国各地で開催されている。年に1回、「無教会全国集会」が各地域持ち回りで開催されており、近年は200名前後の参加者があるようである。
日本国外の無教会主義[編集]

内村鑑三の集会に参加していた者の中に金教臣(キムギョシン)などの朝鮮出身の者もいた。彼らは帰国後、無教会の集会を立ち上げ、また『聖書朝鮮』という伝道雑誌を発刊した。韓国の無教会は現在も続いているが、韓国国内では異端視される向きもある。なお、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)については、公式には無教会の後継者は残っていないとされる。

また台湾にも、断続的にではあるが、日本から無教会の信徒が伝道を行っている。

そして内村が発行していた雑誌『聖書之研究』の購読者はアメリカ合衆国にも存在していた。特に、内村の協力者であった井口喜源治が長野県穂高町(現安曇野市)に設立したキリスト教に基づく私塾「研成義塾」の出身者が多く渡米し、シアトル近郊に定住して集会を持っていたことはよく知られている[8]

無教会主義ではないが、イギリスで発生した平信徒運動でブレズレンとよばれるキリスト教のグループや、ヨーロッパで起こったメノナイトなどの再洗礼派(アナバプテスト)運動などが、その礼拝や理念、信条など無教会主義に近いとの指摘がある。また、同じくイギリスで起こったクエーカーと無教会主義のキリスト教徒との類似点を指摘する研究者は多い。内村自身、米国留学以来クエーカーとの交際があり、札幌農学校同期の新渡戸稲造をはじめ日本のクエーカーとも親交が深く、内村の弟子の中には後にクエーカーに入信した者も少なくない。内村と新渡戸がフィラデルフィアのクエーカー婦人海外伝道会に、女子教育機関として三田の普連土学園設立の提言をしたことは有名である。内村自身も著作の中で、キルケゴールが「無教会主義のキリスト教を世界に唱え」と述べている[9]ように、内村本人も無教会主義を提唱するにあたって日本国外の哲学や神学思想との類似点を認識していたことは確かである。
人物[編集]

塚本虎二黒崎幸吉、里見安吉(フェリス女学院教授)、秀村欣二関根正雄小池辰雄、松尾春雄(大分工業高等専門学校校長)、手島郁郎(キリストの幕屋教祖)

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注釈[編集]
^ 内村鑑三『キリスト信徒のなぐさめ』(岩波書店、1939年9月)55頁
^ 新保祐司(編)『別冊 環18 内村鑑三1861-1930』(藤原書店、2011年12月)
^ 内村鑑三「日清戦争の義(訳文)」、『国民之友』234号(民友社、明治27年9月3日付)
^ 署名なし「猛省(英文)」、『万朝報』(朝報社、明治30年12月14-16日付)
^ 内村鑑三「戦争廃止論」、『万朝報』(朝報社、明治36年6月30日付)


^ 無教会全国集会2015のサイトにおいても、「日本は革命的平和憲法(特に9条)を実質的骨抜きにして、集団的自衛権という名の下に、かっての天皇制軍国主義の復活をねらって」いるとして、イベント開催のお知らせ上に意見表明を行っている。http://blog.goo.ne.jp/mukyoukai2015/e/59be75a25fcb2ffaba82b31359601115


^ こうした傾向に対する無教会の若手からの意見としては、『季刊無教会』37号(2014年春号、無教会事務局)の特集において、賛同、もしくは慎重な意見が提出されている。また、ジェフリー・キングストン教授は、The Asia-Pacific Journal: Japan Focus英語版)のレポートの中で、学生団体SEALDsの中心メンバーは同じ高校(無教会主義系列のキリスト教愛真高等学校)出身者であることを指摘して解説した(SEALDs: Students Slam Abe’s Assault on Japan’s Constitution The Asia-Pacific Journal, Vol. 13, Issue. 36, No. 1, September 7, 2015)。



なお、内村鑑三自身は社会主義の思想を痛烈に批判しており、大正4年(1915年)には、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。内村の弟子の矢内原忠雄社会主義思想を批判しており、「矢内原にとって、キリスト教的観点に立てば唯物史観は偽キリストであり、矢内原がマルクス主義と対決してキリスト教弁護論を体系的に展開したのは、偽キリストからキリストを峻別するとともに、その挑戦に応じて現世同化したキリスト教を改革純化するためであった」(岡崎滋樹「矢内原忠雄研究の系譜-戦後日本における言説-」、『社会システム研究』第24号(2012年3月)所収、立命館大学)ことが指摘されている。
^ 宮原安春『誇りて在り―「研成義塾」アメリカへわたる』講談社。
^ 内村鑑三(著)『デンマルク国の話

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外部リンク[編集]
無教会研修所
今井館教友会
無教会キリスト集会
基督教独立学園高等学校
キリスト教愛真高等学校
愛農学園農業高等学校
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無教会
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Gordon Hirabayashi
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Gordon Hirabayashi

Gordon Hirabayashi in 1986
Born April 23, 1918
Seattle, Washington, U.S.
Died January 2, 2012 (aged 93)
Edmonton, Alberta, Canada
Nationality American
Ethnicity Japanese
Alma mater University of Washington
Occupation Sociologist
Known for Hirabayashi v. United States
Religion Christianity (Religious Society of Friends (Quakers))


Gordon Kiyoshi Hirabayashi(Japanese: 平林潔, Hirabayashi Kiyoshi) (April 23, 1918 – January 2, 2012) was an American sociologist, best known for his principled resistance to the Japanese American internment during World War II, and the court case which bears his name, Hirabayashi v. United States.



Contents [hide]
1Biography
1.1Early life
1.2Post-war career
1.3Conviction overturned
1.4Public honors
1.4.1U.S.D.A. Forest Service Memorial
1.4.2California State Legislature
1.4.3Presidential Medal of Freedom
1.5Stage play
2See also
3References
4External links


Biography[edit]
Early life[edit]

Hirabayashi was born in Seattle to a Christian family who were associated with the Mukyōkai Christian Movement. He graduated from Auburn Senior High School in Auburn, Washington, and in 1937 went to the University of Washington, where he received his degree. At the University he participated in the YMCA and became a religious pacifist.

Gordon Hirabayashi's draft registration card. Written in the left-hand margin: "I am a conscientious objector."

Although he at first considered accepting internment, he ultimately became one of three to openly defy it. He joined the Quaker-run American Friends Service Committee. In 1942 he turned himself in to the FBI, and after being convicted for curfew violation was sentenced to 90 days in prison. He invited prosecution in part to appeal the verdict all the way to the U.S. Supreme Court with the backing of the ACLU. One of his lawyers was the Philadelphia Quaker attorney Harold Evans. The Supreme Court, however, unanimously ruled against him in Hirabayashi v. United States(1943), albeit with three Justices filing separate opinions that concurred with the Court's decision only with certain reservations.

Given wartime exigencies, officials would not transport him to prison or even pay his train fare, so he hitchhiked to the prison in Arizona where he had been ordered to serve his sentence. Once there, wardens stated they lacked the sufficient papers as he was two weeks late. They considered letting him just go home, but he feared this would look suspicious. After that they made the suggestion he could go out for dinner and a movie, which would give them time to find his papers. He agreed to this and, by the time he finished doing so, they had found the relevant paperwork.[1]

Hirabayashi later spent a year in federal prison at McNeil Island Penitentiary for refusing induction into the armed forces, contending that a questionnaire sent to Japanese Americans demanding renunciation of allegiance to the emperor of Japan was racially discriminatory because other ethnic groups were not asked about adherence to foreign leaders.[2]
Post-war career[edit]

After the war, he went on to earn B.A., M.A. and Ph.D. degrees in sociology from the University of Washington. He taught in Beirut, Lebanon and Cairo, Egypt, before settling at the University of Alberta in Canada in 1959, where he served as chair of the sociology department from 1970 until 1975 and continued to teach until his retirement in 1983.[3] As a sociologist he did studies of Jordan and the Russian Doukhobors in British Columbia, Egyptian village political awareness, Jordanian social change, and Asian-Americans. He was an active member of Canadian Yearly Meeting of the Religious Society of Friends (Quakers). After retirement he was active on behalf of human rights.

Hirabayashi died on January 2, 2012, at age 93,[4] in Edmonton, Alberta.[5] He had been diagnosed with Alzheimer's disease 11 years earlier.[6][7]
Conviction overturned[edit]

Soon after retiring, Hirabayashi received a call that would prove consequential. Peter Irons, a political science professor from the University of California, San Diego, had uncovered documents that clearly showed evidence of government misconduct in 1942—evidence that the government knew there was no military reason for the exclusion order but withheld that information from the United States Supreme Court. With this new information, Hirabayashi’s case was reheard by the federal courts, and in 1987 the Court of Appeals for the Ninth Circuit[8]granted a writ of coram nobis which overturned his criminal conviction.

“It was quite a strong victory—so strong that the other side did not appeal,” says Hirabayashi. “It was a vindication of all the effort people had put in for the rights of citizens during crisis periods.”

“There was a time when I felt that the Constitution failed me,” he explains. “But with the reversal in the courts and in public statements from the government, I feel that our country has proven that the Constitution is worth upholding. The U.S. government admitted it made a mistake. A country that can do that is a strong country. I have more faith and allegiance to the Constitution than I ever had before.”[9]

"I would also say that if you believe in something, if you think the Constitution is a good one, and if you think the Constitution protects you, you better make sure that the Constitution is actively operating... and uh, in other words "constant vigilance". Otherwise, it's a scrap of paper. We had the Constitution to protect us in 1942. It didn't because the will of the people weren't behind it."[10]

In 1999, the Coronado National Forest in Arizona renamed the former Catalina Honor Camp in Hirabayashi's honor. The site, ten miles northeast of Tucson, where Hirabayashi had served out his sentence of hard labor in 1942, is now known as the Gordon Hirabayashi Recreation Site.[11]

In 2008, the University of Washington awarded Hirabayashi and four hundred former students of Japanese ancestry who were evacuated from the school honorary degrees "nunc pro tunc" (retroactively). Although Hirabayashi did not attend the ceremony, when his name was called he received the loudest and longest ovation from the audience.[citation needed]

Jay Hirabayashi performs a butoh dance piece in memory of his parents, Gordon and Esther Hirabayashi, at a Day of Remembrance event in Seattle, Washington, February 22, 2014.

On May 24, 2011, the U.S. Acting Solicitor General, Neal Katyal delivered the keynote speech at the Department of Justice's Great Hall marking Asian American and Pacific Islander Heritage Month. Developing comments he had posted officially on May 20,[12] Katyal issued the Justice Department's first public confession of its 1942 ethics lapse. He cited the Hirabayashi and Korematsu cases as blots on the reputation of the Office of the Solicitor General - whom the Supreme Court explicitly considers as deserving of "special credence" when arguing cases - and as "an important reminder" of the need for absolute candor in arguing the United States government's position on every case.[13]
Public honors[edit]
U.S.D.A. Forest Service Memorial[edit]

In 1999, the former Catalina Federal Honor Camp near Tucson, Arizona, where Hirabayashi was sentenced to hard labor in the 1940s, was renamed the Gordon Hirabayashi Recreation Site.[14] Located within the Coronado National Forest, the site offers a public campground.[15]
California State Legislature[edit]

On January 5, 2012, Assembly members Yamada and Furutani were granted unanimous consent in the California State Assembly to adjourn in memory of Gordon Hirabayashi.[16]
Presidential Medal of Freedom[edit]

Hirabayashi's Medal of Freedom and certificate

On April 27, 2012, President Barack Obamaannounced that Hirabayashi would receive the Presidential Medal of Freedom for his principled stand against Japanese-American internment. The President presented the award posthumously on May 29. It was accepted by his family who traveled to Washington from Edmonton, Alberta, Canada.[17] On February 22, 2014, the medal was formally donated to the University of Washington Library Special Collections, which holds Hirabayashi's papers.[18]

Members of Hirabayashi's family pose with his Presidential Medal of Freedom immediately after it was unveiled as a donation to the University of Washington Library Special Collections. Left to right: Susan Carnahan (second wife, widow), Marion Oldenburg (daughter), Jay Hirabayashi (son), Sharon Yuen (daughter); University of Washington Provost Ana Mari Cauce accepting the donation on behalf of the university.
Stage play[edit]

In 2007, the Asian American theatrecompany East West Players gave the world premiere of a stage play based on Hirabayashi's true life story. The play was a one-man show and was titled Dawn's Light: The Journey of Gordon Hirabayashi. East West Players described the play as follows: "During WWII in Seattle, University of Washington student Gordon Hirabayashi agonizes over U.S. government orders to forcibly remove and imprison all people of Japanese ancestry on the West Coast. As he fights to reconcile his country's betrayal with his Constitutional beliefs, Gordon journeys toward a greater understanding of America's triumphs and failures."[19]

Dawn's Light: The Journey of Gordon Hirabayashi was written by Jeanne Sakata, directed by Jessica Kubzansky, and starred actor Ryun Yu as Gordon Hirabayashi and multiple other roles. Performances were held at the East West Player's David Henry Hwang Theatre in Little Tokyo in Los Angeles, California. Previews were November 1–4, 2007.[19] Opening night was on November 7, 2007 and the play closed on December 2, 2007.[20] The Los Angeles Times gave it a mixed review: "Ryun Yu plays Hirabayashi... but even his fine-grained tour de force doesn't negate the suspicion that another structure, another style might make this material more exciting."[21]

In 2008, playwright Jeanne Sakata adapted her full-length stage play into a shorter theatre-for-youth production, which would tour the schools. Whereas the original one-man show ran approximately 90 minutes, this new abridged version, aimed at students, was about half as long, coming in at about 45 minutes. The tour was produced by East West Players' Theatre For Youth program, directed again by Jessica Kubzansky, and starred actor Martin Yu,[22] who had been the understudy in the original 2007 full-length production.[19]

In 2010, East West Players' Theatre For Youth program produced another tour of Dawn's Light: The Journey of Gordon Hirabayashi. There were a few revisions to the script, but the play remained approximately 45 minutes. However, there was a new director and cast, not connected to previous productions. It was directed by Leslie Ishii and starred actor Blake Kushi.[23] This marked the first time a Japanese-American director as well as a Japanese-American actor were used. The show was well-received as indicated by the following review: "Kushi gave a one-man, tour-de-force performance that floored the audience..."[24]

Southern California Edison was the major sponsor of this tour of Dawn's Light: The Journey of Gordon Hirabayashi. The tour ran from February 12 to March 31, 2010. Shows were performed at elementary schools, middle schools, and high schools (and one city college[25]) and also at community centers, churches, and public libraries. There were 35 performances in total. The tour visited the following California cities: Alhambra, Baldwin Park, East Rancho Dominguez, Fullerton, Gardena, Huntington Beach, Long Beach, Los Angeles, Monterey Park, North Hollywood, Norwalk, Pasadena, Redlands, Reseda, San Bernardino, San Fernando, Van Nuys, and West Covina.

In 2011, Ryun Yu reprised his performance of Dawn's Light: The Journey of Gordon Hirabayashi, but this time in Chicago, Illinois.[26] Silk Road Theatre Project, in association with the Department of Cultural Affairs, City of Chicago and Millennium Park, presented the one-man show at the Jay Pritzker Pavilion in Millennium Park.[27] There were three performances total on January 13–15, 2011. The production was directed by Jessica Kubzansky and produced by Jerry O'Boyle.[27]

In 2012, the play was renamed by its author Hold These Truths, and prepared by the Epic Theatre Ensemble of New York City for presentation off-Broadway in prototype productions in March. Starring Joel de la Fuente,[28] it is on the Fall schedule to run from October 21 to November 18, 2012.[29] Peoples Light & Theater Company, in Malvern, Pa., staged the play in 2014 as part of its Community Matters series,[30] with de la Fuente. Plays & Players Theatre, in Philadelphia, presented it in 2015 with actor Makoto Hirano.[31]
See also[edit]
List of civil rights leaders
References[edit]

Jump up^ "45 Years Later, an Apology from the U.S. Government" Newsletter of the University of Washington College of Arts and Sciences, Winter 2000
Jump up^ Goldstein, Richard (January 3, 2012), "Gordon Hirabayashi, World War II Internment Opponent, Dies at 93", The New York Times
Jump up^ HistoryLink essay
Jump up^ "Obituary: Gordon Hirabayashi Has Died; He Refused To Go To WWII Internment Camp", All Things Considered, NPR, January 4, 2012, retrieved 2012-01-05
Jump up^ Woo, Elaine (January 5, 2012). "Gordon Hirabayashi dies at 93; opposed internment of Japanese Americans; Hirabayashi cleared his name four decades after his 1942 arrest and helped prove that the U.S. falsified the reasons for the mass incarceration". Los Angeles Times. Los Angeles, CA. Retrieved January 13, 2012.
Jump up^ "Remembering Gordon Hirabayashi (1918-2012)". Fred T. Korematsu Institute for Civil Rights and Education. Retrieved 2012-01-03.
Jump up^ [1]
Jump up^ Hirabayashi v. United States, 828 F.2d 591 [2] (retrieved May 24, 2011)
Jump up^ A&S Perspectives, Winter 2000, University of Washington
Jump up^ Gordon Hirabayashi Interview, Copyright 2001 Smithsonian Institution
Jump up^ "Department of Justice and U.S. Army Facilities" from the National Park Service website (retrieved December 9, 2007)
Jump up^ from "The Justice Blog" on the U.S. Department of Justice website (retrieved May 24, 2011) "Confession of Error: The Solicitor General’s Mistakes During the Japanese-American Internment Cases"
Jump up^ Savage, David G. (May 24, 2011), "U.S. official cites misconduct in Japanese American internment cases", The Los Angeles Times
Jump up^ korematsuinstitute.org/institute/aboutfred/internmentcases/gordon-hirabayashi-v-united-states/ Korematsu Institute's Hirabayashi page
Jump up^ http://gingerpost.com/?p=1876 Ginger Post webpage
Jump up^ "Assembly Daily Journal - January 5, 2012" (PDF). California State Legislature. January 5, 2012. Retrieved May 31, 2012.
Jump up^ "Obama Names Juliette Gordon Low recipient of the Presidential Medal of Freedom", Savannah Morning News, Savannah Morning News, April 27, 2012
Jump up^ Courage in Action: the Life and Legacy of Gordon K. Hirabayashi, program for a symposium of the same name that took place at Kane Hall, University of Washington, February 22, 2014.
^ Jump up to:a b c "Dawn's Light - 42nd Season". East West Players. Retrieved 30 April 2010.
Jump up^ "Dawn's Light: The Journey of Gordon Hirabayashi Tickets, Discount Tickets and Information - Los Angeles - Open Date: 11/07/2007". Retrieved 30 April 2010.
Jump up^ Segal, Lewis. "One man's losing battle against racism: 'Dawn's Light' addresses racism in times of war, but current events undercut its impact", Los Angeles Times, 9 November 2007. Retrieved on 11 November 2010.
Jump up^ Ikemi, Douglas. "The APPA Newsletter" (PDF), page 7. Hughes Asian Pacific Professional Association, Los Angeles, 5 March 2008. Retrieved on 30 April 2010.
Jump up^ "Theatre For Youth Tour". East West Players. Retrieved on 30 June 2010.
Jump up^ Sum, Catherine. "'Dawn's Light' illuminates rapt audience", PCC Courier, Pasadena, 1 April 2010. Retrieved on 30 April 2010.
Jump up^ Gutierrez, Juan F. "News: Pasadena City College Presents 'Dawn’s Light: The Journey of Gordon Hirabayashi'", Pasadena City College, 25 March 2010. Retrieved on 30 April 2010.
Jump up^ "Silk Road stages citizen’s own World War II battle in 'Dawn's Light'", "Chicago Sun-Times", Chicago, 7 January 2011. Retrieved on 5 February 2011.
^ Jump up to:a b Silk Road Theatre Project | Dawn's Light. Silk Road Theatre Project. Retrieved on 5 February 2011.
Jump up^ Joel de la Fuente website
Jump up^ http://epictheatreensemble.org/holdthesetruths
Jump up^ Peoples Light 2014 Community Matters
Jump up^ Plays&Players webpage
External links[edit]
Wikimedia Commons has media related to Gordon Hirabayashi.

History Link
University of Washington essay
On the court case
Short biography (pdf)
Sociology papers
Segal, Lewis. "THEATER REVIEW: One man's losing battle against racism: 'Dawn's Light' addresses racism in times of war, but current events undercut its impact", Los Angeles Times, 9 November 2007. Retrieved on 30 April 2010.
Chung, Philip W. "Gordon Hirabayashi’s Story Sees the Light of Dawn", AsianWeek, San Francisco, 3 November 2007. Retrieved on 30 April 2010.
Gordon Hirabayashi Recreation Site History