2016/10/01

無教会(キリスト教)と内村鑑三を紹介

無教会(キリスト教)と内村鑑三を紹介

 内村鑑三 書籍  アマゾンで購入可能 アマゾンより


代表的日本人 (岩波文庫) 文庫 – 1995/7/17 
内村 鑑三 (著), 鈴木 範久 (翻訳) 
内村鑑三は,「代表的日本人」として西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の五人をあげ,その生涯を叙述する.
日清戦争の始まった一八九四年に書かれた本書は岡倉天心『茶の本』,新渡戸稲造『武士道』と共に,日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作である.
奔流のように押し寄せる西欧文化の中で、どのような日本人として生きるべきかを模索した書。新たな訳による読みやすい新版。 


後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫) 文庫 – 2011/9/17 
内村 鑑三 (著) 注・解説=鈴木範久
普通の人間にとって実践可能な人生の真の生き方とは何か。我々は後世に何を遺してゆけるのか。
明治27年夏期学校における講演「後世への最大遺物」は、人生最大のこの根本問題について熱っぽく語りかける、
「何人にも遺し得る最大遺物――それは高尚なる生涯である」と。
旧版より注・解説を大幅に拡充し、略年譜を新たに付した。「デンマルク国の話」を併収。改版



後世への最大遺物 
内村 鑑三 (著) 
明治の思想家・宗教家である内村鑑三が箱根・蘆の湖畔で1894(明治27)年にキリスト教徒夏期学校で行った講演の記録。
初出は「湖畔論集 第六回夏期学校編」[1894(明治27)年]。
人は後世に何を遺して逝けるのか。
清き金かそれとも事業か、著述をし思想を残すことか。
それとも教育者となって学問を伝えることか。しかし何人にも遺すことができる最大の遺物がある。
それはその人らしい生涯を送ることである、と説く。
ユーモアに満ちた語り口の中にも深い内容を湛えた近代の名著。


余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2) 文庫 – 1958/12/20 
内村 鑑三 (著), 鈴木 俊郎 (翻訳) 
本書はキリスト教文学としてひとり日本における古典的代表作たるにとどまらず、あまねく欧米にまでその名声を博した世界的名著。懐疑と感謝、絶望と希望、悲哀と歓喜、――主人公である「余」の「回心してゆく姿」は、著者独特の力強い文章をもって発展的に記述され、読者をしてその魂を揺さぶらしめる何ものかを蔵している。


一日一生 1997/12 
内村 鑑三 (著) 
内村鑑三の、聖句(聖書の言葉)に付された文章を366日分に編んだもの。
聖書中の重要な節句はほぼ網羅されている。
本書は、若い青年たちにはこの上ない人生の指針を与え、高齢者には安らかな慰めを提供する。
聖書中の重要な節句を熟読味解してもらうために編纂されたものである。 
1日1頁ずつ読む日ごとの糧。1926年に警醒社書店から出たものの新版。


内村鑑三所感集 (岩波文庫 青 119-5) 文庫 – 1973/12 
内村 鑑三 (著), 鈴木 俊郎 (編さん) 
内村が所感と称んで『清書之研究』誌上に掲載した短文、祈りと思索の結晶、研究の熟した果実のうちから約千篇を精選して収録。 


基督信徒のなぐさめ (岩波文庫) 文庫 – 1939/9/15 
内村 鑑三 (著) 
内村 鑑三の処女作。
明治24年、折からの国粋的反動主義の世情の中で、教育勅語の拝礼を拒否して教職を追われた内村鑑三は、困窮の中から本書を世におくった。(解説 鈴木俊郎)
逆境にあるキリスト者の見出す慰めは何かと問うた魂の自叙伝ともいうべきこの書は、著者の無教会の立場の出発点となった。 


求安録 (岩波文庫 青 119-7) 文庫 – 1939/12/14 
内村 鑑三 (著) 
処女作『基督信徒のなぐさめ』の続編にあたる作品。
前作は、自らの体験談であるのに対し、本作でそこから導き出される救済の論理を記述。
無教会主義・内村鑑三思想を知る上で重要な作品。


内村 鑑三 (著) 
「私は教師でも牧師でも神学者でも何んでもありません」。
内村の思想・行動の中核をなす信仰とは学問的真理ではなく、自身の生に根ざした「事実」であった。
なぜ信じるのか、なにを祈るのか――1900年、
「ただの普通の信者」として率直な言葉で語られた理想的人間・社会論は、今なお新鮮である。(注・解説=鈴木範久)


ヨブ記講演 (岩波文庫) 文庫 – 2014/5/17 
内村 鑑三 (著) 
罪のない人になぜ災いがふりかかるのか、
なぜ神は黙しているのか―深遠な問いを人間に投げかける旧約聖書「ヨブ記」を、
内村は「実に個人的なるが故にまた普遍的」な「魂の実験録」ととらえた。
神に向かって叫ぶ人ヨブの物語関する講演録。 


キリスト教問答 (講談社学術文庫) 文庫 – 1981/3/6 
内村 鑑三 (著) 
「来世は有るや無きや」「聖書ははたして神の言なるか」「奇跡の信仰」など、キリスト教の八つの根本問題に対して、
はぎれよく、わかりやすく答えながら、人生を切り開いていく勇気と希望を与えてくれる書。
キリスト教伝道者としての信念を貫いた著者が、みずからの生涯をかけた研究によってかちとった信仰は、
あらゆる読者に、宗教を超えて生きる指針を示すことであろう。
キリスト教の信仰を通して、人生とはなにかを語りかける名著。 


内村鑑三の伝道論――なぜ宗教が必要なのか(新・教養の大陸BOOKS 5) 単行本 – 2016/3/11 
内村 鑑三 (著) 
内村鑑三は、明治期に、教会のない人々の集まりとして、日本独特の無教会派キリスト教を始めた人物である。
その思想は、自ら創刊して主筆を執った雑誌「聖書之研究」などで数多く発表されており、
本書は、そのなかから「伝道」についての論考だけを抽出し、まとめた。
伝道師としての内村鑑三を知る貴重な文献であり、信仰心から来る伝道への熱い情熱があふれる隠れた名著である。
宗教はなぜ必要なのか。 何のために伝道するのか。
彼が確信した「最上唯一の伝道法」とは?
内村鑑三主筆の月刊「聖書之研究」等に収録された、
伝道と信仰に関する論考を一冊にまとめてあります。
第1章 宗教はなぜ必要なのか
第2章 私の伝道方法
第3章 伝道と政治
第4章 真の伝道師になれ
第5章 いざ、世界伝道へ
特別収録1 クラーク先生の思い出
特別収録2 政治家を志した友人への追悼メッセージ――故横井時雄君のために弁ずる


内村鑑三 現代語訳  キリスト信徒のなぐさめ: 逆境を生き抜き、絶望を突き抜けるための六章 
宗教を超えた人生のヒント

内村鑑三 (著), 明治キリスト教研究会 (翻訳) 
内村鑑三の原点であり、「これを読まずして内村鑑三を語るなかれ」とまで言われる作品を読みやすい現代語訳。
『基督信徒のなぐさめ』となっていますが、本書で取り上げられた苦悩と絶望の多くは
宗教のいかんにかかわらず普遍的なものであり、それを乗り越えるための考え方も、宗教のいかんにかかわらず
「信念」を持つということの人生における意味を深く考えさせるものです。
第一章 愛する人を失った時 
第二章 国人に捨てられた時 
第三章 キリスト教会に捨てられた時 
第四章 事業に失敗した時 
第五章 貧困に窮迫した時 
第六章 不治の病にかかった時 
 このうち、「国人に捨てられた時」「キリスト教会に捨てられた時」は、
自分の所属する社会や組織から誤解され、孤立し、迫害される苦悩に対していかに立ち向かうかを述べたものです。 
本書は「自伝ではない」と言いながら、自伝的な内容も含まれています。



内村鑑三について



再臨運動
内村鑑三が、再臨信仰を積極的に唱えた時期は、一九一八年一月から翌年夏までという短い期間である。


一九◯五年『キリスト教問答』「これ(神の国)はキリストの再臨を待ってのみ建設せらるる王国であります」
一九一一年、「世界の平和は如何にして来るか」「世界は果して進歩しつつあるか」という論文を書いて、
人間の力によってではなく、キリストの再臨によって永遠の平和が来ることを発言した



翌一九一二年一月、内村鑑三の愛娘ルツ子が死去した。(十七歳と九カ月)
愛する娘の死は内村にとって悲しみであった。
しかし、内村の信仰はさらに深化した。
キリストの再臨の信仰が、内村の心に徐々にはっきりとした形で現れてきた。

一九一四年七月三十一日、第一次世界大戦が勃発。

キリスト教国といわれている国々が有史以来最大の殺りくを始めたのである。
内村の失望は大きく苦しんだ。
アメリカも一七年に参戦。
「一縷の望みを繋いでいた米国」の参戦は「今や平和の出現を期待すべきは地上の何処にも見当らない」と述べた


世界に平和をもたらす方法として、戦争は言わずもがな、外交や平和運動のみならず、キリスト教会すらも無力であると彼は言う。
内村の学んだキリスト教は、人を教育して、道徳的な市民となし、社会に正義を遂行させる働きを為すものであった。
だが、そのようなキリスト教の理念をもつキリスト教国家自体が戦争をするという事態に、内村は「行き詰まった」と発言している。


そこで再臨の信仰が彼に活路を開いたのである。

『日曜学校時報』
「世界の平和は如何にして来る乎、人類の努力に由て来らず、キリストの再来に由て来る。」
「平和は神御自身之を降し給ふのである。」


人間の力によっては平和は来ない。
いかなる平和運動も人間の罪の前には無力である。
しかし聖書には、キリストが再び来て彼の手によって永遠の平和が実現される、と明らかに書いてある。

キリストの再臨は、神の約束であり、それは今、すでに来たりつつあるのだ。
時は、キリストの再臨に向かって着々とすすんでいるのだ。

内村鑑三は1917年に再臨信仰を確信した。
「(翌年の1月6日から)聖書の預言的研究演説会を神田の東京キリスト教青年会館で開催し、再臨運動の幕は切って落された」(岩波新書『内村鑑三』P.178)
「…今や私はバルジャー(再臨)こそ聖書の鍵であり、これを欠いては聖書は、始めから終りまで、一つの大きな謎であることが分りました…」(森有正『内村鑑三』P.56)。
「再臨は聖書の中心真理と云わんよりは寧(むし)ろ其(その)最終真理と称すべきである。
…再臨を否んで聖書は解らない。若し十字架が聖書の心臓であるならば再臨は其脳髄であろう。再臨なくして十字架は意味を為さない。」


中田重治の設立した日本ホーリネス教会も、再臨を主張していた。

中田と内村は同じ柏木に住んでいたがそれまで交流はなかった。
しかし、柏木であった火事をきっかけに知り合った。
内村と中田は互いに再臨信仰を持っていることを知ると、協力するようになった。

1918年1月6日(大正7年)内村鑑三、中田重治らは神田YMCA講堂で「聖書の予言的研究講演会」を開催。
           内村は「聖書研究者の立場より見たる基督の再来」を語った。
2月10日、3月3日講演会継続。1200名余が参加。
3月10日には大阪と京都で講演会
3月末 再び神田YMCAで「復活と再臨」講演 1500名参加。
4月第一日曜日より、五月第二日曜まで六週間、毎週日曜日神田バプテスト中央会堂で再臨問題研究講演会 開催。
6月三崎町のバプテスト会堂で講演会 開催。
10月11日から三日間岡県会議事堂で再臨講演会 開催。
11月8日から3日間YMCAで基督蔡倫研究東京大会 開催。

1919年(大正8年)1月17日から三日間内村鑑三は大阪中之島公会堂の再臨研究関西大会に出席した。
1月19日「伝道と基督の再臨」再臨講演 開催。2300人参加。これが最後の再臨講演となった。

しかし、終生再臨信仰を保ち、聖書講演会では再臨問題を度々述べた。


シュバイツァアーも、バルトも、ニュートンも、パスカルも、再臨信者とされている。

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再臨信仰を強調している団体で思い浮かぶのは、「家庭連合 旧:統一教会」であろう。
文鮮明という人物が韓国で興した運動である。


ユダヤ教の土台の上にイエス・キリストが出てきた。
イエスは、ユダヤ教の改革運動を行ったが、その内容はユダヤ教の人々には受け入れられず、最後は殺されてしまった。
イエスの教えは、ユダヤ教の教えをさらに深め、次元の高い神の愛へつなげ、人類を神につなげるためのものであった。
それが、熱心なユダヤ教の信者や上層部の人々(律法学者やパリサイ人)にとってには目障りで、ユダヤ教の教えとは違う、異端者として迫害されたのであった。

イエスは、「キリスト教」という宗教団体を作るために活動していたのではなく、全人類を救うために活動していたのだ。
イエスが生きていた当時、や、イエスの死後しばらくの間は「キリスト教」などという名前はなく、
ユダヤ教から出てきた新興宗教であり、もちろんユダヤ教とすら認められていなかった。

ユダヤ教の人々は、現在もイエスをメシア(救世主)とは認めていない。


イエス・キリストは、再臨を約束してくれた。


キリスト教の土台の上に文鮮明師が生まれた。
文鮮明師は、キリスト教の改革運動を行ったがその内容はキリスト教の人々には受け入れてもらえず、最後は、キリスト教徒により、告発され、監獄へ送られることとなる。
文鮮明師の教えは、キリスト教の教えをさらに深め、次元の高い神の愛へつなげ、全人類を神につなげるためのものであった。
それが、熱心なキリスト教の信者や上層部の人々にとってには目障りで、キリスト教の教えとは違う、異端者として迫害されたのであった。
文鮮明師は、「統一教会・世界基督教統一神霊教会」という宗教団体を作るために活動していたのではなく、全人類を救うために活動していたのだ。

内村鑑三は1917年から日本で再臨運動を興した。その3年後の1920年旧暦1月6日韓国の地で文鮮明師が誕生した。

姜尚中 「キリスト教・植民地・憲法」(3)新渡戸稲造とコロニアリズム

姜尚中 「キリスト教・植民地・憲法」(3)新渡戸稲造とコロニアリズム





姜尚中   内村鑑三トップ


姜尚中 「キリスト教・植民地・憲法」(『現代思想』 1995.10)

(3)新渡戸稲造とコロニアリズム


(略)新渡戸などは、知と権力のテクノロジーみたいなものを農業技術などを通じ
て学んでいたと思います。彼は農業技術官ですから。そのバックグラウンドに彼の
場合、北海道とキリスト教という問題があった。北海道では要するに農業技術、つ
まり植民政策の問題と、キリスト教の問題、それからいわゆる国家の問題、こうい
う問題が三位一体となって、大体萌芽的に出揃っていたのだと思います。

 それを大々的に実験して成功させたのがやはり台湾です。あのとき台湾を売却す
る話がありました。これはとうてい使いものにならないから売却するということで
す。矢内原の『帝国主義下の台湾』を読むと、間違いなくその当時の日本は台湾を
植民・経営できるほどの財政的な基盤を欠いていました。ところが薩長閥の児玉源
太郎の下に後藤がいたわけです。その前段階として乃木希典がそこで失敗します。
乃木はあそこでひどい弾圧をやるんだけど、結局失敗します。その後始末で児玉源
太郎が入ってきて、その後には伊藤博文がいます。

 日本の知の形態で、民族学、人類学、社会学、都市工学が総動員されて、台湾と
いう限られた世界の中の理想的な「実験室」の中で、十余年かけて後藤は成功を一
応納めたのです。そのことが日露戦争以後、彼が満鉄に乗り出していくバネになっ
たんです。だから、そういう点で新渡戸という人は日本のコロニアリズムの周辺に
いた人ではなくて、中枢にいた人なんです。ですから、キリスト教・無教会とコロ
ニアリズムが周辺で結びついているのではなくて、中心にそれがある
んです。

写真で読む内村鑑三新渡戸稲造

 新渡戸の日韓併合の時の『中央公論』の論文を読むと、コンパスをどんどん広げ
ていくと、日本の勢力圏は同心円的に拡大してゆく。朝鮮を手にいれて、日本の人
口は飛躍的に膨張し、やがてこれは中国まで、さらには南方まで延びていくという
もので、まったく帝国主義的なものです。

 彼らの基本的立場は文明の伝播です。無教会であれ何であれ、日本のキリスト教
徒が持っていた、基本的な姿勢がよくあらわれています。それは、マルキストが持
っていた資本の文明化作用と同じだと思います。マルキストが戦争中、たとえば平
野義太郎なんかがなぜああなったかというと、そういうことなんです。その面は新
渡戸の植民地論を見ると、矢内原も受け継いでいますが、この文明の伝播というこ
とは要するに経済規模の拡大であって、それは文明の行き届いていないところに、
それを押し広げるということです。そういった基本的枠組みは新渡戸によってつく
られているわけです。新渡戸の植民政策講義は矢内原が手稿で書いて、まとめたも
のです。

 あのとらえ方はぼくは基本的にクリスチャンだと思います。それはマルキストの
中にも通じる文明の伝播作用であって、イギリスが、まどろんでいた旧中国をたた
きこわすことを、進歩だというわけです。インドのイギリス支配も一面において進
歩になるのです。それと全く同じように、台湾とか朝鮮に対する日本の植民地支配
も進歩になるのです。

 新渡戸はその後、京都大学で農業技術を教えて、その後東京帝国大学に移って、
そのときはじめて植民政策講座を担当します。次に国際連盟に引き抜かれるんです。

 この発想は、とりわけ無教会に強かったんですけれど、内村は最後の最後までア
メリカに望みをかけていたんです。アメリカだけは例外なんです。ただアメリカで
日本排斥がでてくると、その時ずいぶん内村は失望しています。それでもアメリカ
こそはキリスト教の国として世界の戦争とかいった問題を最後は解決する最後の拠
り所なんです。

 日本がどんどんひどい状況になるときそこに望みを託すわけです。そこにはもち
ろん文明とかデモクラシーという思いが非常に強い。それは新渡戸の中でも非常に
強かった。彼は、日本の選択というのは、要するに日米関係さえ磐石であれば、決
して日本の進路は過たないと確信していました。これは、変な言い方ですが、吉田
茂の戦後の考え方と通じるものがあると思います。

 吉田の根本的な考え方は、もちろんアメリカに対して非常にネガティブな感覚を
持っていたけれども、基本的に日英同盟とまったく同じレベルで日米関係を見てい
た。日本がなぜおかしくなったかというと、日英同盟から脱却して、自分の足で立
とうとしたからおかしくなったと考えていましたから、その脈絡で戦後は日米関係
をとらえていたのです。

 軍部と吉田との根本的な違いはなにかというと、要するに、アメリカと協力せず
に、日本独自の政策を追求して、満州から華北に権益をつくるということ、これが
軍の考え方です。吉田茂はそうではない。日米と、あるいは日英同盟をきちんと守
りながら欧米列強の中で外交関係を通じて日本が平和的に満州や華北に権益をつく
ることができるはずだと。この発想は、戦後は日米安保として生きてくるんです。

 基本的に日本はアメリカとの関係をきちんとしていけば絶対に間違いがない、そ
うした発想や思い込みが、新渡戸や内村の日米関係論にあります。ある意味でそれ
を戦後の現実政治のレベルで、吉田茂は実現したんだと思います。そう考えると、
吉田茂が
南原曲学阿世とののしったのですが、日米関係への思い込みという点か
ら見ていくと、実はそう大差はないと思います。

「真の国際人」新渡戸稲造 (2)日米の平和を求めて | PHPオンライン 衆知|PHP研究所

「真の国際人」新渡戸稲造 (2)日米の平和を求めて | PHPオンライン 衆知|PHP研究所



「真の国際人」新渡戸稲造 (2)日米の平和を求めて
 
2012年09月05日 公開
藤井茂 (新渡戸基金事務局長)
新渡戸の晩年、日米関係は険悪の一途を辿る。「協調の役目は自分にしかできない」 新渡戸は不利を承知で、アメリカに赴いた。
降りかかった国内での苦難
 鮮やかで清新な意識をヨーロッパの人たちの間に強烈に残し、新渡戸は昭和2年(1927)春、帰国した。日本に帰ったら新聞にでも目を通してゆったりとした気分で過ごしたいと思っていたが、日に日に我が国の行く末に苦々しいものを感じていくことになる。
 それが端なくもあらわれたのが、昭和7年(1932)2月の愛媛県松山市での新渡戸の発言であった。
 「日本を滅ぼすものは共産党か軍閥である。そのどちらが怖いかといえば軍閥である」とオフレコで記者に語ったことが、翌日の新聞にでかでかと出てしまったのである。
 2月5日に新渡戸の発言をいち早く取り上げたのは、地元の海南新聞(現愛媛新聞)だった。「新渡戸氏の奇怪な主張」「新渡戸氏の自決を促す」「カブトを脱いだ新渡戸博士」などと同新聞は1カ月余り、過激な見出しで執拗に彼の発言を追及している。ついには、神経痛で新渡戸が入院している聖路加病院にまで帝国在郷軍人会本部の役員が押しよせ、かつての発言を撤回させたうえに陳謝させてさえいる。
 しかし、その後の結果は誰の目にも明らかだ。新渡戸の発言したように日本はつき進み、人的にも物的にも多大な犠牲をこうむって完膚なきまでの敗けを喫したことは承知の通りである。
 それにしても、同社に時勢を冷静に見る、たとえば桐生悠々のような新聞人が1人としていなかったのだろうか。現在のマスコミ関係者は、この新渡戸の松山事件を厳しく見つめ、他山の石とするべきである。
「自分にしかできない」覚悟の渡米
 それからほどない4月、新渡戸はアメリカに旅立った。大正13年(1924)7月に排日移民法が施行されたのに憤慨してから、二度とその地を踏むまいと誓っていた新渡戸がアメリカに赴く決意をしたのは、一説には昭和天皇に後押しされたからと言われている。新渡戸にとってそれは「暗黒の中に入っていく(ような)気持ち」だった。
 その心持ちを新渡戸は渡米直前の大阪英文毎日(3月19日)の「編集余録」に、次のように書いて自らを納得させている。
 「上司の不興を買い、群集の怒りを招くのは、私の家の伝統なのだ。私の曾祖父(維民)は封建領主と意見をあえて異にしたかどで、(下北半島へ)追放に処せられた。私の祖父(傳)は、維新戦争の際は負けた賊軍側だったが、幾度脅迫を受けたか知れぬ。私自身の父(十次郎)は、いわゆる蟄居閉門中に死んだ」
 しかし新渡戸は、これら3代の父祖はすべて「政治的な罪で罰せられ」た「名誉ある禁固の形」であるとして一種の誇りさえもっていた。それを考えれば、自分がアメリカに交渉に行くことなど何でもないことだと自ら納得できたのである。
 折悪しく、新渡戸の渡米直前には満州国建国が、渡米直後には犬養毅首相の暗殺などが相次いだため、アメリカの世論は日本を軍国主義化の一途をたどりつつある国と決めつけていた。しかし、新渡戸には、自分にとってまったく不利なことでも、それが日米の平和の構築、戦争の回避という大きな目的のためなら甘んじて受ける寛厚な度量があった。むしろこの役目は自分にしかできない、こういうときにこそ自分が引き受けるべきだと、彼は次のような憂国の歌を詠んでアメリカへ向かった。
 「国を思ひ世を憂うればこそ何事も 忍ぶ心は神ぞ知るらん」
 新渡戸の主たる目的は、日本の満州政策についてアメリカの誤解を解き、対日感情を和らげることだった。新渡戸には「中国大陸は無政府状態にあるので、満州国を建国した日本こそが防波堤となってソ連の進出を食い止めている。なにもそれ以上に中国の土地を欲しいというのではない」という確固たる認識があった。それをアメリカは分かっておらず、まして日本人は口べたなので、あえて自分が代弁しにアメリカへ赴くのだという強い思いがあった。
 そのため彼はアメリカで100回以上もの講演をこなし、各地で日本の立場を切々と説いた。しかし同年6月にフーバー大統領と会見したとき、彼から「最近起こった暗殺(犬養首相のこと)は、われわれみんなにショックを与え狼狽させた。日本は国際的政治に通暁した公僕を1人失った。私は日本の指導的立場の人たちが将来日本をどうしようとしているのか不安である」と言われるなど、新渡戸は非常に厳しい立場に立たせられている。このようなフーバー大統領の言からも分かるように、アメリカの世論はすでに日本にはまったく厳しく(反対に中国には好意的だった)、新渡戸の講演などでくつがえるという期待は薄かった。新渡戸はなおも全米各地で講演し、翌8年(1933)3月24日に帰国している。彼の傷心はいかばかりだったろうか。
 しかし、その彼に、またもや追い討ちをかけるような出来事が発生した。彼が評判を上げて帰ってきた国際連盟を、日本がいとも簡単に脱退してしまったのである。帰国して3日後のことであった。
 それでも、新渡戸は最後まで諦めなかった。同年8月、体調不良をおして、カナダで開催された第5回太平洋会議に日本の団長として出席し、改めて国際平和を訴えたのである。しかし、ビクトリア市で病床に臥し、10月15日、ついに帰らぬ人となった。
 こういう一連の流れを追ってきてあらためて思うことだが、いまの日本および日本人に決定的に足りないのは、不利なことにも、いや不利を承知で敢然と立ち向かう新渡戸稲造のような人格と識見をもった存在そのものであることを強く感じるのである。

戦前に平和のために国際貢献した日本人ー新渡戸稲造と安達峰三郎ー | 神田嘉延 『学問と研究の晴耕雨読記』

戦前に平和のために国際貢献した日本人ー新渡戸稲造と安達峰三郎ー | 神田嘉延 『学問と研究の晴耕雨読記』



戦前に平和のために国際貢献した日本人ー新渡戸稲造と安達峰三郎ー 21:01

 国際機関で平和のために尽力した新渡戸稲造と安達峰三郎



 日本の戦前は軍国主義にむかっていくが、そのなかで体をはって国際平和のために活躍した新渡戸稲造(武士道を書いたことで有名)と国際司法裁判長になった安達峰一郎は特質すべき人物である。



   (1)新渡戸稲造と平和活動



 新渡戸稲造は、国際連盟の事務局次長とアメリカと日本の平和の橋渡しをした人物である。新渡戸稲造は武士道を英文で書いた人で国際的に日本人の精神を紹介した学者である。新渡戸稲造の武士道論は戦前の軍国主義を鼓舞したものと異なる。新渡戸稲造とはどんな人であったのか。彼は、世界平和のために尽力した人である。

 新渡戸稲造は英語が得意であった。札幌農学校のクラーク博士に教えられた4人組の一人である。岩崎、内村、宮部は、東京の英語学校以来の親友であるのである。岩崎は鹿児島大学の前身のひとつになった第7高等学校造士館の初代の館長である。岩崎は、キリスト教の洗礼をうけなかった。新渡戸稲造をはじめ、東京英語学校以来の親友の3人は、札幌農学校でキリスト教の洗礼をうける。

 そして、新渡戸稲造は、1901年に、アメリカ人のクリスチャンのメアリー・エルキントンと国際結婚をする。  アメリカ滞在中に 武士道を英語で書いて出版した。アメリカと日本の関係悪化のときに、日本政府から正式に派遣された人物である。1919年から日本政府代表として、国際連盟の仕事に7年間就くという国際的立場から平和に尽力した日本人でもある。しかし、1933年2月に日本は国際連盟を脱退することによって、彼の国際的な平和活動の舞台はなくなっていく。 

 新渡戸は1920年に国際連盟の結成のときに事務局次長として活躍したほどの人物である。かれは、太平洋問題理事長として渡米して、アメリカの各地で講演し、両国の親善に尽くしたのである。しかし、日本政府は国際連盟の脱退により、国際的に孤立をするなかで、新渡戸稲造は体調がすぐれないなかで、国際連盟脱退の年8月に、カナダで平和の望みを捨てず日本側代表として演説する。1ケ月後病に倒れてカナダのビクトリアで死亡(71歳)する。 

 生涯、教育者、研究者、社会運動家として、新渡戸稲造は活躍したのである。札幌農学校、第1高等学校、東京大学、京都大学で教授、校長として教育にあたる。札幌農学校では、学校教育を受けられない青年を対象に勤労者の夜間学校をつくる。 

 札幌の豊平の貧困地帯につくった夜学校は、日本の勤労者教育としての大きな足跡を残した。さらに、東京女子大学の初代の学長として、女子教育にも尽力する。郷里の岩手では、産業組合の指導を引き受ける。また、加川豊彦とともに、医療協同組合運動を若い医師とともにつくる。かれは、多方面で活躍したのである。晩年に、日本を滅ぼすのは軍閥ということで、軍国主義に警戒したのであった。 

 新渡戸稲造は、国際連盟にたいして国際平和を守る重要な機関として認識していた。「国際連盟の業績」という報告では、国際連盟の規約は、平和条約の一部になるということであった。「連盟規約は平和条約の一部である。他の国際機関と協力して、戦争状態の処理の最高権威。国際協力及び国際平和と安全の達成の方法を討議する機関」。1

 そして、新渡戸稲造は、国際連盟運動について「日本帰国報告」で政府高官等の日本のリーダー層よりも青年層が国際連盟に関心を高くもっていることを次のように述べている。「教育ある青年層に限られているが熱心に連盟の関心が高い。政府高官、議会、大企業界、学界では熱意が欠けている。功利的動機ではなく、名誉の感覚だけが、国際連盟の多額な費用を出している。連盟の日本に対する実際的効用は疑問をもっている。日本の代表者の疑い、冷淡な理由は次のとおりである。

 1,独立の主権を介入しないか。2,ほんとうに戦争を避けることができるのか。3,人間は本能的な喧嘩がやめられるのか。4,連盟は民主的組織を有しているのか。5,連盟は密かにユダヤ人を配置しているはほんとうか。6,平和手段を訴えるのは、戦争準備を隠す口実ではないか。7,連盟は大国の利己目的の道具ではないか。8,連盟はヨーロッパにとって好都合な組織であって、アジア、とりわけ日本にとってどんな利益をもたらすのか。世界協力の一般精神ー国際心をどのようにつくりだしていくか。連盟における日本の地位と責任を明らかにすること」。2

 日本のリーダー層は、名誉の感覚だけで国際連盟に多額の費用を出しているので、平和を実現していく功利的な側面からみていないと。冷淡な理由は、国際連盟は、ほんとうに戦争を避けることができるのかということであるとみている。そして、国際連盟は、ヨーロッパの大国を中心にして、アジア、とくに日本にとって利益をもたらすのかという懐疑心をもっているとみている。これが新渡戸稲造の日本リーダー層に対する見方である。新渡戸稲造は、国際連盟において、日本の地位と責任を明確にするうえで、世界に協力していく国際精神の養成が大切である考えている。

 「国際連盟ー世界平和への夢と挫折」を著書を書いた篠原初江は、新渡戸稲造の国際連盟の活動業績に知的な平和のための国際交流を積極的に推進したことをあげている。それが、できたのも帝国大学教授として国際的な視野をもっていた新渡戸の人望、人格の優れたことであると次のように記している。

 「新渡戸は「真お国際人」として、国際連盟内部でも、ヨーロッパの一般こくみんからも人望が厚かった。創成期の国際連盟という大事な時期に「ジュネーブ精神」を培う精神的風土を育てる役割を果たしたといえる。ヨーロッパ各地で新渡戸の人格が優れていることが知れ渡ったが、日本にとっては、日本人や日本の評判をあげた重要な人物であり、新渡戸も自分が日本を代表する任務を背負っていることを理解していた」

 「新渡戸の国際連盟の業績は、知的協力国際委員会を立ち上げ、それを活性化させたことである」。知的協力委員会は、知識人の意見交換や学生の国際交流を促進したものである。新渡戸は、会議の参加に科学者のキューリー夫人などに熱心に勧誘したのであった。そして、国際連盟の理念や活動についてヨーロッパ各地で講演していくのである。日本に一時帰国したときも精力的に国際連盟の役割について講演し、ジュネーブに帰って国際連盟の事務総長に日本の状況を次のように報告している。「日本の教育を受けた若者には、国際連盟の理念は広がったが、大きな障害は、軍部と保守的な教育者」であるとしている。1

 新渡戸稲造は、国際連盟事務局次長の後に、太平洋問題調査委員会日本代表に就任した。新渡戸稲造は、太平洋国際連盟という地域共同体の国家連合を考えたことである。このことについて「平和の絆ー新渡戸稲造と賀川豊彦、そして中国」を書いた布川弘は、世界的規模の国家連合体を重視しながらも地域共同体の国家連合を考えたことであり、現代のヨーロッパ共同体のようなことを構想していたとする。

 それは、汎太平洋国際連盟の構想である。汎太平洋国際連盟は、民間団体であるが、アメリカ政府とハワイの名士の補助をうけているという政府組織の位置づけである。そして、自由闊達に議論できるように円卓会議方式の太平洋問題調査会と二つの団体の必要性を新渡戸は考えていたのである。

 これは、第一次大戦を契機に日本の勢力が著しくなるなかで、紛争や戦争につながりかねない国家間の問題をより実際的で役にたつ恒常的な組織の必要性を認識していたと新渡戸の平和構築構想を布川弘は評価する。2

 1927年、1928年に二度にわたる中国山東出兵の問題で、19286年6月の日本宗教者大会は加川豊彦の新渡戸稲造も中心的な役割を果たし、日本の中国への武力干渉が重要なテーマになった。この大会は昭和天皇の即位記念として開催されたものである。

 この会議は、世界宗教者会議の影響のもとに開かれ、3月から4月にエルサレムでの会議では、キリスト教は他の宗教に対してその中にある美点を歓迎し、他の宗教の真理は天啓真理の一部であることが決議されている。他の宗教を異教として蔑むようなことはしなというとりきめをしたと布川弘は解説している。

 新渡戸稲造は日本宗教大会の平和部会長として、「山東出兵の名目を承認しつつ、出兵が行われた後で平和を論じる意味を高い見地から、しかも押しつけがましい形で提起していると布川弘は解釈する。

 日本宗教大会では、山東出兵反対の急先鋒であった賀川豊彦の「産業の人道化」という演説が第一日にあった。この演説に怒りをもった扶桑教の堤は、新渡戸の演説内容は、宗教者を侮辱するものであると糾弾の狼煙があがったのである。

 この侮辱に対して、主催者側はいかに責任をとるのかという内容が提出された。日本宗教者大会は山東出兵の明確な意見表明はなかった。軍縮会議の取り決めや、国際連盟加盟促進の決議がされたが、中国クリスチャンとの連帯の証となる出兵反対の意思表明は難事であったのである。

 1929年に太平洋問題調査会が京都で開催されたが、この会議は新渡戸稲造がリーダーシップをとって開いたものである。太平洋問題調査会の総会は第1回、第2回は発祥地のホノルルで開催されたが、京都会議のメンバーの招待は、日本のグループであった。円卓会議では、パリ条約の責務とはなにか、国家政策の手段としての戦争とはなにか、パリ条約の拘束力とはなにか、現在許されている解決手段の意味での平和的な手段とはなにかなどを議論のテーマとした。

 イギリス代表のトインビーは、満州をめぐる問題が関係する団体以外に関わり、それらの一般的利害の問題と感じているので、その討議を熱望しているという発言であった。日本の鶴見祐輔は、中国と日本は正式に参加しているが、今回は、ロシアはオブザーバーであり、満州に直接利害関係をもつ国々が正式メンバーとして会議に参加していないのでとりあげるべきではないと発言している。

 中国からの満州問題の熱心な問題提起の会議であったが、日本側の反論の演説も外交官松岡洋右によってあった。相対立する溝は深く、どこかで内容的に合意する余地はなかったが、永久委員会を日中と第三国の代表も含めて参加するということで合意したのである。

 京都会議は、日中双方のナショナリズム高揚のなかで開催され、とりわけ日本委員会は、地元開催ということもあり、ナショナリズムの制約を大きく受けざるを得なかった。新渡戸稲造の平和秩序につながるような重要な合意点を見いだすことができなかった。

 以上は、布川弘の国際平和運動における新渡戸稲造と賀川豊彦の役割の実証的な研究成果から得た知見を国際平和と有徳という視点から新渡戸稲造に絞ってまとめたものである。1

 新渡戸稲造の平和思想を考えていくうえで、彼の「武士道」論を考えてみることも欠かせない。新渡戸稲造の考える武士道は日本の象徴であり、日本土壌の固有の華であるとする。封建制度の所産である武士道に光を新渡戸稲造はあてているが、武士道は、その母なる日本の封建制度よりも長く生きのびてきたとする。

 新渡戸稲造の武士道論は、人倫の道のありようを日本の歴史のなかで照らすのであったと考える。つまり、日本における壮大な倫理体系のかなめの石になったのである。日本の仏教や神道が武士道にあたえたものは大きい。禅の絶対の認識しえたものは誰でも世俗的な事柄から自己を脱落させ、天と地を自覚させるのである。神道の忠誠は、先祖への崇拝、孝心、忍耐心である。 

 日本には、西洋のキリスト教での原罪という教義の入り込む余地はない。人間魂の生来の善性と清浄性を信じている。それは、日本的な精神構造の特徴である。武士道の源泉は孔子の教えにあり、武士道は知識のための知識を軽視する。まさに、江戸幕府は、朱子学的な理性の自己展開で社会的秩序を求めたが、武士の本質的な精神構造は、知行合一思想であり、朱子学が隆盛を誇った江戸時代為政者の官学のなかでも陽明学の儒学が脈々と地下水のごとく流れていったのである。 

 ところで、「義」は、武士道の輝く最高の支柱であると新渡戸稲造は見る。正義の道理は絶対的な命令である。勇 は義によって発動することを見落としてはならない。それは、平静さに裏打ちされた勇気である。民を治める者の必要条件は仁にある。まさに、専制政治から救われるのは仁のおかげであることを重視しなければならない。 

 新渡戸稲造は日本の武士道にある仁の精神を強調する。人民の意向に君子の意志を一致させることが名君の掟である。武士の情けに内在する根本は、仁のこころである。サムライの慈悲は盲目的な衝動ではなく、正義にたいするものである。仁のこころをもっているものは、苦しんでいる人、落胆している人のこころを励ますものである。いつでも失わない他者への憐れみのこころがサムライである。 

 仁の精神と密接にかかわっている心に礼があると新渡戸稲造は指摘する。礼とは他人に対する思いやりを表現することである。礼はその最高の姿として、ほとんど愛に近づくのである。礼を守るための道徳的な訓練は、なにか。礼儀は慈愛と謙遜と動機から生じる。他人に対するやさしい気持ちをもつことの行為が礼である。礼の必要条件とは泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶのである。 

 真のサムライは誠に高い敬意を払う。なぜ武士に二言はないのか。二枚舌のために死をもって償うのである。嘘をつくことは最も無礼である。不名誉はその人を大きく育てる。名誉とは、苦痛と試練に耐えるためにある。名誉はこの世で最高の善でもあることを忘れてはならない。 

 武士道は個人よりも国を重んじる。忠義とは、人は何のために死ねるか。武士道は良心を主君や国王の奴隷として売り渡せと命じなかった。無節操なへつらいを嫌う。自己の言説の誠を示し、主君の叡智と良心に対して最後の訴えをするのもサムライのこころである。  武士は何を学び、どう己を磨いたか。武士道は損得勘定をとらない。贅沢は人格に影響を及ぼす最大の脅威である。質素の生活が武士階級に要求されたのである。武士道は無報酬の実践のみを信じる。 

 精神的な価値にかかわる仕事は、金銀で支払うものではない。それは、価値がはかれないほど貴重なものである。武士道の本性は、計算できない名誉を重んずる特質をもつ。不平不満を並べ立てない不屈の勇気の訓練も必要である。禁欲主義的な気風は武士道にとって大切な精神であることを決して忘れてはならない。 

 主君押込の慣行として、藩主に悪行、暴政があるときには、藩主を家臣団の手によって監禁し、改心のための猶予期間を与え、それが困難なときに、隠居させるという慣行があった。この慣行から、主君による上意下達が絶対的ではないのである。主君が正義に反することを行えば、家臣は、勇気をもってそれを戒めるのが重要な社会的責任である。 

 

(2) 安達峰一郎による国際法による平和の確立



 安達 峰一郎は、明治から昭和に掛けて活躍した日本の外交官である。アジア系として初の常設国際司法裁判所の裁判官、所長となる。所長就任早々、日本が満州事変を起こし国際連盟の脱退へと向かった。所長3年の任期を終え、昭和9年1月から平判事になったが、8月に重い心臓病を発症し、12月28日にアムステルダムの病院で死去した。

 安達峰一郎は、国家間の紛争を戦争ではなく国際法によって解決する組織作りに生涯を捧げた。第1次世界大戦は、未曽有の戦争惨禍を経験した。その反省に立って、人類は初めて非戦の制度化・世界平和の組織化の道を歩み出した。 

 彼は、世界平和に尽力した国際機関で活躍した外交官であった。安達峰一郎の目指した世界平和は、日本国憲法の前文の平和的共存権と第9条などにつながっている。彼と同時期に外務大臣として国際協調路線をとって活躍した幣原喜重郎は、軍部の軍拡自主路線と対立した。いわゆる幣原外交であった。1930年にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年に満洲を日本が任命する政権の下において統治させるという軍部の提案を幣原外相は拒否した。

 その後、関東軍の独走で勃発した。幣原は、満州事変の収拾に失敗し、政界を退った。幣原は、パリ不戦条約を熟知しており、戦争放棄の平和主義が、念願であった。戦後敗戦によって、日本をどう再建していくかというときに、幣原喜重郎は、新しい憲法づくりの時代に首相になった。幣原は、戦争放棄という平和主義の憲法九条提案をマッカーサーに提案したのである。

 憲法調査会の松本憲法案は保守的な内容でGHQから否定される。憲法九条の平和主義は、もともと日本の幣原首相によるマッカーサーへの提案によってできあがったものである。

 民間人の憲法研究会の憲法草案もGHQに大きな影響を与えた。1945年10月に、高野岩三郎の提案により、事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当した。

12月26日に「憲法草案要綱」として、同会から内閣へ届け、記者団に発表した。また、GHQには英語の話せる杉森が持参した。この要綱には、GHQが強い関心を示しのである。

 山形大学教授の澤田裕治は、世界の良心、安達峰一郎のホームページで安達峰一郎の現代的な研究の意義を次のように強調ししている。

 「徳川幕府崩壊後の日本は、3つの転換期を経験しました。第1の転換期は、去る明治維新期(封建制⇒資本制、近代国家)、第2の転換期は敗戦後(君主主権国家、軍国主義⇒国民主権国家、平和主義)、そして第3の転換期は現代(主権国家⇒主権国家体制の動揺、国境の横断的多次元化)であります。現代は高度成長が終わりを告げ、情報化、高齢化、グローバル化が進行する21世紀の始まりに直面しております。

 このような歴史的変革の時を迎えている今、政治・経済・文化など様々な領域で従来の諸制度が見直しを迫られています。この時にあたり、日本は、かつて歩んだ絶望的な破局の道をたどる過ちを繰り返すべきではありません。安達峰一郎の思想のもつ意義を深く学びとる必要があるでしょう。

 安達峰一郎研究によって、地域と自治、人権と国家などの関係を捉えなおし、こうした問題にも迫ることが可能となるし、安達峰一郎の人間としての生き方にも、強い関心が湧いてきています。それは今まさに安達のような人物が求められているからに他なりません。

 その理由は次のとおりです。

① 安達峰一郎は、国家間の紛争を戦争でなく、国際法によって解決する組織作りに生涯を捧げたこと。その業績のもつ普遍的な意義、つまり非戦の制度化、世界平和の組織化の重要性がますます認識されるようになっています。

② 安達峰一郎は、少数民族、弱者へのまなざしに留意し、人間の理性を信頼し、自らその設立に立ち会った常設国際司法裁判所(非戦思想の制度化、世界平和の組織化)の歴史的意義に対する揺るぎない確信を持ち、過酷な激務に耐えました。

③ 安達峰一郎は、常設国際司法裁判所を崇敬し、1931年の彼の開廷演説で、それを『「法に基づく平和の概念の生ける具体化」と呼び、「人は変わってもその概念は生き続け、その制度は存続する。」と付け加えました。

④ 安達峰一郎の遺産は、国際連合と国際司法裁判所として、今なお受け継がれていること。さらに重要なことは、安達峰一郎の平和の精神が、日本国憲法の平和主義として結実しています。今そこ、安達峰一郎の平和の精神とその志を受けついで行く必要があるとのではないでしょうか」。

 「安達峰一郎博士の正義と公平に基づく識見はどの国からも厚い信頼と尊敬を得たそうです。ジュネーブの「国際紛争平和的処理議定書」で、日本だけが反対の立場に立ったとき、各国代表に対して説明している博士の様子を見て、当時の国際連盟事務次長の新渡戸稲造博士は「安達の舌は国宝だ」と、そのフランス語の説得力を誉め讃えた。

 博士の約40にわたる国際社会での功績に対して、12カ国から第1級の勲章が感謝を持って贈られ、中には勲章制度を新たに創り、その第1号を博士に贈った国までもあった。1930(昭和5)年、オランダ国ハーグ市にある「世界の良心の府」といわれる常設国際司法裁判所裁判官に立候補した博士は、圧倒的な最高点で当選しました」。1

 「安達は、ポーランド・エストニア・ラトビア・フィンランドが組織した国際紛争仲裁のための常設委員会の委員長になるなど、マイノリテイを保護し、ドイツとポーランドの間で繰り返される紛争を平和的に解決し、諸国がそのたえざる警戒と疑惑を脇に置くことができるように、諸国の安全のための合意を考えだす国際連盟が果たすべき役割に深く関わっていた」。

 安達峰一郎は、第10回日本国際連盟通常総会で昭和5年5月16日に講演しているが、そこでは国際連盟の役割を正義と公平な態度でのぞめば国際平和に貢献できることをつぎのように述べている。

 「如何に難しい事件でも、頼まれれば之を引き受け、正義の観念を本として、終始、公平な態度を執って、事件そのもを深く、また細かく研究して明白なる結論に達し、之を行うに当たっては決して躊躇しなければ、必ず敗北国にも承認せらるるに違いないと信じて居ります。何卒、私がこの一二年間の経験によって深く信じるに至った真理を貴方がたの真理とせられ、是を是とし、非を非として、公平に、如何なる難問題でも是を引き受け、是を裁き、そうして国際連盟の発達に務め、世界の平和に貢献せらるるように願います」。2

 安達峰三郎の国際連盟協会東京帝大支部における1930年の講演については、国際知識1930年6号に掲載されたことを篠原初江が著書「国際連盟ー世界平和への夢と挫折」で引用して、次のように評価している。

 「この講演で、安達は国際関係が国家と国家の関係から国家組織へ向かう時代へと変化しており、その意味では国際連盟は時代の発達に適合したものだと繰り返し述べている。安達の分析によれば、大一次世界大戦後の国際関係は「団体で連盟的であり、そのような時代には「戦争と云うものは決して将来世の中のなくなります」と明確に戦争の必要性を否定する。したがって、安達は不戦条約についても積極的に評価し、不戦条約は空文であるという批判に対し、「不戦条約はやはり活動性を以て居りまして各国の行動を支配する異常な力を持って居ります」と述べていると安達の平和を構築していく考えを積極的に評価しているのである。

 そして、「国際協調と愛国心が矛盾することなく、「愛国心は国際連盟の寧ろ必要ななる」点と説く。やむえない場合には、「団体的特義心を持つというのが国際連盟の本旨」であると。統合統治篠原初江「国際連盟ー世界平和への夢と挫折」中央公論社、

 国際連盟は、国際平和のための国家を超えての共同体的側面をもっているのであり、永遠平和のための世界連邦的な政府の役割をもっているのである。それが、パリ不戦条約によって、より現実的に平和のための国際的な共同体が前進したということである。

 安達は日本に一時帰国したときに、平和のための国際的な共同体の構築としての国際連盟と武力によらず、国際法によって紛争を解決する国際司法裁判所志望裁判所の役割について講演を行っている。

 貴族院では、「国際連盟の現状と来期常設国際司法裁判所判事総選挙」について昭和5年5月17日に講演をしている。そこでの平和の解決の重要性として、国際連盟と国際司法裁判所の役割を次のように強調している。

 「世界の大問題は、その外形上の如何にに拘わらず、その実は皆、国際連盟に集中しておるという事実であります。ご存知の通り、国際連盟の目的は、正義に基づく平和を世界に確立して、して、軍縮の大事業を完成することにあります。今日、国際連盟において、軍縮の大事業は未だ完成するには至っておりませんが、その緒についてから4年に。その方法にを示した所、極めて有効でありまして」。1

 国際連盟は、平和の目的のために各国の軍縮の大事業をどう進めていくのかという課題をもっている。このためにも紛争解決に武力によらないで、双方の意見を聞き、独自に調査して、理事会に報告して問題を処理していくという方法があるとしている。この際に、理事会に提出される報告書は大きな意味をもっていると安達峰一郎は次のように指摘する。

 「ヨーロッパの治乱に関する大問題であっても、その紛争解決に当たっては、報告者が、その問題に関する種類を調べ、当事者双方を呼び、その申し条を聞いたり、証人を呼んで実状を把握した上で報告書を作成し、理事会に報告するのであります。ここでいう報告書とは連盟に報告書を提出する人をいいますが、その責任は頗る重大であります。若し、この報告者が、正義の観念を強く持ち、飽くまでも公平なる態度で、しかも双方に深い同情の心をもって、事件の微細に亘る点まで良く研究し、良心の命ずる所によって判断すれば、その結果は、その当事者でなくても、近い将来において、必ず認められるに至るというおとであります」。2

 報告書を作成する人々は紛争事件の詳細を調べていくためには、公平と正義の良心をもつことが極めて大切であるとしている。この公平と正義の良心は、国際司法裁判所も、国際連盟の関係者に強く求められる国際関係における倫理である。また、不戦条約の精神によって、戦争によって紛争問題を対処するのではなく、国際的な正義と公平の良心にる話合いが求められていくのである。この話し合いの仲裁の役割も国際連盟や国際司法裁判所に求められていくのである。安達は、このことの重要性を次のように指摘する。

 「不戦条約実施の結果、国際紛争事件は、その性質の如何に拘わらず、何れも、これを戦争という手段によって処理するのではなく、全て裁判、もしくは仲裁に付すということになりました。その結果、この裁判所において自国民の判事を持っているということは、一人その国の権威、若しくは名誉にかかわるのみならず、時として自国関係の事件が裁判に付された場合、利害得失の関係がありますから、多数の国は、この条約の規定に従って、各々候補者を定めまして、その後者の当選を熱心に画策し、目下運動を展開中なのであります」。1

  安達峰一郎、大国のエゴに挑戦した男である。1934年12月28日に逝去されたが、オランダは1月3日に常設国際司法裁判所裁判長の業績をたたえて、平和宮において国葬として盛大に訣別の式を行った。

 安達峰一郎について、常設国際裁判所書記のオーケ・ハマーショルドは、1936年に思い出の文書のなかで、東洋の魂、東洋文明の遺産である洗練された礼儀正しさをみることができると書いている。「「安達所長が活動するように運命づけられていた西欧社会に、完全に適応していたその外貌の下に宿っている東洋の魂を見ることができた。だから彼の信任を得たからといって、北欧人として日本の伝統と美徳の精髄である彼の人格を真に理解したと主張するのは全く大胆なことに見えるだろう」「安達所長特有の態度はすべてまた、古い東洋文明の遺産であるあの洗練された礼儀正しさに満ち満ちていたのである。西欧人のうちその秘密やその理由を発見したものは極めて少数であり、それをなお探求する者たちはその圧倒的な円満さを感じ、時にはそれを恨みさえするのである」。2

 安達峰一郎はパリ不戦条約に参与として、日本政府を説得したのであった。このパリ不戦条約の精神は戦後日本国憲法の戦争の放棄という平和主義に継承されていくのである。パリ不戦条約の内容は下記の通りである。

「人類の福祉を増進すべきその厳粛な責務を深く感銘し、その人民の間に現存する平和及び友好の関係を永久にするため、国家の政策の手段としての戦争を率直に放棄すべき時が到来したことを確信し、その相互関係における一切の変更は、平和的手段によってのみ求めるべきであること、又平和的で秩序ある手続きの結果であるべきこと、及び今後戦争に訴えて国家の利益を増進しようとする署名国は、本条約の供与する利益を拒否されるべきものであることを確信し、その範例に促され、世界の他の一切の国がこの人道的努力に参加し、かつ、本条約の実施後速やかに加入することによって、その人民が本条約の規定する恩沢に浴し、これによって国家の政策の手段としての戦争の共同放棄に世界の文明諸国を結合することを希望し、ここに条約を締結することにし、このために、左のようにその全権委員を任命した。

宣言(昭和4年6月27日」

「 第一条  締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴えないこととし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。 

第二条  締約国は、相互間に起こる一切の紛争又は紛議は、その性質又は起因のがどのようなものであっても、平和的手段以外にその処理又は解決を求めないことを約束する。 第三条 

1本条約は、前文に掲げられた締約国により、各自の憲法上の用件に従って批准され、かつ、各国の批准書が全てワシントンおいて寄託せられた後、直ちに締約国間に実施される。 

2  本条約は、前項の定めにより実施されるときは、世界の他一切の国の加入のため、必要な間開き置かれる。一国の加入を証明する各文書はワシントンに寄託され、本条約は、右の寄託の時より直ちに当該加入国と本条約の他の当事国との間に実施される。 

3  アメリカ合衆国政府は、前文に掲げられた各国政府、及び実施後本条約に加入する各国政府に対し、本条約及び一切の批准書又は加入書の認証謄本を交付する義務を有する。アメリカ合衆国政府は、各批准書又は加入書が同国政府に寄託されたときは、直ちに右の諸国政府に電報によって通告する義務を有する。 

 右の証拠として、各全権委員は、フランス語及び英語によって作成され、両本文共に同等の効力を有する本条約に署名調印した。1928年8月28日、パリにおいて作成する」。

 日本の帝国政府は、1928年2月27日パリにおいて署名される、戦争抛棄に関する条約第一条中の「其の各自の人民の名に於いて」という字句は、帝国憲法の条文により、日本国に限り適用されないものと了解することを宣言する。

1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名た。その後、ソビエト連邦など63か国が署名する。フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)、また、パリ不戦条約と呼ぶ。最初はフランスとアメリカの協議から始まった。そして、多国間協議に広がった。戦争の拡大を防ぐために締結されたが、欧米列強の植民地を守るために作った国際法の役割を果たした。

 不戦条約は、期限が明記されていない。このため、現代のでも国際法として有効である。しかし、加盟国の多くが自衛権を留保しており、また違反に対する制裁もないため、その実効性は乏しい。その後の国際法における戦争の違法化、国際紛争の平和的処理の流れに大きな意味を持った。

 条約批准に、アメリカは、自衛戦争は禁止されていないとの解釈であった。イギリスとアメリカは、国境の外であっても、自国の利益にかかわるので軍事力を行使しても、それは侵略ではないとの見方であった。アメリカは、勢力圏になる中南米に、この条約は適用されないとした。世界に植民地をもつイギリスは、国益にかかわる地域がどこなのか明らかにしなかった。

 不戦条約は、期限が明記されていない。このため、現代のでも国際法として有効である。しかし、加盟国の多くが自衛権を留保しており、また違反に対する制裁もないため、その実効性は乏しい。その後の国際法における戦争の違法化、国際紛争の平和的処理の流れに大きな意味を持った。

 パリ不戦条約は、先進国のアメリカ、イギリス、フランスと日本、ドイツ、イタリアなどの列強諸国が結び、さらに、ソビエトをはじめ63ヶ国が署名して、パリ不戦条約として戦争放棄を世界に宣言したものであったが、現実の歴史は、第2次世界大戦になったのである。

 日本の憲法9条は、このパリ不戦条約の延長として、日本の敗戦をよって生まれたものである。日本は自らパリ不戦条約を軍部の力で破り、国際連盟を脱退して戦争の道に突き進んだのである。この過去の重い歴史を背負いながらの憲法9条であることを決して忘れてはならないのである。


矢内原忠雄 -Yanaiwara Tadao Wikipedia

矢内原忠雄 - Wikipedia

矢内原忠雄

矢内原 忠雄
(やないはら ただお)
1956年度東京大学入学式にて
人物情報
生誕1893年1月27日
愛媛県今治市
死没1961年12月25日(満68歳没)
学問
時代明治時代 - 昭和時代
学派無教会主義
研究分野植民政策学
研究機関東京帝国大学
主要な作品『帝国主義下の台湾』(1929年)
『聖書講義』(1948年-1959年)
影響を
受けた人物
新渡戸稲造
内村鑑三
吉野作造
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矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年(明治26年)1月27日 - 1961年(昭和36年)12月25日)は、日本経済学者植民政策学者東京大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章無教会派キリスト教の指導者としても知られる。

人物・生涯[編集]

青年期[編集]

愛媛県今治市に四代続いた家系の医者の子として生まれる。教育熱心な父の影響で、神戸の従兄弟(望月信治)の家から兵庫県立神戸中学校(兵庫県立神戸高等学校の前身)に通学して卒業。旧制第一高等学校に在学中、無教会主義者の内村鑑三が主催していた聖書研究会に入門を許され、キリスト教への信仰を深めていった。東大に入学後は、吉野作造民本主義や、人道主義的な立場から植民政策学を講じていた新渡戸稲造の影響を受け、思想形成を行っていった。ちなみに、矢内原が卒業した神戸中学校の在校当時の校長鶴崎久米一は、札幌農学校で新渡戸稲造と同期の入学生である。一高を出て大学に入る間の夏休みに、一人で富士山に登っている。1913年(大正8年)20歳の時であった[1]

壮年期[編集]

1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、住友総本店に入社し、別子銅山に配属される。同年5月友人のすすめで西永愛子と金沢で結婚式を挙げた。新居浜時代は新婚生活時代でもあった。翌年5月長男が生まれ伊作[2]と名付けた[3]。当時の別子銅山には、後に住友を辞して無教会主義のキリスト教伝道者となる黒崎幸吉が先に赴任しており、黒崎の伝道集会で聖書講義を行ったりもした。1920年(大正9年)、新渡戸稲造の国際連盟事務次長への転出に伴い、後任として母校の経済学部に呼び戻され助教授となる。彼は、学者になって何か社会に貢献する事を神から示された道として決心した[4]。同年秋に欧州留学に旅立つ。イギリス・ドイツ・パレスチナ旅行・フランス・アメリカなどへの留学を経て、1923年(大正12年)予定を早め帰朝し、肺結核に侵されて療養中の妻を見舞った。しかし、その一ヶ月半後の3月26日に、24歳の若さで世を去った。同年9月に関東大震災に見舞われ、死者行方不明約14万3千人、全壊焼失訳57万5300戸の被害出る。この年に教授に就任し、植民政策を講ずることとなった。一年後、幼い子どもたちのことも考え堀恵子と再婚する。
矢内原の植民政策学は、統治者の立場から統治政策として考えるのではなく、社会現象としての植民を科学的・実証的に分析し、帝国主義論の一環として扱っている点に特色がある。前任者の新渡戸の学風を発展的に継承しているものといえよう。その研究の結実の代表的なものが、各言語に翻訳された『帝国主義下の台湾』(1929年)である。このような矢内原の姿勢は、しだいに軍国主義的な風潮が強まる中で体制との緊張関係を深めていくこととなった。 1937年(昭和12年)、盧溝橋事件の直後、『中央公論』誌に「国家の理想」と題する評論を寄せた。国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならないことなど、今日では日本でも常識化した民主主義の理念が先取りして述べられていた。
しかし、この論文は大学の内外において矢内原排撃の格好の材料として槍玉に挙げられた。また、同じ頃、矢内原が個人的に発行していたキリスト教個人雑誌『通信』に掲載された南京事件を糾弾する目的で行われた彼の講演の中の一言(「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」)も、不穏の言動として問題となった。結局1937年(昭和12年)12月に、事実上追放される形で、東大教授辞任を余儀なくされた(矢内原忠雄事件)。
辞職後は、『通信』に変えて『嘉信』を毎月定期的に発行した[5]。毎日曜日、自宅で若者に対して聖書の講義をしたり、月一回の帝大聖書研究会を行った。1939年(昭和14年)から土曜学校を開いた[6]。また、キリスト教信仰に基づく信念と平和主義を説き続けた。
1941年(昭和16年)11月5日の夜、東京芝のフレンド教会で新渡戸稲造記念講演が行われ、矢内原が「新渡戸先生の宗教」という題で講演している[7]
1945年(昭和20年)8月15日、矢内原は終戦の詔勅山中湖畔で聞いて、これから新しい時代がくるのだから、平和のために働かなければねばならないと感じた[8]
敗戦後の1945年(昭和20年)11月、経済学部からの度重ねた要請で東京帝国大学経済学部に復帰した。辞職してからちょうど8年後であった。休職になっていた大内、有沢、脇村らも復帰した。担当する植民政策論を国際政策論に名称を変更した。 その後1946年(昭和21年)社会科学研究所長、1948年(昭和23年)経済学部長、1949年(昭和24年)教養学部長を歴任し、1951年(昭和26年)、南原繁の後任として東京大学総長に選出される(1957年(昭和32年)まで2期6年務めた)。1952年(昭和27年)には、学生劇団「ポポロ」公演にて摘発された私服警官のメモから警察による系統的な学内スパイ活動が露見し、東大側と警察が全面対立したが(東大ポポロ事件)、矢内原は総長として大学の自治と学問の自由を守るために毅然とした態度を取った。一方、学生のストライキに対しては厳しい姿勢を示し、ストライキを計画指揮した学生(学生自治会委員長、学生大会議長、ストライキ議案提案者の3名)は原則として退学処分とする「矢内原三原則」を打ち出した。この原則を適用され退学処分を受けた者に、江田五月今井澄などがいる。この「矢内原三原則」は東大紛争で廃止に至るまで、学生と大学当局の間でしばしば対立の原因となった。

晩年[編集]

退任後の1958年(昭和33年)に名誉教授の称号を授与され、その後も精力的に講演活動を行う。1960年(昭和35年)11月、姫路野里教会で「生死の問題」と題して講演している。教会における最後の講演となった。翌年の6月、東大教養学部学友会主催の講演会で「人生の選択」という題で東大生に対する最後のメッセージを残している。同年7月、札幌市民会館に於いて北海道大学の学生のために「内村鑑三とシュワイツアー」と題してを講演し、「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」、そして「畑は広く、働き人は少ない」という聖書の言葉で結んでいる。また、退職後は、学生問題研究所を創設し、その所長として学生の生活や思想の調査・研究に取り組んだ。[9]。 晩年の人生論に、1961年(昭和36年)NHK放送の「子供のために」の中で子供を大事にする思想的根拠として次のように述べている。「人生というものは、人を従えることが成功のように思われがちでありありますけれども、実はそうではなく、人に仕えることが人生の意味である。」[10]1961年(昭和36年)、胃癌のため逝去。68歳。なお、法大名誉教授で著名な詩人矢内原伊作慶大経済学部名誉教授・作新学院大学長の矢内原勝は子息である。矢内原家は、食事時に私語をせず厳格な忠雄を子息たちは恐れていたという。東京大学駒場Iキャンパス内には、かつて「矢内原門」があり、今は「矢内原公園」にその名を残している。

著作[編集]

  • 基督者の信仰 聖書研究社 1921 
  • 英国植民省に就て 拓殖局 1921 
  • 植民政策講義案 有斐閣 1925
  • 植民及植民政策 有斐閣 1926
  • 植民政策の新基調 弘文堂書房 1927 
  • 人口問題 岩波書店、1928
  • 帝国主義下の台湾 岩波書店 1929 「矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読」岩波現代文庫
  • マルクス主義と基督教 一粒社 1932 のち角川文庫 
  • 満洲問題 岩波書店 1934
  • 南洋群島の研究 岩波書店 1935
  • 民族と平和 岩波書店 1936 
  • 帝国主義下の印度 経済特殊研究叢書 大同書院 1937 
  • 余の尊敬する人物 岩波新書 1940
  • イエス伝講話 マルコ伝による 嘉信社 1940 
  • 山上垂訓講義 向山堂書房 1941 
  • 訣別遺訓講義 ヨハネ伝による 嘉信社 1943 
  • アウグスチヌス「告白」講義 教文館 1943 のち講談社学術文庫 
  • 日本精神と平和国家 岩波新書 1946
  • 日本の傷を医す者 白日書院 1947
  • 植民及植民政策 1947 経済学博士論文
  • 内村鑑三と新渡戸稲造 日産書房 1948
  • 帝国主義研究 白日書院 1948
  • 聖書の平和思想とリンコーン 高木八尺共著 岩波書店 1948 (新渡戸博士記念講演)
  • 聖書講義 第1-9 角川書店 1948-59
  • 続余の尊敬する人物 岩波新書 1949
  • キリストの生涯 嘉信社 1949.2
  • 講和問題と平和問題 河出書房 1950
  • 大学について 東京大学出版会 1952
  • キリスト教入門 角川新書 1952
  • 日本のゆくえ 東京大学出版会 1953
  • 銀杏のおちば 東京大学出版会 1953
  • 国際経済論 楊井克己共著 弘文堂 1955 (経済学全集)
  • 主張と随想 世界と日本と沖繩について 東京大学出版会 1957
  • 私の歩んできた道 東京大学出版会 1958
  • 政治と人間 民主化と人間形成のために 東京大学出版会 1960
  • 人生と自然 東京大学出版会 1960
  • 教育と人間 民主主義と平和のために 東京大学出版会 1961
  • 内村鑑三とともに 東京大学出版会 1962
  • 矢内原忠雄全集』全29巻(岩波書店、1963-64年)

著作・講演集[編集]

  • 『ヒューマニズムとニヒリズム』(講演)、早稲田大学基督教青年会主催、1948年
  • 『米国視察談』(講演)、早稲田大学主催、1950年
  • 『嘉信』第1-7巻、みすず書房、1967年
  • 『聖書講義』第1-8巻、岩波書店、1978年
  • 『基督者の信仰』第1-8巻、岩波書店、1982年
  • 『信仰と学問――未発表講演集』新地書房、1982年
  • 『矢内原忠雄』日本平和論大系第10巻、日本図書センター、1993年
  • 『土曜学校講義』第1-10巻、みすず書房、1998年
  • 『矢内原忠雄』日本の説教第11巻、日本キリスト教団出版局、2004年

翻訳[編集]

伝記[編集]

エピソード[編集]

矢内原と親交があった長谷川町子は、「(矢内原は)厳格なお顔の割に、可愛い物がお好き」であり、矢内原が晩年に入院した際には長谷川がクマの玩具を見舞品として贈ったと『サザエさんうちあけ話』の第29章で触れている。

脚注[編集]

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  1. ^ 鴨下重彦他 2011年 69ページ
  2. ^ アブラハムの子イサクで、ヘブライ語で「笑う」と言う意味
  3. ^ 鴨下重彦他 2011年 20ページ
  4. ^ 鴨下重彦他 2011年 21ページ
  5. ^ これは真理の敵ファシズムに対する宣戦布告を意味した。(鴨下重彦他 2011年 31ページ)
  6. ^ 鴨下重彦他 2011年 31ページ
  7. ^ この日は、御前会議で「帝国国策遂行要領」が決定された。つまり、12月初旬に米英欄に対しての開戦を決意したのである。(鴨下重彦他 2011年 35-36ページ)
  8. ^ 鴨下重彦他 2011年 38ページ
  9. ^ 鴨下重彦他 2011年 60-61ページ
  10. ^ 鴨下重彦他 2011年 74ページ

参考文献[編集]