2016/11/13

神道を学ぶ(読みもの)

神道を学ぶ(読みもの)

神道のお話

神道についての話、出雲大社の話、神道から見た世の中について、などを掲載しています。

神道の教え(入門編)

神道に教えはないのか?
皇室を敬愛すべし
神は我々の祖先である
祈願と感謝
神の世界と死後の世界
人生の目的とは何か

出雲大社

出雲大社についてのお話しは別ページを設けました

神道の信徒になる

神道における「人生の目的」とは
神道に改宗するには
神道の信徒の一年(年中行事)

神道のお話

神道のキーワードは「自然」「成長」「永遠」
神道で最も重要なものは「祭り」
お薦めの神道の本
神道と六曜
人を神として祀るのはいつから始まったのか
神意を伺う祈りと「おみくじ」
一般の人が神社で祝詞を読むことはどうなのか
神道の修行、行法について

神道のことば

新シリーズ。神道を信仰するには知っておくべきことばをいくつかまとめてみました
凡て迦微とは
天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅
宝鏡奉殿(ほうきょうほうでん)の神勅
由庭稲穂(ゆにわのいなほ)の神勅
三種の神器
手を打ちて跪拝に当つ
惟神(かんながら)
左左右右元元本本
幽顕(ゆうけん)
現人神より現御神(あきつみかみ)
斎戒(さいかい)

神道で考える

靖国神社問題を分かりやすく整理してみる
なぜ不幸なことはあるのか
神道では人間死ぬとどこに行くのか
葬式は要らない、のか?
神道と脳死・臓器移植について
「豊かな暮らし」とは何か考える
人生幸せになるために必要なことは三つ

神道と現代社会

日本全国の神社数と神職数
神社と経営
宗教団体は無税ではありません
宗教団体からもっと税金を取ったらどうなるか

神道と宗教と日本人

古神道とは
神道と陰陽道
神道を理解するためにキリスト教を学ぶ
ゴッド(God)を神と訳したのは日本のキリスト教の大きな失敗
隠れキリシタンに日本人の宗教意識を見る

その他

紫野の地名について

お問い合わせ

上記リンクの各ページの内容について、ご意見、ご質問など何かございましたら、、お問い合わせページからご連絡下さい。

 お問い合わせページ    

国家神道とは何か

国家神道とは何か



国家神道とは何か

 国家神道という言葉が、内容もよくわからないままに使用され、さらにそれが常識として通用している、というように感じます。
 「明治維新から第二次大戦敗戦までの八十年間、日本の国家、政府は神道を宗教として国民に強制した」というのが現在の世間のおおよその認識であろうと思います。しかし、実はその定義は事実とはかけ離れています。実際に政府が神道において導入したのは「神社非宗教論」だったからです。
 神社が非宗教、と言われると不思議に思われることでしょう。神社って宗教施設だし、そこで行われていることは宗教行為ではないのか、と思うのが自然かもしれません。また、注意しなければならないのは、神道非宗教論ではなく、あくまでも神社ということです。さらに、そもそも宗教という言葉は何を意味するのかということも考えなければなりません。これらの疑問はその当時も問題になり、第二次大戦敗戦まで続きました。
 ともかく、神社非宗教化が行われた歴史を見ていきます。

 明治維新

 明治時代以前は神仏習合といいながら、圧倒的に力を持っていたのは仏教寺院でした。江戸時代は徳川幕府が民衆支配のために寺請制度(檀家制度)を導入したため、明らかな仏主神従状態になっていました。神職が特に不満を抱いたのが、葬儀も仏式で行わなければならなかったことです。江戸時代の間、神葬祭を行えるように神職たちは運動しますが、神職本人とその嗣子のみがなんとか許されるようにはなりました。しかし、神職の家族は仏式で行わなければなりませんでした。

 さて、明治維新が起こった原因について、学校の教科書を読むと「黒船がやってきて、開国したら物価が上がって、民衆の暮らしが悪くなり一揆が起きて、行き詰まって徳川幕府が政権を朝廷に渡した」みたいなことが書いてあります。典型的な戦後左翼史観による説明です。それも一因ではあるでしょうが、それだけなら幕府の改革で済んだでしょう。
 朝廷に政権を返すまでに至ったのは「尊皇思想」の高まりという要因が非常に大きかったのです。徳川幕府は初期に社会の秩序の為に儒教を導入しますが、結果的に将軍ではなく天皇が治めるのが正統であるという正統論が生まれ、世の中に広がります。そして、幕末のころには、日本全国でその尊皇思想が当たり前のようにまでなってきたのです。

 維新のスローガンは「神武創業の頃に戻る」。復古的な施策の一つとして、慶応四年に神祇官が設置され、明治二年には太政官の外に特立します。二官八省、まさに律令時代の復活です。また、明治元年のいわゆる神仏分離によって、神社と寺院とが完全に分けられます。明治二年宣教使を設置、大教宣布の詔を発して、国民教化運動が始まります。キリスト教対策と大衆を国民としていかにまとめていくか、ということを目的としました。なお、新政府は最初はキリスト教を禁止しようとしますが、欧米列強の抗議を受け、認めざるを得ませんでした。ですので、この頃は基本信教自由ですが、その上で神道国教化を目指していたと言えるでしょう。明治四年には神社は国家の宗祠であるとして、社格制度が定められ、神官の世襲が廃止になります。

 神道国教化に失敗

 しかし、復古的な政策はなかなかうまくいきませんでした。神祇官は力もなく、活躍もできず明治四年に神祇省に格下げとなり、太政官の下に属することになりました。大教宣布もうまくいきませんでした。そもそもその当時の日本には説教をするという伝統が話す方にも聞く方にもありませんでした。仕方なく話す職業である講談師や落語家がかり出されたそうです。神社だけではうまくいかないということになり、翌年には神祇省は廃止され、教部省が設けられ、神職も僧侶も教導職に就き、神仏合同で国民教化運動を行うということになりました。神武創業の頃に戻る、神道を国家国民の宗教にしていこうという、神職、神道家の理想はどんどん後退していきます。

 教部省の下での大教宣布運動は神仏合同で行われましたが、実態は神主仏従であり、これに大きな不満を持ったのが浄土真宗でした。ここで、特定の一派の名を出すのは不思議に思われたかもしれません。浄土真宗は現在も日本で最大の仏教宗派ですが、この時もかなりの力を持っていました。長州は真宗地帯であり、さらに明治維新の際に藩に協力したこともあって、長州藩出身の政治家に対しての強いコネクションを持っていました。もう一つ重要なのは、浄土真宗は阿弥陀如来だけをひたすら信仰するという一神教的な要素を持ち、「神祇不拝」といって他の神仏を拝むことを非常に嫌いました。

 大教宣布運動の中心として芝の増上寺に大教院が設置されますが、ここに造化三神と天照大御神がお祀りされ、僧侶も拝礼することになりました。また、教える内容も神道のものが多く、このような神道主体の運動に我慢がならなかった浄土真宗は、長州閥の政治家も巻き込んで脱退の活動を始め、明治八年に離脱に成功します。この結果、明治十年に教部省は廃止となり、大教宣布運動は失敗に終わりました。神道国教化の夢は実質的にここで終わったといえるでしょう。

 教部省廃止によって、神社については、内務省社寺局の管轄下となります。太政官と並立する神祇官から太政官下の一省の一部局へと相当の転落です。大教院も解散となり、その代わりに神道側は神道事務局を設けます。その祭神に造化三神と天照大御神だけでなく、大国主大神もお祀りするべきである、と出雲大社宮司の千家尊福が主張しましたが、当時伊勢神宮の宮司であった田中頼庸が拒否したことから、いわゆる祭神論争が勃発しました。伊勢派出雲派と呼ばれ神道界を二分する論争となり、最終的には政治家に頼んで勅裁を仰ぎます。もちろん皆自分の信仰に基づいての真剣な主張だったわけですが、外部から見ると神道界内部の揉め事とみなされたのは仕方ないことでした。

 神社非宗教化へ

  さて、その宗教家達の活動とは別に、実際に国家の首脳である政治家とその配下の官僚達の関心は、いかに欧米列強に追いつくか、ということでした。そのために急いで欧米の制度、文化、思想の導入を図ります。宗教制度についても欧米諸国に習います。のちに憲法を作った伊藤博文や開明派官僚は、欧州のようなキリスト教国教制よりアメリカ流の政教分離の方がよいと思い始めます。

 このような宗教界の流れと政治界の流れが合わさって、明治十五年に神社は非宗教ということになり、祭祀のみ行うということになりました。神職も教導職との兼任が禁止され、宗教活動ができなくなりました。宗教としての神道は宗派として各自が行うということになります。これを教派神道といい、神宮教、大社教、扶桑教、御嶽教など神道十三派が公認されました。

 国民統合のために全国民を神社に参拝させるためには、浄土真宗門徒やキリスト教徒の参拝できるように、あくまでも宗教ではない、という立場を取らなければならなかったのです。
 そもそも神道は宗教なのか、という議論は当時からありました。宗教という言葉が英語のレリジョンを訳した時に使われるようになったもの、というのも話をややこしくしています。浄土真宗が主張したのは、皇室の祭祀が神道であるのはよいが、神道にはろくに教えもないし、宗教とはいえないものではないか、ということです。これは神道を軽く見た意見といえますが、反対に神道家の中にも非宗教と考えた人もいました。こちらは日本が古代から続けてきた神道は、他の宗教と言われるものと同じように考えてはいけない、という意見で、神道は特別だという考え方です。
 この神社非宗教化に神職達は反発します。特に葬儀もできないとされたことには激しい抗議をしたため、民社の神職は当分の間葬儀もしてよいということになります。妥協の産物です。

 その後の神社行政

 神社は国家の宗祠といいながら、明治政府は財政難のため元々神社にあまりお金を出していませんでした。明治四年の社格制度で全国の神社のうち、百いくつかの有力な神社を官社(官幣社、国幣社)とし、その他を民社(府県社、郷社、村社、無格社)に分けますが、官社には多少のお金を出しますが、明治六年以降は民社にはお金は出しませんでした。 神社非宗教化になってからも、政府は神社への支出をなんとか減らそうと画策します。

 また神社の役所の管轄は内務省社寺局のままでした。非宗教であるはずの神社と宗教である仏教やその他宗派と一緒の部門が扱っていたのです。
 これらのことを見ると、明治中期以降、政府は神社、神道に対してほとんど熱心でなかった、ということがわかります。
 神職達は国家の宗祠というなら、それなりの待遇をするべきではないかと要求を始めます。ここで、神道の味方が現れました。議会です。衆議院では神社の待遇を改善する法案がいくつも可決されます。そういう声の高まりによって、明治三十三年に社寺局から分離して神社局が設置されます。お金についても官社への金額が増加し、府県社や村社にもお祭りの際に自治体が幣帛料を出してもよい(出すと義務づけたわけではない)ということになりました。

 しかし、明治政府は財政難です。ここで起こったのが神社整理(神社合祀)でした。府県社以下の神社でも幣帛料を納める神社はそれに相応する内容を持つ神社のみでした。そのような神社を作るべく、村社や無格社を廃して地区の大きな神社に統合しようとしました。神社局官僚によって行われた、この施策により、全国で二十万社あった神社が大正三年には十二万社まで減少しました。
 神社整理は各府県によって対応が違い、熱心に行った三重県や和歌山県では減少率が80%以上でしたが、不熱心な府県では10%程度しか減っていないという所もありました。国会議員や学者などからの強い反発もあり、神社整理はそのうち行われなくなりました。
 その後もずっと神道界は国家の宗祠というのならふさわしい待遇をということで運動を続けます。神祇官を復活させるべきだと運動しますが、それがやっと前進して内務省の外に神祇院が設置されたのはやっと昭和十五年のことでした。

 神社は非宗教ということは定まったわけですが、その後も宗教なのか宗教でなのか、という話がずっと問題となります。
 浄土真宗やキリスト教は非宗教といいながら神社が祈祷を行ったり、お守りを授付するのは宗教行為ではないかとことあるごとに政府を突き上げます。内務省神社局管轄の非宗教である神社は、ある種「役人神道」というようなものでした。官僚達は他からの批判ものらりくらりかわしますが、国民を指導したり積極的な活動をしようという意志もありませんでした。

 第一次大戦終了と昭和四年の世界大恐慌で世界的に国家主義が台頭します。日本でも不況と東北大飢饉などの影響で国民の間に不安感が強まり、また議会政治に対する不満が強くなります。そして満州事変が始まり、軍部が政治を握り、大東亜戦争へと繋がっていくわけですが、日本での国家主義の台頭については政府が煽ったと言うより、在野の右翼団体、思想家が大衆の間に支持を受けるようになってきたというのが大きいでしょう。この頃になると、仏教教団もキリスト教団も国家主義となってきていました。
 そして、昭和十年あたりから、国家政府による国民管理が強くなってきました。ただ、その時でもあくまでも非宗教という建前があり、神社が熱心に動いたと言うことはありませんでした。超国家主義的なことを言い出したのは政府が押しつけたわけではなく、民間からわき上がって支持が広がったものでした。

 昭和二十年敗戦となります。進駐軍は神道についてよくわかっていませんでした。日本人自身もわかっていなかったところもあるくらいなので、当然かもしれません。神道指令というものが出て、結局神社は国家管理を離れます。そして、神社は宗教法人として運営されることになりました。
 日本は敗戦しました。占領軍の主体であったアメリカは、日本の国情や神道のことがよくわかっておらず、キリスト教と同じようなかっちりした教義、組織があって活動し、しかも国民を動かすような影響力があったと勘違いしていたようです。そこで神道指令を出して、国家と神道の分離を図り、神社の国家管理が廃止されます。のちにどうも違うと気がついて、条件は緩和されました。また、この神道指令において、初めて国家神道という言葉が今の意味で使われるようになりました。実は戦前には国家神道という言葉はほとんど使われてなかったのです。
 神社の大半は戦後の宗教法人法によって宗教法人となりました。さらにその多くは新たに結成された宗教法人神社本庁の傘下となっています。

 国家神道の定義

  このような歴史を追っていくと、とても「国家が神道という宗教を国民に強制した」とはいえない、ということがわかると思います。
 ただ、ここで反論があるかもしれません。「神社がどうなのかという狭義の話ではなく、天皇崇拝、教育勅語、靖国神社や海外の神社、宗教弾圧なども含めた広い範囲のものが国家神道として問題視されているのである」と主張する人もいるでしょう。

 日本の近現代インテリに共通するものとして、宗教に対する関心のなさがあるように思います。自分がいわゆる無宗教なのは自由なのですが、他の宗教に対しての理解が薄いのではないでしょうか。教育勅語というのを読んではっきりと思うことは、これは神道ではないということです。天神地祇に誓う、とか神を敬えとか神社に参拝しろとか一切出てきません。もちろん仏教でもキリスト教でもありません。強いて言えば儒教でしょうか。教育勅語というのは道徳の話であって、日本は道徳において儒教の言葉を用いてきましたから当然かもしれません。明治天皇の信任が厚かった儒学者の元田永孚が元を作り、伊藤博文の懐刀であった井上毅が宗教色を徹底的に除いています。勅令ではなくて、勅語となっています。中身を見れば、これがなぜ神道と結びつけられているのか不思議です。天皇だからでしょうか。天皇→神道→国家神道という発想なのかと推測するしかありません。
 なお、明治~昭和初期の天皇崇敬については、ずっと神道非宗教化を主張し続けた浄土真宗やキリスト教でさえも変わりありませんでした。浄土真宗は大谷家という貴種を戴き、東西本願寺の門主(門首)は伯爵をもらい、また運動して、親鸞に対して見真大師の号を明治天皇から戴いているくらいです。欧州のキリスト教国を見れば王や皇帝がたくさんいました。この二宗派が嫌らったのはとにかく他の神を拝まされる、ということでした。よって、この頃天皇崇敬というのは全宗派当たり前のことでした。当時の日本を国家神道と呼ぶなら、国家仏教でもあり国家キリスト教でもあったと言わなければ片手落ちといえるでしょう。

 靖国神社については別で語るほどの内容であるので一つだけ申しますと、神社を管轄する組織は主に内務省でしたが、靖国神社は創建以来陸海軍省の管轄でした。また、海外の神社については、朝鮮の神社は朝鮮総督府が、台湾の神社は台湾総督府が管轄しました。また、教育については文部省が担当です。今もそうですが、役所の管轄が違えばなかなか統一して効果的な行動が出来ません。神社についてももちろん、各部署が自分たちのやり方、都合でやっていましたので、統一してイデオロギーを吹き込むなどということはできませんでした。

 宗教弾圧について、弾圧した理由を見ていくと、一つには天皇不敬ということがありますが、主因は急に大きくなりすぎて目をつけられた、ということにあります。さらにあまり触れられていない事実として、明治政府は基本啓蒙主義であり、非科学的なことやオカルトを嫌いました。この頃急に大きく大きくなる宗教団体のほとんどすべては、霊能者、霊媒、まじない、占いなどオカルト的要素がありました。これがないと人が集まりません。高僧が入った風呂の水に御利益があると取り合うように持ち帰った、というようなことが珍しくない時代でしたし、医療も不十分で、病気になれば拝み屋さんに頼むしかないという時代でしたから自然なことかもしれません。ただ、明治政府やその官僚には科学的合理主義の思想が強く、オカルト性が強い宗教は、神道的な団体も含めて激しく弾圧されたのです。

 戦時統制の時代

 しかしながら、後世言われてるような、非常にうるさい時代は存在しました。皇學館大學の新田均教授が『「現人神」「国家神道」という幻想』(PHP)の中で興味深いことを書かれています。明治末期から昭和初期の修身や歴史の教科書を見ると、「現御神(あきつみかみ)」(現人神よりもこちらがよく使用された)や「八紘一宇」という言葉が現れたのは昭和十四年以降のことである、ということです。天皇観も明治末は天照大御神の子孫であるという神孫論と君臣論だったのが、大正末にはそこに天皇は親で国民は子であるというような家族論が入り、昭和十四年以降になって、天皇は神であるという表現に変わってきた、ということです。
 神社参拝の強制についても、明治にはなく、大正末になって小学校の神社参拝についての問題が現れ(名目はあくまでも教育の一環)、昭和七年に上智大学生が靖国神社の参拝を拒否したという事件があり、昭和十年代には参拝拒否は事実上の不可能になっていった、ということです。

 天皇、神社に極度にうるさい時代を経験された人にはよろしくない印象が残ったと言うこともあるでしょう。戦争が始まる頃には、神国思想は行き過ぎて、神懸かり的なものにまでなってしまいました。合理的な思考を貫くべきである軍人の中にも「日本は神国だから負けることはあり得ない」と考えていた人が結構いたようです。
 戦時統制については、政教分離のアメリカでも、ハワイの神社を強引に接収したりしています。

 ここまで長々と見ていきました。重要なことは明治維新から昭和二十年まで約八十年間国家の宗教政策もいろいろ変化していて、その間を貫いた国家神道イデオロギーなどというものは存在しなかった、ということです。
 昭和十年代も国家神道イデオロギーがあってあの状態が生まれたわけではなく、戦時体制による国民統制の結果、ということではないでしょうか。さらにいうなら、議会が出来てから戦時体制で自由が無くなっていく間は、民主主義であり、国民の意識が反映していたということです。戦前右翼というのも神道とは限りません。

■国家神道についての本

 国家神道とは何かを学ぶべく、右から左までいろんな本を読んでみました。
 村上重良氏の『国家神道』(岩波新書)がこの問題の基本的な本になっています。「明治維新から敗戦までの八十年間を日本を国家神道が支配した」と書かれていますが、この本が現在の国家神道イメージを作り出したことがわかります。単純な戦後左翼イデオロギーで戦前日本を断罪する本ですから、内容はわかりやすいとは言えます。(危険なわかりやすさですが。)
 葦津珍彦著阪本是丸註『国家神道とは何だったのか』(神社新報社)は左翼の主張に対する神道側の反論の書です。一方的に悪者と断罪された、神社側の叫びを感じます。『「現人神」「国家神道」という幻想』と共に、非常に興味深い内容です。国家神道と合わせて読んでみるといいかもしれません。

 もう少し俯瞰した立場からの本としては島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書)というのがあります。学者の書く本なので少しわかりにくいところもあります。
 しかし多数の本を読んで思うのは「国家神道」という言葉の定義、先入観が強すぎるとだめだ、ということです。実態を理解するには、まずこの言葉は忘れて、宗教を中心に明治から昭和への国全体の流れを見ていく必要があるように思います。
(平成26年11月改稿しました)
トップページに戻る > 読み物一覧のページに戻る > このページの一番上に戻る
 


<このページの筆者>
 中島隆広 : 出雲大社紫野教会、教会長
昭和46年京都府生まれ。名古屋大学経済学部卒業、会社員の後、パソコン部品のインターネット通販の会社を起業して経営する。会社売却の後、國學院大學神道學専攻科に入学し、神主となる。
・ツイッター@nkjm_tkhr 

やしの実通信

やしの実通信

『日本-その問題と発展の諸局面』(11) [2016年06月08日(Wed)]
新渡戸は同書において、あくまでも天皇制を支持する。

それは、「八紘一宇」とか「現御神」という言葉で導いた皇国史観とは違う*、科学的、学術的説明なので、当方はすんなり飲み込める。当方は天皇制に関するこういう説明を始めて読んだ。これならば英国人も理解できるであろう。

以下『日本-その問題と発展の諸局面』の「第二章歴史的背景」にある「第九項封建制と将軍制」(新渡戸稲造全集第18巻、2001、88-92頁)を要約しました。

11世紀までに統治権力は3つの党で争われた。権力の唯一の正統な源である天皇、軍事力を備えた地方地主、そして退廃した僧侶。
天皇は僧侶の傲慢を打ち砕くため武士たちに援助を求めざるを得なかったが、その結果武士が権力を掌握し、二頭政治が明治維新まで続く事となった。

天皇の威信を回復しようという試みは何度か行われたが、失敗に終わる。その度に天皇の威信はさらに縮小された。北条氏は天皇の二千の地を奪った。天皇の手当が米5,200トンの時、将軍はその200倍の112万トンであった。

しかし、天皇がいかに貧乏で苦しんでいても国の唯一正統の元首であるとの確信は決して揺るがなかった。将軍は天皇の唯一の代理人であると理解された。戦国時代でさえも誰一人天皇の資格に疑いをもたなかった。ここで新渡戸はヨーロッパの思想家を出してくる。
ヴォルテールは2、3人いたが、フランス王室を転覆させたルソーは日本にいなかった。クロムウェルを頼朝に例え、東洋のカーライルの存在を暗示した。(カーライルはクロムウェルを評価した)
即ち、将軍制度は道徳改革を促した、という。
擡頭した武家は禅宗、日蓮宗から道徳的影響を受けた。鎌倉時代僧侶は哲学者となった。その頃中国からの宋学の形而上学と哲学が伝えられ事も軽視できない。

女性も夫の家庭に留まり(以前は父親の家にいた)家族への愛、自己否定、節倹、勇気、不撓不屈というような今に残る女性の徳が発達した。



*参照 「国家神道とは何か」
http://www.izumo-murasakino.jp/shinto-007.html
「明治末期から昭和初期の修身や歴史の教科書を見ると、「現御神(あきつみかみ)」(現人神よりもこちらがよく使用された)や「八紘一宇」という言葉が現れたのは昭和十四年以降のことである、ということです。天皇観も明治末は天照大御神の子孫であるという神孫論と君臣論だったのが、大正末にはそこに天皇は親で国民は子であるというような家族論が入り、昭和十四年以降になって、天皇は神であるという表現に変わってきた、ということです。」

新渡戸稲造 文献

-----
内容
1 武士道 [岩波書店 1938 年 矢内原忠雄訳] 東西相触れて[実業之日本社 1928 年]他
2 農業本論[六盟館 1908 年(増訂版)] 農業発達史[大日本実業学会 1898 年] Über den Japanischen Grundbesitz, dessen Verteilung...[Paul Parey 1890 年 ドイツのハレ大学へ提出した学位論文]
3 米国建国史要[東京有斐閣 1919 年 東京帝国大学の米国建国史特別講義] 建国美談―ウヰリヤム・ ペン小伝 [笠井修合との共著・発行 1895 年] ウイルリアム・ペン伝[新渡戸稲造 1894 年]
4 植民政策講義及論文集[岩波書店 1943 年 矢内原忠雄編] 諸論文
6 帰雁の蘆[弘道館 1908 年(第 4 版)] 内観外望[実業之日本社 1933 年(第 3 版) 早稲田大学での 講演速記録] 西洋の事情と思想[実業之日本社 1934 年 早稲田大学での講演速記録]
7 修養[実業之日本社 1914 年(第 29 版 縮刷版)] 自警[実業之日本社 1929 年(第 15 版 縮刷版)]
8 世渡りの道[実業之日本社 1912 年] 一日一言[実業之日本社 1915 年]
9 ファウスト物語[六盟館 1910 年] 衣服哲学講義[研究社 1950 年(第 5 版)]
10 人生雑感[警醒社書店 (第 3 版) 初版は 1915 年] 人生読本[実業之日本社 1934 年]
11 婦人に勧めて[東京社 1918 年(第 4 版) 初版は 1917 年に出版、翌年東京女子大学学長に就任している。] 一人の女[実業之日本社 1919 年] 読書と人生[普及社 1936 年]
12 Bushido: The Soul of Japan, An Exposition of Japanese Thought. [Kenkyusha 1935] etc. 13 The Japanese Nation: Its Land, Its People, and Its Life... [G.P.Putnam’s Sons 1912] The Intercourse between the United States and Japan: A Historical Sketch.[The Johns Hopkins P. 1891]
14 Japan: Some Phases of her Problems and Development. [Ernest Benn 1931] Japanese Traits and Foreign Influences. [Kegan Paul, Trench, Trubner 1927]
15 Lectures on Japan: An Outline of the Development of the Japanese People and their Culture. [研究社 1939 年(第 4 版) 新渡戸稲造の死後、夫人が編者となって刊行。] etc.
16 Editorial jottings. [北星堂書店 1938 年 1930 年から『英文毎日』に連載したもの、夫人の編で刊行] 17 日本国民―その国土、民衆、生活 合衆国との関係をとくに考慮して[13 巻所収本の邦訳。佐藤全弘訳] 日 米関係史[ジョンズ・ホプキンズ大学に提出した博士論文で、1891 年に同大学が刊行(13 巻) 松下菊人訳]
18 日本―その問題と発展の諸局面[14 巻所収本の邦訳 佐藤全弘訳] 日本人の特質と外来の影響[14 巻所収本の邦訳 加藤英倫訳]
19 日本文化の講義―日本国民とその文化の発達に関する概説[15 巻所収本の邦訳 松下菊人訳] 国際 連盟の業績と現状[1920 年 9 月のベルギーでの講演を国際連盟事務局が小冊子にした 加藤武子邦訳]他
20 編集余録[16 巻所収分に加え、収められなかった「編集余録」も加えて邦訳、索引を付す。佐藤全弘訳]
21 日本土地制度論[1890 年 滝沢義郎訳] 随想録補遺[英文随想の内『随想録』に未掲載分 佐藤全弘訳]他
22 『フレンズ・レヴュー』寄稿文[佐藤全弘訳]他寄稿文 書簡[日本語訳]
23 The Imperial Agricultural College of Sapporo, Japan. [1893] etc. Articles. Letters.
24 別巻 新渡戸博士追憶集[非売品 1936 年 宮部金吾著「小伝」を含む]
25 別巻2 月報[『現代に生きる新渡戸稲造』 教文館 1988 年] 新資料[『新渡戸稲造研究』に掲載分]
---
◆ 参考文献 ~この人をもっと知るために~

<図書>  新渡戸稲造―国際主義の開拓者 名誉 努力 義務/ジョ-ジ・オーシロ著 中央大学出版部 1992年 276,7p <289.1AA/3059> 資料番号 20459541
 新渡戸稲造伝(伝記叢書 104)/石井満著 *関谷書店(昭和 10 年刊)の複製 大空社 1992 年 1冊 <289.1/3176> 資料番号 20554853
 〈太平洋の橋〉としての新渡戸稲造/太田雄三著 みすず書房 1986年 158p <289.1/2315> 資料番号 12363594
 新渡戸稲造―生涯と思想/佐藤全弘著 キリスト教図書出版社 1980年 507p <289.1/1926> 資料番号 12360442
 新渡戸稲造研究/東京女子大学新渡戸稲造研究会編 春秋社 1969 年 562p <289.1/708> 資料番号 10526655
<図書(部分)>  日本の折衷主義―新渡戸稲造論/鶴見俊輔著(鶴見俊輔著作集 第3巻) 筑摩書房 1975年 p122-147 <081.8/59/3> 資料番号 10159085
 新渡戸博士/矢内原忠雄著(余の尊敬する人物) 岩波書店 1940年 p179-224 <280.4/1/1> 資料番号 10496081

やしの実通信

やしの実通信

『日本-その問題と発展の諸局面』(9) [2016年06月02日(Thu)]

新渡戸が亡くなる2年前、
オックスフォード大学フィッシャー閣下編集世界史シリーズの一巻として書かれた『日本-その問題と発展の諸局面』。
この本の中の天皇論を中心になぞっている。
繰り返すがこの本(英文)が発行された2週間後に満州事変が起った。
共産主義と軍閥が、まさに日本を潰そうとしていた危機を新渡戸は正視していた

日本の植民政策を、実践と共に進めた新渡戸は中国、朝鮮文化への深い尊敬と理解があった。


第二章歴史的背景の7項目目は「荘園の形成」である。

「荘園の発達と普及において、宗教団体も世俗貴族に劣らず悪事を働いた。」(84頁)

皇室が、太子が庇護した仏教。
寺領は課税を免除されていた。そこに目をつけた大地主は自分の土地や財産を寺に寄贈した。
これぞ、元祖タックスヘブン!
寺はどんどん豊かになる。おまけに国家が潤沢な助成金を与えタダで海外留学も!

当時、出世するには貴族出身でなければならなかったが、僧職は誰でもなれた!
そして敬虔な人ではなく、野心家が仏僧になっていったのである。財産と名誉を目指して!

「京都の宮廷の年代記にも、ウルジーやラスプーチンのような人物は全くいないではない。770年頃には、僧侶で玉座をうかがう者さえいた。」(85p)
道鏡の事である。

日本仏教の道を誤らしたのは、タックスヘブン!租税回避だった!


「やがれ彼らは自分から軍隊を訓練し、私兵をたくわえた。そして、時には朝廷に対して武装をととのえて示威行進を平気でしたりした。」


「根本枝葉花実説」
太子が「花実」に例えて庇護した仏教は、恐ろしい毒花と化し、毒の実をつけ、その根本を攻めたのである。
白河上皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆くのも頷ける。

新渡戸稲造ものがたり―真の国際人柴崎 由紀,

新渡戸稲造ものがたり―真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬける (ジュニア・ノンフィクション) 単行本 – 2012/9
 (著)
--
内容(「BOOK」データベースより)
「世界に誇る、真の国際人」って、どんな人?「ちょんまげに洋服を着せたような男」!?五千円札の肖像になった人なの?どんなことをした人?世界中で読まれている『武士道』という本を書いた人?ユネスコは、もともと日本人と深い関わりがあった!?小学校中学年以上。
---
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
柴崎/由紀
成城大学文芸学部ヨーロッパ文化学科卒業後、アメリカ・コロラド大学ボールダー校でB.A.取得(International Affairs)。スイスの金融機関、国際コミュニケーション会社を経て、現在、銀の鈴社で企画・編集(非常勤)、フリーランスで取材・執筆活動中。「文藝春秋特別版」(平成18年8月臨時増刊号)などに外国人インタビュー記事を寄稿。鎌倉ペンクラブ会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
----
登録情報
単行本: 255ページ
出版社: 銀の鈴社 (2012/09)
----
トップカスタマーレビュー

5つ星のうち 5.0ジュニアのみならず必読の書
投稿者 齊藤昇三 投稿日 2013/4/5
形式: 単行本 Amazonで購入
新渡戸稲造について書かれた本は数多くあるが、青少年向けにこれほどすばらしい内容にまとめられた著者に敬服している。
この本では紹介されていないが、日本の生活協同組合運動の先駆者として名高い賀川豊彦氏は、新渡戸稲造を追悼する『永遠の青年の詩』の中で『私に日本の七聖人は誰かと聞かれたら、新渡戸を先ず第一に挙げたであろう』と評しているが、明治時代から今日に至るまで、これほどの国際人は見られなかったし、新渡戸稲造の遺言とも言われている「衆のために努るを命というなり 死とは何事もせざるの意也
己を棄つるは是生命の始めなり」という色紙を残しているが、まさにこれを実践した一生であった。
青少年向けに出版された今日的意義は大きいし、成人にとっても推薦したい。

---
5つ星のうち 5.0価値ある一冊です
投稿者 leonido 投稿日 2016/2/25
-
 「難しいことをやさしく」になっているいい本です。
221ページ「稲造の精神的子孫」
 この節のボナー・F・フェラーズと稲造の教え子(河合道・一色ゆり)たちとの占領裏面史は初めて知り、感動しました。ちょっと前に、竹前栄治著『GHQ』岩波新書黄版を読んでいましたが、こういうことは書かれていませんので、この本を読んで本当に良かったです。同書の「レノ作戦」(5頁)が分からず、苦労してやっと分かりました。Wikipediaの「レイテ沖海戦」「フィリピンの戦い」などが、突破口になりました。
フェラーズはこういう良心の持ち主だったから、「バターン・ボーイズ」の一人でありながら、マッカーサーと衝突して辞任したのですね。
-----

新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて Yuki Shibazaki / 柴崎 由紀

新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて

 

ラベル

やしの実通信 新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて [2016年06月

やしの実通信

新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて [2016年06月01日(Wed)]


ちょっと休憩。

新渡戸稲造に関するブログを書きながら関連情報をウェッブで探していたら偶然みつけたサイトがある。

「新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて」
http://inazo-nitobe.blogspot.co.nz/

「新渡戸稲造ものがたり」という本を書いた柴崎由紀さんのサイトである。
やはり新渡戸にのめり込む人は結構いるのだ。安心した。

柴崎さんは、新渡戸が滞在したり、訪ねた場所を追っている。
その中の京都。新渡戸の友人であった竹内栖鳳邸跡が紹介されている。
ここは現在イタリアレストランになっていて、年に数回特別な日に利用している場所なので驚いた。

新渡戸稲造がこの竹内栖鳳邸を訪ねたと思うと、特別な場所に思えて来る。
京大や同志社大学でも教えていた新渡戸は八坂神社の近くに住んでいたそうだ。
この辺りは散歩コースなので、いつもの散歩もまた一味も二味も違ってくるような気がする。

Primo by Ex Libris - Japan - Some Phases of her Problems and Development

Primo by Ex Libris - Japan - Some Phases of her Problems and Development

Japan : some phases of her problems and development.; 1931
Japan : some phases of her problems and development.; 1931
Material Type:
BookAdd to e-Shelf

Japan : some phases of her problems and development.; 1931

Inazo Nitobe 1862-1933. Ruth R Thompson

Available at Barr Smith Library Main collection (952 N73 )
  • ------
Japan: Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)
Japan: Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)
Material Type:
ReviewAdd to e-Shelf

Japan: Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)

Story, Russell M.

Pacific Affairs, 1 April 1932, Vol.5(4), pp.349-352 [Peer Reviewed Journal]
Online
View all versions
Japan. Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)
Japan. Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)
Material Type:
ReviewAdd to e-Shelf

Japan. Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)

Latourette, K. S.

The Annals of the American Academy of Political and Social Science, 1 May 1932, Vol.161, pp.269-270 [Peer Reviewed Journal]
Online
Nitobe-Japan: Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)
Nitobe-Japan: Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)
Material Type:
ArticleAdd to e-Shelf

Nitobe-Japan: Some Phases of Her Problems and Development (Book Review)

Pacific Affairs, Vol.5(4), p.346 [Peer Reviewed Journal]
JAPANSome Phases of Her Problems and Development By Inazo Nitobd Ernest Benn, London, 1931. 18s. Wholly apart from the intrinsic interest which many west...
Online
View all versions

    2016/11/12

    やしの実通信



    やしの実通信
    『日本-その問題と発展の諸局面』(3) [2016年05月19日(Thu)]

    『日本-その問題と発展の諸局面』の ”第一章 地理的特徴 ー とくにその社会的・経済的影響に関連して” では、天皇、皇室の事は触れられていない。

    しかし最後の項目、「八、日本の地理の政治的国際的意義」に日本の防衛、海洋安全保障、特に太平洋に関する海洋安全保障の事が述べられている。

    まずは領土について述べられている。
     「統治する能力こそが一国の国境を決める。日本帝国は、日本南部で小さな”国”として始まり、次第に北東へ広がって行った。日本が九州で一小部族国家だったころ、ロシアはなんの脅威でもなかった。拡張の各段階ごとに、新しい仮想敵国が地平線上に現れた。」(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、47頁)

    そして拡張する日本国家を守ったのが日本と取り囲む「海洋」であった、というわけだ。
    新渡戸は英国海軍Admiral George Alexander Ballardの書いた"The Influence of the Sea on the Political History of Japan (John Murray, London, 1921)"から引用し、日本の政治史の及ぼした海洋の影響を紹介している。

    (1)強制的孤立時代、この時には海は保護防衛の手段であった。
    (2)人為的有為的孤立時代、この二つの時代は合わせて十五世紀続いた。
    (3)実習時代、これはたった四十年で、明治時代に始まった。
    (4)海軍拡張、これが現代である。
    (『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、49頁)

    これに対す新渡戸の分析が興味深い。

    「事実としていえることは、日本民族は、地理によって課せられた障壁をものともせず、外来の影響には心温かな態度を維持し、異常な第二時代においてだけ、外人居住拒否が政策として強制されたことである。(中略)無批判の屈従でなく、心を開き、はっきりした眼をもって、日本は世界の最も進んだ思想に従い、最も進歩した国々と協同する。この知恵は、民族の遺産であり、後年にあっては、海洋に囲まれているために促進されたものである。」(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、49-50頁)

    そして海洋安全保障の話になるのであるが、それは太平洋をはさむ米国と日本+アジアの枠で議論されている。

    「「海洋の自由」には、国際法の狭い専門的意味以上の広い意義がある。海洋支配(Thallassocracy)こそ、膨大妄想の最も邪悪不正な形である。」(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、50頁)

    理性ではなく感情で繰り返されるスローガン ー ”太平洋の支配” ”太平洋の覇権” ーを除去すること、太平洋はどの国も支配するこはできないとし、最後に下記の文章が記されている。

     「太平洋の分割ではなくて、その資源をともに分け合うことによって、海洋の価値を力で測るのではなく、奉仕によって評価することにより、敵対心によってではなく、友好心においてこそ、太平洋は、その世界大の目的の促進に寄与せしめられるのであろう。」(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、52-53頁)

    現在の話ではない。1931年、85年前の新渡戸稲造の太平洋海洋安全保障政策である。

    やしの実通信 『日本-その問題と発展の諸局面』(2)

    やしの実通信

    『日本-その問題と発展の諸局面』(2) [2016年05月18日(Wed)]

    『日本-その問題と発展の諸局面』は新渡戸稲造全集第18巻に佐藤全弘氏の和訳が納められている。
    原文は英文で、1931年にLondon, Ernest Benn Limitedから出版されている。
    この本は、新渡戸稲造が序文で述べているように、7年間の勤務を終えジュネーブの国際連盟事務局から出発する夕べに執筆を依頼された。
    依頼したのは、編集者のH. A. L.フィッシャー閣下。The Modern World - A survey of Historical Forces というシリーズ物m編集者である。1931年の時点で、アイルランド、ドイツ、インド、ロシア、フランス、エジプト、ノルウェイ、トルコ、ギリシャ、英国、イタリア、スペイン、オーストラリア、アラビア、南アフリカ、そして日本の16巻が出版され、カナダ、スコットランドが準備中であった。

    序文には、国際連盟の仕事を終え隠居の身分の時間を使って書く予定が、新渡戸を待っていた日本は問題が山積みで本を書く時間は病気療養の時だけだったとある。
    だから当初は「国防」「外交」「海外領土」「現代文学」についてもそれぞれ一章をあてる予定が結局下記の7章となった。

    第一章 地理的特徴 ー とくにその社会的・経済的影響に関連して
    第二章 歴史的背景
    第三章 新日本の出現
    第四章 政府と政治
    第五章 教育上の制度と諸問題
    第六章 労働、食糧、人口
    第七章 日本人の思想生活

    天皇に関しては何章かに渡って述べられている。

    国際連盟事務局を去って日本に戻った新渡戸稲造を待っていたのは、昭和天皇も同じであった。
    新渡戸を招いて報告を聞かれ、天皇と新渡戸の距離は非常に近くなったようである。

    やしの実通信  『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造1931

    やしの実通信



    『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造1931.9.1 [2016年05月17日(Tue)]

    矢内原忠雄の『南洋群島の研究』から始まった、新渡戸、後藤新平への関心。
    3人ともその業績を全て理解するのは当方には到底不可能なので、「植民」というテーマに絞って勉強しようと心に決めたばかりだが、憲法第一条の天皇象徴の箇所と新渡戸稲造の発言の関連が気になって、新渡戸が死ぬ2年前に書いた『日本-その問題と発展の諸局面』を手に取った。

    読み進めながら、すぐにこれこそ日本理解に最高の本だと気づき、数ヶ月前世話になったオックスフォード大学の教授に知らせた。この本は同大学の歴史学教授H. A. L.フィッシャー閣下の編集でもあり、英国人の読者を意識して書かれている。原文は英文である。

    この本の中に出て来る新渡戸稲造の皇室論、天皇論がめっちゃ面白いのである!
    神武天皇は実在した可能性があってしかもマレイ人!

    即ち太平洋島嶼国と同じオースとロネシア語族であろう、との説なのだ。
    その他にも興味深い点が多々あるので、何回かに分けてメモを作って行きたい。

    ところで、この本の序文の日付は1931年9月1日。その約2週間後に満州事変が起る。
    翌年1932年松山事件という、オフレコを無視した新聞記事が新渡戸を窮地に追い込む事になる。
    新渡戸は日本を滅ぼすのは共産党か軍閥、と言ったのだが、この本の中にも両者の事が書かれている。
    同年日米関係修復のために米国を訪れ、1933年に太平洋問題調査会会議に日本代表団団長としてカナダを訪ね、会議終了後バンクーバーで客死する。
    同地にある新渡戸記念公園を天皇皇后両陛下が2009年訪ねていらっしゃる。
    植民」というテーマからはちょっと離れるが天皇、皇室と新渡戸稲造について何回かに分けて少しメモを書いておきたい

    やしの実通信  新渡戸稲造の天皇象徴論(3)



    やしの実通信
    新渡戸稲造の天皇象徴論(3) [2016年05月07日(Sat)]

    やはりこうやって公開で書くと多くの反応をいただけるのでありがたい。

    新渡戸が天皇は象徴である云々について、当方は『武士道』を引用して現在の憲法第一条との違いを主張したが、新渡戸は1931年、亡くなる2年前にロンドンからの依頼で『日本ーその問題と発展の諸局面』という本を英語で出しており、そこにも天皇象徴論があって、そこからの引用ではないか、とのコメントをいただいた。
    原文は英文だがその和訳が新渡戸稲造全集第18巻にある。佐藤全弘氏の訳である。

    同書はかなりな大作で全7章、400頁近い。
    その第四章 政府と政治の第一項「国体ー日本の憲政上の固有性」の中で天皇象徴論が述べられているが、これも『武士道』と同様憲法第一条とはかなり色合いが違う。

    引用されたかも知れない箇所は

    「天皇は国民の代表であり、国民統合の象徴である。」

    であるが武士道と同様、皇室の歴史、日本の歴史と幾重にも説明はされておりあの憲法一条を読んだだけの印象とは全く違うのである。長くなるが、上記の文章の周辺を引用しておきたい、

    「してみるとコクタイは、最も単純な言葉に戻してみると、この国を従え、我国の歴史の始めからそれを統合してきた”家系”の長による、最高の社会的権威と政治権力の保持を意味する。この家系は国民全体を包括すると考えられる ー というのは、初代の統治者はそお親類縁者を伴って来たし、現在人口の大部分を形成しているのは、それらの人々の子孫だからである。狭義においては、その”家系”は統治者のより直系の親族を含む。こうして天皇は国民の代表であり、国民統合の象徴である。こうして人々を統治と服従において統一している絆の真の性質は、第一には、神話的血縁関係であり、第二には道徳的紐帯であり、第三には法的義務である。」(『日本ーその問題と発展の諸局面』183-184頁,新渡戸稲造全集第18巻、2001年、教文館)

    4章はかなり重い内容で一読したものの、理解できていない。
    しかし、最後の第十一項来るべき改革で新渡戸が提案している箇所を書いておきたい。

    「日本は、世界に対して、”尊王主義”は”民主主義”と矛盾しはしないこと、それはプロレタリア問題を処理する力がなくはないこと。国王は社会正義達成のための”天”の器となることができることを証明する公道に就いているのである。」(『日本ーその問題と発展の諸局面』243頁,新渡戸稲造全集第18巻、2001年、教文館)



    2009年7月、カナダ・ブリティッシュコロンビア州のバンクーバーにある新渡戸記念庭園を天皇皇后両陛下が訪ねている。私は、皇室の在り方を書いたこの本をお読みになっているのではないか、と思う。

    参考:両陛下、新渡戸稲造庭園を散策 カナダ・バンクーバー
    2009年07月14日 AFP
    http://www.afpbb.com/articles/-/2620878?pid=4357936

    やしの実通信

    やしの実通信

    大阪市立大学佐藤全弘名誉教授「矢内原忠雄は私たちに今何をのぞむか」 [2016年01月15日(Fri)]

    矢内原忠雄研究をされている立命館大学の金丸裕一教授から、矢内原の事を色々ご教示いただく機会を得た。

    金丸教授から送っていただいたのが「矢内原忠雄は私たちに今何をのぞむか」という大阪市立大学佐藤全弘名誉教授の講演記録である。(郷土の偉人 矢内原忠雄顕彰講演会記録)

    矢内原の生涯を、わかりやすく説明している。
    特に矢内原の再婚に関する箇所は、矢内原の精神的弱さと、長男伊作氏との「歪んだ」関係を理解できた。
    矢内原の死後恵子夫人が書き記したという次の箇所は後で確認してみたい。

    「矢内原は自分が上辺は信仰者らしくかざりつつ、内面は偽りに満ち多くの罪を犯して人を欺いてきたと痛切な告白をつづけ、涙を流して罪を悔いました。」(同講演記録26頁)

    は再婚以外にどんな罪を認識していたのであろうか?


    ここ2年ほどだが、新渡戸と矢内原を読み比べていると、やはり新渡戸の方が人間的に大きい、という感想を持つ。
    それは矢内原が「象牙の塔」に地位を得たのに比べ、新渡戸は台湾植民地運営から、国際連盟運営、そして死の間際は満州事変に対する海外、特に米国での日本擁護活動と国内へ向けた批判、という学問だけでなく、現場、実務の人、即ち「偽りに満ち多くの罪を犯して人を欺いてきた」とは全く反対の行動をとってきたからだと思う。


    金丸教授によると、矢内原は戦後その学術論文の数が激減している、という。
    加えて矢内原の植民政策研究は、戦後矢内原自身が言う様に、同氏の意向とは違ってキリスト教に結びつけて議論される事が多いようである。
    矢内原は植民を、アダム•スミス、新渡戸稲造に倣って支持していたのである。


    新渡戸稲造研究者であるという佐藤全弘氏の講演にはこの部分は全く出て来ず、逆に現在の政治批判に矢内原を利用して終えているのだ。
    日本の、新渡戸の、そして矢内原の植民政策はどこで道を間違ったのか、もしくは逸らされたのか?これを議論しないと日本は、何も学べないのではなかろうか?








    Posted by 早川理恵子 at 08:39 | 新渡戸稲造と矢内原忠雄 | この記事のUR