2017/02/14

【正論】漱石と鴎外に与えた乃木大将の殉死の意味とは… 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司(1/4ページ) - 産経ニュース

【正論】漱石と鴎外に与えた乃木大将の殉死の意味とは… 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司(1/4ページ) - 産経ニュース

漱石と鴎外に与えた乃木大将の殉死の意味とは… 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司

(1/4ページ)

文芸批評家・都留文科大教授 新保祐司氏

 今年は明治の文豪・夏目漱石の没後100年の年である。青春時代に著作をずいぶん読んだが、漱石文学の愛読者というほどではない。今では、「明治の精神」を代表する一人であると考えている。

 『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』などの初期の名作や『三四郎』『それから』『門』の中期の三部作、『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』『明暗』などの後期の作品群は、今日でも読まれている作品であるし、今後も読まれ続けるに違いない。

≪『こころ』に描かれた場面≫

 しかし、今日の日本、21世紀の世界の中の日本、ということを思うとき、漱石の何が最も日本人の精神に訴えるものであるか、と考えると、それは『こころ』の中で、明治天皇の崩御と乃木大将の殉死に触れている文章であり、そこで「明治の精神」という言葉を出していることだと思う。

 小林秀雄は有名な『モオツァルト』の中で、モーツァルトの音楽を熱愛したフランスの作家・スタンダールの『ハイドン・モオツァルト・メタスタシオ伝』の結末の一節-モーツァルトを「裸形になった天才」ととらえた文章-について代表作である「数百頁の『赤と黒』に釣り合っていないとも限るまい」と小林らしい批評をした。同様に『こころ』の中の明治天皇と乃木大将について触れた一節が、漱石の数多くの「数百頁の」長編小説と「釣り合っていないとも限るまい」といえるのではないか。

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 『こころ』の結末にいたって、主人公の「先生」は「夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました」という。そして、「自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積りだ」と妻に語る。「それから約一か月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だと言いました」と書かれている。


 ≪「覚醒」した日本人の基層≫

 そして、その死に深い共感を抱いて、ついに「先生」も自殺するにいたるのだが、こういう「一節」に漱石という人間が「明治の精神」を代表する一人である所以(ゆえん)があらわれているのである。

 漱石・夏目金之助は、慶応3(1867)年、ということは明治維新の年の1年前に生まれている。まさに明治の子であり、近代日本の文明開化の中で成長し、生きたわけである。幼少からの深い漢学的教養という台木に、西洋文学(漱石の場合は、英国文学)が接ぎ木された。「明治の精神」の悲劇的な相貌(そうぼう)は、この精神における接ぎ木から来ているが、そのような近代日本の悲劇については、明治維新から半世紀ほどたった明治44(1911)年に行った『現代日本の開化』という講演で漱石自身が鋭い認識を示している。

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そして、その1年後、明治天皇が崩御し、乃木大将が殉死するのである。近代人・漱石は、それまで近代人のエゴイズムの問題を鋭くえぐり出していたが、ここで深い衝撃を受け、乃木大将の殉死が象徴する、いわば前近代の精神に「覚醒」したのである。単に前近代の精神というよりも、日本的精神の基層にある何か、といった方がいいかもしれない。この「覚醒」が表現されているものとして、『こころ』のこの一節は、極めて貴重であり、今日の、そして今後の日本人の精神に訴えるものであり得ているのではないか。

≪忘れ果てていた大いなるもの≫

 このような「覚醒」は、明治の文豪として並び立つ森鴎外にも起こった。これが、2人の文豪に起きたということは、乃木大将の殉死が日本人にとっていかに深い意味を持っているかを表している。

 近代人・鴎外も、奇しくも『現代日本の開化』の次の年に発表した『かのように』という作品で、世界と人間の価値は、ある「かのように」あると語っていた。絶対的なものの見方ではなく、相対的な見方であり、絶対的なものがある「かのように」考えるのである。その鴎外が乃木大将の殉死に衝撃を受け、武士の殉死を描いた歴史小説『興津弥五右衛門の遺書』を書いた。それから、鴎外は近代の日本から離れ、前近代のことを書くようになっていく。

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この漱石と鴎外という2人の近代日本の文豪の精神に起きた「覚醒」は、今日の日本人にとって何か大きな示唆を与えているのではないか。明治維新以来の文明開化の中に生きた2人は、50歳くらいになったとき、乃木大将の殉死という事件に邂逅(かいこう)した。そして、自分の精神の基層にあった日本的精神の何かが噴き出したのである。

 21世紀の日本人も戦後七十余年という更なる文明開化の中に生きて、何か大いなるものを忘れ果てていた。今や、そのことに気がつかされ、日本人の精神の再生が深いところから起きてくる時代になってきたのではないか。(しんぽ ゆうじ)