2016/11/04

南原繁 - Wikipedia

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南原繁

南原 繁
(なんばら しげる)
人物情報
全名南原 繁
(なんばら しげる)
生誕1889年9月5日
大日本帝国の旗 大日本帝国 香川県大内郡
(現:東かがわ市
死没1974年5月19日(満84歳没)
学問
時代20世紀大正 - 昭和
研究分野政治学
研究機関東京帝国大学
影響を
与えた人物
丸山眞男
福田歓一
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南原 繁(なんばら しげる、1889年明治22年〉9月5日 - 1974年昭和49年〉5月19日)は、日本政治学者東京帝国大学総長を務めた。東京大学名誉教授

略年譜[ソースを編集]

9月5日 - 香川県大内郡南野村(現在の東かがわ市南野)に婿養子の父・三好貞吉、母・南原きくの次男として生まれる。南原家は母・きくの何代か前の甚左衛門が同村南野小井楠家から分家、屋号岸野屋と称し製糖業を営む。祖父・松蔵は組頭役を務めたが、母・きくの幼時にいたり家運傾き和裁の師匠をして生計を立てる。明治の初めまでを楠と称したが本家とともに南原(訓はみなみはら。のち、なんばらとなる)と改め、婿養子を迎えた。しかし、繁の幼少時に最初の婿養子であった実父が出奔、母は2歳の繁を戸主として届け出る。
- 広瀬藤太郎、養父としてきくと結婚。
4月 - 香川県大川郡教員養成所に入所。
3月 - 香川県立大川中学(現・香川県立三本松高等学校)卒業。
6月 - 第一高等学校卒業。
7月 - 東京帝国大学法学部政治学科に入学する。入学後、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者であった。一高に入学したときの校長は新渡戸稲造であり、影響を受けた。
7月 - 東京帝国大学法学部政治学科卒業後内務省入省。
3月 - 富山県射水郡郡長に任ぜられる。
1月 - 内務省警保局事務官に任じられる。労働組合法の草案作成などを手がける。
5月 - 内務省を辞め、東京帝国大学法学部助教授に就任。内務省時代、アテネ・フランセフランス語を学んでいた。ヨーロッパ留学を経て、小野塚喜平次の後任として、政治学史を担当。
8月 - 教授となり、政治学史を担当。西欧の政治哲学とキリスト教をバックボーンに共同体論を深め、その研究は、1942年(昭和17年)『国家と宗教――ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店、1942年)、『フィヒテの政治哲学』(1959年、岩波書店)に結実する。福田歓一(政治学史)、丸山眞男(日本政治思想史)は彼の教え子である。
3月 - 東京帝国大学法学部長に就任。高木八尺田中耕太郎末延三次我妻栄岡義武鈴木竹雄とともに終戦工作に携わるが失敗に終わり、敗戦を迎える。
12月 - 東京帝国大学総長に就任。
2月11日 - 紀元節には日の丸をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化の創造」を説く。
3月 - 貴族院議員に勅撰( - 1947年5月)。単独講和を主張した当時の内閣総理大臣吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となった。このことで、南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判された。
12月 - 貴族院において、象徴天皇制への移行へ伴う皇室典範改正にともない、「天皇の自発的退位」の規定を設けることを主張。これは南原が昭和天皇の退位を望んでいたためだが、反対多数で否決された。
3月 - 退官。その後学士会理事長、日本学士院院長などを歴任。アララギ派歌人としても知られ、歌集『形相』がある。
5月19日 - 死去。

著作[ソースを編集]

1954年
  • 『国家と宗教 ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店、1942年/改訂版・岩波文庫、2014年9月)
  • 『學問・教養・信仰』(近藤書店、1946年) 
  • 歌集 形相』(創元社、1948年/岩波文庫、1984年7月、解説氷上英廣) ISBN 4003316711
    • 復刻版 (図書月販、1968年/ほるぷ出版、1975年)
  • 『日本とアメリカ』(朝日新聞社、1950年)
  • 『人間と政治』(岩波新書、1953年)
  • 『フィヒテの政治哲学』(岩波書店、1959年)
  • 『自由と国家の理念―政治哲学論文集』(青林書院、1959年、新版1965年)
  • 『政治理論史』(東京大学出版会、1962年/新装版2007年) ISBN 4130301454
  • 『現代の政治と思想 新しい歴史の転機に立って』(東京大学出版会、1963年)
  • 『日本の理想』(岩波書店、1964年)
  • 『文化と国家』 (東京大学出版会、〈上・下〉 1968年/新装版〈全1冊〉 2007年) ISBN 4130010050
  • 『歴史をつくるもの』(東京大学出版会、1969年)
  • 『南原繁書簡集 付・南原繁宛書簡』(岩波書店、1987年) ISBN 4000015354
  • 『政治哲学序説』(岩波書店、1988年、復刊1993年) ISBN 4000011855-著作集「第5巻」
  • 聞き書 南原繁回顧録』 (丸山真男・福田歓一編、東京大学出版会、1989年) ISBN 413033039X
  • 日本平和論大系13 南原繁』 (家永三郎責任編集、日本図書センター、1994年) ISBN 4820571540 
  • 人間の記録70 南原繁 ふるさと』日本図書センター、1998年) ISBN 4820543156
  • 『南原繁対話 民族と教育』 (東京大学出版会、2001年) ISBN 4130030043
  • 『わが歩みし道 南原繁 ふるさとに語る』(同刊行委員会編、東京大学出版会、2004年) ISBN 4130330497 

著作集[ソースを編集]

  • 南原繁著作集 (全10巻)』 (丸山真男・福田歓一編、岩波書店、1972-73年、復刊1984年、2006年)
  1. 『国家と宗教』
  2. 『フィヒテの政治哲学』
  3. 『自由と国家の理念』
  4. 『政治理論史』
  5. 『政治哲学序説』
  6. 『学問・教養・信仰、歌集形相』
  7. 『文化と国家』
  8. 『現代の政治と思想-新しい歴史の転機に立って、小野塚喜平次-総長時代と晩年』
  9. 『日本の理想』
  10. 『歴史をつくるもの』

栄典[ソースを編集]

関連項目[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]

新渡戸稲造の愛国心を曲説する空想的平和主義の学者(『祖国と青年』平成18年7月号掲載) - 日本協議会理事長 多久善郎 ブログ

新渡戸稲造の愛国心を曲説する空想的平和主義の学者(『祖国と青年』平成18年7月号掲載) - 日本協議会理事長 多久善郎 ブログ



新渡戸稲造の愛国心を曲説する空想的平和主義の学者(『祖国と青年』平成18年7月号掲載)

2006-07-11 17:24:11 | 【連載】 日本の誇り復活 その戦ひと精神
 日本会議の国民運動セミナーの講師として宮城・福島を訪れた際、岩手県盛岡市まで足を伸ばして新渡戸稲造会総会に参加した。私は、新渡戸の人徳を慕ふが故に、地道に新渡戸に関する研究書・啓蒙書を出されてゐる同会に加入してゐる。

 総会では、新渡戸研究第一人者の佐藤全弘氏(大阪市立大学名誉教授)による「愛国心と国際心―新渡戸稲造の国家観」といふ興味深い講演があつた。だが、佐藤氏の講演には失望感を抱かざるを得なかつた。佐藤氏は、今回のテーマを選んだ理由に、現在の教育基本法改正に見る愛国心教育の押し付けがある事を述べ、冒頭に川柳「君ケ代へ立たねば非国民ですか」「国なんぞ当てにはせぬが腹が立ち」「国境を知らぬ草の実こぼれ合ひ」を紹介された。更に講演の最後にも川柳で「どの国の母にもつらい銃の音」「鉄砲をもつからいくさしたくなり」「新政権変えてはならぬものも変え」と内閣の教育基本法や憲法改正の動きを批判された自らの政治主張の為に新渡戸稲造を引用するといふ牽強付会の講演であつた。

 佐藤氏は、新渡戸稲造の『編集余禄』の中の「憂国(マトリオティズム)」(全集二十巻))の文章を引用して、父性的な「パトリオティズム」の「愛国心」には、他を攻撃する危険な要素が含まれる為に、新渡戸はそれを否定し、母性的な「マトリオティズム」即ち「憂国心」を唱へたのだと強調された。だが、引用された文章をじつくり読んでいくと、決して二者択一で論じられてはゐない。新渡戸は、憂国心は「わが国語でアイコクシン―国を愛する心―と訳されるパトリオティズムの一面を示していることは言うまでもない」と前提した上で、「明治以前の時代の愛国者は自らを国の為に嘆く者と称し、国を愛する者とは呼ばなかった。」「己が国を愛する人は、その罪や欠点すらも愛するであろうが、それにひきかえ、己が国を悲しむ(ウレイ)人は、その罪と欠点のゆえに憂うるのである。」と述べてゐる。これは決して愛国心否定の文章ではない。当時(昭和六年)の世相を憂へて、「愛国心」の排他的な側面に警鐘を鳴らし、別の側面であり本質的な「憂国」の情の大切さを訴えてゐるのである。

 更に佐藤氏は、新渡戸稲造の「愛国心と国際心」(全集二十巻)や「日本人の国民的特徴」(全集十九巻『日本文化の講義』)の文章も紹介されてゐたが、共に愛国心についての否定は見られない。新渡戸は言ふ。「国際心は愛国心を拡大したものである。」「真の愛国者にして国際心の持ち主とは、自国と自国民の偉大とその使命とを信じ、かつ自分の国は人類の平和と福祉に貢献しうると信じる人である。」「国際心を抱こうとする人は。まず自分の足で祖国の大地にしっかりと根を下さねばならない。」「愛国心の正反対のものは、国際心ではなくて、好戦的愛国主義(ショウビニズム)である。そして、国際主義の正反対のものは、愛国心ではなくて、空想的な世界主義である。」と。

 新渡戸稲造が国際連盟事務局次長としてジュネーブで活躍した時の事を回顧して記したものに『東西相触れて』といふ書物がある。この中で新渡戸は自国を背負つて国際会議の場に臨む愛国者達の事を感動を以て記してゐる。オーストリアの総理大臣ザイペル氏の祖国の命運を担ふ演説を聞いて新渡戸は、「口先の人ではない、その唇を通して出る言葉は一言一句、血を吐く如き趣があつた。之を聞いて我輩は覚えず胸がつまる心地して会場を逃げ出し、自分の室に走り帰つて暫く眼を休めてゐた。」と記し、その文章に「報国の丹心と斯くの如きものか」と題した。国家を背負ふ愛国の至情に鋭敏に共鳴する魂の持ち主が新渡戸稲造であつた。カナダ人宣教師のベイツ博士は、「新渡戸博士逝く」の文章の中で「博士は、およそ祖国に加えられた中傷や不正には、すぐさま憤りを発し、怒りを燃やす心をもっておられた。」と述べてゐる。(『現代に生きる新渡戸稲造』)

 佐藤氏は、新渡戸稲造が1929年に「英文大阪毎日」に記した「日本の国際協力」といふ社説を引用して、現代日本のイラク復興支援などの国際協力が自発的でない事を批判されたが、新渡戸はこの文章の中でも「日本が平和の側に立つだけでは十分でない。日本は平和を自国の寝床としてはならぬ。日本は平和のために働かねばならぬ。」と国際協力の必要性を訴えてゐる。六月初旬に私は、この二月にイラク復興支援から帰国された自衛隊の責任者方のお話を聞く機会があつた。その方は、自衛隊のイラク撤収問題について、「自衛隊は日本政府のイラク復興支援の命を受けて派遣され、地元の人々からも大きな評価を得た。イラクからの撤収を云々する前に、日本国が今後イラクに対して如何なる支援を行つていくのかといふ国家意思の表明が先ずあるべきだと思ふ。」と毅然として語られた。実際イラクで生命を賭して活動して来られた方の言葉には迫力があつた。それに比して「平和を自国の寝床」としてゐる佐藤氏の様な「九条」信奉者には、国際協力について語る資格さえないと思ふ。

 私は、新渡戸稲造の研究者になるつもりはない、だが新渡戸稲造の人格と生き方に感動を覚えるが故に新渡戸稲造の如く生きたいと願ふのである。その為に、新渡戸が記した文章を機会ある毎に読み、自らの生き方を省みてゐる。知的探求と人格的探求とは全く違ふ結果を生み出す。明治という国家勃興の気概溢れる時代に青春を生きた新渡戸稲造の心の中には、現代に生きる我々には想像も及ばない程の沸沸たる愛国心が燃え盛つてゐたのである。そこに自らの生き方を昇華せんとの努力なき文献研究は魂無き訓詁学にすぎない。新渡戸稲造は最晩年、昭和天皇の命を受けて満州事変後の日本の孤立を打開すべく渡米し、一年間に亘る講演旅行を行つてゐる。新渡戸の最後の言葉は「まだ死ぬ訳にはいかない。祖国への奉仕が終はつてしまふまでは死ぬ訳にはいかないのだ。」といふものであつたといふ。佐藤氏には、かくの如き祖国に捧げる人生の覚悟があるのかを問ひたい。

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1 コメント

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先生のご意見に同感 (波田野 毅)
2006-07-26 11:59:21
多久先生の貴重なご意見を拝見させていただきました。私も同様に感じます。

新渡戸稲造は私も好きで、日本のために働いた逸材と思っております。(五千円札も樋口一葉より新渡戸稲造のほうがよかった・・)

武士道を書きルーズベルトの心を動かし日露戦争に大きな役割をはたした。ウィットもあり、ある会合の帰り帰り、雨が降っていたのでキューリー婦人が「国際連盟の力で雨を止めさせられませんか」といわれ、「国際連盟は馬鹿者を相手に血の雨を止めるだけはしますが、空の雨は科学の力を待たねばなりません」と述べた。婦人は「本当にそうだ。戦争ほど愚かなことはない」といい平和論をのべだしたという。(東西相触れて)私はキューリー夫人とのそこはかとないやり取りのこの話が好きですが、そのような人を、自分の信条を述べるために公の前で利用するのはいただけないと思います。

「愛国心」の対極は「好戦的愛国心」との話、同感です。今更軍国主義に行こうとする人が実際問題として誰がいましょうか。平和が一番と皆思っています。「国を愛すること」を右翼主義的な狭義なまたは軍国主義的な考えである、という何となくの漠然とした見方で見るのではなく、正面から向き合ってもらいたいと思います。

学者は、人の役に立たない机上の研究ではなく、人の役に立つ実学こそすべきであると思います。でなければ、何のための学問なのかと私は思います。何の研究もして良いでしょうが、世のため人のためにこれがどう役立つかを考えること、この一点は絶対欠くべからざる教職者の要件と存じます。



今後とも先生が日本のためにご活躍されることをお祈りいたします。



日本論史研究家  波田野 毅

(日本の息吹に連載・妻も済々黌高校出身)

高木八尺 - Wikipedia

高木八尺 - Wikipedia

高木八尺

日本の旗 日本の政治家
高木 八尺
たかぎ やさか
生年月日1889年12月25日
出生地東京府
没年月日1984年4月28日(満94歳没)
出身校東京帝国大学卒業
前職東京帝国大学法学部教授
現職東京大学法学部名誉教授
称号従三位
勲一等瑞宝章
法学士(東京帝国大学・1915年
文化功労者
親族神田孝平(養祖父)
神田乃武(父)

日本の旗 貴族院議員
選挙区貴族院勅選議員
在任期間1946年9月18日 - 1947年5月3日
テンプレートを表示
高木 八尺(たかぎ やさか、1889年12月25日 - 1984年4月28日)は、日本政治学者、アメリカ研究者、政治家位階従三位勲等勲一等東京大学名誉教授日本学士院会員。
東京帝国大学教授太平洋問題調査会常任理事、貴族院議員、東京大学教授などを歴任した。

来歴[編集]

英学者・神田乃武の子として東京に生まれる。一高1915年、東京帝国大学卒業新渡戸稲造内村鑑三の影響を受ける。1918年、母校で米国憲法・歴史及び外交講座の初代担当者となり、1933年 東京大学法学博士 「米国政治史序説 」。1938年、教授に就任。定年となる1950年まで米国政治史などを教えた。
戦前は太平洋問題調査会常任理事。木戸幸一と学習院で同級であり、日米開戦前には、戦争回避の為近衛文麿フランクリン・ルーズベルトの会談の実現に努め、ジョセフ・グルー駐日大使に自制を求める手紙を出したりした。1946年には貴族院議員。戦後の駐日大使エドウィン・ライシャワーとも親しく、アメリカ学会を創設し、国際文化会館を設立した。1948年日本学士院会員。1965年アメリカ歴史学会名誉会員。1965年、賜銀杯一組(第三号)。1967年文化功労者。1984年、叙従三位、叙勲一等授瑞宝章。アメリカ研究者には教えを受けたものが多い。

人物[編集]

実父である神田乃武は英語学者として知られ、帝国大学文科大学教授を経て東京外国語学校校長を務めるとともに、貴族院議員などを歴任した。乃武の養父である神田孝平は、兵庫県令元老院議官などを歴任した政治家である。八尺の実弟である神田盾夫言語学者であり、八尺と同じく東京大学教授として教鞭を執った。アメリカ文学者の斎藤光女婿であり、やはり東京大学の教授を務めた。

著書[編集]

  • 米国政治史序説 有斐閣、1931
  • 米国東洋政策の史的考察 岩波書店、1942
  • 米国憲法略義 有斐閣、1947
  • 現代米国の研究 有斐閣、1948
  • アメリカ 明善書房、1948
  • 米国政治史の研究 岩波書店、1950
  • 近代アメリカ政治史 岩波書店、1957
  • 民主主義の精神 東京大学出版会、1962
  • 新渡戸稲造先生の平和思想と実践 基督友会日本年会、1963
  • 高木八尺著作集 全5巻 東京大学出版会、1970-1971

翻訳の一部[編集]