2016/10/20

今なぜ新渡戸稲造の武士道なのか | 神田嘉延 研究室

今なぜ新渡戸稲造の武士道なのか | 神田嘉延 研究室

今なぜ新渡戸稲造の武士道なのか

 今なぜ新渡戸稲造の武士道なのか
神田 嘉延
        
 実践的な倫理体系の武士道
 新渡戸は、朱子学的な儒学思想からではなく、陽明学の知行合一の実践的な個人の人格の成長、倫理の形成を武士道の基本原理として重視した。この意味からの西郷隆盛を典型的な武士とみたのである。新渡戸が西郷隆盛を典型的な武士とみたのは興味あることである。西郷は明治維新で活躍し、新政厚生徳の旗を掲げた西南戦争で命を落とした。新渡戸の武士道の理解をしていくうえで、西郷の生き方をみていくことは大切なことである。
 西南戦争では大分からも多くの旧武士が参加している。その典型が、福沢諭吉のふるさとの中津からは、百余名が参戦した増田宋太郎のつくった「共憂社」の存在も大分から武士道を考えていくうえで、必要なことである。共憂社のメンバーを中心にした中津隊は、西郷へと進軍した。この決起に呼応して、県北一帯に約2万人参加の農民一揆が起きる。福沢諭吉は西南戦争の鎮定後に「丁丑公論」で政府の専制をほうっておけば、際限あることなしとして、これを防ぐ術は、抵抗する一法あるのみと、西南戦争に起ち上がった西郷を抵抗の精神と書いたが、厳しい言論統制のなかで、公表されたのは死後である。
 新渡戸の「武士道」は、日本人のもっている精神を国際的に紹介するためであった。このために、キリスト教との比較を含めて欧米人にも理解できるように書かれたものである。新渡戸はアメリカ滞在中に 武士道を英語で書いて出版した。

 新渡戸稲造とはどんな人であったのか。
 陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)に、盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれる。13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の東京大学)に入学する。そして、その後に、札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学する
 札幌農学校で教鞭をとっていたクラーク博士の影響のあった4人組と共に入学する。四人組みは、岩崎、内村、宮部であり、東京の英語学校以来の親友である。岩崎は鹿児島大学の前身のひとつになった第7高等学校造士館の初代の館長である。
 新渡戸は札幌農学校でキリスト教の洗礼をうける。農学校卒業後、級友達とともに道庁に就職した。そこで、畑の作物を食い散らすイナゴの大群を退治するために各地の農村を駆け巡る。学問を志して東京帝国大学に進学する。しかし当時の農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学する。新渡戸は、キリスト教のなかでもクエーカー教徒であった。クエーカーの証言は、平和、男女・民族の平等、質素な生活、個人が誠実であり続けることである。
 1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学する。この頃に新渡戸稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学する。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。
 クェーカーたちとの親交を通してメアリー・エルキントンと出会い、1891年(明治24)に、国際結婚をする。日本に帰国して、札幌農学校教授に任命される。
 新渡戸稲造は世界平和のために尽力した人であり、地域振興の発展のために実践的に農学を研究した学者でもあり、青年達に未来を託す教育者でもあった。
 新渡戸は、台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命される。台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した。
 1909年(明治42年)、新渡戸の音頭取りで、「郷土会」が発足した。自主的に自由な立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを狙いとしたものである。
 1911年、1932年と、アメリカと日本の関係悪化のときに、日本政府から正式に派遣される。1919年から日本政府代表として、国際連盟の仕事に7年間就く。1933年2月に日本は国際連盟を脱退する。新渡戸は、国際人として国際連盟事務次長を勤める。1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長に選ばれる。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職した。新渡戸の国際連盟の仕事で尽力したことに、国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めた。しかし、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。
 太平洋問題理事長として渡米して、アメリカの各地で講演し、両国の親善に尽くす。しかし、日本政府は国際連盟の脱退により、国際的孤立をする。新渡戸稲造は体調がすぐれないなかで、国際連盟脱退の年、8月にカナダで平和の望みを捨てず日本側代表として演説する。1ケ月後病に倒れてカナダのビクトリアで死亡(71歳)する。
 教育者・社会運動家としての新渡戸稲造の側面は大きい。札幌農学校、第1高等学校、東京大学、京都大学で教授、校長として教育にあたる。札幌農学校では、学校教育を受けられない青年を対象に勤労者の夜間学校を札幌の豊平の貧困地帯につくる。
 東京女子大学の初代の学長として、女子教育に尽力する。郷里岩手の産業組合の指導を引き受ける。また、加川豊彦とともに、医療協同組合運動を若い医師とともにつくる。日本を滅ぼすのは軍閥ということで、軍国主義に警戒する。

 新渡戸稲造の武士道の内容
 義とはなにかー武士道の光
り輝く最高の支柱

 義は勇と並ぶ武士道の双生児である。「義」は、武士道の光輝く最高の支柱である。正義の道理は絶対的な命令である。ここで、正義とはなにかということを深く考えることが必要である。武士が重んじることは節義なりというが、節義は人の体でいえば骨のようなもので、骨なければ首も正しく上にあることができず、手もとることもできず足を立つこともできない。学問ありても節義なければ世にたつことができない。
 義とは人が失われた楽園を再び手中にするためのものである。悪辣な陰謀が軍事的策略として、まっかな嘘が謀略としてまかりとっていた時代に、正義を考えた徳である。それは、素直で、正直な、男らしい徳はもっとも光り輝く宝であり、行動することによって、まさにその精神は認められたのである。
 正義とは人間としてのあたりまえの嘘をつかない、人を騙さない、弱い者をいじめないという人間としての温かい慈愛の精神をもって生きる道である。
 現代は、国際化という名のもとに世界的規模で弱肉強食の競争社会が蔓延しているなかで、人を騙したり、嘘をついたり、相手を蹴落とすために謀略を施したりする社会的風潮が強くなっている。現実は、残酷に人を平気でいためつけたりする世相がみえるなかで、人間としてのあたりまえの節義をもって生きることがどんなに大切な時代であるのか。この時代に生きるなかで日本人としての正義のあり方を考えるうえで武士道から学ぶことは大きい。子どものなかさえもいじめの問題が深刻になり、自殺者がでるほどである。節義を重んじる、正義で生きるという言葉は、教育の世界にとっても重要である。現代の青少年教育のなかで、正義ということは、「ださい」「あほらしい」「くそまじめ」と思われることで、なかなか真剣に考える機会が失われている。これは、現代の世相のなかで、教育者自身が、道徳退廃に犯されている側面をみたときに、若者が発する言葉である。

     礼儀作法は、ある一定の結果を達成するための、もっとも適切な方法を長い年月にわたって実験してきたことの結果である
 何かなすべきことがあるとすれば、それをなすための最善のやり方がきっと存在するはずである。そして最善の方法とは、一番無駄がなく、もっとも奥ゆかしいものである。礼儀を守るための道徳的な訓練が必要である。優雅な作法は、力を内に蓄えさせるというのが新渡戸の主張である。
 奥ゆかしさは、無駄を省いたやり方であるとすれば、優雅な作法を絶えず実践することは余分な力を内に蓄えるにちがいない。立派な作法は、休止状態にある力を意味する。礼法を通じてほんとうに高い精神的な境地に達することができるのであろうかと新渡戸は問い、精神的修養のひとつの大成として、茶の湯の作法をあげる。
 茶の湯の基本である心の静けさ、感情の穏やかさ、落ち着いた立ち振る舞いは、まっとうな思考と率直な感情の第一条件である。礼儀は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによってものごとを行うので、いつも優美な感受性として表れる。礼の必要条とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。このような教訓的必要条件はそれが日常生活の細々とした点に及ぶとき、人の注意をあまりひかない繊細な行為の中に表れる。新渡戸は、以上のように、礼儀は優美な感受性であり、慈愛と謙遜の他人にたいする優しい感情によって行うものであると。
 
  名誉とは、苦痛と試練に耐えうるために存在する
誉という感覚は個人の尊厳とあざやかな価値の意識を含んでいる。

 名誉は武士階級の義務と特権を重んじるように幼児のときから教え込まれたと新渡戸はみる。過ちを犯した少年の振る舞いに「人にわらわれるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」と言われる。羞恥心は人類の道徳意識の出発点であると新渡戸稲造は考える。名誉の繊細な掟がおちいりがちな馬鹿げた恥を知るという感情、病的な行き過ぎの感情が起きるが、その克服には、寛容と忍耐を説くことによってはっきりと相殺される。
徳川家康の言葉である「人の一生は重荷を負うて行くが如し。急ぐべからず。堪忍は無事長久の基。・・・・。己を責めて人を責むるばからず」と新渡戸は紹介し、この言葉の大切をのべている。さらに、西郷南州の敬天愛人の言葉を引用している。
 名誉はこの世で最高の善であるというのが新渡戸の主張である。名誉は境遇から生じるものではなく、自己の役割をまっとうに努めることにあるのだ。若者に追求しなければならない目標は冨や知識ではなく、名誉である。多くの若者が敷居を超えるとき、世に出て名を成すまでは二度とまたがないと自分自身に誓ったものである。多くの母親は息子達が錦を飾るということばどおりに故郷に帰るまで再会を拒んだ。
 恥となることを避け、名を勝ち取るためにサムライの息子はいかなる貧困も甘受し、肉体的、あるいは精神的苦痛のもとに厳しい試練に耐えたのである。彼らは、若いときに勝ち得た名誉は年がなつにつれて大きく成長することを知っていた。新渡戸は。以上のように名誉を勝ち取っていくことは、若者成長にとって大切なことであるとするのである。
 名誉という言葉は、広く若者が誇りをもつということにみてほしい。名誉の意味を権力志向と結び絶対的な権威による名誉心ではない。若者が成長していくうえで、自己の社会的役割、自己のもっている個性を社会にみつめていくことであり、それは、自我の形成においても大切な課題である。
 JUGEMテーマ:学問・学校

教員紹介(中野 泰治)|教育・研究|同志社大学 神学部/神学研究科

教員紹介(中野 泰治)|教育・研究|同志社大学 神学部/神学研究科

中野 泰治(Nakano Yasuharu)<准教授1973年、淡路島生まれ。同志社大学神学部卒業、同大学院神学研究科博士前期課程修了、バーミンガム大学にてPhDを取得。専門は近現代の英米のキリスト教史、およびクエーカー(フレンド派)の歴史・思想研究。17世紀半ばから現代までのクエーカー神学における「自己」概念の変遷を辿り、20世紀以来の自由主義クエーカーの思想的特性を分析。また現在は、英米を中心とする英語圏のキリスト教における自由主義の歴史的発展と現状、その可能性と限界について「自己」と「共同体」という視点から研究している。論文には、「クエーカーの普遍贖罪論における自由意志の問題―R. バークレーのApology(『弁明』)を中心に―」(『基督教研究』、2005年)、’Elizabeth Bathurst’s Soteriology and a List of Corrections in Several Editions of Her Works’, Quaker Studies, 2008、「クエーカー研究における新ヘーゲル主義的前提について―self概念を巡るBarclay神学の評価―」(『ピューリタニズム研究』、2012年)などがある。


CiNii 論文 -  現代クエーカーの平和思想とその課題

CiNii 論文 -  現代クエーカーの平和思想とその課題



現代クエーカーの平和思想とその課題

Modern Quaker Pacifism and its Problems

中野 泰治



ナカノ ヤスハル

Nakano Yasuharu

この論文にアクセスする

----



NDL-OPAC

CiNii Books

抄録



講演(Lecture)本講演では、自由主義神学の影響下にある現代クエーカーの平和思想の特徴を明らかにし、ラインホールド・ニーバーが厳しく批判した平和を巡る神学的な問題点(それは依然としてクエーカーの平和主義者たちが陥っている問題点でもある)について分析する。自由主義クエーカーは、神の働きかけとしての「内なる光」を人間の理性・意識・良心の働きと同一視し、人間の本性を神的なもの、無垢なものと考えることで、神と人間の緊張関係を弱め、人間存在の限界に関する深い洞察を見失ってしまった。結果として、クエーカーの平和主義は、異質性、差異性を前提とする自己-他者関係を単なる計算可能性、操作可能性の領域へと還元してしまい、平和主義の名の下に非暴力を力として利用する(集団)心理学的ストラテジーになってしまっている状況がある。



The aim of this public lecture is to clarify the characteristics of modern Quaker pacifism under the influence of Liberalism and to analyze its theological positions that Reinhold Niebuhr harshly criticized, and which some present-day Quaker pacifists still hold. What I show in the lecture is that liberal Quakers have considered human nature to be divine and innocent, breaking the tension between God and man and ignoring the deep dimensions of human existential limitations. Furthermore, their pacifist stance ends in returning the unbridgeable gap between oneself and others to the mere realm of calculability or controllability. Consequently, Quaker pacifism becomes nothing more than a (group-) psychological strategy to violently use nonviolence.

[ 広井勇&八田與一 ] ボーイズ・ビー・アンビシャス

[ 広井勇&八田與一 ] | GAIA - 楽天ブログ



2016年10月18日
楽天プロフィール XML
後書き(第一集二刷にあたって)
 二刷にあたって、○○所長と○○大学名誉教授に感謝します。第一集の二刷はお二人の励ましと支援により刊行できました。
本集の初版には「第一集」の表示はありません。当初「シリーズ」の構想はなく、札幌農学校第二期生、宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造・広井勇の四人の交流と成長を手紙や日記など史料で明らかにするため刊行しました。続編「米欧留学篇」を作成し、○○所長に差し上げたところ「続編を期待します」とコメントを頂き、始めてシリーズ化を意識しました。そこで新渡戸稲造の「留学談」「帰雁の蘆」を収録したものを「第三集」として刊行し、「広井勇と青山士」(第四集)、「内村鑑三神と共なる闘い」(第五集)と刊行しました。本シリーズには一般に入手困難または世に知られていない資料を収録しています。第一集に収録の「廣井勇君之小伝」は「札幌同窓会第五十回」(昭和三年十二月)に収録され、「報告別刷」が北海道立図書館に収蔵されています。道立図書館から資料を入手し載録しましたが、第一集作成当時その後半は省略しました。二〇一六年始め○○所長が○○先生に第四集「広井勇と青山士」を渡され、○○先生は廣井博士を尊敬され、広井博士と青山技師の功績を「紳士の工学」として讃えた「第四集」を評価していただき、先生の講義でテキストとして使って頂きました。感謝します。広井博士と青木技師の功績を世に広めたいという思いから第四集「広井勇と青山士」は生れました。そこで第一集二刷を刊行するにあたって「廣井勇君之小伝」について全文を収録した次第です。
二〇一六年四月一五日、○○センターにおいて、お二人の先生と懇談しました。その折、○○先生から「青山技師に注目されたのは、八田與一からですか」と質問を受けました。「内村鑑三からです。内村は『代表的日本人』で、二宮尊徳を取り上げ、農業聖人として世界に紹介し、『後世への最大遺物』においても「報徳記」はキリスト教の『バイブル』を読むような考えがすると評価しています。明治以降、二宮尊徳を正しく理解し、世界に広めたのは内村鑑三です。第一集の資料編冒頭に内村の『予が見たる二宮尊徳翁』を収録したのはこのためです。その後、台湾製糖株式会社初代社長鈴木藤三郎を調べるなかで、台湾の烏山頭ダムを建設した八田與一を知り、八田の恩師が札幌農学校出身の広井博士で、八田はパナマ運河建設に携わった青山士技師を尊敬していたことを知りました」と答えました。第四集は当初、広井勇を主題として作成しました。鈴木藤三郎の曽孫○○氏に序文をお願いしたところ「余談:パナマ運河建設時の、唯一の日本人技師、青山士も廣井勇門下です」と青山士についてコメントをいただきました。そこで「余談 青山士」として関連資料を整理し、登載したところ、全体の三分の一を青山士が占めたため、第四集の副題を「紳士の工学の系譜」としました。青山技師は荒川放水路の建設、信濃川大河津分水路の改修工事で功績があるだけでなく、土木学会の「土木技術者の信条および実践要綱」に「人類の福祉増進に貢献しなければならない」と規定しました。また大河津分水堰の記念碑には「人類ノ為メ國ノ為メ」と刻んであります。そのノーブル(高貴)な精神は広井博士、ひいては札幌農学校精神に由来します。
「ボーイズ・ビー・アンビシャス」を作成した目的は、第一集表紙に掲げた「いかにしてボーイズ・ビー・アンビシャスは現実化されたのか」と「日本の近代化合理化の一源流札幌農学校精神」を解明するためです。第一集の表紙には札幌農学校の生徒時代の宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造・広井勇の写真を載せました。また裏表紙には五〇年後のそれぞれ思想・教育・学問の世界で「代表的日本人」となった四人の写真を掲げました。彼らはどのようにしてボーイズ・ビー・アンビシャスを現実化できたのかという本シリーズのテーマを表したものです。
マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、近代資本主義の精神は禁欲的プロテスタンティズムの倫理から生れたものであると論証し、それは西欧特有の現象であるとしました。しかし、「プロテスタンティズムの倫理」はクラーク先生を通じて札幌農学校に直接に伝わり、内村鑑三や新渡戸稲造ら札幌農学校出身者によって、日本全国に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と「ビー・ジェントルマン」が広まりした。工学の世界でも「紳士の工学」は継承されました。「札幌農学校精神」は日本の近代化合理化の一源流であるとともに、「人類のため」というノーブル(高貴)な精神を日本にもたらしました。そして戦後日本における民主化の基盤ともなりました。
「ボーイズ・ビー・アンビシャス」とは、高いビジョンを懐き、その実現のため努力し続けることをいいます。内村鑑三は北海道大学における講演で、「エマソンの言葉に'Hitch your wheels to the star' (なんじの車を星につなげ)というのがあるが、これは「望みを高くいだけ」ということで、クラーク先生が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と平易に言ったことを詩的に言い表したのであって、全く同精神に出ている」と説明しました。「諸君よ、諸君もまた今の時代に諸君の車を星につなぐべきである」「私はクラーク先生に代わって、もう一度、諸君に向かって叫ぶ・・・ボーイズ・ビー・アンビシャス!」(一九二三年一月『聖書之研究』)
「ビー・ジェントルマン」は、自らを常にノーブル(高貴)たるように律し続けるところにあります。
 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」「ビー・ジェントルマン」という札幌農学校精神が、後の世代に継承されることを願って本集を刊行します。 
平成二八年十月○○日 





TWITTER
楽天SocialNewsに投稿!
楽天プロフィール

最終更新日  2016年10月18日 01時09分54秒 



ボーイズ・ビー・アンビシャス第一集 目次
プロローグ                     2
第1編 コラム Ⅰ クラーク精神
1 クラークのBoys be ambitiousの現実化の秘密   4
2 いかにしてピューリタニズムは札幌に伝わりしか  6
3 クラーク先生 2つのB             8
4 佐藤昌介「クラーク先生を語る」         10
5 「イエスを信ずる者の契約」と二期生の信仰    12
6 札幌農学校の「イエスを信ずる者」の3つの特徴  14
7 クラークの手紙-札幌農学校生徒との往復書簡-1  16
8 札幌農学校の功労者佐藤昌介と新渡戸稲造     18
9 クラークの手紙-札幌農学校生徒との往復書簡-2 20
10 内村鑑三「クラーク先生を語る」         22
11 なぜ、第三期生に「信ずる者」は出なかったのか? 24
12 誓約書(pledge)と契約(Covenant)の由来    26
13 「予定の教義」と札幌農学校の精神        28
14 札幌農学校の教育は欧米社会の水準以上だった   30
Ⅱ札幌三人組(宮部・内村・新渡戸)と広井勇(米国留学まで)
1 新渡戸稲造の母の手紙 と 母の死        32
2 新渡戸稲造とカーライルのサーター・レザータス 34
3 宮部金吾による札幌農学校の同級生の思い出 36
4 クラーク先生のピューリタニズムとは何か 38
5 二期生それぞれの親・兄弟へのキリスト教伝道 40
6 新渡戸と内村のそれぞれに対する観察評価 42
7 「札幌独立教会」誕生 独立の叫びが挙った 44
8 「札幌独立教会」と内村の札幌での日々 46
9 自然科学者、偉大な文学者としての内村鑑三 48
10 内村鑑三の文章と新渡戸・宮部の往復書簡 50
11 内村鑑三の演説「空の鳥、野の百合」 52
12 禁酒の誓約と「聖霊に満たされた絶対的禁酒」 54
13 広井勇の手紙とジェントルマンの工学の創造 56
14 札幌三人組の偕楽園の誓いとそのambitious 58
15 広井に続き三人組も渡米し、彼らを世界的にした 60
終りに 街作りには3人以上の仲間が必要です 62
第2編 資料篇 目次 64
後書き   

Ⅱ 資料編
1 予が見たる二宮尊徳翁  65
2 キリスト教の伝道師として見たるクラーク先生 69
3 開校式の黒田・クラークの式辞 74
4 イエスを信ずる者たちの契約 76
5 先師シーリー先生を憶う 78
6 黒田清隆伯逝く 79
7 クラーク先生への手紙 80
8 内村鑑三日記より抜粋 82
9 内村鑑三の手紙(抜粋) 87
10 宮部金吾・新渡戸稲造往復書簡 92
11 広井勇の手紙 114
12 内村鑑三君之小伝(抜粋) 宮部金吾 116
13 新渡戸稲造小伝  宮部金吾 123
14 広井勇君之小伝  宮部金吾   139
15 広井勇君を葬るの辞 内村鑑三 155
16 広井勇の死と内村鑑三-日記と手紙より-      160
「札幌農学校の三人組と広井勇」発刊に寄せて      163

例 言・主な参考文献
1 内村鑑三の引用および参照の原典は次の略記号による。
  日・・・『内村鑑三日記書簡全集』   信・・・同『信仰著作全集』  
2 本書の主な参考文献(宮部金吾の「小伝」のほか)
(1) クラーク・・・「北大百年史」、「札幌農黌年報」、「札幌農学校」蝦名賢造、「クラーク先生詳伝」逢坂信忢、「クラーク先生とその弟子たち」大島正健、クラーク」J.M.マキ、「クラークの手紙」佐藤昌彦他編、「クラークの一年」太田雄三
(2)宮部金吾・・・「宮部金吾(自伝)」、「書簡集より見た宮部金吾」
(3)内村鑑三・・・「内村鑑三全集」、「内村鑑三信仰・生涯・友情」山本泰次郎、
「内村鑑三伝米国留学まで」鈴木俊郎
(4)新渡戸稲造・・・「新渡戸稲造全集」、「新渡戸稲造」松隈俊子
(5)広井勇・・・「工学博士廣井勇伝」、「山に向かいて目を挙ぐ」高崎哲郎
*本書中「札幌農学校三人組と広井勇」は未刊行で、本書はその抜粋である。

アマスト大学入学の決断を伝える1885年8月31日付けの内村から新島襄への手紙 | GAIA - 楽天ブログ

アマスト大学入学の決断を伝える1885年8月31日付けの内村から新島襄への手紙 | GAIA - 楽天ブログ

この国の若い女性達に 新渡戸稲造と女子教育 : 神学・教育 : クリスチャントゥデイ

この国の若い女性達に 新渡戸稲造と女子教育 : 神学・教育 : クリスチャントゥデイ



この国の若い女性達に 新渡戸稲造と女子教育

2011年11月24日08時31分 印刷
Facebookでシェアする Twitterでシェアする
関連タグ:新渡戸稲造
東京女子大学の眞田雅子学長=18日、学士会館(東京都千代田区)で
18日、東京女子大学学長眞田雅子氏の講演会が学士会館(東京都千代田区)で開催された。同講演会は武士道講読会によって主催された。武士道講読会は、北海道大学同窓生有志が集い、新渡戸稲造の人格を学ぶために2001年2月にスタートし、現在まで118回の「武士道講読会」が開催されている。

眞田氏は「この国の若い女性達に―新渡戸先生より受け継いだものー」と題して講演を行った。講演の中で「東京女子大学に込められた新渡戸魂」に触れ、「新渡戸先生が私どもに示してくださったことは、時代を経て現代の社会にも、新しいものを示してくださっています」と述べ、新渡戸稲造が東京女子大学学長就任時に触れた教育に関する言及が今の教育にも当てはまることを指摘した。

眞田氏は東京女子大学初代学長としての新渡戸稲造と、同大学学監となった安井てつの交流について、新渡戸稲造のクエーカー教徒として教室を出る前に数分間黙とうする習慣を見て、安井てつが「教育とは実に祈りをもってなされるべきで、神聖なる仕事であると深く悟った。キリスト教は愛国の精神と相容れぬものであると固く信じていたが、教育を通して祖国に奉仕しようと一大決心したとき、有用なる教育をするには、宗教を基盤とせねばならぬと悟った。教育者は崇高なる人格の持ち主でなければならず、広い愛の持ち主でもなければならない。正義と愛を基調とするクリスチャンの生活は決して愛国の精神と矛盾するものではないことを明らかに悟った」と感じたことについて言及した。

東京女子大学初代学長として、新渡戸稲造は学生たちに「みなさん、勉強するだけでなく、卒業するまでに『キリストの心』になれ。キリストの心とは私を無くして人のためにサービス・アンド・サクリファイスすること、まず人の事を考えることである」と教えていた。眞田氏は東京女子大学に込められた「新渡戸魂」を受け継いで、現代の東京女子大学でも「キリストの心」を持つ学生を育てていきたい旨を伝え、「どこかの教会に行ってクリスチャンになって、ただクリスチャンになったというだけで『キリストの心』とは何であるかということに無頓着になってしまっては逆効果になるかもしれません。本当に『キリストの心』になるというそういう人を育てることがこの大学の目的です。新渡戸先生は東京女子大学創立当時、『この学校はご承知の通り、我が国におけるひとつの新しい試みであります』とおっしゃられました。随分前のことであるにもかかわらず、『これは今でも新しい試み、決して古いことではない』と思いました。新渡戸先生は当時、『従来我が国の教育は、とかく形式に流れやすく、知識の詰め込みに力を注ぎ、人間として、一個人の女性としての教育を軽んじ、個性の発達を重んぜず、婦人を社会しかも狭苦しき社会の一小器官と見なす傾向があるのに対して、本校においてはキリスト教の精神に基づいて個性を重んじ、世のいわゆるいと小さき者をも神の子と見なして、学問よりも人格を尊び、人材よりは人物の養成を主としたのであります』とおっしゃられました。『人材よりは人物』というのは、今どきはやらないかもしれません。人物というのは特別に優れた人を指す、人物の養成はそう簡単にできるはずもない、大げさなことを言い過ぎているのではないかという方もいらっゃいます。『人材よりは人物』に関しては物議を醸すこともあり、優れた人材を育てていくことは大事なことであり、これがだめだと言っているわけではありませんが、本当に人物としてその人に与えられている人格が育成されていくようにすることが大学の本当の目的だと思っています」と述べた。

新渡戸稲造の教育姿勢について「普通の人間のレベル、目線で話して下さったお方です。『上から目線』で何かをするのではなく、『同じ高さ』で人と人として交わってくださったお方でした」と述べ、「私心を無くし、物質的利益を超越し、名誉・地位を乗り越えることができれば、本当の勝利者となり、自分に勝つことができます。そのような精神的に深いものを獲得されていかれたのが新渡戸先生だと思います」と述べた。

眞田氏は、これからの高度教育を受けた女性が果たすべき役割として、「男性が作った世の中が世界中で音を立てて崩れようとしています。今こそ女性の出番であり、現代日本女性の役割とは、命を育む立場として、すべての人間に『人格』が備わっていることを認め、特に弱い立場にある方々に、私たちと同じ人格が備わっており、それを尊び共に活かされ、助け合う社会の作り手となることであり、このことが現代の女性のみならずすべての人間、高等教育を受ける機会に恵まれた人たちに求められていると思います。地球全体の中で見れば、女性で高等教育を受けられている人は、やはり今の時代にあっても少ないです。そういう少ない中にあって、世界全体を見たときに、コミュニティの中でリーダーとなるべき者としての高等教育を受けた人間であることを考えて、世界の中で弱い立場にある人たちの人格を尊敬する者として、ふさわしい社会を導いていける教育、真実を求めて弱い立場にある方々を尊重していける社会作りをして行くのが私たちの仕事だと思っています」と述べた。

また新渡戸稲造の時代にあって、「『世のいと小さき者』という言い方、『社会の中で人から虐げられる』ようなそういう立場に置かれている人たちこそが、イエスがほとんどの生涯を共に過ごされた方たちです。思い返してみますと、あの時代は、女性がまさにそういう存在であったということがあります。新渡戸先生は『いと小さき者』をも神の子と見なしていくということ、これがまさに人格を持つ相手として見なしていくという事に通じていくことを教えられました。女性がそのような存在であった時に、その女性に対して素晴らしい可能性を持った一人の人格として、教育をして行く場として東京女子大学を作って下さいました。今は世界全体が本当に傷ついています。食べる物もなくて亡くなっていく子供たちがたくさんいます。(そのような中にあって)苦しんでいる人たちと共に生き、尊敬し合う社会、そういう弱い人たちと私たちが同じ人格を持っている者として、相手の人格を大切にし、共に生き、皆で工夫をしながら共に助け合って生きる社会を作っていくことが必要なのではないでしょうか」と述べた。

今回の講演会は、北海道大学東京同窓会、東京女子大学同窓会および札幌農学振興会東京支部の後援(協賛:エルム27会東京)で開催された。 北海道大学と東京女子大学のつながりは深く、1967年、北海道大学理学部数学幾何学講座において、旧帝国大学で初の女性教授となった桂田芳枝氏は、東京女子大学を卒業している。また東京女子大学初代学長に就任した新渡戸稲造と、北海道大学初代総長に就任した佐藤昌介は共に盛岡出身で、昌介が札幌農学校(北海道大学の前身)一期生、続いて稲造が同二期生として入学、「イエスを信ずる者の誓約」に署名し受洗、キリスト者となっている。昌介と稲造は共に「キリスト教を基盤とした人格教育」において一致した価値観を共有していた。

新渡戸稲造は「人格論」の中で「人は三位一体の愛の神と交わりを回復してはじめて『人格』が形成されるという考えがキリスト教の考え方です」と述べており、「人格」について「神学論争」の中から引き出すのではなく、創造主との直接的な愛に満ちた関係の中に人格形成の源泉を見出しており、「教育の目的はあくまでも人格形成にあり」との結論を導き出している。佐藤昌介と新渡戸稲造という札幌農学校のクラーク博士の教えで薫陶を受けた二人の教育者は、この点に関する教育観で全く一致しており、共に日本の教育のために支え合いつつ生涯を全うしたといわれている。

東京女子大学開校式式辞において、新渡戸稲造は女子教育の目的について「婦人が偉くなると国が衰えるなどというのは意気地のない男の言うことで、男女を織物に例えれば男子は経糸、女子は緯糸である。経糸が弱くても緯糸が弱くても織物は完全とは言われませぬ」と述べている。また「キリスト教主義大学」の在り方については、「入学する者を悉く基督教信者にするとか、教会に入ることを強制するとかの考えはないけれども、心もちだけは基督の心もちにしたい。己を犠牲にしても国のため、社会のため、人道のために貢献する精神を奨励したい。この精神をもって知識を身につける。知識を得るにもただただ好奇心を養うとか単に学者になるということでなく、高等なる知識を利用して、世の為国の為尽くすごとき人を養成したいのである」と述べている。

武士道講読会世話役の斎藤昇三氏は、新渡戸稲造が日本の女子教育にとりわけ力を入れた理由について、「新渡戸先生は大きな慈愛とその実践をされました。女子教育に至っては、(博学で女子教育者・平和主義者として米国で社会運動に関わっていた)メリー夫人との出会いを通じて、カルチャーショックを受け、『日本の女性の教育を何とかせねば』と思われたのではないでしょうか。また新渡戸先生は10歳で親元を離れ上京して勉強され、ホームシックであったかもしれません。そのような中、母からの手紙を読みながら勉学に励み、札幌農学校を卒業し、札幌から盛岡へ帰郷する数時間前に母親が亡くなられました。母の死とメリー夫人との出会いを通じて、日本での聡明で自立した女性への思いが強くなっていったのではないかと個人的に感じます。この二人の女性が新渡戸先生の人格形成にとても大きな影響を与えたのではないでしょうか」と述べた。
この記事が気に入ったら「いいね!」しよう

皇室攻略に踊らされた日本人

皇室攻略に踊らされた日本人



皇室攻略に踊らされた日本人(なぜ、皇室と英国(阿片貿易国家)とを仲良くなったか)



なぜ、東条大将を戦争責任を持っていこうとしたか。





◆知られざる皇室の守護神



 参考例は次のレポートだ。ノンフィクション作家野口雄一郎氏の労作で、月刊『文藝春秋』特別版(1988年8月20日発行)に紹介されていた。「戦後皇室民主化の影のクェーカー人脈」題し、「マッカーサーの高級副官フェラーズ准将、ヴァイニング夫人と秘書・高橋たねーー彼等の潤滑油として前田多門がいた」とした小見出しがつけてあった。

 レポートを総括して著者野口氏は、「彼らは、皇室を守り、民主化していくことが、平和を守ることだと信じ、それぞれが出来ることを黙ってやって、黙って去ったものと思われる」と締めくくり、「彼ら」の中心人物、前田多門を「知られざる皇室の守護神」と書いていた。

 野口レポートによれば、前田の背後に新渡戸稲造なる人物が登場する。この新渡戸に内村鑑三なる人物が横に並ぶ。彼らは戦前の米国留学生として、フィラデルフィアのキリスト教徒クェーカー派のミッションスクール「普連土学園」が創設されることから推し測ることが出来る。

 新渡戸らが、クェーカー派の本拠地フィラデルフィアの婦人外国伝道協会に進言して三田の学園が誕生したからだ。

 単なる留学生の進言で外国に出先機関の創立が決断されるものだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 新渡戸に私淑していた前田多門なる青年は、大阪生まれで実家は尊皇家(野口)。立教中学時代に聖公会で洗礼を受けている。一高では弁論部で活躍し、東大では新渡戸稲造を慕い、読書会の会員になり、内村鑑三の聖書研究会に通い、多くの仲間を得た。その仲間の一人が初代宮内庁長官をつとめた田島道治という人物。

 社会教育家を目指す前田は、東大卒業後の進路を新渡戸に相談、新渡戸のすすめで内務省に入省する。その後、前田は本省で内務大臣秘書官や都市計画課長を勤めながら、大正9年に官吏を辞して東京市長後藤新平のもとで助役をつとめる。安田善次郎の資金協力を得て市政調査会(市政会館)を日比谷に設ける。その会館(会務)が前田の生涯の活動の拠点になる。

 一方、新渡戸稲造は、クェーカー派の日本伝道拠点・三田の普連土学園の世話役をしながら、弟子や関係者を集めて「小日向会」なる組織を作る。この会がクェーカー派の意にそう目標を主唱する会であるのは当然だ。会員には、戦前の日本各界の名士や優れた学究が参加した。とはいえ、入会者が即クェーカー派信奉者とはかぎらない(野口)。入会参加の呼びかけ人は前田。当然のように東大学閥人脈が小日向会会員に連なる。戦前から戦後の今日まで、この小日向会で活躍した(する)人物の一部会員を野口氏は其の会員名簿から次の様に紹介している。

 初代宮内庁長官の田島道治、同庁次官と戦後枢密顧問官をつとめた関屋貞三郎、外交官と侍従長をつとめた三谷隆信、近衛内閣の頭脳役で昭和研究会主宰の後藤隆之助、戦後初の文部大臣前田多門、文部大臣と最高裁長官の田中耕太郎、東大総長の矢内原忠雄、南原繁、東大教授で英文学の斉藤勇、東大教授でアメリカ史の高木八尺、東大教授で皇太子のフランス語教師で多門の長男の前田陽一、一橋大学名誉教授の上田辰之助、津田塾大教授で多門の長女の神谷美恵子、恵泉学園創立者の河井道子、日本赤十字社長の川西実三・・・そして国際ジャーナリストで国際文化会館理事長の松本重治、元公明選挙連盟理事の田辺定義・・・



「国際的視野を持ち、頂点を極めた教養に滋れ、個人の自由闊達な精神を旨とし、皇室への真摯な姿勢を崩すことなく、社会大衆に愛情で接して人道を説く・・・・」、これらを一身に備えたとしか見えない立派な人々である。

 つまり、小日向会の信用力と社会各層に与えた影響力は、当時ははかり知れないものがあっただろう。加えて小日向会の構成会員らの最大の特徴は、人格の面で紛れもない善行の人々だったろうことだ。

 





◆クェーカー派の日本進出



 ところで前田は、大正12年、内務省の依頼でジュネーブの国際労働事務局に日本政府代表として赴任する。ジュネーブで待っていた人物がいた。国際連盟事務局次長として先任していた新渡戸稲造だ。

 前田のジュネーブ赴任は家族ぐるみだった。野口氏は、前田が一家をあげて国際人を志向した人物だと指摘している。父親多門の国際人意識は、長男陽一と嫁いだ長女、美恵子(神谷)らの小日向会での活躍を受け継がれている。

 野口氏が指摘する他の一点は、前田の天皇への傾倒ぶりだ。ジュネーブから帰国後の前田は天皇の前に立つことになる。それを計らった人物は、東大時代の同窓生(後輩)田島道治だろうと野口氏は推察する。

 前田が天皇陛下との拙著句に人並み以上の感慨を抱いていたとみた野口氏は、前田の学友田島の宮内庁長官就任問題の背後に前田が存在したと解釈している。西欧何するものぞ、と近代国家日本をつくろうとする激しい意欲が、明治人の前田と新渡戸らの絆だったのだろう、とばかりに野口氏は前田らの関係に理解を示しながら、他方では新渡戸と前田の皇室接近意欲を異様に感じている。



 三年前のジュネーブ滞在後、大正15年に帰国した前田は、のちに記した自伝(『道草の跡』羽田書店)の一節で「帰朝と共に改元、早春には、宮内省の計らひで、赤坂離宮に参内して、天皇陛下に、国際労働機関に就いて御進講申し上げる光栄を担った。」としているくだりを野口氏は取り上げている。

 帰国後の前田は、二年浪人したあと、昭和3年から東京朝日新聞論説委員を昭和13年まで勤める。その間に大正12年の1月以来、三田の普連土学園の後援会長をしていた。朝日新聞論説委員時代は、暇な時間をクェーカー関係者に当てていた。

 長男陽一によれば、多門を恩師と仰ぐ新渡戸稲造らとの関係もあって、来日米国人らとの間の懇親機会は多かったという。それらの米国人には、普連土学園開校時の宣教師ボールズ一家、ヴァイニング夫人のフィラデルフィア時代の友人ローズ女史、ライシャワー一家、それに戦時中米国務省で天皇制を温存させる対日占領政策に関わっていたとされるヒュー・ボートンなどがいた。



 このように、クェーカー派の日本進出は、新渡戸稲造の手引きで果たされた。新渡戸に私淑する前田多門は家族ぐるみでクェーカー派の日本人教育をはじめる。新渡戸は前田の人脈と地位を活用して、クェーカー派のいわば国家指導者層に近い別組織、小日向会を受け皿に、当時各界で活躍する著名人を集める。そして天皇との道をつけながら、英米両国人の本格的な国際交流世界を築く。

 以下は、山本五十六の謎を考える上で一つの重要点になるかもしれない。野口レポートの原文の一部をそのまま揚げておこう。



  昭和十三年、日本文化会館を設立するために、前田一家はニューヨークに赴く。もっとも、

 前田の外国人人脈は、クェーカーのみに限らない。

  IPR(太平洋問題調査会)の会議を通じてジョン・ロックフェラー三世や、知日派の国際

 政治学者でボートンと同じように米国務省で影響力のあったG・H・ブレークスリーなどとも

 知り合っていた。太平洋問題調査会というのは、日米の財界人・学者などがつくった民間の国

 際機関で、カナダ、朝鮮、中国の代表者まで参加して、国際会議を開き相互理解と緊張緩和を

 図ろうとした機関である。

  日本側でこの機関をきりもりしたのは、東大でヘボン講座を受け持っていた高木八尺[高木

 は小日向会会員]。ヘボン講座というのは、ローマ字のヘボンとも関係がある米国の銀行家が

 基金を出して東大に開設された米国講座である。高木は一高・東大での前田の後輩にあたるが、

 同じ新渡戸門下生で、前田とも極めて親しい。前田が館長のニューヨーク日本文化会館にいた

 こともある。

  是の日本文化会館は、中国大陸における日本の行動を起因する反日感情の高まりを、何とか  

 鎮めようとして設立されたものだった。前田に頼まれて、文化会館の設営準備をした田辺定義

 氏によると、なかなか運営が難しかったそうである。

 「金は外務省情報局から出た。だけど、そもそもは樺山愛輔さんの国際文化振興会が作ったと

 いう形で始めたし、会計なんかは出先の総領事館に報告しなきゃならん。要するに、三箇所に

 小姑みたいなのがいっぱいいて、前田さんに圧力をかけたり批判したりする」

  前田は政治的な動きはしない事を条件に引き受けていたが、せっぱ詰まってくると、日本の

 立場を説明しろの、情報を取れのと、あちこちからクレームがついたそうだ。

 「前田さんは、それをやると言い訳になるし、却って信用を失って逆効果だと政治に関係する

 事は一切やらなかった」という。

  それが功を奏したのか、「コロンビア大学やハーバード大学、はてはロックフェラー財団な

 どの幹部とも、打ち融けて協力し得るやうになった」(前掲『道草の跡』)のである。

   

 ところで、此の部分を原文のまま本書の読者に紹介したのは、IPR(太平洋問題調査会)、ロックフェラー財団なる組織に対して著者の野口氏が言及していない状況(あるいは野口氏がIPRの実態を知りながらワザと詳細を省いたのか)、つまりIPRが世間からどの程度関心をもたれていないか(関心を寄せ付けないように図られているか)を読者に知って貰うためにである。



註 

(ゾルゲに資金を提供したフィリィプ・ジェサッフの太平洋問題調査会(IPR)

 フィリップ・C・ジェサップは共産党の偽装団体と幾重にも繋がっていて、1951年10月の合衆国国連代表にジェサップの名前を取り下げる事を頑として拒んだものの、結局は代表[代理]として派遣した。ジェサップはハーグの国際司法裁判所でエリフ・ルートの補佐官を務めた。国連救済復興機関(UNPRA)では、ハーバード・リーマン事務局長の次官補だった。リーマンの次官はローレンス・ダガンで、後に窓から身を投げた人物である。ジェサップはかってブレトンウッズ会議で合衆国代表となり、国連創設サンフラシスコ会議ではヒスの司法機関担当補佐官を務めた。

 ジェサップは太平洋問題調査会(IPR)太平洋会議の議長を務めた。この調査会は共産主義者による謀略と諜報活動の温底となった。ソ連のスパイだったりリヒャルト・ゾルゲが日本で自分の諜報網を作ったとき、太平洋問題調査会がゾルゲに資金を出していたのである。IPRの会合では、ローレンス・ロックフェラーが事務局長を務めた。

 マッカラン委員会は太平洋問題調査会について次のように報告している。



  太平洋問題調査会はアメリカ共産党及びソ連政府高官によって共産主義の政策・煽動・

 軍事諜報活動の為の道具と見なされてきた



 1945年6月、FBIはIPRのアメラシア誌の事務局を襲撃し、1800点に及ぶ盗まれた政府機密書類を没収して、共産主義者スパイを数名逮捕した。その翌年、ロックフェラー財団は23万3千ドルをIPRに寄付した。ジェサップはJ・P・モルガン商会の共同経営者である裕福なストーツベリー家の一員だった。兄弟のジョン・ジェサップは大金持ちの銀行家で、エクイタブル・トラストの会長であり、コカコーラとダイヤモンド・ステート電話会社の役員だった!忍)

 





◆終戦直前の「興味深い会話」



 野口レポートは更に続く。

 昭和16年(1941年)、ニューヨークで日米開戦の日を迎えた前田多門はその二年後の抑留者交換船で帰国する。その船で、恵泉学園からフィラデルフィア近郊の学生寮に住みウエスタンメリーランド・カレッジに留学していた高橋たねも帰国した。

 前田の長男陽一もパリで日米開戦を迎えて帰国できず、パリの日本大使館にいわば避難勤務した。当時の大使は三谷隆信で内村鑑三の無教会派のクリスチャン。三谷の兄、隆正は前田らの聖書研究会に入っており、同じ仲間の田島の薦めで後年に三谷隆信は宮内庁侍従長になる。前田多門は帰国後の昭和18年に新潟県知事になる。当時の前田を軽井沢の別荘に訪ねた井深大(元ソニー名誉会長、前田の元女婿)は、前田の別荘に「近衛さんがよく顔を見せていました。どうやって、戦争をやめるかとか、まあアメリカの事を聞きにきていたんでしょう」と語っている。



 野口は更に終戦直前に交わされた前田と田島の間の「興味深い会話」を前田の自伝から披露している。



 前田は近衛の推薦で戦後初の文部大臣を拝命するのだが、終戦直前に田島が前田に文部大臣の話があったら引き受けろとけしかけていたという。結果的にはそうなるのだが、田島にいわれた時、前田は次のように田島に言い返している。「[田島は]突拍子もない事をいふものだが、文相といふなら適任者が別にある。安部能成君か、小泉信三かだといって、元来が、根もない話だから、そのまま他の雑談に移った」・・・

 前田と三辺金蔵(慶大教授・会計学)や松本丞治(幣原内閣・国務大臣)とは姻戚関係。田中耕太郎(前述)は松本の娘、小泉の姪と婚姻関係にあるから前田と小泉は遠縁になる。松本の孫(小泉の姉の孫)の千世は聖心時代からの美智子皇后の友人。

 戦後初の文部大臣に就任した前田は省内人事を改める。科学教育局長に山崎匡輔東大教授、学校教育局長に田中耕太郎、社会教育局長に朝日新聞社の関口秦を迎える。全てリベラリストの仲間だ。前田の娘、神谷美恵子は父と安倍の両文部大臣の秘書を務める。「占領軍に日本の教育を壊されたくない」美恵子は達者な英語でGHQと交渉した。昭和20年9月15日にヘンダーソン少佐なる人物が現れる。この男はGHQの民間情報教育局(CIE)の教育主任として来日した。俳句研究家でもあるヘンダーソンは前田がニューヨークの日本文化会館館長時代の知人で、日本に赴任してボナー・フェラーズ准将が上司。フェラーズはマッカーサーの副官で日本通のクェーカー教徒。フェラーズは新渡戸稲造の愛弟子、河井道子(前述)の協力者、一色由利子の娘で恵泉女学園理事の一色義子は、「厚木に降り立ったマッカーサー元帥と同行してきたフェラーズは河井と一色を捜して迎えの車を出すから会いたい、といった」という。



 一色義子の話から野口氏は、フェラーズがマッカーサーにあてた覚書を別資料から紹介する。その覚書でフェラーズが、天皇陛下に戦争責任はなくて東条にある、従って天皇制の存続はリベラルな政府の邪魔にはならないとする天皇擁護の覚書だった事を紹介している。

 一色達クェーカー仲間の天皇観を日本通のフェラーズが理解してマッカーサーに懇願したというわけだ。ここで野口氏は、フェラーズ覚書にある東条戦犯論の根拠を探っている。覚書がいう東条悪者論は信頼すべきソースによるとしていることから、野口氏はその「信頼すべきソース」とは誰の事か疑問を抱く。野口氏はその「ソース」を特定出来なかったが、としながら、前田の仲間(東大のヘボン講座、小日向会、太平洋問題調査会(IPR))の高木八尺のいわば回顧録から疑わしい輪郭を掴んでいる。つまり、彼等そのものが疑いの対象つまり(ソース)という読み方である。

 





◆クェーカー教団と阿片貿易



 元英国情報部将校のジョン・コールマン博士(現存)が「命と交換する覚悟で」調べ上げたという

『300人委員会』(徳間書店)の話がある。

 資料の一部分には、次の様な記述があった。

  ベアリング兄弟はフィラデルフィア・クェーカー教団を支配し同市の不動産の半分を所有す

 る、と私が見た報告書や記録には述べてあったが、ベアリング兄弟が中国アヘン貿易で蓄積し

 ていた財産の故に、全てはありうることだった。・・・

  ベアリング家は南部大農場への大投資家であったし、中国の港と合衆国東部沿岸の重要な港

 全てとの間を航行した合衆国のクリッパー船への大投資家でもあった。今日[1992年現在]

 ベアリング家は合衆国で非常に堅実な金融事業を数多く手がけている。・・・



 ここでいう合衆国のクリッパー船とは、中国のアヘン貿易に従事した船足の早い帆船の事。このベアリング家と同様に中国アヘン貿易で財をなしたのが米国東部エスタブリッシュメントのアスター家。



  ジョン・ジェイコブ・アスターの息子ウォルドーフ・アスター[ニューヨークにその名を冠

 したホテルがある]は王立国際問題研究所(RIIA)の会員に任命されて、更なる名誉を与

 えられた。此の機構を通して300人委員会は合衆国の私達の生活のありとあらゆる側面を支

 配している。アスター一族はオーウェン・ラティモアを選んでアヘン貿易との関連を維持させ

 たと信じられている。ラティモアはローラ・スペルマンが資金を提供した太平洋問題調査会[

 IPR、野口レポートにある]を通じてその仕事を果たした。

  中国が単なる供給業者としてではなく平等のパートナーとしてアヘン貿易に参入する事を予

 見したのは太平洋問題調査会であった。そして、日本を真珠湾攻撃(パールハーバー)に至る

 道へと誘導したのが太平洋問題調査会だった。だが、日本人をアヘン常用者にする試みは惨憺

 た失敗に終わった。



 更に、1905年に中国政府はアヘン常用者數の増加を阻止する世界会議を開催したが、英国は会議の議定書に印鑑(サイン)をしながらアヘン事業を阻止せず、逆に中国政府にもアヘン事業に参加させる案を持ち出した。1907年のハーグ万国平和会議の参加国は、英国に前回合意して印鑑した議定書を遵守するよう促したが、英国は拒否した。1909年、英国による日本へのアヘン密輸出を懸念した日本政府が、1905年時点以上に増加したアヘン輸出の統計資料を会議に提出した。英国政府代表部はその資料に反論して、アヘン取引を公然化することで「ブラック・マーケット」の一掃が可能だと主張した。その際英国代表は、アヘン取引は大英帝国に代わって日本がアヘン取引の独占と完全支配権を確立するだろうと註釈した(何を考えているのか。それで、今も麻薬が無くならないのである。麻薬は、精神作用が激しく作用して依存症を起こす。そして最後に廃人になる。脳機能が正常に作用しない!忍)。

 ベアリング家やアスター家の為に英国政府は「外交活動」をしてきた。英国王室と政府は今日も麻薬取引で揚がる莫大な資金を収受し運用している。

 カナダは英国国王直属の枢密院会員の一人ゴートンが支配した。ゴートンはカナダ国際問題研究所経由で太平洋問題調査会(IPR)に資金を提供した。元蔵相ゴートンは、会計士、弁護士を銀行に送り込み不正麻薬資金の洗浄(ロンダリング)をした。ノヴァスコシア銀行、カナダ帝国銀行、トロント自治領銀行が洗浄銀行。

 16、7世紀頃から始まって20世紀初めにはほぼ完全に世界経済支配を終えた国際資本家の大組織の中枢に英国王室が座っている。王室にからまる諸組織の一つにフリーメーソン組織があるーー。

 

 

 





◆天皇を救ったガーター結社



 そして、次のようなことも紹介されていた。

  デンマーク国王フレデリック九世、ノルウェーのハーコン国王、英国王ジョージ6世、オ

 ランダのウィルヘルミナ女王、ルクセンブルグのシャルロッテ大公妃が、昭和天皇(エンペ

 ラー・ヒロヒト(昭和天皇)を戦争犯罪人として逮捕し、又は裁判にかけないよう要請した

 という興味深い事実がある。しかし、昭和天皇を戦争犯罪人として処刑されるべき運命から

 救ったのは、ガーター結社の力であった。エリザベス二世女王は、故昭和天皇と親密な関係

 を保持していた。そして今日なお、彼(昭和天皇)の家族と親しくしている。この事を別と

 すれば、300人委員会は日本の事態に対し、さしたる影響は与えていないように見える。



 ところで昭和天皇を戦犯の立場から救ったとされるガーター結社(オーダー・オブ・ガーター)について、コールマン博士は次のように説明している。



  ガーター結社とは、英国王室が作ったカネで買われた少数独裁の団体で、エルサレムの崇

 高なる聖ヨハネ団が支持しているものを真似たものである。・・・・

  その例としては、英国国教会信徒を装う無神論者ピーター・キャリントン卿がいる。彼は

 オシリス教団、その他の国内の諸派の会員であった。その中には、黒い貴族のゲルフ家で英

 国国教会の長でもある女王エリザベス2世陛下によってウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂ガ

 ーター騎士として任命されたフリーメーソンも含まれている。彼女は国教会を完全に見下し

 ていた。



 祖国愛を自負する英国人で熱心なキリスト教徒のコールマン博士は、英国について手厳しい調査結果を敢えて突きつけながら、人々に英国王室に対して疑いの目をもっと開くよう警鐘を鳴らしている。



  我々は今までにすっかり洗脳されてしまった為に、英国王室が素敵な、害のない、多彩な

 制度であると信じ込んでいる。そして英国君主制というこの制度が如何に腐敗し、それ故い

 かに危険かと云う事に気がついていない。ガーター結社の騎士とは、その国家と国民が寄せ

 る信頼を完全に裏切ってきた最も腐敗した公の為に働く人々の最深部の集団である。ガータ

 ー結社は300人委員会の中枢であり、女王エリザベス2世の信頼が最も厚い「枢密院」で

 ある。



 博士は、オックスフォードの権威者に実際に会い、ガーター騎士について調べている。英国内部の聖所で女王の最も由緒あるエルサレムの聖ヨハネ騎士団のエリート中のエリートだ、面談相手の英国の伝統専門家にその場で聞かされる。が、実は聞かされたその説明が真っ赤な嘘である事を、その説明者自身が知らない(あるいは知っていても知らないフリをしている)事に博士は気付く。

 博士は、オークスフォードで説明を受けてから、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へと足をのばす。そこで中国のアヘン王朝の設立者の一人パーマストン卿の文書を入手する。パーマストン卿はフリーメーソンでグノーシス主義の崇拝者でもある事をそこで知る。

 つまり「現在の『王室』のように、パーマストンはキリスト教徒のようなフリをしているが、実は悪魔の僕」だったことを知る。「多くの悪魔主義者達は英国貴族階級の指導者になった。そして中国のアヘン貿易から莫大な利益を得た」とコールマンは結論付けている。

 更にその博物館で博士は、誰がどんな理由でプロテスタントの最も由緒あるエルサレムの結社を作り上げたかをも知る。ヴィクトリア女王が、本来の聖ヨハネ団の設立者、キリスト教戦士ピーター・ジェラルドとカトリック教会との関係を断つ為に、1885年にエルサレムの聖ヨハネ団の名前を変えた事実を知ったのだ。

 博士は、オックスフォードの英国伝統問題の権威者でさえ「間違った歴史」を元英国情報部将校だった自分に堂々と語ったことに衝撃を受け呆れている。



『超スパイベラスコーー今世紀最大の”生証人”が歴史の常識を覆す』 高橋五郎 徳間書店から


朝鮮通信使は鶏泥棒(1/3): 心に青雲

朝鮮通信使は鶏泥棒(1/3): 心に青雲



2016年10月19日

朝鮮通信使は鶏泥棒(1/3)





《1》

 江戸時代にさかんに行なわれた朝鮮通信使。正式名称は朝鮮聘礼使。

 はじまりは室町時代だったそうだが、それは明日述べるとして、この習慣は秀吉の文禄・慶長の役でいったんは途絶えたものだった。

 それが江戸時代になって再開した。今のサヨク同様バカな男が徳川政権にもいたようで、その主旨は「招待旅行」だったそうだ。



 これは最近読んだ、高山正之氏と宮崎正弘氏の対談本『日本に外交はなかった』(自由社刊)で教えられたものだ。

 徳川方は、秀吉が朝鮮征伐でずいぶん荒らしたから、ご招待するので友好親善と貿易を再開しましょうとアチラ側に働きかけた。

 今の日韓議連みたいなバカな奴がいたもんだが、徳川政権は勝手に朝鮮に負い目を感じて、ご招待に及んだと高山氏は解説する。



 朝鮮人は、たぶん今と同様に、日本が懇願するなら行ってやろう、だったかもしれない。でも今や韓国では漢字を学校で教えなくなったから、古文書が誰も読めなくなった。だからいっそう好き勝手な解釈をやらかす。



 むろん日本側から朝鮮に訪問はしない。行ったとて、得るものは何もない。朝鮮に観光的にだってなにもなく、文化果つる国に好んで行くバカはさすがに…、鳩山由紀夫のような媚朝はいなかった。

 朝鮮通信使は、その馬鹿げた日本の負い目につけ込んで、大観光団を率いてやってきた。



     *     *



高山:毎度、四〇〇人くらいの規模でやってきては文字通りの大名旅行で江戸に参内した。なにせ貧乏な国だから、途中の宿で出された食器から床の間の陶器から掛け軸から緞子の布団まで洗いざらい持って行った。

 京都大学所蔵の朝鮮通信使の道中絵が残っていて、彼らが民家から鶏を盗む、住民が追いかけて朝鮮人たちを懲らしめるさまが描かれている。

 思白いことに日本側の住民は格子柄とか紺や黒の衣装なのに、彼らはみな一様に真っ白の着物姿に描かれている。

 (中略)

 一行は徳川家の新将軍が就任すると、それを口実にやってきてはどんちゃんやって行く。家宣(いえのぶ 6代将軍)の時代、新井白石が何の知的刺激もない、意味なく財政を浪費しているだけと通信使の廃止を献策した。1回に100万両かかった。大変な額だ。それに彼らの道中の盗みもあり、幕府はその弁償もしなくてはならない。



宮崎:だけど福田康夫のように人の嫌がることはしない、外国に良く思われたいと思う浅はかな日本人もいる。このときは老中の土屋正直がいい顔をしようとした。

高山:白石も老中がそう言うのじゃあ仕方ない、ただし接待は質素に、宿屋はいいものは隠せと指示して経費を半分くらいにしたらしい。



     *     *



 京都大学所蔵の絵は「朝鮮聘礼使淀城着来図」で、Wikipedia で見ることができる。

 こんなものも、公開すると「ヘイト」と言われかねないが、事実なんだからね。



 周知のように、朝鮮は貧しいうえに布を染色する技術がなかった。だから韓流ドラマの時代劇で、宮廷の人間が絢爛たる彩色の服を着ているのは大嘘である。さすがに全員が白い洗いざらしの服ではみっともないと思うのだろうが…、嘘はかえって恥ずかしい。

 しかしそんなことより、通信使と称して400人もやってきて、あらゆるものを盗んで帰るとは、低い民度は昔から変わらぬようだ。



 朝鮮通信使は、対馬を経由して瀬戸内海に入って広島県の鞆の浦に上陸し、そこから延々と江戸城まで歩いてきた。

 ご招待に増長しているから、狼藉をやらかしたのだろう。そもそも日本と朝鮮は対等の関係ではなく、日本から見ればあちらなんぞ属国同然で、むしろ朝貢させてやっていたわけだ。それを奴らはへりくだるどころか、只で飲み食いして蝗が通りすぎたように何もかも盗んでいった。



 教科書では、朝鮮通信使が来たときは日本人が大歓迎して、朝鮮人が日本よりも進んだ朝鮮の文化を伝えたとか書いてありそうだが、それはサヨクの研究者のバイアスがかかっているという以上に、捏造である。

 徳川家康は、対馬藩に申し付けて国交断絶状態だった朝鮮と交渉に当たらせた。対馬藩は関ヶ原の戦いでは西軍側についたから本来なら領地没収、改易となるはずのところを救われて、栄えある交渉役を任された。



 はじめは朝鮮に行って交渉しようとしたら使者は惨殺されている。「いかにも朝鮮らしい」と高山氏は言う。にも関わらず、対馬藩の努力によって1607年(慶長12年)、江戸時代はじめての通信使が派遣されてきて、江戸にて将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰途に駿府に隠遁していた家康とも会っている。



 程度の低い朝鮮からの使節(別名、たかり屋)ごときが、家康とお目通りできたのも、なにか解せない。もしかして家康は健康長寿を必死で願っていたから、朝鮮通信使が土産に持って来るはずの「朝鮮人参」が欲しかっただけかも知れない。当時の朝鮮人参は、栽培ものではなく天然物だから、かなり薬効が期待できた。今はほとんどが栽培ものだから本当の薬効は期待できない。



-----



【関連する記事】

朝鮮通信使は鶏泥棒(2/3)

人類火星移住計画の大嘘

地球と磁場の謎

醤油のインチキ

ドゥテルテの“英断”ふたたび

posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする

この記事へのコメント

神戸市の山田町郷土史S50年は、著者がNHK関係のサヨクのせいか、朝鮮通信使が、来ると、その歓待のために、イノシシ肉を献上しなければならなかった。

その口実でイノシシを撃って、自分たちも食べたと、いかにも、通信使さまさまみたいに書かれていました。



なんだかね~

Posted by 神戸だいすき at 2016年10月19日 06:07

----

2016年10月20日

朝鮮通信使は鶏泥棒(2/3)





《2》

 なにせ当時、江戸幕府は金銀が無尽蔵に採掘できていて、経済上はなんの懸念材料がなく、ぜいたく三昧の日々を送っていた。幕府は各藩に金銀を配って手なずけていた。

 参勤交代も、のちに各藩を苦しめるが、初期は大名が徳川のご機嫌取りで金銀をおねだりするために、進んで行ない、妻子も江戸に置いて忠誠を誓ったのである。



 幕府が強いたというより、各大名が金銀欲しさにおべんちゃらをやり、それが自縄自縛となって財政破綻に追い込まれていった。

 だから江戸幕府は天下をとった驕りもあって、朝鮮通信使のような意味のない招待客にも大盤振る舞いをした。



 3代将軍家光は放蕩して実に一代で500万両を使いきって死んだ。4代目家綱は金銀はとれなくなったけれど、それでも600万両を相続できたものの、もう金銀の埋蔵量は枯渇してきていた。もう残された600万両を使い切ったら、終わりという状況だった。カネがあるうちに使い放題使っちゃった富豪息子のようで、稼ぐ手だてがまったくなかった。

 幕府自身に領地は天領だけで、徴税権は各藩にあった。収入はわずかな領地の米なのに、国家レベルの歳出は徳川政権が引き受けなければならなかった。



 それでも、金銀が無尽蔵に湧いてでているときは良かったが、ストックもなくなれば財政事情が逼迫するのが当たり前。

 5代将軍綱吉のころには金銀が枯渇して財政ピンチに陥っていた。なのに、綱吉は派手好きで国庫はまたたく間にカラになっていく。

 それに家綱時代に生じた明暦の大火で、江戸の町が灰燼に期し、江戸城も天守閣が焼失した。



 このとき江戸の復興費が莫大で、ついに江戸城天守閣の再建が果たせなくなった。

 江戸時代最初の経済危機を救ったのは綱吉時代の勘定吟味役だった荻原重秀である。彼は今で言うシニョレッジ(通貨発行益)をやった。端的には貨幣改鋳である。見事にデフレ解消を果たし、国庫は黒字になって、あの元禄文化はために華開いたのである。荻原重秀の後ろ盾だったのが柳沢吉保だった。



 今でもサヨク系経済評論家は、シニョレッジを忌み嫌うというか「財政均衡主義」「緊縮路線」といって、財政を立て直すには支出を減らして歳入に見合った歳出を抑えるべきだという一派がいつもいる。

 今日の財務省官僚である。現代では税金を上げろと言えるが、先に述べたように徳川幕府には徴税権が全国に及ばず、増税できないのだ。



 新井白石は財政健全化を図った男で、柳沢と荻原を追放して実権を握り、歳出を抑える「質素倹約」を旨として緊縮財政路線をとった。重秀によって改鋳された小判を元の品位に戻した。貨幣が減少してたちまちデフレとなり、元禄文化はポシャって、街は火が消えたように不景気になった。

 その流れで見ていけば、経済オンチだった新井白石が朝鮮通信使を廃止しようと言い出したわけがわかるだろう。歳出を抑えたかったのだ。



 もちろん、何の利益もない鶏泥棒の朝鮮通信使をご招待することはないわけだが、ただ経済効果という意味では、百万両も使って支出が起きれば、経済効果はあった。東海道沿線の宿屋や川の渡しは、お陰で潤ったし、盗まれたものは幕府が弁償してくれるのだから、悪い話ではなかろう。

 鶏まで弁償してくれたかどうかは…。



 ところで、なぜ徳川幕府が朝鮮通信使をご招待するバカをやったかは高山氏が説いてみせてはいるが、まだほかに考えられることはある。

 もしかして家康の出自と関係しているかもしれない。家康は本当は2人いて、賤民出の男が家康を乗っ取ったとの根強い噂があった。2人いた(影武者がいた)と考えなければ、説明がつかないことが多々あるとされる。



 本物の家康は大阪冬の陣で戦死したとも言われる。現に小さいが墓が堺市の寺にあるし、のちに秀忠と家光が墓参に来ていることは間違いないのだ。もっと幼少期に乗っ取られたとする説もある。

 つまり、家康(偽物)は、部落出すなわち元は朝鮮人だった可能性があるためか、あるいは…。



 これは八切止夫が書いていたことだが…。

 二代将軍秀忠は、跡継ぎに家光を想定していなかった。それを春日の局と天海僧正が工作して、家光を三代将軍に仕立てた、その功績で彼女は大奥で権勢をふるう。

 家光の乳母になった春日の局はもとは「お福」と言った。お福は明智光秀の姪にあたり、家康に側室として進呈したと言われるが、当時のこととてまったく当てにならない。

 

 八切止夫に言わせると、お福は朝鮮人で大阪あたりで浮浪者をやっていたのが、美人だと見初められて戦国武将の愛人にされ、転々したのち、やがて大出世して明智の姪ということにして、徳川家康に献上されたのだという。

 だから、朝鮮人であった春日の局によって、徳川家は乗っ取られたのだと言う説を書いていた。



 だとすれば、春日の局にしてみれば、同胞を朝鮮から呼んで、自分が天下をとったことを自慢してみせたかったと、考えられないことはない。

 どうも高山氏が説くような、「秀吉のときに悪いことをいたしまして、すみませんでした」などという理由で、朝鮮通信使を豪華招待するなどとは思えない。そんなきれいごとがあろうか?

 なにか裏があるのではないか。







【関連する記事】

朝鮮通信使は鶏泥棒(1/3)

人類火星移住計画の大嘘

ドゥテルテの“英断”ふたたび

地球と磁場の謎

醤油のインチキ

posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする

この記事へのコメント

朝鮮通信使は朝貢に来ていたようです、そのため迎恩の扱いで、江戸城も正門からは入れなかったとか、朝貢に来ていたのに、朝鮮は嘘つきで日本に招かれたとは、彼らは自分達の嘘でまた滅びるでしょう、中共とロシヤと米国のコウモリ外交では、すべての国から見棄てられます、朝鮮半島はその内、三ヵ国の共同統治になるでしょう。

Posted by 政界ウォッチャー三十年 at 2016年10月20日 06:09

政界ウォッチャー三十年様

コメントありがとうございます。

私の調べたところでは、日本側が招待していたようです。

なにしろ、家康が天下をとったころは、金銀があふれていて、使い途にこまるほどだったから、朝鮮からご一行を招待しようとなってのではないでしょうか。



しかし、だんだん金銀はなくなるし、奴らを接待する意味はないし、で、歳出削減になっていったのでしょう。

Posted by 政界ウォッチャー三十年 様へ(ブログ筆者です) at 2016年10月20日 11:29

----


新渡戸稲造 官製偉人の欺瞞(1/4): 心に青雲

新渡戸稲造 官製偉人の欺瞞(1/4): 心に青雲



2013年04月30日

新渡戸稲造 官製偉人の欺瞞(1/4)





《1》

 武士道とは何かの答えは『武道学綱要(武道とは何か)』に書かれていて、もう決着済みと考えている。端的には、主君のために一身を投げ出す、あるいは投げださせられる、これでしかない。お読みになった方には常識のはずである。



 だから後年にあまりに著名な新渡戸稲造の『武士道』を、まあ一度は読んでみるか…とページをくってみたがピンと来なかった。新渡戸稲造はグダグダと、武士の思想(?)と、キリスト教との類似点を挙げ、武士も崇高な精神を持っていたという論法で処理している。終始キレイゴトだ。

 近年は保守派の人がやたらに新渡戸稲造の『武士道』を持ち上げて、日本人の心の故郷が武士の生きざまにあったと共感を寄せる傾向があるが、いかがなものか。



 私の高校時代の同級生男子に女子生徒たちから「さも」とあだ名をつけられた男がいた。なぜ「さも」なのかというと、「さもなんでも知っているふう」「さも何でも得意そうにする」「さもモテそうに自慢する」から嫌われていたのだ。

 うまいあだ名をつけるものだと、感心した覚えがある。



 で、新渡戸稲造はまさに「さも」である。

 さも東西の古典に通じている、さも西洋の文化に通暁している、さも武士の精神を知悉している、さも敬虔なクリスチャンを装う、といった案配だからである。博識であることは認めないわけではないが…ただの知識秀才。

 今日でいえば、なんていけ好かない男なんだ、であろう。

 2007年に停止になったけれど、5000円札なんかにしないでほしいものだ。



 武士について、われわれはとかく映画、小説、テレビ時代劇なんかでイメージを創られてきているが、実像はかなり違う。



 武士のなかにも、天下人としての責任を感じながら施政にあたった人物も(上杉鷹山のように)いたけれど、とくに江戸時代には多くは保身に汲々としていた公務員である。赤穂義士どもだって、忠義より再就職目当てに狼藉に及んだのだ。

 君主は家臣に妾をあてがわれて世継ぎを遺すだけ、あとは「よきに計らえ」であった。



 ちなみに君主は奥方とは夜に交わることはなかったらしい。奥方は他の大名の娘を輿入れさせて城に迎えるが、うっかり孕ませた結果、産後の肥立ちが悪くて死んだりしたら大ごとだから、奥方は「お飾り」で、終生男を知らずに過ごす例があった。世継ぎができないとお家断絶で家来も失業するから死活問題だった。世継ぎは君主の種さえ継承されればいいから、多くの妾(いわば姫様の影武者か)があてがわれ、そのなかで生き延びた男の子を世継ぎにした。



 こんなことは新渡戸は知らないで「武士道とは」を書いた。



 安藤昌益が火を吹くような言説で、武士階級を農民に寄生するクズだと非難したことは一理も二理もあった。

 刀術なんか及びではなく、脇差しは単なるお飾り、もしくは民百姓への威嚇の道具であった。江戸時代、侍は刀の鯉口を切ったらそれだけで切腹を申しつけられた。だから何があっても、辻斬りでもないかぎり刀は抜かない。



 奉行所は岡っ引きに(フォークの出来損ないみたいな)十手を持たせたのは、あんなチャチな武器(?)で闘わせるのではなく、あの変な格好の道具で侍の刀の鍔と刀身の間に挟んで、鯉口を切らせるためである。鯉口を切った!ということにして、抹殺したい侍を刑に処したのだ。



 貧弱な十手で用がたりたのは、岡っ引きに囲まれても決して武士は刀を抜かないとわかっていたからだ。だから岡っ引きたちは恐れることなく、「御用だ」と言いながら、相手の武士のふところに飛び込めたのである。侍のほうは、刀を引き抜かれまいと、懸命に柄を押さえて逃げ回ったらしい。

 同じように、吉良上野介は浅野内匠頭の挑発に乗らなかった。防衛のためであっても、脇差しを抜けばそれだけで処罰されるからだ。



 武士が一応まじめに刀を実用に使おうか、となったのは幕末の争乱期になっての話。だから江戸に千葉周作などの道場が林立したが、先生は武士ではなかった。新縁組に見るごとしである。

 だから、今度の野球のWBC大会で、日本チームを「侍ジャパン」などと命名したのは笑止千万なのだが…。



 さて、その新渡戸稲造の『武士道』であるが、最近、滝澤哲哉氏の『新渡戸稲造 武士道の売国者』(成甲書房)を読んだ。痛快な論述ではあるが問題もあると思う。おいおい述べていく。

 まず本の帯などの紹介・宣伝文から引用しよう。



    *       * 

 「われフリーメイソンとの架け橋とならん」

 アメリカ盲従の先駆者は、カネに目の眩んだクエーカー教徒だった。偉人神話をくつがえす、官製名著『武士道』への哲学的批判!



 「新渡戸稲造の武士道」は、明治国家体制を根拠として生まれた「近代思想」である。それは、大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳思想の1つである。

 そして国際金融マフィアの思惑どおりに、日本人を戦場に送るための思想であった。

 偶像の仮面を暴く! これが官製偉人の真の姿だ!



   *      *



 これだけ読んで驚かれた人も多いのではないか。なにせ日本銀行券に登場するほどの偉人なのに、である。

 私も正直、新渡戸をここまで大胆に指弾しているとは思わなかった。それまでは嫌らしい野郎だな程度の認識であったからだ。



 しかし、その驚く皆さんにも、西洋文明・文化は優れたもの、進んだものという観念、またキリスト教は慈悲深い宗教なのだという観念に毒されている証左なのではないか。新渡戸の実像をまったく知らされなかったこともあるけれども…。



 「新渡戸の『武士道』は、文学的にも歴史的にも武士の実態に根ざしておらず、日本の武士とはまったく無関係な話を羅列しているという批判が欧米では当たり前になっている。ところが日本では、相変わらず古典的名著として読まれ続けている。そればかりでなく、「新渡戸神話」として組み込まれている。」



 今年のNHK大河ドラマなるものは、新島八重を主人公にしているようだが、あの女もアメリカに行って愚かにもクリスチャンに改宗している。キリスト教に帰依する奴はバカである。しかし、キリスト教は良い宗教で、日本の近代化に寄与したという話に持って行きたいのだろう。

 NHKが日本支配層の意のままに、「官製偉人」をでっち上げるのである。

 ザイニチに支配されているNHKなので、クリスチャンはいいものと宣教するために新島八重を取り上げるのかもしれない。



 新渡戸稲造も北海道でクラーク博士に感化されて、アメリカに渡ってクリスチャンになった愚か者であった。しかも彼はクエーカー教徒になった。クエーカー教徒の女と結婚までした。この女房(メアリー・エルキントン)は日本をキリスト教国にするための布石として、新渡戸にあてがわれた。女は日本に来て暮らしたのに、ほとんど日本語を覚えようとしなかった。



 クエーカー教徒といえば、敗戦後、今上天皇が皇太子時代にクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニングがGHQの指示で家庭教師に就いたことを思い出されるだろう。

 ヴァイニングが来たのは、実に遠く新渡戸稲造がペンシルベニアで種を撒いたからである。だから新渡戸は売国奴なのだ。



 つまりアメリカは(ユダ金は)クエーカー教徒を使って、日本をキリスト教国にしようと画策した。だから美智子皇后もクリスチャンだったし、現在の皇太子浩宮にもクリスチャンの雅子皇太子妃があてがわれることになった。

 しかし、日本でのクリスチャンは人口のわずか1%以下というから、いい気味である。



 新渡戸稲造の『武士道』を、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領も読んで感銘を受けたことになっているが、彼ら人種差別主義者がイエローモンキーの書いた本など読むわけがないのでは? 話をそういうことにして、キリスト教を日本に浸透させることが狙いだったのである。















【関連する記事】

朝鮮通信使は鶏泥棒(2/3)

朝鮮通信使は鶏泥棒(1/3)

ドゥテルテの“英断”ふたたび

人類火星移住計画の大嘘

地球と磁場の謎

posted by 心に青雲 at 05:13| 東京 ☀| Comment(6) | エッセイ | 更新情報をチェックする

この記事へのコメント

私は左翼育ちのにわか保守ですから、そして、もっといえば陰謀論者なので



新渡戸稲造がお札の顔になった時に「さては、こやつも売国奴!」と感じたものの、何者か知らなかったので「武士道」を読んだのです。



おっしゃるように彼のアメリカ人の妻が「キリスト教にしか道徳律はないのに、なぜ?日本人は道徳的なのですか?」と質問したのに答えて書いた書物というふれこみですね。だから英語で書かれています。



神戸というわが町には「武士道」の無い街でして。隣の大阪は商人の町で、経済力で武士に勝り、その隣の京都は公家の街で、武士など「むくつけき東えびす」と見ていますから、武士道という言葉にも初めて触れました。



おっしゃるとおり、保守派としては感動しました。どこに感動したかというと、日本全国に道徳教育をほどこすかわりに「旅芝居」が「勧進帳」「忠臣蔵」「手習い鑑」を公演して回り、これを幕府が利用したというところに感動しました。



何故、日本中に同じ道徳が徹底したのかわかった!当時は当時の情報伝達の中でもっとも有効なものをつかったんだ!道徳が消滅している現状を取り返す手段がここにあると思いました。



にもかかわらず、新渡戸稲造自身はうさんくさい印象が消えませんでした。



まあ・・・例によって、こちらに来させていただくと「私の夢を返して!」叫ぶことの連続ですが、新渡戸稲造にも見るべきとこはある・・・と、思い返していた昔を返して!・・・の気分。



キリスト教は人口の5%で50万人が限界だと言うのを聞いたことがあります。減っているのは感じていましたが1%ですか・・・



もちろん仏教の檀家数の激減とも似たカーブでしょう・・・



天皇家の位置づけは、私は、ともかく混乱しています。宗教的にもです。教育勅語に、一切の宗教性、さらには儒教精神さえ入っていません。明治以降の皇室と、それ以前とは、実際別物だと思いますが・・・よくわかりません。

Posted by 神戸だいすき at 2013年04月30日 08:39

神戸だいすき様へ

いつも楽しいコメントありがとうございます!



>日本全国に道徳教育をほどこすかわりに「旅芝居」が「勧進帳」「忠臣蔵」「手習い鑑」を公演して回り、これを幕府が利用したというところに感動しました。<

      ↓

 「利用」はどうでしょうね。幕府も各藩も庶民を教育することなど考えていなかったと思いますが……武士の子は教育しようと藩校なんかは積極的に作りました。

 庶民の教育は、おっしゃるように芝居や義太夫なんかから学習したのと、若衆宿といういわば寮生活で、先輩から後輩へ文化遺産の伝承や躾けがされたのでしょう。

 なので、幕府が利用したのではなくて、放任した結果、うまくいったのではないでしょうか。武家階級にとっては、農民は米をつくってさえいたらいいのです。



 私は天皇制否定です。ただ次善の策なのかな…という思いはあります。天皇はその時代、その時代で政権を握ったものたちが利用したにすぎないのです。



 それと…現在の日本仏教と、釈迦の考えたことはまったく違いますね。

Posted by 神戸だいすき様へ(ブログ筆者です) at 2013年04月30日 10:25

あのう・・・同じ年だからおっしゃることよくわかりますが、日本は、やっぱ天皇の国ですってば。

理屈も何もないです。伝統というか習慣。そこさえ立てておけば誰も文句を言えないべんりな制度じゃないですか?



大人にならなくっちゃ。



しかも、私の一回り以上若い友人だって・・・「あのな、浩宮さんが体育館にはいってきはったら、その時だけ、太陽がさして・・・あとは、どしゃぶりやったんやで」と、言ってましたよ。天皇陛下がお出ましになると「晴れる」万博の開会式の前日はどしゃぶりで、地面は水たまり。当日も雲が厚かったのに、天皇陛下がおでましになると晴れたの!



それと、長くこれで安定してきた国の根幹をさわるのは賢い方法じゃありません。



私は、昭和天皇を大好きでしたよ。



でも、まあ・・・もしかすると洗脳されているだけで、長く搾取されてきただけなのかもしれません。皇室だけでなく摂関家や五節家にも。



Posted by 神戸だいすき at 2013年04月30日 16:37

天皇の実像は隠されていますからね。

天皇が神だと言うなら、なんで3・11が起きたのです?

日本の歴史が長く安定してきた、って言えますか?

徳川300年以外は安定していたとはどうも言いがたいですが、そうだとしてもそれに寄与したのは天皇ではなくて、庶民の団結力や知力ではないかと思います。



天皇は太古の時代はともかく、なにもやっていないのですよ。鎌倉時代以降は、ドイツ語で言う「ザイン ニヒト ザイン」(非存在の存在)であったし、それで良かったのでしょう。

ところがそれを破る天皇がときどき出るから、世が乱れたのです。後白河、後鳥羽、後醍醐、そして昭和でした。



私は以前からもうしていますが、天皇で尊敬できるのは光厳院のみと断じています。そういう意味では天皇全否定ではありません。

現在の天皇家が光厳院を敬うのなら、評価してもいいです。

Posted by 神戸だいすき様へ(ブログ筆者です) at 2013年04月30日 19:49

光厳院という御名は、皇統図の中にちょこっと見覚えがあるだけで、申し訳ありませんが、全然しりませんでした。南北朝という時代は、天皇家も足利幕府内もなにもかもややこしく、~試験には出ない~から、詳しく知らなくてよい・・・と、されてスルーされた時代です。



よほど、日本史に関心のある方しか詳細を知らないと思います。



検索して気付きましたが、現在の天皇の125代というのは、南朝を数えてのことだそうです。



実に、明治帝が南朝であったことを端的に表していると思います。



こことは無関係ですが、さきほど、神戸事件(須磨事件)は冤罪だ。川崎重工に勤めていた”犯人”の父親への脅しだった・・・という裁判のことを知り・・・もう、一般に正しいとされていることが、ことごとく、嘘ではないかという思いに陥っています。



おもえば、おっしゃるように江戸時代に「今の天皇様はどういう人?」なんていう意識は一般にはなく、権力者がそのレベルで裏付けに利用していただけでしょう。今の「天皇とは」という認識は明治以後の皇国史観以後のものかもしれません。



で、光厳院とは、どういう方だったのでしょう?歴史上、もっとも悲劇の天皇だという書評を見ましたが・・・いつか、教えてください。あ、こういう安易な求め方はいけませんよね・・・でも、ヒントなりとも。よろしくお願いいたします。

Posted by 神戸だいすき at 2013年04月30日 22:43

 光厳院のことは、本ブログ2012年3月20日~4月1日までの連載「『風雅和歌集』論」をご参照いただければと存じます。



 このなかで「光厳院こそは、その南北朝の大乱の渦中にもみくちゃにされながらも、誠実に生きようとされた天皇なのである。」としたためました。

 しかし世間では、天皇を崇拝する人たちでさえ、武家政権と戦った後醍醐院を英雄扱いし、またおっしゃるように、正当である北朝を無視、南朝だかなんだかわからない大室寅之祐を明治天皇に仕立てています。



 後醍醐院こそが日本の歴史を歪め、今日までその汚らわしい暴挙の影響を受けています。

 ですから、光厳院のことも、そして彼が編纂した日本の和歌史上、燦然と輝く風雅和歌集が闇に葬られています。



 光厳院を単に「悲劇の天皇」と呼んで済ませてはならないと思います。彼こそが本当の国の象徴でした。身を引いて僧侶となり、戦乱の責任をお一人で負いました。なのに昭和天皇は、かりに彼に戦争責任がなかったとしても、いっさい戦争責任をとらず、退位もせず。国民に謝ることもなく、陸軍軍人にだけ責任を負わせて自身は天寿をまっとうしました。



 原爆投下の打診が極秘にアメリカから伝えられたときに、じゃあ広島に投下してくれと決断したのは昭和天皇でした。わざと8月6日に、陸軍の高級将校を広島市内に集め、終戦工作の妨害をさせないために、皆殺しにしました。



 それだけでなく、民間出の美智子妃を天皇皇后でいじめ抜き、今本当にお気の毒なお姿になっているではないですか。それでも彼が「好き」ですか? 彼を個人的に好き、とおっしゃるを咎めるつもりはございませんが、尊敬していいのでしょうか?

 私は光厳天皇を敬愛する立場から、決して昭和天皇の生きざまは認められません。

Posted by 神戸だいすき様へ(ブログ筆者
----------

2013年05月01日
新渡戸稲造 官製偉人の欺瞞(2/4)


《2》
 クエーカー派はキリスト教の一派で、本来はフレンド教会である。クエーカーはあだ名だった。
 なぜQuaker(ふるえ)というかというと、この派の連中は祈りのときに感極まって身を震わせたためと言われる。
 日本ではクエーカー派のQuaker Oatsシリアルがわずかに知られていた程度だろうか。本邦の会員数は157名(02年統計)だから、大衆への普及に失敗している。

 しかしヴァイニングを家庭教師に送り込んで、少年時代の皇太子明仁を感化させ、クエーカー教徒にすることには成功した。

 クエーカー派は1世紀にイギリスで創始された。だがクロムウェルの清教徒革命やその後の王政復古の影響で迫害されつづけ、追放されて、アメリカへ移った。
 アメリカでこれを再興したのがウイリアム・ペンである。クエーカー派はイギリスでは反体制派だったので、英国王は厄介払いに、植民地だったアメリカの英国王の領地をペンに割譲した。その代わり英国から出ていけ、だった。そこがのちにペンシルベニア市やペンシルベニア州になる。ペンシルベニアとは、「ペンの森の国」の意味である。

 大統領になったリチャード・ニクソンは、両親がクエーカー教徒であった。
 英国王が勝手にクエーカー教徒に割譲したとか、自由を求めて新天地に移った…というものの、そこは本来原住民の土地であり、そこを「敬虔な」キリスト教徒が原住民を弾圧して奪い取ったのだから、それがやつら白人の汚い本性である。

 そのアメリカのクエーカーの資産家に新渡戸稲造は目をつけられた。新渡戸はアメリカに行ったが極貧の暮らしをしていた。
 大富豪の娘であるメアリー・エルキントンと結婚したので、新渡戸はカネに困らなくなった。そしてクエーカーの手先になることを誓ったのだ。
 アメリカで無一文のイエローモンキーだった新渡戸青年に、大富豪でお城のような邸宅に何不自由なく暮らしていたメアリー嬢が、出あったばかりでラブレターを送りつづけ結婚するわけがなかろう。
 彼らの結婚は、クエーカーどもに仕組まれたのだ。

 メアリーは新渡戸と日本で暮らしたときも、決して日本語は習おうとせず、夫婦の会話は英語だったし、食事も生活様式も洋式を通した。これはメアリーが「日本人を“イエロー・ジャップ”とみなし、軽蔑していたことを示している」のであった。

 新渡戸を称讃する日本人は新渡戸の生活が質素だったというが、滝澤氏はまっこうから反論する。「新渡戸神話」の一つにすぎない、と。新渡戸は夫人の実家から月に1000ドル仕送りを受け、豪奢な生活を送り、外国旅行の際には5つ星の最高級ホテルに宿泊した。

 日本でのクエーカー派は多数派を形成できなかったが、大東亜戦争中にキリスト教の日本人信者たちは、米軍爆撃機を正確な爆撃地点を教えるために協力した。


 「クエーカー派は日本には1885(明治18年)に初めて紹介され、「キリスト友会(ゆうかい)」と称している。日本ではきわめて少数であり、一般の日本人はほとんど知らない。しかし、日本の近現代史、特に対米英戦争と大日本帝国の敗戦の背後で、クエーカー人脈が暗躍していたことを知らねばならない。そこでも新渡戸稲造は重要な役割を演じていたのである。」

 「フィラデルフィアの富裕なクエーカー派の人たちは、新渡戸を、日本へのクエーカー派の宣教に最適の人物と見ていた。そこでメアリーがこの男の妻になって、日本でのクエーカー派の宣教工作に参加することを提案し、彼女もそれを承諾したのではないか。」

 「メアリーと新渡戸の結婚は、クエーカー教団が仕組んだものだった。「宗教パラノイア」ともいえる無数の欧米キリスト教徒は、欧米帝国主義の尖兵となって世界中にキリスト教の布教に向かった。国際金融マフィアにとっては宗教パラノイアの存在は好都合である。
 
 フィラデルフィアの金持ちにひっかかった新渡戸は、富裕な米国女性を与えられて、それ以降、国際金融マフィアの尖兵として活動していくことになる。」

    *        *

 滝澤氏は本のなかでしきりに言うが、キリスト教は歴史上、もっとも悪い宗教であった。かれらは同じ信徒には「愛」だの「施し」だのと言うが、異教徒は人間扱いしない。殺そうと奪い尽くそうと神は許し給うたと言うのだ。
 そのとおりである。

 例えば、日本には茶の湯なる「風習」があって、いかにも日本文化の真髄であるかのように扱われる。
 「〈チャノユ〉の第一要諦である心の平静、気持ちの静穏、行状の静けさと落ち着きは、たしかに、正しい思考と正しい感情の第一条件である」と新渡戸は述べる。武士は茶室で平安と友情を見出したと言い切る。

 それ自体、まったくないとは言わないが、そもそも茶の湯なんてものは、いささかも高尚な藝術なんかではなかった。
 あのコジンマリした茶室は、堺の商人が、バテレンの武器商人とこっそり商談するための会議室であった。

 バテレン(ポルトガル語で神父)は、南蛮船で日本に運んで来た鉄砲の原料となる硝石と鉛の弾を売るために来ていた。日本側が売るものは奴隷である。戦国大名たちは、領国の女を捕らえてきては堺商人を介して売り払った。
 つまりキリスト教が戦国時代の戦乱を煽ったのである。
 キリシタン大名とは、なんのことはない、バテレンと取り引きしたいがために信者になったふりをし、領民を捕らえて売り払ったものどもだった。

 そういう事実を新渡戸稲造はいささかも記述しなかった。キリスト教の教えと、古来日本の武士の精神は似ていると、ウソ八百を書いたのであった。
 往時、ヨーロッパには50万人もの日本人女性の奴隷がいた。天正遣欧少年使節団の一人が、裸体で鎖につながれる日本人女性を見て心を傷めている。 その元締めがイエズス会から来ていたザビエルである。そういうキリスト教に都合が悪いことは新渡戸は言わない。

 江戸時代にはキリスト教は幕府の禁制で下火にはなったが、幕末には息を吹き返しつつあった。滝澤氏は幕末には「ヤソ秘密結社」ができていたと言う。
 当然、イギリスを中心に日本の内戦を煽り、支配を強めていって、徳川氏を倒し、国際金融資本の言いなりになる薩長に政権を握らせた。

 だから明治以降、日本に幕末段階で存在した「ヤソ秘密結社」の流れのまま、キリスト教の視点でみれば、彼らは天皇制を支持する立場にたって、キリスト教の地位向上を図って行った。
 新渡戸も尊王主義者として天皇制を守ることにしたのだ。

 キリスト教の狙いは、天皇制国体の中身を、キリスト教徒が日本を支配し、最終的な天皇一族をキリスト教徒に改宗していくことにあった。だから「新渡戸の門下生たちは、天皇制国家体制の中に入り込み、最終的に大日本帝国を壊滅させ、日本を米国の従属国にしていった。将来の天皇になる皇太子をクエーカー教徒にすること、従属国日本を弱体化させる“売国者”として協力していくことになる。」と滝澤氏は説いている。

 新渡戸は教育関係では、札幌農学校(現北海道大学)、東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。
 その他では、東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長、それに津田塾に対しても顧問を務めている。
 こうやって「悪影響」を日本の教育界に及ぼした。

 茶の湯の話がでたので、もうひとつ書き留めておく。あの茶室は夜這いの疑似追体験場であった。武将たちは若い頃に、農家の娘の家に忍び込んだものだが、そのときの「思い出」を再現させた。茶室のにじり口とは、農家の娘が待っている部屋の、外からの入口であった。現代で言えば、ラブホを思い出せる造りだったわけだ。

 茶室のにじり口を、武士も商人も誰も身分の差なく、同じように頭を下げなければ入れない、茶室に入れば平等であるという意味も込められていたなどとキレイゴトの解説をしているようだが、それはまあウソも100回言えば本当になっちゃう、の類いである。

 近年はご婦人も茶の湯を愉まれるようになったので、夜ばい…では都合が悪かったのだろう。





【関連する記事】
朝鮮通信使は鶏泥棒(2/3)
朝鮮通信使は鶏泥棒(1/3)
ドゥテルテの“英断”ふたたび
人類火星移住計画の大嘘
地球と磁場の謎
posted by 心に青雲 at 07:02| 東京 ☀| Comment(4) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わーなんということを!管理人さんも、とことんお人が悪い。

茶の湯を尊敬したことは、私にもありませんが・・・そこまでいうとは・・・あんまりじゃござんせんか?!

たしかにね、あの気取った感じは好きではなかったですよ。いちいち作法にうるさく、指一本の動かし方、つまみ方にもけちをつける!なんじゃ?と思ってはいましたが・・・なるほど・・あれは人払いのできる密室ですわな?

便利ですよね。

それはさておき「キリスト教ぐらい悪い宗教はない!」に大賛成。ほんとに悪魔の宗教ですぜ。

高校生ぐらいの時、モルモン教の集会に誘われて友達と言ったことありますが、一回きりでした。
Posted by 神戸だいすき at 2013年05月01日 20:39
神戸だいすき様

あなたから、また夢を壊した! とおっしゃらるれかなと「怯えながら」(笑)、茶室のことは書きました。
たしかに「人が悪い」かもしれませんね。

しかし、「出自」がどうであれ、現在は立派な礼儀作法というか、「藝術的」になったのは認めています。だから茶の湯を味わうとか、学ぶとかしていいのではないでしょうか。

天皇だって、大昔はどこかの馬の骨だったのですが、それは統治者としてある程度精進するところがあったから、「ご立派で」と言われるようになってきたのですから。

ですから茶の湯が利休の昔から、今のように洗練されていたと考えるのではなく、最初はクズみたいなものだったかもしれないが、先人達の努力が積み重なって優れた文化に成長したんだ、というほうが私は遥かにありがたみもあり、尊敬に値すると思いますよ。
Posted by 神戸だいすき様へ(ブログ筆者です) at 2013年05月02日 12:59
すばらしいお返事をありがとうございました。なるほど・・・なるほど、説得力のある御解答でございました。

私は、もちろん花嫁修業の最後の世代として茶道を少し習いました。

その時、もっとも感銘を受けたのは、畳の縁から5センチほど離して、「なつめ」を、置き、その横に、錦の棗の袋を並べて置くお作法の時・・・きりっとした、畳の縁の直線と、まるい棗。畳の素朴な色に、カラフルな錦の袋・・・その対比が見事で、美しく・・・日本だなあ…と思いました。

繰り返しますが、まさか!夜這いとか何とか言われるとは・・・www
Posted by 神戸だいすき at 2013年05月03日 22:22
神戸だいすき様

さっそくのご返事ありがとうございます。
にじり口は、昭和のころまではわずかに田舎の農家に娘の夜ばい客用の部屋だったところに残されていたものです。
もう21世紀の今はなくなったでしょうね。

往時の武将たちは、利休に茶室に案内されて、「にじり口」から入るように言われたときに、わかいころを思い出して胸をときめかせたのではないでしょうか。利休のいたずら心というか、粋な演出だったのでしょう。

夜這いについては、今日では何か陰微な印象とか、反道徳的に思う人がいるかもしれませんが、昔の農家では普通の婚姻の形式でした。
娘がいる農家では、男が夜這いで来てくれなければ困るわけです。ですから母親は夜中に、そっと部屋の中の気配をうかがって、そっと握り飯(夜食)を差し入れたりしたのです。

夜這いが普通の婚姻でしたから、娘に子ができても誰が父親かわからない。複数の男と夜這いを受け入れているのですから。
けれども、同族つまり「アカサタナ…」列の名字の平家系の人間とわかっているなら、誰の子でもかまわず、女系家族で育てたのでしょう。

女性がはいていらっしゃるスカートにいても、もともとはなんだったかご存知でしょう。いわば男の勝手な都合、だったんですよね。それを今は見事にファッションにし、「美」にしたではありませんか。
茶室もそういうものではないでしょうかね。
--------
2013年05月02日
新渡戸稲造 官製偉人の欺瞞(3/4)


《3》
 滝澤哲哉氏の『新渡戸稲造 武士道の売国者』(成甲書房)は、新渡戸稲造にからいだけでなく、日本武士にもかなり辛い点をつける。さてそれは正しいのかどうか。
 
 滝澤氏は「ユダヤ教を受けて成立したキリスト教は、『騙して、皆殺しにして、財産を奪え』、そして、『その奪った財産の1割を教会に喜捨せよ』と教える人殺しの宗教である。人類の歴史はユダヤ教徒とキリスト教徒によってもたらされた流血の歴史であり、それは現在も続いているということを明白に知っておかねばならない。」としたためる。

 「旧約聖書」は、人殺し、皆殺しの歴史を記述している。神なるものでさえ、民族抹殺を命じている。ところが新渡戸は、キリスト教を「最も穏やかで、最も平和を愛する宗教」などと語るのだから、偽善も極まるのだ。

 滝澤氏はこうした宗教の本当の姿、つまりキレイゴトの裏に隠された実態を見事に述べているのであり、まったく正しい。
 けれど、なのである。
 宗教が人間を騙したのはたしかではあるが、その騙されたはずの人間が立派な人格を形成したことも否定してはなるまい。

 「聖書」に書かれたことはデタラメであっても、それを真実と信じた人が、それをまじめに実践して、例えば貧民を救い、病人を助け、悩める人に手を差し伸べたことであった。例えば日本でも癩病は誰も感染を恐れて看護もしないで打ち捨てられていたが、キリスト教のシスターたちは怯まずに、癩病患者と接して看護をした。

 「敬虔な」という形容詞をバカにしたけれど、まさに騙された人のなかには「敬虔な」信者が出現したのだ。
 ウソから出たまこと、が出来した。
 とはいえ、人類の歴史で、白人キリスト教徒がやった植民地などでの異教徒殺戮などがチャラにされることはない。

 私は「武士道」なるものも、そういう奇妙な「ウソから出たまこと」があったと思う。
 教養人はいたし、科学で世界的発見をなした人物もいた。詩歌や美術をモノした武士もいた。刀術をきわめようとしたものだっていた。幕末の黒船が侵攻してきたときも、右往左往した幕閣もいたようだが、概ね堂々独立国という気概で対応したのも武士であった。
 全部の武士が、安藤昌益が指弾するような農民の寄生虫だとは言い切れまい。社会構造としては安藤昌益の言うとおりだったけれども。

 そも、日本の武士は西洋の軍人らに比べても穏やかである。
 滝澤氏はこう述べる。
 「言うまでもなく、人類の歴史は皆殺しの歴史である。対米英戦争に負けるまで、他民族による皆殺しのない日本は例外的な国だったのだ。こうした歴史がないため、日本人は他国からの侵略に対してまったく危機感が乏しい。敗戦後も米国の従属国になったまま、七十年近くが経っても米国から独立する運動が公然とは生じず、それを指導する者も出現しない。

 このまま危機意識の乏しさが続くと、今度こそ、ユダヤ・ロスチャイルド閥を頭目とする国際金融マフィアによって、日本人の持つ富は根こそぎ搾り取られてしまいかねない。」

 そのとおりだ。私もまったく同感である。キリスト教や国際金融マフィアに従属するだけでなく、支那やザイニチの侵略、工作にも危機感が乏しい。
 しかし、滝澤氏の述べたことで足りないのは、日本人がおとなしく長いものに巻かれるのは、「他民族による皆殺しのない日本は例外的な国だった」から、だけだろうか。

 私は、キリスト教のもつ矛盾、武士の持つ矛盾というべきか、マイナスの面よりプラスの面を見てしまったからではないかと思う。誤解であっても…。
 先に述べたように、悪道極まるキリスト教にも、また農民に寄生する武士にも、立派なところはあるからだ。悪い所は隠されるためでもあるが、日本人はそうした良いところを学ぼうとする。

 それは騙されたからだとは言えるが、しかし騙されたことを本当にしたのも確かなのでは?

 だから敗戦後、アメリカの文化・文明を抵抗なく取り入れる。韓国からもウソ八百の歴史ドラマや、韓流歌手の歌を喜ぶ。
 武士道もしかり、ではないのか。江戸時代、庶民は武士に威張られ、富を収奪され、脅されてきたにも関わらず、一方で武士を敬ったことも確かである。

 どういうわけか、「中庸」を日本人全員が支持し、そうなろうとしてきた。だから清濁合わせ飲む習慣が身に付いた。それのいい所もあるが、滝澤氏が指摘するように、国際金融マフィアにやられっぱなしになってしまう欠点もむろんある。

 もう一つ挙げれば、外国の宣教師が日本に来て、日本人をキリスト教徒にし、それを拠点にして日本を欧米帝国主義の植民地にすることを目指した。そして滝澤氏は、「宣教師はその尖兵である。福沢諭吉と慶応義塾は、これら尖兵の保護者であり推進者だったのだ」と説く。
 
 そのとおりに間違いない、だから慶應義塾は今でも、日本をユダ金に売り渡した竹中平蔵や榊原英資を恥ずかしげもなく教授に雇う。
 しかし一方で、福沢諭吉と慶応義塾が日本の学問や社会に貢献して来たことも否めまい。だから、受験生に高い評価がある。
 これもまた、ウソから出たまことである。

 これからは、しかし、本当の歴史の上にたってわれわれは文化・文明を創造していくべきである。ウソから出たまことではなく、本当から出た本物にしていくべきだ。
 
 「日本国民は明治以来、『ユダヤ教』や『キリスト教』等、一神教の恐ろしさを教えない一方的な欧米中心の教育を受けさせられてきた。特に、欧米美化の教育を強要されてきたので、江戸時代の日本に山片幡桃や麻田剛立、間重富のような立派な尊敬すべき啓蒙主義者や科学者がいたことなどまるで教えられていない。」
と滝澤氏がいうように、欧米盲従をやめ、本物から学んだ本当の文化を創っていかねばなるまい。






【関連する記事】
朝鮮通信使は鶏泥棒(2/3)
朝鮮通信使は鶏泥棒(1/3)
ドゥテルテの“英断”ふたたび
人類火星移住計画の大嘘
地球と磁場の謎
posted by 心に青雲 at 08:17| 東京 ☁| Comment(2) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いや・・・おっしゃる通りだと思います。
嘘から出た真・・・か、そういう言葉がありましたね。

たとえば、マザーテレサはカトリックのシスターです。私は、宗教としてのカトリックは、悪魔の宗教だと思っているのですが・・・現実に偉大な方はいらっしゃいます。

それが、もともとの神の教えは眞だったのに、悪魔が乗っ取りをかけて悪用したからなのか、もともと一神教に悪魔的な要素が濃いのか、私にはわかりません。

でも、イワシの頭も信心からというように、素直にまっすぐに信じる心に神が宿るような不思議は現実にあると思います。

武者小路実篤の「人間ばんざい」に、そういう人間のことがありました。神々は天空からだらけて、無責任に地上をながめおろして酒の肴にしているのに、人間は神々を崇拝しながら、高貴に滅亡していく…それを見て、神々が、おもわず襟を正して「人間、万歳」を叫ぶ・・・

武士道のために高潔な死を選んだ武士はたしかにありました。三宮事件の滝善三郎は、真の武士だったと私は信じています。

 >これからは、しかし、本当の歴史の上にたってわれわれは文化・文明を創造していくべきである。ウソから出たまことではなく、本当から出た本物にしていくべきだ。<

この管理人様のお考えに大賛成です。
でも・・・日本という国が、つねに天皇と為政者という二重権利構造、二重の価値観の矛盾を漕ぎぬけて、重心をあちこち移すことで、国を保ったことを思うと、今後も、同じように「本音と建て前」で、行きそうな気がします。

なによりも世代間断絶と、地域間断絶のこの文化の違い、価値観のずれは、実際、深刻です。
Posted by 神戸だいすき at 2013年05月02日 11:31
神戸だいすき様へ

ご賛同いただいたコメント、ありがとうございます。

天皇は、申し上げたように本来は「ザイン ニヒト ザイン Sein nicht sein」(非存在の存在)であって、権力として存在しないで、権威として存在しているぶんには社会は迷惑をこうむりません。
しかし後白河、後鳥羽、後醍醐、昭和の代では天皇が権力を握り、行使ししようとしてまさに「二重権力」状態が深刻になったのです。
Posted by 神戸だいすき様へ(ブログ筆者
----
騎打ち >>
2013年05月03日
新渡戸稲造 官製偉人の欺瞞(4/4)


《4》
 滝澤哲哉氏は新渡戸稲造の『武士道』が、いろいろ説いている概念を無規定のまま、そして抽象的に述べているばかりだと批判している。
 たとえば勇気、不屈、愛、仁など、武士に備わった美質としょうするものを、それはこうだと規定することなしに、垂れ流すのである。その指摘は正しい。新渡戸の文章はそういう意味で杜撰、いい加減だ。とても名著とはいえない。
 学者でも作家でもない。

 一例を挙げれば、新渡戸は「剛勇、不屈、大胆、剛胆、勇気は、青少年の心にきわめて容易に訴えかけ、鍛錬と模範で訓練できる魂の性質であるから、青少年の間で早いころから見習わせた、最も人気のある徳であった」としたためている。

 それを滝澤氏は以下のように反論する。
 「剛勇や不屈、大胆、剛胆、勇気などの精神教育を、青少年の頃より実践させること自体は結構なことである。しかし、国家を私物化している支配者は、決してこのような善い精神教育を青少年に施すとは限らない。
 彼らは、使用人である武士の青少年の頃より、剛勇、不屈、大胆、豪胆、勇気などを、むしろ「生存の保障」を否定する方向で実践する悪い教育を行なう。新渡戸はそのような教育と鍛錬を「最も人気のある徳であった」と主張しているのだ。」

 つまり豪胆とか勇気とかの徳目は、国家とか企業とか、宗教団体とかを私物化した権力者が、使用人や国民を戦争に駆り立て、「大胆」に「不屈」の精神で産業を担い、一旦緩急あるときは喜んで死ぬよう子供の頃から教育するものなのだから、結局は人民の「生存の保障」を与えぬ施策なのだと滝澤氏は説く。

 滝澤哲哉氏は、この本の中でしきりに「生存の保障」と書いている。
 人間はまず生きることが保障されなければならないとする。国家権力やキリスト教のような宗教は、歴史的にみても国民を欺き、富を収奪し、奴隷のようにこき使い、戦争に駆り出して殺戮してきた。
 
 キリスト教は、聖書に書いてあることがそのまま事実だと信じさせようとする。これが「科学を破壊し、知力を減衰させ、科学的な営為を積極的に堕落させ、『生存の保障』を否定する」と述べる。
 そのとおりに、宗教は科学の敵であった。当然科学なら救われた人の命も奪われ、考えることで社会の矛盾を解決しようとする学問の営為を阻害してきたのだから、国民が生存する権利を侵害したのだ。

 本稿でもこれまで述べてきたが、キリスト教は神を信じれば衣や食べ物を求めてガツガツしなくても、ちゃんと神が与えてくれると教えるけれど、これは建前で、キリスト教徒は世界中で、何千年間も、異民族の富、資源、土地を略奪して来たし、その戦争の兵隊として信者を動員し殺してきた。

 新渡戸は『武士道』で、キリスト教の建前だけ称讃した。武士についても同断である。
 新渡戸はただ単に、古今東西の良さげな書物については博識をさらしているが、根本は嘘つきだと断じている。
 新渡戸がイカサマ師だったことは認めるのだが、滝澤氏の歴史の見方としてはそれでいいのだろうか。

 そして、武士階級も権力を握って、武力で民の生殺与奪の権利を行使してきた。飢えた民がいようとも、それに寄生する武士は非情に農作物を奪って、民の「生存の保障」を破壊した。民に知識を与えず、武器も与えず、移動の自由さえ禁じた。これらはみんな滝澤氏の言う「生存の保障」を侵害したのである。

 この理屈は間違いだとは言いにくい。ちょうど自殺した子が出た学校で、校長が「命の大切さ」を説くように、あるいは沖縄のサヨクが「命(ぬち)どぅ宝」などと言うのと似ている。

 これまでの人類の歴史は、この権力や宗教が、民の「生存の保障」を奪われてきた歴史であり、それを奪回しようとする勢力との戦いだったというわけだ。
 いうなれば階級闘争史観であろうか。

 現在の価値観で言うなら、滝澤氏の言うことは正しいだろう。人間にはまず「生存の保障」がなされるべきだというのは。
 しかしその原則を、そのまま歴史全体に当てはめるのはいかがかと思う。
 その時代にはその時代のいわばやむを得ざる統治形態があったはずである。

 いかにも封建体制とは、権力者が武力で国家を私物化したものだ。民は虫ケラのごとく扱われたと言っても間違いではなかろう。
 しかしそうした封建時代に、国民主権、万人平等みたいな社会が出現したらどうなる? 民にそんな統括の実力はなかったはずである。

 滝澤氏はヘーゲルの研究家で、『ヘーゲル哲学の真髄』という書物を著しておられるくらいだが、ヘーゲルはいわば発展史観を(哲学の歴史)と解いたのだ。絶対精神の自己運動として。
 それを踏まえれば、人類は始めから完璧であったわけがなく、全体として運動して、変化してきたのだと知るべきことではないか。

 実際に、人民の「生存の保障」を優先させた(という建前の)ロシア革命を強引に実現させてしまったがために、ロシアはどうなった? 中共は? 北朝鮮は? 資本主義社会では人民は「生存の保障」が得られないから、共産主義が善いとしたのではなかったか。

 だが、共産主義革命は(実はユダ金の仕掛けではあったが)失敗に終わった。
 それは人民優先ではないが、ロシアも中共も、いったん近代資本主義にまともに移行すべきだったのである。労働者の搾取をマルクスは説いたが、そうしなければ富の集中と蓄積はなく、社会の発展もなかったのだ。それを飛ばして、いきなり人民主権とやってしまって、全然うまくいかなかった。
 ロシアは近代資本主義で、富を資本家に集中させるべきであった。むろんそれでは人民の「生存の保障」はないがしろにされるだろう。だが、歴史はそういう段階をとおらなければならないのである。

 遠い昔(紀元前73年)にスパルタカスの反乱がローマ帝国で起こった。奴隷の反乱であった。マルクスが主導者のスパルタカスを「古代プロレタリアートの真の代表者」と褒めたが、それは間違いである。
 たしかに奴隷の境遇は悲惨である、「生存の保障」は踏みにじられていた。
 だが、スパルタカスらは反乱は起こせても、奴隷解放は夢物語で、仮に自分たちが天下を取ったとしても、ローマ帝国と同じことをしたに違いないのである。
 当時は奴隷経済しか、人類は考えつかなかった。

 人類はローマ帝国時代で、まだ多くの人間の「生存の保障」を犠牲にして、国家の統括をするしか、実力がなかったというべきである。

 滝澤哲哉氏の『新渡戸稲造 武士道の売国者』を取り上げて論じてきたが、長くなりすぎたので、ここで終わりにしたい。
 明日は稿を改めて、武士道に関連して補足的に考えてみたい。

---------

無教会&クエーカー

クエーカー③ジョージ・フォックス
2012-03-01 12:51:24
テーマ:無教会&クエーカー
$新時代のキリスト教
17世紀のイングランドで、さまざまの会派が乱立する宗教的激動の時代に、ジョージ・フォックスとクエーカーも誕生した。

ジョージ・フォックス(George Fox、1624年7月 - 1691年1月13日)は、イギリスのレスターシャー州ドレイトンインザクレイ(現在のフェニードレイトン)でうまれた。父クリストファー・フォックスは機織り職人で、「正義のクリスター」と近隣の人々から呼ばれ、母メアリー・ラゴは「殉教者の家系の出」であると述べている。

正式の学校教育を受けていなかったが読み書きはでき、日記はクエーカー以外にも人気があり、現在も読まれている。http://www.strecorsoc.org/gfox/

幼い頃から聖書に魅了され聖書の勉強を続けた。「私が11歳になった時、純粋さと礼儀正しさを知った。なぜなら、子どもだった時、私は純粋なまま歩んでいく方法を教えられたからだ。神は私にあらゆる事柄について敬虔であれと教え、そして、敬虔深く2つの方法を実践するように教えた。すなわちそれは、内面的には神に対して、外面的には人に対しての実践である。」

大人になって、家族は「牧師になったらいいのではないかと考え」たが、そうせずに靴職人と牧畜業者の見習いになった。羊飼いとして過ごした短い時期は、人生観を形成するのに大変重要であった。アベル、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデが全て羊飼いあるいは牛飼いであったということ、そしてそれゆえ、学問的な教育は聖職者の素質とは関係がないということを指摘している。

牧師を訪ね、宗教的な事柄について長い討論を行っても、多くの問題について不一致が多く狂人呼ばわりされた。友人たちのふるまい、とりわけ飲酒について見下すようになった。ある晩の祈りの中で、彼は内なる声が「お前はいかに若者たちが空しさの中にいるのか、年老いた者たちが地に埋もれているのかを見たのだ。そして、お前は彼ら全てを見捨て、関わらないようにし、彼らに対してよそ者でいなければならないのだ」と言うのを聞いたと記録している。

【最初の旅】
19歳の1643年9月に苦悩の中、光を求めドレイトンインザクレイを離れた。宗教学者らが教えている教義に自ら沿っているとは感じられない中、聖職者仲間を精力的に捜し求めたが、「彼らから安らぎを得られなかった」。というのは、フォックスが悩んでいる数々の問題に対してあまりにも能力不足に思われたからである。

1644年6月、失望と落胆の中で故郷に戻っても、手助けしてくれる人は見つからなかった。フォックスの家族や友人たちは、困難を解決する方法として、結婚や軍隊への入隊という道を提案したのである。間もなくもう一度旅に出なければならない、しかも今度は、いずれ遭遇することになる宗教の姿に近づくための探求の旅にしなければならないのだと決心した。承服できない事柄に対し、妥協するのではなく、自分の心の声に従い挑戦するのだと心を決めた。

【「内なる光」との出会い】
それから数年にわたり、イギリス中をひたすら旅し続けた。1646年、22歳で「生けるキリストの内なる光」に触れ、信仰の一大飛躍を経験した。

キリスト者は外部に向けての実践の点でそれぞれ異なるが、全てに言えることは、信仰のゆえに「救われた」と考えていることである。ゆえに、真の魂の回心を経験しない限りは、儀式のようなものは大して重要と考えないでいられる。

聖職者に必要とされる資質は、聖なる魂によって与えられるのであり、教会での研究によって与えられるものではない。このことは、誰もが聖職者になる資格を持つことを暗に意味している。そこでは、神の精神が女性も含めた彼らを導くことが想定されている。

神は「従順な人々の心の奥深い中心に住む」のであって、宗教的経験は教会という建物によって定義されるものではない。実際、フォックスは建物としての「教会」という言葉を使うことを拒み、その代わりに「尖り屋根の家」という言葉を使った。この用語は、現在でも多くのクエーカーが使い続けている。フォックスは野原や果樹園などで礼拝をすることを好み、神の存在はそういう自然な世界の中でもまた感じられると信じていた。

分派の聖職者たちの中にも、その状態を説明できるような人物は誰一人としていないと知ったフォックスは典礼、聖職、教会出席を拒否し、真理は聖典や信条の中にではなく、魂に直接自らを示される神の声の中に見出されると教えた。

【迫害】
このような教えを認めれば教会組織が崩壊してしまうので、国教会からもピューリタンからもフォックスらは殴打などの激しい妨害を受けながら放浪を続けた。生涯法廷に引き出されること60回、投獄8回、獄中生活は計8年に及んだ。

1669年にフォックスは、共に投獄されていた上流階級の女性で早くからの改宗者、マーガレット・フェルと結婚した。マーガレットは夫が死去し、再婚だった。二人の宗教活動は、互いに人生の根幹を成すものとなり、大量の業務を共同で行った。

【アメリカへの旅】
1671年、アメリカ大陸に行き2年間滞在した。フォックスは先住民と会いたいと思い、先住民はクエーカーの方法に興味を持っていた。フォックスは先住民の普段の物腰に感動し、愛情と敬意を表明、「先住民には神の光と聖霊はない」という教会の意見に真っ向から反対した。
$新時代のキリスト教


【日記と手紙】
1691年1月13日に死去し、日記は1694年初版が出版された。日記と手紙は宗派を越えて、「真理の光」を求める人々に読まれ、17世紀の町や村の日常生活を詳しく知ることができると歴史家にも利用されてきた。http://www.strecorsoc.org/gfox/

「フォックスの神秘体験は宗教、宗派を越え、民族、性別、時代を越え、死をも恐れず「真理の光」を求める者が体験する、魂の内奥の普遍的ドラマである。

詩人ホイットマンは、「ジョージ・フォックスは人間の恐らく最も深くにある静かな時間に起き上がる思考(人間の精神の最も内にある考え)を表している。この思考は神の思考であり、人間に備わった道徳と不道徳を合わせたものである。偉大なり。この考えはいつも偉大で、他のあらゆるものより偉大なものである」と書いた。