2016/10/02

内村鑑三 - Wikipedia

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内村鑑三

内村鑑三
67歳の内村鑑三(1928年5月)
人物情報
生誕1861年3月23日
日本の旗 武蔵国江戸小石川
(現:東京都文京区小石川)
死没1930年3月28日(満69歳没)
日本の旗 東京府豊多摩郡淀橋町柏木
(現:東京都新宿区
出身校東京英語学校
札幌農学校(農学士)
(現北海道大学農学部の前身)
米国・アマースト大学(理学士)
配偶者浅田タケ(離婚)
横浜加寿子(死別)
岡田静子
両親父:内村宜之
母:ヤソ
子供浅田ノブ
内村ルツ子
内村祐之
学問
特筆すべき概念無教会主義
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内村 鑑三(うちむら かんぞう、万延2年2月13日1861年3月23日)- 昭和5年(1930年3月28日)は、日本キリスト教思想家文学者伝道者聖書学者福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。「代表的日本人」の著者でもある。

生涯[編集]

幼少期[編集]

万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる[1][2]。 慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。
明治4年(1871年)の廃藩置県により、高崎藩知事の大河内輝声は罷免された。父も県小参事を免ぜられ隠居した。高崎で白井という人より手習いを受けた後、大河内輝声の創立した英学校に入り、小泉という教師より初めて英語を教えられ、英語に勤しむようになった。
明治6年(1873年)に単身で上京して、有馬学校英語科に入学した。この時の同級生に後の日本銀行総裁の三島弥太郎がいる。有馬学校で1年学んだ後、東京外国語学校の下等第四級に編入した。この時の同級生に、末松謙澄天野為之佐藤昌介らがいた。後の首相・加藤高明は一級に在籍していた。この学校で教師のM・M・スコットより、グループメソッドという新しい英語教育を受けた。在学中、一年だけ病気のために休学し、杉田玄端から治療を受けた。一年遅れたことにより、新渡戸稲造宮部金吾と同級になる。この三人は終生にわたって親交を結ぶことになった。その頃初めて英文講読で『旧約聖書』の聖書物語に触れた。

札幌農学校時代[編集]

明治10年(1877年)4月に東京英語学校東京大学予備門と改称されて、東京英語学校を終了すれば東京大学への進学が認められることになった。しかし、内村が入学して3年後の明治9年(1876年)、北海道開拓に携わる技術者を養成する目的で札幌農学校が創立された。内村は、北海道開拓使の役人の演説と官費生の特典に心を動かされて、経済上の理由もあり、札幌農学校への入学を決意する[3]。 札幌へ旅立つ前に、東京ので1ヶ月の合宿をした。その時、東京大学予備門時代の同級・新渡戸稲造、宮部金吾、岩崎行親らと立行社というグループを結成した。
内村鑑三らが第三学年の時の札幌農学校の校舎、一番手前が寄宿舎
新渡戸稲造、宮部金吾と共に札幌農学校時代
内村と藤田九三郎の設計により1883年に竣工した札幌独立教会
内村ら第二期生が入学する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークら、お雇い外国人の強い感化力によって第一期生は既にキリスト教改宗していた。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。内村はヨナタンというクリスチャンネームを自ら付けた。当時札幌には教会がなかったので、彼らは牧師の役を交代で務めた。そうして毎日曜日の礼拝を学内で開き、水曜日には祈祷会を開いていた。改宗することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。
明治11年(1878年6月2日には、アメリカ・メソジスト教会M.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「小さな教会」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。その学生の集団を札幌バンドという。
在学中、内村は水産学を専攻し明治14年(1881年)7月、札幌農学校を農学士として首席で卒業した。卒業の際、新渡戸、宮部、内村の3人は札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。卒業後、宮部は札幌農学校で教鞭を取るために東京大学に行き、新渡戸も農学校で教鞭を取ることになったが、内村は北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当した。勤務の傍ら、札幌に教会を立て、それを独立させることに奔走した。翌年に南2条西6丁目の古い家屋を購入して、札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を創立する。また、明治14年(1881年1)0月に結成された札幌YMCAの副会長になった。
弟三回全国基督信徒大親睦会、前から二列目左から五人目が内村鑑三
明治15年(1882年)に開拓使が廃止されると、札幌県御用係になり、漁業調査と水産学の研究を行った。ほどなく伝道者になるために県に辞職願を提出した。同年6月に辞職願は受理された。その後、津田仙学農社農学校の教師になり、12月からは農商務省の役人として水産課に勤め、日本産魚類目録の作成に従事した。同月の第三回全国キリスト信徒親睦会には、札幌教会代表で有名な演説を行った。
明治16年(1883年)夏に安中教会を訪問した時に知り合った浅田タケと、両親の反対を押し切って明治17年(1884年)3月28日に結婚した。しかし、半年後には破局して離婚した。原因はタケの異性関係の疑惑とも言われている[4][5]

アメリカ留学時代[編集]

浅田タケとの結婚が破局した後、両親と友人の勧めにしたがって、明治17年(1884年)に私費でアメリカに渡り、11月24日にサンフランシスコに到着する。拝金主義人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。渡米後に何のあても持っていなかった内村は、メリマン・ハリス夫人によりミデヤの叔父の家を紹介された。ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のエルウィンの養護施設を尋ねた時に、医師である院長のI.N.カーリンと出会い、そこの知的障害児養護学校で看護人として勤務することになる。
1885年(明治18年)6月にカーリンはワシントンD.C.の全米慈善矯正会議に出席する際に内村を同行した。ワシントンで大統領グロバー・クリーブランドに面会している。ワシントン滞在中に終生の友である、D・C・ベルと出会った。
この時期、札幌農学校同期の新渡戸稲造また、佐伯理一郎とともにフィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒のウィスター・モリスと親交を持つ。
この頃、日本にいた浅田タケは4月15日、女児ノブを出産した。タケはそのことで手紙で復縁を迫った。タケに洗礼を授けた新島襄も内村に説得したがきっぱりと断った。
アマースト大学
内村はペンシルベニア大学で医学と生物学を学び医者になる道を考えていた。カーリン夫人はユニテリアンでハーヴァード大学で学ぶことを勧めたが、米国滞在中の新島襄の勧めで、9月に新島の母校でもあるマサチューセッツ州アマーストアマースト大学に選科生として3年に編入し、新島の恩師J・H・シーリーの下で伝道者になる道を選んだ。
在学中、アマースト大学の総長であり牧師でもあるシーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験した。1887年(明治20年)に同大学を卒業し、Bachelor of Science(理学士)の学位を受ける。続けてシーリーの勧めで、コネチカット州ハートフォード神学校英語版に入学するが、神学教育に失望し、1888年(明治21年)1月まで学業を続けたが退学。神学の学位は得ないまま、5月に帰国。

教員時代[編集]

在米中に新潟県北越学館への教頭としての招聘が一度あったが内村は断り、帰国後に新島襄の仲介で契約が成立し、明治21年(1888年)6月6日に館主・加藤勝弥約定書を交わした。新島によると独立心の強い内村は新潟行きに難色を示し、正教頭ではなく、仮教頭で赴任した[6]。 北越学館で1年間勤務した。北越学館ではエレミヤ書を講義し、土曜日には講演会を開き、ルターについて講義した。就任一ヶ月後に、宣教師の運営方針に反発する見解を表明、宣教師たちも内村の下で働くことを拒否し辞職を通告して、学生を巻き込んでの学館紛争になった。調停のために、新島襄は横井時雄を派遣するが、効果はなく。成瀬仁蔵は内村と激しく対立して、意見書を著し辞職を迫った。孤立した内村は赴任後わずか4ヶ月で辞職した。
戦いに敗れて東京に戻った内村は植村正久の一番町教会(現、日本基督教団富士見町教会)で説教したり、東洋英和学校明治女学校水産伝習所などで教鞭を執る。東洋英和学校では山路愛山が内村の「万国史」の教えを受けた。明治22年(1889年)7月31日に旧高崎藩士の横浜恕の娘・かずと結婚した。

不敬事件[編集]

明治23年(1890年)から、植村正久の一番町教会の長老・木村駿吉の推薦により、第一高等中学校の嘱託教員となった。
明治24年(1891年1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。事態の悪化に驚いた木下校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて、改めて内村に敬礼を依頼した。内村はそれに同意したが、悪性の流感にかかっていたので、代わりに木下駿吉が行った。
しかし、マスコミが大きく取り上げて「内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝され、事件はキリスト教と国体の問題へ進展した。内村は流感で病床にあり意識不明だったが、2月に本人に知らない間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、1月31日には本人の名前で辞職願いが出されて、2月3日付けで依願解嘱された。これがいわゆる「内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」である。

加寿子の死[編集]

妻かずは、夫に代わって抗議者を引き受けたが、流感で倒れてしまった。かずは2ヶ月の病臥の後に、4月19日に死去した。
不敬事件と伴侶の死で憔悴しきった内村は札幌に行き、新渡戸稲造と宮部金吾の元で1ヶ月すごした後、帰京した。そして、本郷教会の横井時雄が内村を支え、教会でエレミヤ書の講義をさせたり、『基督教新聞』に執筆の場を与えたりした。明治25年(1892年)1月より、横井時雄の世話で、日本組合基督教会の京橋の講義所の説教者になった。その後、組合教会の総会にも出席している。不敬事件で教員の道を閉ざされた内村は伝道者の道を本格的に歩み始めた。同年の夏に、千葉県君津郡竹岡村に滞在した。一ヶ月間熱心に伝道して、8月25日に天羽キリスト教会(竹岡美以教会)が設立されることになった。
千葉から帰るとすぐに、泰西学館、高等英学校(現:桃山学院高等学校)、熊本英学校名古屋英和学校(現:名古屋高等学校)と教壇に立ち、一時期は京都にも住んだ。

静子との再婚[編集]

明治25年(1892年)のクリスマスに京都の旧岡崎藩士で判事の岡田透の娘・静子と結婚した。この頃、帝国大学文科大学教授の井上哲次郎によって「不敬事件」の論争が再燃した。明治26年(1893年)になると、井上の所論をめぐりキリスト教会はもとより、仏教界、思想界、学会、教育界、ジャーナリズム界で大論争が巻き起こった。内村は井上の記す「不敬事件」に事実誤認を指摘して反論したが、国家主義的な時流により、世論は井上に味方した。
この流浪・窮乏の時代とも呼べる時期に、内村は、『基督信徒の慰』、『求安録』、『余は如何にして基督信徒となりし乎』( How I Became a Christian) を初め、多くの著作・論説を発表した。
熊本英学校時代の内村と妻静子
明治26年(1893年)4月に熊本英学校の教師として赴任し7月まで務め、その後は京都に住んだ。京都に帰る途中で、須磨で開かれたキリスト教青年会第6回夏季学校に講師として出席した。横井時雄と共に講演し、内村は日本教会論を語った。この論は、翌年2月に発行された『基督信徒の慰』にも記されている。
京都では、便利堂の中村弥左衛門と弥二郎が経済的に内村を支えた。明治27年(1894年)の箱根でのキリスト教青年会第7回夏季学校では「後世への最大遺物」を行う。これが、便利堂によって明治30年(1897年)に刊行されている。森敦はこの本を非常に愛読していたという。
不遇だった京都時代を助けたのは徳富蘇峰だった。蘇峰のおかげで、『国民之友』に文を発表し生活を支え、文名を上げることができた。『国民之友』の編集の国木田独歩も、内村に感銘を受けた一人である。明治29年(1896年)に妻を亡くした時に、アメリカ行きを思い立ち、内村に手紙で相談している。

新聞記者時代[編集]

明治30年(1897年)に黒岩涙香が名古屋にいる内村を訪ねて朝報社への入社を懇請した。内村はためらいつつも黒岩の説得に答えて朝報社に入社した。同社発行の新聞『萬朝報』英文欄主筆となった。一高時代の教え子山県五十雄らと共に、通算二百数十篇の文章を書いた。この文章は外国人系新聞からマークされ、松井広吉ら日本人にも愛読された。同年3月16日には、英文欄にて足尾銅山の鉱毒問題を取り上げた。
翌明治31年(1898年)5月22日には黒岩の熱心な慰留にもかかわらず朝報社を退社した。そして、同年6月10日より、山県悌三郎を社主として、『東京独立雑誌』を創刊し主筆となりジャーナリストとして独立した。坂井義三郎佐藤迷羊西川光二郎佐伯好郎中村諦梁らが編集者になり、大島正健松村介石留岡幸助元田作之進田岡嶺雲、山県五十雄、駒井権之助らが寄稿した。内村の論評に対して、高山樗牛が雑誌『太陽』で公開質問状を発表した。
明治32年(1899年)6月、女子独立学校の校長に就任したことで、角筈の敷地内に居を移し、東京独立雑誌の発行所も角筈に移った。しかし、明治33年(1900年)7月5日に内村の問題により突如、廃刊されることになり、同社は解散した。その後旧社員は『東京評論』を創刊して、深刻な敵対関係になった。

『聖書之研究』時代[編集]

明治35年(1902年)夏に角筈で行われた第三回夏期講談会の集合写真、前から二列目中央が内村鑑三
『東京独立雑誌』の廃刊直後に、すでに誌上で参加募集していた第一回夏期講談会を、旧社員らの反対にもかかわらず、自分の責任により独立女子学校で行った。内村を始め、留岡幸助、松村介石、大島正健らが講師になった。小山内薫青山士荻原碌山井口喜源治西沢勇志智倉橋惣三武藤長蔵森本慶三小林洋吉らが参加した。参加者により、上田小諸独立倶楽部が結成されると、各地で伝道を始めた。内村は8月に群馬県を訪れて、上田を拠点にキリスト教の伝道活動をしようとしたが断念し、同年10月より、日本で最初の聖書雑誌である『聖書之研究』を創刊した。聖書之研究は内村の死まで続けられたライフワークになった。聖書之研究を創刊する一ヶ月前9月より、生活のために万朝報の客員として復帰し、今度は日本語の文章を寄稿した。『聖書之研究』創刊号で生徒を募集して10月に聖書研究所を発足させる。この時期から自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れる。それらは、25人定員の角筈聖書研究会になる。その中の、熱心な12名は角筈12人組と呼ばれた。明治34年(1901年)3月には『聖書之研究』の読者の交通機関を目的に月刊の『無教会』を発刊した。

足尾銅山鉱毒問題[編集]

明治34年(1901年)4月21日に、栃木県足利の友愛義団に招かれて、巌本善治木下尚江と共に講演した。翌日4月22日に、木下尚江と共に、初めて足尾を訪れた。足尾の鉱毒の被害を激しさを知って驚いた内村は、帰京すると『万朝報』に記事を書いた。これが、『鉱毒地遊記』である。その中で、鉱毒問題の原因を経営者・古河市兵衛の起こした人災であると言った。
5月21日には、東京神田の東京キリスト教青年会館津田仙を座長にして足尾鉱毒問題の『同情者』の会が開かれ、田中正造が説明をした。その結果、鉱毒調査有志会が結成され内村と巌本善治が調査員に選ばれた。6月21日より、有志会の調査が、内村を主査、田中正造が案内役として始まった。そして、11月に調査会の弟一回報告が内村、巌本善治、田中弘之高木政勝の連名で出された。
1901年10月に札幌を訪れた内村鑑三
また、7月20日に内村は黒岩涙香、堺利彦幸徳秋水天城安政円城寺清斯波貞吉、山県五十雄らが発起人なり社会改良を目的とする理想団を結成した。夏には、第二回夏期講談会が開かれ、巌本善治が講師になり、小山内薫、志賀直哉、倉橋惣三浅野猶三郎斎藤宗次郎に加えて、足尾鉱毒被害地の田中正造の片腕の永島与八らが出席した。
11月1日には東京キリスト教青年会館で足尾鉱毒演説会に、内村は巌本善治、安部磯雄、木下尚江、島田三郎と共に出席した。内村は、鉱毒問題が色慾問題であることを説いた。11月29日には桐生教会の訪問途中で佐野駅で降りて、被害地を再び訪問する。12月10日には田中正造の明治天皇直訴事件が起こり、そのような中で12月12日に再び東京キリスト教青年会館で巌本、黒岩、幸徳伝次郎(秋水)、佐治実然三宅雄二郎らと足尾鉱毒演説会を開いた。内村は古河市兵衛にポーコを加えよと叫んだ。12月27日には、田村直臣を委員長、安部磯雄を監督委員として、約800人の学生によって鉱毒被害視察旅行が行われ、内村、木下らも同行した。
しかし、明治35年(1902年)になると、4月2日の鉱毒問題解決演説会に出席した以外は、運動への参加が消極的になり、聖書研究へ沈潜していくことになる。3月10日の理想団晩餐会の席上でも、社会の改良法をめぐり、「内村が個人、安倍が社会と個人」と発言し、安倍磯雄との違いを述べた。

非戦論[編集]

1905年1月、日露戦争中の内村の父宜之と息子祐之
日清戦争は支持していた内村だったが[7]、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになる。6月24日に東京帝国大学戸水寛人ら7人の教授が開戦を唱える建議書を提出し、それが公表されると、6月10日には『戦争廃止論』を萬朝報に発表した。萬朝報も当初は非戦論が社論であったが、明治36年(1903年10月8日、世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じると、内村は幸徳秋水、堺枯川と共に萬朝報を離れることとなった。
萬朝報退社後も、『聖書之研究』を通じて非戦論を掲げていたが、明治37年(1904年)2月には日露開戦にいたった。戦争中は、日本メソジスト教会本多庸一や日本組合教会の小崎弘道らキリスト教の多数派が主戦論に傾いて積極的に戦争に協力したが、非戦論は内村や柏木義円などのきわめて少数であった。内村はキリスト者の間でも孤立していたものの、明治37年(1904年)のクリスマスを迎えた内村が、クリスマスは平和主義者の日であって「主戦論者はこの日を守る資格を有せず」と述べたことについては、中里介山が内村の言葉に拍手喝采を送り、半年後に『新希望』(『聖書之研究』の改題)に「予が懺悔」という文を寄せている。
なお、戦争反対を強く訴えた内村だったが、彼の元に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言した。弟子の斎藤宗次郎が、内村に影響されて本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をした時には、内村がわざわざ岩手県花巻の斎藤のもとを訪れ、説得して翻意させている。この言動は「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」ことを信者に対して求める、無教会平和主義者の教理(「戦争自体に直面したときの無抵抗」)に基づいている。内村は「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、弟子に兵役を避けないよう呼びかけた。また、「悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される」と論じた。そして内村は「神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった」という言葉を戦死者の弟子に捧げるとともに、若きキリスト教兵役者へは、個人の救いとしての「身体の復活」と社会の救いとしての「キリストの再臨」の信仰に固く立つよう勧めた。
以上の内村の非戦論思想における、「戦争政策への反対」と「戦争自体に直面したときの無抵抗」という二重表現は、あらゆる暴力と破壊に対する抗議を表明すると同時に、「不義の戦争時において兵役を受容する」という行動原理を明確にした。

教友会の結成[編集]

1904年11月に精神障害を患っていた母親が死去する。すると、弟の達三郎が、母親を死に至らしめたのは内村であると責め始め、母親の葬儀では内村に妨害と侮辱を加えた。この争いは、『東京パック』の北沢楽天の風刺画で取り上げられ、兄弟間の骨肉の争いは世間に知られることになった。
この騒動をきっかけに、内村は自身の肉親よりもキリスト者との交流を求めるようになり、角筈聖書研究会が再開され、聖書之研究の読者組織である教友会の結成を呼びかけるようになった。東京の角筈に最初の教友会が設立され、新潟の柏崎大鹿三条、長野県では上田、小諸、東穂高、千葉県では鳴浜、栃木県では宇都宮、岩手県では花巻に結成された。そして明治39年(1906年)の夏には、新潟県柏崎で夏期懇談会を開き、明治40年(1907年)に夏には千葉県鳴浜で同じ懇談会を開催して、全国から教友が参加した。

社会主義批判[編集]

また、教友会の結成が進み始めた頃より、内村は社会主義者に距離を置くようになった。明治40年(1907年)2月には『基督教と社会主義』を小型の「角筈パムフレット」として刊行し、キリスト者と社会主義者との差を明確にした。明治41年(1908年)には社会主義者福田英子の聖書研究会への出席を拒絶している。
内村は年を経るごとに、社会主義をさらに明確に批判していくようになり、大正4年(1915年)には、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。
内村はキリスト者の立場から、他階級への抑圧を繰り返す社会主義の本質的欺瞞を指摘するとともに、後の社会主義思想の退潮を予言する、厳しい批判の言葉を残しているが、これらの言論をロシア革命以前から発していたことは注目に値する。そして内村の社会主義批判の姿勢は、矢内原忠雄ら内村の後継者の一部にも引き継がれることとなった[8]

柏木時代[編集]

今井館の前に立つ内村鑑三
柏会の集合写真、前列中央が内村鑑三
1910年頃の内村家
明治40年(1907年)11月、内村一家は角筈から淀橋町の柏木に移った。内村の感化された実業家の今井樟太郎の未亡人ノブの寄付により同年末に内村の活動のための建物を建設し、それが今井館と呼ばれるようになり、無教会主義キリスト教の本拠になった。明治41年(1908年)6月に『聖書之研究』第百号の祝いを兼ねて、今井館の開会式を行った。
明治42年(1909年)秋には、第一高等学校の校長・新渡戸稲造のもとで読書会グループを形成していた学生たちが、新渡戸の推薦状をもって、内村の弟子に入門した。この一団は内村によって柏会と命名された。10月29日に第一回明の会合を行った。岩永裕吉金井清川西実三黒崎幸吉沢田廉三膳桂之助高木八尺田中耕太郎田島道治塚本虎二鶴見祐輔前田多門三谷隆正森戸辰男藤井武らがメンバーになった。柏会が結成された二年後の明治43年(1911年)秋に『聖書之研究』で、読者であれば誰でも聖書研究会に出席しても良いと広告された。そして、同年10月1日に矢内原忠雄坂田祐らが出席した。矢内原は柏会に入し、坂田は南原繁と別の会を作り、明治45年(1912年)1月30日に、白雨会として発足した。
明治44年(1911年)の春頃より、女学校を卒業した娘のルツ子が原因不明の病のために病床に就くことになった。東洋宣教会の教師・笹尾鉄三郎に信仰の導きを依頼した。内村は看病で聖書研究の準備ができなかった、その頃に『デンマルク国の話』が語られ、学生たちに感化を与えた。内村夫妻の不眠不休の看病にもかかわらず、明治45年(1912年)1月12日にルツ子は18歳で夭折した。
柏会は大正5年(1916年)10月に解散して、藤井武、黒岩幸吉、塚本虎二、江原万里金沢常雄、矢内原忠雄、三谷隆正、三谷隆信、前田多門らが、純信仰的集団のエマオ会を創設した。
これらの会は、大正7年(1918年)から内村が再臨運動を始めると発展解消して、同年9月15日に内村以下82名からなる柏木兄弟団になった。しかし、その4ヶ月後には、門下の医者によりサマリヤ会ができ、大正12年(1923年)12月には足洗会という愛の交わりの集会が生まれた。これは、内村の死後も続き戦後「霊交会」という名前になり長く続くことになる。

再臨運動時代[編集]

中田重治、木村清松らと再臨運動を始めた頃、1918年頃
明治45年(1912年)の娘ルツ子の病死とアメリカ在住のアメリカ人の友人ベルの手紙での感化によって、内村の再臨信仰は形成された。大正6年(1917年)に宗教改革四百年記念講演会が成功に終わったことに励まされ、無教会の特徴である閉鎖的な集会の方針を変えて、大々的な集会を開催する方針になった。大正7年(1918年)より再臨運動を開始した。内村は再臨信仰において一致できるならば誰とでも協力したが、その一人が日本ホーリネス教会の監督中田重治である。もともと中田の設立したホーリネス教会は、主要教理の四重の福音の一つとして再臨を強調していた。
中田と内村は同じ柏木に住んでいた、それまで交流がなかったが、近所で発生した火災をきっかけに交流を持つようになる。互いに再臨信仰への使命も持っていることを知り、急速に接近して協力するようになった。それに、組合教会の巡回伝道者の木村清松と話し合い再臨運動を始めることになった。さらに、アメリカ留学から帰国したばかりの平出慶一武本喜代蔵自由メソジスト河辺貞吉聖公会藤本寿作らなどが加わり、超教派の運動として、再臨運動は展開された。運動は、当初東京や関西を中心に再臨講演会をもっていたが、後に北海道から岡山にまで及び、多くの聴衆が出席した。各地の教会に熱烈な信仰復興が起こり、キリスト教界に大きな影響を与えたが、大正8年(1919年)6月には海老名弾正らを中心に基督再臨反対演説会が開かれるなど、キリスト教会内部での反対運動も大きかった。キリスト教界に賛否両論の議論を生んだ運動は、明確な決着を見ずに、ほぼ2年で終息した。しかし、内村は生涯復活信仰を捨てなかった。

晩年[編集]

大正11年(1922年)10月世界伝道協賛会を創設して、世界の伝道事業に貢献する組織を作った。協賛会は毎月一回開かれて、世界の伝道のために祈り、献金が捧げられた。そして、同年暮れには、中国台湾南洋諸島の伝道を援助するために送金された。
大正12年(1923年)7月7日に、自分の後継者と期待していた元弟子の有島武郎が、人妻の波多野秋子と心中した。これを聞いた内村は『萬朝報』に「背教者としての有島武郎氏」という文章を載せた。死の原因を「コスミック・ソロー(宇宙の苦悶)」であるとのべ、激しい怒りを表明した。同年9月1日の関東大震災では長野県沓掛に滞在中で震災を逃れたが、2日に帰京した。内村の家族には被害がなかった。しかし、かれが心血を注いで福音を語った「霊的戦闘のアリーナ」であった衛生会講堂を失った。
1924年6月15日の内村の聖書講演会
大正13年(1924年)、同年に米国で可決された、排日法案に反対するために、絶交状態にあった徳富蘇峰と和解して、『国民新聞』に何度も排日反対の分を掲載した。また、植村正久や小崎弘道ら教会指導者と「対米問題」について議論を重ねた。
大正15年(1926年)には、内村聖書研究会からアルベルト・シュヴァイツァーに送金された。昭和2年(1927年)には、シュヴァイツァー後援会を設けて、事業を積極的に支援した。
札幌農学校の仲間とハリスの墓参
昭和3年(1928年)6月2日の受洗50周年記念に同期生の新渡戸稲造、広井勇、一期生の伊藤一隆大島正健らと一緒に青山墓地のハリスの墓参りをした。同年7月から9月にかけて、北海道帝国大学の教授として札幌に赴任していた祐之一家と共に札幌伝道を行った。無牧になっていたメソジスト派の札幌独立キリスト教会で説教をし、伝道を助けた[9]。 伝道を終了するにあたって同教会の教務顧問に就任した。この頃から内村は体調を崩し始めた。
内村の既存の教会に協力的な行動に対して反発した塚本虎二らと、無教会主義の考えにおいて対立するようになった。昭和4年(1929年)暮れに、塚本らとの対立は激化して、分離することになった。これが原因で、内村はさらに病状を悪化させた。最晩年に師事したのが、大塚久雄であった。
昭和5年(1930年)1月20日に、柏木の聖書講堂で「パウロの武士道」について述べたのが公の場に出た最後であった。3月26日の内村の古希感謝祝賀会には本人は出席できず、長男祐之が挨拶した。翌々日、3月28日朝に「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」との言葉を最後に昏睡状態に陥り、午前8時51分に家族に見守られて死去した[10]
4月6日に内村の遺言により、内村聖書研究会は解散式を行い、「聖書之研究」は第357号をもって廃刊になった。

年譜[編集]

内村鑑三の墓。"I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God." と刻まれている。
夭折した娘ルツ子
  • 万延2年(1861年) - 上州高崎藩士内村宜之の長男として江戸に生まれる。
  • 明治6年(1873年) - 東京の有馬学校入学
  • 明治7年(1874年) - 東京外国語学校入学
  • 明治10年(1877年) - 札幌農学校入学、「イエスを信ずる者の誓約」に署名
  • 明治11年(1878年) - 受洗、洗礼名「ヨナタン
  • 明治14年(1881年) - 首席で農学校卒業、卒業演説「漁業も学術の一つなり」。開拓使御用掛となる。
  • 明治15年(1882年) - 父・宜之受洗礼。札幌独立教会設立。
  • 明治17年(1884年)
    • 3月28日、浅田タケと結婚(7ヶ月後破婚)。
    • 11月、渡米。
  • 明治18年(1885年) - エルウィン白知院にて看護人として働く。新島襄の紹介によりマサチューセッツ州アマースト大学に入る。
  • 明治19年(1886年) - 学長シーリーの人格と信仰の影響を受けて、キリストの贖罪の信仰を得る。
  • 明治20年(1887年) - アマースト大学卒業。ハートフォード神学校入学。
  • 明治21年(1888年) - ハートフォード神学校を退学し、帰国する。新潟の北越学館に赴任。12月に宣教師らと衝突して、辞職、帰京。
  • 明治22年(1889年) - 東洋英和学校、東京水産伝習所、明治女学校に教える。
    • 7月31日、横浜加寿子と結婚。
  • 明治23年(1890年) - 9月に第一高等中学校嘱託職員になる。
  • 明治24年(1891年)
    • 1月9日、不敬事件。
    • 4月19日、妻加寿子が病死。
  • 明治25年(1892年) - 大阪の泰西学館に赴任。
    • 12月23日、岡田シズと結婚
  • 明治26年(1893年) - 著作活動を始める。処女作は『基督信徒のなぐさめ』。同書で「無教会」という言葉を初めて使った。泰西学館辞任。熊本英学校赴任。8月すぐに辞任して京都に住む。
  • 明治30年(1897年) - 「万朝報」の英文欄主筆になる。
  • 明治34年(1901年) - 「無教会」を創刊。黒岩涙香らと「理想団」を作り、社会改良運動を行う。
  • 明治35年(1902年) - 角筈聖書研究会を自宅で始める。
  • 明治36年(1903年) - 日露非開戦論、戦争絶対反対論を「萬朝報」「聖書之研究」で発表。萬朝報客員を辞す。
  • 明治40年(1907年)
    • 4月13日、父宜之が死去する。
    • 11月、角筈より柏木に移転
  • 明治45年(1912年) - 長女ルツ子が病になり信仰の導きを笹尾鉄三郎に委ねる。1月12日ルツ子が死去する。ルツ子の死を通して復活信仰を得る。
  • 大正7年(1918年) - 中田重治、木村清松らと共に、再臨運動を始める。
  • 昭和5年(1930年) - 3月28日死去、遺言により「聖書之研究」は廃刊、内村鑑三聖書研究会解散。

著作[編集]

1923年頃、内村鑑三とその著作
  • How I Became a Christian
邦訳: 『余は如何にして基督信徒となりし乎』(岩波文庫 ISBN 4003311922 ほか)
  • Representative Men of Japan(『代表的日本人』 岩波文庫のちワイド版)1908年 - Japan and Japanese1894年)の改訂版
    • ヘルマン・ヘッセの父であるヨハネス・ヘッセは、上記『余は如何にして……』を1905年に、また本書を1908年に初めてドイツ語訳した人物として知られている。なおこの独訳本は、シュトゥットガルトのD.グンデルト社という出版社から刊行されたが、同社代表であったグンデルトはヨハネスの義兄弟にあたり、その息子のW.グンデルトは1906年に内村を慕って来日し、のちにドイツの日本学に多大な貢献をもたらす研究者となったことが知られている。[11]
  • 『基督信徒のなぐさめ』 - 1893年の内村鑑三の処女作。「無教会」という言葉が初めて使われた作品である。岩波文庫(1976年、ISBN 4003311914)。
  • 『求安録』 - 警醒社・福音社(1893年8月)。のち、岩波文庫(1939年、ISBN 4003311973)。
  • 『地人論』 - 初め『地理学考』の書名で刊行(警醒社、1894年5月)。第2版(1897年2月)で『地人論』と改題[12]。のち、岩波文庫(1942年、ISBN 4003311906)。
  • 『後世への最大遺物』 - 1894年7月のキリスト教徒夏期学校での講演をまとめたもの。1897年、便利堂より刊行。のち、岩波文庫(『後世への最大遺物・デンマルク国の話』、1976年、ISBN 4003311949)。
  • 『デンマルク国の話』 - 1911年の今井館での講演をまとめたもの。副題は「信仰と樹木とをもって国を救いし話」。同年の「聖書之研究」第136号に掲載。のち、岩波文庫(『後世への最大遺物・デンマルク国の話』、1976年、ISBN 4003311949)。
  • 『内村鑑三所感集』 鈴木俊郎編 岩波文庫
  • 『キリスト教問答』 講談社学術文庫
  • 『内村鑑三/岡倉天心』 新学社:近代浪漫派文庫、2004年
西郷隆盛(鈴木範久訳)、ダンテとゲーテ、余が非戦論者となりし由来、歓喜と希望、所感十年を収む。
  • 『内村鑑三全集』全40巻 岩波書店、1984年完結

参考文献[編集]

関連項目[編集]

人物[編集]

思想[編集]

その他[編集]

注・出典[編集]

  1. ^ 「自己を鑑みる」という用法は、『何に』鑑みるのかが欠落しているが、鑑三の父の勘違いによるものであろう。
  2. ^ 関根(1967)、6頁
  3. ^ 後に「なぜ帝大に入らなかったのか」という質問に対して、内村は「金がなかったから」と答えたという。関根(1967)、17頁
  4. ^ 関根(1967)、25頁
  5. ^ 内村鑑三の離婚”. ケベル先生のブログ2013年3月21日閲覧。
  6. ^ 北越学館で、1年間の契約と共に、内村は伝道活動に携わらないことが約定書で決められていた。北越学館のキリスト教のみを教え、日本のことを教えない点と、外国伝道会社の援助を得ることによって自主独立が損なわれている点について、信仰上の束縛を内村は嫌ったと思われる。鈴木(1984)、43頁
  7. ^ 「吾人は信ず、日清戦争は吾人にとりては実に義戦なりと」内村(1977)、308-311頁、(初出:内村鑑三「日清戦争の義」、『国民之友』、民友社、1894年9月。
  8. ^ 「矢内原にとって、キリスト教的観点に立てば唯物史観は偽キリストであり、矢内原がマルクス主義と対決してキリスト教弁護論を体系的に展開したのは、偽キリストからキリストを峻別するとともに、その挑戦に応じて現世同化したキリスト教を改革純化するためであった」(岡崎滋樹「矢内原忠雄研究の系譜-戦後日本における言説-」、『社会システム研究』第24号(2012年3月)所収、立命館大学)
  9. ^ メソジスト教会で洗礼を受けたが、1891年の不敬事件で除籍された。しかし、1900年以来内村は日本メソジスト教会の教会員に復籍していた。
  10. ^ 臨終の様子は祐之の「父の臨終の記」に克明に記録されている。内村(2006)
  11. ^ 鈴木(1995)、196-197頁
  12. ^ 第2版の冒頭に、親友の勧誘に従って改題した旨が書かれている。
    第二版に附する自序
    余は久しく本書の改題に躊躇せり、然れども二三親友の勸誘に從ひ、竟に先哲アーノルド、ギヨー氏の著書に做ひ、其名を籍りて此書に附するに至れり、勿論彼の優此の劣は余の言を待ずして明かなり。— 内村鑑三、『地人論』訂正版、1897年
  13. ^ 偉大なる上州人、内村鑑三のDNA:その1 2014年6月10日

外部リンク[編集]

2016/10/01

현실 너머의 세계를 만들다…오로빌의 실험

현실 너머의 세계를 만들다…오로빌의 실험

서어리 기자
2016.09.07 08:28:01

[김민웅의 인문정신] 허혜정 오로빌 코리언 파빌리언 코디네이터 인터뷰 (상)

사드 배치 문제, 국회 개회사 파동, 세월호 단식 투쟁…. 오늘도 어김없이 온갖 종류의 사회적 갈등이 언론 지면을 뒤덮는다. 어지러운 현실을 바라보고 있노라면, 정치나 종교 같은 차이들을 초월한 평화로운 공간을 꿈꾸게 마련이다. 그러나 언제나 그렇듯 '현실 너머'는 저마다의 상상 속에 갇히곤 한다.

현실 너머의 세계가 과연 존재할까? 알 수 없다. 그러나 적어도 그런 공간을 만드는 실험은 지구 상 어딘가에서 진행되고 있다. 인도에 터를 잡은 대안 공동체 오로빌(Auroville)이 바로 그런 곳이다. 여기 모인 50여 개국 출신의 2500여 명은 국적, 종교, 인종, 문화, 정치, 경제적 배경과 같은 차이를 뛰어넘어 조화롭게 사는 삶을 실천하고 있다.

모든 대안적인 것들엔 의구심이 따른다. 오로빌 공동체에 대해서도 마찬가지다. 정치적 차이가 극복이 되는가. 먹고 사는 문제는 어떻게 해결하는가. 오로빌에 대한 우리 사회의 의심 혹은 호기심은 끊이지 않는다. 이 물음에 답하기 위해 인터뷰에 응한 이는 허혜정 오로빌 허혜정 오로빌 코리언 파빌리언 코디네이터다. 다음은 지난달 24일 서울시 중구 서울 도서관 내 카페에서 김민웅 경희대학교 미래문명원 교수가 묻고 허혜정 씨가 답한 내용을 정리한 것이다.


▲김민웅 경희대학교 미래문명원 교수와 허혜정 오로빌 허혜정 오로빌 코리언 파빌리언 코디네이터. ⓒ프레시안(최형락)

'지구 상 어디 한 군데쯤은...' 오로빌의 실험에 참여하다

김민웅 : 남부 인도에 있는 '오로빌(Auroville)'은 대안 공동체의 미래를 꿈꾸는 이들이 주목하는 모델이다. 그러나 오로빌에 대한 우리 사회의 이해는 아직 깊지 않다. 오로빌이 어떤 곳인지 우선 간단히 소개해달라.

허혜정 : 국적, 종교, 인종, 문화, 정치, 경제적 배경을 초월해 인류의 일체성을 실험해보기를 원하는 50여 개국 2500여 명이 살아가고 있는 국제 공동체다.

김민웅 : 개인적으로는 오로빌과 어떻게 해서 인연을 맺게 됐나.

허혜정 : 평소 공동체에 관심이 많았다. 우연히 오로빌에 관한 <A Dream>이라는 글을 읽었는데, '지구 상 어디 한 군데쯤은 정치, 종교와 같은 온갖 차이를 차이들을 넘어서서 함께 조화롭게 살아가는 실험을 하는 곳이 있어야 하지 않겠느냐'는 첫 문장이 가슴에 와 닿았다. 나도 참여해보고 싶다는 생각이 들어 2002년 오로빌에 갔다.

김민웅 : 오로빌은 누가, 어떻게 만들게 되었나.

허혜정 : 인도의 시인이자 사상가였던 스리 오로빈도가 독립운동을 하던 중 감옥에 들어가게 됐다. 그런데, 거기서 독특한 영적 체험을 하면서 인류가 언젠가는 개체의식을 초월하여 일체의식을 지닌 존재로 진화해가리라는 것을 깨닫고 그 일체성을 실현한 세상을 꿈꾸게 되었다. 스리 오로빈도가 1950년에 돌아가시자, 그의 영적인 반려자였던 미라 알파사라는 분이 스리 오로빈도의 유지를 받들게 되었다. 인도에서는 여성 가운데 영적인 스승을 '마더'라고 부르는데, 미라 알파사가 마더가 되었고, 오로빌 공동체를 만들었다.

김민웅 : 미라 알파사는 누구인가?

허혜정 : 1878년 프랑스 태생이다. 아버지와 어머니는 각기 터키와 이집트 출신의 유대인 혈통인데, 성장한 이후 인도와 일본에도 오래 머물렀고 거기서 타고르를 만나는 등 정신적 성숙의 깊은 과정을 거치게 된다. 아시아의 영적 깊이에 눈을 뜨게 되었고, 스리 오로빈도와의 만남은 그런 과정에서 이루어진 일이다.

김민웅 : 자칫 어떤 종교집단의 특별 공동체라는 인상을 주지는 않을까?

허혜정 : 아니다. 도리어 특정 종교를 넘자는 것이다. 인간 내면의 영적 심연에 주목해서 인간의식의 성숙을 도모하려는 것이다. 오로빌을 잘 알기 위해서는 이러한 정신적 기반에 대해 이해하는 게 도움이 될 것이다.

"오로빌은 전체 인류의 것"

김민웅 : '오로빌'이라는 이름에 뜻이 있는가?

허혜정 : '동트는 새벽(프랑스어 aurore에서 따온 단어인 Auro)의 도시(ville)'라는 뜻이다. 스리 오로빈도의 오로를 떠올리기도 한다. 새로운 문명의 아침을 맞이하고 싶은 마음이 담긴 이름이라고 여기면 될 것이다.

김민웅 : 우리 식으로 하면 "아사달" 또는 "아사벌"인 셈이다. 단군이 아침 들판이나 벌판에 고조선의 도읍을 정한 역사와 겹친다. 갑자기 오로빌이라는 이름이 정겹다.

허혜정 : 듣고 보니 동감이 되고 재밌다. (웃음) 오로빌을 짓기 시작한 건 1968년이었다. 착공식 날 스리 오로빈도와 마더 미라 알파사의 뜻에 공감하는 사람들이 각자의 나라에서 흙을 가져와 오로빌 땅에 묻었다. 우리나라를 포함해 124개국에서 모였는데, "오로빌은 전체 인류의 것이며 끝없는 교육과 지속적인 진보, 그리고 영원히 늙지 않는 젊음의 장이 될 것"이라는 오로빌 헌장을 선언했다.

오로빌이 세워지기까지 유네스코와 인도 정부의 지원이 큰 역할을 했다. 유네스코는 오로빌이 착공하기 전인 1966년 오로빌의 탄생을 지지하는 총회 결의문을 채택한 이후로 꾸준히 지지 입장을 보냈다. 인도 정부 또한 오로빌의 이상에 동의해, 오로빌이 특별자치구역으로서 권한을 가질 수 있도록 하는 오로빌 재단법을 통과시켰다.

▲허혜정 오로빌 허혜정 오로빌 코리언 파빌리언 코디네이터. ⓒ프레시안(최형락)

김민웅 : 자치권이 주목된다. 개별 국가주의를 넘겠다는 뜻이 느껴진다. "오로빌은 전체 인류의 것"이라는 헌장도 인상적이다. 프랑스 68혁명 세대의 역할이 컸다고 들었다. 그렇지 않아도 최근 오로빌 공동체 발전을 위해 유네스코 사무총장 이리나 보코바의 활약이 큰 것을 보았다. 로마클럽과 함께 인류의 미래에 대한 논의를 해온 부다페스트 클럽의 회장 어빈 라스로 박사도 오로빌 국제위원회 의장으로 오랫동안 활동했다. 인간의 의식혁명과 미래의 새로운 구성에 깊은 관심을 가진 이들은 오로빌 공동체의 실험에 깊은 관심을 가지고 있다. 이런 걸 보면, 우리는 세계적 관심사와 미래 비전에서 너무 동떨어져서 살고 있는 게 아닌가 싶은 느낌이 든다.

허혜정 : 안타까운 일이다. 달라이 라마도 오로빌 공동체의 발전에 소중한 격려를 해왔다. 인류의 미래가 어떤 정신적 변화에 기초해서 이루어져야 하는가를 고민하는 사람들이 오로빌에 있다.

김민웅 : 한국 사람은 얼마나 있나.

허혜정 : 전체 약 2500명 정도인데, 참가국은 49개국이었다가 50국이 되기도 한다. 이동 인구도 있어서 늘었다 줄었다 한다. 한국인의 경우는 33명에서 34명 정도이다. 오로빌 주민을 오로빌리언이라고 하는데, 이들은 일반 국가의 국민과 같은 거주자 개념이 아니다. 오로빌을 건설하는 장기 거주 자원활동가 개념으로 이해하는 게 좋다. 여기 올 때도 볼런티어(자원봉사자) 비자를 받는다. 거주 자격이 자원봉사인 셈이다. 자원봉사자로 왔으니 오는 것도 떠나는 것도 자기 마음이다. 장기로 올 수도 있고 단기로 올 수도 있다.

"자본의 힘에서 벗어난 기본소득 체제"

김민웅 : 오로빌의 현실로 들어가 보자. 당장 먹고 사는 문제와 마주칠 수밖에 없을 것 같다. 집은 어떻게 구하는지, 직업은 어떻게 갖는지, 교육은 어떻게 하는지, 궁금하다.

허혜정 : 일단 직업의 경우, 각자 하고 싶은 일을 찾아서 한다. 오로빌은 큰 도시의 축소판과도 같아서 모든 기능이 다 있다. 공무원에 해당하는 일을 하는 유닛(부서)도 있고 학교 병원 식당 공장 농장 가게 등과 그 밖의 상상하기 힘든 온갖 다양한 일터가 다 있다. 특별한 전문기술이 없어도 다양한 직업을 가질 수 있다. 저 같은 경우는 오로빌에 들어갈 때 인터뷰에서 유기농법을 배워서 농사를 해보고 싶다고 했다. 그렇다고 꼭 그 일을 해야 하는 건 아니다.

각 유닛에선 임금이 아닌 기본 생활을 할 수 있는 비용을 제공한다. 한국에서도 요즘 관심을 갖기 시작한 '기본소득' 체제가 운영되고 있는 거다. 현금 사용은 아주 적고, 기본적인 생활을 할 수 있는 물자나 복지 혜택을 준다. 점심을 제공해주고, 학교 교육도 무료로 해준다. 일을 한다고 해서 무조건 임금을 받는 게 아니다. 경제적으로 여유로운 사람은 무료 봉사를 하기도 한다.

김민웅 : 기본소득에도 관심이 가고, 현금 사용의 최소화도 주목할 만하다.

허혜정 : 자본이 모든 것을 지배하는 사회에서 벗어나고자 하는 노력이다. 한국에서는 난리가 나는 부동산에 대한 태도도 다르다. 집은 아직까지 공동체에서 제공할 수 없어 각자 해결한다. 그런데 부동산 소유라는 개념이 없고, 집을 구입하거나 지은 후 공동체에 기부한 후 관리자가 된다. 본인이 지은 집에 자녀가 살 수는 있다. 그런데 팔 수는 없다. 대신 오로빌리언끼리 집을 교환하기도 하고, 공동체를 위해 많은 일을 하신 분들께는 무료로 주기도 한다. 집은 도시 개발 부서의 허락을 받아 지을 수 있다. 오로빌에는 건축계에서 오신 분들이 많은데, 소박하게 짓기도 있고 크게 멋지게 짓기도 한다. 원래 도시에 오면 그곳을 가장 잘 표현하는 게 건물이다. 오로빌에 오면 다양한 집들이 있는데 현장에 와보면 그런 부분이 특별히 눈에 띌 것이다.

김민웅 : 새로운 건축 미학의 시도가 가능한 곳이라는 생각이 든다. 지금은 아름다운 건물들이 들어섰지만, 오로빌이 처음엔 황무지라고 들었다. 인도 정부가 이왕 선심을 쓰는 김에 좀 살기 좋고 환경이 괜찮을 곳을 주었어야 했던 거 아닌가? (웃음) 물론 정색을 하고 한 말은 아니다.

허혜정 : 일반적으로 다른 공동체들은 좋은 환경을 찾아서 들어간다. 그런데 저희 같은 경우는 사막 같은 황무지에서 시작했다. 그런 것이 더 의미가 있지 않은가? 기존의 가치관이 뿌리내리지 않은 곳을 선택한 거다. 환경이나 생태적으로 새로운 실험이 가능한 현장이기도 했다. 인구 5만을 목표로 마을을 만들기로 했는데, 확보된 땅은 사람이 살 수 없을 만큼의 사막화가 진행된 불모지였다.

오로빌리언들은 생태에 관심이 많기 때문에, 그런 불모의 땅에서 자연을 치유하는 일부터 시작했다. 비만 오면 흙이 쓸려 내려가서 식물이 자랄 수 없는 박토이기에 댐을 만들고 저수를 할 수 있는 웅덩이를 만들었다. 언덕에 구덩이를 파고 나무를 심고 물을 주고, 나무를 키우고 그렇게 녹화 작업을 했다.

▲오로빌 주민 회의. ⓒ오로빌

"경찰 없는 사회...거짓말, 마약 금지 등 가이드라인만"

김민웅 : 오랜 시간과 피땀 나는 노력이 필요했겠다. 그런데 아무리 이상이 높아도, 사람이 사는 곳이면 갈등이 없을 수가 없다. 혹시 그런 걸 해결하는 내부 규율 같은 게 있는가?

허혜정 : 오로빌리언들은 어떤 정해진 가이드라인이나 정책에 의해 관리되는 데 대한 거부감이 많다. 그래서 처음 만들어질 때부터 가이드라인은 간단했다. '거짓말하지 말자', '하루 여섯 시간 공동체를 위해 일하라', '마약을 하지 마라'와 같은 것이다. 그 다음 것들은 안에서 합의를 통해 갈등을 풀어나간다.

김민웅 : 그래도 공동체 생활이 안정이 되는 과정에서 권력 관계가 생길 수도 있지 않나.

허혜정 : 오로빌 안에서는 어떤 일을 하든지 똑같은 생활비를 받는다. 내가 농장에서 풀을 뽑고 흙을 만진다고 돈을 덜 버는 게 아니다. 행정 부서에서 일을 한다고 해서 권한이 더 있는 것도 아니다. 일에 귀천이 없기 때문에 권력이 생기지도 않는다.

김민웅 : 경찰은 없나? 추방하는 경우는 없나?

허혜정 : 경찰은 없다. 갈등이 생길 때 자체적으로 해결할 수 있는 방법을 찾아야지 해결할 수 있는 능력이 키워질 것 아닌가. 그래서 우선 내부에서 해결하려고 노력하는데, 강도나 살인 같은 큰 사건이 일어나지 않는다. 그래도 끔찍한 범죄를 저질렀을 경우는 추방할 수 있다는 원칙은 있다.

김민웅 : 종교로 인한 갈등은 없나.

허혜정 : 앞서 말했듯이 이곳에서는 특정한 종교가 따로 없다. 오로빌은 종교 공동체가 아닌 영성 공동체이다. 두 개념의 차이가 쉽게 이해될 수 있을지는 모르겠다. 교회나 절 같은 종교적인 장소가 없다. 각자 자신의 영적 성장을 위해 노력하고 있으며 이에 따른 아무런 종교적 의무가 없다. 그렇다고 이미 가지고 있는 종교를 부인하고 억압하는 것은 물론 아니다. 서로의 길을 존중하고 자유롭기에 갈등은 없다.

"오로빌의 교육에는 경쟁과 시험이 없다"

김민웅 : 교육은 어떤 방식으로 이뤄지나.

허혜정 : 기본적으로 무상교육 시스템이다. 일단 유아원과 유치원이 있고, 초등학교와 중학교가 결합된 학교가 있고, 고등학교가 있다. 초등‧중등학교의 경우, 전체적으로 대안학교인데 저마다 커리큘럼이 조금씩 다르다. 학문적인 부분을 강조하는 학교가 있고, 부모가 직접 교사로 참여하는 홈스쿨링 학교가 있고, 다양한 체험 교육을 위주로 하는 학교가 있다. 고등학교의 경우, 외부 대학 진학을 원하는 아이들을 위한 학교가 있고, 대학 진학을 원하지 않는 아이들은 본인이 원하는 교육을 받을 수 있는 곳도 있다.

김민웅 : 여러 유형의 제도적 실험을 한다는 인상이다. 오로빌 교육의 특징을 설명하자면?

허혜정 : 시험이 없다. 경쟁이 없다. 그게 가장 큰 특징이다.

김민웅 : 그럼 학업 성취 평가는 어떤 식으로 하나?

허혜정 : 평가라는 게 사실은 우리 어른들의 낡은 개념인 것 같다. 시험 같은 평가는 없고, 대신 한 학기가 끝날 무렵, 학교에 공동체 사람들을 초대해서 그동안 공부한 것을 발표하고 나누는 자리가 있다.

김민웅 : 그런 방식으로 공부했을 때 외부 상급 학교 진학에는 어려움이 없나.

허혜정 : 신기한 게, 대학을 진학하는 아이들의 경우, 굉장히 공부를 잘한다. 이름만 대면 알 만한 해외 대학에 많이 입학하고 원하는 과목을 전공한다. 외부에서 그렇게 공부를 한 후 돌아오는 경우도 많다.

김민웅 : 다시 돌아오는 아이들은, 바깥 세상에 적응이 안 돼 그런 것 아닌가 하는 오해도 있을 수 있을 것 같다.

허혜정 : 공부를 마치고 다시 오로빌에 오느냐 마냐는 본인의 선택에 달려있다. 돌아오는 아이들에게는 감사할 따름이다. 돌아오는 아이들 대부분은 정말로 오로빌에 살고 싶어서 온다.

김민웅 : 여러 나라 출신들이 섞여 있으니 소통에 어려움은 없는가? 언어 문제는 어떻게 해결하나.

허혜정 : 언어는 대개 기본적으로 서너 개는 하는 것 같다. 모국어를 하고, 영어는 기본 공용어라서 하고, 타밀 나두주에 살기 때문에 타밀어를 한다. 학교에서는 불어 교육도 많이 하는 편이다. 인도 고대어인 산스크리트어도 많이 한다.

김민웅 : 다국적 문화권답다. 한국 사람이 30여 명 정도라고 했다. 일본이나 중국 사람은 어느 정도 있나?

허혜정 : 점점 늘어나고 있는데, 중국, 일본이 각각 12명이고 대만이 3명이다. 동북아 인구를 통틀면 70명 정도 되는 것 같다. (다음에 계속)

서어리 기자

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헬조선에서도 오로빌의 실험, 가능할까? : 네이버 뉴스
기사입력 2016-09-08 08:25  0  4

[김민웅의 인문정신] 허혜정 오로빌 코리언 파빌리언 코디네이터 인터뷰 (하)

 [서어리 기자]

오로빌에 '남한 문화관' 아닌 '코리안 문화관' 설립하는 이유

김민웅 : 동북아 센터라는 곳을 만들 계획이라고 들었다. 무얼 하고자 하는 곳인가?

허혜정 : 오로빌은 기본적으로 산업. 문화. 주거. 국제 네 구역으로 나뉜다. 이 가운데 국제 구역은 오로빌과 오로빌 바깥에 있는 나라들을 연결하는 곳으로, 오로빌의 이상과 맞닿아 있는 곳이다. 오로빌이 인류 공동체를 지향하기 때문에 전 세계가 평화롭게 살려면 각 국의 문화와 민족혼을 서로 이해하고 배우면서 조화를 이뤄야 한다. 그래서 각 민족혼의 진수를 꽃피울 수 있는 각국의 문화관을 세우고 있다. 현재는 인도 문화관과 티베트 문화관이 완공되어 있고, 우리나라를 포함, 나머지 나라들도 열심히 준비를 하고 있다.

김민웅 : 그런 센터나 각국 문화관 공간을 만들 수 있는 땅은 어떻게 주어지는가?

허혜정 : 지난 2월에 부지 신청을 해서 2만2000제곱미터 정도 승인을 받아서 배당돼있다. 동북아시아 전체 부지이다. 이제 프로젝트가 시작된다. 우리나라는 아시아 지역 중 중국, 대만, 일본, 몽골 등과 함께 동북아 클러스터에 소속되어 있고, 한 구역에다 다섯 나라의 문화관을 각각 짓도록 계획되어 있다. 우리나라는 정치적으로는 남한과 북한으로 나뉘어 있지만 우리는 남한 파빌리온(문화관)을 짓는 것이 아니라 통일을 염원하는 뜻을 담은 코리안 파빌리온을 짓고자 한다. 일종의 한국 평화관의 성격도 갖는 셈이다. 한국관은 1200제곱미터 규모다. 동북아 센터는 아시아 5개국이 함께 사용할 공동시설이 된다. 여기에는 동북아의 문화를 함께 소개할 박물관과 멀티미디어 센터와 도서관을 만들고 공동 행사를 치를 이벤트 홀도 마련할 계획이다. 동북아 센터의 경우는 다섯 나라가 공동으로 프로젝트를 진행하게 되어 있다.

숙소 문제 해결을 위해서도 이러한 작업은 절실하다. 현재 오로빌을 방문하는 방문객은 하루 3000명 정도 된다. 많을 때는 7000명이 오기도 한다. 오로빌 인구가 2500명인데 그보다 훨씬 많은 사람들이 전 세계에서 자원봉사자나 게스트로 방문하는 것이다. 그래서 오로빌 안에서 다 머물 수 없고 밖에서 머물러야 하기도 한다.

지금도 한국에서 학생들이 현장학습을 위해 많이 온다. 동북아 센터가 지어지면 거기에는 단기 방문객을 받고 각국의 파빌리온은 리서치를 하거나 오로빌 공동체를 견학하러 오는 분들과 학생들이 묵으면서 각국의 문화도 서로 교류하며 배울 수 있도록 문화관과 교육관의 역할을 겸하게 될 것이다.

김민웅 : 엄청난 프로젝트로 들린다. 어느 정도 실현 단계에 있는가, 아니면 이제 시작하는 단계인가?

허혜정 : 이제 시작이라고 보면 된다. 사실 따지고 보면, 코리안 파빌리온을 짓기 위한 노력은 2004년부터 시작해서 조금씩 꿈을 키우고 구체화해온 셈이다. 오로빌에서 매년 한국 문화를 소개하는 행사를 하는 가운데 건물을 짓기 위한 종잣돈도 많지는 않지만 적립해왔다. 작년부터는 설계도면 작업도 하고, 한국에서도 펀딩과 지원을 해줄 그룹을 조직하기 위한 활동 등을 점차 본격화해가고 있다.

동북아 센터에는 아시아 키친과 수공예관도 마련할 예정인데, 여기서 동북아의 음식 문화를 소개할 것이다. 최근에 한국 스님이 오셔서 전시회도 했는데, 한국 음식을 함께 나누면 음식을 만드는 자세, 먹는 자세. 감사하는 마음, 이런 사찰 음식 문화를 함께 나누었다. 지금 인스턴트 음식이 굉장히 난무하는데 이런 활동을 통해 건강한 음식 문화를 이어가고 싶다. 자수나 매듭 같은 동북아의 수공예품도 인기가 많다. 몇몇 오로빌리언들이 한국에 와서 담양 대나무 축제를 구경한 적이 있는데 담양의 대나무로 만든 수공예품을 보면서 많이들 놀랐다. 우리의 문화도 오로빌에 제공할 수 있는 소중한 인류적 자산이라는 걸 느끼게 된다.


김민웅 : 프로젝트를 추진해나가면서 어려움은 없는가?

허혜정 : 대만과 중국, 그리고 한국과 일본, 중국 사이에는 역사적 갈등과 적대감이 존재한다. 저도 일본 사람을 보면 왠지 모를 껄끄러움이 있다. 동북아시아 센터를 짓기 위해 동북아의 사람들이 함께 모여 일하다 보면 갈등을 겪기도 했지만 지금은 동료애가 쌓여서 훨씬 더 조화롭게 일할 수 있게 되어가고 있다. 이런 경험을 하면서 나라와 나라 사이의 정치적인 갈등을 우리 세대에서는 어떻게든 해결하고, 함께 평화롭게 지낼 수 있도록 계속 노력을 기울여야 한다는 생각이 확고해진다. 한국에 와서 뉴스를 보니, 어느 나라가 더 강한 무기 갖고 있나 무기 경쟁하는 것 같은 느낌을 받는데. 그런 점에서라도 우리가 추진하고자 하는 프로젝트가 중요하다고 생각한다.

"건물만 짓는 건 의미 없다"

김민웅 : 평화와 화해의 세계적 거점이 있게 된다는 점에서 중요한 가치를 가지리라 본다. 이게 실제로 이루어지려면 재정이 현실적으로 관건이겠다. 한국 문화관을 짓는 데 비용은 얼마나 드나. 펀딩은 어떻게 하나.

허혜정 : 저희가 구상하는 건 5억 정도의 기금이다. 청년, 학생들, 시민 단체 참여가 있으면 한다. 정부가 적극적으로 지원해서 함께 한다면 그 또한 좋겠다. 물론 지원하나 간섭해서는 안 된다. 한국 문화관이 국가 또는 관의 홍보기관은 아니기 때문이다. 인류적 이상에 기여하는 자세가 전제가 된다. 인도 정부의 정책과 태도가 참고가 될 것이다. 이런 이상에 동의하는 기업도 환영한다. 물론 큰 기부가 들어오면 건물을 금방 지을 순 있겠지만, 액수가 크든 작든 함께 펀딩에 참여해서 한국 문화관을 짓는 게 '우리의 일'이 되어야 한다고 본다. 그런 과정에서 의식이 성장한다. 건물만 짓는 것은 의미 없다. 그 안에서 일어날 활동을 함께 하기 위해선 우선 의식의 성장 과정 자체가 소중하다. 가치의 공유로 함께 자라나는 것이다. 건물의 설계도 그런 차원에서 이미 고정되어 있는 것이 아니라 의식의 진화와 함께 새로운 설계가 가능하도록 논의가 열려 있다.

김민웅 : 그간 어느 정도 논의와 협력관계가 만들어졌는가?

허혜정 : 우리 안에서의 논의와 노력은 오래됐다. 그러나 모든 일이 다 시기적 성숙의 과정이 있어야 한다는 점에서 아직은 이 프로젝트를 알리고, 협력할 수 있는 분들을 찾아 나서는 단계이다.

김민웅 : 그걸 하기 위한 상황이 이제는 과거보다는 나아졌다고 본다. 간간이기는 하지만, 오로빌이 한국 사회에 알려진 것도 이제 한 10년 정도 된 것 같다. 그동안 우리 안에서도 대안 공동체 운동이 꽤 성장한 편이다. 잘만하면 서로 매우 유익한 관계가 만들어질 수 있다는 기대를 갖게 된다.

허혜정 : 그렇지 않아도 서울시 공동체 사업 담당자께서 오로빌과 함께 할 수 있는 일이 있는지 문의해 온 적이 있다. 마을 만들기를 비롯해서 한국에서의 대안 공동체 실험이 여러 어려움에 부딪히고 있다는 것도 들었다. 저희 같은 경우 48년간 실험을 계속했기 때문에, 교류하면서 서로 배울 수 있는 부분이 있다고 본다. 생태 마을에 관심이 많은 NGO나 대안학교들, 현재 지방 자치정부 주도로 일어나는 마을 공동체 사업과 연계할 수 있게 된다면 좋을 것 같다. 교류 프로그램, 교육 프로그램이 왕성하게 이루어지기를 바라고 있다. 그런 토대 위에서 동북아 센터나 한국 문화관이 세워질 수 있지 않을까 희망하는 바이다.

"미래의 주역들, 오로빌에서 미래의 길을 만들기를"

김민웅 : 청소년이나 대학생이 오로빌 공동체를 견학한다면 어떤 점에서 의미가 있을까.

허혜정 : 프로그램에 따라 다르겠지만, 오로빌을 함께 만들어나가는 일에 동참한다는 마음으로 온다면 가장 기분 좋은 경험을 할 수 있다. 예술인 마을, 유기 농장, 개척 마을, 심신 치유 센터, 대체 에너지 공방, 재활용 공예 스튜디오, 원주민 마을을 돕는 자원단체 등등, 아주 다양한 색깔의 커뮤니티와 일터가 산재해 있다. 거기서 함께 어울려 지내며 체험하면 상상을 뛰어넘는 많은 것을 배울 수 있다.

동북아 파빌리온 건축 프로젝트에는 우리나라의 젊은 학생들이 많이 참여해서 함께 일하면 좋겠다. 개념 논의에서부터 시작하는 거다. 결론이 이미 내려진 것이 아니라, 열려 있다. 우리가 하는 일은 미래의 길을 만들어나가는 것이라고 생각한다. 미래의 주인이 될 주역들이 와서 이것을 함께 만들었으면 좋겠다. 학생들이나 청년들이 와서 다른 국가의 사람들과 함께 부딪히고 공부하면서 어떻게 함께 살아야 하는지를 배우면 평화가 올 거라고 생각한다.

김민웅 : 그렇지 않아도 경희대가 추진하고 있는 미래창조 스쿨의 대안 공동체 영역에서 오로빌 프로젝트를 해보자는 논의가 진행되고 있다. 아직은 초기 단계지만, 좀 더 발전시켜나가면서 여러 대학들이 연대해 함께 해도 의미가 있을 것 같다.

허혜정 : 오로빌은 그런 점에서 최적이다.

김민웅 : 초등학교나 중고등 학생들이 가면 학교에는 다닐 수 있나.

허혜정 : 3개월 이상이면 오로빌 학교에서 생활하면서 공부하는 게 가능하다. 미성년자의 경우 혼자 올 수는 없고, 부모님과 같이 와야 한다.

김민웅 : 언제 가면 제일 좋을까.

허혜정 : 더운 지방이라서 5월, 6월은 피하는 게 좋다. 그때가 되면 기온이 42도 정도로 올라간다.

김민웅 : 너무 걱정 안 해도 될 거 같다. 요즘 같으면 우리도 폭염으로 좀 훈련이 돼서 잘 감당할 듯하다.

허혜정 : (웃음) 10월, 11월이 우기다. 몬순 기후이기 때문에 비가 많이 온다. 폭서기와 몬순기만 피하면 전반적으로 날씨가 좋은데, 12월부터 2월, 3월까지 오면 초가을 날씨라 좋다.

▲허혜정 오로빌 코리언 파빌리언 코디네이터. ⓒ프레시안(최형락)

"돈의 힘이 없는 사회 안의 유기성에 주목해달라"

김민웅 : 정리해보자. 새로운 미래를 꿈꾸던 프랑스 68혁명 세대의 일부가 인도의 정신적 풍토와 만나게 되었고, 불모지였던 곳이 40년간의 노력으로 새로운 형태의 도시로 만들어졌다. 인도 정부의 자치권 부여와 유네스코의 지원이 큰 힘이 되었고 일종의 지구적 공동체가 만들어졌다. 국제구역에서는 동북아 센터와 코리안 파빌리온을 통해 각 나라의 역사와 문화를 끌어안으며 인류 평화를 지향하고자 한다. 이게 다행스럽게 최근 한국 사회의 생태 공동체에 대한 관심과 맞물리고, 개개인에 있어선 창조적인 삶을 추구하는 노력을 기울이고 있는 흐름과 만날 가능성이 커졌다. 우리의 입장에서 오로빌을 이렇게 이야기해도 되겠는가?

허혜정 : 한 가지만 덧붙이겠다. 여기선 모든 게 유기적으로 움직인다. 오로빌에서는 친환경을 일부러 내세워서 외치지 않는다. 그런데도 대체 에너지를 통한 에너지 자립이 가능하게 돼 오로빌리언들은 무상으로 전기를 받아쓰고 있다. 이렇게 되는 이유는, 자본이 지배하지 않는 다른 사회를 만들기 위한 시도들을 다양하게 해왔기 때문이다. 친환경 문제는 그런 사유와 틀 속에서 일어나는 사건의 하나이다. 에너지가 무상으로 공급되는 사회. 음식이 무상으로 공급되는 사회. 가장 필요한 것들이 무상으로 공급돼 돈의 가치가 힘을 발휘할 수 없는 사회. 그런 비전 아래서 나머지 친환경, 대안 교육 등이 삶의 내용으로, 실천으로 이어진다. 이러한 전체적인 유기성을 주목해주기를 바란다.

김민웅 : 오로빌 공동체의 정신적 가치 전체를 놓고 이해해달라는 이야기로 받아들이겠다. 한중일간 화해를 추구한다고 했다. 그런데 사실 따지고 보면 화해를 하려면 치열한 역사 논쟁이 필요하기도 하다. 좋은 게 마냥 좋다고만 볼 수 없지 않나. 이런 의견에 대해 어떻게 생각하나.

허혜정 : 공동체 안에 가라앉아있던 문제들은 공동의 프로젝트를 위해 함께 일하다 보면 어느 시점에서 드러나게 되는 것 같다. 그런데 목표가 중요한 것 같다. 잘잘못을 따지고 가르치는 데 있느냐, 아니면 치유를 하면서 다음 세대에게 함께 화합해서 함께 사는 법을 가르치는 데 있느냐. 우리는 후자 쪽에 많은 비중을 두고 생각한다.

김민웅 : 그런 생각으로 정치 논쟁을 하면 괜찮을 것 같다. 화해를 내세워 민감한 정치논쟁을 적당히 피하는 방식으로 치유를 하는 것은 아무래도 한계가 있지 않을까 하는 생각에서 짚어봤다. 마지막으로, 오로빌에서 10여 년 살았다고 했는데 그동안 "오로빌은 이게 크게 달라졌다" 또는 "나는 오로빌로 이렇게 변화되었다"라고 느낀 게 있나.

허혜정 : 오로빌이 달라졌다고 하기보단 공동체를 보는 내 자세가 달라졌다고 할 수 있다. 처음엔 마더 미라 알파사가 이야기했던 꿈, 변화에 대한 희망을 실현하는 프로젝트에 동참하고 싶어 오로빌에 갔다. 나뿐 아니라 많은 분들이 그런 생각으로 왔다. 그런데 사는 데 어려움도 많았다. 한국에서만 살다가 동서양의 문화가 뒤섞여있고 언어도 다르게 쓰는 곳에 와 보니 여러 가지 일들이 생겼다. 그러다 보니 '무슨 공동체가 이래' 라고 생각하면서 회의가 들기도 했다.

사실 싸울 때도 있다. 그런데 이런 생활이 10년이 되니까, 공동체 안에서 부딪히는 일이 있어도 돌아서면 형제 같고 자매같다. 우리가 싸우는 건 견해의 차이이지 사람이 미워서 그러는 경우는 별로 없는 것 같다. 가치에 대한 공유가 확실하기 때문이기도 하다. 그에 대한 믿음이 생긴 것 같다. 다들 부족하지만 같은 꿈을 가지고 와서 부족한 것들을 극복하려고 노력하는 것을 알기 때문에, 서로에게 위안이 되는 것 같다. 그런 걸 깨달으면서 '내가 공동체에 살고 있구나', '같은 꿈을 꾸면서 인류 화합이라는 굉장히 큰 꿈을 꾸고 있구나', '부족하나마 하나가 되어 같이 살 수 있다는 게 행복하다' 이런 생각을 한다.

김민웅 : 한국 사회를 요즘 '헬조선'이라고들 한다. 아까도 말했지만 여기가 사실 원조 오로빌, 아사달이었는데, 이야기를 듣다 보니 비무장지대를 무슨 국제 평화공원 정도가 아니라 오로빌 같은 지구적 공동체의 현장으로 자치권을 주었으면 싶다. 그곳을 인류의 미래를 위한 현장으로 가동할 수 있으면 하는 생각이 간절해진다. 아사달 프로젝트와 오로빌 프로젝트, 형제 공동체로 말이다.

허혜정 : (웃음) 그럴 날이 언젠가 꼭 왔으면 싶다.

김민웅 : 오로빌 프로젝트가 현실적인 성과를 거둘 수 있기를 바란다. 응원하겠다. 우리에게도 오늘의 이야기가 대안 공동체 논의에 크게 도움이 될 것으로 기대한다. 긴 시간 고맙다.

오로빌 공동체에 대한 소개는 www.auroville.org를 통해 보다 자세히 알아볼 수 있다.

서어리 기자 (naeori@pressian.com)

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The Life of Japanese Quaker Inazo Nitobe

The Life of Japanese Quaker Inazo Nitobe



The Life of Japanese Quaker Inazo Nitobe

At Philadelphia Yearly Meeting, numerous epistles are read from other yearly meetings throughout the world. Likewise Philadelphia sends its annual epistle and greetings to all yearly meetings. Japan Yearly Meeting’s epistle this year mentioned the “Nitobe lectures.” Friends outside of Japan may not know about the extraordinary life of Inazo Nitobe. My purpose here is to acquaint Friends Journal readers with him.
Inazo Nitobe (1862-1933) became a Christian while a college student, and later a Friend. He rose to fame as an agricultural sugar expert, was the president of several colleges, was a Carnegie exchange professor to the United States, and was a tireless worker for Japanese- U.S. understanding. Most notably, he was the leader of the Japanese delegation to the League of Nations in Geneva, Switzerland, in 1919, and when he arrived there he was promptly appointed under-secretary general of the League. Nitobe is famous for coining the phrase, “Bridge across the Pacific”; for writing the history of William Penn; and for the book, Bushido: The Soul of Japan. He is the only known Quaker whose picture is on his country’s currency.
Nitobe stemmed from a Samurai (Japanese nobility) family on Honshu, the main island of Japan. His grandfather was distinguished for developing irrigation projects and bringing much additional land under cultivation. His father died when he was five and his mother when he was 13. He was the youngest of eight and was raised by his uncle, who adopted him.
At 13, he entered Tokyo English School. By studying English, he became acquainted with Christianity and the Bible. In 1877 he entered the newly founded Sapparo Agricultural College in the northern island of Hokkaido and graduated in 1881. William S. Clark, from Amherst College, was the viceprincipal of the Sapparo Agricultural College, although he left the college before Nitobe started attending. He left a strong influence on the students, particularly in the way ethics was taught. He said the only way he could teach ethics was by teaching the Bible. All of his students became Christians and signed Clark’s “Covenant of Believers in Jesus.”
Nitobe subsequently became a Friend when he was 22 years old while doing graduate study at Johns Hopkins University. He joined Baltimore Yearly Meeting.
He had previously attended Tokyo University, but found the professors there poorly trained. He persuaded his uncle to finance his graduate study in the United States, first at Allegheny College in western Pennsylvania, and then at Johns Hopkins University in Baltimore. While there, he was appointed assistant professor in absentia by his original Japanese college, Sapporo Agricultural College. This college financed his further study in agricultural economics for three years in Germany at Bonn, Berlin, and Halle universities. He received his PhD from Halle.
In 1885, Inazo and a Japanese classmate were invited from Baltimore to Philadelphia by the Women’s Foreign Missionary Association of Friends to advise them about establishing a Quaker mission in Japan. This ultimately resulted in the establishment of the Friends Girls School in Tokyo and ten agricultural missions in Iberaki Province, just north of Tokyo. The Friends Girls School continues to flourish, educating the daughters of prominent Japanese business leaders. Three of the agricultural missions still continue as Friends meetings in Tsuchiura, Shimotsuma, and Mito. Samuel Nicholson, now retired at Friends Village in Newtown, Pa., and his father before him were instrumental in founding a ceramics center at Mito Friends Center.
Gilbert Bowles, Gurney and Elizabeth Binford, Herbert Nicholson, Edith Sharpless, Esther Rhoads, and others were instrumental in the success of Friends School and the success of the various monthly meetings during the past 100 years.
An important outcome from Nitobe’s visit to Philadelphia was meeting his future wife, Mary Patterson Elkinton, the daughter of Joseph S. Elkinton, later widely known for his help in bringing the persecuted Dukhobors from Russia to Canada, as well as for his family business, Philadelphia Quartz Co. They were married in 1890 upon Nitobe’s return from Germany.
Mary Elkinton’s parents objected to the marriage because it would take her to Japan. Her meeting initially also opposed the marriage because of her parents’ objection. Mary’s brothers persuaded the weighty members to change one by one. The wedding ultimately took place, and subsequently, her parents approved.
Mary’s family of Elkintons, Evanses, and Jameses have inspired many others to support Philadelphia Yearly Meeting’s Japan Committee (now International Outreach Committee) in nourishing the growth of the Friends Girls School in Tokyo.
A corollary of this relationship was the friendship of Mary with her Westtown classmate Anna H. Chace (one of the founders of the Philadelphia Yearly Meeting’s Chace Fund) and a member of both Providence (R.I.) and Fallsington (Pa.) meetings. This friendship lasted all their lives. When Nitobe subsequently became an under-secretary general of the League of Nations from 1920 to 1927, Anna went to Geneva each year while the League was in session to be with Mary and Inazo. One year, when Mary was ill and could not come to Geneva, Inazo asked Anna to be his hostess at all official functions. Anna was in effect the “first lady of the world” for a year.
When Nitobe initially enrolled in University of Tokyo after Sapporo and before his German study, he expressed his interest in studying agricultural economics and English literature. The interviewer said “this is a queer combination.” Nitobe responded that “he wished to be a bridge across the Pacific Ocean,” a bridge across which Western ideas could flow to Japan and over which Japanese and Oriental ideas could flow to the United States. This term “bridge across the Pacific,” embraced Nitobe’s life.
His PhD thesis at Halle was Land Possession and Distribution, and Its Agricultural Use in Japan. He also subsequently completed his thesis at Johns Hopkins, The Intercourse between United States and Japan: An Historical Sketch. Later, as a college professor, he published a 400-page biography of William Penn.
In 1900, while recuperating from overwork in Japan, he took a leave of absence in California where he wrote his most famous book,Bushido: The Soul of Japan. It was instantly acclaimed in the English-speaking world as one of the few accounts of Japanese spiritual history written by a Japanese author in eloquent English. It was subsequently translated into several languages. Bushido means literally “the way of Samurai,” and it relates to traditional Japanese moral values.
Returning with his degree from Germany, Nitobe became a full professor at Sapporo. He taught agronomy, colonial theory, history of agriculture, economics, English literature, and German, and was the college librarian. He was also a technical advisor to the government of Hokkaido, two-thirds the size of Pennsylvania.
Inazo established a secondary school in Hokkaido and became its headmaster, with financial support from a local businessman. He and Mary also established a school for poor working girls in the Sapporo slum, supported by faculty and student volunteers from the college. After a few years he exhausted himself from too many duties, and in March 1899 he took the abovementioned leave of absence in Vancouver and then in California.
While recuperating in California, Nitobe was offered numerous positions in Japan. He accepted a position as advisor to the Japanese colonial government on Taiwan in 1901. His reform plan for sugar production there increased it sixfold in 10 years and by 45 times in 20 years. His reforms continue today to support Taiwan’s prosperity.
This brought him wide acclaim. He was appointed professor at University of Kyoto Law Faculty and also headmaster at the First Higher School, the successor of his alma mater, Tokyo English School. He began teaching on the faculty of Agriculture at University of Tokyo.
Inazo and Mary were invited to visit the emperor in 1905. As a boy, the emperor had spent the night with Nitobe’s family at Morioka.
In 1911, Nitobe was chosen as the first exchange professor between the U.S. and Japan, funded by Carnegie Endowment for International Peace. Nitobe tried to neutralize a rising tide of ill feeling in the United States that was building against Japanese immigrants.
He spent one month each at Brown, Columbia, Johns Hopkins, and the universities of Virginia, Illinois, and Minnesota. He also visited and lectured in many other universities and colleges, including Stanford, Clark, Haverford, and Earlham. These lectures were collected and published in 1912 as The Japanese Nation: Its Land, Its People, and Its Life. He spoke to other groups like the National Geographic Society and Maryland Peace Society. He delivered a total of 166 lectures to approximately 40,000 people, trying to build goodwill between Japan and the United States. Brown University awarded him an honorary degree and he ultimately received five such degrees during his lifetime.
Upon returning to Japan, he became a full-time professor of Colonial Studies at University of Tokyo. A conflict had developed among educators about the Europeans and Japanese supporting colonialism rather than liberation of their colonies. Some, like Germany and its South African colony Namibia, thought a colony was merely for enriching the mother country. Nitobe espoused the more humanitarian view that the mother country should bring benefit to its colonies and raise their standard of living.
Nitobe also was concerned for women’s rights. He assisted several prominent women’s educational institutions such as Smith School at Sapporo, the prestigious Tsuda College (founded by a Bryn Mawr graduate, Umeko Tsuda) in Tokyo, Keisen Women’s College (established by another Bryn Mawr graduate), and Tokyo Women’s School of Economics.
In 1918, he was appointed the first president of the newly established Tokyo Women’s Christian College. This was heavily subsidized by the Methodist Church of Canada. Soon after assuming the presidency, he and Mary and other Japanese officials toured Europe to inspect the damage from the World War. While in London, he was advised by the Japanese minister that he had been selected to be the under-secretary general of the newly formed League of Nations, under Sir Eric Drummond, the secretary general. It is interesting that Nitobe had studied at Johns Hopkins with Woodrow Wilson, whose ideas formed the League.
The League of Nations moved from London to Geneva in 1920. Nitobe quickly became a favorite spokesman for the League. According to one of his colleagues, nine times out of ten he was chosen to speak to audiences rather than his superior, Drummond. Drummond himself explained that Nitobe was most highly qualified when he said, “He gives his audiences a deep and lasting impression.” One of his colleagues wrote:
There is no office in which more visitors were received or more work done; . . . yet there, one always had the feeling of quiet, of reflection, of that silent gathering together of the internal forces of human nature. One always left that room convinced afresh that it was worthwhile doing one’s best in dealing with even the smallest everyday problems of office life, because one had realized once more the essential connection between his work . . . and the great current of human development which is embodied in the League.
Contemporaneous with the idealist growth of the League was the increasing hostility in California to Japanese. Initially there was a “gentlemen’s agreement” in 1907 between Japan and the United States that only 146 Japanese individuals per year would be permitted to immigrate here. In 1924, the U.S. Congress unilaterally repudiated this agreement and passed the Oriental Exclusion Act, forbidding any Japanese to immigrate to the United States.
Nitobe was outraged by this Act. He tactfully spent the rest of his life trying to influence the international community to appreciate Japan’s problems and attributes.
He resigned as under-secretary of the League in 1927 at the age of 64. He was appointed a member of the House of Peers, the Upper House of the Japanese Diet. He joined the editorial board of the Osaka newspaper and wrote a regular English column. Many organizations requested him to be their advisor. He enthusiastically supported the union movement in aid of labor. He became chairman of the Morioka Farmers Cooperative, and he was instrumental in preventing the intervention of local conservatives in union activity.
Nitobe played a significant role in establishing Japan’s universal medical care system. (Does the Japanese system have any provisions that we might emulate today?) This medical care system had been initiated by Toyohiko Kagawa (1888-1960), who is known to numerous older U.S. Friends for his Social Gospel work among the poor in Tokyo.
Politically, Nitobe’s speech against the pro-military cabinet of Prime Minister Tanaka in the House of Peers in 1929 aided in Tanaka’s being condemned by many and led to his cabinet resigning.
The rise of militarism in Japan coincided with the London Naval Treaty in 1930, which adopted the 5:5:3 ratio in battleship strength between the United States, the United Kingdom, and Japan. The Japanese Navy strongly opposed this. Japan resigned from the League of Nations in 1933, in part because of this treaty.
In 1931, to Nitobe’s great sorrow, the Japanese military bombed the Japanese-run South Manchurian Railroad and blamed the Chinese for it. The Japanese army then established Manchukuo as a separate nation carved out of Manchuria, over which it appointed a puppet government.
Nitobe was interviewed by a group of reporters about this development, with the promise that his views would not be reported. One reporter violated his promise and published Nitobe’s anti-military comments. A furor arose in Japan and Nitobe delivered a tactful apology.
With this as background, Nitobe toured North America in 1931 and attempted to present a clearer picture of the events in Manchuria. He viewed Manchuria as a three-way conflict between Russia (dating from the Sino- Japanese War of 1895), China, and Japan, with its historical presence in Manchuria. He stated that this historical and economic background needed to be distinguished from the current military action.
He pointed out how the Japanese civilian occupation of Manchuria occurred. Russia had occupied Manchuria after 1895 despite strong Anglo-U.S. protest. Through President Theodore Roosevelt’s efforts, the Russo-Japanese War ended in 1905, and the rights to administer Manchukuo that Russia had previously obtained from China were transferred to Japan. Japan invested one billion yen in gold in Manchuria to develop it. Japan, not China, was administering Manchuria, based upon the Chinese- Russian treaty. Japan, in hindsight, justified its actions because of the U.S. Oriental Exclusion Act. Japan reasoned that it needed Manchukuo for its expanding population. Nitobe compared the hostility in India against British administrators and the U.S. advocacy of the Monroe Doctrine in the Caribbean, to the prohibition of Japanese immigration to the United States.
Nitobe toured North America again in 1932, conferred with President Hoover in the White House, received an honorary degree from Haverford College, and in ten months delivered one hundred lectures on Japanese culture and on the Manchukuo issue to audiences in the United States and Canada, starting with a CBS radio address in New York, in which he said, “My keen concern over Japanese-American relations and my earnest desire to study the American sentiment toward Japan, are what have brought me over to America.”
Nitobe’s final trip to U.S. in 1933 was to attend the Institute of Pacific Relations conference in Banff, Canada. This conference of scholars in various fields from countries around the Pacific Ocean met annually. Nitobe had been chairman of the Japanese delegates since 1929, and this was his fifth conference. In his final address he said: “China and Japan sit side-by-side at the conference table. . . . There are differences between our governments . . . but as man-to-man, we harbor no ill-will the one to the other. . . . Is it too much to hope then that in the intimate contact of nationals from all over the Earth, the day will gradually come when not passion but reason, when not self-interest but justice will become the arbiter of races and nations?”
In September, he collapsed in Victoria, Canada, and died on October 15, 1933, at age 72.
A memorial service was held in the Wesley United Church in Vancouver. Mary took his ashes to Japan. A Quaker memorial service was held in Tokyo. Over three thousand people attended, including his former students, politicians, the emperor’s emissaries, and citizens. There is a monument honoring him at Royal Jubilee Hospital in Vancouver.
I made a pilgrimage to his home in Morioka, four hours north of Tokyo, after attending the Friends World Committee gathering in Tokyo in 1988. There in the public park is a sarcophagus six feet long and three feet high bearing the name NITOBE in Japanese. Morioka and Victoria have been sister cities since 1985. Nearby is a sign in English directing one to Nitobe’s boyhood homestead. There is a stone statue of him sitting in a chair with one hand under his chin, in a contemplative mood with the inscription “Bridge across the Pacific” and a quotation from one of his famous speeches.
The 1945 will of Anna Harvey Chace provides for a $10,000 scholarship in honor of Inazo Nitobe, the income from which is to assist a Japanese student to attend Haverford College. The corpus of this scholarship is today valued at $55,000.
Nitobe is the only known Quaker to be honored on his country’s currency, a 5,000-yen note, authorized in 1981.
Among Inazo Nitobe’s legacies to the world is the present United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization (UNESCO), which grew out of the International Committee on Intellectual Cooperation of which he was a founding director in the 1920s.
Friends are encouraged to visit the Nitobe Memorial Garden at University of British Columbia when in Vancouver, Canada, and also the Nitobe homestead garden at Morioka when visiting Japan.

“Japan’s Bridge Over the Pacific: Reflections on Nitobe Inazo and Globalization”

“Japan’s Bridge Over the Pacific: Reflections on Nitobe Inazo and Globalization”



Japan’s Bridge Over the Pacific: Reflections on Nitobe Inazo and Globalization

Tsuneo Akaha, Ph.D.
Professor, International Policy Studies
Director, Center for East Asian Studies at the
Monterey Institute of International Studies
Monterey, California
 
 





Dr. Tsuneo Akaha
International Migration Report 2002 by the United Nations Population Division states: “Today the number of people residing outside their country of birth is at an all-time high of 175 million, more than double the number a generation ago.  The vast majority of migrants are making meaningful contributions to their host countries.” [1]   It also observes that from 1990 to 2000, the number of migrants in the world increased by 21 million persons, or 14 percent.  Forty-one percent of the world’s migrants live in North America, almost 35 million of them in the United States.
The growing migration is perhaps the single most important part of the phenomenon we call globalization today.  Migration is nothing new.  We know humans have migrated since the very beginning of their existence.  People have been moving both within and across national borders for centuries, the former known as internal migration and the latter as international migration.  What is “global” about migration today is that a huge proportion of the migrants now cross national borders and a substantial part of them settle permanently in the host countries. 
Today I would like to reflect on the importance of migration and the challenges and opportunities afforded by border-crossing individuals when they happen to find themselves at critical moments in history and in critical places of the world.  Not all of us are fortunate enough--or unfortunate enough, depending on our inborn or learned proclivity toward challenges of historic importance--to find ourselves at such points in history and the world.  Nitobe Inazo was such an individual.  Although he did not settle permanently in the United States, his personal, intellectual, and professional life was deeply rooted in the United States as well as his native country, Japan.  There is also a California connection, as we will soon see.
Nitobe Inazo (1862 - 1933) was an educator, a moralist, an essayist, and a diplomat who lived a vibrant but also tumultuous life in the turbulent world of great power rivalry and war.  His life of 70 years represented both the aspirations to peace, democracy, and development the world over and the contradiction between nationalism and international cooperation.  He touched the hearts and minds of countless people he met around the world, including his American wife, Mary.  He died in Victoria, Canada in 1933 shortly after Japan had walked out the League of Nations, in which he had served as an undersecretary general--the highest diplomatic post ever held by a Japanese. 
As a young student at Tokyo University, Nitobe was asked why he wanted to continue to study English, which he had begun studying at the Sapporo Agricultural College (present-day Hokkaido University).  He replied he wanted to become a “bridge over the Pacific.”  His intellectual legacy after his death has built a cultural bridge over the Pacific, but scholarly debate continues to this day about the multi-talented Japanese diplomat’s life, which was full of great achievements but also many seeming contradictions. 
Nitobe was born in 1862 in the provincial city of Morioka in northeast Japan, to a family of samurai lineage.  After schooling in Tokyo, he went to the Sapporo Agricultural College (present-day Hokkaido University) and studied agricultural economics.  The college was the first American-style institution of higher learning in Japan and was staffed by many American teachers.  This enabled him to study English.  He became a Christian, along with Uchimura Kanzo, his classmate who later became one of the most influential Christians in Japan and an outspoken critic of the authoritarian government and Japanese militarism and imperialism. 
In 1883 Nitobe entered Tokyo University to study English literature and economics.  After one year, he left the university to go to Johns Hopkins University in Baltimore, Maryland, where he studied in a seminar with, among others, the young Woodrow Wilson.  He continued his study in Germany and received a doctorate from the University of Halle in 1890.  As a result he became fluent in both English and German. 
While in the United States, Nitobe had become a Quaker, and on his way back to Japan in 1891 he married Mary Elkinton, the daughter of a leading Philadelphia Quaker businessman.  Nitobe had met her when he studied in Baltimore.
While teaching at his alma mater in Sapporo, he was also very active in religious activities, the formation of schools for working students, consulting with government officials, and even overseeing dormitories.  Exhaustion forced him to resign from teaching.  To recover his health, he and Mary moved to Monterey and stayed at the Del Monte Hotel (now the Naval Postgraduate School).  The couple stayed there for four years.  It was during this period that Nitobe wroteBushido, the Soul of Japan, arguably the single most influential volume on Japan ever published in the English language. 
-- More on his book later --
  
Among Nitobe’s great achievements were his encouragement of the growth of sugar-cane in Taiwan to improve the economy of the island, which was under Japanese colonial control; the professorship in colonial policy at the University of Tokyo; the founding of the International Committee for Intellectual Cooperation, which after World War II developed into UNESCO; the diplomatic service as undersecretary general of the League of Nations; and the post-retirement assumption of the chairmanship of the Japanese branch of the Institute of Pacific Relations.
In 1932, the Ministry of Foreign Affairs sent the 70-year-old Nitobe on a punishing 11-month speaking tour of North America to sway public opinion in Japan's favor.  When he returned to Japan to report to the Emperor on his trip, he learned that Japan had walked out the League of Nations, which had reprimanded Japan for its instigation in 1931 of the infamous “Manchurian Incident,” the Japanese army’s plot to justify its control of northeast China. 
In August 1933, the Ministry of Foreign Affairs again sent Nitobe, as the head of the Japanese delegation, to the conference of the Institute of Pacific Relations in Banff, Canada, again hoping that the Japanese head delegate would be able to soften the international criticism of Japan’s action in Manchuria.  Following the conference Nitobe went to Victoria where Mary was waiting for him.  Early in September, he spoke in Vancouver at a dinner sponsored by the Japanese Consulate and then returned to Victoria.  A few days later he entered the Royal Jubilee Hospital with what appeared to be a minor complaint.  His condition deteriorated and he died in the early evening of October 15.  A quickly convened memorial service in Vancouver two days later attracted 750 mourners. [2]  
Now to Bushido: the Soul of Japan.  The book was first published in English in 1900.  Within a few years of its publication, it was translated into German, Polish, Bohemian and Marathi (a language used on the Indian subcontinent), and later into French, Norwegian, Hungarian, Russian, Chinese, Greek and Arabic.  By 2000, the book had been translated into more than 30 different languages. 
When the book was first introduced to President Roosevelt by a Japanese friend from his Harvard days, the president was so impressed with its prose and its contents that he bought another 30 copies and distributed them to his cabinet members, other colleagues, friends and acquaintances, and urged them to read it. [3]   The book favorably influenced the president’s agreement to mediate the peace treaty between Russia and Japan at the conclusion of the Russo-Japanese War of 1904-05.  His successful mediation led to his winning of the Nobel Peace Prize. [4]  
The book is an introduction to the core values of traditional Japanese society, which Nitobe believed was based on the samurai’s code of ethics.  Nitobe describes those values in eloquent language, drawing comparisons with the religious and philosophical traditions of other civilizations, including all great Western philosophers, Judeo-Christian teachings, Confucianism, Buddhism, Islam, etc.  In the exploration of the main religions and great schools of philosophy from around the world, he both elevates the code of bushido to the same level as the ethical and moral principles of other great civilizations and renders understanding of Japanese culture possible to those who come from those other civilizations.  In this sense, he idealizes bushido.  By idealizing it, he also simplifies it.  He also places bushido in the context of and in the language of our universal search for good person and good society.  Hence the appeal of his exposition to people of many languages.

Globalization

Had Nitobe not studied English as a young student in Sapporo, would he have become involved in the world of diplomacy, as he was at critical moments of history?  Had he not studied what today we call development economics, would he have studied at Johns Hopkins, met Mary, and become a Quaker.  Had his dedication to teaching and myriad social activities not failed his health, would he have gone to Monterey, California and written the book on bushido?  And, finally, had he not written that book, would President Roosevelt have felt compelled to mediate between the Russians and the Japanese or win the Nobel Peace Prize?  The answers to these questions are “probably not.”
What does Nitobe’s legacy teach us about the challenges we face in the age globalization?  Essentially globalization challenges us to re-examine our lifestyle, our individual values, and our collective, communal values.  Globalization both unites and divides us.  At the same time that it brings us closer, globalization also diversifies us. 
We are not all as fortunate or unfortunate as Nitobe Inazo in the sense of being at the forefront of world diplomacy.  But we are more fortunate than he in that today plain citizens like ourselves can and are crossing all kinds of borders--geographic borders, economic borders, technological borders, language borders, and cultural borders.  This provides us with an opportunity that only privileged people like Nitobe used to enjoy in the previous centuries.  As we cross our borders, can we be as brave as Nitobe and dedicate our talents to the teaching of others and to the learning from others?



[1] Population Division, Department of Economic and Social Affairs, International Migration Report 2002, New York: United Nations, 2002, p. 1.  (ST/ESA/SER.A/220) 
[2] Some of the information about the life of Nitobe is drawn from the excellent essay by John F. Howes of Obirin University, Japan, entitled “Japan’s New Internationalism and the Legacy of Nitobe Inazo,” Occasional Paper #5,

Lecture presented for Annual Dorothy and David Lam Lecture Series, October 21,

1993.  (http://216.239.37.100/search?q=cache:AkkhUgD7-NYJ:www.capi.uvic.ca/pdf/HOWES.pdf+Nitobe+Inazo&hl=en&ie=UTF-8). 
[3] Sato Masahiro, “Nitobe Inazo and Bushido,” Jan/Feb 2002. (http://www.jef.or.jp/en/jti/200201_022.html)
[4] Ibid.