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2019/10/04

保坂展人×若松英輔「いのちの政治学」 - 保坂展人|論座 - 朝日新聞社の言論サイト



保坂展人×若松英輔「いのちの政治学」 - 保坂展人|論座 - 朝日新聞社の言論サイト

保坂展人×若松英輔「いのちの政治学」
原発、いじめ、街並み、認知症……すべてを「いのち」の視点から見る

保坂展人 東京都世田谷区長 ジャーナリスト
2019年09月08日
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いのちの政治学|ローマ教皇|世田谷区|保坂展人|若松英輔
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拡大世田谷区長の保坂展人さん(左)と批評家の若松英輔さん=2019年8月22日、東京・九段下

 世田谷区長就任から8年半。保坂展人の世田谷改革は顕著な実績を上げ、全国から注目を集める。近年は中央政界からも熱い視線を送られ、野党再編のキーマンとしても名前が上がる。保坂とは、一体いかなる政治家なのか。気鋭の批評家・若松英輔が、その根っこにある思想と世界観に迫る。

保坂展人(ほさか・のぶと) 東京都世田谷区長 ジャーナリスト

教育問題などを中心にジャーナリストとして活躍し、衆議院議員を3期11年務める。2011年4月より世田谷区長(現在3期目)

若松英輔(わかまつ・えいすけ) 批評家 随筆家

東京工業大学リベラルアーツ教育研究院教授。主な著作『井筒俊彦』、『イエス伝』、『詩集 見えない涙』など

原点は「いのち」を守ること

 若松 今回お会いするにあたって、保坂さんがこれまでに書かれた本――政治家になる以前のものを含んで――を何冊か読ませていただいたのですが、読みながら自然と「いのち」という言葉が思い浮かんできました。




 人間には体と心、そして「いのち」があると思うのです。むしろ、「いのち」が体と心を包んでいる、という方がよいのかもしれません。漢字の「命」ですと身体的な意味での生命現象を感じます。それですと体との区別がうまくいきません。




 ここでの「いのち」は、もう少し働きが大きく、豊かなものです。多くの人は体のこと、心のことは考えても、「いのち」のことにまでは考えが及ばない。体と心をつないでいる何かを見逃している。




 保坂さんは、政治家になる以前から、原発のことにしても、いじめ問題にしても、体や心を超えた「いのちの次元」のことをずっとおやりになってきた気がするのです。




 ご自身が本の中で「いのち」という言葉を使われているわけではないのですが、保坂さんの実践を一言でいうとしたら「いのちの政治学」といえるのではないかと思ったのです。




 保坂 「いのち」という言葉で思い出すのは、教育ジャーナリストとして活動していたときのことです。







拡大高校受験の内申書に「全共闘」と書かれたため不合格となったとして、東京都千代田区立麹町中学の卒業生の保坂展人さんが、東京都と千代田区に損害賠償を求めた裁判で、東京高裁は「内申書に何をどの程度記載するかは中学校校長の裁量」と、校長の裁量権を広く認めて原告勝訴の一審判決を取り消し、請求を棄却する判決を言い渡した。写真は、判決後の支援集会で語る保坂さん=1982年5月19日、東京・霞が関

 私は中学時代、政治的な主張を込めた新聞を発刊したりしていたことを学校に問題視され、それを内申書に書かれたことで全日制の高校をすべて不合格になりました。後に東京都などを相手取って「学習権が侵害された」ことに対する損害賠償請求の裁判も起こしています。内申書裁判と呼ばれ、憲法判例として司法試験にも出題されました。

 10代のときに、いわば学校からの圧力に相当に揺さぶられたわけですが、それが後になって思わぬ形でいきてくることになりました。




 というのは、1980年前後に中学校や高校での校内暴力が社会問題化したとき、子どもたちはなぜ反抗するのか、暴れるのかといったことを論じた本がたくさん出版されたんですね。しかしそれは親や教師の側から書かれたものばかりで、当の子どもたちがどう考えているのかを取材したジャーナリストは、まったくいなかった。




 その中で私は、校内暴力事件を起こした子や、暴走族文化に影響を受けて突っ張っているような子たちのところへ行って、徹夜で話を聞いたりして、ルポを書くようになります。理由は違えど、学校からつまみ出され、排除されたという経験が共通しているからか、あまり反発されることはなかったし、私自身も抵抗なく話を聞くことができました。




 そうして子どもたちの目線で書いたレポートや記事は雑誌に掲載され、10代の子たちの大きな共感を呼びました。読者の99%が10代という、「ジュニアジャーナリズム」ともいえる新しい分野を切り開くことになったのです。




 さらに、1986年の2月には鹿川裕史くん事件が起こります。




 若松 東京都中野区の中学2年生だった鹿川裕史くんが、学校で「お葬式ごっこ」などの壮絶ないじめを受けた末に、自殺してしまった事件ですね。







拡大鹿川裕史君のいじめによる自殺で開かれた緊急父母会で父母にわびる校長=1986年2月3日、東京都中野区の中野富士見中

 保坂 彼は亡くなる直前に書店で3冊の本を買っていて、実はそのうちの1冊が僕の著書だったのです。それを報道で知って、衝撃と共に悔しい思いがしました。なぜなら、彼が最後に買って持っていた本に私が書いたのは、「学校に行くのがつらかったら、休んでいいんだよ、逃げていいんだよ」ということだったから。今では文部科学省ですらそういうことを言うようになりましたが、当時は誰も言っていなかった。「いのちを学校に行くことと引き替えにしないで」という思いで書いた本だったのです。




 でも、鹿川くんがその本を買ったのは亡くなる1時間前だったので、おそらくは読む時間はなかっただろうと思います。それがとても悔しかったし、彼が何かを私に訴えかけてきたような気がして仕方なかった。




 それで、鹿川くんの遺族を訪ねてお話を聞き、当時180万部の部数を誇っていた雑誌『明星』の付録という形で、改めて「死んではいけない」というメッセージを込めたハンドブックをつくりました。




 それを機に、いじめなどで苦しんでいる子どもたちからたくさんの手紙をもらうようになりました。後で、たまたま街で会った若い人に「あのハンドブックのおかげで死ぬのを思いとどまりました」と声をかけられたことも何度もあります。




 その後も、いじめによる自殺などの事件について執筆や講演を続けるとともに、イギリスの「いじめホットライン」である「チャイルドライン」を取材して日本に紹介したりもしました。




 そうした、まさに「いのち」を守ろうと奔走した経験が、私の一番の原点になっています。「いのちの政治学」を感じていただけたとしたら、だからかもしれません。
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自分の内側から表出してくる言葉を探したかった

 若松 「いのちの政治学」と感じたのは、もちろん内容もそうなのですが、それを語る保坂さんの言葉の一つひとつが、「いのち」から発せられる言葉だと感じました。

 頭から発した言葉は相手の頭に届きます。心から出た言葉は心に、そして「いのち」から出た言葉は、「いのち」に届くと思うのです。「いのち」から言葉を発したことのない人は、人が「いのち」から発した言葉を受け取ることがむずかしいかもしれない。

 世田谷区長としての日々を綴った本『88万人のコミュニティデザイン』の中に、「言葉」について書かれたこんな一節がありました。
(10代の終わりごろ)喫茶店の片隅に座っては、2時間も3時間もかけて、なんとか数行の文章をつづるということを繰り返していました。安物のボールペンを握りしめ、筆圧の強い文字を刻みつけるようにノートに書きつけていたのです。私が探していたのは、誰からの借り物でもない自分の「言葉」であり、「文章」でした。「何とか自分のものにしたい」と追っても追っても、手の中につかむことは至難の業でした。

 何気なく書かれていますが、誰にでもできることではないと思います。まさに「いのち」の言葉に出会おうとする現場です。当時、どのような思いがあったのでしょうか。

 保坂 私は、全共闘世代より少し下の、いわゆる「遅れてきた世代」です。同世代の中では少数派だったと思いますが、政治的なことに関心をもって、中学生のころから社会運動に参加したりしていました。

 しかし1970年代半ばになると、上の世代が中心となった学生運動は急速に終焉に向かっていきます。一部では連合赤軍事件のようなリンチ殺人やセクト間の内ゲバも起こり、学生たちは多くが運動を離れてサラリーマンになっていきました。
拡大連合赤軍のリンチ殺人事件で榛名山と妙義山の中間地点の群馬県倉淵村水沼で遺体が発見された=1972年3月12日


 今ある日常をよりよくするために社会運動という波に乗ったつもりが、実はそれが、仲間同士で殺し合うという悪しき結果を生んでしまった。この運動の延長に開けてくる未来は何もないと分かって、出口のない暗闇にいるような気持ちになったのです。

 そのときに、借り物ではない自分の「言葉」が欲しいと強く感じたのは、中国の作家・魯迅の雑感文(随筆)を読んだことが大きなきっかけでした。

 中でも衝撃的だったのが「厦門にて」という雑感文です。魯迅が欄干にもたれて、「暗澹たる中国の未来」を思案していると、ブーンと一匹の蚊が飛んでくる。この蚊を手で払っているうちに「中国の未来」よりも、「蚊の行方」の方が重大な関心事になっていた……という内容なのですが、「身体と思想が同居している人間」を感じて、非常に心に刺さりました。

 私も、自分の内側から表出してくる「言葉」を探したい。そう思ったのです。

 若松 そして、先ほど引用した「喫茶店の片隅に……」ということをされるわけですね。

 保坂 喫茶店でボールペンを握ってはみるものの、2~3行書いては「これはダメだ」と消す、その繰り返しでした。新聞やミニコミづくりで文章を書くのは慣れていたけれど、改めて書こうとすると、自分で考えたと思っていたこともみんな、人からの借り物に過ぎなかったことに気づかされる。その中で、何時間もかけてやっと数行、「これは自分の言葉ではないか」と思えるフレーズが見えてくるんです。

 その後、21歳のときに月刊『宝島』という雑誌でミュージシャンの喜納昌吉さんに関する特集記事を任され、それがジャーナリストとしての最初の本格的な仕事になりました。喜納さんと3ヵ月くらい行動をともにして、そこで起こったことを100ページくらいのレポートにまとめたのですが、このときは面白いようにペンが動いて、1週間くらいで書けてしまった。それは、「書けない」自分と向き合って、格闘した経験があったからこそだと思います。
次は→土地は誰のものなのか

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土地は誰のものなのか

 若松 一方で、「いのち」から発せられる言葉は、しばしば言語にならない、叫びやうめきであったり、涙であったりすることもしばしばある。そして、そういうもう一つの「言葉」を今の社会は無視し続けてきた。保坂さんは、そこに向き合い、すくい上げるということを、ぶれずに続けておられるように思います。
拡大
 昨年に出版された『〈暮らしやすさ〉の都市戦略 ポートランドと世田谷をつなぐ』(岩波書店)も、大変心打たれました。アメリカ・オレゴン州のポートランドを訪れたレポートなのですが、単なるまちづくりについての本というよりは、実はこれもまた「いのち」について書かれた本なのではないかと感じたんです。いかに「いのち」を守ることができるか、という実践の本です。



 たとえば、「環境都市」と呼ばれるポートランドの環境政策と重ねて、ご自身が掲げてこられた「脱原発」についてふれられたくだりがあります。原発事故というのはまさに人の「いのち」を脅かすものでした。


 ですから「放射線量がこのくらいだから大丈夫ですよ」と数値を出されただけでは安心できない。それだけだと心理的な問題を解決したに過ぎません。生活全体と未来を見据えた言葉と態度で、「いのち」を守る、という姿勢を示さなくてはならないのだと思うんです。

 保坂さんは脱原発だけではなくさまざまな場面で、共同体のリーダーとして身体、心はもちろん、「いのち」を守る。誰も見捨てない、と態度を示してこられた。これは、類例が決して多くない政治的実践だと感じています。

 保坂 ポートランドへの旅では、本当にさまざまなことを考えさせられました。

 ポートランドの環境政策を主導したのは、1966年にオレゴン州知事になった元ジャーナリスト、トム・マッコール氏です。彼は就任後、オレゴン州の海岸線をすべて州有化するという驚くべき政策実行に乗り出しました。

 きっかけは、ある民間ディベロッパーがオレゴン州の海岸線をプライベートビーチにするため柵で囲ってしまったことに対し、住民から抗議の声が上がったことです。海岸は誰のものなのか。私たちみんなのものではないのか──それに対してマッコール知事は、「そのとおりだ」と応え、翌年には海岸線を開発から守る「オレゴン州海岸保護法」という州法を成立させてしまうのです。

 さらにマッコール知事は、やはり住民の働きかけを受け、ポートランドの街の中心を流れるウィラメット川沿いにあった高速道路の撤去計画も進めました。本来なら街でもっとも心地よい場所であるはずのウォーターフロントは、市民が自由に使える場でなくてはならないと考えたからです。現在、その高速道路の跡地はとても気持ちのいい公園になっています。

 海岸線やウォーターフロントといった土地や自然は、私有されたり、一部の使用者に独占されるべきではなく、公共の財産として確保されるべき。そうしたマッコール知事の考え方は、自然に対する強い畏敬の念を抱くアメリカ先住民の信仰や文化と重なるもののように思います。

 1980年代後半に、喜納昌吉さんのご縁で、アイヌの人々を沖縄の万座毛(恩納村)に招いて、金環日食を見ながらともに平和を祈るというイベントをプロデュースしたことがあるのですが、アイヌの人々や沖縄の人々の自然観にも、やはり共通するものを感じたことを思い出しました。

 若松 「土地は、自然は、誰のものなのか」──。この問いかけとまったく同じことをローマ教皇フランシスコが『回勅 ラウダート・シ』で問題にしています。

 「回勅」とは、ローマ教皇が全世界のカトリック教会全体にむけて発せられる最も重要な公文書です。自然との共生、そして「いのち」を守るということは、最重要の課題の一つとして認識しています。

 この回勅に、現代がこれほど困難な時代になってしまったのは、人間が土地を自分たちの専有物だと考えたからだ、という話が出てくるのです。

 土地の問題は人間だけでなく、あらゆる生き物と深く関係している。しかし、あるときから人間は──それも、きわめて少数の人々が自分の「所有物」だと考え、経済価値に交換しはじめた。その矛盾が、環境問題や経済格差など、今世界を苦しめている様々な問題の原点にあるのではないか、というわけです。

 教皇は「大地に対する(人間の)責任」を考え直さなくてはならないと述べています。非常に重要な考え方だと思います。




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都市も、人も、よみがえっていける

 若松 もう一つ、『〈暮らしやすさ〉の都市戦略』の中で印象的だったのが、ポートランドの中心市街地の「再生」について書かれたくだりです。かつて産業の中心だった重工業が衰退し、ゴーストタウンのようになっていたエリアが、建物のリノベーションや公園・交通機関の整備などの取り組みの末に、見事に「再生」していった。むしろ「新生」というべきかもしれません。

 今、日本の都市もさまざまな問題に直面していますが、どんなに荒廃した場所でもよみがえっていける、単なる「改善」ではなくて「新生」できる、という指摘はとても新鮮でした。



保坂展人さん=2019年8月22日、東京・九段下 保坂 たとえば東京の街並みも、高いビルが無秩序に密集していて、ごちゃごちゃして美しくないとよく言われますが、多くの人は、それをいまさら変えるなんてことはできないと思いがちです。でも、人がつくったものは、やっぱり人によって変えることができるものだと思うんですよ。



 都市だけではありません。学校や企業や役所などについても、私たちは既存の組織が硬直化してうまく機能しなくなっていると思いながらも、どこかでそれは変えられないと思っているのではないでしょうか。

 でも、たとえば世田谷区では今年、不登校になった子どもたちなどを受け入れる公設民営のフリースクールをスタートさせました。まだ開設から半年ほどですが、すでに「通いはじめて、うちの子どもが見違えるように変わりました」と何度も声をかけてもらっています。変えようとすれば、変えることは可能なのです。

 特に1990年代以降、この国でずっと続いてきたのは「欲望の解放」だったと思います。弱いところからできるだけ搾り取って儲けるために、人は使い捨て、持続可能性や他人に対する思いやりなんてことは考えず、ただこの瞬間だけがよければいいという風潮が広がり続けてきた。その結果として、日本社会はここまで落ちてきてしまったんだと思うのです。

 それに対して危機感を抱きながらも、もう無理なのかなという絶望を感じている人も少なくないでしょう。しかし、行政の立場になってみて、ほんの少し何か仕組みを変えるだけでも、人の毎日は大きく変わってくるんだということを実感しています。

 若松 外見上は、「ほんの少し」のことなんですよね。ただ、それはおそらく、ただ体だけ、心だけではない「いのち」の次元にふれる本質的な変化だからこそ、何かを大きく動かすことができた、ということだと思うのです。

 保坂 今、世田谷で取り組もうとしている「変化」として、認知症についての条例づくりがあります。世田谷区民90万人の中には、認知症の方が2万3000人いると判定されているんです。

 認知症というのは、至近の記憶はすぐ飛んでしまうけれど、中長期的な記憶は非常にしっかりしていて、会話もちゃんと成り立つという人も多い。その人が病気になるまでに築いてきた生き方や人格、それに基づくプライドややさしさといったものは、当然ながら変わらず存在しているわけです。

 それなのに、かつて「痴呆症」といわれたことからも分かるように、「何を言ってもどうせ分からないから」というような、差別的な扱いを受ける患者さんも少なくなかった。そこをきっちり、行政の名において切り替える人権宣言のような条例をつくりたいと考えているんです。実際に家族を介護してきた人、訪問介護の仕事をしている人、そして認知症の当事者など、さまざまな立場の人が集まって話し合っているところです。

 認知症などの病気だけではなく、たとえば不登校や引きこもりといった苦しみもまた、紛れもなく人の生きざまの一部です。けれどこれまでの社会は、そういう「見たくない部分」を、まるでホッチキスで封印し「なかったこと」にしてきたようなところがあったのではないでしょうか。

 認知症になったら人生は終わり、引きこもりの人はきっと何か事件を起こすに違いない……そんなふうに決めつけて排除していく社会が、多くの人の生きづらさをつくり出している。先ほどの言葉でいうならば、どうやって人の再生の回路、よみがえりの回路をつくっていくかというのが、今後一番力を入れていきたい部分ですね。

 若松 一度社会生活のレールを外れてしまったら、もうよみがえることはできない。むしろ、社会の負担にすらなる、という考え方が、これまで私たちの社会を覆ってきました。

 それを「仕方ないことだ」と考える世界観と、「変えることできる」また、どんな状態であれ、誰かを社会から押しだすようなことはあってはならない、という世界観には、絶対的な隔たりがあります。

 保坂さんのお話からは、人間は変わっていける、よみがえっていけると、いう世界観を強く感じるのですが、それはいじめに苦しむ子どもたちなど、「弱い」「生きづらい」人たちとずっと接してこられた経験があるからなのではないかと感じました。
次は→行きすぎた分業化、細分化を乗り越えるために



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行きすぎた分業化、細分化を乗り越えるために

 保坂 以前、長崎県の佐世保市で、小学生の女の子が給食時間中に、カッターナイフで同級生を殺害するという、非常に痛ましい事件がありました(2004年佐世保女児殺人事件)。そこの小学校を訪ねて教員たちの話を聞いたことがあるのですが、一つ違和感があったのが「事件後、専門家であるスクールカウンセラーを置き、心の問題はそのカウンセラーに任せています」と言っていたことでした。

 だって、子どものことを一番よく知っているのは教員のはずでしょう。いくら専門家と言っても、それまでの子どもたちのことを何も知らない人に「任せた」としてしまっていいのでしょうか。ここでもまた、見たくないことをホッチキスでとめて「なかったこと」にしてしまうような姿勢を感じました。

 若松 子どもの体を「見る」専門家、心を「見る」専門家がいるだけでは不十分です。もし、誰も「いのち」を見ていなければ、結果的に「いのち」が失われることになってしまうかもしれない。「いのち」に危機を抱えた子どもがいる。「いのち」の感覚がないと、彼、彼女らの行き場もなくなっていることに、大人も気がつくことができなくなってしまうように思うのです。

 保坂 学校のみならず、今の社会はさまざまな場面で分業化、細分化が進みすぎて、その人のことをまるごと受け止めてコミュニケーションすることが難しくなっている気がします。人間同士の関係でも、同じ専門分野、同じ考え方の人とだけつながっているということが増えているのではないでしょうか。

 若松 この問題は、子どもの周辺だけではなく、あらゆる人が直面している問題ですね。

 保坂 それを乗り越えるためには、身近な生活エリアの中にさまざまな機能を集中させていくことが必要だと感じています。

 社会福祉においても、通常の福祉保健行政では、次のように分かれています。知的障害、身体障害、発達障害、高齢介護、精神障害など、それぞれ専門のチームがあって、どのチームも専門業務として成立して、他の領域のことにはほとんどタッチしないという仕組みになっているんですね。

 たとえば今、一番ニーズが高いのは高齢介護なんですが、あるおじいさんが腰が痛くて動けないというので、行政から委託を受けた地域包括センターの担当職員が、必要な介護を相談するために家庭訪問したとします。おばあさんとの打ち合わせを終えて帰ろうとしたときに、ちらっと息子さんの姿を見かけた。どうやら仕事も何もしていないようだし、ちょっと精神的に疲れている感じもする……。

 しかし、息子さんのことは「高齢介護」の範疇からは外れているので、職員はそれ以上、立ち入ることもなく、そのことを報告書には書きません。センターに戻ってからも誰に連絡するでもなく、そのまま忘れられて終わりになってしまうんです。

 そこで世田谷区では、28地区の区の「まちづくりセンター」に高齢介護の窓口となる「あんしんすこやかセンター」(地域包括支援センター)と社会福祉協議会の事務局を一か所に集めて「福祉の相談窓口」を設け、そこに介護関係だけではないさまざまな情報が集約されてくる仕組みをつくりました。

 それによって、最初に訪問したケアマネジャーが息子さんの存在に気づいたら、とりあえずおばあさんに話を聞いてみる。そうしたら、「息子が時々怒鳴ったりして怖い、精神科にかかったほうがいいとも思うけれど、怖くて言い出せない」という。それをセンターに戻って報告・共有したら、今度は保健師が息子さんのことについて相談するために改めて訪問する。そういう流れができてきたんです。
居場所をつくる、生きがいを咲かせる

 保坂 「福祉の相談窓口」への情報集約を進めたことで、他にもいい変化が起こってきました。

 地域には、以前は大企業の重役だったとか国家公務員だったとか、いわば「功成り名を遂げた」後にリタイアされた方がたくさんいらっしゃいます。その中には、仕事以外に何をしていいのか分からないというので、時間をもてあましている方も少なくありません。

 特に男性が多いのですが、まだ身体もお元気だし、スキルや経験もたっぷりある、この「社会資源」を地域に引っ張りだそうということで、社会福祉協議会のコーディネーターが「郷土史研究会」や「映画会」、「地区活動入門講座」など年配の男性が参加しやすいイベントをいろいろ企画した。そして、1回でも参加してくれた方にはさらに声をかけて、「チーム」化して次の企画や取り組みにかかわってもらえるようにしていったんです。

 結果、さまざまな方がステーションに出入りしてくれるようになっていて、現役時代は外交官だったという方が、地域の英語教室の先生を務めてくれていたりする。子どもたち向けの企画にもどんどん参加してくれています。そんなふうにいろんなことをやれる力のある人たちを、退屈で不機嫌な顔にさせておくのは、もったいないじゃないですか。


若松英輔さん=2019年8月22日、東京・九段下 若松 「生きがい」という問題ですね。「生きがい」の発見とは居場所の発見であると、お話を聞いていて思いました。これはきわめて重要な発見だと思います。どんなに才能や経験があっても、居場所がなければその人の「生きがい」は花開かない。



 最近、ヘイトスピーチや歴史修正主義的な言説をネット上に書き込んだりする、いわゆる「ネトウヨ」に高齢者が増えていることが指摘されています。こうした現象も、日常の中の「居場所のなさ」が、遠因になっているのではないかと思うのです。

 「ヘイト」に関する書き込みの底には、やり場のない怒りがあります。怒りは、刹那的な活力になる。これを「よい」ことだと思い込むことができれば、世の中に居場所がなくても、自分の存在意義を感じることができるかもしれない。

 それに対して「あなたたちは間違っているから改めてください」と言うだけでは変わらない。人は、変われと言われても変われない。

 変わるには「場」が必要です。おっしゃるように本当の意味での「居場所」をつくっていくことが、非常に大切になっていると思います。
次は→人が「幸せそうな表情で歩ける街」に

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人が「幸せそうな表情で歩ける街」に

 若松 ご著書を読んでいて、政治家の本としては希有なほど、「やりたいこと」だけではなく「やってきたこと」が多く記されているのも印象に残りました。世田谷区の人口は90万人強。もっと人口の少ない県もあります。そうした規模で、こうした具体的な変化が起こせることをとても心強く感じました。

 保坂 その一つが、2015年11月に開始した、同性カップルのパートナーシップ制度ですね。

 よく「パートナーシップ証明書」といわれるのですが、正確には世田谷区が出しているのは「証明書」ではありません。最初に制度をつくろうとして法務担当の部門に相談すると、そもそも「パートナーシップを証明する」ための法律がないので、その証明書を行政が出すことはできないといわれたんです。

 一方で、同性カップルの方たちからは、形にはこだわらず何でもいいのでとにかく区としての証明書を出してほしい、という声をたくさん聞いていました。

 そこで、その両方をすりあわせて、カップルのお2人に「私たちは愛し合っていて、ともに人生を分かち合っていきます」という宣誓書を書いて区に提出してもらい、それを「たしかに受け取りました」という受領証明証を出すことにしたわけです。

 法的にはそんなものに何の価値があるんだということになるのかもしれませんが、実際に変化は起こっていて、この制度を利用した第一号の女性カップルのお1人が重い病気で入院されたとき、パートナーの方は、それまで「家族以外はダメ」といわれて病室に入れなかったのが、制度ができてからは付き添いが認められるようになった。しかも、証明証を示すまでもなく「どうぞ」と入れてもらえたそうで、大きな変化だと思います。携帯電話や旅行会社の「家族割」も適用されるようになった。

 さらに、スタート時点では他に同じような制度を設けているのは世田谷区と同じ日に認証制度を始めた渋谷区だけだったのですが、4年近く経った今は全国で20以上の自治体に広がっていて、それらの自治体の人口を合計すると1783万人となりました。つまり、日本の人口の1割以上にまでこの制度が広がったわけで、社会全体を変えていくきっかけをつくれたと、十分にいえるのではないかと思っています。
拡大世田谷区長の保坂展人さん(左)と批評家の若松英輔さん=2019年8月22日、東京・九段下


 若松 キリスト教徒にとっては――私もカトリックですが――戸籍がどうであれ、教会で挙式することが「結婚」です。法的、一般社会的には通用しなかったとしても、キリスト教徒の間では挙式さえ済んでいれば、正式な「結婚」として扱われる。パートナーシップ制度の話を聞いたとき、それと同じようなことが宗教ではなく、行政を通じて実現できるんだと驚きました。

 今、日本という国の政治は、本当の意味での「人間の生活」を見失っている気がしています。一人ひとりの生活を見ないままさまざまなことが決められている。人々が抱える苦しみも悲しみも、まったく顧みられることはない。

 一方で、世田谷区のように地域レベルでは、「人間の生活」と向き合った政治が、たしかに動きはじめている。このことの意味を、もっと真摯に見ていく必要があると思います。たしかに実践することの意味、実践されたことの意味です。

 保坂 まちづくりにおいてもっとも重要なのは、「どんな街の姿を到達点にしたいのか」ということだと思います。高層ビルがたくさん建って、どんどんお金が入ってくるような街にしたいのか、それとは違うところに価値を見出すのか。

 私は、道を歩いている人がみんな幸せそうな表情でいて、誰かが誰かに道を尋ねたらそこからおしゃべりが始まるような雰囲気の街が「住みやすい」街だと思っているし、そういう街をつくりたいと考えています。かつては日本の多くの街にそうした住みやすさがあったはずなのに、経済指数では表れてこない部分だけに、時代とともにどんどん失われていってしまった。それを取り戻したいと考えています。

 若松 現代社会は、すべての結果を数値で表現することが当たり前になっているし、私たちもそれに慣れてしまっています。正しいということは、数値化できると考えている人もいるかもしれません。

 本来、人の生活の中には、数値化できない、量ではなくて質を見るべき大切なものもあるはずなのに、その部分はずっと見捨てられてきました。「量的」なものには代わりがあります。しかし、「質的」であるとは世界に一つだけしかないものということです。そのもっとも典型的なものが、人の「いのち」です。これが見捨てられてきたということだと思います。

 そろそろ私たちは、体や心のことだけでなく、「いのち」の次元を見つめる姿勢を取り戻さなくてはならない。そうでなければ、この社会が根底から壊れていってしまうところまで来ている気がします。その意味で、保坂さんが実践されている「いのちの政治学」は、今、本当にこの国に必要なものだと思うのです。
「論座」で執筆中の保坂展人さんのtwitterフォロワーが8万人を超えようとしています。10月8日19時から「LOFT9 Shibuya」(渋谷駅徒歩3分)で記念イベントを開催します。「論座」で執筆中の政治学者・中島岳志さんもゲストで登壇します。主催・問い合わせは「保坂展人と元気印の会」(03-6379-2107)へ。
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2016/11/04

『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会 : 書籍 : クリスチャントゥデイ

『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会 : 書籍 : クリスチャントゥデイ







『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会

2015年11月10日16時17分 記者 : 土門稔 印刷 Facebookでシェアする  Twitterでシェアする 関連タグ:内村鑑三無教会

+『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会

『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』



内村鑑三(1861~1930)というと、明治の無教会の創始者、堅固な信仰者にして思想家というイメージが強いのではないだろうか。『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』は、歴史社会学の視点からメディアとナショナリズムという切り口で、内村と無教会の捉え直しを図っている。そこから見えてくるのは、内村も揺らぎを持った一人の人間であったこと、そして雑誌メディアを活用した伝道方法の新しさである。インターネットの登場とともにメディアやコミュニケーションの在り方が激変する現代におけるキリスト教伝道を考えるとき、内村がやったことの中にはさまざまなヒントがあるように思われる。内村は堅苦しいどころか“面白い”、古いどころか“新しい”。

戦前を振り返るとき、「内村や矢内原(忠雄)は信仰故に『日本』を批判し得た」と語られがちだ。しかし、著者の赤江達也氏(台湾国立高雄第一科技大学助理教授)は、彼らの国家批判ばかりが注目されることで、彼らが同時に強い「愛国心」の持ち主であったという事実が見落とされているのではないかと指摘する。「日本人であること」と「クリスチャンであること」を彼らがどう調整していたのかを考えることで、「宗教」と「日本近代」について語り直すことができるのではないか。それが本書を貫いている問い掛けだ。

不敬事件における内村の「ためらい」

無教会とは何か? 牧師なし、洗礼なし、按手(あんしゅ)礼なし、教会なしのキリスト教。さらに「統計の拒否」という思想から、人数も規模も正確に把握できてはいない。内村が「無教会」を唱えるようになった原点には不敬事件がある

1891年、第一高等学校の教師だった内村は、学内の始業式で「教育勅語」に最敬礼をしなかったことで世間から大きな批判を受け、教師を辞する。この事件はこれまで、「内村の揺るぎない信仰による拒否」と捉えられてきたが、実際はもっと複雑なものであるという。内村は自身を「極左の愛国的キリスト信徒」と書くほどの愛国者であり、皇室への尊敬も強かった。しかしこの日、直前に教頭が「礼拝的低頭」を命じたため、それは宗教的行為になるかもしれないと考え、「ためらった」後、「チョット頭を下げ」た。

「お辞儀は礼拝を意味せず、との見解は私自身自ら赦(ゆる)し来つたところであり、かたや日本ではしばしば、アメリカでいう、帽子をぬぐ、という程の意味で用いられており、あの瞬間私にお辞儀をいなませたのは拒否ではなく実はためらいと良心のとがめだったのです・・・」(『内村鑑三全集』36巻333ページ)

しかしその結果、内村は世間からもキリスト教徒たちからも批判されることになる。

「世間の人々は、私が結局お辞儀することに同意した事実は確かめもせずに、ただ私の当初のためらいを目して断固たる拒否と見なします。一方長老教会の人びとは、自分ではお辞儀をするも差支えなしとしながらも、私が政府の権威に屈服した――と憐(あわ)れむべき彼ら狭量の聖徒らは考えます。――事に向つて軽侮の言葉をあびせかけて来ます」(『内村鑑三全集』36巻334ページ)

赤江氏は、この「ためらい」주저; 망설임こそが、内村の中にある「信仰」と「愛国心」の間のジレンマなのではないか、「揺るぎない흔들림 없다;信仰による拒否」と捉えることは内村の真意を見えにくくしてしまうのではないか、と指摘する。

メディア論から見た内村 「紙上の教会」

板ばさみで苦しんだ内村は、教会からも距離を置くようになり、1893年の最初の著書『基督信徒のなぐさめ』の中で初めて「無教会」という言葉を使う。

「余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる賛美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし」(『内村鑑三全集』2巻36ページ)

その後、多くの著作を執筆し、1897年に新聞『萬朝報(よろずちょうほう)』の英文欄主筆となる。そして1900年から1930年までは雑誌『聖書之研究』を刊行し、2000部から4000部ほどの発行部数だった同誌の購読料で生活していくことになる。

『聖書之研究』の読者は、各地で雑誌や聖書を共に読む読書会を作り、それが聖書研究会や集会につながっていった。また、内村は読者の投書を重視し、『無教会』という投書雑誌を試みている。赤江氏によれば、内村は読者共同体の中から各地に集会が生み出されていくような仕組みを作り、それを「紙上の教会」と呼んだ

「本誌(『無教会』)は元々教友の交通機関を目的として発行した者でありまして、一名之(これ)を『紙上の教会』と称へても宜しい者であります。即ち私共行くべき教会を有たざる者が天下の同志と相互に親愛の情を交換せんために発行された雑誌であります、(中略)記者が筆を執ること割合ひに少く読者が報と感とを傳(つた)ふること割合に多かるべき性質の雑誌であります」(『内村鑑三全集』9巻316ページ)

赤江氏は、この「紙上の教会」は、さまざまな理由から教会に行くことができない「弱者」のための構想であったと指摘する。例えば、『無教会』では、題字の脇に「孤独者の友人」という標語が掲げられ、地方の人々や「少女と老人の友」となることがうたわれていた。

『聖書之研究』や『無教会』は、教会を持たない、地方の孤独な信徒を結び付けるメディアであった。1917年の『聖書之研究』の事例を見ると、読者の投稿は、農家17%、商家14%、工人4%、教師15%、婦人6・7%、軍人2・2%、官吏5・2%と、読者層は幅広い。内村にとって、各地に散らばる多様な読者の共同性は、教会ではないが「紙上の教会」と呼び得るものであった。

「『無教会』は教会の無い者の教会であります、即ち家の無い者の合宿所とも云ふべきものであります、すなわち心霊上の養育院か孤児院のやうなものであります、(中略)さうして世には教会の無い、無牧の羊が多いと思いますからここに小冊子を発刊するに至ったのであります」(『内村鑑三全集』9巻71ページ)

内村は自分の雑誌の読者を「独立信者」と呼び、彼らの「孤独」を肯定している。独立信者には、「制度を以(も)つて或(あ)る団結一致」はない。しかし、その「隠れたる、而(しこう)して散乱せる、多くの孤独の独立信者」たちをつなげる仕組みが「紙上の教会」だったのである(『内村鑑三全集』13巻147ページ)。

内村は、雑誌メディアで聖書研究の場を作り出すことで、「大学」にも「教会」にも属さない在野の研究者、伝道者になった、と赤江氏は言う。そうした内村のあり方は、その同時代にも“新しい”ものであったが、インターネットやSNSの普及によってコミュニケーションの形が急速に変わりつつある現代においてもなお“新しい”。

内村が雑誌メディアを通して作り出した読者の共同性は、内村以後も第二世代の伝道者たちによって受け継が

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『「紙上の教会」と日本近代』(2)矢内原忠雄の信仰とナショナリズム 現代に託された内村鑑三の遺言



2015年11月10日16時18分

記者 : 土門稔 印刷 Facebookでシェアする  Twitterでシェアする 関連タグ:内村鑑三無教会



矢内原のキリスト教信仰とナショナリズム



東京帝国大学教授の矢内原忠雄(1893~1961)は、1937年、いわゆる「矢内原事件」で大学を辞し、専業の伝道者となる。矢内原は『中央公論』誌上で「国際正義」と「国際平和」を訴え、さらに日中戦争を遂行する国家を激しく批判したために、大学を追われる。だが、赤江氏は、矢内原の思想においては、キリスト教信仰とナショナリズムが密接に結びついていると指摘する。

「然(しか)らば『全体』の観念の把握について、基督教は何らかの寄与を為し得るであらうか。然り、聖書のエクレシヤ観(教会観)は典型的なる全体主義社会であり、基督教の全体主義の理想はその中にあるのである。このエクレシヤ観を純粋に把握し、且(か)つ積極的に展開することによって、基督教は全体主義に『たましひ』を吹き込むことが出来る」(『矢内原忠雄全集』15巻141ページ)

矢内原は、戦時下において「キリスト教の全体主義の理想」を語っている。そして、その理想の全体主義の中心に、天皇が位置付けられる。

併(しか)し、私は真に日本人の心によって基督教が把握せられて、本当の歪められないところの基督教が日本に成立つ、日本に普及する、其(そ)の時の光景を考へてみますと、上に一天万乗の皇室がありまして、下には万民協和の臣民があつて何の掠(かす)めとる者もなく何の脅かす者もなく、正義と公道が清き川の如(ごと)くに流れる。さういふ国を私はまぼろしに見るんです。(中略)さうしたいんです。私はさうしたい。さういふ国に私の国をしたい」(『矢内原忠雄全集』18巻701ページ)

こうした矢内原の姿勢は、戦争が終わり、天皇の人間宣言が出された後も変わっていない。

「併し陛下、今の状態の儘(まま)ではいけません。聖書をお学びになれば、陛下ご自身の御心が平和を得、希望を得、勇気を得、頼り所を得られます。陛下に洗礼をお受けなさいとか教会にお出でなさいとか、そんな事を私は申すのではありません。陛下を基督教徒にしようといふのではありません。けれども聖書を学んで頂きたい。それがやがて国の復興の模範となり、基礎となるのであります」(『矢内原忠雄全集』19巻)

矢内原は、戦中も戦後も、「天皇のキリスト教化」と「日本精神のキリスト教化」を構想していたのである。

これまで、矢内原は軍国主義的ナショナリズムに抵抗した人物として論じられてきた。それは間違いではない。ただ、それと同時に、矢内原の思想において「キリスト教」と「ナショナリズム」、そして「天皇」への尊敬が並存しているという指摘は、日本近代のキリスト教を考える上で避けて通れない問題を含んでいるといえるだろう。

なぜ無教会は戦後、学問・宗教界を超えた威信を持ち得たのか?

戦後、南原繁(1889~1974)と矢内原が続けて東京大学の総長となり、無教会は学問・宗教界を超えた威信を持った。その理由として、赤江氏は4つの点を挙げる。

体制翼賛に組み込まれた日本キリスト教界とは対照的に、戦争反対の「殉教者」とみなされたこと。

彼らはキリスト者であると同時に、天皇を尊敬する愛国者であったこと。

特定の宗教団体や教派に属していないため、大学知識人として学問的な立場を中立的に代表しているように見えたこと。

同じ理由から、特定の教派ではなく、キリスト教の「精神」を代表する存在に見えたこと。

無教会であるが故に、「キリスト教精神」を語っても特定の宗教団体に関わるものではなく、憲法の信教の自由や公教育の中立性の原則を守りながら発言することができた。この指摘は非常に説得力がある。さらにこの無教会派知識人の系譜は、内村から洗礼を受け、マックス・ウェーバー研究の大家だった大塚久雄(1907~96)に受け継がれ、その「禁欲主義的プロテステンティズム」が資本主義を形成したという歴史的議論が力を持ち、戦後民主主義に滑らかに接続されていったという。

無教会の雑誌は、戦後の25年間に94誌が発行されている。教会神学者との間でも論争が活発に行われ、日本聖書学研究所が設立されるなど、無教会が聖書学を牽引する時代が続いた(この時代について、田川健三(1935~)は「聖書の研究と言えば無教会」と語っている)。しかし、1960、70年代に、矢内原や塚本虎二(1885~1973)が亡くなるころから、無教会派知識人の存在感は次第に薄れ、無教会信徒の高齢化が生じ始める。

「紙上の教会」の一員に託された内村の遺言

赤江氏は本書の最後に、1916年に内村が弟子に遺した預言のような遺言を引用している。

「余の事業と称すべきものは全く消え去るであろう。(中略)然しながら、余の事業は是がために必ず滅びないと信ずる。(中略)余の知らざる人より、あるいはかつて一回も余に接触せしことなき人より、あるいは遠方にありて余の雑誌又は著述によりて余の福音を知りし者よりして、余の精神、主義および福音を了解し〔て〕くれるもの現われて、思わざる所にこれを唱え、余の志を継承しかつこれを発展し〔て〕くれることを確く信ずる」

ここで書かれている「余の精神、主義および福音を了解し」、「余の志を継承しかつこれを発展」する者とは誰のことなのか? 赤江氏は、それは書物や雑誌を通して内村が語った福音を読む「私たち」のことに他ならない、という。そして本書をこう締めくくっている。

「『紙上の教会』としての無教会は、内村鑑三や無教会主義者たちの書いたものが読まれるとき、そして彼らをめぐって書かれたものが読まれるとき、そこに存在している。本書は、そのような仕方で、無教会の存在に触れているのである

ならば、本書や、本書を通して内村や無教会の書物を読む「私たち」もまた、「紙上の教会」に連なる一員であるということができる。

無教会とは何か? それは、日本近代の思想、教育、キリスト教にどのような影響を与えたのか? 本書は、最も新しく貴重な、そして現代的な問い掛けを持った研究だといえるだろう。



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『「紙上の教会」と日本近代』(3)大学と教会から離れ、オルタナティブなメディアを作った内村鑑三



2015年11月10日

+『「紙上の教会」と日本近代』(3):大学と教会から離れ、独自のメディアを作った内村鑑三 
著者・赤江達也氏インタビュー

『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』著者の赤江達也氏(写真左)


内村鑑三の明石訪問100年を記念して、10月17日には兵庫県明石市で、赤江氏と岩野祐介氏(関西学院大学神学部准教授)による講演会(明石内村鑑三研究会主催)が行われた。この講演のために来日していた赤江氏に、『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』について話を伺った。
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出版されて反応はいかがですか?

社会学、宗教学、歴史学、思想史など、いろいろな分野の方々から反響を頂いています。キリスト教史だけではなく、近代仏教研究でも参照して頂くことがあり、うれしく思っています。

時々、無教会の中心は雑誌ではなく、あくまでも集会であるというコメントを頂くことがあります。たしかに現在の無教会には、「エクレシア」(教会)を「集会」と翻訳するような、集会こそが信仰継承の場であるという考え方があります。それに対して、本書では「集会」と「雑誌」双方の役割に注目しながら、集会中心の考え方が戦後に強まることを指摘しています。

なぜこのテーマで本を書こうと思われたのですか?

私は岡山県の出身で、福音派のキリスト教という家庭環境で育ちました。子どものころから、家庭や教会で語られることと学校や新聞などで語られることが違うなぁ、と感じていました。例えば、教会で学ぶ創造論と学校で学ぶ進化論の違いなどです。また、岡山は地方都市ですから、キリスト教会というのは地域社会の中でどこか異質なところがあると同時に、さまざまな社会活動を通じて地域に根ざしているところもあります。私は、キリスト教と日本近代社会について研究してきたわけですが、その根底には子どものころに感じた齟齬(そご)の感覚があるのかもしれないと思います。

その後、筑波大学の修士課程で矢内原忠雄の信仰と学問と政治について学ぶ中で、無教会運動に興味を持ちました。そして、それを生み出した内村鑑三とはどんな人物か、不敬事件とは何かを考えるようになりました。その中で、内村鑑三、矢内原忠雄、南原繁、大塚久雄という無教会派知識人の系譜と、彼らを支える読者の広がりが見えてきました

中心となっているのが、無教会派におけるキリスト教信仰とナショナリズムのつながりですね

これまでの研究では、内村の不敬事件や矢内原事件などについて、彼らの国家批判の側面が強調されてきました。でも、彼らの著作を読むと、天皇への尊敬、愛国心やナショナリズムがはっきりと感じられます。それを無視して彼らを過度に英雄化してしまうと、かえって彼らの国家批判の意義も理解しにくくなってしまいます

例えば、矢内原が1937年に矢内原事件で東京帝国大学を辞任するきっかけとなった日中戦争批判は、やはり当時としては際立ったものだと思います。でも、矢内原は、同じ年に「民族と伝統」という論文で「天皇主権」と「臣民翼賛」を支持しつつ、「日本民族は天皇の臣民であると共に、天皇の族員である。之が日本民族の伝統的なる民族感情であり、国体の精華である」と論じています。また、戦時中には、「無教会主義精神に基づく全体主義」を語ったりしています。

私は、矢内原のナショナリズムは、当時の軍国主義的ナショナリズムとは全く違うものだと考えています矢内原は、天皇主権や全体主義をキリスト教的に意味付け直すことで、それらを批判しようとしています。そうした「キリスト教ナショナリズム」は、同時代のナショナリズム言説に近づくところがあり、それ故に危うさもあります。しかしそれは同時に、検閲などの制約の中で、同時代の人々の耳に批判の声を届けるための戦略だったのだと思います。そのあたりはまだまだ検討する余地があると思っています。

もう一つがメディア論としての無教会という視点ですね

無教会とは何かということを考えたときに、それはまずは雑誌の名前だったわけです。1893年の著書『基督信徒のなぐさめ』では、無教会は「教会から捨てられた」という否定的な意味合いで使われていました。でも、1901年には、自分の雑誌の名前として、ポジティブな意味合いで使われます。その雑誌『無教会』の最初の社説で、無教会に「教会のない者の教会」という定義が与えられます。そして『無教会』が「教友の交通機関」と呼ばれ、さらに「紙上の教会」と言い換えられるのです。

この『無教会』は、読者からの感想などを掲載する投書雑誌でした。『無教会』は18号で終刊になりますが、30年続いた『聖書之研究』にも投書欄がありましたし、その後も内村は何度も投書雑誌を試みています。読者たちが投書をするための場を作り続けているのです。そして無教会第二世代の指導者たちは、読者から書き手に変わっていった人々でした。つまり、雑誌は読者を訓練し、書き手へと変えていく場でもあったわけです。

当時、投書というのは既にあったのですか?

文芸雑誌では、投書という形態は一般的に見られるものでした。内村には『萬朝報(よろずちょうほう)』という新聞で働いた経験があり、しかも郵便制度や印刷技術が整い始めていました。個人で出版社を作り、雑誌を編集・刊行することが比較的簡単にできるようになった時代だったわけです。キリスト教でいえば、植村正久(1858~1921)や海老名弾正(1856~1937)も雑誌を作っています。ただこれらは、教団の見解を示すような機関誌、広報誌的な性格を持っていました。それに対して、雑誌を中心に投書や読者会や講演会など、読者がさまざまな形でコミットしていくことができる仕組みを作ったところに内村の新しさがあると思います。

内村は、教会がない地方でも、雑誌を通して主日を守り、一人で礼拝ができるようにと考えていました。また、内村が地方を訪ねて講演会を開くと読者が集まり、そこに集会が生まれていきます。だから内村は、単に雑誌を発行しただけではなく、雑誌を通して読者のネットワークを作り出し、各地に集会を作ることを促していったわけです。こうして、雑誌、講演会、読者会(集会)が相互に作用しあう中で、無教会運動が成立するのです。

今、出版不況が言われる中で、書店で作家が読者会や朗読会を開き、読者とつながる場を作ろうと力を入れています。それに似ていますね。

そうですね。例えば、若松英輔さんの「読むと書く」講座や、東浩紀さんの「ゲンロンカフェ」でしょうか。内村も、雑誌や本を出すだけでなく、聖書講義や講演会という名のトークイベントに出続けたわけですから似ていますよね。

もし、内村が今の時代に生きていたら、インターネットを駆使しているのではないでしょうか? 個人の有料メールマガジンは絶対やっていますよね(笑)

メールマガジンかどうかは分からないですが、インターネットは間違いなく活用していると思いますね(笑)。100年以上前の内村にとっての雑誌やパンフレットは、現在でいえばインターネットのような意味を持っていたのだと思います。

それができたのは、内村に新聞記者だったという経歴があったからでしょうか。

内村は『萬朝報』で働いていたけれど、いわゆる新聞記者ではなく、英文欄を担当する論説委員でした。『萬朝報』は、政治家のスキャンダルなどを扱うことで人気があったのですが、さらに学生などの知識層にアピールするために、内村や幸徳秋水(1871~1911)といった人々が採用されました。

今で言えば、『週刊文春』に有名な大学教授や文化人がコラムを書くみたいな感覚でしょうか?(笑)

そうです、そうです(笑)。内村は『萬朝報』を通してマスメディアの威力を知り、読者の存在を意識するようになったのだと思います。

そういう視点で捉えていくと、内村のやっていたことの斬新さや、現代におけるメディアの在り方にもつながって、大変興味深いですね。

『萬朝報』を離れた後、30年間発行し続けた『聖書之研究』は、内村にとってオルタナティブなメディアだったのだと思います。大学の教師でも、教会の牧師でもないにもかかわらず、聖書の研究を続け、キリスト教を伝道するための場を自分で作ってしまったわけです。内村にとって、聖書講義を行う集会と並んで研究・教育・伝道のための場となったのが、『聖書之研究』という雑誌でした。そして、その読者たち一人一人が形作るネットワークが「教会の無い者の教会」、すなわち「紙上の教会」だったのだと思います。

今後の研究のテーマは?

内村が「紙上の教会」を構想した原点には、不敬事件で「国体」に抵触し、学校を追われ、教会から批判された経験があります。この事件はきわめて有名ですが、その意義については、まだ明らかになっていないところがあります。そこで現在は、内村鑑三不敬事件についての研究を進めています。

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2016/10/21

内村の『代表的日本人』と新渡戸の『武士道』を読む -武田清子の土着論を通して - 西の人

内村の『代表的日本人』と新渡戸の『武士道』を読む -武田清子の土着論を通して - 西の人






内村の『代表的日本人』と新渡戸の『武士道』を読む -武田清子の土着論を通して


宗教学特殊講義                        

論題:『代表的日本人』と新渡戸の『武士道』を読み比べる -武田清子の土着論を通して




武士道 (講談社バイリンガル・ブックス)

0 はじめに
 本学期にこの授業では内村鑑三の『代表的日本人』を通読してきた。その中で私が感じたのは、現代の視点からこの著作を読むとき、時折経ち現れる「わからなさ」「ずれ」である。しかし、その「ずれ」こそが、逆に明治時代、西欧列強に伍して富国強兵を進める非キリスト教国の日本を、プロテスタントキリスト者としてなんとか説明、弁証しようとした内村の意識や思想を感じさせられて興味深く、読むものに様々なことを考えさせる。
 文芸評論家の若松英輔は『内村鑑三を読む』(岩波ブックレット)の中で、こう記述する。

内村鑑三をよむ (岩波ブックレット)
 「未だに私たちはこの得意な人物を、宗教、キリスト教あるいは近代日本といった柵の向こうに眺めてはいないだろうか。格子の中にいるのは内村ではない。私たちの方である」
 著作を読むときの「ずれ」が、逆に現代を生きる私の歴史観、信仰観を逆照射し、問いかけてくるような思いに時に捉われることがしばしばあった。
 あるいはこの「ずれ」は、現代から内村の特に『代表的日本人』を読む際二重のフレームを通していることとも関係があると思われる。それは①明治との100年以上のギャップ②この著作が英語で海外に向けて出版されたものを日本語に再翻訳して読んでいる、ということである。
 いずれにしろ私はこの「ずれ」をどう捉えるかが、内村を読む鍵であり、最も興味を感じるところなのである。
本論では、武田清子の日本のキリスト教土着論を踏まえたうえで、『代表的日本人』と並び、明治期に日本人が海外に向けて英語で著述し、現代でも日本人論の原点として読まれ続けている、新渡戸稲造の『武士道』を通して読み、比較することで、その特徴を探ることを目的とする。なおこの両書の比較に関しては、既に多くの研究があると思われるが、本論では私自身が両書を読んで感じたことを率直に論じていきたい。

Ⅰ、『代表的日本人』と『武士道』の経緯・反響
 戦前、日本人がその文化、思想を英語で海外に紹介した書籍としては、内村の『代表的日本人』(『Representative Men of Japan』1908)、新渡戸の『武士道』(『BUSHIDO』 1900)、さらに岡倉天心の『茶の本』(『The Book of Tea』 1906)の三冊が代表的なものとして挙げられる。『代表的日本人』は1894年に出版された『Japan and the Japanese(日本及日本人)』の改版である。鈴木範久の解説によると、原著が日清戦争の最中に書かれていたのに対し、改版時は日露戦争の後であり、「絶対非戦論」の立場を明確にしていた内村は思想的に変化しており、原版の収録文の取捨選択や序文にその変化が見られるとされている。英語の他ドイツ語、デンマーク語、また鈴木によると1925年の日記にフランス首相クレマンソーが本書を読み日本に行き内村と話したい、と語ったことを伝えられ嬉しく思った、という記述があることからフランス版も存在したようだ。
 一方『武士道』は新渡戸全集解説によると1900年にフィラデルフィアの出版社から出版された。その後、NYの出版社で増訂され、ドイツ語、ポーランド語、ノルウェー語、スペイン語、ロシア語、イタリア語、ボヘミア語、他欧州の主要言語、中国語さらにはインドのマラティ語にも翻訳されという。反響として代表的なのは、同著が当時日露戦争の講和の仲介に乗り出していたアメリカ大統領セオドアルーズベルトへの影響である。
 特使としてアメリカに送られた貴族院議員金子堅太郎は、ハーバード大学留学時にルーズベルトと同窓であり知友であったが、金子はその際、日本を知ってもらうために『武士道』を送ったという。金子が外相小村寿太郎に打電した資料が外交資料として残されているという。
「食事中大統領語ッテ曰ク 先般拝受セシ書籍中「武士道」トスル書ハ、尤モ克ク日本人民ノ精神ヲ写シ得タリ。予ハ此書ヲ読ミテ、始メテ日本国民ノ徳性ヲ知悉スルコトヲ得タレバ、直二ー書肆ニ命ジ三十部ヲ購入シ、之ヲ知友に頒布シテ閲読セシメタリ。」(b)
引用であり原資料に当たってはいないが、事実とすれば、日本史に影響を及ぼすほどの影響を与えた著作といえ、「代表的日本人」よりは、大きな影響力を持っていたといえる。
 いずれにしろ、日露戦争前後に書かれた両書は、列強と戦争を始めた極東の小国と思われていた日本に、世界の注目が集まり始めた時期であり、この時期に英文著作が、海外で出版され、翻訳されたという点で、重要な著作ということができる。
 時期的には『代表的日本人』が6年早く、二人の親交をみれば、当然新渡戸はそれを読んでいたと思われるし、大きな影響を受けているだろう。その点からの研究も存在するが、今回は
土着と背教―伝統的エトスとプロテスタント (1967年)


そこには触れずに、むしろ読んだときに感じたことを直接に考えていきたいと思う。Ⅱ、武田清子『土着と背教』の土着論からみた内村鑑三新渡戸稲造
 内村鑑三と新渡戸について札幌農学校時代の同級生であり、共にキリスト教の洗礼を受けたことはよく知られており、詳しくは省略する。
武田清子は『土着と背教』(1967)の中で、日本のキリスト教需要、土着の形態を㊀埋没型(妥協の埋没)㊁孤立型(非妥協)㊂対決型㊃接木型あるいは土着型(対決を底にひそめつつ融合的に定着)㊄背教型の5つに分類している。
 その中で内村鑑三に関しては、不敬事件などから対決型であるとしながらも、同時に著書『代表的日本人』の中に第四の「接木型」をも見いだしている。

(同著P11)たとえば、内村鑑三の『代表的日本人』に「接木型」を追及するアプローチのひとつの原型が見られる。内村はこの本のドイツ語版に次のようなことを書いている。
 「この諸派、現在の世を示すものではない。これは現在基督信徒たる余自身の接木せられている砧木の幹を示すものである。」(引用終)
 
一方で武田は新渡戸を接木型の一典型であると考え、特に内村と同窓で生涯の親友でありながら、「内村と新渡戸とは、その人柄、信仰のあり方などすべてにおいて非常に対照的である。」としてその違いを以下のように説明している。

(同著P27)内村はきびしい預言者的迫力にみちた人物である。キリスト教信仰の述べ伝え方も無価値の変革を迫るものがあり、対決的である。ところが新渡戸は母のような暖かい愛にみちた情の人であり、その態度は受容的、抱擁的である。教師としても、内村は弟子を厳選し、少数の限定された人たちを己が弟子としてきびしく教育したのであり、自分の考え方とくいちがうことがあると、容赦なく波紋した。ある場合は、内村のこうした「狭さ」に堪えられず、弟子の側から去ったものもの多かった。他方、教師としての新渡戸は、来るをこばまず、種々雑多な人々をあたたかく受け入れ、自分の考えを押し付けるよりというよりも、彼ら弟子たちのそれぞれよいところを愛し、それぞれに新しい生命の火をともだしたのであり、また心をつくして世話をやいた。そして弟子に恩を仇で返されてもそれを悔いない寛容の人であった。
(中略)
 しかも、二人は相反発する人間関係にあったのではなくて、新渡戸は信仰に関しては、あるところまでゆくと、「このあとは内村の指導を受けてくれ」と自分の弟子たちの多数を内村門下におくりこんだのであった(中略)
 矢内原忠雄氏は一高時代、内村鑑三の信仰との違いを新渡戸稲造校長にたずねておられる。
「(中略)その時先生はこういう風にお答えになりました。
『僕のは正門ではない。横の門から入ったんだ。して、横の門というのは悲しみという事である。』(中略)正門と言われたのは贖罪の信仰の事ではあるまいか。之は内村鑑三先生の信仰の中心でありました。新渡戸先生ご自身が贖罪の思想をもっていられたかどうかということを私は詳しく知りませんけれども、先生の信仰生活の主な点は贖罪よりも悲しみという事である。そういう意味で言われたのではあるまいかと思うんです」(引用終)

 武田はさらに、新渡戸の信仰の特徴として、クエーカー信徒としての黙思、黙想を尊ぶ神秘主義的傾向からも詳しく説明している。この二人の違いは著作の中ではどう現れてくるか次に考える。

Ⅲ、『代表的日本人』と『武士道』を読む
(1)構成と全体を通しての印象
 『代表的日本人』は、西郷隆盛(新日本の創設者)、上杉鷹山(封建領主)、二宮尊徳(農民聖者)、中江藤樹(村の先生)、日蓮上人(仏僧)の五人を上げ、その生涯業績を通して日本人の精神を説明しようとする。
 一方『武士道』では、武士道が日本の魂であるとして、義・勇気・仁(惻隠の心)、礼儀、誠実、名誉、忠義、克己、切腹などを説明しながらその歴史背景を通して日本人の精神を説明しようとする。両書は構成は異なっているが、内容においては通底する志向がある。
 両書を通読しての第一印象としては、共に近代化を進めるアジアの小国として見られていた日本と日本人の精神を、キリスト者として西欧に対し紹介弁証しようとすることを目的としている点においては共通している。内村の文章に比べると、新渡戸の方が教養においては聖書外にも広いことを感じさせられる。武士道をマルクス資本論を引用し、切腹の説明でシーぇクスピアを引用し、欧州の騎士道の歴史をマグナカルタまで遡り論じ比較する。あるいは当時の社会進化論、ニーチェの民族論、古代ギリシャからゲーテヘーゲル、婦人の地位について説明するときにはカトリックの聖女の生涯まで、当時の西洋思想や歴史を自在に引用し、武士道と比較するその手際は見事であり、すでにしてこれは比較文化論となりえている、といえる。
この辺りは、渡米時アマースト大学で2年学んだ後は基本的に独学で学んだ内村に対し、ジョンホプキンス大学で2年半、さらにドイツで2年、経済、歴史、行政、農業、自然科学を深く学んだ新渡戸との違いを考えざるを得ない。(当時としては内村も大変な学識はありあくまで比較した場合だが)

例えば新渡戸は冒頭武士道を以下のように説明する。(引用1章『道徳体系としての武士道』
「私は日本語の武士道を、大雑把に英語でシヴァリー(chivalry)と訳したが、その言語においては騎士道(Horsemanship)というよりも、もっと深い意味がある。すなわち、武士道は文字通り武人あるいは騎士の道であり、武士がその職分を尽くすときでも、日常生活の言行においても、守らなければならない道であって、言いかえれば、武士の掟であり、武士階級の身分に伴う義務なのである。(原文は下部)
In a word, the “Precept of Knighthood,” the nobles oblige of the warrior class.(引用終)

武士の掟を、ノブレス・オブリュージュと定義する手際は見事であり、現代でもこれ以上適切な用語で、西洋に武士道の概念を説明する言葉を私は思いつかない。
内村はこのような明晰な定義をなしえてはいない。しかし『代表的日本人』を通読したとき全体を通して見えてくるものは、まさに同じものなのである。新渡戸が武士道の本質を西洋の文化、歴史を引用しながら明晰に定義していったのに対し、内村は人物論として4人(日蓮は武士ではないので)の具体的な生涯・エピソードを通してこれを説明しようとした。
 両書は、互いに補完しあっているといえる。
両書を合わせて読むことで、当時のプロテスタントキリスト者が、日本の精神にキリスト教をどう接木しようとしていたのかが、よりくっきりと見えてくるのである。
次節以下では、具体的に何点か引用し考察していきたい。

(2)内容から
 以下4点ほどあげて両書を比較する。
①  陽明学キリスト教との比較
(内村)1章西郷隆盛は「天の義」「誠」を生きた人物であり原点が陽明学であると説明する。

(引用P18)「陽明学は、中国思想のなかでは、同じアジアに起源を有する最も聖なる宗教と、きわめて似たところがあります。それは、崇高な良心を教え、恵み深くありながら、きびしい「天」の法を説く点です。」
陽明学キリスト教の類似性については、これまでにも何度か指摘されました。(中略)「これは陽明学にそっくりだ。帝国の崩壊を引き起こすものだ」。こう叫んだのは維新革命で名をはせた長州の戦略家、高杉新作であります。(注によると原典は蒲生重章『近世偉人伝』(1878)         
(新渡戸)『武士道』では、第二章「武士道の淵源」で武士道は単なる知識ではなく行動を重視した、として王陽明を説明する。さらにはそこから新約との類似を説明している。
(引用)
西洋の読者は、王陽明の著書の中に、『新約聖書』とよく似ている言葉の数々を、容易に見出すことであろう。それぞれに固有な用語の相違にもかかわらず「まず神の国と神の義を求めよ。そうすればすべてこれらのものは、汝らに加えられるであろう」という言葉は、王陽明の書の中に終始見出される思想である。
 王陽命を師とあおぐ日本人は(注 三輪執斎)「転地正々の主宰、人に宿りて心となる。ゆえに心は活物にして、常に照々たり」と言い、また「その本体の霊明は常に照々たり、その霊明人意に渡らず、自然より発現して、よくその善悪を照らすを良知という、かの天神の光明なり」
と言っている。この言葉は、アイザック・ぺニントンなどの神秘主義の哲学者たちの言葉ときわめて似た響きではないか!

(まとめ)内村の文章だけでは、陽明学キリスト教の類似が私にはいまいち理解が難しかったのだが、新渡戸の説明とあわせて読むことで、「天の義(正義)」が人に宿り行動に移すこと(知名合一)が、キリスト教の受肉論、あるいはロゴスキリスト論と共通するものがあると認  
識されていたことを理解できるのである。

②  義理
(内村)内村の著作において重要な概念が、「正義」「義」である。例えば「西郷にとり「正義」ほど天下に大事なものはありません」

(新渡戸)新渡戸は6章で「義または正義 Rectitude or Justice」として詳細に説明する。特に興味深く感じられるのは「義理」の説明である。
(引用P60)「義理は義(Rectitude)から出て、はじめはその元の意味から、わずかしか離れていなかったが、次第に離れていって、ついには俗世間で誤り用いられるようになり。本来の意味は曲げられてしまった。義理という言葉は、もともと「正義の道理(Right reason)」という意味であったが、時代を経るにしたがい、漠然とした義務の観念を意味するようになって、世論が人々に対し、これを守り行うことを期待する言葉となってしまった。(中略)
 義理は、正しい道理から遠ざかって誤用されるようになると、あらゆる種類の詭弁と偽善の隠れみのとなってしまった。それ故に、武士道においても、もし正しい勇気の信念と、敢為堅忍の精神がなかったならば、義理は一片して、卑怯者の巣と化してしまったであろう。

(まとめ)
 武士道の原点として義と義理を挙げている点では共通しているが、新渡戸にはそこから踏み込んだシビアな視点が見られる。

③経済観
(内村)『代表的日本人』の中で、上杉鷹山の行政・産業改革や二宮尊徳公共事業一般として、経済を論じている。そこから感じられるのは比較的素朴な農本主義的思想であり、質素倹約を尊ぶ傾向が強い。
 
(西郷の「生財」の引用 P47)「『左伝』にこう書かれている。徳は結果として財をもたらす本である。徳が多ければ、財はそれにしたがって生じる。徳が少なければ、同じように財もへる。財は国土をうるおし国民に安らぎを与えることにより生じるものだからである(後略)」

(引用 P67)「東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であるます。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。」

(新渡戸)新渡戸も農本主義的なものを原点としている。また、武士が金銭をいやしんだことをシェークスピアの戯曲等を引用して詳しく説明し、節約が教えられたのは経済上の理由ではなく、自分の欲望をおさえる克己の訓練のためであったとして高く評価している。またモンテスキューが貴族に商業を禁じたのは、権力に富を集中させることを防止した社会政策であり、古代ローマで貴族が商業に従事したことが、少数の元老階級に富と権力の独占が生じたことが国家の衰退につながったと述べている。
しかしそこにとどまるだけでなく、「封建時代における日本の商業は、自由な状況であれば到達していたはずの段階までは発達しなかった」として近代産業がなぜ日本に根付かなかったかについても考察する。
 最大の原因としては、武士と商人階級が分かれており、武士階級の誠実さに対して、商人階級にはそれが欠けていたからだとする。維新後の「武士の商法」のほとんどが失敗したことを悲劇として描いている。一方で、以下の一文は注目に値する。
(引用)「封建時代のわが国の商人でも彼らの間には道徳の規範があって、それがなければ同業組合、銀行、取引所、保険、手形、為替などの基本的な制度を発展させることはできなかった。」
 
 そして、維新後20年の間に、日本の承認もじょじょに近代的商業道徳をわきまえてきたとといている。
(まとめ)現代においては、江戸時代の日本が農本社会でありながら、同時に商取引制度においては、大阪に米の先物取引相場が存在したことなど実は近代資本主義の土台が存在し、それが日本の近代化の基盤となったことは定説となっており素朴ながら新渡戸にはその認識がある。
そこからは新渡戸が出版直後の1901年から後藤新平の下、台湾総督府に勤務し台湾糖業の振興政策に関わるなど政府の実務官僚として経済に当たったことを思い起こさせる。
 札幌農学校で同じスタートを切りながら、生涯在野の思想家(宗教家)として生きた内村と、そこから政府の実務官僚として生きることになった新渡戸の生涯の対比を感じさせる。

④  武士の克己
(内村)『代表的日本人』の中で内村は、5人の人格的な面を繰り返し説明する。それは西
郷の無私に見られる言葉少なく謙譲な人となりである。

(新渡戸)新渡戸は日本人が人前で感情を表に出さないことを以下のように説明する。
(引用)
「十戒の(神の名をみだりにとなえてはならないという)第三の戒めを破ることにつながる。日本人の耳には、烏合の衆に向って、最も神聖な言葉や、最も秘めやかな心の体験が語られるのを聞くのはまことに耳ざわりなのである。」
本人が逆境にあって心を乱され、苦しみと悲しみのうちにひしがれたとき、しばし笑うのは、その心の平静を保とうとする努力を、人前で隠そうとするためであって、笑いは、悲しみやあるいは怒りのバランスをとるためのものであった」
「克己の理想とするところは、わが国の表現で言えば、デモクリトスが至高善と呼んだエウテミアの状態に到達することである。」

そして感情の安全弁として簡潔な詩歌をあらわしたのだと記述する。死んだ子のことを思い出し、生きていたころのように蜻蛉つりにでかけていると想像してやるせない悲しみを読んだ加賀の千代女の歌を引用する。

「蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら」
How far to-day in chase, I wonder, Has gone my hunter of the dragon-fly!
 
 (まとめ)新渡戸の聖書を用いての説明は明晰であり、現代でも通用しえる。また引用された歌は、矢内原のいう「悲しみの人としての新渡戸」を色濃く表しているといえよう。

⑤  女性観
両書において特徴的なのが女性観や社会の中の女性の役割である。
(内村)内村の著書では女性に関する記述はあまりない。唯一4章中江藤樹を論じる中で
その母親崇拝と、妻との関係について論述している程度である。
藤樹が母親のそばにあって暮らすために、藩主の元を去ったときのことを詳しく説明し、藤樹の手紙を引用している。
 (P119)
 二つの道のいずれをとるべきか、心の中で慎重にはかりました。主君は、私のような家来なら手当てを出すことで、だれでも召し抱えることができます。しかし、私の老母は、こんな私以外にはだれも頼るものがないのでございます。(引用終わり)

 鈴木範久は『内村鑑三の生涯』の26節「母の死」で、内村と母ヤソとの関係について考察し、ヤソが入信しながら棄教したことや、発病後施設に預けたことを巡り兄弟と骨肉の争いが生じたことなどが、彼の「母なるもの」を行き詰らせ、他者への厳しい態度の理由となり、そのこだわりが特にこの藤樹の母親崇拝への記述にあらわれている、と記述しており興味深い。
 また母に対する「孝」以外では、藤樹の『女訓』の以下の部分を引用する程度で単純なものである。 
(引用P130)
 男の女に対する関係は、天の地に対する関係と同じである。天は力(virtus)であり、万物は天より生じる。地は受ける側であり、天の生むものを受け、これを育てる。ここに夫と妻の和もある。前者は生み、後者は成す。云々
 私は、キリスト教は、このような女性観に異を唱えるものではないと信じます。

(新渡戸)一方新渡戸は、14章で「婦人の教育と地位」と1章を割いて論じている。
前半では女性も武芸を教育され、襲われた場合戦い、自分の胸を指すこともあったことを論じ、これを純潔と敬虔を守るため自殺した、聖者ペラギアとドミニナアや貞女コルネリアを引用し共通するものであるとして説明する。
より興味深いのは、当時のアメリカにおける女権拡張論に文化論として弁証をしていることである。
(引用 P242)
「(男女)両性の相対的地位を計る尺度は複合的な性質をもつものでなければならない。(中略)武士道は独自の基準を持っており、それは二項方程式の基準であった。女子の価値を、戦場とそして家庭との二つにおいて計れば、前者においては女子の価値ははなはだ軽いが、後者においては完全であった。(中略)すなわち、社会的あるいは政治的な単位としては高くなかったけれども、妻あるいは母としては最も高い尊敬と最も深い愛情を払われた。」(引用終)
あるいは聖書が「男と女は合して一体となるべし」としているのに、西洋人は夫と妻が二人の人格であると考え、権利を争いばかばかしいほどの相愛の言葉や無意味なへつらいの言葉をつくし(原文ママ)ているのは、自分の半身をほめていることにあり、日本人からすれば悪趣味であると論じている。
このあたりは、少し極端な記述であると思えるが、西洋的な女性擁護論をそのまま受けれいるのではなく、文化論としてこれをきちんと批判している点は、例えば現代のイスラムの女性のスカーフ着用や女性差別への西洋圏からの批判と、それは社会における女性保護のであるというイスラム側からの反論を思い起こさせるものであり、現代性を持ちえているともいえる。
(まとめ)
 以上の比較からすると女性観において内村は素朴なものがある。日本のキリスト教土着を研究しているマーク・マリンズは『メイドイン・ジャパンのキリスト教』の中で、無教会主義の集いにおいては当初から現代まで男性優位的な傾向が強く、女性の側からの批判があるという。そこには内村がそれほど「女性の権利」を意識していなかったことが今でも影響しているともいえる。一方で、東京女子大学学長を務めるなど女性教育にも携わった新渡戸に方が時代的限界があるとはいえ、社会・文化の中の女性の役割についての認識は深かったと言えるだろう。

⑥  その他
 その他、共通点として重要点なのは、両者がプロテスタントキリスト者として著述しながら、当時のアメリカの宣教師の伝道方法を厳しく批判している点は注目してよい。あくまで日本精神にキリスト教接木しようとした両者にとって、西洋の思考・文化を押し付けようとするやり方は我慢ならなかったのであろう。

切腹について
『武士道』で特記すべき点として12章で新渡戸は「切腹および方敵討ち」と題して、西洋文明からすると奇怪に思えるこの行動を説明しようとする。
シェイクスピアのジュリアスシーザーに「汝(カエサル)の霊魂があらわれ、我が剣を逆さまにして、わが腹を刺さしめる」という記述があることや多くの西洋画において高貴な人物の腹部に刃物が突き刺さった光景がモチーフとなっていることを共通点としてあげる。そして
「最も醜い死の形式が、最も崇高なものとなり、新しい生命の象徴とさえなるのである。そうでなければ、コンスタンティヌス大帝がみた徴(十字架)が世界を征服することはなかったであろう!」として、十字架の象徴性から論じる。
さらに腹を切ることについて旧約の「ヨセフはその弟のために、はらわたがやけるがととくいたむ(創世紀43-30)」」や、ダビデが「神がそのはらわたをわすれざらんこと」を祈り(詩篇26-6)、他にもイザヤ、エレミヤなど「はらわたがなる」とか「はらわたがいたむ」を引用、「これらのことは腹に霊魂が宿っているものとした日本人の信仰を是認するものではなかろうか。」と説明し、さらに西洋におけるソクラテスの最期を引用する。
 実に適切な引用と説明であり、現代でもこれ以上適格に、切腹のもつ文化的意味を対外的に説明するロジックを私は思いつかない。しかしまた、そこに逆に説明が洗練されすぎて見事であるがゆえの危うさをも感じるのである。

⑧  武士道の限界・批判
しかし新渡戸は切腹や武士道を無条件に賛美しているわけではない。
(P202)「切腹を名誉としたことは、おのずからその乱用を生んだ(中略)最も悲しむべきことは、名誉には常にプレミアムがついたことである。それも正当の価値に対してではなく、不当に水増しあれた価値に対してである」
「死を軽んずるのは勇気である。しかし、生が死よりも恐ろしい場合に、あえて生きることこそ、真の勇気である」
 
切腹に対して一定の留保を付してもいるしまた武士道の欠点も記述している。
(P276)
「しかし公平を期するために、日本人の性格の欠点や短所もまた、武士道が大いに責任があるということも、認めなければならない。我が国民が、深遠な哲学に欠ける原因は(中略)それは武士道の教育制度において、形而上の学問の訓練をおろそかにしてきた故である。(中略)「自負尊大」が、もし我が国民の生活であるとすれば、それは名誉心の病的な行きすぎにほかならない。」
「また、若者の多くは、「忠君愛国の権化」であり、(中略)このような彼らの長所と短所のすべてもまた、武士道の最期の断片であろう。」

(まとめ)内村の『武士道』において内村は、時に無防備と思えるほど賞賛しているのが目に付く。しかし新渡戸はその限界についても明晰に指摘しているということができる。

⑨  両書の巻末の比較
(内村)内村は同著の最終章「日蓮」を以下のように締めくくる。
(P176)
 これでわかるように、受け身で受容的な日本人にあって、日蓮は例外的な存在でありました。-むろん、日蓮は、自分自身の意志を有していましたから、あまり扱いやすい人間ではありません。しかし、そういう人物にしてはじめて国家のバックボーンになるのです。これに反して、愛想よさ、従順、受容、依頼上手とかいわれるものは、たいてい国の恥にしかなりません。改宗業者たちが、母国への報告に「改宗者」数の水増しをするためにだけ役立つものであります。
 闘争好きを除いた日蓮、これが私どもの理想とする宗教であります(引用終)

(新渡戸)最終章は「武士道の未来」と題され、武士道は滅びてしまうかもしれないが、その思想は桜の花の香気のように人類を祝福するであろうとして、クエーカーの詩人の詩を引用している。
 いずこよりかは知らねど 近き香りに
   旅人はしばしやすらい 歩をとめて
   ゆたかなる その香りをなつかしみ
   高き御空の いのりをぞ聞く

(まとめ)巻末にあって、両者の特徴が特に色濃くあらわれる。内村が最終章で宗教者日蓮を取り上げ、国家との対決したその生涯を詳述して、終っているのは、「対決型」であろう。
 一方新渡戸は、はかなさと祈りを感じさせる詩の引用でしめくくる。そこには接木型であり、矢内原が語った、受容・悲しみとしての新渡戸を感じさせるのである。

Ⅳ、『代表的日本人』と『武士道』その現代的意義
以上、多岐の引用を行いながら通読してきたので、その現代的意義を考えることでしめくくりたい。
内村は、政府に使えた期間もあるが、一貫して在野にありジャーナリスト、そして説教者として非キリスト教国である日本の中でプロテスタントを弁証しようとした思想家・説教者であった。一方、新渡戸は一高校長、台湾の植民地省、国際連盟次長など国家の要職を務めた。実務家であり、教育者でもあった。
 出発点を同じとしながら立場は全く異なった人生を送ったことになる。
 両書を読み比べるとき、2014年を生きる私からみると、やはり内村の著作からは、「ズレ」を時々感じる。ペリーと「両者のうちに宿る魂が同じであることを認めます」とする記述や、
上杉鷹山の章で、郷村頭取と郡奉行とは、「一種の巡回説教のような役であります」としたり、五人組とは「使徒の教会」ともいえる。と記述する。このような感覚は私には“いまいちよくわからない”しかし、同時に、明治期の日本人が西洋キリスト教国家に向かって、日本精神を説明しようとするとき、それは考え抜いた末の必死の記述であったということを感じる。
 一方で新渡戸の『武士道』には、「ズレ」を感じることは余り無い。時代的制約はあるとはいえ、女性観、経済学、あるいは文化論として、それは現代でも通ずる説得力を持ちえている。
 しかし、それによって『武士道』の方が優れている、と言い切ることに躊躇を覚える。それはあまりにも、洗練され、説得力があるゆえに、“ズレ”“ひっかかるところ”がなく日本人としての私の心情や情緒にすぅっと沁み込んでくるのだ。そこにわずかな危うさを感じるのだ。
逆に内村の文章からは、“ズレ”からこそ、現代日本でキリスト者として自明として考えていることを再考させるきっかけが与えられるように思う。冒頭引用した若松英輔の「未だに私たちはこの得意な人物を、宗教、キリスト教あるいは近代日本といった柵の向こうに眺めてはいないだろうか。格子の中にいるのは内村ではない。私たちの方である」
という言葉はゆえに至言であると私は思える。

武田清子は『土着と背教』の2章「伝統的エトスの近代化」でこの感覚に類似したことを記述している。
(P59)
 「ただ、新渡戸の『修養』『世渡りの道』その他の著書が、さきにもふれた修養団その他の修養グループの思想と時をほとんど同じくし、また、一見、その表現をも同じくして出されたことは、それらのもろもろも修養グループとの区別をあいまいにさせる結果となった面でもあるであろう」
「新渡戸はこの厚い広い層(注:前段の庶民の層を意味する)に手をとどかせることの出来た和少ない思想家であったのであるが、他の修養グループとは異質でありながらも、それを明確にすることをせず、その社会的意識とは異質な近代的市民、ないし組織労働者としての社会意識に目覚めさせるような旗色の鮮明さは持たなかった。そして意図せずして他の修養グループと同様、権力支持の保守的役割をになわしめられてしまった側面もあったかもしれないのである。」
 私の感じるわずかなあやうさもこの意識に通ずるものだと考える。あまりに洗練され、明晰であるがゆえに『武士道』には、読んだものを納得させるが、変化させ変容させるきっかけがない。不思議なことに、『代表的日本人』をはじめとする内村の文書にはその力がある。
それが時代によって変化するべき教育・実務家として生きた新渡戸と、宗教者・思想家として生きた内村の違いというべきものなのかもしれない。あるいは政府の実務官僚として、その対象を西洋キリスト教国とした国際人新渡戸に対し、非キリスト教国である国内でもっぱらそれを行った内村が接木型と同時に対決型を取らざるを得なかったともいえる。

しかしながら新渡戸は当然にして自らの限界と危うさを認識していたのでもあろう。門下生に有る段階を超えたら、内村の下へいくように勧めたのはそれゆえなのであろう。
 
 いずれにしろこの二冊の著作は、明治と変わらず非キリスト教国であり、1%以下でしかないマイノリティとして社会を生きる中で、その原点を確かめる上で読み返される価値があるし、二人が生涯の親友であったように、相互補完しながらこれからも読み続けられるのだろう。

最後に矢内原の『余の尊敬する人物』での記述を持って本論を終りたい。
内村鑑三新渡戸稲造とは私の二人の恩師で、内村先生よりは魂を、新渡戸先生よりは人を学びました。両先生は明治初年札幌農学校で同級の親友でありましたら、その意味で私も札幌の子であります」
                                      (以上)


(参考・引用文献)
『国際人 新渡戸稲造 武士道とキリスト教』(花井等 広池学園出版部1994)
内村鑑三の生涯』(鈴木範久 PHP 1992)
『日英対訳 武士道 BUSHIDO』(訳 須知徳平 講談社インターナショナル1998)
『日英対訳 代表的日本人 Representeative Men of japan』
                               (監訳 稲盛和夫 講談社インターナショナル 1999)
『土着と背教』(武田清子 新教出版 1967)
『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・R・マリンズ トランスビュー 2005)


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