2020/10/10

Inuhiko Yomota - Wikipedia 四方田 犬彦

Inuhiko Yomota - Wikipedia



Inuhiko Yomota

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Inuhiko Yomota
Born
Goki Yomota

February 20, 1953 (age 67)
OccupationFilm critic
Inuhiko Yomota (四方田 犬彦Yomota Inuhiko, born February 20, 1953) is a Japanese author, cultural essayist, translator and film historian. His real name is Goki Yomota (四方田 剛己Yomota Gōki).

Biography[edit]

Inuhiko Yomota was born on February 20, 1953 in NishinomiyaHyōgo Prefecture, but grew up in Tokyo. He graduated from the University of Tokyo in religious studies, and continued in graduate school there to study comparative literature and culture. After finishing graduate school, he traveled the world as a guest professor and researcher at Konkuk University in South Korea, Columbia University in the United States, the University of Bologna in Italy, Tel Aviv University in Israel and Pristina University in Kosovo. He was formerly a professor of film studies and comparative literature at Meiji Gakuin University. He is married to Chie Tarumi, a scholar of Taiwanese literature during the Japanese occupation.
His main area of study is film history, particularly the history of film in Asian countries, and organizes a yearly symposium on differing topics in film history. His other areas of study include art, cooking, literature, manga, music, cultural minorities, foreign language, and foreign countries (especially Korea).
Inuhiko Yomota has published nearly eighty books since the beginning of his career and has won several literary prizes for his work, including the Kodansha Essay Prize. He has also translated works by American and Palestinian authors into Japanese.

Bibliography[edit]

Publications[edit]

  • Ryumiēru no Tatakai: Eiga e no Zenshinteki Yokubō (1980)
  • Eizō no Shōkan: Essay Cinematographique (1983)
  • Eizō Yōri (1984)
  • Critique (1984)
  • Hito Sore wo Eiga to Yobu (1985)
  • Eiga wa Mō Sugu Hyakusai ni Naru (1986)
  • Warera ga "Tasha" Suru Kankoku (1987)
  • Kishu to Tensei (1987)
  • Shokutaku no Ue no Chiisa na Konton (1987)
  • Kanjō Kyōiku (1988)
  • Jojishi no Kennō (1988)
  • Mō Hitori no Tenshi: Nostalgia to Shūshū wo Meguru 48 no Seisatsu (1988)
  • Oukenbon: Papers '89~'90 (1991)
  • Lu Xun: Mezamete Hito ha Doko e Iku ka (Ningen Monogatari) (1992)
  • Tsukishima Monogatari (1992)
  • Ekkyō no Ressun: Higashi Ajia no Genzai - Itsutsu no Taiwa (1992)
  • Matsu Koto no Yorokobi (1992)
  • Eiga no Ufufu (1992)
  • Doll's House no Eigakan (1993)
  • Yomu Koto no Anima: Kodomobeya no Sekai Bungaku (1993)
  • Den'ei Fūun (1993)
  • Akainu Hon: Papers '91~'92 (1993)
  • Bungakuteki Kioku (1993)
  • Kaihi to Kōdei (1994)
  • Manga Genron (1994)
  • Kūsō Ryokō no Shūjigaku: "Garibā Ryokōki" Ron (1996)
  • Kishu to Tensei: Nakagami (1996)
  • Odysseus no Kikan (1996)
  • Eigashi e no Shōtai (1998)
  • Kokoro Tokimekasu (1998)
  • Hoshi to Tomo ni Hashiru: Nisshi 1979-1997 (1999)
  • Ōkami ga Kuru zo! (1999)
  • Nihon Eiga no Radikaru na Ishi (1999)
  • 21-seiki wo Mezasu Korian Firumu (1999)
  • Tabi no Ōsama (1999)
  • Nihon Eigashi 100-nen (2000)
  • Morokko Rutaku (2000)
  • Nihon no Joyū: Nihon no 50-nen Nihon no 200-nen(2000)
  • Kedamono to Watashi (2000)
  • Marco Polo to Shobutsu (2000)
  • Tetsugaku Shokan (2000)
  • Souru no Fūkei: Kioku to Henbō (2001)
  • High School: Bookish Life (2001)
  • Ajia no Naka no Nihon Eiga (2001)
  • Daisuki na Kankoku (2003)
  • Eiga to Hyōshō Fukanōsei (2003)
  • Ajia Eiga to Taishūteki Sōzōryoku (2003)
  • Mametsu no Uta (2003)
  • High School 1968 (2004)
  • Yubi ga Tsuki wo Sasu Toki, Gusha wa Yubi o Miru: Sekai no Mei Serifu 50 (2004)
  • Shirato Sanpei Ron (2004)
  • Kokoro ha Korogaru Ishi no Yō ni: Papers 2003-2004 (2004)
  • Kōkai no Mae no Dokusho (2004)
  • Rabelais no Kodomotachi (2005)
  • Miru Koto no Shio: Paresuchina/Serubia Kikō (2005)
  • Bruce Lee: Li Xiaolong no Eikō to Kodoku (2005)
  • "Kawaii" Ron (2006)
  • Paresuchina Nau: Sensō/Eiga/Ningen (2006)
  • Sensei to Watashi (2007)
  • Ningen wo Mamoru Dokusho (2007)
  • Hon'yaku to Zasshin: Dulcinea Blanca (2007)
  • Nihon no Marāno bungaku: Dulcinea Roja (2007)
  • Nihon Eiga to Sengo no Shinwa (2007)
  • Tsukishima Monogatari Futatabi (2007)
  • Roba to Sūpu: Papers 2005-2007 (2007)
  • Yomota Inuhiko no Hikkoshi Jinsei (2008)

Compilation & editing[edit]

Translations[edit]

  • Shikō Taiken Jigen no Tame no Shinrigaku (1979) - originally by Colin Wilson, collaboration with Kimiyoshi Yura
  • Yūga na Emono (1989) - originally by Paul Bowles
  • Kumo no Ie: Paul Bowles Sakuhinshū (1995) - originally by Paul Bowles
  • Tomaru Koto Naku: Paul Bowles Jiden (1995) - originally by Paul Bowles
  • Paresuchina e Kaeru (1999) - originally by Edward Said
  • Merodoramateki Sōzōryoku (2002) - originally by Peter Brooks, collaboration with Keiko Kimura
  • Shishū Kabe ni Egaku (2006) - originally by Mahmoud Darwish

References[edit]

External links[edit]


요모타 이누히코

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요모타 이누히코(일본어四方田 犬彦 1953년 2월 20일 ~ )는 일본 오사카부 출신의 영화사학자이자 비교문학 전공자이다. 효고현 니시노미야시에서 성장했으며, 도쿄 대학 인문계 대학원 비교문학 비교문화과 박사과정을 수료하였으며, 비교문학, 영화사, 만화론, 기호학등이 전공분야이다. 본명은 요모타 고키(四方田剛己)이다.

四方田犬彦

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四方田 犬彦
(よもた いぬひこ)
ペンネーム矢野 武徳[1]
誕生小林 剛己
のち四方田 剛己
1953年2月20日
日本の旗大阪市天王寺区
職業比較文学者、映画史家
国籍日本の旗 日本
活動期間1977年 -
ジャンル比較文学映画史漫画論、記号学
主な受賞歴1993年、斎藤緑雨賞
1998年、第20回サントリー学芸賞社会・風俗部門
2000年、第11回伊藤整文学賞評論部門、第16回講談社エッセイ賞
2002年、第50回日本エッセイスト・クラブ賞
2004年、日本児童文学学会特別賞
2008年、第11回桑原武夫学芸賞
デビュー作『リュミエールの閾 映画への漸進的欲望』
配偶者垂水千恵
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四方田 犬彦(よもた いぬひこ、1953年2月20日 - )は、日本の比較文学者、映画史家。
専攻は比較文学映画史漫画論、記号学。本人は「映画評論家ではない」と言っているが、その肩書が用いられることがある。

人物[編集]

大阪府生まれ。東京大学人文系大学院比較文学比較文化科博士課程中退。大学入学当初は、由良君美の一般教養ゼミに所属、宗教学科時代は柳川啓一に師事、大学院では佐伯彰一に師事。
本名は、四方田 剛己(- ごうき)。旧姓名、小林剛己。妻は台湾日本文学研究者の垂水千恵。母方の遠縁に岡田節人がいる[2]
本来は「四方田 丈彦」との筆名を用いるつもりだったが、出版社に「四方田 "犬"彦」と誤植され、そのまま筆名にしたという説があるが、『待つことの悦び』(青玄社、1992年)所収「ぼくの本当の名前」ではこの説は間違いであると述べ、カール・パーキンスの「マッチボックス」の一節"I'll be a little dog till your big dog comes"に由来すると説明している。しかし、やはり本人の著書「ハイスクール1968」では、1968年の夏休み、テアトル東京で映画「2001年 宇宙の旅」を観た感想を800字にまとめて、ファン雑誌に投稿して掲載された際、気取って筆名を「丈彦」にしたが、誤植で「犬彦」にされたと明記してある。[3]
本名のローマ字表記では好んで「Gorki Yomota」と自署する。これは、マクシム・ゴーリキーを崇拝する父親がこの文豪の筆名に因んで彼に剛己と命名したことに由来するという[要出典]。  

経歴[編集]

大阪市天王寺区聖バルナバ病院に生まれる。父はダイハツの輸出部門に勤務する商社員。1953年から1956年まで西宮市今津浜田町で育つ。両親共に本籍は島根県。母方の祖父は弁護士会会長・四方田保であり、大阪府箕面市の中心部(箕面町平尾)に敷地3000坪の豪邸を構えていたという。
1956年、母方の祖父が持っていた箕面市半町の家作に転居。箕面市立南小学校に入学したが、1963年3月、東京都世田谷区下馬町の社宅に転居。目黒区立五本木小学校に越境入学する。このころ貸本漫画『墓場鬼太郎』『忍者武芸帳』に熱中。1964年、小学校で2年上級の原将人から、その弟を介して、創刊まもない『ガロ』を借り受けて夢中になる。日本進学教室では国立二組(国立中学受験組)に属し、1位や優秀賞をたびたび受賞。1965年4月、東京教育大学農学部附属駒場中学校に入学。1967年の春休みに高校課程の数学を独学で全て修了したと自称。同年7月、東京都杉並区下高井戸(現在の杉並区浜田山)に転居。
父は母方の教養に自分が及ばない屈折から妻子に暴力をふるい、離婚。裁判になるが母が勝訴し、剛己は四方田姓となる[4]
1969年に、教駒全共闘バリケード封鎖に参加するも、首謀者が半日で解除したことに失望し、高校を中退するつもりで銀座二幸のケーキ工場で働いたが、のち復学。この当時の体験は『ハイスクール1968』に詳述されているが、同窓生の鈴木晶金子勝矢作俊彦大谷行雄らから嘘を書くなと抗議を受けた[5]
1971年3月に高校を卒業、駿台予備校で浪人生活を送る。ここでは奥井潔の講義に印象づけられた。1972年3月、両親の離婚に伴って小林姓から四方田姓となり、武蔵野市吉祥寺南町に転居すると共に東京大学文科III類に入学。東大宗教学科の同級に島田裕巳渡辺直樹(後の『週刊SPA!』編集長。1991年には四方田と組み、同誌で「カッコいい在日韓国人」の特集を編集)、上級には植島啓司中沢新一中原俊がいた。
大学在学中に平野共余子沼野充義らと映画同人誌「シネマグラ」(1977年-)の同人として映画批評を始める。1979年から1年間、建国大学校師範大学の日本語教師としてソウルに滞在。1980年秋、東京大学大学院博士課程を休学してロンドンに滞在、このときロレンス・ダレルジャン=リュック・ゴダールに偶然出会う。同年、江藤淳秘書(助手)になる話を断る。
1983年6月、垂水千恵との結婚に伴って横浜市港北区仲手原に転居。 1984年、自著『映像の招喚』を澁澤龍彦に送り激励の手紙を受け取る。1984年-1985年、雑誌『GS たのしい知識』(冬樹社)の編集委員(3号まで)として、浅田彰伊藤俊治らと同誌の編集に関わる。また、赤瀬川原平の『路上観察学会』の創設にも参加。
1987年3月から1年間、コロンビア大学特別研究員就任に伴ってニューヨーク市マンハッタンに滞在[6]1988年4月に横浜市の旧居へ戻ったが、垂水の台湾留学に伴って、東京都中央区月島の築50年の三軒長屋に単身移住(以後、垂水とは別居生活に入る)。1994年3月、明治学院大学を休職してボローニャに移住、ボローニャ大学に客員研究員として勤務。1995年に日本へ戻り、東京都港区高輪の伊皿子アパートメントに転居。2004年春、文化庁の文化交流使節としてテルアヴィヴに移住してテルアヴィヴ大学で客員教授を半年間務めた後、ベオグラードに移り、民族学博物館に籍を置きつつ、コソヴォプリシュティナ大学分校で客員教授を務める。帰国後、2005年東京都新宿区矢来町へ移住。同年から黒澤明記念ショートフィルム・コンテスト審査委員を務める。
2007年日本財団の援助を受け、APIフェローとして夏に2ヶ月間ジャカルタのシネマテク・インドネシアに滞在し、インドネシアの怪奇映画を研究。2008年2月から4月までAPIフェローとしてバンコクチュラロンコン大学に滞在し、タイの怪奇映画について研究。ジョグジャカルタガジャ・マダ大学でAPIフェローとして東南アジアの怪奇映画について発表。
漫画研究では、最も愛する漫画家である水木しげる白土三平の2人に特に力を注ぐ。1994年に発表した大著『漫画原論』では、20世紀の初頭から世紀末に至るまでのほぼ全方位の日本漫画を、吹き出し・コマ割り・ベタ塗りなど画面の構成や描写の技法などの観点から、徹底して分析した。漫画を形成する重要な要素でありながらそれまでほとんど注目されて来なかった、漫画特有の文法や法則や表現方法を実に緻密に読み解き、高い評価を獲得した。
映画研究では、北野武押井守黒沢清原節子李香蘭等、日本映画を重点的に研究。日本映画とアジア各国との重要な関係性にも注目している。 明治学院大学では、映画史、映画理論を講じ、門下には平沢剛、山本直樹、大嶺沙和、崔盛旭などがいる。
また、初期の作家研究で中上健次を論評の対象とした、生前の中上とも親交があった。
その他にも、国内外の小説、詩歌、叙事詩、演劇、アート、音楽、マイノリティ文化、食、旅行などを評論対象として、幅広い分野での著作活動を行っている。鹿島茂からは、『星とともに走る』の書評において「永遠の高校生」と評された[7]
建国大学校に勤務した経験があり、韓国文化韓国文学韓国映画にも大変に造詣が深い。1979年朴正煕独裁下の韓国に留学し、対日協力詩人とされる金素雲に会っており、長らくどちらかと言えば保守的と見られていたが、1990年代から左派的な言動が増えてきた。ただし、1991年柄谷行人田中康夫らが行った、知識人たちの「湾岸戦争関与」に反対しての『湾岸戦争に反対する文学者声明』には勧誘されたが参加せず、逆に参加者たちを批判した。
2009年1月、共著等も含む「著作100冊到達」を記念して、それまでの99冊からの自選ベスト集『濃縮四方田』[8]を彩流社から刊行。同種の著書に2000年刊の『マルコ・ポーロと書物』(枻出版社)がある。(執筆予定の18冊の予告も入れている)
須賀敦子翻訳賞選考委員。

学歴[編集]

  • 1965年 目黒区立六本木小学校卒
  • 1968年 東京教育大学農学部附属駒場中学校卒業
  • 1971年 東京教育大学附属駒場中学校・高等学校(現在の筑波大学附属駒場中学校・高等学校)卒業、駿河台予備校に通う。
  • 1972年 東京大学教養学部文科三類に入学
  • 1974年 東京大学文学部宗教史宗教学科に進学。
  • 1976年 東京大学宗教学科卒業、同人文系大学院比較文学比較文化専攻修士課程進学
  • 1979年 修士課程修了、博士課程進学。修士論文「ジョナサン・ソフィスト」は、スウィフトの「ガリバー旅行記」論で、後『空想旅行の修辞学』(七月堂)として刊行された。
  • 1984年 博士課程中退

職歴[編集]

受賞歴[編集]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『リュミエールの閾 映画への漸進的欲望』(朝日出版社 1980年)
  • 『映像の招喚―エッセ・シネマトグラフィック』(青土社 1983年)
  • 『人それを映画と呼ぶ』(フィルムアート社 1984年)
  • 『クリティック』(冬樹社 1984年/増補版 冬樹社ライブラリー 1991年)
  • 『映像要理 週刊本』(朝日出版社 1984年)
  • 『映画はもうすぐ百歳になる』(筑摩書房〈水星文庫〉 1986年)
  • 『封切り日が待ちどおしい』(青土社 1987年)
  • 『われらが「他者」なる韓国』(PARCO出版局 1987年/増補版 平凡社ライブラリー 2000年)
  • 『哲学書簡』(哲学書房 1987年)
  • 『最新流行』(青土社 1987年)
  • 『貴種と転生』(新潮社 1987年)/増補版『貴種と転生-中上健次』(同、1996年/ちくま学芸文庫 2001年)
  • 『食卓の上の小さな渾沌』(筑摩書房 1987年)
  • 『もうひとりの天使 ノスタルジアと蒐集をめぐる四十八の省察』(河出書房新社 1988年)
  • 『叙事詩の権能』(哲学書房 1988年)
  • 『感情教育』(河出書房新社 1988年)
  • 『ストレンジャー・ザン・ニューヨーク』(朝日新聞社 1989年)/増補版『ニューヨークより不思議』(河出文庫 2015年)
  • 『黄犬本』(扶桑社 1991年)
  • 魯迅―めざめて人はどこへ行くか』(ブロンズ新社 1992年)
  • 『越境のレッスン―東アジアの現在・五つの対話』(丸善ライブラリー 1992年)
  • 『映画のウフフッ』(フィルムアート社 1992年)
  • 『待つことの悦び』(青玄社 1992年)
  • 『月島物語』(集英社 1992年/集英社文庫 1999年)/増補版『月島物語、ふたたび』(工作舎 2007年)
  • 『眼の破裂』(四方田剛己名義、百頭社 自費出版 1993年)
  • 『ドルズ・ハウスの映画館』(悠思社 1993年)
  • 『文学的記憶』(五柳書院 1993年)
  • 『読むことのアニマ 子供部屋の世界文学』(筑摩書房 1993年)
  • 『赤犬本 Papers'91~92』(扶桑社 1993年)
  • 『電影風雲』(白水社 1993年)
  • 『回避と拘泥』(立風書房 1994年)
  • 『漫画原論』(筑摩書房 1994年/ちくま学芸文庫 1999年)
  • 『映画はついに百歳になった 人間大学講座』(日本放送出版協会 1995年)- 放送講座テキスト
  • 『オデュッセウスの帰還』(自由国民社 1996年)
  • 『空想旅行の修辞学―「ガリヴァー旅行記」論』(七月堂 1996年)
  • 『心ときめかす』(晶文社 1998社)
  • 『映画史への招待』(岩波書店 1998年)
  • 『旅の王様』(マガジンハウス 1999年)
  • 『星とともに走る 日誌1979-1997』(七月堂 1999年)
  • 『狼が来るぞ!』(平凡社 1999年)
  • 『日本映画のラディカルな意志』(岩波書店 1999年)
  • 『モロッコ流滴』(新潮社 2000年/ちくま文庫 2014年)
  • 『日本映画史100年』(集英社新書 2000年)/増補版『日本映画史110年』(同 2014年)
  • 『日本の女優』(岩波書店 2000年)/改題 『李香蘭原節子』(岩波現代文庫 2011年)
  • 『けだものと私』(淡交社 2000年)
  • マルコ・ポーロと書物』(枻出版社 2000年)
  • 『ハイスクール・ブッキッシュライフ』(講談社 2001年)
  • 『アジアのなかの日本映画』(岩波書店 2001年)
  • 『ソウルの風景―記憶と変貌』(岩波新書 2001年)
  • 『大好きな韓国』(日本放送出版協会 2002年/増補版 バジリコ 2003年)
  • 『映画と表象不可能性』(産業図書 2003年)
  • 『アジア映画の大衆的想像力』(青土社 2003年)
  • 『摩滅の賦』(筑摩書房 2003年)
  • 『指が月をさすとき、愚者は指を見る 世界の名セリフ50』(ポプラ社 2003年)
  • 『ハイスクール1968』(新潮社 2004年/新潮文庫 2008年)
  • 白土三平論』(作品社 2004年/ちくま文庫 2013年)
  • 『航海の前の読書』(五柳書院 2004年)
  • 『心は転がる石のように―Papers 2003-2004』(ランダムハウス講談社 2004年)
  • 『見ることの塩―パレスチナボスニア紀行』(作品社 2005年)
  • 『ラブレーの子供たち』(新潮社 2005年)
  • ブルース・リー―李小龍の栄光と孤独』(晶文社 2005年/ちくま文庫(改訂版)、2019年)
  • 『「かわいい」論』(ちくま新書 2006年)
  • 『パレスチナ・ナウ 《戦争/映画/人間》』(作品社 2006年)
  • 『人生の乞食』(書肆山田 2007年) - 詩集
  • 『先生とわたし』(新潮社 2007年/新潮文庫 2010年)- 師由良君美を描く
  • 『驢馬とスープ papers2005-2007』(ポプラ社 2007年)
  • 『人間を守る読書』(文春新書 2007年)
  • 『日本映画と戦後の神話』(岩波書店 2007年)
  • 『日本のマラーノ文学-Dulicine roja』(人文書院 2007年)
  • 『翻訳と雑神―Dulcinea blanca』(人文書院 2007年)
  • 『四方田犬彦の引越し人生』(交通新聞社 2008年)
  • 『日本の書物への感謝』(岩波書店 2008年)
  • 『濃縮四方田』(彩流社 2009年)
  • 『歳月の鉛』(工作舎 2009年)
  • 『怪奇映画天国アジア』(白水社 2009年) 
  • 『音楽のアマチュア』(朝日新聞出版 2009年) 
  • 『子供は悪いのが好き―スクリーンの中の幼年時代』(光村図書 2009年)
  • 『女神の移譲 書物漂流記』(作品社 2010年) 
  • 大島渚と日本』(筑摩書房 2010年) 
  • 『「七人の侍」と現代―黒澤明再考』(岩波新書 2010年)
  • 『俺は死ぬまで映画を観るぞ』(現代思潮新社 2010年7月)
  • 『蒐集行為としての芸術』(現代思潮新社 2010年7月)
  • 『人、中年に到る』(白水社 2010年10月)
  • 『書物の灰燼に抗して 比較文学論集』(工作舎 2011年4月)
  • 『ゴダールと女たち』(講談社現代新書 2011年8月)
  • 『アジアの文化は越境する』(弦書房 2011年10月)
  • 『ひと皿の記憶 食神、世界をめぐる』(ちくま文庫 2013年5月)
  • ルイス・ブニュエル』(作品社 2013年6月)
  • 『マルクスの三つの顔』(亜紀書房 2013年7月)
  • 『アジア全方位』(晶文社 2013年10月)
  • 『日本の漫画への感謝』(潮出版社 2013年11月)
  • 『わが煉獄』(港の人 2014年)- 詩集
  • 『よみがえる夢野久作 『東京人の堕落時代』を読む』(弦書房 2014年)- ブックレット
  • 『台湾の歓び』(岩波書店 2015年1月)
  • 『テロルと映画 スペクタクルとしての暴力』(中公新書 2015年6月)
  • 『犬たちの肖像』(集英社 2015年6月)
  • 『土地の精霊』(筑摩書房 2016年1月)
  • 『母の母、その彼方に』(新潮社 2016年2月)
  • 『署名はカリガリ 大正時代の映画と前衛主義』(新潮社 2016年11月)
  • 『日本映画は信頼できるか』(現代思潮新社 2017年4月)
  • 『漫画のすごい思想』(潮出版社 2017年6月)- 『日本の漫画への感謝』の続編
  • 大野慶人の肖像』(かんた 2017年9月)
  • 『神聖なる怪物』(七月堂 2018年6月)
  • 親鸞への接近』(工作舎 2018年8月)
  • 『詩の約束』(作品社 2018年10月)
  • 『すべての鳥を放つ』(新潮社 2019年1月)
  • 『無明 内田吐夢』(河出書房新社 2019年5月)
  • 『聖者のレッスン 東京大学映画講義』(河出書房新社 2019年10月)
  • 『女王の肖像 切手蒐集の秘かな愉しみ』(工作舎 2019年11月)
  • 『夏の速度』(作品社 2020年6月)
  • 『映画の領分』(岩波書店 2020年6月)
  • 『愚行の賦』(講談社 2020年8月)

共著[編集]

  • 平岡正明) 『電撃フランク・チキンズ』(朝日出版社、1985年)
  • タイガー立石) 『タイガー立石のデジタル世界』(思索社、1985年)
  • 勅使河原宏大河内昭爾) 『前衛調書』(学藝書林、1989年)
  • 丹生谷貴志松浦寿輝柳瀬尚紀) 『吉田健一頌
      (書肆 風の薔薇、1990年/増補新版 水声社〈風の薔薇叢書〉、2003年) 
  • 李鳳宇) 『先に抜け、撃つのは俺だ』(アスペクト、1998年)
    • 増補改題版 『パッチギ! 対談篇 -- 喧嘩、映画、家族、そして韓国』(朝日選書、2005年)
  • 金光英実) 『ためぐち韓国語』(平凡社新書、2005年)
  • 草森紳一) 『アトムと寅さん 壮大な夢の正体』(河出書房新社、2005年)
  • (也斯)『往復書簡 いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)
  • (倪震)『日中映画論』(作品社、2008年)
  • 石井睦美)『再会と別離』(新潮社、2011年) 
  • ロジャー・パルバース)『こんにちは、ユダヤ人です』(河出書房新社〈河出ブックス〉、2014年)
  • (李鳳宇)『民族でも国家でもなく―北朝鮮・ヘイトスピーチ・映画』(平凡社、2015年)

編著[編集]

  • 『あんにょん・ソウル 韓国日常雑貨事典』(洋泉社、1986年)
  • 『映画監督溝口健二』(新曜社, 1999年)
  • 『明治の文学 第8巻 泉鏡花』(筑摩書房、2001年)
  • 『李香蘭と東アジア』(東京大学出版会 2001年)
  • 『ザ・グレーテスト・ヒッツ・オブ・平岡正明』(芳賀書店 2001年)
  • 『思想読本(9) アジア映画』(作品社 2003年)
  • 吉田喜重の全体像』(作品社 2004年)
  • 『女優山口百恵』(ワイズ出版 2006年)
  • 『永久男根 平岡正明-追悼論集』(彩流社 2010年7月)
  • 鈴木清順エッセイ・コレクション』(ちくま文庫 2010年8月)
  • 『アジアの文化は越境する 〈映画・文学・美術〉』(弦書房 2011年11月) 
  • 完全版 平岡正明 山口百恵は菩薩である』(講談社、2015年6月)

共同の編著書[編集]

訳書[編集]

由良君美共訳[9]河出書房新社 1979年/河出文庫 1998年)

その他[編集]

関わった雑誌[編集]

映画出演[編集]

関連項目[編集]

  • 長井勝一 - 中学生の頃に青林堂を訪れ長井の面識を得る。のちに雑誌『ガロ』に日記を長期連載した。
  • 矢作俊彦 - 中学・高校の文芸部の先輩。『ハイスクール1968』の雑誌連載時に、事実関係について抗議を行った。
  • 金子勝 - 高校の同級生。ともに詩の同人誌を刊行していた。
  • 鈴木晶 - 中学・高校の同級生。東京大学ではともに由良ゼミに所属。『ハイスクール1968』及び『先生とわたし』について、事実関係の誤りがあると批判した。
  • 杉山太郎-中学・高校の同級生。『ハイスクール1968』で最も仲が良く、天才的な生徒として登場。2001年没。遺稿集『中国の芝居の見方』がある。
  • 渡辺直樹 - 大学宗教学科の同級生。渡辺が創刊した雑誌『SPA!』に四方田はコラムを長期連載していた。
  • 大岡昇平 - 大岡が晩年に著した『ルイズ・ブルックスとルル』刊行にあたり、参考資料提供、伝記の一部翻訳を行った。
  • チェン・カイコー - 1987年のニューヨーク滞在時に知合った「親友」。
  • 押井守 - 押井のアニメ作品『御先祖様万々歳!』に四方田犬丸というキャラクターが登場する。また、四方田によると押井の実写作品『トーキング・ヘッド』は四方田の著書『映画はもうすぐ百歳になる』の内容をなぞったものだという。1996年刊行のムック『押井守全仕事』(キネマ旬報社)に二人の対談が収録されている。
  • 加藤光太郎 - 四方田の本の装丁を多数担当。
  • 岡田史子 - 忘れられた「伝説の漫画家」だったが、1992年に四方田が札幌の岡田を訪問したことが切っ掛けで、彼女の単行本が刊行された。
  • 木村紅美 - 小説家。四方田ゼミ出身者。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 『ガロ』1969年2月号読者欄に投稿した時の変名。『ガロ』誌編纂委員会編『ガロ曼荼羅』所収、四方田犬彦「『ガロ』の最初にして最年少の読者の自画像」より。
  2. ^ 四方田犬彦『星とともに走る』p.224(七月堂、1999年)
  3. ^ 四方田犬彦『ハイスクール1968』p.41(新潮社、2004年)
  4. ^ この辺の事情は、彼の100冊目の自著『四方田犬彦の引っ越し人生』交通新聞社 2008年に詳しい。
  5. ^ 四方田犬彦「ハイスクール1968」を斬る大谷行雄、2006
  6. ^ このときに、訪米中の皇太子夫妻(現:上皇明仁上皇后美智子)に邂逅している。『回避と拘泥』(立風書房)より。
  7. ^ 雑誌『東京人』1999年7月号
  8. ^ 本稿の記事もこの『濃縮四方田』(彩流社)を参考にしている。
  9. ^ 初版は「四方田剛己」名義、文庫版では「四方田犬彦」名義である。

外部リンク[編集]


Saṃvega - Wikipedia

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Saṃvega

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Saṃvega is a Buddhist term which indicates a sense of shock, dismay and spiritual urgency to reach liberation and escape the suffering of samsara. According to Thanissaro Bhikkusaṃvega is the "first emotion you're supposed to bring to the training"[1] and can be defined as:
The oppressive sense of shock, dismay, and alienation that come with realizing the futility and meaninglessness of life as it's normally lived; a chastening sense of our own complacency and foolishness in having let ourselves live so blindly; and an anxious sense of urgency in trying to find a way out of the meaningless cycle.[2]
Saṃvega is also associated with the development of energy (viriya) and right effort, according to Buddhagosa's Atthasālinī:
Energy has exerting as its characteristic, strengthening the co-existent states as function, and opposition to giving way as manifestation. It has been said: "He in whom saṃvega is present exerts himself properly," hence energy has saṃvega, or the basic condition of making energy as proximate cause. Right exertion should be regarded as the root of all attainments. - DhsA. 121
There are eight bases of saṃvega (saṃvega vatthu). They are "birth, old age, sickness, death, suffering in the woeful worlds, the round of suffering as rooted in the past, the round of suffering as rooted in the future, and the round of suffering in the search for food in the present."[3] Saṃvega can therefore be developed by practicing meditation on death (maranasati) and the charnel ground meditations as outlined in the Satipatthana sutta. In the Upajjhatthana Sutta the Buddha taught that everyone (monks and householders) should practice the five daily recollections as a way to arouse energy and saṃvega.
For saṃvega to be an effective drive to practice, it must be accompanied by another emotion called pasada, a "clarity and serene confidence.Pasada is what keeps saṃvega from turning into nihilistic despair by providing a sense of confidence that there is a way out, namely nibbana.[2]

See also[edit]

References[edit]

  1. ^ "Meditations 3: Dhamma Talks", by Thanissaro Bhikkhu. Access to Insight, 1 December 2012, http://www.accesstoinsight.org/lib/authors/thanissaro/meditations3.html . Retrieved on 30 July 2013.
  2. Jump up to:a b "Affirming the Truths of the Heart: The Buddhist Teachings on Saṁvega and Pasāda", by Thanissaro Bhikkhu. Access to Insight, 8 March 2011, http://www.dhammatalks.org/books/NobleStrategy/Section0004.html . Retrieved on 30 July 2013.
  3. ^ Ven Sujiva, Essentials of Insight Meditation Practice

'혼자만의 의미'

 


希修
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어쩌면 삶 자체가 그러한지도. 윤회가 있다한들 각자의 기억 속에선 이승 한 번 뿐이기에, 지젝이 말하는 것 같은 '절박함'이나 '진지함' ('바쁨'과는 별개)을 갖고 사는 것이 내가 좋아하는 삶의 태도이며, 이런 절박함이나 진지함이 있어야 주위에 의존하지/휘둘리지 않는 행복과 삶의 의미도 가능하지 않을까 싶다는. '삶=소풍' 비유를 난 그래서 별로 안 좋아하지만, 그렇다고 해서 절박하게/진지하게 사는 것이 옳다는 얘기는 물론 아니고, 뭔가 가시적인 성취를 이루어야 한다는 말도 아님. 세상엔 인구수만큼 다양한 가치관/세계관이 존재하고 인간은 평생토록 자신의 서사 속에서 살다 가는 존재인지라, 객관적 의미 같은 건 없고 뭐가 되었든 어디까지나 본인 혼자에게만 의미있을 뿐이지만, 그런 '혼자만의 의미'조차 없다면 그 공허를 감당 못해 헤매게 되는 것이 또 인간인 듯. 의미를 찾되 어디까지나 자기 혼자에게만 의미있는 일임을 기억해야 망상에 빠지지 않고 정신적 균형이 유지되는 듯.
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https://facebook.com/story.php?story_fbid=3147585802034090&id=100003481031011



문규민

YeSsgtcSiptegarSdayn afaotunlso 19fre:3ihd5igSh ·

"지금의 정세 속에서 사고하지 않으면 자신의 현실을 극복할 수 없다는 절박함이죠. 사르트르가 드는 예가 있잖아요. 레지스탕스 운동을 하는 편모슬하의 아들이 ‘어머니를 모셔야 하냐, 활동을 해야하냐’고 질문하니까 사르트르는 ‘네가 선택하고 책임져라’ 그렇게 답변하는데, 지젝은 ‘너의 어머니한테 가서는 레지스탕스활동을 해야 한다고 하고 레지스탕스에 가서는 어머니를 모셔야 한다고 그래라. 그리고 도서관에 가서 공부해라.’ 그러니까 거기에 실려 있는 것은 굉장히 절박한 선택이에요. 레지스탕스 운동과 맞먹는 공부이고 어머니를 혼자 보살펴야 하는 그 절박함을 견딜 수 있는 공부죠. 도피적인 공부나 책임으로부터 벗어나는 게 아니라 그 책임을 최대한으로 끌어안기 위한 공부이고요. 대학원생이 현실에 어떤 문제의식을 가지고 있다면 그런 게 필요해요."

양주의 사상 - Google Search

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양주 사상의 핵심은 극심한 사회적 위기의식 속에서 상호간의 불간섭주의와 개개인의 생명의 존엄과 온전함을 추구한 그의 경물중생輕物重生(삶을 중시)에 있습니다. 중생重生은 양주의 사상입니다.Apr 18, 2013


맹자孟子가 그토록 비난한 양주楊朱는 누굽니까?
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작성자 : kwangwoo    작성일 : 2013년 04월 18일


맹자孟子가 그토록 비난한 양주楊朱는 누굽니까?


전국시대 사상가 맹자孟子(기원전 371~289)는 자신을 논쟁을 좋아하는 호변가好辯家라고 여기는 세간의 평에 매우 민감하게 반응했는데, 제자 공도자公都子에게 “내가 어찌 논변을 좋아하겠느냐, 어쩔 수 없이 그런 것”이라고 두 번이나 변명했습니다. 맹자는 자신이 논변을 하는 이유로 두 사람을 꼽으면서 말했습니다.

양주楊朱와 묵자墨子(기원전 480?~390?, 이름은 적翟. 그의 행적은 분명하지 않습니다)의 이론이 전국시대에 가득 차 여론이 양주의 이론을 찬성하거나 묵자를 찬성하는 쪽으로 돌아갔다. 양주는 위아爲我(이기주의)를 말하는데 이는 임금을 무시하는 것이고, 묵자는 겸애兼愛를 내세우는데 이는 자신의 아비를 무시하는 것이다. 자기 아비를 무시하고 임금을 무시하는 것은 금수禽獸나 하는 짓이다.

맹자는 양주楊朱(기원전 395-335)에 대해 “자신의 털 한 가닥을 뽑으면 온 천하가 이롭게 된다 해도 하지 않는 사람”이라면서 극단적 이기주의자로 몰아붙였습니다. 맹자에 따르면 양주는 남을 위해 죽을 일이 전혀 없으며, 특히 나라나 임금을 위해 자기 몸을 희생할 줄 몰라 무군無君의 무리라는 것입니다.
맹자가 그토록 비난한 양주의 생존 연대는 확실치 않습니다. 다만 겸애설로 유명한 묵자와 맹자가 활동하던 시기에 생존한 인물임에는 틀림없습니다.
양주의 사상은 <맹자>, <장자>, <한비자> 등에 의하면, 이미 독립 학파를 이루고 묵가와 대립하여 활발한 논쟁을 벌인 것으로 기술되어 있습니다. 그러나 당대의 중요한 사상의 발전을 평가하여 기술한 <장자>의 ‘천하天下’편과 <순자>의 ‘비십이자非十二子’편에는 양주 사상에 대한 언급이 없어 양주의 사상이 다른 사상으로 극복 혹은 통합되면서 자체의 학술적 영향력이 크게 줄어들었음을 짐작하게 해줍니다.
양주 사상의 핵심은 극심한 사회적 위기의식 속에서 상호간의 불간섭주의와 개개인의 생명의 존엄과 온전함을 추구한 그의 경물중생輕物重生(삶을 중시)에 있습니다. 중생重生은 양주의 사상입니다. 맹자는 양주를 위아爲我, 즉 철저한 이기주의로 소개하고 있지만 전한前漢의 회남왕淮南王 유안劉安이 저술한 책 <회남자淮南子>를 보면 그 사상의 핵심은 전생보진全生保眞입니다. “본성을 온전히 하고 천진함을 보전하며, 바깥의 사물 때문에 몸을 얽어매지 않으려는 것은 양자(양주)가 세워놓은 것이다.” <회남자>는 양주의 이론이 “겸애하고 능력 있는 자를 높이고 귀신을 존중하며 운명을 거부한” 묵자를 비판하면서 나온 것이라 했고, 양주의 이론을 다시 맹자가 비판한다고 했습니다. 양주는 묵자가 지나치게 개인보다 공동체를 앞세우고 있다는 판단 아래 이런 이론을 세웠고, 맹자는 양주가 지나치게 개인을 중시한다고 보아 양주를 비판했습니다. 그러므로 맹자의 입장에서는 양주 사상을 위아주의라고 평가할 수 있지만 그것이 정확한 것이 아닙니다. <한비자>에 따르면 “바깥의 사물을 가볍게 여기고 삶을 중시한輕物重生”는 것이 양주학파에 대한 당시의 일반적 평가였습니다.
양주의 사상과 노자의 사상은 유사한 점이 있지만 다릅니다. 이름이나 재물보다 목숨을 더 중시하는 중생 사상은 같지만 양주는 본성에 따름으로써 삶을 풍요롭게 하려는 데 비해 노자는 자족하여 생명을 오래 보존하기를 원했습니다. <여씨춘추呂氏春秋> ‘맹춘기·본생’편에는 입이 달다고 하면 삼키고 쓰다고 하면 뱉는 것, 눈으로 보아 즐거우면 보고 괴로우면 보지 않는 것을 “본성에 이로우면 취하고 본성에 해로우면 버리는”, "본성을 온전히 하全性 도“라 했는데, 이런 도가 양주가 주장한 것입니다. 노자에게는 이런 분방함이 없습니다. 노자가 선택하는 것은 본성의 즐거움이 아니라 오래 살아남는 것이었습니다.
<여씨춘추呂氏春秋> ‘정욕情欲’편에 있는 글은 양주의 사상을 이해하는 데 지름길이 됩니다.

하늘이 인간을 만들어내니 탐욕이 있고 욕구가 있게 되었다. 욕구에는 진정情이 있다. 진정에는 절도가 있다. 성인은 절도를 닦아서 욕구를 억제하여 진정만을 나타낸다. 진실로 귀가 모든 아름다운 소리五聲를 욕구하고, 눈이 모든 아름다움五色을 욕구하고, 입이 모든 좋은 맛을 욕구하는 것은 진정情이다. 이 세 가지는 귀인, 천인, 우민, 지식인, 현인, 저능인을 막론하고 하나같이 욕구하는 것이다. 비록 신농神農, 황제黃帝라도 걸桀, 주紂와 똑같다. 성인이 다른 까닭은 그가 진정情을 얻은 점에 있다. 생명生命을 귀하게 보고서 행동하면 진정을 얻게 되고, 생명을 귀하게 보지 않고서 행동하면 진정을 잃게 된다. 이 두 사실이 사느냐 죽느냐. 있느냐 없어지느냐 하는 근본이 된다.



양주 (사상가) - 위키백과, 우리 모두의 백과사전
ko.wikipedia.org › wiki › 양주_(사...


양주(楊朱)는 중국 전국 시대 초기의 사상가이다. 자(字)는 자거(子居). 위(衛) 사람이다. 개인주의 사상인 위아설(자애설)을 설하였다. 양주(楊朱)의 전기는 모호하다. 묵적(墨翟)과 아울러 그 사람의 설이 천하에 가득 차 있었다고 하는 것이 《맹자(孟子)》에 기록되어 있는 것으로 보아 기원전 4세기에서 3세기에 걸쳐 그 학설이 유행했던 듯하다. 펑유란(馮友蘭)은 도가 사상 묵자(墨子) 이후에 출현하였다고 생각하여 양주(楊朱)를 그 시초를 삼으나 아직 불확실하다. 양주의 학설은 《맹자》, 《열자(列子)》, 《한비자(韓非子)》, 《여씨춘추》, 《회남자》에 보인다. 양주(楊朱)는 하나의 생명이야말로 가장 귀중하다고 생각하여 생활의 일체는 이 하나의 생명을 기르고자 존재한다고 주장한다. 생명의 주체는 '나(我)'다. 그 '나'를 소중하게 하는 바로 그것이 최요하다고 주장한다. 노자(老子)는 무아를 말하여 무아속에 개인의 존속을 도모하려고 하였으나 양주는 무엇이든 나를 위해서만 해야 한다는 위아(爲我)설을 노골로 설하였다. 그것은 극단인 개인주의이기도 하였으므로 묵자(墨子)가 말하는 '겸애'의 생각과 상이해 대비된다. 양주의 이 주장은 한 마디로 '전성보진(全性保眞)'의 설이라고 평가받는다(《淮南子》氾論訓의 楊朱評). 《여씨춘추》〈不二篇〉에 양주를 평하여 '양생(楊生)은 나[己]를 귀히 한다'고 이르는 것도 양주 사상의 특색을 한 마디로 논한 것이다.





양주(전국시대) - 나무위키
namu.wiki › 양주(전국시대)


楊朱
기원전 440년~ 기원전 360년?

1. 개요2. 사상
2.1. 반(反) 대의주의적 해석2.2. 위아주의적 해석
3. 이후

1. 개요[편집]

중국 전국시대의 학자. 높이는 말로 '양자'(楊子)라고도 불렸다. 김충열 등의 연구기록에 따르면 양주는 노자의 제자였는데, 스승을 못 마땅해하여 뛰쳐나가 자신의 사상을 세웠다고 한다.[1] 회남자여씨춘추한비자 등에 양주의 사상에 대한 기록이 남아 있다. 그의 철학은 간단히 요약하면 권력자를 위한 대의·명분에 반대하고 자연으로부터 받은 자신의 신체(또는 개인의 자유)를 소중히 여기는 것이라 할 수 있다.

서구의 연구 체계를 기반으로 문헌 연구가 많이 진행되지 않은 동양철학의 특성 상, 양주의 철학은 생명주의로 해석되기도 하고 개인주의로 해석되기도 한다. 일반적으로는 노자와 장자를 잇는 도가의 역사적 교량 정도로 간주되는데, 서양에서 동양철학을 연구한 권위자인 앤거스 그레이엄 같은 경우는 양주의 사상을 아예 '양가(楊家, Yangism)'로 따로 분류해 양주 사상의 카테고리 안에 도가를 집어넣기도 한다.

2. 사상[편집]

맹자에 따르면 '내 터럭 하나를 뽑아 천하에 이익이 되더라도 하지 않겠다.'라는 주장을 남겼다고 하는데, 이에 따르면 위아설(爲我說), 즉 이기/개인주의의 선구자였다고 볼 수 있다. 묵자(墨子)의 겸애설(兼愛說)과도 흔히 비교된다. 전국시대 당시에는 꽤 인기가 있었던지, 맹자집주에서도 '양주와 묵적과 같은 이단'이라고 비판하는 대목이 나온다.[2] 맹자는 묵가의 사상을 '무부(無父)'라 칭하며 아비도 없는, 즉 가정 개념도 없는 몹쓸 사상이라 맹비난하였는데, 양주의 사상에 대해서도 '무군(無君)', 군주(왕)도 없는, 즉 나라 개념도 없는 궤변 같은 사상이라며 맹비난하였다. 하지만 사실 이에 대한 이야기를 제대로 정리하면 다음과 같다.
하루는 양주가 외출을 했다가 집으로 돌아왔는데, 집 앞에 논객 한 명이 양주를 기다리고 있다가 그에게 물었다. "만약 선생께서 저에게 털 한가닥을 뽑아줘 제가 천하를 이롭게 할 수 있다면, 선생께선 저에게 털 한가닥을 뽑아 주시겠습니까?" 이에 양주는 "어떻게 털 한가닥으로 천하를 이롭게 할 수 있겠는가?"라고 거절했다. 그러자 논객은 끈질기게 "만약에 털 하나로 천하를 이롭게 할 수 있다고 가정한다면, 그럼 털 하나를 뽑아 줄 수 있겠습니까?" 라고 다시 물었다. 그러자 양주는 대답을 하지 않고 그냥 집 안으로 들어가 버렸다.

잠시 후에 양주의 제자가 양주의 집으로 들어가려다가 그 논객을 만났다. 논객은 방금 전에 있었던 일을 이야기 해주면서 당신의 스승은 나와의 설전에 할 말이 없어서 도망쳤다며 비웃었다. 그러자 제자는 논객에게 이렇게 말했다. "스승께서는 단지 말장난을 하고 싶지 않았을 뿐입니다. 괜찮다면 내가 스승님을 대신해서 질문을 해보겠습니다. 만약에 당신의 털 하나를 뽑아 주면 내가 금 백냥을 주겠다고 하면 뽑아 주시겠습니까?" 논객은 그렇다고 대답했다. 제자는 계속해서 물었다. "그럼 당신의 팔 하나를 주면 내가 금 천냥을 주겠다고 하면 팔을 내주시겠습니까?" 그러자 논객은 아무말도 못하고 고개를 숙이고 돌아갔다.

2.1. 반(反) 대의주의적 해석[편집]

이중톈은 '이중톈의 백가쟁명'에서 이 이야기를 이렇게 해석하고 있다. 제자와 논객의 문답에서 마지막에 논객이 제자의 말에 대답을 못한 이유는 명확하다. 털 하나와 팔 하나의 거래에 응하고 나면 그 다음에는 제자가 "금 만냥을 줄 테니까 당신의 목을 달라"는 식의 제안을 할 텐데, 그 제안을 받아들일 수도 없고, 거절할 수도 없기 때문이다. 또한 논객은 털 하나를 뽑아서 천하를 이롭게 하겠다고 했는데, 어떻게 털 하나를 가지고 천하를 이롭게 할 수가 있겠는가? 그것은 현실적으로 불가능하다. 따라서 이런 식의 논법은 그럴싸한 대의명분을 내세워서, 처음에는 작고 별 것 아닌 것들을 요구한 다음에 똑같은 명분으로 점점 더 큰 것을 요구하는 교활한 수작을 묘사한 것이다. 지금도 일어나고 있는 일이지만 특히 양주가 살던 전국시대에는 이런 식의 일들이 비일비재하게 일어났다.

즉, 지배층은 '너희들이 털 하나를 뽑아준다면 천하를 이롭게 할 수 있다'라고 백성들을 속여서 자신들의 사익을 챙긴다. 그렇기 때문에 양주는 이런 식의 논법에는 처음부터 단호하게 거절해야 한다고 말하고 있는 것이다. 이는 양주가 살았던 전국시대 뿐만 아니라 현대 민주주의 사회를 포함한 어떤 시대에도 적용될 수 있는 내용이다. 다만 이런 이론이 '천하를 위해서 털 하나를 뽑으라고 해도 싫다'라는 극도의 이기주의인 것처럼 왜곡되어 잘못 전달되었을 뿐이다.[3] 그러니 사실상 양주의 철학을 한마디로 설명하자면 '반(反)대의주의' 혹은 '반(反)명분주의'라 할 수 있다. '대를 위해 소를 희생하라', '나라를 위해 전쟁터에서 싸우다 죽어라' 라는 식으로 대의명분이란 허울을 통해 백성을 꾀어내는 통치집단에 반대하는 사상인 것이다. 대의라는 것은 거진 다 통치자, 지배계급의 이득을 돌려 말하는거지, 모든 이를 위한 뜻 같은 게 아니기 때문에 피지배집단, 약자집단인 백성이 그에 응해서는 안 된다는 것이다. 예를 들어 백성들이 목숨걸고 싸워 천하통일하면 백성들이 황제되나? 절대 아니다. 그나라 왕이 황제되고 그 아들이 그 다음 황제된다. 몸만 축난 백성은 대대손손 몸만 계속 축나고 개뿔 얻는 것도 없다.

때문에 양주의 주장을 단순히 극단적인 이기주의라고 치부하는 것은 잘못된 것으로, 당대는 부국강병의 미명하에 개개인에게 국가를 위한 희생을 강요하는 일이 잦았기 때문에 양주는 이런 풍조를 비판하며 인간이 남(국가)을 위해 무조건적으로 희생하거나 남에게 희생을 강요하는 것은 비인간적인 것이고, 인간이 스스로를 위하는 것은 궁극적으로 자신뿐만 아니라 나아가 공동체를 위하는 것이 된다고 보았던 것이다. 당시의 실례에 비춰 보자면 "천하 대의를 위한 전쟁 그딴 거 너라는 개인을 도외시하고 실상은 지배층들의 잇속을 챙겨줄 뿐이니 그런 건 개나 주고 그 시간에 네 터럭 하나나 더 챙기라"[4]는 말과 같다. 개인주의와 이기주의는 분명히 다른 개념이고 양주의 사상이 이기주의라는 것은 그의 사상에 대한 몰이해와 후대 권력층의 사상적 탄압 및 왜곡으로부터 비롯된 경향이 크다. 즉, 양주는 당대의 현실에 대한 개인주의적 아나키즘 혹은 공동체주의에 대한 개인 혹은 소수의 희생이 당연시 되는 당대 사회에 대한 해답을 내놓은 것일 뿐이다. 장자 역시 그의 영향을 받았을 것이라는 의견도 존재한다.

2.2. 위아주의적 해석[편집]

그러나 위의 해석은 이중톈의 견해로, 일단 상기해야 할 것이 이중톈은 대중의 인기를 얻은 중문학자지 철학을 전문적으로 파고든 철학자가 아니다. 이중톈의 견해는 나름의 독창성과 사회적 시사성을 갖추고 있어 그 파급력이 크다 할 수 있으나, 그것은 어디까지나 TV스타의 신선한 영감에서 비롯된 것이라 하겠다. 즉, 고전의 본의를 면밀히 살펴 도출된 치밀한 논리에 기반을 둔 해석이 아닌, 비약적 해석이라는 것. 양주의 사상은 평범한 위아주의에 그치는 것으로 보는 것이 타당하다.

위아주의 이야기는 《열자列子》 〈양주楊朱〉 편에 나오는 일화인데, 쓸데없는 논란을 피하고자 한국 한문학계의 권위자로 여겨지는 김학주 교수의 번역을 그대로 옮기겠다.
양주가 말했다.
"백성자고(伯成子高)[5]는 자기 몸의 한 개의 터럭을 뽑아 남을 이롭게 할 수 있는 일이라 하더라도 하지 않고, 나라를 버리고 숨어 살면서 밭을 갈았다. 우(禹)[6]임금은 자기 한 몸을 이롭게 하는 일은 하지 않아 자신의 몸을 지치고 깡마르게 만들었다. 옛날 사람들은 자기 몸에서 한 개의 터럭을 뽑음으로써 천하가 이롭게 된다 해도 뽑아 주지 않았고, 천하를 다 들어 자기 한 사람에게 바친다 하더라도 받지 않았다. 사람마다 자기 몸에서는 한 개의 터럭도 뽑지 않고, 사람마다 천하를 이롭게 하는 일은 하지 않는다면 천하가 잘 다스려질 것이다."
금자(禽子)[7]가 양주에게 물었다.
"선생님 몸에서 한 개의 터럭을 뽑음으로써 온 세상을 도울 수가 있다면 선생님은 그런 행동을 하시겠습니까?"
양자(楊子)[8]가 말했다.
"세상은 본시부터 한 개의 터럭으로 도울 수 있는 게 아니지요."
금자가 말했다.
"가령 도울 수 있는 경우라면 하시겠습니까?"
양자는 대답하지 않았다.
금자가 나와서 맹손양(孟孫陽)[9]에게 말하자 맹손양이 말했다.
"선생은 우리 선생님의 마음을 이해하지 못하셨습니다. 제가 그에 대해 말씀드리지요. 선생의 살갗을 손상시킴으로써 만금萬金을 얻을 수가 있다면 선생은 그 일을 하겠습니까?"
"하지요."
맹손양이 말했다.
"선생의 몸 한 마디를 끊음으로써 한 나라를 얻을 수가 있다면 선생은 그 일을 하겠습니까?"
금자는 한동안 말을 못하고 가만히 있었다.
맹손양이 말했다.
"한 개의 터럭은 살갗보다 작은 것이며 살갗은 몸의 한 마디보다도 작은 것임이 분명합니다. 그러나 한 개의 터럭이 쌓여서 살갗을 이루고 살갗이 쌓여서 몸의 한 마디를 이루게 됩니다. 한 개의 터럭은 본시가 한 몸의 만분의 일에 해당하는 것이지만 어찌 그것을 가벼이 여길 수 있겠습니까?"
금자가 말했다.
"나는 선생에게 대답을 드리지 못하겠소. 그러나 선생의 말에 대해 노자(老子)나 관윤(關尹)[10]에게 가서 물어본다면 그 분들은 선생의 말이 옳다고 할 것입니다. 나의 말에 대해 우禹임금이나 묵자墨子에게 가서 물어본다면 그 분들은 나의 말이 옳다고 하실 것입니다."
맹손양은 그의 말을 듣고는 그의 제자들을 돌아보면서 다른 일에 관한 이야기를 했다.

해당 기사에서 보이듯이, 양주와 그 제자는 이중톈의 해석처럼 반대의주의라는 거창한 것이 아니라 그냥 내 몸이 킹왕짱 소중하니까 남을 위한답시고 쓸데없이 힘쓰지 말고 제 몸이나 챙길 것을 주장하는 것이다. 이중톈은 무슨 정부의 수탈이니, 명분 정치니 운운하지만, 이미 보이듯이 기사의 논지상 정부에 대한 비판이라고 보는 것은 무리고, 비판의 대상을 찾는다면 경쟁 사상계인 '묵가'인 것으로 보는 것이 타당하다. 핵심 논지와 더불어, 양주가 묵가에서 숭상하는 '노동자 왕' 우 임금을 악례로 든 것, 맹손양의 논적으로서 묵가의 대표자인 금활리가 출연하고 사실상 맹손양에게 패퇴한 것 등 정황을 살펴보면 해당 기사가 묵가에 대한 비판의 역할을 하는 것은 명확하다.

공리를 중시하는 묵가의 금활리는 털 한 올 정도라면 기꺼이 내어줄 만하다 여긴다. 살갗 또한 허용 범위 내일 것이다. 그러나 개인의 보신을 중시하는 양주학파는 이에 반대하여 '당신은 몸 한 마디, 즉 팔다리를 소중히 여겨 내주고 싶어하지 않는데, 이는 그것이 몸의 일부이기 때문이다. 그런데 같은 몸의 일부인 살갗이나 털 한 올은 왜 소중히 여기지 않는가?' 식의 논조로 털 한 올이나 살갗, 팔다리나 모두 내 몸의 일부이므로 어느 것도 함부로 할 수 없음을 주장하는 것이다. 금활리는 여기에 할 말을 잃고 만다. 그것이 이 기사의 전부이다: 위아주의 선언 겸 묵가적 공동체주의에 대한 비판.

사족이지만, 이 기사의 연출을 보자면 양주학파의 논리는 사실 치밀하진 않다. '옛날 사람'들은 그렇게 하지 않았다는 말로 '오래된 권위'를 가장하여 찍어누르고, 보신의 영역을 치천하의 영역과 결부시킨 뒤에는 뚜렷한 전거도 없이 비약적 결론을 내린다. 또, 애초에 살갗은 털이 쌓여서 되는 것이 아니요, '한 터럭 = 극소한 것, 살갗 = 보다 큰 것, 몸 한 마디 = 더 큰 것' 식의 비유법으로 이해하여 쌓여서 된다 쳐도 (즉, '터럭이 쌓여 한 마디가 된다' = '극소한 것이 쌓여 큰 것이 된다.') 이미 쌓여서 된 것이므로 털 한 올에 견줄 정당한 대상이 아니며, 털 한 올은 뽑아내는 데 큰 고통이 없고 쉬이 재생되지만 팔다리는 그렇지가 않음을 의도적으로 간과하고 있다. 금활리가 묵가로서 문제 삼을 건덕지는 한두 가지가 아니다. 그럼에도 금활리는 아무 것도 반박하지 못하고 다만 '우리의 견해가 다르군요' 하며 순순히 물러나고 만다.

물론 대소경중에 대한 가치 판단의 문제는 개개인에 달린 것이어서 금활리가 다만 저같이 말할 수밖에 없었다 여길 수도 있지만, 이것은 분명 '사람마다 자기 몸에서는 한 개의 터럭도 뽑지 않고, 사람마다 천하를 이롭게 하는 일은 하지 않는다면 천하가 잘 다스려질 것이다'라는 선언과 '선생님 몸에서 한 개의 터럭을 뽑음으로써 온 세상을 도울 수가 있다면 선생님은 그런 행동을 하시겠습니까'라는 질문에서 시작된, 경세학(經世學)의 담론이라서 금활리가 충분히 묵가의 논리로써 반박을 시도할 수도 있는 부분이다. 물론 털 한 올로 어떻게 온 세상을 도울 수 있겠느냐마는, 여기서 '털 한 올'은 당연히 '아주 극소한 것'의 대변인 것이다. 양주학파는 그런 아주 극소한 것이라도 내 몸에 있는 이상 희생되어서는 안 되고, 사람마다 이러한 생각을 견지하여 남에게 참견하지 말고 자기 몸이나 챙기는게 최고라고 주장한다. 묵가의 겸상애, 교상리 원리와 정면으로 대립이 되는 주장이다. 그럼에도 금활리는 순순히 물러나고 마는 것이다.

또한 논지의 전개부터가 이상하기 짝이 없다. '금자'는 "터럭으로 세상을 도울 수 있다면 하겠느냐?"라는 질문을 하였다. 그런데 그 말을 받는 맹손양은 "선생의 몸 한 마디를 끊음으로써 한 나라를 얻을 수가 있다면 선생은 그 일을 하겠습니까?"라 받고 있다. 이를 현실의 예로 비유하면 금자는 "니가 한 시간 일하면 아프리카 아이들 10명의 끼니를 챙겨줄 수 있지. 그럼 할래?" 라는 질문을 한 것이고, 거기에 맹손양은 "니 팔 자르면 1억 준다. 할래?"라고 대꾸한 것과 크게 다르지 않다. 금자와 맹손양의 질문은 동등할 수 없다. 금자의 질문은 내 것을 써서 남을 도울 수 있다는 이타주의 혹은 공리주의의 선상에 있다. 그러나 맹손양의 질문은 내 것을 써서 내가 이득을 얻는다는 이기주의의 선상에 있다. '터럭, 살갗'이라는 신체의 손해만 공통점으로 묶여 있을 뿐 맹손양의 발언은 전형적인 허수아비 공격의 오류이다. 이기적 유전자[11] 수준의 논지를 들어 이타주의를 비판한다면 몰라도 맹손양의 '한 개의 터럭은...(하략)' 발언에서 이미 그것이 아님을 알 수 있다. 이중톈은 맹손양의 발언을 반 대의주의로 평가했는데, 이건 이중톈이 맹손양의 훈제 청어를 열심히 집어먹은 것으로 볼 수도 있다.
→ 맹손양이 '허수아비 공격의 오류'를 범했다 볼 확정성은 없다. 1) 금자의 주장 'X', 2) 맹손양이 'X'를 변질시킨 'Y', 3) 'Y'에 대한 맹손양의 '공격 작업'이 있어야지 맹손양이 '허수아비 공격의 오류'를 범했다 할 수 있는데, 'X'는 전후 맥락을 통해 유추하여(우 임금이나 묵자에게... (후략)) '한 터럭을 써 온 세상을 도울 수 있다면, 그리 해야 한다.' 쯤으로 보고, 있다고 할 수 있으나, 이것의 변태인 'Y'와 그에 대한 '공격 작업'은 있다고 보기 힘들기 때문이다. 'Y'를 '선생의 몸 한 마디 ...(하략)' 대목의 중심 내용을 주장화한 '몸 한 마디를 끊어 나라를 하나 얻을 수 있다면, 그리 해야 한다.' 쯤으로 '볼' 수도 있으나, 맹손양은 저런 주장을 전면 제시한 적이 없고, 그러한 주장이 논리적으로 금자의 주장 'X'와 동등하다는 인식을 내보인 적도 없다. 맥락상으로 보아도, 그가 그렇게 인식한 것 같지는 않다(후술). 따라서 'Y'의 확정성은 없고 실재성은 불분명하다. 'Y'의 확정과 실재에 의존하는 'Y에의 공격 작업'의 경우 역시 그러하다.
'Y'가 확정된 실재자인 양 '보여지는' 이유는 위 인용문의 주된 대목이 '맹손양이 금자의 질문에 내재된 금자의 입장(주장) 'X'를 간파하고, 그 논리를 직접적으로 맞받아 논파하려 했다'는 식으로 오독된 탓인 것으로 보인다. 그러나 맥락상 보이건대, 맹손양은 금자의 입장을 직접 논파하려 든 것이 아니다.
맹손양의 근본적 발화 목적은 스스로 밝히듯 금자에게 양주의 마음을 이해시키는 것이다. 그는 효과적인 이해 돕기를 위해 공감을 유도하는 기법을 쓰고 있다. 곧 그의 '몸 한 마디 ' 운운하는 말은 금자의 논리의 부조리함을 찾아 보려는 시도가 아니라 양주의 논리를 금자에게 이해시키고 수긍케 하려는 시도이다. 양주의 논리란 바로 그의 기본 입장, 곧 그의 위아주의 사상, 곧 극단적인 보신 철학의 논리인데, 이를 설명하기 위해서 굳이 이타주의 예문을 들 필요가 없으며, 그런 예문을 들지 않는다고 해서 오류가 되는 것도 아니다. 이미 논점은 양주의 사상이지 금자의 사상이 아니다. 양주의 사상은 위아주의이므로 위아주의 예문을 든다고 해서 문제될 것은 없다. 맹손양의 말과 금자에 말에 '신체의 손해' 라는 공통 분모만 있다고 했는데, 맹손양의 발화 목적에 따르면 그런 공통 분모로 충분한 것이다. 전술했듯, 맹손양이 말하고자 하는 것은 근본적으로 양주의 '보신' 철학이기 때문이다. 물론 양주의 보신 철학의 대원칙에 수긍하게 된다면 자동적으로 금자의 묵가적 이타주의를 부정하게 될 테이며, 맹손양도 이것을 어느 정도 의도했을 터이다.
정리하면, 금자와 맹손양의 대담 전개 모양은 [원주장 'X' 출현 → ''X'의 변태형 주장 'Y' 출현 → 'Y'에 대한 '공격 주장' 출현]의 모양으로 보기는 어렵고, 그저 [주장 'A' 출현 → 주장 'B' 출현]의 모양으로 보는 것이 옳은 것으로 보인다.

금활리는 묵자에 이어 묵가의 거자(巨子)[12]가 된 자로서 묵가 사상과 그 논리학에 정통한 사람인데, 그런 그가 이렇게도 간단히 물러선다는 것은 아무래도 미심쩍은 일이다. 이 기사는 《열자》라는 책이 전반적으로 그러한 평가를 받고 있듯이, 아마도 도가 계열의 사상적 우월성을 주장하고자 후대에 만들어진 가탁물일 것이다. 《장자》에서 공자와 그 제자들이 도가의 학설에 승복하거나 스스로 도가의 학설을 주장하는 역할로서 굴욕적인 출연을 하듯이, 여기서는 양주를 높이기 위한 역할로서 금활리가 이용되는 것이라고 볼 수 있다.

3. 이후[편집]

위 철학적 토론들과 별개로 현실에서는 (특히 유학이 대세를 탄 이후) 얄짤없이 오랜 시간 동안 '양주 = 천하를 위해서 제 터럭 하나조차 희생하지 않겠다는 싸가지(...)'로 치부되었고, 아가리파이터들이 입씨름 할 때 상대방의 주장이 좀 이기적이다 싶으면 "얼씨구 이 놈 이거 봐라 말하는 게 아주 양주 같네?", "너 그러다 양주 되겠다?" 등으로 나쁘게 활용하였다.[13]

양주는 연구 자체가 어렵다. 직접 남긴 저서는 하나도 남지 않았고 장자묵자맹자 등이 남긴 저서에서 같이 논쟁하면서 간간히 언급되는게 다라서 온전한 양주의 철학을 알기가 힘들다.[14]
[1] 다만 노자라는 인물이 실존했는지도 모르는 판에, 양주가 노자의 제자였는지 밝힐 길은 현재로서는 남아있지 않다. 그러나 사상적 측면에서는 분명히 예악에 대한 비판의식이라는 공통분모를 가지고 있다.[2] 사실 전국시대에 유가의 인기는 미미하였다. 전국시대 하층민들 사이에서 인기 사상은 묵가였고, 지식인들 사이에서는 개인주의적/보신주의적 도가가 유행하였다. 맹자 시대에 들어 유가의 타 학파 비판이 두드러지게 공격적이게 된 것은 여기에 기인한다.[3] 양주의 주장은 '천하를 위해서'라는 말부터 이미 , 즉 위선이라는 뜻이다.그냥 나를 위해서라고 솔직히 지껄여라 지배계급들아[4] 이러한 해석은 양주 본인이 직접 설명하지는 않았고, 양주의 제자 중 한 명이 양주에게 뜻을 물어보러 온 문객에게 설명한 내용이다.[5] 당요(唐堯) 때 사람. 요임금이 천하를 다스릴 때 제후(諸侯)였다고 한다. 요임금이 순(舜)에게 선양하고, 순임금이 우(禹)에게 선양하자 제후를 사직하고 농사를 지었다. 우임금이 하풍(下風)에 와서 치도(治道)를 물었다. 이에 이제부터 덕은 쇠하고 형(刑)이 대신할 것이며 후세의 어지러움도 여기서 시작될 것이라고 대답했다고 한다.[6] 하 왕조의 시조.[7] 묵자의 제자 금활리(금골희(禽滑釐))인 것으로 보인다. 허나 금활리와 양주가 실제로 면식이 있었는지, 그 이전에 생존 연대가 들어맞는지는 불명이다.[8] 양주 선생.[9] 양주의 제자이다.[10] 윤희(尹喜, ?~?)는 중국 주나라와 전국시대 진나라의 도가(道家) 철학자이다. 그가 맡았던 관직의 이름을 따서 관윤(關尹)이라 부르기도 한다. 관씨 연원에 따르면 윤희가 관직 이름을 따서 관(關)을 성으로 하였다고 전하기도 한다. 《사기(史記)》에 의하면 노자가 주(周)의 쇠함을 보고 주를 떠나려고 함곡관에 이르렀을 때 관령(關令)인 윤희(尹喜)에게 부탁받아 《도덕경(道德經)》 5천여 자를 저술하였다고 한다. 이 관령 윤희가 즉 관윤(關尹)으로 노자의 제자가 된다고 한다. 《장자(莊子)》의 〈천하편(天下篇)〉에 관윤의 말이라 하여, "사람은 아집(我執)을 버리면 자연(自然)대로의 동작이 발휘된다"는 말을 인용하고 있다. 그리고 다시 "동(動)하기 물과 같고, 그 고요함이 거울과 같으며, 적(寂)함이 청(淸)과 같다"라고 한 말을 인용하고 있다. 잡가(雜家)의 대표작인 《여씨춘추(呂氏春秋)》 〈불이편(不二篇)〉에는 "관윤(關尹)은 청(淸)을 귀히 여긴다"고 평하고 있다.ㅡ위키백과.[11] 이타적인 것처럼 보이는 행위도 사실 이기주의적 행동원리에 근거한다는 논리.[12] 묵가의 우두머리. 묵가 무리들은 거자에게 절대적으로 순종하여 자신과 가족의 죽음마저 불사했다.[13] 유학자이며 조선 초기 정치가였던 정도전만 해도 묵자 : 쓰레기. 양주 : 쓰레기. 석가모니 : 묵자와 양주보다 더 그럴듯한 말을 하기 때문에 더 쓰레기(...) 등의 얘기를 한 바가 있다. 결론은 공자님 킹왕짱.[14] 하지만 저서가 전하지 않거나 많은 부분이 소실된 것은 양주뿐 아니라 다른 유명한 제자백가 학자들도 비슷했다. 이는 진시황과 항우가 서적 등을 불태워버리며 이연타를 날렸던 영향이 크다.

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Jul 29, 2020 — [2] 맹자는 묵가의 사상을 '무부(無父)'라 칭하며 아비도 없는, 즉 가정 개념도 없는 몹쓸 사상이라 맹비난하였는데, 양주의 사상에 대해서도 '무군(無君)' ...