2020/09/13

실용 한-영 불교용어사전 악업 // 전생

실용 한-영 불교용어사전





악업

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업 [業, Eop] Karma (Skt), kamma (P)





  • 어떤 결과의 원인으로 생각되는 일체행위. 이것을 행위와 말 그리고 생각으로 나누어 신구의 (身口意) 삼업 (三業)이라 말한다. 이를 좀 더 쉽게 설명하면, 우리가 하는 말이나 생각 혹은 행동 일체를 말함. 그리고 우리가 짓는 모든 행위, 곧 업 (業)은 우연한 소행이 아니라는 것, 곧 콩 심은데 콩 나고, 팥 심은데 팥 난다는 것을 알아야 하며, 또 모든 행위는 결국 마음의 소행이라는 것도 알아야 함. 그래서 일체유심조라는 말이 나오며, 마음공부의 이치가 나온다.
    업 (業)을 범어 (梵語)로는 ‘카르마’라고 하며, ‘짓는다’라는 뜻. 그런가하면, 전생에 지은 선악의 소행 (所行)으로 인하여 현세에서 받는 응보 (應報)로서 윤리에 관한 불교의 핵심 교리이기도 함. 일체유심조 (一切唯心造)와 자업자득 (自業自得) 참조)
    Karma (Skt), kamma (P): Action, work, deed in the sense of action-reaction. The law of moral compensation. The doctrine inseverable from that of "rebirth," the cycle of birth and death, or samsara. The law of the deed and the effect according to which the life circumstances of an individual in any given phase of the cycle of births and an effect of his deeds and character in previous lives.
    In other words, all actions of body, speech, and mind entail retribution in this and future lives. Everything we are or do is not an accident but comes from what we have made in previous lives. By oneself evil is done; by oneself one suffers. Everyone is the moulder and sole creator of his life to come. We can also say that karma is the child of ignorance, which is the father of all human suffering, and the basis of causation.
    Another thing we should realize is that all karma comes from our deluded mind. If mind or thinking disappears, karma also disappears. In this sense, Buddhism can be called the cultivation of the mind, the mindless-mind. It also means a moral principle in each being which survives death for further retribution and transmigration. Cf. (Ilche Yusimjo) Everything is the production of the mind, and (Jaeopjadeuk) The natural consequence of one's own deed.

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(業, 산스크리트어कर्म 카르마)는 인도계 종교에서의 인과율 개념이다. 원래는 행위를 뜻하는 말로서 인과(因果)의 연쇄관계에 놓이는 것이며 단독적으로 존재하지 않는다. 현재의 행위는 그 이전의 행위의 결과로 생기는 것이며, 그것은 또한 미래의 행위에 대한 원인으로 작용한다. 거기에는 과거 · 현재 · 미래와 같이 잠재적으로 지속하는 일종의 브라만교 사회에서는 어떤 특정의 카스트에 태어난다는 것도 그에 상응하는 전생의 행위가 있었기 때문이라고 한다. 업 사상은 광범위하게 인도 제종교의 전체 속에 들어 있어서 불교 및 자이나교에서도 특색있는 업설(業說)을 전개하였으나, 인도사상의 정통(正統)인 브라만교나 힌두교에서 가장 강조되었다. 초월적인 힘이 감득(感得)되어 있으며 흔히 시간(時間: Kala) · 천명(天命: Daiva) · 천성(天性: Svalhava) 등의 말로 표현되고 있다.




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(ごう)とは、カルマकर्मन् karman[注釈 1])に由来し、行為、所作、意志によるの活動、意志による身心の生活を意味する語[2]。原義においては単なる行為(action)という意味であり、「良い」「悪い」といった色はなく、特に暗いニュアンスはない[3]
仏教およびインドの多くの宗教の説では、またはの業を作ると、因果の道理によってそれ相応のまたはの報い(果報)が生じるとされる[2][4]。業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある[4]。仏教はすべての結果について「偶然による事物の発生」「(原因なく)事物が突然、生じること」「神による創造」などを否定し、その原因を説くのである[5][6]
業の思想はインド発祥の宗教(とりわけヒンドゥー教仏教ジャイナ教シーク教)と道教において、輪廻と強く結びつく概念である[7] これらの多くの説では、善意と善行は良いカルマと幸福な転生をもたらし、悪意と悪行は悪いカルマと悪い再生をもたらすとされる[8](善因善果、悪因悪果)[9].。

仏教以前[編集]

釈迦が成道する以前から、従来のバラモン教に所属しない、様々な自由思想家たちがあらわれていた。かれらは高度な瞑想技術を持っており、瞑想によって得られた体験から、様々な思想哲学を生み出し、業、輪廻宿命解脱認識論などの思想が体系化されていった。この中に業の思想も含まれていた。

ヴェーダの宗教[編集]

業はインドにおいて、古い時代から重要視された。ヴェーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。
善をなすものは善生をうけ、悪をなすものは悪生をうくべし。浄行によって浄たるべく。汚れたる行によって、汚れをうくべし

善人は天国に至って妙楽をうくれども、悪人は奈落に到って諸の苦患をうく。死後、霊魂は秤にかけられ、善悪の業をはかられ、それに応じて賞罰せられる
— 『百道梵書』 (Śatapathā-brāhmana)
あたかも金細工人が一つの黄金の小部分を資料とし、さらに新しくかつ美しい他の形像を造るように、この我も身体と無明とを脱して、新しく美しい他の形像を造る。それは、あるいは祖先であり、あるいは乾闥婆(けんだつば)であり、あるいは諸神であり、生生であり、梵天であり、もしくは他の有情である。……人は言動するによって、いろいろの地位をうる。そのように言動によって未来の生をうる。まことに善業の人は善となり、悪業の人は悪となり、福業によって福人となり、罪業によって罪人となる。故に、世の人はいう。人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する。その業にしたがって、その相応する結果がある
— 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』
インドでは業は輪廻転生の思想とセットとして展開する。この輪廻と密着する業の思想は、因果論として決定論宿命論のような立場で理解される。それによって人々は強く業説に反発し、決定的な厭世の圧力からのがれようとした。それが釈迦と同時代の哲学者として知られた六師外道と仏教側に呼ばれる人々であった。
ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとして無因無業の主張をなし、また他の人は霊魂と肉体とを別であるとし、しかも両者ともに永遠不滅の実在と考え、そのような立場から、造るものも、造られるものもないと、全く業を認めないと主張した。
なおバラモン教における輪廻思想の発生を、従来考えられているよりも後の時代であるとする見解もある。例えば上座仏教では、釈迦在世時に存在したバラモン経典を、三つのヴェーダまでしか認めておらず[注釈 2]、釈迦以前のバラモン教に輪廻思想は存在しなかったとする。もちろん、当時の自由思想家たちが輪廻思想を説いていたことは明白であるが、彼らはバラモン教徒ではなかったことに注意すべきである。

ジャイナ教[編集]

仏教[編集]

仏教用語

業 , カルマ
パーリ語kamma
サンスクリット語karma
(Dev: कर्मन्)
チベット語ལས།

(Wylie: las;
THL: lé;
)
日本語業 or ごう
英語karma
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業は果報(報い、果熟)を生じるとなるので、業のことを業因因業ともいう[2][注釈 3]
業による報いを業果業報という[2]。業によって報いを受けることを業感といい、業によるである報いを業苦という[2][注釈 4]過去世に造った業を宿業または前業といい、宿業による災いを業厄という[2]。宿業による脱れることのできない重い病気業病という[2]。自分の造った業の報いは自分が受けなければならないことを自業自得という[2]
Kammasakkā māṇava, sattā kammadāyādā kammayoni kammabandhu kammapaṭisaraṇā. Kammaṃ satte vibhajati yadidaṃ hīnappaṇītatāyāti.
青年(スバ)よ、衆生は、業を自分のものとし、業を相続し、業を胎とし、業を親族とし、業をよりどころとする。業が衆生を分類し、優劣をつける[10]
  • 自分のもの(kammasakkā)- 死によって失われるものではなく、来世についてくる所有物[10]
  • 相続する(kammadāyādā)- 身・口・意の三業から引き継がれる[10]
  • 生まれる(kammayoni)- 生命を生み出すのは、自ら行った行為からで、すべて業より生まれる[10]
  • 切り離せない(kammabandhu)- 生命は業との繋がりを切ることはできない[10]
  • よりどころとする(kammapaṭisaraṇā)- 生命のよりどころである[10]
  • 優劣をつける(Kammaṃ satte vibhajati yadidaṃ hīnappaṇītatāyāti) - 生命に優劣をつける要素の一つである[10]

分類[編集]

仏教における業は、様々に分類される。

三業[編集]

業は一般に、しん(もしくは)・三業さんごうに分けられる[2]
  • 身業しんごうkāya-karman[11]、カーヤ・カルマン) - 身体に関わる行為[12]。身体的行為[11]説一切有部においては、身業とは、その行為・動作をする瞬間瞬間に身体が示す形状であるとする[13]。たとえば、人を打つという行為は、映画のフィルムの1こま1こまの画面の変化のように、こぶしを振り上げてそれを相手の頭上に振り下ろすという過程の瞬間瞬間に、身体の形状が少しずつ変化していくことによって完遂される[13]。その各瞬間の身体の形状、すなわち眼識の対象)こそが身業であるとする[13]。なお、十悪業は身・口・意の三業に分類され、身の三業は殺生せっしょう偸盗ちゅうとう(盗み)・邪淫じゃいん(不倫、道に外れた性行為[14])となる[15]
  • 口業くごうvāk-karman[11]、ヴァーク・カルマン) - 言語に関わる行為[12]。言語表現[11]語業ごごうvāk-karman[16]、ヴァーク・カルマン)ともいう[17]。説一切有部においては、一瞬一瞬に発音される声音の積み重なりが言語をなすのだから、耳識の対象)こそが口業であるとする[13]。なお、十悪業が分類される口の四業は妄語もうご(嘘をつく)・両舌りょうぜつ(二枚舌を使う)・悪口あっく(悪口を言う)・綺語きご(無益なおしゃべり)となる[15]
  • 意業いごうmanas-karman[11]、マナス・カルマン) - 意志に関わる行為[12]。心意作用[11]。十悪業が分類される意の三業は貪欲とんよく(貪り)・瞋恚しんに(怒り)・愚痴ぐち(愚かさ)となる[15]
阿含経では、行為が行われる場合は、①第一段階:(意志の発動)の心作用、②第二段階:実際の行為(身業・口業・意業)があるとしている[13]。ここでは、(第二段階の意業だけでなく)、第一段階の思をも業のなかに含めて理解している[13]。そればかりでなく、第一段階こそが業の本質的なものだとして重要視している[13]。 一方、説一切有部では、①第一段階を意業(=後述の思業)とし、②第二段階は身業・口業のみ(=後述の思已業)とした[18]。 なお、経量部大乗仏教は、三業すべての本体を思(意志)であるとする[2]

思業と思已業[編集]

業は、意志の活動である思業しごうと、思業が終わってからなされる思已業しいごうとの2つに分けられる[2]。思業は意業であり、思已業は身業語業である[2]

表業と無表業[編集]

説一切有部は、身業と語業にはひょう無表むひょうavijñapti[19]、アヴィジュニャプティ)とがあるとし、これらは表業ひょうごうvijñapti-karman[20]、ヴィジュニャプティ・カルマン)と無表業むひょうごうavijñapti-karman[19]、アヴィジュニャプティ・カルマン)ともいわれる[2]。表業は、「知らしめる行為」[21]、外に表現されて他人に示すことができるもの[2]、行為者の外面に現われ他から認知されるような行為[21]を意味する。無表業は、他人に示すことのできないもの[2]、善悪の業によって発得される悪と善を防止する功能(習性)[22]、行為者の内面に潜み他から認知されないような行為[21]を意味する。また、無表業は無表色(むひょうしき、avijñapti-rūpa[23]ともいう。
阿毘達磨倶舎論において、業を起こした時の心が心ならそれと異なる不善あるいは無記の心を乱心といい、業を起こした時の心が不善心ならそれと異なるあるいは無記の心を乱心という[24]。また、無想定滅尽定に入って心の生起が全くなくなった状態を無心という[24]。この上で無表色は、 阿毘達磨倶舎論 の分別界品第一においては、これらの「乱心と無心等(この2つに不乱心および有心を含めた4つを四心という[25]。著者の世親はこれによって全ての心の状態を示し得たと考えている[26]。)の者にも随流(が連続生起して絶えない流れをなすこと[24]。なお、随流は相続(pravāha)ともいう[27]。)であって、浄や不浄にして、大種(四大種)によってあるもの」と定義されている[28]。分別界品第一の定義は四分随流ともいう[22]。なお、無表色は四大種の所造であるが極微の所成ではない[29]。また、法処法界に属しながら色法であり[29]五根の対象とはならず、ただ意根の対象である[29]
無表業とは、説一切有部の伝統的解釈によれば「悪もしくは善の行為を妨げる習性」で、具体的には律儀、不律儀、非律儀不律儀の三種であり(これは阿毘達磨倶舎論の分別業品第四の所説であり、この所説が無表業全体を解明しているという考え方がある[22] 。)、いわゆる「戒体」と同じものである[22]。 また、無表色は身無表と語無表の二種に分けられ、殺生、偸盗、邪淫の三つの身業と妄語、綺語、離間語、悪口の四つの語業を合わせた七支に関わるものである[25]。明治大正期より、近代仏教学者によって経部の種子説との混同や[30]、大乗仏教の立場から有部の無表業を誤謬として規定したり[31]、「仏教元来の無表」を想定することによって、無表色を「業の結果を生ぜしめるもの」とする理解が流行したが、文献学的に論証されたものではなく、根拠に乏しい[31]
身表と身無表、語表と語無表の四つに意業を加えて五業という[2]

引業と満業[編集]

総体としての一生の果報を引く業を引業(牽引業、総報業、引因とも)という[2]。これは人間界とか畜生界などに生まれさせる強い力のある業のことを指す[2]。他方、人間界などに生まれたものに対して個々の区別を与えて個体を完成させる業を満業という[2]。引業と満業の2つを総別二業という[2]

共業と不共業[編集]

山河大地(器世間)のような、多くの生物に共通する果報をひきおこす業を共業(ぐうごう)といい、個々の生物に固有な果報をひきおこす業を不共業(ふぐうごう)という[2]無著「大乗阿毘達磨集論」においては、共業による影響は、これを結果に対する増上縁 (adhipati-pratyaya) と考え、直接的な結果、すなわち異熟 (vipāka) とは考えない[32]

三性業[編集]

善心によって起こる善業(安穏業)と、悪心によって起こる不善業(悪業、不安穏業とも)と、善悪のいずれでもない無記心によって起こる無記業の3つがあり、この3つを三性業という[2]

三時業[編集]

業によって果報を受ける時期に異なりがあるので、業を下記の3つに分ける[2]。この3つを三時業という[2]。三時業の各々は、この世で造った業の報いを受ける時期がそれぞれ異なる[2]
  • 順現業(順現法受業、じゅんげんぽうじゅごう[要出典]、dṛṣṭadharma-vedanīya-karman[33]) - この世で造った業の報いを、この世で受ける[2]
  • 順生業(順次生受業、じゅんじしょうじゅごう[要出典]、upapadya-vedanīya-karman[34]) - この世で造った業の報いを、次に生まれかわった世で受ける[2]
  • 順後業(順後次受業、じゅんごじじゅごう[要出典]、aparaparyāya-vedanīya-karman[35]) - この世で造った業の報いを、次の来世より先の世で受ける[2]
三時業は報いを受ける時期が定まっているので定業といい、報いを受ける時期が定まらないものを不定業(順不定業、aniyata-karman[36])という[2]。三時業に不定業を加えて四業という[2]

業因と業果との関係[編集]

善悪の業を造ると、それによっての報い(果報、果熟)が生じることを、業因によって業果が生じるという[2][注釈 5]。この業因と業果との関係について諸説がある[2]
Yādisaṃ vapate bījaṃ tādisaṃ harate phalaṃ, Kalyāṇakārī kalyāṇaṃ pāpakārī ca pāpakaṃ,
人が持ち去る作物は自分が蒔いた種によるものです。

そのように善行為をした人は善果を、悪行為をした人は悪果を得るのです[37]
説一切有部は、業そのものは三世実在するとし、業が現在あるときにはそれがとなっていかなる未来の果を引くかが決定し、業が過去に落ちていってから果に力を与えて果を現在に引き出すとする[2]
経量部は、業は瞬間に滅び去るとするが、その業は果を生じる種子(しゅうじ)をの上にうえつけ、その種子が果をひきおこすことになるとする[2]

業道[編集]

業がそこにおいてはたらくよりどころとなるもの、あるいは、有情を苦楽の果報に導く通路となるものを業道という[2][注釈 6]。業道には十善業道と十悪業道の2つがある[2]

仏典や宗派ごとの扱い[編集]

パーリ経典[編集]

Cetanāhaṃ bhikkhave kammaṃ vadāmi[38]
比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。
—  パーリ仏典増支部経典 (Aṅguttara-Nikāya) Nibbedhika suttaṃ, Sri Lanka Tripitaka Project
Katamā ca bhikkhave, micchādiṭṭhi: natthi dinnaṃ, natthi yiṭṭhaṃ, natthi hutaṃ, natthi sukaṭadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, .... Ayaṃ bhikkhave, micchādiṭṭhi.
比丘たちよ。邪見とは何か。

布施〔の果報〕はなく、供犠〔の果報〕はなく、献供〔の果報〕はない。善悪の業に果報はない。.... 比丘たちよ、これが邪見である。
—  パーリ仏典, 中部大四十経Sri Lanka Tripitaka Project

阿毘達磨[編集]

『総合仏教大辞典(1988)』によれば、阿毘達磨では[どこ?]十二支縁起の第十支の「有」は業を意味するものと解釈されている[2]。これを業有という[2]

浄土教[編集]

一般に、念仏して阿弥陀仏浄土往生しようと願うことを浄業という[2]

密教[編集]

西洋[編集]

西洋では、ドイツの思想家ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729年 - 1781年)の時代から、生の繰り返しによる学びを通した個人の段階的な完成として、東洋よりはるかに楽観的な転生思想が唱えられてきた[39]

心霊主義[編集]

フランス人アラン・カルデック19世紀に創始した心霊主義のキリスト教スピリティズム(カルデシズム)では、転生が信じられており、神から与えられた自由意思によって、転生する間に過ちを起こしてカルマを形成し、この負債であるカルマによって、その人に災いが起こると考えられた[40][41]。人間の苦しみの原因は自らが過去生で蓄積した負債であり、地上の生はこの負債の返済のためにある[40]。また人生の苦しみは神の恩寵でもあり、苦しみを通じて負債が軽減されることは神の期待に沿うことであり、苦しみを乗り越えることは大きな栄光であると考えられている[40]。スピリティズムにおいて、自由意思は負債の原因であると同時に救いを可能にするものであり、個人が救済されるか否かは全て個人の自由意思次第であり、救いは慈善活動、他者救済のみによって可能となる[40]
エドガー・ケイシー(後述)と同時代には、心霊主義の霊媒モーリス・バーバネルがおり、彼に憑依した霊であるという「シルバー・バーチ」という人格によると、転生とは償いや罰が問題ではなく、進化のためにあり、「業という借金」は「教訓を学ぶための大切な手段」であるとされ、懲罰的な意味合いは中心から外されているか、完全になくなっている[42]

神智学[編集]

19世紀に近代神智学を創始したロシア人オカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキーは、身体的な進化のベースに霊的な進化があると主張し、人間は転生の繰り返しを通して神性の輝きに向かって進化するもので、連続する生はカルマの法則によって統括されていると考えた[43]

ニューエイジ[編集]

近代神智学から直接生まれ変わりの思想を受け継いだニューエイジでは、転生やカルマが信じられている[44][45]。津城寛文によると、ニューエイジを一般に広めた女優のシャーリー・マクレーンなどの「スピリチュアルな」重要人物たちは、心霊診断家のエドガー・ケイシーを最大の権威として参照しており、ケイシーは現代アメリカの転生思想に最も大きな影響がある[46]。催眠状態のケイシーが語る「リーディング」で伝えた原則的な教訓は、「蒔いたものは刈り取らねばならない」という新約聖書の言葉を標語にするもので、死後も存在が続くと意識することによって生じる内面の正義を目的とする倫理である[46]。リーディングでは、カルマという用語で説明された[46]。ヒンドゥー教から用語を借りつつも、キリスト教内部に元々あった教えであることが暗に示されている[46]。ケイシーの教えには、カルマを活用することで生まれ変わりの機会を改善するという志向がある[46]。リーディングには、割り当てられた問題を今生で解決し、もう地球に転生しないかもしれないというごく少数の事例もあり、彼らは死後より高次の惑星に移行するとされている[46]。ケイシーはアトランティス大陸滅亡を歴史的事実として語り、その時のカルマにより現代社会の滅亡が近いという終末論を唱えた[47]
ニューエイジの「カルマの法則」は、原因と結果に関する宇宙の法則、互いに結びつき道徳的な均衡へと向かう宇宙の傾向の一部であり、しばしば道徳的な意味で宇宙の進化と同じと考えられた[44][45]。悪や苦しみは幻影であるとされ、カルマは悪や苦しみとは無関係の概念になっている[44]。今の人生の課題は前世のカルマによって決められているという考え方は、生きる指針を見失い喪失感に苦しむ現代アメリカ人たちから、広い支持を得た[48]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 原語の karman は、サンスクリットの動詞語根「クリ」(√kṛ)、為す) より派生した[1]羯磨(かつま)と音写する[2]
  2. ^ 原始仏典である阿含経典(二カーヤ)において、ウパニシャッドは言及すらされておらず、まったく存在していなかったと考えるからである[要出典]。登場するヴェーダも三つまでである[要出典]
  3. ^ ただし、業因には、煩悩などの「業を起こさせる原因」という意味もあり、因業には「因と業」すなわち「主と助」という意味もある[2]
  4. ^ 業とその苦である報いのことを業苦という場合もある[2]
  5. ^ 非善非悪の無記業は業果を引く力がない[2]
  6. ^ 経量部大乗仏教では、身・語を動初(どうほつ)する(意志)の種子(しゅうじ)のことを指して業道という場合もある[2]

出典[編集]

  1. ^ 宮元啓一インドにおける唯名論の基本構造』、RINDAS ワーキングペーパー伝統思想シリーズ19、龍谷大学現代インド研究センター、2014年、pp.6-8。
  2. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah aiaj ak al am an ao ap aq ar 総合仏教大辞典 1988, p. 363-365.
  3. ^ アルボムッレ・スマナサーラ 2014, 11%.
  4. a b 広辞苑 1986, p. 789.
  5. ^ アルボムッレ・スマナサーラ 2014, 16%.
  6. ^ アルボムッレ・スマナサーラ 『無我の見方 (「私」から自由になる生き方)』 サンガ、2012年、Kindle版、位置No.全1930中 893 / 46%。ISBN 978-4905425069
  7. ^ Parvesh Singla. The Manual of Life – Karma. Parvesh singla. pp. 5–7. GGKEY:0XFSARN29ZZ 2011年6月4日閲覧。
  8. ^ Halbfass, Wilhelm (2000), Karma und Wiedergeburt im indischen Denken, Diederichs, München, Germany
  9. ^ アルボムッレ・スマナサーラ 2014, No.91/359.
  10. a b c d e f g チャンディマ・ガンゴダウィラ 『新しい生き方を切り拓く7つの実践 『小業分別経』』 Sukhi Hotu、2020年。[要ページ番号]
  11. a b c d e f 岩波仏教辞典 1989, p. 314.
  12. a b c 岩波仏教辞典 1989, p. 246.
  13. a b c d e f g 櫻部・上山 2006, p. 117~118.
  14. ^ 「邪淫・邪婬」 - 精選版 日本国語大辞典、小学館。
  15. a b c 松久保 2001, p. 77.
  16. ^ 櫻部・上山 2006, p. 索引頁「仏教基本語彙(3)」.
  17. ^ 櫻部・上山 2006, p. 117.
  18. ^ 櫻部・上山 2006, p. 120.
  19. a b 岩波仏教辞典 1989, p. 788.
  20. ^ 櫻部・上山 2006, p. 索引頁「仏教基本語彙(7)」.
  21. a b c 櫻部・上山 2006, p. 121.
  22. a b c d 青原 2017, p. 847.
  23. ^ 櫻部・上山 2006, p. 索引頁「仏教基本語彙(9)」.
  24. a b c 櫻部 1989, p. 63.
  25. a b 青原 2017, p. 846.
  26. ^ 加藤 1967, p. 120.
  27. ^ 工藤 1981, p. 130.
  28. ^ 阿部 1995, p. 35.
  29. a b c 櫻部 1989, p. 66.
  30. ^ 青原 2017, p. 844-846.
  31. a b 青原 2017, p. 844-843.
  32. ^ 干潟龍祥、「業(ごう)の社会性-共業(ぐうごう)-について (昭和五十年二月十二日提出)」 日本學士院紀要 1975年 33巻 1号 p.1-7, doi:10.2183/tja1948.33.1
  33. ^ 「順現法受業」 - 佛光大辭典 (慈怡法師主編)
  34. ^ 「順次生受業」 - 佛光大辭典 (慈怡法師主編)
  35. ^ 「順後次受業」 - 佛光大辭典 (慈怡法師主編)
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  48. ^ 大田 2013. 位置No.1165/2698

参考文献[編集]

関連項目[編集]



































  • 전생 (前生)의 온갖 나쁜 행위
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  • 범어 (梵語) durgfati의 번역. 악업 (惡業)에 의해 태어나는 지옥과 같은 세계. 악...
    Durgfati: The evil realms, or incarnations. The states of existence, such as ...
  • 악업 (惡業)을 행한 것이 원인이 되어 받는 괴로움
    Karmic suffering: Suffering which one undergoes as retribution of evil acts c...
  • 업 (業)을 일으키는 조건. 선업 (善業)은 좋은 결과의 인연을 부르고, 악업 (惡業)...
    Karmic conditions: The conditions arising from karma or action. Good actions ...
  • 악업을 지은 자들이 사는 곳으로 수미사주 (須彌四洲)의 하나. 수미산의 남쪽에 있...
    Jamvudvipa: The continent lying to the south of Mt. Sumeru, the continent of ...
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  • 전생 (前生)의 온갖 나쁜 행위
    Evil karma: The evil acts in thought, word, or deed in the former lives.
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    Twelve classifications of sutra: The sutras classified into twelve divisions ...
  • 석가모니 부처님의 언행록 (言行錄)으로, 소승불교의 경전인 사아함 (四阿含) 또는...
    Agama (Skt), Nikaya (P): This is the basic teaching of Hinayana, when the Bud...
  • 전생 (前生)의 온갖 나쁜 행위
    Evil karma: The evil acts in thought, word, or deed in the former lives.
  • 어떤 결과의 원인으로 생각되는 일체행위. 이것을 행위와 말 그리고 생각으로 나누...
    Karma (Skt), kamma (P): Action, work, deed in the sense of action-reaction. T...
  • 세존께서 전생에 보살로 계실 때, 이 부처님께서 미래세에 반드시 성불하리라는 수...
    Dipamkara Buddha, or the Lantern Lighter Buddha: The Buddha who predicted to ...
  • 육취 (六趣) 또는 육도윤회 (六道輪廻)라고도 말함. 중생이 업인 (業因)에 따라 필...
    Six ways or realms of reincarnation, or six states of karmic existence: The s...
  • 줄여서 육통 (六通)이라고도 말함. 신통 (神通)은 선정 (禪定)을 닦아 얻어지는 초...
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  • 아뢰야식에 대한 많은 이름중의 하나. 사람의 일체 행위, 곧 업 (業)은 전생과 금...
    Vipaka: Potential different karmic retribution: One of the many names of the ...




  • 근본식 (根本識), 곧 아뢰야식에 의지하는 모든 의식 (意識)을 전식 (轉識)이라 함...
    Evolving consciousness, or transforming consciousness: Six types of conscious...
  • 불법 (佛法)을 듣고 배우는데 장애가 되는 여덟 가지 1) 지옥 (地獄) (삼도 (...

불교평론 업보윤회설, 그 오해와 진실 / 박경준

불교평론









[열린논단] 업보윤회설, 그 오해와 진실 / 박경준

2012년 2월 16일 열린논단

  동국대 불교학부 교수















Ⅰ. 들어가는 말



불교의 ‘업과 윤회의 가르침’에 대한 곡해가 적지 않다. 가장 일반적인 곡해는 업보윤회설을 신비주의적 혹은 숙명론적 사상으로 바라보는 것이다. 대체적으로 현대인들에게 업보윤회설은 3세윤회설로 이해된다. 예컨대, 영화 「리틀 붓다」의 내용 중에 나오는 ‘환생’이야기는, 엄밀하게 말하면 정통 윤회설의 내용과 조금 다르지만, 불교의 기본적 윤회사상으로 이해되면서 대중적으로 불교에 대한 신비주의적 이해를 확산시켜 왔다. 우리는 일상생활에서도 윤회에 관한 이야기를 종종 나눈다. 누구는 전생에 왕족이었을 것이라고 한다든가, 누구는 업장이 두터워 금생에는 고생을 많이 했지만 다음 생에는 부잣집에 태어날 것이라고 한다든가 하는 등의 대화는 모두 윤회를 전제로 한 이야기들이다. 이러한 윤회관 역시 불교를 신비주의적 또는 숙명론적 종교로 곡해하게 만들기 십상이다.



그 다음의 오해는 아마도 불교의 업설은 윤리적으로 철저한 동기론이라는 고정관념일 것이다. 불교 업설은 행위의 의도를 중시하는 윤리적 동기론의 입장에 서 있는 것이 사실이다. 하지만 현대사회와 같이 복잡하고 디지털화된 상황에서 동기론적 윤리사상만으로는 세상을 이끌어 가기에 많은 어려움이 예상된다. 불교 업설에 결과론적 내용은 없는 것인지 면밀하게 살펴볼 필요가 있다.



또 다른 오해는 불교 업설은 개인적 차원에서만 작동하는 원리라는 편견이다. 불교 업설은 대개 개인적 차원에서 설해지지만, 사회적 차원을 배제하지 않는다. 共業의 개념이 바로 그것을 증명한다. 불교 공업설이 우리의 삶에 어떤 방향을 제시하는지, 살펴보는 것은 큰 의미를 가질 것으로 본다.



이러한 오해들을 바로잡는 것은 올바른 불교이해를 위해 반드시 선행되어야 할 작업이라고 생각된다. 불교의 업보윤회설은 불교적 세계관과 인생관의 바탕이 되는 근본 교리이기 때문이다. 지금까지 우리 학계에서 ‘업과 윤회’에 대한 연구는 주로 윤회를 변증하고 합리화하는 입장에서 행해져 왔다고 할 수 있다. 또한 無我와 輪廻의 모순을 ‘無我輪廻說’로 봉합하려는 경향이 있어왔다.



그러다 보니 업설과 윤회설에 대한 비판적 연구와 새로운 해석 작업이 부족한 측면이 있다. 이러한 인식을 바탕으로 본고에서는 업과 윤회의 내용이나 사상사적 전개 과정보다는 업설과 윤회설의 의의에 대해 초점을 맞춰 고찰하고자 한다. 그리고 조금은 비판적인 관점에서 또 다른 해석을 시도해 보고자 한다. 업설에 대한 심리학적 해석은 그 하나가 될 것이다.



요즈음은 명상의 시대라 할 만큼 명상이 유행인 바, 이것은 결국 행복의 기준이 물질에서 마음으로 옮겨가고 있음을 의미한다. 이러한 시대적 추세에 부응하기 위해서라도 인과업보를 심리적 차원에서 논의할 필요가 있다고 본다.



Ⅱ. 업설과 윤회설의 기본 의의



1. 올바른 인생관의 확립



불교 업설은 무엇보다도 인간의 苦와 樂, 행복과 불행, 즉 인간의 운명은 인간의 행위(karma)에 의해 규정된다는 것을 선언한다. 다시 말해서 인간의 운명은, 신(절대자)의 뜻에 의해 결정되는 것도 아니고, 숙명에 의해 좌우되는 것도 아니고, 단순한 우연의 산물도 아니라고 가르친다. 그것은 오직 인간 스스로의 행위에 의해 규정된다는 것이다. 불교 업설은 한 마디로 인과응보의 교설로서 ‘善因善果 惡因惡果’ 또는 ‘善因樂果 惡因苦果’의 인과법칙을 주장한다. 그것은 ‘콩 심은 데 콩 나고 팥 심은 데 팥 난다’는 우리 속담의 의미와 크게 다르지 않다. 초기 경전은 인과응보의 진리를 다음과 같이 설한다.



(무릇 사람은) 씨앗을 뿌리는 대로 그 열매를 거둔다. 善한 행위에는 선의 열매가, 惡한 행위에는 악의 열매가 맺는다. (그 사람이) 씨앗을 심어 그 사람이 (자신의) 과보를 받는다.



21세기를 살아가는 현대인들도 위와 같은 평범하고도 상식적인 진리를 외면한 채, 잘못된 세계관과 인생관에 빠져 어리석은 삶을 사는 사람들이 적지 않다. 우리 주변에는 인간의 역사나 개인의 운명이 어떤 절대자의 뜻이나 각본에 따라 결정된다고 믿고, 스스로 바르게 행동하고 열심히 함께 노력하기보다는 기도나 종교에 지나치게 매달리는 사람들이 있다. 극단적인 경우에는 휴거 등을 믿는 종말론자가 되어 건강한 삶을 포기하는 경우도 있다. 또한 전생에 스스로가 지은 숙명의 힘에 의존하는 사람들도 많다.



걸핏하면 철학관을 찾고 점을 치며, 사주나 점괘가 좋지 않을 때에 자꾸 굿에 의지하다가 패가망신하는 경우도 있다. 그리고 우연에 의지하는 사람들은 정직하고 성실하게 사는 것을 탐탁스럽게 여기지 않고 도박의 노예가 되거나 일확천금을 노리는 한탕주의에 빠지며 향락주의자가 되기도 한다. 이러한 잘못된 삶을 살아가는 사람들은 고타마 붓다가 살았던 당시의 인도뿐만 아니라 오늘날의 지구촌에서도 적잖이 발견된다.



인과응보를 믿는 사람들은 ‘하늘은 스스로 돕는 자를 돕는다’는 속담처럼, 인간의 운명은 인간 스스로의 행위에 의해 결정된다는 것을 깨달아, 세상의 지식과 인생의 지혜를 부단히 배우고, 합리적인 계획을 세우고, 부지런히 노력하고 행동하며, 겸허히 기다리고 인내한다. 이렇게 불교 업설은 어느 때, 어느 곳에서나 인간으로 하여금 건전하고 건강한 삶을 살아가게 하는 근본 원리이자 기초인 것이다.



2. 인간 평등의 원리적 토대



동서고금을 돌아보면, 인류 역사는 차별의 역사요 불평등의 역사라고 해도 과언이 아니다. 신분과 계급은 물론 종교와 직업, 인종과 성별에 따른 불평등은 오랫동안 인류 역사 발전에 걸림돌이 되어 왔다. 오늘날 인류 사회에서 극단적인 노예제도는 사라졌다고 하지만, 아직도 인도의 바르나-카스트제도와 같은 계급차별이 행해지고 있는 지역이 적지 않다.



지구촌 한켠에서는 ‘인간 해방’을 넘어 ‘동물 해방’을 외치고 있지만, 반면에 선진국에서도 인종 차별이 엄존하고, 문명국가에서도 남녀 차별이 사라지지 않고 있으며, 우리나라에서도 학벌이라든가 출신지에 따른 차별 등의 악습이 현존하고 있다. 이러한 차별은 모든 사람이 진정한 자유를 실현하는 인류 역사의 궁극적 이상을 성취하기 위해서 가능한 한 빨리 축출되어야 한다. 불교 업설은 인간의 존엄과 가치 또는 인격의 기준을 그 무엇도 아닌 오직 인간의 행위(karma) 자체에 둠으로써 불합리한 것들의 개입을 차단하고 인간 평등의 실현을 위한 토대를 마련한다. 초기경전은 다음과 같이 설한다.



태어남에 의해 천민〔領群特〕이 되는 것도 아니고, 태어남에 의해 바라문이 되는 것도 아니다. 업에 의해 천민이 있게 되고, 업에 의해 바라문이 있게 된다.



이것은 사회적 신분이나 계급에 의해 귀천이 결정되는 것이 아니라 각 개인의 행위와 행동에 의해 결정된다는 것을 분명히 하고 있다. 그러므로 불교 교단에 들어오는 사람들도 근본적인 차별이 있을 수 없고 모두가 평등하다. 석존은 이것을 바다의 비유를 통해 다음과 같이 설한다.



마치 갠지스 강, 야수나 강, 아찌라와띠 강, 사라부 강, 마히 강과 같은 큰 강들이 바다에 모여 들면 이전의 이름을 잃고 단지 바다라는 이름을 얻는 것과 같이 四姓도 여래가 가르친 法과 律을 따라 출가하면 이전의 종성을 버리고 똑같이 釋子(석가세존의 자식)라고 불린다.



인간의 가치는 권력이나 재력, 가문이나 직업 등에 의해 규정되지 않는다. 업설에 따르면, 자신의 이기적 욕망을 위해 남에게 악을 행하여 괴롭히거나 피해를 주고 무례하게 구는 사람은 가치가 없는 천한 사람이며, 부지런히 선을 행하여 나와 남을 이롭게 하고 선행을 자랑하거나 과시하지도 않으면서 예의 바르게 행동하는 사람은 가치 있는 귀한 사람이다. 사람은 누구나 자유롭게, 자율적으로 선 또는 악을 선택하고 행할 수 있다는 의미에서 평등하다. 따라서 불교 업설은 인간 평등의 원리적 토대가 된다고 할 수 있다. 이것은 석존이 불교 업설에 근거하여 당시 인도 사회의 사성계급제도를 비판한 점으로 미루어 보아도 쉽게 알 수 있다.













3. ‘자유와 책임’의 민주주의 원리



민주주의는 인류가 일구어 낸 역사의 아름다운 꽃이다. 민주주의는 역사의 당연한 귀결이며, 국민은 국가의 주인이기에 국민 개개인의 자유와 권리는 보장되어야 하고 책임과 의무는 존중되어야 한다. 물론 다수결의 원리 때문에 민주주의는 우민 정치가 될 수도 있다는 점에서 최선이 아니라는 비판도 있지만, 민주주의는 아직까지는 그 대안이 없는, 적어도 차선의 정치제도라 할 만하다.



일찍이 막스 베버는 불교의 업설은 영원히 사회에 대한 비판정신을 불러일으키지 못하고 인권사상의 발전에 방해가 되며, 인간의 공동의 권리라든가 공동의 의무를 문제 삼지 않으며 국가라든가 시민과 같은 개념을 발생시키지도 못한다고 주장하였다. 이 말은 결국 불교는 어떠한 정치적·사회적 목표를 내세우지 않으며, 동시에 민주주의와 무관하다는 것을 의미한다. 이것은 분명 막스 베버의 실수라고 생각한다. 실수는 원천적으로 베버가 불교 업설을 지극히 개인적인 숙명론으로 오해한 데서 비롯된다.



여기서는 불교와 민주주의의 관계에 대해서 논할 여유는 없다. 다만 불교 업설은 ‘자유와 책임’의 원리로서 해석할 수 있다는 점만은 강조해 두고 싶다. 불교적 업은 인간의 자유의지에 근거한 능동적·자율적인 행위라는 점에서 ‘자유’사상에 통하고, 업보는 그 누구도 어떤 방법으로도 결코 면할 수 없다는 점에서 ‘책임’사상과 통한다고 할 수 있다. 초기경전 가운데는 다음과 같은 석존의 가르침이 발견된다.



허공 속에서도, 바다 속에서도, 바위 틈 속에서도 피할 수 없느니라. 악업을 행한 자가 그 과보를 면할 수 있는 곳은 그 어디에도 없나니.



우리는 불교 경전에서 이러한 ‘자유와 책임’만이 아니라, 나아가 ‘권리와 의무’의 정신도 이끌어 낼 수 있다. 불교는 국가와 사회의 기원을 설명함에 있어 일종의 ‘사회계약설’을 주장한다. 이것은 개인의 권리와 함께 사회 및 국가에 대한 개인의 의무를 전제로 하지 않으면 성립할 수 없다. 업설에서 ‘자유와 책임’은 ‘권리와 의무’의 정신과 통한다. 불교 업설은 이렇게 ‘자유와 책임’, ‘권리와 의무’라는, 민주시민이 가져야 할 기본요건과 정신을 가르쳐 준다. 불교의 업설과 윤회설은 결코 숙명론이 아니다. 그것은 자유의지에 바탕한 도덕적 행위와 창조적 노력을 설하는, 상식적이고도 미래지향적인 인생관을 함의한다.



Ⅲ. 불교 共業說의 사회적 의의



근대 인도에서 불교개종운동을 이끌었던 암베드까르(Bhimrao Ramji Ambedkar, 1891~1956)는 위에서 언급한 막스 베버처럼 불교의 업설을 숙명론 정도로 이해하였다. 그리하여 그는 업과 윤회의 교리에 대해 부정적이고 비판적인 입장을 취하였다. 암베드까르는 인도의 불가촉천민들의 고통은 그들 스스로의 과거 업 때문이 아니라 사람들의 학대와 잘못된 사회계급제도 때문이라고 보았다. 그런데 업과 윤회의 형이상학은 현재 고통받는 사람들이 전생에서 악업을 행했기 때문에 고통을 받는 것이라고 하여 사회의 구조적 모순과 폭압적 현실사회에 면죄부를 준다고 생각하였다. 그러기에 ‘업과 윤회’의 교리에 대해 비판적이었다.



전통적인 불교의 업설에 따르면, 사람의 수명이 길고 짧은 것, 질병이 많고 적은 것, 외모가 단정하고 추한 것, 천하고 귀한 종족으로 태어나는 것, 부유한 사람과 가난한 사람 등의 차별은 모두 과거생의 선업이나 악업으로 말미암은 것이다. ��분별업보약경(分別業報略經)��에는 다음과 같은 내용이 설해져 있다.



성인을 뵈옵고 기뻐하지 않으면

날 적마다 언제나 어리석어서

벙어리가 되어 말을 못하고

소경이 되어 볼 수 없으리.



낯이 두꺼워 부끄러움을 모르고

절제 없이 말을 많이 하는 사람,

그는 업에 따라 과보를 받다가

나중에는 까마귀의 몸을 받으리.



이러한 가르침은 해석하기에 따라서 일종의 숙명론으로 곡해될 여지가 없지 않다고 생각된다. 하지만 근본적으로 불교의 업설은 숙명론이 아니다. 불교는 과거세의 업뿐만 아니라 현세의 업도 현실을 규정한다고 설한다. 더욱이 불교업설은 과거의 업보다는 오히려 현재의 업에 더 비중을 둔다. ��대승열반경��은 그것을 다음과 같이 설한다.



나의 佛法 가운데는 과거의 업도 있고 현재의 업도 있거니와 그대는 그렇지 아니하여 오직 과거의 업뿐이요 현재의 업은 없다.



이어서 ��대승열반경��은 현재의 과보가 현재의 업에 연유하는 비유를 든다. 즉 어떤 나라의 한 사람이 국왕을 위해 원수를 죽이고 포상을 받는다면, 그는 현재에 선업을 짓고 현재에 즐거움의 과보를 받는 것이 된다[善因樂果]. 또한 어떤 사람이 국왕의 아들을 살해하고 그 때문에 사형에 처해진다면, 그는 현재에 악업을 짓고 현재에 괴로움의 과보를 받는 것이 된다[惡因苦果]는 비유다. 이 이야기는 비유라기보다는 구체적인 사례에 속한다고 보이며, 이 사례는 업설에 대한 신비주의적 이해에 제동을 건다. 이 사례의 내용을 살펴보면, 거기에는 업의 과보가 은밀하고 신비스러운 방식으로 드러나지 않고, 사회적 ‘법과 제도’를 통해서 공개적이고 합리적으로 나타남을 알 수 있다. 국왕의 원수를 제거하여 상을 받고, 왕자를 살해하여 사형을 받는다는 것은 ‘상벌제도’에 의한 것임이 분명하다. 이것은 현세에서 바로 확인할 수 있는, 법과 제도를 통해 구현되는 인과업보라고 할 수 있다.



이처럼 인과응보가 법과 제도를 통해서도 드러나는 것이라면, 우리는 개인적으로 선업을 쌓는 것에서 한 걸음 더 나아가 다함께 올바른 법과 제도를 확립하고 그것을 바르게 집행하도록 해야 한다. 이렇게 볼 때 인과응보의 법칙은 사회 정의와 무관하지 않으며, 불교 업설의 외연은 사회적 차원으로까지 확장되어 있다는 것을 알 수 있다.



업설에 대한 ��대승열반경��의 이러한 관점은 「교진여품」의 다음 가르침과도 연결된다.



일체 중생이 현재에 四大와 時節과 土地와 人民들로 인하여 고통과 안락을 받는다. 이런 이유로 나는 일체 중생이 모두 과거의 本業만을 인하여 고통과 안락을 받는 것이 아니라고 설하느니라.



이 가르침은 업설에 대한 통념을 극복하고 그 이해의 지평을 넓혀 준다. 사람들의 고통과 안락의 문제를 과거의 개인적인 근본 업[本業] 뿐만 아니라 현재의 4대, 시절, 토지, 인민과 관련시켜서 바라본다. 여기서 4대와 토지는 자연 환경을, 시절은 시대 상황을, 인민은 사회 환경을 의미한다. 과거의 본업이 因이라면 자연 환경, 시대상황, 사회 환경은 緣이다. 이러한 인과 연이 결합하여 고통 또는 안락의 과[果報]를 낳는다는 것이다. 그런데 『열반경』「교진여품」에서 제시하고 있는 자연 환경, 시대 상황, 사회 환경은 모두 器世間의 범주에 포함시킬 수 있는 것이어서 흥미롭다. 일반적으로 기세간은 자연 환경의 의미로 정의되지만, 사회 환경도 기세간에 포함시킬 수 있다고 본다. 자연이 인간을 담는 그릇이라면 사회[또는 문화] 역시 인간을 담는 그릇이기 때문이다. 그렇다면 기세간은 인간의 업과 무관한 것일까. 불교는 놀랍게도 기세간은 共業의 산물이라고 답한다.



‘공업(Sādhāraṇa-Karma)’이라는 용어는 대체적으로 초기 경전에서는 발견되지 않으며, 부파불교시대에 들어와서 비로소 사용되기 시작한 것으로 추정된다. ‘공업’은 아마도 2세기 무렵 『아비달마대비바사론』에서 처음 사용된 것으로 보인다. 여러 문헌들의 가르침을 종합해 보면, 공업은 일체 중생의 집단적 또는 공동의 업으로서 자연환경[기세간]의 성립과 파괴, 그리고 상태를 규정하는 업이라고 정의할 수 있을 것이다.



이러한 공업 사상은 현대를 살아가는 우리에게 시사하는 바가 적지 않다. 불교의 공업 사상은 원론적으로 현대 사회에 팽배한 개인주의를 비판한다. 우리의 삶을 규정하는 것은 각자의 개인적인 不共業뿐만 아니라 공동의 공업이기도 하기 때문이다. 따라서 개인적인 노력만으로는 우리의 삶의 조건을 충족시킬 수 없다. 반드시 공동의 노력이 필요하다. 공동체 의식에 바탕한 공동선의 추구가 이루어질 때 현대 사회가 안고 있는 여러 문제는 해결의 실마리를 찾게 될 것이다.



예컨대 환경문제는 우리 인간의 공업으로 말미암은 것이다. 인류의 팽창주의 경제가 초래한 환경오염이나 생태계 파괴, 기후변화 등은 어떤 한 사람의 노력만으로 극복될 수 없다. 우리 모두가 함께 노력하지 않으면 안 된다. 그러기 위해서는 거시경제의 새로운 청사진이 제시되어야 하고 ‘절제 자본주의’와 같은 새로운 대안이 마련되지 않으면 안 된다. 환경 위기, 생태 위기는 개인적인 경제 윤리를 바탕으로 사회적 합의, 지구적 합의를 통한 제도적, 정책적 차원의 접근이 필요하다. 이에 대한 당위성은 초기 경전의 하나인 『구라단두경(Kūṭadanta-sutta)』의 내용 중에 제시된 바 있다. 이 경의 요지는, 범죄자를 아무리 강력하게 처벌하더라도 가난하고 배고픈 사람들이 있는 한, 범죄는 근절되지 않는다는 것이다. 따라서 국가적 차원의 경제 정책이 시행되어 분배의 정의가 이루어질 때 국가는 안녕과 평화를 유지할 수 있다는 것이다. 이 경은 빈곤을 사회악의 근본 원인으로 보면서, 사회악의 해결을 위해서 개인적 선보다도 사회적 선에 더 적극적으로 호소한다.



또한 공업 사상은 현대인에게 시민사회운동이나 NGO 활동, 공공질서 준수 등의 필요성을 역설한다고 할 수 있다. 우리가 흔히 이용하는 버스의 예를 들어 보자. 버스를 안전하게 이용하려면 승하차시 등에 우선 개인적으로 조심하지 않으면 안 된다. 그러나 개인적인 주의만으로는 부족하다. 운전기사의 노동 환경, 버스 정비 시스템, 신호체계, 도로 사정 등의 모든 조건이 잘 갖추어져야 한다. 다른 차량들도 모두 교통질서를 잘 지키며 안전 운행해야 함은 물론이다.



그러나 이러한 조건들에 대한 점검은 한 개인이 할 수 있는 일이 아니다. 이것은 시민 모두가 연대의식을 갖고 공동으로 실천해야 할 일이다. 시민사회운동의 당위성과 필요성이 바로 여기에 있다. 불교 공업설은 결국 우리에게 성숙한 시민의식을 갖고 모두의 안전을 위한 시민사회운동에 적극적으로 참여할 것을 묵시적으로 가르치고 있다고 해석할 수도 있다.













Ⅳ. 업설의 결과론적 측면



우리가 살아가고 있는 현대 사회는 매우 복잡하고 미묘한 성격과 구조를 지니며 인간관계 또한 매우 다양한 양상이다. 현대사회는 거대한 조직에 바탕한 대형화, 대량화, 집단화의 사회로서, 그만큼 사회적 리스크도 높다. 이러한 리스크 사회에서는 윤리적 동기론에 의존할 수만은 없다. 일정 정도 윤리적 결과론도 필요하다고 본다. 그런데 불교는 흔히 ‘마음’과 ‘의지’를 중시하는 동기론의 입장에 서 있는 것으로 이해된다.



자이나교에서는 오랫동안 불교를 철저한 동기론으로 비판해 왔다. 자이나교의 한 경전[The sūtrakṛtāṅga sūtra]은, 불교의 가르침에 따른다면 만약 어떤 사람이 쌀자루를 사람인 줄 알고 쇠꼬챙이로 찔렀다면 그는 살인죄를 저지른 것이 되고, 사람을 쌀자루로 착각하여 쇠꼬챙이로 찔러 죽였더라도 그는 살인죄를 저지른 것이 아니라고 해야 한다며, 불교를 無作用論(Akriyavāda)이라고 비판한다. 과연 불교는 이처럼 극단적인 동기론일까?



결론적으로 말해서, 불교는 근본적으로 동기론의 입장에 서 있기는 하지만, 자이나교에서 비판하는 정도의 동기론을 주장하는 것은 아니다. 오히려 불교는 일정 정도의 결과론을 수용한다고 생각된다. 그 이유에 대해 몇 가지 근거를 밝힌다.



첫째, 故意性이 없는 행위에도 과보가 있다는 내용이 『賢愚經』에 나온다. 부처님 당시 어떤 사미승(아들)이 비구 스님(아버지)를 부축하다가 잘못하여 스님을 넘어뜨려 죽게 하였다. 그런데 여기에는 인과가 있었다. 오랜 과거생에는 죽은 비구 스님이 아들이었고 사미승은 아버지였다. 아들이 아버지를 몹시 귀찮게 하는 파리를 몽둥이로 쫓으려다 그만 아버지를 죽게 하였다는 것이다. 의도적인 살인은 아니지만 그에 상응하는 과보가 따른다는, 결과론에 해당되는 사례임이 분명하다.



둘째, 『中阿含』「思經」에서, 석존은 “만일 일부러 짓는 업이 있으면, 나는 그것은 반드시 과보를 받되, 현세에서 혹은 후세에서 받는다고 말한다. 만일 일부러 지은 업이 아니면, 나는 이것은 반드시 그 보를 받는다고는 말하지 않는다(不必受報)”라고 설한다. 이 마지막 부분의 ‘不必受報’는 문법적으로 분명히 부분부정인데도 우리말 번역에서는 “만일 일부러 지은 업이 아니면, 나는 이것은 반드시 그 과보를 받지 않는다고 말한다”라고, 완전부정으로 잘못 번역되어 있다. 하지만 부분부정으로 해석하면 불교는 동기론과 일정 정도의 결과론을 동시에 수용하는 것이 된다.



셋째, 10악업 가운데 意業의 하나인 愚癡가 포함되어 있다는 점이다. 10악업 중, 의업에 속하는 악업은 탐, 진, 치의 셋이다. 이 마지막 ‘치’가 바로 우치다. 종종 邪見이라고도 한다. 구사론의 해석에 의하면 사견은 ‘선과 악 그리고 그 업보 등에 대해 그릇되게 생각하고 심지어 무시하는 견해’이다. 우치든 사견이든, 여기에는 분명 ‘고의성’은 없다. 그런데도 이것은 악업이기에 거기에는 과보가 따르기 마련이다. 따라서 어리석음, 즉 고의성이 없는 악업에 대한 과보를 설하는 것이 되어 이것은 결국 결과론의 손을 들어주고 있다고 하겠다.



넷째, 석존은 제자들에게 나쁜 결과를 방지하기 위해서 ‘조심하고 주의하라’고 늘 가르친다는 점이다. 석존 재세시에, 어느 날 투라난타 비구니가 실수로 디딜방아의 공이를 건드려 잠자던 아이를 죽게 했을 때, 석존은 그것이 고의가 아닌 것을 알고 바라이죄로 단죄하지는 않았다. 하지만 바라이죄가 아니라고 했다 해서 그것을 ‘일반적인 죄에서도 자유롭다’고 생각한 것은 아니라고 본다. 교단 내의 행동 규범과 일반 사회의 법이 일치할 수는 없을 것이기 때문이다. 더욱이 석존은 투라난타에게 “그러나 남의 방아 공이를 함부로 건드리지 말아라”는 주의를 주었다.



이것은 어느 정도 ‘주의 의무’에 상응하는 의미로 해석할 수도 있을 것 같다. 우리의 현행 형법에서는 고의범보다는 가볍지만 과실범에게도 ‘주의 의무 위반(Verletzung der Sorgfaltspflicht)’이라는 죄목으로 처벌을 내리고 있으며, 업무상과실범에게는 더 무거운 처벌을 내리고 있는데, 이것이 석존의 뜻과 크게 어긋나지 않는다고 생각된다.



Ⅴ. 인과응보의 심리적 해석



甲이 형편이 어려운 乙을 도와주었는데 을이 훗날 성공하여 갑에게 은혜를 갚았다든가, 병이 정을 구타하였는데 정에게 다시 구타당했다든가, 누군가가 도둑질하다가 붙잡혀 감옥에 갔다든가 하는 것은 모두 인과응보의 구체적 사례라고 할 수 있다. 사람의 운명은 이러한 구체적인 개별 행위에 의한 인과응보에 의해 규정되기도 하지만, 선업이나 악업의 축적에 의해 형성된 성격과 인격에 의해 규정되기도 하는 것이 우리의 현실이다. 전자의 경우를 기계·물리적 인과응보라 한다면 후자의 경우는 생물·화학적 인과응보라 할 수 있을 것이다. 木村泰賢은 전자를 업의 반동적 현현이라 부르고, 후자를 업의 능동적 현현이라 부른다. 그는 업의 능동적 현현에 대해 다음과 같이 설명한다.



慈善心에 의해 보시를 행한다고 하자. 이 결과로서 자기의 성격이 점점 유연하게 되고, 드디어 자선 박애의 사람, 더 나아가 절대적 愛他心의 권화인 보살로까지 재생하기에 이른다. 이것이 바로 (업의)능동적 방면의 현현이고 소위 同類因果에 속하는 것이다. …(중략)… 생각컨대 우리들의 세계는 결국 우리의 성격이 만든 것이라고 보는 것이 석존의 眞諦的 견지일 것이다.



사람의 성격과 인격은 (유전자 등에 의해) 선천적으로 규정되기도 하지만, 후천적인 노력에 의해 바뀌기도 한다. 업의 창조적 역동성과 가변성을 인정하지 않는다면 업설은 숙명론으로 전락하고 말 것이며, 이것은 불교가 아니다. 현대인들에게는 (기계물리적인)윤리학적 인과응보보다 (생물화학적인)심리학적 인과응보가 더 설득력이 있을 수 있다. 업과 윤회에 대한 심리학적 연구는 미래 불교학의 주요 과제가 될 것이다.



이러한 심리학적 해석의 하나로 양심에 입각한 인과응보도 생각해 볼 수 있을 것이다. 즉 겉으로 보아, 선을 행한 사람이 그에 상응하는 과보를 받지 못하더라도, 자신의 양심에 비추어 만족하고 행복해 한다면 이 역시 인과응보라 할 수 있다. 마찬가지로 악을 행한 사람이 외견상 성공한 것처럼 보이더라도, 마음속으로 양심의 가책을 느끼며 괴로워한다면 이 역시 인과응보라 할 수 있다는 말이다. 물론 사람에 따라 양심의 감도가 다르다는 점에서 반론이 제기될 수도 있겠지만, 악을 행하고 법망을 피해 도망 다니는 죄인의 마음이 결코 평안하고 행복할 수는 없을 것이다. 상식적이고 일반론적으로 볼 때, 이러한 심리적 인과응보의 현상을 부정하기는 어려워 보인다.



근래 우리 사회에는 명상에 관한 관심이 늘어가고 있다. 종교를 떠나 직접 명상 수행하는 사람들도 꾸준한 증가 추세다. 그것은 절대 빈곤을 극복한 사람들이 생각하는 행복관, 인생관이 ‘물질’에서 ‘마음’으로 변해가고 있다는 반증이다. 사람들은 이제 마음의 평화가 행복이자 성공이고, 마음의 고통이 불행이자 실패라는 것을 깨달아 가고 있는 것이다. 최근 마음의 평화를 주제로 한 코이케 류노스케 스님의 연작들이 계속 베스트셀러 반열에 오르고, 명상 관련 서적들이 인기를 누리는 현상이 바로 그러한 사실을 잘 말해준다. 현대인들을 교화하기 위한 방편으로도 인과업보에 대한 심리적 해석은 적절하고 유용해 보인다.



Ⅵ. 윤회설의 의의



정세근은 최근 그의 저서 ��윤회와 반윤회 -그대는 힌두교도인가, 불교도인가?��의 결론 부분에서 다음과 같이 강력하게 한국불교에 고한다.



하나, 불교를 힌두교와 구별하라. 우리 불교는 인도의 전통 힌두교와 지나치게 뒤섞여 있다. 인도철학과 불교철학은 다르다. 불교를 인도철학으로 죽이지 마라. 나아가, 불교와 자이나교를 구별하라. 윤회가 있는 불교는 자이나교와 다르지 않다.…(중략)…

넷, 윤회를 부정하라. 윤회는 힌두교의, 자이나교의 것이다. 윤회가 설명하는 것이 계급질서이고 태생의 한계이고 불가항력적인 것이라면, 그런 관념은 일찍이 버릴수록 좋다. 나도 모르는 윤회의 법칙은 거짓이다.



그는 이러한 주장에 앞서, 그의 책 제6장 ‘무아와 윤회 논쟁’에서, 윤호진, 정승석, 김진, 한자경, 최인숙, 조성택 등의 주장과 논평, 그리고 그것들에 대한 비교 분석 비판을 통해 이른바 불교의 ‘무아윤회설’에 대해서 상세하게 고찰하고 있다. 그리고 그 결론은 “나는 이 문제를 무아윤회와 유아윤회의 입장에서 바라보기보다는 무아연기의 철칙 아래 윤회를 부정하는 것이 근본적인 해결책이라고 생각한다”라고 하는 주장이다. 그는 연기를 非有非無의 中道의 입장에서 바라보지 않고, 無 또는 무아의 입장으로 해석한다.



그러나 연기설은 유무중도의 입장에서 설해진 것이므로 연기설에 근거한 무아설은 중도의 입장에서 이해해야 한다. 전체적인 불교사상의 입장에서 볼 때, ‘我’는 크게 實我(실체아, ātman), 假我, 眞我로 구분할 수 있다. 불교에서 말하는 ‘무아’는 ‘實我가 없다’는 의미지 假我와 眞我까지를 부정하는 것은 아니다. 초기불교의 연기무아설은 나를 온통 부정하는 의미가 아닌 것이다. 고익진은 다음과 같이 주장한다.



무아설의 무아도 ‘나’는 없지만 아주 없다는 뜻이 아니다. ‘나’는 없지만 그러나 아주 없지 않다는 그러한 뜻을 담은 중도적인 무아이다. 왜 그러냐면, 그것은 연기에 입각한 연기무아설이기 때문이다. 구사론은 이러한 나를 ‘거짓 나(假我 prajñaptyātman)’라고 하고, 그러한 ‘나’는 실로는 없지만 거짓으로는 있음이 허용되며, 이러한 거짓 ‘나’의 허용은 지혜의 일부에 속한 것으로 보고 있다.



이러한 ‘가아’의 개념을 통해 무아설과 윤회설은 모순 관계에서 벗어난다. 한자경은 다음과 같이 주장한다.



무아윤회는 가능하다. 가아(오온)는 존재하고, 하나의 가아가 지은 업이 남긴 업력이 다음 가아를 형성하면, 그 가아들 간의 연속성을 윤회라고 하는 것이기 때문이다. 이처럼 윤회는 오온(가아)과 업만으로도 충분히 설명될 수 있다. 무아윤회론은 바로 이 점을 밝히는 것이라고 본다.



가아의 개념을 통해 ‘무아윤회’의 난점은 해결된 것으로 보이지만, 가아의 윤회방식은 여전히 궁금하고 신비스러워 보인다. 그러나 어쨌든 윤회설은 불교 사상 전반에 깊이 뿌리내리고 있다. 수많은 전생담은 말할 것도 없고 붓다의 특별한 능력 중 하나인 宿命通 또는 宿命明 등이 그것을 증명해 준다. 해탈의 가르침도 윤회를 떠나서는 의미를 상실한다. 그러므로 윤회를 단순히 교화방편설로 보는 것은 신중을 기해야 한다. 또한 ‘윤회’는 3세에 걸쳐서뿐만 아니라 현세에도 일어나고, 한 찰나에도 일어난다고 종종 해석되기 때문에 윤회에 대해 함부로 단정 짓는 일은 삼가야 한다.



또한 眞如의 입장에서 보면 生滅이 없지만 세속제의 범부중생에게는 死後 세계에 대한 궁금증이 있고, 특히 신체적으로나 삶에 콤플렉스가 있는 사람들은 뭔가 또 다른 삶의 기회를 얻고 싶어 하여 윤회를 믿고 싶어하는 경향이 있다. 일반인들도 대개는 생이 지속되기를 바라는 바, 윤회론은 이러한 심리적 욕구를 충족시켜 줄 수가 있다. 윤회에 대한 확신은 자연스럽게 정신적, 도덕적, 정서적으로 상당한 긍정적 효과를 갖는 것으로 평가된다. 윤회설은 신비주의라기보다 이러한 업설에 대한 적극적 신념의 표현으로 이해해야 한다. 인간사회에서는 더러 우연적인 요소가 발생하는 것도 사실인 바, 이에 아랑곳하지 않고 3세윤회설에 대한 믿음을 통해 선을 행하고 악을 그치는 일에 더욱 힘쓰게 하기 때문이다.



Ⅶ. 나오는 말



이상에서 살핀 바와 같이, 불교의 업설과 윤회설은 오늘을 살아가는 우리에게 그 의의가 여간 크지 않다.

첫째, 불교의 업설과 윤회설은 인간의 운명은 신의 뜻이나 숙명 또는 우연이 아니라 인간의 행위(karma)로 말미암은 것임을 강조함으로써 우리로 하여금 올바른 삶을 살아가게 한다. 인간의 귀천 역시 오직 인간의 행위에 의해 규정된다고 하는 바, 이것은 곧 인간 평등의 원리적 토대가 된다고 할 것이다. 또한 불교의 업보윤회설은 ‘자유와 책임’을 가르치며, 이것은 오늘날 민주주의 사회에서 더욱 요청되는 시민정신이라고 하겠다.



둘째, 불교의 업설은 개인적인 不共業뿐만 아니라 사회적인 共業을 강조함으로써 참여민주주의에 대한 이론적 지지대 역할을 한다. 특히 공업은 자연환경까지를 규정한다고 하는 바, 오늘날 환경 위기에 대한 인간의 공동의 노력은 물론, 그 무엇도 쉽게 체념하지 않는 도전 정신을 일깨운다.



셋째, 불교 업설은 근본적으로 인간의 선의지를 강조하는 윤리적 동기론의 입장에 서 있지만, 결과론적 윤리 사상도 함께 포함하는 것으로 추정된다. 이는 글로벌 리스크 사회에 유용하게 활용될 것으로 보인다.



넷째, 불교 업설은 단선[개인]적 차원뿐 아니라, 평면[사회]적 차원, 그리고 공간[심리]적 차원에서도 해석이 가능하다고 생각된다. 따라서 앞으로는 심리적 인과응보에 대해서도 관심을 기울여야 할 것이다.



끝으로, 불교 업보윤회설은 이미 훌륭한 이론 체계를 구축하고 있지만, 과학의 발전과 시대 변화에 따른 새로운 질문과 그에 대한 창조적 해석 작업도 필요하다고 생각된다. 예컨대, 善과 惡의 개념이 시간과 장소에 따라 달라졌을 때, 업보윤회설은 어떻게 적용되는가?



유전자 과학이 첨단화되어 가는 상황에서 윤회는 어떻게 합리화되는가? 선악의 개념은 자연이 아닌 사회적 개념인 바, 인과응보는 필연적 자연법칙이 아니라 확률적 사회법칙으로 이해해야 하는 것 아닌가? 윤회하는 중생의 개체수는 언제나 동일한가, 아니면 감소하거나 증가하는가? 축생의 선업과 악업의 기준은 무엇인가? 업보윤회설은 이러한 물음들에 대해 더욱 진지하고 명쾌한 응답을 준비해 가야 할 것이다.