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業(ごう)とは、
カルマ(
梵:
कर्मन् karman
[注釈 1])に由来し、
行為、所作、
意志による
身心の活動、意志による身心の生活を意味する語。原義においては単なる行為(action)という意味であり、「良い」「悪い」といった色はなく、特に暗いニュアンスはない。
仏教および
インドの多くの
宗教の説では、
善または
悪の業を作ると、
因果の道理によってそれ相応の
楽または
苦の報い(果報)が生じるとされる。業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある。仏教はすべての結果について「偶然による事物の発生」「(原因なく)事物が突然、生じること」「神による創造」などを否定し、その原因を説くのである
[6]。
仏教以前[編集]
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釈迦が
成道する以前から、従来の
バラモン教に所属しない、様々な自由思想家たちがあらわれていた。かれらは高度な
瞑想技術を持っており、瞑想によって得られた体験から、様々な思想哲学を生み出し、業、
輪廻、
宿命、
解脱、
認識論などの思想が体系化されていった。この中に業の思想も含まれていた。
ヴェーダの宗教[編集]
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業は
インドにおいて、古い時代から重要視された。
ヴェーダ時代から
ウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。
善をなすものは善生をうけ、悪をなすものは悪生をうくべし。浄行によって浄たるべく。汚れたる行によって、汚れをうくべし
善人は天国に至って妙楽をうくれども、悪人は奈落に到って諸の苦患をうく。死後、霊魂は秤にかけられ、善悪の業をはかられ、それに応じて賞罰せられる
— 『百道梵書』 (Śatapathā-brāhmana)
あたかも金細工人が一つの黄金の小部分を資料とし、さらに新しくかつ美しい他の形像を造るように、この我も身体と無明とを脱して、新しく美しい他の形像を造る。それは、あるいは祖先であり、あるいは乾闥婆(けんだつば)であり、あるいは諸神であり、生生であり、梵天であり、もしくは他の有情である。……人は言動するによって、いろいろの地位をうる。そのように言動によって未来の生をうる。まことに善業の人は善となり、悪業の人は悪となり、福業によって福人となり、罪業によって罪人となる。故に、世の人はいう。人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する。その業にしたがって、その相応する結果がある
— 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』
インドでは業は輪廻
転生の思想とセットとして展開する。この輪廻と密着する業の思想は、
因果論として
決定論や
宿命論のような立場で理解される。それによって人々は強く業説に反発し、決定的な厭世の圧力からのがれようとした。それが釈迦と同時代の哲学者として知られた
六師外道と仏教側に呼ばれる人々であった。
ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとして無因無業の主張をなし、また他の人は霊魂と肉体とを別であるとし、しかも両者ともに永遠不滅の実在と考え、そのような立場から、造るものも、造られるものもないと、全く業を認めないと主張した。
なおバラモン教における輪廻思想の発生を、従来考えられているよりも後の時代であるとする見解もある。例えば
上座仏教では、釈迦在世時に存在したバラモン経典を、三つのヴェーダまでしか認めておらず
[注釈 2]、釈迦以前のバラモン教に輪廻思想は存在しなかったとする。もちろん、当時の自由思想家たちが輪廻思想を説いていたことは明白であるが、彼らはバラモン教徒ではなかったことに注意すべきである。
ジャイナ教[編集]
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業は果報(報い、果熟)を生じる
因となるので、業のことを
業因や
因業ともいう
[注釈 3]。
業による報いを
業果や
業報という。業によって報いを受けることを
業感といい、業による
苦である報いを
業苦という
[注釈 4]。
過去世に造った業を
宿業または
前業といい、宿業による災いを
業厄という。宿業による脱れることのできない重い
病気を
業病という。自分の造った業の報いは自分が受けなければならないことを
自業自得という。
Kammasakkā māṇava, sattā kammadāyādā kammayoni kammabandhu kammapaṭisaraṇā. Kammaṃ satte vibhajati yadidaṃ hīnappaṇītatāyāti.
青年(スバ)よ、
衆生は、業を自分のものとし、業を相続し、業を胎とし、業を親族とし、業をよりどころとする。業が衆生を分類し、優劣をつける
[10]。
- 自分のもの(kammasakkā)- 死によって失われるものではなく、来世についてくる所有物[10]。
- 相続する(kammadāyādā)- 身・口・意の三業から引き継がれる[10]。
- 生まれる(kammayoni)- 生命を生み出すのは、自ら行った行為からで、すべて業より生まれる[10]。
- 切り離せない(kammabandhu)- 生命は業との繋がりを切ることはできない[10]。
- よりどころとする(kammapaṭisaraṇā)- 生命のよりどころである[10]。
- 優劣をつける(Kammaṃ satte vibhajati yadidaṃ hīnappaṇītatāyāti) - 生命に優劣をつける要素の一つである[10]。
仏教における業は、様々に分類される。
業は一般に、
身・
口(もしくは
語)・
意の
三業に分けられる。
- 身業(梵: kāya-karman、カーヤ・カルマン) - 身体に関わる行為。身体的行為。説一切有部においては、身業とは、その行為・動作をする瞬間瞬間に身体が示す形状であるとする。たとえば、人を打つという行為は、映画のフィルムの1こま1こまの画面の変化のように、こぶしを振り上げてそれを相手の頭上に振り下ろすという過程の瞬間瞬間に、身体の形状が少しずつ変化していくことによって完遂される。その各瞬間の身体の形状、すなわち色法(眼識の対象)こそが身業であるとする。なお、十悪業は身・口・意の三業に分類され、身の三業は殺生・偸盗(盗み)・邪淫(不倫、道に外れた性行為[14])となる。
- 口業(梵: vāk-karman、ヴァーク・カルマン) - 言語に関わる行為。言語表現。語業(梵: vāk-karman、ヴァーク・カルマン)ともいう。説一切有部においては、一瞬一瞬に発音される声音の積み重なりが言語をなすのだから、声法(耳識の対象)こそが口業であるとする。なお、十悪業が分類される口の四業は妄語(嘘をつく)・両舌(二枚舌を使う)・悪口(悪口を言う)・綺語(無益なおしゃべり)となる。
- 意業(梵: manas-karman、マナス・カルマン) - 意志に関わる行為。心意作用。十悪業が分類される意の三業は貪欲(貪り)・瞋恚(怒り)・愚痴(愚かさ)となる。
阿含経では、行為が行われる場合は、①第一段階:
思(意志の発動)の心作用、②第二段階:実際の行為(身業・口業・意業)があるとしている。ここでは、(第二段階の意業だけでなく)、第一段階の思をも業のなかに含めて理解している。そればかりでなく、第一段階こそが業の本質的なものだとして重要視している。 一方、
説一切有部では、①第一段階を意業(=後述の思業)とし、②第二段階は身業・口業のみ(=後述の思已業)とした。 なお、
経量部や
大乗仏教は、三業すべての本体を思(意志)であるとする。
思業と思已業[編集]
業は、意志の活動である
思業と、思業が終わってからなされる
思已業との2つに分けられる。思業は
意業であり、思已業は
身業と
語業である。
表業と無表業[編集]
説一切有部は、身業と語業には
表と
無表(
梵:
avijñapti、アヴィジュニャプティ)とがあるとし、これらは
表業(
梵:
vijñapti-karman、ヴィジュニャプティ・カルマン)と
無表業(
梵:
avijñapti-karman、アヴィジュニャプティ・カルマン)ともいわれる。表業は、「知らしめる行為」、外に表現されて他人に示すことができるもの、行為者の外面に現われ他から認知されるような行為を意味する。無表業は、他人に示すことのできないもの、善悪の業によって発得される悪と善を防止する功能(習性)、行為者の内面に潜み他から認知されないような行為を意味する。また、無表業は
無表色(むひょうしき、
梵:
avijñapti-rūpa)ともいう。
阿毘達磨倶舎論において、業を起こした時の心が
善心ならそれと異なる
不善あるいは
無記の心を
乱心といい、業を起こした時の心が
不善心ならそれと異なる
善あるいは
無記の心を
乱心という。また、
無想定や
滅尽定に入って心の生起が全くなくなった状態を
無心という。この上で無表色は、
阿毘達磨倶舎論 の分別界品第一においては、これらの「乱心と無心等(この2つに
不乱心および
有心を含めた4つを
四心という。著者の
世親はこれによって全ての心の状態を示し得たと考えている。)の者にも
随流(
法が連続生起して絶えない流れをなすこと。なお、随流は
相続(
梵:
pravāha)ともいう。)であって、浄や不浄にして、大種(
四大種)によってあるもの」と定義されている。分別界品第一の定義は
四分随流ともいう。なお、無表色は
四大種の所造であるが
極微の所成ではない。また、
法処、
法界に属しながら
色法であり、
五根の対象とはならず、ただ
意根の対象である。
無表業とは、説一切有部の伝統的解釈によれば「悪もしくは善の行為を妨げる習性」で、具体的には律儀、不律儀、非律儀不律儀の三種であり(これは
阿毘達磨倶舎論の分別業品第四の所説であり、この所説が無表業全体を解明しているという考え方がある 。)、いわゆる「戒体」と同じものである。 また、無表色は身無表と語無表の二種に分けられ、殺生、偸盗、邪淫の三つの身業と妄語、綺語、離間語、悪口の四つの語業を合わせた七支に関わるものである。明治大正期より、近代仏教学者によって経部の種子説との混同や、大乗仏教の立場から有部の無表業を誤謬として規定したり、「仏教元来の無表」を想定することによって、無表色を「業の結果を生ぜしめるもの」とする理解が流行したが、文献学的に論証されたものではなく、根拠に乏しい。
身表と身無表、語表と語無表の四つに
意業を加えて
五業という。
引業と満業[編集]
総体としての一生の果報を引く業を
引業(牽引業、総報業、引因とも)という。これは
人間界とか
畜生界などに生まれさせる強い力のある業のことを指す。他方、人間界などに生まれたものに対して個々の区別を与えて
個体を完成させる業を
満業という。引業と満業の2つを
総別二業という。
共業と不共業[編集]
山河大地(
器世間)のような、多くの
生物に共通する果報をひきおこす業を
共業(ぐうごう)といい、個々の生物に固有な果報をひきおこす業を
不共業(ふぐうごう)という。
無著「大乗阿毘達磨集論」においては、共業による影響は、これを結果に対する増上縁 (adhipati-pratyaya) と考え、直接的な結果、すなわち異熟 (vipāka) とは考えない
[32]。
三性業[編集]
善心によって起こる善業(安穏業)と、悪心によって起こる不善業(悪業、不安穏業とも)と、善悪のいずれでもない無記心によって起こる無記業の3つがあり、この3つを三性業という。
三時業[編集]
業によって果報を受ける時期に異なりがあるので、業を下記の3つに分ける。この3つを三時業という。三時業の各々は、この世で造った業の報いを受ける時期がそれぞれ異なる。
- 順現業(順現法受業、じゅんげんぽうじゅごう[要出典]、dṛṣṭadharma-vedanīya-karman[33]) - この世で造った業の報いを、この世で受ける。
- 順生業(順次生受業、じゅんじしょうじゅごう[要出典]、upapadya-vedanīya-karman[34]) - この世で造った業の報いを、次に生まれかわった世で受ける。
- 順後業(順後次受業、じゅんごじじゅごう[要出典]、aparaparyāya-vedanīya-karman[35]) - この世で造った業の報いを、次の来世より先の世で受ける。
三時業は報いを受ける時期が定まっているので
定業といい、報いを受ける時期が定まらないものを
不定業(順不定業、
梵:
aniyata-karman)という。三時業に不定業を加えて
四業という。
業因と業果との関係[編集]
善悪の業を造ると、それによって
楽や
苦の報い(果報、果熟)が生じることを、業因によって業果が生じるという
[注釈 5]。この業因と業果との関係について諸説がある。
Yādisaṃ vapate bījaṃ tādisaṃ harate phalaṃ, Kalyāṇakārī kalyāṇaṃ pāpakārī ca pāpakaṃ,
人が持ち去る作物は自分が蒔いた種によるものです。
そのように善行為をした人は善果を、悪行為をした人は悪果を得るのです。
説一切有部は、業そのものは
三世に
実在するとし、業が現在あるときにはそれが
因となっていかなる未来の果を引くかが決定し、業が過去に落ちていってから果に力を与えて果を現在に引き出すとする。
経量部は、業は瞬間に滅び去るとするが、その業は果を生じる
種子(しゅうじ)を
識の上にうえつけ、その種子が果をひきおこすことになるとする。
業がそこにおいてはたらくよりどころとなるもの、あるいは、
有情を苦楽の果報に導く通路となるものを
業道という
[注釈 6]。業道には十善業道と十悪業道の2つがある。
仏典や宗派ごとの扱い[編集]
パーリ経典[編集]
Katamā ca bhikkhave, micchādiṭṭhi: natthi dinnaṃ, natthi yiṭṭhaṃ, natthi hutaṃ, natthi sukaṭadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, .... Ayaṃ bhikkhave, micchādiṭṭhi.
比丘たちよ。
邪見とは何か。
布施〔の果報〕はなく、供犠〔の果報〕はなく、献供〔の果報〕はない。善悪の業に果報はない。.... 比丘たちよ、これが邪見である。
— パーリ仏典, 中部大四十経, Sri Lanka Tripitaka Project
阿毘達磨[編集]
『総合仏教大辞典(1988)』によれば、
阿毘達磨では[どこ?]、
十二支縁起の第十支の「有」は業を意味するものと解釈されている。これを
業有という。
浄土教[編集]
西洋では、ドイツの思想家
ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729年 - 1781年)の時代から、生の繰り返しによる学びを通した個人の段階的な完成として、東洋よりはるかに楽観的な
転生思想が唱えられてきた。
心霊主義[編集]
フランス人
アラン・カルデック19世紀に創始した
心霊主義のキリスト教
スピリティズム(カルデシズム)では、転生が信じられており、神から与えられた自由意思によって、転生する間に過ちを起こしてカルマを形成し、この負債であるカルマによって、その人に災いが起こると考えられた
[40][41]。人間の苦しみの原因は自らが過去生で蓄積した負債であり、地上の生はこの負債の返済のためにある
[40]。また人生の苦しみは神の恩寵でもあり、苦しみを通じて負債が軽減されることは神の期待に沿うことであり、苦しみを乗り越えることは大きな栄光であると考えられている
[40]。スピリティズムにおいて、自由意思は負債の原因であると同時に救いを可能にするものであり、個人が救済されるか否かは全て個人の自由意思次第であり、救いは慈善活動、他者救済のみによって可能となる
[40]。
エドガー・ケイシー(後述)と同時代には、心霊主義の霊媒
モーリス・バーバネルがおり、彼に
憑依した霊であるという「シルバー・バーチ」という人格によると、転生とは償いや罰が問題ではなく、進化のためにあり、「業という借金」は「教訓を学ぶための大切な手段」であるとされ、懲罰的な意味合いは中心から外されているか、完全になくなっている。
神智学[編集]
19世紀に近代
神智学を創始したロシア人オカルティストの
ヘレナ・P・ブラヴァツキーは、身体的な進化のベースに霊的な進化があると主張し、人間は転生の繰り返しを通して神性の輝きに向かって進化するもので、連続する生はカルマの法則によって統括されていると考えた。
ニューエイジ[編集]
近代
神智学から直接生まれ変わりの思想を受け継いだ
ニューエイジでは、転生やカルマが信じられている。津城寛文によると、ニューエイジを一般に広めた女優の
シャーリー・マクレーンなどの「スピリチュアルな」重要人物たちは、心霊診断家の
エドガー・ケイシーを最大の権威として参照しており、ケイシーは現代アメリカの転生思想に最も大きな影響がある。催眠状態のケイシーが語る「リーディング」で伝えた原則的な教訓は、「蒔いたものは刈り取らねばならない」という新約聖書の言葉を標語にするもので、死後も存在が続くと意識することによって生じる内面の正義を目的とする倫理である。リーディングでは、カルマという用語で説明された。ヒンドゥー教から用語を借りつつも、キリスト教内部に元々あった教えであることが暗に示されている。ケイシーの教えには、カルマを活用することで生まれ変わりの機会を改善するという志向がある。リーディングには、割り当てられた問題を今生で解決し、もう地球に転生しないかもしれないというごく少数の事例もあり、彼らは死後より高次の惑星に移行するとされている。ケイシーは
アトランティス大陸滅亡を歴史的事実として語り、その時のカルマにより現代社会の滅亡が近いという
終末論を唱えた
[47]。
ニューエイジの「カルマの法則」は、原因と結果に関する宇宙の法則、互いに結びつき道徳的な均衡へと向かう宇宙の傾向の一部であり、しばしば道徳的な意味で宇宙の進化と同じと考えられた。悪や苦しみは幻影であるとされ、カルマは悪や苦しみとは無関係の概念になっている。今の人生の課題は前世のカルマによって決められているという考え方は、生きる指針を見失い喪失感に苦しむ現代アメリカ人たちから、広い支持を得た
[48]。
- ^ 原語の karman は、サンスクリットの動詞語根「クリ」(√kṛ)、為す) より派生した[1]。羯磨(かつま)と音写する。
- ^ 原始仏典である阿含経典(二カーヤ)において、ウパニシャッドは言及すらされておらず、まったく存在していなかったと考えるからである[要出典]。登場するヴェーダも三つまでである[要出典]。
- ^ ただし、業因には、煩悩などの「業を起こさせる原因」という意味もあり、因業には「因と業」すなわち「主因と助縁」という意味もある。
- ^ 業とその苦である報いのことを業苦という場合もある。
- ^ 非善非悪の無記業は業果を引く力がない。
- ^ 経量部や大乗仏教では、身・語を動初(どうほつ)する思(意志)の種子(しゅうじ)のことを指して業道という場合もある。
参考文献[編集]
関連項目[編集]