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2021/10/14

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

カスタマーレビュー
5つ星のうち4.3
星5つ中の4.3
87 件のグローバル評価

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
井筒 俊彦
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上位の肯定的レビュー
すべての肯定的なレビュー›
ワンダー
5つ星のうち4.0初心者には、お薦めしません
2019年7月26日に日本でレビュー済み
自戒を込めて、断言します。
哲学の世界にあまり詳しくない方は、本書を読むと、おそらく挫折感を味わいます。

文体はさほど難しくないですが、古今東西の哲学、宗教、文芸などを含め、縦横無尽に、いや「共時的」に井筒ワールドが展開されています。
しかし、ひとつひとつが深すぎて、生半可では、読みこなせません。

とはいえ、サルトルの「嘔吐」体験や、本居宣長や芭蕉の句など、断片的にではありますが、感性的に理解できる箇所も少なくありません。

井筒ワールドのあらましを知りたければ、まずは、若松英輔の「井筒俊彦 叡智の哲学」(慶応大学出版会)からはいるのがよろしいかと思います。
「意識と本質」についても1章がさかれ、そこで若松氏は、井筒にとっての「意識」とは、自分の外へ滑り出すこと(「脱自」)であり、「外」で「意識」を待ち構えているのは、「本質」である。脱自と同時に「神充」が起こる。と紹介している。これは観念論ではなく、井筒の個人的体験にも根ざしているとか。

「意識と本質」は、1回読んだ(眺めた?)だけでは、私のような浅学の徒には理解できなかったため。現在は、★4つだが、何年か後には、★5つになっていることを期待したい。
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73人のお客様がこれが役に立ったと考えています
上位の批判的レビュー
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hikaru
5つ星のうち2.0神秘主義は宗教にあらず
2020年1月30日に日本でレビュー済み
 井筒俊彦を宗教や哲学の研究者と言ったらその道の専門家は同意しないだろう。本書を始め井筒の言説はテキストの解説、論考ではなく、古典的テキストを語る形で井筒自身の思想が展開されるからだ。
 『意識と本質』は慶応義塾大学出版会の全集第6巻に所載されている。その付録月報で三浦雅士が「井筒は読者を選ぶ」として次のように言っている。「宗教家、思想家、学者と、言及する人名が広範すぎて、関連が今一つよく分からない。井筒だけが理解しているように見えてしまう。そこで、分かる者には分かるだろうの世界は勘弁してほしいと思わせてしまう」と。そして井筒を「文芸批評の先達」と言っている。なるほど文芸批評なら理解できる。
 本書でも宋代儒教、中世イスラム哲学、仏教、現象学、ユング心理学、果てはカッバーラや密教曼荼羅が引用され、彼の思想たる脱自体験、向上道と向下道が語られている。その思想自体は興味深いが、これを宗教や哲学と言う事はできないだろう。つまり宗教が宗教たる苦からの救済や哲学に必須の倫理的視点がまるで無いからだ。歴史的に宗教や哲学に求められて来た実存的な問題への応答ではなく、それらを超越した神秘主義に徹している所に井筒の真骨頂があるとも言えるだろう。
 宗教や哲学に神秘主義があるとしても歴史的には異端視されて来た。それが何故かも考える必要があるし、神秘主義を旨とする宗教、例えば中世イスラムのイスマイル暗殺団、現代のアルカイダ、IS、オウム真理教等が過激かつ執拗な殺人を行う事実も直視しなければならない。神秘主義には構造的な問題があると言わざるを得ない。
 その意味で本書を読む際には注意が必要だし、間違っても本書を読んだだけでここに引用されている古典文献が理解できたとは思ってはならない。
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16人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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日本から
ワンダー
5つ星のうち4.0 初心者には、お薦めしません
2019年7月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自戒を込めて、断言します。
哲学の世界にあまり詳しくない方は、本書を読むと、おそらく挫折感を味わいます。

文体はさほど難しくないですが、古今東西の哲学、宗教、文芸などを含め、縦横無尽に、いや「共時的」に井筒ワールドが展開されています。
しかし、ひとつひとつが深すぎて、生半可では、読みこなせません。

とはいえ、サルトルの「嘔吐」体験や、本居宣長や芭蕉の句など、断片的にではありますが、感性的に理解できる箇所も少なくありません。

井筒ワールドのあらましを知りたければ、まずは、若松英輔の「井筒俊彦 叡智の哲学」(慶応大学出版会)からはいるのがよろしいかと思います。
「意識と本質」についても1章がさかれ、そこで若松氏は、井筒にとっての「意識」とは、自分の外へ滑り出すこと(「脱自」)であり、「外」で「意識」を待ち構えているのは、「本質」である。脱自と同時に「神充」が起こる。と紹介している。これは観念論ではなく、井筒の個人的体験にも根ざしているとか。

「意識と本質」は、1回読んだ(眺めた?)だけでは、私のような浅学の徒には理解できなかったため。現在は、★4つだが、何年か後には、★5つになっていることを期待したい。
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hikaru
5つ星のうち2.0 神秘主義は宗教にあらず
2020年1月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
 井筒俊彦を宗教や哲学の研究者と言ったらその道の専門家は同意しないだろう。本書を始め井筒の言説はテキストの解説、論考ではなく、古典的テキストを語る形で井筒自身の思想が展開されるからだ。
 『意識と本質』は慶応義塾大学出版会の全集第6巻に所載されている。その付録月報で三浦雅士が「井筒は読者を選ぶ」として次のように言っている。「宗教家、思想家、学者と、言及する人名が広範すぎて、関連が今一つよく分からない。井筒だけが理解しているように見えてしまう。そこで、分かる者には分かるだろうの世界は勘弁してほしいと思わせてしまう」と。そして井筒を「文芸批評の先達」と言っている。なるほど文芸批評なら理解できる。
 本書でも宋代儒教、中世イスラム哲学、仏教、現象学、ユング心理学、果てはカッバーラや密教曼荼羅が引用され、彼の思想たる脱自体験、向上道と向下道が語られている。その思想自体は興味深いが、これを宗教や哲学と言う事はできないだろう。つまり宗教が宗教たる苦からの救済や哲学に必須の倫理的視点がまるで無いからだ。歴史的に宗教や哲学に求められて来た実存的な問題への応答ではなく、それらを超越した神秘主義に徹している所に井筒の真骨頂があるとも言えるだろう。
 宗教や哲学に神秘主義があるとしても歴史的には異端視されて来た。それが何故かも考える必要があるし、神秘主義を旨とする宗教、例えば中世イスラムのイスマイル暗殺団、現代のアルカイダ、IS、オウム真理教等が過激かつ執拗な殺人を行う事実も直視しなければならない。神秘主義には構造的な問題があると言わざるを得ない。
 その意味で本書を読む際には注意が必要だし、間違っても本書を読んだだけでここに引用されている古典文献が理解できたとは思ってはならない。
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Masahiko-
5つ星のうち5.0 禅の入門書としても
2018年6月14日に日本でレビュー済み
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イスラーム哲学全般に関する記述は本質を簡潔に表しており、とても勉強になりました。そして、禅についての表記が多いのですが、ここもとても素晴らしかった。サルトルの嘔吐から、禅における物事の本質を演繹していく内容は白眉といえるでしょう。禅の入門書はいろいろありますが、公案などの説明を読んで理解はしても、納得まで至らないものが多かったですが、禅の本質について、著者の説明を読んで初めて納得できたと思います。目を開いてくれた大切な一冊です。
26人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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Y.K.
5つ星のうち5.0 知的好奇心
2020年3月9日に日本でレビュー済み
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難解な書物でした。しかし知的な刺激が非常に強く、充実した読書になった。
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都井正剛
5つ星のうち4.0 精神の深さ
2020年2月17日に日本でレビュー済み
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言語的アラヤ識の本質に触れた気がする
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埜歩人
5つ星のうち5.0 禅の入門書でもあるかもしれない
2015年3月25日に日本でレビュー済み
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本の表題に違わない東洋哲学思想全般の明晰な論述内容。ことに不立文字といわれる禅の無心をこれほど分かり易く言語で分析解説してくれる本はないと思われます。
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ポリ銀
5つ星のうち5.0 卒論のテーマにした思い出の書
2008年12月9日に日本でレビュー済み
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この本と出会ったのは今から15年くらい前のことでした。大学の哲学科で東洋哲学を勉強していた僕は、知人の紹介でこの本を知りました。

東洋哲学といえば訓詁学とか経学みたいな、講釈や説教めいたものを想像しがちだったので、この本を読んだ時の衝撃はすごかったです。当時流行していた、深層心理学などで使われる無意識の構造や、言語の発生源みたいな話が出てきて、急に東洋哲学が斬新なものに見えてきました。夢中になって何度も繰り返し読んだことを覚えています。

井筒さんにはもう少し長生きしてほしかったです。東洋哲学の共時的構造化というものが、いかなる姿をしているのかその輪郭だけでも見てみたかったです。本書ではほんのさわりというか、共時的構造化序論というものであることが述べられていますが、序論ですらこの深みをもつ思索に畏敬の念を禁じえません。日本人にも、すばらしい哲学者が存在したことを知っただけでも良かったと思います。
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ごびらっふ
5つ星のうち5.0 遠藤周作氏も推薦
2003年6月8日に日本でレビュー済み
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かなり前になりますが毎日新聞の、確か「わたしの3冊」という文庫本紹介コーナーで遠藤周作さんがこの本を取り上げていました。慶応の学生だった遠藤さんは一度も井筒先生の授業に出席したことがなく、後になってきちんと授業に出ていれば良かったと後悔した、そんな話だったように記憶しています(遠藤さんは井筒先生と対談もしておられたと思います)。ちなみに書評の中で遠藤さんはこの本を「小説家を志す人には必ず読んでほしい本」と言っていたように思います(記憶違いがあったらスミマセン)。
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TT生
5つ星のうち3.0 著者を尊敬して買いました。
2018年4月25日に日本でレビュー済み
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読んだけれども、眺めただけに終わってしまったかと思われる。いずれ再読したい。
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S
5つ星のうち5.0 表層と深層の両意識にまたがって東洋思想の体系化を試みた名著
2013年7月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
 東洋思想を深層意識レベルで深く読み解いた上で、現代人向けに体系化した解説書がここにあったのかと、一読して感嘆しました。噂に違わぬ名著でした。

 東洋思想は、深層意識で観想しながら構築されたものが多いためか、表層意識のみに頼って日常を送る一般現代人には、難解に感じやすく、納得できる解説書は、ありそうでなかなか見あたりません。

 しかし、著者は幼少期から禅に親しんでおられたとのことで、おそらく深層意識の相当深いレベルに達しながら、文献を深奥まで解読しつくされたのでしょう。各々の東洋思想のその真髄を、切れ味鋭い論理性で、さらりと解き明かしてくれます。

 本書の主題は、意識のあり方と言葉の意味分節機能に着目しながら、我々が自明のこととしている事物の本質性が、実際に実在するのか、それともしないのかという観点で、極東から中近東までの様々な東洋思想を整理・類型化し、概観するものです。

 日本人に馴染みの深い禅を初めとする大乗仏教や、老荘・孔子の思想、インドのヴェーダーンタ、イスラム哲学、ユダヤのカバラ、ユングの元型論に至るまで、論説の筆先は縦横無尽に駆けめぐり、奥深いその姿が鮮やかに顕現します。

 既読の文献の一節が、深層意識に裏打ちされた著者の端的な解説により、思いもかけなかった形で面前に提示されて、これまでの自分の理解がいかに皮相なものだったかと、唸りたくなることが度々でした。

 例えば、
「老子の『常無欲』とは、深層意識の本源的なあり方」、
「易の認める元型『八卦』は、それぞれ独自の方向に顕現可能性を持ったエネルギー体」
「趙州『狗子無仏性』は、犬にも事物を分節して個々別々に見る本性があるので、仏性が無いということ」、
「バカヴァト・ギーターの『純質的』『激質的』『闇質的』は、禅に当てはめた場合『無心』『有心』『執心』として現れてくる」 等々・・・。

 時折挟まれる図説も素晴らしく、ユングの元型論など、それ専門の解説書よりも遙かに構造把握が進みました。

 東洋に生まれた一人として、座右の参考書として今後折にふれ、一生をかけて繰り返し読み込んでいきたい、全く宝物のような一冊です。
 著者がせめてあと十年、長くご存命であったならばと、残念でなりません。

 個々の東洋思想を学ぶ中で、その深みに足を取られてしまった方が、一旦、鳥瞰的に体系を把握されるのにも、本書は最適です。是非一読をお薦めしたいと思います。
74人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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===
Kyle Yingtian
5つ星のうち5.0 日本神道の神々も絶対無分節の存在が創り出した元型イマージュか?
2014年3月5日に日本でレビュー済み
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本書は4つの論文を一冊の本にまとめたものであるが、特に「意識と本質−東洋哲学の共時的構造化」は、頁数でその8割を占めており、本書の中心をなす論文である。イスラム教から老荘思想、密教、禅まで、多様な東洋の宗教には、全体的統一もなければ有機的構造性もないように見受けられるが、歴史的な聯関から引き離して、時代を越えた視点で構造化し直すという「共時的構造化の分析手法」を用いれば、東洋哲学の構造化・体系化が図れるのではないかという極めて野心的な取り組みがそこにはある。しかも、東洋哲学の領域だけに閉じこもるのではなく、著者の西洋哲学での長年に亘る研究成果があって、両者に共通する「本質論」を基軸に存在物の本質を極めるという研究姿勢が見られる。
東洋哲学の大きな特徴として、「本質概念」は「言語の意味機能」と「人間意識の階層的構造」と聯関していると著者は言う。言語の意味機能を用いて存在物の本質を見極めるというプロセスは人間意識の表層で始まるが、そのプロセスを通して深層意識に入り込み、絶対無分節の存在(老子的にいうならば、「無」あるいは「道」であって、存在のゼロ・ポイントにあるもの)を見ることができるとされる。さらに、その無分節の存在が「無」から「有」に転換して、密教で言うところの大日如来の如きものあるいは易の太極のようなものが出現し、言語アラヤ識が無意識に働いて、再分節化のプロセスが始まって、様々な存在本質が出現するとされる。前段の表層意識下のプロセスと後段の深層意識下のプロセスのいずれでも分節化された存在が見られるが、前段のプロセスで見られる日常現象界の存在と、無分節化した存在が再分節化した後段プロセスの存在とは、まったく異質なものであるとされる。
本書を読んで、私が大いに興味を持ったのは、深層意識レベルにある言語アラヤ識という機関によって生み出される心象(イマージュ)と呼ばれる異形の怪物たちである。イマージュは表層意識にもあるが、表層意識のイマージュは外界に実在する事象に裏打ちされているためにその異常性には気づかない。しかし深層意識にあるイマージュ(元型イマージュ)が時として表層意識に出現すると異常現象として覚知され問題を引き起こすが、有能なシャマンの手にかかれば、哲学的世界観まで展開することができるという。その代表例が老荘思想であり、シンボライズされた易の卦であるとされる。さらには空海の金剛界・胎蔵界の両部曼荼羅もイマージュ空間の構造的呈示であると説く。どうも内に創造的エネルギーを秘めた絶対無分節の存在は神以前の神であり、その分節化で神々が誕生するということのようで、言語アラヤ識で生成されるイマージュは、いわゆる「神」と同体のように思えてくる。著者は、日本神道の神々については触れていないが、日本の神々も東洋哲学の構造化の中で例外的なものではないであろう。絶対無分節の唯一絶対神が分節することで様々な神々が生まれ出るというメカニズムで、東洋の国々に見られる多様な多神が創出されたのではなかろうかと。
本書290頁に書かれている以下の文章は、中国文化に根ざす神々の誕生プロセスを的確に表現したもので、とても印象的である。
「神はその存在原点から、左右に対極的エネルギー(陰陽)を流出させ、そうすることによって神として自己顕現する」。
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佐々木和也
5つ星のうち5.0 読みやすく、深い1冊
2014年2月24日に日本でレビュー済み
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知人に勧められて読みました。
内容のわりに、文体がわかりやすく、著者の、伝えたいという思いがひしひしと伝わってきます。
岩波の青には、日本語的に読みにくいものが多いですが、こちらの本はとても読みやすかったです。
井筒さんの智慧の深さを感じることができます。
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ちゃこ
5つ星のうち5.0 これほどの究極的内容が驚くほど平易に論述されている奇跡
2012年9月6日に日本でレビュー済み
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物理学であれば、最新の教科書を読めばその到達点が把握されるのに対し、古来、哲学書に有るのは、哲学者個人の主張か、それらの通時的羅列(哲学史)であった。「意識と本質」は、真理を求めた人類の格闘の成果を全体構造へ集結させることに成功した最初の教科書であるのかもしれない。過去の思想家への敬慕を貫きながら、過去の思想はそれぞれ真理の一局面であることが説かれている。これは、個々の思想の価値を貶めるものではなく、それぞれが形成される背景や主題を境界条件として、それぞれが最高の叡智と言ってよいのだろう。思想は個人から生まれるがしかし人類全体の共同成果であるという新たな地平を提供している。「意識と本質」は、物理学で例えれば、各実験・観測データから全データを説明する方程式の導出に相当する。本書では新たな世界観(データ)は提示されていない。提示されているのは、世界観が形成されるメカニズム(方程式)だ。井筒は、「あとがき」で、これは試作品であると言っているが、究極の方程式を提案する物理学者と共通する心情であろう。データの修正や補強について指摘して欲しいと願っているに違いないが、重要なことは、共時的構造化という人びとが求めていた切れ味のよい解法だ。
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yasuji
ベスト100レビュアー
5つ星のうち5.0 本書を芭蕉の俳句論として読む
2019年8月8日に日本でレビュー済み
 本書『意識と本質』は、東洋思想の「共時的構造化」を試みた井筒俊彦(1914-1993)の代表的著作とされるが、その思想を理解するには到底力が及ばないので、井筒が芭蕉をどう評価していたかだけをメモしておきたい。
 それでも「本質」という言葉の使い方が、私の認識とは違っているので、その点はおさえておきたい。ジョン・ロックは、唯名的本質と実在的本質という区別を行いました。唯名的本質とは外面的で観察可能な性質であり、我々は通常それを認識することになります。実在的本質とは、ものの根底にある本質で、それこそが真のあり方なのですが、通常は隠れていて認識できません。ところが科学の進歩のおかげで、実在的本質の知識が得られるようになり、科学技術とはこの実在的本質を発見し、隠れていた性質を解き放ち、それを利用することにほかならないと考えられます。

 井筒も「本質」を二つに区別します。普遍的本質と個体的本質です(p.39)。普遍的本質はロックの唯名的本質と同じでしょう。ロックの実在的本質は科学技術のおかげで隠れていることはできなくなり、客観的認識が可能となります。そして、分節化されて我々の言語体系に概念として組み込まれ、唯名的本質(普遍的本質)に変換されます。ですから、井筒の本質は、普遍的本質(ロックの唯名的本質と実在的本質)と個体的本質ということになります。
 イスラーム哲学では常識的にこの二つの本質を認めています。マーヒーヤ(普遍的本質)とフウィーヤ(個体的本質)です(p.40)。そして、どちらを重視するかで正反対の方向が生まれます。

 芭蕉以前の和歌は、言葉の普遍的本質でつくられ、様々な規則があり、それを守らなければ歌として認められなかった。歌ばかりでなく、孔子の正名論や宋代の儒学も普遍的本質で思想が展開されたので整合的ですっきりした理論になった(p.56)。
 一般に詩人、特にリルケにおいては個体的本質が重視され、普遍的本質が徹底的に排除されます。Xが花であるという形で意識されるとき、XはもはやXという個物ではなくなるからです(p.51)。意識の深層領域に開示される個体的本質を、本来言語化できないのに言語化しなければならないのが詩人なのです(p.52)。
 しかし芭蕉は、逆に普遍的本質から個体的本質への転換を問題としたのです(p.57)。芭蕉は「本情」、つまり事物の存在深層に隠れた普遍的本質を対象とした。「本情」は言語を操る表層意識では捉えることができない。捉えるには意識の変質が起こらなければならない。「私意をはなれる」こと、さらに「をのが心をせめて、物の実(まこと)しる事」の修練が求められるのです。これを「風雅の誠」と呼びました。「風雅に情(こころ)ある人」に、「本情」がちらりと光る。これを「物の見えたる光」という。「物に入りて、その微(び)の顕(あら)われ」るともいっています。「物に入る」とは、何々を対象とする意識ではなくなることをいいます。この時、普遍的本質から個体的本質へと対象が転換するのです。

 桑原武夫(1904-1988)は、フランス思想等の研究に深い造詣を示した人でしたが、俳句をなじった第二芸術論でも有名になった人でした。第二芸術とは、今でいえば大衆芸術ということでしょう。桑原は作者名を伏せたうえで、大家の作品と無名の作者のものを混ぜた15の俳句の優劣を問う実験を行ったが、大家と素人の区別をつけることができなかった。これらの事実をもって俳句は二流の芸術としたのです。
 一方井筒の芭蕉論は「風雅の誠」を作者に求めるのですが、当然鑑賞する側にも表層意識から離れることを求めるので、俳句の優劣の判断が違ってきます。ですから、句会などで誰の選なのかが重要になります。表層的意識だけで作った句は、説明の句といわれて評価が低くなります。「物の光」を見るのも鑑賞する側の責任が大きいのです。

 本書『意識と本質』は以後、「本質」の種類とそれを捉える「意識」の種類の組み合わせで、東洋哲学を説くことになります。
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koreyashiro
5つ星のうち5.0 地球上のすべての哲学を鳥瞰している人
2019年10月13日に日本でレビュー済み
ある哲学がどんな内容を語っているのか、
原典を読んでも皆目分からないことが多いと思います。

しかし井筒氏は、特定の哲学が地球上でどんな意義を
持っているのかが たちどころに分かってしまい、
その内容を様々な角度から懇切丁寧に
教えて下さいます。

西洋哲学、東洋哲学、日本思想史などを勉強して
自分が専攻している哲学を超える巨視的な見方ができずに
壁に突き当たっている方、井筒先生の本を読みましょう。

自分が勉強している哲学が、どこに位置づけられるのかが
分かります。
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vivekatrek
VINEメンバー
5つ星のうち4.0 時期尚早だったが故の砂上の楼閣
2013年6月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書の開口一番、<人間知性の正しい行使、厳密な思考の展開、事物の誤りない認識のために、「定義」の絶対的必要性をソクラテスが情熱をもって強調して以来、思惟対象あるいは認識対象の「本質」を究めるということが西洋哲学伝統の主流の一部となって現在に至った。(p.3)>とある。

井筒氏は、アジア文化圏〔ギリシャを含む近東・中東・極東〕の哲学的思惟〔意識の本質〕を「共時的構造化」の視点で浮き彫りにするために、様々な「定義」を縦横に駆使する。

ただ残念なのは、井筒氏が生存した1993年までには、ブッダ釈尊の教法の真義〔凡夫が聖者になり、聖者が釈尊と同等のブッダになること〕は解明されておらず、それゆえに釈尊仏教を再興した龍樹の勝義諦・世俗諦も正しく理解されていなかった。従って、本書で井筒氏が用いた仏教用語の「定義」は、伝統仏教の曖昧な解釈のままであり、哲学的思惟を解明する「定義」としては不十分なのである。

そこで、現時点で明確になった釈尊の教法の真義に基づいて、本書の冒頭部分における井筒氏の論理思考を検証してみようと思う。
【井筒氏の論理思考】
サルトルが<意識には内部なるものはない。意識は己自身の外以外の何ものでもない。>(p.6)と断じたのは、<言葉の意味作用とは、本来的には全然分節の無い「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」に色々な符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示する>(p.8)からであり、それは<言語によって無分節の「存在」が分節されて、存在者の世界が経験的に成立する。>(p.9)ためである。

【私の所感】
しかし、<言語によって無分節の「存在」が分節される(p.9)>という表現は、少しおかしい。例として赤ん坊やペットで飼っている犬を想定しよう。彼らは、様々な対象物を識別し、好悪の感情を抱くが、それらの対象を表現する言葉は存在しない。赤ん坊は「あー」とか「うー」という声を出し、犬は「ワン」と吠えたり「ウー」と唸ることで、対象物への志向の意志を表現する。つまり、言語が分節を可能にするのではなく、言語が無くても分節は起こる、と考えなければならない。すでに分節があるから、<言語以前から言語以降へ>や<「無名」から「有名」へ>という転換が起こるのであり、その分節が「本質」となって出現するのである。井筒氏が、<Xが一定の名を得ることによって、一定のものとして固定され凝固する(p.10)>という時の「X」こそが分節なのである。
そして、「本質」⊃「分節」⊃「言葉」という包含関係が成立すると思われる。

【井筒氏の論理】
井筒氏は、<しかしサルトルにおいては、深層意識の次元に身を据えてはいない。だから、絶対無分節の「存在」の前に突然立たされて、彼は狼狽する。>(p.11)と言い、<仏教的表現を使って言うなら、世俗諦的意識の働きに慣れ、世俗諦的立場に身を置き、世俗諦的にしかものを見ることのできない人は、たまたま勝義諦的事態に触れることがあっても、そこにただ何か得体の知れない、ぶよぶよとした、淫らな裸の塊りしか見ないのである。>と述べる。

【私の所感】
さて、「分節」と「無分節」の定義は、「世俗諦」と「勝義諦」の二諦に基づいて理解すべきであり、その二諦は釈尊の教法の真義に基づかなければ明確にならないのである。
先ず、「世俗諦」とは三界(欲界・色界・無色界)の貪・瞋・痴が存在する世界の法則を表し、それに伴う表面意識・潜在意識・深層意識の三つの意識が存在する。世俗諦の世界は、三界の貪・瞋・痴の法則により時間と空間が生まれ、そこに住むものは時空に制限されるのである。「存在」に「世俗諦」という時空のフィルターをかけると、「分節」が生じるのである。
次に、「勝義諦」とは三界(欲界・色界・無色界)の貪・瞋・痴が消滅した世界の法則を表し、表面意識・潜在意識・深層意識が統合された一つの意識が存在する。勝義諦の世界には、時間と空間が存在しない。「存在」が時空から自由になった「あるがまま」の状態を「無分節」と呼ぶのである。

以上で垣間見えたように、井筒氏が目指した「共時的構造化」を「世俗諦」の世界(我々凡夫が住む世界)で実現するのは不可能であり、時空が消滅した「勝義諦」の世界(阿羅漢の住む世界)では実現する必要もない当たり前の出来事なのである。
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sally_tubaki
5つ星のうち5.0 本質と無本質
2017年9月10日に日本でレビュー済み
購入して5年、3度目の読了でようやく書いてあることが分かった。
井筒俊彦は難解だ、という先入観が邪魔をしていたか、読むべき時期が早かったか。

本書では本質論について、元型的本質は実在すると考えるグノーシスやシャーマニズム、無本質を根本思想に持っている禅などを分かりやすく比較している。

特によく理解できた部分は、禅で言われる「本質などない」ということの意味について。本質はない、というのはともすれば虚無主義にも陥りがちであると思う。しかし禅における空や無は、何もないこととは逆なのだ。

形而上の思索にとどまらず、生きる上で智慧を与えてくれる記述が多く見られる。

具体的には、無分別智に昇る道と、そこから戻って再び現実を生きることについて書かれている。

A→Z→A'

AとA'は、ある人から見れば全く同一だし、ある人から見れば全く別物であるということ。

それは見る人が無分別智を経由しているか否か、ということ。主客融合した後の主客分離。

A'に至ってはじめて融通無碍の境地を得るのだという。

さらに進んで道元を紐解き、A'がA'を見る、ということも書かれているが、ここは分かるようで分からない。

スーフィズムを始めとするイスラム思想はもちろん、カバラや易経の考察まで、文庫本一冊に膨大な情報量である。碩学というのは、こういう人のことを言うのだなと納得する一冊。
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哲郎
5つ星のうち5.0 東洋哲学を分かりやすく
2019年5月24日に日本でレビュー済み
すばらしい名著と思う。
東洋哲学が表層意識に対する深層意識を深く追求していることに目を開かれた。
筆者は、会社勤めの技術者として一生を過ごし、その後にこの本に出合った。
会社の管理といえば、アメリカ流の科学的管理が全盛であり、さらに最近は新自由主義という数字万能の非人間的管理が優勢になっている。それらは、表層意識だけを見ているやせ細った人間観に依っている。
しかし、東洋では(東洋的な深層意識を取り入れたキリスト教でも)、古い時代から一貫して深層意識の究明があったことを知って感激した。
東洋哲学が再び日本の思想土壌に根付くことを願う。
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高崎登
5つ星のうち5.0 若い世代こそ読むべき本
2018年4月23日に日本でレビュー済み
60代後半になって、手にとって読み始めたらひっくり返りそうな衝撃を受けました。こんなに分かりやすく存在論を説明してくれる人はほかにいません。せめて10年早く読みたかった。哲学がなぜあるのか、芸術がなぜあるのか、宗教の大混乱、禅の体験や本だけではとても分からなかったことが快刀乱麻で「分節」されています。欧米二元論に日本的ナショナリズム、歴史を愚かに繰り返すことがないように、これからの世の中に絶対必要な本です。読まなくてもよいからとにかく1冊買っておこう。
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紫陽花
ベスト500レビュアー
5つ星のうち4.0 「太陽を曳く馬」の読書前に是非手に採りたかった優れた論考
2013年11月27日に日本でレビュー済み
表題作の他、「本質直観」、「禅における言語的意味の問題」、「対話と非対話」の全4つの論文を収めた論文集。だが、表題作が全体の3/4を占め、他は関連論文なので、表題作に絞って語っても良いだろう。

簡単に言えば、「本質」というものが、有「本質」であるか無「本質」であるかを考察し、禅を中心とした東洋的哲学の無「本質」に意義を見出すという論考。特に、無「本質」から個々の事物が現出する過程を<分節>論の立場で考察している点が特徴である。その論考は、禅や密教を含む仏教は勿論、西洋哲学、イスラーム哲学、古代インド宗教、孔子の<正名論>、老荘思想、シャーマニズム等の幅広きに及び、著者の該博な知識が十二分に発揮されている。ある種の比較哲学論と言っても良い。著者の論考の主な構造モデルは禅とイスラーム哲学に基づいている。30以上の言語を操ると言われている著者らしく、イスラームの原典に直接当っている様子も良く窺える。

個人的には、孔子と老荘の比較が面白く、特に老荘思想が現代で言う所の"カオス"であるという指摘は興味深かった。また、本書を読んでいて自然と思い出したのは高村薫氏「太陽を曳く馬」である。「太陽を曳く馬」は読む者を圧倒する力作ではあるが、その難解さにタジタジとした方も多いのではないか。本書中の禅論や古代インド宗教論を先に読んでいれば、「太陽を曳く馬」の理解度も高まったと強く感じた。そうした知的基盤を与えてくれる優れた啓蒙書だと思った。
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===
chienasiko
5つ星のうち4.0 超越の学者と卓抜たる編集者のお蔭で・・・
2012年12月4日に日本でレビュー済み
この本の事を思うと、ホメイニー革命当時、人文書院の谷誠二さんや岩波書店の合庭惇さんとかがいなかったら、どうなってたんだろう?って。

全然違ったタイトルの本を読んでいたことになっていたかもしれないし、また逆に井筒先生のあれ以降のほとんどの本が読めなくなっていたかもしれない(その可能性はあったはず)。前者の場合であれば、ただこの本をも含めて、今手に入るタイトルの本が読めなくなっていたからといって、それがそのままあたしたちにとって丸損になったかと云うとそれはわからないかも。他のタイトルで画期的な本が上梓されていた可能性もあったわけで、そうなれば結局プラスマイナスゼロみたいな事になっちゃって、なるべくしてなったとしか言いようがなくなってしまう。

で、この本のこと。

この本プロパーで見れば、恐ろしく設計が壮大で常識的に考えたらこんな本は元来誰も書けない性格の本、いや書いちゃいけない本、あの分厚い宇井さんの「仏教汎論」でさえ取り敢えず仏教だけなのに―― この本では、中華の達人、フレンチの達人、和の達人を全部井筒先生一人でやってるようなことになるんだもの。人生三回ないと帳尻が合わないはず(少なめに見積もって)。それに「わたしは中華もフレンチも和食も全部修行を極めている」なんて大上段に言われたら「ほんとに大丈夫?!」って眉唾。それをさせないのが井筒先生の持つ抑止力なんだろうし、またそれを見抜いてまんまと井筒先生を担ぎ出して舞台で力を揮わせ、この本に至らしめたのが、合庭惇さんという演出家だったんでしょうね。

金字塔的な本ってスーパーな学者とスーパーな編集者の意識の焦点が合致して初めて生まれるんだって改めて気付かせてくれる好例かなあ。

レビューになってないのわかってるけど、懐かしいのでちょっと書いてみました。
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尊治
5つ星のうち5.0 宗教、イデオロギー、思想、アート、精神病理の起源としての言語阿頼耶識
2005年7月5日に日本でレビュー済み
これにはイマージュの引き起こす人間の精神について述べた箇所がある
がその基盤となるのが言語アラヤ識という解放系の無意識であるとする。これがユングのいうセルフの基盤となる。言語アラヤ識に入る情報に安定性があれば何も起こらない。しかし彼が別著で指摘するとおり現代はリゾームの時代。セルフの基盤となる安定的社会構造は崩れエゴのみを肥大化させなければ人は生きていけなくなってきている。こういう時人の言語アラヤ識に入る情報は不安定化しそれがイマージュ意識の不安定性と可変性を生み時にはアートに時にはイデオロギーや思想に時には精神病理に時には新宗教となっセルフを再構築し言語阿頼耶識の安定性を保とうとする。彼の東洋哲学的基盤の賞揚は還って危険であるが社会的現象の基盤としての言語アラヤ識という無意識を設定した所は素晴らしい。
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アドヴァイタ標本
5つ星のうち4.0 言葉の限界に挑戦した人
2016年1月18日に日本でレビュー済み
難解な文章を読むのは苦痛に近いが、これを読む価値は「無分節の意識」である。

完全に静寂な無分節の意識が存在する、実在、
そこに、種子、心、無知、などにより、ゆらぎが生じる、イマージュ(心象)、
しかし、その状態では単なるゆらぎであって不確定である、
そこに名を与えることによって対象の本質を確定する、
名-形、このコンビネーションと分節化によって現象世界の創造が意識の中に起こる。

そんなことが書いてある。
ここが分かれば神秘主義の全てが分かるカギなんだね。

禅・自己探求・思惟をする人が無分節の意識の視点にたって読むのがお勧め。
難解すぎるので星4。来世はもう少し簡単に書いてね。
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井頭山人
5つ星のうち5.0 井筒俊彦の哲学探究
2010年4月8日に日本でレビュー済み
岩波文庫と云う、比較的安価な文庫に収録されているにも係わらず、これは井筒俊彦の主著の一つであろう。それは、彼の主要論文からすれば比較的読み易く、且つ、一般の読者を想定している。井筒のライフワークである主著と目されている、イスラム神秘主義、ユダヤ教神秘主義カバラ論、ゾハール等は、初学者が、何の武器も持たず挑戦しても、恐らく、歯が立たないに違いない。ゆえに、井筒の理解を超える知見に到達する事は困難であろう。我々、一般人は、この様な神秘哲学とは、異なる次元の生活者であり、多かれ少なかれ、ごく表層的な次元での生活者であるからだ。では、何故、我々物好きな人間は、この様な、非日常的次元の哲学を読もうとするのであろうか?そこには、人間存在の真の世界像に付いて、深遠な知見を覗いて見たいという欲求からであろう。十数ヶ国語を操ったという、井筒俊彦の、驚異的な言語力と読解力が、縦横無尽に展開されていて、その知識と創見が、現代哲学の巨匠達の省察と、重なる部分を見い出すのは爽快だ。この地球上の言語は、ある意味ではすべてローカルな言語であり、どこの言葉が最も優れている、などと言うことは無い。あらゆる言語は、人間の認識精神の発露であり、その根源的力から生まれた状況の産物なのである。

ここには、中観・唯識の哲学からヴァガバット・ギータ、プロティノスのネオプラトニズムの論拠、プラトンギリシャ哲学とスコラ思想、易経から禅哲学、イスラム思想、ユダヤ神秘主義、カバラとゾハール、説一切有部派から大乗起信論、クサのニコライからトマス・ケンピス、フランツ・ブレンターノからエドムント・フッサール、サルトル、メルロー・ポンティからステファーヌ・マラルメまで、殆ど書き切れない位の存在論と認識の探求者達が考察される。存在の深遠に付いて、井筒が興味を懐いた分野の、多くの巨匠が取り上げられているのだ。大乗起信論の「真如」がフッサールの「エポケー」、「現象学的還元」の概念と似ていると云う、指摘は面白い。投稿者が、特に注目したのは、井筒の思想の中核に在る、意識の「深層と表層」と言う概念であり、人間の内面に、深く秘匿された構造世界である。心や意識の「構造的見方」、マナ識、阿頼耶識という、日常意識を支える根源的な意識の構造である。この本でも展開しているユングの「元型」の概念は、禅の根本である、インド・ヨーガ哲学との類似性にも興味がある。

本書では、芭蕉や、道元、宣長、なども、その思想が分析される。井筒の展開する概念の中で、投稿者は、未だに、よく理解できない概念が言語と意識に於ける、「音韻分節」・「意味分節」などの本質と、その可能性である。本書を買ったのは、30年近くなる昔だが、この著作の理解には、広範な基礎知識を前提とし、かつ、その深い創造的な理解を要請している為に、簡単には、深奥にある内容を把握し切れない点が多い。知識ミニマムとして、むかし、中央公論社から出版された、「世界の名著81冊」全冊の本質的理解があるのならば好ましい。若い人々が、この哲学書に挑戦し、単なる、日常の次元にのみ生きる事なく、いのちの中に秘められた、深い実相に気付き、そこに到達できる事を希望する。この世界は、目の前に広がるだけでは無く、意識と共に末那識が気付かない無意識である阿頼耶識と云う、自我を超えた、内面の宇宙にも広がっているのだから。私達のいのちとは、何か不思議な縁って、与えらえた命であり、そして、いつかは、その与えらえた源へ帰って行く。存在の実相は、そのいちの秘密は、そこで開示されるベキものであろう。神秘哲学は、その次元の思惟であり、本来、意識のサイクルとは平行に営まれる、人間の内部で動く、意識下のサイクルを探る試みであり、禅はその探究であるし、また、大乗の如来蔵は明らかに、その探究の発展と系譜上にある。

井筒俊彦は、膨大な東洋哲学構築の、著作計画の端緒で急死した、就寝中の脳出血であるという。それ故に、我々は彼の思意の中に、計画として有った、「東洋哲学の根幹に通底する諸神秘思想の共時的構造化」を、読む事は永遠に出来なく成った。それは誠に残念であるが、井筒自身は、大いなる命の源に、帰る事に従ったに違いない。この世界は深い、本の価値を確信すると共に、井筒俊彦の霊の冥福を祈りたい。
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うらやま
5つ星のうち5.0 目から鱗
2003年4月1日に日本でレビュー済み
世の中にはいろいろな思想があり、それらを一つ一つ見ていくことや断片的に知っていくことは可能である。また、表面的にさらっと通してしまう入門書なんかもある。しかしそれぞれの独特な言葉の使い方や構成の仕方により、それらを包括的に、一貫した視点に立って深く考察することは難しい。それをして見せてくれるのがこの本である。著者は東洋を中心に様々な思想のそれぞれの「本質」の捉え方を、著者自身が定義しなおした一貫した表現を使って説明してみせる。それは難解である事の多い東洋哲学を明快に説明してくれる上、それぞれの理念的関連や類似点を明らかにする。今まで知らなかったり、いまいち理解できなかった哲学を知ることもでき、まさに「目から鱗」本である。
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アマゾネス
5つ星のうち5.0 壮大な東洋的「知」の体系構築を目指した重厚な思索の書
2009年7月11日に日本でレビュー済み
西洋の対語として「東洋」があるとしたら、そこにはにはどのような哲学的、思弁的共通性があるのか。明瞭な形では存在しえなくても、東洋哲学の諸伝統の蓄積の上に新しい哲学を生み出さなければならない。

こんな壮大な問題意識から著者は膨大な知識を駆使し、著者独自の「共時的構造化」の方法によってイスラーム、ギシリア、儒教、仏教の系譜を縦横に跋渉して知の体系化を目指す。スコラ哲学、プラトン主義、新プラトン主義、ユング、フッサールの現象学など西洋の系譜もしっかりと押さえながら、記述は明瞭かつ分かりやすい。

そこかしこに溢れ出る術語概念に対する深い理解と分かりやすい説明は、なるほど、30カ国語に熟達した語学の広範な知識に裏づけられている。圧巻なのは、密教(esoteric religion)に関する奥深い理解が、本書全体を通底していることだ。凡庸な学者は、顕・密の顕を極端に重視することはあれども、密に対する見解があまりにも表層的なことがままある。

顕・密にわたる認識についての明快な枠組み設定がp214の意識の構造モデルで示されたくらいから、東洋思想に共時的に存在する哲学は、まさに「密」に集約されていることに読者は次第に気づいてゆく。
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BMW
5つ星のうち5.0 「神とは『宇宙のありかた』である」
2008年1月31日に日本でレビュー済み
井筒氏は「神とは宇宙のありかたである」と言っているように思える。そうならばいくつかのことが説明できる。
1 神はなぜ全知全能であるのか
 「すべてが入っているもの」こそ、宇宙の別称である。宇宙内のすべてのモノやコトの存在の「ありかた」を神とすれば、神は他者としてそれらの外に立つことはない。時間の地平を越えても宇宙のあり方は変化し得ないから、定義上、神は全知全能でしかあり得ない。
2 なぜ天にいるか
信仰者にとって神の住処は「天」以外にない。天には星ぼしが輝いており、そこには一定の物理法則が明らかに感じられる。「法則」の支配こそ神の第一の能力であるからには、その身に最も近いと思える天界こそ住処と考えるのは自然である。
わずかな過ちは「法則」をセムならではの支配・被支配の概念で考えたこと。どんな「ありかた」も許容される宇宙内において、法則は創り・創られるものではないだろう。法則は、世界の分節のしかたとして「在る」ものだろう。理論物理学が発見間近としている宇宙方程式すら宇宙の「ありかた」の「すべて」を記述するものではない。絶対無分節者としての宇宙を描こうとする宇宙方程式は、表現として分節的記述以外にありえず、いったん分析的に記述されればそれは分節を繰り返すだけであり、無分節状態の再現は定義として不可能になる。記述そのものが永遠に終わらない、という不確定性原理の矛盾があらわれてしまう。
3「宇宙のありかた」は運命論ではない
「宇宙のありかた」の考え方は、すべてがあらかじめ絶対者によってコードされていることの単なる発現であるとする、諦観に満ちた運命論ではない。すべての生命は、輻湊する存在連関の糸の結節点としてのみ存在するが、結節点としての生命は、たまたまそこに密度が高まっているアミノ酸分子の、ゆるい「よどみ」でしかない。しかも、それらアミノ酸は、「拡散」による内部のエントロピー増大を回避すべく、一方向的な時間軸上で非可逆的に入れ替わっているのだから、存在連関の網はあらかじめ織られようがない。
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Theoのいるところ
5つ星のうち5.0 おもしろい、おもしろすぎる…!
2016年7月18日に日本でレビュー済み
よくもこれだけの内容を、平易ならざる用語の数々を連ねて、ここまで明確にわかりやすくかけたものだと驚いてしまう。自分の感じていた言葉と認識のズレのようなものの心地悪さを、ことごとく説明してくれた。
個人的にこんな体験がある。
朝、職場に行くと、前日の夜同僚が私宛に残した簡単なメモが置いてある。しかしこの同僚の書いたたった数文字の悪筆が解読できない。その日の業務の内容に関わることと、必死にメモとにらめっこをするも、読めない。突然めまいがして吐き気に襲われる。
あるいは、ある日、夕暮れ時に海へ行って、曇り空と海の境の判別できないような彼方をじっと見つめている。そのうちに、海を見ているという自意識が消え、ランダムな心象が次々と浮かんでくる。そして静かに何かが充満していくような感覚を受け、フッと抜けるように我に帰る。そこで海を見ていたことに気づく。
こういった日常の表層の割れ目のようなところから、別次元の意識に入って行くことを、経験を通じて自覚してはいたが、この著作を読むことでそれが現象として明確になり、また、言葉では掴みえない域も、自分に対してハッキリし、何はともあれ晴れ晴れとした気分になった。あまりにもわかりやすいので、一読して全てを把握した気にもなるが、それは慢心であろう。言語学の面からもソシュールなどと合わせて読んでおきたい一冊。
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尊治
5つ星のうち5.0 東洋思想はこれ一冊で足りる。最高の書。
2005年5月25日に日本でレビュー済み
彼はある意味、北一輝と並ぶ二大日本ファシスト思想家で大アジア主義研究の第一人者大川周明の正統な後継者ともいえる。満鉄東亜調査局大川塾の講師であり、その文献をもとに西洋では現代思想のデリダ、ソシュール、心理学はユング、宗教人類学はエリアーデ、ギリシャ思想、イラン王立アカデミーで禅仏教徒で見性体験を得ながらイランのイスラム教徒にイスラム教を教えた世界的イスラム学の権威。ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、儒家、道家からロシア、フランス、ドイツ文学や詩、日本、中国の古典文学、俳句、和歌、日本最大の神道家とされる本居宣長の国学まで主要な東洋思想は大体かれはおさえているが、意識と本質は特に東洋思想的教養はこれ一冊で十分という著作である
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不良塾講師
5つ星のうち5.0 素晴らしい本
2013年9月12日に日本でレビュー済み
著者に圧倒される本というのはこういうのを言うのですね。まさに天才の著作です。こういう著作が多く読まれれば、物事を深く考える人々が増えていくのでしょう。
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===
ににに
5つ星のうち5.0 かなり好き
2017年4月3日に日本でレビュー済み
井筒先生の著作のなかでは、一番好きですね。二番目はイスラーム思想史。
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トリックスター
5つ星のうち5.0 意識…
2004年10月23日に日本でレビュー済み
「意識」や「無意識」といった概念はもはや日常語になっており、ともすれば心理学者などでもこうした概念を簡単に自明視してしまうきらいがあるように思えます。この本では、まず意識とはどのようなものかということについて明確な規定が与えられていて深く納得できます。イスラームに興味がなくとも、最初の10ページ程度でも読んでみることをお勧めします。博学ぶりをふりまわすことのない、シンプルで落ち着いた、それでいて説得力ある論調に畏敬の念がたえません。圧倒的です。
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非音楽大好き
5つ星のうち5.0 これが形而上学の書です。
2007年1月24日に日本でレビュー済み
著者のエゴになっている哲学書が多い中、この書は「意識・本質」を客観的でコンパクトな構造的思索で展開されており、読みやすくかつ説得力があります。哲学や宗教に興味がある程度の方でも十分に理解でき、それでいて得れる知識は膨大で壮大です。

また、現代の日本人に忘れがちな「日本人の本質」を呼び起こす、拒絶反応のおきない日本的観念論であるとも思えます。哲学的または形而上学的思索(じぶんとは何?せかいって何?神?)を深めたい!と思う上で最初に手に取る書。ということで間違いありません。

是非お読み下さい。
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vivekatrek
VINEメンバー
5つ星のうち4.0 時期尚早だったが故の砂上の楼閣
2013年6月1日に日本でレビュー済み
本書の開口一番、<人間知性の正しい行使、厳密な思考の展開、事物の誤りない認識のために、「定義」の絶対的必要性をソクラテスが情熱をもって強調して以来、思惟対象あるいは認識対象の「本質」を究めるということが西洋哲学伝統の主流の一部となって現在に至った。(p.3)>とある。

井筒氏は、アジア文化圏〔ギリシャを含む近東・中東・極東〕の哲学的思惟〔意識の本質〕を「共時的構造化」の視点で浮き彫りにするために、様々な「定義」を縦横に駆使する。

ただ残念なのは、井筒氏が生存した1993年までには、ブッダ釈尊の教法の真義〔凡夫が聖者になり、聖者が釈尊と同等のブッダになること〕は解明されておらず、それゆえに釈尊仏教を再興した龍樹の勝義諦・世俗諦も正しく理解されていなかった。従って、本書で井筒氏が用いた仏教用語の「定義」は、伝統仏教の曖昧な解釈のままであり、哲学的思惟を解明する「定義」としては不十分なのである。

そこで、現時点で明確になった釈尊の教法の真義に基づいて、本書の冒頭部分における井筒氏の論理思考を検証してみようと思う。
【井筒氏の論理】
サルトルが<意識には内部なるものはない。意識は己自身の外以外の何ものでもない。>(p.6)と断じたのは、<言葉の意味作用とは、本来的には全然分節の無い「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」に色々な符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示する>(p.8)からであり、それは<言語によって無分節の「存在」が分節されて、存在者の世界が経験的に成立する。>(p.9)ためである。

【私の所感】
しかし、<言語によって無分節の「存在」が分節される(p.9)>という表現は、少しおかしい。例として赤ん坊やペットで飼っている犬を想定しよう。彼らは、様々な対象物を識別し、好悪の感情を抱くが、それらの対象を表現する言葉は存在しない。赤ん坊は「あー」とか「うー」という声を出し、犬は「ワン」と吠えたり「ウー」と唸ることで、対象物への志向の意志を表現する。つまり、言語が分節を可能にするのではなく、言語が無くても分節は起こる、と考えなければならない。すでに分節があるから、<言語以前から言語以降へ>や<「無名」から「有名」へ>という転換が起こるのであり、その分節が「本質」となって出現するのである。井筒氏が、<Xが一定の名を得ることによって、一定のものとして固定され凝固する(p.10)>という時の「X」こそが分節なのである。
そして、「本質」⊃「分節」⊃「言葉」という包含関係が成立すると思われる。

【井筒氏の論理】
井筒氏は、<しかしサルトルにおいては、深層意識の次元に身を据えてはいない。だから、絶対無分節の「存在」の前に突然立たされて、彼は狼狽する。>(p.11)と言い、<仏教的表現を使って言うなら、世俗諦的意識の働きに慣れ、世俗諦的立場に身を置き、世俗諦的にしかものを見ることのできない人は、たまたま勝義諦的事態に触れることがあっても、そこにただ何か得体の知れない、ぶよぶよとした、淫らな裸の塊りしか見ないのである。>と述べる。

【私の所感】
さて、「分節」と「無分節」の定義は、「世俗諦」と「勝義諦」の二諦に基づいて理解すべきであり、その二諦は釈尊の教法の真義に基づかなければ明確にならないのである。
先ず、「世俗諦」とは三界(欲界・色界・無色界)の貪・瞋・痴が存在する世界の法則を表し、それに伴う表面意識・潜在意識・深層意識の三つの意識が存在する。世俗諦の世界は、三界の貪・瞋・痴の法則により時間と空間が生まれ、そこに住むものは時空に制限されるのである。「存在」に「世俗諦」という時空のフィルターをかけると、「分節」が生じるのである。
次に、「勝義諦」とは三界(欲界・色界・無色界)の貪・瞋・痴が消滅した世界の法則を表し、表面意識・潜在意識・深層意識が統合された一つの意識が存在する。勝義諦の世界には、時間と空間が存在しない。「存在」が時空から自由になった「あるがまま」の状態を「無分節」と呼ぶのである。

以上で垣間見えたように、井筒氏が目指した「共時的構造化」を「世俗諦」の世界(我々凡夫が住む世界)で実現するのは不可能であり、時空が消滅した「勝義諦」の世界(阿羅漢の住む世界)では実現する必要もない当たり前の出来事なのである。
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mushroomcity
5つ星のうち2.0 インド哲学(インド仏教を含む)やギリシア哲学についての理解が古すぎる
2014年8月21日に日本でレビュー済み
井筒さんの哲学は、常に移ろいゆく目に見えている現象世界とその奥にある常に変わらない何か(神/ロゴス/存在と呼ぶ人もいる)というものを前提としている。 あるいは、その間に「本質」とよぶものを置いている(その言葉の定義は常に動いているように見える)。

そして、奥にある何かを捉えようとする、イスラムのスーフィズムや大乗仏教(特に禅や密教)のアプローチを「東洋的」と呼び、それにプラトンとの共通性なども見出そうとされている。

しかし、「その奥にある常に変わらない何か」というものが本当に存在するのかどうかは論じない(判断停止)、あるいはそういうものは存在しないとする、非常に重要な思想的な流れというものをあまりに無視されている。 インドの初期仏教や、ギリシア哲学の懐疑主義と言われる人たちの哲学である。

人間は弱いもので、目の前のものが常に移ろい何一つ頼ることができない、自分すら老いて常に変わっていく状況で、頼れる「何か」をどうしても探してしまう。   

しかし、その何か(神であれ、ロゴスであれ、絶対存在であれ、ウパニシャッドでいうブラフマン(梵)であれアートマン(我))を探し求める旅に出るというのは、実は大きな罠でもあるともいえる。 

何故なら、人間自身、所詮移ろいゆく物体の寄せ集まりであり、その能力は非常に限られている。  ある一定の人間だけ特殊な能力があり、あるいは何か特殊な方法や儀式があって、猿やネズミと異なって、人間だけが、その絶対存在を捉えられるというのはおかしい、あるいは時間の無駄だとする考え方をするのが初期仏教やギリシアの懐疑主義の哲学である。

井筒さんの時代には、中村元先生や前田専学先生の優れた初期仏教の研究があったはずである。ギリシア哲学もソクラテス、プラトン、アリストテレスだけではなく、ピュロンやデモクリトスの研究もあったははずである。 なぜそれらの研究を全く無視されているのかが、そして、初期仏教という非常に重要な東洋哲学の一つの考えを無視して「東洋」を謳われているのは非常に疑問を感じてしまう。

また、随所に、物質的西洋VS精神的東洋 という古い(ナショナリスティックな)考え方を抜け出ていない感じも何やら古さを感じさせる。 鈴木大拙の禅の研究のように、西洋にコンプレックスを感じながら、東洋人の一メンバーとして東洋の凄さを懸命に宣揚されているような、、、

インド哲学が好きな者としては非常に疑問を感じる一冊でした。
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田中 冬一郎
殿堂入りベスト50レビュアー
5つ星のうち5.0 広く俯瞰して考えたい方へ
2020年1月25日に日本でレビュー済み
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"意識と存在のからみ合いの構造を追求していく過程で、人はどうしても『本質』の実在性の問題に逢着せざるをえない。その実在性を肯定するにせよ否定するにせよ、である。"1983年発刊の本書は30以上の言語を流暢に操った"語学の天才"による、人間の【意識が如何に本質を捉えるかを基準に】東洋哲学全体を分類し、位置関係を明らかにしようと考察した名著。

個人的には西洋と日本の哲学を比較しようと考察してきた本は何冊か手にとりましたが、イスラームについてはまったく無知な為、本書から学び視野を広げようと手にとりました。

そんな本書は、ソクラテス以来西洋哲学が切り離してきた【本質を論じる認識論と存在を論じる存在論を確認し軸にしながら】そこに仏教やイスラーム独自の思想を織り交ぜて、時には図形を、また馴染みの人物たちを例に出しながら幅広く考察しているわけですが。

率直に言って、イスラーム哲学には全く馴染みがなかったので【東洋哲学全体を俯瞰して考察する】には当然とは言え、良い意味で自分の無学さを実感させてくれたのが良かった。(勉強しなければ!)

また、日本人には言葉としては馴染みのある仏教や禅に関しても、西洋哲学はもとよりユダヤ教、キリスト神秘学の領域まで踏み込んで対比し、説明を加えてくれているのも、こちらはこちらで仏教や禅に関する理解が大幅にすすみ、知的好奇心が大いに満たされました。

西洋哲学、東洋哲学を俯瞰して広く考察したい誰かへ。また世界的に名声を博した東洋思想解説者としての著者に刺激を受けたい若手にもオススメ。
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caritas77
ベスト500レビュアー
5つ星のうち5.0 第3論文「禅における言語的意味の問題」
2020年12月26日に日本でレビュー済み
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p.360の叙述を抜き出します。

「ハイデッガーは言語の語源、すなわち歴史的根源的意味、を探ることによって、そこに露呈されている形而上学的に根源的な意味を直観しようとする。語源とは無限定者たる存在が、まさに自己を限定して限定態に移ろうとする決定的瞬間に成立するものである。ハイデッガーは、この決定的瞬間を自ら生きることによって語の内部に翻入し、それによって、本来的には把捉しがたい無限定者そのものに迫ろうとする。」
「禅は言語にたいしてこのような態度はとらない。禅者にとって個々の語の語源など問題にもならない。「言無展事」。始めから言語不信なのである。」

言無展事 語不投機 承言者喪 滯句者迷。

六祖の慧能以来の南宋禅、もっとおおまかに中国禅では、「始めから言語不信なのである。」と言っても良いでしょう。しかし、「不信」かなあ。言語を通常のスタイルでは用いない、のであって、別扱いすることに、実用的に決めたのです。中国に伝わってからより実用的になり、さらに、南宋禅となってからは、その傾向が強くなりました。

ハイデッガー、南宋禅の方法同士を比較してそこで止めればよいのに。「始めから言語不信なのである。」の付言がなければ、正確なのに。井筒氏の論説においては、そこから学ぼうと読み進める者にとって、本筋のみに落ち着いておれない、装飾的感想、装飾的付言が、そこここで、邪魔をするのでは? 頭の良いひとなのでしょうね。

p.363から述べられる、禅的言語の無意味性、の論述が有効なので、その前の段階での分裂はいたい、ですね。
「禅的言語の無意味性を考究するにさいして先ず注意されねばならないことがある。それは、中国の宋時代以後歴史的に形成された禅の形態においては、言語の無意味的使用が二つの違った次元で意識されているという事実である。」
「その第一は、臨済禅において確立された公案組織の中で意図的に活用される無意味性。つまり、ある決定的瞬間に偉大な禅者が発した言葉が公案として取り上げられ、その言葉の無意味性が方法論的に使われる次元。この次元においては禅的言語は徹底的に無意味であり、無意味にとどまり、無意味性において深化されなければならない。」
「第二の次元は公案以前の、公案とは何の関連もない生の姿の禅的言表であって、この次元においては、言語は日常的自然的理性にとっては全く無意味でありながら、禅の元体験の見地から見れば立派に意味をなすのである。」

なんの変哲もない論説です。面白いです。
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Toshiino55
5つ星のうち5.0 空海の立体曼荼羅のような歴史的な新たな思想構築であると感じられる
2019年1月5日に日本でレビュー済み
東洋哲学の諸伝統を現在の時点で理論的平面に移し、空間的に配置し直し、それらすべてを構造的に包み込む「共時的構造化」という壮大な試みである。空海の立体曼荼羅のような歴史的な新たな思想構築であると感じられる。本質的などというものは本当はどこにも実在していない。その無いものが、言葉の作用によりあたかも有るかのように見えている。約40年前の壮大な試みのさらなる深化は、今後、どのように進展するのだろうか。創刊当時、栗本慎一郎さん、中沢新一さんが推薦する一冊として取り上げていたことが懐かしく思い出される。
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Φιλοσοφια
5つ星のうち5.0 思想の源流
2017年12月31日に日本でレビュー済み
私はイスラーム思想に興味をもっているので、`「本質直観」について面白く感じました。勿論、何度も繰り返し読むうち、ユダヤ哲学や老荘思想、禅の公案にも興味を持つようになりました。
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みんなのレビュー(31件)
みんなの評価 4.6

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評価内訳
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紙の本 繰り返し時を越えて読まれるべき現代の古典 2002/08/05 22:07
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 投稿者:宇羅道彦 - この投稿者のレビュー一覧を見る

宗教を現代哲学の言葉で語る試みが成功することは滅多にない。
多くが特定宗教内部の宗教哲学になってしまうのが落ちである。
この著者は宗教を現象的所与として受け止めるところから分析を始める。

イラン革命に追われ日本に帰国することがなければ我々はこの著書に
出会うことはできなかっただろう。
生涯をかけたイスラムとの取り組みが、歴史の変転という偶然を経てこ
のすぐれた書籍を生んだ僥倖こ読者は大いに感謝するべきだろう。

特に注目すべきは禅についての著述である。
老師がたの語るところと全く矛盾のないところをこの著者は哲学と言語
学の先端の言葉で語っている。実に驚くべき境涯であるといえよう。

井筒俊彦氏は現代の日本人の一つの到達点である。
日本人のイスラム理解はここから始まるかないが、ここから先にゆくには
半世紀が必要だろう。

そして、イスラムを理解することが畢竟、総ての宗教を理解することに他
ならない姿勢で取り組んでいることに、井筒俊彦氏の学問的正統と、そ
の人間の誠実と偉大が見いだされよう。

繰り返し時を越えて読まれるべき現代の古典である。
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紙の本 深淵な概念としての「意識」と「本質」を学ぶ 2020/02/09 20:40
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る

「意識」とは、「本質」とは、これらに焦点を当てて、深々と洞察した一書です。その切り口は実に洋の東西、勿論日本を含めた(日本の場合は禅と絡めて)視点から述べられています。非常に興味深い内容でした。
 本書について上記以外に評する事として、それは本書が比較的解り易く説かれている、という点があります。本書はどちらかと言うと哲学に分類されるのでしょうが、私自身にはそれ程堅苦しく感じられませんでした。
 著者の説き方に関して納得し易かったのかもしれません。或るいは理屈を捏ね回したような表現が殆ど見受けられなかったからかもしれません。
 どちらかと言うと「意識」よりも「本質」にページが多く割かれている印象でしたが、これらの意味について深い学びを得られた事は有意義でした。

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紙の本 井筒俊彦氏による東洋思想の共時的構造化を試みた代表作です! 2020/05/02 10:42
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書は、我が国の代表的な言語学者であり、イスラム学者でもあり、さらに東洋思想研究者でもあった井筒俊彦氏によって著された代表的な著作の一つです。井筒氏は「語学の天才」と言われ、彼の大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米において高く評価されています。同書は、その井筒氏が、東洋思想の「共時的構造化」を試みた一冊で、氏の広範な思想研究の成果が盛り込まれた代表作です。彼は、同書の中で、「東洋哲学の諸伝統の分析から得た根元的思想パターンを己れの身にひきうけて主体化し、その基盤の上に新しい哲学を生み出さなければならない」と説いており、なかなか興味深い内容となっています。

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電子書籍 覚者こそ哲学者である、本当は 2020/04/18 00:06
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 投稿者:タヌ様 - この投稿者のレビュー一覧を見る

プラトンやデカルトは読んだことがある、いろんな哲学史も、程度では理解不能であろうなと思う。私もその一人だったのだ、その後、インド哲学の中村元氏の著作と格闘して唯識や空観がある程度わかったかなというレベルになって、何年もかかるのだが、やっと再読した。わかるのである。やっと、字面を読むだけではなく意味もわかるようになれたこと、井筒氏の懸命に語る世界が浮かび上がるようになった自分に少し驚いた、こんなことが書いてあったのかと。なんのことはない井筒氏は覚者なのである。修練によって悟りのある人なのである。いわゆる哲学を勉強したただの教授とはわけが違う、覚りの人が観る世界、言語を超えた世界を何とか伝えようとしているのである。

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紙の本 名著 2017/02/13 03:07
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 投稿者:あきみち - この投稿者のレビュー一覧を見る

井筒俊彦の主著にして昭和の哲学的著作の代表ではあるが、一般的に理解される(近代大学制度においての制度としてみた)哲学からはかけ離れている(その意図を「哲学的」に受け継ぐには、いくつかの手順を踏む必要があるだろう)。多くの人は、井筒が東洋の宗教思想を中心的な理念に抽象化して比較した(しかも中途半端に終わっている)とみなすかも知れないが、これは井筒本人の哲学的思索を準備する前前前段階だったということが伝わりにくいからではないか。井筒本人の哲学的思索や体験の省察がないという驚きもそこに由来するのではないか。この本の本領は、西洋哲学史二千数百年の展開を、東洋を素材に、独りでやってのけようという途方もない試みにある。その意義がどれほどのものかは人によって違うだろうが。個々の分析だけを取っても、大変に明晰で単純化しすぎ・図式化しすぎと言われかねないだろうけれど、それはただの本質主義にあるのではなく、理念化を通してその先に見据えるものがあり、この経緯は西洋哲学が辿った道だという著者の、言外の、西洋哲学史理解であると言えるんじゃないか。

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紙の本 井筒マンダラ 2016/04/22 13:29
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 投稿者:親譲りの無鉄砲 - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書は、イスラーム思想研究の第一人者であり自ら禅を通して深く自己の心を見つめる実践を行ってきた井筒俊彦ならではの「本質論」が展開される。人間が対象とする事物の「本質」の捉え方の多様性は、人間の意識のありかたの多様性に原因を求めることができる。すると、本質論を論じることは、人間の意識とはどういうものなのか、という極めて根源的な問いを立てることにほぼ等しい。ここでは、極めて戦略的に、不二一元論ヴェーダンタ、老荘、イスラームのイブン・アラビーの存在論、易学、南宋禅覚者たちの言行録、ユダヤのカッバーラ等など東洋系思想が縦横に引用展開される。それらの差異性、共通性などが目の当たりにできるようになるに従い、自身の思考内容を観照すべく読者の脳を刺激する。
 認識対象の存在の淵源を辿ろうとする先人たちが、如何にその絶対無分節的存在(ゼロポイント)を目指すために苦闘してきたのか、そして、そのゼロポイントから分節化された認識世界というものが如何に展開するのかを、同様に「分節化された」言語という極めて限定された手段で説明するのに苦闘してきたのかが、「本質論」になじみのなかった私のような素人でも想像できるようになっている。そしてこの先人たちのアプローチは、全人類的なものであったこともよくわかる。(それは日本においても例外ではない。)
 この「本質論」の多様性も、やはりゼロポイントが分節化していく展開の多様性を表しており、まさに絶対無分節的存在からの分節化が、「両界曼荼羅」特に金剛界曼荼羅がホログラフィックに展開しているような状況を呈しているといってよいだろう。
 そしてこの書が日本語で書かれたことは日本人にとって慶賀に堪えない。日本が世界に向かって誇ることのできる名著と思う。特に、これから禅を実践しようかと考えている読者にとって、本書がまたとない禅の入門書としての機能も十分に果たしうることを付記したい。

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投稿日:2018年07月26日
「意識と本質」井筒俊彦

事物の本質には二つの次元がある。一つはものの個体的実在性の結晶点。これは実在界に成立する。(個体的本質、フウィーヤ)もう一つは、ものの普遍的規定性。事実界の次元に成立する。(普遍的本質、マーヒーヤ)いずれを事物の真の本質と見るかによって、哲学の性格が大きく変わる。

バガヴァッド・ギーターの認識の三段解説
1.闇質的認識(ターマサ)。執心
愛憎に縛られた沈重な意識。ある一つの対象に、まるでそれが全てであるかのごとく、ただわけもなく、実在の真相を忘れて執著する狭隘な認識。
2.激質的認識(ラージャサ)。有心
現象的多者の間に動揺ただならぬ意識。個々別々の様々なものを個々別々に識別する認識。
3.純粋的認識(サーツトヴイカ)。無心
全存在界を究極的一者性において眺める純粋叡智の煌々たる光。あらゆる経験的事物のうちに、唯一なる不易不変の実在を見、分節された全てのもののうちに無分節の実在を見る。

人がある対象に愛着したり嫌悪を感じるのは、様々な事物が差別されて意識に映るからであり、事物が差別されるのは実在が様々な存在者として分節されるから。この見方は激質的認識。

「執心」は「有心」の基盤の上に初めて生起する「有心」そのものの派生態にすぎない。

「有心」は妄想分別、存在分節の境位。この境位に働く分節意識を人は「意識」と呼んでいる。存在分節は「有心」の決定的特徴であり、経験的事物を個々別々なものとして差別し、それらを個々別々に認識する意識。

人間の意識は有心段階では、必ず分節的意識である。分節的意識が作用しだすやいなや、存在の真相は無限の彼方に姿を隠す。つまり、分節意識が経験世界における人の普通の心の状態であるからには、その人は存在の真相を全く見てないという事に他ならない。

「至道は無難」では決してない。

楞伽経の意識三相説
1.転相
分裂した存在の主体的側面と客体的側面とが、一方は我意識、他方は意識から離れ独立した対象的事物の世界として確立され、経験的世界が現象する意識。存在リアリティを様々に分節し、無数の分割線を引いて個々別々の事物を現出させ、個々別々なものとして認知されたそれらの事物の間を転々と動き回る妄覚。
2.業相
絶対無分節的意識に内在する存在分節の性向に促されている時、主客の対立が現れる意識。
3.真相
絶対無分節的に実在を見る境地。「起信論」はこれを「心真如」とも呼ぶ。

禅は実在の無分節的真相を一挙に露現させようとする。

分節的意識である有心を人間の一般的な心の働きだとすれば、無心はメタ意識。

存在の絶対無分節と経験的分節との同時源成こそ、禅の存在論の中核をなす。

分節1(有本質的)→無分節→分節2(無本質的)

第一段階でそれぞれの分節に「本質」を与えられ、第二段階で分節も本質も全て奪われ、第三段階では本質のない分節が戻ってくる。

分節2である道元の「而今の山水」は現にそれぞれ山と川として分節されているにも関わらず、山である事、川である事から超出して自由自在に働いている(本質がない)。

我々が常識的に現実とか世界とか読んでいるものは、表層意識の見る世界であり、それが世界の唯一の現れ方ではない。深層意識にはそれ独特の全く別の見方があり、それは表層意識を狼狽させるような異様な形相で存在世界が現出する。

深層意識の存在分節は表層意識のそれとは全く違う。この深層意識の存在分節の基礎単位を「元型イマージュ」と言う。

普通の人は曼荼羅等の深層意識的絵画を見てもそれを表層意識で受け止め、理解するだけであり、たとえ鑑賞したとしても表層意識的に感激するだけ。深層意識の感応、協和は起こらない。

言語アラヤ識からのイマージュ生起を深層意識的事態として受け止められる人は、創造的想像力を持つ。

ヘブライ語では、言葉とモノは同じ。深層意識ではもともと一つと考える。カバラは存在世界の深秘構造を考える。

曼荼羅とは、正覚を得た人の深層意識に現れた一切存在者の真の形姿の図示。全存在世界の本質的元型的構造を形象的に呈示する深秘の象徴体系。

評価2.002.00投稿日:2018年05月19日
極めて難解。降参。「本質」について、東西や古今の宗教・哲学・様々な文化の立場から、どう捉えられていたのか、どう位置付けられていたのかが解説されている。人間はそのものの本質に基づいて、物を認識し、評価しようとするとうことか???背景となる仏教や哲学を理解しないとこの本はわからない。
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Posted by ブクログ 2016年02月26日
以前読んだ『マホメット』『イスラーム文化』の著者であり、東洋哲学者。また、イスラム研究家でもある井筒俊彦さんを読む。
他の方のレビューを拝見するととても評価が高くきっと素晴らしい本なんだろうと思い、つい手にとってしまったが、極めて難解である。
どれ程の知識を持ってすればこの様な本が書けるのか、改めて著者の天才ぶりに脱帽す。
本質は西洋哲学が有であるなら東洋哲学は無であり、それぞれは背景にある宗教的は排除出来ない。
p233より、
「ア」(a-)はサンスクリット語では否定を表わす接頭語である。「非×」、「不×」、「無×」、どんなものをもってきても、「あらず、あらず」とそれは言う。経験的事物、事象の一切をあますところなく否定する「ア」は、確かに無的、無化的性格をもつ。

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Posted by ブクログ 2015年04月09日
分厚い氷の上を滑るようだ。
p41 我々が何故に本質を求めるのか。もの事に同一性を認めることによって、既知とする。これによって、再利用が可能となり、(ある程度の)予知が可能となる。
p241 「神は世界を創造した」というのは、言語によって世界を表現したという理解でよいのか。世界を記述する表現の無限性...続きを読む

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Posted by ブクログ 2014年12月07日
サブタイトルは精神的東洋を索めて。

その精神的東洋について西洋という対象軸を明示しつつ論じている。今日的な通念=西洋的思考とは違う知の在り方が詳らかにされる。

東洋を知ることで、私たち日本人がいかに言葉至上主義的なロゴス的な西洋的思考で世の中を見ているかを思い知ることができる。東洋に身を置きながら、東洋的な思考態度を削り取られていることに気づく。もちろん、そのエッセンスは私たちの内奥に伏在している。よくも悪くも借り物のモノサシを当てがわれている。
イスラームがやはり自分としては興味深い。地球規模で考えるとおよそ4人に1人はムスリムという事実。これが何を意味するか。
カッバーラーも面白い。

西と東を縦横無尽に往来して知の舞台を賑やかに描き出してくれた著者に敬服。
★5つでは足りない。
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意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)
によって 井筒 俊彦

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫) mobiダウンロード - この美しい意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)の本をダウンロードして、後で読んでください。 この素晴らしい本を誰が書いたのか知りたいですか? はい、井筒 俊彦は意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)の作成者です。 この本は、いくつかのページページで構成されています。 岩波書店 (1991/8/8)は、意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)を公開する会社です。 1991/8/8は初めてのリリース日です。 今タイトルを読んでください、それは最も興味深いトピックです。 ただし、読む時間がない場合は、意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)をデバイスにダウンロードして、後で確認することができます。
内容紹介 東洋哲学の諸伝統の分析から得た根元的思想パターンを己れの身にひきうけて主体化し,その基盤の上に新しい哲学を生み出さなければならない.本書はこうした問題意識を独自の「共時的構造化」の方法によって展開した壮大な哲学的営為であって,その出発点には自分の実存の「根」が東洋にあるという著者の痛切な自覚があった. 内容(「BOOK」データベースより) 東洋哲学の諸伝統の分析から得た根元的思想パターンを己れの身にひきうけて主体化し、その基盤の上に新しい哲学を生み出さなければならない。本書はこうした問題意識を独自の「共時的構造化」の方法によって展開した壮大な哲学的営為であるが、その出発点には自分の実存の「根」が東洋にあるという著者の痛切な自覚があった。
ファイル名 : 意識と本質-精神的東洋を索めて-岩波文庫.pdf

以下は、意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)に関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
言語的アラヤ識の本質に触れた気がする
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2018.05.31
全編を貫く「普遍」への意志 井筒俊彦「意識と本質」

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大澤真幸が読む
 本書は、人間の意識がどのように事物の本質を捉えるのか、ということについての考え方の違いを基準にして、イスラームやユダヤ教までも含む多様な東洋哲学を分類し、それらの間の位置関係を明らかにした書物である。東洋哲学全体の地図を作成しようとしているのだ。
 こんなことができるのは、まず井筒俊彦だけだ。井筒はイスラーム思想を中心にあらゆる東洋哲学に(実は西洋哲学にも)精通していた碩学(せきがく)中の碩学。井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし。こう言いたくなる。
 「本質」とは、「Xとは何か」という問いに対する(正しい)答えである。例えば「君主とは何か」への正解が「仁愛なり」なら、仁愛が君主の本質だ。
 だが、「正解」が簡単に見つかるわけではない。本書によると、その「見つけ方」に関して三つの考え方がある。瞑想(めいそう)の果ての直観や悟りなど深層の意識の働きを通じて本質を見極めることができるとするもの(朱子学など)。マンダラのようなイメージやシンボルを通じて本質を捉えられるとするもの(密教など)。事物に正しい言葉=名前を与えれば、普通の表層の意識で本質を認識できるとするもの(儒教の名実論など)。
 この分類を使うと、一応は第一の種類に入れられるが、この三分類そのものからあと一歩ではみ出すという極限にあるのが禅だとわかる。無心(意識の究極的原点)に至り、事物の本質など存在しないと悟れ、と説くのだから。本質と見えたものは、言葉による世界の区分け(分節)が生み出す錯覚だ、と。
 禅とは逆の極限が、カッバーラーと呼ばれるユダヤ教神秘思想。禅と反対に、本質がまさに言葉とともに無から創造されるとする。ただし、その場合の「言葉」は神の言葉である。
 こうした紹介から感じ取ってもらえるだろうか。本書を貫いている「普遍」への意志を、である。人類が蓄積してきたあらゆる知を総合して真理に迫ろうとする驚異的な野心。これに深く感動する=朝日新聞2017年6月11日掲載

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2021/10/08

‘신불(神佛) 애니미즘’과 트랜스휴머니즘 가미(神)와 호토케(佛)의 유희✽ 박규태

5. 박규태.pdf
‘신불(神佛) 애니미즘’과 트랜스휴머니즘
가미(神)와 호토케(佛)의 유희✽
박규태
박규태(朴奎泰) 서울대학교 독어독문학과를 졸업하고 동대학원 종교학과에서 석사학위를, 도쿄대학 대학원 종교학과에서 박사학위를 받았다. 
(사)한국종교문화연구소 소장을 역임했고, 
현재 한양대학교 일본학과 교수로 재직하고 있다. 

주요 저서로 
『일본 신사(神社)의 역사와 신앙』, 
『포스트-옴 시대 일본사회의 향방과 ‘스피리추얼리티’』, 
『라프카디오 헌의 일본론』, 
『일본정신의 풍경』,
『상대와 절대로서의 일본』, 
『아마테라스에서 모노노케 히메까지』, 
『애니메이션으로 읽는 일본』 등이 있고, 

주요 역서로 『일본문화사』, 『황금가지』, 『국화와 칼』, 『신도, 일본 태생의 종교시스템』,『일본 신도사』 등이 있다.

✽ 이 논문은 2008년 정부(교육과학기술부)의 재원으로 한국연구재단의 지원을 받아 연구되었음(NRF-2008-362-B00006).

1. 들어가는 말

<휴머니티플러스>(H+, 세계트랜스휴머니스트협회의 전신)는 트랜스휴머니즘(transhumanism, 이하 TH)을 “생명의 증진을 위한 원리와 가치에 입각하여 과학과 테크놀로지에 의해 현재의 인간 형식과 한계를 넘어서서 지적 삶의 진화를 유지하고 촉진시키고자 하는 일군의 삶의 철학”1으로 규정한다. 이처럼 인 간향상(human enhancement)을 위한 창발적인 테크놀로지를 옹호하는 문화 적· 지적 운동으로서의 TH는 테크놀로지를 적용하는 방법과 선택 과정에 서 윤리적 문제를 수반하는데, 그 적용의 맥락과 범위가 매우 광범위하고 다양한 만큼 여러 상이한 유형이 존재한다. 
가령 기본적으로 모든 사회경제적 계층의 인간을 적용 대상으로 삼아 성공과 행복의 한층 더 큰 차원으로 인간이 고양될 것이라는 윤리적 비전에 입각한 ‘민주적(democratic) TH’, 발전과 향상을 시민적 권리이자 자유로 보 는 점에서는 민주적 TH와 유사하지만 개인의 선택의 자유를 좀 더 강조하
고 정부 차원의 규제에는 단호하게 거부하는 ‘자유주의적(libertarian) TH’, 인류와 테크놀로지 발전의 미래에 대해 낙관적인 입장에서 인간 진화와 발 전의 총체적인 업그레이드에 대한 실용적 접근을 강조하는 ‘엑스트로피주 의(extropianism) TH’,2 테크놀로지적 특이점(technological singularity), 즉 초지성 을 가진 기계가 가까운 미래에 만들어질 것이며, 그것이 인류에게 혜택을 
줄 것이라는 확신에 입각한 ‘특이점주의(singularitarianism) TH’, 약물과 유전 자공학의 진화를 통해 인간 심리 상태가 향상될 것이라 주장하면서 고통, 걱정, 스트레스 등의 인간 경험은 궁극적으로 없어질 것으로 보는 ‘쾌락주 의적(hedonistic) TH’, 가장 일반적인 유형의 TH로 인간 조건을 업그레이드

1 < 휴머니티플러스> 홈페이지 http://humanityplus.org/.
2 여 기서 ‘엑스트로피’란 ‘엔트로피’의 반의어로 주조된 용어며, <엑스트로피 연구소>의 설립자 막스 모 어(Max More)에 의해 “유기체 시스템의 지성, 기능적 질서, 활력, 에너지, 생명, 경험, 발전과 성장의 능력 및 추동력 등의 상태와 정도”를 나타내는 말로 규정한다. 요컨대 무질서를 강화시키는 엔트로피 에 반해 엑스트로피는 질서를 강화시키는 에너지를 가리키는 듯싶다. 신상규, 『호모 사피엔스의 미래: 포스트휴먼과 트랜스휴머니즘』, 아카넷, 2014, 114~116쪽.
 
함으로써 죽음이 정복될 것이라고 보는 등 노화와 죽음의 문제에 초점을 맞 추는 ‘생존주의자(survivalist) TH’, 인간을 특정 도시나 국가가 아닌 세계시 민으로 간주하는 관점에 입각하여 내셔널리즘적· 지리적· 애국주의적 충성 대신 하나의 종으로서의 전체적인 통합성을 강조하고 그런 인간 종족의 진 화를 위해 테크놀로지를 활용해야 한다고 주장하는 ‘세계주의적
(cosmopolitan) TH’, 인류가 다음 단계의 집합적 사유로 진화할 수 있는 유일 한 길은 세계에 대해 능동적으로 관여하고 나아가 우리가 학습하고 창조해 낸 것들을 깊이 재성찰하는 것에 있다고 주장하는 ‘우주진화론(cosmism) TH’, 반자본주의적· 반국가적 입장에서 테크놀로지의 발전이 무정부주의 적 민주주의 체제를 촉진시킬 것이며 그 결과 정부나 국가가 불필요해질 것 이라고 믿는 ‘무정부주의적(anarcho) TH’, 그리고 현존하는 여러 종교와 TH 가 양립 가능하다고 보는 ‘종교적(religious) TH’ 등을 들 수 있다. 
이 글의 목적은 이와 같은 TH의 다양한 유형 가운데 특히 ‘종교적 TH’ 와 관련하여 종교와 TH의 관계에 주목하면서, 흔히 애미니즘적이라고 일 컬어지는 일본 신도(神道)와 불교 및 각각의 가미(神)와 호토케(佛) 관념이 일본의 TH적 테크놀로지 문화의 중요한 밑그림이라는 점을 규명하는 데 있다. 이를 위해 이하에서는 먼저 TH와 종교의 양립 가능성을 주장하는 다 양한 담론을 간략히 계보화한 후, 네오-애니미즘에서 테크노-애니미즘에 이르는 사유의 흐름을 일본의 사례에 적용시켜 그것을 ‘신불-애니미즘’이 라 명명할 것이다. 이어서 그런 신불-애니미즘과 관련하여 가미와 호토케 의 개념사를 살펴본 후 유희성, 트랜스-스피리추얼리티(trans-spirituality), 하 이브리드(hybrid), 모노노아와레(物哀) 등의 키워드를 중심으로 종교와 TH적 일본의 관계에 대해 생각해보고자 한다. 

2. 트랜스휴머니즘과 종교
인간향상이라든가 ‘묵시론적 인공지능’(apocalyptic AI)이라는 TH의 이상을 옹호하는 대표적인 단체로, 전술한 <휴머니티플러스>를 비롯하여 <엑스토
피아 연구소>, <윤리와 창발적 테크놀로지 연구소>(Institute for Ethics and Emerging Technologies), <우주 엔지니어 단체>(Order of Cosmic Engineers) 등을 들 수 있다. 이런 단체들을 통해 막스 모어(Max More), 제임스 휴즈(James Hughes), 닉 보스트롬(Nick Bostrom), 한스 모라벡(Hans Moravec), 레이 커즈와 일(Ray Kurzweil) 같은 대표적인 트랜스휴머니스트들의 이념이 21세기에 널 리 확장되어왔다. 그들은 일반적으로 스스로를 ‘종교적’이라기보다는 ‘철학 적’이고 ‘과학적’이라고 생각한다. 실제로 TH에는 종교의 중요한 특징 중 하나인 신념체계가 결여되어 있다. 따라서 삶의 의미에 대한 궁극적인 해답 을 제시하지도 않는다. 물론 <몰몬교 트랜스휴머니스트협회>라든가 <기독 교 트랜스휴머니스트협회>처럼 종교인들이 구성한 TH 조직뿐만 아니라 
‘트랜스종교’(transreligion)를 표방하는 <테라셈(Terasem) 운동> 같은 TH적인 
종교시스템도 있지만, 대부분의 트랜스휴머니스트들은 기도라든가 종교의 례를 행하지 않는다. 
그럼에도 티로시-사무엘슨(H. Tirosh-Samuelson)은 다양한 유형의 TH를 각각 상이한 방식으로 종교와 초월의 문제에 접근하는 “세속적 신앙”(a secular faith) 이라고 규정한다. 전술한 <휴머니티플러스>의 정의에서 볼 수 있듯이, 확실히 TH는 세속적이고 무신론적이다. 하지만 레이너(D. Rayner) 에 따르면 “무신론은 제4의 아브라함 종교”와 다름이 없다. 즉 무신론도 유 대교, 기독교, 이슬람에 이어 서구 유일신 전통에서 비롯된 하나의 종교라 는 것이다.  이런 견해에 따르자면 세속적이고 무신론적인 TH를 종교와 연관시켜볼 수 있는 여지가 생기는 셈이다. 

이와 달리 종교를 전(前)트랜스휴머니즘으로 보는 관점이 있다. 종교는 TH와 반대되는 것이 아니라 TH를 낳고 키우는 토양 혹은 씨앗이라는 것 이다. 역으로 TH를 전(前)종교적인 것으로 보는 관점도 있다.  여기서 조금 더 나아가 양자를 파트너 관계로 보는 견해 또한 가능할 것이다. 예컨대 인 간향상에 있어 TH와 종교는 좋은 파트너가 될 수 있다. TH도 종교도 인간 을 더 높은 단계로 고양시키며 인간의 한계로부터 자유롭게 해줄 수 있다고 기대되기 때문이다. 인간을 변형시킨다는 TH의 목표는 대부분의 종교가 내세우는 목표와 공통된다. 사실상 종교의 목표도 인간의 변형에 있기 때문 이다. 양자는 다만 그 목표에 이르는 통로가 다를 뿐이다. 대부분의 종교가 신적 존재와의 관계를 통해 이런 목적을 달성하려 한다면, TH는 과학을 통 해 그 목적을 이루고자 한다. 
TH와 종교의 파트너 관계는 양자의 유사성에 입각할 때 한층 더 강고 해질 수 있다. 트랜스휴머니스트들은 종말론, 신정론(theodicy), 구원론 등과 관련하여 종종 양자의 유사성을 언급한다. 

첫째, 레이 커즈와일은 테크놀로지적 특이점9이 가까워졌다고 주장한다.  
커즈와일을 비롯하여 버너 빈지(Vernor Vinge) 같은 특이점주의자(Singularitarian) 들은 초인공지능의 출현에 초점을 맞춘다. 그런데 초인공지능의 출현은 그 로 인해 인류가 대파국을 맞게 될 위험성을 내포하고 있다는 점, 그리고 급 격한 테크놀로지적 변화가 이루어지는 특이점은 역사적 시간 개념을 벗어 난 전혀 새로운 단계로의 전이를 시사한다는 점에서 본질적으로 종교적 종말론의 속성을 가진다.
cordiaabchao.wordpress.com/2014/08/14/paganroots/) 참조. 
 
둘째, 광의로서의 신정론을 ‘악과 고통의 문제’를 묻는 물음이라고 규정
할 수 있다면, 인간 한계에서 비롯되는 질병, 노화, 죽음 등의 악과 고통을 불필요한 것으로 간주하면서 테크놀로지를 통한 인간향상을 추구하는 TH 의 문제의식 또한 신정론과 동일한 물음의 범주에 속하게 된다. 이와 같은 TH적 신정론은 전통적인 기독교적 신정론 혹은 홀로코스트 이후 인간의  책임을 묻는 ‘인정론’(anthropodicy)을 훨씬 넘어서서 인간이 신이 될 것을 주 장하기도 한다. TH는 인간 발전에 있어 결정적인 단계다. TH적 신정론의 본질은 악과 고통의 존재를 신에 의해 정당화하는 것이 아니라, 어떻게 악 을 없애느냐 하는 데에 있다. 따라서 인간의 유한성을 넘어서서 신이 되는 것은 인간의 의무다. 그래야만 악의 문제가 최종적으로 해결될 수 있다는 것이다. 마크 워커(Mark Walker)는 이런 관점을 ‘네오-이레니우스적 신정론’ (Neo-Irenaean Theodicy)이라고 부른다.  

셋째, 홉킨스(P. Hopkins)는 종교도 TH도 동물성을 초월하려는 시도에 
있어서는 닮은꼴이라고 말한다.  양자 모두 ‘초월’이라는 구원론적 모티브 를 공유한다는 것이다. 이와 관련하여 현우식은 트랜스휴먼이 호모 사피엔
스로부터 호모 트란센덴탈리스(homo transcendentalis), 즉 ‘초월적 인간’으로 진화하고 있으며, 이 호모 트란센덴탈리스는 명백히 호모 사이엔티피쿠스
(homo scientificus, 과학적 인간)와 호모 렐리기오수스(homo religiosus, 종교적 인간)
를 포함한다고 지적한다. 

이처럼 종교와 TH의 유사성을 인정하는 지점에서부터 종교로서의 TH 를 주장하는 다양한 담론이 논의되어왔다. 가령 과학적 종교, 대체종교, 신 종교, 테크노-종교, 데이터-종교, 최후의 종교, 신영지주의, ‘참된 가짜’ 종 교로서의 TH 담론들이 그것이다. 먼저 드 가리스(H. De Garis)는 과학자들 의 종교를 ‘우주진화론주의’(cosmism)라고 부르면서, 이런 과학적 종교의 일 차 목적은 인공지능을 만드는 것이라고 밝힌다. 그들에게는 인공지능이 일 종의 종교인 것이다. 또한 사이보그주의자들의 목적은 그들 자신이 인공지 능신이 되는 데에 있다.14 이들은 로봇공학이 인간에게 신적인 힘과 권능을 부여해줄 것이라고 기대하면서, 불멸이라든가 사자의 부활 등과 같이 고래 로부터 오랫동안 종교가 목표로 삼아온 것들을 테크놀로지가 이룰 수 있으 리라고 믿는다.
한편 종교의 대안을 추구하는 대체종교로서의 뉴에이지 운동이나 스피
리추얼리티 운동도 TH와 그 목표가 유사하다. 마찬가지로 “낡은 종교 대신 과학적 세계관에 입각한 새로운 우주적 내러티브를 요청” 하는 TH 또한 일종의 대체종교로 볼 수 있다. 아마라신감(A. Amarasingam)은 여기서 더 나 아가 TH로 대변되는 미래학을 전통종교에 도전하는 하나의 신종교운동으 로 간주해야 한다고 주장한다. ‘묵시론적 인공지능’이라는 TH의 어젠다가 이미 우리의 공공생활과 현대의 종교적 다원주의 안에 들어와 있으며 현대 윤리학의 한 요소가 되어 있기 때문이라는 것이다.16 

유대인 역사학자 유발 하라리(Yuval N. Harari)도 신종교로서의 TH를 시 사한다. 그는 『호모 데우스』(Home Deus)에서 “새로운 종교는 실험실에서 탄 생할 것”이라고 말한다. “신과는 별 관계가 없고 기술과 관계있는 용감한” 이 신종교를 하라리는 ‘테크노-종교’(techno-religion, 기술종교)라 명명한다. 테 크노-종교는 사후에 천상의 존재들을 통한 것이 아닌 바로 지금 여기에서 테크놀로지의 도움으로 행복, 평화, 번영, 심지어 영생까지도 주겠다고 약 속한다. 그는 이런 테크노-종교의 두 유형으로 테크노-휴머니즘(techno-
humanism, 기술 인본주의)과 데이터-종교(data-religion, 데이터교)를 제시한다. 이 중 21세기의 테크노-휴머니즘은 유전공학, 나노기술, 뇌와 컴퓨터를 연결

14  Hugo de Garis, “The Artilect War,” Issues 98, March, 2012, pp.15~16.
하는 인터페이스의 도움으로 전혀 다른 초인간 모델인 ‘호모 데우스’(homo deus), 즉 훨씬 우수한 인간 모델로서의 신적 인간[神人]을 창조해야 한다고 주장한다.17 이에 비해 데이터-종교에 있어 우주는 ‘데이터의 흐름’으로 이 루어져 있고, 그런 우주에 존재하는 모든 것이 ‘만물인터넷’(Internet-of-AllThings)이라 불리는 “신과 같은” 데이터 처리시스템에 연결되어 있다. 이를테 면 ‘스피리추얼한 인터넷’ 이 마치 편재하는 신처럼 모든 것을 통제할 것 이고 인간은 전적으로 그 만물인터넷의 지배를 받게 된다는 것이다.19 이와 같은 테크노-종교는 종교의 최종적인 진화단계를 보여주는 듯하다. 그리하
여 브루얼(D. Bruere)은 하라리와 유사한 어조로, TH를 영지(靈知, Gnosis), 즉 ‘참된 지식’에 의한 구원을 추구했던 고대 영지주의(Gnosticism)와 유사성을 보여주는 ‘최후의 종교’ 로 이해한다.  
한편 모라벡은 『마음의 아이들』 에서 인간의 마음을 컴퓨터나 로봇에 다운로드하거나 업로드하는 문제를 다루고 있다. 나아가 그는 지구의 모든 과거 거주자들의 부활과 마음 이식이 가능해지는 미래를 묘사하기도 한다. 종교학자 이창익에 따르면 “이런 모라벡의 상상력은 종교적 상상력과 무척 닮아 있다. 가령 마음 이식을 통해 하나의 영혼이 동시에 여러 개의 신체를 소유할 수 있고 연속해서 다른 신체를 경험할 수도 있다는 생각은 환생이나 윤회의 기계적 실현을 가리킨다. 그는 영혼의 부활에 대해서도 이야기한다. 이는 기계라는 미래의 신체에 다운로드되는 과거의 영혼(마음)으로 이해된 다. 이것은 종교적 세계의 기계적 실현이자 종교가 사라진 세계다. 이리하 여 그는 신체에서 해방된 ‘우리의 마음이 낳은 아이들’이 거주하는 현세적 내세를 그리고 있는 것이다.”22

17  유 발 하라리, 김명주 옮김, 『호모 데우스』, 김영사, 2017, 481~483쪽.

이와 같은 모라벡의 발상 또한 “육체에서 해방된 마음 혹은 영혼”이라는 
영지주의적 주제의 각색이라 할 수 있다. 그런데 영지주의는 불완전하고 악 한 신 데미우르고스에 의해 창조된 이 세상은 참된 세상이 아니라고 보았
다. 이와 관련하여 인간 몸에 대한 TH의 관점이, 몸이란 영혼을 가두어놓은 사악한 함정이나 감옥일 뿐이라고 보는 ‘신영지주의’로 간주되기도 한다.  종교학자 데이비드 치데스터(D. Chidester)는 『참된 가짜』에서 종교를 “초 인간적인 것 및 하위인간적인 것과 관련시켜 인간이 된다는 것의 의미를 절 충하고 극복하려는 것”으로 정의한다. 여기서 ‘참된 가짜’란 종교가 일련의 사기적인 관행임에도 불구하고 진정한 종교적 효과를 야기한다는 것, 가령 초월의 감각을 제공하거나 인간 행동에 대한 의미를 확장시킨다거나 혹은 공동체를 확립시켜주는 역할을 해왔음을 가리키는 표현이다.  게라시(R.M. 
Geraci)에 따르면 TH의 묵시론적 인공지능의 특징적 요소들은 이와 같은 ‘참된 가짜’를 잘 보여주는 사례라 할 수 있다. TH는 미래에 초인간적인 상 태에 도달할 수 있으리라고 믿음으로써, 치데스터가 정의하는 종교, 즉 인 간이라는 의미의 극복과 관련된 신념과 실천을 정확히 보여주기 때문이라 는 것이다. 
이런 ‘참된 가짜’의 개념을 하라리는 ‘공유된 허구’ 혹은 ‘상상의 질서’라 고 바꿔 말한다. 하라리에 따르면 “21세기에 역사학과 생물학의 경계가 흐 려질 가능성이 높은 이유는 우리가 역사적 사건들에 대한 생물학적 설명을 찾을 것이기 때문이 아니다. 그보다는 이념(ideology)이라는 허구(fiction)들이 유전자 가닥들을 고쳐 쓸 것”이기 때문이다. 또한 “21세기에 허구는 소행성
22  이 창익, 「인간이 된 기계와 기계가 된 신」, 『종교문화비평』 31, 2017, 223~224쪽.
과 자연선택을 훨씬 능가하는, 지구상의 가장 강력한 힘이 될 것이다. 그러 므로 우리가 미래를 이해하고 싶다면, 게놈을 해석하고 통계수치를 처리하 는 것만으로는 부족하다. 우리는 세계에 의미를 부여하는 허구들도 해독해 야 한다.”26 여기서 ‘허구’란 사회적 조화를 위해 공유된 어떤 것을 가리키 고, ‘이념’이란 주로 종교와 과학에 관련된 어떤 것을 가리킨다고 보인다. 이와 관련하여 하라리는 “근대 과학은 확실히 게임의 룰을 바꾸었지만, 그 렇다고 신화를 사실로 대체한 것은 아니다. 신화는 계속 인류를 지배하고 있고, 과학은 그런 신화를 더 강화할 뿐”27이라고 말한다. 요컨대 TH로 대 변되는 과학, 그리고 신화로 대변되는 종교는 이데올로기적 허구이며, 그 자체가 또 하나의 ‘새로운 종교’인 휴머니즘28은 이와 같은 자기기만의 능 력, 즉 우리의 공유된 허구들에 광적으로 자신을 맡기는 능력에 기초하고 있다는 것이다. 다분히 포스트 휴머니즘을(따라서 TH도) 이런 휴머니즘의 한 변형체로 보는 듯한 하라리는 “당대의 기술적 현실들을 알지 못하는 종교는 요청되는 문제가 무엇인지를 이해하는 능력을 상실하게 될 것”(필자의 윤문) 이라 하여 종교와 TH가 같은 배를 탄 공동운명체임을 시사한다. “종교와 기술은 서로를 밀고, 서로에게 의존하고, 서로에게서 멀리 벗어날 수 없”29 기 때문이다.
세속적 신앙 혹은 무신론적 종교로서의 TH, 종교의 파트너로서의 TH, 
종말론· 신정론· 구원론 등에 있어 종교와 TH의 유사성, 과학적 종교, 대체 종교, 신종교, 테크노-종교, 데이터-종교, 최후의 종교, 신영지주의, ‘참된 가짜’ 종교로서의 TH를 말하는 이상의 관점들은 각각 상이한 맥락을 가지 면서도 공통적으로 종교와 TH가 양립 가능하다는 점을 시사한다. 이리하 여 이창익은 인간의 영혼을 기계로 대체하려는 트랜스휴머니스트적 기획이 란 일종의 종교 이야기라고 천명한다. “종교는 인간이 스스로를 지우고자 

26 유 발 하라리, 『호모 데우스』, 203, 215~216쪽. 
27 유 발 하라리, 『호모 데우스』, 249~250쪽. 
28 유 발 하라리, 『호모 데우스』, 307쪽.
29 유 발 하라리, 『호모 데우스』, 372쪽. 

하는 이야기, 심지어 욕망과 시간과 영혼까지도 지우고자 하는 이야기, 식 물이나 동물 심지어 광물이 되고자 하는 이야기이기 때문”이며, “인간이 인 간이기를 멈추고 인간 아닌 것, 인간 너머의 것이 된다는 것은 바로 종교적 사유의 전형적인 특징”이기 때문이라는 것이다.30 

3. 애 니미즘의 일본지(日本誌):  
네오-애니미즘, 테크노-애니미즘, 신불-애니미즘 

1) 네오-애니미즘

이처럼 인간, 동물, 식물, 광물 등의 경계가 삼투압적인 종교적 사유를 대표 하는 것으로 애니미즘을 들 수 있다. 20세기 초 타일러(E.B. Tylor)가 주장한 ‘만물에 내재하는 정령 혹은 영적인 존재들에 대한 믿음’이라든가 ‘최소한의 종교 정의’를 가리키는 ‘애니미즘’이라는 용어는 학계에서는 오래 전에 폐기 되었으나 대중적으로는 매우 강력하게 살아남았고, 근래에 들어 생태학이나 인류학의 네오-애니미즘 논쟁 및 종교학 등에서 ‘새로운 사유를 열어줄 수 있는 개념’으로서 학문적으로 다시 주목받고 있다. 이런 ‘새로운 사유’와 관 련하여 인간과 비인간 사이의 ‘관계론적 인식론’(relational epistemology)에 특 히 유념할 필요가 있다. 즉 애니미즘은 몸-마음의 서구적 이분법을 넘어 상 관적인 관점에서 재해석되어야만 한다는 것이다.31  이에 따라 애니미즘이라는 용어는 오늘날 타일러의 어법이 아닌 오지브
와(Ojibwa) 담론에 따른 어법으로 사용되고 있다. 인류학자 어빙 할로웰(I. Hallowell)은 아메리카 원주민 오지브와 족의 연구를 통해 ‘퍼슨’(person)이라 는 용어를 인간만이 아닌 모든 종에 포괄적으로 사용할 것을 주장하면서, 
‘인간과는 다른 퍼슨들’(other-than-human persons)이라는 말을 주조하여 인간

30 이 창익, 「인간이 된 기계와 기계가 된 신」, 220쪽.
31 대 표적으로 데스콜라(Philippe Descola), 비베이로스 드 카스트로(E. Viveiros de Castro), 버드-데이 빗(Nurit Bird-David), 호른보르크(A. Hornborg) 등의 주장을 들 수 있다. 

도 그 세계의 일부를 구성하는 활물(animate beings)임을 주장한다. 이때 퍼슨 이란 가령 ‘사람 퍼슨’과 ‘사람이 아닌 퍼슨’,32 ‘선더버드 퍼슨’과 ‘선더버드 가 아닌 퍼슨’, ‘바위 퍼슨’과 ‘바위가 아닌 퍼슨’ 등과 같이, 사람 외에도 새 라든가 바위 따위를 가리키는 말이다. 이처럼 할로웰은 인간에게 특권적인 지위를 부여하지 않았으며, 어떤 것을 퍼슨으로 만드는 것이 인간과의 유사 성에 있다고 말하지도 않았다. 할로웰은 퍼슨을 인간적 속성이나 행위에만 관련된 것으로 규정하지 않는다. 그것은 ‘사람이 아닌 것’을 포함하는 범주, 즉 ‘인간’보다 훨씬 더 크고 포괄적인 범주다.  

종교학자 그레이엄 하비(G. Harvey)는 이런 퍼슨이라는 말을 모든 종 사
이의 유사성을 가리키는 개념으로 이해한다. 인간을 비롯하여 각 종들 간의 차이는 이런 유사성 안에서의 차이일 뿐이라는 것이다. 이는 자연 세계의 관계론적 속성에 주목하는 관점이라 할 수 있다. 퍼슨들은 그들이 특별한 방식으로 다른 퍼슨들과 관계할 때 비로소 퍼슨으로 인식될 수 있다는 것이
다. 따라서 오지브와 담론에서 애니미즘은 구성원 대부분이 ‘인간과는 다른 퍼슨들’의 공동체 안에서 잘 살고자 하는 시도를 지칭한다. 그것은 다양한 관계론적 존재론과 인식론을 가리킨다.  하비는 애니미즘을 “세계가 퍼슨 들의 공동체이며 그 가운데 일부만이 인간이라고 이해하는 세계관에 주어 진 꼬리표” 라고 재정의한다. 이때 인간은 퍼슨들로 구성된 애니미즘적 세 계의 일부가 되며, 사람이 아닌 것들도 퍼슨의 범주에 속하게 된다. 다시 말 해 퍼슨이라는 범주는 자의식을 가진 개인의 내적 속성, 즉 신념, 합리성, 주체성 등과 같은 인간의 내면성의 관점에서 인격성(personhood)을 파악하는 서구적인 이해와는 전혀 다른 것이다. 하비는 이와 같은 네오-애니미즘적 관점에 입각하여 종교에 대해서도 

32   오지브와 족은 죽은 조상의 영을 ‘사람이 아닌 퍼슨’으로 지칭한다. Irving Hallowell, “Ojibwa Ontology, Behavior, and World View,” T.S. Smith, The Island of the Anishinaabeg, University of Idaho Press, 1995, p.4.

“상관적이고 물질적이며 참여적인 세계 안에서 함께 거주하는 퍼슨들 사이 에 이루어지는 하나의 교섭(negotiation)” 나아가 “그렇게 상관적으로 실재하 는 세계 안에서의 에티켓 체계(etiquette system)”라고 새롭게 정의한다. 종교 는 다양한 ‘퍼슨’들로 구성된 종들 사이의 에티켓으로부터 시작되었다는 것 이다. 여기서 에티켓이란 사람들의 행위규범이나 의식(ritual), 혹은 인간보 다 더 큰 세계(‘퍼슨’들의 세계: 필자)에 있어 인간의 삶 전체에 걸쳐 영향을 미 치는 퍼슨들 간의 관계성과 관련된 하나의 공적(公的)인 교섭을 의미한다.  그런데 어찌 보면 야나기 무네요시(柳宗悦)가 말하는 ‘다도의 종교’37라 든가 ‘가타(型)의 문화’가 일상화되어 있는 일본이야말로 이런 ‘에티켓으로 서의 종교’가 잘 발달된 사례일지도 모른다. 17세기 말 일본을 여행한 독일 인 외과의사 캠퍼(Engelbert Kaempfer)는 그의 『일본지』에서 일본을 “세계 어 떤 나라에도 뒤지지 않을 만큼 예의바르고 정중하며 호기심에 가득 찬 나 라” 로 묘사하고 있다. 그를 감탄케 한 것은 몸에 붙은 예의범절이 일본사 회 전체에 두드러지게 나타난다는 점이었다. 그래서 캠퍼는 “비천한 시골촌 부에서 고귀한 계층에 이르기까지 일본인의 행위 작법은 제국 전체를 시민 적 교제(civility)와 에티켓(good manners)의 학교라고 불러도 좋을 만큼 뛰어나 다” 고 격찬한 것이다. 

2) 테크노-애니미즘

카스퍼 젠슨(C. Jensen)과 앤더스 블록(A. Blok), 앤 앨리슨(A. Alison)은 이런 ‘에 티켓의 학교’로서의 일본에 네오-애니미즘을 적용시킨 것을 ‘테크노-애니미
즘’(techno-animism)이라고 부른다. 가령 젠슨과 블록은 인간이 아닌 것들, 즉 
앞서 언급한 퍼슨들의 세계와 맺는 관계의 운반체로서 신도(神道)를 지목한 다. 신도는 복잡하고 근대화된 고도의 테크노-과학적인 일본 안에 “살아 있 는 애니미즘의 한 형태”라는 것이다.  젠슨과 블록은 다음과 같이 지적한다. 

일본의 테크놀로지 문화에 관한 논의에서는 자주 신도적인 것이 일본 고래의 영적 신앙과 우주론적 상상력의 애니미즘적 층을 구성하는 것으로서 언급되곤 한다. 그때 일본은 신도적인 것이 스며들어 있는 ‘테크노-애니미즘’의 나라로 묘사될 수 있다. 거기서 우리는 인간, 동물, 영적 존재, 기계적 존재 간의 경계를 
단호하게 해체하는 다형적 도착성(polymorphous perversity)을 엿볼 수 있다. 신도
는 인간이 아닌 존재들의 내재적· 감성적· 매혹적인 힘들을 해석하는 데에 흥 미로운 소재를 제공한다. 그럼으로써 신도적 테크노-애니미즘은 과학, 정치, 생 태학, 우주가 서로 얽혀 있는 현대 상황에 관한 한층 더 폭넓은 사고를 불러일
으킨다.  

위 인용문은 네오-애니미즘이 그렇듯이 테크노-애니미즘 또한 새로운 
지적 영역을 열어주리라는 기대를 표출하고 있다. 실제로 신도를 논하는 많 은 일본인은 신도의 특징으로 무엇보다 자연과의 애니미즘적인 친화력을 꼽곤 한다. 이때 ‘자연’이 정확히 무엇을 의미하는가에 유의해야 한다. 일본 에서는 “자연을 아끼자”(自然にやさしい)라는 표어가 늘 회자되는데, 이때의 자연은 네이처(nature)의 번역어다. 원래 근대 일본인은 네이처를 두 가지 단 어로 번역했다. ‘덴넨’(天然)과 ‘시젠’(自然)이 그것이다. 이 중 덴넨이 자연 그 자체를 의미한다면, 시젠은 이념화된 자연을 가리킨다. 오늘날 일본인이 자 연(시젠)을 말할 때 그 실질적인 내용은 종종 덴넨을 인공적으로 바꾼 것을 의미할 때가 많다. 가령 “이렇게 하는 편이 더 자연스럽다”고 하며 덴넨에 인위를 가하여 바꾸는 것이 일본 정원술의 특징이다.42 그러니까 일본인이 생각하는 자연 혹은 애니미즘이란 애초부터 인공성과 쉽게 결합될 수 있는 소지를 내포하고 있다는 말이다. 

이에 비해 일본을 “테크노-애니미즘의 고향”이라고 말하는 문화인류학

자 앤 앨리슨은 『세기의 괴물들』에서 각종 장난감과 캐릭터 상품들에 대한 고찰을 통해 일본적 테크노-애니미즘의 특징을 제시하면서, 일본의 사회생 활에 깊이 스며들어 있는 ‘애니미즘적 무의식’(animist unconscious)에 주목한 다. 그런 애니미즘적 무의식으로 인해 일본 문화에는 첨단 테크놀로지와 스 피리추얼한 것들이 쉽사리 뒤섞여 공존하게 되었다는 것이다. 앨리슨은 이 와 같은 애니미즘적 감각을 인간과 인간 아닌 것의 경계, 혹은 자연과 테크 놀로지의 경계를 분명하게 구획 짓지 않는 일본의 민속전통, 신도, 불교적 관념과 연관시켜 이해한다. 가령 앨리슨은 전후 일본의 대중문화에 지속적 으로 나타나는 테크노-애니미즘의 출발점으로 데즈카 오사무(手塚治虫)의 만화 『철완 아톰』(1963)을 들고 있다. 이 작품은 인간과 비슷한 마음이나 영 혼을 가지고 있는 로봇 소년을 상정하고 있는데, 이런 일본 대중문화는 “모 든 것에 영혼이 깃들어 있고, 바위에서 개미에 이르기까지 우주만물에 스피 리추얼리티가 스며들어 있다”는 일본의 애니미즘적 종교 전통에 의해 고취 되었다는 것이다.  
요컨대 테크노-애니미즘은 근본적으로 일본이라는 몸에 딱 맞는 옷 같
은 것이라는 말이다. 이때의 테크노-애니미즘이란 “상품소비주의의 물질적 실천 안에 깊이 스며들어 있는 하나의 스타일로서, 현대 테크놀로지와 상품 에 영혼과 생명을 부여하고 뉴에이지적 관행을 통해 문화적 전통을 되살리 는 것” 을 가리킨다. 1990년대 이후 일본 애니메이션이나 게임 관련 캐릭 터 상품들이 세계 각지로 수출되었다. ‘파워레인저’, ‘도라에몽’, ‘울트라맨’, ‘드래곤볼’, ‘세일러문’, ‘마징가Z’, ‘건담’, ‘다마고치’, ‘포켓몬스터’, ‘헬로우 키티’ 등을 비롯한 각종 캐릭터 상품, 특히 로봇이나 사이보그 캐릭터를 조 형화한 피규어 상품 등을 들 수 있다. 앨리슨은 이런 상품들에 대해 발터 벤 야민의 개념을 빌려 ‘마법의 상품’(enchanted commodities)이라고 명명한다.  그녀의 주장에 따르면, ‘포켓몬스터’나 ‘세일러문’ 같은 장난감 캐릭터들은 마치 생명이 부여되어 살아 있는(animated) 것 같은 명확한 속성을 공유하고 있다. 일본인들은 장난감 피규어들에게 생명과 행위주체로서의 속성을 불 어넣는다든지, 로봇과 동물을 인간과 비인간의 경계가 해체된 그런 세계 안 에 함께 위치시키기를 좋아한다는 것이다. 

한편 종교와 미디어의 관계에 천착해온 스테프 어퍼스(S. Aupers)는 「기 계의 복수: 근대성, 디지털 테크놀로지, 애니미즘에 관하여」라는 글에서 테 크노-애니미즘에 대한 사회학적 분석을 시도한다. 앨리슨이 ‘마법의 상품’ 을 테크노-애니미즘의 일본적 구현물로 이해한 것에 비해, 어퍼스는 막스 베버가 말한 탈마법화(disenchantment)를 뒤집은 재(再)마법화(re-enchantment) 의 관점에서 테크노-애니미즘과 TH의 관계 일반을 언급한다. 이때 어퍼스 는 특히 인터넷 전문 저널 『와이어드』(Wired)에 주목한다. 이 저널의 기고자 중에는 스스로를 포스트모던 시대의 애니미즘주의자라고 여기면서 테크 노-샤먼이라든가 테크노-마녀라고 자칭하는 이들이 적지 않기 때문이다. 어퍼스는 이런 컴퓨터 전문가들을 ‘테크노-애니미즘주의자’로 보면서, 그 사회학적 배경으로 재마법화의 과정을 추적하고 있다. 즉 근대 후기의 인간 들은 스스로가 일종의 시뮬레이트된 인공적인 ‘마법의 정원’에 살고 있음을 알게 되었다. 이들에게 신비로 경험된 것은 자연이 아니라 다름 아닌 인간 이 만든 테크놀로지적 환경이었으며, 더 중요한 것은 테크놀로지의 영역 안 에 테크노-애니미즘적인 관념과 정조가 존재한다는 사실이다. 이와 같은 고대적 형식의 종교인 테크노-애니미즘의 출현은 합리화의 가속화 과정이 낳은 직접적이고도 예상치 못한 결과, 혹은 ‘비합리적인’ 부대효과라 할 수 있다. 합리화의 과정이 종교의 소멸이 아닌 재마법화를 초래했다는 것이다. 즉 테크놀로지의 발전이 한편으로 테크놀로지 자체의 신비화 혹은 마법화 (주술화)를 수반했다는 말이다.46 그러니까 물질적 환경에 대한 애니미즘적 관점과 인공지능 및 인공생명 공학 분야의 테크놀로지 발전 사이에 유비적 관계가 존재한다는 것인데, 사 실 이런 테크노-애니미즘은 앞서 젠슨과 블록, 앨리슨이 밝혔듯이 일본에 서 매우 뚜렷한 형태로 확인된다. 가령 TH라는 주제에 천착한 대표적 작품 인 오시이 마모루(押井守) 감독의 애니메이션 <공각기동대>(1995)와 그 속편 인 <이노센스>(2004)는 전형적인 사례라 할 수 있다. 이 두 작품은 오로지 ‘고스트’(인간의 마음, 의식, 기억, 감정, 영혼)만 남겨놓고 인간의 몸 전체가 기계 와 인공두뇌로 대체된 사이보그를 비롯하여 안드로이드 로봇이나 인형들의 세계를 무대로 전개된다. 인간만이 세상의 중심이 아님을 보여주는 작품 속 세계는 인간과 비인간의 경계가 지극히 애매해진 테크노-애니미즘적 특징 을 잘 구현하고 있다. 네오-애니미즘의 연장선상에 있는 테크노-애니미즘 의 가장 큰 특징은 ‘인간과 기계 간 불연속의 해체’47에 있는데, <공각기동 대>와 <이노센스>는 바로 인간과 기계의 경계가 애매해진 세계를 묘사하고 있기 때문이다.48

<공각기동대>의 여전사 사이보그 구사나기는 테크놀로지의 확장 앞에 서 끊임없이 아이덴티티의 위기를 느끼면서 “인간이란 무엇인가?”를 반문 하며 고뇌한다. 그 결과 구사나기는 컴퓨터 프로그램인 해커 인형사와의 융 합을 선택한다. 이는 테크놀로지를 통한 한층 더 진화된 상태로의 궁극적인 상승을 암시한다. 경계 해체의 표상인 ‘인간과 기계의 융합’이라는 이와 같 은 TH적 상승은 단지 테크놀로지의 급격한 발전에 의해서만 일어나는 것 이 아니다. 그것은 분명 인간의 한계를 넘어서려는 오래된 욕망에서 비롯된 

46 Stef Aupers, “The Revenge of the Machines,” p.200, pp.216~218.
47 매 즐리시(Bruce Mazlish)에 따르면 인간과 기계의 불연속은 인류에게 있어 ‘네 번째 불연속’에 해당 한다. 코페르니쿠스가 천체와 지상의 불연속을 제거했다면, 다윈은 인간과 동물 사이의 불연속적 구 분을 해체했다. 한편 프로이트는 유아적인 본성과 문명화된 성품 혹은 병든 정신과 건강한 정신의 연속성을 입증했다. 이에 비해 TH은 인간과 기계의 불연속을 해체했다는 것이다. 신상규, 『호모 사 피엔스의 미래』, 50쪽.
48 오 시이 감독의 작품에 나타난 경계전이적 상상력에 관해서는 Park Kyutae, “A Study on Mamoru 
Oshii: Identity and Border in Japanese Animation,” 『일본사상』 15, 2008, 121~129쪽 참조.
것이기도 하다. 서수정에 따르면, “사이보그는 전지전능함을 향한 인간 의 지의 집결점이며 스스로 신이 되겠다고 선언하는 인간의 무의식적 욕망의 실험장”49과 다름 없다.
<공각기동대>와 <이노센스>는 인간의 자기 확장 가능성을 테크놀로지 에서 찾고 있는데, 이는 인간향상을 적극적으로 강조하는 TH의 목표와 정 확히 일치한다. 오시이는 <공각기동대>와 관련된 한 인터뷰에서 “이데올로 기도 종교도 인간을 변혁시킬 수 없다면 우리에게 남겨진 가능성은 테크놀 로지밖에 없다는 생각을 했다. 영화의 마지막에 등장하는 소녀(구사나기와 인 형사가 융합한 의체: 필자)는 그런 의미에서 테크놀로지가 탄생시킨 새로운 인 간이며, 새로운 시대의 이브라 할 수 있다. 단, 그 소녀가 신의 모습일지 악 마의 모습일지는 단정 지을 수 없다”50고 말한다. 여기서 ‘새로운 인간’이란 바로 TH가 지향하는 ‘포스트휴먼’51을 연상케 한다. 이는 테크놀로지와의 융합이란 인류가 자신의 진화를 완성하기 위해 필연적으로 포용해야 할 어 떤 것이며, 포스트휴먼이야말로 다음 단계의 참된 인간성이 될 수밖에 없다 는 오시이의 비전을 시사한다.  이와 더불어 오시이는 위에 인용된 인터뷰 의 말미에서 엿볼 수 있듯이 TH와 포스트휴먼 혹은 테크노-애니미즘의 위 험성에 대해서도 열린 물음의 여지를 남겨놓고 있다. 
3) 신불(神佛)-애니미즘

이 대목에서 테크놀로지와 애니미즘을 결합시킨 신조어 테크노-애니미즘 의 구체적인 일본적 맥락에 대해 살펴볼 필요가 있다. 네오-애니미즘 담론

49 서 수정, 「애니메이션에 나타난 ‘현대 사이보그’ 특성: <공각기동대>와 <이노센스>를 중심으로」, 『한 국콘텐츠학회논문지』 7(4), 2007, 152쪽.
50 오 시이 마모루 인터뷰, “지금도 답을 찾고 있다.” 안영순, 「<공각기동대>와 <이노센스>에 나타난 오시 이 마모루의 존재 인식」, 『순천향 인문학논총』 15, 2005, 169쪽 각주 21. 
51 트 랜스휴머니스트들은 인간이 한층 더 확장된 능력을 갖춘 존재로 자신을 변형시킬 수 있다고 예언 하면서 이렇게 변형된 인간을 ‘포스트휴먼’이라고 부르기도 한다. 

이 등장하기 이전에 애니미즘이라는 말은 서구의 인류학 담론에서 거의 폐 기된 용어였다. 그러나 그 와중에도 “오직 일본에서만은 애니미즘이라는 개 념이 일본 문화의 독특성을 설명하거나 일본사회의 모델을 구축하는 수단 으로 널리 사용되어왔다.”53 이런 경향과 관련하여 2001년 창간된 본격적인 종교비평 저널 『현대종교』는 간행사에서 “일본인의 종교성의 근저에 있는 애니미즘은 종교인가? 일본에서는 ‘종교’의 미래에 큰 희망을 걸지 않는 사 람들이라 할지라도 ‘종교적인 것’이라든가 ‘애니미즘’에는 많은 희망을 걸 기도 한다”54고 적고 있다. 실제로 오늘날 일본에서는 다양한 영역에 걸쳐 애니미즘 복권의 움직임이 두드러진다. 예컨대 일본판 뉴에이지인 ‘정신세 계’와 그 흐름을 이어받은 ‘신영성운동’55 및 이른바 ‘영성적 지식인’이라 불 리는 일군의 지식인들, 또는 일본인론 및 일본교론 논자들에 의해 애니미즘 의 다양한 버전이 재생산되어왔다. 근래에는 “기독교와 서양문화를 배경으 로 하는 ‘스피리추얼리티’라는 말과 애니미즘적 색채가 농후한 일본 문화를 연상시키는 ‘이노치’(命)라는 말이 때로는 교차하거나 때로는 중첩되면서 흥륭”56하고 있다.

먼저 대표적인 영성적 지식인들에 의한 애니미즘 담론에 대해 생각해보 자. 우메하라 다케시(梅原猛)에 따르면, 일본 종교의 뿌리는 조몬인들의 수렵 채집문화에 기반을 둔 애니미즘적 고신도(古神道)에 있다. ‘애니미즘’이라든 가 그것에 토대를 둔 ‘일본적 영성’ 혹은 ‘애니미즘적 영성’에 입각한 우메 하라 일본학은 ‘나무와 숲의 종교’인 일본의 신도 및 불교 사상에 내장된 생 명사상과 일본적 영성이 인류에 침투할 때 비로소 인류가 살아남을 가능성 이 생길 것이라고 주장한다.57 다시 말해 애니미즘적인 ‘숲의 사상’이 세계
53 J . Clammer, “Shinto dreams: Difference and the Alternative Politics of Nature,” Japan and Its Others: Globalization, Difference and the Critique of Modernity, Rosanna, Vic.: Pacific Press, 2001, p.217.
54 国際宗教硏究所 編, 『現代宗教 2001』, 東京堂出版, 2001, 6쪽. 
55 ‘정신세계’와 ‘신영성운동’에 대해서는 박규태, 『포스트-옴 시대 일본사회의 향방과 ‘스피리추얼리 티’』, 특히 37~52쪽 참조.
56 島薗進 , 『スピリチュアリティの興隆』, 岩波書店, 2007, 40쪽. 
57 梅原猛, 『〈森の思想〉が人類を救う』, 小学館, 1991, 특히 232~237쪽.
를 구원할 수 있으며, 그런 애니미즘적 고신도야말로 미래 인류의 종교라는 것이다. 야마오리 데쓰오(山折哲雄)도 이와 유사한 어조로 자연을 대하는 일 본인의 독특한 애니미즘적 감각과 심정이 일본인의 종교관의 모태를 형성 했다고 말한다. 그에게 애니미즘이란 ‘인간과 신 사이의 열려진 경계’ 또는 ‘자연과의 조화’를 의미하는데, 이것이 일본 종교의 가장 중요한 특징으로 간주된다. 그는 이런 애니미즘적 감각을 잘 보존하고 있는 일본이야말로 현 대사회의 문제 해결에 중요한 역할을 할 것이라고 주장한다. 여기서 더 나아 가 신도적 영성을 강조하는 가마타 도지(鎌田東二)는 『덴카와 만다라: 초종교 에의 수로』58에서 애니미즘, 샤머니즘, 다신교가 잘 보존되어 있는 나라 현 소재 덴카와(天河) 신사가 ‘신성한 자연의 정적’을 경험하게 해준다면서 그런 자연 경험이 바로 ‘영성’으로 지칭되는 ‘초종교’의 경험이라고 말한다. 
이에 비해 종교학자 나카자와 신이치(中沢新一)는 정토진종의 창시자 신
란(親鸞)을 조몬과 불교를 접합한 인물로 높이 평가한다. 즉 정토진종에서 조몬적 애니미즘의 성격을 띤 ‘증여의 사고’를 보는 나카자와는, 신란의 절 대타력 사상은 순수증여자로서의 아미타불이 아낌없이 베푸는 무한한 자비 를 받아들이기 위해 자신의 의지를 완전히 버리게(無私) 한다고 말한다. 더 나아가 나카자와는 일본 불교를 “애니미즘적 사고와 불교의 철학적 이치가 융합하여 마침내 일본인이 납득할 만한 종교로 거듭난 것”으로 이해하기도 한다. 이와 같은 이해는 ‘창조적인 애니미즘’이라든가 ‘불교의 조몬적 요소 에 대한 발굴의 필요성’을 주창하는 나카자와에게는 매우 자연스러운 귀결 이라 할 수 있다.59 한편 민속학자 고마쓰 가즈히코(小松和彦)에 따르면 일본 의 요괴는 애니미즘적 색채를 잘 보여준다. 고마쓰는 일본 요괴현상의 가장 중요한 문화적 배경으로 고래의 애니미즘 신앙을 들고 있다. 산, 강, 나무, 물, 바위 등 존재하는 모든 것에는 영혼이 깃들어 있는데, 그 영이 인간에게 잘못된 생각이나 악의를 품고 재앙을 일으킬 때 그것은 모두 요괴가 된다는 
58 鎌田東二 · 津村喬 編, 『天河曼陀羅: 超宗教への水路』, 春秋社, 1994.
59 가 와이 하야오· 나카자와 신이치, 『불교가 좋다』, 김옥희 옮김, 동아시아, 2004, 83쪽, 133~135쪽.
것이다. 나아가 이런 애니미즘적 관념은 일본에서 자연물을 가공하여 만들 어낸 기물이나 도구에까지 확장된다. 즉 기물이나 도구에도 영혼과 정령이 깃들어 있어 그것을 어떻게 사용하느냐에 따라 인간에게 재앙을 불러일으 킬 수도 있다고 여겼고 그런 관념이 요괴를 만들어내기도 했다. ‘쓰쿠모가 미’라는 요괴가 바로 그것이다.60 고마쓰는 이와 같이 애니미즘이 투영된 요 괴 연구를 통해 일본 문화의 심층을 엿보고자 한다.

이들과 더불어 일본의 애니미즘 담론을 대표하는 인물로 문화인류학자 
이와타 게이지(岩田慶治)를 꼽지 않을 수 없다. 그는 『가미와 신(神): 애니미 즘 우주의 여행』(1984)과 『애니미즘시대』(1993)에서 애니미즘적 가미(神) 체 험이야말로 가장 근원적인 종교이며 모든 종교의 뿌리가 되는 초종교로서, 그것은 곧 본래의 자신과 만나는 체험이라고 주장한다. 이와타에 따르면 애 니미즘은 미발달된 초기의 종교 형식이 아니다. 그것은 하나의 ‘우주적 감 각’이며, 따라서 애니미즘 연구는 인간과 우주(자연)의 관계를 재구성하도록 우리를 도와준다. 그리하여 이와타는 종래 부정적으로 평가받아온 애니미 즘의 중요한 의미를 재발견하고 재평가함으로써 애니미즘의 복권을 기도하 는 이른바 ‘신애니미즘’을 주창한다.61
위에서 소개한 애니미즘의 복권을 주장하는 영성적 지식인들의 담론은 크게 보면 이른바 ‘일본인론’(=일본문화론)이라는 일본 특유의 지적 장르에 속 해 있다. 종교학자 시마조노 스스무(島園進)는 일본인론을 ‘일본교론’의 관점 에서 파악한 바 있는데,62 1990년대 전반에 절정을 이룬 일본교론 및 일본인 론은 외국의 세계종교를 비판하고 ‘일본교’,63 신도, 애니미즘을 칭송함으로 써 일본인의 아이덴티티를 확인하는 데 주력해왔다. 그 특징 중 하나인 일본 중심주의와 신국 내셔널리즘은 자연을 신성시하는 애니미즘적인 신도적 감 수성, 조상신을 비롯하여 인간을 신으로 모시는 오래된 풍습, 유한한 인륜적 
60 고 마쓰 가즈히코, 「일본의 요괴관에 대하여」, 『현대일본의 요괴문화론』, 제이앤씨, 2014, 4~6쪽. 
61 岩田慶治 , 『カミと神』, 講談社学術文庫, 1989, 46쪽.
62 島薗進 , 『ポストモダンの新宗教』, 東京堂出版, 2001, 138~170쪽 참조.
63 ‘ 일본교’에 관해서는 박규태, 「‘일본교’와 ‘스피리추얼리티’」, 『일본비평』 5, 2011 참조.
조직을 절대시하는 일본인의 사유방식 등이 만들어낸 복합적인 주조물이라 할 수 있다.
이상과 같은 영성적 지식인들과 일본인론자들의 애니미즘 담론에 이어 2011년 3 · 11동일본대지진 이후의 탈원전운동에서는 종교단체와 우익, 좌 익을 가릴 것 없이 “이노치를 지켜라”는 주장이 자주 등장했다. 일본어 ‘이 노치’(命)는 일반적인 ‘생명’ 개념에서 더 나아가 대자연의 작용 자체를 가 리키는 말로, 불교의 『법화경』 사상과 불성(佛性) 사상 및 전술한 애니미즘 재평가의 움직임과 밀접한 관계가 있다. 다이쇼 시대의 ‘생명주의’까지 거 슬러 올라가는 이노치 관념에서 인간은 이노치에 의해 ‘살려지고’ 자연과 상호 연관되어 있으며, 동시에 양자가 서로 연대하면서 이노치를 구성한다. 또한 이노치 관념은 우주를 하나의 생명으로 보고 그 근원적 생명이 인간의 본성이라 주장하며 신인합일(神人合一)을 통해 생명력 넘치는 사회를 만드는 것을 목표로 삼는 일본 신종교 교단들의 이른바 ‘생명주의적 구제관’64의 옷을 입고 나타나기도 했다. 그 밖에 환경사상 분야에서도 1980년대 이래 심층생태학과 일본 애니미즘을 융합시킨 생명주의를 말하고 있다. 이와 같 은 다양한 애니미즘적 생명주의가 3 · 11동일본대지진 이후 종교인들에 의 한 반원전운동의 근거로 기능하고 있다.65 
이와타의 사례를 제외하면 이와 같은 애니미즘 복권의 움직임이 네오애니미즘이나 테크노-애니미즘을 직접 거론하고 있지는 않지만, 일본이 애 니미즘의 풍부한 유산을 찾아볼 수 있는 나라임은 분명해 보인다. 그 유산 들은 특히 신도 및 불교와의 밀접한 관계를 보여주는 경우가 대부분인데, 이 글에서는 이를 ‘신불(神佛)-애니미즘’이라 지칭하고자 한다.66 이와 관련

64 対馬路人他 , 「新宗教における生命主義的救済観」, 『思想』 665, 1979 참조.
65 堀江宗正 , 「脫/反原発運動のスピリチュアリティ」, 『現代宗教 2013』, 東京堂出版, 2013, 81~83쪽.
66 일 본에는 신불(神佛, 신부츠)이라는 일상용어가 있다. 그것은 신도의 가미(神)와 불교의 호토케(佛) 를 병렬시킨 단순한 합성어가 아니다. 일본인에게 신과 불의 구분은 사실상 무의미하다. 일본인에게 신불이란 가미이기도 하고 호토케이기도 한, 혹은 가미도 아니고 호토케도 아닌 제3의 새로운 신관 념을 가리키는 말이다. 다시 말해 그것은 일본인의 특이한 종교적 상상력이 주조해낸 새로운 신관념 이라고도 말할 수 있다. 박규태, 「신불분리의 종교사적 일고찰: 신불의 타자론」, 『아세아연구』 46(4), 
2003, 93~94쪽.

하여 종교인류학자 사사키 고칸(佐々木宏幹)은 『가미(神)와 호토케(佛)와 일본 인』에서 다음과 같이 적고 있다.
『고사기』· 『일본서기』· 『풍토기』 등을 보면 일본인은 인간을 비롯하여 산, 강, 풀, 나무, 새, 짐승, 벌레, 물고기와 심지어 인공물까지도 가미로 숭배했음을 알 수 있다. 모토오리 노리나가(本居宣長)가 가미를 ‘무엇이든 심상치 않고 뛰어난 힘(德)을 가진 외경스러운 존재’로 규정한 것은 그 좋은 사례다. 팔백만신으로 표상되는 다신교적 신도의 기초에는 모든 존재에서 생명과 신성을 인정하는 애 니미즘이 깔려 있다. 일본 TV 등에 매일같이 등장하는 인령, 동물령, 생령에 의 한 뒤탈(祟り)과 빙의 등의 사례는 실로 현대 애니미즘 문화 그 자체라 할 수 있
다. 또한 대도시에서 행해지는 바늘공양이나 시계공양이라든가 대형 여객기에 대한 신도적 정화의례 등에서 우리는 도구와 기계 등에 대해서도 인격과 유사 한 성격을 인정하는 애니미즘적 심정을 확인할 수 있다.67
모든 존재에서 생명과 신성을 인정하는 일본인들의 이런 애니미즘적 감
각을 카슬리스(T.P. Kasulis)는 “내재적 연결(immanent connectedness)의 경험을 초래하는 신도의 능력”이라고 불렀다.68 여기서 ‘내재적 연결’이란 네오-애 니미즘의 트레이드 마크라 할 수 있는 ‘관계론적 인식론’과 상통하는 개념 으로 보인다.69 그리하여 클램머(J. Clammer)는 신도를 “애니미즘의 세련화된 형태”70로 이해하기도 한다. 일찍이 미나카타 구마구스(南方熊楠)라든가 야 나기타 구니오(柳田國男)의 민속학은 신도적인 심층생태학적 감각, 즉 숲이 나 신사 같은 특정 장소에 인간과 인간 아닌 것이 공존한다는 신성한 공간
67 佐 々木宏幹, 『神と仏と日本人』, 吉川弘文館, 1996, 2~3쪽.
68 トーマス · カス─リス, 衣笠正晃 訳, 『神道』, ちくま学芸文庫, 2014, 272쪽.
69 신 도는 가미라는 영적 존재들이 과도하게 차고 넘치는 세계를 상정하고 있다. 그 세계는 인간과 인간 이 아닌 세계로 구성되어 있는데, 양자의 경계는 애매하고 상호 가변적이다. 젠슨과 블록은 자연과 문화를 대립시키는 서구 모더니즘의 이원론과는 달리, 신도적 세계관은 인간과 인간 아닌 것의 연속
성 혹은 그 경계의 해체와 밀접한 관계가 있음을 강조한다. Casper B. Jensen & Anders Blok, 
“Techno-animism in Japan,” pp.97, 104. 70 J . Clammer, “Shinto dreams,” p.238.
감각에 주목한 바 있다. 사실 일본의 애니미즘 담론은 대부분 신도와 결부 되어 있다. 이때 신도는 일본 민속종교의 광범위하고 다면적인 토대로 간주 되곤 한다.  이에 비해 한때 승려였던 제임스 휴즈 교수가 주도하는 도덕 적 향상을 위한 <사이보그붓다 프로젝트> 는 TH와 불교의 유사성을 주장 한다. 뒤에서 상술하겠지만, 일본 불교는 사람뿐만 아니라 동식물과 무생물 등 모든 존재 안에 궁극자로서의 불성이 내재되어 있다고 본다는 점에서 좀 더 직접적으로 기계와 인간의 연속성을 강조하는 TH에 근접할 가능성을 지니고 있다. 
어쨌든 사사키의 지적대로 우리는 일본 문화에서 이와 같은 신불-애니 미즘의 풍부한 유산을 어렵지 않게 찾아볼 수 있다. 가령 미야자키 하야오 의 애니메이션 <원령공주>라든가 <이웃집 토토로>는 각각 원시신도적 숲과 ‘수호신사의 숲’을 무대로 애니미즘적 기호를 재창출하고 있으며,73 오시이 마모루의 <공각기동대>는 아마테라스 신화를 묘사한 신도 기도문(노리토)의 주제곡이라든가 스사노오 신화에 나오는 구사나기의 각색 등 전체적으로 신도적 모티브와 분위기를 배경에 깔고 있다. 한편 창(F.T. Chang)과 하르트 (L.A. Hart)는 죽은 실험용 동물들을 공양하는 일본 과학자들의 관습에 주목 하면서 그것이 일본 불교와 신도의 관행이라는 점을 지적한다.74 젠슨과 블 록 또한 신도적 관계주의의 표출은 나무든 동물이든 로봇이든 초첨단 장난
감이든 오직 사물적 현현(thingly manifestation)과의 만남을 통해서만 이루어질 수 있으며, 동물공양이 그 전형적인 사례라고 보았다.  이밖에 신사나 사원에서 배포하는 다양한 유형의 주술적 부적(오마모리 
혹은 오후다)에 대한 일본인들의 뿌리 깊은 집착도 신불-애미니즘의 문화현 상을 잘 보여준다. 예컨대 일본에서는 자동차나 버스에 ‘교통안전’이라고 적힌 부적이 부착되어 있는 것을 흔히 볼 수 있다. 심지어 대학 실험실의 전 자현미경에 부적을 붙여 놓았다거나 로켓에 부적을 붙여 쏘아 올렸다는 이 야기가 화제가 되기도 한다. 애니미즘과 마찬가지로 주술 또한 관계론적 세 계관에 입각하고 있다는 점에서, 신도 및 불교의 부적문화가 첨단 기술문명 과 공존하는 일본은 신불-애니미즘의 풍부한 보고라 아니할 수 없다. 

4. 가미와 호토케의 유희

종교가 과학이론 형성에 강력한 역할을 수행한다고 여기는 게라시에 따르 면, 로봇공학과 인공지능의 목표 및 그 관행의 차이는 각 나라의 종교적 환 경과 관계가 있다. 가령 미국은 영적 신체 안에서 구원을 희구하는 우주적 목적과 종말론적 천년왕국을 소망하는 기독교적 환경에 의해 연구자들은 인간형 로봇(humonoid)보다는 인공지능을 더 선호한다. 인공지능의 발달 안 에서 우주적 의미를 찾고, 가상적인 비생물학적 신체 안에서 인간 정신의 구 원을 보고자 하는 것이다. 이런 맥락에서 게라시는 ‘묵시론적 인공지능’을 언급하면서 그 지도적 선구자로 한스 모라벡과 레이 커즈와일을 들고 있다. 

이에 비해 일본은 인공지능보다 인간형 로봇을 더 선호한다. 게라시는 
이런 일본적 경향의 배경으로 인간에 대한 불교와 신도의 긍정적이고 낙관 적인 관점을 들고 있다. 신도와 불교가 일본 로봇산업의 발전에 크게 기여했 다는 것이다. 가령 로봇공학자 모리 마사히로(森政弘)는 로봇이 언젠가 붓다 가 될 것이라고 생각한다. 일본인들은 한편으로는 세계가 가미라는 신성한 실재들로 가득 차 있다는 신도적 세계관을, 다른 한편으로는 인간 삶에 대한 긍정적인 시각을 제공하는 불교적 세계관에 입각하여 성화(聖化)된 로봇의 현존을 삶의 한가운데로 끌어들여 즐긴다. 로봇이 제의적 성화와 종교적 초 월의 주체로서 자연세계의 근원적인 성성(聖性)에 참여하는 것이다. 이때 불 교와 신도는 자연세계 및 그 안에 사는 인간뿐만 아니라 로봇까지도 축복하 여 우주적 구원사에 참여시키고자 한다. 가령 1970년대 말에서 80년대 초까 지만 해도 새로 출시된 로봇에 제의를 수행하기 위해 많은 공장에서 신도 사제들이 채용되었다. 지금은 이런 애니미즘적 관행이 거의 사라졌지만, 로 봇공학 자체는 여전히 성성(聖性)과 밀접하게 연결되어 있다는 것이다.76 미국은 기독교의 영향으로 인공지능을, 그리고 일본은 신도와 불교의 
영향으로 인간형 로봇을 더 선호한다는 게라시의 주장은 시사적이다. 하지 만 일본인이 인간형 로봇을 선호하는 이유로 ‘인간에 대한 긍정적인 관점’ 을 들고 있는 그의 주장은 다소 수정이 필요해 보인다. 신불-애니미즘의 관 점에서 볼 때, 인간보다는 호토케와 가미 혹은 인신(人神)에 대한 긍정적인 수용이 인간형 로봇에 대한 선호도를 촉진한 것이라고 이해하는 편이 더 적 절해 보이기 때문이다. 이를 이해하기 위해서는 가미와 호토케의 개념을 면 밀히 검토해볼 필요가 있다.
1) 가미와 호토케의 개념
‘치’(靈), ‘미’(神), ‘다마’(靈) 등의 고대 일본어는 애니미즘에 입각한 조몬인들 의 소박한 신 관념을 보여준다. 하지만 그것들이 과연 가미라는 관념으로 승 화된 것인지는 확실치 않다. 신화가 체계화되고 신명(神名)이 정비되어 문헌 에 기록된 단계에서 이미 외래사상의 영향이 보이므로, 그 이전 시대 신 관 념의 원형을 찾기란 매우 힘들기 때문이다. 이에 비해 ‘가미’라는 말은 한국 어에서 유래했다는 설이 매우 유력한데, 아이누어에서 온 것이라는 설도 있 다.77 요컨대 가미는 원래 수입품이었다.78 이런 가미의 특징 중 이 글과 관
76 Robert  M. Geraci, “Spiritual Robots: Religion and Our Scientific View of the Natural World,” Theology and Science 4(3), 2006, pp.229~230, 235~237. 한편 일본 정부는 2015년 9월 <인공지능· 사 물인터넷(IoT)· 빅데이터에 의한 신산업 사회혁명> 프로젝트를 출범하는 등 근래 인공지능 연구에 도 박차를 가하고 있다. 
77 고 대 일본어 치, 미, 다마의 용례로 미즈치(水靈), 오로치(山靈), 이카즈치(雷, 嚴靈), 구노치(木靈), 누 즈치(野靈), 시오쓰치(潮靈), 가구쓰치(火靈), 쓰키요미(月神), 야마쓰미(山神), 와다쓰미(海神), 고다 마(木靈), 이키스다마(生靈) 등이 있다. 源了圓, 「日本における「神」観念の比較文化論的考察」, 関晃 · 源了圓 編, 『神観念の比較文化論的研究』, 講談社, 1981, 7~11쪽.
78 가 미의 어원에 대한 기존의 관점으로, 가가미(鏡)에서 온 말, 가시코미(畏)의 약어, 가미의 ‘미’는 ‘히’
(태양)에서 온 말, 가미(上)의 뜻 등을 들 수 있다. 이 중 마지막 설이 에도시대부터 널리 지지되어왔
련하여 특히 주목할 것은 애니미즘적 측면, 신인동형론적 속성, 변신의 유 연성 등 세 가지다. 
첫째, 가미의 정의와 관련하여 오늘날 대부분의 연구자들은 국학자 모
토오리 노리나가(本居宣長)의 다음과 같은 주장을 지지한다. 
대저 가미란 고전 등에 보이는 천지의 여러 신들을 비롯하여, 그 신들을 모신 신사의 미타마(御靈)를 말한다. 또한 사람은 말할 것도 없고 조수초목이나 바다 와 산 및 그 밖에 무엇이든 심상치 않고 뛰어난 기운(德)이 있으며 두렵고 외경 스러운 것들을 가미라고 한다. [뛰어나다는 것은 존귀하고 선하거나 공훈이 뛰어나다는 것뿐만 아니라, 악한 것이나 기이한 것이라 해도 매우 뛰어나며 두렵고 외경스러우면 가미라 하 는 것이다. 그런데 사람을 신이라 할 때 먼저 입에 올리기조차 황공하옵신 천황은 대대로 모두 가미임은 말할 나위 없다. 천황은 원신(遠神)이라고도 하는데, 이는 범인이 범접할 수 없을 만큼 멀리 떨어져 있으며 존귀하고 황공하옵신 존재이기 때문이다. 어쨌든 예나 지금이나 신인(神人) 이 줄곧 있어왔다. 또한 천하에 거리낌이 없는 존재라기보다는 일국(一國) 일리(一里) 일가(一
家)에 매여 있다 해도 각자의 신분에 상응하는 신인도 있다. 그런데 신대(神代)의 신들도 대개는 그 신대의 사람들이었다. … 나아가 바위, 뿌리, 나무 그루터기, 풀과 이파리 등도 모두 가미가 될 수 있다. 그뿐만 아니라 바다와 산 등도 가미라고 부른 경우가 많다. 이는 그 미타마가 가미라는 뜻이 아니라, 직접 바다나 산 그 자체를 가리켜 가미라 한 것이다. 이것들도 모두 두렵고 외경스
러운 존재이기 때문이다.] 대저 가미란 이처럼 다종다양하여 귀한 가미와 천한 가미 가 있는가 하면 강한 가미와 약한 가미, 선한 가미와 악한 가미도 있다. 이 가미 들은 마음도 행위도 각각 다르다. 그러므로 가미란 대개 한 가지로 정해서 말하
기 어려운 존재다.(『古事記傳』 3)79
다. 하지만 오노에 따르면 이런 어원설은 모두 성립하지 않는다. 나라시대의 일본어는 지금은 없어졌 지만 발음상의 구별이 있었다. 이 점은 언어학자 하시모토 신키치(橋本進吉) 등에 의한 만엽가나 연 구에서 밝혀진 것으로 학계에서 이미 승인된 설이다. 나라시대에는 ‘미’의 음이 두 개 있었다. mi의 음과 mï가 그것인데, 가미(神)의 ‘미’는 이 중 후자(mï)에 해당한다. 그런데 기존 어원설에서의 ‘미’ 는 모두 전자(mi)에 속하므로, 가미의 어원을 일본어 내부에서 추구하는 것은 불가능하다는 것이다. 大野晋, 『一語の辞典 神』, 三省堂, 1997, 6~7쪽.
79 『本居宣長全集』 9, 筑摩書房, 1968, 125~126쪽.
일본적 본질과 독특성을 찾아내고자 노력한 노리나가의 가미 정의는 신 도적 애니미즘을 반영하고 있다. 거기서 가미란 신사에 모신 천신이나 조상 신만이 아니라, 인간· 동물· 새· 식물· 산· 바위· 바다· 호수 특히 폭포 같은 자연의 장엄한 현현 등을 포함한다. 나아가 천황은 ‘먼 가미’(遠神)로서 인간 이거나 인간이었던 가미다. 이에 비해 모든 지역과 마을 혹은 가정에서 모 시는 조상신은 ‘가까운 가미’라 할 수 있다. 한편 천둥은 ‘울리는 가미’(雷, 가 미나리)이고 고다마(木靈)는 나무의 가미다. 이처럼 가미는 신격화된 인간뿐 만 아니라 인간 아닌 것들도 다수 포괄한다. 이처럼 노리나가의 가미 정의 는 크게 애니미즘이라는 범주 안을 맴돌고 있는 것이다. 

둘째, 가미는 처음부터 신인동형론적인 개념이었다. 가미의 이름 밑에 
남녀의 구별이나 사회적 지위를 나타내는 접미어를 붙여 인간임을 시사하 는 『고사기』와 『일본서기』의 어법이 이를 뒷받침해준다. 가령 이자나기의 ‘기’, 스사노오의 ‘오’, 오호토노지의 ‘지’, 오호다라시히코의 ‘히코’ 등은 남 자를, 이자나미의 ‘미’, 오호히루메의 ‘메’, 오호토노베의 ‘베’, 오키나가다라 시히메의 ‘히메’ 등은 여자를 나타내는 접미어다. 또한 아메노미나카누시의 ‘누시’(主)라든가 오호나무치의 ‘무치’(貴) 등은 사회적으로 높은 지위에 있 는 사람을 나타내는 접미어의 사례다.80 여기서 특히 ‘신인’(神人)이라는 표 현에 주목할 필요가 있다.
『일본서기』에는 “천지가 혼성(混成)할 때 처음에 가미(神人)가 있었다. 우
 
마시아시카비히코지노미코토라 한다”든가 “갈대싹이 처음으로 진흙 속에 생겨나는가 싶더니 곧 가미(人)로 변했다. 구니도코타치노미코토라 한다”(밑 줄은 필자)는 구절이 나온다. 여기서 가미(神人, 人)란 “사람 같은 인간적인 신” 을 가리킨다.81 한편 신도신화에 나오는 가미들이 실제로는 인간이었다고 보는 쓰다 소키치(津田左右吉)에 따르면,82 가미를 나타내는 ‘미코토’(尊)라는 말은 종교적 의미를 내포하지 않는 인간에 대한 존칭이다. 즉 미코토는 인
80 大野晋 , 『一語の辞典 神』, 20~21쪽.
81 『日本書紀』 上, 日本古典文学大系, 岩波書店, 1967, 78쪽 각주 1.
82 津田左右吉 , 『日本古典の硏究』 上, 『津田左右吉全集』 1, 岩波書店, 1963, 666쪽.
간으로서의 신인이라는 것이다. 이 기사에 앞서 『일본서기』는 하늘과 땅이 생성된 후 “가미(神聖)가 그 안에서 나타났다”83고 적고 있다. 이는 신인동형 론적 가미 관념의 성립과 더불어 ‘신성’이라는 성격이 가미 관념에 부착되 어 있었음을 보여준다. 신에게 정1위라든가 종3위 등과 같이 신위를 수여한 신도의 신계(神階)제도는 오늘날의 신 관념에서 보자면 놀랄 만한 것이지만, 위와 같은 신인동형론적 가미 관념에 의거하면 이해 못할 것도 없다.83
셋째, 신도는 마치 ‘다른 옷으로 갈아입는 인형’처럼 시대가 변하면 재 빨리 전 시대의 의상을 벗어던지고 다음 시대의 새로운 사상으로 옷을 갈아 입었다. 가령 상대(上代)의 고신도는 한반도와 중국에서 전래한 사상의 옷을 입고 있었다. 그러다가 나라(奈良)시대 초엽 신도는 고대통일국가를 형성하 기 위한 이데올로기의 의상을 입고 나타났다. 헤이안(平安)시대가 되면 불교 가 깊이 침투하면서 신도는 이제 불교의 옷으로 갈아입었고, 가마쿠라(鎌倉) 시대에는 천태계의 본지수적(本地垂迹)신도와 진언계의 양부(兩部)신도가 되 었다. 무로마치(室町)시대에는 삼교(유교, 불교, 노장)일치의 옷으로 갈아입고 반(反)본지수적설(本地垂迹說)을 주창하는 요시다(吉田)신도가 되었다. 도쿠가 와(徳川)시대에는 불교의 옷을 벗고 유교의 옷으로 갈아입어 하야시 라잔(林羅山)의 리당심지(理當心地)신도라든가 야마자키 안사이(山崎闇齋)의 스이카 (垂加)신도 등과 같은 유가(儒家)신도가 되었다. 그 후 국학이 발흥하자 이번 에는 유교의 옷을 벗고 국학자 모토오리 노리나가의 고학(古學)신도가 되었 다. 나아가 히라타 아쓰타네(平田篤胤)의 고도(古道)신도는 기독교의 옷을 껴 입었다. 심지어 막부 말기에는 신도가 기독교와 습합하여 와타나베 이카리 마로(渡辺重石丸)의 신기(神基)습합신도가 되었다. 이어서 메이지(明治)시대에 는 가족국가 이데올로기가 대두하면서 국가신도(신사신도)가 출현했으며, 패 전 후에는 이 국가신도의 의상을 벗어버리고 서구 민주주의의 의상을 걸치 게 된다. 이런 신도의 특질은 그대로 가미의 변신성과 겹쳐진다. 즉 『고사기』에 
83 『日本書紀』 上, 76쪽.
있어 황실과 일부 유력씨족의 우지가미(씨신: 氏神)은 조상신이 되었다. 신불 습합신도에서는 가미가 불보살의 수적이 되었고, 신유습합신도에서는 리 (理)나 태극 그 자체 혹은 리가 순수한 기를 타고 나타난 것을 가미라고 했 다. 신도와 국학이 습합하면서 가미는 황실과 국민의 조상신이 되었고, 신 기습합신도에서는 데우스 같은 창조신이자 주재신 혹은 사후 심판을 관장 하는 신이 되었으며, 국가신도에서는 황실 및 국민의 조상신이 됨과 아울러 충신, 의사, 전몰자가 신격화되기도 했다. 한 신사에서 모시는 신이라 해도 제신이 종종 바뀌며, 기도자나 제사자조차 그 신이 누구인지 모르는 경우가 많다. 극단적인 경우는 제신이 누구든 상관없을 정도다.84 
한편 일본에서는 붓다(Buddha)를 호토케라고 한다. 인도의 붓다는 중국 후한시대에 ‘부도’(浮圖=浮屠)85로 음역되었는데, 이 ‘부도’를 일본에서는 현재 
‘후토’ 혹은 ‘호도’라 읽는다. 여기서 ‘도’(圖, 屠)는 중국 한대의 고음에서는 닥 (dag)이라 하여 모음 a의 음가를 가지고 있었다. 그러니까 부도는 붓다를 직 역한 음역으로 불타(佛陀)와 동음이었다. 그러다가 부도를 간략하게 적어 ‘불’(佛)이라는 글자를 쓰게 되었다. 일본어 호토케의 ‘호토’는 본래 의미상 붓다와 아무런 관계가 없는 ‘불’이라는 글자의 음(but)을 빌린 것이었다. 한편 ‘케’는 아마도 눈에 보이지 않는 형태나 존재를 가리키는 말이던 접미어 ‘카’ 에서 비롯된 것으로 보인다. 그리하여 일본에서 호토케는 처음에는 ‘깨달음 을 얻은 각자’(붓다)를 나타내기보다는 ‘호토의 상(像)’이라든가 ‘호토의 도 (圖)’를 가리키는 말로 쓰였다. 이와 같은 호토케의 중요한 개념적 특성으로 무엇보다 가미와의 불가분한 관계성과 애니미즘적 속성을 꼽을 수 있다. 첫째, 『일본서기』에는 552년 처음으로 불상과 경전이 들어왔을 때 긴메 이(欽明) 천황이 “서번(西蕃)이 모시는 불상의 면모가 찬란한 게 이제껏 본 적 이 없다. 숭경해야 할 것인가?”라고 물었다고 나온다. 여기서 호토케는 ‘번 신’(蕃神), 즉 외국의 신으로 간주되고 있다. 또한 비다쓰(敏達) 천황기 14년조
84 石田一良 , 「日本上代の神観念」, 関晃 · 源了圓 編, 『神観念の比較文化論的研究』, 講談社, 1981, 87~89쪽.
85 부 처나 고승 사후에 그 유골을 안치하여 세운 둥근 돌 또는 그 부처나 승려를 가리키는 말.
에는 “불신(佛神)의 마음에 뒤탈이 있다”고 나온다. 『일본서기』에서 호토케 를 ‘불신’이라고 한 것은 이 기사가 유일하지만, 『원흥사연기병류기자재장』 (元興寺緣起竝流記資材帳)에는 ‘타국신’(他國神)이라는 표현 외에 “불신은 두려 운 존재다”라든가 “불신을 모신다”와 같이 ‘불신’이라는 말이 자주 나온다. 이는 전래 당시에 호토케가 가미의 일종으로 관념되었으며, 나라시대 중엽 까지도 그런 인식이 확실하게 존재했음을 보여준다. 
그러다가 헤이안시대 중엽부터 이른바 본지수적설(本地垂迹說)이 확립되 면서 가미와 호토케의 관계에 역전이 일어난다. 여기서 ‘본지수적’이란 특 정한 가미와 특정한 불보살이 결부되어 가미는 호토케의 수적(垂迹=변형, 화
신)이고 호토케는 가미의 본지(本地=원형, 본체)라 하여 신불관계를 이론화한 관념체계를 가리킨다. 피안의 절대적 존재인 부처가 일본의 중생을 구제하 기 위해 임시로 모습을 바꾸어 나타난 것이 바로 가미라는 것이다. 그러니 까 호토케가 오리지널이고 가미는 카피(아바타)인 셈이므로, 거기에는 가미 가 호토케의 일종이라는 관념이 내포되어 있다. 
이와 같은 본지수적설의 형성과 비슷한 시기에 나온 『겐지모노가타리』(源氏物語)에서 호토케 용법은 두 가지가 있다. 하나는 “호토케에게 꽃을 바친 다”, “호토케를 예배한다”, “호토케를 그린다”, “호토케를 받는다”, “호토케에 게 말한다” 등에서처럼 호토케를 ‘불상’이나 ‘불도’(佛圖)의 뜻으로 사용한 용 례다. 다른 하나는 “호토케를 마음에 담는다”, “호토케에게 기도한다”, “호토 케에게 이별의 인사를 한다” 등에서처럼 호토케를 부처(佛)의 의미로 사용한 용례인데, 이는 가미의 용법과 거의 구별이 어렵다. 실제로 ‘가미호토케’라든 가 ‘호토케가미’라는 표현도 많이 나온다.86 호토케가 가미의 일종이든 역으 로 가미가 호토케의 일종이든 양자는 불가분의 관계로 관념되었던 것이다. 
둘째, 그런 만큼 가미와 마찬가지로 호토케 또한 애니미즘적 속성을 지 녔으리라는 점은 쉽게 짐작할 수 있다. 호토케의 애니미즘적 속성은 헤이안 시대 진언밀교의 ‘즉신성불론’(卽身成佛論) 및 천태밀교의 ‘천태본각론’(天台
86 大野晉 , 『一語の辞典: 神』, 24~28, 42쪽.
本覺論)과 ‘초목국토성불론’(草木國土成佛論)에서 찾아볼 수 있다. 밀교는 궁극 적 실재를 감각적 존재로 이해했다. 따라서 우리의 신체, 언어, 사유에 의한 행위의 순수화를 통해 궁극적 실재와 일치할 수 있다고 본 것이다. 통상 불 교에서는 삼겁이라는 기나긴 세월 동안 수행을 거듭해야만 성불할 수 있다 고 말한다. 이에 반해 진언종의 창시자 구카이(空海)는 신(身), 구(口), 의(意) 라는 삼밀의 종교적 실천에 의해 “몸 그대로 성불한다”는 뜻의 즉신성불(卽身成佛)이 가능하다고 주장했다. 
구카이와 함께 즉신성불을 주장한 천태종의 창시자 사이초(最澄)는 “호
토케와 범부가 하나”(佛凡一體)라는 사상에 입각한 천태본각론을 내세웠다. 거기서 “깨달음을 얻으면 십만 법계의 제불과 일체의 보살도 모두 내 몸 안 에 있다. 내 몸을 떠나 그 바깥에서 별개의 부처를 추구하는 것은 내 몸이 곧 진여(眞如)임을 알지 못하는 것”이며, 나아가 “초목, 기와, 조약돌, 산하, 대지, 대해, 허공 등 모두가 진여이므로 부처 아닌 것이 없다”고 하여 이른 바 “초목과 국토가 모두 성불한다”(草木國土悉皆成佛)는 사상이 형성되었다. 이런 초목국토성불 사상은 중국 천태종의 성불관에는 보이지 않으며, 오히 려 초목도 말을 한다는 신도의 애니미즘적 자연관의 영향을 받은 것으로 짐
작된다.87 
이상에서 살펴본 가미와 호토케의 개념사는 기계에 대한 일본인들의 TH적 친화성을 신도 및 불교의 관점에서 규명하고자 하는 이 글의 의도와 관련하여 세 가지 중요한 점을 시사한다. 첫째, 가미와 호토케 개념은 애니 미즘적 속성을 공유한다. 둘째, 가미와 호토케는 구별되기는 하지만 분리될 
수 없는 개념이다. 1859년 일본에 온 헵번(J. Hepburn, 1815~1911)이 『화영· 영 화어림집성』(和英 · 英和語林集成. 1886년 제3판)에서 “God: 신도에서는 가미(神), 불교에서는 호토케”라고 적었던 것도 바로 동전의 양면 같은 양자의 관계에 
87  源了圓 , 「日本における「神」観念の比較文化論的考察」, 30~31쪽. 우메하라 다케시도 사이초의 천태본각 론과 산천초목성불론에 대해 조몬시대 이래 애니미즘적 신도신앙이 일본 불교를 애니미즘화했다고 해석한다. 梅原猛, 『〈森の思想〉が人類を救う』, 82~84쪽.
대한 인식을 잘 보여준다.88 
끝으로, 무엇보다 가미와 호토케 개념은 인간과 신의 경계가 상호가역
적이며 삼투압적이라는 점을 잘 보여준다. 신도에서는 인간도 신이 될 수 있다고 설한다. 또한 일본에서는 사람이 죽으면 모두 호토케가 된다고 여긴 다. 그래서 흔히 사자를 호토케라고 부른다. 따라서 일본에서는 사람이 가 미나 호토케가 되는 것이 결코 이상한 일이 아니다. 일본민속학의 관점에 의하면, 사자(死者)의 영은 유족들의 공양을 받음으로써 서서히 날뛰는 성격 을 상실하고 이윽고 조령(祖靈)이 되거나 마침내 가미가 되어 사람들을 수호 한다고 믿는다. 가미나 호토케가 되는 것은 사자에만 국한되지 않는다. 수 행을 쌓은 사람이나 신령이 빙의한 사람을 일본에서는 ‘생신’(生神, 이키가미) 이라든가 ‘생불’(生佛, 이키보토케)이라고 부르면서 숭경과 신앙의 대상으로 삼는다. 일본에서는 천리교(天理敎) 교조 나카야마 미키(中山みき)나 금광교 (金光敎) 교조 아카자와 분지(赤沢文治)처럼 신이 빙의한 샤먼이 생신으로 존 숭되어 신도계 및 불교계 신종교 교단의 교조가 된 경우가 적지 않다. 이런 생신이나 생불은 사자(死者)가 호토케로 변신하듯이 생자(生者)가 가미나 호 토케가 된 경우다. 이는 신불과 사람이 본래 연쇄되어 있고 특정 조건이 충 족되면 사람이 쉽게 신불로 이행하며, 역으로 신불도 사람으로 화신(빙의)할 수 있다는 관념을 잘 보여준다.89
2) 유희하는 가미와 호토케 혹은 가미와 호토케를 유희하기 재클렌(A. Jackelén)에 따르면 서구의 이상적인 인간상은 ‘호모 리투르기쿠스’
(Homo liturgicus, 제의적 인간)가 아니라 ‘호모 파베르’(Homo faber, 도구적 인간)다. 그런데 이 호모 파베르는 ‘호모 루덴스’(Homo ludens, 유희적 인간)에 의해 완성 되지 않는 한, 아직 비극적 존재다.  이에 비해 마쓰리(祭)의 제국 일본의 이 상적 인간상은 아마도 ‘호모 리투르기쿠스’와 ‘호모 루덴스’가 만나는 접점 
88 大野晉 , 『一語の辞典: 神』, 84~85쪽.
89 佐 々木宏幹, 『神と仏と日本人』, 5~7쪽.
어딘가에 존재할 것이다. 서구인들이 윤리적 유일신관에 입각하여 절대적 으로 선한 신의 정당성을 옹호하는 신정론으로써 이해할 수 없는 악과 고통 의 문제에 대처해왔다고 한다면, 에도(江戸)시대에 대지진으로 무너진 폐허 의 도시에서 유희적인 나마즈에(鯰繪)91를 만들어 판매하고 소비했던 일본 인들은 애니미즘적 신불과 함께 즐기는 놀이에 참여하는 쪽을 더 선호하는 듯싶다. 
일본의 로봇문화가 이런 ‘호모 루덴스’로서의 일본인을 보여주는 장면 은 자못 흥미롭다. 일본에서는 로봇의 가치를 평가절하하는 미국인들의 일 반적 태도를 찾아보기 어렵다. 미국과 달리 일본에서는 대체로 인간과 로봇 이 파트너가 될 수 있다고 여기는 경향이 강하다. 특히 인간형 로봇의 인기 가 매우 높은데, 이는 직접적으로 데즈카 오사무92의 만화 『철완 아톰』으로 부터 받은 영향 때문일 것이다. 하지만 그 문화적 배경으로 역시 신불-애니 미즘의 세계관을 거론하지 않을 수 없다. 가령 게라시는 신도식 복장을 한 로봇 사제가 의식을 거행하는 요코하마의 사례를 들면서, 로봇에게 성성을 부여하는 일본인의 경향이 신도와 불교적 관념에 따른 것이라고 주장한다. 그는 이것을 ‘영적 로봇’(spiritual robot)이라고 부른다.93 일본인들은 로봇들이 인간의 일거리를 빼앗는다거나 창조자 인간을 전복시킬지 모른다는 테크놀 로지적 종말론주의(technological armageddonism)에 대한 두려움 없이 로봇공학 의 미래를 기대하는 경향이 강하다.94 심지어 로봇들이 “지성적이고 비이기 적인 성자가 될 수 있다” 거나 혹은 “당연히 로봇도 영혼을 가진다”96고 여기기까지 한다.

91 에 도시대 일본인들은 땅 밑의 거대한 메기(나마즈)가 지진을 일으킨다고 여겼다. 나마즈에와 일본인 의 유희성에 관해서는 박규태, 「가시마신앙과 신사: 무신에서 지진의 수호신으로」, 『종교문화비평』 
5, 2004, 270~277쪽 참조.
92 데 즈카의 만화 및 애니메이션 작품들은 TH적 문제의식의 선구적 모티브들을 많이 보여준다. 사람과 똑같은 감정을 가진 소년 로봇이 주인공으로 나오는 <철완 아톰> 외에도, <불새>(1954~1988, 총 17
편)는 슈퍼컴퓨터 인공지능에 의한 인간 지배 및 인류 멸망이라는 종말론적인 특이점 모티브라든가 복제동물과 복제인간의 모티브 또는 불사(不死)의 모티브 등 현저한 TH적 모티브들을 보여주는 장 면들로 가득 차 있다.
93 Robert M. Geraci, “Spiritual robots,” p.237.
94 Robert M. Geraci, “Spiritual robots,” pp.239~240. 
와카야마현 히다카가와정(日高川町) 소재 니우(丹生)신사에서는 매년 10
월 10일경에 ‘웃음의 마쓰리’(笑い祭)를 거행한다. 이때 어릿광대로 분장한 ‘스즈후리’(鈴振り)가 방울을 울리면서 “웃어라, 웃어라” 하고 외치면서 가마 행렬을 선도한다. 그런데 2008년부터 이 스즈후리 역에 웃음로봇이 등장하 여 많은 관심을 끌었다. 니우신사 근방은 전통적인 인형극인 분라쿠(文楽)로 유명한 지역인 만큼 분라쿠 인형의 몸짓을 모델로 삼아 제작된 이 로봇은 일본인의 유희정신과 신도의 결합을 보여주는 상징적인 의미가 크다. 
한편 도요타의 트럼펫 로봇이라든가 바이올린 로봇, 세계 최초의 2족 보행 로봇인 혼다의 아시모(Asimo), 소니의 엔터테인먼트 로봇 크리오(Qrio) 및 세계 최초의 애완견 로봇 아이보(AIBO), 미쓰비시의 가정용 로봇 와카마 루(Wakamaru), 산업종합기술연구소(AIST)의 여성형 로봇 미임(Miim), 소프트 뱅크의 가정용 로봇 페퍼(Pepper) 등 유희와 커뮤니케이션을 위한 로봇들이 특히 대중적으로 인기가 많다. 일본 가요에 맞춰 춤추는 크리오라든가 노래 도 부르고 패션쇼도 하는 미임, 그리고 2015년 하우스텐보스에 개장된 세 계 최초의 로봇호텔인 ‘헨나 호텔’에서 모든 서비스를 담당하는 로봇들은 일본인에게 참된 ‘로봇 퍼슨’(robot person)에 대한 기대를 충족시켜줄 만하다. 인간형 로봇에 대한 이와 같은 일본인의 열광적인 관심과 더불어 일본사회 의 구조적 문제들을 해결하기 위한 실용적 목적에 따라, 일본 각지에서는 특히 1990년대 후반의 제2차 로봇 붐 이래 정부와 기업들로부터 막대한 지 원을 받는 다양한 로봇 프로젝트들이 활발하게 진행되어왔다. 
1990년대 중반 일본에서는 안노 히데아키 감독의 메카물 <신세기 에반 게리온>을 필두로 하여 제2차 애니메이션 붐이 일어났다. 일본의 로봇 붐과 애니메이션 붐의 시기가 거의 일치하는 것은 결코 우연이 아니다. 로봇에 대한 일본인의 상상력은 주로 애니메이션으로부터 많은 자극을 받아 배양 되어왔기 때문이다. 제2차 애니메이션 붐을 전후한 흐름과 관련하여 소머
(E. Somer)는 <철완 아톰>(1963), <건담>(1979), <아키라>(1988), <패트레이버> 
(1989), <신세기 에반게리온>(1995), <공각기동대>(1995), <이노센스>(2004) 등 의 로봇 메카물을 중심으로 ‘인간의 로봇화’, ‘로봇의 인간화’, ‘로봇을 통한 인간의 인간화’라는 세 범주를 제시하면서 그것들의 공통점으로 인간과 로 봇의 애매한 경계 감각을 들고 있다. 
모든 것이 투명하고 경계가 고정되어버린 곳에서 막을 내리며, 불투명
하게 열려 있는 ‘버려진’ 경계의 틈새에서 꽃피기 마련인 것이 유희일지도 모른다. 일본인의 유희정신은 버려진 인형이라든가 바늘, 가위, 인쇄 판목 등의 용도 폐기된 물건들을 공양하여 성화하는 불교 승려들의 관습에서도 엿볼 수 있다. 그런 쓸모없는 사물들도 인간과 생명을 공유하며, 따라서 그 사물들에 대한 공양이 우주적 붓다와의 평화로운 합일을 촉진시킬 것이라 고 여기기 때문이다.98
불교와 테크놀로지의 통합을 지향하는 로봇공학자 모리 마사히로는 인 상적인 방식으로 현대 로봇공학에 대한 불교적 비전을 제시한다. 그는 1970 년에 <자재(自在)연구소>를 설립하여 로봇산업에 있어 창의성을 발현하기 위해 불교적 원리를 활용하고자 했다. 가령 이 연구소의 멤버들은 불교 경 전을 암송하거나 명상을 통해 새로운 방식의 로봇을 디자인하거나 창안해
냈다. 마사히로는 『로봇 안의 불성』(영문판)에서 “(인간뿐만 아니라) 바위, 나무, 강, 산, 개와 곰, 곤충과 박테리아 안에도 불성이 있다. 또한 나와 내 동료들 이 만드는 기계와 로봇 안에도 불성이 있음에 틀림없다”고 말한다. 여기서 불성, 즉 ‘호토케의 본성’(buddha-nature)은 애니미즘적 가미와 동일한 이미지 로 묘사되고 있다. 기계와 로봇에도 불성이 깃들어 있다고 한 것은 “지각이 있는 것과 지각이 없는 것” 안에 현존하는 것이 불성이며 “존재하는 모든 것 이 불성으로 이루어져 있다”고 여기기 때문이다. 마사히로에게 불성은 실로 “모든 것을 작동케 하는 원리 혹은 법칙”과 다름 없다.  이처럼 로봇의 불 성을 지극히 자연스러운 귀결로 이해하는 마사히로는 인간과 기계의 관계 에 대해 다음과 같이 서술하고 있다. 
인간은 붓다에 의해 존재하게 되었고 붓다에 의해 의지를 수여받았다. 그리하 여 인간은 그 의지를 붓다에 의해 창조된 기계에게 부여하는 것이다. 진실로 우 주 안에 존재하는 모든 것은 붓다의 마음과 일치한다. 제어하는 것과 제어 받는 것은 모두 불성의 현현이다. 우리는 우리 자신이 기계를 조작한다고 생각해서
는 안 된다. 사실은 불성이 불성을 조작하는 것이다.   
마사히로는 “불성이 불성을 조작하는” 인간과 기계의 관계를 ‘상호호혜 성’(reciprocality)이라고 부른다. 연기설이나 화엄사상에서 말하는 중중무진(重重無盡)의 사사무애설(事事無碍說)을 떠올리게 하는 이 상호호혜성은 비단 불 교만의 전유물은 아니다. 인간과 기계를 포함한 모든 존재의 전체적인 인과 적 상호연관성과 관련된 이런 감각은 신불-애니미즘의 중핵적인 스피리추 얼리티라 할 수 있다. 그리고 그것은 유희하는 가미와 호토케 혹은 가미와 호토케를 유희하는 일본인의 스피리추얼리티이기도 하다. 모든 것이 내장 까지 서로 얽혀 있는 그 스피리추얼리티는 유희가 또 다른 유희를 낳는 풍 경 속에서 태어나는 그런 것이기 때문이다. 많은 트랜스휴머니스트들은 스 스로를 계몽주의적 휴머니즘 전통의 일부로 간주하면서도 TH가 스피리추 얼리티를 배제해야 한다고 느끼지는 않는다. 가령 제임스 휴즈는 TH의 기 획이 여러 종교의 종말론· 신정론· 구원론과 양립 가능하며, 거기서 새로운 
TH적 스피리추얼리티, 즉 ‘트랜스-스피리추얼리티’(trans-spirituality)가 탄생 할 것으로 기대한다.  일본의 경우 그런 트랜스-스피리추얼리티는 신불애니미즘과 테크놀로지의 양립을 통해 배태되어온 것이다. 

5. 나오는 말: 하이브리드와 모노노아와레

TH는 디스토피아와 유토피아라는 양날의 칼을 내포하고 있다. 프랜시스 후쿠야마(Francis Fukuyama), 마이클 샌델(Michael Sandel), 스티븐 호킹(Stephen Hawking), 엘론 머스크(Elon Musk) 등은 TH의 위험성을 강한 어조로 경고한 다. 그렇다면 유희적이고 관계론적인 신불의 애니미즘은 이런 위험성으로 부터 얼마나 자유로울 수 있을까? 이런 물음 앞에서 마지막으로 떠오르는 단어가 ‘하이브리드’와 ‘모노노아와레’다.  
TH의 궁극적인 목표는 영원히 죽지 않고 시간과 공간의 한계를 초월한 포스트휴먼을 창조하여 새로운 세계질서를 수립하는 데에 있다. 이 포스트 휴먼을 일본의 맥락에서 바꾸어 말하자면 신인(神人, god-man) 혹은 가미나 호토케와 일정 부분 겹치는 부분이 있을지도 모르겠다. 이 글에서는 앞에서 이런 가미와 호토케가 일본의 TH적 테크놀로지와 어떻게 연결될 수 있는 지를 네오-애니미즘으로부터 테크노-애니미즘을 거쳐 신불-애니미즘에 이르는 회로를 통해 살펴보았다. 이때의 애니미즘은 모두 관계론적 인식론 뿐만 아니라 혼성성, 즉 하이브리드의 출현과 밀접한 관계가 있다는 점에서 타일러류의 애니미즘과는 본질적으로 성격이 다르다.    
가령 일본종교사의 가미와 호토케의 특이한 융합은 신불이라는 하이브 리드를 낳았는데, 실은 가미와 호토케 자체가 원래 일종의 하이브리드였다 고 보는 편이 더 적절해 보인다. 가미와 호토케는 인간도 아니고 비인간도 아니며, 혹은 인간이면서 동시에 비인간이기도 한 것, 인간 비슷한 어떤 존 재이기 때문이다. 신불-애니미즘은 인간과 자연이 가미나 호토케 혹은 신 불이라는 하이브리드와 접합되는 풍경을 연출한다. 거기서는 인간도 하나 의 하이브리드가 된다. 나아가 멘젤(P. Menzel)과 달뤼시오(F. D’Aluisio)는 초 지성을 가진 로봇과 인간이 합쳐진 하이브리드를 ‘로보 사피엔스’라고 이름 붙였다.102 마찬가지로 전술한 테크노-애니미즘이라든가 테크노-종교 혹은 
102  Peter Menzel & Faith D’Aluisio, Robo Sapiens 참조.

트랜스-스피리추얼리티는 인간의 마음이 기계와 접목된 곳에서 생겨난 하 이브리드를 가리키는 말이라 할 수 있겠다. 
한편 호른보르크(A. Hornborg)에 따르면 네오-애니미즘은 “모든 존재는 살아 있는 주체들로 지각, 소통, 그리고 행위주체(agency)의 능력을 갖추고 있다”는 대안적 인식을 제시한다.  또한 젠슨과 블록은 일본의 테크노-애 니미즘적 혼성성에서 엿볼 수 있는 미학적이고 감정적인 차원에 주목할 것 을 제안한다.104 그뿐만 아니라 앨리슨은 현대일본의 유희상품의 중심에 로 봇 등의 메카물이 있었다고 설명하면서 그것을 ‘미학적 테크노-애니미즘’
(aesthetic techno-animism)이라고 부른다.105 이런 관점들은 로봇이 인간처럼 감정을 가진 하나의 주체가 될 수 있는 가능성을 타진하고 있다. 
그런 가능성은 노리나가가 “사물의 마음을 읽는 것”이라고 해석한 모노 노아와레의 미학을 연상시킨다. 흔히 가장 일본적인 미의식이라고 일컬어 지는 모노노아와레는 존재하는 모든 사물에 내재된 마음과 사람의 마음이 삼투압적으로 교섭하는 ‘관계론적 공감의 능력’과 ‘감성적 인식론’에 기초 하고 있다.106 이와 관련하여 이케가미 에이코(池上英子)는 『미와 예절의 유 대』107에서 모노노아와레적 미야비(雅)의 미의식으로 충만했던 고대 궁정의 영향으로 중세에 이르러 미적 의례가 정치생활로 고양되었고, 렌가(連歌), 다도, 꽃꽂이, 조루리, 정원, 하이쿠 등의 다양한 ‘에티켓’ 영역에서 일상생 활 속에 미를 끌어들이고자 하는 사람들의 자발적인 결사 네트워크가 널리 확산되면서 ‘미학적 일본’(aesthetic Japan)이라는 관념이 형성되었음을, 그리 고 그것이 근대 이래 ‘일본적 미’(Japanese the beautiful)라는 이데올로기로 고 착되어 오늘에 이르고 있음을 규명해냈다. 
마음은 우주를 채우기 위해 성장한다. 그런 마음이 우리의 이해 범위를 넘어설 때 마음은 바로 신이 된다. 신은 하나의 세계 영혼 또는 세계 영혼들의 집합체 이고 인간은 이런 신의 현재적 발전 상태가 드러나는 현장이다. 신이 성장하면 인간도 성장한다. 한편 인공지능은 모든 사물에 마음을 장착하는 과정, 또는 마 음이 모든 사물에 스며드는 과정으로 이해될 수 있다. 인공지능은 ‘인공 마음’ 이라는 연결끈을 통해 인간과 인간, 인간과 사물, 사물과 사물을 연결할 것이고 그럼으로써 모든 존재하는 사물에 남김없이 마음이 스며드는 것을 지향할 것이 다. 거기서 마음은 더 이상 인간만의 독점물이 아니다. 그것은 전혀 새로운 신
적 마음일 것이다.108   
다소 시적인 위 인용문에서의 ‘신’을 가미와 호토케로 대체한다면, 그것 은 기계에까지 확장된 하이브리드, 즉 미학적 일본에 있어 신불의 모노노아 와레를 대변하는 문장이 될 것이다. 그러나 메이지유신 이후 ‘일본적 미’라 는 이데올로기가 심화되면서 내셔널리스트들에 의해 이용되었다고 말하는 이케가미의 지적은 모노노아와레의 미학을 체계화한 노리나가 국학이 오늘 날까지도 일본 내셔널리즘의 핵심부에서 반복적으로 재생되고 있다는 사실 을 일깨워준다. 거기에는 신불-애니미즘의 정치성, 애니미즘과 국가신도의 관계, 신도 내셔널리즘의 문제 등이 복합적으로 연관되어 있다. TH와 일본 종교의 관계에 초점을 맞추고 있는 이 글이 미처 다루지 못한 이런 문제들 은 차후의 과제로 남기고, 여기서는 다만 내셔널리즘이 하이브리드라는 이 름하에 희석되거나 모노노아와레가 일본이라는 경계 안에서만 통용되는 한, TH적 일본의 미래를 낙관할 수 없으리라는 점을 부연하는 데 그치고자 한다. 
108  이 창익, 「인간이 된 기계와 기계가 된 신」, 241~242쪽.
 
‘신불(神佛) 애니미즘’과 트랜스휴머니즘: 가미(神)와 호토케(佛)의 유희 | 박규태 박규태, 『포스트-옴 시대 일본사회의 향방과 ‘스피리추얼리티’: 옴사건· 일본교· 네오-내셔널리즘』, 한양대학교출판부, 2015.
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일본 SF소설 속 ‘포스트휴먼’적 상상력의 현재 | 신하경
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319 참고문헌
트랜스휴머니즘과 인간향상의 생명정치학 | 신상규

투고일자: 2017. 6. 12 | 심사완료일자: 2017. 6. 26 | 게재확정일자: 2017. 8. 8

인간향상에 대한 다양한 비판이 제기되었으며, 현재 인간향상 논쟁의 중심 전선은 트랜스휴머니스 트와 생명보수주의자 사이에 형성되어 있다. 논쟁의 초점은 인간향상을 금지할 어떤 원칙적 이유 가 있느냐의 문제다. 이 은 논쟁의 초점을 바꾸고 생명정치적 요소들을 더욱 진지하게 고려할 필 요가 있다고 주장한다. 인간향상 논쟁에서 더욱 중요한 문제는 향상기술의 추구나 금지보다 사회 적 정의와 인간적 가치를 진작시키기 위하여 향상기술의 발전과 적용을 어떻게 민주적인 방식으로 통제할 것인가에 관한 것이어야 한다. 이를 위하여, 이 은 인간향상 논쟁이 자유주의적 트랜스휴 머니스트와 기술진보주의자 사이의 논쟁으로 재설정될 필요가 있으며, 그 결과 사회적 정의나 불 평등의 문제가 좀 더 적절히 고려될 수 있다고 제안한다. 그리고 기술진보주의의 주장을 옹호하기 위하여, 자율성 개념의 두 가지 의미를 구분하고 이에 입각하여 자율성과 사회적 공정성의 관계를 재평가한다. 주제어: 트랜스휴머니즘, 생명정치학, 자율성, 사회적 정의 

‘신불(神佛) 애니미즘’과 트랜스휴머니즘: 가미(神)와 호토케(佛)의 유희 | 박규태
투고일자: 2017. 6. 15 | 심사완료일자: 2017. 6. 28 | 게재확정일자: 2017. 8. 8

이 의 목적은 트랜스휴머니즘의 다양한 유형 가운데 특히 ‘종교적 트랜스휴머니즘’과 관련하여 트랜스휴머니즘과 종교의 관계에 주목하면서, 흔히 애미니즘적이라고 일컬어지는 일본 신도와 불 교 및 각각의 가미(神)와 호토케(佛) 관념이 트랜스휴머니즘적인 일본 테크놀로지 문화의 중요한 밑그림이라는 점을 규명하는 데에 있다. 이를 위해 이 은 트랜스휴머니즘과 종교의 양립 가능성 을 주장하는 다양한 담론을 간략히 계보화한 후, 네오-애니미즘에서 테크노-애니미즘에 이르는 사 유의 흐름을 일본의 사례에 적용시켜 그것을 ‘신불-애니미즘’이라 명명한다. 이어서 그러한 신불애니미즘과 관련하여 가미와 호토케의 개념사를 살펴본 후 유희성, 트랜스-스피리추얼리티, 하이 브리드, 모노노아와레 등의 키워드를 중심으로 종교와 테크놀로지적 일본의 관계에 대해 살펴보고 자 한다. 주제어: 트랜스휴머니즘, 종교, 네오-애니미즘, 테크노-애니미즘, 신불-애니미즘, 가미, 호토케 일본 SF소설 속 ‘포스트휴먼’적 상상력의 현재 | 신하경
투고일자: 2017. 6. 26 | 심사완료일자: 2017. 7. 4 | 게재확정일자: 2017. 8. 8
현재 일본의 SF소설은 정보통신기술, 신경과학, 인지과학, 컴퓨터-신경 네트워킹, 유전공학 등 제 반 과학의 발달을 소설 세계의 설정으로 도입하면서, 그러한 과학기술들이 지향하는 사회의 모습 을 예측하고 재현한다. 그 결과로 인간의 ‘자유’란 무엇인가, ‘의식’이란 무엇인가, ‘의지’란 무엇인 가, ‘마음’이란 무엇인가, ‘감정’이란 무엇인가 등의 문제가 제기되며, 이러한 문제제기들이 ‘포스트 휴먼’적 상상력을 구성하고 있다. ‘포스트휴먼’의 질문은 결국 ‘인간이란 무엇인가’에 대한 질문인 것이며, 그에 대한 탐구의 과정은 과학기술의 개별적 속성에 따라 ‘기술적’인 특성을 가진다.
구체적으로, 이토 케이카쿠는 『학살기관』과 『하모니』를 통해 주로 정보통신기술과 뇌과학의 
발달이 야기하는 포스트휴먼적 문제들을 제기한다. 정보통신기술은 ‘예측 가능한 인간’이라는 인간 관을 바탕으로 구성되며, 따라서 인간 개개인의 독자적 개성은 부정되고, 예측 가능한 사고와 행동
324   일본비평 17호 
mediator
Transhumanism and the Biopolitics of Human Enhancement | SHIN Sangkyu Several criticisms have been raised against human enhancement. A central dividing line in current human enhancement debate has been drawn between transhumanists and bioconservatives. The main focus of the debate has been whether there is any principled reason to ban human enhancement. In this paper, I claim that we need to change the focus of debate by considering biopolitical factors more seriously. The more important question in human enhancement debate should be how can we regulate and control developments and applications of human enhancement technologies in a democratic way for the purpose of promoting social equality and human values, rather than the current focus on whether we should pursue or ban enhancement technologies. Thus, I propose that human enhancement debate needs to be reconfigured between libertarian transhumanists and techno-progressives, so that the problems of social justice and inequality get their more deserving considerations. And by taking the side of techno-progressives, I will discern two senses within the concept of autonomy and reevaluate the relation between autonomy and social justice. t,FZXPSETtranshumanism, biopolitics, autonomy, social justice
“Shinbutsu-animism” and Transhumanism: The Game of Kami and Hotoke  
| PARK Kyu Tae 
The purpose of this essay is to closely examine how had the Japanese concepts of Kami(神) and Hotoke(佛), which have originated from Shinto and Buddhism respectively and are often said to be animistic, influenced greatly on the culture of Japanese technology. Thus, I pay special attention to the relationship between transhumanism and religion, which are deeply associated with “religious transhumanism” among the various types of transhumanism. In so doing, I will present the notion of “shinbutsu(神佛)-animism” by applying the stream of thinking from neo-animism to techno-animism to the case of technological Japan after taking into careful considerations for diverse discourses related to the compatibility of transhumanism and religion. Furthermore, those concepts of Kami and Hotoke will be analyzed from the perspective of “shinbutsu-animism.” Finally, I will reconsider how technological Japan is related to religion by focusing on several keywords such as game-mind, trans-spirituality, hybrid, and mono-no-aware. 
t,FZXPSETtranshumanism, religion, neo-animism, techno-animism, shinbutsu-animism, kami, hotoke
Posthuman Imagination in Japanese Science Fiction | SHIN Ha-kyoung 
Science fictions in Japan introduce the development of various sciences, such as information and communication technology, neuroscience, cognitive science, computer-neural networking, 
328   일본비평 17호 

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포스트-옴시대 일본 사회의 향방과 스피리추얼리티 - 옴 사건 일본교 네오-네셔널리즘 
 | 한양학술총서 1  
박규태한양대학교출판부2015-08-25


기본정보
520쪽1
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목차
머리말

제1장 현대 일본 사회의 종교 지형 : 종교붐·‘정신세계·’ 신영성운동·신신종교
제2장 [옴 진리교]사건과 ‘내 안의 옴 진리교’
제3장 ‘옴 문제’와 무라카미 하루키의 『IQ84』
제4장 프레·스피리추얼리티 : 일본적 영성
제5장 스피리추얼리티란 무엇인가
제6장 영성적 지식인과 스피리추얼리티
제7장 스피리추얼리티 담론과 종교 담론
제8장 대중문화와 스피리추얼리티
제9장 일본교와 스피리추얼리티 : 모든 일본인은 일본교도이다?!
제10장 네오·내셔널리즘과 신신종교 : 보수 우경화 현상의 종교적 밑그림
제11장 [행복의 과학]과 네오?내셔널리즘
제12장 희망의 스피리추얼리티 : 종교·탈원전·공공성

맺음말

후기
참고문헌
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저자 및 역자소개
박규태  
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서울대학교 독어독문학과를 졸업했다. 동 대학원 종교학과에서 문학석사 학위를 받았고, 일본 도쿄대학 대학원 종교학과에서 문학박사 학위를 받았다. 현재 한양대학교 일본학과 교수로 재직 중이다. 주요 저서로 『일본 재발견?: 일본인의 성지를 걷다』, 『일본정신분석』(2018 한국출판문화산업진흥원 우수출판콘텐츠 제작지원사업 선정작 및 2019 종교문화비평학회 학술상 수상작), 『일본 신사(神社)의 역사와 신앙』(2018 세종도서 학술부문 우수도서), 『포스트?-?옴 시대 일본 사회의 향방과 ‘스피리추얼리티’?: 옴 사건·일본교·네오?-?내셔널리즘』(2016 대한민국학술원 선정 우수학술도서), 『일본 정신의 풍경』, 『상대와 절대로서의 일본』, 『아마테라스에서 모노노노케히메까지』, 『일본의 신사』, 『애니메이션으로 보는 일본』 등이 있고, 주요 역서로 『일본문화사』, 『국화와 칼』, 『황금가지』, 『세계종교사상사 3』, 『일본 신도사』, 『신도, 일본 태생의 종교 시스템』, 『현대 일본 종교문화의 이해』 등이 있다. 접기
최근작 : <현대 일본의 순례 문화>,<일본 재발견>,<일본정신분석> … 총 43종 (모두보기)