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2022/05/22

井筒俊彦『意識と本質』(8) |三宅 流|note

井筒俊彦『意識と本質』(8) |三宅 流|note

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井筒俊彦『意識と本質』(8)

三宅 流
2022年4月10日 11:29

井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】

→Ⅶ章のまとめはこちら

前章では無分節的に、直接無媒介的に事物と対峙し、事物を無「本質」的に見るあり方を、禅を例に触れた。

しかし、この本の本筋は、普遍的「本質」・マーヒーヤを単なる抽象概念ではなく、濃密な存在感を持ったリアリティとして実在するものとしてとらえ、その実在をどの意識の層でとらえるか3つの類型について語るところである。1つ目については四章のマラルメ、宋儒を例に述べた。この章では2つ目の類型…「元型(アーキタイプ)」的本質論、すなわちある種の人間の意識深層に生起する「元型(アーキタイプ)」イマージュの形象性のうちに、事物の「本質」の象徴的顕現を見ようとする立場について語られる。

人間の意識はつねにイマージュを介在して事物を見ている。それは深層意識だけではなく表層意識でも同様だ。目の前に一本の木が立っていたとして、我々がそれを木として認識し、そこに木「の意識」が成立する。実在する木を見ている限り、木「の意識」の成立に参与するイマージュの働きは気づかれない。木から目を背けて、(思い返したり、残像だったりで)我々の意識に木が現れる時、初めて我々はそこに働く木のイマージュに気づく。我々があらゆるものを見るときには、このイマージュを介在して見ている。表層意識、日常的意識においては事物とイマージュが一体になっているのでそのことに気づくこともない。
しかし何らかの刺激で意識が興奮し、あるいは弛緩した時に、イマージュが現実的事物との結合が解かれ、遊離し、日常的意識の世界では見たことのないような異様な光景としてたち現れることがある。日常的意識、表層意識の立場からはそれを妄想とか幻想としてとらえられるが、深層意識からみればそれらは妄想や幻想ではなく、真の意味での現実であり、存在深層の自己顕現なのである。この種のイマージュに重要な役割を見出してきた東洋思想の代表にシャマニズムや、密教などがある。

イマージュ体験における表層意識から深層意識への推移を最も原初的に現しているものがシャマニズムである。ここでは古代中国のシャマニズム文学の最高峰をなす『楚辞』を例に考察する。

『楚辞』に現われるシャマン的実存は自我意識の3つの層、3つの段階からなる意識構造体として考えられる。第一は経験的自我を中心とする日常的意識。第二は「自己神化」の過程において次第に開かれていく脱現実的主体性の意識。第三は純然たるシャマン的イマージュに遊ぶ主体性の意識。

第一の層ではシャマンは一個の常人にすぎない。『楚辞』の主人公たち、特に屈原は並外れた人物。純粋潔白な彼は、不義不正が渦巻く俗社会から疎外され、自らを悲劇的実在として捉える。世俗に対して一点の妥協も許さない廉潔の士。しかしこの意識次元で彼が提起するのは道徳のそれであり、シャマン的主体ではない。

第二の層ではそれに反して、彼の意識は日常的人間の主体性からシャマン的主体性に変貌する。「聖なるもの」に近づくことによって聖化されていく意識の主体的変貌がそこに看て取れる。
人間的主体は人間的世界に住む。だから社会的、自然的現実の具象的事物も彼の視界に入ってくる。彼の見るものは神々や妖鬼や飛竜のような超現実的存在者だけではない。聳える山、流れる水、咲く花…日常生活において、意識の第一段階の働きを通じて慣れ親しんだあらゆるものが、第二段階に移った彼の意識の目にも映る。だがこの状態でのシャマンは、日常的人間主体ではなく、半ば「神化」された意識状態にあり、彼の意識に映る山や水や木は名状しがたい幽邃な様相を帯びる。彼の目は神を眺める人間の目であって、神の目ではない。だがそれでも彼の意識はシャマン的脱自状態にある。『九歌』の「湘婦人」では、湘水の女神が恋い焦がれるシャマンの設けた祭壇には降下せず、湖水を隔てた北の渚に降りる。遠い彼方に光る女神の姿。「神人合一」の期待は外れて、シャマンは人間的実存の次元に残り、彼の心は暗い悲しみに翳る。「嫋嫋と秋風吹き渡る洞庭湖は一面に波立って、岸辺の木の葉が風に散る」そんな彼の意識に映った自然は普通ではなく、半ば「神化」されたシャマン詩人の意識に映った心象風景なのだ。トランス状態にあるシャマンの意識には山や水などの普通の事物も、経験的事物とは無縁な神々や天人や妖鬼と全く同資格で登場し、全体が茫洋とした幻想風景として現われる。

そして第三の層においては、第二の層のように経験的事物から想像的イマージュに変貌するプロセスは必要とされない。ここでは山があっても百神の住む崑崙山、樹木も高さが数千丈にも及ぶ世界樹のように、最初からシャマンの意識そのものが純然たるイマージュ空間なのである。経験的世界の事物の重みを感じさせるものは一切ない。身の丈千丈の巨人、全てを溶かし尽くす十個の太陽、千里の流砂、象のような赤蟻、三つ目で頭は虎、体は牛の国王が血の滴る手でつかみかかってくる…無防備な魂には多くの危険が潜む。しかし本物のシャマンは人間の魂にかけては偉大な専門家、魂の旅するイマージュの国の地理を隅から隅まで知っている。一時的に肉体を脱したシャマンの意識主体は、天空を馳せ巡って、この世ならぬ「遠遊」を心ゆくまで楽しむのである。

こうしたシャマンの意識次元に現われるイマージュは、本質的に「神話創造的」である。しかしそこからさらに哲学的思惟を深め、そのイマージュ空間を雄大な哲学的世界観にまで展開させたのが、莊子であり、空海の密教的仏教であり、ユダヤ教神秘主義・カッバーラーであり、イスラム思想におけるスフラワルディー系の照明哲学などである。莊子の冒頭で描かれる、背の広さ幾千里を超えた鵬などは哲学的象徴性に満ち、空海の金胎両部マンダラは「想像的」イマージュ空間の構造的呈示である。

イスラム神秘主義のスフラワルディーはこうしたイマージュ空間を「形象的相似の世界」と呼び、想像的イマージュをアシューバーハ・ムジャッラダ…「物質性、経験的事実性を離脱した、似姿」と呼ぶ。経験界の事物に似ているけど、物質性を欠くのでフィジカルな手応えがある事物ではなく、それらとは似て非なる存在者、を意味する。
これと同じ観点からスフラワルディーは「似姿(アシューバーハ)」を「宙に浮く比喩」とも呼ぶ。存在次元の「移し」によって、物質的、質料的な経験界の存在次元から、非質料的存在次元に「運び移され」て、そこで異次元的に、「宙に浮いて」いる存在者である。日常的意識で見る人にとっては質料性を欠く「比喩」は物質的事物の「似姿」であり影のような存在なのかもしれないが、スフラワルディーにとっては、我々のいわゆる現実世界の事物こそ影のような存在に過ぎず、「比喩」や「似姿」のほうこそ存在性の真の重みがあるのだ。「似姿」や「比喩」はこれまで述べてきた「イマージュ」であるが、単に心に浮かぶ事物の映像ではなくて、脱質料的な存在次元に現成するれっきとした実在なのである。例えばスフラワルディーが「光の天使たち」について語る時、彼にとって天使は単なる心象ではなく、存在の異次元、彼の言う「黎明の光の国」に実在するのである。

想像的「イマージュ」は深層意識的イマージュであり、深層意識領域において「元型(アーキタイプ)」の形象化として、事物の「元型」的「本質」を深層意識的に露顕させるのだ。

井筒俊彦『意識と本質』(6)|三宅 流|note

井筒俊彦『意識と本質』(6)|三宅 流|note

井筒俊彦『意識と本質』(6)

三宅 流
2020年5月12日 10:51

井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】

→Ⅴ章のまとめはこちら

禅は、「本質」によって固定された経験的世界を、無に等しい虚像だと捉える。例えば「花」を見る時、「花」を見る我々と、見られる「花」、すなわち主体と客体、意識と対象に分かれる。経験的世界においては我々は「花」を見て、それを「花」として認識する。しかし禅にとってそれは、もともとありもしない「花」の「本質」を意識主体が妄想して、「花」である実体として描きだした虚像にすぎない。禅は全ての存在者から「本質」を消去し、そのことにより対象を無化し、全存在界をカオス化する。しかしそれは禅の存在体験の前半にすぎない。禅は一旦カオス化しきった世界を、それまでとは全く違った新しい形で秩序を取り戻す。無化した「花」を、花の「本質」を取り戻す形ではなく、無「本質」的に「花」を蘇らせる。この世界の全ての事物は、互いに区別はされつつも、「本質」的には固定されず、互いに透明である。「花」は「花」でありながら「鳥」に融け入り、「鳥」は「鳥」でありながら「花」に融け入る。道元禅師の言う「水清くして地に徹す、魚行きて魚に似たり。空広くして天に透る、鳥飛んで、鳥のごとし」である。鳥が「鳥である」、のではなく、「鳥のごとし」と言う。しかもその「鳥のごとし」が無限に遠く空を飛ぶ。この鳥は鳥という「本質」に縛られていない。だが「本質」がないのに、この鳥は鳥として分節されている。禅のこの存在体験を井筒は、禅独特の無「本質」的存在分節、と言う。

禅において実存認識の段階を示す三つの言葉がある。「無心」「有心」「執心」である。「無心」とは、実在を絶対無分節的に見る境地。そして絶対的無分節の存在は分裂して主・客の対立が現れ、主体的側面が我意識となり、客体的側面が対象的事物の世界として確立され、「私が→花を、見る」「花が→私に、見える」という形での経験的世界が現れる。そして存在を様々に分節し、個々別々の事物を出現させる。これが「有心」であり、普通の人々の通常の意識のあり方である。「有心」は現実を「本質」的に分節し、個々別々のものとしてしか見ることができない。存在は究極的には絶対的無分節者であり、分節的意識が作用し出すやいなや、存在の真相は無限の彼方に姿を隠す。つまり普通の心の状態「有心」では存在の真相を全く見ていないということになる。「執心」とは、特定の事物に対する欲情的、妄執的な態度を表す。愛憎に縛られ、欲にくらんだ目には、実在の真相など見えるはずがない。「執心」は「有心」のひとつの派生態である。人がある対象に執着するのは様々な事物が差別され、様々な存在者として分節されるからである。

我々は例えば花を見る時に、瞬時にそれが「花」だと認識する。なぜそれが可能かというと、我々の住む文化共同体のうちに、存在の分節の仕方があらかじめ備わっているからだ。存在の分節の仕方はそれぞれの文化が持つ「本質」の体系によって異なる。ギリシャならギリシャ、中国なら中国特有の「本質」体系がある。そしてこの「本質」はそれぞれの文化が持つ言語と密接に結びついている。だから我々がその文化共同体に育ち、その共同体の言語を学んできたならば、その文化が持つ「本質」体系は私たちの意識の深いところにまで浸透し、私たちの現実の認識の仕方を決定づける。この意識の深みの部分を井筒は「言語アラヤ識」と呼ぶ。「言語アラヤ識」の領域においては全ての「本質」が完成された形で収まっているわけではなく、まだ「本質」として結晶化されてない、無数の浮動的な意味体が、結びつ解かれつしながら漂っている。この場で存在の潜在的な「種子」が形成され、機会あるごとにその潜在性を脱し、我々の表層意識において「本質」を作り出して経験的事物を分節する。だから言語は「本質」と深く結びついている。表層的にも潜在的にも。

禅は、絶対無分節の存在真相を認識するために、「本質」と深く結びついた言語、「コトバ」による分節構造を壊し、カオス化しようとする。そしてそれによって絶対無分節の存在を知った後、「本質」にとらわれない新しい形で、現実世界をとらえなおそうとする。その具体例をいくつか見てみる。
…禅師は手にした杖を持ち上げる。「このものをなんと呼ぶ。もし杖である、と言えば分節の網に引っかかる。杖でない、と言ってもやはり分節の網に引っかかる。である、とか、でない、とかいうことを離れてみたら、究極的にどうなるか」と。そして相手の答えを待たず「お前たち本当のところがわかりたいか。である、の、でない、の言ってるからいけないのだ。大地山河、全部一挙に粉微塵にしてしまえ」と言う。これは杖であるとか、杖でない(無分節を分節と同平面に並べて相対的な分節否定と考える立場)とか言ってないで、全存在界を一挙に粉砕し尽くし、絶対無分節の境地に入り込んでみろ、というのだ。(「五燈会元」)
…禅僧・百丈懐海が浄瓶(手を清めるための水を入れる瓶・日用品)を取り出し、一同に問を発する。「これを浄瓶と言ってはいけない。とすれば、お前たち、これをなんと呼ぶか」と。首座(堂中の大衆第一座を占める人)がまず答えて言う「木切れとは呼べますまい」と。百丈は若き潙山霊祐に答えを促す。潙山はいきなり浄瓶を蹴飛ばしひっくり返して、そのまま堂外に出ていってしまう。百丈、笑って「さすがの第一座も潙山めにやられたな」と言った。(「無門関」)

それを「浄瓶である」、と言えば、コトバ本来の作用のためにたちまちそれは「本質」的に分節されて動きが取れなくなり、実在の根源的自由性が完全に見失われてしまう。この浄瓶を「浄瓶である」という「本質」で狭く分節してしまわずに、しかも浄瓶の実在性そのものを全体如実に表すには何と言ったらいいか。首座は「木切れとは呼べますまい」と答えて何とか分節を逃れようとするが、結局、分節意識の圏外に出ることはできない。潙山の浄瓶を蹴飛ばしてひっくり返すという行為は一見乱暴に思われかねないが、非合理な行為があってはじめて、肯定的、否定的、あらゆる存在分節を一挙に超出するということが起こる。まさに先の「大地山河、全部一挙に粉微塵にしてしまえ」、すなわち絶対的無分節的境位の現成である。

存在の実相を把握するためには、「本質」体系を壊し、まず絶対無分節の境位に立たなければならない。「無」とか「無心」とかいわれる境地。しかしこれだけでは禅の存在論、意識論の半分に過ぎない。その「無心」の境地をもって、「有心」の見ていた経験的世界を「無心」の目で見つめ直す必要がある。そうしてはじめて、存在の無「本質」的分節ということがわかってくる。絶対無分節が出来合いの「本質」に頼らず、無分節がそのまま全存在のエネルギーを挙げて自己分節し、経験的世界を構成していく姿、その全体こそが禅の見る存在の真相だ。

だがいくら無「本質」的といっても、それが存在の分節である限りはコトバを離れてしまうわけにはいかない。沈黙は「もの」を分節しないからである。だから、何とか言わなくてはならない。杖は「杖」という語の意味作用によってはじめて「杖」として分節される。但し、それを「本質」ぬきで、「本質」を喚起せずに、やれというのだ。禅的状況において使われたコトバが、時として著しく不自然な、歪曲されたもののような印象を与えるのはこのためである。なぜなら、常識的な言語状況においては、言語の意味作用はすなわち「本質」喚起作用にほかならないのだから。花を花として「本質」的に固定させずに、しかも花として分節することは普通の人にはほとんど不可能だ。この不可能なことを禅は厳として要求する。「このものをなんと呼ぶ。もし杖である、と言えば分節の網に引っかかる。杖でない、と言ってもやはり分節の網に引っかかる。である、とか、でない、とかいうことを離れてみたら、究極的にどうなるか」と。
一見不自然で不可能な、こんなコトバの使い方が、現実に禅者にできるとすれば、それはただ、「もの」をその名で呼んで分節しながら、同時にそれを絶対無分節者としても見る目が働いているからである。そしてこのようなコトバの使用法の上に、「無心」の形而上学ならぬ、形而下学が禅独特のダイナミックな存在論として成立する。


井筒俊彦『意識と本質』(5)|三宅 流|note

井筒俊彦『意識と本質』(5)|三宅 流|note
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井筒俊彦『意識と本質』(5)

三宅 流
2020年4月24日 19:16

井筒俊彦の「意識と本質」をただ読むだけではなく、体系的に理解したいという思いで、章ごとに自分なりに概要をまとめてみる、という試み。
【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】

→Ⅳ章のまとめはこちら

この章で井筒は、意識を二つの異なる方向性、垂直方向と水平方向で考えて論を進める。
まずは垂直的、縦の深まりの方向として意識に表層・深層という二層構造を想定した上で、深層意識のさらに先に、例えば禅におけるメタ意識としての「無」意識や、前章で触れた宋儒の「脱然貫通」の体験など、意識を超えた領域をもある意味「意識」という語の意味領域をぎりぎりの線まで拡張してみる。そこで見えるのは無意識や「無」意識は「意識」と密接な有機的な関係にあり、それこそ東洋哲学における意識の捉え方の最も顕著な特徴でもあるということである。
禅において「無心」という言葉が出てくる。この「無心」とは単にAに対する非Aという形での「心」の矛盾概念ではない。主体体験として、「ただ何も意識しない状態」ではなく、純粋無雑な「意識そのもの」「意識が向かう個別対象がない、意識そのもの」であると言える。「無心」は「心」のない状態であるどころか、むしろ「有心」の極限なのである。「無心」は文字どおりの無ー心ではなく、かえって「心」の基底であり、本源的に「心」そのものであるということ。つまり「意識」の究極的原点である。禅においてはしばしば「無心」と「心」が完全な同義語として用いられるのはここに由来する。つまり「無心」と「有心」が互いに全く同義的であり得るような境位がここに成立しているのだ。
一方、意識を水平方向に考えてみると、そこにはまず文化意識の問題がある。一人の人間の育った文化共同体は原初的に一つの共通言語に支えられた言語共同体であり、言語が意識を、意味論的に規制し、文化ごとに様々異なる意味体系に基づいて、様々に異なる文化的テクストが成立する。そして、それら文化的テクスト間の相違によって、人間意識も様々に異なってくる。
ここで井筒はイスラム哲学界で起きた「原子論」論争、カザーリとアヴェイロスの論争を例に挙げる。
イスラムの思想家たちはギリシャ哲学の、とくにアリストテレスの哲学の影響を受けてきた。そこから学んだ第一のことは因果律的思考、つまり世界を因果律の支配下にある一つの整然たる存在秩序として理解することである。
因果律ー火に紙が触れれば紙は燃える。Aは原因でBは結果。ある一定の条件が整えばAは必ず一定の働きを示してBという結果を生む。Aがなぜ必ず一定の作用を示すかといえば、それはある一定の性質がAに備わっているからであり、それはAの「本質」ゆえである。火には火の、火だけに固有の「本質」がある。だから火は己に触れる紙を燃やすけど、絶対に濡らしはしない。ものを濡らすのは水の「本質」に基づく水の性質だからである。
因果律の支配する世界とは、一切の事物がそれぞれ自分の「本質」を持ち、自分の「本質」によって規定され、限界づけられ、固定されている世界でなければならない。そのコスモスは前章で触れた宋儒の「理」の体系にも通じる。それは確かにひとつの美しい哲学的世界像であるには違いない。しかし因果律や、宋学では美しい「理」体系であったものが、イスラム教やキリスト教のような、セム的一神教の文化構造の中に持ち込んでくると大変な危険思想にもなりかねないのだ。
経験的世界にあるすべての存在者が複雑な因果の糸で結ばれて巨大な因果律体系をなしている。この因果の源泉はそれら存在者それぞれの「本質」である。いかなる事物も己の「本質」の規定する所にしたがってしか作用することのできない世界。もしその考えを極限までに進めたとしたらただの一つの例外もない、全く動きの取れない世界となる。つまり偶然性の否定である。もしすべてが事物の「本質」による必然によって決まるのなら、そこに神の力が介在する余地がなくなる。すなわち神の全能性に対する否定となる。これに対して異をとなえるのがイスラムの「原子論」、その大成者であるカザーリーである。
彼らは存在界を完全な偶然性の世界と見る。経験界の一切の事物を、それ以上分割できない不可視の微粒子まで分析し、それら相互の間に空間的・時間的な隣接ということ以外の何らの連結も認めない。全存在界は、互いに鋭い断絶によって分離された無数の個体の一大集積として表象される。「この世のいかなるものも、それ自体においてはなんら独自の働きを示さない」とカザーリーは言う。もし何かがそれ独自の作用力を示すとすれば、それそのものものが創造的であるということであって、神の創造能力の絶対性に抵触する。あるものAがあるものBに働きかけるということは絶対にあり得ない。火に紙を近づければ紙は燃える。だが必然的にではない。火に触れた紙が燃えないことも可能である。ではなぜ我々通常の経験上の事実として火に触れた紙が燃えるのか。それは自然界の慣習に過ぎず、その慣習は神がそうさせるからだ、とカザーリーは主張する。神から独立した因果律などあり得ない。慣習はいつでも破られる。つまり奇蹟はいつでも起こりうる。だから存在界は不確定的なものであり、人間の側からすればすべては偶然である。この偶然性の世界が事実上秩序を保持して存続しているのは、神の瞬間ごとの創造行為のおかげである、とカザーリーは説く。
それに対してアヴェイロスが反論する。因果律の否定は事物の「本質」の否定に直結し、それは一切の知識の可能性の絶対的な否定につながる無条件な不可知論だ。「理性的動物」と定義され、理性的であることをもって他の動物から区別される人間の、非人間化に他ならない、とアヴェイロスは考える。すべての存在者は必ずそれ自身の能動的作用性を持っており、各存在者の作用の源がそのものの「本質」なのである。仮に「本質」がないとすればすべての事物は名を失い、定義は無意味となり、相互に全く区別ができなくなり、全存在界はカオスとなり、理性は無力化する。そのような完全に無秩序な世界において、人はもはや何事についても何も言えず、何も知り得ないだろう。神の全能性を誤った形で尊ぶあまり、原子論者たちはこうして存在の本源的偶然性を主張するに至る。その結末は不可知論。それによって彼らは人間の尊厳を傷つけるばかりか、世界をそのようなものとして創った神を冒涜する。もし神の摂理を考えたいのなら、あらゆる事物の一つ一つにそれぞれの「本質」を与え、事物それ自体に内蔵されたロゴスから発出する作用を通じて因果律的に規定された整然たるコスモスとして世界を創った神の配慮のうちにこそ、その叡智に満ちた摂理を見るべきである、とアヴェイロスは主張する。
アヴェイロスの思想は12世紀にラテン語翻訳を通じて西欧カトリック思想界に持ち込まれ、そこで大きな波紋を起こす。パリ大学を中心に大流行しラテン・アベイロズムと呼ばれる一大思想運動が興る。危険を感じたカトリック教会は1227年アベイロズムに対し公式に異端宣告をする。彼らが危機を感じたのは、事物がそれぞれ自分自身の「本質」を持ち、この内在的ロゴスの指示するままに作用するものであり、歴史的世界の展開のプロセスに神の自由意志が介入する余地が無くなってしまうという点である。
ここで井筒は「本質」の有無という一見単純で何の問題もなさそうなことが、文化的枠組み次第で、いかに重大な思想的事態を引き起こすかということ、その具体的な一例を通じて、文化的パラダイムに色付けされた意識の在り方によって、「本質」の問題性そのものが様々に変わるということを指摘しておきたかった、と語る。